自分を守ろうとすることによってますます対人関係を悪くするパターン [進化心理学、生理学、対人関係学]
<謝罪できない>
謝罪してしまうと、対人関係上不利になってしまうという条件反射的な判断から謝罪すべきなのにしないということがあります。これは、反省ができない人、自分本位な人という評価になり、他者からの評価を下げてしまいます。
・自分が失敗をした時(鍵をかけないで最後に家を出しまった)に、「いや私は確かに鍵を閉めたはずだ。あなたが入った時鍵が閉まっていたことを忘れただけではないか。」と反論するような場合。よくわからない場合は自分の責任と受け止めて謝ることの方が評価を下げない。
・言われた買い物を忘れて帰ってしまったとき、「そんなことを言われてもこちらも忙しいから、そんな思い出す暇なんてない。」と、自分が約束を守らなかったことを正当化して否定評価を取り消させようとする。そんなことをすると余計に否定評価が下がる。謝罪した方が下がり方が少なくて済む。
・最近の物価高の中、家計に入れるお金の増額を要求されたが、賃金は上がらないので不可能な場合、「これで精いっぱいなんだ。本当に申し訳ない。」と謝れば、仕方ないかと思ってもらえる。というかそれしかない。評価が下がってもできないものはできない。それなのに、相手の無駄遣いなどを非難してしまうと喧嘩にしかならない。
・声が大きくて怖いと言われれば、「そうかあ。申し訳ない。気を付けるから、また教えてね。」と言った方がプラス。今後は気を付けるということを言われれば、相手も幾分安心できる。謝らなければ、こちらが嫌がっていることを平気やる人間だと致命的な否定評価をされてしまいかねません。
相手の指摘がもっともかどうかはともかく、自分の否定評価を取り消させようとすると、声が大きくなり、声が大きくなると言葉遣いが乱暴となり、表情も眉間にしわが寄るなど怖くなる。謝り続ければそれで終わるのに、回復しがたいダメージを相手に与える結果となりやすい。
<他人をほめられない>
他人を積極的に評価をすると、相対的にそれは自分ではできないことだということを認めてしまうことにならないかと不安になり、他人を評価できないことがあります。つまり、相手を積極評価すると、相対的に自分が否定評価を受けているような感覚になると思われます。「自分だってそれくらいできるはずだ。」という感覚でしょうか。しかし、褒められるはずの相手は褒められないと、自分は褒めない人間から尊重されていないという気持ちになってしまいます。仲間としての安心感が減少してしまいます。
その人なりに頑張っていれば評価することはやはり大切なようです。
<他人に感謝できない>
他人をほめるなど積極的に評価できないことと大分近いことです。やはり相手に感謝すると相対的に自分が低評価を受けるような感覚になるようです。これは大変もったいない。その人は感謝されればあなたが仲間だという気持ちが強くなります。言葉と笑顔で感謝はまめに形にしましょう。
<他人のせいにする 自分は悪くない>
謝罪できないということと近いことです。自分を守ろうとする余り、他者を攻撃してしまうという、今回のお話の象徴的なパターンです。自分が疑われているのではないかと過剰に敏感になってしまい、やらなくても良い攻撃をしてしまいます。その結果、自分の他者からの評価を下げるわけです。
<他人の悪口を言う 他人を疑う>
自分が低評価される危険が存在しないのに、他人の悪口を言ったり他人を疑ったりすることを誰かに話すということも良くあります。性格が悪いというよりも、対人関係上の危険に敏感になりすぎていることが原因でしょう。こう言う方は、不特定多数あるいは特定の人に対して、慢性的に自分が低評価されるのではないか、愛想を尽かされるのではないかと不安になっているようです。
そして、自分が誰かの悪口を言ったり、誰かにあらぬ疑惑をかけたりして、その誰かが否定評価に同調することで安心するようです。
聞かされる方は苦痛なのですが、もしその人が自分の大事な人であれば、否定はしない程度に同調しておいた方が良いと思います。繰り返しますが、性格が悪いというよりも、対人関係的危険に敏感になりすぎているということで理解した方が良いと思います。もしかしたら、世の中の性格が悪い人というのは、対人関係的危険に敏感になりすぎているということと大分重なるのかもしれません。
