ユーチューバーがジャニーズ会見を批判する動画をアップする理由、尋問のプロの感じた会見の「技術的」成功とその成功が招いた想定しなかったデメリット [労務管理・労働環境]
先日、ジャニーズの4時間以上にわたる会見をユーチューブで倍速で観ました。そうしたら、その後私のユーチューブのホーム画面に、この会見を批判する動画が大量に並ぶ事態になっていて、その中のいくつかを観てしまいました。
この一連の流れは、弁護士としては、謝罪会見をする場合に気を付けなければならない事情の宝庫になっていて、どういうことをすれば聞き手はどう感じるかということもよくわかり、大変勉強になりました。その勉強の成果を還元するための記事でして、プロダクション批判の記事ではないつもりなので、初めにお断りいたします。
動画作成で生計を立てているユーチューバーの中には、純粋に動画再生数を稼いで収益を上げたいというある意味純粋な人と、特定の主義主張のセールスマンという形で、おそらくスポンサーをつけてやっている人と二種類いることがこの騒動ではっきりしてしまったということも今回の会見の副産物でした。今回分析するのは、前者の人たちです。
前者の人たちは、純粋に動画を多く再生してもらいたいということですし、一度着いた固定客を維持するというより、この会見をチャンスに新たな視聴者を増やそうという意欲が感じられる動画作成をしていました。
新たな視聴者が動画再生をするために、その不特定多数人のニーズに合わせた動画を作成しようという工夫が感じられました。
さらに、この動画がウケると思ったら、例え新たな情報が少なくても第2弾、第3弾の動画をアップすればまた見てくれるということもよくわかっていらっしゃる動画になっていました。視聴者が求めているのは、新たな情報よりも、自分が言いたくて言えないようなことをずばりと言ってもらい、自分の不満やフラストレーションを他の誰かに共感してもらいたいということのようなのです。
だから、ただ批判をすればよいというわけではないということが大切です。視聴者が言いたいこと、言ってほしいことをズバリ言う、しかもあくまでもこちらが「正義」であるという安心感を持っていられるという言葉や口調を選ぶというスタンスがとても大切なようです。
では、動画の視聴者は、あの会見で本当は何を言いたかったのでしょうか、どこに不満があったのでしょうか。これについては、動画作成者は必ずしも言葉で明らかにする必要はありません。それの説明を試みる私は動画作成をするわけではなく、今後仕事として行う謝罪会見が目的を達成できなくなることを避けるために、言葉に置き換えてみているわけです。
会見は4時間超に及ぶものであり、それなりに創業者を否定評価したものであり、今後被害者に補償をするということまで言及したし、4時間サンドバッグのように攻撃さらされれば、それなりに同情論も沸き上がり、騒動が鎮まるのではないかという見込みがあったと思います。批判に応えたぞという姿勢を示すことが会見企画者側の当初の目的だったはずです。
<企画者としての誤算だったと思われる依頼者の意思2点>
ただ、記者会見を企画した人物にとっては大きな誤算が当初からいくつかあったのだと思います。
前社長が取締役を退任せず、代表取締さえも辞任しなかったということが第一の誤算です。社長の肩書をはずしたということは、法律的にはあまり意味のないことです。対外的にもあの人が代表取締役という会社のトップにいることは変わらないし、対内的にも実質的トップは変わらないということだけが伝わりました。小学生くらいであれば社長を辞めたということは大きなインパクトがあるかもしれませんが、大人はそうは思いません。
退任しなかったことは会見企画者としては誤算だったと思います。別に代表取締役をやめても困らないだろうという経済的面からの推測があったと思います。100%株主ですし、これまでの実績、人間関係があるのだから、会社に対する影響力が減少するわけではない。また、当面役員報酬が無くても困らないだろうから、第三者委員会の勧告に従って取締役を辞めると思って、それを会見の目玉にしよう、できるだろうと思っていたのではないでしょうか。ところが、肩書は外すけれど法的立場は変わらないということですから、企画者としては誤算ですし、一般視聴者はモヤモヤするわけです。
一時的にでも代表取締どころか取締役からも名前をはずすということになれば、身内のために仕事を奪われたという同情論が期待できたはずです。ところが代表取締役を辞めないということであれば、第三者委員会の指摘する同族企業を温存させるという印象はぬぐえません。さらに、100パーセント株主で今後も会社を支配しようとしているということに一般人の視線を誘導してしまうという副産物まで出てきた結果になりました。
もう一つ誤算だったのは、社名の変更を「検討しない」という回答をしてしまったことです。なぜ、「検討する」ということを言うことにできなかったのか、これも会見企画者としては誤算だったと思います。これでは、補償も今後のメディア露出や他の出演者への圧力防止措置も具体性が無く曖昧であることと対比して、社名を変えないという決意だけが、強固なものだという印象を与えてしまいます。当然企画者としては社名の変更を「検討する」とだけは言ってほしかったと思いますが、検討すらしないと言われたときは、代表取締役留任と合わせて、会見の効果がどうなるかを予想せざるを得なかったと思います。ホットな火種を作ってしまったことになります。また、この言いキリが、後に述べますよに、創業者に対する否定評価の話の説得力を空疎なものにしてしまいました。
<会見の技術と結果的なデメリット>
会見システムで、主催者側にとって一番工夫したと思ったシステムが、一人一つの質問に制限したことです。これは、追及はされたけれど、追及の効果は何もなく、結果として潔白という印象を作るということを結果のためには、とても考えられた工夫だったと思います。
一人一回の質問ならば、いくら時間を取って質問をだらだら続けても、核心に迫ることは初めからできません。不規則発言で突っ込めば、秩序を重んじる日本国居住者としては批判の矛先は質問者に向かいかねません。
事実、鋭い質問だなあと思う質問もいくつかあったのですが、そういう質問には答えないで別のことを話し始めて回答が終わり次の質問になっていたのですが、一人質問が一つなので、それ自体を追及することができなかったようです。
例えば社名変更についても、
「社名を変えるつもりはありません。」という答えが来たら
「検討さえしないのですか」という質問をしたり
「あなたさっき鬼畜の所業とか、史上最大の何とかとか言葉を尽くして否定評価したように言っていたけれど、社名を変えるほどの悪行ではないと思っているのですね。」という質問をしたかった人もいたのだと思うのですが、
二の矢三の矢を放つことができなかったため、結果としては話のすり替えであってもその部分を批判もできないばかりか、クローズアップすることもできず、結果として流してしまうことが可能になったのです。
例えば、「本人たちは努力しているからテレビに出ている」ということについても、
「それではジャニーズを辞めたらテレビに出られなくなるのは、やめたらこれまでの努力が遡って無になるということでしょうか」とか
「自社の芸能人以外の芸能人がテレビに出られないのは、努力が足りないということでしょうか。」とか
「視聴者の支持があるからテレビに出ているのではなく、テレビに出続けていて顔なじみになったから支持する視聴者が出てきたのではないか。(単純接触効果)」
というような大人なら誰でも気が付くことを言えなかったのだと思います。
そして中には某テレビ局の質問のように主催者を結果的にアシストするような質問がなされていれば、4時間なんてそれほど負担ではなく、結果として悪意のある質問はすべて退けられたという印象が残るはずでした。
一番気になったのは、ファンを理由にこれまでの企業活動を維持させてほしいということを述べたことです。それではスマップのファンやキンプリのファンをどれだけ会社は大切にしてきたのかというツッコミを当然多数の人が入れたがっていたことでしょう。
こんな片手間に書いていて私が思いつく突込みなんて、誰でも考え付くことなのです。一人一質問形式は、それをテレビ画面やスマホの画面で見ている者からすると、言葉では表さないまでも、消化不良や不満、不信が意識の中に蓄積されて行ったことは想像に難くありません。逆に、なんとなく会社を批判することが正義だという意識が大きくなっていったのだろうと思います。この社会心理をユーチューバーが見逃すわけがなかったということなのだと思います。
つまり、質問を結果的にはぐらかすことや、あからさまにその話はこれ以上言うなという指示がだされることは、本当は正しく質問にこたえることができるのに、質問の意味を理解しないで答えていないだけであっても、本当は回答者が混乱していて自分の意思を正しく伝えていないので制限していたという場合でも、視聴者からすれば、「何か隠しているのではないか」とか、「あの質問が核心をついているから答えてはまずいと判断したのだろう」とか、勘繰られてしまうということがわかりました。本人が職務に忠実にやるべきことをやっているという意識があったとしても、イメージは大変悪いものでした。これは私も覚えがあります。こういう風に見られていたのだなあということは大変勉強になりました。ひな壇に上がっていると案外そこまで気が付かないということがありそうです。
一人一門形式が機能するためには気を付けなければならないポイントだということがよくわかりました。ポイントを外してしまえば、せっかく時間無制限でサンドバッグになるという効果よりも、疑惑が膨らんでいくだけというデメリットもあると強く感じました。
その結果、社名は変更しない、所属タレントはこれまで通りテレビ露出をしていく、役員報酬は辞退しないという現状維持という結果の会社の希望だけが、図らずしも強調されてしまったという印象になり、視聴者はその不満やフラストレーションを強く持ち、このような不満やフラストレーションを持つ者は、そのネガティブな心情を誰かと共有したいという強いニーズが生まるという仕組みがよくわかりました。だから敏感なユーチューバーが早速動画をアップしたわけです。こんなフラストレーションはいつまでも続くわけではありませんから、動画アップはその日のうちにしなくてはなりません。
最後にひな壇の3人についての勝手な反省です。
前社長は、もっと発言を控えた方が良かったです。元々が中途半端な退任で印象が悪いのですから、話しても好感は持たれません。だとすれば「反論をしたくでもできないでじっと耐えている」という構図をせめて作るべきでした。また、タレントと違ってこれまでの露出が少ないのですから、一般視聴者が自然と感情移入されることはあまり期待できません。自を出してよいことは何もないということをもっとレクチャーするべきだったと思います。
いのはらしは、彼一人で会見したら、およそ会見の効果は上がらなかったと思います。前社長と新社長に対する世間の反発をうまく利用する結果となったためにある程度の評価がなされているのだろうと思います。
3人の一番の問題はすべて他人ごとの発言だったということです。これは会社としてはまるっきりの逆効果になっています。いかに「会見(3人)」に好印象を持つ人がいたとしても、「会社の今後」にとってはメリットよりデメリットが大きかったと思います。
会見の狙いが新出発を印象付けようとしたのだと思います。その線に沿って話を運んで、各人の役割を明確に配分していました。
新体制ということを華々しく打ち立てるためには、やはり過去と決別したという結果を印象付ける必要がありました。しかし、この決別を印象付けるためには、過去の否定評価と過ちを繰り返さないという具体的なプランを説明することが説得力があるのですが、過去の否定評価を言葉では行ったけれど、その過去と決別する部分が何ら具体的に見えなかった。自分は関係ない、自分以外の人間が悪く、自分は知りもしなかったということだけが強調された結果、既得権益を温存させたい思惑だけが際立ってしまい、この点をつけば視聴者は自分のフラストレーションを共有できたという満足感を持つだろうということを動画作成者は見逃さなかったということなのでしょう。
会社ですから会社を維持しようとすることは当然のことです。だからと言って既得権益を温存させたいということを語っては逆効果です。会社を維持させるためにどうするかという発想をもって戦略を考えて行動しなければならなかったはずです。会社の経営に努力賞はありません。
真面目な話、問題はテレビやCMスポンサーが日本の良識をどう作り上げていくかということなのだと思います。あの会見でよいと言って現状維持をするというのであれば、あの会見で良かったことになります。それとももっと、例えば音楽番組であれば、音楽の楽しさ、素晴らしさを伝えるような番組制作を行うように変わるのかということなのだと思います。
私はドキュメント的な音楽番組ができるとよいなと希望します。例えばスタジオミュージシャンのような確かな技術を持った人たちに、一時的なユニットを作ってもらう番組を作り、コンセプト設定の打ち合わせやリハーサルなんかもドキュメントタッチで撮影して、それほど大きくない数十人くらいが入るジャズバーを少し大きくしたような会場での演奏を番組で流す。それを会場にいる一人のようにバーボンのロックをオールドファッションドグラスですすりながら聞いているような錯覚が生じるような、そんな居心地の良い番組を見たいと思います。
そのミュージシャンのゆかりの楽曲を演奏しても良いし、スタンダードナンバーを演奏しても良いのではないでしょうか。
音楽を作る過程とできた音楽を両方楽しめることが魅力だと思いますし、この番組を見て音楽家を志したり趣味で音楽を始めてみようと考える人が出てきたらすてきだなと思います。
私はアイドルを否定するつもりはないのです。ライブパフォーマンスに耐えうる実力の備わったアイドルならば、観たいと思います。確かな基礎訓練があり、喜怒哀楽がしっかり表現できるならば見ごたえもあるわけです。ただ、音楽は、ジャズに限らず、その時その時の瞬間的な出来栄えの楽しさ、感動だと思うのです。MVを流すような取り上げ方はTVの仕事ではないでしょうね。感動があれば、低年齢の被写体であろうと、番組を流して時折熱心に観るということはすると思うのです。
テレビは、観る人の人生をいくらでも豊かなものにできる可能性を未だに持っていると思います。それを使わないことは大変もったいないことだと思います。
