孤立についてのスケッチ 争いのない世界でも我慢する人がいるという意味 [家事]
孤立というワードが出てきました。これまで必要性を感じながら説明が不十分だと思われるところを、メモしていこうと思います。
1 孤立解消は人間の根源的な要求
孤立を嫌がり、孤立状態にあれば解消したくなるのは、人間(正確に言えば霊長目にある程度共通の性質)の本能的仕組である。これによって、言葉が無くても群れを作ろうとして、群れを維持して、群れによって人間は生き延びてこられた。孤立を恐れることは、それだけ強い心理的圧力になるということ。
2 様々な種類の孤立だが効果は同じ
孤立とは天涯孤独の絶対的孤立だけではない。人間関係の中に帰属していても孤立を感じる。事実上家族としか人間関係が存在しない場合でも家族の中での孤立を感じる。家族、職場、あるいは学校、地域、友人関係と複数の人間関係に帰属していても、そのうちのひとつで孤立している場合でも、強烈な不安、孤立解消要求が起きる。この要求が解決しなければ、要求度は高まっていき、同時に不安や心理的圧力も強くなっていく。家庭では円満な人間関係が形成されていても職場や学校で孤立している場合に強度な心理的圧力が加わっている場合がある。
3 社会の中の孤立
やっかいなことに、目で見える人間関係だけでなく、ぼんやりした人間関係でも孤立を覚えることがある。例えば、貧困で不遇な暮らしをしていると、社会から自分だけが孤立しているという感覚を持つ。この場合も強度の心理的圧力が加わっていることがある。
また、先に挙げた目で見える人間関係の一つで孤立している場合に、社会においても孤立していると感じることもあるようだ。
4 将来に向けての孤立
現在孤立を感じていると、孤立が未来永劫続いていくことが頭の中で不可避のことに思えてくるようだ。孤立が続くと、孤立は解消されないだろうと思うようになるのかもしれない。
5 孤立とは
孤立とは人間関係の中に物理的に存在しても感じる。誰かと一緒にいるだけでは孤立は解消されない。これまで見てきた孤立の空間的特徴と時間的特徴を重ねると、自分が属する人間関係において自分が尊重されていないことも、孤立を感じるポイントになりそうだ。また、人間が孤立を感じるメリットからすると、人間は、人間関係に帰属することによって安心したい(不安を解消したい)と感じるのだろうと思われる。そうだとすると、孤立とは、自分が安心できる人間関係に所属していない時に感じる感情なのだろうと思われる。
6 孤立の対義概念 尊重、安心とは
おそらく、否定されないことということになるだろう。
自分の存在を否定されない
自分の健康を否定されない
自分の意見を否定されない
自分の感情を否定されない
自分の努力を否定されない
最低限の尊重はこのようなことなのだろうと思う。
複雑な人間関係の現代社会では、この最低限度の配慮すら難しいということになる。
複雑な人間関係とは、
1 個体識別できる人数(150人程度と言われている)以上の人間と関り、理解関係を持つこと
2 複数の人間関係に帰属すること
である。
7 孤立による不安は現代社会においても必要か
人類の発生段階においては孤立による不安は群れを形成したため、メリットだった。しかし現代社会は、貨幣経済が発達しており、物資も豊富であるから一人で暮らしていても、特段の不具合は無いように感じられる。そうであれば、孤立による不安を感じるシステムは不要であるようにも思われる。
しかし、現代社会で人間の命を奪うのは、やはり人間であろう。また、貨幣経済が発達していても、その中で信頼関係が保たれないのであれば、流通している物、観念等を安心して消費することもできない。孤立解消の要求は不必要とまでは言えないような気がする。
また、進化の過程で今から200万年前に確立した心が現在においても維持されているように、孤立解消が根源的な要求でなくなるためには、1,2万年という歳月はあまりにも短い期間である。当面、私たちが生きている間から1,2万年以上は、孤立による不安が自動的に起きてしまうのが人間であろうと思われる。
逆に孤立という現象に着目して、孤立解消要求に沿った政策をすることで、人々が幸せになるヒントとなると思われる。
「相手の言いなりになっている」と考えてしまうことのデメリット 家族再生を望むのであれば [家事]
家事事件に限らず、一般事件もそうなのですが、和解の話を進めるとき、よく出てくるのが、「それでは、相手の言いなりではないか。納得できない。」という言葉です。離婚事件では頻度が高いように感じられます。
弁護士が入って和解をする場合、実際には相手の言いなりに和解をするということはめったにありません。相手の言い分をずいぶん削っていることが多いのですが、削った点についてはご認識いただけないことが多いようです。
例えば、妻が子を連れて別居しました。離婚調停が申立たてられました。親権者は母、財産分与は例えば500万円、慰謝料220万円、プラス離婚という訴状だとします。あとは、父親の子どもとの面会交流は拒否されている現状だとします。
離婚と親権は妻側の言いなりなのですが、和解では、金額の点について総額300万円に抑えられ、面会交流は月1回3時間がすでに定期的に実施されているとします。
ここで、最終的に面会交流現状通りであれば、金額300万円であれば和解が成立するとします。
もちろん納得のゆく結果ではありません。これまで同居していた我が子と、理由も良くわからないで、月に一回短時間しか面会できないということは、当然納得のできないことです。
この例示事例で和解しなさいという話しではないのです。「相手の言いなり」という考え方ではデメリットが出てきてしまうということなのです。
「相手の言いなり」 ⇒ 「納得できない。」 ⇒ 「和解しないで判決」
となると、
① 300万円以上の支払いが命じられる可能性が出てきます。
② 特に家族再生を目指している場合、どちらが勝っても負けても遺恨となり、相手に対する敵対的感情が高まっていく可能性があります。
③ 感情的対立が高まれば、面会交流に協力的ではなくなる可能性も出てきます。
そうなれば、一番の被害者は子どもになってしまいます。
メンタル的なデメリットもあります。
つまり、「こちらはメンタルも経済的にも大変苦しんでいるのに、自分の支払うお金で相手方は楽しく、何も悩みなしで生活を続けている、この格差はあまりにも不合理だ。」という敗北感に打ちひしがれることが多いのです。しかし、相手方は、要求が削られて、しかも裁判手続きが何カ月も続き、「こんなはずではなかった。もっと早く離婚できて解放されると聞いていたのに。」と考えているはずなのです。そうではなくて、自分だけが一方的に苦しんでいるという観念は、自分で自分を苦しめてしまいます。
これでは家族再生のモチベーションは消えて行ってしまうでしょう。
子の連れ去りという家族の危機は厳然と存在しているということをしっかり認識する必要があります。ここから再生がスタートするのだという意識です。「相手の言いなり」だと感じてしまう人はこの点の意識が弱いです。だから、家族の危機を無かったことにできるのではないかと、無自覚にですが前提として考えてしまっています。
だから、強引に連れ去り前の家族に戻りたいと無理を通そうとしてしまうのです。だからうまく進まないのかもしれません。状況を見誤っているということです。
逆に、「前進面もある。相手もかなり譲歩をしている。」と認識することができると、心にはないけれど、相手に対する感謝や謝罪、思いやりの言葉の一つも発することができるようになり、この先の家族再生につなげる第1歩が踏み出せるかもしれないのです。
自分の思い通りに相手を動かそうとすることは、人間相手の場合はとても難しいことです。相手にも意思があるからです。この意思をどう変えていくかということ、どう家族再生に誘導していくかということを考えるのは、通常は連れ去られた側しかありません。同居中と形は変わったとはいえ、子どもがいる限り家族だと私は思います。この家族というチームをどう作り上げていくかという視点をもつことが大切です。チームリーダーとして、ある時は相手の言い分を承認し、ある時は修正の提案をし、ある時は自分から相手が同意しそうな案を提案していくという作業が、家族再生には不可欠だと思います。自分の意見を通そうというのではなく、結果として家族再生に近づくためにはどう立ち回るべきか、相手の言いなりになれば家族再生に近づくなら、多少無理をしてでも言いなりになった方が良い場合もあると私は思います。
夫が怒るポイント なぜ妻はそれを分からないというのか [家事]
離婚調停などで、妻側から、夫が怒るポイントがわからないで、いつ怒られるかびくびくして暮らしている。もうそんな生活は嫌だから離婚したいという話しを聞くことがあります。
こういう主張を何も予備知識なく聞くと、夫はわけのわからないタイミングで怒りだす瞬間湯沸かし器みたいな人で、さぞご苦労していたのだろうと思ってしまいます。
しかし、もうちょっとだけ詳しく事情を聞くと、「それは怒るわな。」と納得したり、「どうしてそんなことを平気で言ってしまうのだろう」と思ったりすることが最近ではほとんどです。あまりにも無防備で、余りにも傍若無人な発言をしていることが実際はあるようです。
