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「私」の創り方 創るのは私  [進化心理学、生理学、対人関係学]


これを読んでいるあなたが、もし、今のご自分だけが不幸だとか、不運だとか、みじめだとか、存在意義に悩んでいるという場合に何らかの参考になればよいなという気持ちで書いています。

こうあるべきだとか、こうするのが正しいということを言っているわけでありません。一つのサンプルとしてお読みいただければ幸いです。

私はこうありたい、こういう風に生きたいという「なりたい私」があるのに、それになかなか近づけないということで苦しまれている方もいらっしゃるかもしれません。

なりたい私になろうとすることは良いのですが、そのためには自分だけを鍛えればなれるわけではない場合が多いようです。
というのは、「私」だと考えているものの実態は、実は私以外の人からの「私に対する評価」や、人間関係の中での「私の役割」や「私が結び付いている人たち」だという可能性があるということです。

この「私以外の人」(との人間関係)は、実は様々で、子どものころは家族しかいませんが、徐々に成長につれて友達とか先生とか増えていきます。若者は、一足飛びに社会に目を向ける傾向があり、社会の中の自分ということでなりたい職業とか、入りたい学校とかを考えるわけです。新しい人間関係を作ることに意欲を持てるということは若者の特権かもしれません。繁殖行動としての側面もあるように思われます。

歳をとると、新しい人間関係を作ることにおっくうになり、いつものメンバーの中での自分の立場を守ろうとするだけということはありうるかもしれません。

ただ、社会の中の自分を求めるということは、それほど古い歴史があるわけではないようです。江戸時代までの日本人の職業構成は圧倒的に農業でした。農業従事者たちはそれほど国家とか社会の中での自分ということを意識しなかったと思います。海外に目を向けた幕末の林子平は変わり者とされたわけですから、極少数派だったわけです。鎖国という問題が強調されますが、外に目を向ける人が少数だったということを物語っているエピソードだと私は思います。

江戸時代までの多くの日本国民が、「他者」と言えば自分の家や集落を意味していた時代が続いていました。この考えが変化したのは明治時代の富国強兵政策です。戦争の準備のために国は立身出世、勧善懲悪を幼いころから国民に教え込み、男子であれば兵隊になって出世して悪い外国を懲らしめるものだと教え込みました。各地から一般国民が徴兵され、日本国という大きなユニットが人々の意識に上るようになりました。日本一を目指す人が増えてきたわけです。

戦後は男女平等ということで、この社会という大きな舞台を女性も意識するようになりました。ただ、人によっては歓迎することも人によっては迷惑なわけです。家事を一生懸命やるのが自分だという考え方を公にすることがはばかられる風潮があると思います。しかし、現在女性が輝くということで、この女性に社会性を意識させようとする政策がすすめられていますが、結局、煽られた結果に行く着く先は低賃金労働だという落ちがあるのかもしれません。

戦後すぐに社会を意識させたものはテレビですが、最近はインターネットです。自分の動向を不特定多数人に向けて発信する人が増えて、SNSを利用することが当たり前のようになってきました。有益な情報もあるのですが、概ね知らなくても良いことを読まされているのではないでしょうか。その結果、これまでなら考えなかった、自分と他人を比べてしまって自分の状態に落ち込むこともあると思います。

それらのいわば社会性、不特定多数人の中での自分に対する価値評価を否定するわけではありませんが、本当に乗りこなせているのか考えてみた方が良いということなのです。

そして、家族や固定した友人関係の中で、安心して暮らすのが「私」ということでよいじゃないかと思うのです。その考えを誰からも非難されないような風潮こそ持続可能社会なのではないかということだと思います。どうも、大きな誰かの利益のために、無理やり社会という規模の他者を意識しなければならないように仕組まれているということが歴史的な流れを見て思います。

わたしにもまだ野望はありますが、意識は狭い人間関係に傾くようになっています。例えば家族の中の自分の在り方を意識して創っていくということも私の作り方なのではないでしょうか。家族とはいえ、なかなか手ごわいわけです。

若い人が社会に対してチャレンジをすることはとても素晴らしいことです。しかし、私を創る舞台は、必ずしも社会という大きな舞台だけではないし、大きな社会だけに価値があるわけではないと私は思います。どんな時でもどんな場所でも、自分のできる範囲で自分の居場所をカスタマイズしていく、周囲と円満に暮らす、周囲から頼りにされるし、周囲に大切にしてもらうということが、幸せの一つの形だと私は思います。

いつからだって、どこでだって、創ることのできる私でありますし、創ることにできる幸せなのだと思います。他人の価値観をうのみにしないで、「私」見つめることさえできれば幸せはそれほど難しくないのだと思います。

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心と環境のミスマッチ 複数のグループに所属することによる問題1 外部での仲間へのいじり ウケを狙うことに夢中になって大事な仲間を傷つけているかもしれないし、自分がその外部の人から致命的な低評価を受けている可能性があること [進化心理学、生理学、対人関係学]



なぜ現代人が苦しむのか、なぜ犯罪や戦争が起きるのかということの一つの答えとして、「心と環境のミスマッチ」の問題があると対人関係学では主張しています。

「心と環境のミスマッチ」とは、
人間の心はおよそ200万年前までに完成しており、その後さしたる変化はしていない。心は当時の環境である数十人から百数十人の単独の群れでだけ一生涯生活していて、その環境に心はとても都合よく作られた。ところが現代社会は膨大な人数とかかわりを持ち、家族、学校、会社、地域、社会、国家等々複数の群れに所属して生きなければならない。環境が激変したのに心が変わらないので、不安を感じ、苦しみ、悩み、不健全な行動をしてしまう原因になっている。
というものです。

今回のテーマは、「外部での仲間へのいじり」の弊害です。

例えばの①、他の会社とプロジェクトチームを組んでいて雑談しているとき、「おたくの新人女性なかなか頼もしいですね。」なんて言われて、「いやいやあれでそそっかしくて、この間も大口開けてハンバーグを食べて口の周りソースだらけになりまして」なんて言ってしまう場合です。

上司は、部下の女性のなごむエピソードを話して、親近感を持ってもらおうということで悪意なく話しているかもしれません。しかし、取引先からその情勢社員が「大口ソース」とか呼ばれたりして、体裁を気にしないずぼらな人間だなどの評価を受けて一線級だった新人が軽く扱われてしまう等という弊害があり得るところです。

少なくとも、言われたその女性新人は、そのように心配するかもしれません。「取引先とのなごみ」という目的があったとしても、そんなエピソードなんて言わなくてよいことです。謙遜するということが礼儀だとしても抽象的に「ありがとうございます。しかしまだまだです。ご指導よろしくお願いいたします。」程度に言えばよい話です。

例えばの②、夫が自分の妻をほめられた場合、嬉しくなって「いや実は家では・・・」なんてことも同様に言う必要がありません。「うちのは愚妻でして」と抽象的に言っておけばそれで十分です。しかし、最近はそのような文化も廃れてきていますので、礼を言って終わりでが良いかもしれません。

例えばの③、自分の仲良しグループの一人について、別のグループの人と話題になっていて、実はこういう面があるということで笑いを取ろうとする時も同じような場面が出てくるでしょう。グループをチームに置き換えたり、組織に置き換えたりすることも可能でしょう。

言われている本人は、そのことを後で聞いた場合、その場の雰囲気やノリがわかりません。文字情報だけで、「あの人があなたのことをこう言っていた。」という形で伝わってしまいます。単純に自分の悪口を言われたと思う危険があります。

言われている本人は、その人との関係に安心しているために、他人の前では見せない姿をしているという可能性があります。それなのに、そのことを他の事情が分からない人に言われたことに傷つくことがあります。大げさな話ではなく、信頼関係が危うくなることがあります。

さらに、言われている本人は、言った張本人との関係が打ち解けたものと思っていたのに、実はその人からの自分の評価が低いのではないかと心配になることもあります。さらには、そのエピソード話を言っていた時に言った張本人だけでなく、自分以外のグループの仲間も何人かいたということになると、自分はグループ内で浮いた存在ではないかと思うようになり、自然なふるまいも軽率な行動だったのではないかと落ち込むということも出てくることがあります。

