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ダイエットが失敗する理由とパワハラで鬱になる理由に共通すること、人間という動物の特徴 inspired by ‘The Story Of Human Body’ D.H.Lieberman [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 ダイエットが失敗する理由

ダニエル・リーバーマンという、多くの学者からその人の研究論文が引用される学者さんがいます。この方は、進化生物学者、考古人類学者です。我々が入手して読みやすい文献は、ハヤカワノンフィクション文庫「人体 600万年史」上下です。私も読みだしたら止まらなくなるくらい夢中で読みました。

この本に現代に生きる人間が太りやすい理由が述べられています。その理由とは太古の時代の生き残るための必要性でした。
人間は他の動物に比べて脳が大きいために、安静時であっても脳が体内のエネルギーの多くを消費してしまうそうです。エネルギー消費に備えて、効率よく栄養を補給し、体内に蓄積しなければならなくなりました。そのためには糖、炭水化物を摂取し蓄えることがとても有効だったわけです。
糖は、単純な分子構造からできているため、とても体内に吸収しやすく、かつ、エネルギーとして使いやすいため、糖を取り込むことができることが生存に有利になります。また、過剰にとったとしても脂肪に代えて蓄積できますから、いくらでも取るべきだということになるわけです。このため糖を口に入れると、甘さによって好ましく感じ(つまりおいしいと感じ)、あるだけ食べたくなったということです。これは実は人間だけでなく、多くの動物がこのような原理で糖を摂取しています。

ただこのような仕組みが人間にとってメリットだけがあったのは、太古の時代です。太古の時代は糖なんてものは、はちみつくらいのもので、摂取するためには危険が伴いましたし、はちみつをめぐっては生物間の競争もあったことでしょう。また、いつでもあったわけではありません。甘いものと言えば自然の中にも果物があるじゃないかというのは、高度成長期以降に生まれた方々でしょう。昔の果物はそれほど甘くなく、砂糖をかけて食べるものも多かったくらいです。自然の甘みは頼りない甘みでした。どんなに糖分をとろうとしても、取りすぎるくらいはとれなかったので、糖を取り込もう、ため込もうとしても実害が起きにくかった、だからむやみに取り込もうため込もうとする構造は、有利な体の構造だったのです。

現代は、製糖工場が作られ、純粋に甘い糖が世界中にばらまかれ、安価に糖を摂取することが可能になってしまいました。ところが、体は進化せず、太古のままです。即ち、もはやムキになって糖を取り込むこともため込むことも不要なのにも関わらず、体は依然甘いものをおいしいと感じ、糖や炭水化物を食べるともっと食べたくなり、ため込んで内臓脂肪にしてしまいます。進化の過程で想定していなかった量の糖が体内に取り込まれるようになってしまいました。このため糖尿病などの成人病が起きてしまうのだそうです。
これをリーバーマンは、当時の環境(糖が手に入らなかったという環境)に適応するように進化した「身体」と現在の「環境」(安価に糖を入手できる環境)のミスマッチが起きていると表現しています。

つまり、私たちがダイエットに失敗する理由は、私たちの体が飢餓状態により良く対応できるように進化したために、現代の食料があふれている環境には適応していないということにあります。

2 パワハラで傷つく理由

パワハラもそうですが、いじめや家庭内暴力といった継続的人間関係の中から受ける攻撃には人間は十分対応できないようです。

リーバーマンの「人体」という本の副題が600万年史とあるのは、それまで同じ生物だった人間とチンパンジーが600万年前ころに、枝分かれしたからです。つまり、人間としての歴史が始まったのが今から600万年前くらいだということです。そこから、人間は独自の進化をしてきました。

脳が大きくなりエネルギーを使う臓器に進化していきましたし、二足歩行に適合した骨格になっていくなど、身体も進化していきました。

人間が進化の過程で獲得したものとして、人体の仕組み以外に、「群れを作る」という行動傾向があります。群れを作ることによって、肉食獣から自分たちを守ったり、共同で食料を獲得して飢えから守ったり、群れにいることで安心感をもってストレスを解消して長生きができたりと、群れを作ることは人間にとって必要なことだったと思います。

これが甘いものを好むとか、もっと食べたくなるという体の仕組みであれば、分解しやすい栄養素を好ましく感じるように脳の仕組みが作り上げられるということで、なんとなくそれは可能だなと理解できるような気がします。味覚のセンサーとしての舌があり、ここから甘いという情報を脳のある部分に送る。脳のある部分から大脳皮質に情報が提供されれば、大脳皮質の報酬系が刺激されて、どんどん摂取しようとする。という具合でしょうか。これが群れを作るということになると、直ちに脳の構造がどのように進化したかなど、なかなかすんなり理解できないかもしれません。

