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逆切れのパラドクス もう一つの愛の形 逆切れの対処方法。人間とは。大人とは。♯対人関係的危険 [進化心理学、生理学、対人関係学]


《今回のテーマは逆切れ》

家庭でも職場でもどこででも見られるのですが、こちらが善意で「こうした方が良いよ。」と言ってあげているのに、反発してくる人がいますよね。中には感情的に収拾がつかなくなってしまって、とにかくこちらを非難し始めて「それは今関係ありますか?」みたいな昔のことまで穿り出して逆切れしてくる人です。

その相手の形相を見ていると、自分の想定していた反応をはるかに超えているので、何が起きたのかわからなくなって、ぼーっとして意識が飛んだ状態になってしまったりします。

こちらには悪意は全くないのに、こちらが最初に相手を攻撃しているような反応をされると、自分はそれほど信頼されてもいないし、安心されてもいなかったのだということに気が付いて悲しくなったりもします。

こちら側がいわゆるキレている状態ではないので、なんか変ですが、「逆切れ」という言葉は妙にしっくりきます。

今日はこの逆切れがどうして起きるのかということを私なりにお話ししたいと思います。身近な人の逆切れに傷ついている方の少しでも慰めになれば幸いです。

《逆切れが無いことの方が怖いということ》

逆切れを起こされると悲しくなりますが、発想を変えてみると逆切れが起きないほうがもしかしたら悲しむべきことなのかもしれません。このことから逆切れの構造を組み立てていきましょう。

もし、こちらが相手の行動の修正要求を行ったとしても、しかもやや否定的評価を含んで要求をしたとしても、相手が全く動じないで、返事だけは調子よく返して、行動を改めないということが、一番頭にくることだと思います。無視されたということですね。

そういう無視する相手は自分と良好な関係を築こうとはそもそも願っておらず、「何言ってんだか?言わせておけばよいよ。」なんて態度なのですから、あなたとあなたを無視する人はかなり冷え切った人間関係だということになりますよね。これは「時すでに遅し。ほぼ確定的な別れの予感」だということになりそうです。

これと反対に逆切れする人は、「あなたを無視できない」ということは間違いないでしょう。あなたに対して「自分を否定評価しないでほしい。」という期待を持っていることになろうかと思います。なぜそのような期待を持つかというと、あなたと関係を継続したいと考えているからということになります。

《逆切れのメカニズム 否定評価を無かったことにしたい》

<それなら、どうしてちょっと注意しただけでこちらを攻撃してくるのか>
ということが今回のテーマです。
穏やかに暮らし続けたいというのに、なぜ穏やかな会話が成立せずに、収拾がつかないほど感情的になって、こちらを攻撃してくるのか。関係を継続したいという意図があるならば全く逆効果になる行動をするのはなぜなのかということを考えていきます。

今回の記事は前回の記事の一部を予告通りクローズアップしたものですから、まず対人関係的危険の意識の部分を9行ほど引用します。

「人間が自分を守る」というのは、身体生命を守るというだけではないということです。自分を守るということは、「特定の人間関係で(あるいは社会的に)自分の今おかれている立場・関係を維持する」ということも含まれるようです。
自分の周囲からの評価が下がる危険を「対人関係的危険」ということにします。人間は生物的危険を覚知すると防御反応を反射的に起こしますが、対人関係的危険を覚知してもやはり防御反応を起こすということを指摘しておきます。

そうして、危険意識が高まってしまうと、自分を守ることに精一杯になってしまい、冷静な考えができなくなってしまいます。生命身体の危険意識が高まった場合と全く一緒です。例えばハチに襲われてやみくもに逃げてかえってハチを挑発した形になって刺されるみたいな感じです。」
(以上引用終わり。)

要するに、相手から注意されると、逆切れする人にとっては、その人との人間関係がこれまで通り維持できなくなるのではないかという不安を感じてしまうことから始まっているようなのです。

不安を感じると、何とか危険を解消したいと思うことが流れです。ところが、危険を解消したいという気持ちが強すぎるため、どういう方法を選ぶことが一番効率よく人間関係の維持に役に立つかということまで考えることができなくなるというわけです。


しかし、
「ハチに襲われたとき、知識がなくパニックになっているならば手で追い払おうとしてしまうのもわかるのですが、だからと言ってこちら側を攻撃してくるということは理解ができない。」
と思われると思います。

要するに、危険を強く感じてパニックになるときは、「危険を無かったことにしよう。」という「結論だけ」を強く求めてしまうということなのだと思います。手で追い払い、あわよくばハチを殺してしまえば、ハチの危険が無くなるという発想です。