こういうところから、人間関係が少しずつ壊れていくということをよく見ます。

そのエピソードの内容によっては、受けを狙ったはずの外部の人から、そのグループ全体に対しての評価が低くなることも考えた方が良いと思います。

外部から見たら、内部の人間が内部の人間を批判する場合は、よほどひどい人間なのだと受け止められる傾向があります。実際は大したこともないのに、ここで言うのだからよくよくのことだろうと思うわけです。大口ハンバーガーくらいならばよいでしょうが、部下の仕事上のミスなんかを言って笑いを取ろうとするとチーム全体のクオリティに疑問を持たれてしまいます。そんな人がスタッフでいるところに仕事を任せてもよいものだろうかという疑念が生まれることもあります。これは言っている本人はなかなか気が付きません。笑いで済む話だと思って言っているわけです。しかし、必ずしもそれは相手には伝わらないのです。

また、聞いていた外部の人間からは、チームの人間関係がギスギスしているのではないかと思われてしまいます。たとえ本人からこのエピソードは営業トークでお話ししてよいですよと了解を得ていても、上司が部下に恥をかかせるような体質のチームなのだという評価をされる場合もあるわけです。

チーム力がウリの企業戦略ということは随所にあるわけです。特定の人がいなくてもチーム全体で案件を行ってくれるから安心するわけです。ところがチームの人間関係に問題があるという場合は、自分の担当に何か問題があると仕事が止まったり、クオリティが下がったりするのではないかとも思うわけです。

問題は取引先など他者から見た印象です。たとえ本人同士が許容していたとしても外部の者からすると、不穏当に聞こえるということが案外多いです。

さて常識的な人間であれば、自分のチームか否かを問わず、他者のマイナス評価になりかねないエピソードを話すことは無いでしょう。ではどういう人がどういう理由で、無神経に部下の知られたくない話を披露してしまうのでしょうか。

但し、チームの中のライバルに対して、そのライバルの評判を落として自分の評価を高めようというよこしまな考えのどす黒い話は除いて考えます。

先ほどの会社での取引先の話を例にしてお話します。この上司は、その場の取引先との関係に、自分なりに価値を置いて、話しをしていました。相手に受けるかどうかということが一番で、それ以外のことについてはほとんど考えない脳の活動状況だったと言えるでしょう。面白い話があったということを思い出し、その部下の気持ちを考慮せずに、取引先の顔色を見て話をしたということになります。

妻の家の中でのエピソードを言ってしまう夫や、グループ間の交流の時に自分のグループの子の失敗談を話す人も同様です。
つまり目の前の人との関係だけしか考えられず、自分が大切にするべき人間の感情を考慮することができない脳の活動状況なのです。

これは、人間が心を身に着けた当時はとても良い活動状況であり、かつ十分な活動でした。なぜならば、自分の目の前にいる人間はすべて自分の仲間だったからです。また、言葉が無く感情だけがあったのですから、いない時に悪口を言うということもしないで済んでいました。ただひたすら仲間を大切にしていればよかったし、そうしなければ群れ全体が生き残れないサバイバル状態でした。仲間をひたすら大切にするということで人間は生き残ってきました。

しかし、現代社会は、家族や職場や友人関係と、多くの組織に所属してしまっています。継続的人間関係もあれば、すれ違うだけだったり、インターネットで知っているだけ等の希薄な人間関係まで様々です。

そして、つい目の前の人間との関係で良い関係を結びたい、目の前の人に自分を受け入れてもらいたいという本能が過去の遺物としてはどうしても出てきてしまうようです。

そうしてつい、本当に大切にするべき人間関係を大切にしないということが起きてしまうようです。つまり人間は、一度に複数の人間関係を同時に大切にするということが苦手な生き物のようなのです

なお、こういうことを書くと、「そんなやわな心では仕事はやっていけない。常識を知らないな。今はまだ良くて昔なんて・・・」というご感想を持つ方もいらっしゃると思います。しかし、その場にいるいないにかかわらず、部下の悪口を言うという本末転倒な価値観を持っている人、部下の知られたくない話題を言いふらしてしまう人は、結局今何が大切かということを適切に判断できず、対応することもできず、その場の雰囲気や本能に任せて自己を抑制できない人、仕事の力を入れるべきバランスがわからない人、個人情報や内部情報コンプライアンスの管理がずさんな企業体という評価がなされていることに気が付いていないということになります。

また、学校等でのいじめ防止についても、ひどいいじめ、誰から見たっていじめだとわからないいじめは防止の対象と考えないという考えと同じだと私は思います。いじりはコミュニケーションなどと未だにおっしゃっておられるのでしょう。

自分と他者との人間関係を良好なものにするとか、他者と自分の関係を良好にして安心した生活を送るということを大切にするということはこういうことを一つ一つ考えていかなければならないことだと思っています。

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うつ病、PTSDが原因として慢性疼痛が発症する可能性を論じてほしい [進化心理学、生理学、対人関係学]



私の依頼者で、10年くらいうつ病やPTSDで苦しんでいる患者さんが数人いらっしゃいます。このような慢性的な精神疾患の場合、ほぼ必ず体が痛いという症状が出現します。順番で言えば 精神疾患が発症して何年後かに疼痛が発生するのです。痛みの部位は、後頭部や後頚部、背部が多いように思います。検査をしても痛みの原因がわかりません。慢性疼痛とか線維筋痛症等の診断名が付くようです。

慢性疼痛の本を読むと、しつこい慢性疼痛が原因でうつ病などの精神疾患にり患するということが書いてあることが多いです。確かに慢性的感覚異常というのはとても強いストレスになるようです。痛みだけでなくかゆみも深刻な苦しみになるようです。

一般的にはそのように慢性的な感覚異常になれば、精神的に圧迫されるというのは感覚的にわかりやすいと思います。しかし、私の周囲の現実はうつ病やPTSDが先ず発症して、そのあとに痛みが出現しているのですから順番が逆なのです。しかし、この逆の順番は説明がほとんどありません。

疼痛を扱う医学分野は整形外科や神経内科でしょうから、患者さんは痛みを主に訴えて医師の元に行くわけです。医師は先ず痛みから向き合いますので、患者さんの精神状態は後回しになるのではないかと思います。だから、整形外科の医師から見れば、疼痛が原因になって精神疾患が発症したと受け取りやすいのではないでしょうか。

しかし、元々うつ病やPTSDがあって、後に疼痛になることをこれでは説明できません。

医師の中には向精神薬の副作用ではないかと考えている人もいるようです。そうかもしれませんが、病院などではそのような診断はなされず、疼痛があって苦しくても精神科の処方は代わりません。(もっとも患者さんが、疼痛は精神科ではないから精神科のお医者さんには痛みを報告していないという例も結構ありそうです。)疼痛の副作用があると正式にアナウンスをしている向精神薬もなさそうです。

近時脳科学が発達して慢性疼痛の仕組みが解明されつつあるそうです。それによると、整形外科ないし脳科学的な説明をすれば、脳が痛みを感じても、脳にはもともと痛みの感じ方を抑制する対応策を自動的に行う仕組みがあるのですが、痛みを長期的に感じ続けるとこの対応をする脳の部分の機能が低下してしまって、痛みの抑制という対応がうまくいかなくなってしまって疼痛が起こるということらしいのです。

そうであれば、痛みによらなくても、慢性的なうつ病やPTSDの継続、持続によって、同じ対応をする脳の場所の機能が低下してしまい、痛みを感じやすくなるということがあるのではないかと思います。

アメリカの精神科学会の病類分類では、痛みを感じる精神病という病名があるようです。これとの関連性は全く分かりません。いずれにしても、慢性疼痛が外傷からくるものではなく、脳内変化により引き起こされるものであり、それは精神疾患り患が契機になりうるのではないかというつぶやきをさせていただいた足代です。



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【ハラスメントの余後効】一度起きたハラスメントの被害者は、何も有効な行為をしなければ、かつての加害者が存在すること自体が恐怖になるということ 河北新報ナイス記事(R5.4,21)! [労務管理・労働環境]


4月21日の河北新報の記事です。職場でセクハラを受けた(その後裁判所で会社に対して損害賠償命令済みとのこと)女性が半年間の休業期間を経て職場復帰をしたところ、そのセクハラをした男性と同じ職場のままだったと報道されました。記者が会社を取材したところ、事実関係を把握したので対応を検討するとのことだったそうです。

取材によって配置転換があれば、河北新報はあっぱれだと思います。

会社としてはセクハラの損害賠償を争っていたようですが、だからと言ってセクハラ被害者が休業後に復帰した職場にセクハラをした男性がいるということはいかにもまずいです。会社を訴えたことに対しての女性に対する報復だと受け取られても仕方がないと思います。

