SSブログ

【超長文御免】死ぬという確定意思のない自死(自殺)と自死予防は何を予防するかについて 「自分で死を選んでいる」という誤解だということの具体的説明 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

特に若年の自死の問題に関与すると、必ずと言ってよいほど聞こえてくる話があります。それは、
「その人は、死ぬつもりなんてなかったと思うよ。はずみで死んでしまった事故だったのだよ。」
というものです。
そして、自死の前日や当日、本人が楽しそうなそぶりをしていたことや、自死の日の直後の日に、いろいろな計画があったことを理由として、その人は自死をするつもりではなかったはずだと述べられます。これから死のうという人が、そのあとの計画を立てようと思うわけがないというのです。

無理もない誤解だと思います。このように考える方々は、おそらく、「自死する人は、長期間死のうかどうしようかということを迷い続けて、何日か前からいつどこで死ぬかということを決めていて、死ぬことを決めた日の前は、一貫してこれから自分は死ぬんだということを考えていて暗い表情をしている。」はずだという前提を作っているのだろうと思います。

そういう自死もあるのかもしれませんが、私が調査したり、仕事として関わった自死には、そのような計画性のある自死の例がすぐには思い浮かびません。通常は無いと言ってもよいと思います。
だからその前提が多くの場合には間違っていると言ってよいでしょう。

言葉をうんぬんするときりがないのですが、それは「自死」とか「自殺」という言葉からくる誤解だと思います。要するに、「自分で自分の命を絶った」ということですから、言葉を当たり前に受け止めると、「自分の『意思』で自分の命を絶った」のだと人は無意識に考えてしまうのでしょう。外形だけを見れば自分で危険行為をしているわけですから、自分の「意思で」自死を決行したと感じることも無理がありません。
しかし、人間の行動は、必ずしもその人の意思に基づいて行われるわけではありません。「そうしたいからそうした」とは限らないのです。

国などの、「追い詰められた末の死」という言葉も、誤解を招く原因となる危険のある表現なので、この言葉の意味についても慎重に理解しなくてはなりません。

実際の未遂例や既遂例を調査した限り、命を絶つという効果を目的に自死行為をしたという目的的行為があったとは必ずしも言えない自死行為や、自分の命が危険になるということを自覚していることのない自死行為が、とても多いことに気が付きました。

以下、典型的な2類型の、死の意識が希薄な自死行為がどうやって起こるかについて説明します。

1 薬物、アルコールの影響での夢遊病型
前回の記事の中の万引き(トランス型)も参照にしていただければ幸いです。

不幸な偶然の条件が重なると、人間は自分の意思とは別に行動をしてしまうことがあります。極端な例を紹介します。ある種の向精神薬とアルコールを併用して、まったく記憶のない状態(記録に残らない精神状態)になってしまいました。それでも、自動車を自分で運転し、自分の好きな商品の売っている深夜の店舗に行き、比較的広い(二階建ての)店舗のその売り場まで歩いていき、異常を感じた店員が近くに来て制止しているにもかかわらず、店員がそこにいないかのように全長1メートルくらいある商品を何点か自分のカバンに詰め込もうとして逮捕されました。その時のその人は、目の焦点が合わず、口を閉じることもできず、よだれを流しっぱなしにしていた状態だったとのことです。ほかのことを一切考えずに、その商品を手に入れる行為だけをしていたわけです。

この人は、外形的に見れば、自分で商品を盗もうとしていたということは間違いではありません。しかし、それを自覚してはいません。夢遊病ならば、自動車運転をして正確に店舗にたどり着き、その商品を盗む行為をするという複雑な行動は、とてもできないような気がします。それでも、その姿を見ていた店員によると、あたかも映画のゾンビのようにオートマチックで動いている感じだったということらしいのです。また、店員がいることを気にしないで行動をしていたということからも、少なくともまともな意識状態ではないことがわかります。

どうやって、このようなヘンテコな行動が起きてしまうのでしょうか。


その人の頭の中で、常日頃から「その商品が欲しい」という気持ちがあったことは間違いなかったようです。それでもお金がかかりますし、どうしても必要なものでもありません。理性が働いている場合は「まあいいか。」ということで、窃盗をしないことはもちろん、お金を出して買うこともしないという「自己制御が可能」な状態だったのだと思います。ところが、複雑な過程を経て、複雑な効果が表れて、「行動は可能だけれど自己抑制ができない状態」が生まれてしまったのだと思います。これは、脳のある部分(前頭前野腹内側部)が機能を停止し、その他の部分は活動しているということで説明ができるのではないでしょうか。