そこで、怒るポイントと、怒りの程度が激しくなるポイントについて、実際の事例を参考にいくつか挙げてみることにしました。書いていて思ったのですが、これは男性、女性に性差が無い問題のような気がします。
1 怒るポイント
夫が怒るポイントは、妻が夫の尊厳を侵害したと夫が感じたときがほとんどです。もう少しひらったく言うと、夫の人間性を否定した時です。尊厳が侵害されると防衛行動を起こすことは人類にすべて共通していて、尊厳が侵害された時は怒ったり委縮したりするのであり、国際紛争の原因になったりまでするそうです。
あまり抽象的に言っても仕方がないので列挙してみます。
・ 役に立たない人間だという意味の発言
文字通り「役立たず」、「生きる価値無し」、
・ 努力を否定する発言
「家のことを何もしない」、「それで頑張っているつもり?」
・ 過去の失敗を繰り返し言う。
「こんなことをしているからあの時も失敗した」、「一事が万事」
・ 育った地域、親。兄弟のこと等を悪く言う
「親が親なら子も子だ。」、「育て方を失敗したな」
・ 大事にしていることを否定する発言
「そんなことにこだわっているからうだつが上がらないんだ。」
・ むやみに疑う発言
「あなたは否定しているけれど、あなたがやった以外には考えられない」
・ 根拠のない不合理な否定
「だからあなたといると、雨が降るんだ。」
とりあえず、こんなところでしょうか。夫婦はお互いの弱点を知り尽くしているので、的確に相手が嫌なポイントをついてきています。感心さえしてしまうほど的確です。「いやそれで怒るポイントが分からないというのはどうなの?」という感想を持つことがしばしばです。
2 怒りが激しくなる事情 解決方法が見つからない場合
怒りが激しくなるのは、尊厳を侵害されて早く解放されたいと思うけれど手段が無い場合です。尊厳が侵害されると、とても不快な気持ちになります。とても不快な気持ちになると、早く不快な気持ちを終わらせたいという気持ちになります。不快な気持ちを終わらせる方法が無いと、ますます不快な気持ちが高まります。益々解消要求も高まります。それでも解消手段が無いと、ほとんど思考が停止している状態になり、ただただ相手を黙らせようと大声を出したり、物に当たったりするわけです。さすがに暴力までする人は令和には少なくなりましたし、暴力には警察通報をする人が驚くほど多くなりました。実際の離婚手続きの多くには夫から妻への暴力というのはあまり記憶が無いです。
解決方法が見つからないのも事情があります。相手が執拗に尊厳を侵害する発言を繰り返し行う場合が典型です。取り付く島が無いというか。その他反論が見つからない場合、言葉にできない場合等もあります。
つまり追い込んでしまったので、窮鼠猫を嚙むじゃないですが、イチかバチかみたいな思考停止で行動をしてしまう時が怒りが激しくなっている時です。
3 どうして怒りのポイントが分からないのか
冷静な第三者から見ると「あなた相手を怒らせているよね。」と思う事例が多いのですが、本人はどうやら本当に自分が相手を怒らせている自覚が無いようです。どうしてでしょう。
私なりの印象を列挙しておきます。
① そもそも、最初の発言者も思考停止状態になっており、それを言うと相手が怒るということも考えられない。④⑤も基本はこれ。
② 自分は正当なことを言っている。相手の感情よりも正当性が優先であるから悪くない。怒る方が悪い。
③ 自分の本心は相手を攻撃しているつもりはないので、相手が怒るのが不思議だ。この現象は自分のこれからの発言を自分では予想しているし、本心が別だということも知っているので、それほど打撃力が無い発言だという感覚なのです。ところが、言われている方は、そんなことは知らずただ発言された言葉だけで評価しますので、ストレートにダメージを受けているということです。自分で自分をくすぐってもくすぐったくない事情と同じです。
④ 発言者の人格が一時的に変わっている。精神疾患だけでなく、内科疾患や婦人科疾患でも、一時的に不安が高まってしまい(一種の発作)、不安を解消するためにやみくもに攻撃をするという現象があるようです。こういう場合は、自分の行動の記憶も曖昧になることが多いです。
⑤ 様々な事情で不安が優位になっていると、相手が怒っていないのに、「こんなことを言ったら相手に怒られてしまうかもしれない」ということが、「怒られた」という記憶に変容してしまうことがあります。また、自分が想定する反応よりも厳しい反応であった時、それほど怒っていないのに激しく怒られたという印象になることもあるようです。
⑥ 怒られたくない、仲良くしたいという気持ちが強すぎて、⑤と同じように、怒っていないのに、怒っていると感じることがあるようです。
4 相手が怒っていると感じたら
まあ、率直にごめんなさいと言っておけばよいように思われるのですが、「怒った?」と繰り返し聞くことが、怒ってもいない場合は、何かからかわれているというか、信用されていないように感じられて怒りがわいてくるということもあるようですから難しいです。
話をはぐらかすというか、何事もないように話題を変えて話し始めるということも案外有効のような気がします。
不安が優位であることを自覚しているなら、相手に打ち明けて相談するということも良いかもしれません。そのときは、「気遣ってほしい」、「こういう風に言ってほしい」、「聞き流してほしい」など、相手にどうしてほしいかを提起することが、相手の負担を減らす方法のような気がします。
いのちの電話さんとの対話 自殺予防政策とコミュニティーについて改めて考えた [自死(自殺)・不明死、葛藤]
いのちの電話の相談者の方とお話する機会がありました。
それまでに私が聞いていたいのちの電話の概要をお話しします。
いのちの電話の相談者さんは基本的にボランティアで行っているようです。ただ、実際に電話を受けるためには数年間(あるいはもっと)の研修を受けるとのことです。確かに頭で理解していても、電話で話すと失敗するということはありうることなので、いろいろな角度から実践的に研修をするのでしょう。
相談対応の方法ですが、基本的に行動提起はしないようでした。これは弁護士の相談対応とはだいぶ違うので、あまり理解ができないところでした。
ところで、自死予防とはいくつかの段階に分けられています。
一次予防とは自死リスクのある人に働きかけてリスクを軽減すること
二次予防とは自死をしようとする人の行動に介入して自死を止める
三次予防とは自死した人の遺族に対するケア
です。
私は、もっと早期に対策するべきだということでリスク者を作らない0次予防も自死予防政策として位置付けるべきだと主張しています(「自殺問題と法的支援」日本評論社)。
さて、私は、力を入れるべきはゼロ次予防だという考えです。その他の予防ももちろん大切ですが、一度リスクができてしまうとなかなか根治が難しいということがあり、リスクを作らないことが肝心だと思っています。
自死リスクとは、その人が置かれている状況だけでなく、その人の心理状態もまじえてアセスメントされるべきことですが、客観的な状態からリスクが生まれる可能性を判断して心理状態においてリスクが生じないようにするという政策がゼロ次予防ということになります。
一番は孤立があるところで、孤立の解消を進めていくという政策になります。つまり、コミュニティーを作っていくという作業がその中核になるはずです。
国の自死対策が内閣府から厚生労働省に移ったあたりから、このようなゼロ次予防に力を入れるようになったような気がします。自死予防政策の流れはこうなると、これまでは思っていました。
ところが、自殺予防地域総合計画を各自治体が策定するあたり(平成30年ころ)から、少し様相が変わってきたような気がします。「棚卸」という概念が導入されたあたりです。これまで気が付かなかった自治体の活動について、ゼロ次予防の観点から自死予防に役に立つ活動をしているはずだから、その観点から見直して、その活動も自治体の自死予防政策の内容として掲げるようになったのです。当初は、自治体の職員が、行政活動は自死予防活動であるという自覚をもって公務に当たるようになれば自治体の在り方も変わるのかなと期待をしていました。
しかし、どうやら、自治体から国に向けた報告が増えただけで、これまでの行政行為が単純に継続しているだけで、何らかの変化が無いだけでなく、本来の一次予防、二次予防、三次予防が薄くなったような印象を受けています。少し意地悪な感想でしょうか。
こういうことに気が付いたのもいのちの電話の方とお話ができたからです。いのちの電話にかかってくる深刻な電話は、まさに電話がつながらなかったら自死していたようなシチュエーションでかかってくるそうです。
弁護士の職業病としては、死のうと思った原因は何か、その原因をどのように解消するかということを考えて、相手と相談し。アドバイスをしようと考えてしまいます。しかし、いのちの電話は違うようです。
原因はどうあれ、今の気持ちを聞いてもらいたいから電話をするようです。極端に言えばただ相談者は話をして、担当者はただ話を聞くということのようです。こういうと誤解されるかもしれないのですが、案外これが難しいし、案外これがうれしいもののようです。
孤立した人が、死の間際に、一時的ではあれコミュニティーに帰属する、そうして生きる意欲を取り戻していくということのようなのです。