この問題は、実は、この会社だけの問題ではなく、労災の認定機関も同じような思考をしている可能性があります。

強烈なパワハラによりうつ病になった事例で、職場復帰をしたところ、パワハラの加害者と同じ職場であることが、心理的負荷として重大なものだと扱われていない場合があるようなのです。もっともその事例は、職場の方でパワハラ加害者に対して懲戒処分を行い、一緒に仕事をすることを極力少なくして、どうしても同じ部屋で会議をする時には、管理者が立ち会うという措置を取っていたということがあります。だから会社はある程度対応はしてくれていたことは間違いありません。ここを重視してそれほど大きなストレスではないと判断した可能性はあります。

それでも、かつてパワハラを受けて、主としてそのストレスでうつ病になった人にとっては、その人の存在自体がとても強いストレスになります。この人は、主治医から外傷性ストレスを起因としたうつ病であると診断を受けています。症状如何によって、あるいはお医者さんの判断如何によってはPTSDの診断がついたかもしれません。

ここは人間の記憶のメカニズムの問題からも説明できます。記憶を持つ最大の理由は、危険の所在を記憶して老いてその場所に近づかないところにあります。ひとたびハラスメントを受けて、不快な人間、恐ろしい人間、抵抗できない攻撃を受ける人間だと認識した場合、その危険の記憶はなかなか消えません。簡単にこれが消える動物はすぐに絶滅するはずです。

だから、過去のことだからもう大丈夫だろうと考えるのは間違いです。また、あの人から抵抗ができない状態で攻撃を受けるかもしれないと、動物の記憶は警戒を高めるわけです。これが文字通りストレスそのものです。

もし、きちんとした謝罪があり、これまでの態度を改めるという宣言があり、具体的に安心ができる接し方に切り替えられていれば、あるいはストレスは著しく軽減するかもしれません。しかし、自分の発言によって、相手がどのような気持ちになるかわからないタイプの人、つまりこういうことを言うと嫌がるからやめようとか、こういう言い方をすると怖がる方言い方を変えようということのできない人は、謝罪をしたり、態度を改めたりすることができません。そしてやっかいなことに、セクハラやパワハラをする人の多くがこういうタイプの人のようです。

処分より前に大事なことは、その人がしたことで相手がどのように辛い思いをするのかを教えることだと私は思います。再びハラスメントを行う可能性がある場合は、企業の責任としては、雇用を続けるかどうか検討をする必要があると思います。二度目のハラスメントがもしあれば、会社は膨大なコストを支払わなければならなくなるということもありますし、求められるコンプライアンスが強くなってしまうということもあります。

一般的には、このようなハラスメントを起こさないようにすることが最も大切です。そのためには、ハラスメント起こすなという予防活動、マイナスを起こさない活動ではなく、積極的にプラスを作り上げる活動が大切です。つまり仲間意識を高めることと、指導力のスキルを上げることで、本人も周囲も、それに逆行するハラスメントに対する拒否反応を作り上げることです。



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労災実務上の疑問 パワハラ環境で頑張って長期間仕事を続けた挙句力尽きてうつ病を発症した方が労災になりにくいというのは不合理ではないか [労災事件]



医学の問題ではないのです。賠償学というか労災実務の問題です。

メンタルの労災の場合、労災(公務災害)認定がなされるためには、原則として
1 発症前6か月間にストレスフルの出来事があること
2 その出来事がそれ一つだけで一定水準を超えた強度があること
が必要とされています。

1の結果、1年前におきた水準を超えた出来事や、出来事や3年前から続く出来事があっても、労災にはならないことが多いのです。どういう理屈かというと、そのストレスの原因が半年以上続いているのに精神疾患を発症しないならば、それは精神疾患を発症させるような強いストレッサーではないというのです。

2の結果、それ自体が水準を超えた出来事ではないとしても、執拗に繰り返されても、なかなか労災認定されないということも起きてしまいます。例えば、部署全体の中で、その人以外はみんな打ち解けて気軽に話しているのに、その人にだけはよそよそしく他人行儀な扱いをして、ときどき嫌味が言われるというような場合も精神的に病んでも労災にはなりにくいのです。

でも、「ハラスメント」という言葉は、「小さな攻撃を執拗に繰り返すこと」という意味なのです。そして、実際に職場の問題で精神的に大きなダメージを受けるのは、このようにそれ一つ一つは水準を超えない仲間外れ等の継続ではないでしょうか。パワーハラスメントという言葉は形容矛盾があります。本来ただの犯罪、侮辱罪、名誉棄損、脅迫罪、恐喝罪、場合によれば暴行傷害罪で、ハラスメントとは言わないものです。この結果、日本の労災実務では、正確な意味でのハラスメントは労災認定の対象外となりかねない事態となっています。

さて、1の問題に戻りましょう。

聴覚障害のある方で、上司から再三にわたり、聞こえないことを言い訳にするなというような扱いを受け続けました。その結果うつ病を発症したのですが、うつ病のためにすぐに労災申請をすることができず、発症から数年後にようやく災害申請をしました。時間が経過していたことと、日常業務においてパワハラの記録や録音を録ってなかったため、いつどういうことを言われたか、どういう扱いを受けたかという詳細ははっきりしなくなっていました。でも、その上司は、自分が何回かそういうことを言ったし、そういう扱いをした、また聴覚障害のことを知らなかったためまじめに仕事をしていないだけだと思って気合を入れた(強く叱責した)ということを認めているのです。

敵意とハラスメントの存在自体は認めていることになります。

ところが、裁判所は、その上司と同じ職場にいたのが4年間であること、いつどういうことを言われたか証拠がないために、4年という長い期間の中で起きたと扱うしかない。だからそれほど頻繁に障害を理由に注意をしたわけではないということで、うつ病になるほどの強い水準のある嫌がらせとは言えないと認定してしまいました。

事件から10年以上を経て裁判になったのですが、私は聴覚障害の方と時間をかけてじっくり話し込んで、直接ではないけれど客観的な状況証拠があるということで、それは8カ月の中で起きたことだと証明したつもりでしたが、その信ぴょう性については言及されないまま否定だけがされました。

しかし、4年間そういうことが続いたとしたら「どうなのよ」ということを考えてみました。

4年間、本当は聴覚障害のために本当に聞こえなかったし、聞こえなかったことにさえも気が付かなかったのに、やる気がないと思われて叱責され続けたのです。

これはかなりきついことではないでしょうか。

本人は、どうして自分が叱責されるのかわからないために、自分の脳に欠陥があるのではないかと思い、MRI検査を受けに行ったり、知能検査まで受けていたようです。検査の結果は何も問題はありませんでした。彼は聴覚に障害があっただけでした。そもそも自分が悪いから上司から叱責されるというのは「自責の念」であり、うつ病の症状ととらえるべきだったのかもしれません。とにかく叱責から逃れるために方法を模索して、万策尽きて自分が悪いからだということで自分を納得させようとしていたわけです。自分が悪いということで、「原因はある。理由なく叱責されているわけではない。だから解決方法があるのだ。」ということを無意識に感じようとして、絶望から自分を守ろうとするようです。これは、幼児にもよく見られる防衛機制です。

そこまで追い込まれたことには間違いないと思うのです。また、「自責の念」も叱責に対する対応、防衛機制として起きているのですから、ストレッサーは上司の叱責であったことも間違いないと思います。また、上司は、引継ぎを受けていないので労働者の障害がどういうものかわからない。聞こえないふりをしていると思ったし、真面目に仕事をやっていないと思って注意したというのです。それでも、叱責の程度が頻繁とは認められないということで労災とは認められなかったのです。

私はこの上司の無知による叱責は、被害者に聴覚障害があることによって仕事がうまくできなかったことを叱責したのですから、本人にとって初めから不可能であることを否定評価したということになると考えています。知らなかったとはいえ、本人からすれば差別を受けていたという感情を持っていることになります。自分のできないことをできなかったために他の人間がいる職場の中で叱責されたという本人の視点が重要です。

また、この裁判は、上司に対して損害賠償を請求した裁判ではありません。仕事が原因でうつ病になったということから労働災害であると認定してほしいという裁判です。責任があるとすれば、障害者だとわかっていながら雇用した会社なのに、障害者が差別的な対応とられないための措置、障害の内容、程度についての共通理解を図るということを行わなかったということが一番の問題です。

