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二兎追うものは一兎も得ず 人間が他人を攻撃し、追い詰め、自分だけが利益を得ようとする根本的な原理 昨日の続きみたいなもの [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



前回の記事で、人間は
仲間と助け合う動物、弱い者を守ろうとする動物、仲間の利益のためには自分が損をしてもかまわないという傾向のある動物と言いました。
それは人間の心がそういう風にできているためだと述べ、その心は私たち現代の人間に受け継がれていると言い切りました。

当然、「なにそれ。きれいごとじゃないか。実際はだいぶ違うのだもの、説得力がないよ。」と思われることはもっともです。世界レベルで見れば貧富の差や戦争が現代も続けられ、家庭の中でさえ虐待が行われたという報道が後を絶ちません。孤独死や自死もなくならず、いじめもあり、詐欺など弱い者を食い物にする犯罪も多く報道され、インターネットは一人の人を自分とは利害関係ものないのに寄ってたかって攻撃しているわけです。とても人間が美しい動物とは言えないと思うのも無理はありません。

私は間違っているのでしょうか。そうではないということを説明させていただくことが今回の記事です。

つまり私は、頑固なまでに、人間の心は、200万年前のように、仲間の利益のために、我が身を犠牲にしてまで、協力しあうこと、弱い者を助けようとし、そうすることに喜びを感じる心を持っていると主張いたします。

実際、自分たちは気が付かないかもしれませんが、誰か人間を攻撃する側も、実は攻撃をすることによって、嫌な気持ちになったり、心が傷ついて荒んだりしているわけです。不安というストレスを感じているということが実態です。
そうではないという方も、優れた創作物で人が人と助け合う姿が描かれていたり、実際に弱い者を身を挺して助ける人間の姿に感動を覚えたりするのではないでしょうか。
つまり、実際の行動がどうあれ、心は200万年前のままだということが言いたいことです。また、心のままに行動できていないだけだということも言いたいところです。

しかし、200万年前は心のままに生きていたため、人間は群れを作り子孫を作ることができたのだと言っていながら、現代は心のままに生きていないというのはあまりにも都合の良い言い訳に聞こえるかもしれません。でも、現代社会では、人間は心のままに生きていけない事情があると思うのです。

こころのままに生きていけない事情としては、自分を守らなければならないという事情があるということが第一です。他人の利益のために行動をしてしまうと、自分が致命的な損害を受けてしまうという事情です。極端な話、戦争のさなかで、自分が敵を殺さなければ敵から殺されてしまうという事情があれば、私も迷わないようにして敵を殺すのだろうと思います。自分に対するいわれのない非難、中傷、悪口を言われれば頭にきて、相手を攻撃するということもやるかもしれません。誰しもそうではないでしょうか。怒り、攻撃するのでなければ、人と争うことが嫌になり、孤立を選ぶのかもしれません。

しかし、なお、頭の良い人は追及の手を緩めないでしょう。でもそういう自分を守らなければならないことは200万年前からあったのではないだろうか。現代と200万年前と何が違うのかと言われるのではないでしょうか。

この答えは、第1に、おそらく200万年前には、少なくとも仲間から自分を守るために仲間に攻撃するということはほとんどなかったという回答となりますし、第2に200万年前と現代(1万年くらい前から現代)では、決定的な違いがあるということが回答になります。

第1の仲間から攻撃されることはない。ということを説明します。当時の仲間、群れというのは30人から50人くらいのコアな群れを中核にして、そのコアな群れが数個集まっておおよそ150人程度の集団で、原則としてメンバーが変わらず、同じ人たちだけと生まれてから死ぬまで暮らしていたとされています。生まれてから死ぬまで同じメンバーなので、だれがどのような性格で、どのような特徴があるということはみんなお互いにとことんわかっています。どういう顔をすればどういう気持ちなのかもよくわかっています。そうです。言葉が不要なほど分かりあっていたわけです。だから、おなかをすかせていたら自分がおなかがすいているようにかわいそうだと思い、けがをしたら自分がけがをしたかのように悲しんだのだと思います。悲しませること、不安になられると自分も悲しくなり、不安になるため、みんなは平等にするしかなかったのです。仲間通し、完全に信じあい、感情を共有し、利益が同一ですから、自分と他人の区別はあまりつかなかったのではないでしょうか。だから、仲間から攻撃されるようなこともしませんから、仲間から攻撃されるということはなかったのではないかと考える次第です。

第2に、では現代と一番違う条件は何かということですが、これは人間がかかわる他人という人間の人数と自分が所属する群れの数が、200万年前の現代では全く違うということなのです。

人間の頭脳の限界として、個体識別できる人間の人数は150人程度だと言われています。150人くらいであれば、お互いが共感してお互いの感情を自分の感情として扱い、全力で仲間を助けようとすることができるのだろうと思います。それが200万年前の人間の群れですし、その環境に適応した脳に進化したわけです。脳は200万年前から変わっていません。

