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パワハラについての誤解 3 パワハラ防止をするときに、厚生労働省の言うように「相手が平均労働者だったら苦痛だろうか」と考えることは、百害あって一利なしということ 防止を本気で考える企業はどう考えるべきか 「業務上必要かつ相当の範囲」についても無視することをお勧めする理由 [労務管理・労働環境]

厚生労働省のパワハラ解説で、パワハラの三要素なるものがあげられています。これが「結局何がパワハラなのか」ということをわかりにくくしている根本原因です。私が読んでもわからないだろうなと感じます。

特に三番目の要素である「労働者の就業環境が 害される」という要素の解説として、
1 当該言動により労働者が身体的又は精神的に苦痛を与えられ、労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じる等当該労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じること
2 この判断に当たっては、「平均的な労働者の感じ方」、すなわち、 同様の状況で当該言動を受けた場合に、社会一般の労働者が、就業する上で看過できない程度の支障が生じたと感じるような言動であるかどうかを基準とすることが適当
等と記載されています。

看過できないかどうかを判断しなくてはならないならば、なかなかパワハラだという認定はできなくなってしまうでしょう。また、それは、「社会一般の労働者が」看過できないと感じるような言動であるかどうかということになってしまうと、ますます直ちに判断することができなくなります。結局会社の中の判断者が、看過できないと言えばパワハラになり、一般的には看過できないとまでは言えないと考えるとパワハラにならなくなってしまいます。これでは基準としては役に立ちません。

このような厚生労働省の謎を深めてしまう表現は、労災認定の判断に引きずられてしまっているからなのです。労災認定がなされると、病院代や休業した分減額された賃金の補償、さらには障害補償や遺族年金など莫大な金額の保険給付をしなければなりません。また、精神的な疾患は、何が原因かよくわからないことがあります。そのため、もともと弱かった人に労災保険を払わないための行政基準として、国は、平均的労働者を基準にパワハラなどの過重労働があったかどうかを判断することにしているわけです。私はこの考え方は不正確だと思っていますが、今日は説明を割愛します。

労災認定とするかしないかの判断基準をパワハラ防止の解説にまで持ち込んでしまったということです。

しかし、パワハラ防止は、労災防止だけが目的ではありません。
・ 従業員のモチベーションをいたずらに壊さないで生産性を上げること
・ 従業員が萎縮したり反発したりして、自分の頭で考えることができなくなってしまうような事態を避けて生産性を上げること
という労務管理上、現代日本では不可欠な政策なのです。企業担当者としてはパワハラ上司に注意したくてもしにくいという実情もあるので、できるだけ法律があることをいいことにパワハラを失くしたいということが、客観的には切実な必要性です。

さらには、看過しがたいかどうか、一般的な労働者はどう考えるかという、解決不能な判断を企業担当者に与えてしまい、企業担当者が上司に甘く判断した結果、例えば従業員が精神疾患にかかって長期休業を余儀なくされた場合、企業が看過しがたいとは思わなかった、一般的な労働者はパワハラだと考えないと思ったと主張しても、裁判所が、企業の責任だと認定してしまったら取り返しのつかないことになってしまいます。

莫大な損害賠償を支払わなくてはならなくなったり、取引相手や国民からの信用が低下するだけでなく、気が付いたら他の従業員の優秀な人間だけいつの間にか退職していた、残ったのは自分の頭で考えずに、上司の指示待ちをして、「よけいなことをしない」要領の良い従業員だけだったということになってしまいかねません。

これらの企業の損害を防止することも大切ですが、従業員のモチベーションを高めて、自発的な労働をしてもらうことによって生産性を向上させるというプラスの目的からすると、
上司の行為によって
相手の従業員が、萎縮したり、反発したりをするような指導は
パワハラだとして、指導方法の改善を指導することが一番だと思います。

大体、上司が自分の部下の性格をわからないということは考えにくいわけです。こんなことを言ったらこういう反応をするだろうなということを知らないで指導はできません。どうしても従業員の個性を無視して一律に扱うというなら生産性を上げるという目的ではなく、自分が考えるのを面倒くさがっているという上司の利益の問題になってしまいます。
わざわざ平均労働者を持ち出すのは、企業の事情ではなく、国の事情なのでしょう。

国の基準がどうあれ、企業独自のパワハラ防止基準を定めて、より上の基準を求めるべきだと思います。どうして国は、このような観点に立って必要な方法でパワハラ防止を徹底しなかったというと、中小企業にも義務を課したため、確実に守るべき内容に限定したと、考えるべきです。

ついでに言うと、パワハラ3要素の2番目も問題があります。
2 業務上必要かつ相当な範囲を超えた言動 として
社会通念に照らし、当該言動が明らかに当該事業主の業務上必要性がない、又はその態様が相当でないもの
との記載があります。

 何が社会通念かもわかりにくいですし、業務上の必要性がない又はその態様が相当でないということもわかりにくいです。一般には、業務上の必要性のない言動をしませんからね。態様の相当性の問題で出てくる決まり文句は、「昔はもっと厳しかった」です。大体が自分がやられたように部下にやっているわけです。これでは、よほど異常な行動でなければパワハラにはなりません。それでも、裁判所では莫大な損害賠償を企業に命じることがありうるのです。

部下が萎縮したり、反発したりするような言動は、余裕のある企業であれば、それは、業務に必要がないし態様が相当ではないと判断するべきですし、就労環境を悪化させるとするべきだと思います。

だからと言って直ちに処分をするなど上司を切り捨てるのではなく、改善を指導するということなのです。それがまじめに企業の業績を上げる思考だと思うのですが、国はそうは考えていないことになります。やはり労災認定がトラウマになっているのでしょうか。

うちはそんなに余裕がないよ、パワハラでもその場の必要な指示をしてしまわないとならないよ。研修をしたり、労務管理の指導を受けたりする費用もないし。
という場合には、指導後のフォローをきちんとやるということです。
従業員に、きつくいって悪かったと、他の従業員の前で謝り、憎くて言っていたわけではなく、もしかしたらいい方がわからないのかもしれない。あなたの仕事ぶりは評価しているので、勘弁してほしいと告げることなのでしょう。

そんなことを言いたくないなら、今回の三部作をよく読んで、積極的な目的をもってパワハラ防止に取り組むしかありません。

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パワハラについての誤解2 物に当たることや乱暴に事務用品を扱うということがパワハラになるのか [労務管理・労働環境]


前回の記事が思った以上にお読みいただけましたので、調子に乗って続編を書いています。

前回のおさらいを述べますと、必ずしも部下に身体的な痛みを与えようとしなくても、その時の具体的状況からパワハラかどうかは検討するべきで、特に会社のパワハラを防止して生産を上げたいと思った場合は、部下が萎縮したり反発するような行為は会社としては辞めさせて、もっと効率の良い指導方法を指導しなくてはならないということでした。だから、同じ力で肩をたたいても、パワハラになる場合もあるし、ならない場合もあるということを言いました。

その一番肝心な部分をご理解されたか否かということで、今回は冒頭に事例問題を提示しましょう。

<例題>
部下が仕事で初歩的なミスをしました。上司は、そのことに気が付いたとたん、愚痴も部下批判も言葉ではせずに、眉間にしわを寄せて不機嫌な表情をして、重量が5kgある穴あけパンチをぞんざいに扱って資料に穴をあけ、その後音が出るほど乱暴に失敗した部下の机の隣の机の上に置きました。

上司の行為はパワハラに該当するとして、会社としては改善を促してよいでしょうか。

<問題の所在>
厚生労働省の典型例の説明では、身体的な暴力に該当する例として
① 殴打、足蹴りを行う ② 相手に物を投げつける、
を上げています。
該当しない例として
① 誤ってぶつかる、を上げています。
例題のケースでは、典型例としての身体的暴力には該当しないようです。

もし、穴あけパンチを使う目的もないのに机から取り上げて、意図的に床に投げつければ、これは明らかな威嚇行為であり、「間接暴力」として、会社としては理屈抜きにやめさせるべきだと思います。

では、穴あけパンチで書類に穴をあけてファイリングするという用事はあったことはあったけれど、乱暴に扱ったために穴あけパンチを机に戻すときに比較的大きな音が出たという場合はどうでしょう。

これは、「暴行」だと認定することはなかなか難しいことです。間接暴力に該当するかどうかも難しいと思います。

それでも、パワハラに該当する可能性のある行為です。少なくとも、このような事情を会社が把握したならば、是正を指導するべきです。
むしろ、これまでパワハラ防止義務が企業に課されていなかった時代は、企業としては、このような乱暴な上司従業員に対して、なかなか指導をすることができなかった、二の足を踏む状態だったようです。しかし、今後は防止義務が課させられたので、「こういうことは防止するように国から言われている」という言い方で指導をすることができるようになったと思うべきでしょう。

乱暴な上司従業員と会社の総務など担当者の想定問答
担当者「大きな穴あけパンチを○○さんの隣の机に勢いよく置いたということですが、これは○○さんやほかの従業員が委縮してしまうので、パワハラになってしまう可能性があるので、ご注意ください。」
乱暴上司「え、パワハラですか。私は暴行をふるったわけではないですし、脅かそうと思ったわけではありませんよ。多少ガサツなところはあったかもしれませんが。」
担当者「それはわかっています。でもどうやら、パワハラって、部下が萎縮したり反発したりするような行為をいうようなのですよ。そうはいっても、あなたを処分するとかという話ではありませんから、心配しないでください。あくまでも、大きな音がするように重量のあるものを机に置かないで下さいという業務指示なんです。こういう業務指示をしないと、こちらも注意を受けてしまうので、ご理解ください。」

