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いわゆるツイフェミ現象に学ぶ、家族に嫌われない夫、父親の在り方 [家事]


男性の中には、家族のためにと思って、自分の人生をささげていると言う人が本当に多くいます。そして良かれと思って家族に対してあれやこれや口を出すのです。あくまでも良かれと思って発言しているわけです。
それなのに、何が悪いのかわからないまま、妻や娘、時には息子からも毛嫌いされていると感じるという悲哀を味わう男性も少なくないようです。自分が何かを話したばっかりに家族に無用な緊張感が走ったり、雰囲気が悪くなったりするという経験のある男性も多いことでしょう。極端なケースでは、わけのわからないうちに、妻が子どもを連れて家を出て行くなんてことも起こるわけです。

どうして家族から否定評価されるのかをあらかじめ知っておれば、孤立した老後を過ごさないで済むし、不意打ちで孤立するということもないと思うのです。何か格好の説明方法がないかと探していたところ、ツイフェミにまつわる議論が使えるなと目にとまりました。

ツイフェミという言葉があるということを先週末初めて知りました。ツイートをするフェミニストという意味らしいのですが、必ずしもフェミニストという体系的な考えを持った人のことではないらしいです。もちろん男性も女性もいらっしゃるようです。

論文での意見発表ではなく、時々の出来事をツイートされるのですが、女性の社会的地位の向上の観点から、不適当な他者の表現活動などを指摘されている方々がツイフェミさんと言われているようです。

ツイフェミという言葉は、肯定的なニュアンスというよりも、否定的ニュアンスで語られることが多いようです。それは理解できるような気もします。新しい秩序を形成しようという場合は、古い秩序との軋轢が必然的に生じますので、反発の反応が起きることも必然であると思います。

ツイードなどのSNSは鮮度ということがとても大切で、その時間を共有している相手に対して、その共有を前提として文字発信をするという特徴がありそうです。このため、事後的に見れば、難解な主張だったり、反発が大きくなることも、メディアの限界も手伝ってありそうです。そのような表現メディアの限界もおそらくあるのでしょう、一部のツイフェミさんのツイートが、色々批判を受けているようです。批判者から見れば以下のように批判されているということになるのではないでしょうか。

1)主語が大きい。「私は」と言うべきところを「女性は」と言ってみたり、「あの男性は」と特定するべきところを「男性は」と普遍化する言葉を送信してしまう。(批判として主語が大きいというのは気が利いていておかしい。感心する。)
2)相手の真意を確認しないで、自分なりに解釈して批判する。このため、批判される方は、何が何だかわからないけれど自分を否定してきていると感じる。
3)自分もできていないにもかかわらず、相手ができないと批判する。これを最近の方々はブーメラン現象と呼ぶらしいです。
4)批判の表現など態様が苛烈であり、容赦がない。
5)これを言うことで相手がどう思うかという配慮をせずに目的に合致すれば発言してしまう。

このような批判がなされているようです。

これは、主として中年以降の男性が家庭の中で批判されてきた内容と極めて酷似しているのです。

さらに、ツイフェミさんと呼ばれる方々(女性)の主張を見ると、ああなるほどなと理解できる部分があります。ツイフェミさんは男性を毛嫌いしている発言をする方が多く、また、え?こんなことでというくらい、性的表現に極めて敏感でそれに対して攻撃をされているようです。つまり、男性一般に対して安心感を持てないということが一つの特徴です。そして、性的だと感じることができる部分に関して過剰に性的であると感じてしまい、嫌悪や恐怖の対象になってしまう、つまり過敏になってしまう。そうして自分を守らなければならないという意識が強くなりすぎ、不安から解放されるために他者を攻撃するという方が多いのだろうと思われます。

中年以上の男性は、家族の女性や若年者に対して、このようなむやみな嫌悪感や恐怖感を抱かせやすくなるようです。皮肉なことに、その原因について検討するには、一部のツイフェミさんに対する批判がとても参考になるようです。

