【怒りの報告】子の連れ去りのノウハウは、出産直後の女性を標的にし始めた。 だから言わんこっちゃない。しかもDV女性保護を語る人間たちが加担している件。 [家事]
自分が担当しない事件には言及しないようにしているのですが、十分記録を検討した上で報告したいと思います。
出産直後の母親が、産後うつの易怒性に基づく行為を原因に、保護命令を出された事件です。その母親は残された出生直後の首も座らない子どもを抱えて、あろうことか退去命令、つまり家から出て行けと裁判所で決定されたのです。「無理が通れば道理引っ込む」を地で行く裁判所のおそるべき非人道的決定です。
産後うつという言葉が紛らわしいのですが、抑うつ状態になることが本質ではありません。物を言わない子どものあらゆるニーズに迅速に反応するために、脳の社会性の部分が委縮して活動を低下させてしまうのです。出方の強弱については個性はあるとしても、ほぼすべての出産者に2年くらい影響を与えるという複数の研究結果が出ています。
この結果、出産直後の女性は、成人男性に共感、共鳴することができなくなり、孤立を感じやすくなります。また、極端な「子ども優先」になるために、社会的な行動もしにくくなり、感情を抑制することも苦手になっていきます。孤立が高じてしまうと、母子心中などが起きる危険が生まれていきます。感情抑制がうまくいかないと、ヒステリックになり、イライラが止まらなくもなります。赤ん坊に対して危害の言葉を発することもよく事件の中ででてくることです。また、記憶力が低下するとともに、冷静に分析したり、説明する能力も低下していきます。
しかし、これらは一過性のものであって、2年を過ぎるくらいになれば概ね軽快して、落ち着いていきます。
その様な産後うつの出方には人によって違います。また、夫の母親は、自分の出生直後のことなど忘れています。気に食わない嫁を追い出す口実を探している姑にとっては、好都合というわけです。
そういう姑が目に付けたのが、子の連れ去りのノウハウです。
子の連れ去りのノウハウというのは、先ず些細な接触によるわずかな痕跡である、腫れた跡や擦り傷などをこまめに写真撮影する、こまめに診察に行き診断書を取得する。それをもって警察にDV相談をする。感触が良ければ被害届を出して夫を前科者にする。そうして、すきを狙って子どもを連れて家を出ていく。弁護士にも予め相談をしていて、すぐに受任通知を出し、先ず保護命令を申し立てる。つまり、一定期間の接近禁止命令または自宅からの退去命令を裁判官に出してもらう。うまくいけば保護命令と罰金刑の実績をもって、離婚調停を申し立てる。もちろん面会交流は拒否し続ける。離婚調停の前に、子どもを医師や心理士に見せて、母親の虐待によるPTSDだという意見書をもらっておく。
というものです。
産後うつの易怒性の表れた母親にとっては逃げようがなくなります。
現行の連れ去りシステムの問題点は、
① 警察は、総務省の通知があっても、未だに相談者を「被害者」、相手を「加害者」と表記をして扱っています。相談をしただけで被害者となり、警察署長の支援措置を受けることができる。
② 刑事事件になると相手方に事情聴取が行われますが、相手方は弁護士を依頼することも知りませんので、有効に弁解をすることができません。傷が残れば、それが配偶者の暴力によるものか否か、実際は分からなくても罰金になることがあります。
③ 医師は、その場にいないのに、受傷者の言い分通り、妻の暴力によって生じたということを診断書に記載します。様子を見ましょうという2週間の安静という診断も、司法機関では全治2週間の診断と同様に扱われてしまいます。また、全治3日という、正しい診察も、司法機関では傷害罪の傷害と扱う傾向が出てきました。
④ 保護命令の問題はこれまで何度も述べてきましたので、私のホームページなどを参照にしてください。ここで言いたいのは、「被害」を歌ってる女性を疑ってはいけないという極端な女性支援の法律家たちのヒステリックな主張が今女性に対しての保護命令という形で、実を結んでいるという皮肉があるということです。
⑤ 裁判官も保全部の若い裁判官が担当することが多く、出産直後の母親の心理状態などわからないことが多く、けんかをしたことも見たこともない裁判官たちは、血が出たり腫れれば重大な暴行だとみるようです。しかし、女性のひっかきや弾みの接触など、何回起きても身体生命への深刻な打撃などなりようないのですが、猫パンチを多発すれば死ぬ危険があるかもしれないと本気で裁判官は思っているようです。その結果、子どもを産んだばかりで、仕事もできず収入もなく、出産から体調も戻らない母親に対して、生後間もない子どもを連れて家から出て行けという裁判所の決定を平気で出すことができるのです。この人が生きていけなくなろうが路頭に迷おうが、そういう決定をする権利が裁判官にはあるのだという思い上がりにうすら寒い思いがします。今の裁判所とはそういうところなのかもしれません。
⑥ 許せないのは医師や心理士、あと多いのは学校関係者です。子どもの心理などわからないくせに、一方的な同居親の言い分をうのみにして、子どもをもう一方の親に会わせるべきではないとか、虐待があったことがうかがわれるなどという意見書を平気で書くのです。例えば、同居中は症状がなかったのに、別居してから子供にチック症状などが出れば、それは同居中の虐待によるPTSDだという意見書をうんざりするほど見ています。同居中何もなく別居してから症状が出るならば、それは十中八九、一方の親と一緒に生活できなかったことに対する精神症状であろうと思います。そういう可能性を記載する意見書などありません。そういう意見書を何通も出された子どもと別居親の試行面会の時、子どもは部屋に入ってきた父親を見るなり、満面の笑みを浮かべて、予定時間一杯嬉しくてたまらない様子で父親と遊んでいました。私は涙が止まらなかったし、調停委員会は予定時間で引き離すことができず、試行面会が延長されました。
⑦ さらにさらに許せないのが、普段は「DV被害女性の相談方法」等、女性保護を声高に主張している学者などが、連れ去った夫側から依頼されれば、先ず別居親である母親攻撃の結論ありきの意見書を平気で書いていたということなのです。女性に加担しろと言っているのではありません。出産後1カ月もしない行動に対して、産後うつの影響に全く言及していないということは非科学的だということです。また、連れ去った父親側の主張を全部事実として、意見を組み立てているという非科学的な意見書でした。
男女参画だ、女性の権利だと言っても、本質は誰かを攻撃するということがモチベーションだと思いたくなるような意見書でした。そもそも心理学者が、子どもの今の状態から、過去にどのようなことがあったのか、現在子どもがどのような状態なのかというような科学的論文が作成できるわけがありません。あくまでも可能性の一つを提示できるにすぎません。