ところが現代では、家を出てから勤務先に行くまでに、何千人という人と出会うわけです。人間の能力の限界を超えていますから、誰(どのような人)と会ったかについては、記憶にも残らないほどです。テレビやインターネットの人間に関する情報を混ぜると、何十億人という人間とかかわりをもって生きなくてはならないということが実情です。

また、インターネット上で誰かのことを話題にする場合には、実際はあったこともない人たちのことです。その人たちの感情に共感して、自分の行動を修正するということは到底不可能です。誰かの悪口をSNSなどで発信する場合、攻撃を受ける対象と攻撃をする人間は同じ人間同士の関係ですが、200万年前の生まれてから死ぬまで生活を共にする人間同士の関係とは全く異なるわけです。

とてもすべての人間、なんからの関わり合いになる人間だけをみても、実態のある生身の人間同士のかかわりにはなっていないことがわかると思います。共感が働かないということはよく理解できると思います。

もう一つ重要なことは、現代の人間は複数の群れに所属するということです。まず、まずそれぞれの人間がそれぞれの家族に所属するわけです。その家族も、親子であっても子が結婚すれば別の家族になってしまいます。自分たち夫婦の利益と親の利益が矛盾すれば対立が生まれてしまいます。これは別の群れになったことによって対立が生まれるということになります。(同居をしていても別の群れになっている場合も対立が生まれます。)学校へ行けば、友達という群れの中で安心感を持って生活をしていても、家族の意向から友達と利害対立をしなければならないことが出てくるでしょう。学校の教室の中でも、いくつかの仲良しグループがありそれぞれのグループ間に緊張関係があります。部活動などの関係でも群れが複雑に交錯してしまいます。職場でも地域でも群れや利害対立は容易に起こるわけです。すべてが一時的な群れだということも200万年前とは違う重要な要素かもしれません。

人間は、それぞれ、自分を守り、あるいは自分以上に仲間を守ろうとします。その行動がある群れにとっては全体に利益を与えてくれる価値のある行動だとしても、他の群れでは自分たちの群れに損害を与える行動になるということが当たり前のように起きてしまいます。
群れを大切にしようとすることが、他の群れを排斥する行動になってしまうということは、悪意がなくてもよく見られることです。

だから、一つの群れとの関係では、例えば友達との関係では、安心感を獲得できる行動だとしても、他の群れ、例えば家族との間では家族に損害をもたらす行動になってしまい、たちまち不安がかきたてられるという結果になることはよくあるわけです。もっと大きな話をすれば、自国民の利益を得るために、他国の国民や他の民族に犠牲を強いるということもあるのですが、自国民、自分たちの民族との関係では英雄になったりするわけです。

ズバリ言えば、人間は、これほど大勢の人間とかかわりあいになったり、これほど多くの群れに所属したりする能力、文字通り脳の力が欠落しているのです。それにもかかわらずそのような環境にいることが強制されている。これが虐待、いじめ、戦争、貧富の差等、あらゆる社会病理の根源にあるということです。

それでも人間は、自分が所属するすべての群れの中で、すべての人間のかかわりの中で、安心して暮らしたい、尊重されていたいという根源的要求を持っています。200万年前と心が変わっていないからです。だから余計に傷つくし、怒るし、不安になってしまうわけです。どこか1つの群れ、例えば職場で不具合があっただけで、家族に八つ当たりをしたり、家族と良好な関係にあるのに精神的に破綻してしまう仕組みはここにあります。

人間は群れの中にいることで不安をなくして、安心していたという根源的要求があり、一つの群れでそのような良好な関係にあることで満足せず、所属している以上、他の群れでも不安をなくして、安心していたいと思ってしまうということです。そのため、不安が生まれてしまいます。二つの安心を得ようとしてしまうために、不安も生まれてしまう。このことを二兎追うものは一兎も得ずと表現してみました。

今日の最後に、そうだとすると、人間には未来がないのでしょうか。何か破滅的な出来事が起きて、200万年前と同じ人数のかかわりの中で唯一の群れの中で生きるような出来事がなければ、滅びてしまうのでしょうか。また、滅びないために、心を変えていかなければならないのでしょうか。

この答えは、人間は現代の人間関係を維持しながら、各人が幸せを感じながら生きていき、他人を攻撃したり、追い詰めたりしないで生きていく可能性があるということです。

その時に使うツールは、理性です。但し、人類の共存という価値観に向かって進んでいくという目標をしっかり持ったうえで、それをどう実現していくかということを考え抜くという理性によって、人類の幸せな未来の可能性が切り開かれていくことになると思います。簡単な話ではありませんが、可能性は切り開かれるはずだと思っています。

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