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① 人間が群れを作ることができた最大のツールは「心」であること。 ② 当時極めて有効だった「心」が現代で苦しむ原因は、心と環境のミスマッチにある  中島みゆき「帰省」に寄せて シリーズ1 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

中島みゆきさんの歌に「帰省」という歌があります。詳しくはぜひ聞いていただきたいのですが、都会の中に生きることの不自然さというか「人間としての無理」が彼女らしい表現で歌われているように感じます。その中に、「人は多くなるほど物に見えてくる」というかなり毒の効いた一節があります。詩人のものの見方、とらえ方、そして表現に感銘を受けました。対人関係学の言いたいことを一言で言えば、そういうことなのです。

群れを作って行動する動物というのはいろいろありますね。水族館で見るイワシの魚群は光を浴びるととてもきれいで、一体の竜が泳いでいるような統一感もあり、見惚れてしまいます。馬も群れで走ると迫力があり、あの地響きのような蹄の音は心を動かされてしまいます。渡り鳥のV字隊列は、不思議なほど見事です。これらの群れの行動の原理はよく知られています。

イワシは群れの中に入って泳ごうとする本能があるということで、これを各イワシが行っていると結果として竜の魚群が形成されるそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があるそうで、それぞれがこの本能に従って走り出すと、スピードが上がり肉食獣から結果として逃げることができるわけです。鳥は、風圧を避けて飛ぶことから自然と圧が一番低くて楽に飛べる位置をキープしてあのような隊列を結果として組んでいるとのことです。

では、人間はどうやって群れを作っていたのでしょう。

約200万年前になると、人類は、群れを作り、群れで小動物の狩りを行い、群れで肉食獣から身を守り、群れの中にいることで安心して血管の修復などがなされていたようです(概日リズム)。群れが無ければ人間は生き残れなかったということになると思います。

群れを作ったツールがほかならぬ「心」であると対人関係学は考えます。
つまり
・ 群れの中に居続けたいと思う心
・ 群れから外されそうになると不安になる心
・ 群れの秩序を守ろう(権威に従おう)とする心
これらの心を本能的に持っていたから、人間は群れを作れたのだと思います。

これらの心がどのようにして人間の本能に組み込まれたのかについてはわかりません。突然変異か何かで、このような心を持った一群が生まれたのでしょう。そしてこのような心を持った一群は、他の心の不完全な一群よりも生き残る確率が高く、かつ、男性も女性もこのような心を持った個体を繁殖相手として選ぶ傾向にあり、その結果人間という種はこのような心を持った生物種として確立したのだと思います。

これは200万年前の人間の環境には、良いことづくめだったと思います。当時の人間の群れは数十人から100人ちょっとというのが一単位であり、生まれてから死ぬまで同じメンバーであったし、まさに運命共同体で頭数が減少してしまうと自分の命が危うくなるという関係にありましたので、群れの仲間を自分と同じように大切にしたことでしょう。というか、他人と自分との区別があまりつかなかったのだと思います。みんなが群れにとどまりたいと思っていたし、群れの自分以外の個体も群れにとどまりたいのだと理解していたわけです。その結果、利益は等しく分配され、むしろ弱い者ほど手厚く扱われたのだと思います。極めて不完全な赤ん坊も群れで育てることができたのだと思います。理性的にこのようなことをして頭数を確保しようとしたわけではなく、たまたまそういう心を持っていたために環境に適合することができて生き残ったということです。

このような心が無ければ、人間は現代まで生き延びなかったはずです。

その心にとってのパラダイスのような環境から、約200万年後の世界が現代です。あたかも心があるために、人は傷つき、あるいは他者を攻撃しているような印象さえ受けます。これはどういうことでしょうか。また、人間の性善説、性悪説なんてことも言われています。これも視野に入れて考えてみましょう。

結論から先に言えば、ここで中島みゆきさんの「帰省」なのです。
つまり、人間の心は、せいぜい数十名から100名ちょっとの仲間、それも一つのグループの利益を大事にすることにはとてもよく適合しているのですが、それ以上の人間たちを平等に考えることには対応していないということのようです。また、グループ間の対立があると、どうしても自分のグループに肩入れしてしまうので、他のグループと対立してしまうきっかけが生まれてしまうようです。

人間同士のかかわる環境に、人間の心、つまり脳が対応できていないということです。だから、人間が多くなると、だんだんと「物」に見えてきたり、自分を攻撃する「肉食獣」に見えてきたり、自分のエサの「小動物」に見えてきたりしてしまうということなのです。200万年前から進化が止まってしまった心が現代社会の環境にうまく適合できていないということから、「環境と心のミスマッチ」が起きているという言い方ができると思います。

現代社会において人間は、特定の他者を唯一絶対の仲間であるという尊重ができなくなるわけです。しかし心は200万年前から変わっていませんから、現代においてもなお人間は自分が唯一絶対の仲間の一人として尊重されたいと思いますし、尊重されなければ心の性質として、仲間から排除される心配がこみ上げてきてしまい、心が傷ついてしまうわけです。

性善説、性悪説という言い方はあまり機能的ではないという言い方が正確だと思います。人間は、200万年前は、善を施すだけで一生を終えることができたのだと思います。みんな仲間ですから大きく敵対しあうきっかけもなかったはずです。むしろ一番弱い者を守ることによって群れを守るということに必死だったはずです。法律も道徳も必要が無かったと言えるでしょう。ところが、農耕が開始され、人間がかかわりを持つ人数が増えて群れが複雑化すると、自分や自分たちを守るために、他者を傷つけ他者の利益を奪うということも生まれてきたのだと思います。道徳だけでなく、法律という明文のルールを作る必要ができてきたわけです。また、宗教も生まれたのだと思います。

本来人間は、他の群れと共存していくことが脳の構造上得意ではなかったはずですが、強い群れが弱い群れを支配する形で大きな群れを形成していき、他の群れとの関係で群れが大きいことのメリットを感じたのでしょう。群れ同士が共存できることが、その外の群れとの関係で圧倒的に有利だったので、共存の方法も獲得していったのだと思います。

これが理性です。

理性を働かせて、人が人を支配しなくても共存ができる人間社会を作るのか、自分と自分たちのための利益のために他者を傷つけて他者から利益を奪い、人類を滅亡させるのか、おそらくそいう岐路に人類は差し掛かっているのだろうと思います。

根本的な社会システムを理性で作り上げることも大切ですが、対人関係学は、自分が自分の周りとの関係をどう理性で築いていくかという方向の検討を行う学問を目指していっています。

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