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【木村花選手の急逝に寄せて】人を追い詰める誹謗中傷は「正義感」からなされていることを意識しなければ、悲劇は繰り返される。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

木村花選手が22歳の若さで急逝された。
死因は分からない。
生前、木村選手のネット配信番組の関連での
とてつもない誹謗中傷があったことが報じられており
その関連を示唆する関係者のコメントが多い。

誹謗中傷の内容を一部読んだが
一つ一つのコメントもさることながら
それが連日多数寄せられていたということを考えると
精神的に追い詰められても不思議ではない。

木村選手の急逝に関しては様々なコメントが寄せられている。
その中でも最も感心したコメントが
WWE(アメリカのメジャープロレス団体)の
ASUKA(華奈)選手のコメントだ。
「渡米するまで数年間、毎日沢山の、死ね、女子プロレスを壊すな、この業界から去れとメールが私の元へきました。そして今日は、他の選手がコメントを出してるのに、まだお前はコメントをださないのか、ときました。自分の正義感に前のめり過ぎて、同類だと気がついてないんですきっと。これが怖い。」

日本人ながら本場アメリカで、多くのファンを惹きつけて
「女帝」と呼ばれる地位にのぼりつめた人のコメントであり、
本質を突いていると感じた。

それは、誹謗中傷というものが「正義感」から始まっている
という真実を言い当てていることだ。
そして、本人たちがそのことに気が付かないために
誹謗中傷はなくならないだろうということも示唆している。

この視点で見ることができれば
多くの識者のコメントが
ASUKA選手の指摘通りに
前のめりの正義感をひけらかすだけであることに気が付くであろう。

このような事態を防ぐために
ネットの言論を厳しく監視し、
行き過ぎた言動を法律で制限しようという提案もなされている。

残念ながら浅はかな主張であると思う。
1 本質が正義感から来るのであるから、自分の行為が法的規制されている言動だとは思わないため、抑止にならない。
2 匿名性を排除する措置をとるなら、自由な言論が制限され、その効果は、政治的な主張が抑制されることになる危険性を考慮されていない。
3 なんでも、国によって管理してもらうという発想は安易である上、国が国民の私生活に介入する余地を広げてしまうことになる。

正義感から人を攻撃するということはよくあることだ。
いじめも、パワハラも、DVも突き詰めれば同じことだ。
正義は人を苦しめ、人を殺す。
このことは以前書いたので、詳細は略す。
「正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-02-18

誹謗中傷が、最初から最後まで悪であり、
誹謗中傷の内容を思いつくことから間違っている
という風に考えてしまえば
対策を立てようがないのである。

誹謗中傷をする人は、
自分は正義を貫こうとしていると思うので、
自分が他者を誹謗中傷しているということに気が付かない。

例えば黒川東京高検検事長が、マージャンをして辞意を表明している。
これに対して、
「訓戒処分ではなく懲戒処分にするべきだ。」
「退職金を支給するべきではない。」
等という懲戒論も、正義感から始まっている。

これを法律家さえも主張しているのだから暗澹たる気持ちになる。
「処分比例の原則」というものが確かにある。
「行った行為の重さ以上の重い処分をしない」という意味だ。
行った行為以下の軽い処分を許さないという論理ではない。
実際の処分は、その人の功績や処分をすることの影響
等を考慮して、処分比例の原則に反しない範囲で
処分者の裁量にゆだねられる。
この軽減する事情は、処分者が一番情報を有しているからだ。

それにも関わらず生ぬるいと言って
30年近くの公務の結果である退職金を支給するなという主張を
平気で行うということだ。
彼や彼の家族の生活が全く捨象されている。
おそらくそれらの主張を声高に叫ぶ人は
そのような主張が認められた結果の相手や家族の苦しみを
全く考えられないのだろう。

漫画家と比較して処分が軽いという主張もある。
一般の人がこういう主張することはある程度やむを得ないが、
法律家がするのは疑問が大きい。
結局は重い方に合わせろという主張だからだ。

世の中は、どんどん個人の感情、個人の利益
その家族の感情について鈍感になっていくことがよくわかると思う。

前のめりの正義感が、
世の中を堅苦しく、相互監視の風潮を強めている。
自分で自分の首を絞めることになるだけだと思う。

今回の誹謗中傷もそうだが、
誰かを守ろうとすると
誰かを攻撃してしまっていることになる。

ネットの書き込みをして誹謗中傷した人たちも
攻撃が自己目的ではなかったはずだ。
出演者の誰かを守りたかったのだろうし、
人間関係を守ろうとしたのだろう。
そして、黙ってはいられないという気持ちから
弱い人たちのために力になりたい
という素朴な気持ちから始まったはずだ。

攻撃している人間が仲間であれば、
仲間のやっていることを非難したくない
仲間を応援しようとして攻撃参加する人もいたかもしれない。

それはやがて、みんなが攻撃しているのだから
自分も攻撃の輪に加わっても、
誰からも反撃されないだろうという意識を生ませる
自分のいら立ちを
彼女を攻撃することで
なだめていたという側面もあったかもしれない。

黒川氏の家族がどんな思いをしてもかまわない
退職金を払うな
と主張することとまったく一緒である。

原理は、いじめも、パワハラも、虐待も同じである。

詩人吉野弘は、「祝婚歌」という詩の中で
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
と歌っているが、全くその通りだと思う。

そう言う自分自身も今回は番組を責める言葉を探してしまっていた。
感情が起きる環境を作って
生身の感情、当然の感情をさらして見世物にするような番組は
人間に対する尊敬が欠けているのではないか。と
さらされた人間はかなりつらい状況に
そもそも初めから追い込まれるようになっていたのではないかと。

自分の放つ正義の大砲は
結果的に誰かに向けられている可能性が高い
だから大砲を打つ前に、攻撃をする前に
誰かを傷つけることになるのではないかという
チェックが必要なのである。

当初の誰かを守ろうとする気持ちを否定する必要はない。
問題は守り方、その方法論にある。

誰かを責めるのではなく
問題提起をするということだ。

誰かを責めることなく
問題の解決を目指すという
大人の社会に早くならなければならないと思われる。

「正義と悪の二者択一的な価値判断を当然のこととして
無邪気に仮想敵を攻撃すること」
に疑問を持たなければならない。
そのような行動に対しては
眉をひそめ、軽蔑する社会の風潮が必要だ。



木村花選手は典型的ではないにしろ
ヒールとして活躍した選手だとのことである。
誹謗中傷という反響は
彼女の勲章だったはずだ。
それだけで彼女が自死したとは考えにくい。

おそらくその誹謗中傷と何らかの関連をもって
自分の将来を悲観しなければならない出来事に直面し、
相談することによって、誰かを苦しめてしまうことになることを気遣い、
誰にも相談できない孤立に追い込まれたのだと
考えている。

また、頭では自分の活動が成功しているということを理解できても
22歳という年齢から考えると
そう理性的にばかり受け止めることは
とても難しかったということはもちろんあるだろう

もし、彼女自身が、
彼女を非難している人たちに
うっかり共鳴してしまい、
誹謗中傷者の視点で
自分自身を評価してしまったらと思うと
恐怖すら感じてしまう。

結果的にであれ、
他者を攻撃することは
それが最悪の事態を生むことがある。
このことを私たちは忘れるべきではない。


*****


私は、
彼女のことは、おそらくデビューして間もないころしかわからない。
薄いピンクのフードと肩掛けのセットを身にまとってリングに登場し、
スラっとした長い手足で、およそレスラーっぽくない外見だった
アジャコング選手や、里村芽衣子選手と無謀にもブッキングされ
とてもかなわないながら一生懸命エルボーを打っていた姿しか覚えていない。
アジャ選手や里村選手が彼女を、
一人前のレスラーとして育てようとする愛情も感じられた。

その後彼女は団体を代表する選手に育ち
次世代の女子プロレスの目玉選手として
団体の枠を超えて期待されるまでに成長していたようだ。

母親のお人柄ということもあるのだろう
たくさんのプロレス関係者から大切にされていたようだ。

一プロレスファンとしても残念でならない。

母上の木村響子様、木村花選手を大切に思っていたプロレス関係者の方々には心よりお悔やみ申し上げます。
木村花選手のご冥福をお祈り申し上げます。

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孤立の危険性 自死リスクとは何か 3 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


 自死が起きる場合、孤立が必ず起きている。しかし、どういう意味で孤立なのかということは難しい。例えば高齢者の自死は、一人暮らしの場合よりも同居家族がいる場合の方が多いという統計もあるようだ。物理的に近くに他者がいるということをもって孤立ということにはならないということになる。家族と同居していないという孤立も十分に自死リスクになると考えるべきだが、家族と同居しているのに自分が尊重されていないと感じることの方がリスクとしては高いようだ。
 人間はどこかの集団に帰属したいという本能がある。しかし、集団に帰属するとはただ物理的にその場にいることではなく、仲間として尊重されていることを求めるようだ。仲間として尊重されていないと、その集団から排除される危険を感じてしまうと構成すれば基本はどこかの集団に帰属したいということで良いのかもしれない。
 孤立がどのように自死リスクになるのかについて検討する。
 一つは、物理的孤立自体が、どこかの集団に所属していたいという人間の本能的要求を満たさないことにある。心理学者バウマイヤーは、それ自体が人間の心身に不具合を発生させるとしている。
 二つ目は、心理的孤立、つまり身近に人間は物理的に存在するが、自分がその身近な人間たちから人間として尊重されていないことも、所属からの追放ということを感じさせるという論理からも、それ自体が自死リスクを発生させる。また、人間が集団から尊重されて存在したいということが人間という動物の属性であるとする立場からもそれ自体がやはり自死リスクの端緒となる出来事である。
 以上は、孤立それ自体が自死リスクを発生させる端緒となるという説明である。これとは別に、既に何らかの事情で発生している自死リスクをさらに高める事情としても孤立を考える必要がある。
 孤立の具体的弊害は、思考が解決に向かわない。あるいは悩んでばかりいて考えることができない状態に陥ることだ。味方がいるということ実感することによってわずかの時間でも、無思考状態の悩み時間を中断し、思考を始めるきっかけになる。あるいは思い違い、過大な悲観傾向を是正してもらえることは貴重だ。人間はなかなか自分の誤った思考を自発的に修正することが困難だからだ。
 孤立は、自死の危険に無防備にさらされることを意味する。何ら解決に向かう要素が無くなり、絶望を感じやすくなる。
 また、援助者がいることを実感すること自体で、安心感を獲得することもある。これは自死リスクを低める。具体的な自死予防の介入をする場合(インターセプト)、直ちに自死の要因になった出来事を解決できない場合でも、味方がいるということを実感していただくことによって自死リスクを軽減させるという手法がとられる。
 孤立の有無は判断が難しい。
 客観的には孤立していない場合、あるいは孤立していない集団があるにもかかわらず孤立を感じてしまう。例えば学校や職場では孤立しているが、家庭では孤立していないという場合がある。学校や職場は最終的にはやめればよい集団であり、絶対的な存在ではない。それにもかかわらず、一つの集団においてだけであっても孤立を感じてしまうことは人間にとって極めて有害である。職場や学校その他の自死事案や精神的なダメージを受けている案件をみると、人間は帰属するすべての集団において円満に尊重されて帰属したいと思ってしまうようで、これは人間の本能であるようである。支援の場合は、家庭などの安全な集団に帰属していることを繰り返し刷り込んでいくという作業が必要になる。病的に孤立を感じ悲観的傾向が出ている場合は医療機関での治療の必要性を直ちに検討しなければならない。
 また、安全な集団の中では、他の集団で孤立していることを知られて心配をかけたくないという心理が働くのが多くの人間で観察される。孤立の情報は、支援をしたい資源に届かないということが実情である。その心理はさらに有害な効果を生んでしまう。学校や職場で自分が孤立していることが、家族に申し訳ないという負担感を生んでしまうことが多いということだ。仲の良い家族は、孤立解消の方向に働くよりも、むしろ孤立を深めてしまう事情になるということを支援者は決して忘れてはならない。
 さらに「自分が孤立を感じていること」を自覚することもなかなか難しい。別の相談を支持的に対応しているうちに、本当の悩みが浮かび上がってくることが多い。例えば、朝になると吐き気が起きるとか、足の筋肉が機能しなくなるなどの症状が最初の主訴だったりするが、よくよく聞いていくと、それは出勤しようとすると拒否反応として起きるということがわかり、実は重篤なパワーハラスメントを受けるなどして職場で追いつめられている場合がある。労働者にとっては、パワーハラスメントが職場では当然の業務行為であると思いこんでおり、合理的な解決を志向できない状態に陥っていることがある。まさに孤立である。


