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「悪口を言われた」と思う気持ちは群れを作るために人間が持っている通常のシステム その先の攻撃の原因 (津山事件との比較をしていますので閲覧ご注意です。) [刑事事件]

先日、長野県で4名の方が命を奪われた事件がありました。報道によりますと、犯人は、動機として「悪口を言われたと思った」ことを上げていると言います。犯罪史に興味がある人ならば、津山事件を連想する方も多いと思います。1938年に岡山県であった33人殺人事件です。これは松本清張氏も調査をしていて作品として発表をしています。

悪口を言われたと思ったという場合、被害妄想という精神異常による犯行だと結び付けて考える人も多いかもしれませんが、この「悪口を言われたと思う」というその気持ち(あるいは妄想)は、人間ならば誰しも多かれ少なかれ発動される感情で、この感情があったからこそ群れを作って生き延びてきた大切な感情でして、人間としては基本的な感情だと思うのです。

アフリカのサバンナで30人ほどの群れを作って狩猟生活をしていると考えてください。
せっかく苦労してとったうさぎを一人で多く食べてしまって、他の人から冷たい目で見られているとします。はっと気が付いて、自分はかなり仲間から評価が下がってしまった(まだ言葉のない時代ですから悪口を言われるとは思わないのです。)と感じる心を持つわけです。これはまずいと思い、夕暮れの中別の動物を自力でとってきて評判を回復させたり、それができなければ次に狩りをした時に自分だけ食べないということで、償いをするわけです。それで評判を回復させようとする。このための行動原理になるのが、現代的に言えば「悪口を言われたと思った」の人間らしい効果なのです。

人間は動物として腹いっぱい食べたいと感じる本能があると同時に、群れを作る動物として仲間の中で評価を落としたくないという本能もあるということです。

仲間内の低評価が気にならないならば、自己中心的な行為をする歯止めが無くなってしまい、群れがまとまらなくなってしまいます。群れを作らなくなり、人間は簡単に肉食獣に食べられてしまい、またエサも確保できず死滅してしまったのではないでしょうか。

だから、言葉としては「他人から悪口を言われたと思った。」と言ったとしても、実際に他人が悪口を言わないことが多いし、仮に悪口を言っていたとしても本人までは伝わっていないことがほとんどだと思います。
「悪口を言われていたと思った」という場合は、実際にその他者から悪口を言われていたかどうかではなく、自分が他者から悪口を言われるような状態にあるという自覚が、不安や焦燥感と言った嫌な気持ちの核心だということになります。

それだけ人間が孤立を本能的に嫌っているということを意味しているのだと思います。孤立を嫌う心というシステムがあったために、群れを作ることができたというわけです。

そうすると、群れの中で群れの仲間として扱われない事情があると、自然と「悪口を言われている」と感じるわけです。一番の事情になることは、自分が群れの役に立っていないと感じることです。

津山事件の場合は、犯人は結核を患い農作業を禁じられていた時期がありました。学校の成績は結局よかったのですが、結核が原因で、丙種合格となり(健康状態が悪く兵隊として任務に就けない)ました。小さな集落で、農業も従事できず、兵隊にも採用されないということは、当時の日本の狭い集落の中では、とても肩身が狭い状態だったと思います。自分には能力があるのに、自分の能力によって他者から評価されないということは、不条理を感じていたかもしれません。何らかの方法で見返してやりたいといつも思っていたことでしょう。しかし、日本の山村の価値観は農業か兵隊かいずれかで名を上げるしかない極端に価値観が偏っていたため、それは実現不可能な望みだったのだと思います。

津山事件の犯人は散弾銃を入手し、それを売却してさらに性能の良い兵器を入手してしまいます。偏った公的な価値観で他者の中での自分の地位を回復できなければ、実力で自分の地位を高めようとしてしまったとはいえないでしょうか。結局、犯人は、ある日、散弾銃を持って集落の人たちを襲い、結局一晩で33人を死亡させ、自殺しました。

自分を見下していた(と感じていた)人々を射殺することで、自分が他者の命運を握っているという意識を持ったのかもしれません。自分を無いものにしないとでもいうような歪んだ願望の発露だと思います。

注目するべきことは、ある家庭では、必死に命乞いをする人がいたようです。そうしたら犯人は、「そんなに死にたくないのか」というようなことを言って、その家の人だけ発砲しなかったそうです。自分が命乞いをされるということで、その人間の命運を自分が握っていると感じ、殺さなくても自分の低評価が回復したと感じたのかもしれません。このエピソードは実際はもっといろいろな情報があり、犯行の本質の一つが垣間見えるような気がしています。松本清張氏の作品でも取り上げられていたと思います。

津山事件は、被害集落は全体の戸数は少ないのですが、当時の農村特有の地理環境である家と家との距離が離れているし、まだ電話も普及していない時代です。一件で襲撃があったとしても、それが他の家には知られにくいという事情がありました。また、警察が到着するまで相当時間がかかるという交通事情もありましたので、33人の殺害が可能となってしまいました。

今回の事件では、直ちに警察官が駆け付けました。殉職されるという悲痛な結果になりましたが、それ以上の犯行の拡大が抑止されたという大きな効果があったと思います。近隣との間が密な分だけ、警察官が駆け付けなければ、被害はさらに拡大していたかもしれません。ご冥福をお祈りすると同時に敬意を表したいと思います。

さて、津山事件の当時(昭和13年)の情報量と、インターネットの普及した現代の情報量は比較にならないほど膨大なものになっており、価値観の多様性ということも言われています。どうして、同じような無差別殺人が起きたのでしょうか。

真実は今後の捜査にかかっているとは思います。ただ、仮説として、
1)実は社会の価値観は昭和13年とそれほど変わっていないのではないか
2)現実の自分に対する評価者として想定できた人間が家族と犠牲にあわれた近所の人しかいなかった

現代社会では職業は無数にあるのですが、やはり他者とコミュニケーションを取らなければ仕事にならないし、その傾向は強く、またインターネット対応など特殊化しているのかもしれません。求められるコミュニケーションが苦手な人にとっては、昭和13年の結核患者と同じように働くことにかけては致命的な問題になっているのかもしれません。また、その人の状態に合わせた職業の選択肢が極端に少なすぎるのかもしれません。そういう発想自体が社会にないことも昭和13年と同じ状態なのかもしれません。

また、職業に限らず、多様なコミュニケーションスキルの状態に合わせた他者とのかかわりの方法という選択肢も少なすぎるのかもしれません。

いずれにしてもお二人の女性が不条理にも命を奪われました。どんなにか怖かったことでしょうか。ご冥福をお祈りするしかできません。

もっとも今回の事件については、本人独自の個別的問題点があったことも当然あると思います。

ただ、心配なことは、昭和13年の男子にとって兵隊になれないというスティグマを押されることの弊害以上に、コミュニケーションが取れないために社会から孤立している人間の人数は膨大な数に上っているということです。そして本当は、誰かにとって都合の良い人間のタイプということにすぎないのに、そのタイプになっていないということがあたかも人間にとって致命的に劣っていると評価されると思わされている人たちもたくさんいることだと思います。

その人たちを社会的に「自分は悪口を言われていると思う」状態に放置し続けるならば、当然ながら一見不条理な事件(被害者にとっては不条理ではない事件は無いにしても)は、減少する要素がないということが言えると思います。

予防の観点からは厳罰化は無意味です。少なくとも犯行時は、警察も恐れていないし、刑罰を受けることも恐れていないし、死ぬことすらそれほど脅威にはなっていないと思われる事例が多くなってきているからです。そこまで考えて犯行を実行しているわけではないようなのです。

ヒューマニズムとかきれいごとの問題ではもはやなくなっていると思います。いつどこで自分や自分の家族が被害者になるかわからない世の中だという現状認識からの出発が必要な状況になってしまっていると思うのです。

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納得できる理由を示して明確に否定された方が良い場合がある。自殺と業務の関係が否定された2件 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



若い弁護士に対して、弁護士が関わる自死案件についての話をする仕事をしている関係から、過去の事件をまとめる作業をしています。その中で改めて気が付いたことについて今回お話しします。

ずいぶん多くの自死について労災、公務災害の認定を実現してきました。平成23年に認定基準が改定されたということで、やることがはっきりしてきました。このため主張立証もそれ以前に比べるとシステマチックになったのかもしれません。自死についての労災認定を目指す場合は、最終的には認定基準に添って主張立証することを意識することが大原則であることは間違いありません。

