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パワハラについての誤解  パワハラ国賠で勝利和解をした事案報告 じゃあパワハラとは。 [労災事件]

 

先日、町と県相手の国賠訴訟で、パワハラ被害者が勝利的和解を勝ち取りました。実質審理1年弱というスピード解決でした。とても学ぶべき論点が多く、こういう大事なポイントほど報道ではあまり取り上げられていませんでしたので、詳しく解説しようと思います。他人を使って事業をしている方、特に自治体などの公的団体の管理者にぜひお読みいただきたいと思います。

<事案>

中学校の先生が、職員室で同僚から一方的な暴行事件を受けて、比較的重篤な頸椎捻挫の傷害を負った。被害者の教諭は公務災害申請をしようとしていたが、学校長や教育長は、なんだかんだ言ってずるずる引き延ばした。公務災害を申請すると、暴力事件が県の教育委員会に知られることになることを恐れたためだ。発覚を恐れて、事件から2か月も学校事故報告書さえも作成しなかった。公務災害申請を断念させるための手口は、
・事件から2週間も放置。
・2週間後から1か月半にわたり、忙しい中学校教諭である被害者を頻繁に校長室などに呼び出し、のべ390分も公務災害申請の断念を迫った。
・断念を迫る「論法」は、「公務災害には該当しないかもしれない。」、「公務災害を申請して何がしたいの。私はわからない。」、「公になると子どもたちにも悪影響が出る。」、「暴力があったということはあなたにも悪いところがあったからだ。原因があって結果がある。」、「どっちもどっちだ。」、「お互い謝って終わりにするべきだ。」、「フィフティーフィフティーだから治療費の半分を支払って終わりにするべきだ。」
・異動願を書かせて学校、町の管内から追い出そうとした。
・公務災害申請を断念させるため、数度加害者を立ち会わせて公務災害申請を断念させようとした。居直る加害者を放置し、被害者ばかりを説得した。

主治医のカルテによると、当初、暴力に対する自然な反応だけだったが、校長の説得後半月あまりをして、不安の症状が出現し、1か月半には抑うつ状態と診断されるように、校長の説得期間に応じて症状が悪化していった。そして、ついに働けなくなり休職に入った。
その後も復帰したり休職したりという状態が続き、現在は長期休職中である。事故から10年以上を経て、損害賠償が認められたのが、先日の和解である。

裁判所が簡単に不法行為を認めた本件について、公務員の労災認定機関である地方公務員災害補償基金宮城県支部長は、この精神疾患を公務災害と認めなかった。異議申し立てをした同支部審査会でも、校長の行為は単なる自己保身であると認定しながら、それでも公務災害と認めなかった。2回目の異議申し立てをした本部審査会でようやく公務災害と認定された。事件から5年が経っていた。

<なぜ公務災害基金は当初認めなかったのか パワハラという言葉の問題>

裁判では実質審理1年弱で損害賠償の必要性が裁判所によって認められたという極めて明々白々の不法行為でした。それにもかかわらず、どうして公務災害と認定されるまで二度の異議申し立てと5年の年月が必要だったのでしょうか。じつは、これこそが、「パワーハラスメント」という言葉についての問題性を示していることなのです。

どういう問題かというと、
我々は、「パワーハラスメント」といわれると、どうしても、どこか暴力的な要素があるものだという先入観があるのだと思います。実際の暴力だけではなく、大声を出すとか、乱暴な言葉を使うとかというイメージです。あるいは、威圧による強制というイメージでしょうか。パワーハラスメントが行われていれば、目で見て耳で聞いてすぐにわかるはずだとなんとなく感じているかもしれません。

公務災害に該当するような上司のパワーハラスメントのサンプルも、身体的、精神的攻撃のほかは、「上司等による次のような精神的攻撃が執拗に行われた場合 ・人格や人間性を否定するような、業務上明らかに必要性がない又は業務の目的を大きく逸脱した精神的攻撃 ・必要以上に長時間にわたる厳しい叱責、他 の職員の面前における大声での威圧的な叱責など、態様や手段が社会通念に照らして 許容される範囲を超える精神的攻撃」
とされています。

