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長時間労働の弊害を孤立という観点から考えてみる。うつ症状が出やすい労働形態とは。 [労災事件]



長時間労働は、心臓疾患、脳疾患、精神疾患が労働と関係があるか否かを考えるにあたっての重大な要素として、労災、公務災害実務では扱われています。長時間労働をすると必然的に睡眠時間が短くなります。睡眠時間が短いことは心臓疾患や脳疾患に統計的に影響力が認められています。精神疾患においても、専門家会議などで長時間労働と精神疾患発症は関係があるという結論になっています。だから、長時間労働の有無が重要な要素になるわけです。

これまで長時間労働の弊害は、睡眠時間の短さにつながるという観点から主として論じられてきました(上記の通り)。精神疾患との関係も、睡眠時間が短くなれば、情動の安定を図るためのレム睡眠が出現しにくくなり、不安や焦燥感が出現しやすくなる、このため精神疾患が発症するという結びつけが可能だったと思います(実際はここまで原理的な議論は無い)。

私は、長時間労働と「孤立」が結び付き、その延長線上にうつ、メンタル不調の発生を考えるべきではないかと考えるようになりました。

こう考えるようになったきっかけ二つあります。一つは独居老人の認知症の進行です。もう一つはコロナ禍のメンタル不調の問題です。どちらも、統計的ないし学問的に裏付けられているものではないのが残念です。どちらかというと、その中にいた実感というようなものです。

簡単に言いますと、一人暮らしをしている老人で、日常的に誰かと話をしていない、あるいは他人との会話が少ない老人は、認知症が進行しやすいということを実感させる出来事がありました。一般にも、「頭は使わないとボケやすくなる」とか、「手先を動かさないとボケる」と言われているようです。これも、孤立との関係で説明できると思います。手先を無目的に動かすということは人間はできないようですから、実際は何か目的をもって動かす者であると思います。例えば何か組み立てをするために工具を動かすとか、一緒に楽しむためにマージャンのパイを積むとかです。なんかの成果を誰かと共有するからこそ頭を使うし、手を動かすのではないでしょうか。自分が快適に生活するために手先を動かすということもあるのでしょうが、やはり自分以外外の誰かの評価があれば、より張り合いになると思うのです。動物を飼うということでもよいのでしょうが、根本的には人間関係の中で尊重されていたい、仲間から頼りにされていたいという意識がある場合により例えば手先を動かす等の行動をするのだと思うようになったのです。

だから、一人だけで生活していると、徐々に、生きるための必要に応じた最低限の活動しかしなくなるのではないかと危機感を持つようになりました。そうしているうちに精神活動が徐々に低下していって、全般的に精神活動が静止に向かっていくような感覚を持ちました。全く他人ごとではありません。

もう一つはコロナ禍で、他者とのコミュニケーションができない大学1年生などに「コロナうつ」みたいな状態が見られているようです。これは事例の報告を受けただけであまり突っ込んでは理解していないのですけれど、おそらく、パソコンを通じてのコミュニケーションだけだと、自分が仲間の中で尊重されているという実感が得られないために、本来そのような仲間としての実感を得たいという要求があるけれどもそれが実現しないことから、不安や焦燥感が生まれるのではないかと考えています。

つまり、人間は、誰かとのつながりの中でより活性化して生きる活動ができるようにそもそも作られており、つながりが実感できず安心できないと不安や焦燥感を覚えてしまい、それ持続していくと精神活動の意欲が少しずつ低下していくということなのではないかと仮説を立てられるのではないかということです。

ここで長時間労働を考えてみた場合、たとえ家族がいて空間的には家族と一緒に暮らしていたとしても、このような人間のつながりを実感できなくなる原因になるのではないかと考えてみたのです。それどころか、今あるつながりを長時間労働が原因で逆につながりを壊す方向での活動をしてしまうという要素があるのではないかということを提案したいのです。

家族と同居している人であったとしても、朝早く家を出て夜遅く家に帰ってくる場合は、一日中家族と会話をしないということがありうることです。特に子どもが小さい場合は妻もくたくたになって寝ていることが多いですから、妻とさえも会話ができません。何日も寝顔しか見ていないということもありそうです。

労働者本人もつかれていますから、妻から何か相談事を持ち掛けられても親身になって感情を共有することもできません。ついつい外で働いている自分に配慮をしてくれと、ついつい「あなたは働いていないだろう」というそぶりをしてしまうこともあるわけです。これは相手を馬鹿にしたりしているのではなく、外で働いている自分に配慮してほしいという感情が主であると私は思います。

1週間に休日が1日でもあればよいのですが、長時間労働になるほど、その休日を自分の睡眠にあてなくてはならないでしょう。また、昼頃起きてきてホームセンターやスーパーマーケットに買い出しに行くとかせいぜいそんな感じで1週間が終わってしまいます。家のことをやろうやろうと思って着手できないまま時が過ぎていくのかもしれません。

給料を家に入れるときも、通帳を預けておいて家族がキャッシュカードで引き落とすところも多いのかもしれません。

長時間労働が続くと睡眠不足になりますが、睡眠不足になると自分が攻撃されているのではないかとい過覚醒状態(過敏な状態)になってしまいます。またいろいろなことが面倒になるのですが、結局は考えることが一番しんどくなり、それぞれが結論を言い合うような殺伐とした環境となるでしょう。家族が物価高に対して愚痴を言っても自分の稼ぎが悪いというように、何か自分が責められているような感じとなります。会社でも、何か不具合が生じると会社から否定評価されているのではないかという危機感を覚えるようになります。イライラするようになれば、せっかくの家族との会話の時間に八つ当たりするような言葉遣いになりやすくなるようです。

そうしていくうちにだんだん家庭の中で精神的に孤立していくかもしれません。積み残した自分の家事を思い役割感が未消化のまま蓄積されていくかもしれません。徐々に居場所がなくなっていく可能性が出てきてしまいます。

家庭の中にいるからこそ味わうような孤立感を強く感じるようになるのも危険なことです。家族なんて持たないで一人暮らしでいて、実家に帰れば親兄弟が迎えてくれるという幻想を持ちながら一人で暮らしているほうがまだ希望が持てるかもしれません。

単身赴任の場合も同じように、家族の中にいる自分という実感が生まれにくいかもしれません。見知らぬ土地での一人暮らしは、知り合いもいないことから他者と触れ合う機会が少なくなるでしょう。何か趣味でも持たない限り、徹底的な孤立を味わうかもしれません。

こうして孤立状態が継続すると、悲観的な考えも優位に立ちますが、やがて精神活動をしようとする意欲がなくなってしまう可能性があるのではないでしょうか。頑張れなくなるわけです。

長時間労働、単身赴任、不規則労働(交代制勤務)、長時間拘束労働などでも同じような孤立感を抱くようになる危険があると思います。人間工学というのか、心理学的な問題から働き方を考える必要性がありますし、労働災害の発生を予防する必要性があると思います。人間らしい労働というのは、適度に休憩を持ち、適度に睡眠をするだけでは足りず、適度に他者とのかかわりの中で安心して暮らすことが必要なのだと思います。この点をもって提案していくような研究を期待しているところです。



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【東北希望の会だより】うつとともに生きる環境の整備の提言をしたい [労務管理・労働環境]



先日東北希望の会の例会がありました。新らたに若い弁護士さんが参加されたということで、現在力を入れている、今年初めに裁判で和解した中学校の先生のパワハラうつ病の事件をおさらいしました。ここ2年間の活動と、私が入ってからの8年間の公務災害(頸椎と精神の2つの異議申し立て)と訴訟活動も振り返ることができたので大変貴重な時間でした。それぞれの立場からの発言があって、いつもに増して勉強になる2時間でした。

その中で、これまでの例会の中でアイデアが出てはそのままになっていたモヤモヤがようやく形になってきたので、議事録変わりを作成し報告したいと思いました。

こちらの先生は、平成23年からうつ状態となり、現在も通院をし、薬を服用しています。それでも、今年の夏に「復職訓練」をして、秋深まったころから職場復帰を果たして2か月、大きな崩れもなく働き続けています。それまでの復職と休職を繰り返していた時を思うと奇跡のように外野からは見えるのですが、ご本人、ご家族は、毎日の努力をされていることを聞いて改めて驚きました。

さて、その「復職訓練」が問題です。そのことを批判するというより、現代社会では何が足りないか、何を足し上げればよいのかということがわかりやすく説明するので、取り上げるということです。

その職場の「復職訓練」ですが、日程を告げられたものの、訓練スケジュールなどは事前に提示されない状態だったそうです。そして、暦に従って毎日、労働時間の半分くらいをめどに出勤をするという内容でした。そして復職訓練後に、復職をするかどうか審査の会議があって後日結果を告げるというものでした。

この説明で疑問を持たれた方は、素晴らしいです。通常の私たちは、職場側が、その人が復職できるか見極める必要があると考えますよね。そして、その復職できるかどうかですが、うつ病で休職していたばかりだから、ある程度症状は残っているでしょうし、長期間仕事から離れていて仕事の勘というか、身体の馴れというかが鈍っているとは思いますよね。それで訓練だから職務内容の軽減はするものの、その程度をこなされるかどうか判断する機会が必要で、それが「復職訓練」の時判断する。こう考えられる方も多いのではないでしょうか。

何よりもご本人が、詳しい内容は告げられず、日程と、訓練終了後の審査があるということだけを告げられていましたので、これから行われるのは訓練ではなく審査、復職適性の試験だと感じていたようでした。

実際は、これまでご本人を支えてきた、組合の方々が教育委員会や校長先生と面談されて、ご本人の心情を説明しながら、復職訓練のプログラムを書いた書類を交付し、ご本人にも審査ではなく訓練だと安心させて訓練に臨むことができるようにしてくれました。

ここで、例えば仕事時間を半分にして、仕事内容をさらに減少させて、それでもうまくいかないなら復職できなくて仕方がないのではないかと疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、うつ病が治っていても、やはり不安を感じやすくはなっていますし、悲観的な見通しをつい持ってしまいやすいというところはどうしても残るようです。これは、うつ病の症状が残るだけでなく、長期間職場を休職している場合、前の何とかやり抜いていたという記憶が回復せずに、困難な出来事の記憶だけが先行しやすいという人間の特徴を把握していません。夏休み明けに学校に行きたくないとか、ゴールデンウイーク明けに職場に行きたくないという心理を良く理解していないことになります。これを克服すためには、職務内容のハードルを下げて、成功体験を重ねていくことによって安心感を獲得していけば、何事もなく仕事をしていた時の記憶に重ね合わせることができますので、馴れを取り戻すことができるようになるのです。これはうつ病明けに限らず、長期休暇明けでも本来必要な作業だと私は思います。

だから文字通り復職訓練は訓練としてとらえなければならないはずです。むしろ最初は、あいさつ程度にして、迎える側も口裏合わせて歓迎ムードを作る。基本挨拶をにこやかにはっきり返すということが安心感につながります。敵意の目を向けない、批判めいた話をしないということがとても大切です。そうして、体が慣れるまで1,2週間程度は、隔日勤務が良いのではないかと思います。

1か月程度の訓練期間だと、間に疲れが出る日が出てきます。例えば1週間隔日勤務になって、2週間目は週休3日ないし2日とし、3週間目が終わったら休日をいれるというような感じで、訓練をしていくと馴れがスムーズになります。

そうやって体と心を馴らしていくというのが訓練だと思います。

つまり、復職訓練の時の状態の心身の回復状態を査定するのではなく、復職訓練によって良い方向に心身を変化させていくということが復職訓練なのです。

ここまでお話ししていくと、そこまで会社が一労働者を手厚く面倒を見ることは現実的ではないのではないか、労働者自身が働くことのできる状態に自分を持っていく義務があるのではないかと思っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

中には、うつ病の方を無理に働かせるということに抵抗をお持ちになる方もいらっしゃると思います。

確かにケースバイケースということは考えなければならないことかもしれません。ただ、考えるべきは、社会におけるうつ状態の蔓延ということだと思うのです。

うつ状態という心理状態を抱えながら働いている人がどれくらいいるか手掛かりがありませんが、かなりの人数に上るのではないでしょうか。うつ病に限らず、適応障害やストレス後後遺症、パニック障害や全般性不安障害という病名が付く場合もあるでしょうし、一定の内科疾患や薬の副作用にもうつ症状が現れる場合があります。学校の先生の休職者も多いようです。

うつ病患者を抱えて生活している家族もかなり大人数になっているはずです。

しかし、うつ病患者やその家族と言っても、必ずしもうつ病を理解している人は多くないのではないでしょうか。それなのに、元気になるのは本人の責任だというのでは、なかなか回復をすることができないでしょう。うつ病になったのが会社が原因だとすれば、その会社に復帰しなければ社会復帰ではないと考えてしまい、さらに会社がうつ病者は使い物にならないという態度を改めなければ、職場復帰は無理だということになれば、悲観的な傾向が進んでしまい、他に転職するというアイデアも選択できないかもしれません。

公務員や大企業が、うつ病からの職場復帰のプログラムを整備し、実例を増やし、実績を宣伝していくことによって、うつ病からの職場復帰の方法が示されるので、職場復帰がしやすくなる人たちが必ず増えると思うのです。

また、うつ病で働けないとしても、社会は必ずしも手厚い保護をしてくれるわけではありません。家族としても、今後の生活を考えると希望を持つことができない危険も大きいと思います。

一方、社会に目を向けてみましょう。後ろ向きな表現をすれば、うつ病で就労できない人たちは、最終的には生活保護などの福祉によって生活を保障しなければなりません。前向きに言えば、やり方次第で復職して自助努力で自立できる人たちが大勢いるのに、国や大企業が十分理解できないで復職の道を閉ざしている。復職が可能な人たちが復職を果たせたら、大きな経済効果が期待できると思います。

じつはさらなる効果が期待できるのです。復職の際の使用者側のノウハウというのは、実は休職しないで働く人たちにとっても優しい職場を実現します。うつ病の診断を受けないまでも、心身のストレスと元々の性格から、悲観的な考えで仕事をしているとか、はっきりしない不安を抱えて働いている方は多くいらっしゃいます。そういう方々にとっても、簡単な対応を変えるだけで働きやすくなるわけです。

例えば先ほどの言った挨拶です。この挨拶の意味づけを義務的なものでなく、あなたとの今日の出会いを歓迎している。こちらはあなたに敵意はありませんよという意味付けに変えるのです。そして、こういう挨拶を意識的に行うことによって、無意識の不安が軽減される効果が期待できるわけです。

例えばということでこういうことがアイデアとして出てきます。うつ病がなぜ起きるのか、うつ病になるとどういう思考をして、あるいは何ができなくなるのかということを理解すれば、まだまだ快適な職場にできるのにしていないだけということが見えてきます。

うつ病という病理から、職場の指示系統や合理的で効率的な指示の方法、計画の立案、目標の設定と共有の方法、あるいは顧客対応等多くのヒントが提示されていくのです。

さらに今回の一連の出来事から学ぶことができた点としては、今回で言えば労働組合の人たちの役割です。職場の実態を隅々まで熟知していた人が、一方的に労働者の利益を主張するのではなく、どのように職場復帰訓練を進めれば、本人にとっても、職場にとっても効果が上がるかということを具体的にアドバイスをするという役割を果たした人の存在が復職訓練を成功させたカギだったように思われました。今回は、たまたまこういう人がいたという幸運がありました。通常の職場復帰の場合には、なかなか難しいです。本人が探すことは無理である場合も少なくないでしょう。双方の橋渡しをするアドバイザーを制度化するということが有効だと思います。OBの方々の活用がヒントになるように思われます。このアドバイザーたちが仕事をしやすくし、効果を上げるためには、ガイドラインのようなものを作る必要があると思います。訓練されていない人は、どうしてもどちらかに忖度して、どちらかの利益を図ってしまいがちです。双方のために活動をするということが大切ですし、基本的にはうつ病者に対して配慮をしながら進めていくという立ち位置にはなると思います。あとは、職場の方がアドバイザーのアドバイスにきちんと反応する体制をとるということです。

ところが、これだけうつ病者や休職者が多いにもかかわらず、体制が従前の昭和ののどかな時代で行われているように印象を受けます。このようなうつ病者の状態は一朝一夕に改善されるとは思われません。きちんと予算をとって現場とは別建てで対応しなければ、現場は負担ばかりかかってしまうか、切り捨てが横行するような職場風土の元で、本来の機能が不能状態に陥る危険が高いです。

がんとともに生きるというムーブが昨今あると思います。うつとともに生きるというムーブがあっても良いのではないかと思うのです。うつ病にかかる人は、まじめで責任感が強く、能力も高いのでつい無理をしてしまう人たちだというのが私の実感です。安心して働く場が与えられれば、能力をいかんなく発揮して社会全体の生産力も上がると思っています。何とかして動きが生まれる方法がないか東北希望の会の活動としても考えていきたいと思いました。

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思い込みDVによる子連れ別居から妻のこころを奪還する方法 実務上よくみられる夫の逆効果になっている行動 [家事]



1 初めに夫が何をすると妻は遠ざかるのかを理解すること

  先ず、夫婦だけでなく、子どもも含めた家族再生を行う主体は誰かということを考える必要があります。それは残された夫しかいません。妻に「再生について協力しろ」と言っても効果は期待できません。妻は思い込みによって夫から離れようとしているからです。再生が困難な事例では、夫が客観的に見て再生に向かう行動をとることができず、むしろ別居後の夫の行為により断絶を促進してしまっていることがしばしばあります。

 家族再生の担い手は夫しかいないこと、夫が一人で家族再生のイニシアチブをとらなくてはならないこと、家族再生の方向に逆方向に動かないこと、これらを理解することがなかなか難しいということです。だから、自分が家族を立て直すということを決意することが初めの一歩なのでしょう。ただ、第三者から見ると、家族再生を目指すことが無謀にみえ、かえって傷つくばかりではないだろうかという心配する事案もあります。決意するかどうかは一人一人の人生観によるのかもしれません。

 まず理解するべきことは、そもそもなぜ妻は、夫から逃げたのかということです。再生に向けての対策を立てるにあたって重視するべきは客観的な事実ではなく、妻の主観です。妻の行動が不合理だということが論証されても妻は戻ってこないし、むしろ反発を強めるということがこれまでの教訓でした。妻の主観にうまく働きかけることが対策となります。
  思い込みDVの場合について説明します。
  
  思い込みDVについて説明します。

 妻には年齢変化などによって、これまでとは比較にならない不安や焦燥感を感じる事情が生まれてくることが少なからずあります。産後うつ、全般性不安障害、精神症状を伴う内科疾患、精神症状を伴う婦人科疾患、精神症状の副作用を伴う薬の服用、頭部外傷、脳卒中などの事情です。結構多いのは職場のストレスがこれに関与しているというケースです。

初めから妻には不安や焦燥感が生まれていて、その苦痛から何とか解放されたいという思いが強くなっているわけです。病院に行ってもなかなか解消されないのに、病気があることに気が付かないで検査さえしない場合も多いのではないでしょうか。病院に行って治療が始まっても、その不安や焦燥感の原因がこの病気や怪我にあるという説明は医師からは通常なされませんので、不安と不安解消要求ばかりがますます大きくなるのです。そんな時に女性の相談機関があると言われれば相談に行ってしまうことは無理のない流れだと思います。そこで、裏付けもなくマニュアル通り「あなたは悪くない。夫のDVのためにあなたは生きづらいのだ。」と言われれば、不安を解消したいという要求が高まっていますので、たまらず夫から逃れれば不安が解消するという希望にとびついてしまうということです。ここを前回詳しく説明したつもりです。

理由はどうあれ、妻の一番の願いは、安心したいということです。何かにおびえないで、責められないで、安心して暮らしたいという願いです。

あえて妻の視点(主観)だけから妻が離婚手続きをするに至る過程を見てみましょう。

妻は自分の精神的苦しみの原因が夫にあると思い込んでいます。だから苦しみから解放されるために逃亡するわけです。それにもかかわらず、夫は逃げた妻に対して働きかけてしまいます。一番嫌な「元に戻って来い」という要求が夫からなされるわけです。妻からすれば、「せっかく平穏に暮らし始めたのにそれを妨害するのか」という気持ちにしかなりません。それだけならまだよいのですが、夫から、逃亡自体が身勝手だとか、背信行為だとか、子どもに損害を与える行為だと批判されると、妻としては一番言われたくないことだけにその点に過敏になっていますから、文字通り神経を逆なでされるような気持になるわけです。まじめな妻ほど嫌になるわけです。

夫から話し合おうと言われると、妻にしてみれば夫に原因があるのだから自分の行動を改めるべきで、それを言わないで話し合おうということは、夫はまだ妻が悪いと思っていることをくどくどと言い連ねようとしているか、自分に対して責任を押し付けるのかという気持ちになります。妻がとても煩わしい気持ちになることは間違いありません。