ただ、何が自死の原因だったのかということについては、とても難しいことだと心得た上で事件にあたる必要があると私は考えています。安易に労災ではないと判断することは一番避けなければならないことですが、安易に労災だと断定してしまうことも避けなければなりません。「確証バイアス」によって、何が原因だったのかを調査する真摯な姿勢が崩れてしまっては、認定されるべきものも認定されなくなってしまう危険もあります。無責任に遺族に期待を持たせて、余計に苦しませることにもつながりかねません。安易な肯定は、「遺族に寄り添う」ということにはなりません。

先ずは、客観的に、どんなことがその人に起こったのかということを丹念に調べていく必要があります。

20年以上前に、2件の事件が認定されなかったということがありました。認定されない方はよく覚えているから不思議です。

労災認定は、最初は管轄する労働基準監督署の署長名でなされます。ここで認定されない場合は、その上の労働基準局の保険審査官に審査請求(不服申し立て)をします。それでも認められない時は、東京にある本部審査会に再審査請求を行い、それでもダメな時は行政裁判を提訴することになります。

認定されなかった2件のうち1件は、本部審査会に再審査請求まで行ったけれど認定されなかったという事件でした。ご遺族の男性は善良で、熱心な方でした。弁護士からすると、こちらのやる気に火をつけてくれるし、一緒によく考えていただける頼もしいと言っても良い方で、馬が合うというのでしょうか、事件後も何年かは相談を受けたりしていました。

そういうこともあって、大分肩入れをして再審査請求まで突っ走っていったという感じでした。もちろん、可能な限り関係者にお願いして生前の様子を調査しました。被災者が明確にストレスだと訴えていた事項がすべて業務に関する事項であり、自分でも、そういうことがあったらかなり消耗するだろうなということもあり、私も労災であると本気で考えて活動をしていました。また、遺族の職場で、何も事情が分からない人が自死の原因が私の依頼者のせいだという無責任な陰口をたたいていたということがあり、何とかその無念を晴らしてあげたいという思いも強く持っていました。

第1段階、第2段階の否定理由が、こちらが自信をもって強いストレスを感じたはずだということを、根拠なくそれはストレスにはならないと断定されたような印象の理由付けだったので納得できませんでした。会社の説明をうのみにしたような印象も受けました。ところが、再審査請求の否定判断の理由をには、そのストレスが大したことが無いというよりも、いくつかの事実を指摘して、業務のストレスとは別にうつ病を発症していたということが述べられていました。

これからどうするかということを依頼者と打ち合わせをした時、彼は意外と思えるほどさばさばした様子を見せていました。その理由に一応の納得ができたから裁判まではしないと気持ちを述べられました。その上で二人で我々の調査結果と審査会の理由を突き合わせて検討したところ、なるほどそう考えた方がうまく説明がつくことがいくつかあることに私も思いつきました。

そうはいっても、全部が納得できたわけではないとは思います。それでも、自死の原因がうつ病にあり、うつ病にあったことには会社や家族に理由はなく、またそばにいた家族に自死が止められなかったこともやむを得ない事情があったということの説明を受けたということはお互いに実感があったと思います。

うつ病にり患していたことによって、日常的な軽微なストレスに強く反応してしまって、悲観的な感情が強くなっていったという説明を受け入れることにしました。ただ、この時その依頼者が先に納得していたことで、私の理解も進んだということがあったような気がします。そういう意味で私は彼を自然と尊敬していました。

もう一つの事例も、自死と業務の因果関係を否定されました。こちらの事案は、過去において長時間労働があった期間があり、その時にうつ病の萌芽みたいな精神変化があったとも考えられるということを記憶しています。前の事例は遺族の職場で遺族が自殺の原因だったかのような心無い噂話があった事案でしたが、こちらは義家族の間で、はっきりとは口に出さないまでも疑心暗鬼があったような事案でした。

手帳などの客観的資料に依拠して業務が原因だということを主張して労災申請をしました。労働基準監督官は、かなり誠実に調査をしてくれたようでした。代理人である私にも折に触れて相談をしていただいたような記憶があります。ただ、はっきり覚えていないのですが、これ以上の事実が見つからないと認定ができないというような示唆をされたような記憶があります。私は、結論が異なることはやむを得ない。ただ、理由付けについては丁寧な理由付けを示してほしいということを注文したと思います。結果は案の定労災だとは認められませんでした。理由付けは、当時の第1段階の手続きにしては例外的に丁寧な理由付けを小さい文字でびっしり記入されていました。

正直言って私はそれほど説得的だと思っていませんでしたが、遺族の琴線に触れたようです。ほっとしたような、やはりさばさばしたような様子で、労災ではないということに納得されました。遺族の視点で前の事件との共通点をみると、業務とは別にうつ病を発症していて、会社も原因にならないし、家族も原因にならないものだ、そして激しいうつ病の症状によって、自死に至ったため、家族にも止めることができない状態だったということが浮かび上がるような文面だったということに気が付きました。

こちらの遺族も不服申し立てを行ことをせずに、同居していた家を出て再出発をするという今後のことをお話しされていました。

二つの事件とも亡くなる前のうつの症状は壮絶なものがあり、亡くなり方はとても悲惨でした。何か原因があるはずだと考えたくなることはもっともなことだと感じます。ましてや、自分の近い人間から自死の原因が自分にあると無責任に感じていることが分かれば、「自分ではなく他の誰かの原因で亡くなったのだ」と考えたくなることはごく自然のことだと思います。自死に限らず、病死の場合だって、誰かに原因を求めてしまうのが人間だと私は思います。それが家族でなくとも、誰かに原因を求めてしまうほどの衝撃が自死にはあるようです。しかし、根拠もなく無責任に自死の原因を家族に求めてしまうことは人間としてやってはならないことだと強く感じます。これが一番遺族を苦しめることであることは、数々の事例を担当して思います。テレビその他のマスコミの自死の原因について無責任に議論をする風潮は何度も言っていますがやめるべきです。

ただ、きちんとした調査結果を踏まえてということが大前提となりますが、真摯に検討した結果自死の原因が誰のせいでもない病気のせいだというのであれば、そのことを真正面から説明する方が、遺族にとって救われる場合がある。亡くなった人の思い出を大切にしながら再出発するチャンスになるということがあることを二つの事件から学びました。

判断機関が理由を明示しないことは、疑心暗鬼につながります。悪い方へ考えが進んでしまいます。また判断機関からこのように思われたらどうしようという不安は常にあります。その二つの事件でもありました。しかし、不安に思っていた事前の心理状態と比べて、しっかりと明示されてみると、案外それが新たな苦しみではなく、立ち直るきっかけになることもあるのです。

根拠なく自死の原因とされたと広められた人間はいる場合は多いと思います。その人間には自死に対して責任が無いと判断できるならばそれをするのも判断機関のやるべきことなのかもしれません。

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なぜマスコミはリベラルを批判できないのか、国や都の政権批判もできなくなった理由としての伝統的な構造 55年体制という予定調和 [弁護士会 民主主義 人権]


最近の出来事で、一昔前ならば一大キャンペーンをするような政治疑獄も、野党政党が絡んでいることを良いことに批判記事を報道しないテレビや新聞が、中立的な報道もなされないという現象を突き付けられて、若者やインターネットユーザーを中心としてマスコミに対しての不信感が広がっています。毎日新聞を筆頭として、朝日新聞、東京新聞というリベラル系と言われていた新聞に対して大きな批判が寄せられています。

批判の内容としては、公平な報道姿勢ではなく、ある事件をめぐって対立している当事者の一方がリベラル的な色合いがあるのですが、その一方の不都合なことを報道しないということが中心です。インターネット上は「報道しない自由」を行使しているという言葉が流行のようになっています。また、かつてそれらの新聞が政府与党の公金の不正使用疑惑を批判的に報道しているのに、この事件では自治体などの疑惑の報道を一切しないというダブルスタンダードも批判されています。中には、そのリベラルの色彩を持った一方の側を擁護し、他方を不当な妨害者の一味であるかのようなに新聞が印象操作をしているという批判もあります。

以前、自分が担当している事件の報道について記者と話をする機会があり、公平な報道がなされないことをその不公平な記事に加担した記者と話して色々教えてもらったことがあります。言い訳をするという反省する態度ではなく、「マスコミはそういうものなのですよ。」とでもいうような説明ぶりにいろいろ考えさせられるところがありました。

そのことをふと思い出しまして、「ああ、これがあの時言ってたことか」と思い当たりました。

その記者が言うには、報道は国家権力の問題点を広く知ってもらって、国民の議論に役に立たせなければならないという使命感があるそうです。特にリベラル系マスコミにはそういう使命感を持ってみんな入社するそうです。ただ、何をどう問題にして報道するかということについては、「批判の視点」というものが必要なのだそうです。やみくもに批判するわけにもいかず、読者にも共感してもらわなければならないということらしいのです。

