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楽天は、今が企業イメージを向上させるチャンス パワハラを無くすという目標ではなく、ゼロの先のプラスの目標を掲げて実践するという提案 [労務管理・労働環境]



と私が提案してもどうなるものではないのはわかっています。同じような状況にある企業の担当者さんが偶然読んでヒントにしていただければと思って書いています。

<パワハラ不祥事の直後こそ企業のイメージアップのチャンス>

パワハラがあったこと自体が企業の生産性が阻害される要因になります(モチベーションの低下、委縮、言われたことだけをしようとするようになり、自分の頭で考えなくなる。無駄な神経の集中があるためにミスが増える。)。もちろん、被害者の人権が侵害されるということも企業は考えなければなりません。

しかもそれが、外部に公表されてしまい、話題になってしまうと、企業イメージが低下してしまいます。体力のない中小企業であれば、それだけで事業廃止となる場合もあるでしょう。

企業としては、経済活動を継続しなくてはなりません。そうするとどうしてもパワハラの負の企業イメージを払しょくしようとしてしまいます。そしてそこで終わってしまうことは、ダメージを受けている経営陣としては仕方が無いことかもしれません。

しかし、それでは大変もったいないのです。実はこのような社会的不祥事として認識される出来事がある時は、世間の注目を浴びているということです。そこで、ネガティブイメージを払しょくすることにとどまれば、結局過去の記憶が消えませんので、差し引きマイナスで終わってしまいます。しかし、ネガティブイメージを払しょくする以上に、新しく安心できる人間関係を形成している姿を見せることで、ポジティブイメージを世間から持ってもらう千載一遇のチャンスでもあります。

さらに、企業内部のこのようなポジティブ政策の推進の優先度を上げることのコンセンサスが作りやすいという状況もあります。企業が一丸となって、生まれ変わろうとしやすいというこれも千載一遇のチャンスだと思います。平時の場合は、そんな内向きの政策をするより、取引相手に対してアピールできる外向きの企業戦略をとるべきだということになるでしょう。しかし、有事という危機感を共有している場合は、課題が人間関係の状態という環境改善にあることのコンセンサスを作りやすくなっています。また、注目されているので、そのような人間関係を外部にアッピールしやすいため、外向きの企業戦略にもなるわけです。

<チャンスを生かすために考えるべきこと>

では、何をするか。これをわかりやすく説明するために、申し訳ないのですが、楽天の会見を引き合いに出させていただきます。私は、地元イーグルスファンなので、どうぞご理解いただきたくお願いいたします。

と言っても誤解していただきたくないのは、かなり誠実に記者会見をしています。対症療法的とはいえ対策も示し、企業としての責任にも言及した上、当該選手の再出発の支援も表明しているので、かなり良い会見内容だったと思います。被害者のプライバシーもありますから、これ以上の情報開示もなかなかできなかったことも理解しています。

そこから先は全くの特殊専門的な分野の話なのでしょう。では、説明していきます。

<パワハラが生まれない人間関係を作る方法>

一番大事なことは、パワハラがあったときにどうするかということよりも、パワハラを起こさない人間関係の形成ということです。パワハラは起きてしまえば生産性が低下します。人権問題も起きてしまいます。外部アッピールはともかくここを根本的に解消しなくてはなりません。
そのためには、理想とする人間関係像の構築をすることになります。そしてそのためにも、何が起きていたのかという外面的な問題を踏まえて、行為者や被害者、そしてそれを知っていた人たちの行動決定原理を聴取する必要があると思います。

<加害者の事情聴取の目標>

加害をした行動決定原理、加害をやめようとしなかった行動原理がどこにあったかの聴取と分析をすることだと思います。理想は、野球に縁のない弁護士と心理士のチームによる事情聴取です。これはパワハラ行為者の再出発にとっても必須のことです。悪いことだから謝罪するというのでは、再発防止はできません。悪いことだと思ったのか、悪いことだと知っていたのにそれをやめられなかったのはなぜかという観点から一緒に考えてゆきます。

私は、本人が反省しているのならば、会社は1年間職員として採用をし、この「反省」プロジェクトに参加をさせても良いのではないかと思うのです。もちろん、必要な練習はサポートしても良いと思います。パワハラをごまかしたわけでもなく、行為者の個人的責任にもしないということは、企業としてポジティブなイメージを持たれると思います。

本人が何に追い詰められていたのかそれを突き止める責任が企業にもあると思います。

<人間関係形成のために一番重要な被害者からの事情聴取>

次に被害者の行動決定原理です。「なぜ、抵抗ができなかった」のかということです。この理由はかなりの闇がまだ隠れているはずです。被害者の個性ではなく、調査対象は被害者が抵抗できない環境に置かれた環境についてです。ただ、この聴取はかなりデリケートな問題です。そして安心して話ができなければなりません。会社から独立した第三者が、本当に会社の発展と被害者の人権、安心して働ける環境を作るという構えを理解して調査をしなければならないところです。
このためには、球団が被害者の被害に対して手厚く手当をすることが前提となると思います。

<加害者被害者以外からの事情聴取>

そして、その行動を知っていたにもかかわらず、対応をしなかった人たちの意識調査です。ここもとても大切なところです。球団は、安心して話ができる人がいなかったことを改善すると言っていますが、それは大変大切なことだと思います。その際に安心して話ができる人間関係とは何かということを十分考慮するべきだと思います。

また、誰が知っていて、誰が知らないかのチェックもとても大切だと思います。

<魅せるプレイを頻発させる人間関係形成の方法>

聴取が終わったら、その原因を十分踏まえて分析することが必要です。悪かったところを直すというのでは、対症療法にすぎません。つまり、再発の危険が居座っているということです。根治を考えなければなりません。

新しい人間関係を形成するという視点が必要です。しかも具体的に、楽しく実践できる方法でなければできるわけはありません。

近鉄バッファローズの元選手である石井氏がユーチューブで、野茂投手の野手への思いやりの態度が素晴らしく、野茂選手が投げるときは無理しても打球にくらいついていくという気持ちが自然に湧き上がったと言っています。野茂選手はミスをした選手を決して批判せずに、むしろ批判する選手を先輩でもたしなめていたというのです。純パの会の会員で野牛会に所属していた私としては、もっと野茂のような選手がいたらもっと優勝していたのにと思いました。それは良いとして、こういう話はよく聞くことです。絶対エースと言われる人は人格的にも素晴らしく、ファンを大事にするということは耳に入ってきます。

抽象的な言葉で申し訳ありませんが、パワハラの対義語はパワハラが無い人間関係では決してなく、お互いを尊重し、尊敬している人間関係なのです。すべてのプロ野球選手は、尊敬する点が多いと私は思っています。ファン心理かもしれませんが。自分が相手から尊重されていると思えば、相手のフォローをしようとするし、役に立ちたいを思うわけです。これは人間の本能的な心理、群れを作るために進化によって形成された心理なのです。仕事の多くは組織プレイです。お互いを尊重しあう組織は1+1が2よりも大きくなりますが、これが無くパワハラがあるような組織は2にも到達ができません。これが生産性が下がる構造です。

また、誰かが苦しんでいたりいじめられたりしていたら、明るく元気なプレイをすることも簡単なことではなくなります。これも苦しんでいる人に共感してしまう人間の本能です。明るくはつらつとしていなければよいプレイは生まれないと私は素人ながら思います。何よりも見ていてつまらないです。筋肉や技術にプラスアルファの力をつけるのは、モチベーションで間違いないと思います。

典型的な成功例は、今年の阪神タイガースの岡田監督の采配だったのではないでしょうか。しかし、阪神タイガースに勝つ余地があると思います。つまり、基本的には、選手間の相互の信頼関係を強化することだからです。くどいかもしれませんが、パワハラをしないのではなく、選手同士がお互いを尊重し尊敬するということです。ここを改革しなければ、コーチ陣に助けを求めても、結局は力にならない可能性が高いのです。

<コーチ陣やフロントの役割>

監督やコーチ、フロントは、率先して選手を尊重し、尊敬する扱いをしていくことがまずやるべきことだと思います。プライドを傷つける制裁的な起用は絶対にしてはなりません。そういう相互の信頼、尊重を醸し出す環境づくりをするという責任が第一次的責任になると思います。

しかし、現場の雰囲気を創るのは、あくまでも選手です。やはり、レギュラー陣が率先して行動を起こすことがカギになると思います。

<改革はファンとともに>

やるべきことを整理しますと、先ずは選手全員から聴き取りをする。目標をきちんと伝えて、悪いことを無くすための改革ではなく、もっと良くなるためはつらつとしてプレイを観客に見せるための改革だということ、強くなるための改革だという意識をこの段階から理解してもらい、改革のメンバーになってもらう。

特にレギュラー陣、ベテラン陣は、率先して改革を引っ張っていく。経営陣、コーチ陣は環境づくりを行い、選手の足を引っ張らない。
そして、その改革について、具体的な取り組みの実践課程をファンにも報告してもらいたいと思います。もちろん、パワハラ対策としてこういうことをやっていますというのではなく、プロ野球球団としてあるべき人間活動を具体的に作り上げようとしていますというアッピールとして、ポジティブな広報としてファンに報告してほしいのです。そうやってファンとともに新しい、魅力的な、そして強いイーグルスを作って行ってほしいと私は切に願います。

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宝塚歌劇団存続のために 何を調査し何をどう改善するのか [労務管理・労働環境]



1 企業はまず何を考えるべきか

宝塚歌劇団の25歳の俳優が転落死した事件(令和5年9月30日発覚)について、ネット上は様々な情報が飛び交っていましたが、大手マスコミはなかなか正面から取り上げてこなかったという印象があります。(それでも歌劇団は、外部弁護士9名による聴き取り調査を行っていたようです。)

大手マスコミにおいて、いわゆる潮目が変わったのは、11月10日に川人博弁護士が遺族側代理人として記者会見を行ってからだと思います。川人先生の実績に基づくネームバリューによってテレビでも報道されるようになり、一気に世間の関心が高まりました。その中で、11月14日に第三者委員会の報告書が提出されたことを踏まえた劇団の記者会見がありました。

第三者委員会の調査は極めて短期間であるにもかかわらず、踏み込んだ調査を行っていて、故人の死と劇団の仕事の関係を一定認めた内容になっています。さらに今後に向けた提言もなされている点も評価ができると思います。

ただ、潮目が変わった後の発表であるということと、マスコミの姿勢から、報告書には批判もなされています。

私は、報告書にケチをつけるつもりは毛頭ありません。私は法実務的には事実関係を把握していない立場であるというべきでありますから、本件の転落死が労災に該当するかどうかとか、損害賠償の対象になるかどうかについて論じるつもりは全くありません。この点については「わからない」としかいうべきではないと思っています。

私がこの記事で一緒に考えようとしているのは、主として企業の危機管理の問題です。不幸にして自死と思われる劇団員の死亡があって、その後報道とその変化の中で、「企業は何を考えて、何を調査し、何を行うべきか」という問題です。

まず何を考えるべきかということです。これは明らかだと思うのですが、なかなか徹底できません。つまり、「劇団の存続」を考えなければならないと思います。単に企業体の存続というわけではなく、宝塚歌劇という文化を継承する義務が、経営サイドにはあると思います。

宝塚歌劇を継承するために考えるべきことは、宝塚歌劇を愛する人たちが、これからも宝塚歌劇を安心してみようと考えること、それから劇団の卒業生の方々の劇団員であったことの誇りを奪わないことも必要だと思います。

宝塚歌劇のファンには多様性があります。「どんなことがあっても自分は宝塚や、俳優を守る。そのためには何でもする。」というコアなファンもいらっしゃいますが、それは私は「あり」だと思っています。そこまで熱心ではないとしても、何年に一回は舞台を観に行ったり、テレビ中継があれば予約をしても確実に観ようとしたり、卒業生が出るテレビドラマをチェックしてみようとするファンが大勢います。この多くのファンは、宝塚があるから人生が豊かになったり、人生のピンチを慰められたりして、まさに生きる糧、人生に添えられた花のような不可欠の存在として宝塚を大切にしています。

多くのファンの人たちは、テレビが報道する前から転落死の情報をつかんでいました。週刊文春が報じる前から、様々な風評も入ってきていて、とても心配をしていました。遺族側の記者会見がテレビ報道されたことによって、このようなファンの人たちは、悲観的な思いを深めてしまいました。存続の危機を感じている人も多数生まれてしまったということを先ず会社に知っていただきたいと思います。

歌劇団としては、このファンがこれからも安心して宝塚歌劇を観覧できるという安心感を提供することこそ、今考えなければならないことで、そのためのはどうしたらよいかという発想で対策に乗り出す必要があると思うのです。

何事もないように、ただ存続するのでは足りないということです。

2 検証や対策に対する、マスコミの功罪 「いじめ」の有無ということにはあまり意味が無いこと

先ほどからお話ししているように、遺族側代理人の記者会見から、宝塚の問題の世間的注目は格段に上がりました。潮目が変わったわけです。今回の第三者委員会の報告書にも発表前から注目が集まっていました。否が応でも調査をしてそれなりの報告をしなくてはならなくなるわけです。その意味では、マスコミ報道は検証と改革の後押しにもなりうるというメリットもあります。もっとも先ほど述べた通り、結構前から歌劇団は第三者委員会による調査を始めていたようです。

