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G7男女参画会議についての違和感 前提論理や価値観は、女性の地位の向上や家族の生活の向上とは逆行するのではないかという疑問 [弁護士会 民主主義 人権]

栃木県日光市で開かれたG7男女共同参画・女性活躍担当相会合は、男女間賃金格差は複合的な要因があるとし、一つの要因として女性の職場での地位が低いということ、一つの要因として家事の負担が女性にしわ寄せされていることを述べ、家庭内の男女平等を目指すという一部報道がなされた。

一部報道というのは、この会議や日光声明についての内容のある報道を見つけられなかったからだ。翻訳が間に合わないためか、元々内容のある議論がなされていなかったのかどちらかではないかと思われる。

特定の価値観が所与の前提のような報道のされ方をしているが、こういう場合は大変危険な印象操作が行われている場合であることはこれまでも多く経験してきたことだ。少し上げ足という感もあるけれど、男女参画の本質があぶりだされるのではないかと思い、あえてコメントをしてみる。

1 そもそも女性の経済的自立ということは目標とするべきなのか。

  これは前提として、「多くの女性は経済的に自立していない」、「経済的に自立していなければ対等にはならない」という論理がある。そして、目指すべき方向として、女性の自立、地位の向上のためには女性も対等平等に働くことを是としている。そして、情報の受け手は、それが正しい命題だと疑問を持たないで受け止めている。

私は、ここにこそ疑問を持つべきであると思っている。家族の一人が賃労働等の就労をすることで、複数人の家族が幸せに生活できる社会ということこそ目指すべき方向なのだと考えている。家族の一人とは男性でも女性でもその家族で決めればよい。あるいは共稼ぎをすることにすることも含めて家族が決めればよい。

どちらが働くか、二人で働くかということには、各家庭に選択肢が持てるようにすることが目指すべき方向のはずだ。

ところがどうやらG7は、共稼ぎという方向を固定して方法論を検討していることになる。つまり、共稼ぎをしないと、望んだ生活ができない低賃金社会が固定されることを前提としているのではないかという疑念を持つべきだと思う。女性の経済的自立や社会的地位の向上という美しい言葉と、共稼ぎが必要な低賃金社会の固定は常にセットにあると警戒するべきだと感じる。

2 家事労働は平等になるのか、出産をするのは女性

現在の若者夫婦の多くは家事を分担している。専業主婦が減っているように感じられるが、専業主婦であっても夫は家事を分担していることが多い。共稼ぎの場合に、家事のほとんどを女性が行う家庭は私の担当する夫婦では聞かない。おそらくごく少数なのではないかと思う。

但し、公平に見て家事をほぼ平等で行っているとしても、一方の立場では相手の方が楽をしていると感じていることはよくあることだ。妻は夫は自分がやりたいことだけをやるといい、夫は半分以上自分がやっているということはよくあることだ。家事をどの程度シェアしているかについての客観的な指標を作ることは難しいようだ。

実際はかなりイーブンに近い形で家事をすることが多いように感じている。但し、最大の家事はやはり出産であり、これは女性にしかできない。出産というのは、妊娠から出産、そして新生児の育児と母体の回復まで含めてを言うと考えるべきである。

そうであれば、家事労働の負担は、出産がある以上、女性に多くの負担割合があるということは避けられない。

家事が女性にしわ寄せされるから女性の地位が向上しないというのであれば、女性の地位を向上させるためには出産をしないことが必要だということを言っていることと同じなのではないだろうか。

出産以外で、家事が女性にしわ寄せされているために女性の地位が向上しないというのであれば、どの程度のしわ寄せがなされていて、どの程度の労働時間の短縮を余儀なくされているのか、そのデータを報告するべきである。

データがなければ感想や印象で世界の政策が動かされていることになってしまう。また、その職場での地位が向上しないことは、その程度の労働時間の短縮によって正当化できることなのかよく考える必要がある。

不意の残業に対応しなくてはならないとか、恒常的な長時間労働をしなくては地位が向上しないというのでは、地位向上の美名のもと過重労働を放置していることになるのではないか警戒する必要がある。

3 「経済的自立が無ければ女性の地位が向上されない」という考えと「家事労働に価値を認めない」ということはむしろ親和するということ

日本の労働者階級は、戦前ころまでは農家が一番人口が多かったのだろうと思う。農家では共稼ぎが当たり前であった。都市部の比較的収入の高い職業で専業主婦となったのではないだろうか。

その当時であっても、外で稼がないから女性は地位が低いという扱いはなく、むしろ女性に対する配慮が道徳として浸透していた側面も確かにある。男性は家事育児に口出しをしないということで、女性の裁量を最大限尊重するべきだという風潮があった。

そうはいっても、女性の選挙権は認められておらず、行為能力も一部否定されていたことは間違いない。そういう意味で、女性からすれば差別的扱いをされたと感じることはもっともなことである。

しかしだからと言って、家庭の中で女性が馬鹿にされていたり、一段低い存在だと、男性が優越的な感覚になっていたかというと、実際はそうではないと思う。これは論証できない。自分の親戚筋やその近隣を見ていてそう思うとしか言いようがない。

現代社会の家事労働は、実は非常に価値の高い労働である。健康面一つとっても、環境問題や食材の安全性の問題など、知識と手間が要求される労働になる。教育も、学歴社会の中でいじめが無い子どもたちの世界を作ることにも保護者が協力しなければならないところが大きい。情報を取得して最善の方法を実行するためには知識と技術と労力が必要であり、家族単位でみた場合、そのリターンも大きい。だから現代日本こそ、専業主婦ないし専業主夫が家事を行う必要性が高いと私は考えている。

家事労働は尊敬に値する労働である。そこに価値を見出さない理由こそ、正直に言うと私にはわからない。家事労働の価値をきちんと認識する社会こそ目指す方向なのではないだろうか。外で働かないと輝けないとか、地位が向上しないという価値観こそ否定されるべきではないだろうか。

4 働けない事情は様々あるが、家事労働ならばできる人は多い 働くことに優先的な価値を認めることは障害者差別に親和する

働けない事情は様々ある。その中で、集団行動が苦手で職場で衝突してしまうという人たちが確かにいる。そういう人たちでも、家庭の中では尊重されて家事をこなすことができる人がいる。職場では効率が最優先であるため否定的に扱われるが、家庭では家族が良ければそれでよいのである。こういうパーソナリティの問題で働けないひとがいる。また、身体障害によって、会社などでは働けなくても、家事には対応できる人もいる。

私は身体障害の人の権利の実現する事件を担当することがあるが、障害を無くすことができないのだから、変わるべきは職場の価値観ではないかと常々感じている。

外で働くことに価値があり、外で働けないならば地位が向上は期待できないということを過度に強調することは、端的に障害者差別である。

ここまで書いてきて、私は自分の話が、揚げ足取りの批判のための批判だとは思えない。むしろ、G7の会議の方が、おそらく実際の人間の活動に影響を与えない方向の議論をしているという思いが強くなった。マスコミは、G7の話を深堀せずに、日光市の名産品などを紹介することが多いようだ。また、いくつかの前提とされている理論や価値観に対して疑問の声も、具体的な道筋の欠如も報道されないことに違和感が強い。

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良い悪いというヒステリックな感情論よりも、痴漢被害防止を優先させるべきだと思う 自衛措置を呼びかける警察を支持する理由 [弁護士会 民主主義 人権]



先日、地元紙に「痴漢啓発に無意識の偏見 警察『薄着は注意』、自衛を強調?」という記事が載った。しかも1面トップの記事だった。

わたしなりに記事を要約すると、「痴漢被害に遭うのは被害者が悪いのではなく、加害者が悪い。自衛を強調すると、痴漢に遭ったのは被害者が悪いからだと言っているようなものだ。また、鉄道警察の統計から夏は痴漢被害の件数が減っているので、薄着と痴漢は因果関係が無い。」というような内容である。

かなり概念の整理ができていなくて混乱している記事が一面になったものだなあと正直驚いた。また、ミスリードをして実害が生まれなければよいなと心配になった。

各命題を検討してみよう。
「痴漢被害は、加害者が悪いのであって被害者が悪いわけではない。」
この命題は全く正しい。強制わいせつ事件の弁護で、被害者の落ち度を主張する機会はめったにないだろう。良い悪いで言ったら、悪いのは犯罪者である。

「外では挑発的な服装をしないとか、夜間の独り歩きをしないことは、痴漢被害予防に効果がある。」
これも正しい。

路上での強制わいせつ事件は、夜間に行われやすい。犯人は女性にいくつかの幻想を持っていることが多く、相手が女性一人であれば力づくで思いを遂げることができると信じている節がある。周囲に歩行者がいるならば、強制わいせつ事件を起こすということはまれである。当たり前のことだ。

ここで、「夏に電車の痴漢被害が少ない」という統計について考えてみる。おそらく無意識に、「夏は女性は薄着になる。」、「夏に痴漢が少なくなるということは、薄着になっても痴漢は増えないでむしろ減る。」「だから痴漢と薄着は関係が無い。」という論理を組み立てているのだろう。

しかし、その論法が正しいのであれば、夏に痴漢が減るならば「女性が薄着になるほど痴漢被害は少なくなる」ということが論理的帰結になるはずであるが、さすがにそうは言わない。「薄着と痴漢は関係が無い」というのにとどめる。自分の論理に無理があることをうすうす自覚している可能性がある。即ち、夏に痴漢が減る理由をきちんと考える必要があるということである。一つの可能性として、学生、生徒の夏季休業期間になるため、車内の人口が減り目立つため痴漢がしにくくなるということと、被害者が混んだ電車に乗らなくなるということが関係しているのではないだろうか。