これまで担当してきた懲戒解雇無効事件からの教訓 労働者側と使用者側それぞれに向けて [労務管理・労働環境]
私は、労働事件において、特段の主義主張、思想信条がありませんで、労働者側代理人も使用者側代理人も担当しています。法に従って適切な解決に努めるだけです。
また、そうあるべきだと今は思います。両方の立場の代理人をするからこそ見えてくる事件の解決方法があるからです。私は調停委員として懲戒解雇事件にかかわることもあったので、ますます事件が立体的に見えてくるようになりました。
事件が立体的に見えると、どちらの立場で仕事をしていても、相手の背景事情が見えてきて対策が立てやすくなります。それぞれの側の法実務家として担当してきたことから気が付いた点がありますのでメモを残したいと思います。
<労働者側に向けて>
速やかな法的手続きが一番の武器です。
事件の背景を見抜いて、必要とあらば直ちに法的手続きに移行するべきです。懲戒解雇に理由がなく、職員も職場復帰を望んでいるならば、地位保全の仮処分を第一選択肢とするべきだと思います。そして申し立ては素早く行うこと。多少申立書の記載が稚拙でも、迅速さが命だと思います。労働者側の代理人として夢中になって申立書を書いて提出してから、労働契約法の条文を掲げていなかったことに気が付きましたけれど、特に問題が無く勝訴的な和解となりました。
とある保全事件で労働者側代理人として申し立てを行いました。懲戒解雇された翌日に打ち合わせをしてその翌日には申立をしていました。懲戒解雇された日に電話相談が来て、その電話で仮処分に必要な書類を告げて、翌日にもってきてもらいました。前の事件がパソコン上に残っていると書式を使いまわせるほか、必要な資料もわかりますから便利です。
労働者側代理人として大変なのは陳述書作成かもしれません。保全事件では陳述書が大切であると常々実感しています。陳述書を書くにあたっては、依頼者に経過表メモを作ってきてもらうことが大切です。健康保険証や給与明細書等にも必要な情報が明確に記載されていますので、手元にあるととても便利です。案外相手会社の資格証明を取るのが手間がかかることがありますが(1日を争う場合)、依頼者に法務局によって来てもらえるならとても便利です。私の場合は通勤路に法務局があるので朝一で登記簿謄本をとっても9時には事務所に到着できるので便利です。
労働者が使用者から理由を告げられて懲戒解雇を言い渡されたならば、躊躇せず懲戒解雇無効に基づく地位保全申立をするべきだと思います。勉強をしている人ほど、懲戒解雇から普通解雇に転換されたらどうしようと考えるのですが、理由を告げられて懲戒解雇だと言い渡されたらならば、実際は仮処分手続き中に普通解雇への転換はやりづらいということが実情です。「普通解雇に転換するなら転換してから普通解雇を主張しろ」という心構えでやっています。解雇予告手当も出さずに、懲戒解雇の理由をあげて解雇している以上言い訳ができない状態であることをついていくつもりでした。
この言い訳ができない状態にしていくためにも、間髪入れない申立てをすることが大切です。時間が過ぎていく中で、懲戒解雇をした会社も、離職票を作成する等様々な手続きがあります。その中で社会保険労務士の関与があれば、「これはまずい」と気が付く確率が上がり、弁護士に相談してもっともらしい理由をつけて普通解雇の手続きをしてしまうことがあります。普通解雇だと、解雇理由が無限に広がる場合があり、その一つ一つについて、事実に反するとか過大な低評価だと主張立証することは相当骨が折れます。それでもやり切って勝利和解をしなければなりませんが、膨大に手間暇がかかりしんどいです。この反証にもコツがあるのですが長くなるので省略します。
まとめますと、労働者側が行うことは、懲戒解雇がいかに唐突に行われたか、どうしてこの程度の理由で懲戒解雇となるのかということを、客観的事実と社会通念に照らしての論証によって、裁判官に認識してもらうかということになると思います。
逆に解雇されてから数か月たってから事を始めると、それ自体がハンディキャップになる場合があります。代理人としてもとてもしんどいです。いろいろな細かなことが曖昧になってしまいますが、不合理な解雇の場合は労働者側に有利な内容が曖昧になってしまいます。
付け加えると、雇用保険制度、税金などの知識も和解条項の作成などで必要なので最低限度の知識は身に着けておくべきです。
<使用者側に向けて>
一番大切なことは、解雇は慎重に行うべきだということです。特に懲戒解雇は慎重に行うべきです。解雇した側が結構大きな組織なのに、人事権者が特定の労働者と感情的に対立し、目の上のタンコブのように扱っていて、やめさせたがっているときに、つい、これはいけるのではないかと思って、理由をつけて懲戒解雇をしてしまう場合が多いように思います。
確かに上司から見ればその労働者が一人いるだけでやりにくいと感じるとか、自分の立場が他の労働者からも軽く見られるようになるのではないかと危機感を抱かせる人間はいるものです。どっちが経営者かわからず、資金繰りに苦労してなんとか会社を維持していることがバカらしくなる場合もあります。これは経営者の立場で考えることができればよくわかります。
ただそういう経営者の気持ちの問題はあるとして、裁判所から見れば、労働者はその会社で働くことによって生活が維持されているので、退職金の出ない懲戒解雇は人ひとりの人生が破壊されかねないとみられるのです。
懲戒解雇をしてやれやれと思っていると、裁判所の手続きを通じて懲戒解雇が無効になり、下手すると何年か働いてもいない労働者に賃金を支払い続けなければならないことになりかねないということです。
経営者からすれば懲戒解雇が有効になるハードルは思った以上に高いところにあります。
例えばやめさせたがっていた労働者が何か事を起こしたとなると、やめさせたいと思い続けてきた経営者にとってはそれが十分懲戒解雇の理由になる大きな出来事だと思ってしまうという現象があります。心理学では確証バイアスと呼ばれる心理効果です。
しかし、労働者側の代理人弁護士は、それがいかに理由のない懲戒解雇であるかということをいとも簡単に論証してくるものです。
人ひとりを解雇するというのであれば、裁判所の動向を知っている弁護士と相談して、くれぐれも慎重に進めていく必要があります。
無謀な懲戒解雇が行われるのは、代替わりなどで経営者が交代して、自分の地位が確立していないと新経営者本人が感じているときによく見られます。そして、周囲がイエスマンばかりで本当の意味で新経営者を支える能力のない場合ですね。その労働者がいるとやりづらいとか、不愉快な言動をするという経営者の心情に共感しすぎてしまい、解雇という手続きが可能か否かの観点から自分の頭で考えて経営者に意見を言えないという意味で能力が無いわけです。経営者に寄り添ってしまっている場合です。とある業界では、まさにこのタイミングで怪しげな経営コンサルタントが入り、次々と会社が倒産してしまった例が実際にあります。自分の立場に不安を感じているときは、それに付け込んで利益を得ようとする人間がいるということは頭の中に入れておくべきです。
次に解雇という選択肢が譲れないとしても、懲戒解雇は回避した方が賢明である場合がほとんどだと思います。
普通解雇を選択する場合でも、裁判所から正当な解雇理由があると判断できるように客観的な証拠をきちんと集めておく必要があります。特に新経営者不安型の解雇の場合は、解雇理由が曖昧で、噂話のたぐいまで根拠に引っ張り出してしまい、かえって理由のない解雇ではないかと裁判官から見られるような解雇があります。つけないほうがましな解雇理由が目につきます。会社側の陳述書の書きすぎをやめさせるのが代理人の役割かもしれません。(労働者側はわずかにのぞかせている無理筋を端的に指摘して無理を通そうとしているということを明確にする必要があります。)
そして、解雇を決断する場合、特に懲戒解雇を決定する場合は、法的に成り立つのかの見通しを専門家に判断してもらうことをお勧めします。その際、解雇という選択肢がとれない場合の、その労働者との付き合い方など労務管理上のアドバイスもできる弁護士であればなおよいと思います。
最後に、解雇を相手に告げるときにも、専門家に相談するべきです。くれぐれも、感情に任せてクビを宣告してはいけないということです。専門家に解雇理由の裏付けとなる資料を確認してもらい、解雇後に行うべきことも確認してから解雇通知も作成してもらい、会社代表者名(個人事業主名)で解雇通知をした方が無難でしょう。
せっかくいろいろと解雇のための手続きを進めても、わずかに法律上の要件を満たさないために不利になってしまうこともあるので手続きの確認をしていくことも大切です。
どのタイミングで専門家に相談するかについて時間系列に従って述べますと
1)懲戒解雇をしたい労働者がいる場合に懲戒解雇ができるか、どうすればできるか、普通解雇に転換した方が良いのか、そのためにはどのような準備が必要かの相談
2)懲戒解雇の手続きを始めるか否かの段階
3)解雇通告の際の相談
特に3)は、2)と独立して確認の意味を込めて相談をする必要があると、これまでの事例を見て思いました。
無理な懲戒解雇は無駄なお金が膨大にかかる危険があります。経営者本人も取り巻きも冷静に考えることが実際は難しく、それ故に判断ミスをする場合が多いということを述べてきました。その解決方法は、類似事例の経験が豊富で物事をはっきりと述べるずうずうしい弁護士の意見を聞くということに尽きると思います。
働くルールはなぜ必要か(中高生向け) 働き方改革は何を目指すべきか [労務管理・労働環境]
中学生向けに話をする必要に迫られて、例によって書きながら考えるわけです。
お題は「働くルールはなぜ必要か」。
先ず、働くルールということで、働き方に関する法律を見てみると、あらゆる方法で労働者保護を実現しようとしていることがわかります。労働基準法、労働安全衛生法、労働組合法、雇用保険法、労災保険法、最低賃金法等々。使用者だって保護されたいと思うのですが、それを目的とした法律はありません。ここで一言ずつ各法律の労働者保護の方法を説明しましょう。早口にならないように注意が必要でしょうね。
次に労働基準法の概要についてお話ししていきます。これ詳しく話すと長くなり、詰まんなくなりますから、資料を作成してそれを見てもらいながら概括的な構成を話すとはしても、理念と労働時間の定め方についてある程度詳しく話していこうと思います。
理念については、労働基準法を勉強した時は自然に頭に入ってきたのですが、労働条件を労使対等に決める(2条)なんて条文があって、現実にはどうかななどと考えていると理念にとどまるのかななんてことを不謹慎にも考えてしまいます。
賃金に関する男女平等(4条)や差別禁止(3条)も定められていて、これも勉強した時は「それはそうだな」と思っていたのですが、案外味わい深い条文であるように思えてきました。この条文の説明としては、労働者は「人間として扱われる権利がある」ということを言おうと思います。人間として扱われなければ、とても辛く、それだけで不幸になるということを法律を定めた戦後直後の国も考えていたのでしょう。このあたりも、死ななければよいという程度の法律ではないということがよくわかると思います。ちなみに5条は強制労働の禁止です。
理念をお話ししてから大事なところは労働時間についてです。あまり突っ込んだ解釈ではなく、なぜ労働時間を規制する必要があるかということを主としてお話ししていきます。
私が大学で労働基準法の講義を受けたのは松岡三郎先生でして、まさに労働基準法を官僚として作った方の一人なのです。私の大学は労働法の先生が多いのですが、わざわざ明治大学で教授をしていた松岡先生に労働基準法を講義するプログラムとしていただいたことはありがたいことでした。
労働時間の基本は週40時間、一日8時間を超えて働かせてはならないということです(32条)。36協定という例外がありますが、36協定もなく単純に違反をすると刑事罰の対象となるほど、厳しい規定となっています。なぜ、このような労働時間制限を国のルールとして定めたかについて、松岡先生は一言、「早死にさせないためだ」と説明されていました。
私が講義を受けたのは昭和の終わりであり、まだ過労死という言葉が普及してはいない時代です。ましてや、条文が作られた戦後直後に過労死という概念もありませんでした。それでも「働きすぎると早死にする。」ということは、国もそう考えていたということが興味深いです。
考えてみれば、実際に戦前でも過労死はありました。現在では、栄養状態が良くなり、医学も進歩していますから、くも膜下出血や心筋梗塞、あるいは自殺が過労死の原因の多い病名です。当時は、働く環境も悪く、栄養状態も悪いので、働きすぎで死ぬ病気は、結核や栄養失調だったわけです。「ああ野麦峠」や「女工哀史」の知識があれば、思い浮かぶ常識です。
それにもかかわらず、過重労働神話みたいなのがあって、「丁稚として修業して誰よりも早く起きて働く準備をはじめ、誰よりも遅くまで片付けや掃除をやって、ついに有名な職人になった、成功の秘訣はひたすら働くことだ」なんてことを言うバカもいるのです。何がバカかというと、そんなことは多くの丁稚たちがやっていた。でも多くの人たちは結核や栄養失調で亡くなってしまった。成功者はほんの一握りの人間だということを見落としているのでバカと言いました。
大体そういうことを言う人は、自分は勤勉に働かず、出世ばかりを目的に要領よく立ち振る舞ってそういうことを言う立場に上り詰めた人が多いのではないでしょうか。
時間があれば、過労死と労働時間の関係も説明したいのですが、ここは資料2でおおざっぱな認定基準を述べるしかできないと思います。
残業割増手当(37条)についても、松岡先生に言わせれば「早死にさせないためだ」とのことです。残業をさせると高くつくという意識を使用者に持たせて残業をさせないようにしたのだということでした。
そして有給休暇(39条)について説明をしたいと思っています。働いてもいないのに賃金を得ることができる制度があることは、とても興味深いことです。これわたしの司法試験の口述試験で上智大の山口先生から出題された論点でした。
過激派の人が違法闘争目的に有給申請をした場合に、使用者は有給休暇を認めて良いかという趣旨の問題でした。有給休暇は、目的の制限が無い休暇であるので、目的を聞くことはできない、何らかの理由で目的を知ったとしても、業務の運営に支障が出ないならば有給休暇を認めないことはできないと答えたのですが、山口先生は少し物足りない様子をされました。