(オープンダイアローグに似ている感じを受けたのですが外形的には全く違います。オープンダイアローグの本質が、このコミュニティーの形成ということなのかもしれないとも思いました。)
まさに二次予防とはかくあるべきというような強烈な印象を受けました。ゼロ次予防から三次予防までも、結局コミュニティー形成の観点から再構成する必要があるのではないかと考えている次第です。
いのちの電話はなかなかつながりにくいということを聞くことがあります。ボランティアでの仕事ですし、十分な研修をしなくてはならないので、電話の担当者がどうしても足りません。しかし、命を救うということに関しては大きな効果があります。
国は、ボランティアに頼らず、このような二次予防の対策をどんどん構築するべきだと思います。また、それができないならば、このような団体にこそ少なくても財政的支援を行うべきだと思いました。
共同養育を阻む力 兵庫県知事選マスメディアの敗北⇒コメンテーター⇒SNS規制 [家事]
1 聞き逃してはならなないマスメディアの「敗北」
兵庫県知事選の前職勝利の結果を受けてテレビ側の人間に、「マスメディアの敗北」という言い方をした人が何人もいました。前職を応援していた人の中には留飲を下げて勝利に酔いしれた人もいたかもしれません。
しかし、ここは聞き逃してはならないと思います。疑問を持つ必要があります。
「なぜ前職が当選したらマスメディアの敗北ということになるのか。」
ということです。
深読みかもしれませんが、「マスメディアは前職を落選させようと一致して取り組んでいたとしたならば、あるいは対立候補を当選しようとしていたならば」、前職当選によってマスメディアの敗北という表現がよくわかります。
つまりマスメディアは、会社に関わらず、統一した意思をもって、前職を落選させ対立候補を当選させようとしていたということです。マスメディアが、自治体の主張を誰にするか国民を誘導していたということの自白に他ならないと考える余地があると思います。
何も音頭を取る人がいなくてマスメディア各社が同じ意見を持つわけはありません。「何かグループ」(暇空茜さん命名)とでもいうものがあり、それがマスメディアに号令をかけ、マスメディアがそれに迎合した報道をしていると考えることが自然だと思われます。
2 続コメンテーターの役割
そして、なんでこの人がコメントしているのと思うコメンテーターたちが、SNSの影響で投票行動が決まったから、「SNSを規制しなくてはならない。」と言い出したようです。
ここにコメンテーターの役割ということがはっきりしました。前の記事でコメンテーターの役割は怒って見せて、国民が共感して怒りやすくするのが役割で、怒り依存によって固定の視聴者を作り上げようという意図があるということを言いました。もう一つ役割があり、それは、先に述べたマスコミに号令をかける何かグループの意思を一個人のコメンテーターという装いで、言葉にして話させるという役割があったわけです。
今回の出来事はいろんなことがはっきりしてきました。
3 「何かグループ」と広い意味での左派勢力
この間ことごとく、「何かグループ」とマスコミの意図に同調しているのが広い意味での左派勢力です。これも奇妙なまでに各論点で意見が一致し、具体的根拠を上げずに攻撃対象を否定にかかるということも同じです。
本来「何かグループ」と広い意味での左派勢力、そしてマスコミは敵対関係にあるというか、「何かグループ」を批判することに左派勢力やマスコミの存在意義だったはずです。ところが現在では、マスコミと広い意味での左派勢力が一体となって攻撃対象を攻撃しているという構図があちこちでできているのです。これでは、「何かグループ」を抑制する者がおらず、やり放題の青写真ができてしまっていたはずです。
その最たるものが兵庫県知事選挙だったわけです。
4 共同親権反対派
共同親権、共同養育、あるいは家族を守り発展させることに対することに対する攻撃も全く同様の構図を持っています。
マスコミと広い意味での左派勢力が、離婚を推進し、共同親権に反対して子どもを一方の親の愛情を受けにくくし、子ども健全な成長を阻害しているわけです。そして、子どもの権利を主張すると「DVだ」、「モラハラだ」と主張するのですが、具体的な内容はともなっていないことが大半です。家庭の事情は個々別々ですが、一般論で政策を進めようとしているところも一緒です。家族の大切さを主張すると統一教会だとレッテルを貼るという具合です。そのうち陰謀論という人たちも出てくることでしょう。そして、何の恨みもそれほどの落ち度もない一方当事者の尊厳を侵害しても気にしないことはもちろん、最も考えるべき子どもの健全な成長についての考慮は蚊帳の外になっている始末です。
5 しかし展望はある
現在は日本を除く先進国はすべて共同親権制度を取っています。これは子どもの健全な成長を科学的に検証して推進されて行ったのですが、もともとはアメリカの子どもを連れ去られた一人の男性が何度も訴訟をして敗北してもくじけずに、ロビー活動を行って世界的な共同親権制度につなげていったということがあります。
また、いろいろなことを露わにした兵庫県知事選挙は、「何かグループ」、マスコミ、広い意味での左派勢力は敗北を認めました。新しい動きの中で、子どもの権利の前進が図られる条件が整いつつあるのではないかと展望が切り開かれたという思いです。
組織の論理 人間が他者を容赦なく攻撃できる仕組み いじめ、パワハラ、SNS攻撃そしてその傍観の仕組み ワイドショーコメンテーターの存在意義 [進化心理学、生理学、対人関係学]
1 日常的に目撃する組織の論理の攻撃
ふと偶然、人間が人間を攻撃している現場を目撃すると何ともいやな気持がするものです。職場のことであったり、テレビのニュースであったり、それを見ると通常は嫌悪感が先に立つものと思われます。攻撃されている方だって家族がいたり一緒に悲しむ人がいたりするのに、あるいはメンタルが壊れてしまうのじゃないだろうかと心配になり、どうしてそんなに攻撃ができるのだろうと疑問を持つと思われます。
しかし、その対立のどちらかに組み込まれてしまって、夢中で相手方を攻撃していたことはないでしょうか。みっともない攻撃をしていて、後で自己嫌悪に陥るということが私にはありました。
また、同僚から嫌な思いをさせられているのに、他の同僚はそれを止めないで一緒に楽しんでいるように思え、普段は仲良くしていたはずなのにどうして自分を助けてくれないのだろうと不思議に思ったことはないでしょうか。少なくともひどいことをしているリーダーを止めてくれたって良いじゃないかと切実に思うことがあります。
人が人を容赦なく攻撃できる仕組みが組織の論理です。自己防衛という仕組みもありますが、人間特有の様々ないじめ、理由の乏しい他者攻撃が可能となる仕組みが組織の論理です。
2 いじめを例にとる
いじめの多くは「からかい」や「いじり」から始まります。からかわれた方、いじられた方は、当然苦痛に感じるものです。からかい返したり、いじり返せる状況であれば、いじめにはなりにくいのですが、ここに組織の論理が働くといじめが成立してしまいます。
いじめが、例えばからかうことが、“ウケ”たとすると、人間は一緒に面白がろうとする生き物です。Aをからかって面白がろうという、一時的で緩やかな人間関係が形成されることになります。この人間関係も「組織の論理」で言うところの「組織」です。いじられた側も一緒に楽しめば、いじられた側も組織の一員となりいじめには変化しにくくなります。
ところが、いじられた方がいじりに傷つき、あるいは怒りを覚えてしまうと、からかいの人間関係は、しらけて消滅するか、逆に人間関係が強化されてしまい、いじられた方をさらに攻撃して楽しもうとしてしまいます。
人間は周囲と一緒に楽しみたいという性質を持った生き物ですから、強化されたいじりを楽しもうとしてしまいます。「冗談じゃないか。」、「おふざけじゃないか。」という意識です。だから、これに対して「やめろよ。嫌がっているじゃないか。」ということを言う人があっても、しらけてしまい、「いい子ぶりやがって。」という意識になってしまいます。但し、いじりを止める発言をした者が、その人間関係の母体の人間関係の(いじめという一時的な人間関係の母体の学校のクラスの権威等)権威的な人間であれば、いじりをやめるようとする人間関係が形成され、いじりを継続強化する人間関係が消滅するという関係になります。
現代日本の若者(中学生)には、このようにいじりを止めようと発言する権威者が現れにくいという国際比較が出て久しい状況になっています。
すると、対抗する人間関係が現れないため、いじりの維持、強化の人間関係が継続していくことになり、簡単にいじめが完成してしまいます。そうすると、恐ろしいことに、人間はいじめの人間関係に迎合していくことになります。特にいじめのリーダーが権威化されてしまい、権威を壊そうとする者から権威を守ろうとしてしまいます。これが組織の論理です。*1
学校でよくあるいじりからいじめへの変化について説明しましたが、これは「笑い」という感情を共有しようとしての人間関係のことでした。