本件では、大声を出されたわけでもありませんし、叱責を受けたわけでもありません。明らかに必要のない業務(教員一人に草むしりをさせるとか校門の拭き掃除を毎日やらせるとか)をさせられていたわけでもありません。もちろん暴力もありません。
あえていうならば、「人格や人間性を否定するような、業務上明らかに必要性がない又は業務の目的を大きく逸脱した精神的攻撃」ということなのだと思いますが、これに該当するということがよくわからないようなのです。(もっとも、実際の公務災害手続きの際は、このような言葉さえまだ整備されておらず、「執拗な嫌がらせ」というカテゴリーの該当性の問題になっていました。)

<現在の主流のパワハラは、暴力的な言動のないもの>

私は、本当に多いパワハラは本件と同じように、暴力的でも威圧的でもない上司の行為なのだと感じています。多くの人が職場が原因で悩んでいるのですが、「自分がパワハラを受けている」と理解していない人が圧倒的多数だと思います。この普通のパワーハラスメントこそ、防止しなければならないと思っています。

なぜならば、コンプライアンスを重視する圧倒的多数の企業では、さすがに暴力を伴うパワハラや、威圧的な強制パワハラ、意味のない仕事の押しつけパワハラ、長時間叱責パワハラは、行われなくなってきています。しかし、こういう典型的なわかりやすいパワハラではなくとも、人格や人間性は否定されるのです。そして、暴力などの場合と同様に被害者は精神的に傷ついて長期間精神的に病んだ状態になってしまいます。人生が台無しにされてしまうのです。もちろん抑圧された感覚は、生産性を低下させる大きな要因になります。

また、将来的に会社が莫大な損害賠償を支払うことになるパワハラを行っている上司は、
パワハラを行っている自覚がありません。
・暴力は振るっていない
・乱暴な言葉は使っていない
・無駄な叱責をしてはいない、必要な注意、指導をしているだけだ。
・部下を馬鹿にしているということもない。
だから私はパワハラをしてはいない。
こういう単純な図式で考えるため、会社で休職者や退職者が出続けている理由がわからないのです。

相談を受けた方も、マニュアルの該当性ばかりを考えていたのであれば、それがパワハラだと気が付かないかもしれません。パワハラが精神を害する理由を理解できていない人は、どうしてもこの行為はマニュアルのどこに該当するかという発想を立てて、見つけられないために該当しそうもないと簡単に結論付けてしまうかもしれません。

<パワハラ防止のために必要なこと>

どうすればよいのか。
答えは簡単ですが、そこから先が難しいかもしれません。

答えは、
何がその人の人間性や人格を否定することになるのか
ということに敏感に反応できればよいということです。

そして、いちいち自分のしていることは「人間性や人格を否定しているだろうか」と考えるよりも、そもそも人間性や人格を尊重する労務管理を心掛けるほうが、パワーハラスメント起きない職場にするためにはとても効率が良いです。従業員のモチベーションを高める方法での生産性を上げるほうが、ローコスト、ハイリターンになるわけです。

さて、人格や人間性を否定するということをもう少し具体的にお話ししなくてはならないと思います。この答えは対人関係学が常々指摘していることです。
つまり、会社という組織の中で、その人を尊重するということ、仲間として認める扱いをするということです。

<この事件で人格や人間性が否定されたと認定されたポイント>

最後に、冒頭の事案の中で、どの点が被害者の先生を尊重していないポイントなのか、どの点が仲間として認めていなかったのかということについてみていきましょう。

1 被害者として扱わない 
校長は、一方的暴力の被害者である先生を、被害者として扱っていません。暴力によってけがをしたのであれば、被害者は恐怖を感じるでしょうし、憤りを感じるでしょう。これに対して校長は、「あなたも悪い。」、「あなたも謝れ。」、「損害の半分は自分でもて。」というようなことを言いました。犯罪の被害者である先生は、人間として当然に仲間である校長や教育長からは、いたわられたり、同情されたりすることを無自覚に期待しています。ところが、そんないたわりはみじんも感じさせない仕打ちとなる言葉を発していたということになります。

これを読まれている方は、校長や教育長は特別ひどい人間だと思われるかもしれません。しかし、組織では、こういう対応をしてしまう管理者は多いのです。例えば部下同士のもめごとがあり、一人が一方的に他方を攻撃していたという事例で、他方は一人に対して反撃しないという事例があるとします。でも人間関係は悪くなっている。こういう時、管理職は、面倒な状態になることを嫌がり、何とか事態を鎮静化しようとします。しかし、理をもって解決することは実際は難しく、なるべく矢面に立たないで解決を実現したいと思うのでしょう。あろうことか、被害者に対して、加害者と話し合って解決しろと言い出すことが結構あります。なかなか立派な組織においても、こういうことは普通にみられます。一方的な言いがかりをつけてきた人とどうやって話し合えばよいのでしょう。こういうことは加害者が古参である場合によくみられることはご経験が誰しもあるでしょう。

