「ほんとは誰だっていつだって不安だよ」 他人をうらやましく思うことが実は間違っているということの意味 人間とは [進化心理学、生理学、対人関係学]
「ほんとは誰だっていつだって不安だよ」(児玉雨子「次々続々」より)
ご自分が紛争に巻き込まれていると、不幸の中にあると感じることは当然だと思います。特に、夫婦問題が生じ、子どもとも会えない、どこにいるかもわからないという場合はなおさらだと思います。
その中の何人かは、「自分は子どもとも会えないで一人ぼっちでいる。相手は両親や子どもと一緒に楽しくやっているのだろう。」と考えて、うらやましくというよりは怒りや恨みの感情が強くなっていらっしゃいます。
中には、街を歩いていて、何の悩みもなさそうに幸せにしている子ども連れなどを見ているだけで、怒りを覚えてしまうと打ち明けていただいた人もいらっしゃいました。
或いは、弁護士や医者や財界の偉い人、政治家は、私のような紛争に巻き込まれないでお金が入ってきて悩みが無いのだろうと思う人もいるようです。
こういった場合、ご自分が不幸な境遇にいるということはその通りですね。ただ、他人が何も心配事がなく幸せに暮らしていると考えることは、間違っていることが多いと思います。
人間は、概ね、「何の理由もなく不安を感じる生き物」ではないかと、これまで弁護士をやってきた経験から思っています。
私なりに勉強をすると、これは人間ばかりではなく、霊長目にある程度共通する性質のようです。
敬愛するロビン・ダンバー先生によると、猿がお互いに毛づくろいをするのは、お互いの不安を解消するために行っているとのことなのです。何か理由がなくても、相手の不安を鎮めるために毛づくろいをするわけです。アカゲザルの一種が、一日の大半を使って毛づくろいをしあっているということは有名な話です。
おそらく、大脳が発達すると、理由もなく不安を感じるようになってしまうのではないでしょうか。だから、一人でいることを嫌い、群れを作って暮らすのだと思います。群れの中で尊重されていると、漠然とした不安が起きにくい、安心できるという本能的行動で群れが形成されたのだと思います。
このような心が生まれたときは、生まれてから死ぬまで同じ群れにいて、他の群れと交流がほとんどなかった時代ですから、それでうまく言っていたのだと思います。文字通り世界が100人のムラだったというわけです。
ところが現代社会は、家族の他にもたくさんの群れの中で生活しています。学校や職場、友人関係、地域や国家、通りすがりの人、買い物するときで会う人、あるいはインターネット上の友達等です。そのすべてがうまくいけば、不安など感じないで生きていけるかもしれません。しかし、そのどこかで人間関係の不具合はつきものです。現代社会では群れを作っても不安がおさまりません。夫婦であっても、お互いの不安を解消するための方法を知らないまま、自分や子どもを守ろうとして、相手を攻撃してしまうわけです。人類の危機が拡大しているのが今の社会だと言えば極論でしょうか。
そう考えると、子どもを連れて別居した人も何も悩みなくのほほんと生きている人はいないわけです。多くの連れ去り親は、自分が連れ去り行為をしたことで、無自覚の人も多いですが、その自分の行為を理由に不安を感じています。
もちろん、孤独に陥った別居親の精神面に問題が生じることもよく見ていることですし、自死も多いことも肌で感じています。しかし、連れ去った方が精神的に破綻したり、自死に至ることも実際はあるのです。むしろ、元々あった漠然とした理由が連れ去りの原因になっている思い込みDVが圧倒的多数ですから、別居をしても離婚をしても、不安を抱く原因は除去されないので、それも当然のことなのだと思います。
医者や弁護士や政治家の方々、あるいは仕事で成功している方々も、積み残して先延ばしをしている悩みのタネを多く抱えていることを見てきています。
たとえばSNSで華やかな行動を拡散する人たちも、当然のことながら本当の悩みは隠しています。華やかな部分だけ切り抜いてアッピールするのがSNSです。あのSNS記事のようなことだけが日常というわけではありません。それはみんな知っていることだと思います。