いずれにしても、対人関係的危険に敏感になりすぎて、自分を守ろうとし過ぎてしまうと、相手や第三者の尊厳を侵害する危険のある行為をする可能性が高くなるということを見てきました。他者の尊厳を侵害する人は、周囲からの評価が下がるという関係にあると言えそうです。
また、対人関係的危険に敏感になりすぎるのは、体調の変化や、類似の危険が生じている場合等、その人の人格とかかわりのなく、突然に起きることが多くあります。自分のかかわりのない人に対しては、付き合わなければよいわけで放っておいてよいと思います。しかし、家族など大切な人間に対しては、変な発言や変な行動をしても、「もしかして、何かに不安を感じているのではないか。」という温かい目で関わる方が、良い結果となる可能性が高くなると思います。
「自分を守らない」とはどうすることなのか .雨ニモ負ケズとマインドフルネス [故事、ことわざ、熟語対人関係学]
今回の記事は前回の長文記事とセットです。対人関係学からの考察ですので、仏教用語と心理学用語は、それぞれの専門書等でご確認ください。
前回の記事では、トラブルを起こしやすい人は、「自分を守りすぎている」場合が多いということをお話ししました。自分を守らないことが、自分を守ることにつながるという禅問答みたいな話が結論でした。
では、「どうやって自分を守ることをやめるか。」、そもそも「自分を守らない。」とはどういう意味なのかについて今回はお話しします。
人間が自分を守るという場合は大きく分けて二種類の対象があります。
一つは、「身体生命の危険」から自分を守るということ
もう一つは、「対人関係の危険」から自分を守るということです。
身体生命の危険から自分を守るというのは、けがをしないようにする、病気にならないようにする、痛くないようによける等のことで、健康に気を付けるとか体を鍛えるというようなことも入るでしょう。
この意味では自分を守ってよいというか、守るべきだと思います。なぜなら、「生きる」ということはそういうことだと思うからです。
「対人関係の危険から自分を守る」とは、他者からの自分の評価が落ちることを防止する行動を言います。誰かに嫌われないようにするとか、誰かに好かれようとするとか、悪く言えばえこひいきを受けようとか、自分の評価を高くさせる行動をするとかということ等です。この意味で自分を守ろうとし過ぎるからトラブルになるわけです。
この二つの危険を区別することが第一歩で、とても大切なことです。この区別をお話ししようと思ったときに思い浮かんだのが、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」でした。これを注意深く読むと、身体生命の危険から身を守ることは積極的に行おうとしていますが、対人関係の危険から自分を守ることはしないという、二つの危険を区別した生き方が見事に表現されていることがわかります。参考になると思います。
しかし、この二つの危険の区別は難しいことです。危険を感じる感じ方は共通である上に、自分が今危険を感じて不安になっていることは自覚できにくいからです。
20世紀になってようやく脳科学者であるアントニオ・ダマシオが「デカルトの誤り」の中で、二次の表象(対人関係的危険の感じ方)は、一次の表象(身体生命の危険の感じ方)を借用する形で人間が進化の過程で獲得したということを説明しました。脳科学においても、質的に異なる危険なのに、同じ感じ方をしているというのです。
身体生命の危険を感じる能力は動物全般が持っているものです。先ず人間の先祖も進化の過程で「動物として身体生命の危険を感じる能力」を身に付けました。その後人間が群れを作ることができるよう進化する過程で対人関係的危険を感じる能力を身に付けたわけです。ただ、身体生命の危険を感じる能力とは別に対人関係的危険を感じる能力を感じる体の器官を作らず、対人関係的危険を感じる器官は身体生命の危険を感じる器官を借用したとアントニオ・ダマシオは説明しているのです。
言葉の無い時代、身の回りの少人数の群れだけが世界のすべてであった時代、ひとつの群れだけで一生涯を終えていた時代は、このように、身体生命の危険の感じ方(不安になる、焦る、考える間もなく行動する)と同じように対人関係の危険を感じたとしても、特段不都合はなかったのだと思います。
しかし現代社会においては、対人関係的危険を感じて、不安になり、焦り、考える間もなく行動していたのでは、危険を避けられないどころか、危険をさらに大きなものにしてしまいかねません。時代の変化による環境の激変によって、極めて不合理な感じ方になってしまいました。
