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学校や職場だけのいじめなのにこの世の終わりだと絶望する理由 転校したり退職する選択肢が無くなる理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]



学校や職場での人間関係に不具合があることはとても辛いことです。しかし、学校は一時期通学するだけですし、助けを求め続けることもできるでしょう。それでも解決しない場合は、自分が精神的に不具合を犯す前に退学することも逃げ道としては考えられることです。職場でも同じで、そのまま苦しみ続けて病気になってしまう前に退職することも理屈の上では可能です。

しかし、いじめやパワハラを受ける人の少なくない人たちは、その様な一過性な人間関係、取り替えがきく人間関係での不具合によって命をなくしています。

職務上多くの事例を見てきた私の結論としては、自ら命を落とした人たちは、その局部的な人間関係の出来事なのに、「すべての人間関係において、これからも死ぬまで同じ苦しみを感じ続けるのだろう。」と考えていたように思われます。

全ての人間関係で、未来永劫苦しみ続けると思うなら、確かに絶望してしまうことでしょう。その永遠の苦しみから逃れるため、絶望というシステムが残されていると言えるのかもしれません。

では、どうして、人生の一部分であり、一日の一部分だけの人間関係の不具合が、すべての人間関係の不具合、未来永劫の解決されない不具合だと錯覚してしまうのでしょうか。

この理由は、人間の「こころ」にあります。人間はすべてこのような「こころ」をもっていて、個性や健康状態の問題は、その悲観的な感情の強弱、つまり程度の問題の違いにしかならないと考えています。

理由を述べてゆきます。
その理由は人間の「こころ」とはそういうふうにできているということです。これは進化の過程で獲得した合理性のあった形なのです。

猿と共通の祖先から人類が分かれて600万年と言われています。人間の心が成立したのは今から200万年前と言われています。その頃の人間は生まれてから死ぬまで、基本的に一つの人間関係(群れ)で一生を過ごしていました。人間が生き残るためには、群れでいることが必要不可欠でしたが、言葉もない時代にどのようにして群れを形成できたかというと、それが「こころ」だったわけです。

その「こころ」とは
誰かと一緒にいたい、いないと不安になる
群れから追放されたくない、追放されそうになると不安になる
追放されそうになることは、自分が否定評価されたり、差別されたり、失敗したり、健康や安全を気遣われない時に感じ、不安になる。

どうやってそのような「こころ」になるのかはわかりませんが
結果としてその様な「こころ」を持った人間たちだけが群れを作って
群れのおかげで生き延びることができました。
その子孫が私たちというわけです。

本来動物は、自由に自己本位に行動したいものです。それでも群ができたのですから、群れから追放されそうになった時の不安は、相当強いものだったはずです。

200万年前のヒトが、追放の予感が強くなり、自分の否定評価などが解消されないことを悟った場合は、やはり絶望していたでしょう。追放されてしまえば、いずれにしても共同で狩猟採集ができませんので飢え死にしてしまうか、肉食獣に捕食されてしまいましたから、早晩命をなくしてしまったことでしょう。不安には根拠もあったのかもしれません。

この不安にいたる「こころ」は、単一の群れだけで生活していた当時においては、個体を群れにとどめることができ、とても合理的に機能していました。

最大の問題がここにあります。現代は、家族、学校、職場、友人関係という意識できて恒常的、継続的な人間関係だけでなく、地域、社会、国家という常に意識しない人間関係、あるいは道路上や商店など一瞬だけの人間とも関わることがあります。また、インターネットを通じて膨大な人間たちともかかわりを持っています。

しかし、人間の「こころ」は、200万年前からほとんど変化していません。単一の群れから複数の人間関係に移行したのだって、農耕が始まった1万年くらい前ですし、これほど多くの人間と何らかのかかわりを持つようになったのも、せいぜい近代化が始まってからです。インターネットに至っては100年もたっていません。「こころ」が進化するには1万年でもあまりにも短すぎるのです。進化の過程で形成された「こころ」ですが、現代の環境とは適合していないし、このために悲劇的な事態を起こしているわけです。私はこれを心と環境のミスマッチと言っています。

だから、ひとつだけの人間関係での不具合であっても、「こころ」は唯一の人間関係から自分が追放されそうになっていると感じてしまいます。一つの人間関係での追放の予感が、あたかもすべての人間関係で未来永劫追放され続けると錯覚するわけです。その不具合を起こしている人間関係だけが自分のすべての人間関係だというようにダメージが大きくなってしまうわけです。この「こころ」は、文字ができる前からあるわけですから、本能であり、イメージだけの感じ方ということになります。理屈が通用しない不安なのでしょう。

不安が起きる前であれば、自分に対する理不尽な扱いをする人間関係ならば離脱してしまおうという思考が可能です。理性が働くからです。しかし、不安が大きくなってしまうと、本能が優位になり理性が働かなくなってしまいます。ただ、不安に苦しんでいるだけの状態になります。理性が働かなくなってしまうために、その人間関係から離脱しようとできなくなります。

本能である「こころ」は200万年の状況を生きるためにできていますので、今追放されそうな人間関係に何とかとどまりたいという必死の思いがあたかも唯一の群れからの追放と捉えてしまい、そこから離脱すればよいという発想になりにくくなってしまうわけです。
本能的思考は、現代社会において、人間関係は取り替えが利くという発想を持たせてくれません。

死ぬまで苦しみ続けるか死ぬか

という不合理な選択肢しか残らなくなってしまいます。

だから放っておくと、個性や体調によって程度の違いがあるとしても、人間は実際の状態よりもはるかに悲観的に受け止めてしまい、最悪の結果が生じる危険のある生き物だとみんなが自覚するべきだと思います。

また、理性が働かない状態になったときは、誰かが外部からその人の行動を制限していくことが必要になると思います。

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