後に恩師にその話をしたところ、使用者が有給休暇を認めるか否かの判断に公序良俗などの要素を考えなければならないとしたら、使用者に過度の負担、危険をかけることになるのではないかという意見をいただきました。30年たっても覚えているものですね。今は、とてもその回答のすばらしさを理解することができます。
まあ、そんな話は生徒さんにはしないのです。
有給休暇という目的制限なしの休みをとることができるという働くルールを労働基準法は持っているのだということを述べるわけです。そしてその理由としては、使用者の指揮命令に基づく組織的な労働をしていると、疎外が生まれる。だから人間性を回復するために労働現場から離脱することが認められているということが、教科書的な説明でしょうか。
労働基準法の人間観が垣間見られる味わい深い条文だと改めて思いました。私も労働者を雇用しているので、この有給休暇の消化をいかに促進するかということを考え実行をしています。複雑な気持ちで有休をとってもらうよう努力しているわけですが、休み明けにリフレッシュして働いてもらえるなら、考えようによっては安くついているのかもしれません。
そういった法律の外観をみたあとは、どうして労働者保護のルールが必要かということに移るわけですが、イデオロギー的な説明も可能なのですが、私はそのような説明には意味を感じないので、先ずは歴史的に保護のルールの無かったころの話をして、労働者が構造的には弱い立場であるということを教科書的にお話ししていこうと思っています。
そうして、労働者保護のルールを作ることの国家としてのメリット、必要性をお話しします。その中で、自分がその不幸な労働者ではなかったとしても、不幸な労働者を見ていると精神的に不安定になり、全体として殺伐とした社会になってしまうということを説明していきます。社会政策学で言われている、最良の刑事政策は社会政策であるということを、刑事弁護人の立場からもリアルに伝えられるでしょう。また、統計的に、完全失業率、自殺率、犯罪認知件数、離婚数、破産申立件数が連動しているということを平易に付け加えることができたら一緒に考える助けになるでしょう。
ミラーニューロンや防衛機制について、そんな言葉を一つも出さないでリアルな話ができると思います。
つまり人間はそういう動物だということが裏のテーマになります。
最後にわかっていながら、働かせすぎてしまう原因について、やはりイデオロギー抜きでの話をします。ここでは、企業体としても、一度に二方向のことを考えることが難しく、条件が重なるとますます働かせ方について配慮ができなくなるということをリアルに伝えていきます。これとは別にブラック企業への注意喚起は改めて必要かもしれません。
そして、実は労働者側も様々な理由から働くことにのめりこんでしまい、自分が働きすぎであることに気が付かず、家庭のことや自分の健康をかえりみないで働いてしまう要因があるということをお話しします。法律や通達のルールは、自分を守り家族を守るためのルールなのだということがキモになるでしょう。ここは、実際の過労死事件を多く担当し、どうしたら過労死しないで済んだのかを常に考えてきた結論のようなお話です。
ただ、だからと言って家族をないがしろに考えているわけではないということについては過労自死などの事例を挙げて伝えたいと思います。
なんのために働くか、人間は本当は何を考えて、何を大事にして行動するべきなのか。そもそも人間とは何なのか。これからもずうっと考えていただきたいと思います。
考えるためには、今身近にいる家族や同級生とどのようにかかわるかということを手掛かりにしてほしいということで、お話を終わる予定です。
【ハラスメントの余後効】一度起きたハラスメントの被害者は、何も有効な行為をしなければ、かつての加害者が存在すること自体が恐怖になるということ 河北新報ナイス記事(R5.4,21)! [労務管理・労働環境]
4月21日の河北新報の記事です。職場でセクハラを受けた(その後裁判所で会社に対して損害賠償命令済みとのこと)女性が半年間の休業期間を経て職場復帰をしたところ、そのセクハラをした男性と同じ職場のままだったと報道されました。記者が会社を取材したところ、事実関係を把握したので対応を検討するとのことだったそうです。
取材によって配置転換があれば、河北新報はあっぱれだと思います。
会社としてはセクハラの損害賠償を争っていたようですが、だからと言ってセクハラ被害者が休業後に復帰した職場にセクハラをした男性がいるということはいかにもまずいです。会社を訴えたことに対しての女性に対する報復だと受け取られても仕方がないと思います。
この問題は、実は、この会社だけの問題ではなく、労災の認定機関も同じような思考をしている可能性があります。
強烈なパワハラによりうつ病になった事例で、職場復帰をしたところ、パワハラの加害者と同じ職場であることが、心理的負荷として重大なものだと扱われていない場合があるようなのです。もっともその事例は、職場の方でパワハラ加害者に対して懲戒処分を行い、一緒に仕事をすることを極力少なくして、どうしても同じ部屋で会議をする時には、管理者が立ち会うという措置を取っていたということがあります。だから会社はある程度対応はしてくれていたことは間違いありません。ここを重視してそれほど大きなストレスではないと判断した可能性はあります。
それでも、かつてパワハラを受けて、主としてそのストレスでうつ病になった人にとっては、その人の存在自体がとても強いストレスになります。この人は、主治医から外傷性ストレスを起因としたうつ病であると診断を受けています。症状如何によって、あるいはお医者さんの判断如何によってはPTSDの診断がついたかもしれません。
ここは人間の記憶のメカニズムの問題からも説明できます。記憶を持つ最大の理由は、危険の所在を記憶して老いてその場所に近づかないところにあります。ひとたびハラスメントを受けて、不快な人間、恐ろしい人間、抵抗できない攻撃を受ける人間だと認識した場合、その危険の記憶はなかなか消えません。簡単にこれが消える動物はすぐに絶滅するはずです。
だから、過去のことだからもう大丈夫だろうと考えるのは間違いです。また、あの人から抵抗ができない状態で攻撃を受けるかもしれないと、動物の記憶は警戒を高めるわけです。これが文字通りストレスそのものです。
もし、きちんとした謝罪があり、これまでの態度を改めるという宣言があり、具体的に安心ができる接し方に切り替えられていれば、あるいはストレスは著しく軽減するかもしれません。しかし、自分の発言によって、相手がどのような気持ちになるかわからないタイプの人、つまりこういうことを言うと嫌がるからやめようとか、こういう言い方をすると怖がる方言い方を変えようということのできない人は、謝罪をしたり、態度を改めたりすることができません。そしてやっかいなことに、セクハラやパワハラをする人の多くがこういうタイプの人のようです。
処分より前に大事なことは、その人がしたことで相手がどのように辛い思いをするのかを教えることだと私は思います。再びハラスメントを行う可能性がある場合は、企業の責任としては、雇用を続けるかどうか検討をする必要があると思います。二度目のハラスメントがもしあれば、会社は膨大なコストを支払わなければならなくなるということもありますし、求められるコンプライアンスが強くなってしまうということもあります。
一般的には、このようなハラスメントを起こさないようにすることが最も大切です。そのためには、ハラスメント起こすなという予防活動、マイナスを起こさない活動ではなく、積極的にプラスを作り上げる活動が大切です。つまり仲間意識を高めることと、指導力のスキルを上げることで、本人も周囲も、それに逆行するハラスメントに対する拒否反応を作り上げることです。
パワハラの落とし前のつけ方 現代版黄金律の構築の必要性2 [労務管理・労働環境]
パワハラがなぜ悪いのか。当たり前という回答はありうるかもしれません。しかし、私のようにパワハラによる損害について弁護士としてやり取りをしている者にとっては、パワハラの本質がどこにあるかという仮説を立てることは、必要なことです。どこからがパワハラで、どこからが損害賠償の対象になるのかということは、「パワハラがなぜ悪いのか」ということを考えないままでは、とても頼りないぼやけた境界線しか引けません。
これまでの過労自死事案や精神疾患事案を見ると、パワハラそれ自体よりも、それが組織的に放置されているとパワハラを受けている人が感じることが、より精神疾患の発症の原因になるし、症状が重篤化しなかなか治らない原因だという感覚を持っています。
これはパワハラの本質が、パワハラを受けた者が「自分が努力をしたのに、その努力を否定された。」、「自分の能力や人格を簡単に否定された」と受け止め、自分が会社という人間関係の中で劣っている者、取るに足らない者、簡単に切り捨てて良い者だという否定評価をされたというように感じ、危機感を抱かせることにあります。孤立させることと孤立回復に対して絶望させることがパワハラの本質だと仮説を立てています。
そうすると、一人の人からパワハラを受けることによる孤立感や絶望感もさることながら、その自分に対しての否定的な評価がその会社全体の自分に対する評価だと感じてしまうことによって、より大きく、深くなる、より苦しくなることはあまりにも当然のことになると思うのです。
パワハラを受けた人から見ると、世界中から自分が孤立していて、自分は人間として扱われることが今後一切ないというような感じ方になるようです。
パワハラを見て見ぬふりをするということは、パワハラを受けた人がどんどん孤立感を深めて、絶望に向かっていることを放置することと等しいのです。会社はパワハラがあるかもしれないと思ったら、パワハラの対象者の孤立感を解消する手立てを取らなければならないと思います。
つまり組織は、パワハラがあれば、
1 それはしてはいけないことだと否定評価をすること
2 改善を具体的に指導して同種行為の反復をさせないこと
3 パワハラを受けていた人が自分が守られていると実感すること
が行われなくてはなりません。
これを放置すると、パワハラの被害を受けた人だけが病むだけでなく、組織全体が不必要な緊張感が支配的になり、殺伐とした組織になり、ミスが増えたり、自分の頭で考えないで上司の言われたことしかしなくなる、あるいは優秀な人材から順番に外部に流出していくということにもなりかねません。公務員の場合は転職をあまり考えませんので、精神的被害が深刻になるばかりではなく、第2、第3の被害者が生まれてしまい、職場の中に休職者が増大し、残された者の仕事量が増えるという悪循環に陥ってしまいます。
さて、それにもかかわらず、多くの企業では、コンプライアンスの部署がありながら、このコンプライアンスの部署がパワハラを無意識に隠ぺいしようとする行動をとってしまいがちです。コンプライアンス担当部署側の理由は何なのでしょう。
① パワハラの行為者(あるいはその後ろ盾)と対決することが嫌だ。
② パワハラがあるといううわさが外部に流出されると会社の評判を落とす
こんなところではないでしょうか。
そして、実際にどのように隠蔽するかというと
A)上司の言っていることは正論だからパワハラではない
B)業務に必要な伝達事項だからパワハラではない
C)そのぐらいは通常の指導の範囲内だ
D)あなたの言い分だけでパワハラだとは確認できなかった
という感じが多いように思われます。
これではだめなのです。何のためのコンプライアンス部署なのかわかりません。結局労働者が精神疾患を発症し、労災認定がなされ、事案によっては高額な損害賠償を支払い、裁判報道として会社の名前が世に知られてしまい、取引が先細り、優秀な人材が会社を後にするということにならざるを得ません。第2第3の疾患者が出れば、悪名は固定されてしまうでしょう。こんなコンプライアンス部署の従業員に給料を支払っているのは、無意味な話です。単に会社がコンプライアンスに取り組んでいます、予算もつけていますというアリバイ作りという意味にすぎません。
あくまでも、従業員が孤立感や絶望感を感じた場合は、事態を改善しなければならないのです。行為者がどういうつもりでそれをやったかではなくて、言われた方がどう感じるかということを基準に行動をしなければならないのです。
ここでもう一つパワハラが放置される重大な理由を指摘しなければなりません。それはパワハラ改善部署がコンプライアンス担当だという致命的な欠陥です。つまり、コンプライアンス担当部署は、その上司の行為が過去の裁判でパワハラだと認定された行為に該当しなければ放置してよいと考えているようです。もっともパワハラ研修自体がそのような実務からかけ離れた、裁判というより判決文だけを元にして組まれたプログラムばかりということで役に立っていないのです。
さらには適切な解決方法の知識とノウハウが無いということもパワハラが放置される原因になるでしょう。これはコンプライス担当部署が第一次的なパワハラ担当をしていることから派生する問題です。
つまりコンプライアンス担当部署がパワハラだと認定したならば違法であり、上司を懲戒しなければならないという手続きの流れになるために、担当部署はなかなかパワハラを認定できないということなのです。
会社としては、真黒なパワハラがあり懲戒処分の対象となる行為と、グレーゾーンであり処分の対象とはならないのではないかという行為と二種類のパワハラがあることになります。しかしその境界線は曖昧です。そうなるとついつい、極端なケースだけをパワハラとして認定して懲戒処分の対象とし、それ以外は放置するということになるわけです。しかもその極端な例というのは、パワハラ行為者に悪意があり、人格的問題があり、意図的に部下を追い込む行為であり、第三者から見てもすぐにひどい話だと感じられる行為ということになります。パワハラを受けている相手の感情はどこにも入りません。
これでは、パワハラを防ぐことはできません。
グレーゾーンを放置するから真正パワハラになり、人の命が失われるのです。そうなってからは取り返しがつきません。パワハラを本気になくそうとするならば、グレーゾーンを一つ一つ丁寧に解消していくほかはありません。パワハラを予防するということはそういうことです。そのような予防が企業を発展させていくことにもつながります。
後にパワハラ認定された上司だって、部下を精神疾患にしようとか自殺に追い込もうと思って行為をしているということは実際は多くありません。必要な指導を適切な形で行うことができないために、部下が孤立感や絶望感を感じるということがほとんどです。