だれでも思いつく「論理」ではあるが、確証バイアスがかかると自分の結論に合わせて現象を解釈してしまうということの典型例ではないだろうか。

痴漢は公共交通機関内だけで起きるものではなく、深刻な被害は路上や自宅で起きる。深夜に偶然見かけた女性を何キロもつけてきて路上で襲ったという事件もあった。その時目についた女性が複数人いる場合は、服装はターゲットを絞る一つの要素になるようだ。

被害防止を優先するならば、できる限り自衛の措置を講じるべきであると私は思う。夜間の独り歩きをしないということが最も効果があることは間違いない。できるだけ夜間は外出しない。どうしても外出しなければならない場合は誰かに同行してもらうようにする。家族がバス停などまで迎えに行く等の方法を勧める必要は大きいと思う。

確かに、伝え方によって、被害者をさらに苦しめるということはあるだろう。しかし、そのために、自衛の策を提案しないということはやってはならないことだ。特に警察が自衛の呼びかけをしないことや、マスコミが薄着をした方が痴漢は減るというミスリードを誘うような伝え方をすることは大問題ではないかと思う。

どうも「ジェンダーの視点」という言葉が出てくると、「では私が悪いというのか」というヒステリックな主張が出てきやすいように感じている。今回の根本問題は痴漢被害防止にするべきではないのだろうか。

女性が痴漢被害に遭う危険を高めてまでジェンダーの視点を導入するべきだというならば、はっきりとそのように主張するべきである。

私が考える「ジェンダーの視点」からすると、どうして深夜に単独行動をしなくてはならないかということを考えるべきだということである。昭和60年に労働基準法が改悪されて、女性の深夜労働が違法ではなくなった。生活のために深夜に帰宅する女性が生まれ、当たり前のように深夜に帰宅する女性が増えた。これは雇用機会均等法と抱き合わせに改悪された。つまり、このような女性保護があるために女性は会社で出世ができないのだ、だから女性保護を廃止して女性の地位を向上させるというものだった。

平成、令和と進み、どれだけ女性保護の切り捨ての恩恵を受けている人がいるのだろうか。単に安い労働力を深夜帯も活用できるという主としてグローバル企業だけが喜んでいるのではないだろうか。

女性保護は女性の出世を妨げるものではなく、男性と対等に働くためのツールだったはずなのに女性も体力的事情が捨象されて、男性と同じ物差しで評価されるようになってしまったわけだ。

昨今、本末転倒で非論理的な主張があまりにも目に付くようになったような気がする。

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人が盗みをしない理由から考える 犯罪防止として法律より効果があるもの インターネットという拳銃をすべての人が所持している現代から愛の時代に向かう時に越えるべきハードルとは何か 無差別攻撃型犯罪の構造 [刑事事件]



前に担当した事件で、とても人づきあいが良く、仲間には思いやりもあり好かれていた人が、量販店での万引きを繰り返していたということがありました。「どうしてやめようとできなかったのか」の一つの理由として、「店に迷惑をかけることまで考えていなかった」という説明がありました。

他人に対する思いやりがありながら、どうして店の損害を考えることができないのか。かなりのギャップがあるように感じました。どこに違いがあるのかを少し考えてみました。

その一応の結論が、その人との距離、一緒にいた時間等の違いが正反対の行動に現れたのではないかということです。仲間(近くにいる時間が長い)であれば、等身大でその心情を考えることができるので、これを盗んだら途方にくれる仲間の姿や、がっかりするだろうという仲間の姿を、考えなくても思い浮かべることができる。その姿を思い浮かべるとかわいそうだと思う。自分もつらくなる。だから迷惑をかけない。むしろ、仲間が何をすれば喜んでくれるかわかるし、仲間が喜べば自分の楽しいから思いやることをする、というのではないかと考えました(殺人や暴言等の私怨型の直接攻撃は別考慮が必要)。

量販店の場合は、商品が陳列しているところに人がいません。この効果としては、監視する人がいないので盗みやすいというよりも、迷惑をかけて苦しめる人を具体的に想定できないことから万引きをする心理的ハードルが低くなるということなのかもしれません。昭和の商店の形態である、人のよさそうなおばちゃんがあまりもうけのないだろう安い商品を扱っている店であれば、あのおばちゃんが悲しむと思えばやはり盗みをしようと思わないのが大人なのだと思います。

物を買うことを一つをとってみても、昭和から令和という時代の流れの中で、人間と人間の交流という要素はどんどん希薄になっていると思います。希薄になっているのに、関わり合いになる人間の数だけはどんどん増えています。インターネットの向こう側にいるのも人間ですが、お互いがどれくらい人間として扱っているのでしょうか。人間として扱われているのでしょうか。

機械たちを相手に言葉はいらない
決まりきった身ぶりで街は流れてゆく
人は多くなるほど 物に見えてくる
(中島みゆき「帰省」より)

インターネットの書き込みは匿名で行えば、自分の言いたいことを躊躇なく言うことができます。相手の気持ちを考えることなく相手を傷つけることもできます。インターネットの書き込みは、言われた方は反論する方法がないことがとても多いです。その書き込みが真実かどうか、正当かどうかも通常は誰も調べたりしません。友人や取引相手などがその書き込みを見て、自分に対する評価を変えるかもしれません。それが本当かどうかわからなくても、怪しいところには関わりたくなくなるということはよくあることです。インターネットの書き込みによって大事な人間関係が無くなってしまったとか、収入が無くなるということもおそらくすでに現実に起きていることでしょう。

インターネットの書き込みによって命を絶つ人も出ています。

インターネットは気軽に誰でも利用できるツールですが、人の人生を台無しにしたり命を奪う危険なツールでもあります。

スマホの若者向けの使い方講習会が行われているようですが、主として話されることは、被害者にならないための方法についてのようです。もしかして、それよりも大切なことは加害者にならないための方法、使い方なのではないでしょうか。他人の命を奪う拳銃を与えているのだから、もっとも大切なことは加害防止のはずです。

他者との人間的な結びつきが希薄になっている現在、他者の苦しみに配慮しない行動がますます増えていく可能性は拡大するだけで、縮小していく要素は現在のところ見当たりません。

ここで考えなければならないことは、全員が全員、相手の顔が見えなければ盗みをするということではないことです。むしろ、誰に迷惑がかかるかはわからなくても、少なくともわが国では他人のものを盗まないという人の方が圧倒的多数です。

その理由の一つとして、法律が貢献していることは間違いないと思います。他人の物を盗むと、警察に捕まり、刑務所で強制労働が待っていると思えば、盗むことは怖いことだからやめようと思うわけです。

ただ、それでは、誰も見ていないとか、証拠が残らないことが確実である場合は、警察に逮捕されないとして人は盗むのでしょうか。そうではないようです。それでは誰かが困ることを想像して盗むことを止めるのでしょうか。もう少しリアルな理由がありそうです。

そういうごちゃごちゃ考えることをしないで、盗もうとしないということがリアルと言えばリアルです。それでもあえて説明すると、「他人の物を盗む自分でありたくない」という気持ちがあるので盗もうとしないということが自然なのではないでしょうか。この時の「自分」という概念が問題なのです。おそらく、現在、過去、将来を問わず、自分がつながっている人間、つながっていた人間、つながるであろう人間との関係で、評価される人間、否定されない人間、尊重されるに値する人間でありたいと自然な感覚を持つのではないでしょうか。

ありえない想定ですが、物心ついた時はもう孤立していて、将来的にも誰かと仲間になることを想定できない人間であり、それが生きていくためには必要なことだと思うならば、他人の物を盗まないという選択肢は持てないのではかと考えてみました。近い例えで言えば、第二次世界大戦の終結直後の都市部の状態に似たものがあるではないかと考えています。

そして現代社会では、その危険な部分がまた似通ってきているということなのだろうと思います。

無差別殺人は、その極端な例であると説明できると思うのです。その人にとって、現在自分が尊重されたい相手という人間関係が存在せず、将来的にもそのような人間関係を形成することはないと絶望をしている場合、「自分」がどういう人間だと、誰から思われようと気にならなくなるのではないでしょうか。そういう状態であれば、命永らえること自体がむなしくなるのかもしれません。そうだとすると死刑の威嚇はあまり予防効果が期待できないことになってしまいます。

人間の脳が他者を個体識別できる人数は、150人程度だと言われています。この人数を超えれば、よほどの人でない限り、思いやる力は希薄になっていくのでしょう。インターネットは、そもそも人間の能力の限界を超えていて、進化によって能力を獲得するには何百万年もかかります。しかし、生活や仕事の隅々まで浸透してしまったインターネットをやめるわけにはいかないのでしょう。せめて不当な書き込みについての対応方法はもっと早急に整備しなくてはなりません。

むしろ現実な対策としては、すべての人間一人一人が、人間的に尊重されるリアルな関係を持つことなのだと思います。この関係に照らして「自分」を考え、他者に迷惑をかけることに気が付き、やめるという流れがより現実的なのだと思います。しかしこれ自体、現在では砂に水をまくような途方もない話なのだろうと思います。しかし、犯罪を防止するだけでなく、人間として生き残るために必要なことは、結局は、人間の本能を利用したこの方法しかないのだと思います。

刑事事件の弁護をしながら、そんなことを考えていました。

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妻が子どもを連れて出て行った時の夫に対するサポートの見落としがちな取り返しのつかなくなるポイント [家事]



