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離婚理由に見るジェンダーバイアスがかかった女性側の主張  [家事]



1 子育ては女性がするもの
2 家に収入をいれるのは男性の役割
3 夫婦仲を安定、改善させるのは男性の役割。女性は男性が作った人間関係を享受する立場である。
4 DVを行うのは男性であり、女性は被害者である


ジェンダーとは「歴史的・文化的・社会的に形成される男女の差異」を言うのだそうです。数十年前からジェンダーという言葉が弁護士の業界の中でも、こなれない形で使われ始めたのを覚えています。詳細は省略しますが、その時の使われ方の印象が悪かったため、ジェンダーという言葉に良い印象を持てないままなのかもしれません。

さて、弁護士実務としては、離婚の際に、ジェンダーバイアスがかかった主張が妻側の女性弁護士から多く出され、あまりにも自分たち以外の女性を馬鹿にしていると常々思っているので、ここで女性の側から出されるジェンダーバイアスがかかった主張を提示して問題提起をしてみたいと思います。

第1は、子育ては女性がするものだという主張です。
 女性という姓は子育てをする性であることを、別居にあたって子どもを連れて出て行くということを正当化する根拠にしているように感じられます。ただ、さすがにあからさまにそのような主張するのではなく、工夫離されています。裁判所は、子どもが意識を持ち始めてからいつもそばにいた親に親権を与える「継続性の原則」をとっていますので、弁護士としては、子育ては女性がするものという主張はせずに、継続性の原則を主張しているような言い方をします。通常妊娠、出産の直後の乳児期は、母体を休ませるという意味合いもあり、母親は仕事を休んで子育てにつきっきりになりますので、継続性の原則を主張しやすいという事情はあります。
しかし最近は、継続性の原則に照らしても一義的に親権者を選択できないケース(父母ともに子どもに同程度《あるいは父親の方が多く》関与している場合が実際には結構ある。)が増える傾向にあります。こういう場合、継続性の原則がいつの間にか子育ては女性がするものという主張が顕在化してきます。
さらに継続性の原則で親権者を決めることについてももう少しち密に見直す必要があるように思われます。継続性の原則は、乳児期やその直後の時期の場合等妥当する場合もあると思います。しかし、例えばゼロ歳児から保育園に預けていて、その後は比較的同じような時間父母が子どもに接していて、子どもが就学時期に達していたりその直前の場合は、継続性の原則の妥当性はだいぶ薄弱になるように思われます。しかし、裁判所は、父母のどちらが親権者としてより妥当かという判断をしたがらないため、継続性の原則という逃げ道にすがっているという印象があります。

もっともこの問題は主たる監護者をどちらに決めようと、どちらの親とも子どもが比較的自由に交流できるようにすることで解決することが本則であるとは思っています。子どもが他方の親と同じ時間を過ごすための法制度が整備されていないところが問題の所在だと考えています。

実務の実情は、それまでの経緯をあまり吟味せずに母親に子どもをゆだねるべきだという主張があまりにも多いのが実情ではないでしょうか。実際は子育ては女性がやるべきだという考えに立っているという批判も可能だと思います。
この考えをさらに進めた考えが、子どもに関しては母親が決定権を持っているという子ども支配の論理です。子どもの独立した人格や感情などは一切考慮されていません。子どもが友達や父親、親戚、それだけでなく住み慣れた家や遊び道具からも突然切り離されることになっても、そんなこと重大なことではないとして子どもの利益をかえりみない主張も多くみられています。

ちなみに授乳期を過ぎた子育ては母親がするものだということは、人間に限っては生物学的にも誤りです。人間以外のほ乳類にはそのような育児がよく見られますし、ニホンザルやチンパンジーなども子育ては母親が行っていることはその通りです。しかし、ホモサピエンスに限らず人類は、妊娠出産、授乳を例外として、子育ては群れが行うという方式に進化しました。子どもは母親以外の大人たちからも子育てをされ、群れの大人たちの影響を受けて成長するのが人類の特徴です。
母親が主として子育てをするべきだという考えは、戦争遂行を主眼として明治期に国によって作り上げられたまぎれもないジェンダーバイアスです。

第2は、外で働いて収入を得る責任は父親にあるという考え方です。
私は専業主婦という考え方自体は、ありうる考え方であり、それ自体がジェンダーではないと思っています。専業主夫ということもあるわけです。子育ては、現代社会では極めて慎重に丁寧に行う必要があり、一人の大人がつきっきりで行うことにふさわしい一大事業だと思っているからです。
しかし、離婚訴訟などで主として女性弁護士から出される主張としては、子どもを連れ去って別居した場合に、その子どもが小学校以上になって、母親が十分就労できるにもかかわらず、母親の収入がないことを前提に婚姻費用の額を決めようとする主張です。男性だけが就労しなければならないという理屈はありません。女は家で子育てをするという考えも、実は明治期から戦争遂行のために作り上げられた意図的に作られたジェンダーの考えそのものです。明治期なども日本の圧倒的多数である農民は、男女の関係なく朝から晩まで働いていたわけです。男は外で働いて女は家を守るなんて言うことは、日本国民のコンセンサスにはなりようがなかったものです。