その行為が部下にどのように映っているかの認識を共有することが第一です。つまり現代版黄金律である、「相手のしてほしくないことをしない」ということを基準とするべきなのです。その上で、改善の必要性に応じて、改善の適切な方法を一緒に考えるという流れになるにすることをまず考えることです。
そうやって、指導のスキルを底上げしていく絶好のチャンスとしてとらえなければもったいないということです。これは取引相手などにも応用の効くスキルだと私は思います。
つまり、自分が誰かに働きかけるときに、相手の気持ちを考慮して働き方を工夫するようにスキルアップするということなのです。現代版黄金律です。
相手の気持ちを考えるということは、簡単ではありません。しかしスキルや経験が増えれば、仕事の範囲であればそれほど難しいことでもありません。そのスキルアップをすることで組織力は確実に向上するのです。
スキルアップのためには、知識、ノウハウが必要であることもまた事実です。他人の気持ちなんて実際はわからないからです。そうだとすれば、他人の気持ちに気が付かなかったことをもって直ちに処分を検討するという流れはやめるべきです。改善を指導する過程の中で、社会人としてあまりにも非常識な対応をしていたのであれば、いたずらに企業秩序を乱したことになるので、その場合はそれ相応の懲戒処分をすることになると思います。パワハラ是正の論理と、処分の論理は次元を異にすると考えなければならないと思うのです。
大きな組織であれば、パワハラ改善の部署は一時的には労務管理の指導部門が担当するべきです。悪質で企業秩序違反が認められた時に、レポートをつけてコンプライアンスに回すということが合理的だと私は思います。
理想のリーダーの要素、理想の人間関係の要素 THE ANGERME竹内朱莉論 彼女は何故上司にしたいと言われるのかについての考察 [労務管理・労働環境]
カテゴリーは労務管理にしましたが、家事のカテゴリーでもよいような内容です。
アンジェルムという10人編成の実力派アイドルグループがあります。モーニング娘。の所属するハーロープロジェクトのグループです。グループとしてはテレビにはあまり出てこないのですが、ライブ活動はなかなかチケットが取れないほど人気で、タレントや歌手、モデル等としてそれぞれ単体でも活動しているようです。
このブログでどうしてこのアイドルグループを取り上げるのか、その理由から説明する必要がありそうです。このグループは、もうすぐ卒業する竹内朱莉(あかり)さんが現在リーダーを務めています。この人が同業者のタレントや一般のファンから「理想の上司」として支持されているようなのです。私が寝る間だけ惜しんで調べてみたところ、かなりの収穫があったので、ご報告をする次第です。
このグループは、歌唱もダンスも定評があるのですが、そのスキルの方向性がバラバラなのです。あえて寄せようとしていないのかもしれませんが、一人一人のパフォーマンスをみると、どうして一つのグループとしてまとまるのか不思議なくらいです。
それなのに、ライブ会場では奇妙な統一感というか、一つの有機体という一体感を感じるパフォーマンスになっています。何よりも、若いメンバーがライブ会場で、十分に実力を発揮しているところに業界やファンからの賞賛がなされているようです。
一言で言うと、全員が「堂々としている」ということがこのグループの魅力だと私は感じました。
組織としての力が発揮されているということです。会社などでは逆に、一人一人の能力は高いのに、集団行動になると微妙な人間関係から全体の力が期待値よりも下がってしまうということに気が付いて悩んでいる方もいらっしゃると思います。人を育てるときには、一人一人の能力を高めた上で、集団で行動することによって、総和の力がそれ以上の効果を発揮することが理想です。しかし、なかなかうまくゆきません。そうだとすれば、リーダー論という視点で、若い女性グループからその秘訣を学ぼうというのが今回の企画なのです。
もちろんリーダーだけでなく運営スタッフのご努力や確かな方向性に負うところが大きいと思うのですが、リーダーの分野に着目してわかりやすく見て行こうと思います。
私が竹内さんから見出した集団の力を発揮するリーダーの要素は以下のことです。
1 圧倒的なスキルの高さ
竹内さんは、20代半ばですが、芸歴は15年くらいあるようです。その中で歌やダンス、あとはマイクパフォーマンスも磨いてきたようです。スキルが一定のレベルでとどまらず、常に向上していったわけです。リーダーに限らずこのグループの人たちは不断の努力の跡が見られます。天性のものに満足しない努力、研鑽がなされていることがわかります。竹内さんは、その中でも長期にわたって努力を続けてきて、他者からも評価されるスキルを身に着けているということが一番の武器だと思います。実績というのが単に過去の栄光ではなく、成長し続けた実績だということが仲間内からも評価されているのでしょう。同じグループの特に若手メンバーは、竹内さんと同じグループである以上そのレベルまで自分を持って行かなければならないと考えることで、全体の底上げも行われるようです。
2 スキルに裏付けされた絶対的な自信
自分のスキルの高さが良い意味で自信になっています。この人は後輩たちからいじられるキャラです。どんなにいじられても自分の立場が不安になることは無いようです。自分のスキルの高さの自信があるので、後輩たちに好きにやらせていてもびくともしないメンタルの体幹の強さがあるみたいです。
実際の職場では、仕事の内容は次々変わります。上司と部下が同じ仕事をする必要が無い場合もあります。それだけ楽なのかもしれませんが、どうしても同じ評価基準で競うようなことが出てくると、絶対的自信が無い上司は辛いかもしれません。パワハラの背景には、上司の部下に対する嫉妬が色濃くある場合があります。
3 部下の成長を自分のことのように喜ぶ。「私たち」の視点
コンサートなどが行われると、感想や評価がされるのが常です。最近の評価として、若手メンバーの台頭への賞賛が寄せられることが多いようです。これを竹内さんは、自分のことのように喜ぶようです。同業者からは、この点が支持されているようです。芸能界に限らず、仕事には不安がつきものです。自分はうまくやれただろうかということを気にすることができる人が伸びていくのかもしれません。良いところを良いといって、自分のことのように喜ぶと、メンバーは自分の努力の方向性がこれでよいのだという安心感を抱くということかもしれません。
自分の良いところを他の人間が喜んでくれるという体験は、自分はグループの一員だという意識を強く持つようになるのでしょう。メンバーは自分の個性や実力をのびのびと伸ばそうとするようになります。また、自分の成功を他のメンバーに堂々と報告することができるようになります。自分の成功をメンバーの誰かが嫉妬すれば、報告を遠慮してしまいます。難癖をつけられるとどうすればよいかわからなくなってしまいます。
この評価の過程で無駄に全員を同じ枠にはめるのではなく、各人の個性が尊重されての高評価ということになれば、上司が想定する以上の成長が起こることがありそうです。
1+1が2よりも大きくなるのはこういう組織です。現代の労務管理において、見習うべき要素の一つがここにあります。
4 弱い者をかばう
年頃のメンバー間の対抗心を背景として、悪意はないにしても、例えば年上の者が年下の者をからかうことがあります。年下だけど世間からは評価されている仲間に対する対抗心はどうしても出てくるところだと思います。努力だけで評価されるわけではないので、持って生まれたものの違いで有利不利ということがあります。芸能界は特にそれが強いと思いますが、一般の社会でも多かれ少なかれあると思います。
年下のメンバーに隙があって、つい年上のメンバーがいわゆる突っ込みを入れてしまい、弱い立場の者が困惑するということがありました。こういう時、リーダーはえこひいきになることを恐れずにかばう必要があります。竹内さんが間髪入れずにかばった姿にとても感心しました。
さらに感心したポイントは、突っ込んだ方に対しても十分な配慮ができるということです。つまり、突っ込んだ方も「しまった」と思うのですが、勢い余って引っ込められないわけです。そのことを飲み込んでいるように、突込みに対して新たな突込み(突っ込み返し)の形にしてやめるように促し、最初に突っ込んだ先輩が「ごめんごめん」と言いやすくしているのです。これは彼女がリーダーになる前、10代の時から自然に反射的にできていたようです。白黒はつけるしかし制裁はしない。これだけでもかばわれた方はとてもありがたいことです。からかった方も気づまりにならずに、その一瞬で完結することができます。これはすごいなあとただただ感心しました。
誰かをかばうことが誰かを攻撃することだという公的支援の関与者は見習ってぜひ考えを改めてほしいと思います。
職場が原因のうつが発生する場面では、必ずしも大きく衝撃的な出来事があるわけではありません。労働災害認定にはなりにくいのですが、このような小さな微妙な嫌がらせが蓄積していって、最終的に心理的圧迫を受けるということがむしろ多いのではないでしょうか。現実の会社の中には、些細なことだという言い訳をしてこのようなマイクロアグレッションを放置する管理職が多くいます。おそらく注意したことによる自分への反発が怖いのでしょう。
竹内さんは、反発を恐れないことと、言っても反発をされないだろうというメンバーに対する信頼と、相手に対する配慮ができる方法をもっているという能力があったので、反射的に注意をすることができたということになります。これはすぐに使えるスキルです。大いに見習いましょう。
学校でも教師と生徒の関係でもいえることです。小さな攻撃はこまめに排除するということ、やめるべき行為はやめるべきだという評価を権威者がきちんと行う、こうやって人間関係の秩序は生まれて生徒は安心して学校に来ることができるわけです。自分に自信のない教師が増えているのであれば何らかの対策を立てることが急務だと思います。
5 きちんとダメ出しをする、失敗を長びかせないで止める、具体的な改善ポイントを示す
また、感心したのは、彼女は後輩にきちんとダメ出しをすることです。だらだらと発言を続けていた後輩に対して、仕事でやる時はだらだらしてはだめだときちんと否定評価を明確に示していました。さらに、何がだめなのかということを具体的に述べて、どうすればよかったのか、ここではこれだけにとどめていて、次のターンでこういうことを話すならばメリハリがきくだろうということを言っているのです。
つまり、1)どこが悪いのか、2)どうして悪いのか、3)どうすればよいのかということを極めて具体的に指摘できるのです。後輩の方は一杯いっぱいになっていますので、うまくいっていないことがわかっているものの、どうすればよいのかということにたどり着けません。こういう時は、このようにストップをかけた上で具体的に言って聞かせて覚えれば済むことなのです。
竹内さんからその時言われた後輩は実際のところどのように感じたのかわからないところはありますが、具体的な指摘と改善ポイントなので、素直に従うことができるということになります。
言い方も配慮されています。表情が穏やかなのだと思います。文字起こしだけを見ると、厳しいダメ出しなのですが、独特の甘い声を有利に活かして、あまりきつい印象が生まれません。これは天性のものだと思います。第三者が聞いても、言われている後輩に「頑張れよ」と言いたくなるような、暖かい気持ちで聞くことができます。
現実の労働現場とはずいぶん違うようです。むしろこのようなきちんとしたダメ出しを目撃したから、ファンの方たちは理想の上司だと強く感じるのではないでしょうか。
現実の労働現場では、ダメ出しはするけれど具体的な指導ができない上司が実に多いです。パワハラの大半は、具体的な指導ができないために、的外れの精神論とか、過去の出来事をほじくり返した嫌味を延々と繰り返すという形態が多いようです。これではメリットはありません。部下は成長するどころか、うつになっていくだけです。
上司はきちんと注意できない自分に対するいら立ちと、背景としての嫉妬心が加わり、無意味な注意をすればするほど攻撃的感情が強くなっていくようです。きちんと指導できていないという自覚もあって、無駄に時間ばかりが長くなるようです。また、言われている部下から馬鹿にされていないかという不安も出てくるようで、相手により大きなダメージを与えることばかりが目標になってしまうようです。
6 平等取り扱い
後輩を平等に取り扱うということができるのもすごいかもしれません。単に等距離を置いて付き合うということではないことがわかります。スキルのあるメンバーに対しては、スキルに対して敬意を払うということを当たり前のようにできるということだと思います。但し、付き合いの長いメンバーやエースを特別扱いしないということも、人間ですから実際は意識しないとできないと思います。メンバー一人一人からは、自分は決して独りぼっちにさせられないという安心感を抱く高いポイントだと思います。
7 ポジティブ感情を率先表出
案外リーダーに大事なことはここかもしれません。いつも口を開けば嫌なことしか言わないリーダーだとやっぱり息苦しくなると思います。心配が勝ってしまって、ついそういう発言をしてしまう人もいるわけです。
もしかしたらこれこそ天性のものかもしれませんが、竹内さんは楽屋などでもとにかく明るくてにぎやかだそうです。もっとも、常にそのような精神状態でいたわけではないようで、苦しいときもあったようです。心無い人たちの言動から、パワハラの被害を受けた労働者が陥る状態と同じ症状にもなった時期もあったそうです。でも近しい人たちもそれを知らなかったというのです。
意識してポジティブな感情を表現しているという側面もあるのだろうと思います。もっとも、メンバーが自分をリーダーとして尊重してくれていると実感すると、その中にいること自体がとても楽しい充実感を感じるという相互作用もあるかもしれません。
ポジティブなリーダーの元では、メンバーもつられてポジティブになっていくのが人間の心理です。「明るくなれ、積極的になれ」という結果を押し付けることより、リーダーが全体の雰囲気を良くして、部下が積極的に仕事に取り組む効果を誘導するということが一番現実的なのかもしれません。
8 仕事以外の充実