しかし、メリットがある一方、いじめやパワハラをめぐっての報道については二つの問題点があります。

一つは「いじめ」等の定義が人によってばらばらであり、その言葉自体では何も始まらないということです。

「いじめ」という言葉を例に説明しましょう。
この言葉は、狭い意味で使う場合、「加害者が悪意をもって行うことで、被害者に防御の方法が無い加害行為を行い、被害者を精神的に追い詰め、精神破綻を招くことや自傷行為、自死行為を行わしめる危険のある行為」ということになると思います。おそらく世間一般で、「いじめ」という言葉でイメージされるものは、こういうことが起きていたというものでしょう。

広い意味で使う場合は、「関係者から、ストレスを与えられる言動」ということになってしまいます。こんな広い意味で「いじめ」という言葉を使っているのは誰かというと、それは国の法律です。「いじめ防止対策推進法」の第2条は、「この法律において『いじめ』とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。」となっています。これはなるべき広くいじめを把握して、狭義のいじめを見逃さないようにするという目的があって広くしています。ただ、広すぎる弊害もあって、日弁連などもこの定義を批判しています。

様々な問題点がありますが、極端に言うと、いじめをしている友達を「いじめをするな」と注意しても、法律の「いじめ」に該当してしまうのです(友達の方も、いじめをしているわけではないという反論もあるかもしれません)。もちろん、そこは「常識的な判断」でいじめとは言わないとして扱うだろうと普通は思われることでしょう。でも考えてみてください。そこでいう「常識的な判断」をするのは誰だと思いますか。そこは学校の教師たちなのです。いじめか否か子どもたちがアンケートを提出して、先生がそれはいじめではないよと「常識的な判断」をして、アンケートを書き換えさせたりしているということを当の先生(管理職)から聴いたことがあります。結局、何がいじめで何がいじめではないのかは学校の判断で決めてしまうことにどうしてもなってしまうので、アンケートは意味をなさなくなってしまいます。

こういう曖昧な「いじめ」があったかなかったかということを、結果として報告することにあまり意味はないのだと思います。

もっとも第三者委員会の報告書でも、遺族の要望でも、「いじめ」という言葉は先ほどの悪意のある狭義のいじめの意味を前提にされているということでよいと思います。

しかし、ここで考慮しなくてはならないもう一つの問題こそ、マスコミの報道姿勢です。実際のいじめ防止対策推進法の事案で、発信者側が法律用語の広義のいじめの意味で使っていると何度も説明しても、新聞の紙面やテレビニュースでは、あたかも狭義のいじめの意味で大見出しを打つのです。真実はどうだったかということよりも、いじめが「あったのか、なかったのか」だけに関心を持つようです。そして、すこしでもいじめと名が付くのであれば、スキャンダラスに報道する傾向をずっとみていました。

実際にあった出来事よりも、打撃的なこと、重大なことがあったという報道をしたいようです。

だから、やるべきことは、事実を指摘してそれがいじめかどうかは読み手が判断するべきだという態度でよいと思うのです。
むしろ、行為を受けた側の立場から(本件では故人から見て)、その行為がどういう性質をもって、どう受け止めて、その結果、対処の方法があったのか、防御の方法があったのか、その苦しい状態の持続期間等を調査して報告すればよかったのだと思います。受けた側が無くなっていたとしても、合理的に考えてどういう風に感じたかという推測はできるはずです。

いずれにしても事実関係を見守っていたファンは報告書を読んである程度納得できたかもしれませんが、報告書を読まないで報道だけに接している人たちは、言語道断の極悪非道な先輩が、無抵抗の新人をいじめていたという印象を受けてしまったということは事実としてあるようです。ジャーナリストを名乗る人でさえ、とにかく狭義のいじめがあったはずだと思い込んでおり、それを少しでも否認するような報告があると、会社の意をくんでの報告書だとか、隠蔽だとか、糾弾口調になっている姿を目撃しました。マスコミなんてそんなものなのです。

3 第三者委員会の報告書

上記の観点は、第三者委員会の先生方ももちろん理解されているところだと思います。しかし、そのような報告を徹底しきれなかった事情がありました。

既にいくつかのいじめがあると報道された行為があったのかどうかという点を念頭に置かざるを得なかったということです。報告書の概要版でも比較的詳細に調査して、事実認定をして、報告されています。いじめとは断定できなかったということが結論です。しかし、報告書では、実際にヘアアイロンを額に当てられたという事実、それによって小指の先(末節指)の大きさの皮膚の変化(やけどの痕)が見られたこと、故人はやけどの痕が残るだろうかという不安があったことはきっちり認定されています。しかし、目撃者がいなかったということ、悪意があったとは断定できないこと、その後やけどの跡が消えたこと、それから宝塚ではヘアアイロンによるやけどが頻繁にあることその他、特に悪意を証明できなかったためにいじめとは断定できないというようです。
(わたしとしては、どうしてその人が髪型の指導をしたのか、自らヘアアイロンを使ったのか、その人の立場の人がそういうことを通常するものなのか、小指の末節指大のやけどの跡ができるということはどの程度の時間ヘアアイロンを額につけていたかなどについて調査した方が明確になったかなという思い付きはあります。)

企業としては、認めるべき点は認めるとしても、それが事実に反するのであれば、事実に反するということを言わざるを得ません。評価が不当だと思えば評価が不当だと言わざるを得ません。そこが、先ほど言ったマスコミのスキャンダラスな報道、怒りをあおるような報道が先行する場合は、逃げだ、隠蔽だと指摘される要因になります。立場を変えて遺族側からすればもっともな話でもあります。何せ歌劇団の中のことはわかりませんから、なかなか納得がゆかないということは当然のことです。当たり前です。
マスコミの報道姿勢の理由で、精神的負荷によって自死を選ぶ可能性を認めた報告書なのですが、その点はあまり報道されず、いじめを否定した、遺族は残念に思っているということだけが強調されているということは間違いなくあるように思われます。

4 もし再調査があるとすれば何をどう調査するのか

私が再調査をするのであればという観点でお話しします。一番は、報告書が指摘していた、上級生と下級生の関係、組ごとの独自のルールということです。これをやはりもう少し踏み込んで、宝塚文化の中の規律の作り方について検証をするべきだと思われます。とくに当該の組の中での「独自のルール」についてです。
この記事のジャンルである労務管理の場合、生産性の観点から検討します。規律によって何を実現しようとしていたのかということをまず言葉で明らかにしていく作業が必要になるはずです。
そして実際に行われていた規律を創る行為がどのようなものだったのか、それは規律によって実現しようとしていた価値の実現に結び付くのかということを真剣に考える必要があります。

個人的には、上下関係という規律については、ある程度あってよいと思います。それによって、舞台にも規律や礼がみられるところが宝塚の良いところだと個人的には思います。しかし、規律とは上に絶対服従ということではないと思うのです。過去において、特に他の組において、そんなに上が絶対ということがあったのかこの点も検証されるべきだと思います。つまり、卒業生からも事情聴取をするべきです。今回の亡くなられた方の責任という観点からは、故人の状態を知る人に限定して調査をするということには合理性があると思います。ただ、一般の大勢のファンを安心させるという観点からは、往年の状態と現在の状態の比較が不可避になると思います。100年以上続いているので、キリがありませんが、50年くらいは遡って調査をすることができると思います。トップスターがどこまで神格化されていたか、行き過ぎた感がある指導をするようになったのはいつからか、当該組の独自のルールが無ければ良き伝統、良き雰囲気、高いクオリティーが維持できないということなのかについて真摯に検証をするべきです。

労務管理の観点からすると、パワハラは百害あって一利なしだと常々思っています。一般企業ですらそうですから、そもそも高いモチベーションをもって入学をしてきた人たちに過剰な指導は本当に必要ないことではないのでしょうか。
 
不必要な厳しさは、生産性を阻害します。委縮効果が生まれて、大きな副作用が生まれてしまうのです。

また、過去において、規律づくりにある程度の共通性があったとしても、規律づくりのために高まる緊張を緩和させる方法が無かったのかということを十分に調査する必要があります。「昔はもっと厳しかったのだ」という人ほど、厳しい状況の中でほっこりするフォロー受けているものです。

だから、ある程度現役の劇団員の方と卒業生とキャッチボールをしていく必要があると思います。受け継ぐべき伝統と排除するべき伝統を明確に区別する作業が必要になるはずです。

その際、現役生は特に、発言の匿名性を確保する必要があります。調査員の外は、立ち会うべきではありません。特に歌劇団のスタッフや親会社の人、あるいは上級生のいないところで自由に話していただく環境を作る必要は絶対条件です。

5 調査の結果どう改革するべきか

将来の改革に向けて、報告書でも提言が出されています。根本的な問題であるスケジュール過多をはじめ的を射た提言がなされていると思います。ただ、目的が異なるため仕方がないことですが、私が再調査事項として掲げた事項についての具体的な言及がないために、この人間関係についての効果的な対策というものがどういうものなのかについては詳しく述べられてはいません(概要版では)。

効果のない規律、デメリットの大きな規律は、すべて排除するという改革がなされるべきです。これは報告書でも同じようなことが記載されています。そして、そのような独自のルールが生まれた由来についても調査して、根本的なところにメスを入れるべきです。組織に不可避な事情があるのか、特殊な人間関係、パーソナリティを背景とするものにすぎないのかということをはっきりさせる必要があるということです。

もし、個人に由来する問題であるとすれば、どうしてその個人に権威が集中してしまったのかについて調査分析する必要があると思います。もし個人が行き過ぎた規律を求めていて、故人がそれに苦しんでいたとするならば、それを見て見ぬふりをした人たちもいるわけです。それは、労務管理上は、見て見ぬふりをしていた人が全員共犯だと考えるよりも、どうして権威者の行為を追認してしまったのかという発想で考えることになります。人間は、集団の中で権威者が現れると、権威に従ってしまう性質があるという社会心理学的の知見に従って考えるわけです。人間は一度権威に迎合してしまうと、その権威が行う人間に対する行為も、正当化してしまって、批判的観点を持ちにくくなるようです。

苦しめられる個人は、誰からも救済されないどころか、反価値的存在だということで、なお一層苦しめられますし、絶望を抱きやすくなります。悪意の有無が決め手ではなく、悪意と受け止めたか、対策を講じることができないという絶望感を偉大かどうかということこそ考えるべきです。

このような受け手にとって深刻な影響が生じる行動は、送り手の歪んだ正義感が大いに関与しているということを見すごしてはなりません。

それから、冷静な第三者の目が必要です。精神医学的には宝塚のような劇団という職務形態ではパワハラが起こりやすく、過激になりやすいという傾向が指摘されています。典型的な職業としては、自衛隊、警察、消防署です。

これらの組織は、単位組織が一体として行動しなければ任務が果たせないばかりでなく、仲間の死に直結する過酷な現場で活動します。仲間に対する要求度が必然的に高くなるというのです。第三者からすれば、些細なことでも、仲間内では重大なことにつながります。そうすると、要求の対象としては、技術だけでなく、精神的緊張の度合いや、指示を指示通りに確実に遂行する姿勢のようなものも求めてしまいがちになります。しかし、新人には、技術が未熟であることに加え、集中するということがどういうことか実感として持てませんし、指示内容も正確に、具体的に伝達しないと伝わらないという事情もあります。これがある程度経験を積んだ人であれば、省略した言葉でも中身は伝わります。伝え方の問題で伝わらなくても、他の人には伝わるので、つい相手に責任を押し付けてしまうということが起きるようです。命にかかわることなので、イライラも講じてしまい、「あたり」もかなり強くなってしまうわけです。

宝塚は、組全員が一体として指示通りに行動しなければならないところは一緒です。しかし、死の危険があるわけではありません。それでも、おそらくそのくらいの気持ちで真剣に舞台を務めあげよういう気持ちは共通しているのだと思います。

だから、俳優たちにすべてを任せてはいけないのです。まじめに、夢中になって良い舞台を作り上げようとしていると、相手の心という複雑なものを理解したり共感したりすることができなくなってしまうのは、人間の限界として厳然と存在すると心得るべきです。自主稽古であっても、冷静な第三者の目が行き過ぎをチェックしてセーブすることが必要不可欠だと思います。これは単にセーブをするのではなく、もっと効果的な指導に置き換えるという作業に具体的にはならなくてはなりません。

その意味では、運営側の責任は大きかったということになることは間違いないことでしょう。

報告書から推測できることは、運営側が十分介入しなかったこと、介入できなかった事情があったこと、介入できないことに対する危機感が無かったことを指摘しなければならないでしょう。このあたりも、これまでの伝統に照らして調査し、検証し、対策を立てる必要があると思います。



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実務的な観点からみた残念過ぎる企業のパワーハラスメント予防研修 [労務管理・労働環境]



