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私の刑事控訴趣意書作成の方法【法律実務家向け】 [刑事事件]



調子に乗って今日も刑事控訴の弁護について語ろうとしているわけですが、長年意識的に控訴事件に取り組んでいたこともあって原判決破棄の件数もそれなりに増えてきましたし、破棄率も結構高い方なのではないかと思っています。

それでも、これが正解というような自信があるわけではありません。この拙文は、ひょんなことから控訴審弁護を担当することになった人が、どこから手を付ければよいか迷ったとき参考になればいいなという程度で書いています。

一言で言ってしまうと、構成要件、違法性、責任、その他情状という順番で検討していくというオーソドックスな弁護方針です。

控訴審と第1審と違うのは、第1審は何が実質的な争点で、どこに力点を入れればよいかわかりにくく、暗中模索でやっているというところがありますが、控訴審は、原判決がありますので、争点がわかりやすくなっているというところがあります。このため、第1審で主張していなかったことを主張することができますし、判決の論理に難があるところが読めばわかりますから指摘しやすくなっています。だから、第1審が破棄されて控訴審で減刑されても、それは弁護士の力量の問題ではなく、構造的な問題であるということを理解する必要があります。そして、同時にここに控訴審弁護のコツがあると私は思っています。

1 構成要件(実行行為性)
  例えば人を傷つけて死亡はしなかったとき、それが殺人未遂になるのか傷害罪になるのかということは被告人をはじめとして大きな関心事です。殺意はなかったという主張を頑張ることがあります。刑法の故意は、認識認容説で、少なくとも司法試験が終わるまではみんなこれでものを考えるのです。つまり、殺そうという意欲や動機が無くても、人が死ぬかもしれない危険のある行為を、それと知ってあえて行えば、殺人罪の実行行為があり、死ななければ殺人未遂になる。ところが、殺すつもりはなかったという被告人の意見を重視しすぎてしまい、無理筋の主張をしていくことをよく見かけます。確かに殺人という言葉のインパクトが大きいから、殺人の実行行為を認めたくはないのですが、そんな思惑とは別に判決が出てしまうのですから、被告人とよく話し合って被告人に不利にならないようにするべきです。
  それから実行行為性の有無を丹念に検討するべき場合は、原審が裁判員裁判の場合です。裁判員という一般の方は、リアルな殺人を見聞したことは無いわけですから、死体の写真や傷口の写真を見たり、ご遺族の無念さを聞くと、極刑がふさわしいと感じるものです。つい、重罪にすることばかりに神経を取られてしまい、無茶な実行行為の認定をしてしまうことがあるように感じるときがあります。論理的に成り立たない認定だという主張は、特にそれによって情状が変わってくる場合は、それを丁寧に論じれば、控訴審は結構受け入れてくれるように思われます。
  但し、相手の論理性に難をつける場合に、こちらが論理性に難がある主張をしてもあまり説得力はありません。わたしは、論じたりないことをおそれて、くどくなることを恐れないで論述し、論理に飛躍が無いようにしています。
  正犯として起訴されている場合でも、共犯の構成要件しかないのではないかということも構成要件の話として重要かもしれません。私の修習生時代に初めて起案した弁論要旨で、これを主張したところ、求刑からかなり低い宣告刑となり、被告人が満面の笑顔で一生懸命務めてきますとあいさつされたことを今でも覚えています。
2 違法性
  違法性の主張で落としがちなのは、中止未遂、自首という必要的減刑やそれらと同列に扱われるべき被告人の行為についてです。中止未遂が特に落としがちになるのですが、それは殺人の故意の否定がある時です。これを無理に傷害罪だと主張してしまうと、傷害が発生している以上未遂という観点はないので、中止未遂の主張を落としてしまうのです。殺人を認めて中止未遂を主張することによってはじめて、必要的減刑がなされ、原判決の量刑が重すぎるということになるわけです。但し、傷害罪でも傷の手当てをしたとかいう事情があれば、たとえ中止犯が成立しなくても、中止犯の規定に引き付けて情状として主張すれば効果的な主張になるはずです。自首も法要件を厳格に解さないで、自首に至る事情を情状として述べていくことは必須だと思います。
3 責任
  可罰的違法性論は、責任論ないし情状として述べるとよいと思います。確かに構成要件に該当するけれども、構成要件が予定したような実質的な違法性がある行為とは言えないという形での主張です。真正面から違法性で論じても裁判所は受け入れないと思います。但し、一厘事件のような場合は、むしろ構成要件論として主張するべきなのかなと思っています。
  限定責任能力の主張は控訴審では受け入れられにくいと感じています。限定責任能力は、できれば起訴前に主張することが一番効果的だと思っています。
4 その他の情状
1) 反省
控訴審の主張は刑事訴訟法で制限されていますが、原審結審後の反省は、思いっきり主張するべきだと思います。本来は判決までの事情なのですが、わりと結審後の反省の被告人質問は、控訴審の事実取り調べとして採用してもらえますし、質問制限がされるということもありません。但し、再犯の可能性を無くすことを示す反省をしなければなりません。
原審の公判記録を見ると、かなりいい加減な反省をしているように書かれています。心が弱かったとか、人に流されてしまったとか、二度とやらないとか、そういう反省をしていなくても言葉にできることが記載されています。実際はどうだったかはわかりません。でも記録にあることが全てなので、実のある反省をすることが結構有効です。私は公判記録のいい加減な反省の記録があると、張り切ってしまいます。
2) 社会の責任
これは、私の修習生時代ですから、30年以上前の話ですが、私は刑事弁護を太田幸作先生のご指導をいただきました。また、別の年配の先生の弁論を聞いても勉強になったのですが、犯罪をその被告人だけの責任なのかという観点を強調されるのです。確かに事件は社会の中で起きるのですが、どうしても被告人と被害者の関係だけが思考のフレームの中に入ってくるように思われます。しかし、もし社会に問題があり、その結果犯罪が起きたのであれば、被告人だけがその責任を負うのではなく、社会も責任を分担するべきだという主張です。
今年、私が担当した控訴事件で、原判決が無期懲役の宣告刑だったのが、控訴審で懲役30年に減刑された事件がありました。貧困、多重債務に陥った被告人が強盗に入った事案です。我々弁護士は、多重債務の場合は、債務整理や自己破産をすればよいという頭がありますが、これ、結構知られていないようです。これは社会がもっとこのような制度を知らしめなければならないし、特に我々司法に携わる者が制度の普及啓発をしなくてはならないことだと思います。もし、このような制度があることを知っていて、さらに法テラスなどで安価な費用で専門家に依頼できるということを知っていれば、強盗などは起きなかったはずです。
このようなことも触れたところ、裁判官に興味を持ってもらい、被告人質問で聞くように言ってもらいました。破棄理由にはならなかったようですが(上場としての実行行為性の主張を受け入れていただき、破棄理由となりました)、量刑には影響があったと思いますし、主張するべき観点なのだと思いました。
3) 情状証人
この点も破棄減刑の事件で思い出のある活動です。原審弁護人がさぼったわけではなく、いろいろ事情があって、被害者件監督者とは連絡が取れず原審では情状証人はいませんでした。
被告人と被害者は親族でして、被告人の自死行為に巻き込まれて傷害を負った事件で、罪名は殺人未遂でした。殺すつもりはもちろんないのですが、その行為をしたら親族も死ぬ危険があるということは事実で、しかし被告人の精神状態からそこまで意識できなく行為をした事案でした。判決では、中止未遂と情状を理由にかなり減刑になり、弁護士会職員の方が驚いていたことを覚えています。
記録を見ていて、別の親族の方の連絡先が分かりましたので、思い切って連絡してみたところ、被害者とされた親族の方も裁判の様子を知りたがっていたことが判明し、被害者が被告人に面会に行き、殺人罪という罪名だけどその人を殺そうとした意図はなかったこともわかり、とんとん拍子に情状証人となってもらい、身元引受人になり監督を誓ってくれました。これはラッキーでした。
5 控訴人弁護人になって初めにすること
  これも私のこだわりとしか言いようがないのですが、原判決を読む程度で先ず被告人に会いに行きます。一番大事なことは、なぜ控訴したかということを尋ねることです。量刑が重すぎるので軽くしてほしいというのか、判決の認定のここが納得いかないというのか、反省をしてみたので控訴審の裁判官に聞いてほしいと言うのか、ここを見極めなくてはなりません。良かれと思ってやった活動がピントがずれていたら弁護をする意味が無いかもしれません。
  記録などを読まないうちにこれを聞いて、その観点から記録を読むようにしています。