特に家庭裁判所は、心理検査の実態などわかりませんから、心理士という肩書があれば「心」のことはすべてわかるかのような世間知らずなところがあり、悲しいかな有効な証拠になっています。誤診だらけの心理テストなど、多くの種類の事件でうんざりするほど見ています。誰がやっても同じ結論に至るものでなく、観察者の主観が大きく影響するものは科学ではありません。
⑧ 根本は「DV」等という曖昧な概念でヒトの一生を左右させる制度に問題があることは言うまでもありません。さらに、DV概念が拡大していくのは、DVを広くとらえることによって、逃げられないようにする目的があったわけです。しかし、DV概念が拡大していくほど、女性の行為がDVだとされるというか、DVであることを否定できない状況に進んでしまうわけです。男性を標的してきた制度が、今女性を飲み込もうとする下地が十分用意されてしまったということです。
出産直後の母親が不合理な保護命令に対抗するためには
① 母親はとにかく弁護士に依頼すること。また、いつも保護命令を申し立てる側の弁護士ではなく、保護命令を取り下げさせたり却下させたりしている弁護士に依頼すること。あるいは、そういう弁護士も弁護団に入れてもらうこと。
② 弁護士は、刑事無罪判決を勝ち取るくらいの気持ちで仕事をしなければなりません。保護命令の相手方審尋期日まで2,3日しか期間が無いことが一般的です。十分な物的証拠、問題の所在に有効に反論する詳細な陳述書を作成し、こちら側のストーリーを作り上げて、審理の土俵をジャックするくらいの準備が必要です。
③ 戦わない離婚手続きを標榜する私ですが、例外的に保護命令と離婚訴訟だけは真実を一つでも曖昧にしないで主張するべきだと事あるごとに言っています。すべて子供のために間違った公文書を残させないということです。
④ 時間が足りなければ、多少の期日延期なら許されると思いますので、裁判所と交渉しましょう。
⑤ 心理職の意見書が出てきたら、その論考の非科学的部分や、その検査方法が一般的でないことなどを指摘するべきで、日ごろから心理テストの問題点などを研究するべきです。それでもこちら側も意見書の矛盾を専門家に指摘してもらう意見書を提出することも検討するべきです。
⑥ 特に身体生命に重大な危険についての評価は、説得力を持って主張を展開しましょう。身体接触の数が多くても、武器を持ち出すことがないなら、今後も武器を持ち出す危険な暴行はないのだということを堂々と展開するべきです。そのためには、産後うつで説明が下手な状態の人に、暴行とされる行為の細部まで聴き取る必要があります。これは相手がヒステリックになってもやらないと終わりません。
⑦ 依頼者を励ましましょう。すべては子どものためにという視点を導入して、実力以上に頑張ってもらいましょう。ここがもしかしたら一番難しいことかもしれません。
新しき葡萄酒は新しき革袋に 実家由来の思い込みDVで離婚に向かう夫婦 [家事]
マタイ伝第9章
元々の意味は、価値観というのは時代によって変わるものだから、時代や環境が変われば新しい価値観に修正していくべきだというようなことだと思われます。
これは人間関係の変化においても通用する話です。
例えばアイドルグループのリーダーだった人が卒業してしまいグループを脱退した場合、残されたグループでは新しいリーダーが選ばれます。この時やめた元リーダーの影響力が強すぎる場合、グループの危機を迎えます。グループを脱退したとしても、海外に去るわけではありませんので、残ったメンバーに連絡取ろうと思えば簡単に連絡が取れるし、会って話をしようとすれば簡単にできるわけです。
リーダーが機能してグループの一体感を作るためには、リーダーを権威の的として、リーダーの統率力をメンバーが押し上げる必要があります。リーダーシップが現実にはこうやって形作られます。
ところが、メンバーが新リーダーではなく元リーダーに依存したり、元リーダーだけを信頼して教えを乞うような状態になれば、新リーダーの権威が確立されません。一体感の的ができにくくなり、パフォーマンスもばらばらになってしまいかねません。一人一人のパフォーマンスが向上しても、全体としてちぐはぐになってしまうと、グループ全体のパフォーマンスはむしろ低下します。
だから卒業後は、元リーダーは、グループのメンバーに深く関与せず、何らかの形で関わるとしても新リーダーを盛り上げることだけを意識して関わるべきなのです。
もちろん、これは会社の部署のたとえ話です。パフォーマンスを生産性に置き換えてください。
これは夫婦の場合も同じです。
夫婦が新しく家庭を作り上げていくときに、それぞれの実家の影響が大きな問題として影をさす時があります。お互いに、相手の実家のやり方を知っている夫婦はめったにいないでしょう。相手が何に価値を置いているのか、言われなければわからないことがあります。それは、日常生活のやり方、食事の作り方、配膳、並び方、掃除の仕方、子どものしつけ方、年中行事への参加の程度など、主につまらないことで価値観が対立していくものです。しかし、ことごとく対立していくと、やがて一方が、常に自分が相手から否定されていると感じてしまい、その嫌な記憶が蓄積されていきます。嫌な記憶が蓄積されると、「相手は自分を常に否定する存在だ」という認識が生まれていきます。そうすると、相手は自分を害する存在だという認識になってしまい、相手に対して不安と警戒感が生まれてしまいます。
ただ、こういうことは通常、日常の中での楽しいこと、充実することなどで一つ一つ解消されたり軽減されたりしていくものです。しかし、一方の体調不良のメンタルへの影響がある場合や、他方の仕事が忙しすぎてプラスの交流をする時間がないような場合は、軽減されることなく蓄積していきます。
蓄積された悪いイメージと不安、警戒感から、実際の言葉や言い方、表情の記憶ではなく、蓄積された全体像から、自分は精神的に虐待されたという記憶にすり替わっていくわけです。これが思い込みDVです。何らかの偶然の接触などで体の一部を痛めたような場合は、暴力を振るわれたという記憶にすり替わることもあります。
こういう蓄積がある中で実家に愚痴をこぼすと、実家の方は相手方の実家仕様で子育てをしていませんので、理不尽だと憤るわけです。そんな親の自分に対する気遣いを見ていると、慣れ親しんだ実家で、否定されないで生活することが唯一の安心できるパラダイスになってしまいます。家の中に、自分を否定する肉食獣がいる夫婦の家から逃げ出すことはとても自然な流れになってしまいます。
「新しき葡萄酒は新しき革袋に」のとおりです。夫婦として新しい家庭を作る場合は、怖がらず二人で新しいルールを作っていくという気概を持たなくてはなりません。「自分の育った環境が善で、それ以外は修正するべきだ」という考えを意識して手放さなければなりません。