夫からすれば正しい主張を妻にぶつければぶつけるほど、妻は夫から遠ざかりたいという関係になるようです。

 ここで大切な方針を確認しなくてはなりません。正しいことを指摘して、正しい行為をするように結果の実現を妻に求めるのか、妻が戻ってきやすい状況を作るなど家族再生に誘導するのか、どちらを選ぶのかという腹を決めるということです。

 ただ、こう書けばわかりやすいのですが、何が正しいことを指摘して結論を押し付けて逆効果となる行為なのか、実際これを意識して自己抑制することはなかなか難しいことです。

2 夫が現状をリアルに認識すること

 第三者から感じていることを言えば、現実を夫は受け止め切れていないという印象を持ちます。自分が妻から嫌悪されるはずがない、怖がられるはずがないというものが代表的なものです。あれは嘘を言っているのだと思っている人がとても多いです。この気持ちは実はよくわかります。しかし、妻は実際は夫を嫌悪しているし、怖がっています。ある時、ふと、夫は怖い存在だ、いやな存在だと感じてしまうようになるようです。

 子どもを連れて逃げた段階では、何事もなく同居していた時のように打ち解けたような心持ではいないということから出発しなければならないのです。簡単なたとえをすれば、統一教会時代に洗脳されて入信した妻が、夫がサタン側の人間だと信じている場合、本気で夫を嫌悪して怖がっているようなものです。

 だからメールを受けたり、電話をかけられたり、ましてや夫から自分が住んでいる場所を訪問されることは妻にとってたまらない苦痛です。思わず警察を呼ぶということは予めそう指導されているとはいえ、妻にとっては自然な行為です。

 思い込まされたということを甘く考えない方が良いです。事態は自分が考えているよりもっと不合理、不条理なものだとして取り掛かる必要があると思います。統一教会の洗脳から家族を奪還することと同じエネルギーと技術が必要だと構える必要があると思います。

3 夫側の問題点が必然的に生まれる構造

 今度は、子どもを連れて妻が出て行って家に残された夫の主観を見ていきましょう。自分のことがどういう風に見られているのかを知ることはなかなか難しいことです。

 夫からすれば、突然妻と子どもが家からいなくなったわけです。妻は相談機関から、家を出るそぶりを見せないように指導されています。このため、ことさら家を出る直前には、妻によって和やかな家庭が演じられています。問題なく日常生活を送っていたはずだという気持ちになっています。

問題点を認識できない事情は、実際はさほど問題がなかった場合と、問題点を妻が同居中に提示しないために夫からすれば問題があったことに気が付かない場合と二種類あると思います。
この種の事案の離婚訴訟などにおいてよく見られる特徴は、妻は同居中に自分の夫に対する不満などを述べることが無く、改善の提案もしていないということです。訴訟においてさえも妻は言葉にして夫に伝えることが苦手なようです。思い込みDVの場合は、言葉にならないことは当然のことです。存在しなかった事実を主張しなくてはならないからです。なんだか同居中の記憶は嫌な記憶になっているなと感じるのがせいぜいの文章が思い込みDVを疑うべき主張ということになります。はっきりしたDVであれば、弁護士の記述をもって丁寧に聞けばはっきりしたエピソードがいくつも主張できるものです。もっともはっきりしたDVがなくとも離婚を決意する事例は存在します。もしかしたらそれまでをDVだと主張するから無理が生まれるのかもしれません。

 いずれにしても夫は、このような事情から、妻が自分に対して不満があるのか何をどのように不満に感じているのか同居中に知る機会がほとんどない場合が多いようです。連れ去り別居は不意打ちであり、精神的ダメージがカウンターパンチのように大きくなることは当然です。

次に、夫とすれば自分が一人取り残されたということ自体が精神的打撃を受けることです。その上、徐々に、夫はわかってきます。妻が自分を嫌悪したり恐怖を感じたたことを理由として、自分から逃げたのだということを知ることになります。警察から告げられることもあれば、裁判所から申立書が届くことで知ることになる場合もあります。

これは人間にとって精神的な大打撃です。それまで仲間だと思っていた相手から突如敵対されるわけです。夫として、人間として、男性として、父親として、家族として、強烈な否定評価を受けたことになります。暴力を伴わないいじめの究極の形かもしれません。

このような目に遭った人は、消えない強烈な危機意識を持ちます。これが群れを作る人間の自然な心だと私は思います。

危機的意識を持った人間の行動パターンは、大きく二通りあります。このような理不尽な行為のためにうつになりすべてにおいて逃避行動になるパターンと、逆上してしまうパターンです。これが当たり前の人間の反応だと私は思います。

しかし、この当たり前の反応こそが、夫が解決に向けた行動に向かえない最大の原因です。

特に妻の行動に怒りを覚える人が、逆方向に向かわせてしまいます。安心したい妻に対して、理屈や正当性や合理性で否定評価をぶつけてしまい、妻の危機感を募らせてしまっているからです。

本当は行政などの提示した夫と断絶する生活という秩序と元に戻って夫と生活する秩序の間で妻のこころが揺れているにもかかわらず、夫の行動によって妻のこころを行政の提示した方向に強硬に追いやってしまっているということです。

特に夫の再生行動を妨げるものは権利意識です。極端な言い方をすれば権利意識が強すぎて、自分のために周囲が自分の望む結果を実現しなければならないという考えで、自分は言いたいことを言っても良いのだという振る舞いがみられることがあります。例えば、長年の断絶からようやく子どもとの面会にこぎつけようとしているときに、感謝のポーズさえできない理由はこの権利意識ですし、例えば別居親の方から面会をする代わりに子どもとの自由に電話をさせろなどという自分の立場を考えない駆け引きをしようとしてしまいます。客観的には、つまり評価をいれないで事態を見た場合は、妻が子どものために手を差し伸べようとしたところを、子どもが父親に会う利益よりも自分の権利意識の満足を優先して、妻にその手を引っ込めさせるというようなイメージです。

 妻の意識も自由意志が貫かれる合理的なものでは無い状態で連れ去り別居からの離婚手続きをしている可能性がありますが、事件後の夫の意識も出来事に大きく引きずられていて、元の人格とは大きく異なった意思決定をしている可能性があります。自分でもそれは自覚をすることはむずかしいことです。

連れ去り事案は、このように、自然な感覚に任せてしまうと、どんどん妻や子どもが離れていくようになっているものだと決めてかかる必要があります。もしかしたら、こういう制度を作った人たちの狙いもそこになるのかもしれません。

ここで同業者の方々に警鐘を鳴らしたいのですが、夫は自分に何も覚えがない、正当な理由がないのに、行政や裁判所からDV夫と認定されたという気持ちになるわけです。そして、自分が攻め込まれている理不尽さを感じるのですが、そこから自分とともに家族を救う方法が見つかりません。連れ去り別居直前の妻のような、不安や焦燥感を抱いています。精神的には大打撃を受けています。こうなると人間の性格も変わるのです。悪い部分が拡大していくという感じです。ところが弁護士が夫とかかわるのは、事件後です。性格が変わった後だという意識を常に持つ必要があります。

だから夫から言葉で言われていたことに弁護士が従ってばかりいると、弁護士は責任は問われないかもしれませんが、本末転倒な結果になることがあります。子どもとの面会ができないという事実が固まってしまうということです。どこに夫の一番の目的があるかをよく話し合い、それが子どもとの交流や家族再生にあるというのであれば、依頼者の要求が逆効果になるということをしっかり告げるべきです。

また多少のしつこさは大目に見てほしいと思います。あなたが責められていると感じる必要もないことです。但し、あまりに理不尽な事態になったならば、元々はそういう人ではないとしても、弁護士の方がつぶれてしまうので、その時は関係を解消するという選択肢も残しておくことはむしろ必要だと思います。

4 成功事例にみる奪回方法

妻の奪回の方法は、宗教的洗脳の場合でも配偶者暴力相談の冤罪事例でも、原理は全く一緒です。

妻は迷いの程度は、放っておくと夫の元には戻らないという方向にだんだん固まっていくかもしれませんが、自覚をしていないとしても、基本的には配偶者暴力相談センターの言うことと夫との二つの秩序の間で揺れ動いているようです。夫から逃れたとしても、まだ、「夫にすべてを解決してほしい」という気持ちがみられることが多くあります。解決方法はともかく、「自分の苦しみを解決するのは、夫の責任だ」という意識に思えることが少なくありません。

それにもかかわらず、夫は自分が理不尽な攻撃を受け、精神的に大打撃を与えられたという意識がどうしても先行します。自分を守ることを優先してしまうのは生き物としては仕方がないことです。ここで夫が子どもを見ることができ、子どもとの時間が共有できたならば、子どものために頑張ろうという意識を持てるのでしょうけれど、子どもとは一切会えません。どうしても自分を守ろうという意識が優先してしまうことは無理のない自然な流れです。落とし穴がここにあるわけです。

さて、では、どうやって妻を奪回すればよいでしょうか。

最近少しずつ実績が上がってきました。家族再生が成功して妻子と同居を開始した人、妻との復縁は途上だけれど妻との合意の元で子どもとの同居がかなった事例、また、とても面会交流どころか近づけば警察を呼ばれて会話さえ不能だったけれど、調停の合意を拡張変更して子どもを宿泊付きで預かるようになった事例などのご報告をいただくようになってきています。

これ等の変化は、私が調停や裁判という代理人としての活動を終了した後の出来事も多くあります。それにもかかわらず、丁寧にメールや手紙で経過報告をいただくことがあり、大変感激しています。このような極めて善良で礼儀正しく生真面目な夫が、警察や配偶者暴力相談センターから妻を殺す危険があると言われていたのですから、私からすれば噴飯ものだという気持ちはご理解いただけると思います。

成功の秘訣を尋ねると、これまで私が家族再生支援のために書いたことを何度も読まれて自分をコントロールしたということに尽きるのですが、その中でもいくつかピックアップしてまとめをしてみようと思います。何年もかけて書いてきたことなので、どこにどのようなことが書いてあるのかわかりにくいと思いますし。

1)心構え1 相手を誘導することを第一方針とする
総論的心構えというレベルでは、「北風と太陽」と「捨身飢虎(棄身飢虎)」です。

北風と太陽の初出は北風と太陽の本当の意味、あるいは他人に対する優しさと厳しさの具体的意味:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-05-18ですから7年近く前の記事ですね。要は、相手は意思を持った人間であるから、自分の結論を押し付けて実現しようとするのではなく、相手に自分の意思でその結論を出そうとするように誘導することが上策だということです。

危機感があり、焦りがある人は、正しいことだと思う結論を、相手の意思を無視して押し付けようとする傾向になるものです。これでは相手にとっては自分を支配しようとしていると感じてしまいます。相談所で言われたとおりだと感じるという罠にかかるわけです。この自分の気持ちを理性の力で押しとどめるということが頑張りどころです。そして自分が望む結論を相手も相手自身の結論だと思い込んで動くように誘導するよう策を練るわけです。結論に直線的な最短距離は無いと考えた方が良いです。もちろん難しいことです。家族再生を果たした人たちはそのような行動を、私が想定している以上にうまくやったということでしょう。
どんなにそれが正しくても合理的でも、他人に結論を押し付けるということは逆行になりやすいのです。

2)自分を守ろうとする本能を押しとどめる

「捨身飢虎(棄身飢虎)」とは、お釈迦様や聖徳太子(厩戸王)の言葉とされるもので、自分を守ることを止めるということです。守るのをやめるどころか、自らを飢えた虎の餌として差し出すような思い切った気持ちになって行動することによって、難しい局面を脱するという方法論です。これも生き物としての本能と矛盾することですから大変難しいことです。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という題でも書いています。
家族再生を目指すならば、調停でやっていけないこと、心構え(暫定版) 共感チャンネル2:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp) https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-09-28

要するに自分が不利益になったとしても、妻の利益、妻の気持ちを考え、これを「尊重し倒す」というようなニュアンスです。夫婦問題に限らずどうも局面を打開できない場合は、局面を打開するために行うべきことと違うことを大事にしてしまっているということが人間にはあるようです。このために解決不能だと考えてしまいます。思い切って、それまで大切にしてしまったことを放り投げると活路が見いだせるという経験は、年配者ならば多くの方が体験していることだと思います。但し、自分を捨てるということを何度も自分に言い聞かせないといけません。つい自分を守るという本能に従ってしまうという難しさがあるからです。

調停などで弁護士が付いていれば、どのようにポージングすればよいかアドバイスをすることができます。その時は心にもない行為だとしても、それから墓場までその姿勢を貫いて家族が円満に同じ時間を送れるならばそれでよいのだろうと思います。そうやって学んでいくということでしょうか。心は後からついてくるものだと私は思います。

ところが、調停が終了した後の面会交流の実施とか、弁護士が入れない事情がある時に困難が増します。本当はここからが勝負だということなのですね。この点で成功した方々の特徴としては

第1に、夫側に被害者感情を持たない事情があったということです。
ある自分の行動と妻の逃亡の関係が理解できた場合です。夫に本当に多少問題行動があった方が、その後はうまくいくというのは皮肉です。
また、あまりにも妻の言動がおかしいため、妻の精神状態が尋常ではないと感じたこと。そして、まともに取り上げることをせずに、子どものためにじっくり、焦らずに結果に向けて誘導したという場合です。極端な例を言えば、妻が幼子を抱えて幼子の首にナイフを突きつけているとしましょう。子どもにナイフを突きつけることは間違ったことだし、不合理なことだ。だからやめるべきだと飛び込んでいって、それがきっかけとなり妻が子どもを刺したならば、全く本末転倒の状態となってしまうということと同じではないでしょうか。妻をなだめて安心させて、子どもからナイフを離させるという行動をとったということになるでしょう。

思い込みDVの場合は後者の心構えが理にかなっていて良いのだと思うのですが、自分の妻の行動が健全な自由意思によって行われていないと考えることもなかなか難しいことです。妻の精神状態のふり幅が大きい方がうまくいくというのも皮肉な話です。

第2に、自分の自然の感情がどういう風に動くかということを予め意識するということです。このために、そのような文章を何度も何度も繰り返し読んで自分を落ち着かせようと努力されたということは押しなべて報告をいただいています。自分の感情を否定するというよりも、人間はそのようなものだという理解をしようと繰り返し努力されているような印象があります。もしかしたらこの辺がコツかもしれません。

第3に、理不尽な現実を直視すること、合理性や正しさに基づいては、自分たちは誰からも手続きをしてもらえないということをきちんと理解しなくてはなりません。どうも、特に男性は「自分が正しければ誰かが自分を助けてくれるはずだ」という幻想を抱きたくなる生き物のようです。少なくとも裁判所は助けてくれないということを先輩方から学ぶべきです。つまり、自分が一人でやらなければならないことだということを意識されていたように感じます。

3)徹底した「大目に見る」という作戦で安心感を持ってもらう

子どもを連れ去る妻は、正義感、責任感が強く、道徳心が旺盛な人が多いようです。だから、面会交流調停が成立したら、決められたことはきちんと守ると言う人がほとんどでした(私の担当事例でも少数の例外あり。但し、間接面会交流というものは守られたためしなし。)。

要するに不安が強いために、秩序や権威を求める気持ちの強い人です。

これが災いして、何か妻が約束違反をすると、妻自身が自己の行為が正当であったという主張しなければないという気持ちになるようです。逆切れ状態というわけです。そこをすかさず(つまり逆切れをする前に)大目に見るメッセージを送るという行動をおっとがしたということが、家族再生に成功している人たちからは共通で報告を受けています。

その日の面会交流を怪しげな理由をつけて(おそらく嘘だと思うような言い訳で)断っても、「そういうこともあるよ。気にしなくてよいよ。この次お願いね。」というメッセージを出せた人は、どんどん面会交流の自由度が上がっていきました。

別の事例では、妻の洗脳が解け始めて、頭では家に戻るべきだと分かったけれど、気持ちが付いていけなくてまだ同居できない、ということに理解を示して、時が来るのを待つことができた人も家族再生に大きく舵を取っています。

それぞれ一生懸命理性を働かせて行動をされています。どうしても被害意識が強くなると、人は疑い深くなり悲観的になり、目の前のことしか考えられなくなるようです。一度面会の約束を破られると、夫としては、妻はもう二度と会わせたくないという強い気持ちがあるに違いないとか、敵意を感じるとか、自分がないがしろにされているという感情で一杯になってしまい、ここで大目に見れば将来的な被害拡大があると感じてしまい、「約束したことだから今日面会させろ、今日でなければ来週面会させろ」と強硬に出てしまうようです。これも人情だと思います。

しかし、子どもだって、月一回2時間の面会よりも、もっと自由に父親と会いたいに決まっています。今日のキャンセルをプラスにして、子どもと父親の共通の希望に向かいましょう。今ダメでも将来的に失地を回復してそれを恒常化させるという大きな目標を立てて、今回の不履行がそのためのステップだと考えられるかどうかが成功のカギということになります。人間ですから、母親もなんとなくおっくうになることはあります。それは、再生に向かっているあかしでもあるようです。本当はここが得難いチャンスなのです。「損して得取れ」ということは家族再生においても真理だと思います。

自分の約束違反を肯定されることによって妻は自分の弱さが肯定されたときちんと理解します。自分の弱さや失敗をカバーしてくれる存在は紛れもない仲間だという意識を持ちやすくなります。夫は実は安心できる存在だという新たな記憶が蓄積していくという効果を狙っているわけです。その反対に失敗が許されないという体験は、面会交流のたびごとに、数日前から緊張を高めてしまい、妻の精神状態がますます悪化することはよく理解しておいてください。合理性や正義を相手に追及しすぎると、相手の精神がおかしくなってしまうということは実際にあることなのです。

大事な考え方は、家族再生と「夫婦という秩序」を新たに二人で形成していくということだと思います。こういう相手の失敗を大目に見て、相手がフォローされる経験を重ねるうちに、夫(元夫)との人間関係が自分が安心できる人間関係で、その人間関係の秩序に貢献するべきかかということを少しずつ納得してもらうことになるはずです。これ「安心の記憶を蓄積させていく」と言います。

4)その他の安心の記憶づくり、感謝と謝罪

妻にとって自分の失敗、欠点、不十分点を嫌がらずにフォローしてくれることは大変ありがたいことです。風邪をひいて動けないときに、さっぱりしたイチゴなどを買ってきて食べさせてくれたり、熱さまシートを取り換えてくれたりしてもらうようなありがたさがあります。

さらに安心感づくりというのは、プラスの行動をしたときにプラスの評価をするということです。主要には感謝の気持ちをこまめに表すということです。これは多少形式的で構いません。男性は言葉に出すということを優先して考えるべきことです。

この場合の感謝というのはありがたいという気持ちを言葉にするのではありません。相手の行動を肯定して、繰り返しやすく誘導するという戦略です。夫には正直な人が多いものだから、感謝もしていないのに感謝の言葉を発することはできないと言う人がいます。子どもと会えないのは妻の勝手な行動ですから面会をするたびにありがとうと言うことは、間違っているというのです。

気持ちはわかるのですが、問題は新しい秩序を作るための行動だということを意識できるかどうかということです。感謝を示すということは相手の行動を肯定するということです。感謝されることによって、相手はどういう場合に自分の行動が肯定されるか学習していくのです。なんとなく敷居が低くなり、低くなった方向へ行動が流れやすくなるということは考えらえないでしょうか。これは自分を捨てるということができれば自然にできるようになることなのです。

夫婦という人間関係においても秩序はあります。人間関係の秩序はもちろん夫または妻が権威を持つということを意味します。しかし、どちらか一方だけが権威を持つということは逆に人間の群れの意識に反することです。ある時は妻が権威を持ち、ある時は夫が権威を持つという風に入れ替わることの方が自然な人間の営みだと考えています。そして、相手の権威を認める分野を広げていき、相手の権威を認めた場合は、相手の行動に文句を言わずにまず従う。その後に反省をするということがあっても良いとは思います。おそらくこれをどちらかが意識的に行うことによって、その夫婦はそういう秩序が形成されていくのだと思います。

謝罪というのは、日常的には、あまり重苦しくしない方が良いです。自分の行動の間違いを認めてそれを表明するということで考えて良いと思います。謝罪の目的をもう一つ付け加えるとした思いやりでしょうか。相手の感情を気遣っているよと言う表明と考えればよいのかもしれません。これも安心の材料としては有効です。

5)味方を増やす 敵を作らない
 
被害感情が強いと、悲観的になる、被害意識を持ちやすくなる、焦燥感が強まる、目の前のことしか考えられなくなるという特徴があると言いました。そうなっていても自分ではなかなかわからないものです。

