【実務編】夫婦の別居の際に関係修復に絶望した時に考えてみてください。自分の無意識の価値観を自覚して修正する方向 [家事]
前回の記事をお読みいただくとより分かりやすくなると思います。
夫婦のどちらかが、一方的に別居して、離婚調停を申し立てるというパターンが一向に減りません。妻が子どもを連れて出ていくパターンが多いのですが、最近は夫が一人で出ていくパターンも増えています。
また、最近特に増えているのは、出ていかれた方が、何とか再生をしてまた家族で暮らしたいと意欲をお持ちの方です。ニーズは増えているのですが、それに対応する弁護士は少ないようで、私のところに遠方から、新幹線を乗り継いだり、飛行機を利用したりしてご事務所に相談においでになる方もいらっしゃいます。現在、北海道と関西の事件も担当しています。
そのようにお金と時間を使ってご相談に見えても、なかなか再生の行動を続けること、夫婦再生の意欲を持ち続けることは難しいことのようです。くじけてしまう一番の理由は、再生の展望を持てないところにあるようです。
再生の糸口は、実は男女の価値観の傾向の違いを意識するところにあると感じています。これは前回の記事で原理論理を説明しています。
夫の価値観は合理性を最優先する傾向にあり、妻の価値観は(自分の)感情、立場を尊重してほしいということを優先する傾向にあるということです。
一例として、妻が子どもを連れて出て行ったというケースを見てみましょう。
夫は、妻を非難するわけです。突然出ていかれて、子どもと引き離されてしまえば怒ることは当然です。ただ、怒った感情を例えばラインに書いてしまうと相手の思うつぼで、「このラインのとおり、夫は自分に対して容赦のない叱責を行って、自分を罵倒してきた。」と裁判で証拠とされてしまうわけです。
夫の発想は間違ってはいません。子どもは、自分に原因が無いのに、父親から離され、通っていた幼稚園の友達や先生からも離され、生まれた時からずっと過ごしてきた家も奪われるわけです。連れ去りは子どもを孤立させ、精神的に不安定にさせ、将来的にも子どもにとって深刻な不利益を与える行為であることは私もそう思います。
しかし、夫がそのことで妻を責めても、妻は「その原因は夫にある。」と開き直り、結局は子どもは父親と会えない状態がさらに続くだけなのです。妻側は、これまでの夫と妻だけの人間関係で行動しているのではなく、「支援者」の応援を得て、夫から攻撃を受けても届かない場所にいます。
それでも夫は妻の行動は不合理だと正論を発し続けるわけです。
しかし、「不合理だ。」という主張では、相手も、行政も、家庭裁判所に対しても有効ポイントを勝ち取ることができません。むしろ相手の態度を硬化させるというデメリットしかありません。
子どもが父親に会えないことが不合理ならば、少しでも会えるようにするべきです。最終的には一緒に暮らすように家族を再生するという方法しかありません。この目標に対して、法律も行政も裁判所も、あてにならないということは、頭ではわかっているはずなのに、こちら側は有効ポイントを獲得しようという発想を持てず、合理性最優先の信仰にも似た価値観に基づいて戦略のない攻撃を続けているだけです。
しかし、妻は合理性に価値を置いてはいません。不合理だということは事実ですが、相手の弱点ではないのですし、それによって考えを改めるきっかけになりません。何もメリットがありません。
このため、一方で合理性の価値観で相手を責める気持ちばかりが出てきてしまうけれど、結論はまた一緒に暮らしたいということで、どうしたらよいのか途方に暮れるし、どうしようもないという絶望が出てきてしまいます。
だから、夫婦再生を目指すならば、先ずしなくてはならないことは、妻の行動は不合理だと言って非難することをやめることです。
これは、あなたの感情、気持ちまで変えろと言っているわけではないことに注意していただきたいと思います。不合理だと思うことをやめろというわけではなく、それを妻に向けて発信しないということを提案しているだけなのです。
合理性の価値観を捨てて、相手の感情を尊重し、相手に自分について安心してもらう方法を考えていくという価値観のチェンジをすることで展望が見えてきます。
しかし、このように自分の価値観を自覚すること、それは唯一絶対の価値ではないということに気が付くことはとても難しいことです。さらに、自分の気持ちに反する行動をするということですから、ついつい自分の気持ちに合わせた行動をしてしまうことも人間なので仕方がないことかもしれません。