このため、55年体制の続いていた時期までは不動の野党第1党である社会党の視点を借用して政府の問題点を報道をしていたというのです。社会党と同じことを言うわけにはいかないので、そこは新聞社の見解として整えてから主張していたのでしょう。当時国民の半分弱を占めていた革新派の強い需要にこたえやすい記事のトーンになっていたともいえるかもしれません。

そう考えていくと、55年体制は政党間の問題だけでなく、マスコミも含めた大きな体制であったようです。賛成勢力も否定勢力も織り込み済みの、一つの大きな枠の中に納まった形になっていたといえるのかもしれません。そうだとすると内部に対立を抱えた高度の秩序、体制が築かれていたことになります。基本となる体制があって、それに反発する人たちの受け皿もちゃんとあって、衝突しながらもそれなりに秩序を形成し、維持し続けていたということです。マスコミもそれに貢献していたということのようです。

ところが、昭和の後期から社会党が衰退をはじめ、自民党もまた力を失い始め、象徴的には社会党党首が首相となるという出来事が起き、色々な意味で55年体制は終了しました。困ったのはリベラル系新聞社だったと彼は言います。社会党政権下では、社会党の視点で社会党政権を批判しても新聞社の役割を果たせないですから、自民党の視点で現政権を批判することがリベラルだと考えたり、また自民党が政権を取ったらそれを批判しなくてはならないということになり、民主党が政権を取ればまた自民党の視点で民主党政権を批判するということが起こり、そんなことが続いている中で、特にリベラル系マスコミの「報道の視点
」が定まらなくなり、苦労しているとその記者は言っていました。

彼の話が本当だとすると、報道は是々非々とか論理で行うものではなく、政治対立の構図を反映した土台のあやふやな視点で行っていたということになってしまいます。

だから、かつてのリベラル系マスコミは、たまたま与党が長期政権を維持しているので、与党批判を展開することができていたのですが、その視点が定まらないのだと思います。本当は保守なのに野党ということで55年体制よろしくその政党をリベラルという枠にはめてその視点に立ってみたり、革新を標榜する少数政党の視点を取り入れたりしていますが、根本的にどの視点に立つかについては定まっておらず、その時その時でずれたり歪んだりしていると考えるとわかりやすいのではないでしょうか。

そうすると、本来は国政や都政批判の場面であるのに、人的つながりで、リベラルということにしている野党や革新少数派政党とつながりがあると、それだけで反射的に擁護してしまうという方向になることはわかりやすいのではないでしょうか。

これに対して、従来から保守派の新聞だと言われている新聞社は、昔から野党の視点など利用していませんからスタンスも変わりません。また、面白いことにタブロイド版という過激な政権批判を身上とする夕刊紙も彼らなりの是々非々の視点を貫いており、本件の問題について公平に扱っているようです。

但し、私は、リベラル的色彩があるから擁護するというのは、末端の記者レベルではその通りかもしれませんが、マスコミの上層部、意思決定機関ではそうではないのではないかという疑念を持っています。

つまり、今話題になっているのは東京都の委託事業にまつわる委託金の支出の是非なのですが、受託事業者がリベラルの色彩があるのでリベラル系が擁護しているように見えています。しかしこの事件の本質は、東京都や国がそのような支出をしている是非と、受託業者を選定した経緯、事業の企画そのものに対する疑惑であり、中心は東京都や国の問題なのです。これだけの公金を動かすのは野党の力ではなく、国や都という国家的規模の「意思」が動いているはずです。その意思主体の思惑と、リベラル的色彩のある受託業者たちが結託して(あるいは利用されて)まさに55年体制のような蜜月の深い闇があるのではないかという疑念なのです。

その記者の説明による55年体制の枠の中で果たしてきたマスコミの役割を考えると、深い闇を隠そうとすることはむしろ自然なことです。また、野党時代の自民党の視点で取材していた記者は人的つながりができるでしょうから、本質的批判ができなくなることも想定していなければならないと思います。

受託業者を擁護することは、出来事を事件化しないという効果を生みます。事件化をしなければ深い闇を暴かないことに直結します。これがリベラル系マスコミ上層部の思惑だとしても、今更特に驚きません。そして、リベラルに対する攻撃だという筋書きは、ポリシーをもって入社してきたリベラルマスコミの記者は反射的に受け入れてしまうことかもしれません。「リベラルの視点」どころか「組織の論理」で取材して記事にしている記者もいるくらいです。

ただ、現在事件は訴訟案件にまでなってしまいました。東京都の「論理」は、入り口で裁判所からはねられているようです。都知事は国の事業を実質的に委任されて行っているという趣旨の発言を繰り返ししています。それでも、実際に委託事業費の管理を行わなかったのは東京都の問題です。このままいけば、敗訴となり資金の返還義務が判決で命じられる流れになっています。知事や都の幹部にとって打撃になることはもちろんですが、受託業者を擁護して、実質東京都をかばったリベラル系マスコミにこそ大打撃になるはずです。

ただ、深い闇自体はこの裁判からは明らかにはならないでしょう。可能性があるとすれば、どうして東京都がずさんな委託をしたかということを東京都自ら暴露する場合ということになります。おそらく、それは無いと思います。

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少年、少女よ、大志を抱くな 立派になることよりもまっとうに生きることに価値を置くということ(そこまで考えていなかった3 完結) [進化心理学、生理学、対人関係学]



迷惑動画をアップする人や闇バイトに応じる人たちの具体例を見た範囲では、彼らは、必ずしも生活ができないほどの貧困に苦しんでいるというわけではないようです。どちらかというと、なりたい自分、思い描く自分になることをあきらめてしまい、その結果、自分を大切にできなくなり、自分の将来を考えての現在という見通しを持つことができなくなっているようです。

結論はそれでよいのでしょうが、時系列的に、一度なりたい自分の夢を見た⇒なれないと判断した⇒あきらめた。という流れではないようです。夢を見ることができない、願望を持つことができない、将来を考えないようにしようと無意識に将来の自分を考えることに蓋をしているようなそんな感覚を受けてしまいます。

内心の心の動きを読み解こうとして見ると、「立派な自分になることが世間的にプラスの価値だと思っている。自分には何も立派になる要素がない。だから、将来の夢など見ることができない。自分は価値の高くない人間だ。将来を考えることをしたくない」という流れのようなのです。

「そこまで考えていなかった」というようりも
将来のことを考えることが怖くてできなかったということが正解なのかもしれません。

もし、この心配が当たっていたならば、それは間違っているということを言いたいわけです。

人間の価値観があまりにも偏っているということです。この「立派な人間」というのは、どうやら社会的評価が高い人間、世間から注目を浴びる人間というように考えられているようです。職業的に評価されるとか、評価される職業に就くとか、財産を築くとか、そういうことのようです。

元々日本人は、そんなものにそれほど価値を感じていなかったと思います。そんなものとは名声とか、社会的地位、社会的評価、あるいは経済的成功についてです。明治より前の時代では、人口の圧倒的多数が農業従事者で、自分の集落を中心として生きていました。農業を行うにあたって必要な能力がある人が便利がられて、それなりに評価されたと言ってもそれだけのことです。

都市部の商工業従事者であっても、一発当てて地位と財産を築こうとしている人がどれだけいたことでしょう。いたとしてもごくごく例外で、変人扱いされていたと思われます。
人物評価の物差しとなったのは、「まっとうに生きているか」ということに尽きていたと思います。つまり、酒やばくちにおぼれていないか、荒っぽい行動をしていないか、人のものを盗んだりしていないか、返せない借金をしていないか、能力に応じて勤勉に働いているか、浮気などをしないで家族を大切にしているかというそういうことが評価の対象だったわけです。

ごくごく例外を除いて、日本人の圧倒的多数は、大志を抱いて社会の注目を浴びる人間になるなんてことはおよそ希望とはなっていなかったはずです。

今言いたいのは、その頃と現在とどちらが人間にとって正しいのか、どちらが人権が尊重され、個人として尊重されているかという比較ではありません。
 現代の価値観は、自然なことではなく、作り出されたものであること、そして、そのような価値観を持たないことこそが多様性の意味であるということをいいたいことと、まっとうに生きるということにもっと大きな価値評価を与えるべきだということなのです。

作り出されたと言いましたが、それは二つの理由があります。
一つは、戦争を遂行するための明治政府のイデオロギー政策として意図的に作り出されたこと、
一つは、文明が情報流通を促進したことにより、ほぼ無関係の人に対して近しく感じる傾向が生まれたことです。