相手は自分と違った価値観、環境で育っています。違いには寛容になるべきです。ルールや価値観は相手に合わせるように作ることを意識することも大切です。また、相手の価値観が立派過ぎて苦しくなるような場合は率直についていけないということを言うべきです。嫌な記憶が蓄積してしまってからは、後戻りすることができなくなります。嫌な記憶が蓄積する前なら穏便に変更を要求することができるはずです。
「一言多い。」と言われるその「一言」とは何か。自分が過小評価されていると思うときに考えること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]
能力があるのに、それにふさわしい役割を与えられない人がいます。能力がまともに評価されないどころか、初めから評価の対象から外されることもありそうです。仕事上のミスをしなくても、煙たがられているために悪い査定をされたり、契約の更新を拒絶されたりします。こういう場合、「もしかしたら自分は一言多い。」のかもしれないと考えてみると良いかもしれません。
また、よく「一言多い」と言われるけれど、何がその一言か分からない人も多いと思います。余計なこと、言わなくても良いことを言っているのですが、どうしてそれが言わなくても良いことなのかがわからないようです。「空気を読めない」と言われる場合も、もしかしたらこの一言余計な言葉を発しているからかもしれません。
いろいろなバリエーションがあると思うのですが、一番多いパターンは、
誰かを否定評価している
場合です。
もちろん、本人は否定評価しているつもりはありません。また、相手を傷つけようと思っているわけでもなく、不快に思わせてしまうかもしれないとは考えてもいません。
例を挙げてみましょう。
① 事例
例えば仲良し10人グループが二つのチームに分かれて、大食い大会を開いたとしましょう。ケーキでも、パスタでも、回転寿司でも何でもよいです。
この時、ひそかに闘志を燃やして、自分がチームに貢献しようと思っているAさんがいたとしましょう。二人のキャプテンが、チーム決めをして、自分のチームを勝たせようと、10人の中からメンバーを選抜していきます。そうして最後に残ったのが、そのAさんともう一人としましょう。一方のチームのキャプテンが二人を選べるのに、義理でAさんを自分のチームのメンバーに選んだ時、他方のチームのキャプテンだったあなたXさんが、「え?Aさんそんなに食べないでしょうに。」と言ってしまったという例です。
Xさんにとっては、大食は実生活で役に立つ能力ではないので、その能力を否定したところでAさんが不快な思いをするとは思わないわけです。Xさんは、純粋に有利なチームにするために戦力を調える行為をしているのだという意識を持ってしまっています。それで他方のチームのキャプテンのAさんをチームに入れる行動が純粋に理解できないので、思わず言ってしまったということになります。
大食い大会は、純然とした遊びですから、本来勝ち負けにそれほどこだわらなくても良いのですが、一時的に真剣勝負のモードにみんななっています。Xさんの疑問はある意味自然です。
しかし、Aさんにとっても、真剣モードになっていましたし、自分は自分のチームに貢献しようとひそかに思っていました。そこでのカウンターパンチを食らったので、通常はどうでも良いことなのですが、その一瞬では不快に感じ、「馬鹿にするな。」という気持ちになってしまうわけです。
XさんとAさんの受取り方の違いの理由はまだあります。
Xさんは自分がこれから言葉を発する方です。言葉を発する前からAさんに対して悪意もないし、傷つけようとしていないことを自分で知っています。このため、「発言しても悪いことはない。」と思って発言することができます。
しかし、Aさんは発言を受ける方です。Xさんが発言して初めて、Xさんの言葉だけが、あるいは語調も含めて入ってくるだけです。AさんからするとXさんの真意はわかりません。このため、「自分が低評価されている」と感じてしまうわけです。
② 事例
別の事例では、取引先に、XさんとAさんが一緒に赴いて商談をしているとします。Aさんがある言い間違いをしました。Xさんはすかさず、言い間違いを指摘してしまいます。Xさんは、Aさんが間違っていることを教えてあげようとしていたとか、取引先との信用を損なわないようにしようとしていたかもしれません。また、そういう是正をしなくてはならない場合もあるでしょう。しかし、案外どうでもよいような漢字の読み方のような間違いのような場合は、取引先から帰るときに二人だけになったときに指摘すればよいようなことです。あるいは主観の問題でどちらともいえる場合(それが変か変ではないかとか)に、取引先の面前で、あたかも致命的なミスをしたように指摘してしまうと、Aさんとしては、取引先の前で恥をかかされたという気持ちになるわけです。間違った自分が悪いとしても、そういう気持ちは出てくることを止めることはできません。
③ 事例
もう一つ例をあげます。Xさんともう一人がAさんをからかっていたとします。そのもう一人とAさんは特別仲が良いという場合はAさんからすれば、からかわれても否定評価されているわけではなく一過性の「からかい」だと認識できますのでそれほど不愉快にはなりません。しかし、そのもう一人ほど仲が良いわけではないXさんのからかいは、Aさんとしては言葉通りの受け止めをしてしまいます。また、本当はその仲の良いもう一人の人から言われることだっていやだった場合は、その仲の良いもう一人に文句を言わないで、すべての怒りをXさんに向けるということもよくあることです。
まとめますと、一言多いその一言とは、「相手に対して自分が否定評価されていると思わせる言葉」ということです。
そして、何が「相手に対して自分が否定評価されていると思わせる言葉」かは、「言葉を発する方はわからない」と考えた方が無難です。
だから、「一言多い」と言われている人は、相手に関しての評価を含む言葉はしないということが無難なわけです。どういう場合が相手に関しての評価の言葉になるかは、3つの例から考えていただくと良いと思います。
特に注意するべきは、「自分が正しい」と思っての発言とか、「相手の言動に合理性がない」という指摘をする場合です。こういう場合は、必要がなければ言わない、言ったとしても控えめな態度に終始するべきなのでしょう。
企業不祥事の際の第三者委員会とは [労務管理・労働環境]
現在テレビ局の不祥事で、「第三者委員会」が話題になっています。日弁連のガイドラインという言葉も出ているのですが、これは必要最低限度の準則を定めているだけです。このガイドラインだけでは第三者委員会が何をするのかよくわからないのではないでしょうか。