別バージョン
乱暴上司「私はそんなに勢いよく置いたかなあ。どのくらいが『勢いよく』ということなんだ。」
担当者「やっぱり、相手が萎縮するような置き方がだめだということなのです。処分をするわけではないのであなたの方で『勢いよく』ではないとおっしゃるならば、本当にそうなのだと思います。見ていた人が委縮したと言っているようなので、くれぐれも相手を委縮させるような行動にお気を付けください。」
乱暴上司「見ていたというのは誰なんですか。」
担当者「それは言ってはダメなことになっているようなので、ご不快の段は申し訳ありません。くれもぐれもあなたの行為を認定しているわけではなく、今後委縮されそうなことは避けてください。ということでご理解お願いいたします。」

こんな感じでしょうかね。会社の担当の方が、法律が変わったことを良いことに、今まで言えなかったことを、「言わざるを得ない。」という言い訳をしながら言うようにするということでよいのだと思います。責任は上手に国に押し付けてください。ただ、最終的には経営トップが、断固パワハラを失くして従業員のモチベーションを下げることをしないということが一番大切です。

だから厚生労働省の典型的な6類型
1 身体的攻撃(暴行、傷害)
2 精神的攻撃(脅迫・名誉棄損・侮辱・ひどい暴言)
3 人間関係からの切り離し(隔離・仲間外し・無視)
4 過大な要求 (業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制・仕事 の妨害)
5 過小な要求 (業務上の合理性なく能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや仕事を与えないこと)
6 個の侵害 (私的なことに過度に立ち入ること)

このどれに当たるかということを吟味する必要はないのです。あえて言えば穴あけパンチの件は、2の精神的攻撃に該当するのですが、解説の脅迫にも、名誉棄損にも、侮辱にも当たらないと思います。ただ、あえて言えば、侮辱が一番近いということになると思います。乱暴な上司が、失敗した部下を、その人の席の近くで大きな物音を出しても構わない人間だということを同僚の前で表明したということですから。

しかし、そのような分類をしようとすると、かえってわからなくなったり、パワハラであると言えずに、改善のチャンスを逃してしまうことになります。これは、会社にとって回復しがたい損失になる可能性があるわけです。

 「同じことを取引先に対してやれるのか」という基準もよいかもしれませんね。取引先の担当者の発言に腹が立ったら、重量物をその担当者の近くの床に乱暴に置くようなことをその上司はするのかということですよね。

かえって自分のところの従業員は、今後末永く会社のためにパフォーマンスを発揮してもらわなくてはならないのですから、取引先よりも大事に扱わなければならないと考えることはおかしなことではないと思います。


* 今回の記事は前回の記事と合わせてお読みいただいた方がよろしいと思われます。

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パワハラの誤解1 暴力がなぜパワハラとなるのかを理解しないと、「どの程度の暴力ならば許されるか」等という馬鹿な議論が始まる。パワハラはどうしてしてはいけないのかという基本を考える。 [労務管理・労働環境]


パワハラ防止義務が、今年から中小企業にも課せられました。何を防止すればよいのか、実際のところよくわからないという人もいらっしゃいます。実はこういう方は本気でパワハラを防止しようとしている人です。厚生労働省のチラシを見て、うちは大丈夫などと思っている会社こそ注意をする必要があります。私が読んでも厚生労働省のチラシは、最低限度のことしか書いてなくて、実際企業として何に目を光らせればよいか、イマイチよくわからないと感じることが正解だと思うからです。

こういう場合、考える順番として、なぜパワハラを防止しなければならないのかということから考えることが効率の良い考え方です。

この場合、国の思惑と企業の思惑は別のところにあります。しかし、結局はやることは一緒になるので、両方考えてみましょう。

1 労働者の精神的健康 
国の思惑は、働き方改革の一環として、労働者の働く環境を整えるということが第一です。しかし、昨今、パワハラなどによるうつ病の増加が、労災補償の財政を圧迫しており、財政的観点からもパワハラによる精神損害の被害を防止することが求められているのです。それができれば十分だというわけにはいきませんが、労働者の健康、特に精神的な健康を害さないためにパワーハラスメント防止するということは基本的な視点です。

特に自死や長期休業に至るようなパワハラは絶対に起こしてはなりません。
このような観点からは、労働者の立場でパワハラ問題を取り組む人間から、企業は話を聞くべきです。会社にとって厳しい考え方を知ることは、実際に事件が起きて裁判になる場合という現実を想定することができますし、そのためには事件を起こさないことが肝心だということをはっきりと認識することができます。
但し、あまり極端な考え方を持つ人の話は参考になりません。

2 会社の利益を害すること

1)パワハラが起きて広く知られてしまうと、会社にとっては大きなダメージとなります。
・ 莫大な損害賠償の出費
・ 労基署の関心を集めてしまう
・ 報道をされることによる企業イメージの低下、株価や売り上げの低下
・ 従業員のモチベーションが下がる
この辺りまではよく言われていることです。

2)パワハラが公にならなくても企業損害は想定されます。
・ 理不尽な叱責(理由がない叱責、一方的な評価、人格を否定する表現等)は、それをされた従業員だけでなく、それを聞いている従業員にとっても、会社に対する帰属意識がなくなります。「自分が所属する会社のために頑張ろう」という人間として当たり前の感情が消えてなくなってしまいます。
・ 特に理不尽な叱責がなされると、従業員は防御の姿勢に入ってしまいます。「私が悪いわけではない。」等という言い訳を考えることに気が向いてしまって、自分がどう改善すればよいのかということを考えようとしなくなるということが起きてしまいます。このため、何度同じことを言っても改善がなされないということが起きてしまいます。
・ 頑張っても報われないということを知らされてしまうと、頑張ることが馬鹿らしくなります。表面を取り繕うこと、つじつまを合わせることだけを習熟していきます。
・ 自分の頭で考えて行動することによって叱責をされてしまうと、叱責されないように言われたことだけをするようになってしまいます。叱責されないということが会社での最大の目標になってしまいます。

3)なぜ、従業員が傷つくかを考えましょう
人間は、会社をはじめとして群れの中に所属すると、無意識に、無自覚に、会社の秩序を維持するための貢献しようという気持ちになってしまいます。この秩序は、社訓などで張り出されるものではなく、上司が作り出す秩序に参加しようという意識が生まれるということです。
 もっと簡単に言うと、上司から自分の労苦をねぎらってもらいたいし、自分の努力を評価してほしいという意識を持っているのです。最低限、公平に扱ってくれるだろう、仲間の人間として尊重してくれるだろうと期待をするわけです。
 ここでパワハラを受けるということは、最も正当な評価を受けたい人から不当評価を受けて、仲間として扱わないというメッセージを受けることですから、カウンター攻撃を受け、大きな精神的ダメージを受けてしまいます。
 つまり、素朴な人間、会社としての秩序作りに無意識に貢献しようとしているまじめな人間ほどパワハラで傷つくということは大切な事実です。

また、パワハラを受けて精神疾患になったり自死したりする人たちは、そんな無理筋の上司の指示にもきちんと対応しようと思ってしまうまじめな人間たちですし、決められたことはやらなければならないという責任感の強い人たちであり、頑張れば何とか出来てしまう人たちなのです。そうでなければ、悩んだりしないと思いませんか。私ならできない業務指示を受けたら、適当にやってみてできませんでしたと悪びれないで報告するだけでしょう。

パワハラは、形式的な目標を達成するために、無理を命令し、できないと叱責するということが典型的形態です。上からの目標設定を遂行しようとして無理を部下に押し付けるという具合に起きることが多いです。

そういうパワハラで会社から離れていく人間は、まじめで、責任感があって、能力がある誠実な人間ばかりなのです。
企業秩序なんて興味が無いという人間は、言われたことをやらなければならないとも思いませんので、パワハラを受けても受け流すことができてしまいます。いつ辞めてもよいやという考えがあるからパワハラなんてそれほど気にならないのです。そういう人間だけが会社に残るというのがパワハラです。

私は、会社にとって大変恐ろしいことだと思います。

3 暴力はなぜいけないのか。問題提起。

暴力はなぜいけないのか。
この問いに対してどうお答えになるでしょう。
「ダメなものはダメ」
「暴力はいけないことだということに理屈はいらない。」

私はそれも正解だと思っています。

それではどこからがやってはいけない暴力なのでしょうか。

注意しながら、少し強めに肩をもむ行為はどうでしょうか。
自分の片手で真正面から相手の肩を押す行為はどうでしょうか。
袖口を引っ張る行為はどうでしょうか。

励ますにしてはやや乱暴に背中をたたく行為はどうでしょうか。

それらの行為が、叱責することに伴って行われる場合と
部下が手柄を立てたときに賛辞を述べるときに行ったので変わるでしょうか。

4 パワハラになる基準の考え方

なぜ、パワハラを防止する必要があるか。
労働者の健康を害さないため
会社に損害を与えないため
ということから考えていけばよいです。

それをされた労働者が、反射的に防御反応に入り、萎縮したり反発したりすれば、様々な損害が企業や労働者に生じてしまいます。
それは、本能的に従いたいと思っている上司からカウンターを受けるからでした。