また、専業主婦の離婚理由として、十分な収入を家計に入れないから虐待だというものがあります。妻からは配偶者暴力センターに相談に行ったらそれは経済的DVだと言われたと主張があることも多いです。しかし、その場合に多い実態は、夫が低賃金だから、それしか家計に入れようがないということです。誰が見てもその収入からは精一杯のお金を家計に入れていると評価できることがほとんどです。また、お金はほとんど引き落としか夫が支払っており、妻に渡していた金額は妻の小遣いであったということもよくあります。何万円以下の場合は経済的DVだなどと家計に入れる絶対的金額を主張されても、それはあまりにも不合理で実態を見ていないケースがほとんどです。家計に多額のお金をいれられないことは、むしろ低賃金にあります。企業の責任を不問して夫だけを離婚理由として責めているのは、昨今の主張を象徴しているように感じられるところです。不思議なことにこのような主張をするのは、専業主婦の女性だという傾向がみられるように思われます。

第3が最も問題とされるべきです。妻が何も夫に働きかけないで、ずいぶん年月が経ってから、夫の嫌なところはこういうところだと抽象的に、おおざっぱな時期も特定せずに夫非難を展開し、だから婚姻は破綻している等という主張が、離婚訴訟の圧倒的多数のように感じます。

ずうっと不満だった。たまりにたまって爆発した等とよく表現される主張です。しかし同居期間中にその不満を夫に具体的に言ったことは無いようです。建設的に改善を促していたということも主張されることは少ないです。

妻は、夫の行為に不満を持ち、それを夫に告げず、夫はこれまで何も言われていないためにまさか妻が自分に不満を持っていたとは思わず理解すらできません。

結局、この種の女性の主張と言うのは、「夫は妻が何も言わなくても妻の不満を察するべきであり、その上で夫が改善するべきだ」というということを主張しているようにしか思えません。つまり、女性の機嫌は男性が作るという主張ではないでしょうか。この主張は、「女性は自分の置かれている環境を自らの働きかけで改善するのではなく、すべて夫に依存している存在なのだ」ということを言っているにほかならないのではないでしょうか。当事者の妻ご本人は、離婚手続き時は葛藤が高まっているから、このような主張になることについて気が付かないのですが、第三者であるべき弁護士がその姿勢を無批判に追随していることはなんとも情けないと思います。

ただ、なかには、実際はいろいろと妻側が関係修復の努力をしていたり、関係修復の努力ができない事情がある場合もあるのです。私は、弁護士は当事者から丹念に事情を聴取し、一度好きあって結婚して子どもまで設けたのに離婚を決意した事情というものがあるはずだという姿勢で、当事者の方の実情を、ご本人も自覚できないものも含めて言葉に編み上げるのが仕事だと思っています。このような丁寧な仕事をせずに離婚訴訟を出してしまうのは、弁護士こそが女性の幸せは男性に依存していると考えにとらわれて、それ以上の調査や考察をはじめから行わないところにあるのではないかとにらんでいます。

そのような理解をするためには、人間についての十分な勉強に基づいた考察と理解が必要です。それにもかかわらず、端的に言えば暴力についての効果について勉強していないとか、あるいは人を恐れる原理、嫌悪する理由などについての考察が全くなされていない等きめ細やかな人間の感情に興味を持っていないように感じられてなりません。単に「男性は支配欲求があり、支配のために暴力をふるうのだ」というようなあまりにも浅はかなステロタイプの志向に基づいた大雑把な主張をしているとしか感じられません。マニュアルのようなもので離婚事件を「処理」しようとしているように感じてしまいます。

フェミニズムを自称して離婚事件を担当する者が、ハーマンやウォーカー、あるいはイルゴイエンヌの原著(もちろん翻訳で構いませんが)も読んでいないのは私には信じられません。本来には認知心理学や発達心理学、及び最低限の医学的、生理学的知識が必要であると常々実感しているところです。

このような大雑把な「当たらずしも遠からず」みたいな主張が改まらないのは、裁判所がこの程度の主張でも離婚を認めるからに外なりません。つまり、離婚原因があって、離婚原因を作ったのは誰かということを丹念に検討するということをしません。あくまでも別居の事実が長く、一方当事者に復縁の意思がないということで離婚を認めてしまうところが問題です。

裁判に勝てばよいやと言う考えであれば、当事者の方々の苦しみに理解をせずにも裁判所に受け入れられるような主張を脚色すればそれでよいと考えれば、それ以上の努力を人間はしないようです。