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解決不能の感覚の有害さ 自死リスクとは何か 2 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



自死者の事件を担当して、後追い的に自死の調査をすると、必ずと言ってよいほど出てくるのがこの解決不能の感覚である。
毎日毎日会社に行かなくてはならないのだけれど、行けば必ず自分は侮辱されたり叱責されたりする。なんとか叱責を受けないようにと細心の注意を払っているが、自分の思いもつかないことで叱責を受ける。過去のことで叱責を受ける。言い訳をするとまた叱責される。誰も見てみぬふりをして助けてくれない。自分が仲間として扱われることは不可能で、このまま苦しみ続けるか死ぬしかないと思い込んでしまう。
毎日毎日に学校に行かなければならないのだけれど、行けば必ずちょっかいを出される。普通に席に座り授業受けたいのだけれど、必ずからかわれる。部活動も自分には向いていない。できないものはできないのだけれどやらなければならないと叱責されるでもどうやればよいのかは誰も教えてくれない。部活動に行きたくないから先生から叱られることを覚悟で家に帰ると、先生だけでなく、友達からもラインで非難される。ひそかに好感を持っている女子の前で恥ずかしい思いをさせられて逃げることができない。自分はほかの子ができることができない。これでは、将来、良い学校を出て良い会社に入って、安定した生活を送り、結婚して家族を作るなんてことは不可能だ。このまま生きていてもこの苦しみが続くだけなのかもしれない。
家族が自分から離れていった。自分としては、生まれてきてからずうっと暮らしていたスタイルのまま生活を続けていた。自分なりに愛情もかけていた。もちろん口論になったこともあるが、暴力なんてしたことがない。家族のために自分はつらい仕事もこなしてこれたし、自分を捨てても家族を守ろうとしてきた。生きる意味が家族と生活することだということも実感してきた。それなのに、理由らしい理由も言わないで、少なくともこちらが納得する理由も知らされず、自分は家族から追放された。何とか修復を試みようとしたが、もはや直接話をすることができない。警察や弁護士は身に覚えのないことで私を非難してくる。裁判もありもしない事実を認定して、私を極悪人のように評価した。理解をしてくれる人はいるけれど、家族との関係の修復に向かう道筋が全く見えない。なぜ、ここまで自分が否定されるかが全く理解できない。何のために生きていけばよいのか分からなくなる。

自死リスクが高まる解決不能の感覚とは、一つには、このように、自分の大切な人間関係の中で自分が望むポジションに復帰したいという本能が前提にあり、それが不可能だという感覚である。
自分が大切な人間関係の中で自分の望むポジションにあり続けたいというのは人間の本能であるようだ。そのような本能があるために、人間は群れをつくって生き延びてくることができた。
大切な人間関係はあくまでも主観的なものである。あるいは社会や家族、学校によって大切だと思いこまされている場合がある。また、意識はしていないが、家族のように本能的に大切にする人間関係もある。

自死リスクが高まる解決不能は、このように対人関係的な解決不能の感覚がある場合が多い。また見過ごされてしまう。例えば、会社や学校で解決不能の感覚があっても、家族の中では尊重されているという場合、家庭では穏やかに生活していることが多い。また、大切な家族にだからこそ、心配をかけたくなくて無理に平静を装うということも行われる。解決不能の感覚が継続すると、感情の平板化も起きる。悲しみを拒絶する状態であろう。いじめても苦しまない姿を見ていじめがエスカレートすることもある。大切なことは、その人の対人関係的な状態の情報を獲得して、何らかの解決不能の状態にある場合は、速やかに改善することが必要だということである。苦しみや悲しみの表情をまったり、援助希求を待つということは自死予防の観点からは非現実的な要求であり、対策としての意味はない。

解決不能の感覚は、身体生命の不安でも起きる。むしろこれが古典的であるかもしれない。ある例を出すと、高齢の女性ががんを告知された。ただし手術をすることで命には別条がないとのことであった。それでも、その女性は、がんであり放置すれば死亡すること、そうならないためには手術をしなければならないことが恐怖となった。おそらく、手術をしなくても天寿を全うしたいという願いを抱いたのだと思う。それは実現できないということで、解決不能の感覚を抱いてしまった。女性は自死をした。死の恐怖に耐えられないから自死をしたのである。矛盾するように聞こえるかもしれない。しかし、解決不能の感覚がいかに人間にとって有害なのかを示す事情になると思われる。
解決不能の感覚はそれだけで自死をするわけではないと思う。解決不能の感覚を抱くと、逆に解決の要求が高まってしまうところにポイントがある。解決の要求が過剰に高まると、解決の要求が生きる主目的になってしまう。この要求が実現されれば死んでも良いという行動様式にならされてしまうようだ。人間の行動様式は必ずしも合理性を極めているわけではない。冷静に考えると不合理なことだが、本人は不安の解消だけを渇望しているのでそれに気が付かない。
不安は自然に湧き上がってしまう。安心は繰り返し繰り返し刷り込まないとなかなか獲得できない。冷静な第三者の目で、そんな心配をしないだろうとか、死にたくないというのだから自死はしないだろうと考えることは大変危険なことである。
自死は、これらのように、本人の合理的意思に基づく行動ではない。本人の感情や援助希求を待って行動するのではなく、客観的自死リスクが認められればその手当てをすることなしに自死予防は十分なものとはならないだろう。

一番わかりやすい自死予防は、解決の目的を捨てることだ。私の依頼者や相談者の例を挙げると、転校して能力が開花してその学校にいる場合よりも豊かな人生を送るということがとても多い。転職も人によっては同僚に恵まれて生きる糧になることも多い。「こうでなくてはいけない。」というこだわりを捨てることでとても楽に平穏な生活を手に入れることがある。これは緊急避難でもある。問題は支援者が自分の価値観で、その人が解決の目的を捨てることを妨害することだ。一人前の人間が転職するということはだめだとか、自分が悪くないのに転校してはだめだとか、そういうことで苦しみが終わらないのは本人である。私は、本人がそれでよければ、家族は本人を信じて納得しなければならないのだろうという場合が多いように思われる。
ただし、死別と離別とを問わず、家族を失った苦しみ、家族との関係を修復したいという解決要求にどのように働きかけるかということはとても難解でそれこそ解決困難である。当事者との話し合いで学んでゆくしかない。これまでの中間報告的なヒントらしきものがあるとすると以下のことである。即ち、一つは、どうして死別や離別に至ったのか、結論に至る前の方法論や別れに至る経緯についての考察は、残された者が抱く絶望を緩和する場合が少なからずあった。過労死遺族であれば、労働実態を調査検討し、過労死や自死に至った流れの可能性が明らかになる場合。あるいは離別の場合は、相手方の要因とこちら側の要因について、その流れと、それがどちらかが悪意があったということがない場合でも起きるということが理解されれば解決不能の感覚が緩和されることがある。ただし、いずれも、本人が積極的に解決不能の感覚から逃れたいという希求がなければ奏功しない。無理やり悲しみを解消させることが許されている人間は存在しないということも肝に銘じるべきであろう。
また、その流れに納得した場合、失った家族は帰らないけれど、他者に同じ苦しみを味あわせたくないということで社会運動に立ち上がる人たちもいる。とても人間らしい活動であると感じている。

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自殺の落差理論仮説 自死リスクとは何か 1 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