仕事以外の充実も魅力を形作っているようです。悩みを打ち明けられる一般の友達が多いようです。職場の外に味方を作ることは大切です。また、書道は正師範の資格があるとのことです。小学校のころから芸能の修業を始めていますから、芸能活動の傍らコツコツと書道も継続していったということになります。この継続する力はすごい。
この仕事以外の充実ということはとても大切なことです。何かに打ち込むことは自分の状態を感じ取ることができるようになります。一本調子で選択肢が無くなることを防ぐことができるので、致命的な選択ミスを避けることができます。また、仕事しかない人生の場合は、仕事や職場の人間に対して過度な期待をしてしまったり、仕事以外の日常を捨ててしまって人生の目標が失われてしまうという危険も生まれます。同僚にも圧迫感を与えてしまいがちです。
つまり仕事以外のことにも打ち込むことで、心の余裕が生まれるということですね。これは一緒にいて安心を感じることでしょう。
<良いリーダーがいる人間関係>
良いリーダーの人間関係に対する影響は、一人一人のメンバーに安心感が生まれるということです。自分のパフォーマンスを何の躊躇もなく発揮しきれることにつながるようです。特に若手メンバーは、一人で歌うよりも全体の中で歌う時の方が圧倒的に優れたパフォーマンスを見せています。チームにいることに安心を感じ、チームの一員だということに安心感をもっているからだと思うのです。それが冒頭に述べた、「堂々とした」姿とそれに伴う圧倒的なパフォーマンスとなって結実しているのだと思います。
若者たちにとっても嫌みのない堂々ぶりと映っているのではないでしょうか。それが見ていて楽しいという印象になり、ファンの人たちが言うところの元気になるということなのではないかと思うのです。
アンジュルムの比較的新しい楽曲に『Piece of Peace~しあわせのパズル~』という楽曲があります。YouTubeで公式のミュージックビデオを見ることができるのですが、この記事で述べたメンバーたちの安心感が見事に映し出されています。日本の芸能界でこのようなMVが制作できるのは、奇跡のようなものを感じます。歌詞も対人関係学そのままのような素晴らしい価値観が示されています。派手な楽曲ではありませんが、名作だと思います。
若者たちが堂々としていること、若者たちが頑張っていることを見聞きし、尊敬できる若者たちから教えを受けることは実に楽しいことです。こう考えると年を取るということは捨てたものでもないように感じてきます。
【東北希望の会だより】うつとともに生きる環境の整備の提言をしたい [労務管理・労働環境]
先日東北希望の会の例会がありました。新らたに若い弁護士さんが参加されたということで、現在力を入れている、今年初めに裁判で和解した中学校の先生のパワハラうつ病の事件をおさらいしました。ここ2年間の活動と、私が入ってからの8年間の公務災害(頸椎と精神の2つの異議申し立て)と訴訟活動も振り返ることができたので大変貴重な時間でした。それぞれの立場からの発言があって、いつもに増して勉強になる2時間でした。
その中で、これまでの例会の中でアイデアが出てはそのままになっていたモヤモヤがようやく形になってきたので、議事録変わりを作成し報告したいと思いました。
こちらの先生は、平成23年からうつ状態となり、現在も通院をし、薬を服用しています。それでも、今年の夏に「復職訓練」をして、秋深まったころから職場復帰を果たして2か月、大きな崩れもなく働き続けています。それまでの復職と休職を繰り返していた時を思うと奇跡のように外野からは見えるのですが、ご本人、ご家族は、毎日の努力をされていることを聞いて改めて驚きました。
さて、その「復職訓練」が問題です。そのことを批判するというより、現代社会では何が足りないか、何を足し上げればよいのかということがわかりやすく説明するので、取り上げるということです。
その職場の「復職訓練」ですが、日程を告げられたものの、訓練スケジュールなどは事前に提示されない状態だったそうです。そして、暦に従って毎日、労働時間の半分くらいをめどに出勤をするという内容でした。そして復職訓練後に、復職をするかどうか審査の会議があって後日結果を告げるというものでした。
この説明で疑問を持たれた方は、素晴らしいです。通常の私たちは、職場側が、その人が復職できるか見極める必要があると考えますよね。そして、その復職できるかどうかですが、うつ病で休職していたばかりだから、ある程度症状は残っているでしょうし、長期間仕事から離れていて仕事の勘というか、身体の馴れというかが鈍っているとは思いますよね。それで訓練だから職務内容の軽減はするものの、その程度をこなされるかどうか判断する機会が必要で、それが「復職訓練」の時判断する。こう考えられる方も多いのではないでしょうか。
何よりもご本人が、詳しい内容は告げられず、日程と、訓練終了後の審査があるということだけを告げられていましたので、これから行われるのは訓練ではなく審査、復職適性の試験だと感じていたようでした。
実際は、これまでご本人を支えてきた、組合の方々が教育委員会や校長先生と面談されて、ご本人の心情を説明しながら、復職訓練のプログラムを書いた書類を交付し、ご本人にも審査ではなく訓練だと安心させて訓練に臨むことができるようにしてくれました。
ここで、例えば仕事時間を半分にして、仕事内容をさらに減少させて、それでもうまくいかないなら復職できなくて仕方がないのではないかと疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、うつ病が治っていても、やはり不安を感じやすくはなっていますし、悲観的な見通しをつい持ってしまいやすいというところはどうしても残るようです。これは、うつ病の症状が残るだけでなく、長期間職場を休職している場合、前の何とかやり抜いていたという記憶が回復せずに、困難な出来事の記憶だけが先行しやすいという人間の特徴を把握していません。夏休み明けに学校に行きたくないとか、ゴールデンウイーク明けに職場に行きたくないという心理を良く理解していないことになります。これを克服すためには、職務内容のハードルを下げて、成功体験を重ねていくことによって安心感を獲得していけば、何事もなく仕事をしていた時の記憶に重ね合わせることができますので、馴れを取り戻すことができるようになるのです。これはうつ病明けに限らず、長期休暇明けでも本来必要な作業だと私は思います。
だから文字通り復職訓練は訓練としてとらえなければならないはずです。むしろ最初は、あいさつ程度にして、迎える側も口裏合わせて歓迎ムードを作る。基本挨拶をにこやかにはっきり返すということが安心感につながります。敵意の目を向けない、批判めいた話をしないということがとても大切です。そうして、体が慣れるまで1,2週間程度は、隔日勤務が良いのではないかと思います。
1か月程度の訓練期間だと、間に疲れが出る日が出てきます。例えば1週間隔日勤務になって、2週間目は週休3日ないし2日とし、3週間目が終わったら休日をいれるというような感じで、訓練をしていくと馴れがスムーズになります。
そうやって体と心を馴らしていくというのが訓練だと思います。
つまり、復職訓練の時の状態の心身の回復状態を査定するのではなく、復職訓練によって良い方向に心身を変化させていくということが復職訓練なのです。
ここまでお話ししていくと、そこまで会社が一労働者を手厚く面倒を見ることは現実的ではないのではないか、労働者自身が働くことのできる状態に自分を持っていく義務があるのではないかと思っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
中には、うつ病の方を無理に働かせるということに抵抗をお持ちになる方もいらっしゃると思います。
確かにケースバイケースということは考えなければならないことかもしれません。ただ、考えるべきは、社会におけるうつ状態の蔓延ということだと思うのです。
うつ状態という心理状態を抱えながら働いている人がどれくらいいるか手掛かりがありませんが、かなりの人数に上るのではないでしょうか。うつ病に限らず、適応障害やストレス後後遺症、パニック障害や全般性不安障害という病名が付く場合もあるでしょうし、一定の内科疾患や薬の副作用にもうつ症状が現れる場合があります。学校の先生の休職者も多いようです。
うつ病患者を抱えて生活している家族もかなり大人数になっているはずです。
しかし、うつ病患者やその家族と言っても、必ずしもうつ病を理解している人は多くないのではないでしょうか。それなのに、元気になるのは本人の責任だというのでは、なかなか回復をすることができないでしょう。うつ病になったのが会社が原因だとすれば、その会社に復帰しなければ社会復帰ではないと考えてしまい、さらに会社がうつ病者は使い物にならないという態度を改めなければ、職場復帰は無理だということになれば、悲観的な傾向が進んでしまい、他に転職するというアイデアも選択できないかもしれません。
公務員や大企業が、うつ病からの職場復帰のプログラムを整備し、実例を増やし、実績を宣伝していくことによって、うつ病からの職場復帰の方法が示されるので、職場復帰がしやすくなる人たちが必ず増えると思うのです。
また、うつ病で働けないとしても、社会は必ずしも手厚い保護をしてくれるわけではありません。家族としても、今後の生活を考えると希望を持つことができない危険も大きいと思います。
一方、社会に目を向けてみましょう。後ろ向きな表現をすれば、うつ病で就労できない人たちは、最終的には生活保護などの福祉によって生活を保障しなければなりません。前向きに言えば、やり方次第で復職して自助努力で自立できる人たちが大勢いるのに、国や大企業が十分理解できないで復職の道を閉ざしている。復職が可能な人たちが復職を果たせたら、大きな経済効果が期待できると思います。
じつはさらなる効果が期待できるのです。復職の際の使用者側のノウハウというのは、実は休職しないで働く人たちにとっても優しい職場を実現します。うつ病の診断を受けないまでも、心身のストレスと元々の性格から、悲観的な考えで仕事をしているとか、はっきりしない不安を抱えて働いている方は多くいらっしゃいます。そういう方々にとっても、簡単な対応を変えるだけで働きやすくなるわけです。
例えば先ほどの言った挨拶です。この挨拶の意味づけを義務的なものでなく、あなたとの今日の出会いを歓迎している。こちらはあなたに敵意はありませんよという意味付けに変えるのです。そして、こういう挨拶を意識的に行うことによって、無意識の不安が軽減される効果が期待できるわけです。
例えばということでこういうことがアイデアとして出てきます。うつ病がなぜ起きるのか、うつ病になるとどういう思考をして、あるいは何ができなくなるのかということを理解すれば、まだまだ快適な職場にできるのにしていないだけということが見えてきます。
うつ病という病理から、職場の指示系統や合理的で効率的な指示の方法、計画の立案、目標の設定と共有の方法、あるいは顧客対応等多くのヒントが提示されていくのです。
さらに今回の一連の出来事から学ぶことができた点としては、今回で言えば労働組合の人たちの役割です。職場の実態を隅々まで熟知していた人が、一方的に労働者の利益を主張するのではなく、どのように職場復帰訓練を進めれば、本人にとっても、職場にとっても効果が上がるかということを具体的にアドバイスをするという役割を果たした人の存在が復職訓練を成功させたカギだったように思われました。今回は、たまたまこういう人がいたという幸運がありました。通常の職場復帰の場合には、なかなか難しいです。本人が探すことは無理である場合も少なくないでしょう。双方の橋渡しをするアドバイザーを制度化するということが有効だと思います。OBの方々の活用がヒントになるように思われます。このアドバイザーたちが仕事をしやすくし、効果を上げるためには、ガイドラインのようなものを作る必要があると思います。訓練されていない人は、どうしてもどちらかに忖度して、どちらかの利益を図ってしまいがちです。双方のために活動をするということが大切ですし、基本的にはうつ病者に対して配慮をしながら進めていくという立ち位置にはなると思います。あとは、職場の方がアドバイザーのアドバイスにきちんと反応する体制をとるということです。
ところが、これだけうつ病者や休職者が多いにもかかわらず、体制が従前の昭和ののどかな時代で行われているように印象を受けます。このようなうつ病者の状態は一朝一夕に改善されるとは思われません。きちんと予算をとって現場とは別建てで対応しなければ、現場は負担ばかりかかってしまうか、切り捨てが横行するような職場風土の元で、本来の機能が不能状態に陥る危険が高いです。
がんとともに生きるというムーブが昨今あると思います。うつとともに生きるというムーブがあっても良いのではないかと思うのです。うつ病にかかる人は、まじめで責任感が強く、能力も高いのでつい無理をしてしまう人たちだというのが私の実感です。安心して働く場が与えられれば、能力をいかんなく発揮して社会全体の生産力も上がると思っています。何とかして動きが生まれる方法がないか東北希望の会の活動としても考えていきたいと思いました。
聴覚障害者の職場でのノーマライゼイションと対立概念としての差別 差別は差別しているという意識が無くても相手を苦しめているということ [労務管理・労働環境]
差別は人の心に深刻な影響、打撃を与えて、それが当然視されて温存されると、精神を破綻させてしまう恐れもあります。様々な差別の解消が、現在提起されています。大変良いことだと思います。ただ、どうしても私から見ると、声の大きい人たちの差別ばかりが取り上げられており、予算をかけて解消されようとしているような印象があります。私は、聴覚障害者の労働災害事件を担当したことを踏まえて、聴覚障害者が健常者に混じって働くために必要なことがまだまだあるということを痛感しました。このことについて述べたいと思います。
序 前提として障害の内容は千差万別
まず、最初に申し上げなければならないことは、聴覚障害者の障害の内容、程度は、各聴覚障害者によって異なるということです。Aさんは、同じ条件で聞こえていたのでBさんも聞こえるはずだとか、Cさんはこれが聞こえなかったのでDさんも聞こえないはずだとか、そういう「聴覚障害者」というひとくくりでは障害の内容は把握できないということです。
今回お話しするのは、具体的な一人を想定してのことですが、実際の方については、その人の状況をよくリサーチすることこそが一番大事だということです。