だから、他人の切り取られた瞬間だけをみて、うらやましいと思うことは意味の無いことなのだと思います。
他人をうらやましく思うことをやめて、自分がその人と一緒にいて安心できる人に対して、優しい言葉をかけて笑顔にすることを考えた方が、自分も幸せになる最強の行動なのだと思っているところでした。
自覚できない自分の小さな怒りに警戒しよう [家事]
家庭内のモラルハラスメントということが話題になっています。元々のモラルハラスメントという言葉を作ったのはマリー=フランス・イルゴイエンヌという精神科医です。彼女の述べていたモラルハラスメントは、自己愛性パーソナリティ障害を背景とした強烈なものでした。それに比べると現代のモラルハラスメントの使われ方は、はだいぶかけ離れていて、軽微な事象まで含むように言葉の意味が変容・拡大しています。
程度が軽いにもかかわらず、その評価はイルゴイエンヌのモラルハラスメントと同程度の悪という評価が行われているように感じます。
おそらく、一般のご家庭で、配偶者の一方が他方の言動に不満があり、適当な解決方法が見つからないままこれを蓄積しているということが多くあるのだと思います。その不満を解消するための言葉として、モラルハラスメントという言葉が広く受け入れられてしまった結果なのだと思われます。また、イルゴイエンヌの著作を理解しないまま、この言葉だけを借りてくるような書籍もかなりありました。言葉の変容を起こす人たちがいたわけです。だから離婚理由の中で、「自分はモラルハラスメントを受けていた」、「精神的虐待を受けていた」という主張が増えているのではないでしょうか。
ただ、夫婦とはいえ、人間二人、育った環境も違うわけです。一緒に暮らしていれば、何らかの感覚の相違や行動パターンへの違和感などがあるのは当たり前のことです。自分の言ったこと、言わないけれど抱いていた感情等すべてを受け入れなければモラルハラスメントだというような主張が多くなっています。おそらく、それが無茶のことだという自覚がなく、当然にそれは悪だと感じているようです。
ただ、それでも家族再生を目指す人たちにとっては、モラルハラスメントや精神的虐待という抽象的主張であっても、それは再生のヒントになりうる貴重な手掛かりになります。
特に具体的エピソードの主張がなく、「長年の積み重ね」だとか「毎日のように否定されてきた」等という主張があり、かつ、言われた方に身に覚えがない場合に何が起きているかということについては、事例が蓄積してきました。
第1の要因として、モラルハラスメントを感じている側の人間(多くは妻なので、今後「妻」と言います。)が、相手(今後夫と言います。)からの評価を気にしすぎていて、自分に対する評価が下がることに不安を抱いていることがあげられます。その多くが思い込みDVで、その様な不安を感じやすい、体調や精神状態、あるいは過去又は現在の人間関係という環境に主として起因するものです。中には夫を好きすぎて、嫌われるのが怖いという人もいました。
第2の要因として、その様に敏感になっている妻に対して夫が相応の配慮をしていないことが要因となるようです。但し、現代は、昭和の虐待夫というのはごく例外的であり実務上はあまりないというのが、狭い範囲ですが私が聞いた範囲での弁護士のコンセンサスです。
ただ、よくよく事例を見ていくと、夫が怒っているとか、攻撃的感情があるわけではないのに、妻の側で自分が否定されていると感じる事情というのがあるようなのです。
例えば妻が、「こうしたいな」、「ああなると良いな」とお気持ちを表明して、それが何らかの道徳に反するとか、常識に反するとか、合理性がない等の夫のセンサーが反応してしまうと、即時にたしなめるとか、否定したりしているということが実際にはあるようです。夫としては当然のことをあえて言葉にしているというような感覚なので、それが相手に不快な思いをさせているということに全く気が付きません。また、道徳や正義に反すると思うと、本能的にそれを指摘するときには怒りが混じっているようなのです。少なくとも言われた方から見たら、「夫から感情的な言動で自分という人格が否定された。」と感じるようです。