戦争遂行のイデオロギーというのは、明治時代の前までの集落中心主義の日本人の意識では、日本という国の利益のための他国の見ず知らずの人を殺す戦争に積極的に参加しようとする雰囲気が生まれないため、兵隊が質量ともに不十分のままであり、およそ外国との戦争ができないという現実を背景としています。

このため明治政府は、かなり早い段階から、尋常小学校を整備しながら、「勧善懲悪」と「立身出世」に価値があるということを国民に徹底して刷り込んでいきました。お国のために命を捨てるというのはかなり末期の段階です。また、その考えのベースになったのも、この勧善懲悪と立身出世の刷り込みです。簡単に言えば、桃太郎のように悪を倒して名声と財産を手に入れようとあおったわけです。

二宮金次郎の銅像が学校に建てられたのも、農業従事者であっても勉学に励むことで立身出世が可能になるというサクセスストーリーの象徴を刷り込むためです。

立身出世には競争原理が伴います。立身出世に価値があるという考えが浸透していることは、競争で勝ち抜いたものが栄光を勝ち取るということに疑いを抱く人はあまりいないことでよくわかると思います。

戦争準備というのは、こうやって国民の意識を変えるところから準備をすることなのです。こういう肝心なことに目を向けずに戦争反対とか言い続けることは疑問です。その結果、戦争反対と言っていながら、ロシアの侵攻には国際的な社会制裁をしろというのでは、勧善懲悪による戦争遂行の手前まで国民を手繰り寄せることになるように感じるのですがどうでしょう。

また、新聞やラジオ等情報が質量ともに向上していくと、全く知り合いでも何でもない人に、親近感を抱いたり、尊敬心を抱いたり、敵意や嫌悪感を抱いたりしてしまいます。なんとなく、日本というくくりで語られると、「自分たち」の利益ということで考えてしまい、その中で自分ができることは何か等という発想でものを考えるようになったと思います。

戦後もこの傾向は反省なく進められました。子どもには大志を抱かせようと、偉人の伝記などが子どもに与えられます。あたかも誰でもが学者や発明王になり、誰でもがスポーツや芸能の大スターになるかのような希望を強制的に与えられ続けました。

しかし、伝記などに登場してくる人たちの実生活上の問題点については子どもたちに何も知らされません。このため、普通の人たちが普通に努力すれば社会的な成果を上げることができるように宣伝されてきたのだと思います。

情報については、現在インターネットの普及によってますます無関係の人と関係があるかのような錯覚を与えられます。全く接点のない人からの自分の評価を気にしてしまい、落ち込んだり、不機嫌になったりしているわけです。自分が誰かから見られているのではない、自分が社会的に注目されるような存在でないとして低評価を受けているのではないかとイライラするわけです。そして自分の低評価を感じなくするために、誰かを攻撃して、誰かの評価が低下したことで安心したりすることもあるのではないでしょうか。

現代社会は、あらゆるところでインターネットを使ってのつながりを作ることを利益誘導などで半ば強制されているような、誘導されているような感があります。弊害については十分に考えられているようには思われません。

但し、情報、文明については、後戻りをすることは現実的ではないようです。それならば、別の価値観を意識的に導入していく必要があるようです。
それがまっとうに生きるということです。まっとうに生きることに伴う道徳が、競争原理の価値観の中で、日本人には細々とではあるものの受け継がれていると思います。この水脈が枯れないように、水路を作って水を流すという作業が必要なのではないかとふと思いついたのです。

大志を抱いて社会的評価を受けたり、財産的成功を収めることよりも、まっとうに生きることに社会的価値を置くべきだという考えです。

実は、これを言ったのが、クラーク博士です。少年よ野心家であれと言ったすぐそのあとで、名声や財産を追及するなと厳しく戒めています。まっとうに生きながら、自分の目標を名声や財産と関係なく一つのことに打ち込めということのようです。自分を評価するのは自分であり、国家や社会や他人の価値観に照らして評価するのではないということらしいのです。時は明治時代ですから、キャッチ―な最初の部分だけが都合よく喧伝されたのでしょう。

イデオロギー政策や文明という、無自覚に自分の考えに影響を与えることから自由になることはなかなかできません。ただ、今若者を苦しめているものの正体を見極めてその対極の価値観を提示することは私たち老年者の役割ではないでしょうか。自分のできることをやることを喜びながら行い、自分自身に対して他人の目を気にしないで挑戦し続けるということは、若者だけの問題ではなく、私たち老年者も生きていくために必要なことだと思います。それによって楽しく生きていけるならそれに越したことはありません。挑戦することに喜びを見出し、失敗してもまたやり直すなら楽しいだけだと思います。

若者が劣化した等という言葉を聞くことがありますが、それは20世紀に子どもだった者が恵まれていただけであると思います。20世紀に子どもだった者たちは21世紀の明るい未来を思い描くことができたという幸運に恵まれていました。それは、私たちが子どもの頃の大人たちが作ってくれたことなのだと思います。





児玉雨子「46億年LOVE」より

夢に見てた自分じゃなくても
まっとうに暮らしていく いまどき

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闇バイトに応じる背景 「そこまで考えていなかった」その2 [進化心理学、生理学、対人関係学]



銀行強盗だったり、殺人だったり、オレオレ詐欺であったり、インターネットのアルバイト募集に若者が気軽に応じてしまい、大事件の犯人として刑罰を受けるという報道を目にするようになりました。

色々な意味で、よくわからないことがあります。応募する方であっても、見ず知らずの人間を採用してしまうことによって、事前に情報が漏れてしまうリスクもあるはずなのですが、これまではそのような事前情報によって事件が未然に防がれたという話は聞いたことがありません。

一つにはマニュアル等によって、様々な不具合が無いようにシステムが整備されてしまっているのでしょう。もう一つは、アルバイトを遂行して現実の報酬を得たいという切実な意識の高い人が応募してしまうということが理由なのかもしれません。

それでも、強盗にしろオレオレ詐欺にしろ、被害者の被害は甚大で経済的問題にとどまらず、精神的にも取り返しのつかないことになることがあるのですが、そのように他人を苦しめることによって、闇バイトの応募を思いとどまることは無いのでしょうか。

自分自身も、見つかれば逮捕されて実名がさらされてしまい、将来の働き口は制限されてしまうでしょうし、評判は消えない恐れもあります。自分の人生にとって取り返しのつかないことになることは、想定しないのでしょうか。

私の弁護経験からすると、前回の記事と同様
1 切実なお金の取得の必要性があり、
2 アルバイトを行って、報酬をもらうということは考えていても
  被害者の被害や警察に捕まるということまで考えていなかった
ということがどうやら実態のようです。うすうす警察に捕まることを考える人もいるのですが、リアルには考えないようです。だから捕まると困るからやめようというくらいまでは考えが及んでいないようです。

問題は、なぜそこまで考えないのかということなんです。

極端な話、仮に警察に逮捕され、刑務所に行くことになっても、現状よりもそれほど悪くはならないのではないかというあきらめがある場合があります。

闇バイトの事件ではないのですが、無銭飲食の常習者の弁護をしたことがあるのですが、70歳近い人で、刑務所から出て何日かで、ホステスが接客するバーで豪遊して、お金が無かったということで再び刑務所に行くことになった人がいました。外で生活する自信がなく、刑務所に戻りたいという節があるように感じられました。

とはいえ、彼らはもちろん刑務所に行きたいわけではないのです。刑務所が住みやすいところだとはだれの口からも聞いたことはありません。それでも現実社会や人間関係の苦しさや不自由さを感じ続けていると、そこまで日常のストレスを感じていない通常の日常を送っている人と比較した場合は、刑務所に入る抵抗感は「相対的に」だいぶ低くなるようです。

おそらく、「犯罪をしない」、「不道徳な行為をしない」、「他人を苦しめない」とか、自分自身が困ることをしないように気に掛けることのできる人は、将来的な自分の像を思い描いたり、目標を持つことができる人なのかもしれません。将来的な自分を思い描くと、不安や絶望しかない人は、自分が障害をくぐり抜けて生きるということが一番の関心事になってしまい、社会や他人のことなどが自分の行動原理に影響を与えることが少なくなるのかもしれません。特に自分の行う犯罪や不道徳な行為によって具体的に被害を受ける人の顔がわからない時は、その人の被害に思いをはせることが無くなる傾向にあるように感じています。