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刑事控訴事件で異例の展開 裁判所が検察に対して文書での答弁を求める [刑事事件]



今やっている控訴事件で、殺人、殺人未遂、現住建造物放火、詐欺等、10件の事件で有罪になり懲役30年を言い渡された事件があります。詐欺事件は認めていますが、それ以外の殺人や放火は否認している事件です。否認事件のため記録も膨大で読みこなすまでに2か月以上かかりました。

期限ぎりぎりになり、ようやく控訴理由書が完成し、提出を終えたところです。そうしたら、情報提供があり、裁判官が、検察に対して、答弁書の提出を求めたとのことでした。

通常控訴審は、検察官は答弁書を提出せずに、公判において口頭で「弁護人の控訴理由は理由が無く、棄却されるべきと思慮します。」と判で押したような発言をして終わりのケースがほとんどでした。

そういった場合でも、原判決破棄、高裁の判断で減刑というケースは何件もありました。私は結構控訴審の弁護を切れ目なくやっています。刑事控訴の弁護活動はコツみたいなものがあって、かなり件数をこなしているうちに自然と身についたというところはあるかもしれません。しかし、控訴審で無罪を主張することは少なく、情状や法律上の減刑事由があるというような主張がほとんどでした。

今回42頁の理由書を作成し、詐欺以外は無罪主張を展開しました。考えてみれば、控訴審での無罪主張で、しかもこれだけ重罪の被告事件が連なっているケースは確かにレアケースだったかもしれません。

だからといって、必ずしも本件で一部無罪の判決となるのかどうかはわかりません。ただ、私の控訴趣意書が、もしかしたら原判決を破棄して一部無罪となる可能性があると裁判所に受け止めていただいたことは間違いのないことです。

なぜ、原審を担当もしていない弁護士が、そのような書面をかけたのかについては、ひとつだけお話しできることがあります。それは現場に行ったということです。現場に行けば、明らかに判決の言い方がおかしいということがいくつかありました。また、証明できていない事項や、現場の様子から見るとありえないことが認定されているということを感じることができたのです。弁護のヒント、発想がどんどん出てくるのです。

この事件は国選弁護事件ですから、これらの現地調査は、他の仕事を入れないで時間を確保して、かつ、費用は自腹になる可能性があります。無罪になったところで、総額で私の私選弁護の着手金より低い金額しか望めません。経済的には割の合わない仕事です。しかし、刑事弁護をしないと、いわゆる弁護士らしい発想や行動ができなくなるということで頑張るべきだと思っています。

現場を大切にした結果、それなりに尊重される控訴理由書をかけたのだと思いましたので、ご報告まで。

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笑顔をもっと、もっと、深掘りする 笑顔をみると安心して安らかな気持ちになる仕組み [進化心理学、生理学、対人関係学]