そして、その際には、聴覚障害者は、健常者の聴覚の状態がわからないので、何ができて、何ができないのかは、障害を持つ人にはわかりづらいということを理解する必要があります。まず、これまでの障害者本人の経験を踏まえて、自分で自覚している障害の内容を個別に聴取することが大切です。次に、日々職場で活動している中で、何ができて何ができないのかについて判明したことについて、職場と本人との共有をこまめにしていくということも大切だということです。
1 聴覚障害に関する誤解1 小さい音が聞こえないという誤解
聴覚障害についての一番ポピュラーな誤解は、「聴覚障害というのは、小さな音が聞こえないのだろう。だから、大きな声で話せば聞こえるはずだ。」という誤解かもしれません。
確かに聴覚障害という場合は、小さな音が聴き取りづらいということは一面の真理です。しかし、では、大きな音なら聞こえるかと言うとそうではありません。
例えば、一対一で面と向かってお話しした場合が、一番聴き取りやすいようです。これと違うのは聴き取りにくくなります。極端に言えば後ろから話しかけられた場合、例えば車座になってめいめいがめいめいに話しかけているような場合は聴き取りにくくなるようです。話す方が、他の作業をしながら顔は手元に向けて障害者に話しかける場合も、話しかけられていることが分かった後でも聞き取りにくくなるようです。
実はこれと同じ傾向は、健常者にもあります。何かの作業に没頭していて不意に話しかけられても気が付かなかったというご経験は誰しもあるでしょう。また、急に話が変わってしまうと話について行けなくなることがあると思います。ずっとお酒の話をしていたのに、前触れが無く突然天気の話に変わってしまったら「何か話しているな。」ということはわかっても、全く言葉が頭に入らなかったこともご経験があると思います。
聴覚障害のある方は、この音が耳に入るが言葉として気が付かないということが健常者よりも頻繁に起こりやすいようです。
人間は、音がしているという音をすべて耳を通して脳が拾ってしまっています。しかし、脳の中で、これは言葉として意味がある音、これは雑音と自然に区別して言葉だけに神経が集中しやすくなっているようです。そして、言葉の意味を脳で認識して、発言者の発言内容を理解するようです。
聴覚障害者は、この区別がうまくできない人が多いようです。だから、視覚などでこの人がこちらに話しかけていると感じて、「よし意識して聴き取ろう!」と思って半ば意図的に区別をするという作業をして聞いているようなのです。どうやらここがポイントではないだろうかと思うようになりました。
このことを示すエピソードがあります。デジタル補聴器とアナログ補聴器です。アナログ補聴器は、値段的には求めやすい補聴器です。しかし、雑音も言葉もすべてが音が拡大して聞こえるようになっている仕組みです。声も聞こえるのですが、その他の音も聞こえてしまうので、声が音の中にうずもれてしまう傾向があるようです。デジタル補聴器は、イコライザーが内蔵されており、主に声が拡大して聞こえるようにはなっているようです。聴覚障害者としてはデジタル補聴器を使う方が聞こえやすいことは確かです。しかし、デジタル補聴器は値段が高額で、何らかの補助が無いと片耳分だけで数十万円かかってしまうそうです。アナログ補聴器よりは格段に聞きやすいということですから、集団の中で働く場合はデジタル補聴器を使うべきですが、お金の問題が障壁になっているようです。何とか国の方で、合理的配慮をしてデジタル補聴器を求めやすくしてはもらえないかと思う次第です。
ただ、デジタル補聴器にしても、聴覚障害者は健常者に比べて、言葉の意味を理解するまでに若干時間を多く必要とするようです。
どういう場合に聞こえて、どういう場合に聞こえないかということは、一人ひとり違いが大きいようです。最初に一通り聞いて、あとは仕事をしながら発見し共有することが大切だということは前にも述べたとおりです。聞こえないという場合は、それを理解して記憶するように努めることが第一です。前同じような状況で同じ程度の音量で話したら聞こえたから、今度も聞こえるはずだという思い込みはくれぐれも行わないこと。自分の声以外の条件によっては聞こえたり聞こえなかったりするということがあるということです。例えば気圧も関係するかもしれません。もっと簡単には、他の音の状況に違いがあるかもしれません。前聞こえたときは、その部屋で聞こえる音は、話者の声だけだったかもしれません。聞こえないときは、別の人も話をしていたかもしれませんし、車が通っていたかもしれません。聞こえているはずだという思い込みが一番障害者を傷つけることになります。
2 聴覚障害に関する誤解2 どこが聞こえないか本人はわかるだろうという誤解
はなはだしい職場になると、「聞こえなかったから聞こえないと言え」と聴覚障害者に対して冷たく当たる職場があります。この発言が無茶苦茶だということを理解することは、実は骨を折ることです。この発言には、論理的前提として、「聴覚障害者が、誰かの話を聞いた時、自分が聴き取ったところと聞き取れなかったところを自分で自覚しているはずだ」という考えが忍び込んでいるということです。自分が相手の言葉をよく聞き取れなかったということを知っていたのだから、聴き取れない部分について聞き返せということです。こう整理すると、なるほどひどい話だと分かるのですが、実際の例を挙げると、なかなか難しいことがわかります。誰かから事務連絡Aと事務連絡B、そして事務連絡Cの話を聞いたとしましょう。AとCの内容については聴覚障害者が聴き取っていて、上司に報告をしたとしましょう。Bの話は報告しませんでした。上司としては、AとCの話を聴き取っていたのであれば、Bの話も聴き取っていたと思うのはある意味自然のことのような気がします。あとでBの話もあったということを上司が知ったときに、当然部下の聴覚障害者に対して、「どうしてBの話の報告をしなかったの。」と尋ねることも自然な話でしょう。これに対して、Bの話を聴き取っていないということは実はありうる話です。Bの話がAの話とは全く関係のない話で、突如話題転換があったような場合、あるいはBの話をしたときに誰かが別の話をしていて同時に聞こえてきたような場合等、Bの話をしたこと自体を認識できない場合があるようなのです。この時、話があったということがわからないのですが、上司に対しては、何と答えて良いかわかりません。職場の中で聴覚障害の実例のフィードバックが十分に行われていないときは、自分がどうして聞こえなかったのかについて、自分でも理解できていないからです。すると、答えは、「聴き取れませんでした。」と言うしかないのです。本当は「Bの話があったという認識はありません。」と答えることが「正解」なのですが、Bの話が合ったことが前提として話が進んでいるので、正解を回答しずらい状態になっています。また、上司が「どうして認識できなかったのか。」という無茶な質問を素朴に行いますので、障害者は「聴き取れませんでした。」と回答せざるを得ません。そうすると、「聴き取れなかったことは、繰り返し聴いて確認しろ。」という無茶な指導を素朴に行うことになるわけです。
つまり聴覚障害者は、話が、報告しなければならない事項を話されているのか、話のない「間の状態」なのかを区別できない場合があるということなのです。
職員間において、部下である聴覚障害者から上司に報告してもらいたいということはあると思います。できるだけメモを作って渡しながら説明をするべきです。あるいは、最後に3点の報告をお願いしますと言って、復唱させるなどの方法をとるべきです。これは、聴覚健常者どうしでも伝達ミスを減らすためには有効だと思います。
3 聴覚障害者を困惑させる職務慣行と意識
聴覚障害者に対して合理的な配慮ができない職場の体質というものがあります。業務の繁閑ではなく、その職場の慣行、体質というものが、結構長期間にわたって継続しているようです。
例えば、複雑な基準で対応を変える場合、社長と常務が来室した場合はお茶を出すけれど平取締役にはお茶を出す必要が無いとか、取引先のこれこれにお茶を出すけれどこれこれには出さないなんてことは、一回聞いてわからなくても当たり前のような気がします。特に聴覚障害者に対しては、口頭で説明したから、その通りやらなければ叱責するということではだめだと思います。音で聞いてもなかなか理解できないところだと思います。そういう、上司の勝手な「基準」「ルール」は、きちんとメモを作って部下に渡すべきです。
また、取引業者や顧客に対しての対応の場合は、定型的な聴取をする場合などは、聞き取り票を作り、最低限必要な事項はチェックや単語の書き込みとして、メモを完成させやすくするなどの工夫が必要だと思います。これも聴覚障害者に限らず職場のミスをなくすために効果的だと思います。
また例えば、聴覚障害者は、言葉の意味を理解するまでにタイムラグがあることがあります。そして、よくわからないのに自分なりの解釈をして回答をしてしまう場合もあります。いわゆる打てば響くという状態にならないことが頻繁にあります。迅速な処理、迅速な対応が当たり前の職場では、予想外にレスポンスに時間がかかるとイライラしてきます。さすがに舌打ちしたり、遅いと怒鳴りつけるということは無いと思いますが、案外待っている間に眉間にしわが寄ったり、声が高くなったりすることがあるようです。
このようなイライラがあると、障害者に問題が無いところでも障害者の部下を攻撃しようとすることが出てきたりします。あまりイライラを自覚できないようですから、別の部下なり同僚なりにチェックしてもらうことが有効です。あるいは、聴覚障害を持つ部下に対しては、上司と聴覚障害者だけのやりとりだけでなく、上司の補助者を置くということも有効です。イライラしだしたら補助者が引き取って、上司に変わって説明をするという方式です。この方式は、できる限りすべての職場で行われるとよいですね。聴覚障害に限らず、新人教育などでも、パワハラ防止に有効だと思います。
いずれにしても、聴覚障害者が何ができて何ができないかということを常に点検し、理解を共有するということが第1です。次に、聴覚障害があっても、自分たちが合理的配慮をすることで、障害者が自分の持っているパフォーマンスを職場で発揮できるようにするという使命感を持つことが第2です。これを常に持ち続けていると、怒りやイライラはだいぶ収まります。この二つが無いと、いつの間にか聴覚障害が無かったことにされて、健常者と同じ条件で評価しようとして、障害がないかのような行動を要求してしまいます。そして障害が無いかのような無茶な要求が実現しなかったことに怒りやイライラを持ってしまうという悪循環に陥るようです。この2つは、放っておくと無くなります。定期的に点検をして、共有をすることが必要だと思います。
また、本来職場というものはそういうものだという意識を持っていくことは、取引先や一般市民を相手にする場合にもプラスになりますし、本当の意味での永続した生産性向上を保障するものだと思います。一番弱い者を守るという意識は、人間らしい好ましさを周囲にも印象付けますし、自分たち同士の結束にも役に立ちます。
4 健常者の中の聴覚障害者の孤立
今述べた、二つの人間らしい態度をしない場合は、聴覚障害者にとって過酷な職場となります。つまり、聞こえたはずなのに聞こえないと言っている「ずるい奴、卑怯な奴」という意識をもって扱われたり、レスポンスが悪く、口頭で説明したのに覚えが悪いという意識を持っていたら、聴覚障害者の些細な言動でもイライラしてくるものです。まじめに仕事をしていないと感じたり、ちょっとしたミスをしてもしつこいくらい叱責したり、あるいは言わなくてもいい「馬鹿」とか「なにやってんだ。」とか「言い訳するな」とか、端的に「卑怯な言い訳をするな」とか言ってしまうきっかけになってしまいます。典型的なパワハラを行うきっかけになってしまいます。だんだんと不真面目な仕事の取り組みをして、言い訳ばかりする部下だという気持ちになってくるわけです。周囲指導することは上司の責務であるし、正義の観点からも許せないという気持ちになりますから言動が厳しくなることを抑制することも難しくなります。
パワハラの被害を受ける労働者は、常にその労働者に落ち度があるわけではありませんが、ミスが多かったり、反論をしないことをもって攻撃しやすくなって攻撃をしてしまうということがあります。障害を持っている人たちは、攻撃されやすいと言えるかもしれません。もちろん障害を原因に叱責しているという意識を持つ人はいません。正義とか合理性とか社会的常識を理由にした感情形成なのです。致命的な話としては、そこでは障害が無かったことにされているということです。
障害者から見れば、どうして自分が叱責されているかわかりません。このために、「実は障害に対してイライラしているんだ」ということには気が付きにくいのです。できて当然のことを自分ができないので叱責されているという意識になることが通常です。健常者に対するパワハラも同じ構造で自分が悪いから叱責されていると思い込まされています。イライラからつい言ってしまう、「馬鹿」とか「何やってるんだ」とか、「まじめにやれ」という言葉は字面通りの意味として受け止めてしまいます。障害に対してイライラしているだけなのに、自分が人間的な問題で上司から疎まれている、嫌われているという意識になることは当然です。上司から嫌われているということだけで、人間は職場全体から嫌われているという受け止め方をしてしまうものです。
上司だけでなく、同僚も障害に無理解の場合は、同僚も上司からの障害者に対する叱責やパワハラに共感してしまいます。誰も上司を止めようとしないことが起こりますし、さらに上司の叱責の後で「ひどいよね。」とか、せめて「大丈夫?」とかいう人間も現れないことが多いです。上司が無理解であれば、部下に理解を促す人がいませんので当然でしょう。さらに職場全体から嫌われているという気持ちが強くなる大きな事情です。不思議なことですが、通常であれば「部下がミスをしたからと言って、上司は部下の人格を否定する言葉を発してはならない。」という意識を持てるのですが、聴覚障害によってミスをして仕事が遅滞したり、同僚が自分が変わってやらなくてはならないなどということが重なれば、「上司がそのようなことを言ったのは、その人がミスをしたから仕方がないと思う。」等ということを平気で言うことが多いのです。パワハラの同僚に対するアンケート調査なんてそういう恐ろしい発言のオンパレードです。