つまり、現代社会においては、自分を守ろうとすると守れなくなってしまう可能性が増えたということです。そうであれば、極端に言えば、対人関係的な危険から自分を守ろうとしない方が自分を守れる確率が上がる場合が多くなっているといえるかもしれません。
自分を守ることに過剰に行動してしまう人は、自分の対人関係的危険を過剰に感じて、過剰に不安になってしまう人です。こういう人の考え方の修正と行動の修正には弁証法的行動療法が有効だとされているようです。マインドフルネスと言えば聞き覚えのある方もいらっしゃると思います。
全てをありのままに受け入れる訓練ということで説明されているようです。これは、本質的には静かに自分を取り巻く環境と自分の体の動きをただ感じるだけなのです。そうして、個の生物に戻って、身体生命に危険は無いということを実感します。頭でではなく、つまり文字で理解するのではなく、体感で実感するわけです。身体生命に危険はないということが実感できれば、対人関係上の悩みごとがあったとしても、とりあえず「大丈夫生きている。」という気持ちになっていきます。そうして、対人関係的危険があっても、危険に対する不安の感覚を薄れさせたり、なくしたりできるようになっているということのようです。
この説明の方法は、マインドフルネスというよりも禅の効能の説明に寄せているかもしれません。
つまり、対人関係上の危険を感じてしまうと、そんな危険もないのに、深い傷を負うのではないか、死ぬのではないかということに等しい不安を感じてしまうわけです。傷を負わない、死なないということを体感できることによって、対人関係上の危険の不利益をリアルに想定できるようになります。死ぬほどのことではない、それほど大きな問題ではないと理解できれば、落ち着いて対処の方法を考えることができるし、場合によっては対処しなくても良いことを発見することができるようになります。
サンプルについては、長くなりましたので次の記事にします。
試行面会のコツ(久しぶりで我が子と会う場合に必要な知識) [家事]
面会交流調停や審判において、家庭裁判所のプレイルームにおいて、調査官立ち合いで、子どもと別居親が面会をする機会があります。調停によらずに代理人同士が合意して試行面会を行うパターンも少しずつ増えてきました。数カ月ぶりに我が子を直接見ることができる方もいらっしゃれば、何年かあっていないと言う方もいらっしゃいます。
この試行面会で、お子さんが別居親と楽しく時間を過ごすことができれば、その後の直接交流につながることが多くなります。それまで別居親を根拠もなくDV親として見ていた関係者が、子どもが喜んでいる姿を見て、評価が一変するという効果もあります。
試行面会は成功させなければなりません。しかし、概して試行面会が失敗することも少なくありません。それは同居親の子どもへの別居親の悪口の吹込みが主ではありません。そんなことは織り込み済みで試行面会を成功させなければなりません。主として失敗するパターンは、別居親の感情をコントロールできなくなる場合なのです。
<必要な考え方 1>
「試行面会は、自分が子どもに会う機会ではなく、子どもにもう一人の親を知らせる機会である。」
試行面会で失敗するパターンは、
久しぶりで我が子と会うことで感情が爆発してしまい、感情の収拾がつかなくなる。
⇒ 子どもは気が重くなり、罪悪感すら感じ、もう一度会うことがしんどくなる。
子どもの自分への反応が気になりすぎて、拒否されていないかを探ってしまう
⇒ 顔つきが険しくなり、笑顔を作れない。子どもが単純に怖がる。
子どもと会う機会だと無意識に感じてしまうと、子どもの反応に過度に期待してしまい、それが満たされないとがっかりしてしまうということになりかねません。こうなってしまうと、短時間で挽回することは難しくなります。初めから子どもに期待しないという意識をはっきりと持つ必要があります。
発想を逆転することで、失敗を防止する第一歩になります。その上で、
<必要な考え方2>
試行面会は、子どもに自分(別居親)が安心できる存在なのだということを伝える場面だということ
子どもに会えて自分が束の間少し満足をする機会ではなく、子どもがもう一人、何をしても安心できる親という存在があることを知らせる機会であるということです。
久しぶりに親と会う子どもの心理(自覚ない意識)
「自分が別居親と一緒に住んでいないことで別居親は自分を怒っているのではないか(別居時期が幼稚園学齢以上の場合)」