世間で多いのは、「怒り」という感情の共有を基盤とした人間関係です。本当は、関係者にはいろいろな事情があり、一方的な加害ではなくお互い様のことであっても、テレビのニュースなどで一方的な加害だと単純化された報道があれば、視聴者は怒りを共有したくなります。ただこの仕組みは周到に作られています。報道をする者は中立的な装いをして、視聴者をじらします。そこでコメンテーターの登場です。理由や論理はどうでもよく、怒りの表情を見せて、怒りの発言をすれば、怒りたくて仕方なかった視聴者は、怒りに共感する形で自分の怒りを発散して、ある種のカタルシスを得ることができるわけです。これは依存症になりやすい現象です。
SNSも同様の場合があります。例えば女子プロレスラーの方が、SNSの誹謗中傷をされた事例がありました。自分には何の被害もないにもかかわらず、怒りの共有という人間関係がインターネット上に形成され、我先に一人の人を攻撃しました。そこでは、怒りの感情の共有と「いかに気の利いた攻撃をするか」を競うという共通の価値観の共有による人間関係の形成だったと思います。その目的に夢中になってしまい、相手がどのような気持ちになるかという推測をすることをしなくなってしまうのです。
全体主義国家もその一側面をこの組織の論理で説明することが可能だと思われます。それが正しいかどうかにかかわりなく、「国を守る。民族を守る。」という感情を共有した者が、自国に攻撃を加える他国、自民族と敵対する他民族を攻撃し、容赦のない攻撃を加えるということで一致し、それ以外の考えを許さないということをしているというように見ることが可能ではないかと考えています。
3 組織の論理まとめ
組織の論理のまとめ
① 感情を共有する人間関係が形成されると、その人間関係を維持、強化しようとしてしまう。
② その人間関係の維持強化が優先してしまい、その人間関係に敵対したり加わらない者を敵視し、容赦のない攻撃を加えることが可能となる。
③ その人間関係の権威を守ろうとしてしまう。
4 組織の論理のシステム
組織の論理に人間が陥る理由は、組織の論理は言葉による意思決定ではなく、本能的な意思決定だからです。
人間は文字ができる前どころか言葉ができる前から群れを形成して生き延びてきました。言葉が無いのに、どのようにして他者と共同生活をしていたかというと、心を持ったからだと考えることが自然だと思います。たまたま、他者と一緒にいたい、仲間を大事にしたい、一緒に喜び、一緒に怒りたいという心という仕組みを持ったものだけが群れを形成することができて生き延びられたわけです。
だから、「論理的に自分がこのように考えたからこのように結論付けて行動する」ということではなく、感情の共有が起これば、自分もその感情の共有の輪に参加したいという気持ちに本能的になるわけです。
近年の認知心理学では、「ヒューリスティックな意思決定」ということで、十分に考えないで結論に飛びつく経路について、いろいろ解明が進められています。私は、ヒューリスティックな意思決定による行動決定の多くは、少なくとも言葉による思考を介さずに、本能的な直観での行動決定をしている結果だと考えています。
その脳の構造は当時、約200万年前からそれほど変わらないので、人間の行動決定は本能的直観によってなされている割合がとても高いということになっているわけです。
他者と感情を共有したいという本能が組織の論理の正体ということになりそうです。
5 組織の論理の特徴
組織の論理の特徴の第一は、本能的な直観による行動決定が優先になるため、言葉による思考が低下ないし停止するというところにあります。十分に考えるということをしなくなるということです。
思考低下の結果
・ 二者択一的な選択肢だけしかもてない。
・ 敵とみなせば怒りを向け、仲間とみなせば従おうとする。
・ 敵とみなした以上、相手が致命的な状態になるまで攻撃を続けたくなる。
・ 細かくそれぞれの要素を分析することができなくなる。
・ 複雑な問題を処理できなくなる。例えば他人の感情。
・ 仲間の中の権威に迎合しようとする
・ 折衷的な結論を出せなくなるし、考えようとしなくなる。
・ 正義とか倫理とかその他の価値観よりも組織の論理を優先する
・ 攻撃行為に対して立ち止まって考えなおすことができなくなる
・ 怒りを純粋に全うしようとする
思いつくだけでこれだけの特徴があるようです。
組織の論理と怒りの純粋培養はよく見られることです。
200万年前の心とは、仲間を助けようと、肉食獣などに襲われている仲間を仲間全体で反撃する行動を取ろうとしていたのだと私は思います(袋叩き反撃仮説*2)。つまり仲間以外は、同じ人間だとは思えずこの当時の野獣のように敵対して怒りをぶつけているのだと思います。
組織の論理で攻撃している人を見ると、具体的な理由や具体的な事情があまり主張されることはありません。兵庫県知事選挙の問題でも「デマ」、「陰謀論」、「SNS」という言葉はでてきましたが、が具体的な要素、具体的事実に踏み込んだ指摘は見られませんでした。ネット上は「主語がでかい」という言い方で批判される論調がありますが、まさに組織の論理での主張がなされていると考えればわかりやすいと思います。
裁判でも「DV」があったとか「モラハラ」があったということで、主張が漠然と終わっているケースがあります。最近は、このような訴状は通りにくくなっているように思います。
ご自分が、組織の論理で他者の尊厳を侵害しないことを第一にするのであれば、例えば他者個人を攻撃することに対しては、はじめない、かかわらないという態度が確実だと思います。それでも何らかの参加が余儀なくされれば、本当に攻撃する必要があるのかを言葉で考える必要があると思います。頭の中で考えずに、紙媒体やコンピューターのモニターに書き込んでから考えると失敗が少なくなると思います。これがヒューリスティックに陥らない方法論です。
手前味噌な参考記事
*1 Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある:弁護士の机の上:SSブログ
*2 ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説:弁護士の机の上:SSブログ
心と環境のミスマッチ 複数のグループに所属することによる問題1 外部での仲間へのいじり ウケを狙うことに夢中になって大事な仲間を傷つけているかもしれないし、自分がその外部の人から致命的な低評価を受けている可能性があること:弁護士の机の上:SSブログ
① 人間が群れを作ることができた最大のツールは「心」であること。 ② 当時極めて有効だった「心」が現代で苦しむ原因は、心と環境のミスマッチにある 中島みゆき「帰省」に寄せて シリーズ1:弁護士の机の上:SSブログ
ふと偶然、人間が人間を攻撃している現場を目撃すると何ともいやな気持がするものです。職場のことであったり、テレビのニュースであったり、それを見ると通常は嫌悪感が先に立つものと思われます。攻撃されている方だって家族がいたり一緒に悲しむ人がいたりするのに、あるいはメンタルが壊れてしまうのじゃないだろうかと心配になり、どうしてそんなに攻撃ができるのだろうと疑問を持つと思われます。
しかし、その対立のどちらかに組み込まれてしまって、夢中で相手方を攻撃していたことはないでしょうか。みっともない攻撃をしていて、後で自己嫌悪に陥るということが私にはありました。
また、同僚から嫌な思いをさせられているのに、他の同僚はそれを止めないで一緒に楽しんでいるように思え、普段は仲良くしていたはずなのにどうして自分を助けてくれないのだろうと不思議に思ったことはないでしょうか。少なくともひどいことをしているリーダーを止めてくれたって良いじゃないかと切実に思うことがあります。
人が人を容赦なく攻撃できる仕組みが組織の論理です。自己防衛という仕組みもありますが、人間特有の様々ないじめ、理由の乏しい他者攻撃が可能となる仕組みが組織の論理です。
2 いじめを例にとる
いじめの多くは「からかい」や「いじり」から始まります。からかわれた方、いじられた方は、当然苦痛に感じるものです。からかい返したり、いじり返せる状況であれば、いじめにはなりにくいのですが、ここに組織の論理が働くといじめが成立してしまいます。
いじめが、例えばからかうことが、“ウケ”たとすると、人間は一緒に面白がろうとする生き物です。Aをからかって面白がろうという、一時的で緩やかな人間関係が形成されることになります。この人間関係も「組織の論理」で言うところの「組織」です。いじられた側も一緒に楽しめば、いじられた側も組織の一員となりいじめには変化しにくくなります。
ところが、いじられた方がいじりに傷つき、あるいは怒りを覚えてしまうと、からかいの人間関係は、しらけて消滅するか、逆に人間関係が強化されてしまい、いじられた方をさらに攻撃して楽しもうとしてしまいます。
人間は周囲と一緒に楽しみたいという性質を持った生き物ですから、強化されたいじりを楽しもうとしてしまいます。「冗談じゃないか。」、「おふざけじゃないか。」という意識です。だから、これに対して「やめろよ。嫌がっているじゃないか。」ということを言う人があっても、しらけてしまい、「いい子ぶりやがって。」という意識になってしまいます。但し、いじりを止める発言をした者が、その人間関係の母体の人間関係の(いじめという一時的な人間関係の母体の学校のクラスの権威等)権威的な人間であれば、いじりをやめるようとする人間関係が形成され、いじりを継続強化する人間関係が消滅するという関係になります。
