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「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」(マタイによる福音書5章)の非キリスト者の対人関係学的解釈 「人パンのみに生きるにあらず」との一体性といわゆる無抵抗主義との違い [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

本記事は、非キリスト者による解釈です。教義の正しさを主張するものとは次元を異にします。非キリスト者も人類の財産である聖書、キリストの言葉から多くのことを学び人生を豊かなものにすることを意図して書かれています。
表記については、今日インターネットでたまたま検索出来たものをそのまま引用させていただいています。

さて、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という新約聖書の言葉について、世間には様々な解釈があるということを知って驚いています。もっとも、様々な解釈があるのは世俗の話だろうと思いますが、いかんせん礼拝に出席したことも数えるほどしかない身としては、宗教的にはどう正しく解釈されているのかはよくわかりません。

何かの拍子でこの意味について調べようと思いたって、マタイの福音書第5章を読んだところ、やはりこれまで私が漠然と考えていたことでよいのではないだろうかという思いが強くなり、これは対人関係学が力を入れている内容と強く重なるところだと思って、雑感のようなものをご紹介しようと思いついたというところです。

さて、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というと、文字通り読めばかなり自虐的なことを言っているようで衝撃を受けますが、ガンジーやトルストイのいわゆる無抵抗主義と関連付けられて説明されることもあるそうです。しかし、聖書は、確かに印象的な言葉が有名になり、非キリスト者である私たちも知るところになっているのですが、前後の文脈がきちんとあるのですからそれを読まないと始まりません。これは論語の解釈でも同じように感じています。

マタイの福音書の5章は、「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである。」というこれまた有名な言葉から始まるイエスの山上の垂訓と呼ばれる一連の説教の始まりの部分です。
ここでは、天国とは何かということを述べるとともに、地上においても天国と同じように生きることの大切が語られているように私は受け止めました。
あまり知らないことを知ったかぶりして話して間違ったことを述べることが心配なので、結論を端的に述べましょう。

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という言葉の意味ですが、これは前後の話の流れからすると、
「決して怒りを持つな。」
ということが述べられているように受け止めたのです。

怒りは神の国には無いということが大きな教えであり、怒りによって人々の苦しみは増していき、人間社会を悪くするということなのだと思います。神の国にたどり着く前でも、神の教えに従って生活することにより、幸せを感じ、人生を豊かにすることができると教えているように感じるのです。そして、そのような神の言葉の実践者が地上にあふれれば、限りなく神の国に近づくことができるということを言いたいのではないだろうかと感じました。

この意味するところは、その前の4章でキリストがモーゼの言葉を引用し、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と言ったことと連続性があると思うのです。

人は、生命身体の安全だけを気にかけて生きるのではなく、神の言葉ので生きる、つまり、人間としての生き方が人間として生きるためには決定的に大切なのだと述べていることと連続している内容となっているということです。この神の言葉がキリスト教では「信仰」であり、対人関係学では「仲間とお互いに尊重しあって生きる方法」ということになるのだと思います。対人関係学の目指す価値観は、聖書からも多く学ぶことができるということになるのだと思っています。


そして怒りを持たない方法として、自分の利益、財産、損得にこだわらないことということなのだということが明かされています。この象徴、比喩として「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と述べられているのではないかというのが私の感想です。「右の頬を殴られたからと言って怒り狂うな。そのためには、左の頬も差し出すくらいの心構えでいることがコツである。」というような意味なのだと思います。

旧約聖書との違いが言われているようなのですが、詳しくは考察できていないのですが、時代の推移による人間のコミュニケーションの拡充と希薄化を受けた表現の違いの可能性があるとにらんでいます。

この私が勝手に解釈した聖書の教えは、弁護士として人間関係の紛争にかかわるとつくづくその通りだと感じているところです。自分を守ろうとする思いが強くなってしまって、最も大切な仲間とさえ疑心暗鬼を抱きあってしまうことが人間関係の紛争の芽には必ずあります。そして、その自分に対するこだわりが、紛争を鎮める方向とは全く逆の拡大する方向のエネルギーになってしまい、それがまた怒りの炎を高ぶらせて、収拾がつかなくなってしまう。そして、誰も悪くないのにみんなが傷ついて、他の人たちにも怒りと悲しみが広がっていってしまう。こういう人間模様に繰り返し立ち会っています。

怒らないで冷静に考えることをアドバイスするのですが、なかなか功を奏しません。うまくいく場合は「教科書通り!」というようにうまくいくのですが、なかなか自分の怒りの原因に気が付くことも少なく、怒りにも気が付かない場合も少なくありません。
もっとも、なかなかうまくゆかないということは、我が身を振り返ればよくわかることです。そういうことに気づいていながら、つい自分を守ってしまう。自分を守るために、大切な仲間に怒りを向けてしまうということに気が付いて、今も愕然としているところです。

どうすればよいのでしょうか。
あきらめて無抵抗となればよいのでしょうか。私はガンジーやトルストイの思想というものについてはほとんど知りません。無抵抗主義という言葉が何を意味しているのか正確なことはわかりません。でも、現実に対して働きかけないという意味ではないと思っています。それはガンジーやトルストイのように理想を掲げて理想に向かって行動する生き方とは矛盾するからです。

それではどうしたらよいのでしょうか。
私の一つの結論としては、
「怒らないで考える」
ということを意識し、追及することだがするべきことなのだと思います。怒ってしまうと、思考力が減退し、悲観的な思考、二者択一的な思考が頭を支配していきます。また、怒りは他者を自分から遠ざけていくものです。合理的解決にはまっすぐ向かいません。

では怒らないためにはどうするか。
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」
がここでも生きてくるのだと思います。

怒ってから、怒りに気が付いて自分を抑制するということは至難の技です。怒りに気が付くこと、怒りを抑制することという二つの高いハードルがあります。
そうではなく、怒りを覚えるポイントの出来事があったら、自分が怒っていなくても(怒りを自覚していなくても)、自分を守ろうとすることをやめようとするということをするべきなのかもしれません。

自分が傷つけられたら
乱暴にされたら、
否定評価を受けた場合、
言いがかりをつけられた時、
顔をつぶされたとき
立場がなくなったとき、
一方的に攻撃されたとき、

こういうような時、自分を守ろうとすることをやめようとする。左の方も差し出す。むしろ自分は、もっと否定されても仕方がない人間だと自分を戒める。しかし、それで終わってはだめです。考えるのです。
どうして自分が攻撃されるのか、自分が受けた迫害には理由があり、そうされなくて済ませるためには方法があったはずだ。
同じようにこれから将来に向けてそれを改善するためには方法があるはずだ。
自分に与えられた役割を果たす方法があるはずだ。
と考えていく。こういうことだと思います。

私のような未熟なものは、絶えず、人間がどうしたら怒るのか、傷つくのか、不安になるのかということを考え続けて、自分を守ろうとせず、仲間を守ろうとすることを修行し続けなければいけないのだろうと覚悟を新たにしました。

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