おそらくこれだけでは、中年男性はピンとくることもないと思われますので、少し解説します。

1)主語が大きい
中高年男性の主語は、「世間は」とか「常識では」とか、なになにすることが「当たり前だろう」等です。妻や子どもが、自分と意見が合わないような行動をすることに過敏に反応をしてしまい、それを修正してもらったり、やめてもらったりしたい場合に、「私はこう思う」という言い方をしないで、「そんなことをしていたら世間で通用しない」とか「社会から脱落してしまう。」という言い方をしてしまうようです。
言っていることには間違いがないとしても、価値観の違いがあれば、受け手は単に反発するだけです。また、「社会的に認められない」という言い方は、受け手からすると全否定をされているように感じるものです。また、このようなことは何等裏付けがなく、裏付けがないことをごまかすように全否定する表現ということで、受けるほうは不満ばかりが募っていくようです。

当然中高年男性としては、自分が社会の中でそのような経験をして苦しい思いをしてきたから、家族にはそのような辛い思いをさせたくないということが出発点なのです。それでも表現の仕方によって、相手を否定することがルーチンのように、親切心や配慮を捨象した形で伝わってしまうようです。

2)一方的な意見表明
中高年男性は、良かれと思って、しかもそれに自信を持っていますから、家族の相手のために、何としてもその行動をやめるとか、修正をしてほしいと思うわけです。しかし、そういう行動をするのも、通常はそれなりに理由があってのことなのです。自分の知らない事情でそういうことをやっているかもしれないのに、悪だと決めつけて否定しているように、相手からは感じられているということになかなか気が付きません。

だから、仮に中高年男性が言っていることが正しいとしても、事情を尋ねるという余裕なく結論を求めてしまうと、相手方は自分を否定されていると感じ、結果として自分が中高年男性から攻撃されていると受け止めてしまうことになるようです。

3)ブーメラン現象
まあ、その家族に意見を言っている段階では、既に自分ではそういうことはしていないとしても、過去においてそういうことをしていた場合には、言われた方からすれば、「自分だって同じことをしていたではないか。どうしてこちらにばっかり否定してくるのだ。」という気持ちになるでしょうね。理不尽な気持ちになるということです。
実際は中高年男性は良かれと思って言っているのだし、自分が失敗してきたからこそ家族には失敗してほしくないと思うのです。でもそうならば、そういうふうに言えば反発も少なく、説得力も増加するのですから、言い方を気にするということが大切です。
いずれにしても、どうやら中高年男性は、自分は批判を受けないということを前提として相手家族を批判しているところがあるのかもしれません。しかし、それでは、現代社会の家族の人間関係としては不適当なのでしょう。家族は、父親や夫が聖域であるとは考えていません。

4)批判が苛烈
  先ほど述べた「世間では通用しない」という言葉の表現の外に、大きな声を出す、眉間にしわを寄せて話す、言葉が乱暴になる等の場合は、家族としては付き合いにくい相手だという評価が下されるようです。中高年男性としては良かれと思って言うわけですから、熱を込めて言うため、そのよう相手からすれば恐怖を感じたり、自分を強く否定していると受け止めるようです。
  ツイフェミの方々はわかりませんが、中高年男性の家族に対する批判の場合、このような声だったり表情だったり、態度だったりが、相手に不快感、恐怖感を与えているということに思い至らない場合がとても多いようです。この結果、家族仲が比較的良好な段階までは、「どうしてお父さん怒っているの?」と言われて困惑することが多くなるわけです。「え?自分がいつ怒った?」と困惑し、「怒ってない!」とムキになって反論するときにははっきり怒ってしまっていますから、なんとも対処の方法がないということになります。いつしかそういうことも言われなくなり、単にいつも怒っている人間と諦められるようです。