第4は、いわゆるDVを行うのは男性であり、女性は常に被害者であるという考えです。

これは、行政などでは徹底しています。男性の被害者相談が設けられているのはまだ少数なのではないでしょうか。DVは、精神的虐待も含まれるということになりました。精神的虐待の案件は、男女差は無いはずです。また、配偶者からの攻撃によって自死に追い込まれるのは男性の方が断然多いと思います。それでも男性の被害救済はほとんど実現しません。

結局、苦しんでいる人を救おうという発想ではないのです。DV相談は、結局離婚を進めることが多いのではないでしょうか。しかも、十分な事実調査を行いもしないのに、「夫の妻に対する虐待があり、妻には命の危険がある。」という認定をするというのが、私の離婚事件の相談センターの例外のない活動です。つまり事実に基づいて苦しんでいる人の苦しみを取り除くというのではなく、相談に来たら離婚をさせるという出口しかないということです。税金を使って離婚をさせるための機関のような感覚さえ受けます。不満があれば離婚を勧め、快適でなければ離婚を勧める。

そこに女性が社会の中で自立して自己を実現していくということに対するエンパワーメントの視点も、女性一般の社会的地位の向上も考慮されていないのです。ただ、離婚先にありき、女性を夫婦という人間関係から切り離すという方針ありきという印象がどうしてもぬぐえないのです。

女性の社会的地位の恒常とか、女性の視点を社会の人間性回復に活かすとか、世界平和に影響与えるという視点はおそらく言い出したら笑われることなのでしょう。

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現代社会の人間の慢性的に生じる不安の状態について 【300万ヴュー記念】 [進化心理学、生理学、対人関係学]



いつの間にか閲覧数が300万件を超えていました。これほど長文でとっつきにくい文章を読まれる方がいるということに敬意を表さずにはいられません。これまでの記事の中でところどころでてきたことですが、この記念ということを言い訳として、心と環境のミスマッチ総論についてのまとめをアップさせていただきます。

【要旨】
拙文は、現代社会の生きづらさ、不具合の根本に人間の心の問題があるということ、心は人間の心は狩猟採取時代に適合したものとして作られているため現代社会には適合していない部分が大きいこと、この環境と心の不適合(ミスマッチ)が現代社会に生きる人間の生きづらさの根源であることを述べています。

【比較対照する時代】
表題の現代社会の「現代」というのはいつを言うのかというと、とりあえず今日現在ということで考えてよろしいと思います。ではいつの時代と現代を比較するのかというと、昨日までということではありません。現在からおよそ200万年前から1万年前くらいの期間、人間の祖先が狩猟採取をして生活し、数十人から200人弱の群れで生きていた時代(狩猟採取時代)を対象とします。

【二つの時代の人間の生きる環境の違いで重要な2点】
現代と狩猟採取時代の違いで重視するべきは、2点です。
・ 日常生活で関わる人数
   現代は膨大な人数の人間とかかわることを余儀なくされています。インターネットを通じての関与者の人数を含めるとさらに膨大です。これに対して狩猟採取時代は、群れの人数は200人を超えません。
・ 自分が所属する群れの数
現代は、家族、職場、学校、それらの小分けされた利害集団、趣味のサークル、町内会、インターネットのグループ等々膨大
狩猟採取時代は、一つの群れだけ。
というところです。

【不安は、生き残るためのツールであるということ】
不安を感じる能力は、進化の過程で獲得した生き残るためのツールであると私は考えています。不安は、生き残るために有効な役割を果たすという表現の方が受け入れられやすいでしょうか。

・ 生命身体の不安
現代社会でも自動車の交通量の多い道路を横断することは、命の危険もありますので、横断しようとしても不安になるはずです。だから、きちんと信号機が交通整理をしている横断歩道を渡ります。不安を抱きやすい人は、青信号になっても、まだ走行してくる自動車がいないか確認してから横断歩道を渡り始めますから、より安全に横断することができます。
この反対に酒を飲んで酔っ払って、不安を感じなくなって(=気が大きくなって)横断してしまった結果、交通事故にあうということはよく報道されている通りです。不安が交通事故を予防してくれるのです。

もう一つ例を挙げると、寒暖差が激しくて腰に違和感があると、腰痛が出てきそうだと腰痛持ちの私は不安になり、腹巻をするとか、きちんと着込むとか、激しい運動を控えるとかして、腰痛になることを防止しようとします。

不安は、身体生命を害することを防止するツールという側面があることは間違いないようです。

・ 原因不明に発生する不安の効用
不安にもいろいろな発生原因があり、体調不良を心配した不安もあれば、人間関係の不具合の不安もあるでしょう。精神疾患の一部など原因不明の不安もあります。原因不明の不安については、何かの予防にはならないようにみえますが、不安によって活動を停止することによって、紛争を避けるという効果があるという学者さんもいらっしゃいます。誰かとけんかをするほどの精神的エネルギーがない場合、紛争に耐えられない精神状態になっているというとき、無意識のうちに、活動を控える、引きこもるという行動をさせて、耐えられない精神状態となることを無意識に回避している可能性があるかもしれません。