そうだとすれば、それをされた労働者にとって、その行為によって自分が仲間として尊重されていないと感じる行為をパワハラとしてさせないようにするべきなのです。

肝心なことは上司が、悪意がなかったとか、攻撃的な気持ちがなかったとか、不当な評価をしたつもりはなかったとか、そういう上司の気持ちはどうでもよいということです。あくまでも相手がどう思うかということです。

次に、労働者は強い、弱い、感じやすい、感じにくいなど様々な性格をしています。誰を基準として、仲間扱いをしていないと感じるかを判断するべきかということです。落とし穴は厚生労働省のチラシにありました。「平均的労働者を基準とする。」ということを言っています。私はこれはどうかと思うのです。

平均的労働者という労働者はいませんから、結局は判断する人の主観に最終的にはゆだねることになります。例えば労災や損害賠償で、裁判所が「平均的労働者ならばそこまで傷つかないはずだから、パワハラではない。」と言ってくれれば会社としてはよいのでしょうか。しかし、そういってくれるかどうかなんて、「平均的労働者がどう考えるか」ということを考えるのと同じでふたを開けてみないとわからないことです。

そもそも、会社の中でパワハラを防止するための考えです。上司が部下の性格をわからないで叱責していたなんて言い訳にならないじゃないですか。そんなことをわからないで上司は務まらないわけです。こういう当たり前の現実を、どうも厚生労働省はよくご存じではないようです。

病的な悲観的考えを持つ場合や、被害意識で仕事ができない場合を除いて、その言われた人がどう思うかということを基準に考えるべきだと私は思います。
仮に国の言う通り平均的労働者を基準にするとするならば、上司の叱責の後で、平均的に考えることができる労働者の一人が、必ずフォローをする仕組みを作っておくべきです。言われている本人は、自分を正当に評価してほしい、仲間として尊重してほしいと思っている当人からのカウンター攻撃を受けていますから、言葉を客観的に評価できる状態にはありません。だから第三者のフォローがどうしても必要なのです。

会社にとって必要な人材が流出したり、コストパフォーマンスを発揮できなくなることを防ぐためにという観点から、具体的に考えるべきです。間違っても、「平均的労働者」をパワハラ上司に都合よく考えて、このくらいならまだ「平均的労働者」ならば精神的ダメージがないはずだという風に使ってはなりません。
それでは、企業にとってパワハラ防止の意味が半減するからです。

5 3の答え合わせ

3の答え合わせは、上司ならば、具体的な部下が、それをされたことでどう思うか厳しく考えてみて答えを出さなければなりません。叱責をしながら行うことはほとんどが、相手は侮辱された行為だと思うでしょう。同性であろうと異性であろうと、相手の体に触れるということ自体が行うべきことではないということです。
賛辞の際にこそ、自分と相手との関係にふさわしい行動を心掛けるべきかもしれません。賛辞だからと言って、相手が不快に思うことをしてしまったのでは、部下は報酬体験を十分に体験することができません。また、もう一度という気持ちになることが弱くなるということを考えるべきです。

但し、パワハラであれば処分するという硬直な扱いも企業の実情には合わないように感じています。特に上司が善意である場合は、粘り強く部下の心情を説明する場面も出てくるでしょう。会社が処分するよりも、上司が部下と和解をする方が双方にとってもよい場合があります。会社としては、硬直な姿勢を取らずに、双方とよく話し合って、自分が尊重されているということを実感を持てる職場にするということが、パワハラ防止義務の根幹であると私は思います。

暴力は、それをされることによって、精神的打撃が大きいということに注目しなければなりません。自分の健康や痛みのない状態を尊重されないということは、自分という存在はそのようなことを尊重されなくてもよい存在だ、価値の低い存在だ、いつ追放されてもおかしくない存在だという強烈なメッセージになります。同僚の前の暴力は、それを第三者に表明されてしまうことですから、顔をつぶされてしまいます。もはや対等の立場で同僚と接することができないという絶望感を抱かせてしまいます。

仲間にとって価値の軽い人間だという態度表明が暴力ですから、暴力の重さとか場面にかかわらず、深刻な精神的ダメージを与える行為。だから絶対に行ってはならないということが正解だと思います。

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支援者の「支援があるために」紛争をやめられなくなってしまった事例 職場内セクハラ事例 [労務管理・労働環境]


離婚事例と「支援者の役割」ということは、これまでさんざん書いていますので、それ以外の事例についてご紹介しましょう。いつもの通り、本当によく似た複数の事件をミックスした架空事例です。大事なこと以外はだいぶ創作が入っています。

職場のセクハラを被害者が訴えた事例です。

女性職員が上司に一方的に好意を持たれてしまって、最初は自分ではうまくあしらっていたつもりでしたが、次第にしつこくセクハラ行為が行われるようになった。同僚に相談したところ、きっぱりとした態度を取りなさいとアドバイスを受けたので、女性職員は上司を用心するようになり、適当にあしらうことをせずにきっぱりと誘い等を拒否する態度になりました。上司はその態度変化に異様に立腹し、数々の嫌がらせをするようになったという事例です。

女性職員は適応障害の診断を受けて、休職をしました。上司は転勤させられて女性職員は職場復帰したのですが、通院は継続し、治癒の見通しが不明だという状態でした。

この女性は、私のところに来る前に、私以外の弁護士を代理人として損害賠償の裁判を行っていましたが、敗訴しています。訴訟記録を拝見したのですが、弁護士はとても熱心に頑張っておられました。ただ、裁判官の「独自の社会常識」に切り込むことができないために敗訴になったという色彩もあり、確かにすっきりしない判決でした。

敗訴判決の後、女性を支援する人たちが、ネットで労災関連の弁護士で検索して私のところにその女性がいくことを強く勧めたそうです。職場の外の人間を巻き込んで大きな問題になっていたようです。
ただ、裁判がうまくいかなかったという結果がすでに出ているのですから、いくら私でもそのあとのプランがなかなか思い浮かびません。そもそも「いくら私でも」というほどの者でもありませんし・・・。

しかし、この女性を支援する人たちは結構多くいたようで、「裁判に負けたことであきらめないで、最後まで戦おう。私たちはあなたを支援し続ける。」、場合によっては弁護士費用もカンパするみたいな勢いで女性を「励ましていた」ようでした。

この事例は、励ましたくなる条件もそろっていました。

まず女性の容姿です。女性は、間違いなく美人ですが、派手な顔立ちではなく、冷徹な美人タイプというわけではありません。どちらかというと童顔で、性格も押しつけがましくないタイプでした。一般的な男性ならば本能的に「守ってあげたくなる」容姿だったと思います。おそらく私も相談者としてではなく、街ですれ違ったら振り返ってみてしまうような魅力があった顔立ちでした。これが、事業場を超えて支援者が存在した大きな理由だと思います。

一方パワハラセクハラ上司は、小太りで、人とコミュニケーションをとることは苦手なタイプで、髪型や服装、体形も「だらしない(清潔感がない)」という形容がなされるような外見だったようです。

その男が、女性にちょっかいを出そうとしたし、報復で異常な嫌がらせをしたということですから、周囲の人々の男性上司に対しての報復感情が高まっていったという、そんな感じだったようです。なるほど、支援をしている人たちにしてみても納得のゆかない判決が出ても振り上げたこぶしを下ろしにくいということだったのだと思います。

最初の裁判をこの女性がどこまで主体的に行っていたのかはわかりませんが、裁判の後の私への来訪は、明らかに他人から言われてきたような感じでした。
ただ、女性としては、「せっかく自分を支援してくれている人たちがいるのに、自分の一存で上司との紛争を終わりにするとは言いにくい。」という感情も感じられました。

私は「それはお困りでしょうね。」と思いました。話をいったん、ご本人の精神科治療の様子について伺うことにしました。訴訟や労災申請など、結果が出るまで時間がかかるということだけで、それだけで精神状態を圧迫され、悪化し、補償どころの問題ではなくなる危険もあるからです。

主治医は、知る人ぞ知る名医でした。一計を案じ、この主治医の先生に私は報告書を作成し提出しました。現在の彼女の置かれている法的立場、これから考えられる法的手続きのメリットとデメリット、見通しと準備、精神的負担などをできる限り詳細に記載して彼女から主治医に提出してもらい主治医としての意見を聞いてもらうことにしました。

主治医の先生のお話は、予想通り、現在治療が奏功して、治癒しかけている状態である。精神的負担の大きな行動は避けることが本人の今後にとって望ましいと主治医の立場での見解をいただきました。

これで周囲の応援団を黙らせることができるわけです。先生の権威を拝借させていただいたということになります。先生のご意見は、応援団だけではなくご本人にも大きな影響を与えたようです。
その上で本人に対して私の仮説を聞いてもらいました。

