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発達障害、ASD、ADHDのご本人の発信している動画を観た感想 中核症状と周辺症状があり、こだわりや過敏の部分は、周辺症状であり、何らかの原体験が原因になっている場合があるのではないかという感想 [進化心理学、生理学、対人関係学]



最近、SNSやネットゲームをしばらくやめているのですが、かわりに以前よりもYouTubeをみてしまい、逆にネット中毒になっているような意味のないことになっています。

つい最近面白いと感じたのが、ご自身が発達障害(ASD,ADHD)を持った方々が、ご自分やご自分の周囲の方々の状況を説明している動画です。お話が論理的で、かつ、ご自分の行動についても淡々と語られておられ、わかりやすいので勉強になります。

みなさんチャプター機能も使っているので、さらに見やすい工夫がなされています。このブログよりもはるかに章立てが工夫されています。

何人かの方々のお話を伺って、漠たる感想を持ちました。

第1は、
なるほど正常と障害の境界が曖昧なものだなあということです。自閉症スペクトラムといわれますが、これは無症状と症状が程度において連続しているという意味で、発達障害の中にも症状の重い人もいれば軽い人もいるということですね。これは二つの意味があり、症状のとても軽い人と障害が無いけれど、ある程度行動傾向ないし思考傾向が近い人もいるということで、障害と正常の境界が曖昧だということです。もう一つは、発達障害は症状が複数あるため、発達障害と診断されない人も症状を持っている場合があるということです。

私も、分量を加減できないで、今にして思えば過剰な作業をしてしまったこともあります。トイレに置く紙が少なくなっていたので、母親から物置からトイレに備え付けるよう言われたのですが、分量がわからず、多く置いた方が補充の面倒が省かれるので良いだろうと、置けるだけおいてしまったことが思い出されました。

いつしか、適切な分量を置けるようになったというよりも、「私はこれが適切だと思う。」ということを言いきってしまうことができるようになったような気がします。仕事を頼んだ人とは別に自分の思惑でことを処理するようになったということが大きな変化のような気がします。

他人にモノを頼むときは、具体的に頼むべきだと今も思いますし、労務管理の話をするときにはいつも申し上げているところでした。

その他にも大きな音が嫌いです。花火が本当は苦手で、近くでは見ることができないのですが、それは小さいときあまりにも近くで花火が打ち上げられたため、火の粉が地面まで落ちてきて怖かったということが原因だと思っています。

小学校までは、自分の席で変な格好を試してみて暇をつぶしていたため、担任の先生が心配して親に相談したような記憶もありました。
今も、じっと人の話を聞くことが苦手です。大事な講演などは、あえて一番前で聞いて余計なことをして飽きないように、集中して聞くようにしています。

なお、私も、人の目を見て話せない、目をそらすということがありますが、そんなにじっと相手の顔を覗き込むようにして話す人はいないと思います。全く目を合わせないということはありませんが、あえて視線を逸らせたりすることはあります。

幼稚園から現在まで色々出てきました。一定の言動を取り上げれば、私もADHDの要素を持っていたし、今も少し残っているのかもしれません。若い時まで接触過敏もありました。ケアレスミスや忘れ物は今もありますが、もしかしたらまた別の発達しすぎたことによる物忘れというものに移行しつつあるのかもしれません。

私の場合、そういうことに悩まなかったのですが、これは周囲、特に親の配慮があったからかもしれないと、今になって思っています。

動画を観ての感想の第1は、私もそういうところあるなあということでした。

第2は
強いこだわりということが特徴だとされていますが、これは思い当たるところがあります。

東日本大震災の直後、私の身近な人たちにも、こだわりのようなものが見られました。過剰な備えをするのです。例えばトイレットペーパーを部屋の3分の1まで買いためた人、水のペットボトルを買いだめる人、私は非常食をボストンバッグ2個分くらい買いだめました。自分以外の人はずいぶん変なことをしているなとは思ったのですが、鬼気迫る気配に負けたということもありますが、何もその人に言うことをしませんでした。無いと不安になるからそれを買いだめて安心しようとしていることが分かったからです。そんなことで安心できるなら四の五の言わずに安心させてあげた方が良いということでした。10年たってまだ残っているものもありますが、それぞれ異様な買いだめの状況はみなさん徐々に解消されたようです。

発達障害の方のこだわりというのは、ルーチンのような行動のパターンであるので、買いだめとは違うのだとは思います。しかし、結局のところ、ルーチンを壊されると、不穏になるということから、客観的合理性は無いけれど、一定のルーチンを行うことで不安を解消できるのではないかと想像をしているところです。不安を解消できるというか安心感を得ているのではないかと想像しています。もっともはっきりと自覚して行っているわけではないと思いますが、その行動をすることでどこかほっとしているのではないかと思うわけです。