しかし、自分の価値観を夫に押し付けることができず、正義とか合理性とか言われてしまうと、反論することができないため、ただ不満が蓄積していって、持て余すくらい大きなものになっているようなのです。
結論だけを言いますと、道徳とか、正義とか、常識というのは、他人同士を規律するツールです。家族の中では、相手の感情を尊重することが主であると思われます。また、合理性とか省エネなんて言うのも、目的を一つにする集団がその目的を果たす文脈でだけ基準にするべきことなのです。
だから、あらかじめ、道徳とか正義とか、常識を相手に言おうとしていると意識したら、それを言わないとか、冗談半分にごまかしながら言うとか、笑顔で「別に非難するつもりはないけれど」とか、それが正しいツールであると思わないようにしようとする、生じやすいエラーを予め意識しておくことが肝心なことなのだと思います。
離婚訴訟、保護命令 勝利の先にある目標(家族再生)を目指して 戦わない戦い方 [家事]
今年の保護命令申立事件は2回あり、2回とも被申立人夫の代理人となり、いずれも申立人の申立取り下げで終わった。離婚訴訟は、終わったのが1件。これも被告の代理人となり、訴訟取り下げで終わった。
家族再生を目指すとしても、保護命令が認められることと判決で離婚が認められることは大きな障害になってしまうので、戦ってでも負けるわけにはいかない。
保護命令に関しては、大きな争点としては「生命身体の重大な危険」があるのかないのか(それ以前にそもそも暴力があるのかないのか)について、きちんと反論すること。離婚訴訟に関しては、結局どういう婚姻破綻理由があるという主張なのか、事実の有無に対応するだけでなく、大づかみで相手方の主張がいかに無理難題を言っているのか、大事な事実と実質的に整合しないことを社会通念や心理学を屈指して反論していくことがポイントとなる。つまり、「相手がしている主張はそれがいかに事実だとしても離婚理由にはならない。」という主張である。
取り下げないし棄却となるかならないかは事案によりけりで、要件が整えば認容される。勝訴はある意味めぐりあわせでしかない。
また、裁判に勝てばめでたし、めでたしで終わるというわけでもない。
私や依頼者が目指すのは、その先の家族再生だからである。
1 必要以上に戦わないこと
だから、保護命令や離婚訴訟は戦うと言っても、裁判に勝つ以上に相手を攻撃してはならない。これは、どんな争いでも一緒だと思う。夫婦問題の場合は特に慎重に言葉を選んだり、問題提起の取捨選択をすることになる。
また、取り下げに同意する等、相手の逃げ道を用意してあげることも必要だと思う。それが、最初の障壁を最も迅速に、最も確実に突破する方法でもある。
離婚訴訟への被告代理人としての対応によって、面会交流がかえってうまくいくようになったり、連絡が取れるようになったことがある。こういう場合の多くは、離婚には応じる予定で条件闘争をする場合である。変な事実認定の判決をもらわないために和解で終了させるということが最大の目標となる時である。
2 相手の代理人を活用する
変な思想を持っている弁護士ではない限り、子どもとの面会については力を貸してくれることが多い。東北の弁護士だけかもしれないけれど。また、クリスマスプレゼントや誕生日プレゼントも弁護士事務所を通じて渡すことができる場合が多い。
もちろんこちらからこわもてで命令するのではなく、できればこちらの代理人を通じて礼儀を尽くして(もみ手作り笑顔もいとわないで)、お願いしていくことでようやく実現することである。相手方代理人を侮辱するような訴訟活動をしていたら到底実現しない。
そうやって少しずつ情報交換をしていく中で、面会交流が定着していくことがある。うまくいかない場合でも何度か試みたことは子どもの記憶に残るのではないだろうか。
面会交流に毎回立ち会ってくれる弁護士もいる(元妻側の弁護士で、元妻が元夫と直接顔を会わせたくないという理由で面会交流を拒否している場合)。頭が下がる思いである。
3 自分の行動の修正