自死者の多くが、自死の前に精神科治療を受けていたというデータがありますから、現在の精神科医療の大勢からは、自死者の多くが向精神薬を服用していたことが推測できます。また、少し古くなったデータですが、少なくない割合で自死者の体内からアルコールが検出されているという報告もあります。そうだとすると、向精神薬とアルコールの併用や、どちらかの過量接種が起きて、脳の局所的な活動、停止が起きて、「行動は可能だけれど自己抑制ができない状態」が生まれることはありうることだと思います。

先ほどの窃盗の事例では、頭の中にその商品が欲しいという記憶が何かしらあって、窃盗行為を抑制することができなかったという状態でした。これがこの実際の場合と違って商品が欲しいという記憶ではなく、何らかの精神的に追い込まれている事情があり、「死んだら楽になる。」という死に対する明るいイメージを持っていたとしたら、その人は窃盗ではなく、自死をしていたかもしれません。その場合、単なる死に対する明るいイメージだけでなく、「死ぬ方法」についても考えてしまったりしていたら、ますますその方法を行うことを止めることができなくなってしまうと思います。

WHO等の自死に関する報道についてのガイドラインとして、自死の具体的な方法については詳細を報道しないことを要請しています。こういう薬物・アルコールの影響で意識がない状態での自死を考えると、報道によって自死の具体的方法を知ってしまい、記憶に残ってしまったら、その方法を止めることができない状態になり、実行に移す危険が高くなるわけです。具体的方法について報道しないことはとても大切です。

向精神薬などを過量服薬するという形で死亡する場合もあります。複数の未遂者と家族から最近もこの話を聞きました。

ある方は、抗不安薬を飲めば眠れていたそうです。しかし、その日は眠れなかったので、眠るために追加で飲んでしまったようです。それでも眠れないため、さらに追加して薬を飲んでいくうちに、だんだんと意識がもうろうとしてきて、「映画のゾンビかロボットのようにオートマチックで動いているように」飲み続けていったそうです。本人にはその時の記憶がなく、家族が見た様子ということになります。そうやって一錠ずつぼりぼり噛み続け、気が付いたら大量に薬を服用してしまっていたようです。薬を飲み続けている様子は、先の商品窃盗の犯人のような状態だったのでしょう。家族は必死に服用を止めようとしましたが、力が強く、服用をやめないので、救急車を要請して緊急入院となりました。一か月近く入院したそうです。家族がいなかったらもっと大量に服薬していたでしょう。命を落としてしまう危険もあったと思います。つまり、自死として死亡したかもしれなかったということです。

別の方は、マンションの階段を上りだす人で、飛び降りる寸前で家族に止められて無事だったということが何度かあったそうです。そのうちの半分くらいは自分では記憶していないというのです。

最初に挙げた窃盗の事件の精神状態は、さすがに珍しい事例だと思います。意識のない中で行った行為はかなり複雑な行為でした(実際は何度か同じように車を運転しようとしてできなかったり、発進直後に事故を起こしたりしていたようで、たまたまこの時はうまくいったという事情があったようです)。しかし、自分の命を落とす行為は、もっと単純で簡単に手軽にできてしまいます。そこまで複雑な脳の状態にならなくても可能です。

私が話を聞いた人たちは、その時に家族がいたため、家族が危険行為に気が付き、危険行為を止めることができました。しかし、家族がいなかったら、亡くなっていても不思議ではありませんでした。夢遊病みたいな行為でも、自分で過量服薬をしているし、自分で飛び降りをしたならば、統計上は「自死」があったということになります。

自死ではないのですが、向精神薬を何錠も服用していた方が、亡くなった夫の墓を開けて遺骨を確認したという事例があり、他県の事例ですが呼ばれて刑事弁護をしたということがありました。まったく記憶がないというわけではないのですが、概ね記憶がなく、断片的にしか覚えていないとのことでした。
思いが強すぎて、その思いの強さだけで行動をしてしまうという現象は私一人だけの弁護士経験の中で何度も見ていることです。