1 自殺の落差理論の概要
「自殺の落差理論」とは、自殺は経済状態が苦しいとか、生活が苦しいという、状態の継続によって自死リスクが高まる以上に、これまでの人間関係が維持できなくなるという動きの中でよりリスクが高まっていくという理論である。
人間は、現在その者が置かれている人間関係を維持しようという本能がある。現在の人間関係にとどまることができなくなることは人間にとって極めて深刻な効果をもたらす。日本語でも、「顔がつぶれる」、「立場がなくなる」など、人間にとって打撃のある事態を人間関係の喪失の形で表現する言葉が多い。これは、言葉というものが長い時間をかけて人間の本質を言い当てた結果という性質を持つからだと思われる。
この場合、必ずしも人間関係の所属自体を失うという意味にとどまらない。同じ人間関係の中での自分の評価が地に落ちるような場合も含まれる。形式的な所属ではなく、人間関係の中の自分のポジションということがわかりやすいかもしれない。
2 自殺の落差理論で説明が可能な現象
例えば、家族の中で収入を得て養う立場の男性が、失業して収入を家庭に入れられなくなったというような場合。政治家が失態を犯してしまい、国民の支持を失う場合。自分の失敗で、会社に大きな損失を与えてしまったなど。
この自殺の落差理論は、さまざまな事象をうまく説明できる。
例えば、つい最近、日本は自殺者数が3万人を超えていたが徐々に減少してきた。生活しやすい環境になったのかという問題がある。これに対して自殺の落差理論はこれに否定的に考える。即ち、自殺者数が3万人を超え始めたのは平成10年である。それまでのバブル時代が崩壊し、証券会社などが倒産し、消費税も増税された。バブル時代やその残遺効果があった時代から、様相が一変した時代ということになる。つまり生活状況の落差があったので自死リスクが高まったという説明である。その後は、周囲も同様な生活苦が生まれたのと、生活苦に順応したという事情から自死者数が減少したと説明することが可能である。即ち自死者数は、生活状況を必ずしも絶対的に反映したものではないということである。
また、弁護士業務の中で自死者が多い類型は、多重債務、家族問題、そして刑事事件の被疑者、被告人である。刑事事件の被疑者被告人は、これまで社会の中で人間関係を形成してきたが、刑事事件で逮捕され、犯罪者とされたことから、これまでの人間関係が維持できなくなる。犯罪者として周囲から相手にされなくなるなどの変化が生じたことをとらえて自死リスクが高くなると説明することができる。
多重債務についても、危険なのは返済が苦しいこともあるが、どちらかというと破産者などの評価が下されることによって、社会的な立場が失われてしまうという人間関係維持の観点からの最高性が必要であろうと思われる。弁護士など債務処理をするものは、このような自死リスクに配慮して、今後に希望をつなぐ形での処理を心掛ける必要があるということになる。
3 自殺の落差理論を実践する際の注意点
どちらかというと、年配の者はこれまで自分の努力で気づいた人間関係の中のポジションが失われると認識する場合が自死リスクが高くなる。これに対して若者は、将来に向かって自分が描いた人間関係を築くことができないという形で自死リスクが高まる。この点を見落とすと、若者の自死予防は奏功しないだろう。
今の人間関係にとどまりたいという要求は、その人にとってふさわしくない人間関係が形成されている場合も発動してしまう。あまり能力も適性もないのに、注目されて、祭り上げられてしまったに立場であっても、ひとたび肯定的に迎え入れられると無理をしてでもその人間関係のそのポジションにとどまろうとしてしまう。無理な立場を維持しようとすること自体で、既に自死リスクが生まれ始めている。偶然試験に受かって、学校なり職業なりについて、周囲は大喜びしてくれたが、実際は周りについていけなくなって負担感ばかりが生まれている場合などが典型である。
侮辱や不公正な評価、攻撃ばかりを受ける人間関係も同様である。この場合、状態の継続であって動きがあるわけではない。しかし、このような尊重されない人間関係は、恒常的にその人間関係からの放擲を予知させる。動きは、実際に起きるよりも、動きを予感させることが精神状態に深刻な打撃を与える。結果が表れてしまえば、案外楽になる。ところが、自分が解雇されそうだ、仲間外れにされそうだ、犯罪者として非難されそうだ、離婚されそうだという予知の方が、底の割れない不気味さというか、想像の中で悲観的な結末が実際よりも大きなものとして想定されてしまうようだ。
良い意味でも悪い意味でも、その人にふさわしくない人間関係からは離脱することで精神的な負担は軽くなる。ただ離脱を進める場合も、離脱自体は、本人にとってかなり負担であり、打撃であることを理解しなくてはならない。どんなにひどい会社でも、どんなにひどいいじめがあっても、その人間関係から離脱するということはなかなか心理的抵抗があるものである。人間とはそういう行動傾向のある動物のようである。
自殺の落差理論だけで自殺のすべてを説明できるわけではない。隠された自死リスクを抉り出すための理論として考えていただければ幸いである。

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【コロナ自殺対策への提言】 自死の危険が高まるのはむしろ経済回復期。独自の対策チームを作り今から始動させるべきこと。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



コロナに関する自死の懸念、自死予防の声が上がり始めています。
ネットニュースでも大きく取り上げていただいています。
大切なことだなと感じています。

ただ、その論調が、どうしても
経済的苦境からの自死、あるいは
経済的苦境と環境の変化からの「うつ」そして自死
という流れが強調されてしまっているという心配もあります。

その流れはそれで正しいことであり、大切なことです。
でも自死が起きるのはその流れだけではありません。
私が心配しているのは、
自死の危険が高まる時期は、
経済が回復しはじめた時期に集中するということで、
その時に実施されるべき対策が見落とされてしまわないかということです。

それは「なぜ人間は自死するのか」ということとかかわります。

一番の教訓は、
東日本大震災の時には被災地では自死が減っていたという現実です。
その後、復興期に入って居住環境の変化等によって
自死リスクが逆に高まってきたという事実です。

そこにあった自死リスクを高める要因は「孤立」だと思っています。

東日本大震災の時も、今回のコロナの問題も
自分だけでなく周囲も、自分と同じように苦しんでいます。
苦しいのは自分だけではないということを感じていると思います。

このみんな一緒という観点は厳密に考えると間違いで、
実は東日本大震災の時も
津波被害があった地域となかった地域
地震の被害が強かった地域とそれほどでもなかった地域
マンションにおいても高層階と中低層階というように
被害格差が心の火種になっていました。
それでも、同じ被災者としてみんな苦しんでいて
みんなで頑張ろうという声掛けもあり
格差は感じていたものの孤立はあまり感じなくて済んでいたようです。

孤立感が強くなったのは
みんなが順調に復興しているのに自分だけ立ち上がれない
復興住宅ができて引越ししたため、話ができる人がいなくなった
自分の被災の苦しみをもう誰も聞いてくれない、理解してくれない
という自分だけが取り残されたと感じる時だったわけです。

自死リスクは「孤立」という観点からも考えられるべきだと思うのです。
孤立解消の自死予防政策を考えるにあたっては
感じる格差に対する対応だという側面をはずしてはなりません。

もちろん、収入がない、食べていけないという問題は
自死リスクを高めます。
しかし、食料がないけれどみんなと一緒に我慢するという意識は
孤立感を弱め、何とか生きようとする気持ちを保たせる方向にも進みます。
(但し生物的に我慢が効かなくなるというよりも
自分の家族にひもじい思いをさせるということから
精神に破綻をきたすということもあるでしょう。)

しかし、非常事態宣言の時期にやることはそう変わりません。
食べられて、寝られて、将来の不安を感じさせないということを
やるしかないと思います。
そのすべてが自死予防になるわけです。

新型コロナウイルスの問題は
誰も経験したことの無い災害ですから
対症療法的な政策や政策の変更がある程度起きることは仕方がありません。
とにかく、人間の生活の営みを維持するという観点さえあれば
そう間違った政策は起きないでしょう。

問題は、新規感染者数が減少して
経済活動が再開される時期です。
コロナの影響を最小限で食い止めた人たちと
経済活動が再開されても生活が回復しない人たちが生まれてしまうと
格差が生まれて孤立感を強めてしまい
自死リスクが高まるということが
歴史の教訓だとされるべきだということを強調したいのです。

だから、回復期の政策こそ慎重に立案されるべきです。
回復期こそ、意識して、回復の格差を作らず
孤立感が生まれないような
政策をしていくことが必要なのです。

現在の対症療法的試行錯誤政策立案とは別に
専門的な自死の構造についての理解を前提とした
格差と孤立を解消するための
政策立案チームを作り、そして始動させる必要性があると思います。


現在、やるべきことの実験が既に行われています。

本当は、今回の新型コロナウイルス対策は、
人々のつながりが物理的に遮られているところですから
そういう意味では、元々孤立になりやすい状況にありました。

その中でも、
仕事をシェアしたり、無駄な一斉行動をやめにしたり、
情報を共有する方法を工夫したりと、
人間の知恵と工夫が既に始められています。

政府としては良い情報を収集し、蓄積し、
実践しやすいように再構築したり
費用の問題を解決したり、
あるいはそこから置いてきぼりにされている人たちについて
どういう人たちがいて、どういうふうに対処できるのか
早急に対策を立てなければならないと思っています。

例えば、SNSを使ったコミュニケーションは
仕事をしている年代の人たちには簡単にできることでも
高齢者にはなかなか手が出ません。
機材をそろえることさえ困難でしょう。
高齢者はどうやって孤立感を解消したらよいのか
等、難しい問題があります。
やはり人的資源を整備して活用するしかないのでしょう。

回復期は格差を強く感じ始める時期です。
置いてきぼりの人は追い詰められていると考えるべきでしょう。

別建てでチームを作り
今から対策を講じ始めるべきだと考えています。
間もなく回復期が始まります。
その時になってからでは遅いのです。


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【支援者・専門家向け】災害がなぜ自殺に結びつくのか。私たちは何を防ごうとするべきか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


(本件の論証めいた説明は「対人関係学」のホームページで行っています。ここでは、結論だけを示しています。)

1 新型コロナウイルスと自死との関係を債務の問題だけに直結しないことが必要だということ

東日本大震災の経験をした地域では、新聞などでコロナの問題に絡めて自死予防が語られています。これはとても大切なことだと思います。
但し、自死予防の対策として、債務の支払いの問題ばかりがクローズアップされてしまっているという印象もあります。支払いに苦しむことが自死の要因になるということは、弁護士アンケートで、自分の依頼者で自死者や自死未遂者を経験した業務分野がやはり債務問題であるという結果が出たことからも裏付けられていると思います。しかし、債務があっても自死しない人が大半なのです。債務がなくても震災と関連付けられる自死はあるわけです。
もう一つ、統計上は債務の問題と自死の問題が関係づけられるとしても、債務から一足飛びに自死をするわけではありません。私たちの業務分野においては、債務から刑事事件につながったり、債務や貧困が遠因になって離婚につながったりというような関連もあると感じています。即ち、何らかの原因があって、人間は様々な反応行動を起こしてしまうようです。その究極の形が自死だと位置づけるべきだと考えています。実際に、統計分析をすると、自死、犯罪認知件数、離婚、自己破産件数、そして失業は、有意的な関連があります。
つまり一つの仮説として、何らかの要因があると、人間は様々な社会病理的行動を起こす。その極限的な形が自死であると考えるべきだろうと思っています。そうだとすると、自死予防にしても、多重債務にしても、あるいは刑事事件にしても、離婚にしても、共通の原因に対して働きかけることが有効であるということになりそうです。