妻が子どもを連れて出て行った直後は、夫は呆然としますし、何が起きたのかという実感もあまりない状態だと言います。警察や行政が自分を否定評価しているという実感を持つ出来事が起きるたびに、不安や恐れの気持ちが高まっていくようです。ここまでが前回の記事です。

ところが、弁護士から受任通知が届いたり、家庭裁判所から通知が来ることによって、妻が自分と離婚をしたいと考えていることを知ります。家庭裁判所の通知に同封された申立書に記載されている「離婚をしたい理由」を読んで、記載してある事実に心当たりが無かったり、針小棒大な書き方をしているのを読めばなおさらなのですが、不安や恐れが急激に怒りに変わってしまうことが少なくありません。但し、怒りに転化しないで、そのまま不安や恐れが増大し、慢性化してしまう場合もあります。

不安や恐れが慢性化して、睡眠不足や拒食、過食になるような場合で、抑うつ状態になっている場合は精神科の治療が必要なことが多くあります。精神的体力を作っておかないと、離婚の手続きも投げやりになってしまい、真実ではない事実に基づいて手続きが進んでしまい、後で取り返しがつかないことになることがあるからです。ここで失敗して後々子どもとの面会を望んでも極めて不利になっていたということがありました。

しかし、もう一つの怒りが優位になってしまうことも問題です。依頼者の方が、本当はどうしたいのかということを冷静に考えて、決めた方向に向かって手続きに対応していくこと、あるいは手続きをリードしていくことが上策だということになるのですが、方向性を決めることができなかったり、自分の本心とは違う方向に向かってしまったりすることが一番の落とし穴になります。

本当は、家族再生を願っているという場合が一番大きな問題になります。

私の事務所にご相談にいらっしゃる方々は、妻からかなりひどい目にあっていても、やはりまた親子で一緒に暮らしたいという希望を持つ場合が少なくありません。妻の行動について私が分析して解説していく中で、これまで不条理に思えていた妻の仕打ちにも原因があることであり、妻の行動についても見方が変わったという方が多いのですが、そのことも再出発の希望を後押ししているのかもしれません。それでも、私から「本当にやり直しても大丈夫か」ということを尋ねることもあります。

それでも、夫は、家族で生活をしていきたいという意思を持つことが多いのです。

妻の行動について、私でさえ「それはひどい。」、「それは妻に改めてもらいたい。」と激しく思うのですから、一般の方は、他人ごとながらその人の妻に対して怒りがわいてくることは無理がありません。

事案を聴けば、特に第三者からすれば、妻に対して怒りの感情を持つことは自然なことだと思います。問題は怒りの感情を持った後のことです。攻撃的にならない夫は不自然だと思うことも一般の方ならば仕方がないことかもしれません。だから善意で、怒ることを自然に勧めてしまったり、怒りを妻に向けるような雰囲気を作ってしまったりすることが多いようです。

結局は、ここでも「あなたは悪くない。」という形の支援が起きてしまっているのです。

また、様々なインターネット情報を検索すると、どうしても怒りを掻き立てるような方向での投稿が多いとのことです。当事者は自然に怒りの感情に同機してしまうことになりがちです。

ただ、怒ることを止めることは無理でも、怒りの感情のまま行動することは、家族再生を目指すならば絶対にしてはならないことです。

子どもとの面会交流とその先にある家族再生の実現のためには、「妻が夫といることに安心できるようにすること」が鉄則です。そのためには、平等とか、道徳とか、禁反言とかあるいは正義すらも有害な物差しになります。相手の感情を尊重して不安や焦燥感を抱かせないという物差しで自分の行動を評価して、妻にとって夫の存在自体が居心地のよいものに戻す方向の行動をすることが必要なのです。

妻に対する怒りに基づく行動は、常に逆効果になるわけです。
家族再生、あるいは面会交流を遠ざける行為を自ら行うことになってしまいます。

そうすると、家族再生を志す人に対するサポートをする者としては、依頼者である夫の自然な感情に基づく行動に対しては、厳しく警告をすることこそがその役割になります。当事者の方も、頭ではわかっても、感情は理性よりも早く動きだしてしまうものですから、ついつい怒りに任せた行動を選択しようとするのも自然なことなのです。だから第三者がサポートをするわけです。

このことを理解しない第三者からすると、こういったサポートは当事者の心情に寄り添っていないとか、感情を理解しないように映るようです。打ち合わせの時は理解できても、例えば帰宅して友人や両親などと話して、「やっぱり打ち合わせは無かったことにしたい」などということもよくあることです。しかし、その行動をしてしまうと相手をおびえさせてしまい、あるいは怒らせてしまうだけで、いずれにしても夫と近くにいることを妻が拒否する方向にしか働かない上に、家族再生にあたっても離婚訴訟上もメリットがないということがよくあります。だから、メリットはないし目標に逆行することになりますよと言わなければ職務放棄になってしまいます。言い方の問題はもちろんありますが、自然な感情に対してストップをかけるのですから、構造的に反発を受けることは必然的に生じることだと私は思います。

実際に一度離婚をして、面会交流を発展させて後に再婚した事例では、怒りと失望の両方の感情に揺れ動きながら、何度も同じ話を繰り返しながら、妻を安心させる行動に終始して、それが見事に当たって、どんどん心が近づいて行ったわけですが、そこに行くまでにはかなり激しい論争になりました。こちらとしてもかなり気が重く、辛い時間だったわけですが、彼はやり切りました。代理人は離婚と面会交流まででしたが、その後度々連絡をいただいて、再生が進んだ様子をご報告いただいています。

もう一つのケースは、奥さんが一時的に精神的に明らかに異常をきたしていたケースです。夫がそれをよく理解して、奥さんの言動をまともに取り合わないで、ひたすら安心させて、こちらのケースは離婚を回避したまま再同居となりました。
結局奥さんの病的な不安や焦燥感に寄り添った「支援者」たちが「あなたは悪くない、悪いのは夫だ」ということを繰り返し述べることによって、妻は夫から逃れることで不安や焦燥感を解消しようとして別居に踏み切ったようです。別居をしても、夫から何ら攻撃や批判をされず、おそらく精神状態(厳密に言えば精神に影響を与える身体状態)が回復していく過程だということもあったのだと思います、どんどん「支援者」たちから勧められた自分の行動に疑問を持ち始め、少しずつ夫の方に心を寄せて行ったようです。夫も、奥さんのペースを辛抱強く待ち続けて行って、試し期間を経て再同居となりました。

二つのケースとも、ご自分の自然な感情に反した行動をすることができた結果、家族再生の目的を達することができたということになります。

弁護士がそこに関与する場合は、夫からすれば事件後に知り合った人間ということで、理論的にはわかるけれど、感情に反する行動ばかりしろと言っているようなものなので、どうしてもアドバイスが心で受け入れられがたいということです。これに対して、同じことを言っても、友人からアドバイスをもらうことがとても有益です。

その友人が、夫に対して言ったことは、「何があったとしても、君が彼女に対してそんな攻撃的になってしまってよいのか。人が変わったようになってはいないか。」というようなことだったらしいです。それを聞いた夫が、妻を憎んで攻撃的になっている自分に気が付いたというのです。それで「はっ」として、家族再生という目標を固めたと言います。似たようなアドバイスを受けたというケースを最近も一件聞きました。

心理学的にはメタ認知に成功したということなのでしょう。その友人は、夫からして、おそらく長く続いた、大切な人だったのでしょう。夫は、その友人との関係で「自分」とは何か(自己概念)ということをはぐくんでいたのかもしれません。結局その友人の存在自体によって、彼は精神的な不安定さもだいぶ軽減されたようです。下手な弁護士や、カウンセラーよりも、こういう存在の友人がいることがどれだけ有益なのか計り知れません。また一般の方なのに視点がとても鋭い人だと思います。友人にも本人にも、その関係にも感動しました。

「とてもかなわない」という気持ちを持てた自分にも少しほっとしました。


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妻が子どもを連れて出て行った際の夫のサポートの必要性について(その1 連れ去りの直後の精神的ダメージの由来) [家事]



ある時仕事から帰宅したら、妻と子どもがいなかった。身の回りのものが無くなっていて、どこに行ったかわからない。こういう事案は後を絶ちません。

夫からすると、いると思って帰宅したのに、いるはずの人間がいないということで、何が何だかわからない状態になります。心理学的混乱が生じます。無理に楽観的に考えて、電話をしてもラインを送信しても反応がありません。着信拒否になっている場合もあります。

大きなところではこのパターンということになりますが、バリエーションはあります。置手紙がある場合、家財道具がごっそり運び出されている場合、クレジットカードが限度額まで使われている場合、後から警察官を同行させて荷物を運び出す場合、家賃や光熱費の滞納が数か月分ある場合等です。

あるべきものがないということ、これ自体が大きなトラウマになるわけです。繰り返し訪れるはずだと思うから日々の暮らしに安心しているのですから、それが途切れるということは日常生活に安心ができなくなるのは当然です。

夫は実家に戻ったのではないかと思い、妻の実家に行こうとする場合があります。この場合、実家近くまで来たらわらわらと警察官たちが表れて、警察署に連行されることが少なくありません。実際は10名弱程度でも、突然現れる警察官は20名以上に感じてしまうようです。10名弱でも、罪を犯したわけでもなく、武器を携行しているわけでもない一般男性に対して出動するということは、その目的以上の威嚇の要素を受けて取ってしまいます。それにしても、武器を携行して犯行を行っている人間よりも、丸腰の一般市民の方がより警戒されるというのが現代日本です。