1 現行研修の3段階の企業側の目的

法改正などがあり、現在、パワーハラスメント等のハラスメント対策に頭を悩ませ研修などを行う企業も増えてきています。しかし、企業側も、まだ手探り状態のようで、パワハラ対策の必要性について、まだ十分に自分のものにしていないため、せっかく研修を行っても、効果が無いような研修に飛びついてしまっているようです。ご自分の研修の目的をまずしっかり考えましょう。

1)国が言うからアリバイ作りをする
2)パワハラで従業員が病気になったり自死したりして損害賠償を請求されることを防止する。含む、損害賠償報道による企業イメージの低下防止
3)パワハラによって生産性が低下することを下げて、意欲をもって仕事に取り組む従業員を増やす 含む、企業内の良好な雰囲気づくり

大きく分けるとこの3段階になると思います。
アリバイ作りをするための研修であれば、とりあえずやればよいでしょうし、できるだけ費用をかけないで行うということになることはむしろ当然かもしれません。おそらくその研修はただ時間を浪費するだけで頭に入ってくることはほとんどないでしょうし、下手をすれば自分たちの今の状態で問題が無いという楽観的な気分になってしまうかもしれません。

損害賠償事案の防止という観点は切実です。ただ、大きな視点が定まらない対症療法的な研修になるリスクは高いです。これからこの内容をお話しすることによって、3)の目的をもって研修や対策を行うことこそが、効果的に損害賠償事案を減らしたり無くしたりすることができる方法だということに気が付いていただければと思います。

2 損害賠償事案予防型のパワハラ研修の問題点

損害賠償事案予防型のパワハラ研修の問題点は、目標とするターゲットが狭すぎて、誤差が大きくなり、結局足をすくわれるというリスクがあるということです。パワハラ事案の実務をあまり知らない人が研修担当となる場合によく行われる研修内容です。

内容としては、パワハラによって従業員が自死をしてしまい、裁判によって企業に巨額な損害賠償支払い義務が認められた裁判例を説明して、その分析をして、ここまでやってはいけませんという研修が実際に行われているようです。

こう文字で書くと、気が付く人もいると思うのですが、この研修では、裁判例になるような事案の防止にしかならないです。自死しなければそれで良いという研修になってしまいます。端的に言うと、「ここまでしなければ大丈夫」という間違った知識が身についてしまう危険があります。なぜ、リスクが生まれてしまうかということを分析的に説明します。

1)裁判例で示される「事案」は裁判所が証拠によって認定された事案だけであること。

パワハラの裁判は実は簡単ではなく、パワハラの事実が証明されることはかなり難しいという高いハードルがあります。多くは上司の部下に対する言動に問題があるわけですが、その言動の存否がなかなか証明できないのです。

本当は、もっと従業員に影響を与えた言動があったとしても、それが証明できないために証明できた証拠だけがクローズアップされてしまうという危険を判決は常に持っています。だから判決だけではなかなか事案を正確に把握することが難しいというべきでしょう。

ただ、近時IT化が進み、昔は考えられなかった様々な証拠を残すことができますし、証拠に残ってしまっていたという偶然も起きやすくなっています。あの判決の時は裁判所から見て評価される証拠が提出されなかったとしても、現代では評価される証拠が提出されてしまい、裁判事例とは別の角度からパワハラの認定がなされてしまう危険があります。

2)労災認定実務に引っ張られ過ぎている可能性がある

裁判所において、従業員側が「これがパワハラの原因だ」ということで主張する事実関係は、労働災害でそれがあれば労災だと認定されやすい労災認定基準で示された事実関係を主張するものです。労災認定の行政手続きでは鉄則です。

しかし、この労災認定基準も完璧なものではなく、労災と私病を区別するという目的があって作られているもので、従業員側に何らかの要因(弱さ)があると言える場合には、私病に寄せて扱われる可能性を孕んでいます。
つまり、労働災害か否かの判断は、
ストレス過重であればあるほど労災になり
従業員がもともと弱ければ弱い程労災にならない
という相関関係があるということになります。

しかし、実際の損害賠償請求事案では、損害賠償請求を先行させる場合もあります。必ずしも、この相関関係に当てはめずに判断が先行することがあります。また、ストレス要因であるパワハラの存在と内容が、例えば週刊誌の報道が先行し、世間に知られてしまった後では、今さら従業員に弱いところがあったなどという反論がなかなかしづらくなるわけです。

提訴会見などが広く報道されてしまうと、その何年後かに裁判で勝ったとしても、世間に定着した悪いイメージを払しょくすることは簡単ではありません。判決が出た時は既に廃業しているという可能性もあるわけです。

私が企業から相談を受けるときは、この一般顧客(世間)からのイメージや取引先との関係も考慮に入れて解決策を考えるのですが、最近は裁判に勝つ要素があると、裁判でさえもそれですべてが決まるわけでもないのに企業活動の利益を考えないで裁判に突き進む方針が立てられる場合もあります。

しかし、裁判の結論というのは判で押したものが用意されているわけではなく、色々な事情が絡んで先行きが見えないことが通常です。特に裁判官の個性というものが案外影響を与える場合が多く、この証拠があれば絶対勝てるとはなかなか言いづらいということが実情ではないでしょうか。

判決事案は氷山の一角であり、事実を正確に反映しているとは限らないので、あまりその判決の論理だけを参考にするべきではありません。

3)死ななければよいというものではないこと

裁判で現れた事案は、不幸にも自死が起きた事案が中心です。闘病中であるようなケースは、なかなか裁判になりにくいし、従業員の勝訴判決もそれほど大きな損害額が認定されているわけでも無いようです。しかし、近時、この点は改められてきています。うつ病についての研究が進み、損害のプレゼンが進化しているという事情もあると思います。

また、生死の分かれ目というのは、それほどはっきりしているわけではなく、そこに偶然的な事情で大きく結論が異なるということは、よく見ています。死なない事案と死ぬ事案というのは、区別はつきません。裁判例で、「死ぬほどの事案ではなかった」と仮に判断されたとしても、同じような事案でも亡くなる人が現実に出てくるということは大いにありうることです。それでは、企業の損害を予防できるとは言いえないわけです・

パワハラ予防は、もっとゾーンを広げて予防しなければ、ならないと思います。前に大丈夫だったということを過信すると、最悪のケースになることがあっても不思議ではありません。

4 国のパワハラ指針が、実務的には難解である理由

もちろん国のパワハラ指針でどのようなことを言っているのかを知っておくことは必要です。しかし、パワハラはいろいろな要素が組み合わされて大きなストレスになるものです。例えばベテラン従業員にそれをやった場合と、新人従業員にそれをやった時では、受け取る言葉の意味は全く違ってしまいます。

国のパワハラ指針は、その性格上やむを得ないとも思われるのですが、その他の環境を考慮に入れないで、こういう言葉を使ってはダメだ等の例示が列挙されています。これ自体が裁判例を参考にして作られているようで、その意味することも難解です。人によって解釈が変わることもありうることだと思います。

大事なことは防止するゾーンを広げて、確実にパワハラ及びパワハラによるストレス過剰による様々な負の効果を防止するということがきちんと目的とされているかどうかということです。パワハラ的言動をしないことが既得権益の侵害みたいにぎりぎりのところを攻めてはだめなのです。

研修会では、慎重な解釈をあえて提示するという姿勢が必要だと思います。

5 パワハラ予防は企業の伝達効率などを阻害するか

パワハラとは何か、パワハラがなぜストレスになるのか、なぜ予防しなければならないのかということをきちっと理解した講師でなければ、「企業伝達などの効率性がパワハラによって阻害される」などと考えて、予防対策を手加減しても良いように話してしまう場合があります。

仕事で行っている場合には、クライアント受けが良い方が良いと考えてしまうのはありうることかもしれません。

しかし、パワハラがどうして起きるのかということを見ていくと、伝達技術が未熟である場合もあるのですが、伝達環境を整備していない場合が多いように思われます。他人を動かす場合、時間もかかりますし、コストもかかるわけです。これを無かったことにしようと無理を通そうとする場合にパワハラが起きてしまう場合が多いのです。むしろ個別にパワハラと指摘された行為を点検して、改善するためにどうしたらよいかということを考えた場合、
1)そもそも伝達しなくても良いことを伝達しようとしていないか
2)伝達する場合の方法は適切か、どうあがいたって伝達情報が伝わらない方法で伝達しようとしていないか
3)伝達対象にふさわしい伝達方法になっていたか
という点検をする必要があり、それを点検すれば、パワハラをすることがいかに企業にとって非効率的なことをしている場合が多いことかよくわかると思います。

真のパワハラ予防は、企業活動の効率化につながるということはこういうことも含んでいます。

6 パワハラをする人間像の誤解

一部ではパワハラをするというのは、人格性パーソナリティ障害の人間であり、あるいは他人の心を感じられないサイコパスのような人だという誤解があります。もっともそう思いたくなる事案が多く、そのような事案では従業員は多大なストレスを受けてしまいます。

しかし、現実には、真面目過ぎる、責任感が強すぎるという上司が、十分時間を取らずにコーチングをして失敗しているケースも多くあります。一度上司に対する信頼関係が無くなると、周囲もパワハラ上司だと認識をしだしてしまい、本来ならば指導の仕方を覚えれば済む話も、どんどんパワハラの沼に落ちていくということが多いのです。

あまりにも人道的に問題がある上司であれば、改善を促して改善されなければそれなりの処分をしなくてはなりません。しかし、実際は上司の言い分はわかるということが多いようです。「言い分がわかっても改めなければならない」、これが多くの企業で行うべきパワハラ研修のはずです。

7 効果的なパワハラ防止策、パワハラ研修

ここで最悪なことは、「上司として部下の人権を尊重しましょう」ということで終わってしまう研修です。何が最悪かというと、人権という言葉は一義的に意味のある言葉ではなく、行動指針とはなりえないからです。結局何も変わりません。

なぜ、パワハラを行ってしまうかという理由を明確にして、理由を常に意識させて、同じような事態になる時に、先ずパワハラをしない方法を考えるという癖がつけばかなり上出来です。しかし、これも、実務的に、常に意識し続けるという作業ができるかについては、かなり難しいことだと自覚をする必要があります。

中間管理職の上司が自分の行動を改めるということには限界があることを十分に意識する必要があります。会社に対する責任感を無くせとか、ちゃらんぽらんに仕事を考えろと言えるはずもありません。

現実的で効果的な方法は、パワハラ上司の上司のコーチング技術を向上させることです。

つまり、自分ひとりではなかなか行動を改めるということができないために、補助者の協力を得るということです。

「それはパワハラだ」と叱責するだけでは、相手も構えてしまい、逆にストレスでつぶれてしまうことも心配しなければなりません。評価や査定が低くなることも心配になってしまい、結局、統制力や指導力のない上司が出来上がってしまいます。

やるべきことは「置き換え」のアドバイスが一つです。

これも部下の前で上司のメンツをいたずらにつぶすようなことがあっては困ります。上司の上司は自分の役割を見せつけたいためにパワハラを起こしやすいという実例も多くあります。

いくつか方法があります。

部下の指導に参加するタイプ
部下には中間管理職の言いたいこと、目的などを説明し、改めてあるべき指導をする
中間管理職には介入してしまうことを謝罪しながら、部下に対してフォローをする。
後で改めて、どうすればよかったかということをミーティングする
パワハラの問題を作業効率、効果的な指導の問題としていくことで中間管理職を安心させるということも意識しなくてはなりません。

中間管理職とその上司の信頼関係が効果を左右すると言っても過言ではありません。この信頼関係が絶大であれば、個別に部下対応、中間管理職対応を迅速に行って指導方法の置き換えが可能となります。



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企業体が、J記者会見から学ぶべき多くのこと 会見をする場合に弁護士やコンサルを利用する場合のポイントについて 「ルールとは」もおまけで [労務管理・労働環境]


1 会見の目的を徹底させること

9月と10月に大手芸能事務所が記者会見を行い物議を醸しています。どうせ会見をやるならば、会見を行う目的を達成しなくてはなりません。この事務所の会見の目的は、創業者による児童に対する人類史上類例を見ないせい虐待があったこととメディアに圧力をかけるなどして自社の独占状態をつくり自由競争を阻害したことが、外圧などにもよってオープンな議論のテーマとなり、これまで通りスポンサー企業もメディアもスルーできなくなったため、取引が危機に陥ったことに対して、損害を最小限度にするということが目的だったはずです。

おそらくこれまでの長年の取引があったということもあって、①社名を変更して②元事務所を消滅させることによって、スポンサー企業やメディアは新しく立ち上げる新事務所との取引を行うという感触もあったのだと思います。この二つを発表して、企業やメディアも多少世論の批判があったとしても、タレントを使い続けるという観点から事務所にアドバイスをしたのかもしれません。一部そのような報道もありました。