2 自死その他の社会病理の原因は、不安の持続にあるということ

では、その共通の原因とは何でしょう。
弁護士として、私は、過労自死やいじめ自死の問題を扱い、離婚事件を扱い、刑事事件を扱っていますし、かつては人並みに多重債務の問題を扱ってきました。それらの予防の観点からの仕事も多く手掛けています。これらの行動の共通項は、行為時の思考力の低下です。もう少し具体的に言うと、自己の行動によって将来どのような結果が生じるかという考察ができない、他者とのかかわりを意識できないため自分以外の人間に不利益が生じることを意識できない。自分を守らなければならないという意識が強く働き、これが様々な形で行動の動機となり、かつ、行動を思いとどまることができない要因になっているということが特徴です。
さらにこれを掘り下げてみていくと、その人に自分を危険から守るべきなんらかの理由が生まれていて、不安を感じている。ここでいう危険は、身体生命の危険もありますが、多くは自分の評価が崩壊する等と言った、他者との関係の中での自分の立場のようなものであって、究極的には自分が孤立するという対人関係的危険です。この危険に対する不安を解消したいのだけれど、解消することができず、不安解消要求がいやがうえにも大きくなってしまっている。何らかの理由で、この不安解消を迫られていると感じてしまい、益々不安解消要求が大きくなってしまう。その結果、普段の状態でも焦燥感、閉塞感、孤立感に苦しんでいる。思考は二者択一的になり、悲観的になっている。この状態に陥ると、すべてが自分にとって悪いことだ、あるいは状態がさらに悪くなるという過敏な心理状態になり、さらに不安も感じやすくなるという悪循環に陥るようになるようです。この結果合理的な代替行動を思いつくことができず、身近な不安解消行動に出てしまう。お金はないけれど借金やカードで物を買ってしまうとか、人の物に手を出してしまったり、万引きを止められなかったり、相手を悪く思って攻撃してみたり、このブログでよく取り上げている配偶者を信じられなくなり、むしろ自分を攻撃する存在だと思ってしまうとか、逆に子どもを攻撃してしまうというような様々な社会病理につながるのだと思います。

3 債務から自死に至る経路のいくつかのパターン

債務の問題にしても、この観点から説明するべきなのでしょう。支払いができないほど借り入れをしてしまったり、通常なら返済できるのに失業してしまって支払いができなくなったりという客観的状況が生まれます。そうすると、まじめで責任感が強い人ほど、支払わなくてはならないという意識が生まれます。その結果借り入れして支払いをして利子を二重三重に支払うこととなり、何時しか返済が不能という状態に追い込まれます。これが自己破産の最盛期の平成10年代の自己破産の実態でした。不可能な支払いをしなくてはならないという意識が、慢性的な不可能感を呼び起こすようです。支払日の3日前ほどになると、どうやって次の支払日の支払いをしたらよいのだと眠れなくなる人が多くいました。そして、ついに支払い不能を実感すると、今度考えることは自己破産などをすることによって、自分の社会的評価が下がるという心配でした。ここでいう社会的評価というのは、例えば弁護士のように破産をしたら資格を失うという職業ではない限り、あまり自己破産が表ざたにはなりません。戦前の制度の話をどこからか聞いてきたのか心配する人が実に多かったです。選挙権が無くなるとか、移動を制限されるとか。しかし、その人たちと話しても、選挙に行くことができなくなっても特段苦痛を感じないし、海外旅行に行く予定などないということなので、現実的な具体的な心配ではないのです。もっとも強い心配は、家族に知られてしまうことでした。いずれにしても、対人関係的心配ということが主としてありました。その結果、判断力を失い、危険だとわかっていながらヤミ金等に手を出していくわけです。

4 自死に向かう悪循環と希死念慮

つまり、人間に社会病理的行動を起こさせる思考力の低下の原因は、自分を危険から守る手段がないという不可能感、そしてそれが長期にわたって持続することにあると思います。その結果としての孤立感と眠れないという睡眠不足がますます思考能力の低下を招くのだと思います。そして、その結果、将来的な因果関係や他者と自分の正確な関係の把握が困難となり、焦燥感と悲観、二者択一的思考のスパイラルに陥っていくのです。
自死を企てて未遂に終わった何人かの人と対話をしたことがあります。苦しみ続けて出口が無くなると、死ぬことを思いつくそうです。死ぬというアイデアが浮かんでしまうと、それがほのかに明るく、温かく感じられるそうです。そうしてやがて、自分は死ななければならないという強い強迫観念が生まれてくると言います。希死念慮というのは、世間で言われているより強烈なもののようです。
例えば会社でパワハラを受けている人は、そんなに苦しむなら会社を辞めればよいと誰しも思うでしょう。パワハラを受けて反発しているときは、その人もいつでもこんな会社辞めてやると考えていたと言います。しかし、後で考えると明らかにうつ状態になっていたという時期になると、不思議と会社を辞めるという考えを持てなくなっていたそうです。このまま苦しみ続けるか死ぬかという

5 自死対策は死なないための対策ではなく幸せに生きるための対策であるべきこと

二者択一の選択肢しかなくなるようです。
私は少し意地悪く考えているのかもしれません。どうも自殺対策というと、人が死なないようにする対策だと考えている人たちが多いように感じるのです。しかし、不安と解決不能感と孤立が多くの社会病理の原因だとすると、その解消手段、目についた解決方法に飛びつくということは、けっこう偶然の要素が多きように思われるのです。たまたまその人は万引きをしてしまったけれど、一つ間違うと自死をしていたとか、たまたま自分の苦しみのすべての原因は夫であると思って離婚したけれど、事態をきちんと把握していた自死をしたかもしれないとか、たまたま死なないで済んだという可能性があります。また、多重債務、離婚、犯罪等、不安解消行動の結果、それが新たな解決不能感の原因になり、自死の要因になるということも簡単に想像できることだと思います。死ぬかもしれない状況に置かれてから対策を始めても、効果のある対策はなかなか難しいというのが実感ではないでしょうか。死ぬことの防止ではなく、生きることの支援だということは、その意味で正しいと思います。
私は、もう一歩前に進んで、幸せに生きるということをもっと喫緊の課題として考え始める時期になっていると考えています。

6 新型コロナウイルスの危険性が不安の持続と過敏になりやすい要因を作っていること

現在の新型コロナウイルスと、自死の関連についての問題に移りましょう。
新型コロナウイルスの不安は、どのように感染するのか目に見えないということと、なかなか終息しないというところに特徴があります。日常生活を送っているだけで、感染のリスクがあるように感じてしまう。それがいつ終わるかわからないから、通常の生活をすることができない。ひとたび感染すると入院を余儀なくされ、場合によっては命を落とすこともある。リスクに正面から向き合ってしまうと、そこから解放されたいという要求があるにもかかわらず、解放されるための手段がないという典型的な悪循環に陥りやすいパターンになっています。そうすると、不安解消要求が高くなってしまい、あらゆる不安に過敏になってしまう可能性があります。新型コロナ感染の不安は、純然たる身体生命の危険に対する不安ですが、それが対人関係的な不安を引き起こしやすくなるということです。さらにこれが持続し、睡眠が十分取れないということになると、思考力が低下し、焦燥感と悲観的傾向が表れ、二者択一的思考、将来の因果関係を考慮できなくなり、他者との関係性を把握できなくなる。将来的な孤立感が不安をますます大きく、過敏を助長する。このような悪循環に陥りやすくなります。通常ですと、自分の病気以外では、対人関係的な不具合から不安が始まります。しかし、新型コロナウイルスの現状からは、それ以外に人間関係が良好であっても、不安傾向が持続し、悪循環に陥るということが起こりやすい状態になっているわけです。

7 当面の解決方法

せめて新型コロナウイルスが収束したり、特効薬が開発されたりすれば、不安の持続と蔓延も軽減されるでしょう。しかし、そのような動きを期待していたのでは、有効な対応を打つことができなくなります。
当面の解決方法としては、2つの行動が考えられます。
一つは、不安の中断です。
もう一つは、孤立感の軽減です。

1)不安の中断方法

まず不安の中断方法についてお話しします。
不安それ自体は、危険から身を守るためのきっかけとなる仕組みです。不安を感じると恐怖を覚えて逃げたり、怒りを覚えて戦って危険を無くそうとするわけです。不安を感じないと無防備に危険にさらされてしまうわけです。ところが、人間の不安を感じ続けられる時間は、そう長い時間が用意されていません。早く結論を出したくなってしまいます。不安が持続すると不安を解消したいという要求が強くなってしまいます。これが悪循環の大本です。そうだとすれば、不安を一時中断することで不安の持続からは逃れられることになります。
そんな都合の良いことができるのかということが疑問になることと思います。ところが、多くの人間は、この中断を自発的に、無意識に行っているのです。考え続けても良い方法がないと思って、もう投げ出してしまう。あるいはあきらめてしまうということがあります。あるいは、またあとで考えるから、今日はもう眠ろうとか。それができる人は不安を中断しているわけです。ところが過労自死の例でよく目にするタイプの人は、問題を先送りにすることができないで、解決するまで考え続けてしまうことによって、不安を持続させてしまっています。過労自死をする人はこういうタイプの人が多いようです。しかし、不安が持続してしまっていると、既に思考能力が低下していますので、合理的な解決方法は思い浮かびません。ただただ不安を感じ続けているだけだというのが、残念ながら実態に近いようです。不安を中断するためには、過度の責任感は有害なのです。
不安を中断するために、支援者や医療機関さえも口にするのは、「不安を忘れろ」という指示です。しかし、不安を忘れようとしても、それはかえって不安と向き合うだけになることが通常の結論です。結論は不安を一次忘れることなのですが、それに誘導しなければなりません。
不安を一時中断させるための方法は、別のことに取り組むということです。まじめで責任感が強く、不安スパイラルに陥りやすい人ほど有効です。実際の臨床心理の報告例では、不安症状のため休職を余儀なくされた方が責任感から早く仕事復帰したいと焦り、医師の働くことを考えないでという指示を実現できそうになかったそうです。臨床心理士が、この責任感を逆手にとって、会社を休職しているうちに家庭の中で役割を果たすように指示を出しました。まじめで責任感が強い人なので、家事や育児にまい進しているうちに、見事会社のことを忘れ、どんどん快方に向かったそうです。
何に取り組むことで、その人が夢中になれるのかについては、人間の数だけ答えがあると思いますから、その人なりの行動を提起するべきであって、一律にマニュアルで処理をするような安易な考え方は捨て去るべきです。
もっと楽しいことが良いと思います。ジャズでも映画のような娯楽でもよいですし、何かの研究なども突き詰めれば夢中になれるものです。その中でも社会的活動や家族のための行動というのは効果的であると思います。
肝心なことは、そのことで新型コロナウイルスやその他の懸案事項を忘れ去らなければならないわけではないということです。一時的に別のことに集中できればそれでよいのです。一時的にも不安が解消されることによって、思考力が回復し、希望が湧いてくる。これが東日本大震災の原子力発電所の爆発による放射能の不安から解消された特効薬でした。絶望から一時的に解放されることの効果はとても大きいということが震災の教訓です。