だから、自分失敗したり、何かを怠ったときに、それを指摘されてしまうと、自分が否定評価されたと感じ不安になり、相手との人間関係を大切にすればするほど不安が大きくなり、あなたの言葉というかあなたの自分に対する評価を無かったことにしたいという結論だけを求めるのだと思います。あたかもハチを手で振り払おうとするように、あなたの発言をこちら側の攻撃で封鎖してしまおうというようなものです。そして、あなたの発言が終わることによって、あなたの自分に対する否定評価を無かったことにしたいという結論だけをダイレクトに求めているというそういう行為になるのだと思います。

つまり、不安が高じると合理的な行動をとれなくなるということなのでしょう。

《逆切れをする人はあなたを信頼しているということ》

もう一つは、根本的にはあなたに対する信頼感があるからだということになります。
危険を感じたときの解消方法には個人差があります。逆切れする人は危険を感じると妙に興奮して攻撃的になる人ということですが、対照的に悪く考えてしまって委縮してしまうタイプの人がいます。いわゆる「ため込むタイプ」の人ですね。「ため込むタイプ」の人は、そのまま委縮して死ぬまで恨み続ける人と、ある時大爆発してしまい致命的な別れになる人といるということが夫婦問題を扱う弁護士ならばよくわかると思います。「ため込むタイプ」の方が深刻な危険が伴います。

だから一見安定した関係に見えて実は潜在的に爆発のカウントダウンをしている「ため込むタイプ」の人よりも、小規模爆発してこまめに逆切れする人の方が、結果的には安定した関係を保てるということになります。

相手が本当に怖かったら逆切れはできません。動物園から逃げ出したトラと遭遇して、「あんたは檻の中にいなさいよ。なんで出てくるのよ。」と逆切れする人はいません。本当に怖いからです。
逆切れしてくれる人は、あなたを致命的に怖い人だと思っていないということになります。本当のDV事案の場合、逆切れはできません。だから精神がむしばまれていくのでしょう。小出しに逆切れしてもらうことは、現実的には相手も健康的な人生を送れるということなのかもしれません。

つまり、逆切れをする人はあなたが怖いわけではなく、あなたとの人間関係が壊れるのが怖いということなのです。対人関係学的に言えば、生物的危険を感じて行動しているのではなくて対人関係的危険を感じているということです。

《逆切れの対処方法1 対処療法》

それにしても怒りを表明してなかったことにするようなことは、実際には困ります。大事な事務連絡もできないということにもなりかねません。どうすればよいのでしょう。

逆切れはあなたとの関係に不安になっているのだから、あなたとの関係に安心してもらうことができればよいわけです。
応急措置的な方法としては、相手からすれば否定的なニュアンスを述べられると感じる事務連絡の場合は、「まずほめる。」、あるいは「まず感謝する。」、はたまた「まず謝罪する。」というプロセスを踏んでから、修正要求をエレガントに提示するということが鉄則です。もちろん、「どうしてこんなこともできないんだ。」というあなたの本音は一ミリも顔に出してはいけません。特に眉間のしわには注意しましょう。

まず否定評価の逆、肯定的評価を言ってから、「こちらは仲間として否定しているわけではないですよ。」ということをアッピールしてから、事務連絡を事務連絡らしく伝達するということなんです。これは結構うまくいきます。

しかし、大事なことは仲間として尊重することであって、まずほめればよいというわけではありません。だから、「あなたは、洗濯物を干すのは上手だけど、料理はまるっきり下手だから何とかしてくれよ。」ということはだめですよ。
何がだめって、否定の仕方が抽象的で、改善の方向が見えないからです。料理のバリエーションを広げてほしいのか、塩分をもっと多めにしてほしいのか、味付けが和洋逆転しているということを言いたいのか、相手に何かをしてもらいたいときは、大人の場合は、具体的にお願いするべきです。

なんだか不満だから何とかしてくれよと言って許されるのは赤ん坊だけです。抽象的な不満の提示は、単に相手を攻撃していることになります。サイコパス的傾向のある人は、特にここが大事ですから、くれぐれも理解して覚えてください。

では、対症療法ではなく、根本的に自分との関係を安心してもらうためにはどうしたらよいのでしょうか。それはどうして自分との関係に不安を持つかその原因がわかれば対策を立てやすいです。

自分に原因があるなら幸いです。自分の行動を改めればよいからです。
相手に不安が生まれるのは、仲間として尊重しないから、否定的評価をするからと言いました。わかりやすく言えば、ダメ出しばかり、小言ばかり言う場合ですね。やることなすこと否定ばかりされていたのでは、客観的にはそれが正当でそれほど大規模なダメ出しでないとしても、息が詰まっていきます。不安を感じる前に、嫌気がさして分かれていこうと考えるかもしれません。

