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愛しているから別離を選ぶ?精神症状を伴う疾患ないし体調不良から離婚に至る過程のサンプル 解決のヒントは、あなたの態度を改め余から私たちの状態を改善しように変えること [家事]

典型的な事案10数件をもとにした仮想事例を作って深堀りしてみます。
<事案>
子どもは3歳。双方30代後半の夫婦。夫はサラリーマン。妻は結婚後も働いていたが、出産に伴い退職。出産後は育児に専念していた専業主婦。
妻は、ある内科の病気にかかっている。症状としては、良いときと悪いときの波が大きくあるが、悪いときは、疲れやすい、意欲が低下している、理由なく気分が落ち込む等。この症状のため、前にはできていた家事がどうしてもきちんとできない。見た目からは妻に病気があることがわからないため、周囲はこの苦しみを理解できない。妻本人も、それが病気のせいだということを十分に自覚していない。
妻は、いろいろなことができなくなったことから自分に落胆している。日中働いている夫から家事のことでいろいろ言われるのではないかということを始終おびえるようになる。夫は、本当は、あまり人を批判するような性格ではないが、やや細かいところがある。常識的範囲で、日中家にいるのに家事がゆき届かないことに疑問を述べることもある。
妻は自分の体調についてうまく説明できない。このため、夫の悪意のない指摘に過敏に反応してしまう。夫が何か批判めいたことを言い出そうとすると、大きな声を出して先制攻撃をするようになる。夫は、妻がどうして不機嫌なのか、何がきっかけで自分に攻撃的になるのかわからず、困惑している。理不尽だと思い始めている。時に理不尽に耐えかねず、どうして自分を攻撃するのかというポイントで怒りだすことがあった。妻もますますエキサイトしていった。
そのうち妻は、夫が夜勤の時などに子どもを連れて、車で1時間ほどの距離の実家に泊まりに行くようになる。家事をやらなくてよいということと、夫から文句を言われることを、一緒にいる時間を少なくすることによって少なくしようとしたようだ。但し、意識としては、実家にいるほうが楽だから、わがまま言えるからというくらいかもしれない。夫は、夜勤明けの週末だけ妻の実家に行って家族3人の時間をすごす状態になっていた。妻の実家に親子3人で居住することは様々な事情で不可能だった。
3人が自宅で時間を過ごすこともあったが、妻は、夫が口を開くと、自分が家事をできないことを批判するのではないかと戦々恐々としていた。些細な行動も、自分に対する批判であると受け止める傾向が出てきた。夫から具体的に何かを言われる前に、夫に対して先制攻撃的に感情的言動をすることも頻繁になってきた。
夫からすると、それでも毎回怒るということはしなかった。しかし、何回かに一度怒るときは、どうして家にいないのか、どうして家事をしないのか、どうしてすぐに怒って大声を出すのかというこれまでに蓄積していた不満を合わせて述べるようになっていた。様々な妻の行動が、自分を馬鹿にして行っているのではないか、自分を嫌っていて自分と一緒にいることが苦痛で、嫌悪行動をしているのではないかと感じるようになる。妻が、買い物に行くのもおっくうで、食事もあまりにも貧弱なものしか作らなくなり、そのことを夫が指摘しようとしたとき、敏感にそれを察して妻の防衛感情が爆発して、夫も日ごろの不満が爆発して、収拾がつかなくなり、別居に至った。
別居に至るまでの間、妻の調子が良いときに、家族で楽しく外食をしたり、旅行に行くこともあった。妻なりに、子どもと一緒に楽しく過ごすことは必要だと考えて努力していたということもあった。それでも努力がどうしてもできないこともあった。それは妻も自覚していた。たまには頑張ろうと遠出のドライブを計画したこともあった。本当は家で寝ていたかったが、そうもいかないと思い、近場に変更するならと、ドライブに応じた。しかし、夫も子どもも自分の努力を評価することはなく、遠出から近場に変更することに不満そうだった。
別居の原因となった調理の際も、本当は、記念するべき日でもあったので、凝った料理をして、夫を驚かそうと当初は思っていた。頑張って段取りを考えていた。段取りを実行に移そうとした際に、思考のエネルギーが切れたように意欲が失われていき、結局家にあったレトルト食品を出すしかなかった。自分でも、それでは夫も怒るだろうなと思っていたので、夫の帰宅が怖かった。そうしたら案の定、夫は食卓を見たとたん口数が減って、眉間にしわが寄ったように見えた。「言われる」という感覚が稲妻のように頭にとどろいた。その瞬間、自分は大声を出していた。大声を出しながら、「もう駄目だ。元に戻ることはないだろう。」というあきらめた感情がわいてきた。興奮状態は変わらないが、張り詰めた気持ちが切れてしまった。