どうも「応援団の描く事件の絵柄」は以下のようなもののようでした。
悪逆非道の悪魔みたいな男が肉食獣が小動物を襲うように、自分の欲望だけで、立場の違いをよいことにその女性に対して人格無視の攻撃を行った。自分の欲望を拒否したために自分の会社内の立場を利用して異様な報復行動を行った。
というものです。

これに対して「私のみたて」は以下の可能性があるというものです。
その上司は、あなたのことが間違いなく本当に好きだったと思う。それはこれこれこれ(省略)から判断できる。それまで優しくしてくれていたあなたから、突然人が変わったように冷たくされるようになったので、戸惑い、腹も立てたのでしょう。それまであなたに優しくされていたと上司が勘違いした理由はあなたの(省略)というところに原因がある。但し、これはあなたが悪いわけではない。悪いわけではないけれど、快適に人間関係を形成することを望むならばこれからはこういう態度(略)を取れば解決できる。彼が勘違いして、あなたを女神のように思った理由は、彼にはこれこれこういう(略)生い立ちがあった可能性がある。だから、きちんとした手順を踏まなかったのは、そういうことを知らなかったからである可能性が高い。報復の嫌がらせは、大の大人がするから異様だし気持ちも悪いが、子どもであればそういう態度を、弟や妹に取ることはありうることだ。現在その報復の可能性がなくなったのは、周囲から非難されて自分のしていることに気が付いたからだと思う。
一言で言えば、彼の人格的未熟さが原因だったのではないか。

客観的な真実はわかりません。
でも、この説明を聞いて彼女は肩の荷が下りたような様子を見せました。
自分がもてあそばれたのではなく、真摯に好意を寄せられていたのではないかというところでは、彼女はほっとしたような表情になりました。

支援者たちは、自分の怒りをもって、その上司を悪く悪く描くようになっていたのだと思います。しかし、その女性にとっては自分が虐げられたと思うよりも、自分の対応がまずかっただけだったと思う方が救われることだったのかもしれません。

応援団の方には、高名な主治医と、普通の弁護士である私がこう言っていたからやめると言ってよいよとお話しました。

それからほどなくして、彼女から手紙をいただきました。「主治医から、もう通院の必要がありませんといわれました。薬も飲んでいません。」とのことでした。変な言葉を使うと「してやったり」という感覚でした。

応援団の応援が女性の精神を圧迫していたという要素があったのかもしれません。紛争を自分で終わりにするという本人の決断が、絶望感を払しょくして精神状態の回復を促したのかもしれないと思いました。

ここで言わなければならないことは、応援団が悪意のある人たちではないということです。むしろ、善意の人と言ってよいと思います。弱い立場の女性事務職員をかばって、ハラスメント上司を制裁しようという心意気を持った正義の人達です。他人をそうさせる説得力も彼女にはありました。

しかし、どうやら「正義感」が勝ってしまったようです。

正義感が勝ってしまったため、戦い続けることによる本人のデメリットについて、思いを巡らすことができなくなってしまったのだと思います。
裁判をすることによって、少なくとも弁護士や裁判官には他人に知られたくないことを何度も告げなければなりません。相手方からは、その女性職員が上司を挑発したみたいなことも言われるわけです。裁判をするたびに精神的に打撃を受けるでしょうし、敗訴になれば絶望感も抱いたかもしれません。状況から見ても、一般の方だったとしても一度裁判で負けている以上、それを覆すことは簡単ではないことは理解できることではないかとも思えます。

正義感というものは、本来的に、本当に守らなければならない人の利益に目が向かなくなり、敵を倒すことばかりが優先されてしまうという副作用があると思います。

本件についていえば、判決を読んだ時には納得はできませんでしたが、もしかすると実態は、セクハラという問題ではなく、女性扱いがわからない男性がみんなのマドンナを好きになってしまい、段取りがわからずに嫌がられることをしてしまったということでよかったのかもしれません。
私からすれば、何も特筆的するような損害を被ったわけではないと思われました。それなのに、裁判などの紛争を継続することで、変な誤解を受けて、変な評判が生まれるとか、色眼鏡で見られることによって心理的に追い込まれる危険もありました。

ただ、私は、どちらにするべきかという意見を提案することはしません。双方のメリットデメリットと見通しを提示して、あくまでもご本人が決めることです。自分に得るものが無い場合でも戦わなければいけないときもあるものです。それはその人の生き方なので、弁護士が口を出す話ではありません。

本件では、彼女の自由意思による意思決定を引き出すためには、支援者に対する彼女の忖度を排除することがどうしても必要でした。そのためには支援者の善意も理解し、今後の関係も維持しながら紛争を収めるという方法が必要でした。こういう時役に立つのは医者や弁護士が悪者になることなのだと心得るべきです。

結局彼女は、「自分のことを自分で守る」ということを始めることができました。自分の頭で考えて、自分のしたいことをするという方法を学習したわけです。もともと芯の弱い人ではなかったと思います。しかし、事件を経験して、自信のようなものをさらに獲得して、より一本筋の通った考えができるようになったと思います。

かつてのパワハラ上司とすれ違っても、悠然と会釈をして通り過ぎる彼女の姿を思い浮かべていました。



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【+宣伝】「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」(遠見書房)の熟読が必要なコールセンターの電話担当者の労働実態 [労務管理・労働環境]

本当はこの本は、弁護士とその依頼者の事例を踏まえて書かれたものです。法律分野なのか心理分野なのかイソップのコウモリみたいな本にもかかわらず遠見書房様のご英断で昨年7月下旬に初版が出ました。10月に重版となったとのことで、それほど遠見書房様へのご迷惑が甚大というほどではなくすんだのかなと胸をなでおろしているところです。それでも、やはり、自分でも宣伝をしないと義理が果たせないと思って、宣伝をしようとそういう記事です。

本当の本の目的は、依頼者は弁護士に頼むような紛争を抱えているわけだから、冷静ではいられないわけで、冷静でいられなければコミュニケーションに難が出てくるのは当然のことです。それにもかかわらず、もともと冷静ではない人ではないかと弁護士に思われて、コミュニケーションが取れなければ、弁護士に頼む意味がなくなるわけで、そのために弁護士があらかじめ冷静ではいられないという事情を熟知して、それを差っ引いてコミュニケーションをとりましょうというそのための技術書だったのです。

ところが実際の反響としては、「話す相手との苦労は、自分だけのことでなく、みんな感じていたことか。安心した。」という弁護士(初心者から大ベテランまで)の声が寄せられ、弁護士の精神安定にも役に立っているようです。

あと、サービス業の会社がまとめ買いをしていただいたり、学校現場で結構読まれていたりするようです。これは、結構発売当初から情報をお寄せいただいておりました。

今回、新たな情報をいただいたので、宣伝を兼ねてご報告します。

それはコールセンターの電話担当の方にも読まれているということでした。
コールセンターは、私、ちょっと前に、スーパーバイザーとしてセンターにどでんと座って仕事をしていたことがあるのです。電話担当の方を指導する人が何人かいて、その人を指導する人という役割でした。モニターで実際の応対を聴いたりもしていたのですが、そういう経験が何かの役になったのかも知れません。

このコールセンターの仕事って、かなり精神的ダメージがあるようで、精神的に悪化する人の話を最近よく聞くようになりました。精神疾患を発症させて休職する人、精神的不安定になって夫に対して敵対心をもって連れ去り別居をする人。男女関わらず様々です。

コールセンター職場の精神的ダメージは二種類あって、一つは職場の人間関係からくる精神的ダメージ、もう一つは電話の相手から受けるダメージです。今日は後者について少し考えます。

一口にコールセンターと言っても、どういう人から連絡が来るかということはそれぞれ違うようです。しかし、メーカーのコールセンターであれば製品のトラブルがあって電話をかけてくるだろうし、損保のコールセンターというか事故処理担当であれば、事故があって精神的に動揺している人から電話がかかってくるわけです。最近は、相談事の相談先の紹介というコールセンターもあるようで、やはり冷静でない人の相談を受け付けなくてはならないようです。

結局、電話の向こうの人は、精神的に追い込まれている事情があるということになります。私は、事務所の電話が不具合を起こして、コールセンターに電話をして直したことがつい最近ありましたが、やはり精神的に動揺していたと思います。うまく言葉による説明ができなかったかもしれません。例えば、パソコンが不具合を起こした人、給湯器が故障した人、照明がつかない人、それぞれ日常生活が通常通り営めなくなることでパニックになることはありうることです。交通事故の被害者、加害者はなおさらでしょう。

多くのコールセンターでは、電話対応はマニュアルで行われます。しかし、複雑な内容になればなるほど、その解決方法についてはマニュアルがあるのですが、電話の相手の状態別の対応方法はありません。少なくないマニュアルでは、マニュアル通り返答することで、相手を余計に怒らせてしまう回答が掲載されているようです。でもマニュアルからはみ出した回答をするわけにはゆきません。間違った回答をしないという目的では、マニュアル通りに回答をしてほしいという要請があるわけです。電話担当者の考えで臨機応変に回答方法を変えることも禁止されていることが多いようです。
そういうマニュアルががちがちになっていると、電話担当者は、ある程度経験を積めば、こういう言い方をしたら、相手を逆上させるとわかるわけです。しかし、
マニュアルからはみ出たことを言うわけにはいかない。そうすると、この回答で相手を怒らせることが分かっても、自分から相手を怒らせる行動をとらなくてはならない、自分を危険な目に合わせることを自分から行うということになってしまいます。「自分で自分の身を守ることができない。」という、人間に限らず動物全般にとっての極めて大きなストレスが生じてしまいます。