私は差別をうけること自体が水準を超えた強度のあるストレスを受けたということになると思うのですが、裁判所は数年間で数度、馬鹿とか卑怯者とか、一度教えたことを理解しないのはまじめに仕事に取り組んでいないからだとか、(聞こえないために仕方がないのに)同じ間違いを繰り返すことは馬鹿と言われても仕方がない等と言われても、それほど水準を超えた強度のあるストレッサーにはならないというのです。

要するに裁判所や認定機関は、ストレッサーというのは一回限りの音に聞こえるもの、目に見えるものということでしか把握していないということです。しかし、音に聞こえる叱責や目に見える行動、表情だけがハラスメントではないということは働いている誰もが知っていることだと思います。

自分だけがしょっちゅう叱責されている。自分が何かすると嫌な顔をされる、舌打ちをされる。あるいは自分だけが存在に扱われて、職場のお荷物のように扱われるということ、仲間の輪に混ざらしてもらえないということが、とてもつらいことであることは多くの人たちが経験しているでしょう。

職場だけでなく、家庭であったり、学校であったり、地域であったり、ママ友であったり、色々なところで孤立している人がいるはずです。
そのことで精神的に大きなダメージが加わるということを真正面から認めなければ、現代日本はだめになるとさえ私は感じています。

しかし、この聴覚障害の方だけではなく、多くの叱責されている方は、自分が不合理に叱責されているということに最初は気が付きません。自分がパワハラを受けているということに気が付かないのです。同じように自分がDVを受けているとか、自分がいじめを受けているということに気が付きません。本能的に、人間は、人間関係から追放されないようにしようとしてしまうようです。このため理由がわからない攻撃を受けると、自分が悪いからではないかと自分の行動を修正しようとします。

パワハラを受けていることに気が付かない期間は、ただ苦しいだけです。そして何とか受け入れられるようにしようと努力をして希望を持ち続けていますから、何とか持ちこたえているようです。しかし、前回の記事でも述べたように、ある日ある時、自分が自分では解決できないことで責められているということに気が付き、持ちこたえることができなくなり精神疾患を発症するようです。

気が付いた時から、遡って、今まで受けていたことは業務上必要な指導ではなくて、単なる自分に対する攻撃だと、世界の色が変わってしまうそうです。一気に解決する方法がないことに気が付いて絶望に落ちるということらしいです。

だから気が付く前と気が付いた後では、上司がしている行為は代わりません。気が付く前の長い期間に強靭な精神力で持ちこたえた人は労災認定がされません。半年で持ちこたえることができなくなった人だけが労災認定される。

こんな不合理が現実に起きていると私は訴えたいのです。

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うつ病、PTSDの治癒期間は、特に安心している環境から攻撃を受けた形の心因反応は、難治性になり治療が長期に及ぶはずだという感想 [労災事件]



私の依頼者には、長期間うつ病やPTSDの症状が継続している方が多くいらっしゃいます。

私の依頼者の方々は、広い意味での人間関係の中で傷ついたわけですが、このことで裁判をしていると、相手方から、治療期間が長くなりすぎている、本人の弱さが治療期間の長引く原因であり、相手方の責任を減額するべきだという主張がなされて再度傷つくことになることが通常です。

ものの本には、うつ病の治療期間は2,3年で完治するとか大雑把なことを言うお医者さんもいて、これが論拠とされています。よくよく読めば、薬が効果が上がるうつ病の場合は2,3年と書いてあるのですが、どんな場合が薬が効果があり、どんな場合が薬が効果がないかまでは説明されていません。

うつ病の患者さんたちは、できることなら早く病気から解放されたいと願っているわけです。それなのに、標準よりも治るのが長くかかりすぎるなんて言われてしまうと、「本当に病気なのか」、「自分が弱いから病気でいたいのではないのか」等と言われているように感じて再び傷つくわけです。

うつ病やPTSDにり患して治療が長くかかっている、10年以上かかっている場合は、共通点があるような気がします。

先ず、自然発生的なうつ病ではなく、何らかの原因があること
次に、一言で言えば、安心している状態に対してカウンターのような攻撃を受けたこと。
もう一つ言えば、それらの結果、日常が安心でき環境ではなくなってしまったことです。

強盗事件によって、5年以上部屋のカーテンを開けることができず、10年以上働くこともできなかったPTSDの患者さんがいます。
この方は、深夜帯に退勤となる仕事をしていたのですが、いつものように退勤しようと従業員出入り口から鍵を開けて外に出たところ凶器を持った強盗に襲われて、身体を拘束されて相当時間殺される恐怖を味わい続けました。

いつものように仕事を終えて家に帰ろうとしていたところ、いつもとは違う強盗に突然つかまれたという出来事がPTSDを難治にしたと感じられます。つまり自宅にいても、扉がありますし、扉が開いていても見えない場所があるわけです。見えない場所に何か悪い者がいるのではないかという警戒心を常に持ち続けていたのでしょう。カーテンを開けられなかったのも、カーテンを開けたら何変わるものが見えてしまうという警戒心を病的に感じてしまっていたということになります。

そうやって、自宅にいても安心することができなくなったことは、強盗によって命の危険を感じさせられたというだけでなく、通常は安心して警戒しないで過ごす場所で強盗に襲われたということから、自宅でさえも安心することができなくなってしまったということなのだろうと思います。

どこでも安心できず、あの時の不意を襲われて命が危ない状態になったという体験が自宅でもよみがえりやすいことが症状が治まりにくい原因だったのではないかとわかりやすい事例だと思います。

おそらくこういう日常を過ごしていたところで危険が起きると、危険を覚悟していて危険が生じた場合以上に強烈なダメージを受けるのではないでしょうか。

営業職で、外回りが多かったけれど、上司の罵倒が激しく恐怖を感じていた。GPSを車か何かに設置されていたらしく、「今どこにいるだろう」というメールや電話が頻繁に来た。深夜1時の業務連絡のメールにもすぐに返事をしないと不安でたまらなくなりうつ病を発症。7年後リモートワーク中心の仕事に再就職するが、対人関係的に過敏な症状が残存。

この会社はそれまでは比較的、無理を言わない会社だったのですが、東日本大震災で、数か月売り上げが上がらず、その期間の穴埋めをするという無理を通そうとした上、代わったばかりの上司が中途採用で自分の立場を安定させるために成果を上げさせようとしてさらに無理を通そうとしたようです。

命の危険はなかったのですが、自分が安心して勤めていた会社から、突如上司が後退したとたんに人格を否定されるような罵倒を受け、夜昼なく、自宅でもどこでもメールが来る、どこにいても監視されているということで、ほっと一息が付ける場所が無くなってしまいました。自宅ですら安心できる場所ではなくなってうつ病となったと考えやすい事案で、自宅が安心できる場所ではないことから治療が長引いたということもわかりやすいように思われます。結局この方は引っ越しされてから再就職が可能となりました。

次の事案は職場で暴行事件を受けてひどいむち打ち症となり苦しんでいるところに、上司が暴行事件が公になって管理職である自分の評価が下がることを恐れたことと、さらにその上司からの指示もあり、事件を握りつぶそうとしました。警察に通報することや労働災害の申請をすることを断念させようと1か月も説得を続けました。その理屈もあたかも、職場全体の利益から事件化することを避けるべきだとか、暴行を受けたあなたも悪いなど、暴行事件はどうなったというような内容でした。上司の上司からも説得を受けるようにもなりました。

被害者は説得していた上司は、全体のことを考えた上で、自分の利益も考えてことを大きくするなという体で話していたのですが、ある時被害者は結局上司たちの自己保身で言っていて、自分のこと等を考えていないということに気が付き、気が付いた途端に症状が重篤化してしまいました。信じていて、尊敬もしていた上司に裏切られたということが

職場内トラブルをめぐり、上司から事態の隠ぺいを執拗に働きかけられる。説得活動のため仕事に時間が当てられなくなる。いろいろ考えてアドバイスを受けていたと思っていたが、やはり隠蔽だと気が付いて発症。職場復帰を何度かするのですが、そのたびに暴行を受けた現場や上司から説得された部屋の前を通らなくてはならず、嫌な気持ちがぶり返してしまいました。11年たってようやく復職が継続していますが、復職にはいろいろなその後の状況が良い方に働いたという運もありました。