相手家族からすれば、「どうしてそんなことで私に対して怒るのだ。」と感じて、自分と中高年男性は敵対関係にあるという意識に染まっていくようになるようです。

5)言われる方に配慮しない
正義を主張する場合、それはどうしても守られなければならないと考えてしまうので、自分の主張は当然であり、最優先して従わなければならないと考えてしまうものです。
「正しいことをいうときは、少しひかえめにするほうがいい」
というのは吉野弘の「祝婚歌」という詩の一節です。全くその通りなのでしょう。披露宴でスピーチを頼まれたら余計なことを言わずにこの詩を読んで、詩集をプレゼントするというのが一番良いと私は思います。

結局、家族も意思がある人間ですから、強制されることは本能的に嫌うわけです。本当にそれをしてほしい、それをしてほしくないという場合は、家族であるからこそ、あるいは切実に結果を実現したいからこそ、結果を押し付けるのではなく結果に誘導するという方法をとらなければならないようです。誘導する方法が思付かないときは、あきらめるか、控えめに言うことを心掛けた方が結局はうまくいくのだと思います。

自分が正しいと感じてしまうと、言えばわかるはずだという態度になってしまうようです。しかしそれは家族に対する甘えになってしまうようです。赤ん坊が要求を通そうとすると、それだけで赤ん坊の要求を実現しようと誘導されてしまいますが、中高年男性ではそうはいきません。単に、家族を支配しようとする独裁者に見られてしまうと考えていた方が無難なようです。

但し、嫌われようと、孤立しようと、言わなくてはならないときはあります。その時は、自分を犠牲にしても、それをするべきです。その結果自分が孤立したり、嫌悪されたりしても、自分が役割を放棄しなかったことに満足するべきなのでしょう。

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積極的人権概念の必要性と試論 令和3年文化の日表彰記念 [弁護士会 民主主義 人権]



私は人権擁護活動に対して、令和3年11月3日付で宮城県から文化の日表彰を受けました。表彰に対して感謝の気持ちを表そうとこの文章の構想に入ったのですが、既に一年以上が経過してしまいました。あまり肩ひじ張らずに、人権啓発活動の中で感じたことをまとめてみるだけにすることとしました。

1 人権の具体的な積極的概念の必要性

人権啓発活動をする際に高いハードルを感じるのは、一般の方には「人権」という言葉の意味がわかりにくいということです。大学の法学部における人権という言葉の説明として、人が生まれながらに持つ権利とか、国家権力をしても奪えない固有の権利とか、あるいは、自由権や社会権があるとか、そういう性質的なこと、側面的なことは説明がなされています。しかし、肝心の何が人権で何が人権でないかということを考えるにあたっての道具となる定義というか、人権概念というものが曖昧で、少なくとも一般の方に向けて「一言で人権とは」ということができなくて困っています。

憲法上保障されている人権カタログを列挙して、これに類するものという説明の仕方はあると思いますが、一般の方向けのせいぜい1時間くらいのお話の中で、そのような説明をしていたら時間が足りません。啓発研修は人権の勉強会ではなく、相互の人権を尊重しあって、具体的な生活の場で人権が充足されるきっかけとするということが目的です。人権ということを法学部的に説明していったら、目的にそう肝心の話ができなくなります。

特に自治体での人権啓発の場は、「家庭の中の人権」とか、「職場(学校、医療、福祉)の中の人権」、「学校の中の人権」ということがテーマになるので、ダイレクトに私人間で相互に人権を尊重すること、その実践可能で具体的な方法を述べる必要もあります。

いっそのこと人権という概念によらずに、道徳とか優しさとか善とか別の概念を用いようかとも思うのです。しかし、それでは税金で構成される予算を執行する地方自治体という公的な機関の活動としてはやや問題があるようです。法の執行という特質を反映するためにはやはり人権啓発、人権の普及という活動という枠を維持する必要があります。また、人権ということで、家庭の中の人権を尊重するということから始まり、やがて様々な人間関係の中で、人権というツールを用いて、広く相互尊重をする社会を作るという理想もありますので、やはり人権という概念はどうしても必要だと思われます。