では、群れを作るということはどうやって行うことができたのでしょうか。ある程度人類普遍に群れを作っていますから、これは遺伝子の中に組み込まれていることだろうと考えることは可能だと思います。ではどういう遺伝子があるのかということですね。

私は、その遺伝子というか体の仕組みこそが「こころ」なのだと思っています。
糖を口に入れて甘いと感じるように、仲間と一緒にいることで安心感を覚え、仲間から離されそうになることで不安を覚えるという「こころのしくみ」が遺伝子に組み込まれているのだと思います。言葉が生まれる前から人間は群れを作っていたのですから、言葉による契約はなかったわけですし、おそらく理性による損得計算の結果仲間となることを選んだわけでもないだろうお思います。ただ、誰かと一緒にいたいという気持ちが仲間の中にとどめたのだと思います。そして、目に見えて一緒にいる人間を仲間と思って離れないように行動したのだと思います。もうすでに、この脳の部分は大脳皮質であり、その中でも前頭前野腹内側部であるということが解明されています。(Robin Dumber、Antonio Damasio) 

そもそも絶対的な人口が少なく、人口密度が極端に低かったため、仲間以外の人間に出会うことはほとんどなかったはずです。人間はすなわち仲間だと思ったはずです。(但し、狩猟採取の生活で定住をしていなかったため、様々な事情で仲間からはぐれてしまうことがあったはずですし、はぐれた人間を仲間に迎え入れることもあったのではないかと思っています。)

群れの仲間の多くは、生まれたときから同じ群れで生活していたし、四六時中一緒にいるわけです。そして利害がまるっきり共通します。即ち、仲間が健康でいればいるほど、肉食獣との対抗力も維持できますし、食料の獲得可能性も高まります。このため、食料を平等に分け与えた群れが強い群れとして、存続することができたはずです。困っている仲間を助けようとすることや、あまり役に立たない個体も群れとして手厚く迎え入れる群れが、頭数を減らさない強い群れということになり、やはり存続していくための条件だったはずです。

即ち人間の群れとして永続して、のちの世に子孫を遺した群れの構成員は、
・ 仲間の気持ちを手に取るようにわかっていたはずで
・ 何事も平等で、差別をせず、
・ 群れの仲間を助けようとし
・ 困っている仲間、窮地に陥っている仲間は全員で助けて
・ 一番弱い者ほどみんなで守っていたことでしょう
これによって
・ 仲間は自分を守ってくれる存在だと思い
・ 仲間の中にいると安心できると期待していた
こういう人間関係だったと思います。

このこころの仕組みは、単独では人間が生き残ることが困難な環境の中、人間と言えば自分と他人との区別がつかないような一心同体の仲間しかおらず、その人数も比較的少数であった時代には、奇跡のように環境に適合した仕組みだったと思います。このような仕組みを持たないヒトたちは滅んでしまったのだと思います。

弁護士として人間関係の紛争を観てきましたが、現代の紛争の多くは自分を守ろうという動機で起きているということが実感です。守り方が突拍子もないことも多いために直ちに理解ことがありますが、もつれた紐をほどいていくと、結局自分を守るために結果的に他者を攻撃していたということが多いようです。
太古の群れの形成期のころだと、群れの仲間全員が運命共同体ですから、自分を守るために群れの誰かを攻撃するということは極めてまれというか、実際はなかったのではないかと考えています。

仲間と仲たがいするほど、余裕をもって生きることができない厳しい環境だったと言えるのかもしれません。パワハラのようなことをしたら、他の仲間がわらわらと近寄ってきて、引き離したことでしょう。パワハラみたいなことをした方も仲間から追放されると察して、行動を修正せざるを得なかったと思います。実際は、争う実益も、仲間から自分を守らなければならないと思うような出来事もなかったと思います。パワハラは無かったのです。

では、このような進化の過程で生まれた仲間ファーストの行動傾向やこころはどこへ行ってしまったのでしょうか。

厄介なことに、この「こころ」は、太古の昔とほとんど変わらないで残っていると考えるべきでしょう。証拠はたくさんあります。それは私たちのこころの状態を見ればわかります。

