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パワハラの誤解1 暴力がなぜパワハラとなるのかを理解しないと、「どの程度の暴力ならば許されるか」等という馬鹿な議論が始まる。パワハラはどうしてしてはいけないのかという基本を考える。 [労務管理・労働環境]


パワハラ防止義務が、今年から中小企業にも課せられました。何を防止すればよいのか、実際のところよくわからないという人もいらっしゃいます。実はこういう方は本気でパワハラを防止しようとしている人です。厚生労働省のチラシを見て、うちは大丈夫などと思っている会社こそ注意をする必要があります。私が読んでも厚生労働省のチラシは、最低限度のことしか書いてなくて、実際企業として何に目を光らせればよいか、イマイチよくわからないと感じることが正解だと思うからです。

こういう場合、考える順番として、なぜパワハラを防止しなければならないのかということから考えることが効率の良い考え方です。

この場合、国の思惑と企業の思惑は別のところにあります。しかし、結局はやることは一緒になるので、両方考えてみましょう。

1 労働者の精神的健康 
国の思惑は、働き方改革の一環として、労働者の働く環境を整えるということが第一です。しかし、昨今、パワハラなどによるうつ病の増加が、労災補償の財政を圧迫しており、財政的観点からもパワハラによる精神損害の被害を防止することが求められているのです。それができれば十分だというわけにはいきませんが、労働者の健康、特に精神的な健康を害さないためにパワーハラスメント防止するということは基本的な視点です。

特に自死や長期休業に至るようなパワハラは絶対に起こしてはなりません。
このような観点からは、労働者の立場でパワハラ問題を取り組む人間から、企業は話を聞くべきです。会社にとって厳しい考え方を知ることは、実際に事件が起きて裁判になる場合という現実を想定することができますし、そのためには事件を起こさないことが肝心だということをはっきりと認識することができます。
但し、あまり極端な考え方を持つ人の話は参考になりません。

2 会社の利益を害すること

1)パワハラが起きて広く知られてしまうと、会社にとっては大きなダメージとなります。
・ 莫大な損害賠償の出費
・ 労基署の関心を集めてしまう
・ 報道をされることによる企業イメージの低下、株価や売り上げの低下
・ 従業員のモチベーションが下がる
この辺りまではよく言われていることです。

2)パワハラが公にならなくても企業損害は想定されます。
・ 理不尽な叱責(理由がない叱責、一方的な評価、人格を否定する表現等)は、それをされた従業員だけでなく、それを聞いている従業員にとっても、会社に対する帰属意識がなくなります。「自分が所属する会社のために頑張ろう」という人間として当たり前の感情が消えてなくなってしまいます。
・ 特に理不尽な叱責がなされると、従業員は防御の姿勢に入ってしまいます。「私が悪いわけではない。」等という言い訳を考えることに気が向いてしまって、自分がどう改善すればよいのかということを考えようとしなくなるということが起きてしまいます。このため、何度同じことを言っても改善がなされないということが起きてしまいます。
・ 頑張っても報われないということを知らされてしまうと、頑張ることが馬鹿らしくなります。表面を取り繕うこと、つじつまを合わせることだけを習熟していきます。
・ 自分の頭で考えて行動することによって叱責をされてしまうと、叱責されないように言われたことだけをするようになってしまいます。叱責されないということが会社での最大の目標になってしまいます。

3)なぜ、従業員が傷つくかを考えましょう
人間は、会社をはじめとして群れの中に所属すると、無意識に、無自覚に、会社の秩序を維持するための貢献しようという気持ちになってしまいます。この秩序は、社訓などで張り出されるものではなく、上司が作り出す秩序に参加しようという意識が生まれるということです。
 もっと簡単に言うと、上司から自分の労苦をねぎらってもらいたいし、自分の努力を評価してほしいという意識を持っているのです。最低限、公平に扱ってくれるだろう、仲間の人間として尊重してくれるだろうと期待をするわけです。
 ここでパワハラを受けるということは、最も正当な評価を受けたい人から不当評価を受けて、仲間として扱わないというメッセージを受けることですから、カウンター攻撃を受け、大きな精神的ダメージを受けてしまいます。
 つまり、素朴な人間、会社としての秩序作りに無意識に貢献しようとしているまじめな人間ほどパワハラで傷つくということは大切な事実です。

また、パワハラを受けて精神疾患になったり自死したりする人たちは、そんな無理筋の上司の指示にもきちんと対応しようと思ってしまうまじめな人間たちですし、決められたことはやらなければならないという責任感の強い人たちであり、頑張れば何とか出来てしまう人たちなのです。そうでなければ、悩んだりしないと思いませんか。私ならできない業務指示を受けたら、適当にやってみてできませんでしたと悪びれないで報告するだけでしょう。

パワハラは、形式的な目標を達成するために、無理を命令し、できないと叱責するということが典型的形態です。上からの目標設定を遂行しようとして無理を部下に押し付けるという具合に起きることが多いです。

そういうパワハラで会社から離れていく人間は、まじめで、責任感があって、能力がある誠実な人間ばかりなのです。
企業秩序なんて興味が無いという人間は、言われたことをやらなければならないとも思いませんので、パワハラを受けても受け流すことができてしまいます。いつ辞めてもよいやという考えがあるからパワハラなんてそれほど気にならないのです。そういう人間だけが会社に残るというのがパワハラです。