<第三者委員会の目的>
第三者委員会は、企業を糾弾するためにあるのではなく、企業の再生に向けて調査、提言をする組織です。もっとも、実利的には、きれいごとだけではなく、第三者委員会の調査によって、当該企業が再出発する可能性のある企業だという信頼を回復して、安心して取引をしてもらい、落ち込んだ取引、収益を回復させる目的があります。
つまり否定評価するだけでは足りないということです。しかし、甘い評価だと、再発が懸念されてしまいます。そうするとせっかく行った調査委員会の調査検討が無駄になってしまいます。過不足なく科学的に調査検討する必要があります。(あたかも刑事弁護で、被告人がやった罪を軽減する弁護だけをすると説得力がなくて弁護をした意味がない判決が出るようなものです。)
<調査検討するべき基本事項>は目的を踏まえると以下の通りです。
1 どのような事実が起きたのか。
2 その事実の問題点ないし評価
3 その事実が生じた原因(短期的原因と長期的原因=体質)
4 原因を除去するための必要事項
5 同種行為が再現されないための方策
こんな感じでしょうか。これは、起きた事実によって多少のバリエーションが生まれるでしょう。抽象的な言葉で反省をしてしまうと、説得力がありません。取引先はそんな抽象的な文言では納得しません。なるほど、こういう改革を実際に行うのだなということが絵に描けるように説明されることが有効です。
<第三者委員会の構成>は以下の通り。
1 弁護士
わかりやすく言うと、特別予防型刑事弁護そのものです。処罰されるわけではありませんが、「反省」を述べて、再発防止の援助をするということです。また、事実認定と事案の原因究明においても、本来弁護士は職業的に鍛えられているはずです。繰り返しになりますが刑事弁護と構造的には同じことをします。ただ、近年の弁護士が本当に実務的にこのような作業をしているのかは怪しいところがあるので、人選は吟味する必要がありそうです。
弁護士は、複数名いた方が良いと思います。
2 公認会計士
企業の場合は、経営問題だけでなく不祥事についても、適法性監査、妥当性監査の視点は必要だと思います。また、将来的な再建の提言をする場合も公認会計士の知識と経験は有効だと思われます。
3 心理学者(社会心理学)
企業不祥事は、一人だけの責任で起きるということはほぼありません。これが横領事件だとしても、それを許してしまう制度的隙間、人間関係の隙をついて行われることが多いでしょう。また、その他の不祥事で、不祥事を見ていたり、知っていたり、あるいは加担したしながら有効な対策につながらない場合やとるべき対処をしない場合もあります。どのような人間関係であったために、その不祥事が完成し、長期にわたって続いたのかということを、集団心理のプロが分析する必要があると思われます。科学的な評価、再発防止策を行うなら専門家を入れるべきです。
4 その他事案に応じた専門家
その事実に通じている人が入ることが必要なことがあります。ただ、逆に、その不祥事の背景を理解しすぎて寛容になってしまうと第三者委員会という外部者の視点が損なわれる可能性もあるので、微妙な話です。
<どのように依頼するか>
実はなかなか難しいのは、委員の人選です。
委員の人選にあたって、一番気にする必要があるのは<公正の外観>です。例えば、その企業の顧問弁護士やよく事件を依頼する弁護士を第三者委員会にすることはよろしくありません。経営陣との人間関係によって調査をその経営陣に不利にならないようにまとめると思われてしまうことは第三者委員会を開催する目的を達することがなくなってしまうからです。
弁護士会などの団体からの推薦を受けるということが一つ考えられます。これは公正の外観としては文句のつけようがないのですが、人選に時間がかかるという問題が確かにあります。例えば、公認会計事務所など、外部監査をする大きな事務所で、その企業に関係のない事務所に人選をゆだねるということも選択肢としてはありうるのかもしれません。
なぜ、公正が必要だと言わないで、公正の外観が必要だと言ったかというと、おそらく顧問弁護士であっても、日弁連のガイドラインにしたがって誠実に調査検討をすると私は思っています。手心を加えるということは実際は難しいことです。また、根本的には企業の再建、将来の維持のために行うわけですから利害対立はないはずなのです。しかし、弁護士と企業担当者の付き合い方は、その企業、その弁護士それぞれですが、長い付き合いともなれば個人的癒着を疑われることは致し方ないところです。せっかく第三者委員会を開催するならば、そのような無駄な疑惑の持たれない形で行うことが目的に適うということなのです。
人選自体が、第三者委員会を開催する目的に関連するので、第三者委員会の委員のメンバーは公表することが望ましいのは間違いありません。
<期間の問題>
このとおり本格的な第三者委員会の調査をするならば、テレビ局の問題は数年かかってもおかしくありません。しかし、3月末までに調査結果をまとめるということが発表されています。これでは、第三者委員会をせっかく開くのに、期間が短すぎるために、きちんと調査と評価を行ったと評価されない位という心配が出てきてしまいます。
もっとも、取引の回復の観点からは、早期回復を求めたい、次の取引時期に間に合わせたいという意向も分からなくはないです。これが仮に、取引先との間で、第三者委員会の調査と報告があれば、取引を再開するという密約があらかじめあるのであれば、それでも良いのでしょう。しかし、そうではない場合は期間の短さによって第三者委員会を開催した目的が失われてしまう危険性も考えるべきだと思います。
とりあえず、3月末は「第1次報告」という形にしておくことをお勧めする次第です。
【ご報告】うつ病休職からの復職支援シンポジウムが開催されました。 [労災事件]
令和7年1月25日、エルパーク仙台の会場で、実行委員会形式で、うつ病からの復職支援シンポジウムが開催されました。ご報告します。
ある中学校教員が、パワーハラスメントでうつ病となり、11年余りでのべ約2000日休職した後に、復職して現在も就労しているという体験をもとに復職できたポイントを検討していくことがテーマでした。
この企画の画期的なところは、うつ病休職をした当事者が自身の体験を語るだけでなく、闘病を支えた妻も登壇して報告をしていたところにあると思います。
うつ病も重症期に症状が活発に出るときは、本人自身にその記憶が無いこともあるようなのです。例えばオーバードーズをしているときは、ほとんど本人は意識がなく、症状を緩和させる薬が効かないので、次々お菓子を食べるようにぼりぼり飲んでいくということも、本人は覚えていないようです。妻が近くにいて、それを止めなかったらどうなっていたか分からないというエピソードは迫力がありました。