・ 対人関係の状態から生じる不安
さて、不安のもう一つの原因は、対人関係の問題です。
この不安も、自分が例えば職場で調子に乗ってやりすぎてしまい、顰蹙を買いそうだという空気を読んで、少し行動を控えるという形で人間関係に致命的な不具合を回避できれば、身体生命の不安のように対人関係的な不具合を起こさないためのツール、自分を群れにとどめるためのツール、群れから追放されないためのツールになると思われます。

中には、信号機のある横断歩道を渡るように、不安とは関係なく習慣やルールに従って行動をしているだけだと感じている人もいると思います。しかし、習慣やルールは、目的や機能があって存在しているので、元をただせば、不安に対する対応、すなわち危険防止という側面があると考えています。

人間関係を円満に、協調して過ごすために、様々なルール、道徳や法律などが存在していると思うのです。

【狩猟採取時代に適合した対人関係的不安 群れを作るツール】
この対人関係における不安のツール、つまり人類が心を獲得したのは、まさに今から200万年前だとされています。進化の過程の中で獲得したのですから、このツールが自然環境の中で人類が生き残るために、とても有利だったという事情があります。
その有利な事情とは、「群れを作る」ということです。不安を感じる心があったからこそ、人類は群れを作ることができたのだということです。

【群れを作ることの4つのメリット】
・ 捕食の危険回避と食料の獲得
人類は、単独で当時の厳しい環境に生き残ることは不可能でした。肉食獣などから身を守るということ、食料を獲得して動物性たんぱく質を摂取することを安定して行うためには、複数人の協力が必要でした。

群れが必要な理由は、捕食を回避すること食料を獲得することの外にあと二つあります。

・ 育児
一つは育児です。他の動物と比べて、人間の新生児は極めて未発達の段階で生まれてきてしまいます。馬の仔が生まれてすぐに立ち上がり歩きだすことと比べると驚くばかりです。これも頭脳を発達させてしまったのでしかたがありません。これ以上成長してから出産することが母体には無理があるからです。人間の幼体は10年くらい続きます。母親が出産が原因で命を落とすこともあるでしょう。どうしても人間の新生児を成体まで育てるためには、集団での養育が必要であり、群れが存在していなければならなかったということになると思います。

・ 概日リズムと群れ

もう一つの群れが必要な理由は、長生きをしなくてはならないということです。何せ繁殖能力を得るために、生まれてから十数年かかるということですから、それまで大人たちが養育させなくてはなりません。例えば18歳で出産した場合、その新生児を18歳まで育てるとしたならば、30年以上は生き続けることが必須となるでしょう。

天敵のいない動物であれば穏やかに長生きができそうな気もしますが、人類は、肉食動物に襲われる恐怖があり、また、動物を獲得できない期間が続けば飢えに苦しむことになります。ストレスが強く、なかなか長生きができそうにもありません。この長生きのためにも群れを作ることは有効だったと思います。

人間に限らず地上の動物には、体内時計があり、多くは昼間に活動して夜に休息しています。体内において生理的変化が生じていて、昼間は交感神経が優位になっており、血液が筋肉に流れやすいなど動き回ることに適した状態になっています。ところが、動き回ったり、緊張をしたりすることのデメリットとして血管などの臓器が傷つきやすくなるわけです。放っておけば、心臓や脳の血管が破綻して死亡に至ります。これが現代の過労死の仕組みです。ところが、都合の良いことに体内時計で夜を感じると、交感神経は沈静化して、副交感神経が活発になります。副交感神経が優位になると、緊張や動き回ることには適していませんが、血管などの臓器のメンテナンスが行われるようになります。睡眠をとることで疲れがとれるということで実感もできるでしょう。

個体や数人の群れであれば、夜行動物に狙われればひとたまりもないのでとても落ち着いていられません。夜間でも緊張状態が続き、睡眠などがとれない状態になります。まさに過労死をする条件が整ってしまいます。ところが群れが数十人規模になれば、肉食獣の方もおいそれとは襲いにくい状態になります。こうやって群れに戻れば危険が生まれないということを学習すれば、群れに戻ることによって緊張をほぐし、安心することによって副交感神経が活性化し、心身のメンテナンスがよりよく働くようになるでしょう。こうやって、人間は群れを作ることによって、安心感を獲得して、長生きが可能になったということが大切な視点であると思います。

【狩猟採取時代に適合するツールとしての心】
狩猟採取時代は極めて単純だったと思います。以下は、ダニエルリーバーマンの「人体」早川ノンフィクション文庫を元に想像をめぐらしてみます。

