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非政治的視点からSNSの非組織的炎上の原因を考える なぜ集中砲火が起きるのか 正義こそ紛争の火種 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 SNSの論争の特徴 はじめから論理学的論争ではないということ

SNSにはSNS上の論争の場ができあがる。投稿者の投稿に対して反論投稿者が現れ、投稿者が再反論をしたり、第三者の参戦者が投稿したりする。
公序良俗に反する等、運営規約に反しない限り、論争のルールはない。

最初の投稿者の投稿、反論投稿者の投稿、あるいは後続参戦者の投稿について、多数の批判者が現れて収拾がつかなくなることを炎上というようだ。

炎上の様子を見ていると、必ずしもその投稿者の投稿自体の論理の内在的矛盾を突くことが多いわけではなく、投稿者のこれまでの投稿との整合性や投稿者の態度、表現に対する批判が多いように感じられる。

実務法学の論争においては、学者が学説を戦わせて自説の優位を主張する。しかし、そもそも法律自体が人間の作ったものであり、すべての事象を念頭に置いて作られてはいないので、様々な学説があったとしても、通常は各学説に論理破綻があることは少ない。現場への法適用や他の法律との整合性などから、学説の賛同者の増減が決せられる。但し、この学説の多数が必ずしも裁判所が採用する説とならないところも複雑なところではある。

尊敬する学者同士の論争においても、妥当性という不確かで基準があいまいな議論をするためか、勢い論者に対する人格攻撃とまではいかないが、他説に対する厳しすぎる論調がみられることがあった。学生からすれば、それほど立場の違わない学者の方々同志の厳しすぎる論争は、物騒というか、寒々しいというか嫌な感じがして辟易することもあった。それでも学者の論争には超えてはならない一線というようなものがあった。学者という社会的立場や他の学者からの評判など、感情と表現を制御させることについての共有されたものがあった。

SNSの論争も、論理学的な優劣を競う論争ではない。特に炎上が起きる場合は、論理的破綻は批判の材料であって、批判の理由にはなっていないように思われる。だから、勢い、相手よりも優位に立とうとして批判表現が苛烈になったり、同調者が膨大になり、相手の主張を圧倒しようとしてしまう条件ができてしまっている。投稿者らには、共通の要素もなく、感情と表現を制御するための装置は存在しないようである。

人間関係の紛争ということが私のテーマである以上、SNSの炎上は大変興味深い研究対象である。短期間ではあるが、特定の大きなテーマについて、後追いの形でいくつかの炎上した論争を追ってみた。

2 非組織的批判の集中は、不道徳な感情から起きえないこと

大体は、初回投稿者に投稿に対して炎上は起きる。炎上が起きる初回投稿者の投稿に批判しやすい文章であることもあって、大体は反論投稿者の投稿において大勢が決せられる。
興味深いことは、大勢が決せられたと思われた後の後続参戦者、あるいは投稿はしないけれどいいねボタンを押して何らかの意思表示をするギャラリーの態度である。反論投稿者の切れの良い反論に対して賞賛がなされるというよりも、初回投稿者の投稿が否定されたことに感情が動いているように見える。大勢が決していても、他の角度から初回投稿者を批判する投稿が行われる。これが炎上である。

こうして初回投稿者は、多くの人間から批判の集中砲火を受ける。なぜ批判者たちは、一人の人間がこれほど容赦なく切り捨てられているのに、かわいそうだと思って論争を終わりにしないで、さらに批判を続けるのか、この点について掘り下げて考えてみた。

A説
先日、SNS上の誹謗中傷を理由として、SNS投稿者を提訴したという記者会見があった。その中で、そのSNSによって攻撃された対象者が女性であり、若い女性の保護をする活動をしていることをもって、攻撃理由は女性を攻撃する差別行為であると私の同業者が代理人として発言していた。

そうだとすると、炎上という現象が起きる後続参戦者の参戦も、やはり誹謗中傷のたぐいで、主たる動機が女性差別にあり、女性の権利を主張することが疎ましく感じられていたので攻撃をしたということになってしまうのではないかという疑念が生じた。