警察署ではやってもいない暴力を「もう二度としません」という誓約書を書かせられます。暴力はしていないと突っぱねることができる人はそうそういません。このまま警察署から帰ることができなくなるという恐怖もあり、屈辱にまみれて必要もない誓約書を書くことになることが通常の人間だと思います。

子どもが無事かどうかを確認したいがために、実家近くに行って様子を見ようとすると、通報されて警察に連行されストーカー警告を受けるケースが最近多いようです。ストーカー規制法は、裁判所の判断もないのに、ただその場所に存在するだけで警察署長から罰則の警告付きで禁じられるわけです。これは結果的に問題の多い法律になっています。

また、捜索願を出そうと警察に行く場合もあります。警察は、なんとも奥歯にものが挟まったような言い方で、「奥さんとお子さんは無事で元気にしています。心配しなくてよいです。」と夫に告げるわけです。捜索願など受理してくれません。夫は、警察が妻子の行方を知っているということは想定していませんから、強烈な違和感をもってその言葉を聞きますし、心配しなくてよいと言われて安心する人はいません。

警察が味方になってくれないということは、一般市民としてはとてつもなく恐怖を感じてしまいます。常日頃は、いざとなったら警察がいるということが大きな安心感になっていたことに気づかされます。トラウマを大きくする要因がここにもあるようです。

妻の現在の居場所に関することは、市役所でも徹底的に隠されます。居場所のことを調べようとしたわけでもないのに、居場所に関連する問い合わせをしただけで、自分が妻に危害を加えに居場所を知ろうとしていると認定されて、激しく拒否されます。いったんつれされられた子どもが一人で帰ってきて、保険証が妻のところにあるので相談をしに行ったところ、「あなたには話すことは無い。」と区役所の職員から大声を出されたと言う人もいます。

それまで中立的に考えていた行政からも自分が敵視されているように感じてしまいます。自分が犯罪者として扱われているようだと皆さん感じるようです。

これまで経験したことのない圧倒的な疎外感、孤立感に苦しみます。

子どもとの関係が良好な父親の場合に連れ去り事件は起きることが多いです。ここは重要な特徴だと思います。だから、子どもが今どこでどういう状態でいるのか、自分と一緒にいないことでどうしているのかということがとても心配になります。しかし、味方がいないのです。わけのわからない不条理の世界の主人公になっていることはとても精神的に混乱させられることです。

子どもの姿を確認できない、子どもと会うことができないという苦しみは想像を絶する苦しみのようです。当面会えないと悟っても、一日でも早く子どもと会いたいという気持ちは強烈なもので、また今日も会えなかったということが焦燥感を高めますし、絶望感を上書きしていくようです。

夫は何も犯罪をしていないし、税金など国民の義務も果たしていますが、子どもや家族との関係では無権利状態になっています。それを強烈に自覚しています。

DVが無くても、DVがあると妻が一方的に警察や行政に相談するだけで、夫は「加害者」と呼ばれるようになります。相談をしただけで妻は「被害者」です。

妻は被害者として、警察や行政から支援を受けて、その居場所を隠してもらえます。夫が妻の居場所を知って近づこうとするとストーカー規制法によってその場所にいることすら罰則付きで禁じられます。繰り返しますけれど、夫が実際は暴力をふるっていなくてもです。夫は警察や行政に抗議することも、不服申し立てする手段もありません。まさに無権利状態です。

社会が自分に敵対していると強烈に実感してしまうことになります。

日本人は、例えば西洋人と比べて人権意識が低いと言われているのではないでしょうか。こういうことがまかり通り、政治的にこのことを問題視しているのは、かなりの保守派しかいない状況です。

おそらく、こういう典型的な人権侵害がまかり通っている理由は、真にDVを受けている人が、DV夫から解放されるために必要なことだという理屈なのでしょう。予防的措置ということが正当化根拠になると思います。しかし、単なるの夫婦の喧嘩に子どもも巻き込んで、警察や行政がサービスを行い、そして一方の人間の精神破壊を伴うことを許す根拠にはならないと私は思います。

運よく私のような専門家と話すことができれば、精神的に危険な状態を理解されて、精神科医を紹介してもらえます。しかし、そのような解決まですぐにたどり着ける人はそんなにいないようです。インターネットの情報があるとしても、無駄な情報がありすぎて、そしておおうにして無駄な情報が優先して飛び込んでくるために、なかなか必要な情報にたどり着くことができないことが多いようです。

事情を知っている専門家、精神科医や心理士などに巡り合わなければ、「どうして」という言葉が頭の中で無限に繰り返されて止まらなくなり、現実社会が安心して生活する場所ではないという感覚になり、精神が壊れていくことは想像がつくことだと思います。

妻が子どもを連れて出て行った場合、家族だけではなく、自分を理解してくれる人で、この話ができる人で、現実に会って話ができる人からのサポートを受ける必要があります。一人で解決できることではないと私は思います。

次回は精神的ダメージが怒りに変わったときのサポートの必要性について話すつもりです。


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例えば学校から「お宅のお子さんがいじめの加害者だ」と電話が来た場合 子育てに活かす傾聴、受容、共感というカウンセリング技法 シリーズ3 [進化心理学、生理学、対人関係学]


前回のシリーズ2は、本当は子育てと夫婦と一緒に書き始めていたのですが、夫婦の問題だけでも字数が多くなり、まだまだ書きたいことがあったので、育児を分離して正解でした。

さて、現在子育て中の親御さんが多く心配していて、実際に法律相談にも表れ始めていることが、「自分の子どもがいじめの加害者と言われたらどうしたらよいだろう」、「SNS等で、自分の子どもがいじめをしていると言われた」ということです。

子どもどうしのいじめとは言っても、確かに一方的な集団の攻撃というものありますが、実際は子どもじみたありふれたけんかやトラブルということも多くあります。それなのに法律のいじめの定義だと広範囲になりすぎて、相互の対等なやり取りが行われているだけなのに、その一断面だけを切り離していじめだと認定されてしまう危険もあります。また、そのようなありふれたトラブルでもマスコミは被害者とされた方の保護者の言い分だけに乗っかり、一方的な集団いじめの加害者であるような報道をしています。ひとたび「いじめ」という言葉が使われてしまうと、実際に何があったかということにはそれほど関心が寄せられなくなる場合もあります。

子どもを持つ親御さんは、「いじめ」という言葉に敏感になっているようです。

だから、学校から、子どもどうしのトラブルがあって、相手のお子さんがけがをしたとか、学校に来られなくなったという電話が入れば、焦ってしまうし、不安になってしまいます。

こういう時にそれを聞いた親に働く心理としては、やみくもに「何かの間違いだ」ということにしてしまい、徹底的に学校側と対立しようとしてしまうことがよくあります。あるいは逆に、それを真に受けて悪い方に自己解釈してやみくもに子どもを責めてしまうこともあります。

つまり、何が起きたのかがわからないまま、気が焦ってしまって何とか対応してしまおうとすることが一番悪い対応だということになります。

先ずは何が起きていたのかを知る必要があります。そのためにはまずは子どもから事情を聴くことが第一に必要なことです。この時に、傾聴、受容、共感という考え方はとても役に立つ聴き取りのテクニックです。テクニックと言っても意識をして聞くだけのことですから、それほど難しいことはありません。子どもから話を聞くとき、どういうことに気を付ければよいのかということです。

第1は傾聴の姿勢です。「傾聴」とは、深く相手の話に耳を傾け、その人に焦点を当てて、相手の存在そのものを知ろうとすることである。表情、姿勢、ジャスチャー、感情、考え、話しの内容、沈黙さえも十分に観察し、その意味を考えていく。ということだそうです。

「親は事実関係が何もわからない」という事実を常に意識して、子どもからできる限りのことを聴き取る、聴き取った後に評価をしようということを気を付けるべきです。

子どもに対する傾聴で特に気を付けることは、子どもは暗示にかかりやすいということです。親が「暴力なんて振るわなかったよね」という形で聞くと、子どもはつい親がどう答えてほしいのかを考えてその期待通りに応えてしまうことがあります。

だから、親の方はできるだけ細かい質問をしないで、「どんなことがあったの?」くらいの質問をして、できるだけ自由に話させて、「それで」、「それからどうなったの」みたいなあいづちをうちながら聞いていくべきだと思います。こちら側が感情的な態度で聞くと子どもはこれを話してはいけないのかとか余計なことを考え出しますから、「聞き終わってから一緒に考える」という姿勢で、興味を持って聴くという姿勢が良いと思います。

そうすると、子どもは親が自分の話を聞いてくれているという感覚を持つことができますので、安心して話しやすくなります。一人前として扱われているような気持にもなれます。言葉が途切れたりしてもあせらずに、じっくり自発的に話し出すことを待ちましょう。言葉遣いを間違う場合もありますので、その言葉遣いが正確かどうか吟味するために質問形式でテストをすることも必要になると思います。

話しているときの子どもの態度の観察は重要です。しょげているのか、無理に気を張っているのか、何も考えていないのか、よく観察する必要があります。

次が受容です。「受容」とは、無条件の積極的関心をもつこと言う。相手の感情が否定的な感情であったとしても、そのままを受け入れることが必要である。と教科書では述べられているようです。

子どもの価値観は、二者択一的価値観の傾向があります。悪いことはだめ、良いことを助けるということを善としています。程度があまり考えられないのです。一度悪者だと評価してしまうと、相手の子は全人格的に悪だと決めつけてしまうことがあるようです。そうすると、配慮をしないどころかおよそ人間扱いしないような感情を持ちになり、その子に対する態度も無駄に厳しくなることがあります。