もしかしたら、社会、他人は、自分を守る存在ではなく、自分を苦しめる存在だと感じていたなら、社会を敵に回す行為と言っても、元々が敵であり、自分を苦しめているのだから、これ以上悪くなることを考えようとしなくなるのかもしれません。

こういうことを言うと、「じゃあ社会が悪いのであって闇バイトをする奴は悪くないというのか」と言う人がいますが、次元の違う話です。犯罪を行ったものは、適正に処罰されればよいだけの話です。私が考えたいのは、被害者を増やさないためにはどうしたらよいか、闇バイトみたいな安易な方法で犯罪を行う集団が簡単に結成されてはいけないということです。

もう一つ深く掘り下げたとするならば、彼らは何に絶望しているのかということです。彼らは何を思い描き、自分の在り方としての最低ラインがどこにあり、何を大切にしようとして、それができないと言って絶望するのか。この点について現在考えを進めているところです。

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迷惑動画はなぜアップされるのか 「そこまで考えていなかった」その1 [進化心理学、生理学、対人関係学]



飲食店などの迷惑動画やいじめや虐待の動画がアップされることがあります。そして案の定、警察沙汰になるわけです。どうして自分の恥を世間にさらして、再起不能にさえなりかねない動画をアップするのだろうと不思議になります。
<つまり>
1)どうして恥ずかしくないのだろうか。
2)どうして他人が苦しむことをしてしまうのか
3)後で自分の不利益になることを心配しないのだろうか。
という3点の疑問です。

例外的な変わり者がアップしているのであって、そうそうあんな動画をアップする人はいないだろうなんて考えていると、同じような動画がアップされて逮捕されたなどのニュースが飛び込んできます。例外的な話ではなく、ことによると社会現象となりつつあると考えるべきかもしれません。疑問について考えてみましょう。

一言で言えば、彼ら、彼女らは、自分が社会的な評価を受けたいという希望があるのだと思います。

通常我々は社会的評価を受けたいというと、何かを成し遂げて称賛を浴びたい等自分の実績に対するプラスの評価を受けたいということを意味すると考えます。これは彼らも彼らなりにプラスの評価を受けたいという気持ちもあるのでしょうが、それ以上にある意味純粋に「社会から自分の存在を認識してもらいたい」という気持ちがあるのだと感じます。

評価の物差しは、彼らにとってはあくまでも再生回数のようです。一度再生回数を気にしだすと、再生回数を増やすことだけが目的となってしまいます。再生回数が増えればアップした動画に対する批判のコメントも来るでしょうが、どうやらコメントの数が増えることで手ごたえを感じていて、アンチのコメントもそれほど苦にならない人も多いようです。

このように物差しが一つになってしまうという現象はよくあることです。視野が狭くなるという言い方をすることが多いです。もしかしたら「依存」という概念と近いのかもしれません。おそらくいつもは自分の動画は多くの人からは相手にされない状態なのに、不道徳なこと、気持ちの悪いこと、犯罪まがいのことをすれば、多くの人が再生してくれる。そうするとこれをもう少し過激にやれば、もっと多くの人が自分の動画に注目するようになるという意識でより過激な動画を上げ、思った通り再生回数が増えることに恍惚感を覚えるようです。

では、どうして、そんなに大勢の人から自分の存在を認識してもらいたいと思うのでしょうか。

どうやら人間は、自分が関わっている人間から仲間であると思われたいという意識が働くようです。仲間であると思われたいということは仲間として尊重してもらいたい、無視されたくないという気持ちと考えて良いでしょう。

迷惑動画を上げる人たちは、自分のスマホの向こう側にいる人たちであるネットユーザーが、自分とかかわっている人間だと思ってしまっているのだと思います。ネットユーザーといっても、単にインターネット端末を操作する人という共通点しかありません。どこの誰かもわからないし、性別も年齢も考え方も性格もまるっきりわからないのです。また、それらの人から一時的に関心を向けられたところで、通常は何の得もないはずです。自分が困っているときに助けてくれるわけではありません。ただ再生をして、評価をする人はして、コメントをする人はするだけです。ネットユーザーがどういう思いで再生しているのか、興味があるのかないのか、感心しているのか馬鹿にしているのか、まるっきりわかりません。多くは暇つぶしで何となく見ているのだとは思います。

それでも自分が多くの人間から注目をされているという感覚があり、それが再生回数という数字で表れてくると、どうも人間はその数字を挙げることが自己目的化してしまい、数字をあげさえすればどんなことをしても良いというように考えてしまう生き物のようです。テレビ局で言えば視聴率ですし、新聞などであれば発行部数でしょう。企業も利潤を追求することが目的の団体ではありますが、利潤の幅が意味を失ってとにかく数字を上げるという目標になってしまっている場合があるのではないでしょうか。数字の物差しのために、なりふり構わないということは何も今に始まったことではないのかもしれません。

物差しが再生回数一つしかないということは、その他の恥ずかしいからやめようとか道義的問題があるからやめようとか、犯罪になるからやめようとか、自分の就職がだめになるからやめようとか、別の物差しが入ってこなくなるということです。数字以外のことについて、考えた上で、それでも良いやとして動画をアップしているというわけではなく、そのことまで考えが及んでいないということがリアルなようです。

誰かが不愉快な気持ちになるとか、誰かが経済的にも迷惑を受けるとか、それによって誰かが解雇されるとかという他人の将来を考えないだけでなく、自分の就職が無くなるとか、警察に逮捕されるとか、莫大な損害賠償を支払わなければならなくなるという、そういう自分自身の先のことまで考えられなくなる心理状態のようなのです。

だから彼らは注目されたいという自分本位で他人に迷惑をかけているというよりも、どちらかというと数字の魔力の奴隷になっているようなそういう状態です。

どうしてまっとうに生きることで人間としての喜びを感じることができないのか、どうして見ず知らずのわけのわからない人から注目浴びたくなるのか、そこに何があるのかの分析についてはこのシリーズの最後(3回目かなあ)に私なりの考えを述べたいと思います。

それはそうと「人間として」道義的に許されないことをしたという評価も正しいですが、自分が逮捕されるかもしれないという警戒ができなくなるということは、「生物として」深刻なことなのではないでしょうか。

どうやら最近の若者の傾向としてあるようなのです。自分の思い描く将来像というものを持てない若者がいるようです。社会的に活躍することが善だと思い込まされているけれど、その機会を与えられないと感じているようです。社会的に名声を得たり、経済的に成功しなければなることが価値があることだけど、それができない自分に価値を見失っているという痛ましい状態があるようです。社会を知る年齢になると、夢を見られなくなるということがあるようです。今から10年までの小学生の会話で、将来の夢は社会保険が付いた正社員になることといいあっていることは目撃したのですが、それがさらに深刻化しているようです。それはそうでしょう。好転するような社会事情は何もないように思われます。

私の考えたことのとおりならば、どれほど逮捕者が出ても、どれほど就職や進学が不意になっても迷惑動画のアップは減らないことになる気がします。もっと過激化が進む前に対策を立てる必要性があると考えます。厳罰化は因果応報は良いとしても、防止策としてはあまり役に立たないと思っています。

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弁護士が行う夫婦関係(人間関係)修復の業務 家族を暖める方法 (カウンセリングの話シリーズ5というか最終) [家事]



1 家族保護、崩壊予防の働きかけの必要性

現代日本では、核家族化や家族の孤立化等の理由で、家族を維持していくノウハウや支援が継承されず、また分断する方向で家族の不具合を解決しようとする大きな力もあり、家族分断の悲劇が後を絶ちません。

先日も離婚調停中のご夫婦の家からの荷物の引き上げに立ち会ったのですが、私の依頼者も相手方も、様子が良く、良いところもたくさんあり、それがかみ合っていた時期はそれは幸せだったろうなとふと思ってしまいました。その時機がありながら歯車がかみ合わなくなるタイミングがあり、それは当事者にはどうしようもないことだったりして、それでも心が離れ始めると悪循環が始まってしまい、どうしようもなく別居、離婚に至ることが一般的ではないでしょうか。

結婚をするということはエネルギーが必要なことかもしれません。二人が悪意が無いのに別離に至るということはそれ以上にエネルギーを消耗してしまうことかもしれません。特に男性側が、消耗の度合いが高くなる場合があると感じています。これは弁護士同士の話でも一般に言われていることです。

精神的消耗のために精神科受診ができればまだ良い方です。何ら手当をしないまま、わけのわからない不幸感覚に見舞われて、気力がわかなくなり、離婚の後もそのことばかり考えて仕事もうまくいかなくなり、人生から色が失われた人は大勢います。自死をする人も少なくありません。本当はもっと活躍できたはずなのに、離婚を契機としてせっかくの才能が生かされないまま埋もれてしまう事例もよく見てきました。