<解説>

1 医師。医学の問題

これはあくまでも病気が原因の事例です。精神疾患ではなくとも、病気が原因で、精神症状が現れることは少なくありません。私が担当した事例で、診断書がある事例だけでも結構な事例に上ります。しかし、その病気と夫婦仲が悪くなったことの関連性に気が付いていない当事者がほとんどです。
 私は、これは医師の問題、あるいは現代日本の医学の問題があるように思われます。もし、医師が、病気がメンタルに影響を与えて、結婚生活に支障が出る可能性があるということを患者さんに告げていたら、だいぶ様相が変わることだろうと思います。あらかじめわかっていたら、自分で気を付けることもできますし、家族に援助を申し出る可能性だって広がるわけです。患者のメンタルへの影響だけでなく、その患者の症状によって家族のメンタルも影響が生じてしまうということも研究して、家族にも病気に対する説明が行われていれば、この事例の夫ならば、もっともっと配慮することができたでしょう。ところが、実際の事例では、家族どころか、本人に対しても病気のメンタルに対する影響を十分説明がなされていなかったことがほとんどでした。少なくとも本人は、病気と自分の行動、メンタルの関連性を知りませんでした。

2 妻の不幸の原因にまじめすぎることがある。夫に対する愛情をかけすぎていることがある。

本事例の妻は、夫からの現実の批判によって追い込まれたというよりも、自分で自分に対して高い最低ラインを引いて、これに到達しなかったということで自分を追い込んでいます。「妻たるものこうでなくては失格だ。」、「夫は外で働いて苦労しているのだから、自分が家の中のことをきちんとしなくては、自分の存在価値がない。」というように、夫婦の関係を維持するための「資格」みたいなことを考えているようです。そしてそれができないと、「夫から自分が否定的に評価されるだろう」という不安を抱くようになるようです。これが自分の体調によって、できないことが続くうちに、夫からの否定評価の不安も続いていくようです。その妻の考えの根本には「夫と子どもと自分が尊重されながら暮らし続けたい。」という要求があり、これができなくなるのではないかという予想をしてしまうから不安になるのだと思います。本当は家族を維持したいのに、それが強すぎて逆に不安になっているわけです。そして愛する人にあれもしてあげたい、これもしてあげたいという優しい気持ちが、あれもできない、これもできないと自分を苦しめているわけです。こういう不安が持続してしまうと、人間は不安から逃れるということが第一希望になってしまうようです。「いつまでも夫の否定評価の不安を感じ続けたくない」という気持ちが強くなって、「もうこの関係から抜けたい」という方法論に飛びついてしまっているように私には見えてしまいます。「いつまでも仲良くしていたいから、逃げ出したくなる。」という痛ましいお気持ちを見ることが多くあります。
実際に、裁判資料などで妻の日記などが出てくることがあるのですが、そこには、自分と夫だけがわかる記載があるのです。妻の代理人にそんなことは説明しないから、代理人はその意味も分からず、証拠として出してしまうんですね。その記載からすると、妻がどんなに夫のことを好きで、一緒にいたいかということが良くわかるんです。「ああ、この人は、この時確かに幸せだったんだな」とわかるんです。それと矛盾するような記述が違う筆記用具で書かれていて、ああなるほど後から書き加えたのねということもわかってしまいます。夫を好きすぎると、妻の不安は大きくなるようです。妻の代理人は、その日記の時期の夫の妻に対する無理解があったことの証拠として日記を出すのですが、妻の代理人が気が付いていない書き込みを合わせて読むと、たいてい妻は、夫の一挙手一投足に喜んだり、悲しんだりしているし、些細なことで落ち込んだりしていて、見ている方は微笑ましく感じる事情、妻が幸せを感じていた事情が証拠として出されているとしか思えないことがあります。
もし、妻の方が「他に適当な人がいなかったから結婚したまで、疲れてできないことは仕方がないから文句があれば自分でやれ。」という合理的?な発想を持っていたならば、こういう、「夫から批判されるかもしれない」という不安は抱かなかったと思います。「離婚上等」ということで、子どもを夫に押し付けて自由に暮らそうとするのではないでしょうか。逆切れする妻ほど、まじめで夫を愛しているということは、真実のようです。
妻からすると、「できないことを批判されること」も嫌だし、恐れているのですが、それよりも「頑張ってやろうとしたのに、あるいはやったのに、何もしていなかったと批判されること」が特に傷つくようです。カウンターパンチを受けたようなダメージのようです。また、妻にとってうれしいのは、感謝の気持ちよりも、感謝の言葉なのかもしれないということを感じることが多いです。