引用元を紹介できないで申し訳ないのですが、前に読んだ、おそらく新書で、アメリカ兵が、中東だったかアフリカだったかの部族のムラに飛行機を着陸させ、調査だったか食料の供給をお願いするだったかをしなくてはならなかったけれど、そんな登場の仕方なので現地民からは警戒され、敵意さえ向けられて命の危機さえあった、そのときの作戦が笑顔を作るという作戦で、これが成功して現地民と打ち解けることができたという話しがありました。

笑顔が相手の心の武装を解除するというお話でした。

家族や職場の同僚、あるいは学校の同級生であったとしても、人間は放っておくと、警戒を始めてしまうようです。特に、それまでとの連続性が立たれるような出来事(典型的には出産ですが)があれば、すぐに仲間であることに疑問を持ってしまうようです。自分が孤立しているとか、自分だけ理解されないとか、あるいは自分は誰の役に持っていなくて否定的に評価されているのではないかとか、そういうことを考えてしまうようです。ただ、なかなか自分のネガティブな気持ちを言語化できないので、相手と話し合うことができないまま別離を選択するということも多いようです。

そういう時に笑顔を向けられることで、警戒心を解除して、仲間の中にいるということを実感して、安心するということが人間の心理では起きているようです。

笑顔を向けられると、何もなくても、うれしくなることがあります。接客業の人が笑顔が無いことで非難される感情労働だと言われるのはその裏返しなのだと思います。

恋愛が始まる場合も笑顔から始まることがあるようです。笑顔を向けられることで安心してしまうと同時に、自分に好意を持ってもらっているのではないかと思うわけです。自分を評価してくれる人には安心感を持つので、ずうっと仲間でいたいと思うわけです。笑顔を返していくことで、恋愛の場合は相手も同様の気持ちになってゆき、相乗効果で気持ちが接近していくわけです。ストーカーも笑顔の勘違いから起きることが多いのではないでしょうか。

では、どうして笑顔を向けられると安心するのでしょうか。
対人関係学では、人間は心というツールを持っていたために群れを作って生き延びることができたと考えています。
どういうことかというと
誰かと一緒にいたい
その誰かを仲間と感じて、ずうっと一緒にいたいと思う
仲間と別れることが怖い、不安になる。そのため不安解消行動を行う。
仲間から、敵対的な対応をされたり、攻撃されたり、ぞんざいに扱われると仲間から外されるのではないかと無意識に感じて不安になる。
逆に仲間から感謝されたり、肯定評価されると逆に安心する。
仲間の役に立っていれば、同様に安心する。
こういう心を持った人間の先祖たちが、言葉の無い時代に群れを作って生き延びてきたと考えるわけです。

笑顔を向けられるということは、
先ず、「その人は自分に対して敵対心を持っていない」
ということを感じるようです。アメリカ兵の話がこれだったのだと思います。
どうしても笑顔を向けられると、人は安心してしまうようです。

仲間が自分に笑顔を見せると、「自分は仲間の中で役割を果たしている」
と感じて、やはり安心するようです。

笑顔を向けられると、自分が無視されたり、攻撃されたりせずに、肯定的評価をしている、相手も自分に安心していると感じるようです。

そして笑顔を返すことで仲間意識の形成の相乗効果が生まれるようです。

絶えず不安になるのが人間だとすれば、
仲間は絶えず仲間を安心させることが大切だということになると思います。
人間だけでなく霊長類も、シンプルに毛繕いをして、安心させあっているわけです。サルの毛はプライベートゾーンではなく、コミュニケーションツールのようです。

言語というのは最近できてきたツールですから、言語で語り掛けるよりも、笑顔を見せることの方が本能に直接響くのだと思います。でも言語も大切です。

仲間と一緒にいるために、特別な能力や資金が必要ではないようです。笑顔を作って相手を安心させる行動ができることが一番なのだと思います。

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笑顔をもっと、もっと 相手の背中に笑顔を向け続けるということ 家族再生編 [家事]



人見知りの子どもと仲よくする方法で笑顔の力を感じたことがありました。
親戚が遠方から私の実家に遊びに来て、3歳くらいだったかな、子どもを連れてきたことがありました。その子は私の恩人で、その子が生まれたときに自分も子どもが欲しくなって結婚を真面目に考えることができたというキーマンでした。

2年ぶりの再会ということでしたが、そのくらいの年代の子どもがどういうものかわからなかったので、なんとなく遠巻きに見ていました。案の定、こちらを怖がって気にしているようでした。

やることもなく暇だったので、テレビでやっていた音楽番組に会わせて、おもちゃを入れるような大きさの缶をドラム代わり叩くということをやっていました。うるさがられるかなと思い、ちらっとその子をみたら、こちらを見ていました。でも嫌そうではないのです。関心を持ってもらって少し楽しくなって、ニコニコと調子に乗って缶ドラムをたたき始めました。なんと、その子もニコニコと近寄ってきて、一緒に叩き始めました。あとは顔を合わせてもニコニコ笑顔の応酬でした。帰りしな、その子の方から私に手をつないできた様子を見ていたその子の両親の驚く顔はとても印象的でした。

明和政子先生の岩波ジュニア新書「まねが育む人の心」にも、実験結果で同じような結論が報告されています。つまり、子どもは、大人が楽しんでいることを理解でき、一緒に楽しもうとするようなのです。同時に、困っていれば助けようとすることも報告されています。これは子どもだけでなく本来は人間の本能ではないでしょうか。

だから一緒に住む家族だからこそ、一緒にいるときは笑顔で楽しそうにしていることが、家族円満の秘訣で間違いないと思います。

ところが、現代社会は、家族が一緒にいるという条件がなかなか整いません。長時間労働ということもあって、物理的に一緒にいないということもあります。また家に帰っても、スマホやパソコンで一人でゲームやユーチューブやネットサーフィンをする誘惑が転がっているようです。泣いている子どもを放っておいてスマホを見ているという訴えがずいぶん増えて、「ああまたか。」と思ってしまう状態です。