また、バスに乗っていて、目的地になかなかつかないことで奇妙な焦燥感にとらわれて苦しくなったという人もいます。まるで、テレポーテーションで瞬間移動ができないことにイラついているような感覚だったそうです。このイラつきで精神的にいっぱいになってしまい、バスを途中で降りてしまったというのです。目的地につかないことに焦っているにもかかわらず、かえって目的地に到達することが遅れることをしてしまうという不合理な行動をしてしまうことを止めることができなかったというのです。この人は、自分が飲み始めた向精神薬の副作用だと判断して、その薬の服用をやめたそうです。それからはその症状は出なかったとのことでした。ちなみにこの感覚、私も起きたことがあります。途中でバスを降りるまではなかったのですが、ちょっとの間イライラが止められなくて苦しくなり、途中で下車したくなりました。向精神薬は飲んでいないのですが、ある種の内服薬でそのような症状が起きたのかもしれません。あるいはその時の精神状態の影響でしょうか。

他の自死未遂の経験のある方から話を聞いても自分では記憶していない行動や、自分で制御できなかった行動、精神状態を経験したことがあるそうです。こういう話を聞くと、かなりの割合でこのような夢遊病のように自覚がないまま危険な行動をしてしまい、その結果亡くなってしまったケースが多いような印象を受けてしまいました。

こういう状態での自死があるとすれば、家族がいる場合でも自死が起きることをよく説明できます。家族仲が悪いわけでなく、むしろ家族に対する思いやりがある人でも、夢遊病状態だったために、家族の将来を考える暇もなく、危険な行為をした結果命を落とすこともありうることだと理解できることでしょう。家族のことをどうでもよいと思っていたのではなく、考える暇もなく薬物の影響で命を落としていたということが実態だったという事例は無数にありそうです。

2 慢性的な緊張持続による精神疲労型

精神疲労型の自死は、外在的なストレスあるいは内在的な事情によって、精神的に強い緊張を強いられることが長い期間持続してしまっていて、精神的体力がなくなることによって緊張を感じ続けることができなくなる場合です。「精神的体力」がなくなるという言葉は私が作った比喩のようなものですが、あたかも思考が飽和状態となってしまうことによって、合理的な行動をするための思考(衝動を自分で抑制)をする力が失われたような精神状態を言います。これは自死に限らず、紛争を抱えている当事者には陥りやすい状態で、程度の違いはあるわけですが、ありふれていてよく見られる状態です。

薬物を摂取していない事例で、精神疲労型と思われる事例を紹介します。

ある若者の例では、発注先のパワハラがあり、それを会社が放置していたという事例でした。友人たちの強い勧めによってその不合理な職場を退職すると決めたので、友人たちもほっと一息を入れていた時に、あと半月で退職というところで自死をしました。自死の直前の様子として、会社の同僚の目撃談を入手することができたのですが、パソコンには向かっていたけれど画面には何も表示されておらず、ぼーっと画面を見ていただけのような感じだったそうです。会社を飛び出してから気が付いたことですがインスタントコーヒーをいれようとしてコップに粉を入れたままボットの湯口の下に置いたままだったそうです。何も考えられない、思考が停止したような状態から、死の危険のある行為に向かってまっしぐらに進んでしまったというところに、一つの目的にだけ向かってしまい、他のことを一切考えていないという意味においては、最初の窃盗の事例に近いような精神状態であったようです。

ある人は、長期間土日も休みがなくストレスフルな仕事をしていました。脅迫に近いクレームが来たり、職場から窃盗の濡れ衣も着せられました。そんなある日、ふと気が付いたら、背広姿にサンダル履きというおかしな格好で、デパートの小さい紙袋をもって家を出て、本来の職場ではなく、かなり距離の離れている他県の支店の同僚のいる駅まで、新幹線を乗り継いで5時間以上をかけていっていたようです。その駅で降りて、山間部に入り自死をしています。医師の意見では解離性遁走という精神的状態だったのではないかということでした。自分で自分の行動を抑制できない状態です(仕事上の情報交換で、その同僚から助けてもらった直後だったので、その地域の名前を漠然と記憶していたようです。そこを訪れる必要は全くなかったとのことでした。)。その時の行動を見た人はいないのですが、おそらく薬物の影響がある事例のようなオートマチックの動きだったのではないと推測できます。やはりこの事例も、死ぬことだけを考えて、他の様々なことを考えられない状態だったと思います。

