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紛争を解決するため、被害予防のためにやってはいけないこと 調停、ADR 、そして国際紛争 [弁護士会 民主主義 人権]


わが国で被害予防の対策が成功した例の代表は、交通事故防止対策です。単に交通事故に重罰を科すだけで終わりにせず、どうして事故が起きるのか、どうすれば事故を防ぐことができるのかということを科学的に分析して、一つ一つ対応をしていました。

例えば、夜間の交通事故を分析して、歩道上の明かりを増設したり、横断歩道を増設したり、信号機の位置、角度を変更したりと、こまめに対応が行われます。例えば飲酒運転と事故が関連性があるとすると、飲酒運転禁止のキャンペーンを展開して私たちの気持ちを変化させるなどの対応を行い、事故を減らそうと絶えまぬ努力をしてきたわけです。こういう警察関係者や科学者、付近住民の科学的な努力、理性の力で交通事故、特に死亡事故を減らしてきたわけです。

加害者憎しで刑罰だけを強めていったら、こうは劇的に死亡事故件数は減らなかったでしょう。被害者や家族など関係者が、運転手の落ち度を憎むということは当然ですが、誰かが理性によって次の犠牲者を出さないという活動をしていたわけです。

裁判所で行われる調停や裁判外の話し合い機関であるADRによって紛争を解決する場合の、調停委員やあっせん委員にも、同じようなことを求められています。

調停委員やあっせん委員の、話し合いが始まる前にもっている情報は、通常とても貧弱なものです。私もそういう仕事もしていますが、話し合いが始まる最初は正直何が起きているのかよくわかりません。でもそれでよいのだと今は考えています。わからない状態で、双方の当事者の方から、いろいろなことをお伺いするわけです。そもそもその取引上の常識は何か、通常はどのように行われているのか、どういう想いで調停を申し立てられたのか、教えていただくという感じで始めていきます。法律効果を導く事情(要件事実と言います)だけでなく、調停申し立てに至った心持もうかがうことで、判決ではない解決の方法が見えてくるのです。

これに対して、事情がよくわからないくせに、情報を持っていないくせに、最初の話し合いの場で、既に一方の立場になっている調停委員にも出会ったことがあります。この時は当事者の代理人として調停に臨んだ時でした。そんなことをしたら、当然他方は激高して話し合いになりません。私は代理人の立場から調書代わりの準備書面や上申書、進行に関する意見書を同日か翌日に裁判所に提出して問題提起をするとともに証拠を残すことにしています。

このケースは父親が面会交流を求めた事件ですが、その調停委員は浅はかな本による知識で、面会の要求はDVの一態様だという決めつけをもって調停にあたったようです。女性保護の観点から父親に対して攻撃的な態度をしたようでした。その調停委員の態度は正義感に基づくものであるわけです。しかし、公平であるべき調停委員が一方的な攻撃をするのですから、許されることではありません。ちなみにこの事件は裁判官が毎回調停に出席し、無事定期的な面会交流が確立しました。

思い込みや決めつけで作られた正義感は、警戒をするべきなのかもしれません。

思い込みや決めつけをしないためには、まず、情報を丹念に収集することが必要です。一方の主張だけで感情を作り、それを当事者にぶつけてしまうことは、絶対にやってはいけないことです。

不利に扱われた当事者は態度を硬化します。裁判所でも自分が尊重されていないと感じてしまいます。そうすると自分を守らなければならないという意識を強くします。聞く耳を持たなくなることもあります。自分の主張に固執してしまい、一切譲らないという態度をとるようになってしまいます。話し合いの解決は困難になります。逆に、十分に事情を尋ねられて、いくつかの部分に共感を示されれば、例えば解決金額が多少不利になっても、解決を志向して行動することが期待されます。

公平が大切です。この場合、よくある誤解は、調停委員やあっせん委員は、どちらかの当事者に感情移入しないで、どちらとも距離を置いて対応しなければならない、それが公平だという誤解です。しかしこれをしていたのでは、話し合いでの解決は難しいと思います。

心理学の手法にもあるのですが、どちらにもえこひいきをする方が公平な扱いになりやすいということが正解です。それぞれ紛争があり、当事者同士で解決つかない場合は、それぞれに言い分があることが通常です。どちらにも「味方」になるのではなく、その言い分の理解できる部分に「共感を示す」ことがコツだと思います。「こういう状況の中では、私もそういう行動をとるでしょう。」、「こういうことがあれば誰でもそういう気持ちになると思います。」ということを、共感できる部分を探し出してでも共感を示すということを心掛けています。

