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やはり、ゲームとSNSの弊害は区別して説明する必要がある。SNSは、結局孤立感を増大させるようにできてしまっているということ。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



昨日、ダンクリー博士の「子どものデジタル脳完全回復プログラム」(飛鳥新社)について、書いたのですが、よくよく考えると、やはりスマホなどのゲームとSNSの問題点についてはわけて論じられるべきだという考えが頭から離れなくなりましたので、連日記事を書いています。

物理的な、例えば光と視神経や、睡眠不足については共通項があることはダンクリー博士のお説の通りだと思います。
また、もう一つの共通項は、「仮想空間の出来事なのに、脳はそれが真実起きているとして無駄に反応してしまう」ということで、これは今日の話の出発点でもあります。

SNSの仮想空間が現実と異なるというのは、実際は人間関係が形成されているわけではないのに、あたかも自分の仲間とコミュニケーションをとっていると錯覚してしまうということです。

これが家族などのリアルにも顔を合わせて生活している場合に、「帰りにトイレットペーパー買ってきて」とかいう事務連絡ならばほとんど弊害はないし、多少の行き違いがあったとしても訂正は簡単でしょう。
ところが、毎日顔を合わせているとはいっても、会社の同僚や学校のクラスメイトになると、少し怪しくなっていきます。行き違いのわだかまりが蓄積する危険があると思いますし、集団の中で特定の人間を孤立させる道具に使われているという問題点を事件などで目にします。
ましてや、実際のSNSは、どこの誰だかもわかりませんし、プロフィールの内容も本当かどうかわかりません。

ノリを合わせて返信していますが、例えばこういうひどい目にあったという投稿をして、いいねとかひどいねとかリアクションをしている人も、トイレに座っているときの暇つぶしに読んで、リアクションをしているかもしれないのです。
私はリアクションやコメントの数というのは、ほとんど気にしません。一般的な話を書き込んでいないという自覚があるからかもしれません。しかし、多くの人は「いいね(NICE)」の数を気にしているそうです。もしかしたらいいねの数を増やしたいという目的から、受けの良いリアクションをしていたり、共感をしたようなコメントをしている可能性もあるわけです。少なくとも、どのSNSもそれを禁じてはいません。

また、同じ趣味を持っているということで交流していたら、その人の所属する政党の選挙のためにSNSを活用していたなんて話もありました。必要な情報が隠されて交流をさせられているということもありうる話です。

例外はもちろんあるのですが、大方の「友達」は、本当に困っているときに助けてくれることはありません。客観的にあなたに対して必要なアドバイスをするよりも、あなたから受け入れられやすいコメントを記入することを優先させるはずです。

紛争に関与するものとして実感することが多いのは、その人自身にも原因があって紛争に至ることがほとんどで、通常は良い悪いという二者択一的考えにはなじまずに、双方が修正をすればよくなるということがほとんどです。それにもかかわらず、SNSでは、「あなたは悪くない。相手はひどいよね。謝る必要はないよ。」等と紛争を大きくするだけのアドバイスが多く見られます。

もっとも書き込むほうも自分に都合が悪いところは、意図的ではなく必要性を感じないので、情報を開示しません。あたかも相手が一方的に悪いようにSNSの情報の受け手が感じてしまうことも理由があることです。

SNSに限らずこういう相談は公的にも実施されており、こういう耳に心地よいアドバイスだけを聞いていたら、誰もが不幸になり、孤立していくだろうなと大変心配になります。そして、別の目的を持っている人(選挙、宗教、販売、思想等々)ほど、相手の表面的な感情を肯定することにたけています。
話が少々脱線しました。

要は、SNSの「友達」は、実際は友達でも家族でもない場合が山ほどあるということです。これは、こうやって改めて問題提起をすれば、自分は頭ではよく理解しているから大丈夫だと思うでしょう。

しかし、脳はそうはいきません。継続的に情報交流をしている人、自分の感情の痒い所に手が届くコメントをしてくれる人、自分と同じ境遇と言っている人、そう言う人を仲間として見るようになってしまいます。