このような二者択一的な考えによって、わが子が友達のことをあしざまに否定することには親としては抵抗がある場合もあります。聞くに堪えないので、思わず話をさえぎって叱りつけたくなることもあるかもしれません。しかし、とりあえず最後まで話を聞き、我が子がそのような感情になったことを認める必要があります。子ども感情をありのままに受け止めてはじめて、どうしてそういう感情に至ったのかということに進むことができるわけです。確認作業の中で見落としていた事実を発見することもあります。

最後は共感です。共感を示しながら指導をしていくことが最も効率的です。

例えば、順番で遊具を使っていたのに、気の弱い子どもの前に横入りした子どもがいて、何人かでそれはだめだということで、ついその子の方を押してしまった子がいて、横入りした子が転んでしまった。横入りした子は肩を押した子に反撃をしたところ、周囲の子の中に横入りした子をやめさせようとして転ばせてしまった。気が付いたら膝小僧がけがをしていて血が出てしまい、横入りした子が泣き出してしまったという例を考えてみましょう。

この場合親が単に「相手に大勢で手を出してはだめだ」とだけ言って、乱暴者だという評価を我が子にしてしまったら、我が子は横入りをした子を注意したのにどうして自分が叱られるのか理解できずに価値観が混乱してしまう可能性があります。一気に結論を述べるのではなく、一緒に順を追って考えていきましょう。

横入りはだめだよね。弱い子に我慢させることも悪い子だよね。とここまでは共感ができるということを示すことが有効だと思います。でも、横入りをした子も、どうして横入りをしたのか、弱い子を狙ったのではなく、もしかしたら何らかの理由があるかもしれないので、「どうして横入りをするの?」と聞いてみることをしたらどうだろうかということで話を振ってみるのも良いと思います。

自分の価値観を肯定されたうえで、その上で何を考え、どうふるまうのかという話に流れていくと、子どもも反発なく話を聞くことができ、修正についても意欲的に取り組むことがよりしやすくなると思うのです。

およそ子どもどうしのトラブルの場合、どちらにも言い分があることが通常です。子どもの感覚のどの部分に問題があり、それをどうすればよかったのかということは、案外難しいことです。丁寧に聴き取って、こちらも本気になって考えなければならないと思います。

このような傾聴、受容、共感の技法での聞き取りは、本当はむしろ被害者とされた方の保護者こそ行うべきなのです。しかし、加害者とされた以上に被害者とされた方が冷静さは失われるものです。加害者とされた子どもに対する憎しみが先に出てしまい、正確な聴き取りが困難になるのは仕方がないことかもしれません。

しかし、もし、被害者とされた子どもも、加害者とされた子どもの攻撃を誘引しているところがあるならば、これを修正することは将来的にとても有益な作業になります。子どもが大人になって職場やママ友パパともの中で、攻撃を誘引する行動をとってしまうとかなり大きなダメージになるうえ、自分の子ども(孫ですね)も不利益を受けるかもしれません。この場合、自分の子どもからというよりも相手の子どもやその保護者の言い分を聞くということになるわけですが、頑張って傾聴、受容、共感のプロセスを使って自分の子どもの修正するべきポイントを把握することによって獲得できる利益は計り知れません。

一面的に被害者という立場に安住してしまい、全面的な同情や謝罪を受けていたのでは、もしかすると取り返しのつかない損をすることになるかもしれません。

親や学校等利害に敏感な人だけで話し合うことが困難である場合、外部の人間関係調整を取り扱い分野にしている弁護士などに、間に入ってもらって話を進めることも一手です。

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傾聴、受容、共感シリーズ2 夫婦に応用するカウンセリングの基礎技術 相手の小言は夫婦円満の千載一遇のチャンスであること [家事]



カウンセリングの基礎を勉強して、直後に夫婦問題の相談を受けていたら、カウンセリングの技法を夫婦の会話の技術に応用することができれば、円満な夫婦になるし、子どもに対して応用すれば問答無用でしかりつけることを回避して合理的なしつけができると感じました。

ただ、「こういう技術があるから応用しなさい」と言われてもなかなかぴんと来ないと思いますので、応用方法を考えてみます。

先ずは傾聴です。
「傾聴」とは、深く相手の話に耳を傾け、その人に焦点を当てて、相手の存在そのものを知ろうとすることである。表情、姿勢、ジャスチャー、感情、考え、話しの内容、沈黙さえも十分に観察し、その意味を考えていく。

いつも傾聴しているわけにはいかないのですが、ここぞというとき、相手が話を聞いてほしそうなとき、このスキルを応用しましょう。まずは聞く態度を作るということです。「あなたの話を聞いていますよ」というアッピールを態度で示すということです。

先ずは、リビングの椅子にでも腰かけましょう。その時間は話を聞く以外のことをしてはいけません。スマホは手放しましょう。近くにあるとつい触ってしまうので、手の届かないところに置きましょう。

「聞いてますよアッピール」としては相手の目を見ることが考えられますが、相手の目を見ることはなかなか苦しくなることがあります。必ずしも目を見て聞く必要はないと思います。少し視線を下を向けて顎のあたりや口元を見ていれば、苦しくなりにくいですし、「聞いている感」が損なわれません。時々相手の手を見て、握りしめていないかとか、立ち上がって襲ってこないかとか観察することはとても大事なことです。

そして絶妙なあいづちをしましょう。これが無ければ、聞いているのか別のことをボーっと考えているのかわからなくなり、概ね後者だと疑われて怒りだされてしまいます。

できるだけ、肯定的なあいづちが望ましいと思います。「そうね。」、「なるほど」、「確かに」、「そうかもしれないね」とかですかね。そして、聞き取れなかったところは「ごめん。聞き取れなかった」と言って聞き返すことも有効です。とりあえず、反論とか、間違いの指摘等については後で行うとして、先ず「話を聞く」ということを全力で行うことが第一に意識するべきであり、相手に態度で示すことが最優先だということになります。これが傾聴です。

夫婦の場合、これだけでだいぶ印象は良くなると思います。週に2回は、じっくり話を聞くということをしても良いのだと思います。夫婦の義務というほど特別なものではなく、おそらく話を聞いてもらえる、自分を理解しようとしてもらえるという意識は、「相手が自分の仲間だという意識」を作っていくものと思われます。こうしてあなたに対して安心感を持ってもらうことが目的でもあります。

仕事がら壊れた夫婦の形を見ている者としては、夫婦の一方が、自分が相手より有利な立場、優れているということを示そうとすることによって、夫婦の仲が壊れていくことを多く目撃しています。

壊れてみて初めて気が付くことですが、「相手と仲間であり続けること」ということが究極の人間の要望のようです。どうも特に男性は、女性と仲間であり続けるためには自分が有能であり、相手より優れていると思われることが有効だと勘違いして行動しているようなのです。しかし、それはいつしか、相手にとって居心地の悪さ、窮屈さを積み重ねてゆき、圧迫感や不快を感じさせてしまっていることが少なくないようです。有利なポジションとか優越的な地位ではなく、目指すべきは、あくまでも対等の関係性のようです。

次が「受容」という心構えです。
「受容」とは、無条件の積極的関心をもつこと言う。相手の感情が否定的な感情であったとしても、そのままを受け入れることが必要である。と教科書では述べられているようです。

相手の話を聞いていて、自分に対する不満が語られると、ふざけんなと思って、すかさず相手の話をさえぎって言い負かそうとすることがむしろ通常の夫婦かもしれません。また、相手が言っていることが、自分勝手な言い分だったり、不公平な話と感じたりすると、秒で反発心がわき、秒で反論が始まったりするわけです。これこそが受容と正反対の態度です。

この反発心や反論は、先ほど述べた相手との関係で自分が有利な立場に立ち続けなければならない、自分の方が優秀だと思わせなければならないという気持ちが強ければより強い形で現れます。

いつも間違いや足りないことを指摘されて、「へへへ」と笑ってばかりいたら、頼りのない人間だと思われてしまうかもしれませんが、「ああ、そうなんだ。それじゃあ、がんばってみるよ。」という態度を時折示すことは、何よりも、相手の問題意識をきちんと受け止めるし、相手の困りごとを解決するということでかなりのプラスのアッピールになります。相手も自分も、仲間の中で有用な人間、頼りになる人間だと思われたいという本能人間にはあるようです。

話をする方も、相手に否定的に受け止められてしまうかもしれないことを言うことが一番緊張することです。それでも話を嫌がらずに聞いて、自分の提案を受け入れてもらえるということは、安心感につながります。緊張から始まって、安心という心の動きは、快い気持ちになり、安心感の獲得も効果的になるようです。だから緊張のないところでは作ってあげることが難しいわけです。

相手に対する安心感とは、自分がどんな状態でも相手は自分を見捨てないということが究極の安心感です。小言を聞いてあげて提案に従うということは、この心のプロセスが期待できる貴重なチャンスなので積極的に活用しない手はないと思います。

最後は共感というポイントです。
「共感」とは、クライエントの私的な世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じ取ることであるが、クライエントの感情と同化するのではなく、クライアントの感情として自分の感情とは切り離してとらえ、クライエントの感情に振り回されないようにすることである。

夫婦の会話においては、傾聴と受容と共感は、段階を経て順番に行うことではなく、同時に行うことですが、それぞれ心構えが別なので、分けて話しているだけです。

自分勝手なことや事実と違うこと、聞くに堪えない身内の悪口等、なんぼなんでも否定してよいだろうと反射的に考えてしまうことが多いのは、むしろ一般的です。しかし、例えば夫が、道徳や正義感に基づいていちいち反論していくと、良いことは通常ありません。子どもにとってもマイナスなことが起きることが多いようです。