案外気が付きにくいのは、否定することではなく
「肯定しないこと」
かもしれません。仲間であれば当然感謝されるとか、褒められるとか、謝罪されるべき時、手を差し伸べられることを期待するとき、なにもされないということは、蓄積すれば仲間として扱われていないという対人関係的危険の意識を強く感じさせてしまいます。

例えば髪型が変わったら、例えば花を買ってきて飾ったとか、例えば新しいワイングラスを買ってきたら、そういう時「いいね。」と言いさえすれば安心するのに、言わなければ不安になるということです。「良いと思わなかったから言わなかった」というのは子どもの論理です。良いからいいねというのではなく、大人は相手を安心させるために「いいね。」というものとのことです。大事なことはあなたの心ではなく、相手の心です。相手が喜ぶことによってあなたは幸せになれるわけです。それが家族なのでしょう。
ここで、どうでもよいダメ出しをするのが子どもじみたダメダメの人間なのでしょう。(もっともあまりにも変で、常識にも欠けるような場合は、細心の注意をもって、まず肯定してから注意することも大切です。但し、難からの事情で、明らかにそのことに本人が気が付いていないときに、選択肢として指摘するということにとどめておくことが無難かもしれません。)

効率ではなく、相手の心、安心感を大切にするということだと思います。

《対人関係的危険を感じやすい人、あるいは不安を感じやすい条件》

もっともこの対人関係的危険、不安の感じやすさや、反応については、逆切れを受けた相手に責任がなく、逆切れをする本人の個性によるところが多いようです。困ったことに、対人関係的危険を感じやすい人という人はいて、やみくもに危険を強く感じてすぐに防御態勢を取ってしまうことが多いようです。

生まれつきということもあるでしょう。
また、その人の育った生い立ち、体験、記憶に原因がある場合があるようです。
さらには、体調の変化によって対人関係的危険を感じやすくなることも多くみられます。

体験、記憶により危険意識が強くなる場合もあるようです。

結構多いのが厳しすぎるしつけです。
この厳しすぎるしつけは、犯罪を誘発する場合もあるほど深刻な影響が子どもに生じる場合があります。何をしても親から否定ばかりされて育った子どもは、自分に対する自信が持てなくなることがあります。「どうせ自分なんて」というあきらめが常に先に立ってしまいます。そうすると、相手が何か言うと、その言葉が自分を否定する言葉のように聞こえてくるようです。どうせ自分なんて尊重されないという悲観的態度がまず先に立つようです。しつけがさらに厳しく子どもの自由意思を制圧する場合は、逆切れは起きにくく、「ため込むタイプ」のうちの自滅するタイプになってしまいます。子育てというものは難しいとつくづく感じます。親は、いっそのこと子育てを勉強せず、信念も持たず、場当たり的に子育てをした方良いのではないかと考えることもあります。

最近の逆切れ型の離婚紛争事例では、実は相手は小さいころにいじめを経験していたという例を多く聞くようになりました。
例えば妻がいじめを受けていたとすると、夫の発した何気ない単語が、あのいじめを受けたときのきっかけに遭遇した時の気持ちをよみがえらせて、かなり感情的になってしまうということがあるようです。「またあの時と同じように絶望の一歩手前の孤立に陥れられる」という強烈な不安が沸き起こるようです。

幼少期のいじめだけでなく、再婚の事例で前の夫の暴力があったことが何らかのきっかけで思い出されて、今の夫から暴力を受けているような錯覚をしたり、誰かに苦痛を訴えるときに今の夫から暴力を受けていると言ってしまったりという形で現れることもありました。相談を受けるほうは、実際にあったことなので、リアリティーのある話なので、信じてしまうのです。でも、それは今の夫ではなく、離婚した過去の夫との体験でした。端的にPTSDだと思うのですが、相談を受けるほうはそのことを知りませんので、今の夫が暴力夫ではなく殺されるから逃げろと指示してしまいました。また、つじつまが合わないと正当に判断した精神科医も、妄想性障害か統合失調症だと判断してしまったようでした。誰かが夫から事情を聴いて、夫の言い分を信じていたら、きちんとした治療がなされて親子での生活が維持できていたはずでした。

これらのケースでは逆切れなんて言うかわいらしいものではなく、病的な錯乱状態になることがあります。逆切れした本人も何が起きたのかよくわからないし、自分の感情が高ぶった前後の記憶が無くなっているということも結構少なくない事例で見られます。