基本的には今まで述べてきたことを、実践すれば何とか対処ができることも多くなるのですが、どうしても一人では気が付かないことが出てきます。自分を守ろうとどうしてもしてしまうのは人間である意味仕方がありません。自分がしている行動が家族再生の方向とは違う行動だということを指摘してもらう第三者が必要だということです。
そういう場合は自分に対して厳しい意見を言ってくれる味方を作ることが必要です。理想を言えば、調停に臨むときには、自分と代理人だけでなく、調停委員も自分の味方になってもらい、みんなで妻と妻の代理人を説得するという形が有利な陣形なのです。

中には初めから理由もなく夫に敵対的な調停委員もいます(特に男性が多い。)ので、その時は毅然とした対応をしなければなりませんが、それは代理人の弁護士に任せておけばよいと思います。

味方を増やすためには、攻撃的な感情を一切気取られないということが肝心です。人間は戦闘的な場を遠慮したい生き物のようです。無駄に相手を攻撃することは味方を減らすことにしかなりません。また、こちら側が有利に進んでいるのに、言わなくてもいいことを言って味方意識が減退するような行動はしてはなりません。全体的な流れは第三者である弁護士の判断に従うべきです。

さらに、思い通りに進みませんので、本能的な行動に出てしまうことがどうしても出てきてしまいます。誰に憤っているかわからない言動は、聞く側からすれば自分が攻撃されていると感じるものです。味方を増やしている延長線上に相手(妻)との相互理解があると考えた方がよいと思います。

自分の気持ちに寄り添って、自分のお願いをすべてかなえてくれるという人は逆に警戒した方が良いです。本当はそれをすることが、当初の目的に反することであっても依頼者に反対意見を言う面倒を行わないだけだという例が実に多いです。言いたいことを言うことが目的なのか、子どもとの共通の時間を過ごすこと、その延長線上の家族再生を目的にするのか、常に考えて行動する必要があります。

5 残念な注意事項

さて、ここまで長々と、話を進めてきました。その上で申し訳ないのですが、お断りをしなくてはなりません。
上記の方法が実践されれば家族再生に向かうということは、実例が増えてきたことは確かです。なかなかこれが実践できないためにせっかくのチャンスを自分で潰すという事例もあります。しかし、一方で、ある程度戦略通りに事を進めているにもかかわらず、病的に妻の気持ちが変わらないという事例も間違いなくあります(それでも時間の経過に伴って少しずつ改善されている例は多い)。その時々の間に入る人たち、調停委員、裁判官、こちら側代理人、相手方代理人、妻の家族等に影響されるということは残念ながら存在します。私から言わせてもらえば、関係者の意識が子の福祉が最優先になっていないということが最大の問題だと感じています。逆にこれらの人たちが味方になれば、案外あっけなく面会交流は軌道に乗るということが多いのです。こればかりは運が大きく左右するというべきかもしれません。

苦しい言い訳に聞こえると思いますが、それでも、妻の不安を解消する行動は、子どもとの面会交流に確実に良い影響を与えていることは間違いないと私は感じています。これまでの成功例、失敗例を見ていると、妻の不安を解消しようとする行動、妻を攻撃しない行動は子どもたちからは歓迎されているという実感があります。そもそも妻の、不安や焦燥感を抱く病気が発症したり、けがを負うこと自体が不運なことです。これまでの家族の生活の条件が全く変わってしまうこともありうることです。既に発生してしまった家族の問題を無かったことにしようとするより、その問題をできる限り小さくしていこうとする活動は、家族全体にとって利益がある活動であることは間違いないと思います。

それまで一緒に暮らしてお子さんとの毎日を共有していたにもかかわらず、突然それが当たり前ではなくなってしまうということは大変お辛いことです。それでもお子さんにとって、お父さんでなければできないことが必ずあります。案外子どもは、父親の悪口を聞かされ続けても、やがて父親と自由に時間を共有する日を楽しみにしている場合も多いことが事実です。被害感情を抑えて、悲観的な考え、被害的な考え、攻撃的な行動を控えることによって、父親は家族再生を目指し続けた、母親を安心させるように努力したという形を作ることは子どもにとってはとても貴重なことのようです。必ず家族を再生できると言えないことは、私もとてもつらいことです。それでも必ずしもうまくいくわけではないということははっきりとお話しするべきことだと思いますので、最後になりましたが、お話をしておかなければならないと思いました。


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私の担当事案に現れた男女参画事業の配偶者暴力相談(DV相談)が統一教会時代の信者獲得の技法に酷似していることと家族破壊という共通の問題点 [弁護士会 民主主義 人権]

1 この記事を書く目的について

前回のブログ記事を書いたのは、統一教会の当時の洗脳の具体的な方法をテレビで観たことがきっかけですが、その時、「ああこれは全く一緒だ」という感覚になってしまったのです。どのように一緒なのかを考えた結果が昨日の記事です。これだけでかなりの分量になってしまったので、分割することにしました。

今回のテーマは、突然妻が子どもを連れて出て行って、連絡が取れなくなったという場合に、そのきっかけとなった行政や警察、そしてNPOや一般社団法人の相談対応のことです。

とはいっても、すべての相談がどのように行われているかについては情報がありません。配偶者暴力の相談をした女性を「被害者」、その夫などの相手方を「加害者」と、女性の言動だけから決めつけるような用語を用いるという共通項はあるのですが、おそらくそれぞれの機関において行われている手法は一つではないと思われます。

実際私も、女性支援のNPO法人の担当の方と協力して、DVを受けていた女性の保護と心身の立ち直りを長期間支援をしたことがあります。担当の方はまじめで献身的で良識的な方でした。実際に女性の元に足を運んで、必要な支援資源を確保して立ち直りを支えられました。間違いなく尊敬できる方です。

おしなべて配偶者暴力相談を担当する方は、私の知る限りまじめで責任感のある方々です。使命感を持って女性を保護しようという意欲にあふれた方々です。

このように事前に長ったらしい言い訳をしているのは、純粋に使命感を持って相談を担当されている方がこの記事を読んで不快になり傷ついたりしたりすることが本意ではないからです。ご理解いただくことは難しいことかもしれませんが、このような考え方もあるかもしれないと思っていただければ、望外の喜びです。

2 私の情報ソース

私が、交渉、調停、訴訟を担当した事件、あるいは相談を受けた事件が私の情報ソースです。具体的に以下のものです。

・ 公文書 妻側が情報開示をして調停や裁判に証拠提出した文書。自発的に家を出たのではなく、警察などから説得されたから子どもを連れて出て行ったのだという立証趣旨で妻側から出されることがある。
・ シェルター等に行った妻本人の話 私は家族の再生と両親のもとで子どもが成長していく環境を作るということに主眼を置いていますので、妻側と対立するということはあまりありません。むしろ妻側の話を直接聞き、理解を示し、双方にとってプラスになることを一緒に考えることで解決に結びつくということを置く経験しています。その中で妻から話を聞くことも案外多いです。
・ 裁判や調停での妻の主張 裏付けの乏しい主張であることがほとんどですが、夫の悪性を証明しようとして、相談機関でこのようなことを言われたということが準備書面に記載されていたり、調停委員を通じて聞かされることが少なくありません。
・ 夫の話、同居を再開する等関係修復が図られたり、会話が可能になって妻から聞いたという話
・ 関与した警察の方との直接の対話
等です。

3 配偶者暴力相談と面会交流調停の関係

配偶者暴力相談センターという相談機関があります。都道府県や市、区などが設置している機関です。おおもとは内閣府男女参画局という国の機関です。男女雇用機会均等政策が後退してからは、男女参画政策の目玉の政策になっています。ただ、実際に相談を担当する人は、公務員とは限らず、委託を受けた民間人が担当することもあるようです。男女参画政策の委託事業ということですね。
国のリンクを貼っておきます。正確にはこちらをご参照ください。
配偶者暴力相談支援センター | 内閣府男女共同参画局 (gender.go.jp) https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/soudankikan/01.html

住所秘匿などの支援措置が取られる場合は、警察に相談に行くことが多いのですが、警察官は地方公務員です。その他の相談も公務員が相談を担当する場合でも委託事業の場合でも税金によって運営されています。

まずこれらの配偶者暴力相談と面会交流調停申し立ての関係をグラフで見ていただきます。圧倒的に配偶者暴力相談の件数が多く、面会交流調停申立件数は令和元年度まではそれに比べればグラフにすると線が出てきません。このため、面会交流調停の件数に50をかけてグラフにしました。
面会交流調停.png

配偶者暴力疎運の件数は年毎(1月1日から12月31日)に出されているようなのですが、面会交流調停申し立て件数は年度(4月1日から3月31日)で行われているので、3か月くらいずれた数字かもしれません。
もちろん関数でも統計上有意な関連性が認められていますが、このようにグラフにしてみると極めて酷似しており、配偶者暴力相談が増えれば増えるほど、子どもとの面会を求めて他方の親が家庭裁判所に申し立てを行うという関連性が優にうかがわれると思います。

4 担当事例に現れた配偶者相談事例の問題点

問題は大きく言えば3点です。
1)暴力が行われていない場合でも、夫がDVをしていて、このまま続くと殺されたり、重大な傷害を負ったりする危険があると、何の根拠も科学的知見もなく断定すること
2)暴力など夫婦の不具合の解決方法が、逃亡等を手段とする離婚しかないことです。

相談から別居、離婚に至る過程が、まさに西田先生の解説(前回の記事)に当てはまるようだということを紹介したいと思います。これが当てはまるとすると、妻が子どもを連れて逃亡する中の一定割合には、洗脳を受けて献金する場合のように、自分の任意の意思ではなく行動している人たちがいる可能性があるということです。
3)自由意思によらない離婚が申し立てられている可能性を否定しきれないということが第3の問題点となるでしょう。

西田先生のおっしゃる洗脳のパターンをおさらいし、この順に添って説明していきます。
信頼 → 社会的遮断 → 恐怖を与える → 権威の構築 → 自己価値の放棄
でした。

<信頼>
先ず、行政の公的相談機関や警察ですから、もちろん一般市民から信頼されている存在です。そして、妻の理由もなく生じる不安や焦燥感について、全く否定されません。「あなたは悪くない。それは夫のDVです。」と言われますから、これ自体に快さを感じるようです。妻を意識的に肯定できない夫は、なんでも肯定される期間に到底太刀打ちできなくなるわけです。

<社会的遮断>
別居を促して女性シェルターに入居させるなどということはわかりやすい社会的遮断だと思います。女性シェルターでは携帯電話も取り上げられることがあるそうです。「どうしても女性は夫に連絡を取ろうとして、連絡してしまい、会ってしまって、また元のDV現場に戻ってしまうから」ということを聞きました。ただ、スマホを預けないケースも最近はあるみたいです。ただその事例もシェルターを出てから連絡をよこした可能性もあり、実態についてよくわからないところはあります。

家を出てシェルターに入った場合、特に身寄りが夫しかいない専業主婦の方は、シェルターから追い出されてしまえば路頭に迷うことになります。夫に足取りが知られるということで仕事を辞めた人も同じでしょう。頼るのは支援者だけという状態が作り出されてしまうという事例がありました。こうなると、どうしてもシェルターに対する依存度が上がり、シェルターなどの支援機関の権威が強く大きなものになっていくようです。

シェルターに入る前から分断は始まっています。公文書で出てきた警察の実際の相談報告書では、家に帰ろうとする妻を引き留めて別居を誓うまで説得を続けたということが記載されていました。これも物理的な社会的遮断の一つになると思います。

さらに、別居後に子どもを学校に入れるなど住民票を新しい住所に移転する場合があるのですが、その際も支援措置を申立てて住所を秘匿にするように指示されるようです。「そこまでしなくても大丈夫」と妻が言っても、「念のためにお願いします。」と言って、半ば強制的に支援措置を講じさせられたという報告があります。

<恐怖を与える>

夫によって殺される。夫はあなたを支配しようとしている等の説得は、夫に対する恐怖や嫌悪感を持つだけでなく、心理的に社会から孤立させられたような感覚を持つ場合があるようです。
深刻な問題だと思う事例が多くあります。全く暴力と言える事案の無い場合、妻に対して大声を出したこともないような夫の場合でも、「それはDVだ。このまま放置していると夫の加害はエスカレートしていくものだ。やがてあなたと子どもは殺される危険がある。」と言われたということです。この他にも同様のアドバイスがあることがほとんどです(私が担当した事例)。社会常識では、つまり国全体の秩序に照らせば、暴力という否定されるべき行為が実際にあったとしても、少なくとも命を奪うような行為に発展するとは思えない行為であったとしても、私が知りえた事例群からは、常に「このままでは命の危険がある」と説得されています。

これはつまり、相談機関の抱いている男性観というのは
・ 男性は妻に暴力を振るう。そしてその暴力はエスカレートしていく。
・ 暴力のない精神的DVでも殺人の危険性に発展する
・ DVは治らない。
というものです。
非科学的なジェンダーバイアスがいかに恐ろしいか思い知らされます。これが税金を使って行われている相談です。この理論で行くと、日本は夫による妻殺しや重大傷害事件が多発しているはずですが、そんなことはありません。殺人事件に至っては、夫婦間では夫が妻を殺害する場合と妻が夫を殺害する件数は拮抗しています。これも男女参画局のホームページにデータがあります。拮抗というかどうかのご判断はお任せいたします。

女性は必ずしも最初からそれを信じている場合だけではないようです。公文書の事例の説得を受けていた女性はそれでもなんだかんだ理屈をつけて、相談を打ち切って夫の元に帰ろうとするのですが、説得に負けて別居することにしました。ボーナスと給与を全部引き下ろし、カードの限度額いっぱいにキャッシングをして子どもを連れて出て行きました。

説得された妻も、最初は行政の説得する秩序と、夫との生活という秩序のどちらの秩序に従おうか迷っているような状態ですが、自分を否定しない心地よい方へ流れてしまったような感じでした。

ちなみに公文書の事例は妻が明らかに病的な事例でした。主張を聞いて少し考えると支離滅裂であることが分かった事案でした。実際に精神科をはしごして統合失調症の薬の重複処方を受けていました。それでも、警察は女性の言を真に受けて男性を児童虐待の疑いで、偶然かすり傷を子どもに負わせたということで、男性を逮捕し、勾留しました。真実性の検討は何もしていないに等しいです。あまりにもひどい事案だったので、警察は女性支援の件数を上げることが目標なのかと疑ってしまったほどです。当然に夫は不起訴となり、妻の申し立ては保護命令申立ては却下になり、離婚だけが成立しました。子どもはいまだに父親に会えていません。

<権威の構築と自己の放棄>

特にシェルターに入ると、先ずシェルターで保護命令申立書が用意されており、これはアンケートに答える感覚で書き込めますので、保護命令を申し立てさせられます。申立は多発していましたが、平成26年をピークに減少し、保護命令を認める決定もやはり右肩下がりに減少しています(前掲の男女参画局のホームページ参照)。この手続きに問題があることについては既に述べていますので今回は省略します。

一言だけ言えば、裁判所の決定もずいぶんずさんなもので、半年後の保護命令更新の手続きの時に私が夫側の代理人になり却下を求めたところ、何も事情が変わっていないはずなのに、裁判官が申立代理人を説得して保護命令を取り下げさせたということがあります。なぜか私が代理人になったことで、裁判官には感謝されました。保護命令を決定した同じ裁判官でした。この事例だけから考えると、裁判官は女性側の強硬な姿勢に負けて保護命令をいやいや出したということになるのではないでしょうか。そうでなければ説明はつかないと思います。

次にシェルターでは法テラス経由で弁護士が用意されており、委任状を書き、調停を申し立てるようになります。この辺りは妻からしても自動的に行われているような感覚だそうです。つまり自分の意思ではなく、そのような手続きの流れがあるので、自分の頭では考えないでその通りにしているという感覚だそうです。

もし妻が離婚調停を申し立てないと拒否をしたらどうなるでしょうか。その場合は、シェルターから出ていなかなければならないとする扱いがあるところがあるそうです。離婚手続きをすることが支援を継続して受けるための条件になっているということです。言うことを聞かなければ援助を打ち切るということは行政関与の福祉現場にありがちなパターンですね。中には賛否はあっても必要性は否定しきれないという場合もあるのですが、女性支援の場合はどうでしょうか。

ともかく、行先が無くなると困るので、法テラスの契約書などの記載はするそうです。これで契約は成立し、弁護士費用という債務が発生します。しかし、やはり調停は嫌だと依頼を打ち切ろうとした女性がいたのですが、もうすでに受任通知を出したからということで、法テラスの費用は全額払い込まなければならないといわれ、夫の元に戻った後夫が残額を一括して払ったという事例がありました。

男女参画のホームページを見ると、DVの解決方法としては離婚、夫婦関係の断絶しか用意されていません。双方に働きかけて家族再生をするという選択肢が全くないのです。一度相談してしまえば、妻も夫も後戻りができない体制に組み込まれていくように感じることがあります。子どものために頑張るという選択肢は、思想的に排除されているように感じられます。

確かに、レノア・ウォーカーの「バタードウーマン」の配偶者加害のケースや、マリー=フランス・イルゴイエンヌの「モラルハラスメント」の事例(自己愛性パーソナリティの事案)、あるいはハーマンの複雑性PTSDを発症させるような事案であれば、このような政策も一つの選択肢かもしれません。

しかし、このような事案ではないことが、私が担当するケースではほとんどです。その証拠の一つとなるのは、離婚や調停で、妻側も、夫の故意の暴力があったとは主張してこないことです。それでも、殺されるかもしれないから早く子どもを連れて出て行きなさい、そして離婚に進みなさいと思い込まされてしまうのです。とても妻の口から出た話とは夫からすると信じられません。これが離婚をこじらせている一つの要因です。

このような極端な男性からの死の危険のある暴力を受けているという裏付けが何もないにもかかわらず、死の危険があると断定して、妻に逃亡を呼びかけることの正当性はどこにあるのでしょうか。どうして夫婦で話し合い、お互いの努力でやり直すという選択肢が初めから無いのでしょうか。私の感じた通りのことが行われているのであれば大変恐ろしいことではないでしょうか。その事実があることは国民には全く知らされていません。

その一つの理由は、妻の不安、焦燥感は、すべて夫の行為に原因するものであり、それは夫の改善不能のDV気質にあるという断定にあると思います。しかし、その裏付けは妻の話以外何もないか、妻の話からも導かれないか二つのうちのどちらかでした。妻が不安や焦燥感があったら、妻を逃がして離婚をさせるという、国民的コンセンサスは何もないはずです。具体的事例を言う必要はないのですが、そのような実態があまりにも国民から遠ざけられているのではないでしょうか。

ちなみに妻がこの手続きの途中で気が付いて夫の元に戻るとしても、ただちに何事もなく戻ることのできる心理状態ではないようです。実際に妻が夫の元に戻った事例でも、数か月はそのまま別居を続けて、子どもと夫との面会を重ねていく中で徐々に同居を開始することができるようになったそうです。

自分を取り戻すのも時間がかかるという、深刻な自己の価値観の放棄が見られた事案だったと思います。

多くの妻は途中で気が付くことが無く、逃げる必要性を徐々に真に受けていき、本当に恐怖を感じてしまうようです。この恐怖は逃げているという意識があるからでしょう10年たっても消えないでびくびくしている方もいらっしゃいました。

<家族破壊の被害者の被害がかえりみられない>

かわいそうなのは子どもです。父親とも、父方の親戚とも、住み慣れた家や自分の部屋とも、友人や先生方とも、遮断されてしまいます。そして自分の父親が母親を虐待するDV夫だということを繰り返し刷り込まれる場合もあるようです。やがてそれは自分に対する攻撃に転化します。自分はそのような殺人の危険のある父親の子どもなのだと思い込みながら大人になっていくわけです。私が面会交流問題に取り組み始めたのは、先ずこの子どもたちの惨状を見たからです。学校で孤立し、拒食と過食を繰り返し、自分の体を傷つけ、精神科病との入院と隊員を繰り返して、大人の年齢になってしまう子どもたちの惨状からです。そのうちの何人かは父親との交流が可能となり、何とか社会復帰ができるようになりました。

それらの事案は配偶者暴力防止政策とは関係が無かったのですが、面会交流の支援をしていく中で、人為的に子どもが親に会うことができなくなる出来事を多く見ていくうちに配偶者暴力相談の問題に気が付いていったという流れです。

ある日帰ったら妻と子どもがいなくなっていた夫は精神的ダメージを強烈に受けます。社会的には貢献度が高い人たちは、働けなくなったり、ミスが多くなりけがが頻発するようになったり、自死に至ったりしています。この問題も散々取り上げましたので、以下のことだけ述べたいと思います。