離婚理由、婚姻破綻の実情に迫る主張の交換をした結果、それが離婚理由としては認められなくても、相手が不快に感じているとか、怖がっているとか、自分が否定されているように感じているポイントが見えてくることがある。そういうこちらの所作で、そういうこともあったかもしれないということについては、どんどん修正していくと良い。そうしてその修正を相手にうまく伝えていく。お気持ちを言葉で説明することは実際は難しいし、それだけでは相手は安心しない。考えていることでなく、「こういう行動をして修正を努力している」という行為を伝えた方が相手には伝わりやすい。
「自分の気持ちをわかっているようだ。」と実感してもらうということである。
これはただ離婚訴訟をやればわかることではない。戦いの渦中にいると、「自分は悪くない。相手が悪い。」ということでなければやっていられないので、自分の修正するべきポイントは分かりにくい。弁護士のずうずうしさで、アドバイスしていかなければならないことだ。弁護士が当事者化していたらこれもできない。自分の弁護士が自分に何か不快なことを言うことを躊躇させない人間関係を作っておくことが必須となる。
言葉で言えば簡単だけどなかなか難しいことは、「自分の弁護士を攻撃しないこと」。弁護士なんておだてれば木に登る職種なので、その性質をうまく活用しなくてはならない。
敵と味方を区別しないで、だれかれ構わず攻撃していては、結局イエスマンしか周りにいなくなり、自分の行動を修正して相手に接近するという修復行動ができなくなってしまう。実にもったいない話である。
そういう事例が、離婚訴訟に限らず少なからずある。味方の足を引っ張るイエスマンの言葉は心地よいので特に注意が必要だ。
いじめ事案の子どもダメージは、主に教師の対応によって深くなる [弁護士会 民主主義 人権]
これまで、何件かいじめ不登校やいじめ自死の事件を児童生徒と保護者側の代理人と担当してきました。その範囲でみると、学校でのいじめ事案(法律用語のいじめの中でも激しい不祥事と言える事案に限定して取り上げて説明します)で、いじめを受けた児童生徒の精神的ダメージが大きくなるのは、いじめの内容以上に学校側の不適切な対応によるという実感があります。
実際に事案の不適切な内容を例示します。
我が子がいじめられていることによる保護者の切実な相談を相手にしないでいじめではないと強弁する。心配し過ぎなどという。
担任が休憩時間などわざと加害者側といつもべったりと過ごしている。
児童生徒がいじめを訴えてもかばってくれない。逃がしてもくれない。
重大な加害行為をしているのに、謝罪をさせて終わりにしようとする。謝罪によって、さらなる報復攻撃が起きます。
保護者の申し入れを、伝書鳩のようにホームルームで児童生徒に伝達するだけ。これによっても報復攻撃がおきます。
よくあるパターンです。
国は、児童生徒の自死を予防するために、児童生徒にSOSの出し方を教育するという方針を掲げていますが、笑えないブラックジョークです。全く若者の自死の実態を把握しないで政策を立案しているということがよくわかるエピソードです。いまだに若者の自死が減らないことには理由がありそうです。
子どもは無条件に大人を信用してしまいます。ましてや、先生と呼ばれる職業の人たちは、正義感があり、いじめをやめさせる能力があると純粋に信じ切っています。
それにもかかわらず、「自分には何もしてくれない。」ということから「自分は、当たり前の児童生徒とは思われていない。」という被害的意識が生まれてきて、「先生でさえ見放したのだから、今後生きていても誰も自分を助けてはくれないだろう。」と将来的に自分が救われることが無いという絶望につながっていくようです。
もっとも今のフローは、上記の言葉で意識をしているわけではありません。時間が経過しても自分の不安解消要求が受け入れられないという心理の持続によって、無意識に感じ取ってしまうということです。被害意識が増大していき、最後の砦と思われる先生からも見放されたということを時間をかけて体感していくうちに絶望が生まれるようです。
また、先生に言うとさらなる報復が来るということを学習すれば、先生にいじめの事実を伝えることもできなくなってしまいます。