「はじめて会う人だけど、なんか知っているような気がする。気になるが、怖い人かもしれない(別居時期が幼稚園学齢未満の場合)」
これを解消する方法は、1に笑顔、2に笑顔です。
<1の笑顔は>、文字通り笑顔を作ることです。笑顔を向けられることで、自分が許されているとか、自分は攻撃されないという意識を人間は持つものです。この笑顔は、意識して作る必要があります。泣いてしまうことも仕方がないことですが、試行面会がうまくゆく場合は、必死に涙をこらえて笑顔を作り続けている場合です。
<2の笑顔>は、試行面会の部屋で、子どもが関心がありながらもじもじして近づいてこないことが多いのですが、それを解消する方法です。つまり顔だけでなく、そこにあるおもちゃや本を見ながら楽しんでいる様子を見せることです。
「子どもは、楽しんでいる大人に近づこうとする生き物です。」
別居親が太鼓などを楽しそうに鳴らしていると、子どもは好奇心に負けて近づいてくることが多いです。子どもは楽しんでいる人と一緒に楽しもうとする生き物だと考えることも良いでしょう。無理に一緒に遊ぼうと誘うよりも、自分でまず楽しんで遊ぶことで、子どもを引き寄せることが最善の策です。
子どもと近づくことに成功したら、子どもの行動をよく観察して、子どもがしたいことを探り当てて、それを行うということです。自分のやりたいことを承認してもらったという体験はとても貴重な体験です。子どもはどんどんあなたという存在を安心できるものだと認識していくことになります。
先ず別室で子どもの様子を見る機会がありますから、そこで何に興味を持っているかをじっくり観察することも必要でしょう。
そして最後にご自身に言い聞かせていただきたいのは、いつも言っている通り
「昨日も会った、明日もどうせ会う。」という態度で臨むということです。
同居の記憶のあるお子さんは、同居中の楽しかった思い出がよみがえりますし、
同居の記憶(言葉に置き換えられる記憶)の無いお子さんにも、子ども自身の行動を制約しない安心できる存在だという意識づけができるようです。
試行面会がうまくいった別居親のお父さん、お母さんは、エガを作り続けた面会室から真っ赤な目をして出てこられます。強い感情を何とか抑え込んで笑顔を作り、子どもの安心感と笑顔を勝ち取ったのでしょう。壮絶という言葉が思い起こされる精神状態だったと思います。別居親の不利益を跳ね返すための方法はこういう当事者の方々から教わったものです。
学校や職場だけのいじめなのにこの世の終わりだと絶望する理由 転校したり退職する選択肢が無くなる理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]
学校や職場での人間関係に不具合があることはとても辛いことです。しかし、学校は一時期通学するだけですし、助けを求め続けることもできるでしょう。それでも解決しない場合は、自分が精神的に不具合を犯す前に退学することも逃げ道としては考えられることです。職場でも同じで、そのまま苦しみ続けて病気になってしまう前に退職することも理屈の上では可能です。
しかし、いじめやパワハラを受ける人の少なくない人たちは、その様な一過性な人間関係、取り替えがきく人間関係での不具合によって命をなくしています。
職務上多くの事例を見てきた私の結論としては、自ら命を落とした人たちは、その局部的な人間関係の出来事なのに、「すべての人間関係において、これからも死ぬまで同じ苦しみを感じ続けるのだろう。」と考えていたように思われます。
全ての人間関係で、未来永劫苦しみ続けると思うなら、確かに絶望してしまうことでしょう。その永遠の苦しみから逃れるため、絶望というシステムが残されていると言えるのかもしれません。
では、どうして、人生の一部分であり、一日の一部分だけの人間関係の不具合が、すべての人間関係の不具合、未来永劫の解決されない不具合だと錯覚してしまうのでしょうか。
この理由は、人間の「こころ」にあります。人間はすべてこのような「こころ」をもっていて、個性や健康状態の問題は、その悲観的な感情の強弱、つまり程度の問題の違いにしかならないと考えています。
理由を述べてゆきます。
その理由は人間の「こころ」とはそういうふうにできているということです。これは進化の過程で獲得した合理性のあった形なのです。