「世界中の人間には人権を守るという大きなコンセンサスがあります。人権ということはこれこれこういうことです。まず家庭の中の人権について考えてみましょう。そしてその人権尊重を家庭の外にも押し広げていきましょう。」と、わかりやすく言えばそういうことです。だからどうしても「人権」とは何かをわかりやすく説明する必要があるのです。

2 特に積極的な概念としての人権概念の確立の必要性

人権が確立していく歴史からすると、確かに特定の人間に対する攻撃、被害があり、それをさせないために人権という固有の権利を作り上げて、人権侵害を防止し、侵害された人権を回復させるという文脈で人権概念が構築されてきたと思います。つまり侵害されてからそれが人権だから今後は侵害されないようにしようという人権概念が確立されてきたのかもしれません。

おそらく、それぞれの個別の人権概念が確立した際には、その確立した時代の考え方があり、侵害された利益を人権として擁護しようということが、最終的には権利であり、その中でも人権として社会的に承認がなされ、高められやすい素地がその時代のその社会にはあったものと思います。

憲法の人権カタログは、そのようにして尊い犠牲や権利として尊重するという運動によって整備、充実されたのでしょう。

ところが現代社会では、様々な人間関係が形成され、人間関係相互の関係も複雑に影響しあっているという意味で、人間関係が複雑になってきていると言われています。また、特に私人間の関係では、ある時は弱者になる人たちもある時は強者となり、逆もまた真なりです。過去の時代において強者としてカテゴライズされていた人たちが、現在のある局面においては弱者になるということもよくあることです。

また、それぞれの行為を、人権侵害として評価して、負の評価に固定化することも帰って解決を妨げる結果となることも経験しています。

侵害の文脈でしか説明できない人権概念は、どうしても私人間の対立が激化していく方向に働いてしまうという弱点があるようです。特に家庭とか、職場、学校等、継続する人間関係の中での相互尊重というツールには不適格な場合も多いように感じています。人権侵害が一度でもあれば、程度や行為の意図等にかかわらず加害者と被害者として当事者を対立させるという手法は、加害者の排斥という結論になりやすいために継続的人間関係においては実務的ではないと思うのです。特に日常を継続的に共にする私人間においては、威嚇により侵害を止めるという手法よりも、理想、行動心身の実践の充実感や安らぎ、安心感によって相互尊重を進めていくべきことが多いように感じています。

侵害の文脈ではなく、目指すべき理想、実現するべき概念としてという意味で、積極的な人権概念の確立こそが、日常の生活の中で相互尊重をする暖かい人間関係を形成することためには、必要なことだと感じています。

そのような積極的な人権イメージが確立されれば、人権のイメージがもっと明るくなり、人権啓発に訪れる方々も明るく参加することができると思います。具体的なヒントを提起することで、人権尊重の活動をしてみようと研修会に参加した方々の人権擁護活動の実践の契機にもなると思われます。

3 啓発における積極的人権概念試論

人権擁護委員会のスローガンとして、相互の尊重という言葉があります。考えてみれば、人権の侵害が問題になる場面は人間関係の中での場面です。もっとも、この「人間関係」はさまざまであり、家庭や職場の同僚、学校の同級生等という私人間の人間関係もあれば、職場と労働者、生徒と学校という団体と個人という文脈もあります。また、自治体、国家、社会、あるいは地球規模という大きな人間関係もあります。そのいずれの人間関係でも人権問題は生じる可能性があるわけです。

そうすると、人権問題は人間関係の中で生じるということに着目できると思います。人権侵害は、人間関係の中で人間として尊重されないことであるという言い方が可能であると思われます。

次に、人間として尊重されるということはどういうことかという、その意味を明らかにする必要があるということになります。

おそらく、人間は、他の人間から人間関係の中で尊重されて生きていたいという本能的な要求を持っているということなのだろうと思います。対人関係学は、このことを主張しています。