家族のいる中でスマホをいじってしまうことは、自分でも覚えがあります。

一度注意されても、注意した方がそれをやっていれば、「だったらこちらもやる」みたいな感じで、俯瞰してみれば、どんどん家族が離れていく方向での行動になっているようです。対抗心があるばっかりに家族が離れて行ってしまうのは、なんとももったいない話です。

対抗心を捨て去るのはなかなか難しいようです。
私の仕事ではよくあるシチュエーションなのですが、久しぶりに顔を合わせる家族に、こちらも緊張してしまい、こわばった表情をしていることに遭遇します。ご自分ではなかなか気が付かないようです。あちらも緊張していてこわばっていますから、それを見た方もますますこわばっていくことになるのは自然のことかもしれません。これでは家族再生の入り口に立てません。

対抗心を捨てることができさえすれば、相手がどういう気持ちであろうと、こちらが笑顔を作って相手に見せるということができるのではないでしょうか。それでも相手が攻撃をしてくるとしても、笑顔を見せたという実績は、相手に安心感を与えています。笑顔を見せないよりはよほど前進するはずだと思います。

但し、効果がすぐに表れないだけだと考えるべきでしょう。

前に著名なカウンセラーの方から教わった話として、反抗期の子どもが親を拒否して、こちらを見もしない時でも、背中でもよいから語り掛けるのをやめないことが肝心だと言われました。語り掛けるのをやめてしまったら、そこで親子の仲が終わるかもしれない。でも語り掛け続けていたら、そのことを子どもは記憶し、将来、親を親として感じるようになりやすいというのです。

親子の場合もそうですし、夫婦の場合も基本は同じだと思います。

楽しい人間関係を作るためには、対抗心を捨てて、先ずこちらが楽しそうにして見せる、そういう作業を意識的に行うということが肝心なのだと思います。相手があなたの笑顔を拒否して向こうを向いても、相手の背中に笑顔を向け続けることが家族再生にとって必要な作業なのかもしれません。

逆にいつも一緒にいるときはいつも笑顔というわけにはいかないかもしれません。だから、たまに会う場合は、その時間が勝負ですから、全力で笑顔を作り楽しそうにして見せる、対抗心を忘れるということが肝心なのかもしれません。

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笑顔をもっと、もっと 大変きつい話で恐縮ですが 面会交流編 [家事]



いわゆる連れ去り別居(多くは妻が子どもと一緒にある日突然家から出ていき、帰ってこなくなるケースで、居場所がわからなくなったり、連絡が取れなくなったりすることも多い)があった場合のはなしです。

こういう場合に、子どもの健全な成長をダメにしないように、子どもと家に一人残された別居親との面会を実現させるのが最近の私の大きな仕事です。

何せ、早くて数カ月ぶり、遅ければ1,2年ぶりの再会になる事案です。子どもの年齢によっては、久しぶりに別居親と会うわけですから、どう接してよいか分からないのです。なかには、母親から因果を含められていたり、悪口を吹き込まれていたりして、面会をしたくないというお子さんも多くいます。

しかし、そういう風に拒否をすると、自分のせいで父親が孤立しているという意識が無自覚に起こってきて、後で苦しむのです。そういう痛ましい場面を黒子の立場からよく見ています。私は、その方が子どもが確実に別居親と会えるので、連れ去り親の代理人も積極的に行っています。

母親が子どもを連れ去るケースでは、母親から因果を含まれなくても、母親を忖度して父親を攻撃する場合もあります。母親が苦しんでいる、憎んでいるという姿を目の当たりにし続けている子どもは、近くにいる方の親をかばいたくなるのが人間の本能です。一緒に暮らしていない父親を攻撃するのは、父親を憎んでいるのではなく、母親を守るという意識なのだということは分かりやすいことです。

それでも父親の悪口を言わない母親も少なくありません。面会の時に一緒に暮らしていたころのようにすぐに打ち解ける姿を見ると、立派なお母さんだなと感心することも結構あるのです。

しかし、結構な頻度で、面会の時に別居親に拒否的な態度をとるお子さんも多く見られます。同居親のところに戻りたいと言ったり、話をしたくないと言ったり、別居親を攻撃するということもあります。

事前にどんなに私がレクチャーしていても、別居親は、同居中仲良くしていた普通の親子だったのに、自分の子から拒否されると、グサッと胸をえぐられたような衝撃を受けるようです。当たり前のことです。

でも、少なくとも面会を定期的に続けていって、子どもが健全な成長ができなくならないようにするために、ここはへその下に力を入れなければなりません。一番できないことをやらなくてはならないのです。

それが笑顔です。

子どもが自分の悪口を面と向かって言っても、敵意むき出しの目をしてみていても、「うんうん、そうだね。パパが悪いよね。」と笑顔で返すことが、今後に向けての一番の特効薬なのです。

むしろ、言葉を尽くして、自分は子どもを愛している、何があってもあなたの味方だということを告げるよりも、子どもの攻撃を即座に許すことを一瞬で告げる方法が笑顔であり、それで子どもは救われるし、別居親が自分の親であり、仲間なのだということを強烈に印象付けられるのです。

特に小さいお子さんは、わけもわからずに親を攻撃していますから、真に受けるべきではないのです。それでもやはりショックであることはよくわかります。

面会の期待に胸を膨らませてきたら、子どもから拒否のカウンター攻撃を受けるのですからたまったものではありません。本人は顔に出さないように努力されていることはわかるのですが、目が笑っていません。

そもそも、面会が始まる時、親の方が緊張してしまっていますから、そんな親の表情を見て子どもも「叱られるのかな」という気持ちになっているのかもしれません。そもそももう一人の親から引き離された子どもは、自分が親と住んでいないことに罪悪感を覚えているようなのです。