この現象は理解ができない人が多いと思います。「だって、電話で文句を言われても、あるいは怒鳴られても、命が奪われるわけではない。身の危険があるわけではない。電話担当者はどこの誰だからわからない。そもそも相手が逆上しているのは、相手の事情であって、電話担当者には責任がないのだから、おどおどする必要はないではないか」と思う人がいると思います。これはどうやら違うようです。

こういう冷静な人の感覚は、冷静に考えた場合の理屈にすぎません。感情は合理的に生まれるのではなく、反射的、予防的に生まれるようです。
反射的にという意味は、その言葉を聞いたときに即時に感情が生まれてしまうということです。冷静に考え直してから、さあおびえましょうという仕組みではないということです。予防的にということは、どの程度の危険があればどの程度おびえるかということではなく、おおざっぱに危険があれば程度を大きなものと想定して怖がったり、逃げたりするということです。おもちゃのピストルを向けられても、突然であれば恐怖を感じます。実際より大きな危険が起きてしまうという無意識な想定のもと、飛び上がったり目を大きく開いたりするわけです。その方が生き残る可能性が高くなるからです。「おや、このピストルはおもちゃかな。本物ならば何発弾が込められているのだろう。」とか考えていたら、本物のピストルだから命の危険があるという思考にたどり着いたころには撃たれているからです。そうすると、誰か人間が自分に対して怒りをぶつけてきただけで、まず感情は恐怖を感じてしまうわけです。電話の向こうで相手は確実に怒っています。そしてその怒りが自分に向けられているわけです。そうなると、人間の本能として、そしてその恐怖の原因となった危険認識は、暴行などが行われるような、あるいはもっと大きな危険認識を抱く可能性があるということになります。これが電話担当者の感じているストレスなのでしょう。

そしてその危険を自ら招く回答をすることが命じられているということで、ストレスはますます強くなるわけです。

こういうストレス職場なのですが、マニュアルには、電話の相手の感情に対する対処方法はあまり書かれていません。特に講習もないようです。これが、私が少し担当したコールセンターのように、大勢の人数で電話担当をして、何人かに一人のアドバイザーがいて、さらに総括的なスーパーバイザーがいれば、それだけで安心感がありますが、自宅に転送されてくる電話で電話応対をしている人はそれもないことになります。

それでも担当者の報告や相談などで、上司が親身に対応して恐怖や不快の感情を手当てしてくれれば少しはましなのでしょうけれど、上司もマニュアル通りの仕事にせいぜい自分の経験しかプラスすることができませんので、有効なクールダウンをすることができないようです。かえって、マニュアルに従って、感情的になっている相手の対応に困って時間が取られているにもかかわらず、「対応時間が長すぎる」とか「対応アンケートで『不満がある』との回答だった」というマイナスの事情を持ち出して、電話対応者を注意してしまうという流れになることも少なくないようです。会社は、そのことに言い訳をきちんと用意しています。「そういうイレギュラーな電話対応の結果で、査定を下げるということはありません。」というのです。あたかも査定さえきちんとやれば、使用者としての安全配慮義務は尽くしたというかのようです。これは落とし穴を見逃すことになります。

電話担当者ではなくとも、人間は日常、危険を感じることがたくさんあります。例えば、交通事故の可能性がなくても、鉄の塊である自動車が近くを通行していれば、初めて見たときは危険に感じるわけです。しかし、自動車というものは交通ルールに従って走行し、歩行者と接触することがないので危険なものだということを学習していく中で怖さがなくなっていくわけです。このように、日常の生命身体の危険や対人関係的危険は、学習によって危険意識が軽減されていきます。良くも悪くもこうなります。但しそれは、「実は危険ではなかった。」という学習ができた場合です。

電話担当者は、この実は「実は危険ではなかった」という学習ができません。感情的になって怒鳴り散らされ、何も危険性の解決がなされないまま電話が切られ、また次の電話がなるわけです。上司が危険意識を解消する手立てをとらない。そうすると、毎日毎日解決しない危険意識、ストレスが蓄積されていきます。不安感が蓄積されてしまうと、些細な刺激も怖くなります。例えば、あなたが務めている会社の近くで、発砲事件があり人が死んだという事件があり、犯人は逃亡中だという解決しない危険意識があるとします。たまたま夜遅く、人通りがなくなったときに会社を出たとたん、タイヤのパンク音、あるいは花火の音がしたとしたら、また発砲があった、自分が撃たれるかもしれない。と思うことは想像しやすいのではないでしょうか。

危険意識が蓄積されてしまうことによって、「危険を感じ、安全を感じる」という脳の正常な機能が乱されていくということは想像しやすいことのように思われます。

コールセンターは、誰からかかってくる電話かにもよりますが、このような危険をはらんだ仕事の内容だということになります。使用者は、このような感情や脳のシステムを考慮して、電話担当者の危機意識が解消される手立てを講じる必要がありますし、最低でも、相手を選べない以上、相手が感情的になったことで起きる一切の不利益、それが電話担当者の責任であるかのようなアクションを一切やめるべきです。

そして、電話の相手がなぜ感情的になっているのかについて、また、感情的になっている相手に対してどのような対応をするべきなのかについて、宣伝ですが「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」遠見書房を一人一冊買い与えて、
表紙修正.jpg
みんなで学習会をするなりして心の準備をしてもらわなくてはならないと思います。このような本は、実際にはあまりないということを電話担当者の方はおっしゃっていました。ほかにないかどうかは、私にはわかりませんけれど。

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業績をアップさせる指導になるか、生産性を低めてパワハラになるか。教え方がわからない時に行う指導方法とは。 [労務管理・労働環境]




「俺は教えるべきことを教えた。あとは自分で考えろ。」
ということは新入社員に対するパワハラになることが多いです。

新入社員は、考えても分からなくて無駄に何日も立ち止まり
苦しみ続けて仕事がいやになってしまいます。
これ、「そんな奴なら使えないから会社にいらない。」という人がいますが、
苦しむ人は、真面目に仕事をしようとしている人です。
とりあえず給料もらえばいいやという人は
自分で考えることに見切りをつけて
誰かにやってもらうか、
頭を下げてできませんでしたとヘロっと言えるのです。

真面目で、戦力になる人間に、手かせ足かせをはめるようなことをして
生産力が向上するわけありません。

「なんでこんなことができないんだ。」
「前に説明しただろう。」
という言葉ばかり言う上司は、自分の無能を宣伝しているようなものです。

なぜできないかを考えるのは上司の仕事だからです。
指導とは、客観的に「必要の範囲」というものがあるわけではなく
相手に合わせて行う必要があります。
相手がわからなければ、指導としては不十分です。
社会は厳しいということを覚えましょう。

「なぜできないかわからないこと」には理由があります。

「こんな知識社会常識だろう。知っていて当たり前だ。
この知識があれば、解決方法を考えることはできるだろう。」
という考えが正しいものだと思っているのでしょう。
しかし、これは間違いです。

先ず、知識は、ひとそれぞれで、興味のある得意分野もあれば
苦手分野もあるというのが当然です。

また、知識と知識を組み合わせること、つなぐことは
実は思考というよりも
知識を組み合わせる、その組み合わせ方の知識
という側面があります。
文系選択者にはわかりづらいことかもしれませんが、
これが真実です。

組み合わせたことのない人間は、いかに必要な知識があっても
組み合わせることは、ほとんど不可能でしょう。

業務というものは、
その業務を反復継続して行い、特別な技術、知識を習得するから
収入を得ることができるのです。
誰でもできることをやって収入が上がると思っている上司は
社会の厳しさを知りません。

この組み合わせの知識は、反復継続して組み合わせを行うことによって
効率よく習得することができます。
初期の指導とは、反復継続して作業をやらせるということであって
知識もないのに組み合わせを考えさせるということは
極めて非効率で、時間がもったいないということが科学です。

また、無能な上司は
自分ができなかったときのことを忘れています。
自分がそのような知識があったのか
知識を組み合わせることができたのか
おそらくできなかったことを忘れているのです。

名人と言われる人ほどこれは忘れてしまいます。
というか初めから体験していない場合もあります。

尺八のある大師範は、子どものときに尺八を初めて口に当てたところ
初めから尺八を吹けたというのです。
おそらく99パーセントの人は
尺八の音を鳴らすまでに多くの月日を費やしていると思います。

この大師範にとっては、尺八の音の出し方を教えるということは
なかなか難しいことなのだと思います。

まあ、一般の上司は、色々先輩から援助をしてもらって
仕事を覚えているわけですが
それを忘れているわけです。

尺八など楽器も同じで
どんなに才能のない演奏家でも
楽器は吹けるようになることがあり
そして一度吹けるようになると
どうしてあの時音が鳴らなかったのだろうか
ということがわからなくなることが一般的です。
というか
そんなことを考えることもそれほどいないわけです。