要約すると、文明発祥以前から人間は群れを作って生活してきたために絶滅をまぬかれた。群れを作る原理は、心である。即ち、群れの中に所属していたいという根本要求がある。この要求は、裏を返せば、群れから外されそうになると不安を感じるということで、自分の行動を修正してでも群れにとどまろうと行動を起こす。
群れから外されそうになっていると感じる方法を一言で言えば、群れの仲間として認められていないということを感じ取ることによってである。群れの仲間として認められていないということは、群れの仲間であれば当然受けるべき態度を盗られないということである。
群れの仲間であれば当然受けるべき態度とは、かけがえのない仲間であり、いつまでも群れの仲間であり続けてほしいという態度である。健康を気遣われ、体面を気遣われ、痛い思い、苦しい思い、悲しい思い、寂しい思いをさせたくないという扱いを受けることである。
これに対して、気遣われないということは、積極的に群れの仲間がこのような負の感情を引き起こす行為を自分に対してすること、自分がこのような負の感情を抱いているのに、仲間によって放置されることということになる。(要約終わり)

今から2万年以上くらい前までは、群れの仲間も数十人から百数十人程度で、生まれてから死ぬまで基本的に同じ仲間とだけ生活していた運命共同体だったものですから、仲間と自分の区別がつかないほど群れは大切なものだったと思われます。このような人間の性質、心があったために、群れが強固に結束し、助け合うことができ、群れが存続し、文明を持たなくても人間は厳しい自然環境を生き残ることができたのだと思います。

問題は、人間の脳の進化はこの段階からあまり進んでいないことです。現代の人間は、特に都市部においては敵でも味方でもない人間にあふれています。一日で家から職場からあちこちに動き回って多くの人間と接触しています。インターネットを含めると到底把握しきれない人間と何らかのかかわりを持っている状態です。それにもかかわらず、考え方、つまり心は数十名の群れで一生過ごしているときとあまり変わらないのです。

だから、相手を仲間だと認識してしまうと、自分に対して気遣いを期待してしまい、気遣いがないとか相手から攻撃を受けてしまうと、不安や焦り、ときには恐怖を抱くようになってしまうわけです。

現代社会の人権カタログもこの原理から説明できるように思います。但し、人権カタログは、国家、社会との関係で問題になることがほとんどですし、心外の程度もある程度大きなものであることが必要だと思います。
そして、人権の侵害がある場合には、制裁や補償によって侵害の回復が求められることになります。

対人関係を小さくして、継続的な対人関係を念頭に置いて考えた場合、家族、友人、同僚等の場合、侵害がなければ良いというわけではないと思います。制裁や補償の対象にならなければ多少の侵害が許されるというわけではないと思います。また、侵害をしたという方が一方的に侵害をするというよりも、どちらかと言えば双方がそれぞれ将来に向けて行動を修正するということで解決するべき案件もあるのだろうと思います。

問題は、どの人間関係に起きていることなのか、どの程度の侵害があると言えるのかというところだと思います。

特に人間活動の基盤になるような人間関係においては、侵害を防止するよりも、広い意味での人権の充足が図られるように提案していくことが必要ではないかと思うのです。

「人間関係の中で、仲間として尊重されること」を人権ととらえることを提起いたします。特に身近な仲間の中では、人権が侵害されないといういわばマイナスの出来事を防止することを目指すのではなく、ゼロの先のプラスを目指すべく、つまり、お互いに意識して尊重しあうような人間関係を形成していくことを目指すことを提起することが人権啓発の手法としてふさわしいと考えております。

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フキハラ 不機嫌ハラスメントに学んでみた  [家事]



フキハラという言葉を小耳にはさみました。不機嫌ハラスメントの略なんだそうです。不機嫌な様子をあからさまに示して、周囲の人を戦々恐々という気分にさせて圧迫することを言うのだそうです。