以上の3例はすべて労災認定されて、治りきらないということで症状固定となっています。

3例とも症状も異なれば、うつ病とPTSDという診断名も異なるのですが、先ほど述べた3つの特徴が良くあてはまる共通項もあります。

現在うつ病は、それが遺伝的なものであれ、原因不明のものであれ、薬物や外傷によるものであれ、今回のストレスによるものであれ、すべてうつ病という一つの診断名になっています。それがどの程度合理的なのか医学的なことはわかりかねますが、原因によっては治療方法が異なる、つまりストレスが原因のものは薬が効きにくいという話も聞きます。心因性のものは別個の病気と考えた方が良いということは無いのでしょうか。

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人間だけが涙を流すことについて、勝手に感想文 「『こころ』はどうやって壊れるのか」ダイセロス1  [進化心理学、生理学、対人関係学]



久しぶりに本屋に立ち寄ったところ、「『こころ』はどうやって壊れるのか 最新『光遺伝学』と人間の脳の物語」 カール・ダイセロス著という本を見つけてしまい、衝動買いをして読みました。少しずつ考えながら読もうとしたのですが、途中から続きが気になって、一気に読んでしまいました。著者は精神科医で脳科学者です。この本も、精神医学と脳科学の両方のごく基礎的なことがわからないとかなり難しいないようになっています。少しもったいないです。

一番時間をかけて考えながら読んだのが「第1章 涙の貯蔵庫」で、今回の記事でこの章を読んだ感想を書くのですが、そのあとの章はノートは取っていましたが一気読みをしたので、自分の感想や疑問を書き留めることもあまりしなかったため、お話しできるのは今回の第1章だけかもしれません。

<1章の内容メモ>

哺乳類の中でも人間だけが涙を流す。情動的な涙は類人猿の近縁類でも確認できない(36)。とのことで、第1章ではこのことについて考察しています。先ず、交通事故で妊娠中の妻を亡くしてうつ病になった患者が、「自分はなぜ泣けないのかわからない。」と話すエピソードを中心にお話が展開していきます。

本の中では、涙を流すことの機能について述べられています。涙を流すことは、他者の共感を得られやすく、助けたいという気持ちを呼び起こすということが述べられています(36)。

涙は意識的に制御できないという指摘もしています(59)。

また、涙と不安が関係しているということを述べていて、うれし涙でも不安が存在するように感じると言っています(62)。

大事なことだと思うのは、涙を流す時は希望を持っているときであり、すべての希望が立たれたときは涙は流れないという言い方もしています(64)。

<私の感想ないし疑問>

1 涙を流すことと泣くことの違い
  
著者は、泣く行為の象徴的な涙を流すことに着目して論述しています。涙の本来的機能である眼球の保護のための脳内神経構造が、進化の過程で共感の獲得に寄与する機能も果たしたのかもしれないという感じです。

しかし、他者が共感する対象は、流す涙ではないのではないかという疑問があります。むしろ、表情筋を使って顔の表情が崩れるというか、いわゆる泣き顔という表情や泣き声に対して共感が集まるのではないかという疑問です。

表情筋が動くことによって、涙腺を刺激して涙が流れることが順番ではないかという疑問なのです。ただ、泣き顔をしていなくても涙が流れるということもあるので、なかなか簡単ではありません。

もっと大事なことは、涙が流れる脳内の神経の仕組みではなく、共感の対象です。人は泣く人がいると、放っておけなくなるということです。

2 人間の年齢に応じた泣くということ 成人と依存と

なぜか言及がなかったのですが、泣くという行為が一番必要な年齢は赤ん坊のころです。赤ん坊は泣くという行動をして、親などに自分に要求があることを告げて、自分の要求をかなえてもらいます。自立して生きることができませんので、100%親などの他者に依存して生存を確保しているわけです。

良くできていると思うのは、親は自分のニーズではなく他者である赤ん坊の要求をかなえることが少なくともそれほど嫌なことでもないし、一つ一つはそれほど困難な要求でもありません。いろいろな親がいるとは思いますが、それなりに積極的に他者である赤ん坊のニーズをかなえようとします。

赤ん坊は他者に依存すればよいことを本能的に知っているわけです。

A)人間は、自分でできないことを他者にやってもらおうとする志向と
B)他者が困っていると自分が代わって行ってあげようとする志向がある
ということになると思います。

このA的思考は、年齢が低ければ低い程強く、かつ自然に起きています。人間が成長するにつれて、依存的傾向が否定評価されるようになり、自分で行動しよう、自分で解決しなければならない、あるいは自分のことは自分で解決したというように変化していきます。

但し、必ずしもすべて自分で解決できることばかりではなく、集団的に解決をする場面が残されており、他者の助けを求めてしまうことがある、ということになるのでしょう。

大人の方も、困っている人を助けようという傾向はいつまでも続きますが、どちらかというとより弱い者、より困っている者を助けようとする傾向があるかもしれません。

これ等はオリジナルな人間の志向です。人間が進化の過程で獲得した行動傾向ですが、時期的に見て、ほぼ単一の群れで生まれてから死ぬまで生活し、その群れの人数も150人程度までという少人数だった時の志向です。現代のように、膨大な数の人間とかかわりを持ち、複数の群れに帰属しなければならない複雑な人間関係は前提とされません。このため、オリジナルの人間の志向は、自分や自分の仲間の損につながり、必ずしも肯定的な評価がなされず、試行が隠れてしまうことが多くなります(心と環境のミスマッチ)。

泣くということ、泣いて誰かの助けを求めること、泣いている誰かを助けようとするのは、オリジナルの人間の志向によりよく適合するものです。人間が群れを作って生活していくにとても都合の良い仕組みです。

それにしても赤ん坊と母親の関係では、赤ん坊が必ずしも独立していない、特に哺乳類では同様の関係がみられるはずです。しかし、ほ乳類の中でも人間に最も近い類人猿種でも、子どもが泣いて親に自分の要求を伝えてかなえてもらおうという行動は少ないようです。

これはいくつか理由があります。
一つは、集団で暮らす類人猿でも、個体の結びつきは原則として母親とその子どもの関係に限定されるようです。母親が死んでいるという特殊なケースを除いては、母親以外の成体が子どもの世話をすることは無いそうです。そして子どもは、エサの獲得以外は、ほぼ自力でできることが多いようです。自力で母親にしがみついたり、自力で歩きだしたりできるということです。即ち幼体と言っても、母親以外には依存しようとしておらず、依存の内容も人類よりもずっと少なく、母親以外は幼体の世話をしないということから、泣くという行動をしなくても生活に不便はないと言ってよいということらしいのです。泣いても仕方がないと言っても良いのかもしれません。

人間の場合は、直立歩行をするため出産に困難が伴う上、脳が異様に発達しているため頭がい骨が大きすぎることも出産に苦労する理由となり、自分では何もできない超未熟児の状態で生まれてきてしまうようです。このため依存度が高くならざるを得ません。また、群れの結びつきが強く、母親以外の成体も子どもに関わろうとするようで、子どもも他の類人猿とは異なり、母親以外の大人のマネをして学習することができるようです。チンパンジーやニホンザルと比べても、群れ同士のかかわりが密であるということが特徴的だそうです。母親だけで子どもを守れずに群れ全体で弱い者を守らざるを得なかった人間の身体的特徴を反映しているのでしょう。

このような進化を遂げたのは概ね言葉のない時代です。言葉もないのに、群れ同士の結びつきが強くなければならないし、母親以外にも助けを求める必要があったということから、人間の赤ん坊は泣くことを覚え、人間の成体は自分の子どもでなくとも助けてあげたくなるという志向を持ったのでしょう。

逆に言うと、こういう志向が無ければ、人間は群れを作れず、既に種として死滅していたのだと思います。

3 泣けない理由

泣くという行為が人間が他者に対して自分を助けてほしいという反応だとすると、泣いても仕方が無いときは泣くことができなくなるのは合点がいきます。赤ん坊より少し年齢が高くなる幼児であっても、自分が迷子になったときには、泣くよりも先に恐怖を感じてパニックになることがあります。誰かが優しい声をかけることによって泣き出すということはよく見られることです。助けを求めたかったのに、それができる状態ではないと感じてしまっていて助けを求められなかったけれど、助けが現れたところで泣いて援助を求めるという時間差の援助希求なのかもしれません。自分が助かるかもしれないという希望が生まれたから泣くということも一面の真理なのかもしれません。

本に出てきた妻を交通事故で無くした男性が泣けなかった理由は、妻の死を救えずに妻が死んでいくことをすぐ近くで見ていることしかできなかったことから、妻の命が失われてしまったことを強く覚知したため、救われようがないということを強く認識していたためだと思います。