猿と共通の祖先から人類が分かれて600万年と言われています。人間の心が成立したのは今から200万年前と言われています。その頃の人間は生まれてから死ぬまで、基本的に一つの人間関係(群れ)で一生を過ごしていました。人間が生き残るためには、群れでいることが必要不可欠でしたが、言葉もない時代にどのようにして群れを形成できたかというと、それが「こころ」だったわけです。
その「こころ」とは
誰かと一緒にいたい、いないと不安になる
群れから追放されたくない、追放されそうになると不安になる
追放されそうになることは、自分が否定評価されたり、差別されたり、失敗したり、健康や安全を気遣われない時に感じ、不安になる。
どうやってそのような「こころ」になるのかはわかりませんが
結果としてその様な「こころ」を持った人間たちだけが群れを作って
群れのおかげで生き延びることができました。
その子孫が私たちというわけです。
本来動物は、自由に自己本位に行動したいものです。それでも群ができたのですから、群れから追放されそうになった時の不安は、相当強いものだったはずです。
200万年前のヒトが、追放の予感が強くなり、自分の否定評価などが解消されないことを悟った場合は、やはり絶望していたでしょう。追放されてしまえば、いずれにしても共同で狩猟採集ができませんので飢え死にしてしまうか、肉食獣に捕食されてしまいましたから、早晩命をなくしてしまったことでしょう。不安には根拠もあったのかもしれません。
この不安にいたる「こころ」は、単一の群れだけで生活していた当時においては、個体を群れにとどめることができ、とても合理的に機能していました。
最大の問題がここにあります。現代は、家族、学校、職場、友人関係という意識できて恒常的、継続的な人間関係だけでなく、地域、社会、国家という常に意識しない人間関係、あるいは道路上や商店など一瞬だけの人間とも関わることがあります。また、インターネットを通じて膨大な人間たちともかかわりを持っています。
しかし、人間の「こころ」は、200万年前からほとんど変化していません。単一の群れから複数の人間関係に移行したのだって、農耕が始まった1万年くらい前ですし、これほど多くの人間と何らかのかかわりを持つようになったのも、せいぜい近代化が始まってからです。インターネットに至っては100年もたっていません。「こころ」が進化するには1万年でもあまりにも短すぎるのです。進化の過程で形成された「こころ」ですが、現代の環境とは適合していないし、このために悲劇的な事態を起こしているわけです。私はこれを心と環境のミスマッチと言っています。
だから、ひとつだけの人間関係での不具合であっても、「こころ」は唯一の人間関係から自分が追放されそうになっていると感じてしまいます。一つの人間関係での追放の予感が、あたかもすべての人間関係で未来永劫追放され続けると錯覚するわけです。その不具合を起こしている人間関係だけが自分のすべての人間関係だというようにダメージが大きくなってしまうわけです。この「こころ」は、文字ができる前からあるわけですから、本能であり、イメージだけの感じ方ということになります。理屈が通用しない不安なのでしょう。
不安が起きる前であれば、自分に対する理不尽な扱いをする人間関係ならば離脱してしまおうという思考が可能です。理性が働くからです。しかし、不安が大きくなってしまうと、本能が優位になり理性が働かなくなってしまいます。ただ、不安に苦しんでいるだけの状態になります。理性が働かなくなってしまうために、その人間関係から離脱しようとできなくなります。
本能である「こころ」は200万年の状況を生きるためにできていますので、今追放されそうな人間関係に何とかとどまりたいという必死の思いがあたかも唯一の群れからの追放と捉えてしまい、そこから離脱すればよいという発想になりにくくなってしまうわけです。
本能的思考は、現代社会において、人間関係は取り替えが利くという発想を持たせてくれません。
死ぬまで苦しみ続けるか死ぬか
という不合理な選択肢しか残らなくなってしまいます。
だから放っておくと、個性や体調によって程度の違いがあるとしても、人間は実際の状態よりもはるかに悲観的に受け止めてしまい、最悪の結果が生じる危険のある生き物だとみんなが自覚するべきだと思います。
また、理性が働かない状態になったときは、誰かが外部からその人の行動を制限していくことが必要になると思います。
相手を傷つける言葉を言う時は、言う方は気が付きにくいこと 自分をくすぐってもくすぐったくないわけ [家事]