そういえば、家庭裁判所の中で行われた試行面会で劇的に成功した事案は、私がいつも言っているように「昨日も会ったように、明日も会うように、軽く、笑顔で同居中と同じ態度をこちらが作る」ggggggdさということを徹底した事案でした。最初が良かったです。いつものように笑顔で部屋に入ってきた父親を見たときに、子どもの笑顔がパアーっと広がった様子は圧巻でした。この面会から家庭裁判所の様子はガラッと変わり、別居親の立場から同居親を粘り強く説得するようになったものです。笑顔の力でした。

子ども悪口や、拒否の態度を楽しむように、ネタにして笑いに変えられるようにすることがベストです。

特に小さい子どもは、拒否したり攻撃しながらも、別居親にあえて安心している様子がわかります。端的に言えば、怖がっていなければ大成功なのです。

後は笑顔です。子どもは楽しんでいる人に近づいて一緒に楽しもうとします。あなたが、自分(子ども)と会って嬉しそうにしていれば、自然と近づいてきます。楽しそうにしていなければ、罪悪感や、同居親を守る意識や、そういう余計な感情に支配されて行きます。笑顔と、はしゃぐ様子を子どもに見せることが、面会交流の大成功の秘訣です。

しかしそれが難しいのも事実です。笑顔の鉄仮面を作るということなのかもしれません。

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不起訴処分を被疑者に通知するべきではないか。 [刑事事件]



とある刑事事件を起こした人から依頼を受けました。ちょっとしたアクシデントで、他人に傷害を負わせてしまったというのです。どこの事務所で相談しても、罰金刑はまぬかれませんということでした。その上、提示された着手金がべらぼうに高いのです。

これまで、いろいろな刑事事件で示談をして、不起訴処分となった経験からすると、適切な金額で示談をすれば不起訴処分となる見通しは十分あると私は思いました。ここで確定的な話ができないのは、実際には担当する検察官の判断で示談をしても略式起訴をする場合が無いともいえないからです。起訴不起訴はかなり微妙な場合があります。

依頼者に、不起訴になる見通しは十分あるし、示談もそれほど難しくないという話しをして、引き受けることにしました。

被害者と示談の話をすることは比較的苦になりません。被害者の被害について、ご本人が言葉にできない思いをこちらから言語化することによって示談をすることが双方の利益になるということを言うのですが、ここは詳しくは個別事情なのですいません。

その事件では、そうやってお話を聞いて、コミュニケーションが十分とれて、では示談という時に、ちょっと待ってということになってしまい、こちらの提示した金額よりかなり高額の示談金を出さなければ示談しないということになってしまいました。思ったよりも難しい示談になったなあと思ったところで、被害者も弁護士をつけてきました。

幸いベテランの弁護士なので、大体の示談金の相場の感覚は私と一緒だったので、こちらが十分な示談金を提示したことは伝わっていました。弁護士以外の方は相手に弁護士が付くとなると構えてしまうものだそうですが、弁護士の場合は逆です。このような相場観があり、余りにも過大な請求の場合は依頼者を通常説得してくれるからです。それでも当初の提案金額よりも多めの金額になりました。但し、別の事務所で提示された弁護士費用を払うことを考えれば、依頼者は全体として費用を抑えることができました。

正直これで不起訴になるなと思いました。

ところが、なかなか検察官から連絡がこないのです。しばらくしてから連絡をした時には、処分に向けて手続きをしているというのです。ここで、変な心理が働いてしまいました。あまり急がせると、不利に変更するのではないかというものです。それでしばらく問い合わせをしないことにしました。

そうしたところ、日数がだいぶたってしまい、依頼者からこんなに結論が遅くなるのはないのではないかと言われて、それもそうだなと問い合わせたところ、とっくに不起訴処分としているというのです。

別件でも、同じようなことが続けざまにありました。こういうことは続くものです。私が民事事件を担当する人が被害者で、加害者を告訴していたことは効いていました。そして、加害者が不起訴になったことも被害者は検察官から連絡があり知っていました。それで加害者側も不起訴を知っているのだろうと私の依頼者も思っていたのですが、加害者側は検察から連絡をもらっていないというのです。

刑事訴訟法でも、確かに検察は被疑者に不起訴通知を行わないのが正式な扱いなのです。それはもちろん知っているのですが、前は事実上ご連絡いただいていたような気がしていました。あるいは何日ごろ処分をするという予定を聞いていたのでグッドタイミングで問い合わせて案の定不起訴だという連絡を受けていたような記憶もよみがえってきました。

結局被疑者は、こちらから問い合わせないと、起訴されたかどうかわからないということになります。それが刑事訴訟法の定めだと言われればそうなのです。もっとも起訴されれば刑事裁判が始まりますので、その旨の通知が来てわかります。だから何がわからないかというと、「処分が決まったのかどうかということがわからない」というのが正式な表現となります。被疑者は、もしかしたらこれから起訴されるかもしれないと心配し続けることになってしまいます。

問い合わせればよいのですが、いろいろな気持ちが渦巻いて、問い合わせをすることが怖くてできないということが案外多いのではないでしょうか。いつ頃起訴になるかなどということは、一般の方は分からないものですからなおさらです。

やはり、送検された場合は、文書でなくても良いので起訴したかどうかの処分は被疑者に通知するべきではないでしょうか。そうでなくても、捜査が終結したので、いつ頃処分をする予定であるということは教えてほしいところです。そのくらいはやってもらってよいように思います。

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刑事裁判における「反省」の「2原因」とは何を考えるのか [刑事事件]


刑事裁判で、犯罪事実が真実であるとき、二度と罪を犯さないということを裁判官に信用してもらうためには、「反省」をすることが必要です。ここでいう「反省」とは独特の意味があり、一般の意味の「反省」とは違います。