この上司も、この仕事を続けていくのであれば
懇切丁寧に教えることは、自分のキャリアアップにつながるのです。
新人が何がわからないのか、
知識不足か、知識の組み合わせ不足か
どうして知識の組み合わせがわからないのか
どう教えたらわかりやすいか
そういうことを考えながら教えることによって
つまり言葉に出して説明することによって
なんとなくやっていた自分の作業も
原理や目的を意識するようになれるし
そうなれば応用を利かせることもできるようになるからです。

そうして、上司としてのスキルがアップすれば
顧客に対するスキルもアップします。
社内での人間関係も良好になっていくわけです。
人にものを教えるということはそういうことです。

さらに、懇切丁寧に指導された部下は
自分が指導するときに、この経験をまねすればよいのですから
会社は永続していきます。

これを、こわもてで接して、厳しいことばかり言って
部下に緊張させるような指導をしていたら
緊張しているのですから、吸収も悪くなるだけです。
非効率ここに極まれりという感じです。

そして真面目で責任感がある人間から
やめたり、体調不良になっていく
こういうことなんです。

それでも仕事は日々変化します。
百戦錬磨の上司でも教える方法がわからない場面も出てきます。

教え方がわからない。というよりも自分でもわからない。
分からないということを部下に言うのは恥ずかしい。
上司の沽券にかかわる。
なんてことを気にする上司がパワハラをするような印象があります。
自分の立場を守ることに汲々としている人は
会社全体の立場とか、真っ当な対応というようなことを
気にしなくなってしまいます。

こういうことが許される会社は
会社全体が事なかれ主義に陥ってしまい、
自分の立場を守れるのであれば
会社が少々損をしてもかまわない
という風潮が蔓延していきます。

言われた通りのことをやっただけで
どうして自分の評価が下がるんだ
等と本気で考えてしまうわけです。
これでは人を相手にした仕事はできません。

では、どうするのか。

1 わからないことを認める。
これが第1です。
これが無ければ、次に続く得難いチャンスとなりません。
むしろこれができれば上司としては一人前です。

「俺がわからなければ、誰もわからない」
こういう発想に立てば何でもないことです。
この発想に立つためには
勉強、実践経験、そしていくばくかの図々しさが必要です。

新人は上司が「俺も分からない」ということで救われます。
真面目で責任感の強い人間ほど救われます。
「わからない時があって良いんだ
わからないと言っても良いのだ。」
ということを学ぶことは貴重です。

2 一緒に考える。
これは、部下にとって貴重な体験です。

なにせ部下は、どう考えて良いかわからないのですから
上司の思考の流れ、知識の組み合わせ方を勉強できるということで
すぐに実践に役立つ勉強になります。

わざとわからないふりして一緒に考えるという作業を
推奨したいくらいです。

経験不足で役に立たない部下との会議でも
上司にとってとても役に立ち
解決に向けて一人で悩むよりもよほど役に立ちます。

普通考えと話の順番については
脳で考えて、考えたことを言葉にする
と思われていると思います。

ところが必ずしもそうではないようです。
まさにこのブログでいつも感じていることなのですが、
言葉にすることによって、
考えがひらめくことがとても多いのです。

言葉にしなければ、そのことを意識しないのでしょう。
あるいは、言葉にすることによって
言葉にする前には思いつかなかった
言葉の意味だったり、その言葉から連想することだったり
そういうことが広がっていき
新しい思考が可能になるのだろうと思います。
詳しくはビゴツキーという人の文献をあたってください。

頭の中の言葉と口に出した言葉は別物なのでしょう。

2 それでも分からなかったとき

どんどん部下の経験値が上がっていくわけですが、
上司が相談してもわからない時どうするか。

同僚や自分の上司に聞いてみるということをするわけです。

これとても大事です。
先ほども言いましたが、考えるということは
知識をつなぎ合わせるという知識が必要だと言いました。

そのつなぎ方がわからない人がいたとしても
そのつなぎ方をわかる人もいるかもしれない。
そうだとすると、案外簡単に答えが出てくるかもしれません。

その課題を解決できるか否かというのは
必ずしもその人の能力と関係があるわけではないのです。
経験の違いというより、経験した分野はみんな違うわけです。
だからこそ集団で仕事をする意味があるというものです。

今に日本の労務管理は
こういう当たり前の原理で仕事ができないような状態に
労働者一人一人を追い込んでいるわけで
これでは生産性が上がらないのは当然です。

また、他者に相談することを部下が覚えるということも大事ですが、
自分の仕事の状況を仲間に伝えるということも大切なことです。
しょっちゅうこういうことをやるわけには行きませんが、
考えても分からなかったという内容であれば
ある程度の人数で共有することはとても有益です。

こういう業種を超えてしのぎを削っている状態のときに
成果主義的賃金体系なんて余裕のある個人プレーを推奨する労務政策なんて
誰が従うのだろうと不思議でたまりません。
それをすると安心するというおまじないみたいなものなのでしょうか。

3 最終的に分からなかったとき

誰に聞いてもわからない。考えてもわからない。
それを会社も知っている。
ということになれば、
課題を解決できないという結論を認めることになります。

それを認めて始めて
次善の策を考えられるわけです。

この事後処理ということも
とても大切なことです。
最も高度な仕事かもしれません。





ここで大切なことこそ、
別の同僚に教え方を援助してもらうということです。
ユーチューブチャンネルを複数閲覧するということと一緒です。
自分が忘れていたことを覚えていたり、
画期的な教え方を知っていたり、
思わぬ人が思わぬ指導をすることがあるわけです。

こうして協力し合って結果を出すということを教える事こそ
本当にするべき指導だと思います。



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差別は無知から始まることの実例と差別を受けた側を基準として考える必要性 聴覚障害の場合 [労務管理・労働環境]



現在聴覚障害者に対する差別のハラスメントの問題に取り組んでいます。

上司や同僚は、職場の調査において
あからさまな差別行為をしているのですが、
それを隠そうともせずに答えているのです。
それにも関わらず職場ではモラルハラスメントはなかった
と結論付けてしまっています。

上司も、同僚も、職場も
自分たちのしていることが差別であることに
気が付いていないということです。

こういうことが差別になって
聴覚障害者が傷つくんだよということを
あまりわかりやすく説明する者が実際には
あまり見つかりません。

感心したのは町草さんのブログです。
聴覚障害者とのコミュニケーションで配慮する事とは? | 町草のブログ (machikusa110.com)
https://machikusa110.com/2020/04/30/%E8%81%B4%E8%A6%9A%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%A7%E9%85%8D%E6%85%AE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93/

わかりやすいです。

先ず、一口に聴覚障害者といっても
聞えなさは人によって違う
ということが明快に書かれています。

つまり、この聴覚障害の方には聞こえても
こちらの方には聞こえない
ということがあるということで、

職場に聴覚障害の方がいる場合は
よく話を聞いて、何が聞こえて何が聞こえないか
よく理解する必要があるということで、
これがいの一番です。

また、それだけでなく
同じ音量の音でも聞こえるときと聞こえない時があるようです。

例えば話をしている人を見て聞いている場合は話は聞こえるのですが、
後ろから離されてしまうと聞えないあるいは言っている意味が分からない
ということがあるようです。

対面の話は聞きやすいけれど
何人かで話し合う場合は
聞える声と聞こえない声とあることになります。

「あの人の言っていることがわかっているのだから
私の声が聞こえないはずがない」
という思い込みが生まれる原因はここにあります。

また、早口で話したり、口ごもって話すなど
私たちはあまり意識していませんが
そのときによって話し方が微妙に違うのは当たり前のようです。

だから、急いでいたり、イライラしていたりすると
声が大きくても、内容を聴き取れないということがあります。

「いつも聞こえているのだから、今度も聞こえていたはずだ」
という思い込みが生じる原因になるでしょう。

だから、「(聞こえるように)言ったはずなのに聞えなかった
というのは、聴覚障害をいいことに
聞えなかったふりをしているだけだ。」
というひどい思い込みが生まれてしまうようです。

私の取り組んでいる事件では
面と向かって「卑怯だ」と言われたそうです。
言われている聴覚障害のある方は
どうして自分が卑怯だと言われるのか全く分かりませんでした。

大事な用事は、筆談とか、今ではインターネットを使って
伝達することが可能なので
今の時代、聴覚障害者を雇用している以上
それらの文字情報を使わない理由はありません。

ちゃんと規則に従って指示をしていると思っても
口頭で説明しただけの場合は
しかも細かい基準なんかは、
きちんと聞き取れているか難しいところです。

また、規則ならば何らかの文字情報があるはずで
それを示さないで口頭でだけ説明するような人の場合は
そのときによって指示の内容が変わることもあるのではないかと
疑いを持ちたくもなります。

それから、口頭だけの情報の場合は
正確性を期すため、何度も聞き返すことは仕方がありません。
それを煩わしがっていると
だんだん聞くのが悪いことのように思えてきてしまうでしょう。

益々伝わらなくなってしまいます。

それからひどいなと思うのは
「聞えない時は聞こえないと言え」
という言葉です。

だって聞えないのですから、
今自分が聞こえていないのかさえも分からないからです。

自分がどうしたら改善できるかわからないことで叱責を受けていると
無駄な緊張がいつもの状態になってしまい
余計なミスも増えてしまいます。

こういう聞えないことに伴って
卑怯だとか、バカだとか、そういうことを言ったことは
みんなが認めていることですが
言った上司も、同僚も、職場でさえも
ミスが多いからバカだと言って仕方がない
聞えないふりをしたので卑怯だと言われても仕方がない
そんなことを大合唱していているのです。