パワハラや職場での理不尽な対応も夫婦関係に深刻な影響を与えます。人間はなかなか職場の人間関係を職場で完結させることができず、家庭の中まで引きずってくるようです。
職場によっては、やることなすこと上司から否定されるという職場があります。「言われなければ何もしない。」と言われるので、自分の頭で考えて行動してみると、「なんで事前に相談しなかったんだ。なぜ途中で報告しなかったんだ。なぜ連絡しなかったんだ。」等と、何でもかんでも全否定されるということがあると思います。そういう叱責は会社なんだから当たり前だと思い込まされるわけです、上司が場当たり的に叱責しているだけなのに、状況に応じて行動できない部下が悪いと思い込まされているわけです。こういう会社はいつまでも続きません。生産力が上がらず縮小再生産をするしかないので、競争が始まればあっという間に消えてなくなるでしょう。
それでも、無能な上司の話を真に受けて自分は役に立たない人間だなどと思い込まされています。その気持ち(自分は他人の役に立たない人間だ)を引きずって家に帰って、子どもからネットゲームの課金をするからお小遣いくれよなんて言われると、十分小遣いを渡せないダメな父親なのか(父親としても役に立たないと子どもから言われているのか)と瞬間的に悪くとらえてしまい、気が付いたら逆切れしていて子どもがおびえていたなんてことが起きるようです。

取引先から理不尽な苦情を言われたりするような体験が重なると、自分は「どの人間関係でも理不尽に扱われる」のだという悟ったような気持になり、何の悪意のない夫の態度が嫌味な取引先の人間と同じ行動であるように感じられ、「自分はやがて夫からも捨てられる」というような、ちょっと他人ではついていけない思考になってしまうことが現実にはよくあることなのです。

夫の態度とは直接は関係ないのですが、こういう場合は「ため込むタイプ」となりやすく、よりによって夫に対して突如大噴火するパターンの行動を起こしやすいようです。会社では爆発できないから実際は夫が八つ当たりされているような印象を受けることがあります。

生い立ちを含めた人間関係という環境が、気持ちに大きな影響を与えるというパターンでした。

それからどうしようもないのが、体調の変化です。
うつ病が悲観的傾向になったり、考えることができなくなっていく症状が現れることはよく知られたことです。
全般性不安障害も、本来原因が無くて不安が起きる症状ですが、とりあえず原因を妻が夫にとか特定の人間に求めてしまうということが起きることがあります。この診断名が付くケースは結構多いのですが、こういう場合の逆切れは、本当に脈絡がなく、あっけにとられることが多いようです。
産後うつの場合も同じようなケースが多いのですが、出産の心理的影響についてはまだまだ良心的な調査と知識の共有化が進んでいないと感じています。
交通事故などの頭部外傷の事例もありました。
内分泌系の疾患や婦人科の病気も逆切れの原因となる不安を起こさせます。しかし、この点についても、生物学的な研究はなされているのですが、生活や人間関係に対する影響について調査研究が行われていませんし、予め患者に注意する医師も圧倒的に少ないと離婚事件を担当していると感じています。

生まれつきというよりそれまでの人間関係という環境的問題と、何らかの精神的問題、あるいは相互作用によって、対人関係的危険意識が出現しやすい状態になるということがリアリティーがあるようです。

《対処方法2 逆切れされる方に主たる原因が無い場合 人間とは何か》

性格だったり、体験の記憶だったり、疾患だったりが原因で逆切れされる場合には、逆切れをされた方としては、相手の不安に対して対処をしようがないように思われます。この場合は、カウンセリングを受けるとか治療を受けることがもっとも有効な方法となるでしょう。しかし、普通のご家庭の心理士でも医師でもない人にとってはお手上げになってしまうと感じられると思います。

私は、恐らくそうではないのではないかと考えています。すっかり、本人が対人関係的不安を抱かないようになるまで解決を先延ばしするものではないと思うのです。

私は、家族という人間関係は、家族の数と同じくらいにそれぞれ条件が違うのだと思います。対人関係的危険を感じやすい人、感じにくく安心しきっている人、それぞれの組み合わせ程度は無数にあるわけです。

それでもすべての家族について言えることとして、家族は、正確に言えば家族の中の大人は、自分以外の家族に対して対人関係的危険を感じにくくさせる働きかけをするべきだと思うのです。

一つの理由は、人間が他の小動物に比べて長生きするのは、生理学的に家族の力が大きいということ
もう一つの理由は、実は人間に限らず霊長類全般は、群れを作ることで群れから外されることの不安を自動的に感じているのであり、群れである以上は相手を安心させる役割を担っているということからです。