しかし、提訴者の説明による誹謗中傷の中身を見る限り、初回投稿者の投稿の中に女性性の蔑視に直ちにつながるような発言、意思表示は見つけられない。女性の保護活動、権利擁護に反対する人格態度も見られない。投稿者らの本当の動機は知りえないが、内心が表示されてもいないのに、女性蔑視者だと決めつける評価は論理的には成り立つものではない。炎上の中身である後続参戦者の投稿表現を見ても、特徴的なことは、女性全般を対象にした発言はほとんど見当たらない(性急な一般化は見られない)。女性以外の何らかの差別的な書き込みは存在していたが、それらは他の参戦者からは相手にされていないという特徴があった。

論理的には、女性女性蔑視という動機や行為の性格付けは、あくまでも解釈上動機として考え得る可能性の一つに過ぎないはずである。

結果として、提訴者やその帰属する団体の活動に支障が出て、保護を受けるべき若い女性が保護を受けられないという事態になれば、結果的に保護を受けるべき人に損害が生じる可能性はある。ただ、そのような結果が出ることと、目的として女性蔑視があるということは論理的にはつながらない。

非難されている対象が女性であるとか、若い女性が結果として損害を被る可能性があることをもって、投稿者が女性蔑視という人格を有していると主張することは、論理の飛躍や詭弁というよりも、せいぜい当てこすりという低い評価に甘んじるべき発言であろうと思われた。

ちなみに、提訴した女性本人と団体の活動については、後続参戦者やギャラリーにおいてもその意義を否定する論調はほとんどないように感じられた。むしろ、行政では思いつかない発想の中で、やるべきことを現実的に実践しているという評価であり、否定評価はほとんどなく、行政の委託事業になっていることは当然のことであるという認識が支配的であると感じられた。

安易に、マニュアル的あるいはステロタイプ的に、差別者だというラベリングをして攻撃しているだけであれば、訴訟を繰り返したところで炎上も繰り返すだけのように思えた。

3 本当はかなり難しいSNSの発信1 寛容な忖度がなされない理由

SNS発信は難しい。一瞬で膨大な数の人間に、自分の発信が到達するからである。現状、発信と反応についてのルールは希薄である。大勢の気に入らない発信は、無視されるか、やり玉に挙がって攻撃される。ツイッターでは元々の発信を引用されて批判がなされる。

投稿者の真意を推し量って投稿の真意をくみ取る人もいるが、文字情報だけで批判が起きることも多い。あらゆる人に向かって発信している性質上それはやむを得ない。

もう少しやさしく受け止めればよいのではないかという意見もあるが、それができない事情も多い。例えば
1)発信者が、思想信条を明確にしている場合であれば、対立している思想信条を持つ人であれば、善解しようとしないので文字面だけで批判をすることになる。発信者の主張についての批判というよりも、発信者の立場や人格についての批判が混入しやすい典型的な場面である。しかし、その内心が表示されない限りは、その内心を決めつけて批判し返すことはできないだろう。それをしてしまうと、多くの論戦予備軍から総攻撃を食らうか、単に無視をされてながされてしまう。実際には女性差別を表示した攻撃もされているのかもしれないが、無視をされることがほとんどであるようだ。

2)思想信条とは関係なく、自分がその発信者から攻撃を受けていて、反撃の機会を狙っていた者とすれば、隙だらけの投稿は格好の反撃材料となる。自分が攻撃を受けた場合でなくても、自分の仲間と感じている人間が攻撃を受けても同じことが起きやすい。あるいは自分が大切にしていることについて、土足で踏みつけるような行為を感じた場合なども同様である。

3)興味深いことは、第三の厳しい解釈をする理由があることだ。それは、発信者の発信内容が過度に誰かに対して攻撃的であるとか、誰かを侮辱する内容である場合である。その攻撃対象とは何の利害関係がなくても「それはひどい」と思う場合に、発信者に対して参戦者が介入して批判をするケースがよく見られる。初回攻撃を受けた人と参戦者の間に、思想信条に共通項が無く、利害関係が無くても、理不尽な攻撃があると感じた場合には反撃に加担しようとする人が案外多い。ある意味正義感が強い人たちである。