夫婦の間で相手が傷つく言動のパターンがあります。夫婦だけでなく人間関係全般なのでしょうけれど、今回は夫婦の問題としてお話しします。職場やネット炎上なども同じ原理だと思います。
ちょっと前にこのブログで「余計な一言」のお話をして、何が人間関係で損をする一言なのかと言うと、「言われた相手が、自分が低評価されたと感じる言葉」ということをお話ししました。しかし、そういう言葉、つまり相手を傷つける言葉、不快にする言葉を発する時は、なかなか自分の言動で相手を傷つけているということに気が付かないものです。今回は事件に合わられた言葉に着目してお話しします。
相手を傷つけるかもしれないということに気が付かないことには理由があります。これは、他人にくすぐられたらくすぐったくてたまらないけれど自分でくすぐってもくすぐったくないことと同じだと思います。どうして自分でくすぐってもくすぐったくないかというと、自分のくすぐる行動は、行動する前から予測がつかないからだそうです。他人からくすぐられる場合は、くすぐられることがわかっても具体的な予想がつかないので、くすぐったくなるとのことでした。
発言も同じで、発言の直前コンマ何秒前は、相手に対して悪意がなく、せいぜいイライラしているだけで、「それほど大したことをこれから言うわけではない。」とわかって言いだすわけです。だから攻撃したという自覚を持てないのです。くすぐりで言えばくすぐったくないことと同じです。
ところが、言われた相手は、言葉を出されてから初めて言葉を受け止めるわけです。自分が少しでも否定されてしまうと、自分を低評価しているからそのような言葉を口に出すのだろうと思うことが多くなってしまいます。
事件に現れた言葉
「非常識だろう。」、「そんなことも知らないのか?」、「大丈夫か?」、「どうしてわかんないんだ。」、「がっかりしたよ。」、「子どもだってわかることだろう。」、「ちょっとは頭を使え。」、「ショックだよ。」、「信じられない。」、「使えない。」、
もっとひどい言葉も想定できますが、そこまでひどい言葉はそうめったに発言されていないようです。明らかに悪意がある言葉なのでここでは割愛します。
事件に現れた動作
舌打ち、ため息、眉間のしわ、大きな声、乱暴な言葉遣い、両手をあげてお手上げを示す。
こういう言葉を言われ続けると、自分は相手から低評価を受けていると思い込むようになります。そこから先は、個性に関わらず、自分が子の人間関係から追放される不安が自動的に大きくなっていきます。その人と一緒にいることが息苦しくなっています。
こういう言動をする人は、そこまで考えて言ったつもりはないことが多いでしょう。その人の人格を非難したのではなく、行為の誤りを指摘したと思っているわけです。しかし、言われた方はこのように打撃を受ける危険が強いのです。「顔も見たくない、一緒の空気を吸いたくない。」、街で似た人を見ると凍り付いてしまう。ということになりかねません。
そしてこういう言動に傷つくパターンとして多いのは、発言者が、相手に対して一方的にハードルを設定していて、その設定を超えないことを指摘しているパターンです。わかりやすいかどうか自信がありませんが、たとえばレベル7に達するような行動を一方的に期待しているのです。ところが、言われる方は、そこまでやらなくてはならないという自覚はありません。何ら約束をしているわけでもなければ、そのようなことをしなくてはならないという社会的なコンセンサスも無く、各ご家庭で決めて、各ご家庭なりにやればよいことなのにも関わらずです。レベル7でなくても、レベル3でも2でも良いことが多く、「なんなら」やらなくても良いことを、レベル7でなければだめだと思い込んで相手を否定評価する言動をしてしまうのです。
発言者は常識だと思っていることでも、第三者から見れば「そうかなあ?」と思うことが良くあります。こうすることが合理的なのにしないからという風な弁解もよく聞くのですが、その合理性を追求することで失うものを考えれば、本当に合理的なのだろうかと思うことも多いです。
最悪なのは、何を否定しているか分からないことです。何だか分からないけれど否定評価されているということは大変気持ちが悪いことです。
私もそうですが、自分の言葉を点検した方が良いと思うのですが、それほど強い気持ちで言っていないので、言った方は忘れてしまうということもよくあることです。結構困ってしまいますね。誰か第三者が点検できれば良いのですが、両親と一緒に生活する人も少ないので、なかなか難しいということが実際かもしれません。