つい、他人を仲間だと思って期待してしまうわけです。
・ 自分を他の人間と同じに平等に扱ってほしく差別しないでほしい
・ 自分の失敗や不十分なことに寛容であってほしい
・ 困っていたら助けてほしい
・ 自分を攻撃しないでほしい
・ 自分を邪魔にしないでほしい
・ 仲間の中にいることで安心したい
・ そして仲間から外さないでほしい
どうでしょう。まるで太古の人間関係のようなことを求めているとは感じられないでしょうか。特に、継続的に一緒にいる時間が多い、家族、職場、学校、趣味などの集まりなどでは、特に安心したいという気持ちが強くなることと思います。
(もっともそのための行動は個性による違いが大きくあります。目立たないようにするひと、人に合わせようとする人がいるかと思えば、自分の能力をアッピールして安定的な立場に立とうとする人等々。)

こころは太古の時代に進化が止まっていたようです。
変わったのは、私たちを取り巻く人間関係という環境です。
つまり、生まれてから死ぬまで同じ人といるのは家族くらいのことです。その他の学校も家族も、ある程度は継続して一緒に生活しているわけですが、特に現代化の中で交代が予定されない人間関係なんてなくなってしまったと言ってよいでしょう。家族でさえ、交代を進められるような時代になってしまいました。
また、昔は一つの群れの中で、食料を調達し、休息や睡眠をとって,群れの外の人間とは交流がなかったはずです。今は、家族だけでなく、学校、会社、地域等複数の群れで生活しています。インターネト仲間のような群れとは言えないような人間のつながりもあるわけです。そのため、実に多くの、気が遠くなるくらい多くの人たちと、自覚しているか無自覚化を問わずかかわりを持っています。

大事なことは、利害が一致する運命共同体のような群れというものが消滅しているということです。
・ どこの群れにいても、自分が誰かと交代させられる危険があるということで、
・ 自分の失敗や不十分なところ弱点が許されないことが多くあり、
・ 誰も自分を守ってくれないということが多くあり
その結果、自分を守るために他者を攻撃する必要も生じるようになったし、実際に自分を守るために他者を攻撃するということも頻繁になってしまいました。そして相手との人間関係が希薄なため、相手を攻撃しても心が痛まないということになってしまったのではないでしょうか。
継続的な人間関係の中にいても心休まらないわけです。眠るべき時間でも、昼間の悔しかったことを思い出したり、理不尽な扱いに腹が立ったり、この次に顔を合わせたら何をされるのだろうと恐怖を感じることがあるわけです。仲間の中にいたとしても眠れなくなることがあるということです。これでは、こころを管轄する脳が不具合を起こしてしまいます。

現代社会と太古の時代の環境の変化を整理すると
・ 群れが一つではなくなった。複数の群れに帰属する。
・ 群れのメンバーは代替性があることになった。
・ どこの誰とも把握しきれいない膨大な数の人間とかかわりを持つようになった。

その結果、
・ 群れの仲間は運命共同体ではなく利害対立をするようになった
・ 群れの仲間はそれほど大切に扱われなくなった
・ 場合によっては群れから追放をすることが当たり前になった
・ 誰も助けてくれないことが起きるようになった
・ 自分を守るため他者を攻撃することが起きるようになった
・ 他者の利益を害しても自分を守ろうという行動が起きるようになった

しかし、こころは太古のまま変わらないため
人は傷つくようになった。

つまり、太古の人間が切実に糖を取り込みため込むように
太古の人間は群れに入ろうとし群れの中にとどまろうとした、

太古の人間の中で糖を取り込みため込めない人間は死滅した
太古の人間で群れにとどまることのできない人間は死滅した。

製糖工場ができて安価に糖が手に入るようになった
複数の群れ、多人数の群れを形成するようになり、一人一人がかけがえのない仲間ではなくなった。

糖が簡単に摂取できるにもかかわらず糖をため込み取り込む人間の仕組みは変わらない
仲間に仲間として尊重されることが難しくなったのに、人間の心は変わらない。

糖が進化の想定外に多量に摂取し多量に体内に蓄積するようになったため体が不具合を起こして生活習慣病を起こすようになった。

仲間として尊重されたいという意識のほとんどが実現されなくなったため心が不具合を起こして精神病を発症するようになった。
その前提として仲間として尊重されたい人間から攻撃されるという現実が起きるようになった。

自死、パワハラ、いじめ、離婚、犯罪などの社会病理は、ほとんどがこの仲間として尊重されたいという人間のこころの進化の段階と、現代の人間環境のミスマッチとして起きている。これが対人関係学です。





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