合理性の価値観を否定することは、とても頼りなく感じることなのかもしれません。他者の感情や立場を尊重する価値観は、特に男性にとっては、なかなか現代日本では習得する機会がないのかもしれません。
ただ、この価値観に基づいた行動とはどんなことかを考え、行動を実践することによって、目標を達成することはできない場合であっても、目標に近づくことは間違いありません。無意識にでも家族との距離を遠ざける合理的価値観にとらわれていても良いことは何もないはずです。
目標から遠ざからず、目標に近づくことは、遅すぎるということはないのではないでしょうか。
【原理論理編】男女の価値観が違うという意味と由来について 発想、価値観の違う相手は理解しようとしなければ理解できない。 [進化心理学、生理学、対人関係学]
男性と女性では価値観や発想が大きく異なることが多くあります。進化生物学的にその理由が説明されています。人間の心ができたとされる約200万年前の狩猟採取時代、人間は30人くらいの群れで生活しており、男性は10人弱くらいでイノシシなどを狩り、女性は子どもや老人の世話をしながら狩りに失敗した時に備えて食べられる植物を採取していたとされます。
このような進化生物学の知見に対して、フェミニストの一部が、「それでは女性は男性に太古から養われていたことになるので、この見解は世に出すな」という抗議が来たそうです。この抗議に現在の女性の生きにくさの根源があるように思われます。
これがどういうことかを説明していきます。
先ず、集団で狩りをする男性の意識について考えていきます。狩りをする以上、獲物をしとめなければなりません。獲物を逃がしてしまうと、動物性たんぱく質が取れず、エネルギーが不足して弱ってしまいます。もちろん動物は全力で逃げます。だから、男性は相手を弱らせて確実に仕留めるために、もっとも合理的な方法を選択することに価値を置く発想を持つようになります。仲間や獲物の立場は二の次です。また、合理的ではない勝手な行動をすると厳しく否定評価もされたことでしょう。
女性の方は、それほど厳しく何かをするわけではなく、年寄りが安心して過ごし、子どもたちが安心して過ごすことが使命ですから、相手の感情を大切にしようとします。相手の立場を傷つけることは群れが弱くなりますから、相手を大切にできない群れの構成員が多い場合は群れ全体が滅びてしまったことでしょう。
ただ、一部のフェミニストが言うように、だからと言って女性が男性に依存していたわけではありません。小動物を狩れなかった場合は女性が用意した植物食べる必要があったのです。また、世話をするものがいないため子どもや年寄りがいなくなれば、頭数が減るばかりではなく、構成員が先細りになり群れが死滅してしまうからです。
おそらく、女性が小動物の狩りに行かなかった理由は、流産を避けることにあり、女性が狩りをしない群れは子孫が多く生まれてきたので、徐々に女性が狩りをしない風習が生まれただけだと思います。もちろん植物採取チームにも肉食獣から襲われる危険はあります。女性たちは年寄りや子どもというハンディキャップを抱えながら勇敢にたたかったものと思われます。
このような役割分担ができたために、人類は餓死をせずに生き延びてきたわけです。男性の狩りも、女性の植物採取も人類が生き残るために必要不可欠であり、どちらが偉いとかそういうことはなく、食糧分配も平等であったと言われています。これは近年の狩猟採集民族の調査からも同様の結論だったようです。
結論として、男性はより合理性に価値を置き、女性はより感情、立場に価値を置くようになっていったことは優に推測できることだと思います。
現代社会は、生産性を重視していて、少なくとも働く人たちの一般的な価値観は意識をしなければ、合理性優位の価値観になりがちだと思われます。ただ、対人関係学的労務管理では、相手の立場、感情を満足させることによってモチベーションを高めて生産性を高めていくという戦略をとるので、ハイブリッドの考え方ということになるのですが、ここではこれ以上触れません。
第2波までのフェミニズムの傾向は、男性も人間の感情、協調の価値観を持つことによって、平和な社会を実現しようというものでした。第3波の価値観は、女性も合理性重視の価値観を持てるし、その能力は男性と差がないというもので、性差はすべて社会的なもので後付けの説明だと主張するのではないでしょうか。
つまり、最近のフェミニズムの価値観は、女性も合理性の価値観をもち、男性並みに働く能力がある。女性がもっと就労と昇進の機会を得て、働かせるべきだと、それが女性にとっても輝くことだと主張しているように思えてなりません。だから家族の中の女性の役割を主張することは、不当に女性を拘束し、男性に隷属化させているという主張に思えてなりません。