2) 孤立感の解消=コミュニティーの強化

人間は孤立に耐えられない動物のようです。孤立に耐えられないからこそ、言葉もない時代から群れを作ることができ、子孫を遺してきたわけです。孤立感を解消するためには、一番良い方法は家族と一緒にいることです。
しかし、孤立感は、むしろ集団の中にいることによって感じ易くなります。現状の孤立よりも、将来の孤立の不安の方が人間の心理にとって悪影響を及ぼすようです。
このため、将来の孤立を予感させる出来事があると人間は不安を感じるようにできているようです。この不安こそが対人関係的危険にもとづいて発生する不安です。その孤立を予感させる出来事は、集団の中で否定評価をされるということです。自分だけ能力が劣っていると批判されたり、笑われたり、責められたり、失敗を許されないとか、努力をだれもねぎらってくれないとか、発言を許されないなど他の人が認められることが認められない差別などです。自分だけ情報提供されないとか、食料の分配が少ないとかということもあるでしょう。その極端な形態が、暴力や暴言などの仲間からの攻撃を受けるというでしょう。暴力を受けると体は傷つきますが、暴力によって暴力をふるってもよい存在だという強烈なアピールを受けることによって心が傷つくわけです。本来であれば健康を気遣ってほしいのですから。
ところが、対人関係的危険とその心理的影響については、あまり言及されていないように思われます。虐待というと暴力暴言と同義に扱われている場合もあります。しかし、仲間から否定評価されて、将来的な孤立を突きつけられるというところに危険の本質があるわけです。
では、否定的評価をしなければ良いかというように考えがちですが、それは人間はできません。ニュートラルな扱いは、家族の中ではありえないでしょう。少なくとも想像することは私にはできません。否定をしないのではなく、尊重するしかないと思うのです。
自分が仲間から尊重されていると思うと、孤立感は解消され、不安感も和らぎます。仲間のために何かできることを探してしようという意識は、不安を軽減させたり中断させることにもつながります。
では、どうやって尊重を実感してもらうか。孤立を予感させる出来事をしないのではなく、その逆をすればよいということに気づかれたと思います。
能力や失敗について、責めない、笑わない、批判しない。むしろ、別の仲間がカバーする。そんなことで孤立させることはしないということは、大変ありがたいことです。我々は赤ん坊の時にそうやって大人から面倒を見てもらっていたわけです。
また、努力にはきちんと感謝の気持ちを伝えるということ。労うこと。そうすると仲間のために行動することが楽しくなります。
発言はきちんと最後まで耳を傾けましょう。最後まで聞いて、メリットに共感し、デメリットについてどう考えるかということが話し合いです。最後まで聞いてもらえればそれだけで満足することもあります。
意識的に情報提供をしなかったり、分配を差別したりということは実際はないのですが、過敏になっているときはそれを感じやすくなっています。もしそうなればきちんと訂正することが有効です。
これらのことができないのは、自分を守る意識が強すぎる時です。つい、自分の不具合を認めることができずに、他人に八つ当たりをしてしまうということから起きてしまいます。気が付いた人から仲間の中では自分を守ろうとせずに、仲間の不具合を引き受けることが肝要でしょう。そうすると仲間もまねをするようになっていきます。
大事なことは、これを完璧にやろうとしないこと。仲間との衝突はどうしても起きてしまいます。むしろここからが大切なことかもしれませんが、仲間との衝突に対するリカバリーです。衝突した相手が心細く思っているわけですから、衝突したことを忘れたふりをして、いつも通りの態度に復帰するということが有効です。相手が子どもであれば、愛情を表現することも必要になるかもしれません。もしかするとしつけと虐待の最大の違いは、フォローのあるなしなのかもしれないと最近は思っています。
この仲間として最適な仲間はやはり家族です。家族の修正を積み重ねていくことによって人々は幸せになっていきます。現代社会の家族は、相互に尊重し合う余裕と知識がない、それには時代的な背景があると感じています。
せっかくの自粛の機会です。より幸せになるために家族の状態を向上させるという取り組みをするべきだと思います。それが人間ならばやるべきことだと思います。

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大津いじめ事件の大阪高裁判決(令和2年2月27日判決) 報道に現れた論理についての批判 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



弁護士は、自分が担当して訴訟活動をした事件の判決以外は、
あまり判決批判をしません。
どうしてかというと、その判決が出た事情を知らないからです。

実際は報道されていない事情が主張立証されたかもしれません。
この事件においてはという限定した場合は
判決が妥当する事情があるということが多くあるものなのです。

特に民事事件の損害賠償額
刑事事件の量刑(懲役の長さ等)は
個別事情に大きく影響されますので、
あの判決の妥当性はどうですかと聞かれても
わかりませんと言うしかないのです。

しかし、この判決のこの論理についてはコメントをしないわけにはいきません。
このコメントも、金額そのものではなく、
その言いまわしということになります。
だから、厳密に言えば判決そのものの批判ではなく、
報道された判決の論理に対する批判ということになります。

それは大津のいじめによって高校生が自死した事件の
加害者とされた生徒に対する控訴審判決です。
1審の大津地裁の判決は
いじめと自死との因果関係を認めて3750万円の損害賠償を認めたけれども
控訴審判決の大阪高裁は、400万円を認めるにとどまったというのです。
この金額の妥当性はわかりません。
問題は高裁判決の論理です。

一番詳しいのは日経新聞だと思いますので引用します。
佐村裁判長は生徒の自殺に関し、遺族側に落ち度がなかったかどうかも検討。生徒が自ら自殺を選択していることなどから「両親側も家庭環境を適切に整え、精神的に支えられなかった」などとして過失を相殺し、約400万円の賠償額が妥当とした。

何が問題かというと
亡くなった生徒の両親が、家庭環境を適切に整え、精神的に支えなかったことが
両親の落ち度になると言っている部分です。

この論理には、言葉に出ていない前提論理が忍び込んでいるわけです。
つまり、
高校生の自死は防ぐことができる
自死を防ぐ主体は家族、両親である。
特に自死をしようと追い込んだ相手との関係でも
両親は自死を止めなくてはならない。
自死を止める方法は、
家庭環境を適切に整え、精神的に支えることだ。
これをすれば自死は起きない。
という論理が前提となっていると考えざるを得ません。

これは、今回生徒が自死したのは
両親が家庭環境を適切に整え、精神的に支えなかったことも
原因の一つだとしているわけです。
何か具体的事情が主張立証されたのなら私の批判は的外れですが、
およそ、高校生が自死をした場合は全部が全部
このような両親の不適切な事情があったと決めつけているなら大問題です。

先ず、自死の前に、自死者は何らかのサインを出すから
そのサインを見逃さなければ自死は予防できるという説がありますが、
およそ実務的ではありません。迷信や妄言の類でしょう。
なぜなら、うつ病患者など、自死のハイリスク者は
自死をしようということや、自死を考えている精神上であることを
自分の大切な人に隠すからです。

自殺のサインなんていう理屈は、
遺族や精神科医に精神的ダメージを与えるという効果の外は
あまり効果はないと考えています。

次に何らかのサインを、自死のサインかもしれないと思った場合
具体的に家族はどうしたらよいのでしょうか。
精神的に支えるとはどういうことでしょう。
そのためにはどういうふうに家庭環境を整えればよいのでしょう。

現在までに確立した方法や見解はありません。
特に、精神科医でも自死予防活動家でもない
一般のご家庭において、両親がどうすればよいかという方法については
特にこうすればよいということはありません。

むしろ、現実に自死をした人たちのご家庭では
家族が精神的に消耗していると思った場合は
思いつく限り手を尽くして手当てをしています。

ところが実際は自死を防ぐことができなかったのです。

数十以上の自死案件を担当してご遺族のお話をうかがう限り
例外はありません。

もし、生徒さんやご遺族が
生前、一般のご家庭と同様に普通に生活をしていた場合、
そして、いじめが始まってから自死するまでも
どのご家庭でも見られる普通の対応をされていたとするならば、
落ち度があると評価することは私には考えられません。

特別のことをしなかったから落ち度があるというのは不合理ですし、
特に、自死と因果関係があるいじめの加害者に対して
賠償金額を定めるにあたって、そのことを考慮して
大幅に賠償額が減額されるということは
不公平の極みだと感じられました。



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「死ね」と言葉にしてしまったら、「そんなつもりはなかった」という言い訳は通らない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

死ねという言葉が何度も出てきるくため
書いていて気が滅入りましたことを冒頭申し上げておきます。

中学生以下の子どもたちの間で
日常的に強烈な言葉が交わされているようです。
「死ね。」「死ねばいい。」「消えてなくなれ。」「生きている価値無し。」等々

そういう言葉に大人である親、教師も容認してしまう風潮があります。
しかしこれは深刻な事態をもたらすこともありますし、
確実に子どもたちの心がすさんでいきます。
言われる方も言う方の心もそれを聞く者の心もすさむのです。
そしてそれは将来、自分や自分の周囲を傷つけることがあります。
私はやめさせなければならないと思います。

どのように危険で、どのように深刻な事態なのか
説明したいと思いました。

1 なぜ「死ね」と言うかの分析
2 死ねと言われることの危険性、深刻さ
3 死ねと言う人の責任
4 死ねと言う人の心がすさむということ
5 死ねということはやめさせなければならない

1 なぜ「死ね」と言うかの分析

 1)特に大人に向かって言う場合
子どもたちが親や教師に対して死ねという場合は、
自分が理不尽な扱いをされているという意識を持っていて
そのことを説明して反撃したいのだけど
うまく言葉にできないためにイライラが募り
死ねと口走るように言葉にするということが多いように思います。

この現象は怒りというものの特徴をよく表しています。
人は怒ると、
複雑なことを考えられなくなりますので、
話を整理して言葉で伝える作業ができなくなります。
また複雑なことの代表的なものが他人の感情でして、
他人の感情を考えなくなるから強烈なダメージを与えようとするのです。
怒りは無意識に相手を最後まで叩き潰そうとさせる感情ですから
死ねという最終的な攻撃の言葉を発することでひと段落させようとします。
また、怒りは自分を守るための感情ですから
自分が何らかの攻撃を受けているという意識があることになります。
もう一つ、「相手と戦ったら勝てる」
という意識があるようです。
これは親との関係を考えると
実は相手は自分に致命的な報復をしないだろう
という甘えを持っていることを示します。

もしかすると子どもたちが大人に向かって死ねというのは、
それだけ子どもたちが現代社会の中で苦しまされているという
被害意識を持っているからなのかもしれません。
理不尽を日常的に感じているのかもしれません。