呼ばれても仕事をしていれば聞えませんが
そんな時注意をひくために
消しゴムや輪ゴムを投げてこちらを向かそうともしたようです。

上司も、同僚も、職場でさえも
聞えないのだからやむを得ないと言っているのです。

これ、健聴者に対して行ったら侮辱になりますよね。
夢中で仕事をしているときに
体に異物が向かってきたらびっくりするでしょうし
危険を感じることもあるでしょう。

聞えないからやむを得ないというのはおかしいと思います。

そもそも手を振る等、視覚的な信号を送ればわかりますし、
その人は隣の席の人だったので
近づけばわかるわけです。
人に対して消しゴムを投げて振り向かせるなんてことは
言い訳の利かないことだと思います。

これが起きたときは結構前のことなのですが
現在は改善されたのでしょうか。
改善されるためには
障害者の視点を知る必要があるのですが、
未だにそのような知ろうという努力はなされていないようです。

私はこれは差別であると主張しているわけですが
関係者一同ピンと来ていないようです。

どうやら差別とは
差別をする側が
排除の意思を持っていたり、攻撃的感情を持っていたり
悪感情を持って行うことが必要だと考えているようです。

差別というのは悪い行為、不道徳な行為だというところを
協調しすぎるとそういうことになるようです。

しかし差別か否かは
差別された人が精神的に苦しむことならば
辞めさせることに主眼があると思うのです。

加害者の無知によって
差別で無くなるという発想はいただけません。

だって、実際に傷ついている人がいるのです。
傷つくのは悪感情という相手の気持ちに関わりません。
差別かどうかということは
被害者の立場に立って考えるしかないと私は思います。

それからもう一つ
聴覚障害に理解がない場合に
聴覚障害をお持ちの方々がどのように傷つくのか
という視点の報告が少ないのではないかと思われました。

疎外感とか孤立感とかいう報告ありますが
侮辱を受けたという感じ方、
寂しい思いや仲間として扱われないという感覚
あるいは、理不尽な思い
もっともっといろいろあると思うのです。

それがなんか
コミュニケーションの方法論とか
効率性に価値をおく研究が多いような気がしますし、

差別、心理で検索すると
差別をする人の心理
ということばかり出てくるように感じるのです。

人間が当然抱く感情なのですが
これも実際の所を聞かないと
本当のところがわからないと思うのです。

聴覚障害者だから仕方がないと
ご本人方が思うのは
社会の風潮が合理的配慮の必要性を
そこまで考えていないということからくるのではないでしょうか。

当事者の方々がもっと声をあげる場所を提供する必要があると思います。
この機会が圧倒的に少ないのではないかと感じました。

色々考えながら、勉強しながら事件を進めています。

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雇用の安定化こそ、資本主義国家が行う最低限度の仕事  自立自助は国民に丸投げという意味で政府が使ってはならない。 [労務管理・労働環境]



国家政策という観点からのお話です。

雇用は安定した方が良い。
従前の、コンセンサスでした。

様々な政策に合致していたからです。

一番イメージしやすいのは人道的効果、人権的効果ですね。
働いても食べられない、あるいは食べられる仕事が無い
ということになれば収入が無くなり、
生物的貧困を招き、健康や生命が侵害される。
社会的貧困の場合は、劣等感や疎外感に苦しめられる
ということになります。
社会も殺伐としてくるわけです。

経済効果としては、
労働力が消耗して働けなくなれば
生産活動に支障が出ますし、
収入が無くなれば、
消費活動が低下していくわけです。

治安も悪くなります。

もっとも影響を受けるのは福祉の関係です。
昔の日本には社会政策学というものがありました。
雇用政策と社会保障を軸とした
国民の福祉を向上させるという政策です。

国民が仕事に就けるようにしよう
安定して就労し続けるようにしよう
働いた分だけ、それなりの賃金を得られるようにしよう
という労働政策を基盤としています。

そしてその賃金の中から社会保険の保険料を払わせるわけです。
雇用保険(失業保険)
健康保険
労災保険
老齢年金
不可避的に起きる失業、傷病による就労不能
労災、老齢による収入の喪失に備えて
保険料を支払うということです。

自分の賃金の中からあるいは使用者の負担で
お金を出し合っていざというときに備える。
こういう制度ですから自立自助的な制度といえるでしょう。

公的に自立自助の仕組みを作っていたとも言えるでしょう。
それが資本主義国家なわけです。

だから、雇用の安定化は資本主義国家における屋台骨ですし、
政府は雇用の安定化をすることが基本任務だ
ということが言えるわけです。

しかし、それぞれの使用者は、
できるだけ人件費を抑えたいと思うでしょうし、
不要になったら人員整理をしたいと思う傾向にあります。

そこで、「総資本」という概念が提案されました。
社会政策学者として名高い大河内一男先生で勉強しました。
東大総長をされて、
「太った豚になるよりやせたソクラテスになれ」といった発言や
学生運動の頃に学生に取り囲まれた等の話の方が有名ですが
日本の社会政策学の屋台骨を形成していたおひとりです。

一つ一つの使用者が個別資本だとすると
個別資本に任せていたのでは雇用が不安定になり
社会保険制度が成り立たず、
公的扶助で税金が流出してしまう
その税収も減少してしまい
資本主義国家が成り立たなくなる
このため、すべての資本の共通利害を体現する
というフィクションとして「総資本」という概念を提唱された
のでしょう多分。

総資本の観点から行う国家政策が社会政策であるというわけです。

行動成長あたりまでは、こういう考え方が主流で
疑われることもなかったようです。
ところが、特にバブル崩壊あたりから
このような考え方は急激に姿を消します。

社会保障の基盤である「労働政策」
という観点からの政策や研究がどんどんなくなり
代わりに、
労働力流動化政策を中心に据える
労働経済政策にとってかわられるようになりました。

労働力流動化とは
必要な企業に労働力が足りず、
別のところに労働力がだぶついている
このミスマッチをいかに解消するかという問題です。

この観点からすると雇用は不安定の方が良いのかもしれません。
一つところの企業に労働力(労働者)が滞留しないで、
解雇されたり雇止めされたりすることによって
労働力が必要な企業へ流れやすくする
その企業で労働力が不要になったら別の企業へ流す

しかも、雇用が不安定で「どんな職場でも良いから就職したい」
というニーズが生まれると
安い人件費で労働力を確保できるという
特定の人たちにとってのメリットも生まれます。

そこでは、既に、「労働力」という資材の話になっているわけです。
漁船が、情報を入手して
なるべく高い買値を突ける港に魚を水揚げする
というような感覚で労働力という人間を売り買いしているわけです。

一時的に利益の膨大に出る企業はあるでしょうが
総資本の観点からはじり貧になっていくだけです。

収入が不安定であると政策的観点だけでなく
メンタルの問題も生じやすくなります。
家庭不和が起きやすくなり、その影響で学校も殺伐となるでしょう
そもそも労働現場では人間扱いされていないところの歪みが出てくるわけです。

つまり、雇用の不安定を放置するというのは
何も考えないで目先の利益を追求するということです。

政府が特定の企業と結びついて便宜を図る
ということは、
道義的に非難されることだけでなく
資本主義国家を崩壊させる危険な行為なのです。

現在は夢見がちな国家政策は何も力にならないでしょう
健全な資本主義国家を取り戻す
その第一が雇用の安定化、収入で生活も保険料も賄える
そういう政策こそ必要なのだと思います。

それが資本主義社会における自立自助ということだと思います。
政府が国民の自立自助を求めるときは
責任を国民に丸投げするときではなく
自立自助の可能な社会を作ったときの話だと私は思います。


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言った言わないで解雇の有無が争いになった件で、解雇と損害賠償が認められた事例。 [労務管理・労働環境]



今回は私は労働者側の代理人でした。
結局は会社代表者が口頭で解雇を言い渡した事件なのですが、
会社代表者の主張は、
「解雇を言い渡してはいない。労働者が勝手に怒って任意退職したのだ。」
というものでした。
さらにその解雇を言い渡した日も1日ずれて主張されたという
少しミステリー掛かった事件でした。

確かに、解雇通知の文書はありません。
言った言わないの争いという困難案件ではありました。

会社側は、解雇を言い渡した証拠がないので
解雇を言っていないと主張したわけです。
解雇であれば、その解雇が正当かという司法判断が入るのですが、
任意退職であれば、正当性の判断をまぬかれることになり
会社にとっては有利になります。
辞めろと言っておいてそれはないだろうということになりますが、
敵もさるもの引っ搔くものという戦術できたわけです。

情けないことに労働基準監督署は
解雇をしたという認定ができないということで途中で放置し
それが会社の自信にもなってしまったという事情があります。
嘘をついても何とかなるということですね。

労働者側は当初は労働審判を申し立てました。
ある程度の損害を払ってもらってさっさと手を切ろうというものです。
裁判所からもあっせん案が出たのですが、
会社はあくまでも解雇していないということで応じませんでした。
審判が出ても会社が応じないために本裁判になりました。

