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夫婦間の八つ当たりに関する考察 八つ当たりの構造と対処方法 ここが人間関係が終わりに向かう方向に行くか安泰な方向に行くかの分かれ道 かもしれない。 [家事]



八つ当たりされることはとても理不尽なことです。頭に来ます。それは当然です。道徳的にも罪のない人に八つ当たりすることは許されないことだと私は思います。八つ当たりされれば、断固として八つ当たりを拒否するということは当然のことのように感じられます。

しかし、その先のことを考えた場合、その考えのまままっすぐ行動することは果たして妥当であるのでしょうか。妥当性の基準については人それぞれなのですが、その基準も含めて検討してみます。

<なぜ人は八つ当たりをするのか。>

職場で嫌なことがあったとします。職場で部下から嫌味を言われたとか、上司がミスを自分に原因があるかのように言ってきたとします。

部下から嫌味を言われることは本当に嫌なことで、部下のくせに上司に嫌味を言うならやめちまえと言いたいところです。しかし、昨今の人権意識や自分が上司に嫌味を言うという嫌がらせをしたことが無いので、どう対処してよいかわかりません。逆に上司から不当な攻撃をされた場合は、善良な私たちは、反論どころかそれは理由のない評価だということもできませんが、このまま黙っていたら評価が下がってしまうという不利益を受けます。何よりも自分が上司として、あるいは従業員としてこのまま職場の人間関係に安住できないのではないかという不安を感じるようになります。それを自分でうまく処理して、部下や上司にはっきりものをいうということができればよいですし、気の利いた同僚が一緒に反論してくれないまでも、何も悪いことは起きないよ、安心していてよいよと言ってくれるならばまだ救われます。しかし、それらの事情が無いと、モヤモヤした感情を抱えたまま帰宅するわけです。

当たり前の話ですが人間は無意識にこういう不安を抱くと解消したいと願うわけです。無意識というのは、かゆいところを搔き始めてから「ああかゆかったんだ」と気が付くように、意識に上る前に行動するということで、これは生き物の仕組みとしてよくあることです。

帰宅早々突然八つ当たりするというよりは、最初はこういう嫌なことが職場であった等と話すことから始まるのかもしれません。夫婦間で「ひどいね。でも大丈夫だよ。」とか言ってもらうこともおそらく多くの場合で行っていると思います。その家族の慰めは少しは気持ちを収めることができるでしょう。しかし、しょせん職場の人間関係の話を職場外の人に慰められても、効果はそれほど期待できません。ああ、そうか気にする必要はないかと思えれば良いのですが、また明日職場に行ったら後輩からはなめられて指揮命令ができない、このままでは上司失格と言われるのではないかとか、上司から理不尽な評価を受け続けると思えば、それだけで嫌な気持ちになり、一度落ち着いても何度でも再燃してしまうでしょう。

こういう時、これまでの人生経験で、誰かを攻撃して自分の優位を感じることによって、それまで持っていた不安を解消できる(一時的ですが)ということを学習している人は、つい誰かを攻撃して不安を解消しようとしてしまうことがあります。これも無意識に行っているという方が近いと思います。

程度によって、八つ当たりというかわいらしいものから、虐待、暴力と呼ぶべきものまで様々です。(暴力による八つ当たり、全く逃げ場を奪うような八つ当たりは許されませんので、ここでは考慮外とします。)家族に対する八つ当たりは大体このような流れで起きるようです。家庭に反映されてしまう他の人間関係でのストレスは、職場がダントツなようです。あとは、夫婦の一方の実家である親、兄弟とのトラブルが続くでしょうか。子どもが親に八つ当たりする場合は、学校の友人関係が多いかもしれません。

ただ、一般の人たちは、八つ当たりというのはむやみやたらに誰にでもするわけではありません。(町で出会っただけの人に八つ当たりをする人もいますが、それは犯罪として警察に通報されることも多いかもしれません。)