<事情を知らない人は、夫が原因だと思い込む>

私がここまで言っても、おそらく少なくない方々は、「そんなこと言っても夫にも原因があったのではないのか」と思われるでしょう。夫婦なのに妻が夫から逃げ出すなんてことは、何か夫に原因が無いとありえないのではないかというわけです。

ここがかつての統一教会の洗脳の事案と違うところです。私にはここが不条理を感じるところです。当時統一教会の洗脳を受けて家庭から離脱した人たちについて、現在旧統一教会を批判している人、対策が生ぬるいと叫んでいる人たちは、家庭にも問題があったから入信したのだという批判を受け入れるのでしょうか。言語道断だというと私は思います。同じことなのに、夫婦の問題では、夫ばかりが責められるということであればあまりにも不合理なダブルスタンダードです。人間の自由意思についての過剰な信頼だと言わなくてはなりません。

実務上、行政関与の相談を真に受ける人には、夫以外に、不安や焦燥感を感じる事情があります。調停や裁判に現れた妻が証拠提出した診断書の病名は、産後うつ、全般性不安障害、精神症状を伴う内科疾患、精神症状を伴う婦人科疾患、精神症状の副作用を伴う薬の服用、頭部外傷、脳卒中などです。最初から不安や焦燥感があり、その苦痛から何とか解放されたいという思いが強いため、夫に原因があるというと飛びつきやすい素因があるのだと思います。初めから嘘をついて夫との離婚を画策する人も中にはいましたが、子どもを連れて逃亡する多くのパターンが子の思い込みDVのパターンでした。

もしDVは実はなかったという場合はどうなるのでしょう。子どもや夫は、強力な方法で時間とお金をかけて対応することを不当に余儀なくされる上に、精神的に深刻な問題を抱えることになります。それにもかかわらず、調べもしないで家庭を分断する正当性はどこにあるのでしょうか。わずかに考えられる理屈としては、
「保護事例の中のいくつかはいわゆる冤罪事案もあるかもしれない。しかし、子どもや夫の不利益を気にしすぎてしまうと、女性の緊急保護に漏れが生じてしまうために被害が生じてしまう。やむを得ず、裏付けも取らずに家族分断を進めるのだ。」
ということくらいではないでしょうか。緊急避難の法理というものです。

しかし、こんなことをだれが同意して法律が定められ、運用がされているのでしょうか。しかも当事者や一部学者のアッピールがありながら、冤罪DVの問題はあまり取り上げられず、放置され続けています。子どもたちは理由なく父親に会うことができないばかりか、自分の父親が殺人を犯す恐れのある人物で、自分はその子どもだと思わされて成長するわけです。これが税金を使って行われているのです。

子どもが生まれたばかりは母親が主として育児をしていたからという理由(継続性の原則)で、裁判所は親権を母親にする傾向があります。また、面会交流は強制力がないために母親が会わせないと言ったら会わせるための方法が無いということが実情です。子どもと父親は何も悪くない場合でも会うことも電話をすることさえできません。こういう事態が放置されているのです。その後、子どもも自分の父親に会えない理由は父親にあるという説明を刷り込まれて行きますから、大人になっても不可解な理由で父親との面会を拒否するような場合もあるのです。子どもから見れば、先ほどの洗脳の流れはより分かりやすいと思われます。

<税金を使用しての配偶者暴力相談への要望>
1 配偶者暴力が存在するか否か、死に至る危険があると判断するためには妻以外の裏付けを取らなければ、子どもを父親から引き離すアドバイスをしないこと
2 科学的に裏付けられていない男性観などを断定的に話さないこと
3 離婚調停の手続きを開始することを施設入所の条件としないこと
4 家族再生など離婚以外の方法を解決の選択肢として用意すること
5 女性の自由意思を尊重すること
6 相談についての報告書は、保存して妥当性を第三者機関が検証する仕組みを作ること

長くなりましたので奪回方法のまとめは次回とします。

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統一教会時代の問題点である洗脳による家族破壊についての説明と現代の一部マスコミと政治家が旧統一教会がいうから家族の名称を付す政策を批判する愚かさについて [進化心理学、生理学、対人関係学]


安倍首相の事件以来旧統一教会の問題が大きく取り上げられるようになりました。法律も整備されるなど連日報道されています。ただ、思わぬ副作用も生じています。一部のマスコミや政治家などが、政策などに「家族」というキーワードを出すと、旧統一教会の影響を受けているのではないかと批判することです。

しかしどうでしょうか。現代社会の生きづらさを緩和させるためには、家族の在り方を改善し、家族という一人一人の帰る場所、帰属する仲間を確保し、強力なものにすることこそが必要であると私は考えています。一部マスコミの論調は、政策などの中身を検討せずに、「家族」という言葉に対して感情的な反発をあおるようです。

もっとも皮肉なことは、現在の団体についてはあまりよく知らないのですが、旧統一教会時代の洗脳は、ターゲットを洗脳し、家族と分断することによって問題が生じていたのです。統一教会の洗脳こそが家族の分断の行為だったのに、旧統一教会への国民の反発を利用して、家族を支援する政策を非難するということは背理です。結局、唯、家族問題に対する支援を妨害しようとする意図しか感じられないのです。いったい何が目的なのでしょう。

今回は、統一教会時代の洗脳が家族を分断することによって成立するということについて説明します。

先日立正大学の西田公昭先生がテレビで統一教会の洗脳についてお話しされていました。
洗脳が完成するパターンとして以下の段階をたどるというようなことをおっしゃっていたと思います。
信頼 → 社会的遮断 → 恐怖を与える → 権威の構築 → 自己価値の放棄

この流れは先日来このブログで特集している秩序の観点からもわかりやすく説明することができます。西田先生の理論の詳しい正確な内容は、先生はいくつか書籍を出版されていますので、そちらを参考にしてください。

洗脳というものは、人間が進化の過程で獲得した本能を利用して行うものです。
1 進化の過程で人間は群れの秩序形成に貢献するようになった

人間はだれかとのつながりの中に所属していたいという動物です(バウマイスター)。つまり、仲間の中で尊重されて、仲間の中に所属しているという実感を持ち、それによって安心したい動物であり、仲間の中にいられなくなるかもしれないと感じると不安や焦りが生じ、やがて心身に不具合が発生してしまいます。

同じことを「秩序」というワードを利用して説明すると、自分を含めて人間のつながりの中に秩序が存在すると感じると、自分がその秩序さえ守っていれば安心して所属していられるという感覚を持つということになりそうです。ただ、秩序というのは、およそ人間ならばどこでも単一の秩序があるというのではなく、どの人間関係にもそれなりの秩序があるということです。普遍的な秩序もあるかもしれませんが、それぞれの人間関係で独自の秩序もあるわけです。構成メンバーの個性や人間のつながりを取り巻く環境によって変わります。人間は秩序が保たれていることに安心して、その秩序に従おうとしますし、秩序を形成しようとするし、また秩序に反する個体に対して制裁を科したくなる動物なのです。

スタンレイ・ミルグラムの服従実験(アインヒマン実験)という有名な社会心理学の実験があります(「服従の心理」河出文庫)が、私はこれは服従ではなく、権威に迎合しようとする性質が人間には備わっていることを示した実験だと考えています。権威に迎合するということこそ、それによって秩序を形成しようとしているということだというわけです。「迎合の心理」 遺伝子に組み込まれたパワハラ、いじめ、ネットいじめ(特に木村花さんのことについて)、独裁・専制国家を成立させ、戦争遂行に不可欠となる私たちのこころの仕組み :弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp) https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-04-21

2 進化の過程で獲得した心と現代環境のミスマッチ

現代社会は、多くの人間とかかわる社会であることが特徴です。また、同時に複数の人間関係の中に帰属しています。人間の心が生まれたとされる200万年前は、一つの群れで数十人から百数十人の同じ人間とだけ生活していたそうです。当時の人間には世界はそれだけでした。その環境に適合する(そのような環境で生き抜く)ために都合が良いから、そのような心を持った人間だけが生き残って私たちの先祖になったわけです。また、進化は200万年程度では、それほど進んでおらず、私たちの心は200万年前に進化の過程で獲得した心からあまり変化をしていないと言われています。
心はそのままなのに環境が大きく変わってしまったわけです。

3 矛盾する秩序を持つ複数のつながりへの同時存在こそ一般だということ

人間はたくさんあるつながりの中の、どのつながりにどれだけ軸足を求めるかをその時々において選択しなければならない状態になってしまいました。つまり、人間関係の数だけある秩序のどの秩序に自分は従おうかという迷いをもって生きなければならない時代になったわけです。このことは同時に、どの人間関係の中でも、自分の安心する関係を形成できないという疎外感が発生する危険が大きな環境ということも言えると思います。つまり、あっちの方がもっと快適に暮らせるのではないかという迷いがいつも用意されているということです。

例えば、親と友人とどちらの言うとおりにしようかとか、
例えば、奥さんが旦那さんに、「わたしと仕事とどちらが大事なの?」と尋ねるとか、奥さんが飲み干したペットボトルをどこかに捨ててきてというけれど、道徳的には間違っているのではないかとか、
例えば、これをすると不正経理で捕まるかもしれないけれど今銀行融資が通らないと会社は倒産してしまうとか、
程度の問題は様々ですが、二つ以上の秩序のどちらを選ぶか迫られることが多々あることが私たちの日常なわけです。

しかし、通常は、どちらを選択してどちらを切り捨てるということはしません。学校の先生の意見と親の意見が対立しても、その時その時なんとなく選択して、なんとなくやり過ごしているわけです。よほどのことがない限り、退学をしたり家を出たりということは起こりません。矛盾する秩序があっても別々の仲間の中に存在し続けることが通常です。現代社会という環境では、このように複数のつながりがあって、複数の秩序があり、自分に対する評価が矛盾していても、それを受け入れて生活することが自然なことなのです。

ここが問題の本質です。

つまり、洗脳の最大の問題は、今いる人間関係から対象者を離脱させようとしているところにあります。そして、離脱されることによって、一つの秩序だけに従わせようとしているところに問題があったわけです。

4 西田先生の流れを「秩序」というワードを使って説明する

以下西田先生の理論が、私の立場からも支持できるというその中身を秩序の観点から説明していきます。

<信頼>
先ず、当時の統一教会の人たちは、統一教会ということを鮮明にせずに、一般的なサークルや自己啓発ということで、ターゲットに近づきます。退廃文化を批判し、まじめな生き方を示します。そのことは立派な行動にターゲットとしても感じます。
もっとも、この段階では、ターゲットの秩序の軸足は家庭にあります。家庭を大切だと意識しているけれど、洗脳をする側の人間関係も快いというイメージを対象者は抱くようになります。洗脳者側が何かにつけて自分の考えを肯定してくれる、自分の行動を肯定してくれるという行動を体験します。このような扱いは、人間にとって得難い喜びになります。こうして洗脳者側に心理的に近づいていき、軸足は家庭にあるけれど、洗脳者側との人間関係も形成され始めるわけです。家庭の秩序を維持するか洗脳者側との秩序に入るかという選択肢が潜在的に生まれてしまいます。

<社会的遮断>
しばらくすると、修行ということで、何日かの合宿によるセミナーに参加するようになります。
人間はどこかの組織、人間とのつながりの中に所属したいという根本的な要求を抱き続けて生きていきます。それが断たれてしまうと、近場の人間とつながりたくなるということがバウマイスターらの論文 ’The need to belong’ の結論です。この論文では極限的な状況についての文献をいくつも紹介しています。刑務所の中の実験、人質と犯人等、通常の状態ではおよそ近づきたくない人間であっても極限的孤立の中ではつながりを求めてしまうようです。

何日か、物理的に社会から隔絶させられてしまうと、目の前にいる唯一の人間が権威であると感じてしまい、その人とつながりたいという意識が本能的に生まれるという体験をすることになります。
「一緒に住んでいる家族が、実はターゲットに対して危害を与える人間だ。その家族は自分の利益、欲望のために、あなたを犠牲にしようとしている。」ということを言われてしまうと、最初はそんなことは無いと笑っていても、そのような体験を何度か重ねていくうちに次第に家族に対して不審な思いを抱いてしまうようです。

物理的にも心理的にも今いる人間関係から遮断されることは、遮断されていない人間関係を身近に感じ、その人間関係の秩序に自分から飛び込んでいく大きな要因になるわけです。これは人間の本能ですので、意識して本能の発動を遮断しなければ、人間である以上そのような心理状態になっていく可能性があるということになります。

<恐怖を与える>
セミナーなどで、家族や先祖が本人にとって災いの種だとか、やがて家族がターゲットを攻撃してくるとか、あるいは将来日本が滅亡するとかという話が行われるようになります。これだけ聞くとばかばかしいのですが、それをばかばかしく聞けなくなる状態になったときに、最初は聞き手の感覚を肯定しながら話していくわけです。

すると、半信半疑ではあっても、なんとなく不気味な嫌な感覚を持っていくようです。
人間は恐怖をどうやって解消してきたかということを考えるとこれは効果的です。人間の恐怖の克服は、仲間の中にいること、仲間との秩序の中に自分を置くこと、仲間との秩序の形成と強化に自分が貢献することで恐怖を克服するようにできています。その時仲間にもとめることは、自分を無条件で肯定する仲間であってほしいということになります。自分を守ろうという感情が生まれると、同時に自分を守ってくれる絶対的仲間を求めてしまうというのはわかりやすいと思います。

家族を選ぶか、洗脳側を選ぶか、その選択の必要性が人為的に高められてしまうということです。

<権威の構築>
もうあまり説明はいらないと思います。自分を守ってくれる強力な仲間を選ぶ段階に来ています。どの仲間が自分にとって、頼るべき仲間なのかということの判断をしようとしているわけです。ここでどのような対応をすれば、対象者は洗脳者側を選択するのでしょうか。

案外簡単な原理です。鍵は、権威、秩序の選択をどちらにするかという判断の必要性の高まりは、人為的に高められた危機意識によって起きているということに鍵があります。

一つは洗脳者側自身が高めた危機意識は、初めから解消方法を用意してあるということです。解決方法とセットですから、恐怖を感じると同時に高められた危機意識の解消が実現されるという解放の光が見えてくるわけです。そうすると人間はどうしても光の方向に進んでいきたくなってしまうようです。

一つには、発想の順番に注意が必要です。先ず、何かモヤモヤとして不安、危機意識を高めてから、実はその元凶が家族にあり、その解決方法はこちらの権威にすがりさえすればよいという順番こそが必要です。

一つには、ターゲットのリサーチは既に住んでいるということです。最終段階の前に何度も対象者の日ごろの不安や焦りの感情を聴き取っています。人間の発達心理からすれば、家族に不満のない人間はあまりいません。何らかの不満についてそれと知らず話をしているものです。何しろ家族は日常的に顔を合わせていますから、自分の行動の自由が家族の存在によって制限される絶対数もそれは多いに決まっています。また、よそに原因がある問題も、家族に原因があると考えることはとても楽なことです。

そして、具体的に多くの人々が洗脳者側が提示する権威にすがること、権威を中心とした秩序の中にいることで、心配のない安楽な精神生活を送れることができるという例を示すことです。先輩たちの体験談が出てくるわけです。

頼るべき権威が洗脳者側にあると思い込めば、家族を捨てて洗脳者側に権威を求めて、自分もその秩序の一部になりたいという気持ちが強くなっていきます。実際はここまで単純ではなく、これまでの流れを複数回繰り返されることが多いかもしれません。繰り返されるたびに、権威が洗脳者側にあるという意識は強くなります。

ここでもう一つ大事なことは、理屈ではないということです。教義を理解して信じているのではなく、感情的に何かにすがりたくなり、その具体的なものとして示されたからそれが教義になるということなのです。

人間は、何かにおびえて、何かを不安に感じて生きていくものなのでしょう。何かしら焦りや不安が出てくるのは生きている以上仕方がないことなのかもしれません。しかしそれが大きくなり、苦しくなりすぎると解放されたいという気持ちがとても大きくなってしまうのでしょう。そして、本来あるはずのない絶対的な安楽があると思い込んでしまい、その安楽を拒否することがなかなかできなくなるということなのだろうと思います。

<自己価値の放棄>

西田先生の言う自己価値と私の説明は違うかもしれません。私の説明では、自己価値というのは単体としての自分の価値ではなく、突き詰めて考えると仲間の中で尊重されて生きているという他者を意識し他者との中で関連付けられた自己ということが自己価値の本質ないし根幹であり、仲間のために貢献することがそれを支えるものだと考えています。

だから、私の説明では洗脳状態となっても自己価値を放棄しているわけではありません。洗脳者の言われるままに行動すること、言われなくても洗脳者の示す秩序を自発的形成しようとする行動を起こすことこそが自己価値の実現にすり替わってしまうということです。秩序にあるいは権威に、積極的に迎合しようとしている、その迎合の対象を洗脳者側に置くことが洗脳だという考えです。

だから当初は言われるままに物を買ったり、他者にかかわったりしていますが、自分から自発的に何をなすべきかということを洗脳者側の設定した秩序の中で積極的に考えて行動をするわけです。必ずしも言われたとおりに行動するのが洗脳ではなく、洗脳者側の秩序が自分が貢献するべき秩序だと感じて行動することが洗脳だということがポイントです。

その秩序の中にいると、その秩序の外の秩序と比較して、どちらが正しい秩序かということについて考えるという発想も力もなくなります。職場の秩序、チームの秩序、政治思想の秩序等、自分の所属しているつながりの行動に盲目的に従うことは、我々もしばしば目にしていると思います。

5 洗脳を解くための家族

こうして家族という秩序や当たり前の社会の秩序に合致する秩序から離れて、人為的に作られた特殊な洗脳者側の秩序側の人間になってしまうということなのでしょう。
だから洗脳を解くためには、洗脳者側の秩序に対抗する秩序、人間関係を提案することが鉄則になります。教義が間違っているかどうかということは主力にならないはずです。それよりも、その秩序の不具合を語ること、つまり脱会者の話が力になるのではないでしょうか。自分と同じ思考をしていた人が、自分とは違う結論に達しているということは大きな力になるはずです。

さらには家族が自分が帰属するべき人間関係なのだという理解、安心感を獲得していくこと、自分が尊重されていること、そして自分が家族の中で秩序を形成する権威となりうることという自信と仕組みを与えることが有効なのではないかと考えています。

既に洗脳者側の秩序を信奉してからは、洗脳されたことあるいは洗脳の元での行動を、非難することや、馬鹿にすること、つまり否定することは逆効果にしかならないと思われます。実は洗脳されたこと自体を許すこと、理解することが洗脳を解くためにとても大事だということが理解できると思います。

6 終わりに 一部マスコミや政治家の愚かさについて

いずれにしても、当時の洗脳は、家族の秩序、家族との人間形成を遮断することによって洗脳者側の思惑の行動を実行させることにありました。
当該洗脳から回復させるためには家族の力が不可避だったわけです。

旧統一教会の行動を批判するポーズを示しながら、「家族」という言葉が入るから現在の団体の影響を受けているとし、家族支援がけしからんと言うのは、結果的には矛盾だと思います。結局旧統一教会関連の団体を攻撃しようとする余り、問題の本質である統一教会時代の洗脳について不問付していることにはならないでしょうか、

大変恐ろしいロジックだと思えてなりません。

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強固な組織、強烈な支援者に囲まれている人が、腐敗したり、組織外の人たちに対して容赦のない攻撃をする理由 インターネットを使って人を追い込む構図と追い込まれる構図 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 現代社会は強い組織を作る必要があるけれど

現代社会は圧倒的な量の人間が存在します。何かの目的をもって活動するためには、団体を組織して活動する必要が出てきます。例えば経済活動を優位に進めるためには会社を作るわけですし、政治的主張を国政に反映するためには政党をつくるわけです。組織体ですから人間が多くいるわけですが、構成員それぞれが勝手なことをすると力になりません。組織が一つの生き物のように一つの意思をもって行動してこそ組織を作る意味があります。

だけど、大きな組織を作ればよいというものでもなければ、強い結束で一糸乱れぬ思想や行動をすることが必ずしも良いことばかりではありません。むしろ弊害が生じる原因にもなるわけです。かえって組織がだめになり組織を作った目的が遠くなったり、消滅したりすることがあります。組織はこのデメリットを作らないようにしながら、本来の目的に向かう必要があります。

2 強い組織が持つデメリットがある

(腐敗の生じる内在的危険がある)強い組織には、不正経理や汚職等の不祥事が起きる要因が宿命的に存在するという自覚をする必要があります。この点一般には、誤解されています。例えば企業の不正経理の場合は、ワンマン経営者とイエスマンの幹部たちという特殊な人間関係がたまたま存在したために、そのような不祥事が起きたと解釈されがちです。しかし、実際は、メンバーの個性にかかわらず組織には起こりやすい事象です。