抑うつ気分がよく知られている症状ですが、どちらかというと疲れやすさや首の後ろから背中、肩にかけての痛みを訴える人は、うつ病に長期罹患している人に多いようです。この疲れやすさがあるのですが、ここを理解することが大切です。うつ病の人は概して真面目な人が多く、ここまでやらなければならないという目標を比較的高いところに掲げて、やりきるまでやめようとしないということが多いです。そして頑張ったり、時間をかけたりしてやり遂げてしまうわけです。例えば私なんかは、「ここまでやった方が良いけれど、今日はこれだけやって疲れた。頑張ったご褒美に帰ろう。」といって帰宅するわけです。そういう隙間を作ることを潔しとしないのがうつ病の方なのです。
だから、人の中に入ると、自分の役割を果たそうと頑張ってしまいます。第三者の視点でみると、活発に活動しているようにみえます。しかし、「やらなければならない」という責任感というか真面目さというかで、気力を振り絞ってやってしまっているので、それが終わったらぐったりしてしまっています。
また、奥さんの話では、「病前と発病後で、性格は変わっていない。ただ、症状が出てしまっているだけだ。」という感想も貴重でした。病前の性格で、他人を楽しませようという行動をとる人は、発病後も、気力が残っている限り、同じような行動をしてしまう。しかし、それはエネルギーが極端に消耗するので、家に帰るとガス欠の自動車のとおり、動かなくなってしまうようです。こころも動かないし、体も動かないというのがうつ病のようです。
ところが、素人の人たちは、「元気そうじゃないか、それだけできるならもう大丈夫だ。」みたいな感覚になってしまうのです。さすがに精神科医はそういうことはないでしょうが、医療スタッフでもそのように言う人が結構報告されています。うつ病かどうかは、診察に訪れた病院の様子からは分からないというべきだと思います。
こういううつ病の実態が分かれば、うつ病の人に行ってはいけない言葉はおのずとわかります。
だからあれを言ってはダメ、これを言ってはダメというよりも、相手の状態を理解した上で声がけをすればよいわけです。失敗したら、誤って訂正する人間関係を作る方が前向きであるとも思われます。
また、うつ病には波があります。重症化しているときは、自己抑制が効かなくなることがあります。それは一過性のものですから、その人のベースとなる人格ではありません。
ただ、その人の病前性格を知らないと、一番問題のある時の状態がその人の人格ではないかと思ってしまうことがあります。ここにも支援必要性があると私は思うのです。
何か問題行動を起こしても、その人の人となり、その人の症状の特徴を、職場に説明できれば復職もスムーズに進みます。
つまり、その人をできれば病前から知っている人、発病後の知り合いであっても、病前から知っている人を交えたコミュニティーがあれば、その人のアウトラインを理解することができます。そういうコミュニティーの中で、役割をもってうつ病者が交流できる状態を持つことが、復職後にも役に立つのですが、実は復職をしようと思える大きなきっかけにもなるようです。ここがこのシンポジウムのキモの部分だったと思います。
つまり、本件教員は、うつ病の公務災害認定や裁判を進めていたのですが、その時の支援者や弁護士と、月1くらいで弁護団会議をやっていました。10年近くの付き合いになっている人たちもいました。ここでの交流の体験から、復職という人間関係の形成の再出発の訓練をしていたようなものだったようです。だから、不安はあるものの、思い切って復職の扉を開けることができたのだろうと思われます。
もう一つ貴重な発言がありました。「うつ病をすっかり良くしてから出ないと復職してはだめだ。」ということでは復職ができないということです。復職していく過程の中でうつ病を克服していく、うつを抱えながらも仕事をできるようにしていくということが前向きの話なのだということでした。
症状にもよりますが、「うつで休んでいるから人前に出て行ってはいけない。」ということが一番の間違いなのでしょう。家に帰って2,3日寝込むことがあっても、そこに行きたいという人間関係を作ることは、実はとても有益なのです。人の中で発症したうつは、人の中で症状を軽くしていくということが復職の大きなポイントになりそうです。
とても貴重なシンポジウムだったと思いました。
うつ病休職からの復職支援シンポジウム 1月28日2時から仙台三越定禅寺館6階で 参加自由、予約不要、費用不要 [労務管理・労働環境]
上司からパワハラを受けてうつ病になり、約11年の間に合計1000日余りも休職した教員が、復職を果たし、現在も就労している県でのシンポジウムです。
公務災害認定や裁判の勝利なども、大きな足跡として発表をしたいところなのですが、今回は、どうしてそれだけ長期の休職をしていた人なのに、復職ができて、しかも就労が続いているのかという点にスポットを当ててシンポジウムを行います。
まず、復職が簡単でない理由が明らかにされます。一番はうつ病に対する理解が不足しているということです。うつ病の症状は、人によって大きく違うところであること、波があって固定されたものではないことを家族の視点からお話があります。これは画期的なことです。うつ病者本人が気が付かないことも家族は気が付いているのです。とても参考になると思います。
また、うつ病の人にかけてはいけない言葉について、体験をもとにして紹介します。どうしてそれを言ってはダメかということを、その善意の言葉をうつ病の人はどう受け止めるかということを丁寧に説明していきます。
次に、うつ病の人が復職するにあたって、本人の考え方、周囲の支援の仕方について実体験に基づいて話していきます。必ずしも万人がその方法を踏襲できるとは限らないのですが、それではどうしたらよいかということに議論が進むと良いなあと思っています。
興味深いことは、ネタバレになりますが、「うつ病が治るまで復職はできない」という固定観念を捨てることがキーワードになりそうなところです。逆に復職して新しい人間関係を形成しながら、仕事モードに乗せていくというか、そのあたりのことは当日お話があると思います。
テーマとしては、一度うつ病にり患しても、人間関係の中で生きる喜びを再発見していくということになりそうです。
逆に、周囲の人もうつ病を理解して、うつ病者を支援していく中で自分の生きる喜びを獲得していくこともまた真実だと思います。
話はきれいごとでは済まない事情もあります。報道によると、休職している公務員が膨大な人数になり、休職期間も長期にわたります。例えば公務災害だったり、たとえば傷病手当金だったり、あるいは賃金が保障されている休職だったりするわけです。膨大な費用が掛かっているという現実があります。