1 自分が行った犯罪が、誰にどのような迷惑をかけるか(実質的違法性)
2 悪いことがわかっているのに、どうしてやめることができなかったか(原因)
3 その原因を再発させないためにどのような生活を送るか(再建計画)
ということを網羅的でなくていいから、自分の言葉で具体的に述べることが効果的です。聞いた人が絵をかけるくらい具体的に話す必要があります。

犯罪を行う人の多くが、それは犯罪に該当するということを知っていながら、被害者の被害を想像することができず,あるいは自分が逮捕されて刑事裁判を受けることを想像することができず、あっけなく犯罪を行ってしまいます。

そこまで考えていなかった。

ということは真実だと思います。

一般の方々は、自分が犯罪をするということを想像することもできません。悪いことだと思ったらやらないわけですし、悪いことやりそうなところに近づかないということさえ気を付けているでしょう。

だから、「そこまで考えていなかった。」という本音が理解できないようです。ここで理解のための補助線は、「人間は二つのことを同時に行うことが苦手だ。」ということかもしれません。例えば、お金を盗ることに夢中になると、被害者がどのように苦しむかということを考えなくなりますし、自分が逮捕されるかもしれないという考えはだいぶ薄まってしまいます。インターネットなどで何か気に入らない記事があれば、怒りが渦巻いてしまい、批判投稿をすることによって相手が傷つくとか、自分が情報開示されて警察沙汰になるということも考えられなくなるようです。

ところで、万引きと並んで再犯が多い覚せい剤取締法違反事件ですが、ほとんどの人が一回目の裁判で、「もう二度と覚せい剤には手を出さない。きっぱり縁を切る。」と誓います。それでもまた手を出してしまうわけです。誓いが嘘だったのではなく、反省の仕方が甘かったということも再犯の一つの事情になります。

覚せい剤の再犯が起きやすい条件というものがあります。
1 覚せい剤の売人とつながりがあり、言葉巧みに覚せい剤を売りつけられている。
2 過酷な現実(激しい肉体疲労、絶対的な孤立等現実を忘れたい事情)があり、長期的な視点で自分を大切に扱うことができず、覚せい剤使用という短期的な要求が肥大化している。

それで、売人から断り切れず、すぐに使うのではなく頓服のようにいざという時に取っておけばよいやと買ってしまい、どこかにしまっているのですが、そういう時に限って、精神的にショックなことが起きてしまい、もうろうというような感じで保管場所を探して、昔のように手を出してしまうということが起きます。

一度やってしまえば、歯止めが効かなくなり、お金と売人のタイミングで次々と覚せい剤を買ってしまうわけです。

依存性物質ですからタバコと同じような感じです。使用してもさほどよいことが無いのに使用しないと苦しくなるからまた使用するということで、再び薬物依存が完成してしまいます。

このように、「なぜ再び覚せい剤に手を出したか。」という理由に対して「売人とつながっていた」とか、「とてもつらいことがあった。」ということは反省になっていないのです。「なぜお金を盗んだのか」という理由に対して「お金が必要だったから」というようなものです。

そのような理由があったとしても、犯罪だし、他人に迷惑をかけるということがあるなら、やはりやってはいけないことです。「それにもかかわらずどうして」という問いかけであるのです。

そうでなければ、どんなに二度と犯罪をしないつもりでも、偶然条件がまた整ってしまえば、また犯罪をしてしまうわけです。その偶然というのは必ずしも低い確率で起きるわけではありません。

この原因論を自分の言葉で話せるようになれば、再建計画もより具体的で効果的なものを作り上げることが容易になります。

裁判官だけでなく、誰が聞いても、二度と犯罪をしないということの真剣さが理解できるようになるし、自分でそのような考えを深めたことが、将来の誘惑から遠ざかる一番良い方法になると思われます。

この答えは一般論ではなく、その人の個人的な事情が多く、人それぞれ自分の頭で考えるしかないのです。

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妻からの激しい暴力の案件が多発。それでも妻は夫のDVを主張する。この基本的構造はずいぶん前から繰り返されている。 [家事]



最近の離婚事件の特徴は、妻が夫に過激な暴力をふるっていたということです。また、夫がそれを制止するとDVだと言って、子連れ別居をしてしまうという流れです。

最近DV法の影響もあるのか、夫婦間暴力が可視化されるようになってきました。警察が介入することで妻の暴力が公文書に残されることが増えてきました。その他でも動画で撮影されていたり、夫に傷口が生々しく残っていたり、物が破壊されている画像だったりとかなりリアルに妻の暴力の様子が残されています。

最近の夫婦間暴力事件で傷跡が残るのは通常夫の方です。かまれて血が流れている腕の写真とか、首を絞められた跡が数か月を経ても残っていたりとか、間違ったら死んでしまう危険がある暴力は、現在では通常妻が夫に対して行うことが多いです。sd夫が妻の暴力に対して対抗して殴り合いになるなどということは通常起きません。夫が妻に手を出す場合は、大部分は妻の暴力に耐えて、これ以上は危険だという時に妻を壁や床に押し付けて制止するということにとどまっています。

夫には、相手が自分の家族だという意識があるために、相手を傷つけることができないという意識があり、このため積極的な暴行をふるうということができないようです。容赦ない攻撃をすることが心理的にできないということなのでしょう。

それにしても、妻側は、どうして夫からの反撃を想定しないで何のためらいもなく全力で攻撃をすることができるのでしょう。どんなに運動神経が良い妻でも、さすがに力対力になれば夫に適わないでしょうし、良い勝負になったところで肉体的なダメージを受けると思います。むしろ男同士ならば、感情的になったとしてもそのような攻撃をすることは日常の中ではほぼありません。