(排他的活動をして孤立する危険がある)強い組織は、排他的な方向で働きやすいという問題もあります。国会論戦を見てもわかるように、論点について話し合ってよりよい結論を出そうと協力することは見られず、賛成か反対という二者択一的な行動が起こりやすくなります。

(他者を過度に攻撃する危険がある)また、自分と意見の違う相手に対しては組織に対しての攻撃だととらえる傾向が出てきてしまうようです。そしてひとたび敵だと認識した組織外の人間に対しては、相手の人格を否定するような容赦のない攻撃をしてしまうようです。

これ等のデメリットが表れてしまうと、組織外の一般人からは否定的に受け止められてしまいます。一般の人たちの怒りや反発の対象になったり、恐れて近づかないようにする対象になることで、一般の人たちがどこかの組織を選ばなければならないならば別の組織を選ぼうという意識になってしまいます。つまり組織化をする目的を大きく害する結果になってしまうわけです。

どうしてこのようなデメリットが生じるのかについて考えてみましょう。

3 統一的な組織、強い結束力とは何か

まず、組織が統一的に動くとか、結束力が強いというものはどういう状態なのでしょうか。

(形式的行動規制組織との違い)ここで似たような状態がみられるものとして、マニュアルが整備されてみんなマニュアル通り動いている場合や、規約がどこかの中学校の校則のように事細かに記載されて、それに反する行動をとられたらこまめに処分されるような組織があります。これらの決め事は、ある程度は必要な要素なのかもしれません。しかし、このようないわば心の外で決まりがあり、それを義務的に守ろうとする組織は統一的行動ができるとか、結束力が強いという状態の組織とは違うと思います。このような組織は結果を残す前に成長をしない危険が強いと思います。
その理由の例を少し上げると、外食チェーン店を見ればわかると思いますが、マニュアルは臨機応変の対応が求められる事態にはうまく対処できません。
またマニュアルや規則さえ守っていればよいやと言う発想になると、言われたことしかしないという発想になってしまい、強い組織にはなりようがありません。

強い組織は、個々のメンバーのモチベーションが高く、組織のために自発的に行動をしようという意欲がある組織でなければならないはずです。個々が強いモチベーションを持つこと、この方向が統一されているところが、強い組織という中身です。

4 モチベーションの統一がなされるということはどういうことか

その組織によって求められるモチベーションは異なります。ごく単純に言うと、会社であれば利潤を大きくしようとか、公益法人であれば社会貢献をしようとか、より多くの弱者を保護しようとかということになるでしょう。

その組織の目的とメンバー個人のモチベーションが合致していると確信すると、メンバー個人はさらにモチベーションを上げ、行動的になるわけです。
このため経営学・労務管理では、従業員のモチベーションが研究テーマになるわけです。実際この理論を実践に活かして、活動されているコンサルタントの先生がいらっしゃいます。全国的に飛び回り、実際の成果を収めている企業体を私も目撃しています。

ところが、メンバーの少数だけのモチベーションが上がっても、全体としてはそれほどではないという場合は強い組織ではありませんね。一人だけ空回りをしているという現象はよく見るところです。

大事なことは構成員の多くが同じモチベーション、あるいは同じようなテンションをもって組織の目的を自分の目的として認識して行動する状態が作られなければなりません。

つまり、その組織の目的を達成しようという雰囲気が必要です。言葉を変えて言えば、目的に向かうという組織全体の秩序が形成されていることが必要なのです。

5 秩序はどのようにして作られるのか

秩序は、進化の過程で群れを作って生き延びてきた人類が本能的に求める状態です。言葉のない時代でも群れを作ることができた理由は、現代的表現で言えば、群れの個人個人が、秩序を乱さないようにしよう、秩序の形成に貢献しようという本能的な気持ちがあったことがその一つだと思っています。

ところで言葉のない時代に、人類の先輩たちは、何を秩序だと理解して従おうとしたのでしょうか。私は、群れの仲間の一人を権威者として認めてその他の仲間がその一人に積極的に従おうとしたと考えると無理が無いと思います。その秩序の的になった一人も、いつもどこでも権威であったというわけではないと思います。狩りをする時の権威者、動物に襲われた時の権威者、仲間同士のけんかの際の権威者等、その時々、その場面ごとに権威者が入れ替わったと考えています。

どうやって権威者になるか、その場の雰囲気と言ってもそれほど遠くないでしょう。一番冷静な人間、一番声の大きな人間等様々な理由で、その場に最もふさわしいと他の群れの構成員が直感でこの人が権威だと判断したのでしょう。偶然的要素もかなり大きかったのではないかと想像しています。それでも権威者になり、自分が権威者だと自覚すれば、その個人も役割を果たそうと必死になったことだと思います。それでうまくいっていたのだと思うのです。

権威なんて誰でもよかったと思います。とにかく秩序を作りたくて、権威を切実に求めていたということが先なのだと思います。

6 秩序の何が悪いのか

秩序があれば、組織としての目的を達しやすくなります。同時に秩序があると組織が腐敗したり、他者から反発を食らうようになると言いました。
秩序の何が悪いのでしょう。どうして秩序があることがデメリットになるのでしょう。

原理的な説明の方があっけなくわかると思います。先ほどの人類の先祖のころは狩猟採取時代と言われて、人間はせいぜい数十人から百数十人の構成員で群れという組織を作っていました。しかも原則として生まれてから死ぬまで一つの群れでした。秩序のある群れは強力な組織で、文明が始まる前の非力な人間の命を十分維持することができたわけです。偶然生まれた権威者であっても、それにほかの仲間が従って行動することによって、十分人間が生き残ることができたのでしょう。その当時であれば、秩序があることには弊害があまりなかったと思います。環境に適合していたと言えるわけです。

ところが現代社会は、人間関係が大量であり、一人の人間はいくつもの組織、群れに所属しています。家庭、学校、職場、地域、国、社会、地球、インターネット等数え上げたらきりがありません。所属の強さや意味合いもそれぞれ違います。

そしてそのすべて人間関係にそれぞれの秩序があるのです。人間関係があればその中の秩序を作って安心したいのが人間だからです。国の秩序は国の秩序としてあり、企業の秩序は企業の秩序として別に存在するわけです。企業は常に国の秩序に反するということを言いたいわけではありません。それぞれに秩序があり、大部分は国の秩序に合致しているとしても、それは二つの秩序の内容が合致していたということで説明するべきだと思います。こう考えると以下で説明するように不正や違法の行為がなぜ起きるのかということを考えやすくなると思うのです。

一つの人間関係の秩序が、別の人間関係では受け入れられないということは多々あるわけです。

権威の的がそれぞれの人間関係では違うということがわかりやすいかもしれません。

組織の理念であるとか、政党の規則であるとか、宗教団体の協議であるとか、そういう抽象的な概念が権威となる場合もあると思うのですが、実際の組織を見ていると、特定の誰かが権威となり、その人に従おう、迎合しようとしているのが実際の人間の組織のように思えてきます。一から十まで一人が指図するということは無いでしょうが、肝心の組織の行動を決定する場面では、一人の権威者が強い影響力を持ち、事実上決定権があるという仕組みができているのではないでしょうか。

特に教義とか理念が難しすぎて一般の構成員にはあまり理解されていない場合は、なおさら具体的な個人を迎合の的にしてしまう傾向があると私には感じられてなりません。

秩序の何が悪いのかとして話し始めました。この「悪い」とか「良い」とかいうことも、実は絶対的なものがあるわけではなく、それぞれの組織の秩序によって異なります。
単純な話、会社であれば利潤追求が是であり、ボランティアであれば利潤追求は目的になりません。政党であればめいめいが勝手なことを言ってまとまりが無くなり何が主張なのかわからなければ悪でしょうが、学術団体などであればそれぞれが自分の研究成果を自由に発言できなければそちらの方が悪だということになるでしょう。

特定の組織の秩序が強すぎてしまうと、一つには他の秩序、特に法秩序や道徳のような社会秩序に反することが起こりうるという問題がでてきます。または、秩序を優先するにあまり、個々人の個性が圧迫されてしまうということが起こりうるわけです。

7 組織腐敗の構造

先ほど、例えば企業の不正経理が、トップが堕落しているという問題だけではないということを言いました。トップが堕落していても、健全な組織であればトップを排して、新しい人がトップになり、腐敗が起こらないはずです。

なぜ国の秩序からすれば明らかに違法であるにもかかわらず、トップダウンで不正経理が行われるのでしょうか。これは、組織の結束が強すぎるということが、実際は特定の個人に権威が集中していることで、その個人抜きでは秩序が形成できないような状態が強く背景にあると思います。

特に他の秩序との乖離がみられる時というのは、組織が存続の危機にある場合です。何よりも組織の存続が最優先になるという場合に、その組織単独の秩序が発動されやすくなります。

組織の構成員は、組織の存続に向かってモチベーションが高まってしまいます。こういう組織の危機の場合は、秩序形成を求める力も強くなるようです。より強く組織のトップに権威を求めて、より積極的に迎合しようとしてしまうわけです。すると、トップが苦し紛れに違法な行為の提案をしてしまうと、強い組織のメンバーの多くが組織防衛のためにそれしか方法が無いと思い込みやすくなってしまいます。不正であると頭では理解しても、それに反対することがとてもやりづらくなってしまいます。人間の本能に逆らうことになりますし、自分だけ逆らって他の人間がトップの違法指示に迎合したとしたらということを考えるとますます一人だけ反発することは、本能的にできなくなります。

組織防衛という錦の御旗のしたで、企業秩序が社会秩序から遊離してしまう瞬間です。単に不心得者が違法行為をしたという側面もあるでしょうが、それが組織の中で受け入れられる構造はこのような人間の本能に根差していると考えるべきです。特に権威の資質などを見極めずに、偶然の事情でおおざっぱに権威者を決めていた人類その祖先のやり方が、現代社会では不適合の状態になっているということなのだと思います。

こうして、社会秩序違反を自ら犯すことや仲間の不正を容認することは、当人たちにとって秩序を害する行為をしているという罪悪感は希薄になるわけです。むしろ、自分は会社の秩序を維持するために、自分を捨てて組織のために尽くそうとしてしまうという秩序にかなう正義の行為を実践している奇妙な感覚さえ感じてしまうわけです。

国家に独裁者がいれば、大義のない無謀な戦争が起き、会社であれば不正経理が行われてしまいます。政党や宗教団体であれば教義に反する活動が公然と行われても、周囲はそれを秩序内の行為であると強引に理屈づけをしてしまうわけです。これが秩序に迎合するということです。戦争は平時であれば秩序違反の忌むべき行為ですが、有事なると戦争に勝とうとすること自体が秩序を体現する行為になるわけです。

これらの事情は、組織が悪い人が集まっているということではなく、およそ人間の組織にはこのような傾向に陥る危険が存在するということだと私は思うのです。

組織においては、権威者の役職等を年数などで区切り、一度権威者となったものは、権威を持たないように工夫をするということがとても大切なことなのです。

8 組織外の人間に対する排斥と攻撃的行動

  人間が組織を作る目的は、組織外の人たちに受け入れられることによって、組織の目的がよりよく達成されるということがあるはずです。カルト集団で、集団を大きくしようと思わないというごく一部の集団を除いては、そうであるはずです。
 ところが、組織ができてしまうと、組織を守ろうという意識が強くなる場合があります。強い組織が、特に一人の権威者への迎合で秩序が成り立っている場合、権威者に対する攻撃は、その組織の秩序に照らして考えると、組織の秩序に対する攻撃だと構成員は受け止めますので、組織全体に対する攻撃だと瞬間的に受け止めてしまいます。権威者への人格攻撃だけではなく、権威者の判断に対する攻撃も全く同次元で受け止めているわけです。

 組織が権威者をその道以外の権威で高めようとしているときは、組織の腐敗が始まっているのではないかと警戒するべきです。組織は権威者はオールマイティーに権威を持っていると思い込みたいという性質が生まれるわけです。とある国家の元首が、ゴルフで18ホールすべてホールインワンを成し遂げたという話があることが、ゴルフ関係者では周知のことです。これが亡国の機関が流した情報なのかは不明です。もしそうであれば強い組織の内在する問題点が露呈したものであると思います。ここで肝心なことはホールインワンをしたことが本当かどうかではありません。それが本当だとしても、組織のトップたるものは、組織を永続させるためには、そのような自分の領分以外での権威付けには、特に神経を光らせてこれをやめさせるべきだということなのです。健全な組織、理性的な組織というものはそういうものです。

 さて、組織が攻撃されると、組織は容赦ない攻撃をその相手に向けて全力を挙げて行うという傾向が起きます。命が奪われることも容認するかのような発言を目にすることがあると思います。これは組織の秩序が強くなりすぎて、自分の組織の秩序が唯一の秩序になってしまっているということを意味しています。即ち攻撃対象者の行為は、自分が迎合している秩序と異なった秩序で行われているとか、自分たちの秩序を破壊する行動だととらえるわけです。こうなると、相手を人間として扱ってはいないのです。

しかも、その行為が容赦なく、品位を欠いたり物騒であったとしても、社会秩序に反する行為だと感じてはいません。自分たちの迎合する秩序にかなう正義の行為だと確信して疑っていないのです。

 人間は狩猟採集時代は、一つの群れで生活していましたから、群れの秩序はすなわち人間全体の秩序だったわけです。秩序を害する存在というのは人間以外の肉食獣などだったわけです。そうすると自分たちの秩序を害する存在に対して、自分たちの生存をかけて全力を挙げて総攻撃を仕掛けようとしたわけです(袋叩き反撃仮説)。そのオオカミやトラなどに向けられた怒りが、別秩序の人間に向けられているということなのです。これは本能的にそうなってしまうことです。だから理性によって、意識的に制御しなくてはならないということなのです。現代社会で怒りが人間に向けられた場合、犯罪をしてしまう場合もあるでしょう。そうはならなくても、組織全体の怒りを一般人に見せることで組織に対する警戒感が強くなってしまい、組織が弱体化していくことにもつながりかねません。
  
 私たちは誰かに対して容赦のない怒りを持つことがあると思います。その時は、別々の秩序の交差が起きていて、本能的に怒りを感じている可能性があると疑ってかかる必要があると思います。多様な秩序を肯定しない偏狭な考えである場合があります。その怒りは大多数の人に受け入れられず、あなたの信用を落としたり、あなた自身が後悔する場合もあるし、あなたの大切な人があなたから離れていく場合もあります。

 自分は別に何の組織にも属していないと感じている方も多いと思いますが、何かしらの人間関係に属さない人はいません。自分の怒りを反射的に疑うということが現代人にとっては必要なことなのかもしれません。
 
9 非組織的な秩序への応用 例えば政治的な対立

以上は、例えば規約があり、会議が定められていて、役員の取り決めがあるような組織をイメージしていただきお話を進めてきました。ところが、このような
・ 特定の人間が権威になる
・ 特定の人間を権威の的としてその他の複数の人間が迎合する
・ その集団が攻撃を受けるときなど、迎合する人間が秩序を維持しようと他の秩序に相いれない行動をしたり、他者を排斥したりする
という組織のデメリット的な行動をする現象があることに気が付き、面白いと思いました。

組織を形成していなくても、一時的に、強力な秩序が形成され、それに積極的に迎合している場合があるというところが興味深いところです。

典型的な事象としては、政治的な言動でしょうか。左翼、右翼に限らず、何らかの事件が起きると、自分の立場に危機感を抱き、あるいは自分の迎合する権威に危機感を抱き、なんとなく仲間意識が生まれて共通の敵と対峙するという感じです。そして、このような場合、無自覚に組織を感じ、組織を守ろうとする秩序に迎合する気持ちになっているようなのです。特に統計的な裏付けも何もなく、直感的に「自分の立場を支持する人間が多いだろう」という意識が強くなっているようです。

しかし実際は、その問題について興味のない人間も多いですし、興味があっても自分の立場を決めていない人間も多くいるでしょうし、どちらかの立場に立ったとしてもそれほど信念が無いという場合が圧倒的多数なのだと思います。しかし、その瞬間的な秩序形成をしようとする人たちは、他者の多くもこの事件に強い関心を持ち、何らかの例外を除いては自分の迎合する秩序を支持するはずだと思い込んでいるようなのです。

こうなると、自分に反対する人間は、何らかの意識的に組織化された反対勢力であり、自分たちの私益の目的によって反対しているのだろうという極端な二者択一的思考に陥るようです。つまり、反秩序派という、人類の祖先的には人間ではない肉食獣のような存在に見えてくるようです。

憲法9条改正問題でもそのような二者択一的議論をする人が多いように感じられます。「憲法に武器を持たないとかいてあるのだから日本は絶対に戦争をしてはならない。」と考える立場の人たちは、それぞれの理由で反戦を叫ぶわけです。それはそれで確かに説得力のある見解だと私は思います。しかし、「憲法にどう書いてあろうと現実の世界情勢を見ると、日本が他国から侵略される危険がある、命を守るために武装を強化しなくてはならない。」という考えが成り立たないわけではないと思います。国民という人間の数は膨大すぎるほどなので、それぞれの秩序があることは全く不思議ではありません。それぞれ対話をして国がどうするべきかを決める必要がどうしてもあるわけです。それでも、双方が他方に対して、必要以上の攻撃的言動を行ったり、自分の正しさの絶対性を主張するので、話し合いの土俵にも立てないのではないでしょうか。一般国民の外にそれぞれの立場の組織があり、相いれない行動をしているため、事態がますます複雑になっていくような気もしています。

10 インターネット炎上のメカニズム

このような秩序の多元化は、インターネットにより加速し、さらに攻撃が起こりやすくなっているように感じられます。

本来何のかかわりのない人の行動であるはずなのに、現実の人間が自分たちの秩序が侵されたという危機意識をもって特定の誰かを攻撃するという現象が起きているのだと思います。組織がないのに、どうやって秩序を感じたのでしょうか。

要素としては以下の通りです。
1)攻撃対象者の行為が、自分たちの秩序に反していると評価
2)1)の評価形成にあたって、具体的人間に権威を感じている
3)自分を支持する人間が自分の背後に多数いるという主観
4)自分がその対象者を攻撃することで、権威に対して迎合しようという積極的意思を持つ

例えば殺人犯が現れたところで、自分に何の関係もない人が被害者であれば、それほどその犯人を自分の手で攻撃したいとは思わないわけです。人間の生命身体の安全という秩序違反それ自体が攻撃にはつながらないようです。

だから1)と2)の形成は、3)の形成も含めて同時に起きるのかもしれません。

誰かが、その対象者の反秩序について、秩序に反した行動だと評価することによって、やはり秩序違反の行動だと納得すると同時に、他者も同じように感じているということ実感し、自分だけでなく多くの人間が同様に感じているはずだというところまで思い込んでしまうようです。

例を挙げて言うべきでしょう。

例えば、私生活を映し出すという体裁の番組があったとします。出演者の一人が、何らかの怒りを表明し、他者を攻撃したとします。それが理不尽な攻撃であり、それを見ている人たちがうまく言葉にできないけれど、否定的な価値観を示したとします。

それを見ていた一般視聴者の多くも、攻撃者に対して共感を得られないか、あるいは攻撃を受けた者に共感をしてしまい、その共感が番組のコメンテーターに様って裏付けられてしまうことによって1)、2)、3)が瞬時に形成されてしまうようです。

こうなってしまうと、自分は世界の中で多数派に存在しているという秩序側の人間だという意識が形成されて、自分は多数派だという意識になるようです。そしてここがミソというところが、コメンテーターは否定的な態度を示したものの、その理由を言葉でうまく説明しなかったとします。そうすると、多数派の一人だと自覚している人たちは、自分の力で秩序の形成に一役買いたくなるわけです。秩序に迎合しようと、どうしても人間はそういう傾向になるようです。

これこれこういうふうに言えば、その人がどういう風に間違っているかを説明できるということを思いついてしまうと、その言葉を発表したくて仕方が無くなるわけです。秩序形成に自分が貢献することができると思ってしまうと、貢献して有能な仲間として認められたいという気持ちに人間はなってしまうようです。

そのご指摘発表の受け皿が用意されていれば、そこに書き込むなりして、自分の気持ちを満足させることができるはずです。自分の評価に敏感ですから、評価を受けやすい媒体があればそこに発表するからです。

