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「働かないおじさん問題」キャンペーンの行き着く先 もう国民はいい加減覚えよう!マスコミ、娯楽報道の果たす役割 その行く先は安心して年を取ることができなくなる労働環境 [労務管理・労働環境]



「働かないおじさん問題」という問題をマスコミは盛んにあおっているようです。それは、ベテランの年配社員が一日中ろくに仕事もしないでパソコンを見て遊んでいたり、新聞を見ていたりするだけなのに高給をもらっていて、まじめに働く若者は働かないおじさんに給料を払うために働いているようで不合理だと怒っている。
というものです。

「またか」という思いでした。

実際はありもしないのに、マスコミがどこの誰だか変わらない人たちの「多くの意見というような印象」を報道して、多くの意見として不平等だという声を上げたような形となり、世論が形成されたような体裁を整えて、国の制度を変えて、結局みんなが損をしてしまう。
という現象はこれまでも繰り返されてきました。

一つには高齢者医療の有料化でした。
この時は、その多数意見の外形つくりを戦争中から国策に積極的に関与していた漫才興行会社を使って行いました。「老人たちは、病気でもないのに病院にかかり、病院の待合室がサロン隣老人たちの社交場になっている。無駄な医療費が大量に浪費されているために国の財政が圧迫されている。」ということを宣伝しました。島田紳助や桂文珍が盛んにこのネタをテレビでやっていました。同じ興業会社所属です。ギャグのネタですから誰からも直接批判される状況を作らなくてすむので、一方的に偏った意見を繰り返し流していくことができるというメディア戦略でした。まだインターネットが普及していないので、テレビの威力は絶大でした。紳助は後にテレビで老人たちに謝罪たのを目撃しましたが、老人医療費有料化になった後でした。老人医療費が有料化された後は、老人いじりのネタはぱったりとやられなくなりました。

この漫才だけが原因とは言いませんが、世論は老人医療費の無料をやめて本人にもある程度の負担をさせるべきだという流れになり、結局老人医療費が有料化されました。その結果はどうでしょう。確かに有料化によって高齢者が受診を自己抑制するようになりました。一時的には医療費が減少しました。しかしその結果、初期の治療をしないために病気は悪化するようになり、悪化してから病院を受診するようになりました。このため老人医療費は一時期的には抑制したのですが、その後抑制した分を取り返しておつりがくるように高額になってゆきました。早期発見早期治療や予防は医療費は低いのです。早期治療をしなければ、当然病気は悪化し、合併症も出てきます。早期治療を抑制したために、かえって高額の医療費がかかるようになりました。目先の利益を追及して、かえって高額の税金負担となったということです。

何よりの損失は、「安心して老いる」ということが難しくなったということです。

実際に老人になってみると、体のあちこちに不具合が出ることはいかんともしがたいことです。診察券ばかりが増えていきます。「痛み」は治療をするべきだという体のサインですから、痛みには早め早めに手当てをしなくてはなりません。また、医療機関で必要のない投薬などはしません。おおざっぱな話をすれば、デマを流して世論を作り上げ、近視眼的な政策を実現してしまったということです。

年金問題もその最たるものです。
世代間の不公平感ということはいつの世にもあるものですが、これを利用して、若者の不満を代弁するというマスコミが不公平を喧伝して、受給する年金額が切り下げられて行きました。国民年金料を何のために払い続けてきたのかわからない程度の金額の保険金しか支給されません。長年支払い続けて、ある時金額が切り下げられるのですから騙されたようなものです。
またも「安心して老いる」ということができなくなりました。また、老後いくら必要だということをあおっていますから、心配性の人たちは真に受けて、老後の資金のための方法にお金を使うようになっています。