真っ先に思い浮かべたのは、職場でのパワーハラスメントの際に、言葉で部下を叱責するだけでなく、不機嫌な様子を見せて部下を威嚇している様子でした。

ただ、この言葉が一番使われる場面は、夫が妻に対してはっきりと自分の意見を言葉にしないで、不機嫌をアッピールして自分の要望を察するように圧迫をかけるような場面とのことでした。

私のように離婚実務に携わっていると、どちらかというとこの不機嫌ハラスメントは女性が行う場合が多いように感じます。言葉で不満を言わないで、夫が察するべきだとして、これだけ自分がアッピールしているのに夫が気が付いてくれないことが離婚の理由だなんてことを結果としては主張することが多くあります。

ただ、いずれにしても、人間ですから感情が出てしまうのは避けられないし、家族のように四六時中一緒にいると、家族の自分に対する対応で不機嫌になってしまうことはあることだろうと思うのです。だいたいそういう「いじましい」対応をするときはつまらないことが原因の場合が多く、例えば夕食に自分にだけが肉が少なく盛られているとか、自分だけ留守番をさせて母と娘が買い物に行くとか、どうでもよいと言えばどうでもよいような場面です。言うのも恥ずかしいからわざわざ口にするような場面ではないと自覚していることが多いわけです。

それをフキハラとか言われて、フキハラはDVだ、フキハラは離婚理由だなんてことになってしまったら、あまりにも窮屈ではないでしょうか。男も女も日常的に離婚の危険にさらされて、四六時中意識を集中させてフキハラをしないように緊張していなければいけないことになるのかと考えると気が遠くなるわけです。

そもそも、自分では不機嫌を顔に出さないように平静を装っていても、家族から「なんで怒っているの?」とか言われてしまうと、フキハラなんて防ぎようもないという絶望的な気持ちにもなります。感情のないロボットと暮らしたいのかという非肉の一つも出したくなるわけです。

だから初めは、フキハラなんて言い回しでとやかく言うものではないと、不機嫌をあらわにフキハラという言葉を批判をしようかなどとも考えたわけです。ただ、少しずつ冷静になると、こちらが無意識であっても、やはり家族が不機嫌を感じ取って、不愉快な気持ちになることは間違いないので、これは無い方が良いということまで考えが進みました。

ちょうどその時、別のとある理由で、家庭の中でちょっと低姿勢というか、あえて異を唱えなくてもよい事項については、少し大げさに同意の意をあらわにしていたという事情がありました。少し積極的に肯定をしようということをとある理由で実行してみていました。

なるべく表情を険しくせず、なるべく大きな声を出さずに、しかし、できるだけ明瞭に肯定の言葉を出すということをしてみていたわけです。先ほどの例で言えば、肉が少ないと感じたら、「もう少しお肉ちょうだい」と冷静ににこやかに言うみたいな感じですね。

なかなかうまくいくようです。先ほどの例で言えば肉の追加をもらえたし、言わなくても、もらえるようになるような感じになったし、文句を言われることも格段に減ったし、家の中がだいぶ快適になったのです。おやおや。

なるほどなと思いました。

フキハラをしないようにしようとすることは、なかなか難しいです。緊張感が顔に出れば、何不機嫌にしているのだと思われてしまいかねません。「不機嫌にしないようにしよう。」ということではなく、

少し姿勢を低くして、にこやかに、明瞭に肯定や賛同の言葉を述べ、思っていることは感情を込めないでさらっと言ってみる。

こういう積極的な行動を心掛ける中で、自然とフキハラを結果として行わないということが前向きで建設的な対応なのかもしれないと思いました。

そして結果は自分にとってもとてもよいものが現れるということですから、やらない手はないでしょう。
その程度の緊張感はもしかすると、集団生活をする人間としては当たり前のことなのかもしれません。私たちは、日常生活に手を抜くことを覚えすぎてしまっているだけなのかもしれません。努力すること自体が喜びや充実感となるということを思い出すと同時に、家庭では努力することが極度に疲弊する、おっくうになる原因を探すという方向で考えた方が良いのかもしれません。