ただ、現代のインターネット社会は、そのようなお仕着せの発表舞台が無くても良いようです。SNSで発信されると、それに対しての返答がある場合があるようです。但し、そういう反応を受けるためには、発信者がそれなりの支持を従前から受けている場合か、自分の仲間内の場合なのでしょう。要するに、そこには自分と同じテレビ番組を見て、自分と同じような感想をもち、秩序を共有する仲間がいて、自分を受け入れてくれるのです。そうしてその仲間を大切にしながら、仲間以外の人間を容赦なく攻撃することによって、仲間の中で自分が秩序形成に貢献しているという実感を持つことで、大きな満足を得られるようです。

インターネットで攻撃をされる人は、別の秩序を持つ人間であり、自分たちとは敵対する関係だ、肉食獣のようなものだという意識ですから、攻撃は容赦なくなります。インターネットの発信者は、ギャラリーを意識して発信しますから、攻撃は他者に受けの良い演出が加わることになります。

発信の受け手も、その意見表明が自分の気持ちを代弁してくれたと思えば評価をするでしょうし、意見のない人はほぼ受け流して反応しないことでしょう。その投稿の界隈では、攻撃に対する否定評価は表れにくく、肯定的表明だけが発信されていくわけです。

自分が攻撃されていることをインターネットで閲覧した当事者は、自分が人間扱いされていないことにまず衝撃を受けるでしょう。本当は狭い仲間内での意見表明にすぎないのですが、その界隈では支持者ばかりが投稿をしますので、自分を攻撃した人の意見が大勢を占めていて誰もそれをたしなめる人がいないために、世の中全体から自分は排斥されているとつい感じてしまうことは、私には簡単に想像することができます。大きな事態が生じても不思議なことではありませんし、攻撃を受けた人間の特殊な感受性では決してありません。

番組のあおりとは、インターネットでの攻撃を呼びかけるものではありません。インターネットが当たり前の社会において、特定の価値観を表明して一人の個人に対する否定評価を不特定多数の人間に対して発信表明することなのです。それで十分です。

まず私たち一般人は、いつ誰かをインターネットその他の自分の怒りの行動で傷つけているかもしれず、その行動によって相手は自分が想定もしないほど深く傷つくということがありうるということを自覚するべきなのでしょう。自分が想定できなかった人物もそれを見るという意識が利用者にはまだまだ希薄なようです。

テレビ制作者やインターネット発信者は、不特定多数に対して否定的価値を表明し、一般的秩序違反であるという発信をする時は、その影響で誰かが致命的な攻撃を受けないように工夫をするべきです。リアルな番組であっても演出で行われている場合はそれを公表するべきですし、攻撃の対象となる可能性のある番組は作るべきではなく、可能性が生まれてしまった場合は徹底的にかばうという責任感を持つべきだと私は思いました。

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正義。正義感にあふれる人の他人への批判が怒りにまみれているため聞くに堪えない理由 ネット炎上から学んだ結果報告 [進化心理学、生理学、対人関係学]



解題 ネット炎上の際や、そもそもの投稿で他人に対して容赦のない批判を目にします。あんなに立派なことをしている人がどうしてそんな聞くに堪えない言葉を使うのか不思議になります。どうもそれぞれの攻撃者は、自分の攻撃が正義であると考えているようです。いじめやパワハラも、この正義感情が被害者特定の人を攻撃して容赦が無くなって起きることにも気が付きます。この怒りを伴う正義感情がどこから来る、どうして人は正義の活動をすると怒りや攻撃感情が伴うのかについて考えてみました。

1 正義という作られた概念と元々あった「義」という価値観
  「正義」という言葉は、幕末から明治にかけて明治政府側によって作られた言葉で、日本語にはもともとは無かった言葉です。JUSTICEの訳語ということになります。私はこの言葉をわざわざ作った目的は、富国強兵という国家戦略、すなわち軍備増強におけるソフト面の整備だとにらんでいますが、今回はこのことをわきにおいてお話を進めます。

  正義という言葉ができる前も、日本語には「義」という言葉がありました。道義、忠義、義理、義務と言った単語があるように、「人として従わなければならない」事項を意味しているようです。そして義が実践されることにより秩序を形成し、維持することになる効果がある場合に使われるようです。そして何らかの義に反する行為が行われれば、義憤を感じ、義の修復のために義士が立ち上がり義挙をなすという仕組みになるようです。

  この従わなければならない何かというのは、法律のようにある日誰かが決めたことではなく、人間の本能的な価値観というか、暗黙の了解によるもののように感じられます。具体的な内容としてはあまり説明されていないように思われます。言葉に置き換わる内容としてのコンセンサスがあったわけではないということです。それでも、その行為があったときに、義に反する行為だということは、多くの人に共通の理解を得られた内容になっていたわけです。どうして多くの人が共通の価値観を言葉によらずして共有していたのでしょう。
 
 ちなみに論語では義の対義語は利であると述べられています。利に走る行為は平穏な社会秩序を乱すものであるから、利に走る行為に対して否定評価をして、抑制することが義の役割だったようです。

2 義であらわされる人間の本能的価値観を考える手法
  それでは具体的に概念規定されてこなかった「義」というもの、人間ならばなんとなく共通理解が得られた人間の本能に基づく秩序、価値観とは何だったのかということを考えていきたいと思います。「義」が「利」の対義語として使われていたということもヒントになると思います。

  現在以上に、過去の一時点までは義という概念が人間の中で広く意識されていたようです。単純に現代に近づくにつれて廃れていったかどうかはわからないというしかないのですが、仮にそうだとしたらということで考えを進めていきます。この前提に立つとすると、歴史をどんどん遡っていけばいくほど、義という概念が人間の行動原理としてポピュラーな概念であったということになると思います。少なくとも論語が書かれた今から2000年以上前ではかなりポピュラーなものでした。しかし、解説が必要なほど、概念が不明確だったようです。当時の言葉というものはあまり厳密に突き詰めて使われていたものではなったのかもしれません。説明の言葉が無くても、なんとなく共通の価値観というか、感情があったということなのだと思います。

  このブログをよく読んでいらっしゃる少数の方はピンと来られたと思います。言葉で定義されないにもかかわらず、その概念を共有しているということは、人間の本能に根差した感情なのだろうと考えているわけです。人間の本能的な感情は、進化の過程で獲得した感情なのだろうと考えているわけです。つまり「その」感情をたまたま持っていた人類の祖先だけが厳しい環境の中で生き残ったため、その感情が後世まで受け継がれていったというわけです。

  その進化の過程とは、文明が起こり、言葉が発生する以前の話ですから、今から200万年前から1,2万年前の狩猟採集時代ということになるわけです。人間の脳進化は、頭蓋骨からすると約200万年前からあまり進化をしていないとされています。環境はめまぐるしく変化しましたが、心は200万年前と大差がないというわけです。
  そうであれば、人間が言葉無くても共通の感情が生まれる「義」という言葉に表現される感情も、狩猟採集時代の人間の様子、当時の環境にどのように人間の先祖がどのように適合したのかということを考えれば見えてくると思うのです。

3 狩猟採集時代の生活から義の中身について考える
  狩猟採集時代は、人間の祖先は数十人から百数十人の群れを作り、生まれてから死ぬまで原則として一つの群れで生活していたとされています。群れを二つに分けて小動物を狩ってたんぱく質とカロリーを取る集団と、狩りが失敗した時に備えて食べられる植物を採取していた集団が協力して群れの生活を営んでいたようです。群れは完全平等で、食料は平等に分配されていたようです。

  どうやって完全平等を保っていたのでしょうか。これは二方面から考える必要がありそうです。

  一つは、自然な感情として群れ全体で平等に分け合いたいという気持ちがあったためだということです。生まれてから死ぬまで同じ仲間でいると、ただでさえ仲間に対して情がわくでしょう。また、個体識別ができるぎりぎりの人数で仲間を構成していましたので、仲間の心情はすぐに共感できたわけです。不平等な分け方をされると、仲間が悲しんだり、落ち込んだりすると、我がことに様に悲しんだり落ち込んだりしたわけですから、仲間に対してそんな淋しい思いをさせたくないという気持ちが元々あったと思われます。そしてそれが共通の感情だったわけです。だから、そのような不平等をしないで平等に分けることが一番ストレスが少なかったということなのでしょう。

  二つ目は、中には共感力が乏しかった個体もいたはずです。自分だけ多くとろうとする個体が表れることはあったこととでしょう。いわゆる利に走る行動をする人です。しかし、仲間の大勢が平等分配の意識があったために、そのような仲間の意識に反する行動は自然と反発されて強く否定されたと思います。

否定のされ方は穏当な否定、物騒な否定と二種類あったと思います。穏当な否定とはまだ成人に達する以前に自分を優先してしまう行為をすることが明らかになったときの否定です。個体が小さいときは、教育的な否定だったと思います。共感力がない個体も、平等分配が必要だということを学習していったはずです。共感力が育たたなかったとしても、自分だけ多くとろうとすると仲間から追放されてしまう危険があることを学習したわけです。自分だけ多くとろうとする行動をすることは大変怖いことだという形で学習していくわけです。

物騒な否定とは教育の効果が上がらなかった場合です。成人に達しても個人的利益を優先する個体もいたはずです。自分を優先すると分配にあずからない群れの仲間も出てきてしまいます。このような利に走る個体に対する大勢の意識は、利に走るものによって自分が損をさせられるという意識だけではなく、自分より弱い仲間が損をさせられるという意識になったことでしょう。ここで大切なことは、自分だけが損をさせられるという意識ではないというところが大切です。自分が大勢の側にいるという意識は、秩序違反を許さないという意識となります。仲間の中の弱い者を守ろうという意識です。逆に自分だけが損をする場合は、自分が仲間から外されるのではないかという不安が先行しますので、どちらかというと恐れの感情が発現するようです。自分の力ではどうすることもできないので、許しを請うという行動の流れになるしかないわけです。自分だけが損をする場合ではないとすると、仲間の弱い部分が損をさせられるという意識も強くなります。この場合は怒りの感情が発現するようです。その自分優先の個体以外の群れの仲間は自分と同じ考えであるはずだという確信は、許しを請うのではなく相手に許しを請わせるまで追い詰めようという意識になるのでしょう。勝てるし、勝たなくてはならないという意識のようです。この意識をイメージしやすいのは、母熊が、子熊が襲われていると思うと、逆上して相手を攻撃する場合です。人間の場合は熊と違って、母親だけが子育てをするのではなく群れで子育てをするので、群れの共通の弱い者を自分たちで守らなければならないという意識となり、微妙に違いはありそうです。

怒りという感情によって、仲間の弱い者を守るという意識と自分の損を回避するという意識は、自分だけを優先する者に対しては「仲間と自分を加害する存在だ」という評価を瞬時に下してしまうのだと思います。元々は仲間だったという意識は消えてしまいます。自分だけを優先するものは、仲間ではなく仲間に対する攻撃者だという意識に塗り替えられるのだと思います。つまり仲間を襲撃する肉食獣のような存在として意識づけられて、肉食獣に対するものと同じような攻撃感情と攻撃が向けられるわけです。躊躇する事情が無くなるわけですから、純粋に怒りの感情に任せて容赦のない攻撃がなされたことでしょう。

もしこの思考が正しければ、義という概念は、自分たち仲間の大勢がそれを守るべきものと認識していたもの守るべきだということを意味し、それを害することに対して否定しようとさせる概念であるといえるでしょう。ここでいう守るべきものの原始的対象は「仲間の中の弱い者」であったということになると思います。義を乱したものに対する感情は、怒り、攻撃、敵対心というものであり、攻撃は躊躇なく行われるという特質があったということになります。そして損をするのが弱い者ばかりではなく、当然自分もやがて損をすることになるという場合が、怒りのエネルギーを大きくなったのではないかと考えています。

4 義の感情の歴史的推移、弱者保護から秩序維持へ
  文明が生まれる以前、狩猟採集時代で貧富の差を作りようがなかった時代は、義という感情は、自分と弱い仲間を守ろうという感情とほぼ同義だったと思います。逆上する母熊の集団バージョンということになるでしょう。やがて文明が生まれ、群れが大きく複雑になっていくにつれて、そして言葉が生まれることによって、そのような素朴だった感情も複雑になっていったと思います。
  狩猟採集時代は、公平や弱者保護自体が秩序となり、おそらくそれがほとんどすべてだったと思います。しかし、群れが大きくなり、個体識別ができない相手が他者を支配するようになると、支配者を中心とした秩序を守ろうとする意識に、平等や公正がすり替わっていったというか利用されて行ったのだと思います。

狩猟採集時代においても、人間は弱者保護と公平公正の目的とは別の目的で、秩序の存在が必要だったと考えられます。例えば小動物を狩りする場合も、多数で追い込む狩りの手法であったため、それなりの計画的な統一行動が必要になります。言葉がないので細かい打ち合わせは不可能です。結局、群れの中の誰かが判断をして、その判断に従って行動していたのでしょう。それができなければ小動物でも捕まえられなかったはずです。自分勝手な行動は群れに迷惑がかかります。また、人間関係のトラブルも、些細なことであれば、誰かを追放するまでもなく、群れの権威のある人物に従って解決したことでしょう。これらの場合の権威者は、おそらく固定していた一人の人ではなく、場面や対象によって流動的に権威者が入れ替わったと想像しています。ともかくもその時その問題で権威者となり秩序形成の的として認知されれば、その人間に無条件に従っていたと思います。ミルグラムの服従実験は、人間が服従をすることを示したものではなく、瞬間的に権威者を見つけて秩序を維持しようという自発的行動をすることを証明したものと私は考えます。

  つまり人間は、それが秩序であると大勢が認知してしまうと、それが真に守るべき秩序か否か、あるいは自分に何らかの利益を与える秩序か否かをあまり考えないで、本能的に秩序に従うという性質があるのだと思います。古い秩序を覆して新しい秩序を形成するということは、とても難しいことだという理由がここにあります。革命などの新秩序形成行為について快い肯定的な感情がわきづらく、物騒な否定的な感情がわいてくることが自然なことだということも理解できることです。

  こうして必ずしも弱者保護や公正が、人数の増加と社会構造の複雑化によって、秩序維持の本能と融合していったという動きがあると私は考えています。

5 義から正義へ
 現代の人間は、多種多様な人間と複雑な関係を形成しています。関係する人数も多ければ、所属する群れも一つではなく、無意識に多数の群れを形成しています。無数の人間関係それぞれに、いちいち義があり、それが複雑に影響しあっていることになります。それぞれの人間関係ではそれぞれ異なった秩序が形成されていることになるはずです。守らなければならない秩序がそれだけ多くあるということになります。
幕末から明治にかけて、欧米列強に追いつけ追い越せという国家政策がすすめられ、それまでの江戸幕府のような国民の多様な価値観を肯定していたのでは、国家政策が効率よく推進できないという事情が生まれたわけです。「義」という多様な意味合いを持つ言葉は、結局それぞれの人間関係にあることを承認することが前提となっていたと思うのです。これでは国単位での戦争を遂行するためには妨げになりかねません。列藩という単位を排して、国という統一的な秩序に国民を統合することが他国と戦争を起こすためには有効だと考えたのでしょう。この考えのもとで廃藩置県を行い、廃仏毀釈をすすめ、天皇という単一の最高秩序を押し出して国家秩序の形成を進めたと考えると賛否はあるにしても合理的な行動だったと思います。
 そのためには、ローカル色が強い多様性のある概念の「義」という言葉では足りず、他の事情を差し置いても最も守らなければならないという強力な秩序があるという意味で「正義」と名付けられたのだと思います。ここで言う「正」は善悪の善という意味ではなく、正室とか正一位、あるいは正大関というような、正式のという意味での正なのだと思います。つまり、国家秩序だけが正式の義として守るべきものであり、他の義は後列に置かれるもの、あるいは偽物の義という位置づけにしたわけです。

6 現代日本における社会病理の推進力としての正義
 短期集中でインターネットの炎上についての実態を調べていたのですが、予想通り大変興味深い結果が出たように感じました。私の調べた範囲について報告します。
 ある投稿に対して、それを批判する投稿や否定評価をする投稿が次々と行われて収拾がつかなくなる状態である「炎上」という状態になります。炎上になる理由として正義の感情があるように思われました。炎上が大きくなるほど素朴な正義感というか、狩猟採取時代の義の感情が発動されるパターンが見られました。
 炎上が起きやすい投稿パターンは以下の通りです。

1)そもそも誰かを攻撃する内容、ないし、誰かに損害を与える内容の投稿
2)同時に反論投稿者をする人も、その投稿によって攻撃されているという意識を与える投稿 
3)その攻撃が、なんらかの理不尽だと感じられる要素のある攻撃
4)自分だけでなく、大勢が不快だと思うことが予想される投稿(内容又は表現、あるいは選択した投稿メディア等)
5)容赦のない攻撃をしていると感じる表現、下品な攻撃表現、人格を否定するような攻撃表現
6)誰かを攻撃することによって自分だけが得するという抜け駆け的な利益を目的にしているように感じる投稿 
7)自分を含めて多くの人たちが秩序に反する立場だろうと感じられる投稿、 反秩序(不道徳、違法、不合理)を擁護する投稿
8)一定の影響力があり、部分的にでも秩序を害する恐れを感じる投稿
9)投稿文言に大きな隙があり、主張内容その他に批判する部分が多い投稿

特に初回投稿者が、自分が攻撃を受けているわけでもないのに、他者に対して極めて不寛容であり、かつ表現の品位に疑問が持たれるような攻撃をしている場合でかつ一定程度以上の支持を受けている場合に、炎上が起きやすいようです。自分の主張ないし感情こそが正式な義であるという意味での正義だと主張して、自分の主張と異なる他人の日常や悪意のないふるまい、あるいは存在自体に対して、感情的な表現や、品位を欠く表現で、相手の人格を貶めるような攻撃が炎上しやすいようです。特に不特定多数人に対する言いがかりのような攻撃が目立ちました。白を黒に塗りつぶして黒だと批判しているようなものです(オリジナル表現は平野龍一「刑法総論」)。

中には攻撃されても仕方がない行為が実在している場合もあるのですが、その行為者に対する攻撃ではなく、一定の属性(男性、女性とか、国籍とか)全体が同じ行動傾向、同じ思考、思想、人となりだと決めつけて攻撃する差別的な表現は、当然のことながらその非行行為をしない、その属性の人間から大きな反発を受けるわけです。当然、別の属性の人たちからも言い過ぎであるという主張がなされるようです。

炎上を生む投稿は、正義の多様性、相対性を認めず、差別的な思考パターンの元、攻撃しなくてよい人を攻撃している結果となっているという特徴があります。自分が正しくて、自分以外が悪だと主張しているという印象を持たれているわけです。

自分の行為に対して批判があるのであれば仕方がありませんが、自分の属性に対して批判されることは、端的に差別をされるということですから、反発を受けることは当然のことであろうと思います。

それでも自分が差別や、罪なき人に対して攻撃しているということに思い至らず、あくまでも正義を主張しているという意識ですから、自分が守ろうとしている何かのために子連れの母熊のように逆上してしまっているわけです。炎上すればするほど、他者が自分を理由なく理不尽に攻撃しているとしか思えません。反論を試みるわけですが、同じような感情的な反論ですから、論旨も不明ですし、表現も的を射ていない表現となり、ますます反発を募らせるだけであるようです。

7 正義と娯楽
 インターネットの誹謗中傷に対して提訴をした方がいて弁護団を交えて記者会見が行われました。ところが会見自体が、上記の炎上を生む要素に多くあてはまる内容でした。裁判前の会見はアドバンテージを獲得することも大事な要素だと思います。会見によって味方を増やす結果にならないと意味がないと思います。しかしながら弁護団の会見は、話している内容もさることながら、表現や姿勢などを見ても、新たな味方を増やすという意識は感じられず、元々の仲間内の結束を強固にすることが目的だったのかなと感じました。

 いくつか気になった弁護士の発言がありましたが、「インターネットで人を攻撃するのが娯楽として行われている」という発言もその一つです。

 インターネットの炎上は、一口にインターネットと言っても、ツイッターなどのSNS、ユーチューブ、インターネットテレビなど実際には様々な媒体があります。今回短期集中的にそれらの発信を読んでみたのですが、とても発信に工夫がなされていることに感心しました。特にユーチューブのゆっくり解説は、たくさんの発信者が、手段を共有しているものらしく、様式美を感じました。動画の中で、アニメキャラクターの2人ないし3人が登場し、1人ないし2人が聞き手で1人が説明するという形をとります。聞き手が時折疑問を呈して、それに話し手が答えるという手法はとても理解が助けられます。字幕も整備されていますし、画像も効果的に引用されています。とても分かりやすいのです。さらにアニメキャラクターの絵も声もそれなりに工夫されて、感情自体を伝えています。年配の人が見ればふざけた娯楽のように見えるかもしれません。そのようなものではなく、主張を明確に他者に伝えるプレゼンの要素が詰め込まれている立派なものです。中立の人を味方にしようとする努力に感心するほかありません。