だから、週に1度か2度は、自分の正義感や道徳心、防衛本能を少しお休みさせることが有効です。それよりも相手のわがままだったり、甘えだったり、特別視してほしい気持ちを優先させるというサービスを行うということなのです。

反発をする前に、どうしてそういうことを言い出すのか、どうしてそういうことを言いたくなったのかその来歴を考える作業は、必ず仕事でも役に立つことです。ママ友など継続的人間関係を結ばなくてはならない時に自分に利益をもたらすことです。

達人クラスになると、ああ、そういえば明日健康診断を受けるからナーバスになっているだけだなと、八つ当たりであることもわかってくるようになります。言葉にしなくても家族の窮地を感じることはとても大切なことです。

ただ、どうしても、後々のことを考えて、相手の誤りを正したいということもあると思います。その際のテクニックとしては、先ず肯定できるところを必死で探し出しましょう。また、実際は違うけれど相手からすればそういう風に受け止めてしまうかもしれないという、自分ではない人間から見た評価は違うのかもしれないという発想も有効です。

例えば、確かにコロッケを一人で食べてしまったら、自分だけ得をしようとしてあなたに損をさせた、あなたは面白くないと思うのはわかる。でもコロッケがカビカビカビになっていて、子どもが食べたら危ないなと思ったから捨てるのももったいないし食べちゃったんだよ。ずるいことしようとしたわけじゃないんだ。
というような感じですね。

先ず、肯定する。その後で修正するという流れはとても大切です。

さらに傾聴と受容によって、相手方が何らかの不安や苦しみを感じている場合、こういうことであれば苦しいよね、不安だよねと言い当ててあげることによって安心感はますます大きくなりますし。そのあとの訂正もすんなり受け入れてもらいやすくなります。

先ほど、このような態度で相手の話を聞くということを週2回行いましょうと言いましたが、実際はなかなか難しいと思います。月1でもやるのとやらないのと大分違ってくると本当は思っています。

しかし、相手が言いたいことが何もなくても週に1度くらいは、自分たちの状態について点検したり、楽しい企画をすることで相手に向き合って話をする機会がある方が、安心感は大きくなることは間違いないと思います。

その時、ゲーム感覚で、傾聴、受容、共感ということをやってみることは、夫婦円満、家内安全を実現し、自分の社会的評判を上げる貴重なトレーニングになることでしょう。

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傾聴、受容,共感 刑事弁護、高葛藤者法律相談に活かすカウンセリングの基礎技法 話を聞く態度について [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


カウンセラーがクライアントから話を聞く態度として、一般に
傾聴
受容
共感
というポイントがあるようです。

正確には専門書などをお読みいただくとして、弁護士業務に応用がきくようにそれぞれの概念を私なりに整理してみますと

傾聴は、話を聞く態度で、主に相手から見える外形的な態度ということになると思います。受容は、心構えとでも言いますか。どちらかというと、聴く方の先入観を排したり、自然な反発や反応を排除したりという感じでしょうか。共感は、傾聴と受容を基盤として、相手方に対して自分の理解を示すということになろうかと思います。

定義的には、
「傾聴」とは、深く相手の話に耳を傾け、その人に焦点を当てて、相手の存在そのものを知ろうとすることである。表情、姿勢、ジャスチャー、感情、考え、話しの内容、沈黙さえも十分に観察し、その意味を考えていく。

「受容」とは、無条件の積極的関心をもつこと言う。相手の感情が否定的な感情であったとしても、そのままを受け入れることが必要である。

「共感的理解」とは、クライエントの私的な世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じ取ることであるが、クライエントの感情と同化するのではなく、クライアントの感情として自分の感情とは切り離してとらえ、クライエントの感情に振り回されないようにすることである。

と言われているようです。

傾聴とはどう傾聴するかということで、具体的な着眼点の例示がされていることは面白いですね。もっとも、通常の法律相談であれば、文字的な情報を正確に聴取することの方が大切です。ところが、法律的解決よりも、葛藤や感情の解決にもウエイトが置かれると、こういう文字的ではないノンバーバルコミュニケーションが重要になることは、意識した方が良いと感じました。感情が高ぶっている人は、言葉とは違うところに問題の所在があるということが少なくありません。自分からは話すことができないけれど聞いてほしいというサインを見逃してはならないということかもしれません。

弁護士が一番嫌うのは、相談者の沈黙かもしれません。弁護士の業務を機械的に考えると沈黙は情報が入ってこないので仕事にならないからです。ところが、相手の感情や葛藤等を知ろうとしていれば、沈黙の意味についても考えるという発想に立てます。

傾聴の効果として、相手が自分の話を熱心に聴こうとしているということを外形から見て取れます。自分の話を聞こうとすることは、自分について知りたがっている人がいるということです。だから自分にも人間としての価値があるという意識になり自尊感情が芽生えていくとのことでした。これは確かに信頼関係の基礎になるだろうなと実感できます。

受容と傾聴の違いも難しいし、受容と共感の違いも結構難しいと感じました。

ここでは受容については、聴く方の心構えという整理をしたのは、私なりにそれぞれの関係性を考えた結果です。

受容できない場面をお話しすると受容とは何かがわかってくるかもしれません。例えば弁護士が、自分の子どもをわき見運転していた運転手の自動車で引かれて長期入院を余儀なくされたことがあるとします。そうすると、交通事故を起こした被疑者と面談する場合に、その被疑者や被疑者の話を受容できなくなるというのです。個人的事情から受容できないような犯罪類型があれば、罪名を聞いて弁護を引き受けないということはありうることですし、被疑者被告人のためには引き受けない方が良いのかもしれません。

ただ、通常は、刑事事件という犯罪を犯した人であることは間違いありません。道徳心や正義感の強すぎる人が、一見身勝手と思える動機を聴いたり、安易に犯罪を行っていることにいちいち反発していたのでは、刑事弁護に向いていないのかもしれません。しかし、弁護士は、家で犯罪報道などをテレビで観て「許せん」と憤っていても、被疑者被告人には親身になるというタイプの人が多いので面白いところです。

また、葛藤の強い人の相談会では、恨みとか憎しみが強く、否定的感情があけすけに言葉に乗せられます。聴く方が感情的に反発したり、うんざりする場合も実際にはありうることです。しかし、よくよく話を聞いてみると、もしかしたら自分も同じような感情になってしまうような出来事だったのかもしれないという感覚が生まれてくることがあります。そうすると、その人のフェイク的な言葉と伝えたい言葉が色分けされてきて、人を試すようなフェイク的言葉をかき分けながらその人が真に伝えたい言葉を掘り出すという作業ができるようになります。

受容の条件として、相談担当者自身が自分を受容する必要があると言われています。自分の欠点や挫折を受け入れることによって、相談をする人を受け入れるようになれるというのです。

でももう一つ受容の条件として必要なことは、その人と自分は同じ人間であり、双方が特殊な人間ではなく、同じ条件であれば同じ反応をするのだろうという感覚というか人間観があることが受容が可能となる条件で、弁護士としては意識しなければならないところなのだと感じます。

共感については、これまでも何度か取り上げてきましたから、メモ的に羅列して終わります。

感情を追体験してしまうと、弁護士の仕事ができない。理性的にこういう環境にあると、こういう感情や行動に出てしまう(人間だから)という意味での共感にとどめるべきこと。

その人の犯罪に至る経緯や、葛藤の高まりに至る過程について、自分の理解を人間として自然な流れになっていることを確認すること。そして修正していくこと。

自分勝手に解釈しないで、可能な限り質問をしてみること。「こうだよねえ」ということだけでなく「こうではないものね」ということを述べて、相談者が担当者に対して、自分のことを理解しようとしてくれている、自分のことを理解してくれている、自分の行動や感情の肯定できる部分があることを認めてくれている。自分が否定されるだけの人間ではないことを認めていてくれている。自分は回復や立ち直りができると考えてくれていると感じていただくことが共感の作用として期待できる。

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現在進行形のいじめの中断を目的とした保護者がするべき行動についてのメモ [進化心理学、生理学、対人関係学]


現在進行形でいじめが起きていて、攻撃を受けている子どもが、教室に入れず保健室登校をしていたり、不登校になっていたりする場合で、一週間以上改善の兆しがない場合は、少なくとも保護者、学校職員の話し合いを行い、事態を重大化しない行動を起こさなければならないと思います。このような事態が長期に及ぶ場合、不登校の子どもが再び教室に戻ることがどんどん困難になるからです。

30日以上の不登校や、児童生徒の自死が起きてしまってからでは何もならないからです。重大事態になってからの行動は防止対策ではなく、事後対策でしかありません。

<子どもが安心して登校できる環境づくりを第一目的として動かさない>

1 保護者は、自分の感情よりも子どもたちの環境づくりを優先すること

いじめを受けていると認識している保護者にとっての第一のハードルは、自分の感情を制御するところにあります。自分の子どもが「死ね」とか、道具を隠されるとか、孤立させられていると感じた場合、怒りが起こるわけです。それはあまりにも当然の話です。しかし、怒りが優先してしまうと、自分の感情を晴らすことをつい目的としてしまいます。その結果、他の子どもの保護者や学校関係者の反発を買ってしまい、子どもが仲間として迎えられるということが遠ざかってしまうということが起きるのも、また当然のことです。