女性の働く権利の問題も似たようなものですね。
昭和の後半に、労働基準法の改正と雇用機会均等法の成立が同時に進められました。すべての女性が「働いて責任ある部署について高収入が欲しいものだ」という単一の価値観を持っていることを前提として、女性がそのような処遇を受けない原因は、労働基準法が深夜労働を禁止し、生理休暇を取りやすく定めているからだということが標的になりました。ずいぶん様々な女性の方々が、女性の地位が低いのは深夜労働の禁止や生理休暇が原因で、これさえなければもっと出世するのだということを言っていました。
結局、深夜労働禁止が廃止され女性も深夜労働をさせても良いことになりましたし、生理休暇の規定は改正されてしまいました。
その結果、40年たった現在、女性の社会進出はどうなったでしょうか。国は男女雇用機会均等室を設置したのですが、そのうち男女参画局の一部署となり、審議会も開かれなくなったようです。一連の結果は、単に女性の権利、女性の保護が削られただけではないかと思います。未だに日弁連でさえ、正規とは別に女性枠で副会長ポストを用意するかというような議論をしているのです。つまり、男女雇用機会均等法から40年近くたった現在も女性は下駄を履かせなければ男性と対等にはならない存在だとされているのです。

だいたい深夜労働が禁止されているから女性が出世しない職場なんて極めて限られた職場しかないわけです。これを理由として女性が社会進出できないなんてことを、今思うとよく恥ずかしくもなく主張していたなと思うんです。当時私は学生でしたが、まっすぐに法案について反対しているあまり、普通に考えると恥ずかしく空々しいことを言っているということに気が付きませんでした。女性の深夜労働禁止を撤廃するための方便として、女性の社会進出という空手形が発行されたということでした。

現代の男女参画の国の政策については、昨日アップしましたので、そちらをご参照ください。本記事で指摘している手法をいかんなく発揮しています。

このように、娯楽の話題提供ではなく、制度改悪のキャンペーンだと怪しむためのポイントは
・ 統計的な根拠ではなく、どこの誰だかわからない人が、どんな資格で言っているのかも不明のまま、さも「自分たち」全員が不平等に怒っているということを情緒的にアッピールする。
・ その「ありそうな」不平等が実際にあるのかどうかもわからない。
・ 漫才だったり、ワイドショーだったり、ネットだったり、批判を受けにくい方法で、いつの間にか国民の間で広く承認されたかのような外観が作り出されている。
・ その結果、表立って反対する人たちは声を出しずらくなる。
・ 誰かが得する結果となり、多数が損をする結果となる。
こんな感じです。


今回の「働かないおじさん問題」も全く同様の構造だと思います。
今の日本の状況で、どこの会社で、働かなくても高給をもらっている労働者がいるのでしょうか。天下りの人は知りませんが、普通のたたき上げの労働者でそのように四六時中パソコンを見て遊んでいる50代、60代の社員がいるとは思われません。
(パワハラの一種で仕事を取り上げられて、自主退職を促されている場合はあります)

昭和の教育テレビの「働くおじさん」をもじったキャンペーンですので、おそらく広告代理店の戦略なのでしょうけれど、これを「働かないおじさん問題」としてテレビや取材をしないインターネットニュースの配信会社がお金をもらって取り上げれば、誰も反論できません。私のこのブログで反論していてもとても影響力はありませんから、一方的に偏った情報を流し続けることができます。テレビで面白おかしく取り上げれば、笑っているうちに、そう言う問題があるのかと先入観を持たされてしまいます。
意図を持ったキャンペーンであることに気が付かないうちに、正義感の強い国民ほど「何とか問題を解消しなくてはならない」という気持ちにさせられてしまうわけです。

言われている年代の中高年は、誰も自分のことだと思わないし、現実にはいない人なのだから、俺は働いているぞとムキになって反論する人もいないでしょう。そもそも働いている中高年は気が付きにくい時間、方法で宣伝されているようです。
言っているとされる若者は自分の賃金が低いものですから、「そんなことがあれば」不平等だという怒りが沸き上がることはイメージしやすいことです。自分の処遇が低いことの不満が、仮想敵である働かないおじさんに対する怒りにすり替えられるわけです。