妻が脱抑制で夫に暴力をふるうことの考えられる理由
1 夫が自分に危害を加えないことを信じきっている。
2 そこまで考えられないくらい感情的になっている。

1と2が両方あるケースが多いように感じられます。見ず知らずの通りがかりの人間に対して暴言や暴力を行うのではなく、自分と夫婦の間柄にある夫だから容赦のない攻撃が加わっているのではないでしょうか。最近いくつかのケースを見ていますが、主たる原因は夫の個性ではなく、妻の心身の状態と夫婦という関係性の中で脱抑制暴力は行われるようです。

それにしてもどうして突如感情的になるのでしょう。ここがよくわかりません。
裁判所で妻は、自分が感情的になって夫に傷跡が残るような暴力をふるっているということを主張しないからです。

これまでの事件では、このような妻の脱抑制的な暴力はあまり担当したことがありませんでした。しかし、妻の奇妙で危険な行動を夫が静止したところ、DVだとされて、離婚や保護命令が申し立てられたケースは前々からありました。

突然豹変してトランス状態というか何かにとりつかれたように行動する点は共通しています。現在多いのは暴力をふるうということですが、一昔前によくあったのは突如家からの飛び出そうとしてしまうことです。二階の部屋の窓から飛び出そうとするならまだ良いですが、高層階のマンションのベランダから飛び出そうとする行動(インフルエンザの時にあるような飛び出し衝動)がおおかったです。尋常ではない目つきで突然行動に出るので、危険を感じた夫が転ばせて床に倒して制止させたり、壁に押し付けたりして制止するわけです。そうして体の自由が利かなくなったときに、はっと我に返るようです。記憶は制止されているところから始まりますので、夫から暴力をうけたという主張になるのです。その前段階の出来事は何ら主張されません。このような裁判で行われたことは数件経験があります。

どうやら本気で発作が起きている時の記憶は無いようです。

それでも妻は子どもを連れて突然出ていき、行方をくらまします。妻の弁護士はジェンダーバイアスによって、妻が夫に暴力を振るうなどということは考えもしません。男である夫が暴力をふるうのだということに決めつけて主張します。暴力の証拠を上げても、今度は確証バイアスで証拠の意味の認識を受け付けようとしないようです。こういうケースは保護命令を申し立てることもあるのですが、客観的にものを見ている裁判所は、淡々と取り下げるよう示唆することが多くなってきています。

それでも離婚したいのは妻の側で、離婚したくなくて、子どもと暮らしたいのは夫ということになります。

どうして夫はそれでもそのような凶暴な妻と一緒に暮らしたいのでしょうか。
「子どもと一緒に暮らしたい。」。「子どもが心配だ。」ということが先ずあることはもちろんです。

もちろん中には、もうこりごりだ。子どもには悪いけれど離婚したいという夫もいるとは思います。でも、それほど凶暴な妻を嫌がっていない夫が多いようです。

その理由は、四六時中そのような凶暴な状態でいるわけではなく、時々そういう状態になるということをよくわかっているようです。そうして、それ以外には良きパートナーであり、一緒に行動することがとても楽しいという経験があるからだそうです。

それだけ狂暴になって(本当に動画とか傷跡とか見るだけでこちらはビビります。下手なホラーよりよほど怖い。)しまうと、本人はとてもバツが悪いということはよくわかります。でも、そんなことで夫の妻に対する評価は変わらないようです。ふてぶてしく自信を持っていればよいようなのです。

昨日のブログの最後でも述べましたが、このような暴力をふるう妻は出産前にはこのような脱抑制状態になったことは無いようです。また、下のお子さんが就学前という共通点もあります。

出産後のホルモンバランスの変化が影響しているように思われますが、どうなんでしょうか。


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「どうして怒るかわからないので、いつも夫の顔色を窺っていてストレスがたまっていた。」と言うけれど、バイアスを取り去ると、そのくらいは気を付けるのが当たり前だと思えてくることが多い件 [家事]



離婚事件で、離婚理由として、「夫が突然大声で怒りだす。どうして怒るかわからないので、いつも夫の顔色を窺って過ごし、怒らないように細心の注意を払って生活していて、もう疲れた。」ということが言われることが本当に多いです。

確かに、中には会社などでのストレスを家族に八つ当たりする夫(妻)もいて、怒る方が一方的に問題があるというか、怒りの対象となる方には責任が無い場合もあることも間違いありません。

しかし、特に最近の傾向、特に子どもを産んで数年未満の若い夫婦の場合、怒りの対象となる方にもかなりの責任があるのではないかと思われるケースが増えているように感じます。

それでも、「いつも夫の顔色を窺っておびえて過ごしていた。」というような話を聞くと、どうしてもそれを聞く第三者、例えば調停委員は、「怖い思いをして辛い日々だったのだなあ。お気の毒だったなあ。早く解放してあげたい。」とついそういう発想の流れになってしまうものです。この発想の流れは、女性が怒られる方であればなおさらです。実態がどうだったのかを見ようとしないで、女性はか弱いものというジェンダーバイアスに引きずられた発想の流れだと思います。

最近は、「親しき中にも礼儀あり」という言葉が機能しなくなっていて、「言ってはならないこと」をずけずけと何の躊躇もなく、ささいなことをきっかけに言っているということが多いのです。

典型的な発言は、相手の親の悪口です。これをためらいなく、むしろ気の利いたことを言っているような言い回しで言っている若者が本当に多くなりました。

あとは、本人に言っても仕方が無いことを悪口のタネにするということです。背が高いとか低いとか等の身体的特徴や、収入が低いとか、本人のコンプレックスに感じていることをドストライクで指摘しています。

その言葉によって相手の尊厳を傷つけることをずけずけと言っているケースが実に増えていました。尊厳が傷つけられれば、逃避傾向にならなければ、怒りが出てきやすいのは自然な流れです。