とにかく、別居、離婚の事例の圧倒的多数の事例で、同居中は改善の要求や不満などの話が出ていないので突如別居が起きることが多いので、離婚要求を突き付けられた側は何が原因だったのか全く理解できずに途方に暮れるようです。

別居や離婚の子どもたちに対する影響も大きいです。一方の親から別居によって引き離されて、ほどなく精神症状が出る場合が結構あります。医師は、子どもと別居している親に対する恐怖から出ているという診断書を書くこともあります。しかし、同居中は精神症状が出ないで別居後に出ているのですから、端的に会えなくなったことによる精神不安だとするべきだと思うのですが、そのように親をいさめる医師はいないのかもしれません。

要するに
人が思う以上に、実は別居、離婚は重大な理由が無くても起きる

人が思う以上に、別居、離婚は、当事者や子どもに対して取り返しがつかないほど精神的ダメージが大きい

ということです。

2 家族の維持、幸せの維持は意識的に大人は全員参加で行うべき

家族が崩壊する要素が現代社会では多い
家族が崩壊すると関係者のダメージが大きい

ということは、崩壊を予防することが大切ですし
の予防を意識的に行う必要があるということです。

ただ、崩壊予防とか夫婦の義務とかいうと、しんどくなるイメージがあります。しかし実際の作業は、気づきや工夫によって幸せを維持していくということですから、行動をするたびに喜びを感じる楽しい作業になるはずです。

また、おそらく有史以前から人間はそうやって群れを楽しいものにする工夫をして生きていたはずなのです。その意味でも、実際は人間らしい当たり前の行動をするだけだと思っています。

しかし、これは一人だけが頑張ってもなかなかうまくいきません。
でも、お互いに家族を守ろう、楽しく幸せに生きようという気持ちがあれば、それほど難しいことではないとも考えています。

3 弁護士が行う家族を暖めるための素材

家族の誰かの不具合を家族の在り方を見直す形で行うといえばカウンセリングを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。この種のカウンセリングには心理学の家族療法や、カップルカウンセリングがあります。
弁護士が行うことは、このようなカウンセリングではありません。誰かを治療しようという視点は初めからないわけです。

弁護士が武器にするべきは、自分が取り扱った家族事件の実例から学んだこととが一番の武器で、事件を解決するために学んだこと、統計や心理学等様々な研究結果も武器になると思います。

ただ、事件についても、表面的な言葉をそのままうのみにしていたのではうまくゆきません。相手方が本当に言いたかったことは何かとか、状況、特にどういう経緯の中で問題が生じたのかということを丹念に検討する必要があります。ただ、事件をこなしていても何も見えてこないと思います。一番は、自分の依頼者と時間をかけて話し合ってその真意を共有したことが大きな財産になると感じています。事件を担当する場合もカウンセリングの手法はとても大切です。

カウンセリングの手法で言えば、もう一つ重要なことがあります。弁護士は、知らない家庭のことについてあれこれ指図するような能力まではありません。あくまでも考える素材を提供して、現状、現状を変える方法等について選択肢を提起すること、当事者ならではの感情的なこだわりを排除して、冷静にメリットデメリットを提示していくという方法になると思います。あくまでも何をするのかを決定して実践するのは当事者の方々です。

弁護士は、相談の中で出てきたポイントについて、これまでの事例からそれは相手方にとって大きな打撃を与えることになったということを述べたり、何をすることで相手は安心したかとか、再生ができた人が頑張ったポイントとか具体的に今日からできることを提示していくことになります。そうして、当事者の方々が本当は気が付いているその人たちにフィットした解決策を引き出していくということが仕事の内容となると思います。

4 弁護士関与の形式

弁護士の仕事ですから、形式的には夫婦のどちらかからの依頼という形を取ります。夫婦問題の話し合いのどちらかの代理人となるわけです。これは既に別居が始まっている場合も、同居しているけれど何かひと工夫が必要だと思っている場合でも同じです。

だから、相手が協力的である場合もあれば、相手が同じ土俵に立たない場合もあると思います。相手が同じ土俵に立たない場合は夫婦の一方からの相談を受けて、色々と打開策の相談に乗るという形になります。今の相談類型は圧倒的に相手が同じ土俵に立たない場合です。この場合は相談だけでなく交渉の委任を受けることもあります。

これから意識して増やしていくべきだと思うのは「相手が一緒に夫婦の在り方について考えるという場合」です。この場合は、一方との下打ち合わせをしたうえで、夫婦ご一緒に事務所においでいただき話し合いをします。このような形態は夫婦問題では少ないですが、これまでも私の業務の中でなかったわけではありません。また、会社関係では結構これに類似した活動はしています。

この場合でも、一方の利益のために他方に損害を与えようとしているわけではなく、二人の関係が良くなることで二人とも幸せになるとか幸せを維持するということに目標を立てなければなりません。

一方の意見や事実についての見方だけではなく、他方の意見や事実についての見方を得て、弁護士なりに事実関係を把握します。二人の意見に対立がある場合、どちらが正しいのかということを検討するより、どうして対立しているのかということを考えるほうが建設的です。事実に対する見方が立場によって全く異なることはよくあることです。大事なことはそれぞれがどういうところを大切にして生きているかということを相互に理解することだと思います。

どちらが優位か、正しいかではなく、双方が安心して暮らすためにはどうしたらよいかということになります。

さらに話が進んでいけば、夫婦に問題があるのではなく、夫婦の一方が健康上の問題を抱えていたり、職場での人間関係の悪化があったりという場合が出てくると思います。その場合にどうやって夫婦が協力して問題を解決するかという話し合いに発展していくことになります。案外夫婦関係が悪化するのは、当事者外に事情があって、当事者がその事情を解決できずに夫婦関係に影響が出る場合が多いように感じています。

夫婦問題から見ると二次的問題となりますが、ここも弁護士が関与するにふさわしい場合が実際は多いのです。特に職場のストレスが家庭に与える負の影響が大きいということは労災の問題を担当しても、家族の問題を担当しても常に感じることが多いです。

5 費用
費用については、現状は法律相談として行いますので、基本的に30分当たり5500円(税込み)です。10分程度の時間オーバーは加算しないということも通常の法律相談のとおりです。但し、別居などがあって、相手方と交渉をすることが必要な場合は、通常の交渉案件になりますので、交渉案件としての料金となります。

1回目は相談という形になります。その後も何らかの継続的関与をご依頼される場合は、1回ごと30分5千円というのは高額になってしまいますので、ご相談を承ります。事務所においでいただいてのご相談から、メールや電話でのやり取りともなることが予想されますので、合理的に進めていきたいと思います。

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カウンセリング技術を弁護士技術に応用する 相談者の何を理解するのか、どう理解するのか、行うべき共感とはどういうものか(「カウンセリングの話」シリーズ4) [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 準拠枠(本当に言いたいこと)

カウンセリングは相手の本当に言いたいことを理解することから始まるそうです。しかし、他者の相談を受ける場合に、何が本当に言いたいことかを理解することはとても難しいことです。

相手の本当に言いたいことを理解することが難しくなる理由はいくつかあります。

ミスリードの理由の1は、相手の使う言葉の意味が自分の使う言葉の意味と同じではないということです。「悲しい」、「痛い」、「おかしい」という基本的な言葉であっても、相手の使っている内容と自分が使っている内容とは厳密に言えばだいぶ違うことがあります。

それにもかかわらず、相手の言葉と自分の言葉の字面が同じだからといって、相手は自分が使う言葉の意味で使っているのだと考えてしまうことは早とちりになってしまいます。

だから言葉だけをうのみにせずに、様々な話を聞きながら相手が本当に言いたいことをすり合わせていく作業が第一に必要ということになります。

例えば相手が、誰かを「怖い」とか「憎い」とか言っても、その言葉を発するに至った経緯を丹念に聴いていくと、実は相手が好きで好きでたまらないのに、相手が自分に対して十分に配慮してくれない、それを本人は自覚しておらず、焦燥感や失望という経緯の結果である感情表現だけをうのみにしてしまい、相手との決別、相手への報復が必要だと考えてしまい。本当に言いたいことと逆方向の行為を勧めたりしてしまうわけです。

私は、裁判を引き受けるにあたって、依頼される方と本当は何を望んでいるのかということを徹底的に話し合い、理解するために質問をして、あるいは場合分けをして、きっちりと文字で目標を確認することが多いです。