誰が得してだれが損をするのでしょう。働かないおじさん問題が目指しているのはどのような制度改革なのでしょう。

端的に言えば、年功賃金の消滅を狙っているということと、極端に言えば労働の対価性のない諸手当のカットを狙っているものと思います。つまり、すべての労働者を派遣労働者にするようなそういう発想になっている危険があるということです。

その理論的根拠として、同一労働同一賃金の原則が悪用されています。

極端に言えば、働いた分量に応じて報酬をもらうべきであり、その他の要素、家族手当、扶養手当、住宅手当、交通手当は個人の事情だから、もらえる人ともらえない人が出るのは不公平だ。だからそんな手当はカットされるべきだ。
「労働に応じた賃金にするべきだ。」という主張になるようです。

また、これまでの歴史を見た場合、「平等」は実現するかもしれません。しかし、その結果は実質的な賃下げです。

働きに応じて賃金を払うということは、平等だから一見良いことを言っているなと感じることと思います。しかし、働きに応じた賃金なんてフィクションです。そもそもどうやって働いた分量をお金に換算できるのでしょうか。これは無理な話です。長時間働いたのに、働く時間が少ない人という指標はあるでしょうけれど、労働の内容は全く違います。同じ質の労働ということはそもそもフィクションです。「働きに応じて」の金額なんて、算出しようがないわけです。

また、誰がよく働いていて、誰が遊んでいるということを決める判断権者は誰でしょうか。その評価には必ず労働者の不満と、上司の恣意的な評価が入ってしまいます。

結局は、使用者が算定基礎時給を一方的に決めて、低いレベルでの平等が図られるということはミエミエではないでしょうか。平等を求めたために、賃下げが起こる可能性があるということを自覚するべきです。

また、始終誰かから監視されている、評価されていると思って働いくことになると思います。そんなプレッシャーの中でコストパフォーマンスを発揮できる人はどれだけいるでしょうか。おそらく失点をしないように、余計なことをしないで言われたことだけをするという労働姿勢が、これまで以上に進んでいくことでしょう。

特に中高年者の間では、若者と同じラインに立って評価を受けることになれば、体力的な事情もあって不安を覚えない中高年者一歩手前の人たちは多いはずです。

そこまで考えなくてよいのかもしれませんが、ますます労働者のやる気は無くなっていくと思います。

賃金とは何かということについては、学問的には、労働の対価であると同時に生活保障である、あるいは賃金の額によって良質な労働力を獲得できる要素になるという3要素があるということは基礎の基礎です。労働の対価性だけを考えて賃金の平等を考える考え方は法律にも、経済学にも、政策学にもありません。

そもそもの問題は、かかるお金に比べて賃金が低いということから出発するべきだと私は思います。例えば十分な賃金が支給されていて、手当の支給を受けなくても十分に家族を養うことができるならば、手当なんていらないわけです。ところが、現状では十分な賃金をもらっている人が少ない、特に基本給は賞与や退職金の絡みで低く抑えられているということが実情ではないでしょうか。ようやく生活保障的な手当てで家族が生活しているということが多いと感じています。生活保障的な手当てがカットされることは労働者にとっては大打撃です。賃金の生活保障という性格に照らすと、扶養を要する人と暮らしている人に扶養手当を払うことは当然のことなのです。

今回の「働かないおじさん問題」キャンペーンは、多くの労働者が派遣労働者のような待遇に切り替わっていくというか、実際に派遣労働者に切り替わっていくということが究極の着地点として想定されていると感じられます。

かなり悲観的に、かなり懐疑的に、いろいろ考えてしまいました。しかし、これまでの改悪とあまりにも重なっていて、「またか」という思いが強くあります。この最初の段階で疑問の声を上げていかないと、単純な感情に訴えかける方向で世論が形成されていくということがこれまでの教訓です。

もし、パソコンで遊んで新聞を読んで高給をもらっているように部下から見える人がいるならば、日本の国益のためにご自分が仕事をしていることをくれぐれもアッピールしていただきたいと願うのはこういう次第です。


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