現代日本の若者(中学生)には、このようにいじりを止めようと発言する権威者が現れにくいという国際比較が出て久しい状況になっています。
すると、対抗する人間関係が現れないため、いじりの維持、強化の人間関係が継続していくことになり、簡単にいじめが完成してしまいます。そうすると、恐ろしいことに、人間はいじめの人間関係に迎合していくことになります。特にいじめのリーダーが権威化されてしまい、権威を壊そうとする者から権威を守ろうとしてしまいます。これが組織の論理です。*1
学校でよくあるいじりからいじめへの変化について説明しましたが、これは「笑い」という感情を共有しようとしての人間関係のことでした。
世間で多いのは、「怒り」という感情の共有を基盤とした人間関係です。本当は、関係者にはいろいろな事情があり、一方的な加害ではなくお互い様のことであっても、テレビのニュースなどで一方的な加害だと単純化された報道があれば、視聴者は怒りを共有したくなります。ただこの仕組みは周到に作られています。報道をする者は中立的な装いをして、視聴者をじらします。そこでコメンテーターの登場です。理由や論理はどうでもよく、怒りの表情を見せて、怒りの発言をすれば、怒りたくて仕方なかった視聴者は、怒りに共感する形で自分の怒りを発散して、ある種のカタルシスを得ることができるわけです。これは依存症になりやすい現象です。
SNSも同様の場合があります。例えば女子プロレスラーの方が、SNSの誹謗中傷をされた事例がありました。自分には何の被害もないにもかかわらず、怒りの共有という人間関係がインターネット上に形成され、我先に一人の人を攻撃しました。そこでは、怒りの感情の共有と「いかに気の利いた攻撃をするか」を競うという共通の価値観の共有による人間関係の形成だったと思います。その目的に夢中になってしまい、相手がどのような気持ちになるかという推測をすることをしなくなってしまうのです。
全体主義国家もその一側面をこの組織の論理で説明することが可能だと思われます。それが正しいかどうかにかかわりなく、「国を守る。民族を守る。」という感情を共有した者が、自国に攻撃を加える他国、自民族と敵対する他民族を攻撃し、容赦のない攻撃を加えるということで一致し、それ以外の考えを許さないということをしているというように見ることが可能ではないかと考えています。
3 組織の論理まとめ
組織の論理のまとめ
① 感情を共有する人間関係が形成されると、その人間関係を維持、強化しようとしてしまう。
② その人間関係の維持強化が優先してしまい、その人間関係に敵対したり加わらない者を敵視し、容赦のない攻撃を加えることが可能となる。
③ その人間関係の権威を守ろうとしてしまう。
4 組織の論理のシステム
組織の論理に人間が陥る理由は、組織の論理は言葉による意思決定ではなく、本能的な意思決定だからです。
人間は文字ができる前どころか言葉ができる前から群れを形成して生き延びてきました。言葉が無いのに、どのようにして他者と共同生活をしていたかというと、心を持ったからだと考えることが自然だと思います。たまたま、他者と一緒にいたい、仲間を大事にしたい、一緒に喜び、一緒に怒りたいという心という仕組みを持ったものだけが群れを形成することができて生き延びられたわけです。
だから、「論理的に自分がこのように考えたからこのように結論付けて行動する」ということではなく、感情の共有が起これば、自分もその感情の共有の輪に参加したいという気持ちに本能的になるわけです。
近年の認知心理学では、「ヒューリスティックな意思決定」ということで、十分に考えないで結論に飛びつく経路について、いろいろ解明が進められています。私は、ヒューリスティックな意思決定による行動決定の多くは、少なくとも言葉による思考を介さずに、本能的な直観での行動決定をしている結果だと考えています。
その脳の構造は当時、約200万年前からそれほど変わらないので、人間の行動決定は本能的直観によってなされている割合がとても高いということになっているわけです。
他者と感情を共有したいという本能が組織の論理の正体ということになりそうです。
5 組織の論理の特徴
組織の論理の特徴の第一は、本能的な直観による行動決定が優先になるため、言葉による思考が低下ないし停止するというところにあります。十分に考えるということをしなくなるということです。
思考低下の結果
・ 二者択一的な選択肢だけしかもてない。
・ 敵とみなせば怒りを向け、仲間とみなせば従おうとする。
・ 敵とみなした以上、相手が致命的な状態になるまで攻撃を続けたくなる。
・ 細かくそれぞれの要素を分析することができなくなる。
・ 複雑な問題を処理できなくなる。例えば他人の感情。
・ 仲間の中の権威に迎合しようとする
・ 折衷的な結論を出せなくなるし、考えようとしなくなる。
・ 正義とか倫理とかその他の価値観よりも組織の論理を優先する
・ 攻撃行為に対して立ち止まって考えなおすことができなくなる
・ 怒りを純粋に全うしようとする
思いつくだけでこれだけの特徴があるようです。
組織の論理と怒りの純粋培養はよく見られることです。
200万年前の心とは、仲間を助けようと、肉食獣などに襲われている仲間を仲間全体で反撃する行動を取ろうとしていたのだと私は思います(袋叩き反撃仮説*2)。つまり仲間以外は、同じ人間だとは思えずこの当時の野獣のように敵対して怒りをぶつけているのだと思います。
組織の論理で攻撃している人を見ると、具体的な理由や具体的な事情があまり主張されることはありません。兵庫県知事選挙の問題でも「デマ」、「陰謀論」、「SNS」という言葉はでてきましたが、が具体的な要素、具体的事実に踏み込んだ指摘は見られませんでした。ネット上は「主語がでかい」という言い方で批判される論調がありますが、まさに組織の論理での主張がなされていると考えればわかりやすいと思います。
裁判でも「DV」があったとか「モラハラ」があったということで、主張が漠然と終わっているケースがあります。最近は、このような訴状は通りにくくなっているように思います。
ご自分が、組織の論理で他者の尊厳を侵害しないことを第一にするのであれば、例えば他者個人を攻撃することに対しては、はじめない、かかわらないという態度が確実だと思います。それでも何らかの参加が余儀なくされれば、本当に攻撃する必要があるのかを言葉で考える必要があると思います。頭の中で考えずに、紙媒体やコンピューターのモニターに書き込んでから考えると失敗が少なくなると思います。これがヒューリスティックに陥らない方法論です。
手前味噌な参考記事
*1 Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある:弁護士の机の上:SSブログ
*2 ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説:弁護士の机の上:SSブログ
心と環境のミスマッチ 複数のグループに所属することによる問題1 外部での仲間へのいじり ウケを狙うことに夢中になって大事な仲間を傷つけているかもしれないし、自分がその外部の人から致命的な低評価を受けている可能性があること:弁護士の机の上:SSブログ
① 人間が群れを作ることができた最大のツールは「心」であること。 ② 当時極めて有効だった「心」が現代で苦しむ原因は、心と環境のミスマッチにある 中島みゆき「帰省」に寄せて シリーズ1:弁護士の机の上:SSブログ
【兵庫県知事選感想戦】「組織の論理」と「陰謀論」 左翼ブランドの衰退の理由がわかりやすく示された事案 [進化心理学、生理学、対人関係学]
ちょっと驚いたのですが、先日の兵庫県知事選挙の結果を受けて、いわゆる学歴の高い人たちが、SNSのデマ拡散の結果だと憤っているコメントが見受けられました。
大手マスコミとSNSとどちらがより深刻なデマを拡散していたかということを言いたくなるのですが、本論から外れますので、今日はおいておきます。
ただ、一定水準の教養があるとか、法律的訓練を受けているのであれば、議会やマスコミの公益通報者保護制度の取り扱いや不信任決議の不自然な時期に対して疑問を持つべきだと思いますし、そしてWikipediaにも掲載されている3月12日配布の怪文書がその内容からして信用できないことにも気が付くと思います。
少なくとも議会やマスコミの行動には疑問を持つべきだと思います。最低でも、デマによって知事選の結果が左右されたなどと言い切ることが、いかにインテリジェンスに乏しい発言かということに気が付くはずです。
要するに、細かな事情が容易に入手できるのに、自分からアクセスしていないということを示しているわけです。
では、その学歴の高い人たちは、どのような理由で、未だに知事を批判し、デマを真に受けたと言って大衆を馬鹿にし続けているのでしょう。ここが本論です。
今日から知事となるので知事と言いますが、選挙期間中に知事を支援していたSNSは、確定した事実(事実の時系列、告発文書の内容、おねだりをされたとされる人からの否定発言、100条委員会での副知事の発言、100条委員会での委員長や委員の供述者への供述の差し止めや質問態度等々)に基づいて結論を述べるという論法が大勢だったと思います。そしてマスコミの根拠の乏しさをついていたわけです。