字面の厳格解釈をして批判する場合というのはすなわち炎上が起きる場合である。だから1)ないし3)は、炎上が起きやすい事情ということになる。その中でも最後のポイントである3)の事情が多いように感じられた。最初の発信者に対して、反論をする場合は、ポイント1)ないし2)の事情があるだろう。しかし、それだけでは後続参戦者が賛成しては来ないだろう。多くは組織的な炎上ではなく、自然発生的な炎上が多いのだろうと感じている。自然に後続参戦者が多数参戦する場合は、背景事情を知らなくてもネット上から明らかである3)の事情があることが多いと感じられた。

4 群集心理は秩序形成の本能がエネルギー源である

炎上がどうして起きるのか、ポイント3)の事情が大きいことには間違いないと思われる。しかし、この3)のポイントはもう少し分析する必要がある。

後続参戦者が参戦する心理は、単純な正義感による反射行為をしているわけではないように感じられた。これらの後続参戦者は、単なる義憤だけで書き込みをするというような慎重さを欠いた行動をとらない。

感情に任せたような反論はあまり指示されない。むしろ反発を受ける。慎重さ、冷静さがある投稿こそが賛同を受けている。慎重に、冷静に、自分が多数派の立場であるという意識を感じる。それは安心感が伴っているようだ。そのために、ターゲットに対して、皮肉めいた表現、馬鹿にする表現、憐れみというある種の「余裕」をアッピールするような表現が目立ってくる。もっとも、後続参戦者が投稿をしようとするモチベーションは義憤である。さらに参戦決定に移行するためには、この多数派、秩序維持派であるという安心感が強力に後押しする。しかし、おそらくこれらの心理は、投稿者は自分では自覚していないものと思われる。自覚している部分は相手が正義に反する行為をしたことをいさめたいという正義の感情だけなのではないかとにらんでいる。ただ、厳密に言うと、そもそも正義感とはこのような秩序維持という意識を不可避的に伴うものかもしれない。

そうだとすると、もしかすると、多数派になる方がどちらかという無意識に計算して、多数派である自分を意識して、そのあとで義憤感情がわいてくるという逆モーションの価値判断をしている危険性もあることを我々は常に考える必要がありそうだ。

後続参戦者の心理はまさに群集心理である。

つまり、自分たちの主張こそが世の中の秩序であり、自分たちと敵対している者は秩序に反する者たちであり、この者たちが意見を述べることは正義に反することであるという意識を持つ。味方サイドの発言は、詭弁であろうと何であろうと受け入れていく。詭弁を受け入れる理由は、判断基準が論理性の整合性ではなく、秩序に添った意見であるという安心感を持ってしまうからだ。ひとたび秩序にかなった意見だと思い、自分たちの主張を後押しすると判断した場合は、その意見に疑問を持つことは著しく困難になる。立ち止まって評価しようとするきっかけが無くなる。詭弁を受け入れる理由は、それを聞いていると安心感が増加するからである。

後続参戦者は、そのネット上の空気、どちらが秩序を形成しているかということに対して敏感であり、自分が秩序外に立つ事態を慎重に回避する傾向にある。
だから、あからさまな女性蔑視を主張する立場には慎重に距離を置き、後続参戦や賞賛は行わない。あからさまな女性蔑視の発言をすることは、さすがに秩序に反することだという意識が存在しているようだ。だから初回投稿者が女性である場合に、その投稿が炎上したからと言って、その炎上(多数の後続参戦者の形成)が女性蔑視に基づいた女性攻撃ということはあり得ないということが私の結論である。