いじめをした方は反省をしておとなしくこちらの言い分を聞いてとにかく謝罪しろということももっともですが、そればかり要求していたら、その要求が通ったとしても、子どもはますます安心して教室で過ごすことができなくなることを考えなければなりません。こうするべきだ、こうあるべきだということにこだわると、子どもがますます不幸になるだけではないでしょうか。そしてそれは当事者である子どもがよくわかっていることです。

いじめていると言われた方の親は、自分の子どもがいじめをしているということを認めたくないことはもちろんですし、相手の子どもに原因があるということを主張したくなります。確証バイアスという心理効果で、自分の子どもに有利で相手の子どもに不利な資料ばかりを集めてしまうということも、この傾向を大きくしてしまいます。

学校の方も、被害者を主張する方の保護者の感情を持て余してしまい、加害者と名指しされた方の保護者からの反発を考えたり、要求が過大であることを説明することもためらわれたりして、被害者の保護者の方を疎ましく感じて話が混乱していく危険があります。

ここまでくると子どもたちが自主的に行動を改善するということは難しいと考えるべきです。先ず何よりも、いじめられているという子どもがクラスの中で安心して過ごす対策を第一にして、保護者は自分の感情を点検し、目的に反する行動を避けるということが、第1の超えなければならないハードルということになります。

実際は、なかなか難しいことですから、このような趣旨を理解する弁護士に動向を依頼するということも効果的です。

2 「いじめ」、「被害者」、「加害者」という言葉を極力使わない

いじめ防止対策推進法という法律はあるのですが、「いじめ」という言葉が日常の言葉と違う意味でつかわれていたり、「いじめを受けた児童」、「いじめを行った児童」と、二項対立的な考えで法律が作られているので、どうしても対立構造で子どもたちの行動を評価しがちな構造になっています。これは短い言葉で一般的な事態を規律する法律の宿命的な欠点です。

ところが、一般的な言葉の使い方では「いじめ」という言葉は、道徳的に許されない、加害性の大きな攻撃として使われているので、どうしてもいじめを行ったと言われてしまうと、自分の子どもがあたかも犯罪的な行動をしたと言われているように感じてしまいます。不道徳な子どもであり、親のしつけに問題があったと言われている気持ちになってしまいます。ここに反発が生じる原因があります。

いじめなんて言葉を使わない方が良いと思います。そんな抽象的な言葉ではなく、具体的にどんなことがあったのかをリアルに共有することをすることが大切で、かつそれで足りると思います。こういうことがあったら、言われた方がどのような気持ちになるのか、人生経験が長い親であれば難しい話ではなくなります。そのように共通理解をえるためには、無駄に評価を含んだいじめ、被害者、加害者という言葉は、邪魔になるだけなのです。

3 否定評価をするよりも行動を理解すること

子どもの行動も、子どもの立場に立てば理由のあることです。大人から見て不道理な行動であっても、その行動の出発点は共感できることが多いように感じてきました。例えば正義感から、不正義を行ったものを罰しようとして、相手を否定評価していくうちに、攻撃が常態化していくということがこれまでのいじめ事件ではよく見られています。

子どもは自分の感情をどう表現したらよいのか、そのパターンを習得しきれていません。大人だって、なかなか相手を傷つけないように自分の意見を言うことは難しいことです。

大人が子どもの出発点の理解を十分に行うことによって、子どもたちに行動パターンを指導することができるようになり、相手を傷つけない穏当な行動に修正することができるわけです。

現れた子どもの行動がやってはいけないことであっても、最初になぜそういう行動をしようとしたのかについては、大人が十分に理解することがいじめ解消の基盤になるということです。

4 保護者同士の連携が必須

例えば1週間、一人の子どもに対しての暴言や嫌がらせが止まらない場合は、学校の指導だけでは行動が終わらないと考えるべきです。子どもが、自分が行動する場合のルールが自分たちの子どもが作り上げたルールだけを基準としており、学校の指導が、子どもたちの行動に影響を与えていないということを厳しく見る必要があります。何らかの事情で学校が強力に子どもたちを指導できないという場合、児童との関係で学校に指導をする能力が欠落しているという場合等、複雑な事情が絡む場合があります。だからといって、学校に責任を追及しても、子どもが安心して教室に戻れるようにはなりません。強硬な行動指示、威圧的な指導をしてしまうことによって、子どもたちの反発が増大するということも考えなければなりません。それでは第一の目的に逆行してしまいます。

子どもも小学校高学年以上になれば、大人が一対一ではかなわないことがあることも事例として経験しています。ある中学校では、問題行動をする子どもを指導している教諭が孤立して援護のない状態になっていたため、生徒の暴走に歯止めをかけることができませんでした。大人同士が連携することが必須だと思います。

先ず、何が起きたかを正確に共有する。そして、その原因というか端緒になった子どもの考えを否定評価を後回しにして共有する。そして、どのように修正していくかを話し合ってアイデアを出し合う。そして子どもが教室に戻るという結論を共有する。

ここで具体的に有効的な策が見つからなくても、保護者同士が忙しい中で、子どもたちの利益のために連携している姿を見せることは、子どもに対して好ましい影響を与えていきます。価値観を示すことで子どもたち自身も修正を考え始めることが多いです。

くどいかもしれませんが、大人たちが自分を否定評価しようとしていると子どもが感じることは結果を遠ざけてしまいます。攻撃をしてしまった子どもたちにとっても、自分の利益を大人たちが考えてくれると感じることはとても大切です。

5 現代社会では失われがちな子どもたちみんなの成長の絶好の機会

結局やることは、
1 加害者被害者やいじめという言葉を使わないで、具体的に何があったかについて保護者が理解を共通にする。そして何らかの解決に向けた行動の必要性を共有する。

2 子どもたちの行動のきっかけについて理解を共有する。

3 子どもたちのその心情を建設的に表現するためにはどのような行動をするべきだと指導するかについて共有する。

4 子ども一人一人が安心して教室で過ごすことができるという目的を共有する。

これだけのことです。

ただ、実際にこれを行うためには、いじめとか内申書とか、損害賠償とか余計なハードルが出てくるので話が複雑になるということが現実です。

なかなか保護者の会合に参加することも、忙しいということもあっておっくうになります。主催をする「人」がいない場合も少なくないでしょう。

しかし、この行動に参加することは、子どもにとっても大人にとっても、自分の人間関係で生活するためにとても有意義なことです。

私は仕事柄、離婚事件や職場の人間関係の問題など、人間関係が修復できなくなり、苦しむ人をたくさん見てきました。多くは、単に修復する経験がなく、修復する方法を知らず、修復するという発想すら持てないということが多いように感じています。本当はとても大切な人生のパートナーと呼ぶべき人を知らないうちに攻撃してしまい、人生を暗いものにする人もいます。また、素朴な正義感から相手の感情を考えずに行動を起こしてしまい、会社や友人間や社会の中で孤立してしまう人も見ています。

孤立している人たちの苦しみはとても悲惨です。ところが現代社会では、人間関係の修復とは反対方向の孤立に向かう「支援」がたくさん横行しています。修正をするという選択肢を持たないまま絶望に向かっていく人たちをたくさん見ています。

このような社会の中で、自分や自分と関係のある人間の孤立を防いで、人間関係を修復するという経験は、子どもたち一人一人の今後の人生を救うかもしれないとても貴重な体験になります。

特に自分の行動によって、他者がどのような感情を抱くかというということを考えることは、色々な誤りを防ぐ特効薬ともなります。

誰かが孤立する人間関係は、別の誰かが孤立しやすい人間関係です。自分の人間関係の中で孤立している人が出ても平気な気持ちを持ってしまうことは、なかなか修復できない恐ろしいことです。

できるだけを多くの関係者が知恵を出し合うということを目撃するだけでも、子どもの人生にとって有意義なことになります。積極的に機会を設けて話し合いの場を作ることをお勧めします。

すべての子ども、保護者の利害は共通なのです。このため進行中の出来事を改善するためには、「いじめ」とか、「被害者」、「加害者」あるいは制裁、処分という言葉は使わないで、全員の利益、子供たちの成長のための話し合いだということを徹底することが解決の道だと思います。

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アフターコロナで、若者が学校に登校できなくなる理由 夏休み明けに若者が自殺をする危険性との類似点 孤立者は孤立を選ぶようになるメカニズム [進化心理学、生理学、対人関係学]



令和5年6月4日、NHKスペシャルで、「アフターコロナが到来 人と接するのがツラい 世界で広がる対人不安 脳の異変を科学で解明」という番組がありました。興味深かったです。脳の画像データを使った話はとても説得力がありました。まさに対人関係学でした。

コメンテーターのおひとりに、明和政子先生がいらっしゃっていろいろお話をしていただきました。私は先生の影響を受けていると自負していますので、予備知識をもって番組を見ることが出たということはあると思います。

この番組では、アフターコロナで、大学生がそれまでのリモート授業が終わって出席が求められるようになったけれど、2割くらいの学生が出席できなくなっているという現象に焦点を当てました。ここに何かあるはずだという視点はとても素晴らしいと思いました。

<孤立の不安の出どこ>

先ず、人間は孤立を恐れており、孤立を自覚すると集団の中に入ろうとすることを進化の過程で獲得したということを述べています。これだとやや誤解を受けるかもしれないので勝手に補足しておきます。何百万年もの間、集団でいないと肉食獣に食べられてしまうという現実があり、そのために集団の中にいないことに不安を感じて集団の中に入ろうとするようになったという説明の仕方がされたように思いました。