そもそも聴覚障害者は、同僚と交わることが苦手です。前に言った通り集団で雑談をすることができない人が多いからです。自分以外の人たちが打ち解けて話しているなということはわかるのですが、自分はその中には入れないというあきらめの気持ちを多く持っています。
会社ですから、全体に向けて話さなければならないことも多いと思います。一対一で話治すということができないこともあるでしょう。そういう場合でも聴覚障害者に対して顔を向けて話して、健常者には話だけ聞いてもらうなどの工夫が必要だと思います。また、補助的に聴覚障害者に対して個別に説明をする人を配置することも検討するべきです。
日本は、安倍内閣の時に障害者差別解消法という法律を作って、障害者に対して合理的配慮をすることによって、差別を解消し、障害者の社会参加を促そうとしています。ところが、肝心の職場の合理的配慮が、公的な職場においても極めて不十分な状態です。障害を持った方々は、健常者に混じって働くことによって、精神的に深いダメージを受けることがあるようです。かえって仕事をすることによって精神的に傷ついている可能性があるのです。
もっと障害者の研究が行われるべきです。どういう障害があり、その障害をカバーするためにはどうするかという研究です。そうして、障害があることを克服できるような体験をもっともっと共有するべきです。
もう一つ言わせていただくと、差別とは、違いを理由に攻撃しようとして攻撃する行為だけではないということです。障害があり、その人に言っても不可能なことを強制してしまうこと、その結果相手が困惑してしまい、どうしようもない状態にされてしまい、そしてその場の人間関係の中で孤立してしまい、仲間として尊重されることが不可能だと思わせられる、そういう結果が生じることが差別なのだととらえなおすべきです。
そうして、弱さを持っている人間に対しても仲間として尊重していく、そのためにはどうしたらよいかという知識をしっかり身につけるということが差別のない人間関係なのだと思います。そしてそれは、障害者だけでなく、仲間全体に居心地の良い空間を作るし、仲間全体を無駄に苦しめていることを排除し、全体の目的に役に立つことであることを勉強しました。報告します。
あなたが組織・会社で浮いている理由は、まじめすぎる、責任感がありすぎるからかもしれないという、じゃあどうすればよいのという問題 [労務管理・労働環境]
*
労使紛争の事案で、労働者からの相談の中に、身に覚えのない理由で処分をされたとか懲戒解雇になりそうになっているというものが結構多いです。
労働者の話だけを聞く限り、不当処分、不当解雇だと裁判所でも判断される可能性の高い事案が多いです。つまり法律を当てはめる限りにおいては、どうも会社の違法行為が認定されそうなのです。
ただ、それは裁判をした場合の話です。あるいは労基署や労働基準局の厳しい指導がある場合ということです。専門的な知識のある弁護士を探してお金を出して依頼して裁判をするということはなかなか大変なことだと思います。解雇をされていれば、裁判に勝って賃金を後払いされるまでの生活をどうにかしなくてはなりません。必ずしも勝つとは限りませんので、借金をするのもほどほどにする必要もあるでしょう。
また、一度組織で本人が浮いてしまって、経営陣からも敵対されてしまうと、その後に裁判で処分が撤回されても、現実には会社はいづらい場所になることでしょう。査定評価や人事を巡って不安になったり、実際に理不尽な思いをするということもありそうです。
できれば、意味不明な理由で自分が処分を受けないように「予防」したいと考えることは自然なことだと思います。
ただ、この記事を読むべきである人は、「自分は組織に貢献しているから上司や経営陣から攻撃をされるはずがない」と確信している方がほとんどだと思います。大体の人は、寝耳に水で裏切られたという思いが強く、メンタル的にも大きな打撃を受けてしまいます。
こういう方々に、間接的にでも届くとよいと思って書くことにします。
組織の中で浮いてしまって上司などから攻撃されやすい人の典型的な特徴は、
・ 優秀な人
・ 無理をしてでも約束を守ろうとする責任感の強い人
・ 物事を合理的に進める人
・ 会社であれば、全員が利潤追求を最大の価値において仕事をすることが当然であり、何ら疑うことのない人です。
こんな理想的だと思われるまじめな従業員が攻撃の対象となっています。
まじめな従業員が浮く場合は、会社にも例えば以下のような問題がある場合が多いです。
・ 同族企業で経営陣の中核が固定されていて動きがない
・ あるいは田舎の自治体で議会でも行政がほとんど追及されない
・ 会社などの設立が古いため、これまでのやり方でやればやっていけるはずだと思っている
・ 利潤は目指すのだけど、それ以上に条件反射的に仲間内や長年の取引相手との人間関係の方に価値を置く
・ 現場の会議で合理性を優先して決めたことをトップが一言で覆す
・ 組織の中の有力者に忖度して、その有力者がやりづらいと感じている部下を排除するのが経営陣の仕事だと思っている
・ よく言えば上の人の立場を尊重することが何よりも優先される
こんな職場です。
だから、会社は、「まじめ従業員」から合理性や約束は守るべきだというモラルを真正面に掲げて言われるとまともに反論できません。モラルや合理性を言う従業員は、とても煙たい人間で、上司や経営者にとってその人は「自分たち」というくくりには入らない人になっていきます。以下のような場合に「まじめ従業員」と経営者の間に緊張が高まることは、はたから見ているとよくわかるのです。
例えば
・ 会議で決まったことを上司が守らない場合
・ 上司の負担を減らすために、部下の仕事を増やそうとする場合とか、
・ 納期が迫っているのに上司が前提としてやらなくてはならないことをしていないとか、
こういう場合、「まじめ従業員」は、相手が上司であろうと経営者であろうと、正々堂々と正論を述べて上司の行動を改めようとしてしまいます。それだけならばよいのですが、やや感情的な言葉を使ってしまうことも多いです。本人は当たり前のことが当たり前ではないと指摘することや、理不尽であるために行動を改めるべきだなどということは、やらなくてはならないことだと思って発言しています。しかし、言われた上司からすればかなり自分に対して厳しい態度をしていると感じてしまうようです。また、正義や論理、会社の利益を背負っていますから、声が大きくなり口調が厳しくなることを気にしなくなってしまっています。
その行動を改めろと詰め寄られた上司が、経営陣の一角(身内)だったり、あるいは経営陣が外部から招へいしてようやく来てもらった人だったりすると、経営陣はその上司が何も言わなくても(実際は愚痴をこぼしていることが多いようですけれど)、「まじめ従業員」の排除に動き出すようです。
いつしか、その「まじめ従業員」は一人リストラの対象となってしまうわけです。
こういう場合、公的な職場であっても、結局横車を押すわけですから、かなり強引に、かなりアンフェアな手口を使ってしまいます。また、着々と準備を進めて積み重ねていきます。大体はナンバー2あたりが主体となって動きます。
ナンバー2が動くと、とにかく組織に迎合して組織の秩序を保ちたいと思ってしまうことが人間の本能ですから、ある程度はまじめで公平な人であっても、ナンバー2の提案こそが正義だと思い込んでしまうようです。ここで勘違いされることが多いのは、そのナンバー2に協力してしまう人たちが、自己保身のためにナンバー2におもねるのではないということです。ナンバー2こそが組織の秩序を保とうとしていると思い、それならばそちらに従い、何としてでも「まじめ従業員」を排除しなければならないと素直に思ってしまっているようなのです。冷静に観察すると信じられないくらいのアンフェアな役割を果たしていくようです。ナンバー2が作ったシナリオを忠実に、あるいはそれ以上に実践していきます。真実ではないとわかっていながら、「まじめ従業員」の非行行為をでっちあげたりします。
いつの間にか「まじめ従業員」は、上司や部下や取引相手に対してもハラスメントをした人間だということにされてしまいます。伝達作業などの業務上必要な行為を懈怠した事実が作り上げられたり、会社のルールがあったことにされてルール違反の常習者になったりされてしまいます。正当であろうと言いがかりであろうと、上司の注意という形式的な記録が積み上げられて行きます。それが専門分野になっていくと、専門的な理由からの注意や否定評価が不当な言いがかりだということを証明することが困難になっていきます。
「まじめ従業員」はまさか自分が批判の対象、攻撃の対象になるはずがないと信じていますから、組織の動きに対して鈍感になっており、反対証拠を収集するなどの準備ができていないことがほとんどです。せめて日記だけでもつけておいてもらうと大変助かります。
紛争はかなりの労力を使います。特に外野が見過ごしがちなのは、ご本人のメンタルです。強い力の理不尽な出来事で苦しんだ時の感覚が、記録を見るたびによみがえってくるようです。裁判などが終わるまで、常に新たなストレスが加わり続けることと同じです。戦いのさなかでは、なかなかその苦しみに馴れるということは無いようです。
また、例えば不当解雇があって、裁判で勝訴したとしても、なかなか復職することは難しいです。勝ってもメンタルが回復しないケースもたくさんあります。
「まじめ従業員」がまじめなままだとすると、復職をしても同じことが繰り返される可能性が高くなることでしょう。
考えるべきだと思います。
1 まじめなあなたの職場が、誰しもが思うような普通の職場、つまり、利潤の追求を第一として、合理的な行動をすることに価値を置かれ、責任をもって取引先との約束を守り、社内の現場の合理的な意見を尊重する会社であれば、「まじめ従業員」は自然にふるまうことができるわけです。あとは過労死や家族に対するネグレクトに注意をして組織生活をしていけばよいということになるでしょう。
2 問題は「まじめ従業員」であるあなたの職場が、利潤の追求や合理的行動よりも、経営者や上司の体面を重んじ、従来の方法論にこだわって経営を行い、納期が遅れようと新しい分野に対応できないものはできない、年配の経営者には無理だからこの分野を若者にゆだねてみようという意識を持つ余地のない職場で、現場がどうしようと上司の人間関係で決定を平気で覆すような会社の場合どうするかということです。
2-1 一つは、こんな調子で利潤追求に背を向けて、保身を第一とする会社や組織は、沈みゆく船だと見切りをつけて転職をする。
2-2 もう一つは、会社の中で、自分がはみ出さないように仕事をするように切り替える。極端な「まじめ従業員」をやめるということでしょう。
どちらかでしょうね。
本来、「まじめ従業員」は、従来の労働運動の中では、「あなたは悪くない。断固戦いましょう。」と言われてきた人たちだと思います。しかし、このような「あなたは悪くない」は本当に本人のために良いことなのか、疑問がわいてきました。
もしかしたら、「まじめ従業員」は、さっさと転職をして、今度は「まじめ度」を下げる行動修正をすることによって、その後の人生においてもっと楽な会社生活を送れるかもしれないのです。トラブルを適正に教訓化できればそれはかなり実現可能性が高いようです。ところが、自分は悪くない。次の職場でも態度を改める必要がないと極端な身構えをすると、また同じ現実が待っている可能性が高いと思うのです。
どちらを選ぶかは生き方の問題ですから本人が決めることです。しかし、第三者は、適当な時期に選択肢、可能性を提案するのが親切なのではないでしょうか。
最大の問題は、「自分が組織の仲間に受け入れられない」という体験が積み重なることによって起きるメンタル不調の長期化と重篤化です。そのような危険があるのに「正しいのだから頑張れ」というのは、無責任であり、その人の人生を失望と怒りにまみれされる大変危険なことかもしれないということを考えるようになりました。
この場合も、善悪二元論、二項対立論でおおざっぱにどちらかが善で、どちらかが悪という単純な考えで人間を評価すると解決策は見えてきません。会社は確かにアンフェアな罠を張り巡らせて労働者を追い出そうとしていますから、正義感の強い人はどうしても会社に対する怒りだけが高まっていくようです。自分の正義感を満足させるために、当事者のデメリットを考えないということがあれば大変怖いことです。
最近わたしは、「あなたは正義感、責任感が強すぎたのではないか」と問題提起をすることが増えてきました。
正義感が強すぎるから、一度決めたことを勝手に覆すことはおかしいと思うでしょうし、自分が得するために部下に損をさせるような上司の行動は断固拒否することでしょう。責任感が強すぎるから納期に間に合わなくなる上司の怠慢を厳しく指摘するでしょう。しかも納期に間に合う間に合わないかのかぎりぎりの段階でもまだ動こうとしない上司に対してはいら立ちも生まれることでしょう。顔に出すなと言われても無理だと思います。大切にすべきことは、ルールであり、公平であり、目的遂行あり、合理的行動をするということなわけです。
しかし、「ちょっと待てよ。」
と、第三者は敢えて言うべきではないでしょうか。会社も極端で不合理だけれど、「まじめ従業員」も一方の極端な立場でものを考えていないかということです。
そもそも本当に、利潤追求のためには、合理性を追求し、正義や約束に従うことが絶対の方法論なのでしょうか。合理性や正義や約束を厳格に守れば、企業利益が永続的に確保されるのかということも疑ってかかる必要があるかもしれません。
高度成長期が終わるまでの労使紛争は、企業が利潤を追求するあまりに労働者の人権を侵害していたという理由からの労使紛争が主流だったと思います。むしろ、利潤追求や合理性の追求に異を唱えていたのは労働者だったわけです。
もしかしたら「まじめ従業員」は、このようなむしろオーソドックスな企業の論理に立って、逆に経営者や上司を追及してしまっているのではないかということも考えた方が良いかもしれません。もしかしたら、正義を優先して仲間の感情をかえりみない状態になっていたり、人の失敗を許せないという窮屈な感情に支配されたりしていないでしょうか。
上司や経営者の不合理な行動で労働者がイライラすることは、昔からあることです。しかし、だからと言って、そのイライラを未加工で上司や経営者にぶつけてしまえば、当然反発が来るものです。上司に限らず同僚、部下に対しては尊敬できるところを尊敬し、その人たちができないことを広い意味で許すということは、組織として動く以上どうしても必要なことなのではないかと思うのです。
<気を付けるべきこと>
まず、上司に対しても部下に対してもそうなのですが、