まず、第1の生理学的意味について説明します。
家族という仲間の目的は生理学的に言えば、癒しです。人間は大体が昼間に交感神経が活性化して活動的になり食料を探しにでかけるのですが、食料を捕獲するときも緊張をしますし、肉食獣に襲われて逃げるときにも緊張をします。緊張をすることは目的を果たす活動をしやすくしますが、血管など体の部分が傷つきやすくなります。ところがうまくできていて、夜になると交感神経が鎮まり、副交感神経が活発となり、昼間の緊張で傷んだ血管などをメンテナンスしやすくしているそうです。細胞の一つ一つに体内時計を持っているとも言われています。

そうだとすると、夜は家族のもとに帰ってきてリラックスすることで、副交感神経を高めることによって、このメンテナンスがうまくゆき、その結果人間は長生きできたということになります。帰るべき場所は、ただのスペースではなく、副交感神経を高めるリラックスをする場所であることが人間の生理からも求められているのです。家に帰ってからの方が緊張するのでは、メンテナンスはうまくいかないでしょう。今、その群れに相当するのは家族です。家族は一緒にいて安心できる関係であることが人間の生理からも求められているということです。

自分が家族から一方的に恩恵を受ける立場というのは子どもの時代だけです。大人として家族の一員である以上、家族を安心させるのが大人の務めです。家族が安心すれば逆切れもなくなり、自分の気持ちもより安定する結果となるわけです。

もう一つの理由霊長類全般の話です。おそらく知能が高度に備わり、将来のことを推定できるようになったこと、また、群れを作りたい、群れの中に安住したいという本能があったことから、特にきっかけもないのに群れから外されるのではないかという不安を抱くようになったものと推測しています。そして自分の行動や考え、発言を否定的に評価されることは、この群れから外される予感を意識をしないまま強烈に発動させてしまっているのでしょう。

霊長類全般は、群れの仲間の不安を鎮めるために、相互に毛づくろいをすると言われています。人間には体毛が少ないですから、言葉によって相互に安心をさせようとするという説があります。(Robin Dunbar)
本来、人間は、自分の群れの仲間を安心させるようにできているし、仲間も安心させてほしいと望んでいるということになると思います。この望みがかなえられなくても不安になってしまうのでしょう。

先ほど言いましたが、家族は人それぞれ条件が違います。性格的に不安になる人、不安になるような体験をした人、家族になってから体調面に変化が生まれる人それぞれいます。

考え方としては、安心の程度を求めるということは無理があるということです。安心指数みたいなものがあって例えばその指数が68以上でなければならないというように考えてしまうと、個体差を無視した非科学的な考えになってしまいます。
おそらく、具体的に安心させようとお互いに働きかけを行い、より安心できる環境、家族という人間関係を作ることが人間としての生きる意味だと考えるべきではないでしょうか。そしてそれが多くの人には家族だけれど、人によっては友人関係だったり、職場だったり、様々であってよいのだと思います。ただ、基本は家族だと私は思います。家族を大切にすること、家族をより安心させようとすることこそ人間らしい行為だと思います。

安心させる方法は、相手の不安が仲間から自分だけ孤立させられるのではないかとい根拠のない不安だとすると、そうではないというメッセージを発信し続けるということになります。

具体的には、その人間関係、家族なら家族に対して、「私は絶対にあなたから自分で離れようとはしない。絶対にあなたを見捨てない。」という言動によるメッセージを発することなのです。そして、不安は病気や特別の体験が無くても、人間である以上不安になるというのであれば、何度も発信するべきだと思います。つまり、人間は対人関係的危険を特にきっかけもなく感じる動物であるならば、仲間の対人関係的危険による不安を鎮めるのもまた人間の営みなんだと思うのです。

そのためには、孤立につながるような否定評価がなされるという危険が高まる場合の、家族(仲間)の失敗、不十分点、弱点を批判しない、責めない、笑わない。自分が援助する、代わって行うということを相互にやることだと思います。
その上で、仲間として当たり前の行為を行う。そして、仲間であれば当然に褒められたり、慰められたり、感謝されたりする場合は、褒めて、慰めて、感謝するということが人間らしい行いになると思います。

例えば夫が原因で妻が不安を感じる場合だけでなく、特別な出来事を体験したり、精神に影響を与える病気がある場合も、やることは同じだということなのだと思います。

日々これを行う。日々仲間を大切にする。これを面倒くさがらずに行うということが人間の大人なのだろうと、こういう考えもあるのではないかと考えています。

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