「正解は押し付けちゃ不正解」 不可解な離婚申出事案の多くに見られる現象 [家事]
堂島孝平「愛すべきべきHuman Life」より
ポップミュージックの歌詞には、ドキッとさせられることがあります。私が高齢の域に達してようやく気が付いたことが、さらっとうたわれているからです。この歌詞も、このフレーズの前が、「正論ってはやり病」という言葉がさらっと置かれています。詩人の感性というものは恐ろしいくらい素晴らしいものがあります。
さて、離婚というものは、離婚したい方と、それを言われて戸惑う方とがいることが通常です。特になぜ離婚をしたいのかということが理解できない場合は戸惑うだけでなく、その後の人生にも深刻な影響が生じることがあります。
理由が不可解な離婚の一番多い理由は、申出者側の体調の不具合によって、被害的な受け止め方をし続けて、それに耐えられなくなるという思い込みDVのケースが実務的にはとても多いです。ただ、そういう風に相手が弱っているのに、気が付かないでさらに追い打ちをかけてしまっているケースも結構多いです。 自分の依頼者だったり、相手方だったり、丁寧に理由を話し合っていくと、案外多いのがこの、正解を押し付けている、結論を押し付けているということから、ストレスが高まってしまっていることです。
正解を押し付けるということについて、いくつか例を挙げてみましょう。
ごはん茶碗とおつゆ茶碗の配置。
お風呂に入る時の洗う順番
という冷静に考えればどうでも良いことから
舅姑との付き合いかた
子どもの習い事の選定
等、なんとなく大事なことかもしれませんが、必ずしも正解が決まっているわけでもないのに、「こうしなければおかしい」という態度で「あれをやれ、これをやるな」と言ってしまうわけです。
どうしても大切な
お金の使い方や交通安全だって、
こうあってほしいという気持ちはわかりますが、これが正しいからこうしろといわれると、自分が否定されている気持ちになってしまうこともあるようです。
つまり、その人の望みを他の選択肢を許さない形で提示してしまうと、その結論が間違っていなくても、「自分で自分の行動が決められない」という息苦しさを感じていくようです。
言われる方からすると、細かいことから何から言われると、自分が何か行動をしたり発言をしたりすると、否定されるのではないかという先入観が無意識、無自覚に出てきます。そして、自分の何気ない行動を否定されると、自分の人格、育ち、つまり両親を否定されるような感覚になっていきます。自分自身を否定されるという感覚と言っても良いかもしれません。
こうなってしまうと、身体生命の危険を感じなくても、対人関係的危険を感じてしまうことによって行動が委縮するわけです。その人といると、常に不安な気持ちになって、「危険」を感じ続けてしまうわけです。
だんだんその人といること自体が、恐怖だったり、面倒くさいだったり、とにかく不快に感じてきて、嫌悪を感じたり、一緒の空気を吸うだけで嫌だという気持ちになっていくようです。
「だけど私は論理的に正しい」ということにこだわる人はいます。ただ、人間同士の付き合いの行動基準については、「論理的に正しい行動をするべきか」、「相手の感情を尊重する行動をするべきか」という選択肢が実はあるのです。職場の業務についての行動ならば論理的な正しさに従えばよいのでしょうが、むしろ緊張を緩和して安心感を持てる人間関係であることが合理的な家族という人間関係においては、仲間の感情を尊重する、相手に安心感を与えるということが行動原理であるべきだと思います。
論理的な正しさを細かく考えることはストレスがかかります。家族が家に戻ってまでストレスがかかり続ければ、人間は耐えられなくなります。
そこから抜け出したくなることは自然な流れになるわけです。
保護命令を出されても申立取り下げで終わるために有効なこと [家事]
これまで担当した保護命令は、すべて相手方代理人として関与しているのですが、却下が一件で残りはすべて取り下げで終わっています。私の経験と近しい弁護士の経験からは、保護命令事案と言っても、DV法が想定するような生命身体に重大な危険がある事案は無いと言ってよいと思います。
問題はそれでも保護命令が出されるということです。出された事案を見る機会があると、「こんな申立人の主張立証で、どうして保護命令が出たのだろう。」という感想しかありません。
ここでのポイントは、①
「要件を満たさないような主張立証でも保護命令は出ることがある」
