「母性」の意味と由来と母性危機の効果 絶対的孤立の蔓延化 [進化心理学、生理学、対人関係学]
私たち弁護士が職務上出会う「母性」として思い浮かぶのは、刑事事件です。いわゆる凶悪犯と呼ばれる類の事件でも、母親は子どものためにあれこれできることをしてあげて、どこまでも味方になるという行動です。
これに比べて父親は、被害者がいる手前、子どもを許そうとする態度をとることは良くないという傾向があります。
もっとも、大雑把に言った場合の男女の傾向ということであって、女性だとこうだとか男性だとこうだという意味の話ではありません。また、もはやそれは昭和の話であって、現代はそういう傾向すらなくなってきたという方が正解かもしれません。
ただ、この大雑把な傾向、しかも我が子が凶悪犯罪を行ったという極限的な状況における傾向は、「母性」とは何かということを考えるにあたって、有効なヒントになると思うのです。
父親の行動との比較を抽出してみます。
子どもとの関係から見ると、母性にとって最も大切なことは、その子の絶対的感情を守ることであり、それは善悪を超えているということです。これに対して父親は、子どもの感情にも価値を置かないわけではありませんが、社会的な評価ということをより重要視して、社会の中での自分という視点が常に行動を規定してしまっています。「何とか手を差し伸べたい」というのが本音ですが、「それは社会が許さないだろう」という意識に基づいて行動をするわけです。自分が我が子に手を差し伸べないことで、我が子にも自分にも制裁をしているようです。
ここから母性を説明すると、社会という他人からの評価等行動の影響を受けにくく、自分と子どもという人間関係でものを考えるということになるでしょう。
まあ、こういうことを言うと、母性と父親の行動とどちらが優越しているかという議論になることがあります。二項対立的にものを考える傾向が世の中にはあるわけですが、何ら本質的議論ではないと思います。価値観を一つに寄せなければならないなんて言う理屈は無いと私は思います。
ひとつの可能性として、「母性」とは、自分に対する社会的評価(他人からの評価)や子どもに対する社会的評価(他人からの評価)よりも、自分の我が子を守りたいという感情を優先させる行動様式のことを言うのかもしれません。
もう少し発展させて考えると、それは「我が子」だけが対象となるのではないのではないでしょうか。つまりある人に対して、社会的評価を気にしないで、その人を守ろうとする行動様式が「母性」なのではないかと思うのです。
他者の評価を気にしない点において、「母性」は「強い」のです。
他者から見た場合、その人が悪(ないし否定評価するべき行動)であることから、かばわれるべき存在ではないのにかばうということですから、母性はすべてを許しているように見えています。本当はそもそも善悪を超越している、善か悪かを気にしないだけなのですが、そう見えてしまいます。
これは、ヒトの心が生まれたときの男女の社会的役割の違いに由来することです。男性は集団で小動物の狩りを行っていて、女性は老人や病人、子どもを守って植物を採取していたという役割分担があったそうです(例えば、「人体」ダニエル・リーバーマン ハヤカワ)。
男性は、狩り集団の共同行動に価値観を置かないと小動物に逃げられてしまいますので、共同行動、社会的評価に価値を置いて行動するようになっていきました。これに対して女性は、共同して何かの目的を達するよりも、群れから脱落者を出さないことが最大の任務ですから、社会的価値観よりも弱い者を守るという意識がより強くなっていったと考えることが理に適っているように思われます。
どちらも人間が群れを作って生き延びるために必要な行為ですから、価値の優劣などありません。女性が狩りをしなくなったのは、直立二足歩行をする関係で、流産をしやすくなり、それを避けることで出生率を上げるためだと思われます。
この当時は、我が子中心という感情ではなく、群れの弱い者を守るという意識だったと考えても差し支えないと思います。子どもは群れ全体で育てていたからです。
ところが、農耕が発達して、群れが多層構造になり、自分の基本的な群れが、「地域」ではなく、「父母を中心とした家族」に切り離されました。だから、最小単位である家族の中で、特に弱い者として我が子があり、我が子を守ろうという意識にすりかわったのではないかと私は思っています。
現代社会では、「母性」という言葉にあまり肯定的評価が集まらなくなっているように思われます。悪い奴は徹底して攻撃するという風潮が広がっているように思えてなりません。その中で、母親さえも我が子を守ろうとせず、昭和の父親像のように社会的評価を優先して行動する傾向が強くなっていないでしょうか。
深刻なことは、「母性」、母性的行動を行う人がいなければ、社会的に否定評価をされる人は、評価的に絶対的な孤立をしてしまうということです。凶悪犯という極限的状況ではなくでも、社会的に低評価を受けるたびに孤立してしまっていたら、人間は生きる意欲を無くすと思います。生きる意欲を無くすということは人間にとって、生命を放棄するだけでなく、社会的存在を放棄するということも意味します。
母性は家族(人間関係)という機能を全うするツールだと私は思います。今の世の中は狩りをする必要はありません。母性が無くなれば社会が無駄に殺伐として行ってしまうように思えてなりません。