その意味で、泣くときに希望があるという著者の指摘はとても正しいと思います。うつ病患者の人たちに尋ねてみても、うつ病の症状が強いときは泣くことができない、泣かないという答えでした。うつ病者は症状として希望が持てない状態になっているのかもしれません。

泣くという行為は、援助をしてくれる人間がいるかもしれないという覚知と、自分の苦境が解決するかもしれないという展望を持っていることが必要なのかもしれません。

4 一人の時に流す大人の涙

著者は繰り返し述べていますが、大人が一人でいるときでも、涙を流すことがあるということが不思議なところです。何かを思い出して泣くとか、本を読んで泣くとか映画を見て泣くということもあります。こういう涙を流す時には、誰かの助けを求めているわけではありません。この結果、あまり表情筋を動かして泣いている状態を知らしめているというよりは、静かに涙を流すというイメージが強いかもしれません。しかし、表情筋は大きく活動しているということが実情です。

本や映画による涙は、主人公に共感している涙ですから、主人公が泣いて助けを求めているとか、絶望から希望が生まれたとかいうことが起これば理屈通りの援助希求行為です。感動の涙ということはこういうことだと思います。しかし、何かを思い出して泣くということは、理論から逸脱する現象なのでしょうか。あるいは、迷子の赤ん坊のように時間差の援助希求行為なのでしょうか。

人間は自分を攻撃する者に対しても、援助を求めてしまう動物です。しかし、そこで援助を求めてしまうと、自分の非を認めるからとか、屈辱的であるため、あるいはかえって危険になるからと覚知すると援助を求める反応ができない場合があります。また、自分が泣いて援助を求めることで、仲間の誰かを危険な状態にしてしまう場合もあるでしょう。だから泣かないでなんとかその場を切り抜けるわけです。その孤立無援状態から解放されて、一人の部屋に変えるなど、もう自分を守らなくても良いという状態になったときに、本当は援助を求めたかったというように、その場にはいませんが、誰か仮想の味方を想定して泣くのかもしれないと考えています。もしかすると、安心しきれない群れが存在するという心と環境のミスマッチの一つなのかもしれません。この論点は改めて考えてみるのも面白そうです。

同様にうれし涙ということも、実際は難しい説明が必要な気がします。緊張状態が突然緩和することの影響があるような気がします。笑いと構造が似ているような気がします。「怒り」と「恐れ」のように共通の出発点を持っている可能性がありそうです。

5 泣こうとして泣いているわけではないということ

実は私は、先ほどらい、気を付けた表現をして、覚知とか志向とか言葉を選んでいたのですが、泣くということは、実際は意思に基づいて泣いているわけではないと考えています。

つまり、「自分には要求事項がある、自分ではそれはできない、誰かの支援が必要だ、支援をもらうために泣こう」と思考をしているわけではないということです。赤ん坊を見ればあまり説明の必要もないかもしれません。物を考える前にすでに泣いているということなのだと思います。意思よりも先に泣くという行為が脳の中で決定され、始まっているため、意思によって泣くことを制御しにくいのだと思います。泣かないためには脳の泣く行為の発動条件を成就しないような設定をするか、泣き出したことを知覚した場合に直ちに意思によって制御しているかどちらかでしょう。大人になると泣かなくなるのは、どちらかというと脳内の泣くという行為の発動条件を成就しなくなるということのような気がします。



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自分の大切な人との仲を壊さないために、相手の気持ちを考えて行動をするための工夫 現代版黄金律構築の必要性7 シリーズを振り返る [家事]



大人の発達障害の人の中には、自分の言動が相手を傷つけたり、怒らせたりすることに気が付かない人がいるということを驚きをもって発見しました。自分では悪気はないのに、いやむしろ相手に良かれと思って、相手に働きかければかけるほど、相手が自分を嫌い、離れていってしまうわけです。考えてみると、これは切ない話だと思いました。

さらに思いを巡らせると、発達障害が無くても、その時の状態、環境から、相手の気持ちを考えて行動することができなくなることがあることにも気が付きました。そういった環境が一時的なものであればそれほど大きな影響はないのかもしれませんが、例えば職場の問題など長くその悪しき環境にいなければならない場合は、例えば家族など自分の大切な人間関係に影響が出てしまい離婚等の家族崩壊の原因になってしまうわけです。

ただ、相手の気持ちを考えて行動するということは、ちょっとの工夫、知識があればできるのではないかということも考えました。今回、シリーズの最後に、自分が相手の気持ちを考えないで行動することを事前に防ぎ、大切な人との仲を壊さないためにどうしたらよいかを考えてみました。

1 大切な人が誰かをはっきりと認識する。

 守るべきものが誰との関係なのかはっきり自覚するべきです。私たちは、なかなか改めて考えることがありませんが、実に様々な人間関係に所属しています。家族や学校、職場、地域、社会、通勤電車、お店の店員と客、客同士、あるいはSNSの「友達」等々、あるいは国家や社会と自分との関連を強く意識する人もいると思います。

そして人間は、困ったことに、放っておくと、どの人間関係でも自分が安定してその関係にいることを歓迎されて、その関係の他者から尊重されていることを求めてしまうようです。そしてその自分の求めをかなえようとする努力をしてしまうようです。

  しかし、そのようなありとあらゆる人との関係を大切にすることは不可能だと思います。力を入れて大切にする人間関係を絞らないと、本来大切にするべき人間関係が手薄になったり、他の人間関係の悪い影響で大切な人間関係の人に八つ当たりをしてしまったりということが出てくることがあります。きちんと大切な人間関係については特別扱いをして、大切さに応じた行動をするべきです。

例えば相手が嫌がるだろうなと思えば行動をしたりやめたり、こういう言い方をしたら傷つかないのではないかと行動の内容を変えたりということをしなければ、気が付いたら自分がのけ者になっているということがどの人間関係でも起こりうることだと思っています。

私が大切にするべきだと思う人間関係は家族であり、その中でも夫婦です。我々は家族という存在は必ずそばにいるものであって、どんな場合でも離れないものという意識を持っていると簡単に考えているようです。あるいは考えることもしないという方が正確かもしれません。家族が壊れるということに無頓着なようです。しかし、例えば、夫婦の相手も長く合わないでいるような場合は他人に戻ってしまうということや、他の人と家族になってしまうということもありうることです。相手の年齢も変化していきますが、これに伴って考え方や感じ方も変化していきます。ずうっと同じように接していたつもりでも、相手からすると不満が蓄積していたということは、離婚事件では定番になっています。夫婦は案外壊れやすいということが夫婦を大切にするべきだと考える第1の理由です。
 
 第2の理由は夫婦の仲が壊れると精神的ダメージが大きいということです。夫婦の一方が自分を嫌い、自分とは一緒にいられないということを突然突き付けられた場合、他の人間関係が壊れる以上に人間の精神的なダメージは極めて重いものになります。日本の社会環境では、離婚に伴って、子どもとの交流も失われることが多くあります。夫婦が壊れるということを想定しないで私たちは生活していますが、気が付かないうちに自分にとって大切な存在になっているのです。

第3は、生理学的にも、夜に帰ってくる家庭において、自分が尊重されていると実感できることが、心身の健康の基盤になっていることから、夫婦、家庭の人間関係を大切にして居心地をよくすることが理にかなっているという理由もあります。

2 「相手のやってほしいことをやるという第1法則」でいこう
  現代版黄金律は、
・ 相手のしてほしいことをしてあげよう(第1法則)
・ 相手のしてほしくないことはしないでおこう(第2法則)
というものです。

相手との仲を壊したくないということが勝ってしまうと、「相手のしてほしくないことをしないでおこう」ということばかり考えてしまいそうです。しかし、これはなかなか難しいことです。つまり考えを巡らせて、相手のしてほしくないことをしないことをしても、何かしているかわからないことから相手が気が付かないことが多いために、エネルギーは使うけれどプラス効果があまり期待できないと言えるのではないでしょうか。

むしろ「相手のしてほしいことをしてあげる」ということに力点を置くべきだと思います。これならば、相手の気持ちを考えることが苦手な人でも、できそうです。そして、それが実は相手が嫌なことならば反応がすぐに出ますので、修正が効きやすいです。