この会見は、思い切った反省と身を切る改革をしたのだということについては言葉の文字面では十分伝えていたと思います。

ところが、すぐに指名NGリストの存在をすっぱ抜かれ、その紙に「氏名」と記載されていたことから氏名を公表してはいけないリストだという言い訳があり、案の定NGリストの氏名さえもすっぱ抜かれて、氏名非公表リストではないことも白日にさらされたことによって、さらに世論の事務所に対する反発は加速されて行きました。もっともこの言い訳をしたのは事務所ではないと思われますが、結果として反発を強めたということは間違いありません。

私はNGリストよりも指名候補リストの方が問題だと思います。たとえ候補者の人たちが、事務所と結託していないとしても、事務所が困る質問をしないだろうと信頼している人たちに発言させるという意図があからさまになり、「やらせ」という印象を固定化してしまったからです。

しかし、このNGリスト、候補者リストもそれだけでは、現実の致命的な状況を招かなかったはずです。一番の問題は、事務所に対する批判緩和の切り札のI氏の発言だったと思います。

それまでも記者とのやり取りを聞いていて、視聴者、それと視聴者の動向を気にしていたメディアとスポンサー企業は、あまりにも事務所の発言者の態度が堂々としすぎていること等、モヤモヤしていた状況でした。言葉にならないけれど、気持ちが悪い、歯に物が挟まっているような感覚を持ち続けてきたわけです。

そうしたところ、司会者から指名されないNGリストの記者たちが発言を求めていたところ、切り札のI氏が、概要「落ち着いてください。子どもたちが見ています。ルールを守っている大人の姿を子どもたちに見せたい。」というような発言があったわけです。これも実に堂々とした発言で、味方の記者からは拍手も沸きました。これが最大の悪手だったと思います。

コアなファン層は、この発言で留飲を下げたことでしょう。また、NGリストの記者に反感を持っていた人たちが拍手をしたい気持ちもわかります。そして、保守を装った職業的ユーチューバーたちも、事務所に対するコメント動画をあげることなく、NGリストの記者に対する批判動画を一斉に上げだしました。私はこれは不自然に感じました。このような流れでもできていたのかとさえ思いました。

しかし、メディアやスポンサー企業が注目していたのは、このような人たちの動向ではなく、一般人の対応でした。おそらく、企業は、このようなキャンペーンは何も評価の対象にしなかったのだと思います。

それはそうです。メディアやスポンサーはこの事務所のタレントを使うことで、これ以上自分たちが批判にさらされないかということが唯一の関心ごとだったから、元々の応援団の動向は関心の対象にはなるわけがありませんでした。

切り札のI氏の発言の何が問題だったのかについては、むしろこれまであまり視聴回数を稼ぐことのできなかったユーチューバーが雨後の筍のように動画をアップしております。
1) 子どもたちに性虐待をしていることで問題となっている会社側の人間であるにもかかわらず子どもたちを引き合いに出すことは、反省の色が全く見えない。
2) ルールを守れという立場にはないということ
私は2)について説明をしようと思います。
ルールが存在するためには、法哲学者H.LA ハートによれば、ルールの対象者が、そのルールは守るべきだということを承認していなければならないとしています。ルールを破る者が出てきても、本来は守らなければならなかったという消極的承認でもよいわけです。
ところが、一人一問方式というのは、およそ記者会見にはふさわしくないやりかたであり、これでは記者が質問をする意味がありません。質問に答えないで別の話を始めても、重ねて問いただすことができないから、質問を無にするのは実に簡単だからです。当然事務所側の人間はルールだということで守れと言うでしょうが、一般の記者としてはルールとして承認できないことであることは間違いありません。つまり、一人一問形式はルールではなく、事務所からの「お願い」だったわけです。これを破ろうとする人に、「どうか一人一問形式でお願いします」とお願いするならわかります。それをルールだから従えというのは、大学の研究者から、加害者の論理と言われても仕方がないことだったと思います。

このI氏の発言が問題だったことは、後の事務所の言い訳によって、さらにくっきり浮かび上がります。事務所の言い訳としては、リストの存在は全く知らなかったというのに、I氏はこのリストを見て「指名しなければだめだ」と否定し、その結果では前半には指名しないで公判で指名することにしましょうという話になったということが言い訳の内容でした。この言い訳が本当だとすると、I氏は、指名しない記者のリストが破棄されないで存在し続けたことを知っていて、実際リストアップされた人の一番有名な人が指名されていないことも知っていたことになります。そしてその人が指名されなければ不規則発言をするだろうことも知っていたし、不規則発言も記者が指名されないために行っていたことも知っていたわけです。つまり、自分から彼女らを興奮させておいて、興奮したら落ち着いてくださいとたしなめたというわけです。しかもルールになっていない、こちらのお願いを守れという形での攻撃でした。

本来お願いするべきことを自分が正義だという立場からたしなめれば、その理屈に気が付かないとしても、批判的視聴者はモヤモヤが高まってしまいます。このモヤモヤが、せっかくの身を切る改革に対する評価を後景に追いやってしまいました。大変もったいない話だったわけです。

メディアやスポンサー企業は、この切り札発言で、自分たちも共倒れになる危険を感じたとしても不思議ではありません。好意的に見せかけて内情を調査していた人がいたとしたならば、NGリストの存在やその使われ方についてリークをすることは本来想定しなければならないことでした。最初のすっぱ抜きが、テレビで放映されたわきに抱えた写真だけの情報で報道するわけが無いということ、どうやって報道に踏み切る裏付けを入手して、どうやって報道に踏み切ったのか、つまり自分たちはどう扱われているかについて、言い訳をするにあたっては考えなければならなかったわけです。裏リストが報道された時点で気づくこともできたはずでした。

半分しか知らないよという下手な言い訳をしたことによって、切り札の開き直りの態度(本人の希望ではないにしても)が浮かび上がってしまい、今後この切り札を切ることができなくなってしまいました。

なぜ、このような発言と言い訳をしてしまったのでしょうか。ここは想像ということになります。おそらく第1回の会見での質問がよほど腹に据えかねたということではないでしょうか。あの質問が1回目の会見をダメにしたと感じたと思っただろうということです。そして1回目の会見を構成したのが事務所の番頭格(実質的な日常業務の意思決定者)だとすれば、当然そのように考えたと思います。

そして、1回目をダメにされた恨みで、2回目でその記者に恥をかかせようとしたということであれば、NGリスト、切り札発言、拍手の意味がよく理解できます。もしそうであれば、会見の目的外のことに力を注ぎ過ぎて、会見の目的を強調することができなくなってしまったということになります。

ではどうすればよかったか。
私は、多少後知恵の感が自分でもするのですが、オープン形式の記者会見なんてやらなければまだ良かったと思っています。記者を呼ばないか、2,3名の記者だけで事務所の名称変更と解体を宣言するということです。批判をかわすことに十分ではないとしても、切り札発言と拍手ということは回避できたはずです。

もしどうしても、スポンサー企業やメディアの要請があるというならば、徹底的に攻撃を受けるということです。ひたすら謝罪を繰り返し、記者の攻撃に対して「勉強になります。検討をします。今後の事務所運営に活かしたいと思います。」と繰り返し、攻撃に無防備にさらされる姿を見せ続けることによって、さすがに「かわいそうだ」と印象付けるという選択肢があったと思います。その点は彼女らが反発することは十分計算できたし、そういう理不尽な攻撃をされて打ちひしがれている表情を作り続けることについて二人は十分できたと思います。そうすれば、「みそぎがすんだ」という評価を受けることも可能だったのではないでしょうか。将来的損失は最小限度に防げたし、憎しみは旧会社とともに消滅していくとなったことだと思います。

 あくまでも身を切る改革、社名変更と解体を前面に報道してもらわなければならなかったのに、余計な結果を招いてしまったということになろうかと思います。

2 その他の教訓
  相変わらず長くなっちゃったので、後は結論だけ述べます。
  考え得る最小限度の損害にすべく、ある程度の損害は割り切って甘んじて受け止めるということが企業としてのやるべきことですが、想定する損害の程度を少し軽く受け止めてしまったのかもしれません。
  自分を取り巻く情勢については、厳しい第三者の目を参考にして、自分の意見を通さない。だから、弁護士もコンサルも、自分に厳しい対応をするプロを厳選しなければなりません。そうではないと、童話の「裸の王様」状態になってしまいます。自分のこととなると楽観的になりすぎたり、逆に悲観的になりすぎたりしてしまうということは当たり前です。
  会見は、信頼できる幹部と信頼できる外部者(弁護士、コンサル)の少人数で進行の一切を取り決めること。有名企業には内部通報者はつきものだということを教訓化しなくてはなりません。コンサルは、結局はアドバイザーだとして心得るべきで、演出は自前で行わなければならないということです。

  なお、協力してもらえる発信者がいるならば、批判者に対する反論を展開してもらうよりも、同情論、理解できる部分がある論、部分的共感論等を発信してもらった方が、良い場合があるということ。本件はまさにこれでした。

  総じて、誰に見てもらうかという想定をきっちり行うということが大切で、その人がどう感じるかという目的にまっしぐらに企画をつくるということ、そのためにも目的を言葉にしてはっきりと共有するということが一番の基本になるのだと思います。

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ユーチューバーがジャニーズ会見を批判する動画をアップする理由、尋問のプロの感じた会見の「技術的」成功とその成功が招いた想定しなかったデメリット [労務管理・労働環境]


先日、ジャニーズの4時間以上にわたる会見をユーチューブで倍速で観ました。そうしたら、その後私のユーチューブのホーム画面に、この会見を批判する動画が大量に並ぶ事態になっていて、その中のいくつかを観てしまいました。

この一連の流れは、弁護士としては、謝罪会見をする場合に気を付けなければならない事情の宝庫になっていて、どういうことをすれば聞き手はどう感じるかということもよくわかり、大変勉強になりました。その勉強の成果を還元するための記事でして、プロダクション批判の記事ではないつもりなので、初めにお断りいたします。

動画作成で生計を立てているユーチューバーの中には、純粋に動画再生数を稼いで収益を上げたいというある意味純粋な人と、特定の主義主張のセールスマンという形で、おそらくスポンサーをつけてやっている人と二種類いることがこの騒動ではっきりしてしまったということも今回の会見の副産物でした。今回分析するのは、前者の人たちです。

前者の人たちは、純粋に動画を多く再生してもらいたいということですし、一度着いた固定客を維持するというより、この会見をチャンスに新たな視聴者を増やそうという意欲が感じられる動画作成をしていました。

新たな視聴者が動画再生をするために、その不特定多数人のニーズに合わせた動画を作成しようという工夫が感じられました。

さらに、この動画がウケると思ったら、例え新たな情報が少なくても第2弾、第3弾の動画をアップすればまた見てくれるということもよくわかっていらっしゃる動画になっていました。視聴者が求めているのは、新たな情報よりも、自分が言いたくて言えないようなことをずばりと言ってもらい、自分の不満やフラストレーションを他の誰かに共感してもらいたいということのようなのです。

だから、ただ批判をすればよいというわけではないということが大切です。視聴者が言いたいこと、言ってほしいことをズバリ言う、しかもあくまでもこちらが「正義」であるという安心感を持っていられるという言葉や口調を選ぶというスタンスがとても大切なようです。

では、動画の視聴者は、あの会見で本当は何を言いたかったのでしょうか、どこに不満があったのでしょうか。これについては、動画作成者は必ずしも言葉で明らかにする必要はありません。それの説明を試みる私は動画作成をするわけではなく、今後仕事として行う謝罪会見が目的を達成できなくなることを避けるために、言葉に置き換えてみているわけです。

会見は4時間超に及ぶものであり、それなりに創業者を否定評価したものであり、今後被害者に補償をするということまで言及したし、4時間サンドバッグのように攻撃さらされれば、それなりに同情論も沸き上がり、騒動が鎮まるのではないかという見込みがあったと思います。批判に応えたぞという姿勢を示すことが会見企画者側の当初の目的だったはずです。

<企画者としての誤算だったと思われる依頼者の意思2点>

ただ、記者会見を企画した人物にとっては大きな誤算が当初からいくつかあったのだと思います。

 前社長が取締役を退任せず、代表取締さえも辞任しなかったということが第一の誤算です。社長の肩書をはずしたということは、法律的にはあまり意味のないことです。対外的にもあの人が代表取締役という会社のトップにいることは変わらないし、対内的にも実質的トップは変わらないということだけが伝わりました。小学生くらいであれば社長を辞めたということは大きなインパクトがあるかもしれませんが、大人はそうは思いません。

退任しなかったことは会見企画者としては誤算だったと思います。別に代表取締役をやめても困らないだろうという経済的面からの推測があったと思います。100%株主ですし、これまでの実績、人間関係があるのだから、会社に対する影響力が減少するわけではない。また、当面役員報酬が無くても困らないだろうから、第三者委員会の勧告に従って取締役を辞めると思って、それを会見の目玉にしよう、できるだろうと思っていたのではないでしょうか。ところが、肩書は外すけれど法的立場は変わらないということですから、企画者としては誤算ですし、一般視聴者はモヤモヤするわけです。