たったこれだけのことで、信頼関係が生まれていきます。そして、双方にとって、最も不利益にならない方法を考えて、メリットとデメリットとともに提案することができます。当事者は、調停委員に騙されているわけではないという疑心暗鬼にならないで考えを始めることができますので、メリットとデメリットを素直に検討することができます。決めるのは当事者ですが、決めるための柔軟な思考を可能にしているということも言えるかもしれません。

暴行などの不法行為の調停もあります。責任は争わないとしても、賠償額に争いがある場合に話し合いになります。被害者は大変お気の毒な場合が多く、被害の様子に思いをはせることは致し方ありません。しかし、だからと言って、無制限に被害金額を加害者にねん出させようとしてしまうことは絶対にしてはいけないことです。適正に、早期に、円満に解決することを目標としなくてはなりません。場合によっては、自分の正義感をセーブする必要があります。現在の裁判例に照らして無理な要求の場合は、要求をする側に対して、それでは解決は難しいという見通しをはっきり示すことが必要になります。そうでなく、ただ被害者に同情的になり、被害者の利益に従って加害者を説得してしまうと、まず調停ではなくなるし、加害者は調停という手続きをやめて訴訟での解決を目指すようになります。それも当事者が決めることですが、とりあえず調停が申し立てられ、相手方も調停に応じているということを尊重しなくてはなりません。裁判になって解決が長引くことは申立人の人生にとって深刻な影響を与えることもありうることです。そこまで考えて調停をしなくてはなりません。安楽な正義感は人を傷つけ、被害者の被害を拡大しかねないのです。

調停委員はあくまでも第三者です。調停委員の感情を満足させることを優先にしては調停ではなくなります。当事者の方々の意思決定を第三者の立場から補助するというくらいの気持ちでいなければなりません。もちろん、多くの調停委員が心得ていることですが、正義感が強く過ぎてしまうと、決めつけや思い込みも発生してしまいます。

紛争の局面では、解決することと感情を表現することが矛盾することが出てきます。憎しみを抑えて解決ができず、解決は遠ざかっても憎しみの感情を表に出したいという場面はほとんどすべての案件で出てくることかもしれません。当事者の方が、選択によるデメリットを覚悟してどちらを選ぶかということを冷静に決めることは自由です。しかし、当事者でもない第三者が、正義感を優先してしまって解決を後退させることはしてはならないことです。素人の代理人、支援者がよくやる誤りだと言ってい良いでしょう。

感情を満足させるために当事者に不利益が起きることを第三者が選択するということは話し合いによる紛争解決の場面だけでなく、様々な場面で見られる現象です。例えば虐待の防止を言うとき、交通事故対策のようにどうして虐待が起きるのか、虐待を防止するためにはどうしたらよいのかということを冷静に考えることをしないで、虐待親を感情的に攻撃し、厳罰化や警察の導入拡大ばかりを進めていたら、次に虐待される子どもを守ることができなくなってしまいます。虐待防止の道筋を示せない感情的な対策は、むしろ有害である可能性もあるわけです。子どもが虐待によって命を落としてから、人生を台無しにされてから厳罰が課されても、当事者にとってはあまり意味がありません。第三者の正義感を満足させることを優先にしてしまうことは、大変恐ろしいことです。

そのような視点で国際紛争を見た場合、日本は、ロシアに対する制裁を敢行して紛争当事国の一つになってしまいました。この制裁決議に、れいわ新選組以外の革新政党もすべて賛成しました。特に組織の中で批判もないようです。ロシアに対する制裁は、正義感の表れとして行われるわけです。しかし、その制裁によってウクライナの一般国民、特に子どもたちはどのような恩恵を受けるのでしょうか。私にはその道筋が見えません。経済制裁によっては、紛争は終結しないし、一方当事者のリーダーたちは戦争を終結させる目的をもって経済政策をしてはいないようです。制裁はあくまでも制裁でしかありません。

ウクライナの子どもたちの一日も早い安心感の獲得と経済制裁はつながってはいないように思われます。このような紛争の一方に加担した日本が、停戦の交渉をつかさどることはできないでしょう。少なくともその資格はないわけです。正義感を抑制して、子どもたちに安全と安心を提供する方法を真剣に考えるべきだと私は思います。正義感情の放出はこれと矛盾することだと思えてなりません。また、日本の国会の状況は、第2次世界大戦前夜のようにすら感じられるのは、私だけでしょうか。

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