 また、そのような媒体の工夫がない発信でも、読み手、利き手を引き付ける工夫がなされている発信者も多いです。相手の批判の方法にもウイットを聞かせようと意識している人たちも多いです。そういう人たちは、能力をアッピールしようという意識があって、単純に真正面から批判するだけでなく、アイデアを競うというか、能力を見せつけようとする人たちも多くいらっしゃいます。それを娯楽というかどうか難しいところです。攻撃を受けている相手から見れば、面白がって攻撃していると映ることはその通りなのでしょう。

 但し、後発参戦者になればなるほど、そのような工夫の余地が出し尽くされている感もあるため、あえて斜めに切り込んだり、攻撃の表現を激烈化したりして参戦するということが見られました。これは残念ながら確かに見られました。娯楽というかどうかはともかく、後発になればなるほど、建設的姿勢が低くなる傾向にあるように感じられます。

 いずれにしても、義を実践することに人間は喜びを感じる動物です。自分が炎上もとになった投稿や投稿者に感じるもやもやを言語化してくれることにカタルシスを覚えるようです。
 それでも炎上もとになった投稿者は、自分の正義を疑いませんから正義の主張を続けるわけです。それも自然な流れでしょう。そうするとさらにそれにかみついてくる後発参戦者がでてきてしまいます。そのころになると大勢が決していて、炎上元はごく少数者になります。それでも正義の感情は怒りの感情ですから、相手が弱ってきて、相手は反秩序でこちらが正秩序派だという意識が強くなっていきますから、攻撃性がむしろ激化していくようです。徐々に攻撃のための攻撃をする後発参戦者(コメント書き込みなど短文投稿者)が出てきてしまいます。初発の参戦者ほど、表現に工夫は無く、また工夫するメディアでもなく、純粋な攻撃に近くなってしまいます。こうなると、正義を主張して反発を受けた炎上元投稿者に対して、別の正義を押し付けて事態が収拾付かなくなるようです。

 正義という概念は、元々あった人間の性質である義を大切にする感情を利用して、それを特定の方向に誘導するために作られた概念だと思います。本来、義は複数あり、正式の義である正義なんて言うものはフィクションにすぎません。それがあたかも絶対的な正義があるように他者を排斥する手法は、戦争遂行を至上命題とした明治政府と同じ行動を、無自覚に行っているわけです。

 正義という観念がインターネットの炎上の根本原因であると私は感じました。

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出て行った妻に対して「話し合いを求めること」が逆効果になることについての注意喚起 [家事]



ふと気が付くと、大抵の同種事案では繰り返されていることでした。代理人の仕事をしていてなかなか意識に上らなかったのですが、何件か立て続けにありましたので注意喚起をします。


その準備をしていることも気が付かないうちに妻が子どもを連れて別居することがなかなか減少しません。いろいろな原因があるのですが、ここでは夫の行動が知らないうちに妻の行動を助長していたようなケースです。原発的原因が別のところ、主に妻の体調と妻の相談相手(実家、似非女性の権利の主張者である行政とNPO、警察、病院等)にあるのだけれど、夫が意識して自分の行動を修正することをしなかったため、いつしか妻は夫に敵対心や恐怖を感じてしまい、その感情が固定してしまった場合、つまり典型的な連れ去り(思い込みDV)のケースを念頭に置いています。

夫は、何が何だかわからないことが通常です。多くの場合、妻が自ら出て行ったという痕跡があるものの、それを認識できることはあまりありません。何か事件に巻き込まれたのではないかと探す人がほとんどです。警察に届け出る人も少なくありません。しかし、いくつかのやり取りを経て、妻が自分から逃げ出したのだということが伝わります。警察官から、「奥さんは無事だから心配するな。しかし居場所は教えられない。」と告げられる人も少なくありません。この時警察官から自分が犯罪者のような扱いを受けていると感じる人もいます。大体は奥さんは配偶者暴力相談を受けていて、「あなたの夫は危険なDV夫だ。一緒にいると危険で命を落とす場合もあるので逃げなくてはならない。」と言われています。その相談をした段階で、行政から奥さんは「被害者」、夫は「加害者」というカテゴリーでひとくくりにされているということは頭に入れておいてください。もちろんそのような危険など現実的には無いということが正しいのです。「なんだろうね、この日本の非科学的な家族破壊の行動は。」ととても歯がゆい気持ちになります。そんなに行政や警察官は理解のある夫なのでしょか。ただ、我が身をかえりみないだけだと思います。

さて、怒りが止まらなくなる前に本題に移行します。

夫はどうして妻が家を出て行ったのか理解できていません。これは当たり前だと思います。私が相談を受けたこういうケースはほとんどのケースが夫が自分では原因などがわからなくて当然のケースでした。特にご自分では身に覚えがないことはよくわかります。

妻の居場所が、妻の実家だとか様々な事情で分かる場合がありますし、昨今であるとラインやメールがつながっている場合もあります。つまり夫は妻に対して連絡が取れる場合です。(居場所が全く分からない場合も少なくありません。)こういう相手と連絡が取れる場合に、夫がついやってしまうことは、メールなどで、「話し合おう」という呼びかけをすることです。

わたしでも予備知識が無ければ、当然話し合いを求めると思うのです。何が何だかわからなければ、情報を得たいということも人情です。しかし、この本能的な行為こそが、別居した妻の感情をさらにこじらせていることが通常です。話し合いを求めることは逆効果になることがほとんどなのです。

これを解説します。なぜ話し合いを求めてはならないか。

1)話し合うことが嫌だ。
話し合いをしたくないから逃げ出した。それなのに話し合いを求められることは、嫌なことを強要されることになる。詳細はともかく総論としてはこういうことになります。

2)なぜ話し合いが嫌なのか。
  話し合いということは、双方が改善する必要があるという認識を持っていることを示してしまいますが、逃げ出す方は、一方的に夫が悪いと思い込んでいます。客観的にどうなのかについてはわかりませんが、主観的にはこういう状態です。だから話し合いを申し入れることは「夫はまだ反省していない。」と妻を失望させるようです。
 また、夫との話し合いは(これまでの学習から)、妻は自分が夫から言いくるめられて終わるという嫌な思い出を持っていることが多いようです。逃げ出すに至った経緯で夫の落ち度をうまく言えない妻は話し合いをして自分に勝ち目がないことをよく知っています。だから話し合いを求められることはまた自分がうまいように言いくるめようとしていると受け止めるようです。
 この結果、話し合いを求めれば求めるほど相手はこちらを嫌悪するようになっていくということが一般的です。
どうやら警察や配偶者暴力相談センターでも話し合いには応じるなというアドバイスをしているようです。

3)ではどうするのか、情報の収集
 メールやラインがブロックされない場合、何らかの返信が来ることが多いです。昔の誘拐犯からの警察の逆探知ではないですけれど、なるべく相手からの情報が来やすくなるように心がけるべきです。そうして、わずかな情報量ですが、おぼろげながらに出て行った理由が垣間見られる文章があります。しかし、その情報が出て行った理由だと夫が認識できることはあまりありません。専門家に相談した方が良いと思います。これも夫であるあなたに支持的に相談に乗るタイプでは役に立たないでしょう。「あなたは悪くない。」という専門がいたから妻は出て行ったわけですから、永遠に溝は埋まらないでしょう。本来はわずかでも情報を獲得し、その情報に基づいて、反省の弁を述べることが必要なのです。

4)どうやって情報を勝ち取るか
 これ、メールなどで直接情報を獲得できない場合は厳しいです。共通の知人、相手の親(たいていは一番の敵対者)から情報を獲得するか、代理人を依頼して双方の代理人が別居の理由を共通理解にする作業が行われることを待つしかできません。
 もし幸いにして直接メールなどで連絡が取れる場合どうするか。
先ず、相手を責めない。批判しない。「家族の不具合は夫の結果責任だ」くらい鷹揚に構えるとよいようです。なかなか難しいですが。そうして、事務連絡を要点だけこまめに連絡を入れることみたいです。例えば郵便物の連絡などです。安否確認も最小限にするべきです。効果的な文言を厳選しましょう。とにかく相手が焦ることのないように細心の注意を払いましょう。
ギャンブルになりますが、離婚原因にはならない程度で謝罪の言葉を送信することも検討するべきかもしれません。ただ、あまり大作にはしないほうが経験上は良いです。長すぎる文章は頭に入らないという精神状態のようです。

5)そして一方的に謝罪する
夫であるあなたが、何とか家族を再生させようとする場合は、話し合いをするのではなく、一方的にこちらの非を認めることが出発点です。本心をぶつけるということは絶対にせずに、結果を誘導するためにはどうするかという戦略をもってあたることが鉄則です。双方が感情に任せてやり取りをしたのでは何もうまくいかないでしょう。

また、謝罪に終始しても、読んでいる者が負担に感じることも効果がなく、逆効果になることもあるようです。難しいです。

妻の不満を簡潔に言い当てることが必要です。その場合、少ない情報でもそのことを基軸に謝罪を構成するべきだと思います。つまり客観的に正しい謝罪というものはありません。妻の気持ちが少しでも落ち着くことが正しい謝罪だということを心掛けましょう・

謝罪の内容は、御免なさいということではありません。
A) 自分のどういう行為によってどのように妻が心理的に圧迫を受けていたり、仲間として尊重されていないと感じていたかを言い当てる。
B) どうして自分がそのような行為をしたのか、あるいは思いとどまらなかったのかを説明する。
C) 今後どういうふうに修正していくか
こういうことを述べることが謝罪です。

とにかく長くならないことが一番のようです。
A)とC)については、できる限り具体的に述べる必要があります。
B)は言い訳なのですが、仲間として尊重しなかったからではないということを告げることは大切なことです。もちろん妻に原因があるなんてことは絶対にダメです。
C)については、明るく気分を上げてもらうことを意識すると良いのではないかと考えています。

メール、手紙、調停の陳述書など、それぞれの機会に応じた内容にするべきです。読んでいて苦しくなるような文章は絶対にNGです。誰かに読んでもらって感想を聞くという作業ができたらとても良いと思います。但し、あなたの母親など、あなたに支持的な意見しか言わない人では意味がありません。

いずれいつか以下のこともテーマにしなくてはならないと思うのですが、今回は頭出しだけしておきます。
どうしても許してもらえない、つまり相手が離婚に固執しているような態度をとっている場合は、本心は別としても離婚という相手の意思決定を尊重するという態度が最後の手段ということになります。通常は誰しも、離婚をしてしまったら再生はあり得ないと考えるのが当然です。しかし、離婚だけは応じないということを前面に掲げて頑張ってしまうと、相手は頑固に結論を押し付け来る、何も変わっていないと感じ、自分を否定し続けていると感じて事態を悪化させるだけの場合がほとんどです。
籍にこだわるのか、実質的な家族再生の可能性を追及するのか二者択一の局面があるのです。もちろんどちらを選ぶのもその人の生き方の問題です。但し、現代日本の家庭裁判所は、離婚理由がない離婚を、別居期間の継続と離婚意思だけで認めてしまうという不合理なところです。結局何もかも失う可能性も低いわけではないということには留意されるべきだと感じられる事案が少なくありません。

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それが「いつ起きたこと」だったか思い出せない理由と思い出させるテクニックの検討 [事務所生活]



<問題提起>
例えば職場のパワハラでうつ病にり患した人が損害賠償請求を起こすという場面を想定してください。うつ病になった人は、どのようにパワハラを受けたか、どのように叱責を受けたか、どのようなしぐさをされたのかということについては比較的覚えています。覚えているというよりは忘れられないという表現の方が正しいようです。しかし、何年からパワハラを受け始めたのかとか、同僚の前で暴行されたのは何年のことかというと思い出せない場合も多いのです。

これが、つい最近の出来事であれば、思い出せないということは無いのですが、数年前のことになると、何年のことかと質問されて、パッと何年ですと答えられるということは少ないのではないでしょう。

すぐには思い出せないとして、何年から何年の間だと言っていただければ、まだよいのです。そうではなくて、自信もないのに平成何年のことでした。なんて言われて、それを簡単に信じてしまうととんでもないことになります。例えば、パワハラ受け始めたのが平成28年のことです。なんて言ってしまって、そのように裁判書類にも書いてしまった後で、実は平成27年から精神科の治療を受けていた、しかも病名がうつ病だというのであれば、「現状のうつ病はパワハラ以前から始まっていたではないか」ということになってしまいます。実は平成26年からパワハラが始まっていたのに、言われてから年号を変えるというのでは全く信用性が無くなってしまうということもあります。

裁判の場合、きちんと言わなくてはならない事実の外に、その事実の前提となるような事実もあって、何年かということを間違うことは致命的になる場合もあります。

しかし、それが何年かということは、なかなか思い出すことは難しいようです。
今回は、どうして何年かということが思い出しにくいのか、答えにくいのか、あるいは間違いやすいのかということを考え、どうやって正確に思い出していただくかということを考えてみましょう。

<それが何年なのか思い出せない理由>

記憶していた出来事を思い出すという作業の特質からすると、何をされたかということは思い出しやすいのですが、それが何年だったのかということを思い出すことはそもそも難しいということのようです。

この点については、ちくま新書「記憶の正体」(高橋雅延)の勉強成果に基づいてお話しすることとします。以下の文中の数字はこの本の頁や章を指しています。

1)人間の記憶の想起には手掛かりが必要である(第6章)。

何かの出来事の記憶を思い出すためには手掛かりがあることが必要なのだそうです。殴られたこと、侮辱されたことということがトラウマになってしまうと、忘れられなくなってしまうために、思い出すという作業は不要になるでしょう。
あとは間違った記憶を排除して、出来事を正確に再現する作業が必要になるだけです。

何人かから暴言を受けるという場合、そこに誰がいたかということを思い出す場合、例えばその暴言を受けた場所に行くとその時のメンバーが誰であったか、記憶がよみがえりやすいということのようです。もっともその場所に行かなくても場所、例えば会議室の様子を思い出すとその時のメンバーの顔も思い出しやすくなるようです。逆に、PTSDに限らず、何らかのトラウマ体験に苦しむ人は、その時の絶望的な気持ちを連想させる場所に行くだけで、その時の苦しかった感情がよみがえってしまうようです。雨の日に性被害に遭った若い女性が、雨が降るだけで気持ちが落ち込んでしまうということを聞いたことがあります。

これに対して年数については、なかなか手掛かりということがありません。そもそも、出来事があったときに、今何年だということを意識してはいないと思うのです。確かに今何年だと問われれば、2022年だと簡単に出てくるのですが、何かをしているとき、あるいは何かをされたとき、今2022年だと意識しているということは無いと言えるのではないでしょうか。

出来事については、感情が伴います。悪い出来事ならば、悔しかったとか悲しかったとか、怒りに震えたなんてことがありますので、思い出すきっかけは豊富にあると思います。しかし、何年かという数字が感情に結び付くということが難しいということも思い出すきっかけが見つかりにくいことの一つの理由だと思います。

例えば、ディズニーランドに最後に行ったのが何年かということです。子どもと一緒にどんなアトラクションに乗ったということは覚えているのですが、それが何年のことだと聞かれても、すぐには返答不能です。

出来事と年数は直結しない、元々直結して記憶していないということも言えるのかもしれません。

2)思い出しやすい記憶は、何度も思い出している。

記憶の想起は、記憶力を鍛えるよりも記憶したことを引き出すこと早期の練習が効果的である(170~175頁)。
思い出すためには、反復して思い出す訓練をすることが必要である(166)

繰り返し思い出すことをしていると、思い出しやすくなるようです。忘れられないトラウマなんかは、繰り返し思い出しているわけですから、記憶は定着しやすいということになり、わかりやすいです。
しかしながら、それが何年のことかということについては、いちいち思い出すことは無いと思うのです。いやな出来事は反射的に思い出したとしても、思い出したくない、思い出した時に苦しい思いをするということであれば、意識的に正確にアウトラインを検証してみるなんてことはしないと思うのです。そうすると、それがいつのことかということは思い出す作業をしていないとなると、やはり何年かということについて思い出すことは難しいということになると思います。

3)西暦と元号の混乱

最近見られるのは西暦と元号が混乱していることです。平成28年は2016年なので、平成28年というべきところを平成26年と言ってしまうという単純ミスがよく見られます。また、そうやって西暦の下一桁に2を足していくという作業をしていると、元号の下一桁に2を足してしまってありえない年数をお話しする方もいらっしゃいます。
これは慎重に聴き取れば、間違いを回避することはそれほど難しくはありません。

<それが何年のことか思い出すための方法>

1)想起の基準、時間軸のランドマークを作り当てはめる
大きな出来事を基準として、その前なのか後なのかという聞き方をして思い出していただくということをします。

私は仙台の弁護士ですが、少し前までは、その出来事は東日本大震災の前か後かということを手掛かりにして思い出してもらうことが良くありました。震災によって、私たちの生活は大きく様変わりしました。そのことが震災の前か後かということは比較的思い出しやすかったようです。

そのエピソードが震災によって何らかの影響を受けていれば、「ああ、あの時ああしたのは震災によってこういう習慣が生じたためにやったのだから、震災の後であることは間違いない。」等と思い出してもらえたようです。

しかし、これも震災後10年近くたったころからはあまり役に立たなくなってきました。
ただ、時間軸のランドマークを作って、その前後という問いかけは有効になることが多いです。どのように時間軸を設定するかという工夫の問題が肝心だと思います。

2)関連する出来事の経過表を作る

年数を思い出すことにも有効ですが、人間関係の紛争を理解するためにも、出来事の時系列表を作るということはとても大切だと感じています。

何年何月のことについて、最初はあまり神経質にならず、主だったエピソードの先後関係を間違えないようにだけ神経を使ってもらい、古い順から並べてもらうということをまず作業として行ってもらうようにすることが多いです。

この作業は、弁護士が出来事を頭に入れ、原因や解決方法を考えるためにも必要ですが、当事者の方がご自分の頭の中を整理するためにもとても有効です。この時系列を整理しただけで、自分に対して自信を持ち、相手と対決してご自分で事件を解決してしまった人もいらっしゃいます。

3)客観的に年月日が特定できる資料によって精緻に仕上げていく

出来事の順番については、比較的思い出しやすいようです。出来事を前後関係順に並べていただき、思い出せる範囲で年数をいれて、少しラフな時系列表は結構誰でも作ることができています。そこからが弁護士の腕の見せ所ということになります。

ラフな時系列表の中で、それが何年のことなのか客観的に確定できる出来事があります。入籍の年月日、子どもが生まれた年月日は、覚えていることが多いです。比較的思い出すことが多い年月日だから、想起の作業の反復訓練をしているわけです。検証が必要な場合では戸籍謄本を見れば確実です。

同様に住民票には転居の年月日が記載されていますし、登記簿謄本には登記をした年月日だけでなく登記をする原因になった相続の年月日、例えば被相続人の死亡日が記載されています。

4)客観的な年月日を元に出来事の年数を推測していく
子ども生年月日を特定して出来事の時期を確定していくという作業はよくやります。特にお子さんが小さい時の記憶は、出来事と関連付けられることが多いようです。それはお子さんが小学校に入学した年のことだとか、幼稚園に入る前だけど生まれてはいたとか、幼稚園がたまたま休みだったので子どもを連れてそこにいたとかいう感じですね。また、どこに住んでいた時の話だったから、住民票を見てその年が特定できるということもありましたね。

記憶の想起の仕方は関連付けであることは間違いないようです。思い出すという作業は、何か別のことと関連付けるということかもしれません。

5)さらに精緻に

年月日を正しく特定するための関係する出来事を提案するためには、ある程度人生経験が必要だと思います。ここでいう人生経験は必ずしも年齢に比例してはいません。当たり前の人間であれば、生活するうえで当たり前にどんなことをするかということを知っていたり、自分には興味関心が無くても普通の人なら強く印象に残ることを知っていなければなりません。今サッカーのワールドカップが行われています。日本選手はベスト8にはなりませんでしたが、強豪国とPKまでもつれ込むという大健闘を見せてくれました。「え、知らなかった。」という浮世離れな感覚では、一般事件であっても支障が出るかもしれません。

当たり前の話でも、そういう意識をもって話を聞くことが大切ということなのでしょう。例えば、メインの出来事の前に軽い事故に遭っていたという情報をゲットすると、病院の記録によって、その事故の年月日がわかるかもしれません。簡単な方法としては、その病院に行ったのはそのけがの手当てをしたときだけだとなれば、診察券を見れば年月日がわかることがあります。さらに、パワハラを受けて胃が痛くなったので胃カメラの検査をしたということになれば、診療録(カルテ)が残っていれば、そのコピーをもらって胃カメラ検査をした日が確認できます。カルテに、「何か悪いものを食べた記憶はないが、上司からこっぴどく叱責されることが続いているので、神経性のものかもしれない」なんてことが記載されていれば、思い出す道具だけでなく、提出する証拠になる可能性も出てくるわけです。