絶対的孤立と手段が無いという絶望を感じることは当然だと思います。
ある小学校の事案ですが、日常的に一人の子が激しい暴行を受けていました。他の児童が、なんぼなんでもこれは危ないということで、教師を連れてきて、教師がいじめのシーンを目撃しました。その現場が先生のいた場所とどのくらい離れているかわかりませんが、かなり長い間暴行が続いていたことがわかるエピソードです。
教師は、十分調査もしないで、謝らせて終わりにしようとしていたようです。
これを感じ取った児童は謝罪を拒否しました。
ここで学校が行うべきことはどういうことだったのか。
先ず、認識としては、その加害児童が、元々乱暴者でだれかれ構わずに執拗に暴行をする児童であれば、今後の新たな被害を防止するために然るべき措置をとるのが学校の安全確保義務(仙台高等裁判所)ということになるでしょう。
その加害児童がだれかれ構わず暴力をふるう子どもではないとするならば、特定の子どもだけが攻撃されているといういじめを想定しなければなりません。そのような長時間暴行をふるい続けた理由は何か、理由が理解できない理由であれば(要するに理由のない暴力であれば)、そのような暴行が日常的に繰り返されていた可能性を探求しなくてはなりません。様々な調査が必要になります。
特別な指導をする必要性を検討しなくてはならないはずです。
長時間の暴行が、すれ違いざまのいざこざと同じように謝罪をして終わりにできるはずがないわけです。謝罪を受けるのも、被害者としてはとても怖いことです。また根本が解決されていなければ、謝罪をした後報復で新たないじめが起きる蓋然性もあると言わなければなりません。
その児童は、この後すぐ不登校になりました。
別の案件で自死企図した中学生もいじめのことを再三訴えて、せめて同じ教室で授業を受けたくない、保健室に活かせてほしいということを何度も担任などに訴えましたが、何もしてもらえませんでした。
いじめがあったのに学校側から放置されることが、いじめ以上に精神に深いダメージを与えて絶望に向かわせているということがほとんどではないでしょうか。
昭和の小学校教師のことを思い出しました。昭和の教師は、いじめのようなことがあると、「えこひいき」という教師にとって致命的な評判を受けることを厭わず、徹底的にいじめられている子どもをかばい続けました。子どもたちは教師のそのような姿を見て、いじめることはいけないことだという規範意識を育てられたものです。
今の教師の少なくとも何人か(多数でないことを祈るのみ)は、いじめを無かったことにしようとしているようです。管理職を含めてです。そうして保身をしているつもりですが、現代においてはすぐに手痛いしっぺ返しが襲うことになるはずです。そうなる前に、法律と教育倫理に基づいて真剣に調査をすることをお勧めする次第です。
自分たちの行動で被害児童の人生が台無しになることはもちろんですが、加害児童の指導を受ける権利も奪い将来に禍根を残すということを自覚されるべきだと思います。
なぜ学校はいじめの事実を隠そうとするのか 当たり前の先の「ふてほど」を考える [弁護士会 民主主義 人権]
いじめと学校、教育委員会の件を担当していますが、さらに続けざまに2件、相談が来ています。いじめ関連は宣伝していないのですが、同種の事件って、続け様に担当することになるということは結構あるあるです。
いじめ防止対策推進法については、宮城県いじめ検証第三者委員だったこともあり、分厚い資料を使って叩きこまれましたし、同じ委員の研究者の方々と事例研究などもやって鍛えられました。これ、弁護士枠ではなくて、人権擁護委員枠で委員になったことが面白いところです。
その後いじめで亡くなった生徒さんのご両親が、私のご近所さんだったことから支援として関り、ある町の重大事態の第三者委員として活動し、先般ある事案で遺族側代理人となり、第三者委員会の立ち上げを教育委員会に働きかけた事案もありました。その時も同種事案がありましたが、そちらは信頼できる人に任せることにしました。この時も2件同時にいじめ被害者の家族(どちらも当時は生存事案)から相談を受けていました。