これに対して反知事勢力の批判は、事実によって否定されたり信用性を失ったりしたマスコミ報道を正当なものとする前提で知事を攻撃するか、「陰謀論」を持ち出して批判するという、一般の人には受け入れられないというよりも理解されない論法に終始していました。
選挙戦でも現在でもそのような反知事、兵庫県民を侮辱している人たちは左翼を自称する人、あるいは左翼勢力から重宝される人が多いようです。ここでいう左翼とは、筋金入りの左翼からなんとなく左翼的な言動がインテリっぽいと思っているような人まで、広い意味の左翼ということです。
彼らが、知事や兵庫県民を否定する論理が、まさにこの組織の論理であると私は思います。ここでいう組織の論理とは、組織の維持、拡大、何よりも防衛が最優先事項となってしまい、それに反する現象を否定する思考、言動を言うことにします。他者の尊厳を侵害することすら躊躇しないことがあります。
これは人間が群れを守るために身に付けた本能から発展していて、本来野獣等に向けられた怒りでした。現代社会になり群れが無数に存在し、群れと群れとの対立が日常的になってしまったことから、人間に対して怒りが向けられるというように人間の本能が変容したものです。
自分たちを守るということは、狩猟採集時代にはデメリットの無い本能でしたが、現代社会では対立した人間に対して容赦のない攻撃を行うという社会病理の原因になっています。いじめの論理でもあります。
ここでいう組織は、政党や会社組織等という恒常的組織だけでなく、一時的な人の集まりなども含まれます。
人間の本能に根付いているので、正義の意識などと同じく、その論理を疑うことはなく、絶対的自信を持ってしまうことが厄介です。
左翼的なユニットにいると、自分たちが怒りを共有することが第一目標となってしまい、自分たちの存在価値を脅かす相手や、自分たちの仲間だと思っている人と対立する相手を、敵とでも言わんばかりに容赦のない攻撃をしてしまいます。
兵庫県知事選の場合も、怒りの対象が知事に絞り込まれたのだと思います。ただそれも、自分で考えたのではなく、組織のトレンドが反知事だっただけの可能性があります。組織の論理で動く場合は、そのような組織のトレンドに敏感で、自分から組織の空気を読もうと能動的にふるまうわけです(権威に対する迎合、ミルグラムの服従実験)。
そして、根拠資料を持たないで組織の論理で反知事的な行動をしているわけですから、確定した事実に基づいた批判ができなかったわけです。そこでいつも出てくるのが「陰謀論」です。しかし、この言葉を理解できる人たちは、組織の論理で、これが悪口であるというコンセンサスを持った人たちだけなのです。陰謀論以外の批判も、根拠のない自分たちの信念での言動であるため、自分たちと違う意見の人たちに対して意見の修正を誘導する力がまるっきりありません。仲間内だけで怒りを確認しているだけなのです。
だからこの人たちの考えは広まっていきません。非論理的な論法や、他者に対する容赦のない攻撃に嫌気をさした人を引き留めることもできません。現状の左翼勢力の先細りはこうやって生まれたと考えるととても分かりやすいと思われます。
ちょっとだけ反論を乗せておきます。
1 SNSは、支持者とアンチとがいる。反知事派もSNSを活用していた。だから、SNS自体の影響が、どちらかの陣営を有利にするということは論理の飛躍である。(このSNSに負けたというのも根拠の乏しい組織の論理です。またこうやって一括りに従る傾向あり、主語がでかい)
2 また、一つ一つには影響力は少ない娯楽的な視聴なので、SNSによってすぐに行動を決定する人などいない。
3 確定した事実と実感に基づいて兵庫県民は投票先を決めたのであり、大衆扇動に基づく行動ではない。自分と意見を違う人間を否定する場合に、賢さや愚かという自分が吹き込まれて育ってきた価値観に当てはめて安心しようとするな(左派勢力の独善性とはこれ)。
4 まず自分たちの行動について反省してから他者批判をするべき。自分の思い通りにならないことをまず他人のせいにするな(いわゆる赤ちゃん)
本日兵庫県知事に再就任されるということで、心よりお祝いを申し上げる次第です。
なお、組織の論理に気が付いて、自己の行動を修正した人は尊敬するべきであり、手のひら返しは歓迎して飲み込んでいくことが肝要であろうと思われます。
大手マスコミとSNSとどちらがより深刻なデマを拡散していたかということを言いたくなるのですが、本論から外れますので、今日はおいておきます。
ただ、一定水準の教養があるとか、法律的訓練を受けているのであれば、議会やマスコミの公益通報者保護制度の取り扱いや不信任決議の不自然な時期に対して疑問を持つべきだと思いますし、そしてWikipediaにも掲載されている3月12日配布の怪文書がその内容からして信用できないことにも気が付くと思います。
少なくとも議会やマスコミの行動には疑問を持つべきだと思います。最低でも、デマによって知事選の結果が左右されたなどと言い切ることが、いかにインテリジェンスに乏しい発言かということに気が付くはずです。
要するに、細かな事情が容易に入手できるのに、自分からアクセスしていないということを示しているわけです。
では、その学歴の高い人たちは、どのような理由で、未だに知事を批判し、デマを真に受けたと言って大衆を馬鹿にし続けているのでしょう。ここが本論です。
今日から知事となるので知事と言いますが、選挙期間中に知事を支援していたSNSは、確定した事実(事実の時系列、告発文書の内容、おねだりをされたとされる人からの否定発言、100条委員会での副知事の発言、100条委員会での委員長や委員の供述者への供述の差し止めや質問態度等々)に基づいて結論を述べるという論法が大勢だったと思います。そしてマスコミの根拠の乏しさをついていたわけです。
これに対して反知事勢力の批判は、事実によって否定されたり信用性を失ったりしたマスコミ報道を正当なものとする前提で知事を攻撃するか、「陰謀論」を持ち出して批判するという、一般の人には受け入れられないというよりも理解されない論法に終始していました。
選挙戦でも現在でもそのような反知事、兵庫県民を侮辱している人たちは左翼を自称する人、あるいは左翼勢力から重宝される人が多いようです。ここでいう左翼とは、筋金入りの左翼からなんとなく左翼的な言動がインテリっぽいと思っているような人まで、広い意味の左翼ということです。
彼らが、知事や兵庫県民を否定する論理が、まさにこの組織の論理であると私は思います。ここでいう組織の論理とは、組織の維持、拡大、何よりも防衛が最優先事項となってしまい、それに反する現象を否定する思考、言動を言うことにします。他者の尊厳を侵害することすら躊躇しないことがあります。
これは人間が群れを守るために身に付けた本能から発展していて、本来野獣等に向けられた怒りでした。現代社会になり群れが無数に存在し、群れと群れとの対立が日常的になってしまったことから、人間に対して怒りが向けられるというように人間の本能が変容したものです。
自分たちを守るということは、狩猟採集時代にはデメリットの無い本能でしたが、現代社会では対立した人間に対して容赦のない攻撃を行うという社会病理の原因になっています。いじめの論理でもあります。
ここでいう組織は、政党や会社組織等という恒常的組織だけでなく、一時的な人の集まりなども含まれます。
人間の本能に根付いているので、正義の意識などと同じく、その論理を疑うことはなく、絶対的自信を持ってしまうことが厄介です。
左翼的なユニットにいると、自分たちが怒りを共有することが第一目標となってしまい、自分たちの存在価値を脅かす相手や、自分たちの仲間だと思っている人と対立する相手を、敵とでも言わんばかりに容赦のない攻撃をしてしまいます。
兵庫県知事選の場合も、怒りの対象が知事に絞り込まれたのだと思います。ただそれも、自分で考えたのではなく、組織のトレンドが反知事だっただけの可能性があります。組織の論理で動く場合は、そのような組織のトレンドに敏感で、自分から組織の空気を読もうと能動的にふるまうわけです(権威に対する迎合、ミルグラムの服従実験)。
そして、根拠資料を持たないで組織の論理で反知事的な行動をしているわけですから、確定した事実に基づいた批判ができなかったわけです。そこでいつも出てくるのが「陰謀論」です。しかし、この言葉を理解できる人たちは、組織の論理で、これが悪口であるというコンセンサスを持った人たちだけなのです。陰謀論以外の批判も、根拠のない自分たちの信念での言動であるため、自分たちと違う意見の人たちに対して意見の修正を誘導する力がまるっきりありません。仲間内だけで怒りを確認しているだけなのです。
だからこの人たちの考えは広まっていきません。非論理的な論法や、他者に対する容赦のない攻撃に嫌気をさした人を引き留めることもできません。現状の左翼勢力の先細りはこうやって生まれたと考えるととても分かりやすいと思われます。
ちょっとだけ反論を乗せておきます。
1 SNSは、支持者とアンチとがいる。反知事派もSNSを活用していた。だから、SNS自体の影響が、どちらかの陣営を有利にするということは論理の飛躍である。(このSNSに負けたというのも根拠の乏しい組織の論理です。またこうやって一括りに従る傾向あり、主語がでかい)