 2)子どもどうしできつく言う場合

学校などで、子どもどうしが死ねと言い合う場合も
同じような怒りの文脈で語られていることがあるようです。

どちらかというと
相手の攻撃、理不尽さが
自分に対して深刻な影響を与えるからというより、
合理的に説明して解決することができないイライラのようなものが
強まったときに口に出ることが多いようです。

こちらが相手に親切な対応をしているのに、
相手がこちらの努力に感謝もしないとか、
こちらが何かを尋ねているのに
関係の無いことばかり言い続けるとか、
話していてもらちが明かない場合などが多いようです。

中には、自分が考える正義に反する行動をして
最初は助言などをしていたのに、
相手がそれを無視して不道徳な行動を継続する場合
ということもあるようです。
死ねということが自分なりの正義感にもとづくという言い訳の場合もあります。

大人が、子どもの発言を見た場合は、
相手が自分の思い通りにならないから死ねという
としか説明できない場合が多いかもしれません。

 3)冗談として言う場合

子どもたちの間で案外多いのは
ふざけてというか、ノリというか
口癖みたいになっているような場合です。

漫才の突っ込みのような感覚で
死ねと言う場合も少なくないように感じられます。

ボケというか、いわゆる空気を読まない相手に対して
向かって発せられることが多いような気がします。

この場合も、実は結果を求めたいけれど
言葉でその望ましいと思う結果に相手を誘導できない場合
ということが言えるかもしれませんし、
それが案外共通項なのかもしれません。

  4)死ねということの小まとめ

このように整理すると死ねという言葉は
言葉で説明できないから手が出る
という時と同じパターンなので
言論というよりは暴力に近いということがわかりやすいと思います。

少なくとも
相手の命がなくなればよい
あるいは自殺しろ
というような文字通りの意味ではないということが
ほとんどだと思います。

怒りのために我を忘れて
最も強烈な言葉で相手にダメージを与えようとしているだけ
ということです。
イライラの解消方法が見つからないために
イライラが大きくなって、手に余るようになっている
そこから解放されたいために益々きつい表現になるのでしょう。

対人関係学的には不安解消要求の高まりは
不安解消行動が見つからない場合にはさらに肥大化して
短絡的な行動をとらせる原因になると説明しますが、
これを良く証明する事象だということになります。

2 死ねと言われることの危険性、深刻さ

「死ね」という言葉は、文字にすると
命を無くせ、自殺しろという意味の言葉です。

文字通り受け止めれば
生物的に存在を否定されるのですから
身体生命の危険を強く感じる言葉です。

それだけでなく、
あなたを私の仲間としては扱わないよ
という強烈なメッセージになります。
仲間なら、健康を気遣われ、身体生命を助け合う
そういう関係です。
それを否定されたという感覚は
自覚はできないのですが、強烈で後々残るダメージを受けてしまいます。

人間は仲間を作って厳しい環境を生き延びてきました。
仲間を求める心、仲間の中にいると安心する心
仲間から外されそうになるととてつもなく不安になる心
そういう心を持った人間だけが仲間を作ることができ、
仲間を作ることによって生き延びてきました。
だから、仲間として扱われないことは
人間としてとてつもなく苦しい気持ちになるのです。

もっとも、
軽く死ねと言い合うことが頻繁な友人関係の中では、
死ねという発言も言葉どおりには受け止めないで、
「ああ、イライラしているんだな。」と
正確に発言者の気持ちを理解しているようです。
自分に自殺しろということを言っているのではないし
言葉以外の態度から
自分と絶交したいというわけでもないのだなと
感じ取ることができます。

言葉以外の事情
これまでの経験や暗黙のルール
表情や身振り手振り、そして距離感という事情から
相手の真意を受け止めることができます。

しかし、言葉だけが独り歩きをしてしまうと
言葉通りのメッセージとして受け止められ
命の危険を感じてしまったり
仲間として認められないという意味での恐怖を感じて
強烈なダメージを受けることが起きてしまいます。

「そういう意味でないことは分かっているはず」
と思ったとしても、
相手は自分が想像する以上に感じてしまいます。

そもそも言葉を発する方は本当に死ねと思っていないので、
それ程強烈なダメージを相手に与えないだろうと
勝手に思い込んでしまうものだそうです。
人間の脳の限界がここにあるようです。
だから、相手の気持ちを考えないで発言することで
思わぬダメージを相手が受けるわけです。

相手が言葉通りに受け止める事情として考えられる事情は

・メール、ライン等、ほぼ言葉だけで情報が伝わる場合
特にこちら側が、自分の部屋の雰囲気やノリで送信した場合
そういう文字以外の情報は相手に伝わりません。
話の流れがあったとしても、真意が伝わっているとは限りません。

・相手との関係があまり親密ではないとき
そもそも相手とあなたがであって日が浅く
あなたと友達が日常行っていることに相手が馴れていない場合
どうして強烈なことをいうのだろうか
私だけがこのようなことを言われるのだろうか
という恐怖感情が出てきます。

・相手の体調
特に思春期の場合、普通に生活しているように見えて
実は大変悩み苦しんでいる場合があります。
相手がうつ状態の場合は、その傾向が強くなります。
いつもの体調ならばあなたの気持ちを翻訳して
正しい理解をすることができても
体調が悪い、特に精神的な調子が不安定な場合、
こういう場合は、物事を悲観的に考える傾向にあります。
発言者の気持ちは、自分に対する敵意だと
自然に考えてしまうのです。

健康な人でも、抑うつ的な状態になることはあります。
成績が落ちたときとか、別の友人とケンカしたときとか
腹痛や頭痛が続くときとか
それでも、無理して明るくふるまうのが人間ですから
悩んでいたとは知らなかったということになるわけです。
でも、死ねといったことは事実として残ります。

・相手があなたに依存している場合
何かの拍子で、相手があなたを信頼しきってしまい、
他の誰もが自分を攻撃しても
あなただけは自分を守ってくれる
と思う関係になることがあります。

厳しい友人関係で悩み
あなたに助けられて癒されてしまう場合等がそうでしょう。
あなたを信頼しきっている相手は
あなたの攻撃に対しては無防備な状態です。

あなたの言葉の裏の意味を探る余裕がないことが多いようです。
あなたが起きぬけに前触れなくあなたの親から死ねと言われたような
そんな衝撃を受ける可能性があります。

あなたの「死ね」という言葉は、
相手に言葉の通りに受け止められることは
日常ありふれてあるわけです。

大変怖いことです。

3 死ねと言う人の責任

もし、あなたが死ねと言った人が
本当に死んでしまったらということを考えてみてください。
そんなことがあるはずないと思うかもしれませんが、
実際に死ねと言われた人が自死することが多くあります。
先ほども言ったように、元々精神的に不安定なので、
本当は自死の危険が高い人があなたの言葉に衝撃を受けるのですから
極めて危険場合が現実にあるのです。

そんなつもりではなかった。
いつも言っていることで、自分も言われたこともあるし
その人だって言っていたことがある。
そういう風に言葉で言い訳を考えつくまでには
実はずいぶん時間がかかります。

あなたが死ねと言った人が
1か月もたたないうちに死んだと聞かされた時、
あなたは、その人が死んだのは自分が原因ではないかと
思うようになるかもしれません。
自分が言わなければ友達は命を失わなかったと
思い込んでしまう場合もあるのです。
そういう衝撃を受けることになる人を多く見ています。

他の人間に対して「死ね」という気持がなかったのなら
言わなければそれで何事もなく済むのです。
死ねと言う必要は初めからありません。

「死ね」という言葉は客観的には危険な言葉です。
危険な言葉を投げかけて、結果が出てしまった以上
あなたは責任を取らなくてはならないかもしれません。

そのつもりがなくても、そういう行為をすれば責任が発生します。
例えば、嫌なことをさんざん言われて
反論することができずに追い込まれて
黙らせようとして近くにあった包丁を相手の腹に刺した場合、
殺すつもりがなくても
腹に包丁を刺すという命の危険のある行為をした以上
殺人罪が成立します。

言葉軽はずみに口から出て、画面に入力されてしまいます。
何の気なしに相手を簡単に傷つけることがあります。
とても怖いことです。
でもそんな言葉を言わなければ、それで済むのです。
それをしないであえて言葉にしたあなたは
何らかの責任を取らなければならない場面が出てくるかもしれません。

4 死ねと言う人の心がすさむということ

死ねという言葉は、言われた相手が傷つくだけでなく
言った自分、聞いていて止めなかった周囲の人間の心を
乱暴なものにしていきます。

これは無意識の作用なので、自分で止めることはできません。
死ねという相手の人格、命を否定する言葉ですから、
初めて聞いた時は怖かったはずです。
言われた人がかわいそうだと思ったはずです。

でも、そういうことがいつもいつも聞こえてくれば
心が苦しくなります。
この苦しみを何とか緩和させようと無意識のメカニズムがはたらき、
だんだんと心の苦しさを感じないように心が馴れていってしまいます。

それはつまり、他人に配慮しようという心が削られていくことです。
誰かの気持ちを穏やかにしたいとか、
一緒にいて安心な気持ちにさせたいという気持も
薄れていきます。
相手の心を感じないように心をきたえてしまうわけです。

自分の大切な人の気持ちを考えられなくなったり
大事にしないで乱暴なことを言うことが
だんだんと気にならなくなってしまいます。
大切な人があなたから離れていくことも多くあります。
離れる相手を責める人も多いですが、
離れる方の心も深刻なダメージを追っています。
自分の大切な人も大切にできないということは、
結局自分を大切にしないことと同じことです。

人間や人間のこころ、人間の命を大切にしなくなっていくこと、
これが「心がすさむ」ということです。

5 死ねということはやめさせなければならない

何度も言いましたが
死ねということを言わなければすむことなのです。

死ねということをやめましょうよ。
死ねだけでなく、
「死ねばいい。」「消えてなくなれ。」「生きている価値無し。」等といった
「相手の存在を否定する言葉」は言葉に出さないということです。
そうすることがみんなにとって有益です。
それを言うことで利益を受ける人はいません。

言われる本人が傷つくし
言っている人間や聞いている人間のこころもすさみます。
その人たちの仲間たちも傷ついたり、辛い思いをします。

ただ、そういうことを言わないということを決めるだけでは
言葉はなくならないでしょう。
本当になくすためには
その手段を検討しなければなりません。

言葉にする人は怒りモードの状態です。
真正面から話をしても
自分を守ることだけが頭にありますので、
反発だけが強くなります。

その人の本当に言いたいことを言い当てる人
それはわかるけれど言わない方がいいよとなだめる人
私のためにやめてという人
たくさんの人で
その人の失敗を厳しく問い詰めるのではなく
言った人と言われた人を
自分たちの仲間関係に連れ戻すという方向が
有効だと思います。