一時的にでも代表取締どころか取締役からも名前をはずすということになれば、身内のために仕事を奪われたという同情論が期待できたはずです。ところが代表取締役を辞めないということであれば、第三者委員会の指摘する同族企業を温存させるという印象はぬぐえません。さらに、100パーセント株主で今後も会社を支配しようとしているということに一般人の視線を誘導してしまうという副産物まで出てきた結果になりました。

もう一つ誤算だったのは、社名の変更を「検討しない」という回答をしてしまったことです。なぜ、「検討する」ということを言うことにできなかったのか、これも会見企画者としては誤算だったと思います。これでは、補償も今後のメディア露出や他の出演者への圧力防止措置も具体性が無く曖昧であることと対比して、社名を変えないという決意だけが、強固なものだという印象を与えてしまいます。当然企画者としては社名の変更を「検討する」とだけは言ってほしかったと思いますが、検討すらしないと言われたときは、代表取締役留任と合わせて、会見の効果がどうなるかを予想せざるを得なかったと思います。ホットな火種を作ってしまったことになります。また、この言いキリが、後に述べますよに、創業者に対する否定評価の話の説得力を空疎なものにしてしまいました。

<会見の技術と結果的なデメリット>

会見システムで、主催者側にとって一番工夫したと思ったシステムが、一人一つの質問に制限したことです。これは、追及はされたけれど、追及の効果は何もなく、結果として潔白という印象を作るということを結果のためには、とても考えられた工夫だったと思います。

一人一回の質問ならば、いくら時間を取って質問をだらだら続けても、核心に迫ることは初めからできません。不規則発言で突っ込めば、秩序を重んじる日本国居住者としては批判の矛先は質問者に向かいかねません。
事実、鋭い質問だなあと思う質問もいくつかあったのですが、そういう質問には答えないで別のことを話し始めて回答が終わり次の質問になっていたのですが、一人質問が一つなので、それ自体を追及することができなかったようです。

例えば社名変更についても、
「社名を変えるつもりはありません。」という答えが来たら
「検討さえしないのですか」という質問をしたり
「あなたさっき鬼畜の所業とか、史上最大の何とかとか言葉を尽くして否定評価したように言っていたけれど、社名を変えるほどの悪行ではないと思っているのですね。」という質問をしたかった人もいたのだと思うのですが、
二の矢三の矢を放つことができなかったため、結果としては話のすり替えであってもその部分を批判もできないばかりか、クローズアップすることもできず、結果として流してしまうことが可能になったのです。

例えば、「本人たちは努力しているからテレビに出ている」ということについても、
「それではジャニーズを辞めたらテレビに出られなくなるのは、やめたらこれまでの努力が遡って無になるということでしょうか」とか
「自社の芸能人以外の芸能人がテレビに出られないのは、努力が足りないということでしょうか。」とか
「視聴者の支持があるからテレビに出ているのではなく、テレビに出続けていて顔なじみになったから支持する視聴者が出てきたのではないか。(単純接触効果)」
というような大人なら誰でも気が付くことを言えなかったのだと思います。

そして中には某テレビ局の質問のように主催者を結果的にアシストするような質問がなされていれば、4時間なんてそれほど負担ではなく、結果として悪意のある質問はすべて退けられたという印象が残るはずでした。

一番気になったのは、ファンを理由にこれまでの企業活動を維持させてほしいということを述べたことです。それではスマップのファンやキンプリのファンをどれだけ会社は大切にしてきたのかというツッコミを当然多数の人が入れたがっていたことでしょう。

こんな片手間に書いていて私が思いつく突込みなんて、誰でも考え付くことなのです。一人一質問形式は、それをテレビ画面やスマホの画面で見ている者からすると、言葉では表さないまでも、消化不良や不満、不信が意識の中に蓄積されて行ったことは想像に難くありません。逆に、なんとなく会社を批判することが正義だという意識が大きくなっていったのだろうと思います。この社会心理をユーチューバーが見逃すわけがなかったということなのだと思います。

つまり、質問を結果的にはぐらかすことや、あからさまにその話はこれ以上言うなという指示がだされることは、本当は正しく質問にこたえることができるのに、質問の意味を理解しないで答えていないだけであっても、本当は回答者が混乱していて自分の意思を正しく伝えていないので制限していたという場合でも、視聴者からすれば、「何か隠しているのではないか」とか、「あの質問が核心をついているから答えてはまずいと判断したのだろう」とか、勘繰られてしまうということがわかりました。本人が職務に忠実にやるべきことをやっているという意識があったとしても、イメージは大変悪いものでした。これは私も覚えがあります。こういう風に見られていたのだなあということは大変勉強になりました。ひな壇に上がっていると案外そこまで気が付かないということがありそうです。

一人一門形式が機能するためには気を付けなければならないポイントだということがよくわかりました。ポイントを外してしまえば、せっかく時間無制限でサンドバッグになるという効果よりも、疑惑が膨らんでいくだけというデメリットもあると強く感じました。

その結果、社名は変更しない、所属タレントはこれまで通りテレビ露出をしていく、役員報酬は辞退しないという現状維持という結果の会社の希望だけが、図らずしも強調されてしまったという印象になり、視聴者はその不満やフラストレーションを強く持ち、このような不満やフラストレーションを持つ者は、そのネガティブな心情を誰かと共有したいという強いニーズが生まるという仕組みがよくわかりました。だから敏感なユーチューバーが早速動画をアップしたわけです。こんなフラストレーションはいつまでも続くわけではありませんから、動画アップはその日のうちにしなくてはなりません。

最後にひな壇の3人についての勝手な反省です。
前社長は、もっと発言を控えた方が良かったです。元々が中途半端な退任で印象が悪いのですから、話しても好感は持たれません。だとすれば「反論をしたくでもできないでじっと耐えている」という構図をせめて作るべきでした。また、タレントと違ってこれまでの露出が少ないのですから、一般視聴者が自然と感情移入されることはあまり期待できません。自を出してよいことは何もないということをもっとレクチャーするべきだったと思います。

いのはらしは、彼一人で会見したら、およそ会見の効果は上がらなかったと思います。前社長と新社長に対する世間の反発をうまく利用する結果となったためにある程度の評価がなされているのだろうと思います。

3人の一番の問題はすべて他人ごとの発言だったということです。これは会社としてはまるっきりの逆効果になっています。いかに「会見(3人)」に好印象を持つ人がいたとしても、「会社の今後」にとってはメリットよりデメリットが大きかったと思います。

会見の狙いが新出発を印象付けようとしたのだと思います。その線に沿って話を運んで、各人の役割を明確に配分していました。

新体制ということを華々しく打ち立てるためには、やはり過去と決別したという結果を印象付ける必要がありました。しかし、この決別を印象付けるためには、過去の否定評価と過ちを繰り返さないという具体的なプランを説明することが説得力があるのですが、過去の否定評価を言葉では行ったけれど、その過去と決別する部分が何ら具体的に見えなかった。自分は関係ない、自分以外の人間が悪く、自分は知りもしなかったということだけが強調された結果、既得権益を温存させたい思惑だけが際立ってしまい、この点をつけば視聴者は自分のフラストレーションを共有できたという満足感を持つだろうということを動画作成者は見逃さなかったということなのでしょう。

会社ですから会社を維持しようとすることは当然のことです。だからと言って既得権益を温存させたいということを語っては逆効果です。会社を維持させるためにどうするかという発想をもって戦略を考えて行動しなければならなかったはずです。会社の経営に努力賞はありません。

真面目な話、問題はテレビやCMスポンサーが日本の良識をどう作り上げていくかということなのだと思います。あの会見でよいと言って現状維持をするというのであれば、あの会見で良かったことになります。それとももっと、例えば音楽番組であれば、音楽の楽しさ、素晴らしさを伝えるような番組制作を行うように変わるのかということなのだと思います。

私はドキュメント的な音楽番組ができるとよいなと希望します。例えばスタジオミュージシャンのような確かな技術を持った人たちに、一時的なユニットを作ってもらう番組を作り、コンセプト設定の打ち合わせやリハーサルなんかもドキュメントタッチで撮影して、それほど大きくない数十人くらいが入るジャズバーを少し大きくしたような会場での演奏を番組で流す。それを会場にいる一人のようにバーボンのロックをオールドファッションドグラスですすりながら聞いているような錯覚が生じるような、そんな居心地の良い番組を見たいと思います。
そのミュージシャンのゆかりの楽曲を演奏しても良いし、スタンダードナンバーを演奏しても良いのではないでしょうか。

音楽を作る過程とできた音楽を両方楽しめることが魅力だと思いますし、この番組を見て音楽家を志したり趣味で音楽を始めてみようと考える人が出てきたらすてきだなと思います。

私はアイドルを否定するつもりはないのです。ライブパフォーマンスに耐えうる実力の備わったアイドルならば、観たいと思います。確かな基礎訓練があり、喜怒哀楽がしっかり表現できるならば見ごたえもあるわけです。ただ、音楽は、ジャズに限らず、その時その時の瞬間的な出来栄えの楽しさ、感動だと思うのです。MVを流すような取り上げ方はTVの仕事ではないでしょうね。感動があれば、低年齢の被写体であろうと、番組を流して時折熱心に観るということはすると思うのです。

テレビは、観る人の人生をいくらでも豊かなものにできる可能性を未だに持っていると思います。それを使わないことは大変もったいないことだと思います。

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これまで担当してきた懲戒解雇無効事件からの教訓 労働者側と使用者側それぞれに向けて [労務管理・労働環境]



私は、労働事件において、特段の主義主張、思想信条がありませんで、労働者側代理人も使用者側代理人も担当しています。法に従って適切な解決に努めるだけです。

また、そうあるべきだと今は思います。両方の立場の代理人をするからこそ見えてくる事件の解決方法があるからです。私は調停委員として懲戒解雇事件にかかわることもあったので、ますます事件が立体的に見えてくるようになりました。

事件が立体的に見えると、どちらの立場で仕事をしていても、相手の背景事情が見えてきて対策が立てやすくなります。それぞれの側の法実務家として担当してきたことから気が付いた点がありますのでメモを残したいと思います。

<労働者側に向けて>
速やかな法的手続きが一番の武器です。

事件の背景を見抜いて、必要とあらば直ちに法的手続きに移行するべきです。懲戒解雇に理由がなく、職員も職場復帰を望んでいるならば、地位保全の仮処分を第一選択肢とするべきだと思います。そして申し立ては素早く行うこと。多少申立書の記載が稚拙でも、迅速さが命だと思います。労働者側の代理人として夢中になって申立書を書いて提出してから、労働契約法の条文を掲げていなかったことに気が付きましたけれど、特に問題が無く勝訴的な和解となりました。

とある保全事件で労働者側代理人として申し立てを行いました。懲戒解雇された翌日に打ち合わせをしてその翌日には申立をしていました。懲戒解雇された日に電話相談が来て、その電話で仮処分に必要な書類を告げて、翌日にもってきてもらいました。前の事件がパソコン上に残っていると書式を使いまわせるほか、必要な資料もわかりますから便利です。

労働者側代理人として大変なのは陳述書作成かもしれません。保全事件では陳述書が大切であると常々実感しています。陳述書を書くにあたっては、依頼者に経過表メモを作ってきてもらうことが大切です。健康保険証や給与明細書等にも必要な情報が明確に記載されていますので、手元にあるととても便利です。案外相手会社の資格証明を取るのが手間がかかることがありますが(1日を争う場合)、依頼者に法務局によって来てもらえるならとても便利です。私の場合は通勤路に法務局があるので朝一で登記簿謄本をとっても9時には事務所に到着できるので便利です。

労働者が使用者から理由を告げられて懲戒解雇を言い渡されたならば、躊躇せず懲戒解雇無効に基づく地位保全申立をするべきだと思います。勉強をしている人ほど、懲戒解雇から普通解雇に転換されたらどうしようと考えるのですが、理由を告げられて懲戒解雇だと言い渡されたらならば、実際は仮処分手続き中に普通解雇への転換はやりづらいということが実情です。「普通解雇に転換するなら転換してから普通解雇を主張しろ」という心構えでやっています。解雇予告手当も出さずに、懲戒解雇の理由をあげて解雇している以上言い訳ができない状態であることをついていくつもりでした。

この言い訳ができない状態にしていくためにも、間髪入れない申立てをすることが大切です。時間が過ぎていく中で、懲戒解雇をした会社も、離職票を作成する等様々な手続きがあります。その中で社会保険労務士の関与があれば、「これはまずい」と気が付く確率が上がり、弁護士に相談してもっともらしい理由をつけて普通解雇の手続きをしてしまうことがあります。普通解雇だと、解雇理由が無限に広がる場合があり、その一つ一つについて、事実に反するとか過大な低評価だと主張立証することは相当骨が折れます。それでもやり切って勝利和解をしなければなりませんが、膨大に手間暇がかかりしんどいです。この反証にもコツがあるのですが長くなるので省略します。

まとめますと、労働者側が行うことは、懲戒解雇がいかに唐突に行われたか、どうしてこの程度の理由で懲戒解雇となるのかということを、客観的事実と社会通念に照らしての論証によって、裁判官に認識してもらうかということになると思います。