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虚偽DV政策の理不尽さをわかりやすく理解することができる草津町長の元町議の虚偽告訴罪及び名誉棄損罪の起訴に関する記者会見 [弁護士会 民主主義 人権]



令和4年11月11日、草津町長の記者会見がありました。女性の元草津町議が、議員在任中に、男性の町長から平日の午前10時に町長室で性的暴行を受けたということを電子書籍などで公表されたという出来事が発端です。時間的には前後するかもしれませんが、その後、この町議は議会で除名処分を受けましたが、県の裁定で復職し、リコールが起こり圧倒的多数で解職となり失職となりました。 この元町議を応援する勢力があり、温泉観光地である草津町に行かないようにしようというキャンペーンを展開したり、「セカンドレイプの町草津」等という批判を展開したようです。この元町議は外国人記者クラブにおいて記者会見を開き自分の主張を海外にも発信したようです。双方は告訴、告発をしあい、町長は嫌疑不十分で不起訴になりましたが、元町議は虚偽告訴罪と名誉棄損罪で10月31日起訴となりました。これを受けて町長が記者会見をしたということです。

ここで人物の関係をわかりやすく説明しています。即ち、登場人物としては、被害を受けた申告した人(元町議の女性)、加害者として申告された人(町長)、そして、被害者として申告した人を応援して加害者を攻撃した人(元町議の支援者)という三面構造です。

町長は記者会見の中で、「被害女性が自分が被害者だと言えば、被害者だと断定されて、相手が加害者だと決めつけられて攻撃を受ける」ということを訴えていました。これこそが、行政やNPO由来の虚偽DVの構造なのです。

総務省の用語でも、DVの相談を受けた妻などは、書類上「被害者」と記載されます。夫などは妻が相談をしただけで「加害者」と呼ばれます。総務省は、ここで言う加害者は、日本語の言う害を加えた者という意味ではないと通知を出していますが、それなら加害者という言葉を使うべきではないと思います。この言葉づかいや「研修」の効果が表れ、加害者と呼ばれるようになった夫などは、「あなたと話す必要はない」等と区役所で攻撃的な対応を受けるようになるわけです。

肝心なことは、被害女性が自分が被害者だと主張しただけで相手の男性が加害者として扱われるということなのです。

そして、何も事実認定がなされないまま加害者として扱われ、事実上の不利益を受けるという構造が理不尽なのです。

草津町の事件では、草津町長は何ら性犯罪で起訴もされていませんでした。それなのに、性犯罪の加害者として扱われました。著名な論客も実名で公刊物などで非難をしたそうですし、現地で集団での抗議活動なども行ったようです。元町議の主張が全くの事実無根であれば、町長はいわれのない攻撃にさらされ、家族も夫や父親が性犯罪の加害者だと言われているという強度なストレスフルの日々を送っていたことだと思います。重大な人格侵害であるだけでなく、町長に対する執務中の破廉恥行為があったということの主張ですから、政治的謀略にもなるでしょう。さらに著しい被害を被ったのは草津町民、草津観光業者の方々でしょう、レイプの町草津町、セカンドレイプの町草津町という喧伝は、謝罪しても謝罪しつくせない蛮行だと思います。

元町議の言うことが事実無根であれば、本人、ご家族、草津町と、決めつけによって極めて甚大な被害を理不尽に受けたということになりますね。

これと同じような構造による理不尽な被害を多くの夫たち、元夫たちが受けているのです。

先ほど述べたように、妻たちは行政や、警察、NPOなどで、生きづらさの相談をしています。莫大な予算が投入され、宣伝広告も充実し、相談件数は右肩上がりに増加しているようです。