本当に言いたいことは何か、それはその出来事があった時言いたかったこと、現在私と対面して言いたいこと、そして私が仕事をした後の将来においてもその言いたいことを維持してよいのか、あるいはその行動をしたことで取り返しのつかない事態にならないかということまで含めて、特に裁判のご依頼を受ける場合は検討する必要があると思っています。

また、そのような目標に限らず依頼者が本当に言いたいことを、こちらも理解しないと、結局相手方にも裁判官にも伝わりません。つまり仕事にならないわけです。本当に言いたいことを最初に吟味することは弁護士においてもとても重要なことになることが多いです。

また、そのためには、紛争に至る経過表を相談者、依頼者に作成していただきます。何年何月何日のことかということよりも、物が起きた順番を間違いなく並べることが大切です。

これはカウンセリングにおいては、紛争(結実因子)に至る準備段階でどのようなことがあったか、紛争はどのようにして結実したかを理解するために重要です。この点を理解すると柔軟で迅速な解決にもつながります。カウンセリングにおいてはこの準備段階よりさらにさかのぼって、本人の素質まで考慮するようですが、弁護士の場合はそこまで立ち入る必要はないですし、自分に立ち入る能力があるか警戒をするべきだと思います。

こういったことが、平木先生の本では「カウンセリング理論の前提」として論じられています。

そして、「カウンセリング理論」が説明されているのですが、弁護士はカウンセリングをするわけではありませんので、あまり関係が無いので、省略して次に書かれている「カウンセラーの資格と訓練」の話に飛び移ることにします。

2 共感、ありのままの自分、受容

平木先生は、ロジャーズの「カウンセリングに必要にして十分な3条件」について説明されています。これは弁護士業務においてもとても参考になります。

①が共感的理解です。なかなか説明にご苦労されています。頭で相手に理解することでもなく、相手に取り込まれて理解するでもない等という説明があります。例えばどういうことだということであれば多少わかりやすいのですが、そのたとえはわかるけれど、結局どういうことか難しいところです。

少し平木先生のご説明とは離れるかもしれませんが、ここは2年前にこのブログで書いたボールブルームの反共感論を参考にした方が早いと思います。

<私のブログ記事引用開始>
共感には二種類あるというので。
「情動的共感」と「認知的共感」です。

情動的共感とは
その人が感じているであろう感覚を「追体験」してその人のために何かをしようとする感覚です。
認知的共感とは、
「他者が何を考えているのか、何がその人を怒らせたのか、他者が何を快く感じるのか、その人にとって何が恥辱的で何が誇らしいのかを理解する能力」
としています。

そして、
「他者の快や苦を自分でも感じようと努めている自分に気づいたら、その行為はやめるべきだ。その種の共感力の行使は、時に満足を与えることもあるが、ものごとを改善する手段としては不適切であり、誤った判断や悪い結果を生みやすい。それよりも距離を置いた思いやりや親切心に依拠しつつ、理性の力や費用対効果分析を行使したほうがはるかによい。」と結論付けています。
<私のブログ記事引用終わり>

認知的共感をすべきだということですが、その人の背景を良く考察した上で、自分が同じ準備段階を経てその人と同じことを経験したらどのように感じ、何を言いたいかということを考えるということだと思います。

ロジャーズのカウンセリングに必要にして十分な3条件の②は自己同一性です。人間はともすると、現実の自分ではなく理想の自分としてふるまいたかったり、理想の自分とのギャップに悩んだりするわけです。まずカウンセラーは、ありのままの自分としてクライアントと向き合うべきだということになります。そして、クライアントの二つの自分の不一致も認めていくことが大切なのかもしれません。

3条件の③は人間の尊厳に対する気持ち、クライアントに対する尊重、受容、配慮の気持ちを持つことです。これが無ければカウンセラーはクライアントを自分の思い通りに動かしたくなるそうです。

弁護士の仕事をしていて思い当たることがあります。私のところに、夫に対する不満を相談に来られた方がいました。その方は私のところに来る前に、弁護士やカウンセラーに何人か相談したそうです。そうしたら、全員が全員離婚を勧めたそうです。私と会って、ようやく離婚を勧めない人と相談できたとホッとされていました。そりゃあそうです。その人は夫婦関係を良くしたいということで相談をしていたわけですから、離婚を勧めるというのは私には理解できません。

おそらく、自分の得意分野で仕事をしようという考えの人ばかりだったのだと思います。これは、相談者の尊厳に対する配慮が無くなってしまっていることで、相手の人生に対しての畏敬の念が全く感じられません。大変恐ろしく感じました。

そして3のクライアントを尊重、尊敬、ありのままを受容するためには、カウンセラーは自分自身を好きになることが必要だというのです。自分自身を好きになるということも、それがどういうことか私にはよくわからないところもあります。ただ、自分の仕事を好きでやっているということがその回答の一つかなという気がします。仕事は好きではないけれどお金のためにやっているというのでは、お金の取れる方法で、無難な方法で仕事をしようと思ってしまうかもしれません。人の役に立っているということが好きだという形での仕事が、仕事として理想なのかもしれません。

相談が必要な方と接する場合の心構えとして、平木先生の「カウンセリングの話」は何度も読み直すべきです。その時の自分のスキルの程度に合わせて理解が変わるし、さらなる高みを目指すことができるようになります。ただ、カウンセラーや臨床心理士と弁護士の仕事は違うし、方向性も異なるということはきちんと前提として理解しなければなりません。弁護士は依頼者の心理状態を修正するのではなく、依頼者の相手のある仕事なのだということを忘れてはならないと思います。また、その相手にも尊厳があり、人権があるということが後景に追いやられたのでは「弁護士としての」仕事にならないと思っています。

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カウンセリング技術と弁護技術の融合 ロジャーズの「来談者中心療法」(「カウンセリングの話」シリーズ3) [進化心理学、生理学、対人関係学]



ロジャーズの理論が、この本を読んだ時から一貫して感銘を受けている場面です。現在においても異論がありません。むしろ、積極的に弁護士業務に取り入れていくために今回も再確認をしたくらいです。

さて、ロジャーズの理論は、来談者(クライアント)中心療法というもので、カウンセラーがあれこれクライアントに指示を出すことを中心にすることをせずに。クライアントの成長を信じて、その力と決断力を中心に進めるカウンセリングのことを言うのだそうです。

これを理解するためには、この反対の理論を知る必要があるでしょう。それが、精神分析だと平木先生はおっしゃります。精神分析は、「人間は本能の塊である」と考えていて、本能は奔放でコントロールが難しい、だから本能をいかにうまくコントロールして人間にふさわしく発揮をさせていくかを教えなければならないという理論だそうです。

この時期の本能の考え方は、現代と異なります。「本能というのは人間に悪さをするもので、本能に従って物事を行動してはならない、人間は理性的に生きなければならない。」というデカルト的な考え方といえるかもしれません。理性が礼賛されていた時代です。(だからこそ、フロイトの無意識による行動決定は理性の及ばない人間の行動の存在を主張したもので、世界を震撼させたわけです。)しかしこの理性礼賛というか、本能は悪であるという考え方は現在は否定されています。対人関係学の親ともいうべき、アントニオ・ダマシオの「デカルトの誤り」に書かれているように、本能(二次の情動)によって人間は対人関係の中で自分の位置を「考える」より早く「感じ取り」、自分の行動を抑制するという側面があるということでした。

だから、この本能をつかさどる前頭前野腹内側部が欠損すると、ギャンブル的な行動をしたり、他者から顰蹙を買う行動が「できるようになって」しまったりということで、本能(二次の情動)が人間が群れを作るうえで、つまり人間らしく生きるためで重要だということになっています。

また人間の意思決定も、理性をつかって思考の結果結論を出すという思考パターンはそれほど多くなく、ほとんどの行動は無意識の、思考をそれほど使わないバイアスがかかった意思決定をしているという二重意思決定モデルも理性のとらえ方を修正するべき方向に向かう理論ではないでしょうか。

このシリーズのこれまでの記事で述べてきた、人間が対人関係で安定した帰属をしたいという欲求があるということも脳科学や認知学的な裏付けのある話だと私は考えます。

まあ、そのような原理問題にかかわらず、弁護士業務を長年やってきて思うのですが、ロジャーズの来談者中心療法は、弁護士業務においても全く正しいと思い当たることが多くあります。

この来談者中心療法の魅力的な部分は、クライアントは、実は問題の所在をよく知っており、問題をどう解決してどのように生きて行こうかということを真剣に考えて育んでいるととらえ、人間の意思の尊重、本人の意思の開発を中心とするという考えです。そしてカウンセラーは、クライアントの実現しようとする意思が何らかの障害にあたっているために実現していないという現実を踏まえて、その障害を取り除いてクライアント本来の力を解放することが仕事だとしています。だから、カウンセラーが偉いわけでなく、クライアントと同等の立場であり、これなくしてカウンセリングは成り立たない。