逆に解雇されてから数か月たってから事を始めると、それ自体がハンディキャップになる場合があります。代理人としてもとてもしんどいです。いろいろな細かなことが曖昧になってしまいますが、不合理な解雇の場合は労働者側に有利な内容が曖昧になってしまいます。

付け加えると、雇用保険制度、税金などの知識も和解条項の作成などで必要なので最低限度の知識は身に着けておくべきです。

<使用者側に向けて>

一番大切なことは、解雇は慎重に行うべきだということです。特に懲戒解雇は慎重に行うべきです。解雇した側が結構大きな組織なのに、人事権者が特定の労働者と感情的に対立し、目の上のタンコブのように扱っていて、やめさせたがっているときに、つい、これはいけるのではないかと思って、理由をつけて懲戒解雇をしてしまう場合が多いように思います。

確かに上司から見ればその労働者が一人いるだけでやりにくいと感じるとか、自分の立場が他の労働者からも軽く見られるようになるのではないかと危機感を抱かせる人間はいるものです。どっちが経営者かわからず、資金繰りに苦労してなんとか会社を維持していることがバカらしくなる場合もあります。これは経営者の立場で考えることができればよくわかります。

ただそういう経営者の気持ちの問題はあるとして、裁判所から見れば、労働者はその会社で働くことによって生活が維持されているので、退職金の出ない懲戒解雇は人ひとりの人生が破壊されかねないとみられるのです。

懲戒解雇をしてやれやれと思っていると、裁判所の手続きを通じて懲戒解雇が無効になり、下手すると何年か働いてもいない労働者に賃金を支払い続けなければならないことになりかねないということです。

経営者からすれば懲戒解雇が有効になるハードルは思った以上に高いところにあります。

例えばやめさせたがっていた労働者が何か事を起こしたとなると、やめさせたいと思い続けてきた経営者にとってはそれが十分懲戒解雇の理由になる大きな出来事だと思ってしまうという現象があります。心理学では確証バイアスと呼ばれる心理効果です。

しかし、労働者側の代理人弁護士は、それがいかに理由のない懲戒解雇であるかということをいとも簡単に論証してくるものです。

人ひとりを解雇するというのであれば、裁判所の動向を知っている弁護士と相談して、くれぐれも慎重に進めていく必要があります。

無謀な懲戒解雇が行われるのは、代替わりなどで経営者が交代して、自分の地位が確立していないと新経営者本人が感じているときによく見られます。そして、周囲がイエスマンばかりで本当の意味で新経営者を支える能力のない場合ですね。その労働者がいるとやりづらいとか、不愉快な言動をするという経営者の心情に共感しすぎてしまい、解雇という手続きが可能か否かの観点から自分の頭で考えて経営者に意見を言えないという意味で能力が無いわけです。経営者に寄り添ってしまっている場合です。とある業界では、まさにこのタイミングで怪しげな経営コンサルタントが入り、次々と会社が倒産してしまった例が実際にあります。自分の立場に不安を感じているときは、それに付け込んで利益を得ようとする人間がいるということは頭の中に入れておくべきです。

次に解雇という選択肢が譲れないとしても、懲戒解雇は回避した方が賢明である場合がほとんどだと思います。
普通解雇を選択する場合でも、裁判所から正当な解雇理由があると判断できるように客観的な証拠をきちんと集めておく必要があります。特に新経営者不安型の解雇の場合は、解雇理由が曖昧で、噂話のたぐいまで根拠に引っ張り出してしまい、かえって理由のない解雇ではないかと裁判官から見られるような解雇があります。つけないほうがましな解雇理由が目につきます。会社側の陳述書の書きすぎをやめさせるのが代理人の役割かもしれません。(労働者側はわずかにのぞかせている無理筋を端的に指摘して無理を通そうとしているということを明確にする必要があります。)

そして、解雇を決断する場合、特に懲戒解雇を決定する場合は、法的に成り立つのかの見通しを専門家に判断してもらうことをお勧めします。その際、解雇という選択肢がとれない場合の、その労働者との付き合い方など労務管理上のアドバイスもできる弁護士であればなおよいと思います。

最後に、解雇を相手に告げるときにも、専門家に相談するべきです。くれぐれも、感情に任せてクビを宣告してはいけないということです。専門家に解雇理由の裏付けとなる資料を確認してもらい、解雇後に行うべきことも確認してから解雇通知も作成してもらい、会社代表者名(個人事業主名)で解雇通知をした方が無難でしょう。

せっかくいろいろと解雇のための手続きを進めても、わずかに法律上の要件を満たさないために不利になってしまうこともあるので手続きの確認をしていくことも大切です。

どのタイミングで専門家に相談するかについて時間系列に従って述べますと

1)懲戒解雇をしたい労働者がいる場合に懲戒解雇ができるか、どうすればできるか、普通解雇に転換した方が良いのか、そのためにはどのような準備が必要かの相談
2)懲戒解雇の手続きを始めるか否かの段階
3)解雇通告の際の相談

特に3)は、2)と独立して確認の意味を込めて相談をする必要があると、これまでの事例を見て思いました。

無理な懲戒解雇は無駄なお金が膨大にかかる危険があります。経営者本人も取り巻きも冷静に考えることが実際は難しく、それ故に判断ミスをする場合が多いということを述べてきました。その解決方法は、類似事例の経験が豊富で物事をはっきりと述べるずうずうしい弁護士の意見を聞くということに尽きると思います。

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働くルールはなぜ必要か(中高生向け) 働き方改革は何を目指すべきか [労務管理・労働環境]


中学生向けに話をする必要に迫られて、例によって書きながら考えるわけです。
お題は「働くルールはなぜ必要か」。

先ず、働くルールということで、働き方に関する法律を見てみると、あらゆる方法で労働者保護を実現しようとしていることがわかります。労働基準法、労働安全衛生法、労働組合法、雇用保険法、労災保険法、最低賃金法等々。使用者だって保護されたいと思うのですが、それを目的とした法律はありません。ここで一言ずつ各法律の労働者保護の方法を説明しましょう。早口にならないように注意が必要でしょうね。

次に労働基準法の概要についてお話ししていきます。これ詳しく話すと長くなり、詰まんなくなりますから、資料を作成してそれを見てもらいながら概括的な構成を話すとはしても、理念と労働時間の定め方についてある程度詳しく話していこうと思います。

理念については、労働基準法を勉強した時は自然に頭に入ってきたのですが、労働条件を労使対等に決める(2条)なんて条文があって、現実にはどうかななどと考えていると理念にとどまるのかななんてことを不謹慎にも考えてしまいます。

賃金に関する男女平等(4条)や差別禁止(3条)も定められていて、これも勉強した時は「それはそうだな」と思っていたのですが、案外味わい深い条文であるように思えてきました。この条文の説明としては、労働者は「人間として扱われる権利がある」ということを言おうと思います。人間として扱われなければ、とても辛く、それだけで不幸になるということを法律を定めた戦後直後の国も考えていたのでしょう。このあたりも、死ななければよいという程度の法律ではないということがよくわかると思います。ちなみに5条は強制労働の禁止です。

理念をお話ししてから大事なところは労働時間についてです。あまり突っ込んだ解釈ではなく、なぜ労働時間を規制する必要があるかということを主としてお話ししていきます。

私が大学で労働基準法の講義を受けたのは松岡三郎先生でして、まさに労働基準法を官僚として作った方の一人なのです。私の大学は労働法の先生が多いのですが、わざわざ明治大学で教授をしていた松岡先生に労働基準法を講義するプログラムとしていただいたことはありがたいことでした。

労働時間の基本は週40時間、一日8時間を超えて働かせてはならないということです(32条)。36協定という例外がありますが、36協定もなく単純に違反をすると刑事罰の対象となるほど、厳しい規定となっています。なぜ、このような労働時間制限を国のルールとして定めたかについて、松岡先生は一言、「早死にさせないためだ」と説明されていました。

私が講義を受けたのは昭和の終わりであり、まだ過労死という言葉が普及してはいない時代です。ましてや、条文が作られた戦後直後に過労死という概念もありませんでした。それでも「働きすぎると早死にする。」ということは、国もそう考えていたということが興味深いです。

考えてみれば、実際に戦前でも過労死はありました。現在では、栄養状態が良くなり、医学も進歩していますから、くも膜下出血や心筋梗塞、あるいは自殺が過労死の原因の多い病名です。当時は、働く環境も悪く、栄養状態も悪いので、働きすぎで死ぬ病気は、結核や栄養失調だったわけです。「ああ野麦峠」や「女工哀史」の知識があれば、思い浮かぶ常識です。

それにもかかわらず、過重労働神話みたいなのがあって、「丁稚として修業して誰よりも早く起きて働く準備をはじめ、誰よりも遅くまで片付けや掃除をやって、ついに有名な職人になった、成功の秘訣はひたすら働くことだ」なんてことを言うバカもいるのです。何がバカかというと、そんなことは多くの丁稚たちがやっていた。でも多くの人たちは結核や栄養失調で亡くなってしまった。成功者はほんの一握りの人間だということを見落としているのでバカと言いました。

大体そういうことを言う人は、自分は勤勉に働かず、出世ばかりを目的に要領よく立ち振る舞ってそういうことを言う立場に上り詰めた人が多いのではないでしょうか。

時間があれば、過労死と労働時間の関係も説明したいのですが、ここは資料2でおおざっぱな認定基準を述べるしかできないと思います。

残業割増手当(37条)についても、松岡先生に言わせれば「早死にさせないためだ」とのことです。残業をさせると高くつくという意識を使用者に持たせて残業をさせないようにしたのだということでした。

そして有給休暇(39条)について説明をしたいと思っています。働いてもいないのに賃金を得ることができる制度があることは、とても興味深いことです。これわたしの司法試験の口述試験で上智大の山口先生から出題された論点でした。

過激派の人が違法闘争目的に有給申請をした場合に、使用者は有給休暇を認めて良いかという趣旨の問題でした。有給休暇は、目的の制限が無い休暇であるので、目的を聞くことはできない、何らかの理由で目的を知ったとしても、業務の運営に支障が出ないならば有給休暇を認めないことはできないと答えたのですが、山口先生は少し物足りない様子をされました。

後に恩師にその話をしたところ、使用者が有給休暇を認めるか否かの判断に公序良俗などの要素を考えなければならないとしたら、使用者に過度の負担、危険をかけることになるのではないかという意見をいただきました。30年たっても覚えているものですね。今は、とてもその回答のすばらしさを理解することができます。

まあ、そんな話は生徒さんにはしないのです。
有給休暇という目的制限なしの休みをとることができるという働くルールを労働基準法は持っているのだということを述べるわけです。そしてその理由としては、使用者の指揮命令に基づく組織的な労働をしていると、疎外が生まれる。だから人間性を回復するために労働現場から離脱することが認められているということが、教科書的な説明でしょうか。

労働基準法の人間観が垣間見られる味わい深い条文だと改めて思いました。私も労働者を雇用しているので、この有給休暇の消化をいかに促進するかということを考え実行をしています。複雑な気持ちで有休をとってもらうよう努力しているわけですが、休み明けにリフレッシュして働いてもらえるなら、考えようによっては安くついているのかもしれません。

そういった法律の外観をみたあとは、どうして労働者保護のルールが必要かということに移るわけですが、イデオロギー的な説明も可能なのですが、私はそのような説明には意味を感じないので、先ずは歴史的に保護のルールの無かったころの話をして、労働者が構造的には弱い立場であるということを教科書的にお話ししていこうと思っています。

そうして、労働者保護のルールを作ることの国家としてのメリット、必要性をお話しします。その中で、自分がその不幸な労働者ではなかったとしても、不幸な労働者を見ていると精神的に不安定になり、全体として殺伐とした社会になってしまうということを説明していきます。社会政策学で言われている、最良の刑事政策は社会政策であるということを、刑事弁護人の立場からもリアルに伝えられるでしょう。また、統計的に、完全失業率、自殺率、犯罪認知件数、離婚数、破産申立件数が連動しているということを平易に付け加えることができたら一緒に考える助けになるでしょう。

ミラーニューロンや防衛機制について、そんな言葉を一つも出さないでリアルな話ができると思います。

つまり人間はそういう動物だということが裏のテーマになります。

最後にわかっていながら、働かせすぎてしまう原因について、やはりイデオロギー抜きでの話をします。ここでは、企業体としても、一度に二方向のことを考えることが難しく、条件が重なるとますます働かせ方について配慮ができなくなるということをリアルに伝えていきます。これとは別にブラック企業への注意喚起は改めて必要かもしれません。

そして、実は労働者側も様々な理由から働くことにのめりこんでしまい、自分が働きすぎであることに気が付かず、家庭のことや自分の健康をかえりみないで働いてしまう要因があるということをお話しします。法律や通達のルールは、自分を守り家族を守るためのルールなのだということがキモになるでしょう。ここは、実際の過労死事件を多く担当し、どうしたら過労死しないで済んだのかを常に考えてきた結論のようなお話です。