6)終わりに 興味を持って聴くこと

年月の問題も記憶の想起の場合は、思い出すきっかけが無ければ思い出しにくいけれど、関連付けていくと結果的に正確な年を割り出すことができるということが共通していることが面白いところです。記憶についての勉強はとても役に立つように感じました。

ただ、人間の営みについて理解していなければ、せっかくの武器も素通りしてしまうという危険もあるのが年数の問題だと思いました。この素通りを回避するためには、その人と紛争相手の行動について、興味を持って聴くということが肝要なのだと思われます。

知識と興味によって、こういうことがあればこういうことをするのではないかというアンテナを大きく広げて正確な事情聴取ができるのだと思いました。

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非政治的視点からSNSの非組織的炎上の原因を考える なぜ集中砲火が起きるのか 正義こそ紛争の火種 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 SNSの論争の特徴 はじめから論理学的論争ではないということ

SNSにはSNS上の論争の場ができあがる。投稿者の投稿に対して反論投稿者が現れ、投稿者が再反論をしたり、第三者の参戦者が投稿したりする。
公序良俗に反する等、運営規約に反しない限り、論争のルールはない。

最初の投稿者の投稿、反論投稿者の投稿、あるいは後続参戦者の投稿について、多数の批判者が現れて収拾がつかなくなることを炎上というようだ。

炎上の様子を見ていると、必ずしもその投稿者の投稿自体の論理の内在的矛盾を突くことが多いわけではなく、投稿者のこれまでの投稿との整合性や投稿者の態度、表現に対する批判が多いように感じられる。

実務法学の論争においては、学者が学説を戦わせて自説の優位を主張する。しかし、そもそも法律自体が人間の作ったものであり、すべての事象を念頭に置いて作られてはいないので、様々な学説があったとしても、通常は各学説に論理破綻があることは少ない。現場への法適用や他の法律との整合性などから、学説の賛同者の増減が決せられる。但し、この学説の多数が必ずしも裁判所が採用する説とならないところも複雑なところではある。

尊敬する学者同士の論争においても、妥当性という不確かで基準があいまいな議論をするためか、勢い論者に対する人格攻撃とまではいかないが、他説に対する厳しすぎる論調がみられることがあった。学生からすれば、それほど立場の違わない学者の方々同志の厳しすぎる論争は、物騒というか、寒々しいというか嫌な感じがして辟易することもあった。それでも学者の論争には超えてはならない一線というようなものがあった。学者という社会的立場や他の学者からの評判など、感情と表現を制御させることについての共有されたものがあった。

SNSの論争も、論理学的な優劣を競う論争ではない。特に炎上が起きる場合は、論理的破綻は批判の材料であって、批判の理由にはなっていないように思われる。だから、勢い、相手よりも優位に立とうとして批判表現が苛烈になったり、同調者が膨大になり、相手の主張を圧倒しようとしてしまう条件ができてしまっている。投稿者らには、共通の要素もなく、感情と表現を制御するための装置は存在しないようである。

人間関係の紛争ということが私のテーマである以上、SNSの炎上は大変興味深い研究対象である。短期間ではあるが、特定の大きなテーマについて、後追いの形でいくつかの炎上した論争を追ってみた。

2 非組織的批判の集中は、不道徳な感情から起きえないこと

大体は、初回投稿者に投稿に対して炎上は起きる。炎上が起きる初回投稿者の投稿に批判しやすい文章であることもあって、大体は反論投稿者の投稿において大勢が決せられる。
興味深いことは、大勢が決せられたと思われた後の後続参戦者、あるいは投稿はしないけれどいいねボタンを押して何らかの意思表示をするギャラリーの態度である。反論投稿者の切れの良い反論に対して賞賛がなされるというよりも、初回投稿者の投稿が否定されたことに感情が動いているように見える。大勢が決していても、他の角度から初回投稿者を批判する投稿が行われる。これが炎上である。

こうして初回投稿者は、多くの人間から批判の集中砲火を受ける。なぜ批判者たちは、一人の人間がこれほど容赦なく切り捨てられているのに、かわいそうだと思って論争を終わりにしないで、さらに批判を続けるのか、この点について掘り下げて考えてみた。

A説
先日、SNS上の誹謗中傷を理由として、SNS投稿者を提訴したという記者会見があった。その中で、そのSNSによって攻撃された対象者が女性であり、若い女性の保護をする活動をしていることをもって、攻撃理由は女性を攻撃する差別行為であると私の同業者が代理人として発言していた。

そうだとすると、炎上という現象が起きる後続参戦者の参戦も、やはり誹謗中傷のたぐいで、主たる動機が女性差別にあり、女性の権利を主張することが疎ましく感じられていたので攻撃をしたということになってしまうのではないかという疑念が生じた。

しかし、提訴者の説明による誹謗中傷の中身を見る限り、初回投稿者の投稿の中に女性性の蔑視に直ちにつながるような発言、意思表示は見つけられない。女性の保護活動、権利擁護に反対する人格態度も見られない。投稿者らの本当の動機は知りえないが、内心が表示されてもいないのに、女性蔑視者だと決めつける評価は論理的には成り立つものではない。炎上の中身である後続参戦者の投稿表現を見ても、特徴的なことは、女性全般を対象にした発言はほとんど見当たらない(性急な一般化は見られない)。女性以外の何らかの差別的な書き込みは存在していたが、それらは他の参戦者からは相手にされていないという特徴があった。

論理的には、女性女性蔑視という動機や行為の性格付けは、あくまでも解釈上動機として考え得る可能性の一つに過ぎないはずである。

結果として、提訴者やその帰属する団体の活動に支障が出て、保護を受けるべき若い女性が保護を受けられないという事態になれば、結果的に保護を受けるべき人に損害が生じる可能性はある。ただ、そのような結果が出ることと、目的として女性蔑視があるということは論理的にはつながらない。

非難されている対象が女性であるとか、若い女性が結果として損害を被る可能性があることをもって、投稿者が女性蔑視という人格を有していると主張することは、論理の飛躍や詭弁というよりも、せいぜい当てこすりという低い評価に甘んじるべき発言であろうと思われた。

ちなみに、提訴した女性本人と団体の活動については、後続参戦者やギャラリーにおいてもその意義を否定する論調はほとんどないように感じられた。むしろ、行政では思いつかない発想の中で、やるべきことを現実的に実践しているという評価であり、否定評価はほとんどなく、行政の委託事業になっていることは当然のことであるという認識が支配的であると感じられた。

安易に、マニュアル的あるいはステロタイプ的に、差別者だというラベリングをして攻撃しているだけであれば、訴訟を繰り返したところで炎上も繰り返すだけのように思えた。

3 本当はかなり難しいSNSの発信1 寛容な忖度がなされない理由

SNS発信は難しい。一瞬で膨大な数の人間に、自分の発信が到達するからである。現状、発信と反応についてのルールは希薄である。大勢の気に入らない発信は、無視されるか、やり玉に挙がって攻撃される。ツイッターでは元々の発信を引用されて批判がなされる。

投稿者の真意を推し量って投稿の真意をくみ取る人もいるが、文字情報だけで批判が起きることも多い。あらゆる人に向かって発信している性質上それはやむを得ない。

もう少しやさしく受け止めればよいのではないかという意見もあるが、それができない事情も多い。例えば
1)発信者が、思想信条を明確にしている場合であれば、対立している思想信条を持つ人であれば、善解しようとしないので文字面だけで批判をすることになる。発信者の主張についての批判というよりも、発信者の立場や人格についての批判が混入しやすい典型的な場面である。しかし、その内心が表示されない限りは、その内心を決めつけて批判し返すことはできないだろう。それをしてしまうと、多くの論戦予備軍から総攻撃を食らうか、単に無視をされてながされてしまう。実際には女性差別を表示した攻撃もされているのかもしれないが、無視をされることがほとんどであるようだ。

2)思想信条とは関係なく、自分がその発信者から攻撃を受けていて、反撃の機会を狙っていた者とすれば、隙だらけの投稿は格好の反撃材料となる。自分が攻撃を受けた場合でなくても、自分の仲間と感じている人間が攻撃を受けても同じことが起きやすい。あるいは自分が大切にしていることについて、土足で踏みつけるような行為を感じた場合なども同様である。

3)興味深いことは、第三の厳しい解釈をする理由があることだ。それは、発信者の発信内容が過度に誰かに対して攻撃的であるとか、誰かを侮辱する内容である場合である。その攻撃対象とは何の利害関係がなくても「それはひどい」と思う場合に、発信者に対して参戦者が介入して批判をするケースがよく見られる。初回攻撃を受けた人と参戦者の間に、思想信条に共通項が無く、利害関係が無くても、理不尽な攻撃があると感じた場合には反撃に加担しようとする人が案外多い。ある意味正義感が強い人たちである。

字面の厳格解釈をして批判する場合というのはすなわち炎上が起きる場合である。だから1)ないし3)は、炎上が起きやすい事情ということになる。その中でも最後のポイントである3)の事情が多いように感じられた。最初の発信者に対して、反論をする場合は、ポイント1)ないし2)の事情があるだろう。しかし、それだけでは後続参戦者が賛成しては来ないだろう。多くは組織的な炎上ではなく、自然発生的な炎上が多いのだろうと感じている。自然に後続参戦者が多数参戦する場合は、背景事情を知らなくてもネット上から明らかである3)の事情があることが多いと感じられた。

4 群集心理は秩序形成の本能がエネルギー源である

炎上がどうして起きるのか、ポイント3)の事情が大きいことには間違いないと思われる。しかし、この3)のポイントはもう少し分析する必要がある。

後続参戦者が参戦する心理は、単純な正義感による反射行為をしているわけではないように感じられた。これらの後続参戦者は、単なる義憤だけで書き込みをするというような慎重さを欠いた行動をとらない。

感情に任せたような反論はあまり指示されない。むしろ反発を受ける。慎重さ、冷静さがある投稿こそが賛同を受けている。慎重に、冷静に、自分が多数派の立場であるという意識を感じる。それは安心感が伴っているようだ。そのために、ターゲットに対して、皮肉めいた表現、馬鹿にする表現、憐れみというある種の「余裕」をアッピールするような表現が目立ってくる。もっとも、後続参戦者が投稿をしようとするモチベーションは義憤である。さらに参戦決定に移行するためには、この多数派、秩序維持派であるという安心感が強力に後押しする。しかし、おそらくこれらの心理は、投稿者は自分では自覚していないものと思われる。自覚している部分は相手が正義に反する行為をしたことをいさめたいという正義の感情だけなのではないかとにらんでいる。ただ、厳密に言うと、そもそも正義感とはこのような秩序維持という意識を不可避的に伴うものかもしれない。

そうだとすると、もしかすると、多数派になる方がどちらかという無意識に計算して、多数派である自分を意識して、そのあとで義憤感情がわいてくるという逆モーションの価値判断をしている危険性もあることを我々は常に考える必要がありそうだ。

後続参戦者の心理はまさに群集心理である。

つまり、自分たちの主張こそが世の中の秩序であり、自分たちと敵対している者は秩序に反する者たちであり、この者たちが意見を述べることは正義に反することであるという意識を持つ。味方サイドの発言は、詭弁であろうと何であろうと受け入れていく。詭弁を受け入れる理由は、判断基準が論理性の整合性ではなく、秩序に添った意見であるという安心感を持ってしまうからだ。ひとたび秩序にかなった意見だと思い、自分たちの主張を後押しすると判断した場合は、その意見に疑問を持つことは著しく困難になる。立ち止まって評価しようとするきっかけが無くなる。詭弁を受け入れる理由は、それを聞いていると安心感が増加するからである。

後続参戦者は、そのネット上の空気、どちらが秩序を形成しているかということに対して敏感であり、自分が秩序外に立つ事態を慎重に回避する傾向にある。
だから、あからさまな女性蔑視を主張する立場には慎重に距離を置き、後続参戦や賞賛は行わない。あからさまな女性蔑視の発言をすることは、さすがに秩序に反することだという意識が存在しているようだ。だから初回投稿者が女性である場合に、その投稿が炎上したからと言って、その炎上(多数の後続参戦者の形成)が女性蔑視に基づいた女性攻撃ということはあり得ないということが私の結論である。

5 本当はかなり難しいSNSの発信1 炎上を招く投稿を行いやすい構造

慎重さが掛けて、多くの人たちの正義感に火をつける投稿が、炎上のターゲットにされやすいという投稿の重要な要素になることは間違いないと思われる。

ターゲットが無防備にSNSで発信をしてしまうということには理由がある。

・ SNS発信は簡単に発信ができてしまう。
・ 自分の考えが言語化できていなくても、それを検証するとか表現を修正するとかの前に感情が乗ってしまうと発信してしまう。
・ たいてい誰にも相談せずに一人で考えて発信しているので、自説の検証を十分に行わないで発信してしまうということも大いにある。
・ 感情が強ければ強いほど、苛烈な表現を思いとどまることが難しくなる。
・ それでもつたない表現を忖度して聞いてくれる仲間が存在する。どんなつたない文章でも、無責任に共感する相手がいることは、影響力が強い人ほど自分が危険になる。慎重に投稿しようとする態度が育ちにくいからである。本来その仲間の中だけで確認しあうような内容の発信も、仲間の存在で気が大きくなって全世界に対して発信してしまう。好意的批判者、支持的批判者がいない発信者はとても危険である。
・ 自分の意見が否定されるということを想定せずに、自分の発信が賞賛されることだけをイメージして投稿してしまう(ギャンブルをする場合、自分は勝つと根拠なくイメージをしてお金をかける場合に酷似している)。これは当然で、自分を肯定する反応を示す者は自分に近しい人であるために、イメージしやすいのである。ところが匿名で自分を否定する人間は立ち止まって考えなければイメージしにくい。自分が何らかの主張を発信しなければならないと感じている場合は、立ち止まって考える行為は極端に難しくなり、発信を歓迎する仲間ばかりをイメージしてしまう。ここはSNSの落とし穴だと思う。
・ 仲間内なら通用する表現を見ているのは仲間だけではないということ
・ 一度発信をして引用などをされてしまうと、修正、訂正ができない。削除をしても誰かがスクリーンショットなどで保存している場合もある。

正義感に燃えて、使命感を感じて投稿する場合に、ほとんど隙だらけの表現になってしまう理由がここにある。正義感に燃える人は、SNSを使うには無防備になる傾向が不可避的にある。多数の人に自分の意見を使いたいという気持ちがあれば、仲間内だけに発信するのでは物足りなくなり、公開で発信しようということは理解できる。しかし、それにふさわしい慎重さを欠いてしまい、別の意味で多くの人たちに注目されるリスクを常に負っているということなのだろうと思われる。

6 炎上のポピュラーな理由は、過剰な攻撃表現にあるという仮説
SNSの特徴からすれば大いにありうることだということはこれまで述べたとおりであるが、投稿をしてその投稿に対する批判が殺到する状態になる時は、投稿者の最初の投稿、あるいはその投稿者の従前の投稿が、過度に感情的であり、誰かを容赦なく攻撃していた場合に起こりやすいということは確かなようである。特に具体的にターゲットを明らかにして煽情的な表現で攻撃した場合は、格好の批判のターゲットになりやすい。また、他者を攻撃するという投稿が多い人もターゲットになりやすい。

そのような表現は、ご自分の主張を鮮明にするために必要なことなのかもしれないが、仲間内以外の人間たちは、案外否定評価をして反発をしている可能性が高いのである。考えを一にしない場合は、初回発信者の怒りに至る事情についてはなかなか追体験できない。しかし、人間が攻撃されていることについては、感情移入をしやすいのである。誰かを攻撃する場合、それが正義だと思っていたとしても、他者は攻撃したこと自体に反発をすることが多いということは留意する必要がある。

炎上している投稿の初回発信者が正義感の強い人である場合は、十中八九従前に他者に対して容赦のない攻撃をする投稿を発信している。その投稿が「許容できないひどい投稿」か否かは、微妙な判断が入る。しかし、後続参戦者がその判断を失敗しないところも面白い。この投稿が「許容できないひどい投稿」だと大勢が感じるだろうという判断がなされると、秩序に反する意見表明であると瞬時に判断し、その投稿を排斥することで、秩序を形成しようとして、自分がその秩序形成行為に参画することで安心感を得る。これに対して、この投稿が「許容できないひどい投稿だ」という判断に確信が持てないときは、炎上が起こりにくい。

多数の批判を浴びたくない場合は、多くの人がひどいと感じる投稿表現は行うべきではないということは真実だろう。正義を主張するとしても、そのような煽情的な表現は必要がないはずだと思われる。

そう考えると批判の的になるのは、主張本体ではなく、主張方法、表現にあるのかもしれない。また、勝手に他者をグループ分けをして特定のグループの批判になっていたり、抽象的な特質に着目して攻撃をすると、知らないうちに多くの人々に対して批判、非難をしていることもある(先の2の要素)。この場合も炎上の一つのパターンとなっているようだ。

7 なぜ他者への攻撃表現に反発した人がその発信者を容赦なく追い詰めるのか

もしかすると、私の考察には矛盾があると感じられている人もいらっしゃるかもしれない。
それは、後続参戦者が炎上ターゲットの攻撃性に反発して参戦する正義感情が理由であるとするならば、ターゲットが集中砲火を浴びていることにかわいそうと思ったり、不正義を感じたりしないのかということだ。

それは正義という感情を理解すればよくわかることである。

正義という言葉は、攻撃の動機になる。それに怒りが伴う場合は、相手の不正義が消えるまで怒りによる攻撃が終わらないという特質がある。この特質は怖いもので、正義を理由にすれば戦争も遂行することができるほどである。何の縁もゆかりもない外国人を、正義を理由に殺害することができる。このため、明治政府はそれまで日本語になかった「正義」という言葉を作り出し、文部省は日本古来の御伽草子を勧善懲悪の話に作り替え、国民に正義と正義感情の教育を徹底した。

だから、反戦を望むなら、作られた正義概念による感情の高まりをいかに抑制するかということに力を入れるべきである。口では反戦だ平和憲法だと言っていたとしても、他国の紛争について正義の観点から怒りを制御せず、強硬に一つの立場をねじ伏せようとする勢力は、実質的には戦争のための地ならしをしている勢力だと警戒しなくてはならない。

炎上、すなわち後続参戦者の果てしない参戦は、正義感情から生まれる。正義感情から生まれたために、不正義を許さないという感情に支配されるのである。不正義に対しては、共感や同情は自然発生的には起こらない仕組みになっている。

その人の発言に対して炎上を起こす人は、不思議なほどにメンタルが強い。炎上があっても、それでへこたれず同じような間違いを繰り返し起こしている。そうこうしているうちに、繰り返し問題発言をする人は不正義の人格を持つ人だという印象が固定されてしまい、何を言っても不寛容な会社のもので批判されるようになる。

8 懸念するべきこと

このように見た場合、投稿が炎上するのは理由がないわけではないと言いうるのではないだろうか。SNSはルールがないため、一人の人に対する反論、批判の数の制限はない。その批判勢力が支配的になれば、それ自体に秩序を感じてしまい、相手は秩序を害する者ということになり攻撃は激化していく。

だから、炎上を招く自分の行動をそのままにして、参戦者らを攻撃することは炎上を起こさない行動ではなく、次の炎上を招いている行為だと言える。主張をすることの妨害者には容赦しないという態度は、一般の後続参戦者の参戦動機を阻害することにはならないだろう。当初の主張に対する賛同者も、元々の仲間からの拡大はあまり期待できなくなる。

ただ、無防備な投稿者に反して論客として認知されている反撃者は、このようなSNSの反応を熟知している。今のところ悪用がなされているとは思われないが、このノウハウを利用して悪用することはそれほど難しいことではなさそうだ。

つまり、意識的にターゲットを選定し(あるいはダミーとして発言者になりすまし)、後続参戦者が参戦しやすいように、論点を選定して正義感を発動させて、あえて全面的な批判をしないで後続参戦者が参戦して役割を果たす余地を用意し、炎上状態を作り出すということは、正義感がもてはやされている以上案外簡単だということである。SNSのもう一つの特徴は、本人の様子が見えないことにある。何がその本人の意図なのかも実際のところはわかりようがない。このために、簡単に騙される可能性があるということもある。

わたしたちは、正義感情から特に他者を攻撃する投稿に賛成をしようとアクションするときには、自分の正義感情を疑ってかかり、立ち止まって考えるべきことだということが炎上したSNSから学んだことである。

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