2 また、一つ一つには影響力は少ない娯楽的な視聴なので、SNSによってすぐに行動を決定する人などいない。
3 確定した事実と実感に基づいて兵庫県民は投票先を決めたのであり、大衆扇動に基づく行動ではない。自分と意見を違う人間を否定する場合に、賢さや愚かという自分が吹き込まれて育ってきた価値観に当てはめて安心しようとするな(左派勢力の独善性とはこれ)。
4 まず自分たちの行動について反省してから他者批判をするべき。自分の思い通りにならないことをまず他人のせいにするな(いわゆる赤ちゃん)
本日兵庫県知事に再就任されるということで、心よりお祝いを申し上げる次第です。
なお、組織の論理に気が付いて、自己の行動を修正した人は尊敬するべきであり、手のひら返しは歓迎して飲み込んでいくことが肝要であろうと思われます。
現実には、世界が100人の村ではないから 現代人が攻撃しあう根本原因 [進化心理学、生理学、対人関係学]
「もしも世界が100人の村だったら」という動画や絵本があるようです。最終的には世界が100人の村のように、世界中の人間が調和的に生きる社会を作ろうという主張なのだろうとは思います。もしそうであれば、その結論には賛成です。
この視点は私たちに真実を示していると私は思います。
つまり、
世界が実際には100人の村ではないことが、様々な対立や他者への迫害が起きる根本原因だという真実です。
世界が100人の村だったら、それぞれがそれぞれに配慮して生活することは可能だろうという感覚を多くの人が持つと思います。そういう感覚を持つのは、人類が、かつて、100人だけで生活していた時代があるからです。進化生物学では150人くらいまでではないかという学説が有力です。
今から約200万年前から2万年くらい前の期間です。狩猟採取時代と言われています。その時代でも客観的には、地球上にもっとたくさん人類はいたのでしょうけれど、歩く以外に交通手段はなく、通信なんてものもないために、生まれてから死ぬまで自分たちの群れが仲間のすべてだと信じていたわけです。
群れの仲間は生まれてからずっと近くにいるわけです。そんな仲間ですから表情やしぐさなどで、悲しいとか、嬉しいとか、緊張しているとか、くつろいでいるとかすぐに伝わったのだと思います。相手の感情がわかったらどうするのか、嬉しいときは自分のことのように一緒に喜び、悲しい時や困っているときは、自分のことのように助けようとしたようです。これは、今も人間の「こころ」として保存されているようです。参照 岩波ジュニア新書 明和政子先生 「まねが育むヒトの心」
狩猟採取時代に、もし相手の感情に付け込んで相手を攻撃するとか、自分だけが得をしようとすれば、いずれは群れから追放されたと思います。また、群れの構成員の多くがそのような利己的なふるまいをしたら、群れ全体が消滅してしまったのだと思います(そもそも群を形成しなかったでしょう)。それだけ、厳しい自然環境だったわけです。だから、仲間を思いやろうとしたり、仲間から思いやられたいと願ってしまったりする性質(こころ)を持った人間だけが、生き延びて子孫を作ることができ、そしてそのような助け合いの心が人間の特性になったのだと思います。これが適者生存です。
農耕が始まる前の狩猟採集時代は、200万年前から、1,2万年前まで続きました。その期間、このような性質(こころ)は、人間の生存と子孫継承に役に立つものでした。生涯一つの群れ、150人程度の人数ということが、こころが生まれたときの環境でした。
狩猟採取時代が終わって現代まで、1万年、せいぜい2万年です。生物学的進化をするにはあまりにも短い期間です。だから、途方もない数の人間と関りを持ち、家族やら学校やら職場やら、サークルやら国家やら社会やらという複数の群れに同時に関わるようになった現代でも心はほとんど変わらない状態を保っています。
それでは、なぜ人間同士が対立したり、利己的な行為が当たり前のようにふるまったり、いじめや虐待、戦争や支配が起きるのでしょうか。
それは心と環境がマッチしていない状態だからだと考えるとわかりやすいと思います。
関わる人間の人数が多すぎるので、いつの間にか優先順位がわからなくなり、どうでもよい人間関係を気にしすぎてしまうということが、先ず人間を苦しめていると思います。
次に、人間の心が200万年前のままなので、「仲間だと思える人数」は平均して150人程度のままだというのです。「個体識別できる人数」として知られています(ダンバー数)。
また、自分たちの仲間以外の者は、仲間ではない即ち敵と短絡的に思ってしまうという弱点を元々人間は持っているようです。「自分たち以外」には、論理性も、証拠も何も関係なく容赦しない対応を取れてしまうわけです。「自分たち」という意識が強くなればなるほど、「自分たち以外」に対する攻撃可能性が高くなるわけです。これが戦争の仕組みでもあります。
また、悲しいことに、人間は論理的思考が好きではありません。つい、言葉の無い時代の決定様式である「なんとなく即断」をしてしまいがちです。これも狩猟採集時代とその前から人間が瞬時に判断をして命を守ってきた仕組みではあります。
「なんとなく即断」をして対立が始まり、よく考えて修正することをせずに、「なんとなく即断」をした結論に、むきになって固執するわけです。
どうしたらよいのでしょう。
ひとつは群れないという選択肢があると思います。但し、それは人間の心に適合しない。一人だとどうしても寂しく感じてしまいます。
もう一つは大事な仲間を少数に絞るということです。私は、この仲間としては「家族」が最有力候補だと思っています。それは、人間の生理に良く適合しています。即ち、夜になって帰る場所の中を最大限大切にするということです。
最後に陰謀論みたいになってしまうのですが、現在家族の大切さを主張すると、特定の宗教団体であるかのような非難をされる風潮があります。家族が大切なことは、このように進化生物学、認知心理学、大脳生理学、生理学上帰結になるはずです。なんとなく即断して理性を使わず(通常は誰かから言われたことを仲間のいうことだからとうのみにしている)、このような攻撃をする人たちをどうするか。私にはよくわかりません。
二者択一的選択肢だけを提示し、人の怒りをあおって、自分の意見を見直さないという属性を持った集団が、近づいてはいけない人たちであることは間違いありません。
大手メディア、政治家、法律家を疑うことを教えてくれた。兵庫県議会問題まとめ [弁護士会 民主主義 人権]
もういい加減にしないと業務にも影響が出てくるので、今回で最終とします。この問題は様々なことを勉強させていただいたということで、かなりエキサイティングな一週間でした。
1 満場一致のパラドクス
百条委員会が終わらず、むしろ、知事の疑惑が薄くなっていた段階で、議会は満場一致で辞職要求を知事に突きつけました。満場一致であれば嘘くさいということで、その典型例として将来まで語り継がれる好事例となることと思います。結局知事が辞職するべきかどうかというまともな判断をしていたのではなく、大手メディアが知事を叩いている、ここで知事に批判しなければ、目前に迫った衆議院選挙で票を落とすという保身的立場から、バスに乗り遅れまいと、もしかしたら根拠がなく、知事個人の尊厳も、兵庫県政の利益も考慮せずに、満場一致が生まれたということです。自民、立憲、緑の党の人たちだけでなく、維新や共産までも、結局は県民の利益ではなく自分の利益を優先したということが満場一致の理由だったわけです。
昨日も面白い動画を見ました。9月5日の100条委員会の終わった後の様子がアップされていました。そこで、今後どんな資料が必要かという議論がなされていました。維新の議員が、同日行われた元副知事が、3月12日の文書は不正の目的があると述べていたことから、その根拠となったメールを資料とするべきだと言いました。これは正当な意見です。ところが、他の議員や委員長らが、個人情報が含まれているからそれはだめだというのです。それでは、文書が公益通報に該当するかどうか吟味しないと言っているようなものですが、公益通報者保護法を理解されていないらしく、反対意見が多かったようです。提案した維新の議員が公益通報者保護法とはということを言い出すかと思ったのですが、こちらもご存じないのか、強く押さなかったということが印象的でした。
2 醜悪な大手メディア
大手メディアも、一読しておかしいなと思える3月12日の怪文書の内容を真実であるとして、一斉に知事叩きをしたのですから、満場一致のパラドクスはここでも正しかったわけです。何を思ってみんなでこういう姿勢を決めたのかはわかりませんが、人為的に大手メディアが歩調を合わせたと考えることが合理的だと思います。
特に朝日系列のローカル局は、選挙期間中の候補者の討論会であるにもかかわらず、局長さんのご遺族に配慮するという理由で立花候補を一人だけ生出演させませんでした。これまでさんざん知事のご家族に対する配慮のかけらもない攻撃をしておいて、「どの口が言う」という態度を露わにしました。
少なくとも記者クラブ、報道協定というものがあって、議会に不都合な報道をすると、それ以降取材を断られるということから、そうならないように言われるままに報道しなくてはならないようです。警察署の次長の記者レクでの発表も報道しなければならないというルールがあるようで、同じ理屈でその発表をしないわけにはいかないということを教えられたことがありました。