この秋から冬にかけても2件、ほぼ同時に相談が入りました。今代理人をしている第三者委員会設置事案よりも、相当悪質で、隠蔽の意図があからさまな事案で、いじめ防止対策推進法の知識云々前に、正義感や弱いものへの配慮という当たり前の感情が感じられない事案です。
どうして学校はいじめを隠すのでしょう。
「不祥事だから、保身のためにいじめを無かったことにしたい。」ということは当たり前だろうと思っている方もいらっしゃると思います。
変な話ですが、いじめは不祥事ではないこともあるのです。厳密に言うと、不祥事になるいじめと不祥事にはならないいじめがあります。それは法の定義するいじめの意味が、日常用語とは異なり、余りにも広すぎるからです。
法律の定義は
児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
となっていて、簡単に言えば、
学校で誰かからされたことで、嫌な気持ちになればそれがいじめだ
ということです。
私も日弁連も定義が広範過ぎて弊害があるという考えですが、あえて擁護すると、いじめかどうかを厳密に区別してしまうと、「これはいじめとまではいわない」ということで放置してしまい、働きかけがなされないおそれがあるため、あえていじめを広くとらえて、何らかの関与をしていき、不登校や自死という重大事態を防止していこうという考えだということができると思います。
だから、法律のいじめに該当しても、我々がいじめと言われてイメージする悪質なものと、成長期の児童生徒が、十分に考えを巡らせない行為で誰かが傷ついてしまったという教育によって解決するべきいじめと二つあるのです。不祥事ともいえないいじめは、子どもたちの集団生活の中で存在することが当たり前で、だから教育が必要なわけです。
ところが、現在の学校は不祥事ともいえないいじめも隠そうとしてするようです。不祥事とは言えないいじめを隠すことは、悪質ないじめも勢いで隠そうとしてしまうのです。なぜ、不祥事ではないいじめも隠そうとするのか。
第1に、いじめ防止対策推進法をよく知らないということが一つです。法律も10年たって、その意義・目的や内容を忘れられているようです。「いじめ」という言葉のアレルギーに、まず学校がかかっているわけです。これでは、子どもたちの未熟さを理解して指導することはできません。
第2に、世論です。いじめ問題に関わる人ですら「いじめ」イコール不祥事になる悪質ないじめだと思っています。その人たちを重宝するマスコミは、不祥事でないいじめも不祥事だという論調で報道しているのです。いじめ認知件数が報告されるたびに、いじめが増えた減ったと深刻ぶって報道する新聞やテレビの大手マスコミは。このいじめ防止対策推進法に逆行し、いじめ防止対策を阻害している張本人だと思います。問題はそんなに単純ではないことだけは間違いありません。
いじめがある以上悪だ、学校や教育委員会や行政を糾弾しなくてはならないという勢いができてしまえば、学校がいじめを把握して、きちんと対応をしていくことができなくなるでしょう。いじめを隠そうとすることに一役買っているということになるし、現になっていると思います。
最近の流行語大賞は、「ふてほど」という不適切報道が取り上げられたように聞いています。いじめに関する報道も、人々の正義感をあおり、攻撃的な論調を掲げている報道が目に余ります。まさにふてほどの典型だと思えてなりません。
弁護士はいじめ防止対策推進法を学習することが求められている。知らないではすませられない。 [弁護士会 民主主義 人権]
最近実務的上、気になることが何件かありました。
いじめで長期間不登校になった、あるいは自死を図った事案の場合の、法が予定している制度を知らない弁護士がいるようなのです。知らないなら相談を受けるべきではないのですが、知らないことを知らないなら対処がありません。
あたかも、労災(公務災害)申請制度を知らないで、労災の相談を受けるようなものです。
また、学校もある程度、法律を知っているようなのですが。その制度のあるべき運用について十分に知らないか、あるいは意図的に文部科学省の行政指針とは異なる運用をする管理者が増えてきているようです。