こういう話です。そしてこれは弁護士においてもぴったり当てはまるように思うのです。

私はこの部分を、過剰に読み込んでしまっていて、クライアントこそが自分の悩みの解決方法を知っているのだというように誤解をしていました。しかし、それは誤解ではなく結果としてはその読み方でよいと思っています。

弁護士の依頼者や相談者も、全く同じです。問題の所在をよく知っていますし、解決方法も考えています。ただ、他者と紛争中ということで、戦闘モードや逃走モードに入っているために、①思考がうまく働かないという事情があります。さらに②紛争を起こしているというストレスが持続することによって、悲観的な思考に陥ったり、自信を失ったり、あるいは過度に攻撃的になったりしたり、あるいは③解決のための知識がないために、自分が考えた方法が選択肢とならなかったり、選択肢にはあるのに選ばなかったり、実行に踏み出せなかったりという事情があることがほとんどではないでしょうか。

だから弁護士は、その意思の実現の障害を取り除いてゆき、法的手続きを代わって行うことによってクライアントの意思を実現するということを心掛けるべきです。カウンセラーとこの点においては全く一緒ではないかと思うのです。

常々思っているのですが、知識や法的思考ができるのは当然として、弁護士に一番価値があるのは第三者として冷静にものを考えることができることだと思うのです。つまり岡目八目が最大の武器ということになると思っています。

平木先生は本の「はじめに」の部分で、カウンセリングの本質を相手の立場に立って援助することだとおっしゃっています。「相手の立場に立つ」ということの意味は、実はいろいろ議論があることで簡単ではないのですが、一つの意味としては対等の立場に立って、クライアントが何を実現したいのかを考え、そのための方法を提起する、それも選択肢を提起して、あくまでもクライアントが自分で決定するということを大切にしていくことだと思います。

つまり、クライアント、通常の民事事件だけではなく、刑事事件の被疑者、被告人であっても、その人の置かれた広い意味での環境に置かれたら自分も同じようなことをやっていたかもしれないという同じ地平線に立つということが、相手の立場に立つための大前提になると思っています。刑事事件も労災事件も離婚事件もそのような立場に立つことができることによって、良い結果を出しているということを実感しています。

例えば、最近、別居した夫婦や離婚した夫婦の再生の結果が出るようになってきました。もしかすると、最も困難な仕事かもしれません。通常は、どちらかが離婚だと言い出したら離婚を受け入れなければならないという考え方をすると思います。しかし、離婚を受け入れられない方と離婚を申し出る方とどちらとも同じ地平に立ち、それぞれの本当に言いたいこと、こうありたいと思ったことを探求していく中で、依頼者と真剣に話し合い、方針を確立して、励まして、再生の方法というものをある程度確立していくことができました。弁護士の頭であれこれ考えているだけではとてもそんなことはできなかったと思います。クライアントと対等の立場で対等に考えることによって切り開いていっている分野です。


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人間の欲求の階層 マズローの人間観によせて 2種類の欲求の様々な側面ではないかということ(「カウンセリングの話」シリーズ2) [進化心理学、生理学、対人関係学]



前回のY理論に対する疑問より早く疑問が大きくなっていったのがマズローの人間観です。疑問と言っても、マズロー以前はこのようなことを述べる人はいなかったわけですし、大きな功績であり、とても重要な学説であることは待合ありません。要するに、知名度のあるマズローの学説と比較することで自分の考えをわかりやすく伝えようとしているだけのことです。

さて
マズローの人間観とは、「人間は生まれながらにして、より成長しよう、自分の持てるものを最高に発揮しようという動機付けを持つ存在である」というものだそうです。

そして従来の心理学は、人間の足りないところや欠けたところの研究を中心に発達しており、人間に何が不足するとどんな風に障害が起きるのかということが主の関心事であった。その典型が精神分析であると主張し、

これからの心理学の研究課題として重要な側面は、人間がより成長しようとする存在であり人間存在そのものをもっと積極的に、可能性に身と他者として見ることである。
と平木先生はおっしゃっております。

さらに、マズローは人間の欲求は階層になっているとし
第1に、生理的欲求があり、性欲や飢え乾きを癒す欲求
これが満たされて
第2に、安全の欲求、保護されたい、雨風をしのぎたいという欲求が生まれ、
第3に、所属と愛の欲求が生まれ、集団に帰属したい、友情や愛を分かち合いたいとなり、
第4に、承認の欲求が生まれ、人から尊敬されて、自尊心を持ちたいと思い、
第5に、自己実現の要求がわき、可能性の実現、指名の達成という欲求が起きるとされています。

これまで私は、人間が自己実現を求める存在だというマズローの人間観には賛成していて、5つの欲求があることもその通りだけど階層の順番が違うのではないかという違和感を持っていた程度でした。

マズローの理論は実際のカウンセリングのベースになるもので、マズローの人間観も実際のカウンセリングをする場合を念頭に置いて論じられていて、その意味では優れたメリットを持つ考え方だと思います。その意味で反対をするわけではありません。価値観としても魅力がある考え方だとも思っています。

説明の便宜のために、人間の欲求の階層について対人関係学の意見から先にお話しします。

対人関係学は、マズローの5段階の関係は賛成できません。
対人関係学である人間の欲求(ニーズ)は、
1 身体生命の安全の欲求
2 対人関係的な安定帰属の欲求
の二つの柱の欲求を持つということです。

そして、マズローの言う各欲求は階層になっているのではなく、それぞれ1と2の内容、あるいは派生的欲求だということを主張しています。
1の身体生命の安全の欲求の内容がマズローの生理的欲求(第1段階)、安全の欲求(第2段階)
2の対人関係的な安定帰属の欲求の内容が、所属と愛の欲求(第3段階)、承認の欲求(第4段階)、自己実現の欲求(第5段階)だということです。

1の身体生命の安全の欲求は、人間に限らず、動物全般に見られる欲求です。動物として生きるということはこういうことだということです
2の対人関係的な安定帰属の欲求は、人間における群れ形成の方法というものであり、群れを作る動物に共通の点はありますが、やはり人間において特徴的な欲求と言ってよいと思います。

自分の群れに安心して帰属し続けたいという欲求があり、その状態が尊重されているということです。他者から尊敬されれば安定帰属が図られますし、友情や愛をわかちあえればそれ安定帰属をしている状態ともいえますし、安定帰属の保障にもなるでしょう。自尊心をもって生きることができるということは、実は群れに安定して帰属している自分の状態を感じているということに他ならないと考えています。また、自己実現についても、基本的には群れに安定的に帰属することを目的としています。

もっとも、私たちの意識としては、群れに安定して帰属したい、だから群れに役に立ちたいと考えているわけではありません。群れのために役に立ちたい、尊敬されたい、能力を発揮したいという心があったため、群れに帰属しようとする行動傾向が生まれ、人間が群れを形成し、生き延びてきたという関係にあるのだと思います。

この自己実現については、人間の個体それぞれの社会性によって意味合いが異なってくると思います。つまり、個体の社会性がせいぜい家族の範囲にとどまる場合は、自己実現と言っても家族との関係での自分の在り方にとどまるでしょう。個体の社会性が、家族を飛び越えて、社会や国家と自分の関係を意識づけて行けば、自己実現は社会的立場や国家的立場の実現、それほどの規模の何らかの発明や学問的到達、あるいはスポーツや芸能の到達ということを意識するようになるのだと思います。

文明が発達し、情報や交通が発展していく中で、この社会性を広げる圧力が強くなっていったように思われます。多くの人が社会的に成功をすることに価値を置くことに疑問を持たなくなったように思われます。私は最近このことに強く疑問を抱くようになりました。家内安全を第一目標に生きることの何が悪いのかということです。もっとも私が歳をとったということもあります。若いときは無鉄砲に社会性を広げていたようにも思われ、その反省の意味もあることは認めざるを得ません。

こう考えると、従来の心理学とマズローの言うこれからの心理学はそれほど違うものではないのではないかと感じてしまうわけです。人間のかけたところや過剰な環境に対する不適応を修正し、不安や焦燥感を解消し、自分の群れの中で尊重しあい相互に助け合い、安心して生活するということが、人間の目標であるべきであり、他者の援助の対象の範囲ということにはならないでしょうか。

社会性を広げた自己実現は、他者が誘導する話ではない
そう思っています。

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