<なぜ八つ当たりの相手が家族なのか>


八つ当たりする場合でも、誰に言うかということは実際は計算して行っているのです。これも意識に上る以前の思考ともいえない脳の作業だと思います。八つ当たりをする相手とは
・ 自分がその人に八つ当たりをしても致命的な反撃が来ないだろう相手
ということになります。
極端な話をすれば、見るからに怖そうな人に対して八つ当たりをするということは無いと考えてよいでしょう。その逆というとこういう人ということになるはずです。
即ち、ある意味信頼をしている相手であり、ある程度の甘えは許されるはずだと感じている相手ということになります。子どもが親に対して八つ当たりをするのはこれでよく理解ができると思いますが、夫婦間の八つ当たりも同じだと思います。
それから、八つ当たりをしたいときに身近にいる人という条件も満たす相手が家族ですね。

<八つ当たりだと気が付く方法が必要>

八つ当たりをされた方は、初めは八つ当たりをされたことに気が付きません。
なぜなら、八つ当たりとはいえ、「その人に対して怒っている」という体裁をそれなりに整えて攻撃をするからです。それにしても唐突で、理不尽で、理解が難しい怒りが自分に飛んでくるので戸惑ってしまいます。それよりも、自分が前々から気にしていることにピンポイントで攻撃してくる場合の方が頭にくる割合は高く大きくなるでしょう。

言われている方が八つ当たりの背景を知らない場合は、八つ当たりだとは思わないで、原発的に自分を攻撃したくて野生の怒りを向けてくるのだとしか考えられません。これを真に受けてしまうとただ単なるけんかが始まってしまいます。

厄介なことに、初めに八つ当たりを仕掛けた方は、そういう最後の砦のような相手とけんかをすることによって、新たな不安が芽生えてきますから、ますます不安が増大していき、ますます攻撃力を高めないと不安に押しつぶれそうになり攻撃は増強して収拾がつかなくなっていくことになるわけです。

<八つ当たりであることに気が付く方法試論>
・ 今この時に怒りが表明されることが唐突であること 理由が何であれ
・ 言っている怒りの原因に比べて怒りの程度が不自然に強いこと
・ 言っている怒りの原因に比べて、否定の表現がえげつないこと
・ いつもは怒らないことで怒っていること これまで我慢して言わなかったと言っているとしても
・ 家族外の人間関係で不安になる出来事があったという情報
・ 相手の体調 相手が女性であれば怒りが表明された時期
こんな感じでしょうかね。

<八つ当たりだと気が付いた時に考えること>

第一にこれは八つ当たりであると認識する。

⇒ 攻撃の理由は胸に刺さるが、本気で相手は言っているのではないことを理解する。いちいち真に受けないということですね。これが、言われていることがもっともな場合は、「以前は口ではそんなことは気にしないと言っていたのに、本当はそう思っていたのか」と思いたくなるのですが、非常時であるために、相手は何か攻撃になりそうな材料を総動員して攻撃しているだけですから、「本当にそう思っている」とは言えないので、頭ではそう思いましょう。

⇒ 真に受けないということは、まともに反論する「必要」は無いということを理解する。本気で言い訳をする必要はなく、外形的に相手をすれば足りる。「それはちょっと言い過ぎではないか。」とか。何も相手をしないというのも、あまりよくないということがややこしいところです。確かに、相手の攻撃によって、精神的ダメージを受けているということは示したほうが良いと思います。

⇒ 罪悪感を持つように誘導する。悲しそうな顔をするとか、うなだれるとか、斜め下を向きながら寂しそうに微笑むとか。ある程度抵抗した後は、それぞれのご家庭の方法で、敗北を宣言して相手に勝利を譲ってあげる形を作るということですね。 この理不尽さについては後に考えましょう。