ただ、だからと言って家族をないがしろに考えているわけではないということについては過労自死などの事例を挙げて伝えたいと思います。

なんのために働くか、人間は本当は何を考えて、何を大事にして行動するべきなのか。そもそも人間とは何なのか。これからもずうっと考えていただきたいと思います。

考えるためには、今身近にいる家族や同級生とどのようにかかわるかということを手掛かりにしてほしいということで、お話を終わる予定です。

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【ハラスメントの余後効】一度起きたハラスメントの被害者は、何も有効な行為をしなければ、かつての加害者が存在すること自体が恐怖になるということ 河北新報ナイス記事(R5.4,21)! [労務管理・労働環境]


4月21日の河北新報の記事です。職場でセクハラを受けた(その後裁判所で会社に対して損害賠償命令済みとのこと)女性が半年間の休業期間を経て職場復帰をしたところ、そのセクハラをした男性と同じ職場のままだったと報道されました。記者が会社を取材したところ、事実関係を把握したので対応を検討するとのことだったそうです。

取材によって配置転換があれば、河北新報はあっぱれだと思います。

会社としてはセクハラの損害賠償を争っていたようですが、だからと言ってセクハラ被害者が休業後に復帰した職場にセクハラをした男性がいるということはいかにもまずいです。会社を訴えたことに対しての女性に対する報復だと受け取られても仕方がないと思います。

この問題は、実は、この会社だけの問題ではなく、労災の認定機関も同じような思考をしている可能性があります。

強烈なパワハラによりうつ病になった事例で、職場復帰をしたところ、パワハラの加害者と同じ職場であることが、心理的負荷として重大なものだと扱われていない場合があるようなのです。もっともその事例は、職場の方でパワハラ加害者に対して懲戒処分を行い、一緒に仕事をすることを極力少なくして、どうしても同じ部屋で会議をする時には、管理者が立ち会うという措置を取っていたということがあります。だから会社はある程度対応はしてくれていたことは間違いありません。ここを重視してそれほど大きなストレスではないと判断した可能性はあります。

それでも、かつてパワハラを受けて、主としてそのストレスでうつ病になった人にとっては、その人の存在自体がとても強いストレスになります。この人は、主治医から外傷性ストレスを起因としたうつ病であると診断を受けています。症状如何によって、あるいはお医者さんの判断如何によってはPTSDの診断がついたかもしれません。

ここは人間の記憶のメカニズムの問題からも説明できます。記憶を持つ最大の理由は、危険の所在を記憶して老いてその場所に近づかないところにあります。ひとたびハラスメントを受けて、不快な人間、恐ろしい人間、抵抗できない攻撃を受ける人間だと認識した場合、その危険の記憶はなかなか消えません。簡単にこれが消える動物はすぐに絶滅するはずです。

だから、過去のことだからもう大丈夫だろうと考えるのは間違いです。また、あの人から抵抗ができない状態で攻撃を受けるかもしれないと、動物の記憶は警戒を高めるわけです。これが文字通りストレスそのものです。

もし、きちんとした謝罪があり、これまでの態度を改めるという宣言があり、具体的に安心ができる接し方に切り替えられていれば、あるいはストレスは著しく軽減するかもしれません。しかし、自分の発言によって、相手がどのような気持ちになるかわからないタイプの人、つまりこういうことを言うと嫌がるからやめようとか、こういう言い方をすると怖がる方言い方を変えようということのできない人は、謝罪をしたり、態度を改めたりすることができません。そしてやっかいなことに、セクハラやパワハラをする人の多くがこういうタイプの人のようです。

処分より前に大事なことは、その人がしたことで相手がどのように辛い思いをするのかを教えることだと私は思います。再びハラスメントを行う可能性がある場合は、企業の責任としては、雇用を続けるかどうか検討をする必要があると思います。二度目のハラスメントがもしあれば、会社は膨大なコストを支払わなければならなくなるということもありますし、求められるコンプライアンスが強くなってしまうということもあります。

一般的には、このようなハラスメントを起こさないようにすることが最も大切です。そのためには、ハラスメント起こすなという予防活動、マイナスを起こさない活動ではなく、積極的にプラスを作り上げる活動が大切です。つまり仲間意識を高めることと、指導力のスキルを上げることで、本人も周囲も、それに逆行するハラスメントに対する拒否反応を作り上げることです。



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パワハラの落とし前のつけ方 現代版黄金律の構築の必要性2 [労務管理・労働環境]



パワハラがなぜ悪いのか。当たり前という回答はありうるかもしれません。しかし、私のようにパワハラによる損害について弁護士としてやり取りをしている者にとっては、パワハラの本質がどこにあるかという仮説を立てることは、必要なことです。どこからがパワハラで、どこからが損害賠償の対象になるのかということは、「パワハラがなぜ悪いのか」ということを考えないままでは、とても頼りないぼやけた境界線しか引けません。

これまでの過労自死事案や精神疾患事案を見ると、パワハラそれ自体よりも、それが組織的に放置されているとパワハラを受けている人が感じることが、より精神疾患の発症の原因になるし、症状が重篤化しなかなか治らない原因だという感覚を持っています。

これはパワハラの本質が、パワハラを受けた者が「自分が努力をしたのに、その努力を否定された。」、「自分の能力や人格を簡単に否定された」と受け止め、自分が会社という人間関係の中で劣っている者、取るに足らない者、簡単に切り捨てて良い者だという否定評価をされたというように感じ、危機感を抱かせることにあります。孤立させることと孤立回復に対して絶望させることがパワハラの本質だと仮説を立てています。

そうすると、一人の人からパワハラを受けることによる孤立感や絶望感もさることながら、その自分に対しての否定的な評価がその会社全体の自分に対する評価だと感じてしまうことによって、より大きく、深くなる、より苦しくなることはあまりにも当然のことになると思うのです。

パワハラを受けた人から見ると、世界中から自分が孤立していて、自分は人間として扱われることが今後一切ないというような感じ方になるようです。
パワハラを見て見ぬふりをするということは、パワハラを受けた人がどんどん孤立感を深めて、絶望に向かっていることを放置することと等しいのです。会社はパワハラがあるかもしれないと思ったら、パワハラの対象者の孤立感を解消する手立てを取らなければならないと思います。

つまり組織は、パワハラがあれば、
1 それはしてはいけないことだと否定評価をすること
2 改善を具体的に指導して同種行為の反復をさせないこと
3 パワハラを受けていた人が自分が守られていると実感すること
が行われなくてはなりません。

これを放置すると、パワハラの被害を受けた人だけが病むだけでなく、組織全体が不必要な緊張感が支配的になり、殺伐とした組織になり、ミスが増えたり、自分の頭で考えないで上司の言われたことしかしなくなる、あるいは優秀な人材から順番に外部に流出していくということにもなりかねません。公務員の場合は転職をあまり考えませんので、精神的被害が深刻になるばかりではなく、第2、第3の被害者が生まれてしまい、職場の中に休職者が増大し、残された者の仕事量が増えるという悪循環に陥ってしまいます。

さて、それにもかかわらず、多くの企業では、コンプライアンスの部署がありながら、このコンプライアンスの部署がパワハラを無意識に隠ぺいしようとする行動をとってしまいがちです。コンプライアンス担当部署側の理由は何なのでしょう。
① パワハラの行為者(あるいはその後ろ盾)と対決することが嫌だ。
② パワハラがあるといううわさが外部に流出されると会社の評判を落とす
こんなところではないでしょうか。
そして、実際にどのように隠蔽するかというと
A)上司の言っていることは正論だからパワハラではない
B)業務に必要な伝達事項だからパワハラではない
C)そのぐらいは通常の指導の範囲内だ
D)あなたの言い分だけでパワハラだとは確認できなかった
という感じが多いように思われます。

これではだめなのです。何のためのコンプライアンス部署なのかわかりません。結局労働者が精神疾患を発症し、労災認定がなされ、事案によっては高額な損害賠償を支払い、裁判報道として会社の名前が世に知られてしまい、取引が先細り、優秀な人材が会社を後にするということにならざるを得ません。第2第3の疾患者が出れば、悪名は固定されてしまうでしょう。こんなコンプライアンス部署の従業員に給料を支払っているのは、無意味な話です。単に会社がコンプライアンスに取り組んでいます、予算もつけていますというアリバイ作りという意味にすぎません。

あくまでも、従業員が孤立感や絶望感を感じた場合は、事態を改善しなければならないのです。行為者がどういうつもりでそれをやったかではなくて、言われた方がどう感じるかということを基準に行動をしなければならないのです。

ここでもう一つパワハラが放置される重大な理由を指摘しなければなりません。それはパワハラ改善部署がコンプライアンス担当だという致命的な欠陥です。つまり、コンプライアンス担当部署は、その上司の行為が過去の裁判でパワハラだと認定された行為に該当しなければ放置してよいと考えているようです。もっともパワハラ研修自体がそのような実務からかけ離れた、裁判というより判決文だけを元にして組まれたプログラムばかりということで役に立っていないのです。

さらには適切な解決方法の知識とノウハウが無いということもパワハラが放置される原因になるでしょう。これはコンプライス担当部署が第一次的なパワハラ担当をしていることから派生する問題です。

つまりコンプライアンス担当部署がパワハラだと認定したならば違法であり、上司を懲戒しなければならないという手続きの流れになるために、担当部署はなかなかパワハラを認定できないということなのです。

会社としては、真黒なパワハラがあり懲戒処分の対象となる行為と、グレーゾーンであり処分の対象とはならないのではないかという行為と二種類のパワハラがあることになります。しかしその境界線は曖昧です。そうなるとついつい、極端なケースだけをパワハラとして認定して懲戒処分の対象とし、それ以外は放置するということになるわけです。しかもその極端な例というのは、パワハラ行為者に悪意があり、人格的問題があり、意図的に部下を追い込む行為であり、第三者から見てもすぐにひどい話だと感じられる行為ということになります。パワハラを受けている相手の感情はどこにも入りません。

これでは、パワハラを防ぐことはできません。

グレーゾーンを放置するから真正パワハラになり、人の命が失われるのです。そうなってからは取り返しがつきません。パワハラを本気になくそうとするならば、グレーゾーンを一つ一つ丁寧に解消していくほかはありません。パワハラを予防するということはそういうことです。そのような予防が企業を発展させていくことにもつながります。

後にパワハラ認定された上司だって、部下を精神疾患にしようとか自殺に追い込もうと思って行為をしているということは実際は多くありません。必要な指導を適切な形で行うことができないために、部下が孤立感や絶望感を感じるということがほとんどです。

その行為が部下にどのように映っているかの認識を共有することが第一です。つまり現代版黄金律である、「相手のしてほしくないことをしない」ということを基準とするべきなのです。その上で、改善の必要性に応じて、改善の適切な方法を一緒に考えるという流れになるにすることをまず考えることです。

そうやって、指導のスキルを底上げしていく絶好のチャンスとしてとらえなければもったいないということです。これは取引相手などにも応用の効くスキルだと私は思います。

つまり、自分が誰かに働きかけるときに、相手の気持ちを考慮して働き方を工夫するようにスキルアップするということなのです。現代版黄金律です。

相手の気持ちを考えるということは、簡単ではありません。しかしスキルや経験が増えれば、仕事の範囲であればそれほど難しいことでもありません。そのスキルアップをすることで組織力は確実に向上するのです。

スキルアップのためには、知識、ノウハウが必要であることもまた事実です。他人の気持ちなんて実際はわからないからです。そうだとすれば、他人の気持ちに気が付かなかったことをもって直ちに処分を検討するという流れはやめるべきです。改善を指導する過程の中で、社会人としてあまりにも非常識な対応をしていたのであれば、いたずらに企業秩序を乱したことになるので、その場合はそれ相応の懲戒処分をすることになると思います。パワハラ是正の論理と、処分の論理は次元を異にすると考えなければならないと思うのです。

大きな組織であれば、パワハラ改善の部署は一時的には労務管理の指導部門が担当するべきです。悪質で企業秩序違反が認められた時に、レポートをつけてコンプライアンスに回すということが合理的だと私は思います。

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理想のリーダーの要素、理想の人間関係の要素 THE ANGERME竹内朱莉論 彼女は何故上司にしたいと言われるのかについての考察 [労務管理・労働環境]


カテゴリーは労務管理にしましたが、家事のカテゴリーでもよいような内容です。

アンジェルムという10人編成の実力派アイドルグループがあります。モーニング娘。の所属するハーロープロジェクトのグループです。グループとしてはテレビにはあまり出てこないのですが、ライブ活動はなかなかチケットが取れないほど人気で、タレントや歌手、モデル等としてそれぞれ単体でも活動しているようです。

このブログでどうしてこのアイドルグループを取り上げるのか、その理由から説明する必要がありそうです。このグループは、もうすぐ卒業する竹内朱莉(あかり)さんが現在リーダーを務めています。この人が同業者のタレントや一般のファンから「理想の上司」として支持されているようなのです。私が寝る間だけ惜しんで調べてみたところ、かなりの収穫があったので、ご報告をする次第です。