つまり、大手メディアは独自取材をしないですませるため、役所や警察の発表を無批判で掲載するしかないという実態をここでもあらわにしたわけです。結局官庁のスピーカーになっていて、大本営発表の時代に既に先祖返りしているわけです。だから記事を読んでも面白くないわけです。だから売れなくなるわけです。
但し、大手メディアをすべて疑うということは必要ないと思います。すべてのメディアが歩調を合わせたときは、報道の真実性ではなく報道機関の利益で横並びをしているという満場一致のパラドクスを疑うべきだということです。
ただ、「発信したもの」を疑うことは簡単ですが、満場一致で「発信しないもの」を掘り起こすことは難しいことです。例えば、昨年、極めて珍しく東京都に対する監査請求が認められた事案がありましたが、大手メディアはほとんど取り上げませんでした。取り上げる価値が無かったという判断だとすると、その監査請求人である暇空茜(ハンドルネーム)氏の、手続き的な書類送検を一斉に報じるという矛盾したことをやっています。これこそ報道価値の無いことのはずなのですが、わざわざパトカーの写真まで載せて配信した新聞社もあったほどでした。
3 ユーチューブ
今回の立花さんの戦略はユーチューブでの情報発信でした。立花さんは政治家ですが、時事問題を扱うユーチューブ発信者である、時事系ユーチューバーと呼ばれる人たちがいて、日ごろから時事問題、政治問題というより広い意味での時事問題を取り扱っています。情報内容はともかく、話口が面白くて、ついつい見てしまいます。講談師というのは、こういう役割だったのかなあというようなエンターテーメントを提供しています。
いろいろな人がいて暴露系ユーチューバーなんて人たちも、大手メディアが報道しないことを発信しています。
それらの人たちの話を全てうのみにする人はいないでしょうけれども、同じような話題を何人かが取り上げていますので、比較してみているうちにより確からしい、つまり裏付けを示してくれる方の話を深掘りすることができます。
一次情報を示すチャンネルは多く、自分でアクセスして確認することもできます。
ただ、多くのユーチューバーも、今回の兵庫県議会問題には、大手メディアに騙されていたようです。知事を攻撃する動画を上げていました。潔く誤りを認める訂正動画をアップするユーチューバーもいて、感心しました。大手メディアのこのありさまであると、ユーチューブは大きな意味を持つようになるでしょう。
ただ、マスメディアもユーチューブも多くの人に届けるために、事の真偽よりも、読者、視聴者の怒りの感情に火をつけるような「あおり」をすることは注意が必要です。ユーチューバーが大手メディアから学んだことなのだと思います。大手メディアが専門知識がありそうもない人をコメンテーターにする理由がここにあり、怒って見せることができる人であれば、無自覚のまま一緒に怒ってしまい、攻撃感情をあらわにして、もっと攻撃している様子を見たいと思わせてしまうのだと思います。人間は怒っている瞬間は苦しみや不安を忘れますから、無意識に怒りを求めてテレビやユーチューブを見てしまうようです。
私も気を付けたいと思います。
自死の理由の推測について 立花さんと意見が違うところ 過労自死の代理人は自死の原因をどのように考えていくか 兵庫県議会問題⑥ [自死(自殺)・不明死、葛藤]
自死の理由、その人が自死に至るプロセスということはよくわからないというべきだと思います。その人の人生の歴史から遡って、何が心理的負担になるのか、どの程度負担になるのか、そしてその負担にどこまで耐えうるのかということについてはよくわかりません。本人ですら説明ができないことだと思います。無意識の在り方が原因に占める割合が大きいという言い方もできると思います。
しかし、私は過労死を担当している弁護士です。その死の理由について、過重業務が原因だということを主張することが仕事ですから、自死の原因を考える仕事だという矛盾があります。
私としては、こういう過重業務があって自死したとするならば、災害であれば災害補償法の趣旨、損害賠償であれば公平の観点から、その過労死は過重労働が原因だというべきだという場合に労災認定や損害賠償請求が認められるのだと思っています。どうしても、一種の擬制が入ることはやむを得ないと思うのです。
今回文書の作成者の一人とされている県民局長さんが自死されました。これはとてもいたましいことです。議会やマスコミは、知事のパワハラが原因であると実質的に決めつけたことを言っています。これに対して立花さんは、パソコンの不適切な記録が公になることに心理的負担を感じて自死したのだという言い回しをしているように思われます。
どちらの見解にも私は疑問があるのです。こういう場合、私の思考パターンは、先ず時系列を確認することから始まります。
3月12日 怪文書がマスコミや議員に配布された
3月20日 知事が怪文書を入手
3月21日 怪文書の出どころなどの調査開始
3月25日 局長さんの使用していた県のパソコンを押収
3月27日 局長さんの懲戒処分の可能性を記者会見で発表
4月4日 局長さんが公益通報窓口に正式申請で受理
5月7日 県は局長さんの3カ月停職の懲戒処分を発表
6月13日 兵庫県議会で百条委員会設置
6月17日 百条委員会に局長さんが呼ばれる
7月7日 局長さんが死去される。
7月19日 局長さんが百条委員会出席予定日だった。
もう一つ付加事情として、
3月12日の怪文書は一人で作成配布したわけではなく、県議が関与していたという話しがある(裏どり未確認)
百条委員会に呼ばれる前後に、「穏便に済ませてほしい」とある県議にお願いしたが、知事をつぶすチャンスだから最後まで頑張れと激励された(裏どり未確認)
その他知りたい情報としては、自死前の局長さんの精神状態ですね。私が過労自死の労災申請を担当する場合はご家族が依頼者なので、十分に聞くことができます。それでも、単身赴任とか一人暮らしの場合は、情報が集まらないことがあります。それでも行きつけの居酒屋や協力してくださる同僚の方がいれば、聴取します。
裏どりがはっきりしないのですが、上の二つの付加事情はとても重要なのではないかと思っています。
百条委員会の前に、局長さんが「穏便に済ませてほしい」と言ったとするならば、遡って考えると、3月12日の怪文書の作成と配布も、本人の意思ではなかった可能性があるとみています。前にアップしたいじめの記事を参照していただければ幸いですが、いじめの端緒を作ったリーダーも、そもそもそこまでいじめのターゲットになった子を攻撃したいという気は最初はそれほどなくて、後戻りできなくなり攻撃を続けるということがあります。引くに引けなくなるなんてことは想定していなかったということです。本当はその子は、いじめのターゲットになりたいこともっと仲良くなりたかったとさえ思っていたということが実際に複数件ありました。未熟な子どもの気持ちに基づく衝動的行為がいじめになってしまうわけです。
局長さんは怪文書の原案みたいなものを作成したことは、文書の内容から推測できるのだと思いますが、局長さんだけの知識でできるものでもないということも推測できるようです。これは、元副知事が百条委員会で呼ばれた時に応えていて、これはユーチューブで公開されている方の委員会です。【兵庫県議会】令和6年9月6日午前 文書問題調査特別委員会(百条委員会)
そうだとすると原案みたいなものを作成したのが局長さんだとしても、それを完成させて配布したのは別の人だという可能性も出てくると思います。
そして百条委員会に出席することが嫌だったのは、これ以上知事を攻撃することになることが苦しくて仕方がなかったということである可能性が高くなるのではないでしょうか。どうしても出席したくないということが引き金になった可能性が時系列からは高いように思われます。(但しその前のどれかの時点で精神症状がすでに出ていたというならば別)
おそらく自分が最後までは関わっていない文書で、しかもそれで知事の評判を下げる実際の行動に出るために作ったわけではないのにそういう風に使われてしまったことが苦しかったと考える余地は大いにあると思います。
特にマスコミの知事に対する総攻撃を目の当たりにして、それが自分が原因とされていることを気に病んでいた可能性があると思います。そして、知事の被害者のチャンピオン的立場として、百条委員会で発言することを誰かから言い渡されていたとすれば、その苦しみは限りなく大きなものになったのだと思います。
そうだとすれば、局長さんが自死した理由は、パワハラや懲戒処分ではなく、どうしてもやりたくないことを強いられたからと整理することができるのではないでしょうか。時系列的にはそう考えることの方が自然だと思います。
また、パソコンを没収されたのが4月25日で、7月7日に亡くなっていることから、局長さんはパソコンの中身が知られることを恐れて自死したとすることも少し無理があるような気がするのです。また知事側はパソコンの中身については口を閉ざしていました。
自死は局長さんの自業自得ではなく、やはり追い込んだ人がいるのかもしれません。知事に責任転嫁している人たちが追い込んだ可能性さえあるように思われます。
ご冥福をお祈り申し上げる次第です。