⇒ 相手が収まったら、何事もなかったように日常を再開する。テレビを観たり、家事をしたり、本を読んだり。もちろん相手に対して平時の口調で話すということですね。ここが一番のポイントだと私は思うんですね。どんな失敗をしても、家族はその人を見捨てないという強烈なメッセージになって、安心の記憶として蓄積していくようです。そして、職場でどんな不遇なことがあっても、家族はみすてないこと、いざとなったら退職するという選択肢があるということを態度で告げることになるようです。人間は複数の人間関係で生きているわけですが、一つの人間関係のトラブルにすぎないことも自分という人間の属性だと勘違いする場合が多いのです。重要な人間関係とそうでも人間関係を区別してもらって、自分には最重な人間関係に守られているという安心を感じて対処できるようにサポートするということです。

そして、不安の本命に一緒に取り組めれば良いのですが、この場合、方法論より共感を主とするべきです。根本的には、職場にいるより家でがっちり安心してもらえばよいというのも一つの根拠だと思います。


<八つ当たりの真の原因に切り込む>

例えば部下から嫌味を言われている場合は、
部下のくせに上司に嫌味を言うなんて何様だと思っているのかねえ。
部下から嫌味を言われたら、否定されているような馬鹿にされているように感じてしまうから、やりにくくて仕方ないよね。不気味でもあるね。
と、なぜ不安を感じたかを短く言い当ててあげることはとても効果的のようです。後は、「自分の上司に相談する」程度のことで方法論は終わりにした方がよさそうです。

例えば上司から不当評価を受けたとすれば
上司の役割をはたしていないね。上司がきちんと仕事をしなければこっちはやっていられないね。それは悔しいねえ。私から上司に言ってやりたいくらいだよ。
くらいな感じでしょうか。

<八つ当たりを大切に扱う理由>

ところで、「そんなことはおかしい。八つ当たりなんてやってはいけないことだ。今後の生活のこともあるので、八つ当たりをやめさせるためにガツンと決着をつけなければならない。我慢するなんて不合理だ。」という考え方ももちろんあるわけです。というか、普通に考えればこの考えに基づいて行動することになると思います。

人間は何のために生きるか、人間の役割は何かと言う問題だと私は思うのです。だから様々なご意見があるのも当然です。私がここで最後に述べることは、では、その考えのまま突き進んだらどうなるかということのシミュレーションです。

八つ当たりと分かった。⇒ 八つ当たりは許されない。⇒ 全力を挙げて八つ当たりを阻止するべく反撃をする。⇒ 相手を論破ないし論理的に制圧する。⇒ 勝利。

でも家族ですからそのあとまで共同の人生は続くわけです。

八つ当たりをした本人からしてみたらどう受け止めるでしょうか。
非難が阻止された。(本人は八つ当たりだとは自覚していません)⇒ 自分の提案は、(八つ当たりされた)相手に原因があるため、これを指摘して改善させてあげようとしてのことだから自分は正当な行動をした。(攻撃のための「体裁」が独り歩きを始めるわけです。)⇒ 相手は自分が悪くても謝らない人間だ。⇒ 相手はこちらに落ち度が無くてもすぐに感情的になり、自分が降伏するまでこちらを攻撃してくる人間だ。

さらに、会社の問題は解決不能の問題であり、自分は会社でも家庭でも苦しみ続けなければならない存在なのだ。つまらない人生だ。会社でも家庭でも相手に恵まれなかった。やり直して穏やかに生活したい。

こういう流れがむしろ現実的だと言えるのではないでしょうか。

<八つ当たりは本当にやってはいけないことなのか>

おそらく、八つ当たりを阻止することは正当なことだという私たちは、とても道徳的で、正義感に満ちているといえるのでしょう。阻止ができたということから行動力もある人間なのだと思います。社会的には評価されるべき人物像なのだと思います。

でも、それだけです。

それでよいならばそれでよいし、そもそも八つ当たりなんてしない人と夫婦となり、相手も八つ当たりなんてされないような職業についてもらえばよいのだろうと思います。しかしそれは現実的なのでしょうか。そう言う人をどうやって知ることができるのでしょうか。またもしかしたら、相手が八つ当たりをしないのは、あなたが信頼できない人で、甘えることができない、心を開くことができない人だと思っている可能性もあると思います。