群れは、二つに分かれて狩猟採取チームと植物採取チームと別れていたようです。狩猟採取チームは、リーダーの統制に従って、小動物を集団でどこまでも追い続けて、相手が暑さと疲労で弱ったところを捕獲するという手法だったようです。植物採取チームは、小動物を狩れないときに備えて食べられる植物を採取し、子育てや老人、病人の介護をしていたようです。やはりリーダーの統率を受けていたと思います。リーダーは固定していたかどうかは不明ですが、リーダー以外の人間は、率先してリーダーに従うという秩序を重んじることを志向していたはずです。それぞれのチームは昼間に交感神経を活性化させて、活動し成果を上げていたことでしょう。そして、夕方にそれぞれの成果を持ち寄って群れに合流していました。何世代にわたって、チームでいるよりも合流した方が、危険を回避し、食料を得られるということを学習していきました。自然に群れが合流すれば、安心感がわいてきて、リラックスできたのだと思います。

このころは、群れの中は完全平等だったと言われています。それも、心の作用によって、平等が保たれていたのだと思います。つまり、先ず、誰かが自分だけが食料を多くとったら、他の者から恨まれますので、群れから外されるという不安が生まれます。群れから外されるという不安を回避するために、自分だけ多くとるということをやめようとしたというのが一つの理由です。また、生まれてから死ぬまで同じ群れで育っているので、だれがどういう表情をしているときはどういう気持ちなのかよくわかったはずです。人類には共感力がずば抜けて発達しています。仲間のひもじい気持ち、寂しい気持ちを感じたら、自分も火文字い気持ち、寂しい気持ちになったはずです。だから誰かだけ多く与えられて、誰かだけ少なく与えられるということは無かったはずです。

特に弱い者、小さいものに対しては、助けてあげようという気持ちが自然と沸き上がり、大人が我慢しても弱い者には無理にでも分け与えていたと思います。

このような平等主義と弱者保護の心は、当時の自然環境にはよく適合していたと思います。なにしろ、捕食されることを回避するにも食料をとるにも、群れの頭数が足りていることが必要でした。強い者から食料をとっていってしまうと、弱い者にまで十分に食料が回らないために、弱い者は厳しい自然環境の中死んでいくしかなかったはずです。そうしてしまうと、群れの頭数がどんどん減っていきますから、どんなに強い個体が生き残ったとしても、肉食獣の餌食になりやすくなりますし、食料を確保することが難しくなってしまいます。こうやって、群れの弱体化は人類を簡単に滅亡させることになってしまいます。

もっとも当時の人類が、このような成り行きを論理的に考えて、理性的に平等主義、弱者保護の心を発揮したと考えるには無理が大きいと思います。あくまでも偶然、平等主義、他者への配慮、弱者保護の志向を持った人類の一部だけが生き残ったという方がわかりやすいことだと思います。

当時の群れは必ずしも血縁関係があったものだけではないようなのですが、現代であれば、弱者を保護しようとして自分の食料を分けてしまえば、家族から攻撃されることもありうることでしょう。取引相手につい過剰に熱を入れて相手に有利な取引をすれば会社から処分されることもあるでしょう。しかし、何と言っても群れは一つしかありませんし、群れの大方の評価、誰が弱者であり特別な配慮が必要なのかという見解はおそらく共通のものであったと思われるので、援助や協力を非難する者はいなかったと思われます。

群れの構成員は、群れの役に立つことが嬉しかったのだと思います。例えば食料をとることによって、みんなに食事をさせることができると思えば、仲間が喜ぶ顔、満ち足りた顔をすることをイメージして、自分も嬉しくなったことでしょう。

逆に、自分が群れの役に立たなくなったと思う人はいたたまれなくなったかもしれません。群れからはぐれれば捕食の危険と餓死の危険が付きまとうわけですから、いたるところ姥捨て山です。あるいはそっと自分から群れから外れようとする者もいたのかもしれません。しかし、そのことに気が付いて、その人の寂しい心を読み取り、自分がものすごく悲しい気持ちになったり、死の危険を覚悟する心に共感してしまえば、狩猟に出られなくてもいいから群れにとどまってほしいとみんなが思って引き留めたということがあるのではないでしょうか。また、狩猟採取時代は、やらなければならないこともたくさんあったので、なにがしかの仕事も分け与えられたのではないかと、そんなことを想像しました。

おそらく、狩猟採取時代は、群れと自分が区別がつかないほど、精神的にも利害が一致していたはずです。病気やけがなどによる弱者ではなく、何か失敗をしてしまったというときも、その人が失敗したことで群れから追放されるのではないかとか、群れに迷惑をかけたことを悔いている姿があれば、大目に見たのだと思います。困っている感情に共感してしまうからです。

狩猟採取時代の人類は、自分が仲間から外されることは無いという安心感を基本的には持っていたはずです。仲間は一生仲間であり続けるということを疑う者もいなかったと思われます。