加えて、こちらが相手のしてほしいことを探して、やろうとしている姿勢を示すことで、相手は自分が尊重されていると感じることができます。10回のうち3回ヒットを打てば、残り7回が空振りに終わったって、相手からすればこちらの姿勢を感じ取ることができて印象が良いはずです。自分のために他人が何かをしてくれるということはとても嬉しいことだです。

多少恩着せがましく言うのはむしろ推奨しますが、「あなたが喜ぶのではないかと思って」という言葉は必ずつけましょう。
  
 3 一緒にいる時間、会話の時間を増やそう

   結局、会わなくなっていくと他人に戻っていくということのようです。ただ一緒にいるということも大切ですが、話をするということがポイントが高いようです。
   会話の内容はどうでもよいです。当たり障りのない話ができるということも大人としてのスキルかもしれません。相手が話しているときにじっと聞くこと、共感できる部分や賛成できる部分は、すかさず肯定のあいづちをうつこと、先ず必ずそこから始めること、そして安直に結論を出そうとしないことなどでしょうね。こういう人間同士が結びつきを強める会話は女性の方が上手なようです。

4 睡眠時間を確保する等体調管理をしよう

睡眠時間が短いと、だんだん思考能力は低下してゆきます。それだけで、失言をするようになりますので、相手の感情を考えるという複雑なことはできにくくなることは当然です。

思考力が落ちる内科疾患もありますので、健康診断は定期的にうけるということも大切なようです。一日6時間半から7時間の睡眠時間を確保しましょう。

特に何事もないはずのご夫婦が深刻な仲たがいをしたということがありました。10年前のことでしたが、結局それから二人の間の亀裂が大きくなり離婚になりました。そのころ二人の間に何があったかはわかりませんが、奥さんの方がうつ病の副作用を持つことで有名な薬を長期間服用していたことだけは確かでした。

5 大切でもない人間関係は整理すること

例えば、特に必要もないのにSNSで発信をしていて、その発信をめぐって物議が起きて、逆に批判の書き込みが多くなり、イライラして家族に八つ当たりをするということになれば、それは本末転倒だと思います。

人間の脳は、一つの群れに所属するためにふさわしい仕様になっていますから、複数の人間関係に同時に所属することは負担が大きいようです。SNSなんて実生活には必要がないのに、依存になり家族に向き合う時間が無くなれば有害でしかありません。中止してみたら、自分には何の弊害も無かったことに気が付く人がちらほら多くなっています。

特に夫婦問題に悪影響が出るのは、職場の人間関係です。パワハラを受けてしまい、八つ当たりを家族にぶつけるとか、パワハラを忘れようと深酒をしたり、パチンコで時間をつぶして家庭がぎくしゃくしていることは本当に多いと実感しています。簡単に仕事をやめるということはできませんが、家族とよく話し合い、場合によっては退職をするという選択も、大切な人との今後を見据えると考えなければならない場面が多くあるように思われます。

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こちらの気持ちを考えないで言いたいことを言う人の人との付き合い方 現代版黄金律構築の必要性6 [進化心理学、生理学、対人関係学]



言いたいことを言って、相手を傷つける人との関係が、一回きりのものとか短期間だけのものである場合はともかく、それでもできれば相手になりたくないものです。常時そのような人から否定され続けられることは精神的に著しく深刻な影響が生じます。

それでも、なかなか関係を断ち切れない場合もあるにはあるでしょう。どう付き合うかということについて、これまでの事例の教訓を並べてみます。

1 関係を断ち切るという選択肢を温め続ける
  心無いことを頻繁に言われる相手が配偶者である場合は、「最終的には離婚する」という選択肢を持ち続けることで、逆にうまく対処ができるようになり、結果的に長続きするようです。ちなみに、心無いことを言うことについては、男女差はないか、女性の方が多いかどちらかだということが実務上の実感です。そして解決方法が見つからず心理的に深刻に追い込まれるというのは、圧倒的に男性のケースが多いということが私の実務上の実感です。

  いざとなれば離婚という選択肢もあるという考えは、救いになるようです。精神的に追い込まれてしまうと、関係を絶つという選択肢を持つことができなくなり、そのことで余計に絶望しやすくなるということは、これまで多くの追い詰められた人たちが同じように答えてくれています。

  精神的に追い詰められるところから、ひと呼吸を置くだけで、心に余裕が生まれるようです。事態を客観的に見ることができるようになったり、改善のアイデアが出てきたりすることもあるようです。

2 相手に悪意はないことを頭では理解する。
  人の気持ちを考えないで自然体でひどいことを言う人は、必ずしもあなたを根本的に否定評価しているわけではないようです。関係を断ち切るとか、どうでもよい人だと深刻に考えてはいないようです。もっとシンプルに、ただ言いたいことを言って、やりたいことをやっているだけのようです。

 そこにあなたの感情が入らないだけです。あなたからするとそのようなことを言われるということは、自分はどうでもよい人間ですぐにでも関係を断ち切りたいと思われていると感じるのですが、どうやらそうではないようです。

  例えば、卑近すぎる例を挙げますが、ケーキが家にあるとします。夫はケーキがあることを知っている。しかし、妻は夫にケーキを与えず、自分と子どもだけで食べてしまった。夫としては、そこまでケーキを食べたいわけではないけれど、自分だけが仲間外れにされていることに傷ついて、妻は自分を嫌いなのではないかと考えて悩んでしまう。

  しかし、妻は自分が食べたいから食べたし、子どもに食べさせたいから食べさせたのであり、特に夫にケーキを食べさせたくないということまで考えていないということらしいのです。夫に与えないでケーキを食べることで夫が傷つくということまで考えが及んでいないということになります。

  夫としては、自分に配慮をしないということで傷つくのですが、妻にはそのような配慮をする「能力がない」ということにすぎません。必要以上に配慮をしなかった理由を先取りして考える(自分のことが嫌いであることを知らしめようとしているのだろう等)ことはあまり意味のないことだと頭では理解すると、少しダメージは軽減されるようです。

3 我慢していないで教えてあげる
  自分が傷つくことになることを思い当たらない妻や夫に対して、自分が軽んじられたということで、悪意があるなんて余計なことを考えて怒り、反撃してしまっても、相手は何を怒っているかはわかりません。それはわからないけれど、自分が攻撃されていることははっきり認識してしまいます。つまり改善はされずに、関係だけが悪くなります。

  我慢しないで言ってみることで案外解決することが多いようです。「私だけケーキがもらえないのはとても寂しい気持ちになる。せめて、私にもケーキを食べるかどうか聞いてもらえないだろうか。」と話しかけることで解決することも多くあります。

但し、この時には冷静に事務連絡というように話す必要があります。「怒っているわけではない」とはっきり断ることも大切なスキルです。相手は、自分が非常識なダメ人間だと思われているのではないかという危機感は抱くようです。攻撃はしていないよということも言葉にすることで大分分解決するようです。

  職場でも同じような例があります。パワハラ(まがい)の指導をする上司が部下の気持ちを考えないで指導をしたのですが、部下も部下で上司の気持ちを考えない人だったのです。部下が上司に対して「そういう風に一方的に言われると、私はどうしてよいかわからなくなります。そういう風に言わないでください。」と言ったところ上司がたじたじになるということがありました。その時は、部下は変わり者ということで敬遠されるようになりましたが特に不利益はありませんでした。言ってみることが大切だということなのだと思います。

  私も、チームを組んで仕事をしていた時に、一人が自分のことを棚に上げて新人を説教ばかりしていたことがあって、「そんな無理なことを言っても仕方がないじゃないか。」とつい言ってしまったことがあります。相手はごにょごにょ言っていましたが、改善されましたし、特にその後私に対する報復はありませんでした。我慢するよりは、まっすぐに言うほうがいろいろな意味で良いようです。

  どうしても相手に対して物申すということになりますので、言う方も緊張してしまいます。そうするとどうしても勢いをつけるために怒りの力を借りてしまうということがありがちです。それではだめでしょう。ここは理性的になって、できるだけ事務的に教えてあげるということを心掛けることが必要だと思います。

4 第三者の支援

例えば職場などでは、研修をしたり、コンサルタントの助言を受けたりして、ビジネスの武器として他者との対応をスキルアップするということは可能ですし、とても効果が上がると思います。他者とのコミュニケーションが不要であるという職種はあまりないと思います。この観点からのコンサルはもっともっと普及されるべきだと思います。