そうであるから、弁護士は、児童生徒の保護者から相談を受けた場合は、第1次的にいじめ重大事態であることを適切に評価して、学校設置者や学校に対して、法律によれば教育委員会への報告、重大事態に関する組織を設置しての調査(第三者委員会の調査)を行うことが適切に行われるように働きかける対応をしていかなければなりません。
第三者委員会について、文部科学省は、弁護士や精神科医、学識経験者、心理や福祉の専門家等の専門的知識及び経験を有し、当該いじめ事案の関係者と直接の人間関係又は特別の利害関係を有しない第三者の参加を図ることにより、当該調査の公平性、中立性を確保するように指導しています。
先ず、この第三者委員会によって調査を行うことが、学校という密室でいじめ被害に遭った可能性のある児童生徒、保護者にとって有効であるということを認識するべきです。
ところが、この実際の第三者委員会については、実務上以下の通り問題が見られます。
・ 児童生徒やその保護者に対して匿名で行われている。⇒ これでは、利害関係のある者が参加しているかどうかがわかりません。とても公平性・中立性の外観がはかられません。
・ 学校関係者が多すぎる。退職校長、スクールソーシャルワーカー、中にはPTAの役員が入っている調査組織もありました。⇒ これは学校にとって都合の悪い事実は認定しないという外観が作り出されてしまう。
・ 教育委員会への十分な報告がなされていない場合がある。⇒ 自己流で行う危険があります。
・ 児童生徒、保護者に対して事情聴取を行わないで、結論をまとめようとする。これは案外多いようです。⇒ これは文科省の指針とは全く反対の行動です。
・ 児童生徒、保護者に対して委員会開催さえも知らせない。⇒ 同じく。
・ 重大事態であると理屈をこねて認めない。⇒ 文科省の運用指針では自由な解釈の余地がなく細かく設定されていて、重大事態ではないとごまかすことができなくなっています。
こういう調査が行われれば、保護者は納得しません。法の知識がなくても、自分の子どもの案件が学校によって握りつぶされるという危機感を持つことは当然のことです。
先ず、相談を受けた弁護士は、このような法律や文科省の運用指針に反した学校、場合によっては教育委員会の運営を、文部科学省の運用指針をもとに是正させる行動をするべきだと私は思います。
誰に対してどのように働きかけるかという問題は、その時々の運用の在り方によって異なりますので、そこはいろいろなノウハウを交流させる必要があると思います。ここを具体的に研修することが大切です。
なんにせよ、いじめ重大事態の起きた場合のフローチャートをしっかり理解しておくことが大前提となります。そうでなければ法律の条文文言からは違法性が無いように見えてしまいますが、文科省の運用指針を知っていればそれから全く逸脱していることがはっきりします。知らなければ是正を求めようもありません。法律の条文だけを知っていても役に立たないわけです。
いじめ防止対策推進法も法施行から10年となりました。当時は最先端の議論、政策論が割と活発に議論されていましたが、現状、法の知識もない人たちが弁護士や学校関係者にも増えてきたようです。
しかし、法律を知らないということは弁護士の場合、言い訳にならないこともあります。また知らないことによって不利益を受けるのは、いじめられた児童生徒であり、その保護者の方々です。
学校や教育委員会の現状からすれば、弁護士や弁護士会に相談が来ることも増えることが予想されます。この機に各単位会で学習会を開いて、適切な事案対応をすること、制度が分からない場合は分からないから別の習熟した人に回すということができる状態にしておくことが求められていると思われます。
嘘から出た実(まこと) アイドル礼賛 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]
日ごろ、家族や仲間に対して笑顔をキープするようにお話をしています。
おかしくもないのに笑えないとか、気恥ずかしさがあって笑顔が作れない。