うつ病者の復職を進めていくことは、就労して給与を得るという原則に戻ることですから、財政上健全な話になります。
さらに一歩進めて、うつ病を生まない職場づくりができれば、うつ病休職者は減っていくはずです。益々、健全な財政を確立することができます。そして、労働者の人権も守られるというウインウインどころではない話になります。
世の中、特に職場は、変な先祖がえりをしているところがあるようです。しかし、昔の職場は、ストレスを高める要素と、それを軽減する要素があったのだと思います。それを軽減する要素がないままに、ストレスばかりを高めているところに問題の根源があるように思っています。そのヒントを獲得できるシンポジウムになると思っています。
組織をまとめるという意味 サブリーダー論 [労務管理・労働環境]
少し前の記事で、アイドルについて述べていたのですが、実のところ、現在のアイドル全般について詳しいわけではありません。少し盛って話したような気がします。ある程度知っているのは、ハロープロジェクトのアンジュルムというグループです。後はモーニング娘。25の人たちの顔と名前が一致して、少し知っている程度です。
アンジュルムというグループを深掘りしたきっかけは、ある若者とコミュニケーションをとるネタにするために動画などを見ていたこと、趣味の音楽演奏の練習をしていた時になぜか時々アンジュルムというグループの宣伝や楽曲(本当はスマイレージだった)の取り上げ動画に遭遇していたことでした。
2年近く前に当時リーダーだった竹内さんについて、労務管理の観点から理想のリーダー論ということで記事にもしました。しかし、その後も細々と研究を続けていたのですが、どうやら、組織を動かすのはリーダーの役割だけど、組織をまとめる人間もまた必要不可欠であるのではないかと思うようになっていました。昨年11月28日に芸能界を卒業した川村文乃さんを調べていくうちにそのような結論に落ち着きそうです。
目的を持った組織というのがあります。会社で言えば利潤を追求する目的ですし、スポーツチームではより強くなろうという目的、大会で優勝しようという目的があると思います。家族や友人関係は、その場にいて安心してくつろぐことが目的だともいえるかもしれません。
今回はどちらかというと外向きの目的を持った人間関係についてのお話になります。
リーダーは、そのチームのパフォーマンスの方向を示すという役割があります。チームとしての期首目標を立てたり、その目標に向かって鼓舞激励するとか、方法論(方針)を提示するという仕事が求められていると思います。リーダーはチームの権威であり、リーダーの価値観に右ならえして構成員が活動することで有機的な活動が可能となります。
しかし、チームの数が多くなるほど、構成員の個性に違いが出てきます。なかなかすべての構成員が一斉に同じ方向に動くということは現実的には難しいところがあります。また、構成員同士の軋轢が生じるとか、なんとなくそりが合わないという現象も起きてきます。そうやっているうちに、誰かが組織の中で浮いてしまったり、攻撃的になって雰囲気が壊れてしまったりして、組織に致命的な障害が生じることもあります。
そこまでひどいことにはならないとしても、各人のパフォーマンスが発揮されないで埋没してしまうことが、現実的な不具合として現れることでしょう。やはり人間組織は、協力し合い、フォローしあうことで強靭な力を持つもののようです。
ここで必要な役割がサブリーダーです。がむしゃらに前に進むだけではなく、組織全体を見て、パフォーマンスを発揮できない人間関係を修復していくという作業、遅れているメンバーを組織のラインに復帰させるという役割を果たす人がいれば、組織のベストパフォーマンスを作り出すことができます。特にポテンシャルが高いメンバーが能力を発揮できないことほど組織の損失はないように思われます。サブリーダーの役割は、組織から見れば生産性を高めることに直結しているわけです。
このサブリーダーも戦力ですから、そういうサブリーダー的行動をしていることが自分の組織的行動への関与を弱くする言い訳になってはいけません。自らは、タスクをやりこなしたうえに全体も見るという、考えてみれば離れ業をやってのけることが求められるわけです。だから誰でもそれができるというわけではありません。
その方法論は現在も確立されていないようで、個々人の人柄に依存している傾向があるようです。共通する事項があるように感じられました。
先ず、優しさということになります。これはすべてを許容する優しさではなく、現状を許容した上で修正の方法を一緒に考えるという作業を行うことです。それでも、誰が浮いているか、誰がチームに溶け込んでいないか、誰が反発を感じているのか敏感に察知して、「それはまずい」と感じる「こころ」があることが必要です。
次に必要なことは是正能力です。対象メンバーに変化を求めることはあるのですが、それは受け手の理解力が無ければ逆効果になることもあるでしょう。最初にする是正行為は、「自分があなたの味方である。」ということを理解してもらうことです。この過程はオープンに行うことが必要です。反発するメンバーからは「えこひいき」と受け取られることを恐れない行動が求められます。いわゆるいじめの防止には、これが最も効果的です。また、反発をされないくらいの仕事上のパフォーマンスの圧倒的力量もあるとよりよい効果が得られます。ただ、対象者を浮かせているメンバーに対しても敵対的な対応を取らないで仲間として接することも必要です。ここがお人柄以上の理論的な方法論が出にくい部分です。
そして、リーダーと対峙することです。サブリーダーの役割は、いわばリーダーの推進力から零れ落ちたメンバーを拾うことです。行動の過程では、リーダーの方針に真っ向から反対を言うような行動になることもあります。リーダーからも一目置かれている立場でなければなりません。ただ、反対勢力になるのではなく、通常時はリーダーの呼びかけに真っ先に応じる行動をとり、リーダーを立てる、リーダーの権威を高めることが組織の一体性を高めることだということをよく理解して行動していることが必要です。
つんく♂さんがアメリカの何だかっていうシステムを日本に導入してモーニング娘。を立ち上げてから、女性アイドルグループには卒業がつきものになってしまいました。偉大なサブリーダー川村文乃さんも卒業してしまいました。グループ内に波乱要素が見え隠れするようになり、ジジオタとしては不安要素もあるところです。「推しも卒業したし、もういいかなあ。娘。に『推し変』しようかな。」とも考えてしまいます。しかし、偉大なサブリーダーが作り上げた結果と、自分が卒業した後のことを考えていた節のある事の結果も気になるところです。
尊敬できる若者を見つけることは、ジジイにとって生きる喜びです。年配者は、謙虚に若者から学ぶことができれば若くなることができるのかもしれません。