しかし、相談に行く女性たちは、必ずしも夫の加害について相談に行くわけではありません。出産に伴う産後うつ、内分泌系の疾患や薬の副作用など体調の問題などで不安や焦燥感を抱いたり、職場での上司のパワハラや、取引先のクレーム対応などで精神を病んでいる場合もあります。ママ友との関係でストレスが蓄積しているケースもありました。主として、同情をされたいという精神状態に陥って、無条件の共感を示してほしいというところに多く場合共通性があるようです。

その中で警察、地方自治体やNPOの配偶者相談の回答者は、夫との不具合を聞き出して、些細な日常どこにでもあるようなすれ違いをとらえて「それは夫のDVだ」と断定し、DVは繰り返される、早く逃げないと命の危険があると根拠もないのに繰り返し妻を説得するようです。そして妻は被害者と呼ばれ、夫は加害者と呼ばれ、子どもを連れて家を出て、行方を知らせないで逃げ切りなさいと指導が入ります。最近でも、妻が夫の手を払いのけて自傷したことをとらえて死の危険のある暴力を受けたということで、夫が書類送検された事件があります。その負傷に至る経緯やその後の事情を丹念に説明して不起訴になりました。本当は妻の勤務先の問題で相談に行ったのに、夫のDVということで子どもを連れて逃げ出し、子どもは父親と同居できなくなり、面会もできない状態になっています。

この場合の三者構造は、被害を受けたと申告する人間が妻、加害者として申告されたのが夫、そして被害を受けたと申告した人を無条件に援助し、夫に加害行為をしているのが行政やNPOということになります。構造的に全く同じです。

さらに共通の問題としては、草津町の事件では、草津町自体がレイプの町、セカンドレイプの町ということでイメージがだいぶ悪くなりました。観光業者としてはだいぶ先行きに不安を覚えたことでしょう。町議の支援者は、事の真偽について何も判断が下されていないまま、町長を攻撃することに傾注し、町民の被害について考慮しなかったわけです。

もっとも、リコールで圧倒的多数の住民が解職を是としたということで、攻撃の理由があるという見解もあるかもしれません。住民の意見としては、朝の十時に町長室でわいせつ行為があったということは考えられないという素朴な判断と、当初の電子書籍で発表した段階ではレイプだと言っていたのに、告訴の際には強制わいせつ罪に変わるなどの主張の変遷があったことで、元町議が嘘を言っているという判断をされたような声を耳にしました。

いずれにしても草津町民も甚大な被害を受けたのですが、虚偽 DV事件でもとばっちりを受ける人間がいます。それが子どもです。子どもは警察や行政やNPOの指示では、連れて逃げろということになります。子どもは、これまでなじんでいた学校や幼稚園の友達や先生から離されるだけではなく、子どもの気持ちとしては今までなじんでいた家、自分の道具、近所の人や猫などからも突然引き離されて、自分がどうなってしまうのだろうというパニックになることもあるとのことです。

自分という存在を見失う危険が生じるということのようです。父親の悪口を言わないようにしようというお母さん方も少なくありませんが、母親だけでなく母親の親族は子どもの前でも父親に対する容赦ない非難をする場合が少なくないようです。

どうでしょうか。草津町事件と虚偽DVの共通点がこれほど多いということに、書いていて新たに気づいたこともあったので、今更ながら驚いています。

どうして、行政などが妻側の話だけを聞いて夫からの事情を聴取しないのに、連れ去りを指示したりして、夫を孤立させたり評判を貶めたりするのでしょうか。これも、今回の元町議を支援した人たちが真実性の検証を十分に行わないで草津町長が性暴力を行ったということ前提に攻撃をしたことと共通だと思われてなりません。つまり、「男というものは女性に対して暴行を加えるものだ」という極端なジェンダーバイアスに支配された男性観を持っているためだと思われます。

草津町町長に置かれては、草津町で行われているDV相談の実態をよく調査して、自分が陥れられた被害を、自分の名前で町民に行っていないかくれぐれも点検されるべきだと思う次第です。

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