確かに、世の中を見れば、職場で活躍する女性は増えていますし、女性だから何かができない、男性より劣っているという考え方は間違っているということはその通りだと思います。
企業の中で、このような単一の価値観で行動をすることは、あるいは合理性があるかもしれません。
しかし、この考え方が、家庭にまで入ってきてしまって、夫婦や家族の仲間で合理性が最優先の価値観をもってしまい、収拾がつかなくなっているということが、離婚になりやすい原因、修復がしにくい原因となっていると常々感じています。
確かにそれぞれが思う最低限度の生活を維持することが家族では必要です。欲望の赴くままにお金を使ってしまってはこれができなくなりますから、最低限度の合理性は必要です。
しかし、合理性だけに価値を置いて行動してしまうと、毎日が緊張の連続となり、息が詰まり、どちらかが家に帰りたくなくなってしまいます。そして、合理性を徹底する相手方から、「合理的ではない」と責められてしまっては、顔を見るのも嫌になったり恐怖を感じたりもするでしょう。
そうしてどちらかが家族であることをやめてしまうわけです。また、別の夫婦では、相手が合理的にふるまわないからと言って、離脱する場合もあります。
合理性の価値観を持つことは間違いではありません。しかし、それが優先するあまり、協調の価値観や、立場や感情の尊重というもう一方の価値観が失われてしまうと、その人間関係は生きづらい人間関係で、長続きしないと思われます。
外で働くことや合理性が、無条件に優先される価値観だという主張は、人間関係を暖かいものにしよう、安心できる人間関係にしようという価値観を劣後させてしまいます。少なくともその調和が無ければどちらかが疲れてしまい、生きづらくなるわけです。
先ほど述べた200万年ほど前の男たちは、狩りの時の強い緊張感が、狩りの成功によって解放され、喜びと高揚感を持って女性たちの元に戻ってきたことでしょう。そこで自分が感謝されて、大事されるという協調の価値観で満たされたからではないかと思うのです。逆にそこでも女性たちから合理性の価値観での行動を強いられたら、男性たちは帰ることをやめて、人類はとっくに滅んでいたのではないかと想像してみる私でした。
DV法下の家裁離婚実務は、妻である女性を普通の女性を苦しめているという実態を生んでいる。 [家事]
最近女性からのご依頼が増えています。その中で、私の心配していたことがとても鮮やかに現実のものとなっているので、事案をぼかして紹介します。
<DV法下の家裁実務とは>
DV法以前の家裁実務との様変わりは、通常は妻側が夫のDVを理由に、夫と同居していた家から子どもを連れて出ていき、夫から居場所を隠したり、実家にかくまわれたりして別居を開始します。その上で保護命令を申し立てたり、離婚調停を申し立てたりして離婚に持ち込もうとします。
DVということで、裁判所は過剰とも思える配慮をして、それまでは最初と最後は同席が多かった調停も、一緒の場所で顔を合わせないようにしますので、調停が終わるまで一度も顔を合わせないで離婚になってしまうということがむしろ一般化しています。
そして、破綻理由について吟味をせずに、
別居の事実
離婚の堅い意思
だけで頑張れば離婚の判決が出て離婚が実現するというパターンです。
<精神的DVの拡大>
DV法も当初は、身体的暴力が中心でした。実際の行政対応でも、妻の身体的暴力は不問に付されて、妻が身体的暴力をふるっていても、夫が妻や子に身体的暴力をふるえば、その暴力の程度や理由も吟味されず、離婚に向かって進んでいきました。
現在、「DV」概念が変わり、精神的DVもDVの中に入ることが強調されてきました。これは、私はとても心配がありました。なぜならば、精神的DVを行うのは、私の実務的経験からは妻側が多いということからでした。
それでも行政は、一部を除いて、相変わらず、妻の精神的DVは不問に付して、夫の妻に対する精神的DVだけを取り上げて、妻を支援していました。
ところが、弁護士の中には、同じDVだということで、妻側の精神的不安定に基づく感情的な言動をもって精神的DVだと主張をする人たちが増えてきました。そして夫側が、妻のヒステリーを録音するようになって証拠を残すようになってきています。
私は、程度もありますが、妻のヒステリーは、ある意味仕方がないものがあるため、このようなことを離婚理由とするべきではなく、適切に働きかけて修復していくべきだという強い信念があります。