パワハラやいじめなどといった外在的事情がない場合の例もあります。おそらく精神病の影響で、精神的に消耗しきっていたような状態になり、家族の前で興奮状態となり自死をしようと何度も繰り返し、家族が止めていたのですが、興奮状態が収まってしばらくしたので家族が一時部屋を出たら、わずかの時間で自死をしたという事例もあります。これも、店員から止められるのを振り切って商品を盗もうとした行為をほうふつさせます。その危険行為をするという強い意思を止められない状態となっていたということになるでしょう。

事例を挙げればきりがないのですが、亡くなる際の状態がわかる範囲では、覚悟の自死という事例は聞いたことがあまりありません。やはり、薬物の影響下のような自分の意思とは別に、あたかもオートマチックに死に至る危険の高い行為を行ってしまっていたということがほとんどのようです。

自死が起こる前のサインとして、かなりはっきり起きることは、自分に対する激しい攻撃行動です。自分の身体を傷つけたり、自分の部屋を荒らしたり、自分の大切な持ち物を衝動的に破壊したり、その攻撃衝動を抑制できない状態です。あるいは、不合理に自分を責めて、自分の過去の行動が自分に悪い結果をもたらすというような異様な自責感情が述べられていたこともあります。あるいは自分に対する絶望もみられたことがあります。激しい攻撃的感情に基づく行為が、自分に向かったときに自死が起こる危険性が高いことは間違いないようです。

この点、さらなる説明が必要だと思います。生物は、死にたくない、死なないようにしようという本能があるわけで、自分に対して命がなくなるかも知らないような攻撃をするということはあり得ないのではないかということです。
しかし、自死直前の人たちの言動を調査すると、不合理な自責の念の言葉があることが多くの例で確認できます。まさに自棄的な発言です。それから、理由もなく、「自分は死ななければならない」という信念のような固い気持ちに支配されていたことを、多くの未遂経験者は語ってくれました。

夢遊病やトランス状態になってしまうと死ぬことに対しての恐怖を感じにくくなるようです。ましてや自分が危険な行為をしているという自覚がない場合は、死への抵抗が起きるきっかけもありません。「自分は死ななければならない。」という信念のような気持になっているときは、うまく言えませんが、「生物的に命を失う。」という意味とは別の意味で死について言っているように話を聞きました。でも結果としては、命を落とすことになることは間違いありません。

「死ぬ」、「死ななければならない」、「死ぬことは解決することという明るい気持ち」という「アイデア」や「イメージ」が頭のどこかに強固に張り付いていて、それまでに様々な事情で緊張感が持続していて、その結果考える精神的体力が失われてしまい、自分に対する攻撃衝動が抑制できない状態になった場合、自死が起きてしまうケースが多いのかもしれません。

3 自己コントロール不全と精神的疲労

1の薬物影響による夢遊病タイプと、2の精神疲労による衝動タイプの共通項として、「人間は自分の行動を意思によってコントロールできるとは限らない」という事実です。あるいは、何らかのアイデアやイメージが頭に張り付いているときには、意思にかかわりなく行動してしまうことがあるということかもしれません。しかも死という行動にまっしぐらに行動してしまい、他のことを考えられない状態になっているわけです。
一見死という結果を目的とした行為のように見えても、実際はその行為と結果を認識した行為とは限らないということも少なくない割合でそういう事実があると思います。
だから薬物がない事案でも、自死があったからと言って、その人が家族のことを思いやっていなかったというわけではないことも共通です。ほかのことを考える力がなくなってしまっていて、結果として自死の危険のある行為をやめられなくなったということのようです。

また、自己抑制をする場合、それは本能ではなく理性の力を必要とし、その理性の力は簡単に失われてしまうというメカニズムも報告しておきたいと思います。

うつ病患者から話を聞くと、我々が行動するときは、自覚をしていないのですが、いろいろと思考をして実行をしていることがわかります。
例えば、食事をするということ一つとっても、例えば牛丼を食べるときも無意識に食べているように思えて、実は、どんぶりの重さや温度を計算して持ち方や力の入れ加減を工夫して、中身がこぼれないように工夫して、どんぶり飯を箸を器用に使って食べているようです。ところが、重篤なうつ病になると、思考を働かす精神的体力がなくなり、どうしてよいかわからなくなったり、食事をすることをあきらめたりすることもあるようです。食欲があれば、考えないで食べるのでしょうけれど、食欲もないので、無理に考えて食べることをしないということみたいです。