それは子どもたちだから、友達だから
大人が言って聞かせるよりも有効なのです。

そうして、冷静なときに
死ねとか、存在を否定する言葉は言わないこと
言ってしまったら謝ること
言ってしまったら、他の人の注意をおとなしく聞くこと
というルールを定めておくことが大切ですね。
それを繰り返し確認してほしいと思います。

しかし、子どもにだけ甘えているわけにはいきません。
肝心なことは大人たちです。
子どもが相手の人格を否定する発言をした場合は
面倒だと思わないで、最優先で、
発言によって乱れた秩序を回復する必要があります。
これが命を大事にするということなのです。
共同生活のルールということで腹に落として
曖昧に見過ごすということは絶対にいけません。
但し、ルールを守らないからと言って直ちに懲罰を考えるのではなく、
秩序の回復という観点から
行動を是正することに力点を置いて指導をする必要があるでしょう。

そして社会の大人たちは
子どもの目に触れ、耳に聞こえるところで
死ねという言葉を冗談でも発しないように注意しましょう。

特にテレビですね。
そんなことで笑いを取らなければならない番組は
止めさせるべきです。

人格を否定して、それを笑うということに
絶対に公共の電波を利用させないでください。
曖昧にしてはダメなのです。

そういう表現を承認して受け入れる人たちだけが
その表現を享受すればよいのです。
テレビは、電源を入れると見えて、聞こえてしまいます。
それで心がすさんでいくならば
それは暴力です。

芝居小屋みたいなところで
それを承認する人たちだけが楽しめばよいのです。
表現の自由の観点からもそれで十分だと思います。

大人は子どもを守らなければなりません。
悪い空気ならば、それを拒否することが
本当の大人なのだと思います。

*********

もう少ししたら、公的にこのような内容の主張をする機会がありそうなので、
そのための草稿として書きました。

大人がもっと本気で考えなければならないことだと思います。
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若者以外の自殺者数はなぜ減少したのか。自死の落差理論と耐性ないし馴化 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


日本における自死者の数は、
平成9年に2万4千人だったのが
平成10年に3万2千人を超えて
平成15年にピークの3万4千人台となり
平成21年までの11年間3万人台でした。
それがその自死者数が減少していき、
平成30年度は2万840人まで減少しました。

なぜ増えて、なぜ減少し続けているか
その理由がわかれば、自死対策は進むのですが、
誰も自信をもって言うことができません。わからないのです。

一つの仮説として国の政策が功を奏したというものがあります。
自殺防止対策推進法、自殺総合対策大綱
地域自殺対策緊急強化基金、利息制限法の改正
様々な政策を実施してことは間違いありません。

また、これまでは、自殺というと
自死者に対する非難の文脈が伴っていましたが、
国が自殺対策を行うということで
追い詰められた上の死だという理解が広がり、
マスコミを通じて自死が報じられる場合でも
救助、支援の文脈で話題になっていることが良い効果を上げている
という事実は否定できないと思います。

自死を考えている人にとって、
自死を考えていることを非難されていると感じるよりも
周囲が自死から救おうとしていると感じるほうが
余計な孤立感を感じないで済むと思います。
自死を非難することはWHOでもデメリットが大きいとしています。

ただ、それだけで本当にこのような動き方になるのでしょうか。
また、全体に自死者数が減少しているのに
若者の自死者数が減らないのです。
若者の人口が減少していないにもかかわらず
若者の自死者数が微増しているのです。
国が対策を立てていることが自死者数の減少の理由であれば
若者だけ減らないのは不思議です。
これが手掛かりになって
自死者数の減少の理由が見えてくると私は思いました。

まず、若者の自死の原因と中高年の自死の原因は
ともに将来に対する絶望なのですが、絶望の仕方に
大きな違いがあるということを理解していただきたいと思います。

中高年の自死の理由は、
これまで自分が積み上げてきた実績、人間関係を失う事情があり、
過去の蓄積された現在を失うことにより、
やり直しがきかないことから未来に対する絶望を感じるわけです。

典型的なケースは、刑事事件を起こした場合です。
警察に逮捕されただけで、会社にはいられなくなります。
自分の立場を失って、絶望が起こるということはわかりやすいと思います。
弁護士のアンケートでも、刑事被疑者、被告人の自死が多い
という結果が多いのです。
弁護士が関与した一番多い自死者のケースは債務問題でした。
借金支払えないから自死するという単純なケースはあまりないようです。
借金が払えないことによって、住宅ローンが支払えない
その結果引っ越しが必要になる。そうなると
近所の人たちや会社に借金が払えないということを知られてしまう。
こういうことで、自分の人間関係が破綻するということが
大変恐ろしく感じるようです。
家族に内緒で借金を返していて、ついに支払われずばれてしまい、
家族からも追放されるのではないかというように
やはり人間関係で、それまでの立場がなくなるというところに
自死の原因があるような気がするのです。

これをわかりやすく言うと
それまでの立場を維持できないで落ちて行ってしまうという
落差を感じることが自死のリスクを高めるといえそうな気がするのです。

自死者数が急激に高まった平成10年という時期は
バブルが崩壊して数年が経った時期です。
バブルが崩壊しても、バブルの頃の生活をなかなか修正することができなかったことでしょう。
また、生活状態は変化させても、
住宅ローンの月々の返済額は高めに設定していたために、
バブル崩壊後の賃金低下やリストラで
支払いができなくなったということもあったかもしれません。

平成15年くらいまでは、
落差を感じる対象の過去が生々しく記憶にあったのかもしれません。

平成15年以降はバブル期の記憶のない人や
バブル崩壊後の生活に対応できてきた人たちが増えていった
とは考えられないでしょうか。

リストラ、派遣切り、有期雇用期間満了による失業
上がらない賃金、長時間労働
そんなことがだんだん当たり前の世の中になってきたのではないでしょうか。
つまり落差がなくなってしまったのです。
周囲も失業者だったり、ホームレスだったり、
自分よりひどい状態にあるのです。
人間はこうやってだんだんと馴れが生じてゆくのです。
生活の苦しさに耐える力がついてきてしまった
という説明も成立するのではないかと考えています。

ある程度社会的立場や、良い生活をしていれば
それを失うとなれば、その落差が絶望につながるわけですが、
初めから立場がなく、良い生活をしていないのならば
落差もなく、絶望もせず、耐え続けることができるわけです。

馴化(じゅんか)によって、対人関係的危険を感じなくなる
という言い方をします。
苦しみを感じていても、危険を感じにくくなるわけです。
「精神的に強くなる」ということは感じにくくなるだけだと思います。

中高年の自死が減少したのはこういう理由
つまり、もともと生活が苦しいならば
自死は起こりにくいということです。

それでは、どうして若者の自死者が減らないのでしょうか。
若者の絶望の仕方は中高年とどのように違うのでしょうか。

若者は、それなりに家族との関係や友人関係といった
社会的立場があるわけですが、
過去が積み重なった立場の崩壊という側面は弱いと思います。
若者の場合は、将来につながる現在の崩壊だと思うのです。
今、このようにいじめられ続けている自分に
当たり前の幸せの将来はないのではないかという絶望の形です。

若者は、自分の未来に希望が持てないことに
馴れることはできないのでしょう。
自死対策に関与している人たちは
そろそろ考えるべきなのだと思います。

自者数を減らすことだけを考えていると
思わぬ落とし穴にはまってしまうのではないかということです。

自者数を減らすためには、私の理論では、
苦しい生活を続けさせることと
社会全体で苦しい状況が蔓延すればよいということになります。
現在でもそうなっているように
これはそんなに難しいことではないようです。
そんなことを求めることにプラスの意味はないでしょう。


若者が将来に希望を持てる社会を作る
それこそが目的にされるべきではないかと思うのです。
人間が幸せになるとはどういうことか
多くの人間が幸せになるにはどうすればよいか。
それが対人関係学の究極の目的です。



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思春期前のいじめによって人生を棒に振る極めて深刻な被害が生まれる理由、PTSDという言葉にたよらないで説明してみる [自死(自殺)・不明死、葛藤]

小学校での事件だそうです。
粗暴な子どもに対して、
どうしても注意する子どもがいて
粗暴な子どもから反撃されるわけです。

先生は、粗暴な子どもを刺激しないということを第一にするという方針だったので、
事実上粗暴行為を放置していたようです。
だから、粗暴を先生にいいつけても
逆に先生からなんで言いつけるのだと注意されるという
理不尽な扱いをされたそうです。

それを見ていたほかの子どもたちも
粗暴な子どもを刺激しないことが一番だということで、
粗暴な子どもが、注意した子どもにしばしば乱暴しても
取り囲んでみていただけの状態だったようです。

こんなことがしばらく続いたようです。
子どもは、PTSDと同じ症状となり
登校できなくなり、家に引きこもり
学校にいけないままで高校生の年齢となり
両親が裁判での損害賠償を請求したそうです。

1審は、粗暴な子どもの乱暴を数回認め損害賠償を命じたそうですが、
教師、学校の責任を認めなかったそうです。
そのうえ、PTSD自体を認めないため
賠償額はとても低いものになったようです。

症状があるのに、それを認めないということはどういうことでしょうか。

一つの可能性として
PTSDという診断名に理由がある可能性があります。

PTSDは、
症状の原因となる危険が過ぎ去った後においても
① あらゆることが危険であり、危険の兆候だと感じるようになる
② 理由なく、危険を受けていた時と同じ感覚が、突然よみがえってしまう
③ 危険には解決方法がなく、危険が現実する恐怖から逃れる手段がないと感じる
という症状が中核的なもので
このほかに、抑うつ状態、不眠、悪夢、イライラなどが起きます。

これがいじめから数年を経てもなお持続しているのだから
後遺障害が発症しているとして損害額が高額になるとも考えられるわけです。

裁判所は何を否定したのか。
まず、PTSDを否定した可能性があります。
それというのも、PTSDは、
「命の安全が脅かされるような出来事
(戦争、天災、事故、犯罪等)のようなものがある場合に
に限定されて認められるという立場が有力「だった」からです。

新しい基準(ICD-11)では命の差し迫った危険がなくても
反復性のある危険にさらされた場合も認められるようになった
という情報がありますが、まだ私は確認できていません。

この裁判のいじめの場合は
そういう物理的な意味での生命の危険が発生していたわけではないので、
少なくとも基準には適合していないのでPTSDはありえない
したがって、症状もあり得ない
という理屈になってしまう危険があるのです。