ということです。
だから、なるべく裁判所の判断を仰がないで、取り下げてもらうようにすることが上策だということです。
ただ、あくまでも私から見てですが、無茶苦茶だと思われる保護命令が出た場合というのは、相手方が弁護士を立てずに本人だけで対応していることがほとんどです。
ここでのポイントは、②
「保護命令が申し立てられたら、弁護士を代理人として選任する方が良い」
ということです。
できるならば、経験のある弁護士に依頼した方が良いと思います。
そして短期間に、仕事を初めとしてなにかも投げ捨ててでも、弁護士の指示の通りにたっぷりと準備をすることです。最初の審尋の時までに反論の主張立証をそろえるということが必要だと思います。最初の審尋で薄い準備だけだと危険です。東京高等裁判所平成14年3月29日決定(判例タイムズ1141号267頁)の決定を引用することも必須だと思います。また、保全係で担当する事案なので、疎明ではなく証明が必要だということのダメ押しもしておいた方が良いと思います。
そして、取り下げに至るポイント③は、
保護命令の要件を満たしていないことの十分な主張立証です。というか、相手方の主張立証が、不十分であることを論理的に冷静に主張を展開する必要があると思います。特に、「身体生命に対する重大な危険」が証明されていないことを馬鹿丁寧に、愚直に主張立証する必要があります。
そして、最大のポイントが、④
「申立人に申し立てを取り下げる口実を作ってあげる。」
ということです。
②と③が、裁判所に対するアッピールで、裁判官から申立人に、保護命令は出ないよと言う心証を開示する効果があり、それだけで裁判官が最大限説得して申立人に申立を取り下げさせたケースもあります。よくわからないのですが、相手方代理人である私が裁判官から感謝された事案でした。裁判官も要件を満たさないのに保護命令を出しているという自覚があるようです。
ただそれだけでは、取り下げることに当事者は納得しないのだと思うのです。それで取り下げやすくすると、より取り下げが促進されるわけです。
先ず相手方陳述書でタネをまいておきます。相手方の取り下げ口実なるようなことを陳述書に書いておくのです。
当面別居を承認することを前提として
・申立人が同居していた家から自分や子どもの荷物を引き上げることについて
同意して、自分がいない日を教えて家に立ち寄らないことを約束する。
・子どもを連れ去ることをしないと約束する。
・当事者同士で連絡をしようとしない
冷静に考えれば、現状に鑑みて、こちらが新たな負担をすることは何もないので、こちらはいくらでも約束できるわけです。
一番の問題は、子どもを連れて勝手に出て行って、そんなことを約束することに心理的抵抗があるという、自然な感情なのですが
保護命令(接近禁止命令、退去命令)を出されれば、致命的になりさらに大きな精神的ダメージを受けるということ、家族再生がさらに遠のくことを念頭に子どもの利益はどちらかということで判断しなくてはならないのだと思います。
保護命令申立てをされてからの復縁は多くはありませんがあります。
察してほしいという行動が、二人の間に亀裂をいれる [家事]
自分にも覚えがあるのですが、相手方の行動を「それはさすがにダメだろう。」と思ったとき、フランクにその旨を指摘するのではなく、わざと不機嫌な態度を示すことによって、相手に行動の修正(反省、謝罪?)を求めるということがあると思います。
しかし、大抵相手は、「この人何を怒っているのだろう。」と思うだけで、面倒くさい奴だなと感じるくらいです。あるいはなんか怖いと感じることもあるようです。基本他人なので、価値観が必ずしも一致しているわけではありません。自分から見た不満のある行動も「それはさすがにダメだろう。」とは思っていないことが根本にあります。
自分の快適さを求めることによって、相手が自分に対して不快な思いをするという何とも言えない皮肉です。
一番は、相手に悪意が無いならば気にしない。
つぎは、うまく笑いを交えながらそれをしないでくれとはっきり言う。
それでも行動の修正をしなくてはならないというと、相手は(真面目な人ほど、あるいは嫌われたくないという意識が強い人ほど)、自分の自然な行動が否定されて、相手の前では緊張して行動しなければならないという意識が生まれていきます。