頭ではわかっていても、つい、仲間には期待をするようになってしまいます。
自分を攻撃しないでほしい
自分が誰かから攻撃されていたら助けてほしい(その誰かに反撃してほしい)
自分に共感共鳴してほしい、
自分のしたいこと、されたくないことを言わなくてもわかってほしい
自分が不愉快になるアクションをしないでほしい
すぐに期待通りの反応をしてほしい。
例えばこんなところでしょうか。

そうして厄介なことに、これらの「~してほしい」が
「~するべきだ。」にいつしか変わってしまうのです。

こう改めて書きだすと、そんなことは考えていないと思われるかもしれませんが、よくよく分析するとこういう感じに私には映ってしまいます。

そうして、自分の期待に反するアクションをすると、腹を立ててブロックする人もいれば、寂しい思いをして思い悩む人、人それぞれネガティブな反応を示すようです。

また、他人がそれぞれ円満に称賛されたり、幸せになったりしている記事を見ると、自分だけが仲間の輪に加わっていないとか、自分だけが不幸だとか、余計な傷つき方をするわけです。賞賛と言っても歯が浮くような言葉が羅列してあるだけだとか、幸せな箇所だけを紹介しているということを十分知っていてもつい心は仲間に対する期待を発動してしまうようです。もちろん、常に最大限の期待をするわけではありません。また人によって期待の程度や期待を裏切られた反応に違いがあることはもちろんです。でも多かれ少なかれということであればやはり期待をしてしまうし、リアルの人間関係で苦しんでいる場合などは期待が大きくなってしまうということがあるようです。

SNSで投稿したら、全く関係のないコメントされたとか、自分の意見を否定されたとして悩むことほどばかばかしいことはありません。脳が勝手に相手に期待をしてしまい、それが裏切られたということで脳が勝手に無駄に傷ついてしまっているのです。

それから、文字情報は、コミュニケーション手段としては極めて不完全な手段です。高校時代の現国のテストで小林秀雄の文章が難解で正解にたどり着けなかったとかいうご経験がおありだと思いますが、SNSの文章はもっと文法的にいい加減なでたらめだらけの文章です。そもそも感情などという複雑な情報が正確に伝達されるわけがありません。

そういう事情を知ったうえで、相手を限定してやり取りをしている人もたくさんいます。しかし、中には、過剰な正義感、過剰なまじめさゆえに、相手の文章を客観的に判読して無駄に傷つく人も出てくるようです。

また、文章なんて、突っ込もうと思えばいくらでも上げ足を取ることが可能です。(徳川家康の国家安康みたいな例もありますね。)契約書のように厳密に言葉を選んでいるわけではありませんから。だから、悪意のある人物は、上げ足を取ろうと思うとどんな文章でも上げ足を取ってきます。但し、悪意があると言っても、あなたに対する悪意があるわけではなく、八つ当たりの方が多いと思いますけれど、自分自身が嫌われていると感じてしまって傷つくことも無駄なことです。

インターネットデバイスの向こうの人は、あなたが無意識に期待してしまっているほど、あなたを尊重することに神経を集中しているわけではありません。食事をしながらとか、トイレに行きがてらとか、既に酔っぱらっているとか、精神的にてんぱっていてで自分を守るために他の人間に迷惑をかけても気にしない状態とか様々で自由です。

こちらの投稿を、その人と異質な人間関係も見て、立場を無くしてしまうかもしれないなんてことを気にしないで、勝手なコメントをしてくるなんて日常茶飯事のことです。

人間が他人を個体識別できるのは、大体150人くらいが限界だと言われています。これらの日とは顔を合わせて、交流をしている人たちのことです。SNSのアイコンくらいしか情報のない相手をいちいち個体識別できるなんてことは、人間の脳に期待する方がおかしいのかもしれません。相手を大切に思おうとさえしないことが通常だし、しようとしてできないことも仕方がないことです。

少なくとも、私にはSNSはまだ早いようです。


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