怒りの感情があるのに笑顔が作れない。相手がどのように対応してくるか分からないので緊張して笑顔になれない。笑顔を作るのが億劫だ。
という、これは実は私の実践上の言い訳ですが、こうお考えの方が多いかもしれません。笑顔の作り方ということはあまり教えてくれる人がいません。
結局同じことをするのですが、重点の置き方としては
欧米系の人間であれば、口角を上げるという作業をしますし、
日本人の場合は、頬を上げて目を細めるという形を作るようです。
これでよいのです。
「それじゃあ、嘘をつくのではないか。」、「作り笑顔ってわかられてしまうのではないか。」ということを心配される方がいらっしゃいます。
ただ、それは子どもの論理です。
感情を持つとか、心の中でどう考えるということは大人も子どもも自由ですし、これ自体はどうすることもできません。
しかし、子どもと違って大人は、自分のために感情をあらわすのではなく、相手のために感情を表して見せるもののような気がするのです。
確かに子どもであれば、泣くとか、怒るとか、「自分の感情、置かれている状態がこうですよ。」といって、大人に環境の改善をしてもらう立場ですから、感情をそのまま表現するべきなのだと思います。
しかし、大人の場合、特に人間関係をまとめる側の立場の者は、人間関係の状態をよくするために、相手に安心感を与えるために、表情を見せるものなのだと思います。きついこともありますが、これが優しさなのだと思います。
だから、嘘ではなく、優しさなのです。
作り笑顔がわかられてもデメリットはありません。作り笑顔をする努力を認めてくれるということがあっても、不快にさせるということはないでしょう。
また、相手の良いところを探してでも指摘するという方針を立てることが多いのですが、笑顔を作っているとそういう話をしようと自然になっていくような気がします。
笑顔を作って、相手がいることを歓迎し、相手に感謝の気持ちを表すということは、敵対心が無いということの何よりの方法なのだと思います。人間は言葉の無い時代から群れを作っていましたから、言葉以外での伝達方法は、この本能に働きかけるから強くアッピールするのだと思います。
そうして笑顔を作っているうちに、心(感情)も変化して、相手を思いやる気持ち、相手の行動に寛容になる行動パターンも出てきてしまうのだと思います。形から入るというわけです。嘘から出た実と言えなくもないかもしれません(嘘ではないと言っておきながら申し訳ない)。
笑顔を作ることが尊いこと、尊敬に値することだと感じたのは、大学生の頃です。かなり前ですね。当時私は、フォーク小僧からロック小僧、時々ジャズ喫茶小僧と渡り歩いていました。テレビの歌番組もよく見ていたのですが(実家にいるとき)、いつも笑顔のアイドルっていたじゃないですか。いわゆる80年代アイドルですかね。最初は、作り笑顔だろうと価値を感じなかったのですが、いつでも笑顔ということはすごいことなのではないかと気が付いたのです。自分がまだ精神的に子どもでしたから、ありのままの生まれたまんまの感情表出をしていたのですが、それで失敗もあったのかもしれません。安定して笑顔でいるアイドルの一人に、これはすごいことなのではないかと注目しだしました。当時は、レンタルレコード屋というのがあって、そこでレコードを借りてはカセットテープに録音して聞いていたわけです。それからパチンコの景品ですね。
その後そのアイドルはアーティスト指向となりました。映像を拝見する機会は減りましたがアルバムだけは聞き続けました。アイドル時代後期の難しい楽曲(いじめのような難解なメロディー)をニコニコ明るく歌いこなす歌唱にも脱帽していました。私のアイドル感は、尊敬をする的です。
令和の時代では、アイドルの笑顔戦略は基本的には維持されているようです。ファン(最近はオタというらしい)のニーズが笑顔の持つ効果にあることも変わっていないのでしょう。
おそらく人類において、笑顔の効果、ニーズも普遍的なのものなのだろうと思います。この本能を素直に使って人間関係を良好しない理由は無いと思われます。
アイドルに学びましょう。