2 あなたの人生より大事なものがあるという態度。

  校長や教育長は、事件から1か月半も公務災害手続きに協力しませんでした。公務災害認定を受けると、治療費が支給されるだけでなく、療養のための休職をした場合、休業補償を受けることができます。後遺症が残れば障害補償金が支給されます。公務災害が認定されないと、私病ということですから、治療費を自腹で払うことになりますし、休業をすると賃金が支給されず、退職をしなければならなくなることもあります。
公務災害申請は、被害者の将来設計、生活の保障、健康を確保するための最低限の手段になるわけです。
この公務災害の申請に協力しないということは、「あなたの将来設計、生活、健康より大事なものがあるから、そのためにそれらをあきらめろ。事件は無かったことにしろ。」ということに等しいわけです。
校長や教育長は、もっともらしい言葉をもっともらしい態度で言っていますが、支部審査会は、自己保身にすぎないと切り捨てました。たとえ、子どもたちの精神的安定のためだとしても、そのために先行きの人生に希望が無くなってもよいという態度を取られることは、やはり仲間として尊重しておらず、人間性や人格を否定するということになるわけです。ましてや、校長や教育長の保身のために、自分の人生を捨てろと言われたならば、自分が人間として軽く、価値のないものとして扱われていると思うことは当然だと思います。大変恐ろしいことです。教育長は、紛争が継続していれば「子どもたちがかわいそうだ」と言いました。教師であれば、教え子のことを第1に考えるということを計算しての卑怯な言葉だったと思います。自分の保身のために、このような教育者の良心を傷つけようとする行為を許すことができません。

3 校長、教育長という信頼をされるべき立場

  これらの、非人間的扱いが、日ごろから軽蔑している人間から行われたのであれば、それほどダメージは受けないと思います。
 ところが、教育長や校長という立場は、教育委員会や学校のトップです。どうしてもこの肩書の人間に対しては、まじめな性格の人間は、信頼を寄せてしまいます。つまり、公平公正に正義の観点から自分に接してくれるはずだという期待ですし、自分の立場を理解して自分にアドバイスをしているはずだという期待です。こういう期待をしている自分を自覚しているならば、期待をやめればよいだけなのですが、自覚していないので、知らないうちに傷ついてしまうのです。
 事例の先生も、校長がこういうことを言うのはおかしい。事実が伝わっていないのかもしれないという思いで、何度も事実を説明しています。しかし、校長には伝わっていないようで、別の日になればまた一から説明しなければならない状況でした。校長は議論をしていないのです。被害者の先生がどういおうと、結論を押し付けることしか頭に入っていませんでした。何度も同じことを、また初めから言わなければならないということは、たいへん疲れてしまいます。この疲れは、無力感に変化していくようです。
 事例の先生は、1か月余りの呼び出しによる説得活動の間、ずうっと校長や教育長に対して、期待を持ち続け、話せばわかってくれるという期待を持ち続けてしまいました。しかし、最後に、自分が何を話そうと、聞く耳を持っていないこと、自分は被害者なのに異動願を強要されて厄介払いをされそうになっていることを突然深く自覚しました。当然先生は校長に猛烈な抗議をしたのですが、すべてがわかり、つまり自分が尊重されておらず、人間性や人格を否定されていることを実感し、うつ状態になってしまいました。10年を経過しても回復しておらず、むしろ悪化傾向もみられるほどです。中学校教師にとって、校長と教育長が自分を人間扱いしないとなれば、絶望しかないのだろうと思います。

 事例の先生のつながりのある人が、報道を受けて町の教育委員会に事件のことを問い合わせたそうです。その人の話によると、教育委員会の地位のある人が問い合わせに答えて、「そもそも暴力事件の発端は被害者先生のミスにあった。」というようなことを答えたそうです。事務連絡上のミスは確かにありました。しかし、ミスがあったからと言って、職員室で暴力をふるうことが正当化されることではありません。そもそもより本質的なことは、教育長と校長が結託して事件をもみ消そうとしたことにあるわけです。教育委員会は、町の公金を多額に支出するはめになっていながら、まだ事件の本質を理解していないようです。ということは、今後も同様なことが起こり、多額な公金が支出される可能性があることを町民は覚悟する必要がありそうです。

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