二つの人権概念というアイデア 司法としての人権と普及啓発としての人権、ドナ・ヒックスの「Dignity」 [弁護士会 民主主義 人権]
急に講演依頼が舞い込み、いろいろな絡みから積極的に引き受けたのですが、実施が向こう10日間で3件続くことになりました。公的な機関で、人権のお話をしてきます。
私は14年前から宮城県の人権普及啓発の仕事をしています。最初に戸惑ったのは、人権の普及啓発の仕事の場合に想定する人権侵害は、国家機関からの侵害でもなく、裁判所によって権利回復をするというものでもありませんでした。
どういうことかというと、法律家は、人権や権利という概念を国家権力と関連付けて把握することが正解とされています。ところが、人権啓発は、例えば家庭の中の人権の充足を提唱するとか、私人相互が気遣いながら人権侵害を予防しようと呼びかけるなどの活動をしているわけです。明らかに司法的概念としての人権ではないというところに戸惑い、考え続けてきました。
割と理論的な悩みであり、実務的にはどうしても解決しなければならないという問題ではないかもしれません。
さて、そんなときに、ドナ・ヒックスの「DIGNITY」(幻冬舎)を読み、「これは使える」と思った次第です。何年か前に勝っておいて読まなかったのですが、出張の際に新幹線で読むものを探して読んでみました。
ドナ・ヒックスは、ハーバード大学の教授で心理学者です。国際紛争の当事者(イスラエル人とパレスチナ人とか、アイルランド人とイングランド人とか)の対話を間に入って成功させている実績のある方です。
彼女の主張は、人間には生まれながらにして尊厳を持っている。この尊厳が侵害された時、人間は戦うか逃げるかという反応をしてしまい、戦うことを選択すると紛争が起きてしまう。尊厳が尊重されることは紛争を予防するだけでなく、一度起きた紛争について、相手と自分が尊厳を侵害されたポイントを理解しあうことが解決の大きな一歩になるということをお話ししています。
国際紛争の際の相互理解がテーマとなっているのですが、この考え方は家庭や職場、生徒の間でも使える考え方です。もちろん対人関係学は、この尊厳の正体は、人間が群れで暮らす本能に根付いていることを主張しているのですが、ここは我を引っ込めて、ドナ・ヒックスを活用させていただくことがむしろ得策だと割り切ってお話を進めることにしています。
ドナ・ヒックスは、尊厳が充足されている10の要素を提案します。逆にこの10の要素のいずれかに問題があると尊厳が侵害されているというわけです。
この10の要素は、理論的というよりも、経験的に例示列挙されたものです。日本語と英語のハンディもあるのでしょう、重複しているのではないかと思うものや次元が違うのではないかと思われるものもあるように感じます。それでもある程度類型的に具体化されているために、尊厳状態のチェックが簡単にできるところが強みです。
ドナ・ヒックスの尊厳の概念を学んで思ったのですが、私が人権の普及啓発の場で訴えていたことは、他者の尊厳を守ろうということと言ってもそれほど違いはないようことに気が付きました。人権ではなく尊厳に置き換えて話すことが実務的です。しかし、人権の話を頼んだのに、人権という言葉出てこないというのも具合が悪いです。
尊厳の話が人権の話だということが分かりやすく説明する必要があると思いました。そこでふとひらめいたのです。人権概念は二つあると。
一つは、法学部で学ぶ人権で、裁判規範としての人権です。これまで憲法の教科書で説明されてきた人権と言えるでしょう。
もう一つは、他者の尊厳を侵害しないという意味での人権です。自治的にルール作りをするとか、他者の関係を構築する指針になる人権です。
両者の共通点は、
1 人間生まれながらにして持っているものということと、
2 それが侵害されると本人が精神的に傷つくとともに、それを見ている人も傷ついたり、不快な思いになったり、怒りを覚えたりすること。逆に充足されていれば本人が安心するし、周囲も嬉しい気持ちになる。
両者の相違点は、
1 裁判規範としての人権とはそれを国家権力が強制力を持って保障するものであり、ある程度概念や権利性が、歴史的に定められているものですが、行動指針としての人権は日常生活の中で無数に表れるものであり、侵害に対して国家権力が強制力を持って保障するものと、そこまでの国民の共通理解の無いものも含まれるというより広い概念であること。
2 尊厳も将来的には人権として保障される可能性があり、いわば潜在的な裁判規範としての人権ということも可能なのではないでしょうか。
裁判規範としての人権は、人権侵害の予防、人権侵害の差し止め、人権侵害の補償についての訴訟上の請求の根拠となるものです。
行動指針としての人権は、裁判規範としての人権よりも広い概念です。裁判規範としての人権だけが守られればよいという話しではないところで、例えば家庭などで、理解して気にかけて行動することで、人間関係を良好にして幸せな生活を送るためのツールになります。行政の啓発活動や、家庭、学校、あらゆる人間関係の中で相手の尊厳を大切にするという生活の中の人権ということが言えると思います。裁判をするまでも無いような些細なことも含まれるということになりそうです。
このような二つの人権概念を持つことのメリットは、判例の知識が無くても人権概念を説明し、実生活に役立てることができるということが一つ。人権概念を狭く考える必要のない人間関係の中で、より実際的な使い勝手を持つことができる。尊厳という概念を使うことでより理解しやすくなるということでしょうか。
例えば学校の中で、教師が児童生徒とどのようにかかわるか、病院や福祉事業場で職員と患者、利用者との関係をどう構築するか、家庭での円満な関係をどのように構築するかという問題で威力を発揮するようです。
家庭裁判所の試行面会などで、お子様と久しぶりに会うときに考えていただきたいこと [家事]