私は、会社にとって大変恐ろしいことだと思います。

3 暴力はなぜいけないのか。問題提起。

暴力はなぜいけないのか。
この問いに対してどうお答えになるでしょう。
「ダメなものはダメ」
「暴力はいけないことだということに理屈はいらない。」

私はそれも正解だと思っています。

それではどこからがやってはいけない暴力なのでしょうか。

注意しながら、少し強めに肩をもむ行為はどうでしょうか。
自分の片手で真正面から相手の肩を押す行為はどうでしょうか。
袖口を引っ張る行為はどうでしょうか。

励ますにしてはやや乱暴に背中をたたく行為はどうでしょうか。

それらの行為が、叱責することに伴って行われる場合と
部下が手柄を立てたときに賛辞を述べるときに行ったので変わるでしょうか。

4 パワハラになる基準の考え方

なぜ、パワハラを防止する必要があるか。
労働者の健康を害さないため
会社に損害を与えないため
ということから考えていけばよいです。

それをされた労働者が、反射的に防御反応に入り、萎縮したり反発したりすれば、様々な損害が企業や労働者に生じてしまいます。
それは、本能的に従いたいと思っている上司からカウンターを受けるからでした。

そうだとすれば、それをされた労働者にとって、その行為によって自分が仲間として尊重されていないと感じる行為をパワハラとしてさせないようにするべきなのです。

肝心なことは上司が、悪意がなかったとか、攻撃的な気持ちがなかったとか、不当な評価をしたつもりはなかったとか、そういう上司の気持ちはどうでもよいということです。あくまでも相手がどう思うかということです。

次に、労働者は強い、弱い、感じやすい、感じにくいなど様々な性格をしています。誰を基準として、仲間扱いをしていないと感じるかを判断するべきかということです。落とし穴は厚生労働省のチラシにありました。「平均的労働者を基準とする。」ということを言っています。私はこれはどうかと思うのです。

平均的労働者という労働者はいませんから、結局は判断する人の主観に最終的にはゆだねることになります。例えば労災や損害賠償で、裁判所が「平均的労働者ならばそこまで傷つかないはずだから、パワハラではない。」と言ってくれれば会社としてはよいのでしょうか。しかし、そういってくれるかどうかなんて、「平均的労働者がどう考えるか」ということを考えるのと同じでふたを開けてみないとわからないことです。

そもそも、会社の中でパワハラを防止するための考えです。上司が部下の性格をわからないで叱責していたなんて言い訳にならないじゃないですか。そんなことをわからないで上司は務まらないわけです。こういう当たり前の現実を、どうも厚生労働省はよくご存じではないようです。

病的な悲観的考えを持つ場合や、被害意識で仕事ができない場合を除いて、その言われた人がどう思うかということを基準に考えるべきだと私は思います。
仮に国の言う通り平均的労働者を基準にするとするならば、上司の叱責の後で、平均的に考えることができる労働者の一人が、必ずフォローをする仕組みを作っておくべきです。言われている本人は、自分を正当に評価してほしい、仲間として尊重してほしいと思っている当人からのカウンター攻撃を受けていますから、言葉を客観的に評価できる状態にはありません。だから第三者のフォローがどうしても必要なのです。

会社にとって必要な人材が流出したり、コストパフォーマンスを発揮できなくなることを防ぐためにという観点から、具体的に考えるべきです。間違っても、「平均的労働者」をパワハラ上司に都合よく考えて、このくらいならまだ「平均的労働者」ならば精神的ダメージがないはずだという風に使ってはなりません。
それでは、企業にとってパワハラ防止の意味が半減するからです。

5 3の答え合わせ

3の答え合わせは、上司ならば、具体的な部下が、それをされたことでどう思うか厳しく考えてみて答えを出さなければなりません。叱責をしながら行うことはほとんどが、相手は侮辱された行為だと思うでしょう。同性であろうと異性であろうと、相手の体に触れるということ自体が行うべきことではないということです。
賛辞の際にこそ、自分と相手との関係にふさわしい行動を心掛けるべきかもしれません。賛辞だからと言って、相手が不快に思うことをしてしまったのでは、部下は報酬体験を十分に体験することができません。また、もう一度という気持ちになることが弱くなるということを考えるべきです。

但し、パワハラであれば処分するという硬直な扱いも企業の実情には合わないように感じています。特に上司が善意である場合は、粘り強く部下の心情を説明する場面も出てくるでしょう。会社が処分するよりも、上司が部下と和解をする方が双方にとってもよい場合があります。会社としては、硬直な姿勢を取らずに、双方とよく話し合って、自分が尊重されているということを実感を持てる職場にするということが、パワハラ防止義務の根幹であると私は思います。

暴力は、それをされることによって、精神的打撃が大きいということに注目しなければなりません。自分の健康や痛みのない状態を尊重されないということは、自分という存在はそのようなことを尊重されなくてもよい存在だ、価値の低い存在だ、いつ追放されてもおかしくない存在だという強烈なメッセージになります。同僚の前の暴力は、それを第三者に表明されてしまうことですから、顔をつぶされてしまいます。もはや対等の立場で同僚と接することができないという絶望感を抱かせてしまいます。

仲間にとって価値の軽い人間だという態度表明が暴力ですから、暴力の重さとか場面にかかわらず、深刻な精神的ダメージを与える行為。だから絶対に行ってはならないということが正解だと思います。

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