こうして衣食住が極端に粗末で、衛生状態も悪く、簡単な病気でも死んでしまうような時代に、一人では肉食獣に捕食されてしまい、エサも取れない頭でっかちの人類も生き残ることができたのだと思います。

【現代でも、狩猟採取時代の心が継続しているということ】
現代社会はどうでしょうか。

現代でも人間の心は狩猟採取時代の心と基本的には変わりません。人類の心は狩猟採取時代の前から徐々に形成されてきたものである上に、狩猟採取時代が200万年くらい続いていたものですから、狩猟採取時代が終わった1万年程度では変わりようがないのです。

通常の人間は150人以上の他人の顔と名前と、性格などを識別することができません。誰かが誰かを助ける姿を見ると感心したりします。無力な赤ん坊を見るとかわいく思い、つい助けおうと思うわけです。本当は人間の心なんて何も変わっていません。頭蓋骨や脳の構造も200万年前からそれほど変化は無いそうです。

道徳でも、宗教でも、倫理でも、あるいは哲学でも、根本的な価値観は私は共通していると思います。それが狩猟採取時代の心にもとづく価値観です。

【心と環境のミスマッチの形】
現代社会と狩猟採取時代の違いをおさらいから始めます。

【かかわる人数が膨大であること】
 
例えば出勤を考えてみましょう。朝起きて家族と朝食をとるなどしながらあわただしく出勤します。駅までの道すがらすれ違う人もいるでしょうし、道端の家に人々が住んでいるということもあります。マンションなどでは道に出るまでも近くに他人がいます。電車やバスに乗れば、触れ合う距離に見ず知らずの人がいますし、電車を降りて都心に出れば大量の人間と道を共有しています。会社のビルには自分の会社の従業員だけではなく、他者の人間もたくさんいます。そして会社に付けば、会社の規模によっては名前も知らない同僚もいるわけです。外に出て取引相手と会う、それまでの通路等々、キリがありません。
 物を買うとか、病院に行くとか、ほとんど何も知らない人と会話をするということも避けられないことです。
 さらに、SNSなどでの交流がある人は、本名も顔もわからない人たちと感情を含んだやり取りをすることもあるでしょう。また、世論によって社会が動くとすれば、知らない誰かと利害が対立していることもあるでしょう。誰かの都合で自分が損をしていることもあるかもしれません。

 これに対して狩猟採取時代の他者とのかかわりは、群れの仲間とのかかわりがほとんどすべてでした。200人弱、大体150人くらいが、その時その時の関わる人数でした。狩猟採取時代と現代の一番の違いは、狩猟採取時代は関わる全ての人間を個体識別できたということです。その人の性格や、行動パターン、志向や、得意不得意、長所短所等、本人よりも把握していたでしょう。共感や援助の土台がしっかりしていました。

 現代社会の他者は、どこの誰かもわかりません。どのような生い立ちであるかとか、何を大事にしているかとか、性格がどうかとか、長所短所など全く分かりません。人間の形をしていることは間違いありません。しかし、動物種としての人間であるという認識は持てても、当たり前の感情を持った人間であるということや、その人間が不利益を受けて悲しい気持ちになるということ等は、積極的に考えようとしなければ自然に感じることは無いでしょう。

相手が見えないあるいは見えにくい犯罪類型というものもあります。自分がこの犯罪をすることで誰がどのように傷つくかということを想定しないで犯罪を実行するというパターンです。自分の事情だけで誰かを損をさせたり、傷つけることをしようとしたりしているのに、その時に相手の苦しみを想像することができません。万引きなどの窃盗、詐欺や恐喝、性犯罪等、多くの犯罪で、被害者の感情を考えないで犯罪が実行されています。

【所属する群れが複数あるということ】

 狩猟採取時代は、生まれてから死ぬまで原則として一つの群れに所属していたようです。
現代社会では、いくつもの群れに所属しています。家、学校、職場、ボランティア、サークル等や、地域、国、民族、軍事同盟等知らないうちに特定の群れに所属していることも多くあります。

 学校では仲の良い友達同士なのに、親同士は対立する会社に勤めていたりすれば、関係は複雑になっていくでしょう。この問題は、人類のテーマになっており、ロミオとジュリエット等の文化芸術作品でよく取り上げられています。

【自分を守る、自分たちを守るという本能】

現代社会で生きずらい理由を考える補助線を一つ入れるとすれば、生き物である以上自分を守るということが一つと、人間が群れを作るということから自分たちを守る、自分の仲間を守るという本能があるということです。

