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どうか後悔を数えずに、故人との楽しかった時間を思い出していただきたい。それがご供養だと思います。何通かの自死者の遺書を読んで感じたこと。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


お身内が亡くなることはとても悲しいことです。その死が、病死であろうと事故死であろうと自死であろうと、遺族は自分が故人のためにもっと何かできたのではないかという気持ちを抱き、自責の念に駆られることが多いということは、身内を失くした人であれば誰しも知っていることだと思います。

この自責の念は、自死の場合は特に強くなるようです。
すでに自死の危険が高まった後で、自死を防ぐということは、本当はとても難しいことです。そして自死の危険が高まる原因や予防もやはり難しいことが多くあります。

それでも世間は、誰かが止めれば自死は簡単に防ぐことができるのではないかと誤解をしているのかもしれません。

また、国家政策としての自死予防が盛んだったころ、「自死の直前にはサインが必ずある。サインを見逃さなければ自死を防ぐことができる。」という理論が、貧弱な自死のサインのサンプルと一緒にまことしやかに流されたことにより、自死は家族が注意すれば防ぐことができるのではないかという誤解が蔓延したという事情もあると思います。

自死や自死未遂の現状を知れば知るほど、自死を防ごうと思ったら、それこそ24時間、365日態勢で気を付けなければならないということになると感じます。それは現実的には間違いなく無理です。

もちろん、無理なことはわかっていても、手を尽くしたことをわかっていても、遺族は自責の念に駆られてしまうのであって、自責の念を抱くなと言っても無理なことでしょう。

それでも、故人としては、できれば自分が死んだことで身内が後悔をしないでほしい、自責の念に苦しまないでほしいという希望があるようです。

自死の事件では、いくつかの事例で、死の直前に遺書を作成される方が多くいらっしゃいます。かなり冷静に淡々と遺書をしたためられているケースも多いように感じます。

自死に当たって、誰かを攻撃する内容の遺書の場合もありますが、圧倒的多数の遺書は家族に対する思いやりが記載されています。また、家族を攻撃する遺書というのも私は見たことはありません。

遺書の文面で多いのは、ご家族に対する謝罪です。お子さんの学校での様子や仕事の様子などについて、よくここまで知っているなあと思うほどよくわかっていて、次の目標の場面に立ち会えない、応援できないことをお詫びしています。自分が自死することで生活が苦しくなることや世間的に肩身の狭い思いをすることも謝罪していることが多いです。

配偶者に対しては、複雑な表現がある場合もありますが、その場合でもむしろ第三者が読めば、愛情にあふれながら、相手に対する尊敬と自分のふがいなさに対してお詫びが記載されているということがよくわかる内容になっています。

故人は、自分がこれから行うことについて、家族がどれだけ苦しむかをわかっており、それでも死ぬことを止められず、謝罪の言葉を残すことが精いっぱいであることがよくわかります。理屈では割り切れないかもしれませんが、自死とはそういうものなのだと考えなければならないと思います。合理的な思考ができるような精神状態ではないということは間違いないと思います。

そういう気持ちを持った自死者にとって、自分の死について少なくとも家族にだけは責任を感じてほしくないということが本音なのだと思います。遺書を拝読する限り、唯一の心残りと言ってもよいのかもしれません。

私の拝読したいくつもの遺書の内容からすれば、自死を余儀なくされるまで追い詰められた人間がこれから命を失うというその時であっても、家族との楽しかった出来事の思い出や、子ども成長、あるいは不安を忘れることができた家族とのひと時というものは、何物にも代えられない貴重な思い出で、かけがえのない財産なのだと思います。その中でも、自分と一緒にいる家族が楽しんでいたり、喜んでいたり、あるいは安心していたり、自分を頼ってくれたりしたその時の表情に、自分が生きてきた意味を感じて、慰められていたことになります。

(そういう人間としての充実した出来事の記憶すらも、自死を止めることができない。それほど自死を防ぐことが難しいということなのだと思います。)

だから、故人が生前に楽しそうにしていたこと、喜ばれていたことを思い出すだけでなく、故人と一緒にいたときにご家族自身が楽しかった出来事、喜んだ場面、安心した記憶を思い出すことが、故人にとっての何よりの供養になるのではないかと考える次第です。

これは、自死の場合だけでなく、故人をしのぶ場合に共通のご供養の在り方なのかもしれません。



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