もう一つの類型の発言として、自分たちの子どもの悪口や、子どもに対する攻撃的言動があると、相手はそれに対してつい感情的になるというパターンも多いように感じられます。仲間である我が子を守ろうとする余り、仲間であるはずの夫婦の一方を敵視してしまうような感情が芽生えるわけです。子どもに対して優しい気持ちであればあるほど、怒りは強くなってしまいます。

「相手の顔色を窺っていた」なんてことを言いますが、言えば相手が怒って当然だと思われる言動をしているわけです。「顔色は窺っていたけれど怒らせないようにすることはしていなかった。」とでもいうことなのでしょうか。「どのタイミングで怒るかわからない。」というけれど、「わからない方が悪い」のではないかと思えてきてしまいます。そういう暴言に対しては、通常の抗議の範囲であれば、多少熱が入っていても社会通念上許容されるべきことで、およそ離婚理由にはならないはずです。


但し、妻の場合は、妻の精神状態が平穏である場合の話です。


例外があります。それが産後うつというか、産後2年程度の時期という特殊な時期の場合です。

産後うつの特徴として、実例を多く見ている立場からすると、「うつ」という言葉は実態を表していないと感じる場合が多くあります。不安という感情を基盤としていることはそうだとしても、それが怒りやすさにつながっていたり、些細なことに敏感に反応してしまうということも産後うつの症状の一つです(MDSプロフェッショナル版)。ところが、なぜか日本の産後うつの解説は、抑うつや悲しみ、漠然とした不安等ことしか説明がされない傾向にあります。このため、怒りが激しくなることも産後うつの症状であるということが理解されにくくなっているようです。

また、私からみると、産後うつの他の特徴として、露悪的な言動をすること、あえて不道徳、違法な行為をするような言動をすること、刹那的な判断、安易な決断などがよく見られます。十分に考えてからの行動ができなくなり、感情的に行動をしてしまい、自己抑制をしようとする発想自体が減退するということがみられます。

この場合は、妻の人格に基づいた発言ではなく、何かの不安や苦しみから解放されようとしている発言だと切り替える必要がありそうです。口から出た言葉は引っ込めることができませんが、本意ではないと割り切って考える必要がありそうです。これもまた難しい作業になります。

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【勝手に解釈・我田引水】石川啄木 「友がみな」 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ (「一握の砂」より)

人間という生き物は、「仲間」の中で自分が尊重されて生きていたいと志向する動物のようです。「仲間」から軽んじられたくないし、「仲間」から外されたくないと切実に思ってしまうわけです。こうやって、200万年前から言葉もないのに、群れを作ることによって、食糧を獲得し、肉食獣や厳しい自然から自分たちを守って、そうして生き延びることができたわけです。つまり、そのような心というツールを使って、群れを作れた人間族だけが子孫を遺すことできて、その子孫が我々なので、そのような心を引き継いで逃れられないというのが対人関係学の基本的な考え方です。

200万年前ならば、生まれてから死ぬまで一つの群れだけで生活していたので、このような心はとても良く機能していたことでしょう。ところが現代は、群れと言っても家族、職場、あるいは社会やインターネットの世界等多数の群れに同時に所属していますし、道を歩いてもインターネットを利用しても、膨大な数の人間と接触しています。環境が変化しても心は変化しないので、様々な問題が起きる要因になっていると思います(「心と環境のミスマッチ」)。

さて、世の中には、「家族の役に立ち、家族から嫌われなければそれで満足だ」という人もいらっしゃると思います。私もだんだんとそう思っていた方が幸せかもしれないと思い出しています。しかし、若者であり、社会を仲間と意識してしまうと、社会の中で自分が良く評価されたい、社会に貢献するような仕事をしたいと思うようになることも自分にも覚えがあります。

石川啄木は、友人たちの間でも、自分が高く評価される人間でありたいと思っていたのだと思います。文壇での活躍を夢に見ていたのかもしれません。しかし、本望を遂げることができず、それに比較して友人たちは社会的地位を高めていることを目の当たりにしたのだと思います。もしかしたら、自分の方が友人たちより能力があるのに能力に見合った地位にたてていないという不遇を嘆いていたのかもしれません。

もしかすると、そういう実際の出来事に原因があるのではなく、精神的コンディションが落ちていたのかもしれません。理由もなく自信が無くなってしまい、自分は能力が無い、社会から評価されないという劣等感に苦しんでいただけかもしれません。その苦しみは本当はあまり意味のないもので、そんなふうに苦しまなくても良いはずだということも知っていたのかもしれません。

買ってきた花は、大きな花束ではないはずです。チューリップだったり水仙だったり、ありふれた花だったのだと思います。そんなものでも、自分が買って帰ることで、ダイヤの指輪を買ってきたかのように喜ぶ妻を見て、救われたのだと思います。妻も、一見無駄なような花を買ってくれば自分が喜ぶということを、夫はわかっていてくれたのだということがうれしかったのだと思います。
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私は若いころ、この短歌を読んで、極端に言えば負け惜しみ的な行動をしているように感じたことがありました。今は違います。啄木という天才は、おそらく社会的な名声を得ることができない代わりに妻を喜ばせて小成に安んじていたわけではないということがよくわかります。社会的評価を得ることと自分のかけがえのない仲間である家族を喜ばせることは、「人間として」価値に優劣がないことを知っていたのだと思います。

今この短歌を読み直すと、社会的評価を得られないことでいじけているような印象もないですし、妻を喜ばせてうっ憤を晴らしているようないじましい印象も全く持ちません。

前半と後半のコントラストによって、人間としての喜び、幸せというものの本質というのがどこにあるのかということを見つけた喜びを歌っているような印象を受けます。

多くの人がこの歌をそらんじているのは、このような何気ないところにある人間としての幸せを感じてほっとしているからなのではないでしょうか。

勝手にとてつもなく素晴らしい短歌だと改めて感じた次第でした。

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