 狩猟採取時代は、利害対立ということが実際は起きませんし、仲間を食い物にして自分だけ利益を得ようということがそもそもできない仕組みになっていましたから、他人から自分を守るという論点がほとんどなかったはずです。子ども同士のけんかということはあったと思いますが、成人してからは無駄なけんかもなくなったはずです。
 また、仲間を守るために行った闘争は、野獣からの防衛戦であったり、獲物を捕獲するための闘争だけだったはずです。仲間を守るために他の人間と戦うという経験がなかったと思われます。
 その結果、狩猟採取時代は、自分を守る為であろうと仲間を守る為であろうと、人間と利害をかけて戦うということは無かったはずです。およそ人間は仲間であり、自分を尊重してくれる存在、自分を援助してくれる存在、自分を許してくれる存在、自分に利益を与えてくれる存在、自分が役に立ちたい存在だったはずです。

【人間、他者の意味合いが変わる現代社会】

現代社会では、狩猟採取社会とは、他人という概念が随分変わりました。

第1に、見ず知らずの人間が多数存在しているため、人間として親身な関係のない人間が存在しているということ。
第2に、所属する群れが複数存在するために、他者とはなにかしら利害対立することが通常のこととなったこと

【それでも仲間としての扱いを求めてしまう人間】

一番厄介な根本問題は、人間は人間を見ると仲間だと思ってしまうということだと思います。仲間であるから仲間として接してほしいと、つい思ってしまうこれが悲劇の始まりです。

狩猟採取時代、他人とは、生まれてから一緒にいる群れの仲間しかいませんでした。だから他人を見ると、何かの拍子に、つい、自分を平等に接してほしい、自分の苦しい感情に共感して自分を助けてほしい、自分に平等に分けわたえてほしい、自分を配慮してほしい、自分を見捨てないでほしい等と、無意識のうちに要求をしてしまうようです。それが満たされないと、いちいち傷ついたり、悲しんだり、自分に自信が無くなったりしてしまうのです。

特に、その人間が、長い期間自分の近くにいるという事情が生まれると、その仲間として扱ってほしい、仲間として尊重してほしいという要求が大きくなってしまうようです。

ところが、先ず他者は自分を仲間だとみてくれないし、利害共同体だとも見てくれない、自分に損をさせてその人が利益を得ようとする場合もある。自分を攻撃してくることがあるわけです。

ある人から攻撃を受けて、その人に反撃をするということは止めることができないでしょう。しかしややこしいことに反撃をした場合には、その反撃された人の家族であったり、友人であったり、その人を仲間だと思っている人から再反撃をされるということが起こりうるのです。

犯罪として刑罰を受けるべき行為も、その人の意識では自分を守るために行っているという意識を持つ類型があります。自分が人間として否定されたと感じたために相手に暴行をふるう形態の犯罪、少年事件の集団同士の決闘などはまさにそのような犯罪です。粗暴犯はそのような犯罪類型が多いでしょう。自分の飢えを満たすための窃盗事件などは、自分を守るための犯罪類型と言えるかもしれません。

相手を攻撃している瞬間、怒りの作用によって、相手が人間であることを忘れてしまうかのような容赦のない攻撃をします。相手が自分を襲ってきた野獣でもあるかのようにです。

犯罪にまで至らないにしても、例えば夫婦喧嘩などは、本当は仲良く関係を継続したいのに、相手からパートナー失格の烙印を押されそうだと感じて、それを否定するために口論になることが多いのです。でも口論をしているときは、相手を尊重するべき存在だということを忘却しているかのような攻撃がなされることがしばしばあるようです。

【心と環境のミスマッチの例】
この環境と心のミスマッチは、いたるところで生じてしまい、人間に不安を与えてしまいます。

・ 例えば会社の上司は、特定の部下だけを特別扱いするわけにはいきません。誰かを特別扱いすれば別の人が損をしてしまうという利害対立の関係にあります。現代の労務管理はその利害対立を利用して働かせようとするパターンもあり、意図的に孤立感情が作られやすい環境に置かれていると言えるかもしれません。
その人の失敗を上司がかぶってしまうと、上司が損をしてしまいます。上司が自分が損をしても部下を守ると言う人であったとしても、上司には家族がいます。自分が損をすることで家族まで損をしてしまうことはできないでしょうし、また会社の自分に対する評価が下がることを家族に知られたくもないでしょう。
たとえ部下に家族がいて、子どもが生まれたばかりだとしても、上司は自分を守るために部下をリストラするということも起きることです。

・ 学校でも、友達が困っていたら助けたくなるのが人間の心ですが、うっかり友達の孤立に寄り添って帰宅が遅れたり、塾に行かなかったりすると、親から叱られたりするわけです。親から叱られることが嫌だったり、親が心配することが嫌だから、そもそも友達に対して共感に基づく行動をしないということはよくあることでしょう。
また、教室の中にいくつかのグループがあると、他のグループを助けることで自分のグループやグループの仲間が損をするようなことがあれば、おいそれと他のグループに手を差し伸べることができません。