3 夫の対応が「悪い」のか

夫が、妻の対応を理不尽に思うことはよく理解できます。自分は取引先や上司の嫌味や無理難題をくぐり抜けて、心と体力を削って外で働いてきているのに、感謝もされないどころか、稼ぎが悪いと言わんばかりのお金のかからない安易なレトルト食品があまりにもぶっきらぼうに食卓に並んでいるわけです。私は馬鹿にされている?尊重されていない?あの渡した給料はどうなっているのだろう?とそれは思うでしょう。体の調子が悪くて、意欲がわかない、料理の段取りを考える力が出てこない、一歩、二歩だけ体を動かしてごみをゴミ箱に入れることができないという状態を想像することができないということもやむを得ないでしょう。夫は靴底をすり減らして歩き回っているわけです。
時々、我慢できなくなって文句を言おうとすることも、その段階では軽く甘えているような感覚で言い始めると思います。しかし、何か言おうとしたところで、妻がそれを言わせないで、逆にこちらに文句を言う。マシンガンのように言ってはならないはずの言葉が繰り出されれば、当初笑い話のような話だったのに、瞬間的に夫の眉間のしわが深くなるのも無理のない話です。
妻は、まじめすぎるから、自分が「できない」ということができないようです。自分ができないのではなく、夫が原因でできないと言わんばかりです。
夫も夫で、自分が妻から愛されていると自信たっぷりの人はそれほど多くないようです。むしろ、妻の些細な行動で、自分を嫌っているのではないだろうかという疑心暗鬼になる人が実に多くいらっしゃいます。出来合いの総菜が出されることで自分が尊重されていないと思う人、ごみ箱からあふれたごみがある部屋の状態で自分が無視されていると思う人、言ってはならない言葉だと言葉に厳格な人、様々ですが、詳しくその人の「怒り」を分析すると、「自分が尊重されていない」という危機感から始まっているように感じられます。
仮に、本当は愛人がいて、離婚をして愛人と結ばれたいと思っていたら、ご飯の用意がなされていなかったり、ゴミだらけの部屋のありさまは大歓迎で、離婚訴訟の証拠にしようと、すかさず写メを撮りだすでしょう。怒るということは、やはり、妻と仲良くしていたい、自分を尊重してほしいという気持ちがあるからだと私は思うのです。

夫が悪いとはなかなか言えないように思います。悪いとする部分あるいは修正する部分はあるのでしょうか。しかし、妻が病気のために自分の精神状態に気が付かないならば、夫が何か行動を起こさないと、夫婦は離婚に向かうことを止められないでしょう。子どもはなすすべなく、両親が仲たがいすることを経験してしまいます。また、双方に恨みや憎しみが残ってしまうと、子どもは一方の自分の親に会えなくなってしまいます。
どうしても、妻に病気や体調不良があれば夫がキーマンにならなくてはなりませんし、逆なら妻がキーマンにならなければなりません。それは可能なのでしょうか。病気に対する知識を勉強し始めなければならないのでしょうか。それは非現実的な対応です。

4 第3者は害こそあれ、役に立つことがない理由

ここでは、家族解体思想をもっていて、妻を離婚によって家族から解放することこそが女性の幸せだというような特殊の考えを持った方々や、その思想に基づいていることも知らないでせっせと夫婦を結果として離婚させようとする行政の話は割愛しておきます。

良心的な第三者でもあまり役に立ちません。まずは、夫婦のどちらから相談を受けたか、あるいは夫と妻とどちらの付き合いが長いか、などによって意見が変わるからです。自分の付き合いの長い方に注意するという第三者はあまりいません。あくまでも知り合いを助けようと善意を働かせるわけですから、その間の罪のない「子どもの利益」という視点で物申すという第三者もあまりいないわけです。家庭裁判所も似たようなものです。
また、妻や夫が、どうしてその瞬間の行動に出たのかということをあまり吟味する人もいないでしょう。妻が大声を出したという事象から、夫の支援者は妻は常識がなく精神的に不安定な人だということになり、せいぜい病院に行くべきだということになるのだろうと思います。妻の支援者からは、そこには夫のDVがあるという決めつけが行われることが通常です。支援者というのは、客観的にものごとを見聞きできる人は、どちらが悪いのかを判断して、悪い方が行動を改めるべきだということを述べるでしょう。客観的でない人は、自分の近くにいる人をいかに支援するかという発想しか持てません。いまだに日本人は、戦争遂行のために明治政府がコツコツ教育に取り入れていった勧善懲悪という子どもじみた割り切りから脱却できていないようです。
行政を含めた第三者が入ると、話がややこしくなることが圧倒的に多いのではないでしょうか。
もし、夫と妻が離婚をしないで幸せに暮らしたいと思うならば、自分たちで活動を修正しなければなりません。