しかし、家族という場面でのコミュニケーション術というのは、どうしても放置されてしまいがちです。

自分の気持ちを踏みにじるような発言をされるけれど、解決の方法が無くて苦しんでいる人は実際は多いようです。

逆にそのような発言をしてしまう方の人も、どうして自分の必要かつ正しい発言が家族に受け入れられないのか、理解できないまま孤立感を蓄積させていっているようです。家族の気持ちを理解しないで言いたいことを言ってしまう人は、気持ちを理解して言う能力が欠如しているだけという場合があるので、悪いことをするのはやめろというようなことでは解決しません。

ただ、そう言う人も結婚はしたわけです。初めから自分の気持ちを考えないでずけずけと言い出す人だということではなかなか結婚することは難しかったわけです。相手の感情を考えて、こういうことを言うと嫌われるから言わないでおこうなんてことを考えることは初めからできなかったはずです。

考えられることは、逆の思考はできるのではないかということです。つまり、相手がこうすれば喜んでくれるのではないかということを一生懸命やるということです。おそらく、一般の人間は、「こんなことをしたらわざとらしいと思われるのではないか」とか、「下心がミエミエで引かれるのではないか」とか、「かえって嫌われたりしないか」とか、相手の心を考えるために、かえってアプローチができないことが多いのではないでしょうか。

逆に相手の気持ちを考えないで、自分のしたいことをストレートにできるならばうまくいくこともあるかもしれません。つまり、その相手が喜ぶだろうということは、単に自分が喜ぶことを相手にもしてあげていただけかもしれません。それでも相手は、自分のために熱心にいろいろなことをしてくれるから親切な人かもしれない、自分のことを一番に考えてくれるかもしれないと錯覚して(?)しまうのかもしれません。

自分のやりたいことだけをしているとしても、案外人間関係で、ニーズが一致してうまくいくということはありうることだと思います。また、相手の気持ちを考えることが苦手な人も、相手といつまでも一緒にいたいという気持ちが確実にあるようです。ただその方法がわからないだけという奇妙な表現が比較的正しいように感じます。

そうだとすれば、第三者の支援があれば、相手に対して不快になることを言わないで、喜ばせる言動をすることは十分可能なのではないかと思います。ノウハウを少しずつ覚えて行けば、少なくとも現状からだいぶ改善される可能性が大いにあるように思えるのです。

現在、家庭問題の相談をする場所が極めて限られています。弁護士に相談に行っても、カウンセラー(家族療法、カップル療法などを除く)に相談に行っても、あるいは行政に相談に行っても、すぐに家族をやめなさいというアドバイスしかなされないようです。家族支援の団体もあって頑張っておられるのですが、首都圏に限られているようで、全国の相談に対応できません。

なんとか、物事を善悪に割り切らない第三者を増やして、相手のしてほしいことをしたり、相手のしてほしくないことをしないという黄金律が普及する具体的ノウハウを普及していければよいなと考えているところであります。現代社会はそれを行う主体が極めて貧弱なところに悲劇が起きやすくなっているように感じられます。

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SNSでみられるハラスメント行為、迷惑行為についての考察 現代版黄金律の構築の必要性5 [進化心理学、生理学、対人関係学]



今日のテーマから私の言いたいことはお察しの方も多いと思います。
SNSやメールの言語だけのコミュニケーションは面談のコミュニケーションに比べて過酷になる理由は、相手の感情や立場を考慮して発言しづらい環境にあるためです。目の前に相手がいないため、相手の感情を考えることがますます難しくなってしまいます。言われたら相手は傷つくだろうなとか、怒りだすかもしれないなという相手の反応を考慮できなくなるわけです。

もう一つ理由があるようです。相手の感情を考慮の外に置いていることに付け加えて、自分のぼんやり想定する相手以外の受け手を想定しているものだから、その相手の反応だけを考えて発信してしまうということです。このためますます、考えるべき人の反応に頭が回らなくなるようです。

昨今話題になって逮捕者も出たユーチューブでの不衛生な行為も同様に、世間一般の常識的な反応やお店の損害を考えることができなくなっています。このケースは特にウケを狙う、閲覧者を増やすという目的に夢中になってしまい、それ以外の考えるべきことに頭が回らなくっているのだと思います。だから、それを言っても仕方がないことかもしれませんが、彼らはお店に損害をかけようという意図もないし、損害がかかっても仕方がないやとは考えていないのだと思います。ただ、頭が回らなかったということなのでしょう。

SNSで他人を攻撃したり迷惑な行為を発信したりする人たちは、読み手として「誰」を想定しているのでしょうか。この「誰か」は、非常識であり、犯罪を誘導するような人たちなのでしょうか。

先ず、SNSを知らない方はわかりにくいのではないかと思うのですが、投稿者は誹謗中傷する相手に向けて発信している意識ではなく、この誹謗中傷投稿を喜んでくれる第三者を意識して発信しているようです。その「誰か」の共感を勝ち取りたいという意識で表現を工夫までして発信しているのです。SNSでは、そのなんらかの賞賛や共感は閲覧数や「いいね」のボタンを押した数字になって表れてきますので、自分の欲望が達成しているかどうかわかりやすくなっています。このため、つい、あたかも本能的にその数字を追い求めてしまうような感じです。

迷惑動画の配信も同様に閲覧数が表示されますので手ごたえがわかるようになっています。最初の発信の閲覧数よりも、多い閲覧数が欲しくなるような構造があり、そのためには多くの人が面白いと思うものや、面白いと思わなくても閲覧してもらえる動画を配信したくなるように、構造化されているようです。

投稿者は、閲覧数の多い配信を参考にしますし、自分なりに試行錯誤をしてなんとなく受けるパターンを皮膚感覚で覚えて、自分ができる閲覧数の増やし方を選択していきます。特に他人を引き付けるアイデアや技術のない人たちは、動画の内容を過激にしていって閲覧数を増やしていくほかないのです。迷惑な投稿や他者への誹謗中傷をする人は、閲覧数や「いいね」の数字に突き動かされて投稿をしているようです。そこに他者の感情を考慮する余裕は無いようです。

また、その投稿をすることで自分が決定的に悪い立場になるということも思い浮かばない。まさに数字依存症になってしまうような感じです。

犯罪にわたる投稿をしてしまったり、多くの人が不快になる投稿をしてしまい、学校や職場から処分を受けてしまう理由はこういう数字だけを追い求めようとする構造にあるので、投稿をする人ならば誰もが陥ってしまう可能性があるわけです。その結果、進学がだめになったり、就職がだめになったりするということもあるようです。それでも投稿しているときは、数字しか目に行かないためにそのような別の結果を想定することもできなくなっているようです。

必ずしも閲覧者が投稿を肯定的に評価しているわけではありませんが、閲覧数や「いいね」の数が伸びればそれでよいようです。それが最優先課題になってしまい、その他のことを考えることができなくなるようです。
誹謗中傷する相手が深刻に受け止めるということも、数字だけを追い求めていれば発想にすら入りません。

インターネットはとても難しい、危険に満ちたコミュニケーションツールです。自分が取り上げている相手の感情すらなかなか考慮できません。想定していないタイプの読み手もたくさんいて、その人たちがどう反応するかということはますます想定できません。うっかり友達同士の会話の延長で投稿してしまって深刻な問題を引き起こすということが増えているのではないでしょうか。そして自分の軽はずみな投稿は、事実上消すことができなくなることがあります。

子どものスマホ教室などが開催されていますが、多くの時間は子どもが被害者にならないための使い方の説明に費やされています。それも確かに大切です。しかし、より深刻な事態になるのは、子どもが加害者になる場合です。何気ない投稿で命を落とす人もいますし、投稿した者が加害者、犯罪者として一生消えない痕跡を残してしまい取り返しがつかなくなることもあるわけです。

私は、他の理由もあり、子ども(少なくとも中学生くらいまで)が投稿できる形でのインターネット環境は作るべきではないと思っています。学校の中だけのインターネト環境をつくり、保護者など大人が監視できるようにする必要があると思います。どういう投稿が、どのような理由でやってはだめなのか、それを発信するためにはどのように修正すればよいか、一つ一つ覚えていく必要があると思います。こういう環境を実現するためには、家庭だけで気を付けても限界があるようです。地域全体で話し合う必要が本当はあるのだと思います。

十分な練習期間を経てインターネット環境に入るということが理想なのだと思います。便利だということで弊害がクローズアップされることなく普及してしまった今となっては、なかなか難しいことであることと思います。

また、大人もどこかでインターネットの講習会を受講することが理想のような気がします。

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