このグループは、歌唱もダンスも定評があるのですが、そのスキルの方向性がバラバラなのです。あえて寄せようとしていないのかもしれませんが、一人一人のパフォーマンスをみると、どうして一つのグループとしてまとまるのか不思議なくらいです。

それなのに、ライブ会場では奇妙な統一感というか、一つの有機体という一体感を感じるパフォーマンスになっています。何よりも、若いメンバーがライブ会場で、十分に実力を発揮しているところに業界やファンからの賞賛がなされているようです。

一言で言うと、全員が「堂々としている」ということがこのグループの魅力だと私は感じました。

組織としての力が発揮されているということです。会社などでは逆に、一人一人の能力は高いのに、集団行動になると微妙な人間関係から全体の力が期待値よりも下がってしまうということに気が付いて悩んでいる方もいらっしゃると思います。人を育てるときには、一人一人の能力を高めた上で、集団で行動することによって、総和の力がそれ以上の効果を発揮することが理想です。しかし、なかなかうまくゆきません。そうだとすれば、リーダー論という視点で、若い女性グループからその秘訣を学ぼうというのが今回の企画なのです。

もちろんリーダーだけでなく運営スタッフのご努力や確かな方向性に負うところが大きいと思うのですが、リーダーの分野に着目してわかりやすく見て行こうと思います。

私が竹内さんから見出した集団の力を発揮するリーダーの要素は以下のことです。

1 圧倒的なスキルの高さ

竹内さんは、20代半ばですが、芸歴は15年くらいあるようです。その中で歌やダンス、あとはマイクパフォーマンスも磨いてきたようです。スキルが一定のレベルでとどまらず、常に向上していったわけです。リーダーに限らずこのグループの人たちは不断の努力の跡が見られます。天性のものに満足しない努力、研鑽がなされていることがわかります。竹内さんは、その中でも長期にわたって努力を続けてきて、他者からも評価されるスキルを身に着けているということが一番の武器だと思います。実績というのが単に過去の栄光ではなく、成長し続けた実績だということが仲間内からも評価されているのでしょう。同じグループの特に若手メンバーは、竹内さんと同じグループである以上そのレベルまで自分を持って行かなければならないと考えることで、全体の底上げも行われるようです。

2 スキルに裏付けされた絶対的な自信

自分のスキルの高さが良い意味で自信になっています。この人は後輩たちからいじられるキャラです。どんなにいじられても自分の立場が不安になることは無いようです。自分のスキルの高さの自信があるので、後輩たちに好きにやらせていてもびくともしないメンタルの体幹の強さがあるみたいです。

実際の職場では、仕事の内容は次々変わります。上司と部下が同じ仕事をする必要が無い場合もあります。それだけ楽なのかもしれませんが、どうしても同じ評価基準で競うようなことが出てくると、絶対的自信が無い上司は辛いかもしれません。パワハラの背景には、上司の部下に対する嫉妬が色濃くある場合があります。

3 部下の成長を自分のことのように喜ぶ。「私たち」の視点

コンサートなどが行われると、感想や評価がされるのが常です。最近の評価として、若手メンバーの台頭への賞賛が寄せられることが多いようです。これを竹内さんは、自分のことのように喜ぶようです。同業者からは、この点が支持されているようです。芸能界に限らず、仕事には不安がつきものです。自分はうまくやれただろうかということを気にすることができる人が伸びていくのかもしれません。良いところを良いといって、自分のことのように喜ぶと、メンバーは自分の努力の方向性がこれでよいのだという安心感を抱くということかもしれません。

自分の良いところを他の人間が喜んでくれるという体験は、自分はグループの一員だという意識を強く持つようになるのでしょう。メンバーは自分の個性や実力をのびのびと伸ばそうとするようになります。また、自分の成功を他のメンバーに堂々と報告することができるようになります。自分の成功をメンバーの誰かが嫉妬すれば、報告を遠慮してしまいます。難癖をつけられるとどうすればよいかわからなくなってしまいます。

この評価の過程で無駄に全員を同じ枠にはめるのではなく、各人の個性が尊重されての高評価ということになれば、上司が想定する以上の成長が起こることがありそうです。

1+1が2よりも大きくなるのはこういう組織です。現代の労務管理において、見習うべき要素の一つがここにあります。

4 弱い者をかばう

年頃のメンバー間の対抗心を背景として、悪意はないにしても、例えば年上の者が年下の者をからかうことがあります。年下だけど世間からは評価されている仲間に対する対抗心はどうしても出てくるところだと思います。努力だけで評価されるわけではないので、持って生まれたものの違いで有利不利ということがあります。芸能界は特にそれが強いと思いますが、一般の社会でも多かれ少なかれあると思います。

年下のメンバーに隙があって、つい年上のメンバーがいわゆる突っ込みを入れてしまい、弱い立場の者が困惑するということがありました。こういう時、リーダーはえこひいきになることを恐れずにかばう必要があります。竹内さんが間髪入れずにかばった姿にとても感心しました。

さらに感心したポイントは、突っ込んだ方に対しても十分な配慮ができるということです。つまり、突っ込んだ方も「しまった」と思うのですが、勢い余って引っ込められないわけです。そのことを飲み込んでいるように、突込みに対して新たな突込み(突っ込み返し)の形にしてやめるように促し、最初に突っ込んだ先輩が「ごめんごめん」と言いやすくしているのです。これは彼女がリーダーになる前、10代の時から自然に反射的にできていたようです。白黒はつけるしかし制裁はしない。これだけでもかばわれた方はとてもありがたいことです。からかった方も気づまりにならずに、その一瞬で完結することができます。これはすごいなあとただただ感心しました。

誰かをかばうことが誰かを攻撃することだという公的支援の関与者は見習ってぜひ考えを改めてほしいと思います。

職場が原因のうつが発生する場面では、必ずしも大きく衝撃的な出来事があるわけではありません。労働災害認定にはなりにくいのですが、このような小さな微妙な嫌がらせが蓄積していって、最終的に心理的圧迫を受けるということがむしろ多いのではないでしょうか。現実の会社の中には、些細なことだという言い訳をしてこのようなマイクロアグレッションを放置する管理職が多くいます。おそらく注意したことによる自分への反発が怖いのでしょう。

竹内さんは、反発を恐れないことと、言っても反発をされないだろうというメンバーに対する信頼と、相手に対する配慮ができる方法をもっているという能力があったので、反射的に注意をすることができたということになります。これはすぐに使えるスキルです。大いに見習いましょう。

学校でも教師と生徒の関係でもいえることです。小さな攻撃はこまめに排除するということ、やめるべき行為はやめるべきだという評価を権威者がきちんと行う、こうやって人間関係の秩序は生まれて生徒は安心して学校に来ることができるわけです。自分に自信のない教師が増えているのであれば何らかの対策を立てることが急務だと思います。

5 きちんとダメ出しをする、失敗を長びかせないで止める、具体的な改善ポイントを示す

また、感心したのは、彼女は後輩にきちんとダメ出しをすることです。だらだらと発言を続けていた後輩に対して、仕事でやる時はだらだらしてはだめだときちんと否定評価を明確に示していました。さらに、何がだめなのかということを具体的に述べて、どうすればよかったのか、ここではこれだけにとどめていて、次のターンでこういうことを話すならばメリハリがきくだろうということを言っているのです。

つまり、1)どこが悪いのか、2)どうして悪いのか、3)どうすればよいのかということを極めて具体的に指摘できるのです。後輩の方は一杯いっぱいになっていますので、うまくいっていないことがわかっているものの、どうすればよいのかということにたどり着けません。こういう時は、このようにストップをかけた上で具体的に言って聞かせて覚えれば済むことなのです。

竹内さんからその時言われた後輩は実際のところどのように感じたのかわからないところはありますが、具体的な指摘と改善ポイントなので、素直に従うことができるということになります。

言い方も配慮されています。表情が穏やかなのだと思います。文字起こしだけを見ると、厳しいダメ出しなのですが、独特の甘い声を有利に活かして、あまりきつい印象が生まれません。これは天性のものだと思います。第三者が聞いても、言われている後輩に「頑張れよ」と言いたくなるような、暖かい気持ちで聞くことができます。

現実の労働現場とはずいぶん違うようです。むしろこのようなきちんとしたダメ出しを目撃したから、ファンの方たちは理想の上司だと強く感じるのではないでしょうか。

現実の労働現場では、ダメ出しはするけれど具体的な指導ができない上司が実に多いです。パワハラの大半は、具体的な指導ができないために、的外れの精神論とか、過去の出来事をほじくり返した嫌味を延々と繰り返すという形態が多いようです。これではメリットはありません。部下は成長するどころか、うつになっていくだけです。

上司はきちんと注意できない自分に対するいら立ちと、背景としての嫉妬心が加わり、無意味な注意をすればするほど攻撃的感情が強くなっていくようです。きちんと指導できていないという自覚もあって、無駄に時間ばかりが長くなるようです。また、言われている部下から馬鹿にされていないかという不安も出てくるようで、相手により大きなダメージを与えることばかりが目標になってしまうようです。

6 平等取り扱い

後輩を平等に取り扱うということができるのもすごいかもしれません。単に等距離を置いて付き合うということではないことがわかります。スキルのあるメンバーに対しては、スキルに対して敬意を払うということを当たり前のようにできるということだと思います。但し、付き合いの長いメンバーやエースを特別扱いしないということも、人間ですから実際は意識しないとできないと思います。メンバー一人一人からは、自分は決して独りぼっちにさせられないという安心感を抱く高いポイントだと思います。

7 ポジティブ感情を率先表出

案外リーダーに大事なことはここかもしれません。いつも口を開けば嫌なことしか言わないリーダーだとやっぱり息苦しくなると思います。心配が勝ってしまって、ついそういう発言をしてしまう人もいるわけです。

もしかしたらこれこそ天性のものかもしれませんが、竹内さんは楽屋などでもとにかく明るくてにぎやかだそうです。もっとも、常にそのような精神状態でいたわけではないようで、苦しいときもあったようです。心無い人たちの言動から、パワハラの被害を受けた労働者が陥る状態と同じ症状にもなった時期もあったそうです。でも近しい人たちもそれを知らなかったというのです。

意識してポジティブな感情を表現しているという側面もあるのだろうと思います。もっとも、メンバーが自分をリーダーとして尊重してくれていると実感すると、その中にいること自体がとても楽しい充実感を感じるという相互作用もあるかもしれません。

ポジティブなリーダーの元では、メンバーもつられてポジティブになっていくのが人間の心理です。「明るくなれ、積極的になれ」という結果を押し付けることより、リーダーが全体の雰囲気を良くして、部下が積極的に仕事に取り組む効果を誘導するということが一番現実的なのかもしれません。

8 仕事以外の充実

仕事以外の充実も魅力を形作っているようです。悩みを打ち明けられる一般の友達が多いようです。職場の外に味方を作ることは大切です。また、書道は正師範の資格があるとのことです。小学校のころから芸能の修業を始めていますから、芸能活動の傍らコツコツと書道も継続していったということになります。この継続する力はすごい。

この仕事以外の充実ということはとても大切なことです。何かに打ち込むことは自分の状態を感じ取ることができるようになります。一本調子で選択肢が無くなることを防ぐことができるので、致命的な選択ミスを避けることができます。また、仕事しかない人生の場合は、仕事や職場の人間に対して過度な期待をしてしまったり、仕事以外の日常を捨ててしまって人生の目標が失われてしまうという危険も生まれます。同僚にも圧迫感を与えてしまいがちです。

つまり仕事以外のことにも打ち込むことで、心の余裕が生まれるということですね。これは一緒にいて安心を感じることでしょう。

<良いリーダーがいる人間関係>
 
良いリーダーの人間関係に対する影響は、一人一人のメンバーに安心感が生まれるということです。自分のパフォーマンスを何の躊躇もなく発揮しきれることにつながるようです。特に若手メンバーは、一人で歌うよりも全体の中で歌う時の方が圧倒的に優れたパフォーマンスを見せています。チームにいることに安心を感じ、チームの一員だということに安心感をもっているからだと思うのです。それが冒頭に述べた、「堂々とした」姿とそれに伴う圧倒的なパフォーマンスとなって結実しているのだと思います。

若者たちにとっても嫌みのない堂々ぶりと映っているのではないでしょうか。それが見ていて楽しいという印象になり、ファンの人たちが言うところの元気になるということなのではないかと思うのです。

アンジュルムの比較的新しい楽曲に『Piece of Peace~しあわせのパズル~』という楽曲があります。YouTubeで公式のミュージックビデオを見ることができるのですが、この記事で述べたメンバーたちの安心感が見事に映し出されています。日本の芸能界でこのようなMVが制作できるのは、奇跡のようなものを感じます。歌詞も対人関係学そのままのような素晴らしい価値観が示されています。派手な楽曲ではありませんが、名作だと思います。

若者たちが堂々としていること、若者たちが頑張っていることを見聞きし、尊敬できる若者たちから教えを受けることは実に楽しいことです。こう考えると年を取るということは捨てたものでもないように感じてきます。

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