こだわりが発達障害の方のセーフティーゾーン、ベースキャンプというならば、理解できるような気がするのです。

第3は
動画を発信している人たちを見る限りですけれど、やはりまじめすぎるのではないかという気持ちを強く持ちました。

どちらかというと気にするか気にしないかというところの違いも大きいかなということです。

例えば、先ほどの相手の目を見て話せないということも、そんなに気にすることは無いのではないかと思うのです。私もじっと相手の目を見るということをしないと言いましたが、精神科医の診察のテクニックとして、相手の目を見て話すのが苦しい場合は相手のあごの下あたりに視線を置いて話すと楽だというような指南書というか、技術論があるようです。話の切れ目切れ目に相手を見るふりをすればよいのではないかと思うのですがどうなんでしょう。

あと空気を読めないことを気にする方も多いようです。しかし、言葉に出ない気持ちは実際はわかりません。逆に言葉で表現した感情は普通は信じてしまいます。なまじ言葉にしないでくみ取れるので、人間関係は紛争につながる誤解が生まれてしまうということもあるようです。
これは例えば夫婦という身近な関係でも同じです。気持ちを言葉して伝えるべきなのです。
一定人数の友人たちの間で、一人だけ浮いてしまうことがあるとしても、それは非難されるべきことではないです。通常は、誰か秩序を作っているリーダーみたいな一人だけに焦点を合わせて、他の人はその一人に合わせているだけです。集団の「空気」、「場の空気」ということは、大体はそういうことです。
空気を読めない人間というのは、集団生活をするときに必要な人材だと私は思います。間違いをただす人間がいなければ人間は滅びると思っています。これ、別に障害を持っている方を励まそうとして言っているわけではありません。ただ、そう思っているだけです。発達障害のある方は、世の中に必要で、存在意義があるわけです。

おそらく発達障害をお持ちの多くの方々は、いろいろご苦労されているので、なるべく集団と協調したいという思いが強いのではないでしょうか。「自分は周囲と違う」という意識が強すぎて、自分に原因を求めすぎているような印象を受けました。

人間関係におけるふるまいの正解なんてないと思います。気にする必要はないと思います。ルールだけは覚えて、守ればよいのだろうと思います。あと、信頼できる人、自分の人と違う点を理解してくれて、ある程度面倒くさがらずに教えてくれる人を見つけて、その人の言うことを聞くことが有効だと思います。但し、大人になってしまうと、それをいいことに自分の利益を図るため貴方を犠牲にする人も出ないとは限らないことが苦しいところです。

第4に
そうだとすると、発達障害を抱えて生きづらい、苦しいというのは、それは純粋に発達障害が原因ではないのではないか、合併症とか周辺症状というものではないかと考えてしまいました。

この意味も二つあります。
一つにはよく言われていることですが、社会自体が、空気を読むことを強制したり、劣悪な環境の中で働くことを強いているということです。難聴になるような騒音の中で就労することが当たり前だったり、上司が具体的な指示をしていないくせにそれをくみ取らない部下が叱責されたり評価を下げられるような理不尽な職場などが典型ですね。そうして、自分に責任を押し付けられることによって、自己評価が下がるとか、自責の念を植え付けられるとかということならとても不合理です。そうして、自分が理由もわからず攻撃される体験が多くなれば、常に自分を守ろうという意識が強くなってしまい、こだわりに逃げ込んだり、感覚が鋭敏になりすぎたりするということも理由のあることだと思うのです。

もう一つは、幼少期の個人的体験です。虐待などがあって、どうして自分が暴力を受けたり暴言を吐かれなければならないかわからないのに、強烈に追い詰められたという体験をしたということがあるのではないかと思うのです。体罰であっても原因がわかっていれば、その原因が無ければ体罰が無いとセーフティーゾーンにいることができます。しかし、理由がわからず暴行を受けてしまうと、合理的な防御方法が思い浮かぶわけがありません。常に自分を守り続けるしかなくなるわけです。

ASDやADHDが脳の問題だとしても、中核症状のほかは、いわば周辺症状とか合併症という、その症状が必ずしも伴わないですむはずの症状である場合がありそうな気がしているのです。

こだわりというのも、PTSDと正反対の現象ではないかということです。PTSDの場合、逃げられない外傷体験をした場合、次に同じような外傷体験があってもどうやって逃げればよいのかわかりません。このため、例えば襲われたのが雨の日であれば雨が降ると脳が危険だと判断してしまったり、進退窮まったときに木蓮が咲いていたら木蓮の匂いがすると危険だと判断して委縮して凍り付いたようになってしまうわけです。

逆に、虐待を受けていた時に、そのこだわりの行動をしていたら虐待が終わったという体験があれば、こだわりのルーチンをして安心感を得ようとするということは理屈に合うのではないかと思うのですがどうなんでしょう。

そして、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚という五感が、主として危険の接近を認識して危険回避行動をするためのツールだとすると、常に危険意識を持ってしまうと、それぞれの感覚が常に危険であると脳に知らせてしまいやすくなっているのではないでしょうか。日常よりも少しでも大きな音がしたら、少しでも変わった味がしたら、あるいは変わった触った感覚があるとすれば、やはり過剰に脳が危険だから早く身を守れと指示をしてしまうということで矛盾は無いのではないかと考えました。

対人関係においても、自分を守る方法が無いと自覚してしまうと、過度に攻撃的になったり、過度に交流を絶つということをするのは、全く同じ原理ではないでしょうか。

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