無宗派仏壇作法の勧め 死者と暮らす穏やかな日々 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]
既に何らかの宗教を信仰されている方ではなく、現在宗教を持たない方にお勧めする作法についてお話しします。どちらかと言えば、一人暮らしをされている方に向けてのお話となると思います。ご家族で共通の理解を得ることができれば、ご家族で作法を行うことも良いかもしれません。
これは特別な宗派ではなく、いわば日本人の土着の原始的な信仰というか、心構えみたいな作法をさらに崩したものと言えるかもしれません。
ご自宅に仏壇があれば、仏壇の作法ということになります。仏壇が無くても、語り掛ける的(対象物)があればそれでよいと思います。ただ、写真があれば、なお、イメージが付きやすいので良いと思います。
日本では家族が亡くなったずいぶんあとでも、陰膳を用意するご家庭もあるのですが、私はこれは無理なので、お茶とお水を毎朝新しいものに変えてお供えしておきます。寒い朝でも、こうやってやることがはっきりしていて、自分でもなんとなくやることでプラスになることなので、布団から抜け出して起きて日課をしようという気になるので不思議です。
お茶とお水を変えなければならないというよりも、変えてあげようという優しい気持ちが大切だと思います。お茶はいちいち入れなくてもペットボトルなどのお茶でもよいと思います。
どちらを右に、どちらを左にするか迷う方もいらっしゃいますが、どちらでもよいと思います。何せ無宗派ですから。線香を立てて、おりん(チーンとなるやつ)を鳴らして、位牌、写真、ご先祖様の順で3回手を合わせます。
「おはようございます。」、「行ってまいります。」というわけです。そして帰宅したら夕方は、線香とおりんだけで済ませます。「今日も一日ありがとうございました。無事帰宅いたしました。」とお知らせして感謝します。
自分以外の家族の安全などはお願いしてしまいますが、自分のことでお願いごとをすることはありません。お願い事はしませんが、毎日の出来事、あるいは何もないことの感謝を述べることは意識します。
今生きているのも先祖が子孫を遺した結果ですから、無限に感謝できるわけです。誰かに感謝をするということは気持ちよいものです。自分は一人ではないという気持ちになり、また謙虚な気持ちになって心が落ち着きます。
面白いことに毎朝夕、例えば父親の遺影を見ると、その日、その時によって見え方が変わります。笑っていることもあれば、注意を促しているように見えるときもあります。苦境に立っているときは優しく見えることが多いですし、調子に乗っているときはたしなめる表情の場合が多いかもしれません。「今日はこういう表情なのか」と意外に思って、気を引き締めることもあります。いつもは、ほっと一息入れる時間です。
むしろ家族がいる場合、家族に対して、同じように感謝をする時間があれば、八方うまくゆくのかもしれません。ただ、遺影は反応をしないので、心おきなく感謝ができるということはあるかもしれません。
お茶とお水以外は、お菓子、できれば水菓子をお供えしています。故人が好きだったものを用意するようにしています。私は仏壇にお供えしたものは、期限が切れる前に食べています。なるべく2品くらいは切らさないようにしています。食べ物をお供えするとなんとなく明るい気分になります。
お酒を供えることに対して賛否があるようです。無宗派仏教の場合でも、たとえば故人がアルコール依存の傾向にあった場合は、個人にとってもお酒は本当は苦しいものなので、お供えするべきではないと思います。
私は、お酒を仏壇にお供えすることはありません。ごくたまに仏壇の下にお盆をおいて、一緒に飲むくらいにしています。
死者とお話しする場合に頭に置いておいた方が良いことがあります。どのような方でも、生きているときは、自分を守らなくてはなりませんので、そのための行動があったはずです。自分を守ろうとする時、誰かに対して過酷になってしまうことがあります。いやな側面を見せてしまうものです。
しかし、亡くなってしまえば、自分を守ろうとすることは基本的に無くなります。執着もなくなります。故人の思い出の中の良い部分、優しくされた部分だけを思い起こしながらお話しするべきだということです。それで構いません。
人間が生きているということは、その人単体で生物的に生きているわけではありません。人間関係の中で関係を持ちながら存在するわけです。その人が生物的に命が亡くなったとしても、その人間関係まで無くなるわけではないので、亡くなった方と一緒に生きていくということは自然な話ではないと思っています。遺影で意外な表情を見るたびに、実際もどこかでこちらを見守っているのかもしれないとも感じることが多くあります。