5 行動修正のヒント、「私」から「私たち」という発想の切り替え

このヒントはウォーラースタインが「THE GOOD MARRIAGE」という著作で述べています。最後にお話しするのは、これを理論化したものです。今回のテーマでもあります。
私という主語でものを考えるのが普通です。私は疲れて家事ができない。私は夫から攻められたくない。私は、快適な家の中で暮らしたい。私は理不尽に妻から責められている。私は理不尽に相手から否定評価を受けている。
「だから私は自分を守らなくてはならない。」誰から?相手からということになるわけです。夫婦という人間関係の中で、自分を守ろうとすることは、相手を攻撃することにつながりやすくなるのではないでしょうか。自分を守ろうとする行動は、条件反射的に行われ、無自覚に行われていることがほとんどです。ということは、「これから自分が自分を守る行動のために相手を攻撃しようとしている」という自覚がないのですから、自分の行動を制御することが難しいということになります。夫婦のいさかいの大部分はこの仕組みでおきているようです。
これを「私たち」という主語に置き換えて考えてみましょう。
「私たちのうち、家庭の問題を担当している人間が、気力がわかず、きびきびと動くことができない、育児はなんとかこなしているが他の家事に支障が生まれている。このままでは、不衛生な家の中になってしまう。栄養状態にも偏りが出る。これを私たちは解決しなくてはならない。私たちのうちのあなた、もう少し頑張れないのか。無理。なるほど、しかし私も無理だ。これまで、あなたがやっていたことのうちのこの部分はこう省略しよう、こちらについては週一で何とかしよう。わかった。では私も調子が良いときはなるべくこうしてみる。ありがとうでも無理しないでね。」
となると美しいわけです。最初からこれができなくて途中から私たちになっても挽回できるでしょう。
「私たちは、今、普通の会話ができない状態ではないだろうか。私たちのうちの私は、何か話そうとすると話をさえぎられる気がするけれどどうだろう。私たちのうちのあなたが、そういう気持ちになることはわかる。それでも私はそうせざるをえないこころもちなのだ。それはどうしてだろう。私も苦しいけれど、あなたも苦しいのかもしれないということがなんとなくつかめてきた。私が嫌いになったとか、一緒に住むことができなくなったというわけではないのだね。少しそういう気持ちになりかけたけれど、原因は私たちのうちの一方のあなたにあるというよりも、私がいろいろできなくなったことに原因があるかもしれない。私は私たちの現状が改善されればそれほど文句はないので、あなたを責める気持ちもないし、あなただけに原因があるとも考えていない。一緒に私たちの状態を改善していこうではないか。」
と、机上の事案なので、うまくいくわけですが、うまくいく方向には無理がないような気がするのですがどうでしょう。
「あなたの態度を改めよ。」という提案から、「わたしたちの状態を改善しよう」という提案に変えることはとても有意義だと思います。
そしてそれぞれの要素を出し合うわけです。体調が悪い、こういう症状があるというのも私たちの状態を改善するためには情報開示を積極的に行う必要があるわけですし、職場でこういう目に合っていてとてもストレスを感じているということも情報開示をすることは有益です。大事なことは情報開示によって、相手を責めない、批判しない、笑わないということです。励ますつもりだとしても、相手は過敏になっていますから、悪くとらえる危険がいつもの10倍以上あると思います。慎重に、誠実に、対応をする必要があるし、その事情による相手の心情を追体験してみるという姿勢も有効だと思います。相手の不足分があれば、私たちの別の人が変わってやるという姿勢が大切です。
ただ、この発想の切り替えで一番の障害になることが、「自分を守ろうとする意識」です。どうしてもここに戻ってきてしまうわけです。
「夫婦の相手との関係では、自分を守ろうとしない。つまり自分を捨てる。」ということになるのだと思います。ジェンダーの問題があるのであまり言いたくないのですが、私は男性がそれをより多く行うべきだと思っています。この話は伊達政宗が梵天丸と名乗っていた時にさかのぼるので、今日は割愛します。まあ、男性にとって結婚するということは、妻に命を預けるということなのだという話です。
そして、多かれ少なかれ、夫婦にはそのような潔さが多少ならずともあるようです。しかし、何らかのきっかけで、自分を守るという意識が過剰になり、その結果相手を攻撃してしまうという現象が、起きてしまうようです。現代日本では、これまで以上にそのような傾向が多いのではないでしょうか。

そしてこれは離婚防止というよりも、楽しい夫婦関係を形成するための方法という方がふさわしいということを言わせていただきたいのです。離婚をされないためにという後ろ向きの方法論ではないということです。楽しい、対等平等の夫婦を作る過程の中で、離婚が起こりにくくなるということです。おそらく予防というのは、すべてそのようにマイナスを作らないようにするものではなく、プラスを目指す過程の中で達成していくものだとそんなことを考えています。


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