かといって、相手の気に入らない行動を我慢していれば、こちらにストレスが溜まります。なかなか難しい話なのです。それを自分の考えが絶対に正しいと思ってしまうと、単に相手を非常識な人間だとか、不合理な人間だとかネガティブな評価をして切り捨ててしまいがちになっています。ますます、仲がわるくなってしまいます。
寛容の幅を広げることは、真面目な人ほど難しいようです。
それにしても、不機嫌な様子を見せて、自分の気持ちを察してほしいという行動は、有無を言わさず相手に行動の修正を求めるものです。これは、子どもが親に対してすることであって、大人がすることではないと冷静に考えるとわかることです。
子どもは言葉にすることが苦手だから仕方がないところがありますが、音の場の場合ははっきり要求することが恥ずかしいと感じているからかもしれません。恥ずかしくて言えないのであれば、不機嫌な態度もやめるべきです。客観的に見れば余計に恥ずかしいわけです。
まず、否定的評価や感情的になることはやめましょう。それをすることはデメリットしかありません。
むしろ産後に母親に正常でいろと言う方がおかしい。攻撃的言動も一過性であることが多いので、2年は様子を見ましょう。産後うつについて科学的に理解しよう [家事]
最近の離婚事件は妻の最終の出産から2年までの間に起きていることが多く感じられます。最近は、妻側の感情を抑制しない攻撃的言動や、破滅的な言動により、夫側が子どもを連れて出ていくということが増えてきています。
なぜそれが許されるかというと、夫が妻側のヒステリックな様子を撮影していて、動画で証拠化しているのです。それを見て、産後うつに理解の無い人たちが、「これはDVだ」ということになり、「DVならば子の連れ去りは正当だ」とでもいうように、許容してしまうのです。
つまり、女性保護という偏った政策を発動し、保護の範囲を拡大していくことによって、女性が子どもと会えなくなることが多発しているわけです。結局制度の弊害のしわ寄せはほかならぬ一番弱い女性に集中してしまっています。
しかも、産後に女性の言葉が荒くなることは、その人の人格とは関係ありません。
先ず、出産後の生理的変化があります。
生理的変化の一つ目はホルモンバランスの変化です。
出産前は女性ホルモンが多く分泌されて、繁殖をしやすくします。出産してしまうと女性ホルモンが激減して、育児のための体になってしまいます。母乳を作るためにプロラクチンというホルモンが多く分泌されます。このプロラクチンの血中濃度が高くなると攻撃的になるということがイタリアの大学の調査で発見されたということらしいです(教育ジャーナリストのおおたまさよし様ブログで学びました。)。
これは人間も哺乳類ですから、出産直後の子を守るように体の仕組みができていると考えればわかりやすいと思います。子どもを守るために、子どもに近づくものに攻撃的になることによって、子どもを守ってきたのだと思います。そうではないと、子どもは柔らかいし、戦闘力が無いので、肉食獣などに捕食されやすいからです。簡単に子どもが捕食されてしまえば、子孫を遺すことは不可能となります。だから、母親が気が荒くなるほ乳類だけが生き残ってきたということなのだと思われます。
生理的変化の二つ目は、脳の活動部位の変化です。
これは、バルセロナ自治大学のオスカー・ヴィリャローヤ率いる研究チームが2016年に解明しました。出産後、女性の脳の活動は、社会一般との共感や認知を感じる脳の領域が小さくなっており、子どもとの接触するときだけ活発化されるということらしいです。
つまり、人間は二つのことを一緒にやることが苦手であることから、他のことはしばらく脇に置いておいて子育てだけに集中するように脳が変化してしまうということらしいです。
この結果、社会的な評価を意識して自制していた乱暴な言葉遣い、刹那的な言動、攻撃的態度などが自制できなくなってしまうという結果が起こるのではないでしょうか。
また、自分が他者に包摂されているという意識が持てなくなるわけですから孤立感や無力感が出現しやすくなるのだとも思います。
感情の爆発、そもそも不合理な感情、攻撃的言動が起こりやすくなるのは母親の人格ではなく、人間の出産後の当たり前の変化ということなのだと思います。
この結果、しばしば我が子に対しての攻撃的言動や母子心中を示唆する発言をするわけですが、これも脳の物理的変化で説明がつくことだと思います。
そもそも産後うつというのは、アメリカの精神疾患分類によれば、抑うつ的症状だけでなく易怒性や攻撃的感情という症状も含まれているとされています。うつという言葉が抑うつを連想させるため誤解を与えているように思われます。
