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面会交流で子どもが言ったことと矛盾することが監護親から子どもの発言として連絡が来るが、どちらも子どもの発言と把握してみることとが有益であるということについて 始まった面会交流を定着させて拡充するために考えるべきこと [家事]


子連れ別居からの離婚調停、婚費調停、面会交流調停が行われ、なんとか面会交流が始まり、当初は短時間でファミリーレストランでの食事だけとか、ショッピングセンターでおもちゃを買う程度という場合もあると思います。
 
 それでも、
・ 子どもが別居親と面会することを楽しそうにしている
・ 面会をしても別居親が同居親に攻撃をしないので、馴れてくる
という要素があると、次第に面会交流の時間も長くなり、もう少し自由にいろいろなところに行きたいということは、自然な流れです。

同居親が別居親に対しての恐怖や嫌悪感がそこまで大きくなくても、離婚なり別居なりに至ったわけですからかなり複雑な感情を持っています。子どもを積極的に会わせたくないし、子どもに会うことで別居親を喜ばせたいと思うわけはありません。

それでも子どもが楽しそうにしていると、もう少しのびのびと別居親に会わせてもよいかなと、ふらふらっと考えるわけです。
タイミングなどいろいろな要素で面会時間が拡大していくようになります。

例えばお昼をはさんで2時間の面会交流時間が10時から4時なんてことになると、ある程度の遠出ができるようになります。そうなると、それまで出てこなかった争いのポイントが出てきてしまいます。

つまりどこに行くかということです。

同居親は特に理由もなく不安になっていますから、このデリケートなところに配慮して、事前にプランを立てて了承をしておいた方が後々良いのです。しかし、プランが提示されるとそのマイナスの見通しだけが、同居親としては見えてきてしまいますのでいろいろと難癖をつけてくるわけです。

人込みはだめだとか、子どもにはまだ体力がついていないからアスレチックはだめだとか、遠すぎるとか。

別居親からすれば面白くないことは当然ですが、どうやら同居親というのは多かれ少なかれそういうもののようです。

別居親が男性、つまり父親である場合は、別居親はいろいろ連れて行きたい、盛りだくさんのサービスをしたいという気持ちになることが通常ですから、少し盛り込みすぎる傾向があることは否めません。子どもは、盛り込みすぎの弊害など考えずに楽しそうならば父親の提案に乗ってくるわけです。マイナスの見通しは頭に入ってきません。はっきりと約束をしてしまうとルール違反ということになりますが、今度はどこに行きたいという話題の中で、子どもと別居親は阿吽の呼吸で次回の場所の合意をしているような雰囲気が生まれます。

ところが、別居親が自信満々でお伺いを立てると、同居親からそのプランだと、「子どもは、疲れるから室内でゆっくりお話がしたいと言っている。」等の横やりが入るわけです。これは結構どこにでもあるパターンのようです。

そうすると別居親は、あの時子どもと楽しくプランを立てたのだから、それは子どもの気持ちではない、子どもはそんなこと言っていないはずだ等と感情的になってしまいます。とげとげした返信をしてしまい、面会交流の拡充どころか、一度拡充した実績を維持することもできずに縮小してしまうなんてことになるわけです。そのままフェイドアウトしてしまう危険もあります。これこそが離婚に至る過程を再現していることだからです。

確かに子どもは、自発的にそう言っていないことも多いかもしれません。同居親から、「疲れるのは嫌だよね。次の日学校あるし。」なんて聞かれれば、「うん。そうだね。」と不承不承頷いているというイメージは作りやすいものです。
しかし、少なくない事例で、子どもが自発的に、同居親に対して同居親が望む答えをしているということがありそうです。

これ、私も昔は子どもの気持ちを抑圧する悪い親の対応だと思っていたのですが、子育てが終わった今、少し考えが変わりました。

どちらも子どもの本音というか、自発的考えなのだと思うようになったのです。子どもの一番やりたいことは何かというと、これはもう、家族の中で自分が尊重されて生活したいということに外なりません。こういう本能があるから、子どもは大人のマネをして、自分の行動、思考に取り入れながら発達をしていきます。

別居親である父親と一緒にいるときは父親に受け入れられたいと志向しますし、父親の価値観に同調して時間を過ごします。その時盛りだくさんのプログラムを楽しそうにしていたことは本音で間違いありません。

しかし、同居親である母親と一緒にいるときは、同じように母親から尊重されたいと志向していますし、母親の価値観に同調しようとするわけです。母親の問題意識はその通りだなと思っているとしても無理はありません。