5 本当はかなり難しいSNSの発信1 炎上を招く投稿を行いやすい構造

慎重さが掛けて、多くの人たちの正義感に火をつける投稿が、炎上のターゲットにされやすいという投稿の重要な要素になることは間違いないと思われる。

ターゲットが無防備にSNSで発信をしてしまうということには理由がある。

・ SNS発信は簡単に発信ができてしまう。
・ 自分の考えが言語化できていなくても、それを検証するとか表現を修正するとかの前に感情が乗ってしまうと発信してしまう。
・ たいてい誰にも相談せずに一人で考えて発信しているので、自説の検証を十分に行わないで発信してしまうということも大いにある。
・ 感情が強ければ強いほど、苛烈な表現を思いとどまることが難しくなる。
・ それでもつたない表現を忖度して聞いてくれる仲間が存在する。どんなつたない文章でも、無責任に共感する相手がいることは、影響力が強い人ほど自分が危険になる。慎重に投稿しようとする態度が育ちにくいからである。本来その仲間の中だけで確認しあうような内容の発信も、仲間の存在で気が大きくなって全世界に対して発信してしまう。好意的批判者、支持的批判者がいない発信者はとても危険である。
・ 自分の意見が否定されるということを想定せずに、自分の発信が賞賛されることだけをイメージして投稿してしまう(ギャンブルをする場合、自分は勝つと根拠なくイメージをしてお金をかける場合に酷似している)。これは当然で、自分を肯定する反応を示す者は自分に近しい人であるために、イメージしやすいのである。ところが匿名で自分を否定する人間は立ち止まって考えなければイメージしにくい。自分が何らかの主張を発信しなければならないと感じている場合は、立ち止まって考える行為は極端に難しくなり、発信を歓迎する仲間ばかりをイメージしてしまう。ここはSNSの落とし穴だと思う。
・ 仲間内なら通用する表現を見ているのは仲間だけではないということ
・ 一度発信をして引用などをされてしまうと、修正、訂正ができない。削除をしても誰かがスクリーンショットなどで保存している場合もある。

正義感に燃えて、使命感を感じて投稿する場合に、ほとんど隙だらけの表現になってしまう理由がここにある。正義感に燃える人は、SNSを使うには無防備になる傾向が不可避的にある。多数の人に自分の意見を使いたいという気持ちがあれば、仲間内だけに発信するのでは物足りなくなり、公開で発信しようということは理解できる。しかし、それにふさわしい慎重さを欠いてしまい、別の意味で多くの人たちに注目されるリスクを常に負っているということなのだろうと思われる。

6 炎上のポピュラーな理由は、過剰な攻撃表現にあるという仮説
SNSの特徴からすれば大いにありうることだということはこれまで述べたとおりであるが、投稿をしてその投稿に対する批判が殺到する状態になる時は、投稿者の最初の投稿、あるいはその投稿者の従前の投稿が、過度に感情的であり、誰かを容赦なく攻撃していた場合に起こりやすいということは確かなようである。特に具体的にターゲットを明らかにして煽情的な表現で攻撃した場合は、格好の批判のターゲットになりやすい。また、他者を攻撃するという投稿が多い人もターゲットになりやすい。

そのような表現は、ご自分の主張を鮮明にするために必要なことなのかもしれないが、仲間内以外の人間たちは、案外否定評価をして反発をしている可能性が高いのである。考えを一にしない場合は、初回発信者の怒りに至る事情についてはなかなか追体験できない。しかし、人間が攻撃されていることについては、感情移入をしやすいのである。誰かを攻撃する場合、それが正義だと思っていたとしても、他者は攻撃したこと自体に反発をすることが多いということは留意する必要がある。

炎上している投稿の初回発信者が正義感の強い人である場合は、十中八九従前に他者に対して容赦のない攻撃をする投稿を発信している。その投稿が「許容できないひどい投稿」か否かは、微妙な判断が入る。しかし、後続参戦者がその判断を失敗しないところも面白い。この投稿が「許容できないひどい投稿」だと大勢が感じるだろうという判断がなされると、秩序に反する意見表明であると瞬時に判断し、その投稿を排斥することで、秩序を形成しようとして、自分がその秩序形成行為に参画することで安心感を得る。これに対して、この投稿が「許容できないひどい投稿だ」という判断に確信が持てないときは、炎上が起こりにくい。

多数の批判を浴びたくない場合は、多くの人がひどいと感じる投稿表現は行うべきではないということは真実だろう。正義を主張するとしても、そのような煽情的な表現は必要がないはずだと思われる。