これらの変化は大体2年くらい続くケースが多いようです。多くは一過性というわけです。脳も復元されていくようです。
実際攻撃的な産後うつを経験したお母さんたちから話を伺うと、本当に2年くらいで嘘のようにそれまでの感情が消えてしまったというのです。
また、面白い研究があり、これもおおたまさよし様のブログで紹介されていたのですが、小野寺敦子先生の「親になることにともなう夫婦関係の変化」という論文に書かれているのですが、夫婦の親密性は子が生まれて2年間で低下していくとのことでした。しかし、その後も低下し続けているわけでなく、底段階で安定していくようです。出産後2年ということは概ね間違いのないことだと思います。
この一過性の感情、行動で何かを決めることは避けるべきです。また、そういうものだということをはじめから知っていれば、2年間での親密度の低下も避けられるように思われます。
女性はおとなしくて乱暴な言動をしないということは、出産後は一時的に別なのだと理解することが、大人の知恵だと思います。
笑ってごまかすという美徳の訓練の勧め 争いが無くても誰かが我慢していたら意味ないとは言うけれど [家事]
笑ってごまかすということは、決して肯定的な評価がされることではないと思います。もちろん仕事など、他人に迷惑をかけたけじめから逃れるための方法とするならば、私もあえて肯定して皆様にお勧めしようとは思いません。
問題は家族の場合ですし、さらに場面は限定されるのですが、案外笑ってごまかすということを覚えると家庭円満になるかもしれないと思ったものですから、紹介しようと思いました。
特に夫婦なんかの場合、相手からミスを指摘されることはよくあることだと思います。気を使わないで、「だめじゃない。」なんて言える夫婦は、案外コミュニケーションが良好にとれている関係にあるのではないでしょうか。
しかし、そのダメ出しを食らう場面でも、言われた方にも言い分があることがとても多くあるというかほとんど言い分があると思います。
例えば
ゴミ出しを頼んでいたのに出してなかった
⇒ あれ、自分で出すって言ったじゃないか
家を出るときトイレの電気を消し忘れているよ
⇒ 消さなかったのはわたしではなくあなたでしょう。
部屋にお菓子のクズが落ちていたよ。不衛生でしょう。
⇒ では、自分の部屋がごみ箱状態になっていることはどうすんだ。
冤罪型
どの口が言う型
否定評価をするほどのこと?型
等、本当は言われても仕方がない場合でも、「言われたくない」場合って多いというか、結婚から年数を増えるにしたがって多くなるようです。
しかし、ある時期を過ぎると、この些細な争いが影をひそめる夫婦も結構あるようです。
歳をとるということはとても素敵なことで
・ 「あれっ、そうだった、ごめんごめん。」
・ 「歳のせいか、忘れっぽくなってごめんごめん。」
・ 「ああ今度から気を付けるね。ごめんなさい。」
等とニコニコして言えるようになってくるので、この類型の争いは少なくなるようです。
だからって言いたいことを我慢しているわけではないのです。なんか白黒つけることにメリットはないし、デメリットだけしかないことに気が付くわけです。そしてなんでそんなことをムキになって言い返していたのだろうと,わからなくなってしまうのです。おそらく生きる本能的に言い返していたのでしょう。生きる意欲が年齢とともに弱くなったというのは、ちょっと違うと思いますが。
あるいは、言葉を文字通りに受け止めなくなったということはあるのでしょう。電気消したかどうかなんてことより、こちらが謝って、何らかの安心につなげてあげたいという気持ちが生まれているのかもしれません。
こういう、わざと負けてあげるという日本の美が最近失われつつあるような危機感を感じています。「謝る」という言葉の意味が、自分の落ち度等を認めて、それがいかに低い評価を受けるべきことかを告げて、それを二度としない。という狭い意味に限定されてきたような気がします。いや違うわけです。謝るということは、相手の非を否定してあげて安心させることということが日本の美風だったはずです。私の小さいときは、「へえ、謝ると自分の非を認めて、損害賠償を払うことまで考えなければならないのか。窮屈だねアメリカは。」という意識でした。今それが当たり前の世の中になったことと、離婚が多くなったことは関係があるのかもしれません。