結局裁判では解雇をしたことが認定されたわけですが
どうやって言った言わないの事件で勝てたのか。
一つには、それ以外の事実を丁寧に積み重ねていき
解雇を言ったことを浮き彫りにしていくという方法で証明していった
ということです。
決定的証拠がなくても裁判は勝てることがあるので
文書がないから負けるとあきらめるのは早計です。

次は、余計なことを会社はしゃべりすぎた
という自滅が起きています。
辞めさせたいくらい嫌な労働者ですから
つい解雇は正当だと
当該労働者側の落ち度を主張したくなるわけです。
そうであれば解雇を認めたうえで主張をするべきです。

解雇を否定したまま、解雇されるべき労働者だという
主張を全開にしたため
裁判所からは、
「なるほど、会社は解雇したい事情があったのね」
「じゃあ、解雇したんじゃん。」ということになるわけです。

解雇日もずらしてしまったのは致命的なミスです。
会社側の主張では、その日は既に解雇していたのだから
できるはずのない労働者の行為が
実際は行われていたという動かぬ証拠が出てきてしまったのです。
証拠がなかったはずの事件にわざわざ証拠を作ってあげた
という自滅行為をしたことになります。

会社の従業員が証人になりましたが、
わからないはずのことを答えてしまっているところを突かれて
反対尋問にはまったく答えられず
信用ができないことが裁判所においてはっきりしてしまい
やはり自滅になりました。

結局、労働審判の3倍の請求が判決で認容され
高等裁判所まで争ったので当初の和解金と同額の利息が付いてしまい、
会社は和解案の金額の4倍を払う羽目になってしまいました。
おそらく会社の弁護士費用も合わせると
提示された和解金の6倍くらいを支払ったということになるでしょう。

労働者側の完全勝利で事件は終了しました。

教訓
会社側の教訓は
被害を無かったことにしようとするとかえって莫大な損害を受ける
最小限度に止めようという発想こそ経営の発想である
というところでしょうか。
また、自分の依頼した弁護士の説得を真面目に検討することは
結局は自分の利益になるということです。

労働者側の教訓は、最後まであきらめないことです。

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気が付きにくい「良かれと思ってパターン」のパワハラ あなたもやっているかもしれない ケース会議の勧め [労務管理・労働環境]


「もどかしい人材」って各職場にいると思うのです。
本当は、もっとマルチに仕事ができるはずなのに
実力を発揮していないような印象の強い人ですね。

例えば、配置転換前は、あれもこれもできていたのに
自分の課にやってきてから特定のことができなくなってしまったような人。

野球で例えると、
甲子園や大学野球で大活躍して、
プロでも十分やっていけるはずなのに
守備はいいけどバッティングが伸びない野手とか
二軍では大活躍するのに一軍では0点に抑えられない投手とか

監督やコーチも神様でもないし、
専門的なコーチングの指導を受けたわけでもない。
自分が平社員の時からの経験で
上司という立場にいるだけだから
瞬時に問題点を見つけ出して
劇的に改善するような指導は
あまり期待できない。

こんな時上司がついついやってしまうことは
わざときつく当たって発奮させようとすることです。
「この程度できたからと言ってお前を評価しない」とか
敢えて、厳しい仕事を担当させて
できないとあからさまに評価を下げてまともな仕事に使わないとか
同僚たちにも「甘やかすな」と厳しくお達しをしているとか
よくあるんじゃないかと思います。

厳しい人事の扱いを
期待の裏返しとか
愛情表現とかいうのもよく聞こえてくるところです。

期待が強いからもっと何とか頑張ってほしいということはわかります。
しかし、愛情表現ではないことは確かです。

労務管理的に言えば上司の無能で優秀な部下がつぶれるパターンです。
企業にとっての大きな損失が生まれようとしているときです。

野球で例えると、
選手がパフォーマンスを発揮すれば勝てるけれど
作戦を屈指して勝つということができないパターンですね。
つまりホームランが出なければ勝てないチームの監督です。

優秀な選手がどんどん委縮していって
力を発揮できなくさせられているパターンです。

こういうチームは当たればどんどん勝ち進みますが、
どんなにピッチャーが良くても点が取れない試合も多く
逆に打者が点を取ってくれれば
その分ピッチャーも打たれてしまう試合も多い
不思議な現象が起きているように感じますが
決して不思議ではありません。

部下が人間であり、メンタルを持つ生き物だ
ということを指導者が理解していないのです。

部下があなたのせいで、
「職場に行くのが怖い」と言っていることに気が付かないのです。
毎日顔を合わせているのに、
部下が生き生き仕事をしていて、
仕事上の困難さえも楽しんで解決方法を考えているか、
それとも委縮しておどおどして、
できることさえできなくなっているか
部下の目を見てもわからない無能な上司なのです。

委縮している部下にプレッシャーをかけても
デメリットしかなく
メンタル破綻を起こすかもしれないのです。

仕事は厳しい真剣勝負だということもその通りかもしれません。
しかし、それは指導者としての上司にも言えることなのです。
各人の持ち場持ち場で真剣勝負なのですから
指導者も真剣勝負で部下の成長に責任を持たなくてはなりません。
自分の能力の無さの言い訳にしてはならないわけです。

ではどうするか。
能力が無ければあきらめるか
一律に甘々で指導をすればよいのか。

そうではなく、
集団によるケース会議をお勧めします。

会議の心構えとして
懲罰のための会議ではなく
成長のための会議という位置づけが大切です。
当該部下に対する不満を言いあうのではなく
プログラムに従ってカンファレンスを進めるのです。

<カンファレンスの構成員は
直接の上司、上司の上司、場合によっては少しだけ上の同僚
カウンセラー的な人などが入ることも効果が上がることがあるでしょう。
大きな企業ならば専門で契約しても良いでしょうし
通常の会社ならば外注ができると便利ですね。


1 当該部下の現状評価
  公平な目で見た到達点
  伸びしろがどこにあるのか、あるいは現状がマックスか
  その伸びしろがあれば、職場の生産性がどの程度上がるか
  かなり生産性が上がるはずだというならば2へ進む。
2 目標不達成の原因分析
  伸びしろがあるとすれば、どうして伸びないのか。
  例えば優勝を狙うプロ野球軍団であれば、
  様々なデータを出してきて、特定の配球や球種に弱点があるのか
  敵のスコアラーがどのような分析をしてどのように攻めているのか
そうではなく例えばメンタルの問題なのか
  という分析をしていることでしょう。
  原因は一つであることは少なく、複合的に影響し合っていることが多いと思います。但し、メンタル、萎縮という可能性は必ず検討してください。
  原因が分析できれば3へ進みます。
3 対策
  その部下に誰がどのように働きかけるのか
  もっとも効果的に働きかけることが大切です。
  人間関係の変更をしてみるということも対策の一つです。
  原因に連動した対策でなければ意味がありません。
4 カンファレンスの記録化
  議事録をつけて、どのような議論を行ったかを記録することが大切です。
  このカンファレンスは、一人の部下の会議ですが、
  後々応用が利くので、せっかく行った議論は
  長く資料として共有しないともったいないです。
5 指導の実践と記録
  誰がどのように働きかけたかということ、
その結果部下がどのように受け止めたのかの反応は
記録として残すことが必要です。
6 効果の検証
  変化についての評価
  この時、短期的な結果ばかりに目を向けてはなりません。
  結果につながる行動変化がなされているかという視点が大切です。
  結果につながる行動変化ができていれば、早晩結果は出てくるものです。
そして、結果が出ようが出まいが
そもそも現状評価が正しかったのか
  原因分析が正しかったのか
  対策方針が正しかったのか
  対策指導の仕方が正しかったのか
  良くても悪くても一定の理由を付して結論を出して記録化する
  ここまででワンセットです。

部下の評価で一番まずい評価は
「今どきの若い者は情けない。俺が若いころは」
という思考です。
プロ野球で言えば50歳や60歳の人が
現実にプレーしているわけではありません。
現実にプレーをするのは、その今どきの若者なのです。
こういう無いものねだりは、
政治の世界でもよく耳にします。

有権者がもっと正しい判断をすれば
自分たちが多数派になるという野党の人たちですね。
現実に票を入れるのはその有権者なのですから
架空の有権者を想定して頑張っても結果はでません。
これと同じです。

昔であれば、経営者は
「現場に任せたから口出ししない」で済んでいたかもしれません。
しかし、指導力のない指導者を配置してしまったら
優秀な人材が育たず、企業の収益が上がらないばかりか
自己流の育成術で、社員のメンタルをつぶしてしまい、
下手すると会社がパワハラで訴えられてしまいます。
従業員がパワハラを苦に自死をしてしまったら
何のための会社か分からなくなり
お客さんもいなくなってしまいます。

自前で社員を育成できずに、気が付けば
プロ野球で言えば
1年目、2年目のよそで育成された選手と
よその球団からトレードで獲得してきた選手しか活躍しない
そういう会社になってしまい、
お客さんからも愛想をつかされる
企業の評価を落とすことになっている可能性があります。

一人当たりの生産性をあげるために
従業員のモチベーションをあげるということも
プロの指導者の必要なスキルだということに
もっと多くの経営者が気が付くことが
必要なのだと痛感しています。

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