ただ、進化の過程で獲得した主体は個別の人間ではなく、総体の種としての人間です。突然変異で、そのような孤立を嫌がり、集団の中にいたいという「心」を持つ者たちがたまたま表れて、こういう心を持ったために集団を形成するようになった、集団を作ったら、肉食獣にも対抗でき、食料の獲得もスムーズになったために生き残ることができた。逆にこういう「心」というシステムを持たなかった人間は、飢えて死ぬか、肉食獣の餌食になって死ぬのかはともかく、群れを作れなかったので死滅してしまった。こうして「心」を持つ者の子孫だけが生き残ったので、人間はそのような心を持つという特徴を持つようになった。
という説明の方が誤解を招かないでよいと思います。

<本来リアルに会話をしたいのが人間当科学的根拠>

そして脳の血流など画像検査によって、様々なことがわかってきました。

ある実験は、食べ物を食べさせないで一定時間おいた人間が食べ物を見て食べたいと渇望するよりも、
一定時間孤立した環境において、その後人間集団を見たときに仲間に入りたいと渇望する方が、より大きな感情になるということが示されました。

また、人間は直接会って会話をしていると感情の同機(話者同士の感情が同じように変化する)が脳内で起きるけれども、リモートでの会話では感情の同機が生じないということも示していました。
<問題提起>

それでは、アフターコロナでリモートが終わって、直接会って会話ができるようになったにもかかわらず、大学生の中で大学に登校できなくなる人が2割くらいに上るが、それはどうしてか。
という疑問が出てくるわけです。
<孤立の有無で分けて考える>

番組は膨大な論文を分析して、アフターコロナの影響を、常日頃孤立を感じている人と孤立を感じていない人と分けた論文を紹介していました。ここは素晴らしい視点だと思います。

実験以前から孤立を感じている人は、人と会えない時間を作って集団の写真を見せても、孤立していない人に比べて、それを求める脳の活動が少なかったとのことでした。
日常の中で孤立を感じている者は、積極的に他者の中に入っていこうとする通常の欲求が起きないということです。

また、孤立をしている人は、火山の爆発などの写真よりも人間通しの対立の写真(暴行の写真)を見るほうが、恐怖心が強まるということも示されていました。

日常の中で孤立している者は、「人間というものは警戒するべきもの(危険なもの)である」と感じているようです。だから、これから新たに人間関係を形成することを考えると、嫌なことばかりが想定されてしまうために、人間とかかわりたいと思わなくないということのようです。つまり、人間の中にいるデメリットの方が、孤立しているデメリットよりも大きいと感じてしまっているのでしょう。

<他者への軽快を解除する通常のパターン>

明和先生は、人間にとって他の人間とは、仲間になりたい半面、恐れを感じているというそういうアンビバレントな存在だというようなことをおっしゃったと思います。これは大変奥行きのあるお話です。短時間だったので十分な説明ができなかったのだと思いますので、勝手に補足したいと思います。

先ずは、明和先生のおっしゃるように、人間は矛盾した気持ちを他者に抱いているということは真理だと思います。こう考えるといろいろなことが説明することができるようになります。

人間は基本的に、他者を怖がるということを真理だとしましょう。ではどうやって社会を形成できるようになるか。どこかで怖がることを部分的にでも解除しなければ人間関係は形成できません。それは赤ん坊の時に自分の親(親的立場の人)との信頼関係を築いていくことから始まると思います。親という自分以外の他者に対しての安心感、自分の要求を実現してくれる存在だという認識、安心感を育てていくのだと思います。

そして親子関係というベースキャンプを少しずつはみだし、近所の人とか、良く合う人、幼稚園や保育所の友達や先生と人間関係を広げていくわけです。このためには、それらの人が自分に対して悪いことをしないということを学習していく必要があります。必ずしも順調に広がるわけではないにしても、少しずつ安心できる人間を増得ていくことが通常の社会です。そこから先は個性によってだいぶ違うのですが、人間は基本的に信頼できる、安心できる存在だと学習を続けして、誰とでも打ち解けて話ができる人ができる場合もあるでしょう。あるいは、打ち解けることができる人と打ち解けてはいけない人がいる等と部分的に警戒心を解かない場合と、そのバリエーションが生まれていくわけです。

安心体験が変化していくことによって、その時その時の人間観というものが形成されていくのだと思います。これは主として、他人に対してどの程度危険性を感じなくなるか、つまり安心感の獲得によって警戒心を解くという「馴れ」が生じるということで説明できるのではないかと考えています。

馴れと言っても単純ではなく、例えばここまで言っても大丈夫で、それ以上言わなければトラブルにはならないとか、ニコニコしていれば攻撃されないだろうとか、その人なりの条件を無意識につけながらも、警戒心を緩めるのだと思います。

そうして通常は、一度築いた人間関係であれば、相当期間会えない時間が続いても、警戒心が解除されたままになっているので、久しぶりに出会ってもすぐに打ち解けて話せるし、話せることを予想していますので、できるならば会いたいという渇望も強くなるのだと思います。

<孤立を感じている人の人間観>

今回の実験で孤立を感じているか否かで分けて考えたことは素晴らしいのですが、結局孤立をどうとらえていたのかよくわからないところもあります。一口に孤立と言っても、別の概念が一緒くたになっていないか警戒するべきポイントでもありました。

先天的に他者とのかかわりが怖い、警戒心を解いていない場合もあるでしょうし、赤ん坊のころ、あるいは社会性を身に着けたころ、あるいは小学校入学時以降に警戒心を強めなくてはならない事情がある場合等、様々な孤立感の理由が考えられます。

元々人間は他の人間を怖がっていて、学習によって警戒心を解くというのであれば、警戒心を解いたことで痛い目にあったという経験をすれば、人間は警戒するべき存在だという元の感覚に戻ってしまうということは、孤立者は孤立を選ぶということを良く説明できると思います。

孤立感と、実際に孤立しているかどうかは、必ずしも連動していません。それなりに、友達と仲良くやっているように見える場合でも、実際は孤立感を強く抱いている場合もあります。

この場合は、友人に対する警戒心を解かないまま、相手から自分が拒否されないように常に慎重に行動をしていた場合が想定できます。もちろん、それなりに友達と笑いあったり、一緒に行動して楽しんだりしているのですが、本人はそれ自体も努力をしていて、しんどさも感じているような場合です。友達の仮面を努力でかぶり続けているわけです。

また、原体験が無くても友達付き合いがしんどいと感じる性格というものもあると思います。

もしかすると、現代日本では結構大きな割合の子どもたちが、このように苦労と努力をして友達関係を維持しているのかもしれません。

警戒心を維持しているとしても、常に一緒にいれば、流れの中でそれなりに折り合いを見つけて、表面的には平穏な日常、学校生活を送っているのかもしれません。しかし、リモートなどの交流だけが続くと、人間関係に気を使って生活する必要が無くなりますので、警戒心に基づいての人間関係の工夫をする必要が無いので、いつしか忘れてしまいます。工夫をしていた、無理をしていた、気を使っていたという記憶だけが残り、また一からこういう関係を作らなければならないと考えることは、それはしんどいことだと思います。

うまくいっていた事情の記憶が無くなっていて、うまくいかなくなるのではないかという不安や、うまくいくために相当神経を使わなければならないのではないかという不安ばかりがわいてくるわけです。

つまり友達と一緒にいるときに警戒心が解かれるのは、一緒にいるという生活が継続しているからこそ可能になると思うのです。一緒にいる時間が無くなれば、元の他人に戻り、警戒感も戻ることはそれほど異常なことではないように思うのです。通常ではない少数派かもしれませんが、人間としてはむしろ正常だと思います。

私が子どもの頃の夏休みに、ちょうど中間の日が登校日になっていましたが、それなりの理由があって登校日が作られていたと今になると思います。馴れを復元する効果があったのだと思います。

<再会のしんどさを増大させるいじめ体験>

孤立感を感じている要因として想定するべきことはいじめ体験です。原因のはっきりしないいじめである場合はなおさら、他者に対する警戒心が固く維持されるようになってしまいます。

普通に見えるように対人関係の折り合いをつけることを、いじめを体験していない場合に比べて、相当強く努力し、神経を使い、考えています。相当精神力を消耗してきたわけです。

リモートで日常に戻って、安心できる家族との生活に慣れきってしまうと、またあの努力を一からしなくてはならないというしんどさに加えて、またいじめられたらどうしようという恐怖を伴った不安を感じてしまうことも当然のことかもしれません。

単なる疎外ではなく、周囲から一斉に攻撃される恐怖、味方が誰もいないという恐怖はかなり強烈なものであるはずです。

いじめには追い詰められる孤独の強さの大小はあるにせよ、いじめ体験のある子どもたちは想像以上にいるようです。一度強いいじめの経験をした子は、その時すでにいじめが止まっていたとしても、人間関係の再構築がとてもしんどく感じるようです。夏休み明けやゴールデンウィークあけに子どもたちの自死が起きる原因に、このような警戒心の再構築のしんどさがあると私は思っています。もっと時間が空いたアフターコロナでは当然そのような再会についての拒否感情が生まれているはずです。

小中学校であればなおさらなのですが、高校や大学であったとしても、リモート授業から実際の面談授業に復帰する場合は、警戒心を解くための何らかの安心感を獲得するためのアクションが必要な時代になったのかもしれません。

警戒心を解けない子どもたちは、その子どもたちの成長が未発達であるという自分に責任があるのではなく、それまでの人間関係のトラブルの結果であることがむしろ多くなっているのではないでしょうか。社会的な対応が求められる時代になったと言えるのではないかと考えています。

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