私はPTSDというのは、
生命、身体の危険でも起こりうるが、
その本質は、
絶対的な孤立、自己統制の不能感と回復不能の絶望から起き、
どちらからというと、自分が属している精神的生活の基盤の人間関係から
自分が将来にわたり追放されて復帰できないという
対人関係的危険を強く感じている場合に起きると主張しているのですが、
私の説は影響力がないから裁判で言っても仕方がないと思います。

このため、裁判では、
子どもたちに取り囲まれた状態で粗暴な子から暴行を受けていることが
死の危険も感じることだと主張された可能性があるようです。

対人関係的危険を基にする理論であれば
物理的な死の危険を持ち出さなくても説明がつくわけですが
伝統的なPTSD概念を前提とした場合には
無理がある主張だという結論になってしまうでしょう。

では、いじめでPTSDと同じ症状が出ることはないのでしょうか。

現実にはこういう症状はよく起きています。
14,5歳の子どもたちが、家の中で暴れて手が付けられなくなり、
親ともコミュニケーションが取れず
本人も家族も危険な状態だということで、
精神科の閉鎖病棟に入院することが良く起きています。

症状によって、あるいは診断者によって
それぞれ様々な診断名が付きますが、
背景にいじめがあることがほとんどです。

小学校や中学校時代にいじめにあった被害者は、
このように深刻な症状となり、
入退院を繰り返し、社会に出られないまま
子どもとは呼べない年齢に達しているのです。

そこまで極端ないじめでなかったとしても、
理不尽な扱いを受けた子どもは
何かの兆候を見つけて
またあの時と同じようにいじめられるのではないかと
些細なことにびくびくしたり、
悪夢を見たり、理由もわからないけれど学校に行けなくなったり、
自分に自信がなくなったりする
という残遺症状が残る場合が多いように感じます。

しかし、現時点においてはPTSDを持ち出すと分が悪そうです。

無理をしない理論があるように思います。
私の一人説でもない理論です。

それは子どもという時期に着目する方法です。

人間とは何か、人間が集団で生きるとはどういうことか
ということを考えなくてはなりません。

自然災害を除けば寿命前に人間が死ぬのは
人間によって殺されるときでしょう。
他人という生物は安全な生き物ではないわけです。
人間も動物として他人を警戒するのが自然かもしれません。

そうならないのはまず、両親に育てられる中で
自分以外の人間も自分を攻撃しないということを学んでいきます。

逆に両親から引き離されたり、両親に虐待されていたりすれば
理由なく他人を警戒するようになります。
愛着障害という病気で、
他人を信用しなくなり、人間的なつながりが持てなくなる場合と
逆になれなれしくまとわりつくようになる場合という
両極端な症状が現れます。

ボクシングをイメージすればわかりやすいのですが、
殴られないために逃げ回るか
逆にクリンチすることで防戦しようとしているようです。
おそらく、両方とも人間を信頼しないことからくる行動が
身についてしまったことなのでしょう。

その乳幼児期を無事に過ごすことができれば
両親から広がって少しずつ人間関係を構築していくことにより
だんだん「馴れ」が生まれてきて
人間は警戒しすぎなくてもよいのだなということが
身についてくることになるわけです。

その後、15歳くらいといわれていますが、
自我が確立していくわけです。

この時、自分と他人が違うということを
きちんと腹に落としていくことで、
他人ではない自分という観念が確立していきます。

自我が確立していくことは
自分を尊重し、他人も尊重することができるようになることで、
こうやって、他者の中で、協調して生きていけるようになるわけです。

このあたりより前の時期は、
まだ、他人と自分の区別がはっきりとはつかないで、
自分と他人が違う考えや感じ方をすることに戸惑いが残っています。

ところでただ歳を取れば自然と自我が確立して協調性が身につくのではありません。
家庭の中で身に着けた共同生活のルールを、
幼稚園や学校という友達との関係で修正したり、
共通の核のようなもの(社会的な行動様式)を見つけ出して、
どういうときにどう行動すると穏やかに過ごせるか
逆にどう行動してしまうと、けんかになったり嫌われたりするか
ということを一つ一つ学習して身に着けてゆきます。

例えば正義や道徳に反する行動をすることは
みんなから受け入れられなくなるということを
自分の体験者や友達の体験を通じで身に着けていくわけです。

正義や道徳が行動規範になっていくという言い方をします。

事件のお子さんは、
そうやって、行動規範に従って
級友とも接してきたのでしょう。

ところが、自分が当たり前だ、やるべきだという行動をしたことによって
逆に、反撃され、暴力を受けたのです。
これだけでも混乱することです。

しかし、この粗暴な子が例外的な存在で
社会の中にはこのようなイレギュラーな存在もいるので、
そういう子を避けて過ごせば安全だ
という柔軟な考えを身に着けられれば
正確な人間観をえられるのです。

そのためには、周囲から粗暴の子のほうが間違っている
という強烈なメッセージが必要なのです。
ところが、教室の最終権威である担任も
自分が暴行を受けていることを放置し、
ほかの子どもたちも自分を助けようとしなかったらどうなるでしょう。

その子の価値観は混乱したままになってしまいます。

他人の存在に安心するためには、
自分が何か困ったことがあったら助けてもらったり、
具合が悪ければ心配されたり
痛かったり苦しかったりするといたわれたりすることが必要です。

このお子さんは全く逆に
暴力を受けていました。
そしてその暴力をだれも止めないという状態が起きていました。

小学生くらいだと
自分はどうしたらよいかわからなくなります。
また、自分は、世間全体から嫌われている
という気持ちになるわけです。
これから先の将来も嫌われ続けるという気持ちになってしまいます。
だんだんと何か自分が悪いのではないかという気持ちにもなるでしょう。

「もっとうまくやれ」ということは大人に対するアドバイスです。
子どもはかばわなくてはならないと私は思います。

傍観者の子どもたちはそれを是認していたわけではないでしょうが、
いじめられている子どもからすれば
誰も助けてくれないのですから意味がありません。
対人関係的危険感からすれば
自分の社会的存在を「否定」されたということに等しいということになります。

助けてくれないでただ見ている旧友(級友)は、
のっぺらぼうの恐ろしい存在に見えたでしょう。
こちらを心配そうに見ている人間は偽善者に見えたでしょう。

被害者のお子さんが感じていたことは
絶対的孤立感であり、自分が仲間として認められていないという疎外感ですし、
誰も味方してくれない、どうすることもできないという回復不能感です。

きわめて恐ろしい感覚を受けていたはずです。

私も似たようなことがあったのですが、
自分は絶対に間違っていない
間違っているのは自分以外だという独善性があったために
最悪の事態にならないで済みました。
体が大きく、体力的にも強かったということも救いでした。
こういう常識が外れた人間でなければ
耐えられるわけはないのです。

子どもですから、こういうことが例外的な出来事だという認識は持てません。
人間社会というものは、自分の味方になってくれない
ということを学習してしまうのです。
しかも、いつどうして自分が攻撃されるかわかっていませんから
ある日突然自分が攻撃されるという予測不能なことが起きる
ということを学習してしまっています。

これからの長く続く未来も同じように
いつどこか油断をしてしまうと悪いことが起きてしまう
という学習をしてしまいます。

人間が安心できなくなり人間が信用できなくなり、
人間が怖くなるのは当たり前だと私は思います。
安心できるのは家族だけになります。

ちなみに、粗暴な子のほうですが、
通常だと暴力をふるうとみんなから否定されてきたのに
その子に対しての暴力は誰からも否定されません。
その子に暴力をふるってもよいのだということを
学習してしまうのです。

放置ということは被害を大きくするだけでなく、
加害も大きく、より激しくするのです。
大人がする放置は大変悪質です。

家の中に引きこもる子どもも
元気に学校に行っている子どものことを想像することもあるでしょう
みんな普通に学校に行き、進学している
自分だけが取り残されているという
どうしようもない焦りが生まれてきて
さらに苦しくなるということも簡単にイメージできると思います。

先ほど家族には安心するといいましたが、
家族も人間ですから
自分の子どもが学校に行けず家から出れないというと
焦りが生まれてしまいます。

子どもはそんな家族の表情を読み取って
重い負担を感じるようになります。
子どもの願いは
学校行けなくても家から出られなくても
家族には何事もなかったように接してほしいということです。
それはなかなか難しいことです。

子どもはどうしてこうなったかもわからず、
また、自分がどうしたいのかもわからず
不満、苦しさだけが膨れ上がっていきます。
言葉にできない苦しさ、焦りが積み重なっていくのだから
爆発することのほうが当たり前だと私は思います。
徐々に家族も自分を助けてくれないという意識になっていくわけです。

成長発展段階におけるいじめは、
人間の成長に照らして
このような深刻な影響を与えるのです。

それは、加害児童の責任というよりも
放置した学校の責任こそ重大だというのが私の理論的帰結です。

暴力がお子さんの精神に悪影響を与えたことよりも
それが制裁など修正されなかったことこそ
精神的に悪影響を与えたのだと私は思います。

このようなお子さんは、投薬の適応があまりありません。
感情的になったときに鎮静剤を与えたり
抑うつ的になったときに抗うつ薬を処方して
症状は緩和させることができるかもしれませんが、
原因が放置されていれば症状は継続してしまいます。

もうこうなってしまうと
最初の両親の段階から育ちなおすしかありません。
つまり、
繰り返し、繰り返し人間は安心できる、信頼できる存在だということを
刷り込んでいくしかないのです。
遠回りかもしれませんが
自分の安心できる居場所を作り
安心できる人間関係を作っていくしかないと私は思います。

できるだけ多くの人たちから
それぞれのいたわりと助けを得ていきながら
人間と付き合う自信を作っていくということです。

そうしない限り、
投薬だけをしていただけでは、
なかなか回復は難しいようです。

それだけ、小学生や中学生の時期のいじめというのは深刻で、
そのお子さんの一生を台無しにするということです。
そういうお子さんをたくさん見てきました。

もし私が述べる通りの被害があるなら
今度は裁判所が被害を放置してはならないはずです。
その子だけでなく、その子の家族だけでなく、
加害をした元児童、傍観していた元児童にも
そして何よりも放置をした学校にも
あの時の行動が間違っていたという価値判断を示さなくてはならないはずです。

技術的なことで決してはならないと思います。
そして学校関係者に対しては
いじめの重大さを理解してもらいたいと
心から願う次第です。

また、精神医療関係者の方にも読んでいただきたいと思います。
いじめを受けた子どもの奇行は自然な行動であると私が思うのですが、
統合失調症やパーソナリティ障害などの診断名がつけられて、
精神科病棟の中でますます重症化していくことがあるようです。

どうか、事例を集積し、
回復に向けた治療方法を確立していただきたいと
願ってやみません。


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