例えばエアコンのリモコンが目の前にあっても、椅子から立ち上がって、2歩も歩いて、リモコンに手を伸ばして取るということが考えられなくなるようです。まったく意味のないことを考え出してしまうこともあるようです。つい、家族に目の前にあるリモコンを取るようにお願いして、怒られるなんてことがよくあるそうです。

このような状態が慢性化する場合は、通常自死をするという気力も精神的体力もありませんから自死の危険は減っているはずです。しかし、精神状態には波があるために、幾分活動ができるときもあるようです。また服薬によって精神状態が上向いて活動が可能になるときもあるようです。これらの場合も衝動的行動ならばできます。しかし、その行為の結果どうなるかということについて考えて、自分の衝動を抑制しようという理性を働かせるということは、精神的体力がついていかない場合があるわけです。この場合が最も危険な状態ということになると思います。

追い詰められた結果で自死を意識的に行うことを余儀なくされているというよりも、「追い詰められた結果で死の危険のある行為を抑制できなくなった」という表現が適切な事案が実は多くあると私は確信しています。

4 自死予防の対策 何を予防するべきか

このような分析から言えることは、これから自死をする人は、いかにももうすぐ自分で死ぬ方法を実行しますよという雰囲気があるわけではないということです。それまで普段と変わりなく会話をしていても、そのあとの予定がある場合であっても、何らかの刺激によって引き金を引かれて、死の危険のある行為が抑制できなくなって、実行に踏み切る可能性があるからです。
そうすると、リスクを示すものとして、自己抑制が効かなくなる事情、自己抑制が効かなくなっている行動が、予防手段として重要視されなければならないことになると思うのです。

精神的体力が失われる事情としては
薬物、アルコールの過量接種があります。個人では薬物やアルコールもやめられなくなり、オートマチックで摂取しますので、できるだけ家族と一緒に住むこと、心配してくれる他人と同居することが望ましいということになります。

対人関係の不具合が継続していることが精神的体力を奪う事情です。
厄介なことに、人間は、職場、家族、学校、地域、ボランティア、サークル等様々な対人関係で、自分が尊重されて過ごしたいという本能的欲求を持っているようです。できれば、家族などコアな群れを意識的に大切にして、他の群れで不具合があっても家に帰れば安心できる状態となっていることが自死予防の観点からは切実に必要なことだと思います。

その上で、不具合のある人間関係があることを受け入れるということです。そういう改善不能な人間関係に期待をしないということ。過剰な期待は絶望を深くしてしまいます。まあ、これをどうするかが対人関係学のテーマなので、これからも考え続けていきます。

人間は他の霊長類と同じように、安心をすることを意図的に行わなければならないと考えています。

睡眠不足も精神的体力を奪う事情です。催眠剤による睡眠は、自然睡眠よりも効果が低いという指摘もありますので、日光に当たるとか適度に運動するとか健康的な睡眠を追及することは大切なことだと思います。

これらの精神的体力の低下を防止するとともに、自死の危険なサインに気づくことも予防効果が上がると思います。具体的には

・自分の体に衝動的に傷をつける行為。
・自分の持ち物、テリトリーに対する衝動的攻撃
・日常生活から逸脱したような強い感情表現
・泥酔するまでアルコールを摂取すること
・用法容量を逸脱した精神薬物の服用

何も考えないでただ行動しているような夢遊病的な行動、他者の制止を聞き入れない状態などは大変危険な状態だと思います。
何が何でも身を挺して、意識を回復させて、話を聞くことが最低限出来ることかもしれません。

自死というのは、個性や健康状態、タイミングというものが左右するもので、人間ならばこういう時に自死をするという決まった思考メカニズムがあるわけではないということがリアルな考えだと思います。いじめがなければ、パワハラがなければ、家族問題がなければ、自死が起きないということは全くの間違いであることだけは言えることだと思います。

孤立をしないこと。これが人間にとって一番大切なことかもしれません。


nice!(0)  コメント(0)