そう考えると批判の的になるのは、主張本体ではなく、主張方法、表現にあるのかもしれない。また、勝手に他者をグループ分けをして特定のグループの批判になっていたり、抽象的な特質に着目して攻撃をすると、知らないうちに多くの人々に対して批判、非難をしていることもある(先の2の要素)。この場合も炎上の一つのパターンとなっているようだ。

7 なぜ他者への攻撃表現に反発した人がその発信者を容赦なく追い詰めるのか

もしかすると、私の考察には矛盾があると感じられている人もいらっしゃるかもしれない。
それは、後続参戦者が炎上ターゲットの攻撃性に反発して参戦する正義感情が理由であるとするならば、ターゲットが集中砲火を浴びていることにかわいそうと思ったり、不正義を感じたりしないのかということだ。

それは正義という感情を理解すればよくわかることである。

正義という言葉は、攻撃の動機になる。それに怒りが伴う場合は、相手の不正義が消えるまで怒りによる攻撃が終わらないという特質がある。この特質は怖いもので、正義を理由にすれば戦争も遂行することができるほどである。何の縁もゆかりもない外国人を、正義を理由に殺害することができる。このため、明治政府はそれまで日本語になかった「正義」という言葉を作り出し、文部省は日本古来の御伽草子を勧善懲悪の話に作り替え、国民に正義と正義感情の教育を徹底した。

だから、反戦を望むなら、作られた正義概念による感情の高まりをいかに抑制するかということに力を入れるべきである。口では反戦だ平和憲法だと言っていたとしても、他国の紛争について正義の観点から怒りを制御せず、強硬に一つの立場をねじ伏せようとする勢力は、実質的には戦争のための地ならしをしている勢力だと警戒しなくてはならない。

炎上、すなわち後続参戦者の果てしない参戦は、正義感情から生まれる。正義感情から生まれたために、不正義を許さないという感情に支配されるのである。不正義に対しては、共感や同情は自然発生的には起こらない仕組みになっている。

その人の発言に対して炎上を起こす人は、不思議なほどにメンタルが強い。炎上があっても、それでへこたれず同じような間違いを繰り返し起こしている。そうこうしているうちに、繰り返し問題発言をする人は不正義の人格を持つ人だという印象が固定されてしまい、何を言っても不寛容な会社のもので批判されるようになる。

8 懸念するべきこと

このように見た場合、投稿が炎上するのは理由がないわけではないと言いうるのではないだろうか。SNSはルールがないため、一人の人に対する反論、批判の数の制限はない。その批判勢力が支配的になれば、それ自体に秩序を感じてしまい、相手は秩序を害する者ということになり攻撃は激化していく。

だから、炎上を招く自分の行動をそのままにして、参戦者らを攻撃することは炎上を起こさない行動ではなく、次の炎上を招いている行為だと言える。主張をすることの妨害者には容赦しないという態度は、一般の後続参戦者の参戦動機を阻害することにはならないだろう。当初の主張に対する賛同者も、元々の仲間からの拡大はあまり期待できなくなる。

ただ、無防備な投稿者に反して論客として認知されている反撃者は、このようなSNSの反応を熟知している。今のところ悪用がなされているとは思われないが、このノウハウを利用して悪用することはそれほど難しいことではなさそうだ。

つまり、意識的にターゲットを選定し(あるいはダミーとして発言者になりすまし)、後続参戦者が参戦しやすいように、論点を選定して正義感を発動させて、あえて全面的な批判をしないで後続参戦者が参戦して役割を果たす余地を用意し、炎上状態を作り出すということは、正義感がもてはやされている以上案外簡単だということである。SNSのもう一つの特徴は、本人の様子が見えないことにある。何がその本人の意図なのかも実際のところはわかりようがない。このために、簡単に騙される可能性があるということもある。

わたしたちは、正義感情から特に他者を攻撃する投稿に賛成をしようとアクションするときには、自分の正義感情を疑ってかかり、立ち止まって考えるべきことだということが炎上したSNSから学んだことである。

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