それで幸せならそれでよいかもしれません。

妥協や自分を傷つけることよりも孤立を選ぶというならば、それは生き方の問題ですからそういう生き方もあるのだなと思うわけです。

ただ、多くの人たちは、原因が自分にあろうとなかろうと(大体は双方に原因というか修正ポイントがあるのですが、)、別離があると、精神に著しい影響が生じるほど、つまり自分で自分の感情を持て余してしまうほど、精神的ダメージを受けるものです。臨んだ離婚が成立しても、心にぽっかり穴が開くということも多く目撃しています。ましてや、一方が二人の子どもたちを連れて出て行ってしまうと、他方はかなり精神的に追い込まれます。そして当初は、相手に対しての怒りを持っている人たちも、「自分にも修正するポイントがあったのではないか。それができなかった理由は何か。」ということを考え始めて、相手に対する攻撃が無くなるころになると、逆に穏やかな日常を送ることができるようになるように感じています。

自己中心的で、こちらに何の配慮もしない相手だと思って、敵対心を持ってしまったことに気が付くようになります。

そうです。相手の八つ当たりこそ、自己中心的で他者の感情を配慮しない象徴的な行為です。これが道徳に反すること、八つ当たりをする人の人格を貶めること、一定程度こちらに精神的ダメージを与えることは間違いありません。しないに越したことはないのです。

でも、そんなに向きになって否定しなければならないことなのでしょうか。家族の中で、多少の八つ当たりがあったとして我慢することはそんなに屈辱的なことなのでしょうか。また、もしかしたら、それに対して余裕をもって鷹揚に対応できないのは、八つ当たりされる方が家庭外での原因で不安感を抱いていて、八つ当たり予備軍だったということはないのでしょうか。

わたしは、夫婦問題を多く担当していく中で、特に男性があまりにも正義や論理や合理性、あるいは公平という理屈で相手の人間を評価していることに少しずつ違和感を抱くようになりました。これは我が身を振り返って、自分もそういう側面が強いということ、これを徹底して家族を寂しい思いをさせたという振り返りができたことにも関係をしているように思えます。また、そういう論理で家族の中にいると、自分が傷つくことが多いということも身に染みて感じるようになりました。

暴力とか逃げ場のない追い込みはだめですが、多少の八つ当たりは家族なのだから仕方がないと思えるほうが結局幸せになるのではないかと思い始めているのです。これが幼い子どもなら親に対して、八つ当たりするなとか、自分が安心して暮らせるように親のエゴを子どもにぶつけてはならないというならそれは正論であるし、そうするべきであることを疑いません。

しかし、夫婦という大人同士の関係で、あたかも赤ん坊が親にしてもらうように相手に自分に対する態度を要求するっていうことは、それも自己中心的だと言ってもよいのではないかと考え始めています。人間はいろいろあるし、特に家庭の外のことで言いたいことも言えないで理不尽な思いをしている場合があります。八つ当たりをしたくなる事情が大人にあります。それにもかかわらず、生身の人間に対して、家庭で、夫や妻と接する場合は、不安をすべて忘れて自分の相手をしろということは、やはり無理があるのではないかと思ってきたのです。

つまり人間の行動の評価の基準は、家庭とその他の他人同士の人間関係と、基準を別にするべきなのではないかという考え方です。

家庭の中で許しあう関係は、仲間としての関係を心地よく強化していくでしょう。相手を縛るというのではなく、そこに帰ると安心するということから、いつまでもそこにいたいという関係になるということです。

家庭に持ち込んではいけないものは、家庭の外の不安やストレスではなく、他人と他人の関係を規律する基準で家族を評価することなのではないかと考えている次第です。

まあ、そうやった方が八つ当たりの「あたり」が柔らかくなるのではないかという期待を込めて。

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