妻子(夫子)と別居して、例えば半年、例えば1年、あるいはもっと長い間、一度も直接交流が無くて、面会交流調停を申し立ててやっとお子さんと家庭裁判所で面会するという場合があります。
こういう場合に、別居親が子どものためにやるべきことがあります。
結論としては、
・ 笑顔を見せてすべてを許容している態度を示すこと、
・ 昨日も会っていたように、明日もまた会えるように子どもの前では接する
という2点です。
①どうしてこういうことが子どもにとって必要なのか、
②具体的にはどうすればよいのかについてお話しします。
①<突然連れ去られたケースの同居親のふるまいと子どもの心理>
1 頑張りすぎる子ども
いろいろなケースはあるのですが、いわゆる思い込みDVのような場合は、現在子どもと同居している方の親は、過去の相手と同居中に、相手から自分はいつも間違っていると否定されていたという記憶があるようです。必要以上に子どもを「立派」にしようと頑張りすぎてしまうことが見られます。
例えば、子どもを将来有名な劇団に入れてスターにしようといろいろな習い事をさせたり、関係者が無謀と思える進学校に行って有名大学に入れようと勉強させたりということが、本当に行われていました。小学校低学年ころまでは全力で頑張れば、才能に関わらず他人よりも良い成績が納められるようです。だから余計頑張ってしまうのかもしれません。でも中学校になると、早ければ小学校5年生くらいで、他の子に抜かされて行って、焦りばかりが強くなり、もうやめたいのだけれどやめたいと言えない雰囲気があって子どもは深刻なストレス状態になりました。そんな事情を知らずに同居親は、成績が下がってきたことを非難して頑張れと言うだけなのです。
また、学校や家庭生活で、子どもらしくないほど立派にいろいろなことをきちんとするのです。当然、少しルーズなところのある普通の子どもからすると違和感があります。同年代の子どもとコミュニケーションを取ることが難しくなり、浮いた存在になってしまいます。
立派なのですが、子どもらしくない子どもが出来上がってしまいます。言われたことは絶対で、他人に合わせなくてはならないという悩みが無いふるまいをするわけです。
子どもが同居親の言いつけを全力で行なおうとする背景としては、一緒に住んでいた一方の親が突然自分の目の前からいなくなったという衝撃があるため、今同居している親もやはり突然いなくなるかもしれない、だから同居親の言うことは絶対守らなければならないという気持ちになるようです。
つまり、自分が悪いから一人の親と会えなくなったのだ。自分が「良い子」にしなければもう一人の親もいなくなってしまうという恐ろしい観念に取りつかれているようです。
このような子どもの心理は「やらなくてはならないことをやる」ということにあって、自分のやりたいことをやるという発想が乏しくなってしまいます。
また、同居親以外の人との共同行動もできなくなってしまいます。
子どもらしさ、自分らしさが無くなる同居親の操り人形になってしまっている場合がみられるのです。しかし、その指令を拒否できないで悩むわけです。
こういう状況は必ずしもレアケースではなく、中学校の校長先生とも話したのですが、けっこうあって、保健室登校になる生徒がこういう無理を頑張ってしまう形で出てくるそうです。
だから、面会交流は、そんな同居親の前では過度に良い子に、つまり子どもらしくないふるまいをする子どもが唯一子どもに戻れる場所なのです。
2 罪悪感を持っている子ども
子どもは同居親の前では、別居親に会いたいとはなかなか言い出しません。それは幼稚園年中さんくらいから、特に女の子に見られる傾向です。言ってはいけないということを察して言わないのです。
また、一人ぼっちで生活している別居親に対して、自分は悪いことをしているという罪悪感を持ってしまっているお子さんもそのくらいの年代から実際に見られます。
だから、試行面会などで、同居親から言われていても言われていなくても、別居親と会うことはとても怖いのです。叱られるのではないかとか、自分のせいで悲しんでいるのではないかという考えをしてしまっています。もちろん合理的な推測ではないのですが、そこが子どもです。
だから、試行面会で、子どもが別居親と一緒にいることに気まずさを抱いていることは当たり前です。
②<具体的にどうすればよいのか>
もっとも簡単で、最も効果的な方法は笑顔を見せることです。お父さん(お母さん)は、自分を怒っていないということが瞬時に腹に落ちます。いつもとおんなじに自分に接することはとても安心するわけです。
そうではなくて、久しぶりの面会に感激してしまって、号泣してしまったらどうでしょう。子どもは、やはり自分が悪いことをしたのだという罪悪感を大きくするだけです。自分ではどうすることもできないことをやらなければならないという絶望を感じることもあります。
そして、本当は会いたいのに、会うと暗く重苦しい思いをすることになるので、だんだんとおっくうになってしまいます。
「昨日も会ったように」接するということは、こういう重苦しさを回避するための方策です。そして「明日も会うように」というのは面会が終わる際は、どうしたって悲しいですから、それが態度や表情に出れば、子どもは重苦しくなってしまいます。
だから、どうせすぐ会えるからという態度を親がすることで、子どもが救われるわけです。
これはかなり無理を言っています。久しぶりであったのに、顔に出さないこともつらいことだと思います。でも、このやり方で面会ができれば、子どもはまた会いたいという気持ちになりますし、その感情を同居親は抑圧することがなかなか難しくなるということが実際です。裁判所で行なえば、調査官は良い報告書を書いてくれるだけでなく、定期的な面会を提案していくことになります。
つまり、面会が拡大していくわけです。
子どもが、素の子どもの自分に戻る貴重な時間です。どうか無理をして笑顔を作っていただき、子どもにとって楽しい面会交流を拡大していっていただきたく思う次第です。