無宗派仏壇作法の勧め 死者と暮らす穏やかな日々 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]
既に何らかの宗教を信仰されている方ではなく、現在宗教を持たない方にお勧めする作法についてお話しします。どちらかと言えば、一人暮らしをされている方に向けてのお話となると思います。ご家族で共通の理解を得ることができれば、ご家族で作法を行うことも良いかもしれません。
これは特別な宗派ではなく、いわば日本人の土着の原始的な信仰というか、心構えみたいな作法をさらに崩したものと言えるかもしれません。
ご自宅に仏壇があれば、仏壇の作法ということになります。仏壇が無くても、語り掛ける的(対象物)があればそれでよいと思います。ただ、写真があれば、なお、イメージが付きやすいので良いと思います。
日本では家族が亡くなったずいぶんあとでも、陰膳を用意するご家庭もあるのですが、私はこれは無理なので、お茶とお水を毎朝新しいものに変えてお供えしておきます。寒い朝でも、こうやってやることがはっきりしていて、自分でもなんとなくやることでプラスになることなので、布団から抜け出して起きて日課をしようという気になるので不思議です。
お茶とお水を変えなければならないというよりも、変えてあげようという優しい気持ちが大切だと思います。お茶はいちいち入れなくてもペットボトルなどのお茶でもよいと思います。
どちらを右に、どちらを左にするか迷う方もいらっしゃいますが、どちらでもよいと思います。何せ無宗派ですから。線香を立てて、おりん(チーンとなるやつ)を鳴らして、位牌、写真、ご先祖様の順で3回手を合わせます。
「おはようございます。」、「行ってまいります。」というわけです。そして帰宅したら夕方は、線香とおりんだけで済ませます。「今日も一日ありがとうございました。無事帰宅いたしました。」とお知らせして感謝します。
自分以外の家族の安全などはお願いしてしまいますが、自分のことでお願いごとをすることはありません。お願い事はしませんが、毎日の出来事、あるいは何もないことの感謝を述べることは意識します。
今生きているのも先祖が子孫を遺した結果ですから、無限に感謝できるわけです。誰かに感謝をするということは気持ちよいものです。自分は一人ではないという気持ちになり、また謙虚な気持ちになって心が落ち着きます。
面白いことに毎朝夕、例えば父親の遺影を見ると、その日、その時によって見え方が変わります。笑っていることもあれば、注意を促しているように見えるときもあります。苦境に立っているときは優しく見えることが多いですし、調子に乗っているときはたしなめる表情の場合が多いかもしれません。「今日はこういう表情なのか」と意外に思って、気を引き締めることもあります。いつもは、ほっと一息入れる時間です。
むしろ家族がいる場合、家族に対して、同じように感謝をする時間があれば、八方うまくゆくのかもしれません。ただ、遺影は反応をしないので、心おきなく感謝ができるということはあるかもしれません。
お茶とお水以外は、お菓子、できれば水菓子をお供えしています。故人が好きだったものを用意するようにしています。私は仏壇にお供えしたものは、期限が切れる前に食べています。なるべく2品くらいは切らさないようにしています。食べ物をお供えするとなんとなく明るい気分になります。
お酒を供えることに対して賛否があるようです。無宗派仏教の場合でも、たとえば故人がアルコール依存の傾向にあった場合は、個人にとってもお酒は本当は苦しいものなので、お供えするべきではないと思います。
私は、お酒を仏壇にお供えすることはありません。ごくたまに仏壇の下にお盆をおいて、一緒に飲むくらいにしています。
死者とお話しする場合に頭に置いておいた方が良いことがあります。どのような方でも、生きているときは、自分を守らなくてはなりませんので、そのための行動があったはずです。自分を守ろうとする時、誰かに対して過酷になってしまうことがあります。いやな側面を見せてしまうものです。
しかし、亡くなってしまえば、自分を守ろうとすることは基本的に無くなります。執着もなくなります。故人の思い出の中の良い部分、優しくされた部分だけを思い起こしながらお話しするべきだということです。それで構いません。
人間が生きているということは、その人単体で生物的に生きているわけではありません。人間関係の中で関係を持ちながら存在するわけです。その人が生物的に命が亡くなったとしても、その人間関係まで無くなるわけではないので、亡くなった方と一緒に生きていくということは自然な話ではないと思っています。遺影で意外な表情を見るたびに、実際もどこかでこちらを見守っているのかもしれないとも感じることが多くあります。
家族の機能①「機能不全家族」から家族の機能を考えてみる [進化心理学、生理学、対人関係学]
12月の私の業務のテーマが機能不全家族とでもいうように、家族の在り方に関連する相談を多く受けました。私の仕事(依頼、相談)は、同時期にテーマが重なることが多くあります。
それで、西尾和美さんの「機能不全家族」(講談社)を読んでみました。
西尾さんの定義は、「機能不全の親」とはということで、「子どもに安全と保護を与えられない、子どもの人格を尊重できない、子どものもって生まれた気質や個性を受け入れられない、適当な規律と愛情を与えることができない親のこと」というものでした。
本質をズバリついた定義だと思います。
これに対して一般的に機能不全家族とは、家族の機能を果たせない家族ということで、暴力や精神的虐待、犯罪やアルコールや薬物依存のある家族と定義されています。
西尾さんは、子どもの立場から親子関係に焦点を当てています。子どもではなくても、夫婦に置き換えても通用する定義だと思います。
「夫または妻が、相手に対して、安全と保護を与えられない、相手の人格を尊重できない、相手の持って生まれた気質や個性を受け入れられない、適当な規律と愛情を与えることができないこと」と置き換えてみても、通用する定義です。
そうすると、家族の機能とは、安全と保護を与えるところにあるということになりそうです。その具体的方法について、西尾さんの「機能不全家族」には丁寧に記載されていますので、家族問題で悩まれている方は、専門家に相談するのも良いですが、その効率を上げるためにもこの本をお読みになることをお勧めします。
ところで、どうして、家族は、自分以外の家族という他人に対して安全と保護を与えなければならないのでしょうか。自分ひとりが生きるのに一杯いっぱいの状態で、自分以外に配慮することなどできるでしょうか。
結論から言うと、「それが人間だ」ということなのかもしれないと思っています。