子どもは、近くにいる大人によって考えが変わってしまう発達段階にいるという可能性があるのです。

実態はわかりませんが、私はそう考えるべきだと思います。その方が子どもに対しても優しく向き合うことができますし、同居親と感情対立して、結局子どもが別居親と会う場合の自由度が小さくならないで済むからです。

また、別居親が父親の場合、どうしても「何か」をしようという意識が強くなってしまうようです。様々なアクティビティーを体験させようという気持ちになっているようです。

これも間違いではないのですが、子どもたちの本音を聞いてみると、アクティビティーは楽しいのですが、それよりも別居親の近くにいること、自分が大切にされているという実感を持てるほうを一番に求めているようです。どこかに行ったというよりも親と一緒にいるということが一番のようなのです。

親と一緒に暮らしていないという当たり前ではない状態にあるのだから、親と一緒にいるという当たり前の状態に自分がいると子どもが思えばそれだけでも幸せなことは当然だと思いませんか。

子育て終わってつくづく感じるのは、子育てに関して父母があんなに考えて情報を入手して、口角泡を飛ばして激論したとしても、
結局はどっちでもよかったんだな
ということなのです。

同居親と別居親という微妙な関係の中で面会交流が進んでいるときに、どうでもよいことで親同士が対立することほど子どもにとって迷惑なことはありません。大体子どもが矛盾した意思を示していることこそが、子どもであっても相手の意見を尊重しているという努力をしている、あるいは配慮ができているということなのです。それにもかかわらず、せっかくの楽しい別居親との時間を台無しにしないでくれと言う気持ちになることは当然だと思いませんでしょうか。

まあ、これは夫婦が別居しているか同居しているかにかかわらなく、どちらでも当てはまることです。その意味で、私も大いに反省しているわけです。

だから、別居親が考えなければならないのは、子どもとどこに行くという行く場所ではなく、子どもと一緒にいる時間を減らさないで増やしていくということだと私は思う次第です。

「子どもと長時間一緒にいて何をすればよいのだろう」というのは別居親が父親の場合、不安になることだと思います。父親としてよくわかります。

子どもにとってうれしい面会時間となるためには、年齢にもよるのですが、子どもが一人前として尊重されることのようです。

話を自由にさせる、さえぎらない、否定評価は極力しない

ということが子どもが安心し、嬉しい時間となります。あれが欲しい、これが欲しいというわがままをかなえてもらえば嬉しいでしょうが、それよりそれが欲しいということに共感を示してもらうことが大切だということのようです。どうせ同居親なんて、様々な日常家事で大変でしょうからあまり子どもの話を聞かないし、大人の価値観で話をさえぎったり、それはだめだで終わったりするようです。これに対して、話を面白がって聞いてくれる、友達の名前を憶えていてくれるということがあれば、子どもは生き生きと目を輝かせて話をし続けるでしょう。

子どもの心象風景や話に出てくる人物の心象風景を思い浮かべながら聞いていると、子どもは案外人をよく観察しているようです。面白いです。

ここで注意です。親が聞きたいことを話させるのではなく、子どもが話したいことを聞くということが一番大事です。いろいろ尋ねられることは、子どもは面倒くさくて嫌です。

もし、子どもが女の子であれば、幼稚園の年長くらいになれば、子どものやりたいことに積極的に付き合えばよいです。イニシアチブを子どもにゆだねてしまうのです。ただ、年齢が低いと、目で見えていないものに発想を飛ばせるということは難しい側面もあるので、やりたそうなおもちゃがたくさんあるような空間にいることが有利です。児童が遊ぶ施設で、ゲームがあったり、絵本があったりという空間であれば、子どもに任せるべきです。

男の子の場合も基本的には同じですが、少しこちらから誘導してあげるほうが良いかもしれません。

ただ、何もすることが無くなったら、子どもと一緒にいることがうれしいんだということを知らせるだけでもよいかもしれません。言葉で言うというよりも、笑顔で知らせた方が説得力があるようです。

冒頭にも言いましたが子どもとの面会時間が拡充するためには
第1には、子どもが楽しいということ。それは自分を一人の人間として尊重していることを示すこと、アクテビティに固執する必要はなく、一番は話を聞いてあげるということだと思います。

第2は同居親が、別居親と子どもが面会しても悪いことが起きないということを学習させることです。安心させることだと思います。この意味で一番やってはいけないことは、相手を否定することです。対立感情を子どもに関しては持ち込まないことが大切です。感謝の行動を忘れてはなりません。感謝の心は持てないとしてもです。




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