しかし、DV法下の家裁実務しか知らない弁護士たちは、証拠のある妻の精神的DVを夫から相談されれば、
・ 別居しなさい
・ その後に離婚調停を申し立てなさい
・ いろいろな理屈をつけて婚姻費用を減額する
という離婚しか解決手段をもたないで、じっさい、夫は修復を迷っているのに、離婚の指導をしてしまっているようなのです。
そうです。まさにDV法下での女性側の弁護士が行っていたことがそっくり夫側の弁護士が手本にして実践しているわけです。
夫は子育てや家計から解放されて、自分の趣味や自由な交際に時間やお金を使っています。妻は子育てをワンオペで強いられて、精神的にかなり不安定さを増している状態になっています。
法律や行政や弁護士が、マニュアルに沿って夫婦を分かれさせるという偏った結果だけを是として行われたことによって、普通のけなげに頑張っている女性たちが辛い思いをしているわけです。
DV法下の家裁実務の行きつく先を垣間見ているような気がしています。
DV法下の家裁実務に反対し続けてきたことは決して間違っていなかったと確信している次第です。
妻側からの家族再生の相談が急増 その心配な背景 [家事]
3月に入って、無料相談会や事務所へのこのブログを読んでの面談相談で、妻側が夫に対して家族再生を提案しているという事例が増えてきています。
本来の対人関係学とは、紛争予防にとどまるものではなく、家族などの人間関係を円滑にして、みんなが安心して生活をするための学問です。こういった家族再生の相談に対応するためのものですから、対人関係学を屈指してご一緒に考えていきます。とても楽しく頭を使えるわけです。
再生の相談の中では、
何が相手から安心感を奪っているかを探求し、
これまでの成功例を踏まえながら、
これまでの自分の言動をどのように修正するか、
お互いに尊重しあう関係にどのように誘導していくか
ということを考えていきます。
そして、再生が必要な度合い、つまり、逆にうまくいかない程度によって、法律相談で終わって当事者で解決するパターン、私が代理人になって調停や話し合いをするパターンとバリエーションがあります。
私のところにこのような相談が多く寄せられることは、私としてはありがたいことです。しかし、いろいろと心配なことが見え隠れしています。
<弁護士に相談に行くと 夫婦再生希望なのに離婚を勧められる>
これは、前々から、私のところにたどり着いた方がよく言っていることです。何人もの弁護士に相談に行くのですが、決まって最後は弁護士から離婚する場合の条件について話を詰めるように言われるというのです。
恐ろしい話だと思います。
食事をしにレストランに入ったのに、「うちはデザートしか作ることができませんので、ぜひパフェを注文してください。」と言っているようなものだと思います。
この人たちは、夫婦の再生については相談に乗るつもりが無いようです。
離婚の法的手続きについては勉強すれば誰でもわかりますが、再生については様々な事例と向き合い、様々考えなければ相談に乗ることができません。
相談者の相談したいことではなく、自分ができる方法で依頼を受けるということですから、無理を通していることになると私は思います。
そもそも再生のノウハウが無くて、離婚の調停や裁判を維持することが本当にできるのか、根本的な疑問もあります。
離婚というのは、数々のライフイベント調査によって、人間の人生にとって最上級の精神的ダメージを受けることだとされています。それを自分が再生のノウハウがないからと言って、依頼者の意思に反して離婚に誘導するということは、依頼者にとっても不誠実ですし、相手方という人権主体である人間に対しても冒涜のような気がしてなりません。
少なくとも
①離婚をしたい理由が、主として相手の言動に起因しているというよりも、本人の精神的な状態を反映していることではないこと
②具体的な破綻事由があり、その存在の裏付けられており、程度が明らかなこと
③回復の可能性が無いこと
という条件をクリアしてから離婚の選択をするべきだと思います。
特に、夫婦に子どもがいる場合は
④子ども利益を考慮しても離婚以外に選択肢が無いこと
⑤両親の離婚による子どもの不利益を軽減するべき行動を計画すること
があって離婚という選択が支持されるべきだと思うのです。
国民の皆さんは注意して弁護士に相談するべきです。
このような考えを持っている弁護士は少数派になってきているようです。少なくとも簡単にアクセスできるわけではなさそうです。