今年の正月は、3日くらい、これまでに記憶がないくらい無為に過ごしていました。タイミング的に家族と離れて一人で過ごしていました。年末に珍しく超人的な忙しさがあったことの反動もありました。日付も曜日も無茶苦茶になっていました。具体的に何がどうだというわけではないのですが、これではいけないと思い、職場に行き、届いていた機能不全家族を読み、頭を動かし始めてこれを書いているわけです。
人間が家族を作る理由がここにあるというか、人間が生きるということは家族の役に立とうとするということにあるという一つのアイデアを改めて見つめ直そうと思いました。
いつものことなのですが、「何のために家族を作ったか」という問題提起は間違っていて、「家族という人間関係を作ったから人間は生き延びてきたのだと、でもそれはどういう点が有利だったのか」ということが本当の問題提起です。
家族を作らない動物がほとんどです。それは家族を作らなくても子孫を作り続けることができたからなのです。もっとも子孫を作ろうとさえしないで生き延びようとしていただけのことですが、生き延びなければ現在われわれがその生き物の存在を目にすることが無いというだけの話です。
もっとも、家族と言っても「夫婦を中心とした家族」が一般的になるのは、つい最近のことです。何をもって一般的というかは難しいところですが、3世代同居が都市部だけでなく多くの地域で少数派になった時期と言えば、早くても第二次世界大戦後というべきであろうと思います。
夫婦が同居することさえ、日本では8世紀ころまでは成立していないようです。もっともこれは文献が残っている貴族社会の中の話です。第2次世界大戦前まで多くの人口を絞めていた農村部の家族の在り方はあまり信用できる文献が無いようです。一応同様だと考えておきます。
さらに農耕社会が起きる、約1~2万年前までは、家族は必ずしも血縁を基盤としていなかったようです。これだと「家族」という名称とは少し違うかもしれません。大体200万年くらい前からこのような小集団でヒトは生きてきたようです。
この小集団をどのように定義づけるか。ちょっと難しいのですが、「狩りなどで日中別々に行動しても、日暮れ頃までには帰ってきて寝食を共にする小集団であって、構成員に変化が乏しい集団(つまりいつメン)」ということは言えるでしょう。
その小集団をどのような関係者と構成するかについては時代によって異なっているけれども、人が人として成立したころからこのような少集団を構成して人は生き続けてきた、生き続けることができた、生きることにおいて有効だったということだけは言えるのでしょう。
家族の機能② 群れを作るツールとしての「こころ」と群れを作るメリット [進化心理学、生理学、対人関係学]
前回の記事で、ヒトは、ヒトとして成立した時にはすでに小集団で生活していたと述べました。ただ、現在の家族のように父母を中心とした家族は第二次世界大戦後に一般的になり、これまでのヒトの歴史(200万年間くらい)の大部分は必ずしも血縁関係があるわけではない集団だったと述べました。でも、昼間それぞれが行動をしても、日暮れごろになるといつもの集団の中に帰ってきて寝食を共にするという関係があったということが前回の話でした。
言葉もない時代に、どのようにしてその様な集団生活ができたのかについては、これまでもこのブログで述べていたように、「こころ」というツールを獲得したからだということです。
いつものメンバーと一緒にいたい、いつものメンバーから追放されることは怖い、追放されそうになるとたまらなく不安になり、自分の行動を修正する、いつものメンバーに対しては役に立ちたいと思う、いつものメンバーの味方をしたい、いつものメンバーを守りたい、尊重したい、
これは現在心理学的には、単純接触効果と呼ばれる効果であったり、人間の根源的な要求(バウマイスター)と呼ばれたりしています。私としては組織の論理、組織バイアスも、この「こころ」からくるものだと考えています。洗脳もこの「こころ」を利用して行うわけです。
どうしてそういう心を持つようになったかという問いは間違っており、そういう「こころ」を持つ個体だけが、群れを形成し、命を長らえ、子孫を作ることができたというだけの話だと私は今は考えています。「こころ」を持たなかったヒトは、それができずに死滅したということです。
なぜ群を形成すると生き延びることができたかということも整理しておきましょう。
即物的理由とメンタルの生理的理由があると思います。
<即物的理由>
脳の活動を維持するための栄養素を確保するため、ヒトは小動物を狩るようになったそうです。初期の段階では特に道具も持っていませんから、何人かで動物を追い続けて、動物が弱ったところで確保したようです。小集団を作らなければ脳の活動を維持できなかったと言えるでしょう。
また、小動物もこのような原始的な方法ですから、逃げ切ることができることもあったでしょうし、そもそも小動物が見つからない時もあったでしょう。その時に備えて、同じ小集団の別グループが食べられる植物を採取していたそうです。小動物の狩猟と植物の採取を別々の構成員が行うことで生き延びる栄養素を確保できたわけです(「人体」ダニエル・リーバーマン ハヤカワ) 。
また、他の動物と比べて超未熟児で生まれる人間の赤ん坊を世話するのは母親だけでは足りません。出産自体がたいそう危険なものでした。このため、群れを形成して赤ん坊や弱い者を守る人数がいることが必要でした(それに伴う人間の特性は明和政子「まねが育むヒトの心」岩波ジュニア新書)。
頑丈な家も無く、移動式の生活様式であったことから、けっこう肉食獣に対しては無防備だったわけです。しかし、ヒトという中型動物が、比較的大きな群れを作ることで、肉食獣もおいそれとは手出しできない状況を作っていたと思います。肉食獣だってリスクがなるべく少ない方法で獲物を獲得したいわけです。ここから先は私の一人説ですが、おそらくそれでも集団の中に獲物を求めて襲ってきた肉食獣もいたと思います。その場合は群れ全体が、自分が襲われているかのように、我が身が傷つくことを忘れて、怒りにまみれて肉食獣を袋叩きにしたはずです。獲物を襲っている動物は無防備な状態ですから、袋叩きをされることが一番の弱点だったという袋叩き反撃仮説というものです。(今それを見ることができるのは、プロ野球のデッドボールで両軍がグラウンドに飛び出してくる様子です。)
即物的な意味で群れを作ることで生き延びてきたということは、なんとなくわかりやすいのではないでしょうか。
ただ、そればかりではなく、メンタルというか生理的な問題というか、そういう観点からも群れを作ること、群れの形態がとても有利であったというお話は次の記事で行いましょう。
前回の記事で触れた、家族の機能としての、安全と保護ということは、ヒトがヒトとして生まれたときから行っていたことなのだなあと改めて気が付きました。