・ また、見たこともない人と利害が共通することもあれば、利害が対立することもあります。税金の徴収方法一つとっても、自分にとって有利な徴税は誰かにとって不利な徴税になるわけです。あの事業のために予算が使われれば、自分の関連する事業に予算が削られることが出てきます。

・ 戦争をしなければ生きていけない人もいるでしょうが、そうでもない人も戦争が始まれば戦争で命を落とすかもしれません。

・ 家族でさえも一生同じ群れというわけにはいかないことが多いようです。仲間の取り換えが利く時代ということにもなると思います。膨大な数の人間とのかかわりと複数の群れに同時に帰属するスタイルが定着してしまい、およそ人間だからと言って、尊重する相手だとは思わなくなってしまっているのだと思います。誓い合って結婚した夫婦でさえ、いつしか、相手を信じ切ることが怖くなってしまうのでしょう。

 人間はいつまでも同じ仲間である群れの中で、安心して暮らしたいという本能、心を持ってしまっています。ところが現代社会では、どんな人間関係でも永続して安心してその関係に所属し続けるという保証がありません。意識していると意識していないとにかかわらず、常に自分の仲間から孤立してしまうのではないかという不安を抱きながら、生きている人が圧倒的多数ではないかと思います。

 不安は、自分を守ろうという心と行動を引き起こしてしまいます。しかし、この自分を守ろうという心と行動は本能的に、感情的に発動してしまいがちであるため、他者からは自分が攻撃されたと感じることもあるでしょう。あるいは、自分としては正当な自己防衛だと思っていても、考えが足りずに犯罪になることもあるでしょう。夫婦や人間関係の紛争の火種になるものです。

また、将来的な見通しを立てられない原因としては、不安が持続することによる脳の機能低下も挙げられます。不安が持続して焦燥感が強くなると、二者択一的思考、悲観的思考、刹那的な行動傾向、衝動的な行動傾向が強くなります。
さらには、睡眠不足を引き起こし、ますます脳の機能低下が進んでしまいます。

これが社会病理の起きる仕組みであると考えています。

【若干の対策として考えられること】

本当は、本人にとって大切な群れと大切ではない群れがあるはずなのです。ところが、どの群れからも自分が尊重されたいとつい思ってしまうのが人間のようです。特に、いつも一緒にいる群れは、自分にとって狩猟採取時代の群れとして感じてしまいます。その結果、その群れに無条件にとどまろうとして、群れのために全力を尽くそうとしてしまいます。群れから外されそうになっていると感じると、無意識に群れにとどまろうと努力をしてしまのです。そして群れから外されることが決定的になってしまい、とどまる方法がないというだけで、絶望をしてしまうのが人間のようです。その群れ以外にも人間は所属している群れがあり、その群れでは良好な関係であったとしても、一つの群れで決定的な不具合が生じてしまうと、つい絶望をしてしまうということのようです。

過労自殺はまさにこうしておきます。本当は家族と良好な関係にあるにも、職場という毎日身近に存在する人間関係の中で、自分が追放されてしまうような評価をされてしまうと、つい職場にとどまろうと必死になってしまい、職場こそが自分が命を懸けてとどまる群れだという意識が無駄に強くなってしまい、無駄に絶望を感じてしまうのが人間のようなのです。

人間の脳は、複数の群れに所属することにうまく対応するほどの能力はありません。
だから、先ず、全部の群れで尊重されようとしないで、群れの序列を作るべきです。そして、基本的には一つの群れに所属するようにしか人間の脳はできていないのだから、一番大切な群れを決めて、意識して、その群れの利益を最優先にすることを意識的に行うことが必要だと思うのです。
狩猟採取時代のような群れを一つ作るということです。そこに帰れば自然に安心できる群れを作るということです。そして、その群れを何よりも優先して考える。そういう割り切った生き方をするということです。

それに一番適している群れとは家族であろうと思われます。

家族のために役に立つことで喜びを感じ、家族が喜んでいる姿を見ればわがことのように喜ぶ。家族が失敗しても許しあう。

たとえ家族から攻撃を受けても反撃をしない。耐え続け、戦いを避けて静かに身を潜め嵐が過ぎ去るのを待つ。要するに家族から攻撃されても、自分を守ろうとしないということです。

そうして、家族同士が、家族は絶対に自分を見捨てないという安心感を獲得するということが現代社会を生き残る最も効果があり、実現可能な切実な方法だと思うのです。

但し、現代社会の構造からは、先に見たように、放っておけば、家族同士でも安心できない相手だと感じるようになりがちです。

だから、人間の心の安定、充実した人生を送るためには、意識して家族を安心できる存在に育てていくことこそ必要だと思います。人類は、現代社会が人間の心とミスマッチを起こし、不具合を起こしやす構造的問題があるということを強く意識して、総がかりで対策を講じるべきだと思います。

これが現代社会において理性的な取り組みが必要な人類の課題であると考えています。

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