「怒りをぶつけない」
ということが一番大切だと思います。
次に、会社の仲間には
「弱点は必ずある
だから弱点をいかにうまくカバーするかを考えるのであって
弱点であることを責めない、怒らない」
ということも大切です。
会社員、社会人であるからできて当然だ
とは思わないことが大切でしょう。
「現実の仲間をどう動かしていけば目標に近づくか」
ということを考えるのが組織人の醍醐味です。
決定権のある人の決定をストレートにくつがえそうとしないこと
相手の意思に働きかけるときは、結論を押し付けてはだめで
「メリットデメリットを提示し
選択肢の可能性を説明すること」ということになります。
結論をストレートにごり押ししても何も結論は変わりません。
決定に責任を負うのは決定権者なのであなたが責任を持つことではないのです。
会社だけでなく家族、趣味、友人関係など、あなたのまじめさ、責任感、正義感などは、仲間を精神的に追い込んでいる可能性があります。仲間を不幸にしている可能性があるのです。そしてそれは、自分自身を不幸にしている原因かもしれません。
労使紛争の事案で、労働者からの相談の中に、身に覚えのない理由で処分をされたとか懲戒解雇になりそうになっているというものが結構多いです。
労働者の話だけを聞く限り、不当処分、不当解雇だと裁判所でも判断される可能性の高い事案が多いです。つまり法律を当てはめる限りにおいては、どうも会社の違法行為が認定されそうなのです。
ただ、それは裁判をした場合の話です。あるいは労基署や労働基準局の厳しい指導がある場合ということです。専門的な知識のある弁護士を探してお金を出して依頼して裁判をするということはなかなか大変なことだと思います。解雇をされていれば、裁判に勝って賃金を後払いされるまでの生活をどうにかしなくてはなりません。必ずしも勝つとは限りませんので、借金をするのもほどほどにする必要もあるでしょう。
また、一度組織で本人が浮いてしまって、経営陣からも敵対されてしまうと、その後に裁判で処分が撤回されても、現実には会社はいづらい場所になることでしょう。査定評価や人事を巡って不安になったり、実際に理不尽な思いをするということもありそうです。
できれば、意味不明な理由で自分が処分を受けないように「予防」したいと考えることは自然なことだと思います。
ただ、この記事を読むべきである人は、「自分は組織に貢献しているから上司や経営陣から攻撃をされるはずがない」と確信している方がほとんどだと思います。大体の人は、寝耳に水で裏切られたという思いが強く、メンタル的にも大きな打撃を受けてしまいます。
こういう方々に、間接的にでも届くとよいと思って書くことにします。
組織の中で浮いてしまって上司などから攻撃されやすい人の典型的な特徴は、
・ 優秀な人
・ 無理をしてでも約束を守ろうとする責任感の強い人
・ 物事を合理的に進める人
・ 会社であれば、全員が利潤追求を最大の価値において仕事をすることが当然であり、何ら疑うことのない人です。
こんな理想的だと思われるまじめな従業員が攻撃の対象となっています。
まじめな従業員が浮く場合は、会社にも例えば以下のような問題がある場合が多いです。
・ 同族企業で経営陣の中核が固定されていて動きがない
・ あるいは田舎の自治体で議会でも行政がほとんど追及されない
・ 会社などの設立が古いため、これまでのやり方でやればやっていけるはずだと思っている
・ 利潤は目指すのだけど、それ以上に条件反射的に仲間内や長年の取引相手との人間関係の方に価値を置く
・ 現場の会議で合理性を優先して決めたことをトップが一言で覆す
・ 組織の中の有力者に忖度して、その有力者がやりづらいと感じている部下を排除するのが経営陣の仕事だと思っている
・ よく言えば上の人の立場を尊重することが何よりも優先される
こんな職場です。
だから、会社は、「まじめ従業員」から合理性や約束は守るべきだというモラルを真正面に掲げて言われるとまともに反論できません。モラルや合理性を言う従業員は、とても煙たい人間で、上司や経営者にとってその人は「自分たち」というくくりには入らない人になっていきます。以下のような場合に「まじめ従業員」と経営者の間に緊張が高まることは、はたから見ているとよくわかるのです。
例えば
・ 会議で決まったことを上司が守らない場合
・ 上司の負担を減らすために、部下の仕事を増やそうとする場合とか、
・ 納期が迫っているのに上司が前提としてやらなくてはならないことをしていないとか、
こういう場合、「まじめ従業員」は、相手が上司であろうと経営者であろうと、正々堂々と正論を述べて上司の行動を改めようとしてしまいます。それだけならばよいのですが、やや感情的な言葉を使ってしまうことも多いです。本人は当たり前のことが当たり前ではないと指摘することや、理不尽であるために行動を改めるべきだなどということは、やらなくてはならないことだと思って発言しています。しかし、言われた上司からすればかなり自分に対して厳しい態度をしていると感じてしまうようです。また、正義や論理、会社の利益を背負っていますから、声が大きくなり口調が厳しくなることを気にしなくなってしまっています。
その行動を改めろと詰め寄られた上司が、経営陣の一角(身内)だったり、あるいは経営陣が外部から招へいしてようやく来てもらった人だったりすると、経営陣はその上司が何も言わなくても(実際は愚痴をこぼしていることが多いようですけれど)、「まじめ従業員」の排除に動き出すようです。
いつしか、その「まじめ従業員」は一人リストラの対象となってしまうわけです。
こういう場合、公的な職場であっても、結局横車を押すわけですから、かなり強引に、かなりアンフェアな手口を使ってしまいます。また、着々と準備を進めて積み重ねていきます。大体はナンバー2あたりが主体となって動きます。
ナンバー2が動くと、とにかく組織に迎合して組織の秩序を保ちたいと思ってしまうことが人間の本能ですから、ある程度はまじめで公平な人であっても、ナンバー2の提案こそが正義だと思い込んでしまうようです。ここで勘違いされることが多いのは、そのナンバー2に協力してしまう人たちが、自己保身のためにナンバー2におもねるのではないということです。ナンバー2こそが組織の秩序を保とうとしていると思い、それならばそちらに従い、何としてでも「まじめ従業員」を排除しなければならないと素直に思ってしまっているようなのです。冷静に観察すると信じられないくらいのアンフェアな役割を果たしていくようです。ナンバー2が作ったシナリオを忠実に、あるいはそれ以上に実践していきます。真実ではないとわかっていながら、「まじめ従業員」の非行行為をでっちあげたりします。
いつの間にか「まじめ従業員」は、上司や部下や取引相手に対してもハラスメントをした人間だということにされてしまいます。伝達作業などの業務上必要な行為を懈怠した事実が作り上げられたり、会社のルールがあったことにされてルール違反の常習者になったりされてしまいます。正当であろうと言いがかりであろうと、上司の注意という形式的な記録が積み上げられて行きます。それが専門分野になっていくと、専門的な理由からの注意や否定評価が不当な言いがかりだということを証明することが困難になっていきます。
「まじめ従業員」はまさか自分が批判の対象、攻撃の対象になるはずがないと信じていますから、組織の動きに対して鈍感になっており、反対証拠を収集するなどの準備ができていないことがほとんどです。せめて日記だけでもつけておいてもらうと大変助かります。
紛争はかなりの労力を使います。特に外野が見過ごしがちなのは、ご本人のメンタルです。強い力の理不尽な出来事で苦しんだ時の感覚が、記録を見るたびによみがえってくるようです。裁判などが終わるまで、常に新たなストレスが加わり続けることと同じです。戦いのさなかでは、なかなかその苦しみに馴れるということは無いようです。
また、例えば不当解雇があって、裁判で勝訴したとしても、なかなか復職することは難しいです。勝ってもメンタルが回復しないケースもたくさんあります。
「まじめ従業員」がまじめなままだとすると、復職をしても同じことが繰り返される可能性が高くなることでしょう。
考えるべきだと思います。
1 まじめなあなたの職場が、誰しもが思うような普通の職場、つまり、利潤の追求を第一として、合理的な行動をすることに価値を置かれ、責任をもって取引先との約束を守り、社内の現場の合理的な意見を尊重する会社であれば、「まじめ従業員」は自然にふるまうことができるわけです。あとは過労死や家族に対するネグレクトに注意をして組織生活をしていけばよいということになるでしょう。
2 問題は「まじめ従業員」であるあなたの職場が、利潤の追求や合理的行動よりも、経営者や上司の体面を重んじ、従来の方法論にこだわって経営を行い、納期が遅れようと新しい分野に対応できないものはできない、年配の経営者には無理だからこの分野を若者にゆだねてみようという意識を持つ余地のない職場で、現場がどうしようと上司の人間関係で決定を平気で覆すような会社の場合どうするかということです。
2-1 一つは、こんな調子で利潤追求に背を向けて、保身を第一とする会社や組織は、沈みゆく船だと見切りをつけて転職をする。
2-2 もう一つは、会社の中で、自分がはみ出さないように仕事をするように切り替える。極端な「まじめ従業員」をやめるということでしょう。
どちらかでしょうね。
本来、「まじめ従業員」は、従来の労働運動の中では、「あなたは悪くない。断固戦いましょう。」と言われてきた人たちだと思います。しかし、このような「あなたは悪くない」は本当に本人のために良いことなのか、疑問がわいてきました。
もしかしたら、「まじめ従業員」は、さっさと転職をして、今度は「まじめ度」を下げる行動修正をすることによって、その後の人生においてもっと楽な会社生活を送れるかもしれないのです。トラブルを適正に教訓化できればそれはかなり実現可能性が高いようです。ところが、自分は悪くない。次の職場でも態度を改める必要がないと極端な身構えをすると、また同じ現実が待っている可能性が高いと思うのです。
どちらを選ぶかは生き方の問題ですから本人が決めることです。しかし、第三者は、適当な時期に選択肢、可能性を提案するのが親切なのではないでしょうか。
最大の問題は、「自分が組織の仲間に受け入れられない」という体験が積み重なることによって起きるメンタル不調の長期化と重篤化です。そのような危険があるのに「正しいのだから頑張れ」というのは、無責任であり、その人の人生を失望と怒りにまみれされる大変危険なことかもしれないということを考えるようになりました。
この場合も、善悪二元論、二項対立論でおおざっぱにどちらかが善で、どちらかが悪という単純な考えで人間を評価すると解決策は見えてきません。会社は確かにアンフェアな罠を張り巡らせて労働者を追い出そうとしていますから、正義感の強い人はどうしても会社に対する怒りだけが高まっていくようです。自分の正義感を満足させるために、当事者のデメリットを考えないということがあれば大変怖いことです。
最近わたしは、「あなたは正義感、責任感が強すぎたのではないか」と問題提起をすることが増えてきました。
正義感が強すぎるから、一度決めたことを勝手に覆すことはおかしいと思うでしょうし、自分が得するために部下に損をさせるような上司の行動は断固拒否することでしょう。責任感が強すぎるから納期に間に合わなくなる上司の怠慢を厳しく指摘するでしょう。しかも納期に間に合う間に合わないかのかぎりぎりの段階でもまだ動こうとしない上司に対してはいら立ちも生まれることでしょう。顔に出すなと言われても無理だと思います。大切にすべきことは、ルールであり、公平であり、目的遂行あり、合理的行動をするということなわけです。
しかし、「ちょっと待てよ。」
と、第三者は敢えて言うべきではないでしょうか。会社も極端で不合理だけれど、「まじめ従業員」も一方の極端な立場でものを考えていないかということです。
そもそも本当に、利潤追求のためには、合理性を追求し、正義や約束に従うことが絶対の方法論なのでしょうか。合理性や正義や約束を厳格に守れば、企業利益が永続的に確保されるのかということも疑ってかかる必要があるかもしれません。
高度成長期が終わるまでの労使紛争は、企業が利潤を追求するあまりに労働者の人権を侵害していたという理由からの労使紛争が主流だったと思います。むしろ、利潤追求や合理性の追求に異を唱えていたのは労働者だったわけです。
もしかしたら「まじめ従業員」は、このようなむしろオーソドックスな企業の論理に立って、逆に経営者や上司を追及してしまっているのではないかということも考えた方が良いかもしれません。もしかしたら、正義を優先して仲間の感情をかえりみない状態になっていたり、人の失敗を許せないという窮屈な感情に支配されたりしていないでしょうか。
上司や経営者の不合理な行動で労働者がイライラすることは、昔からあることです。しかし、だからと言って、そのイライラを未加工で上司や経営者にぶつけてしまえば、当然反発が来るものです。上司に限らず同僚、部下に対しては尊敬できるところを尊敬し、その人たちができないことを広い意味で許すということは、組織として動く以上どうしても必要なことなのではないかと思うのです。
<気を付けるべきこと>
まず、上司に対しても部下に対してもそうなのですが、
「怒りをぶつけない」
ということが一番大切だと思います。
次に、会社の仲間には
「弱点は必ずある
だから弱点をいかにうまくカバーするかを考えるのであって
弱点であることを責めない、怒らない」
ということも大切です。
会社員、社会人であるからできて当然だ
とは思わないことが大切でしょう。
「現実の仲間をどう動かしていけば目標に近づくか」
ということを考えるのが組織人の醍醐味です。
決定権のある人の決定をストレートにくつがえそうとしないこと
相手の意思に働きかけるときは、結論を押し付けてはだめで
「メリットデメリットを提示し
選択肢の可能性を説明すること」ということになります。
結論をストレートにごり押ししても何も結論は変わりません。
決定に責任を負うのは決定権者なのであなたが責任を持つことではないのです。
会社だけでなく家族、趣味、友人関係など、あなたのまじめさ、責任感、正義感などは、仲間を精神的に追い込んでいる可能性があります。仲間を不幸にしている可能性があるのです。そしてそれは、自分自身を不幸にしている原因かもしれません。
「働かないおじさん問題」キャンペーンの行き着く先 もう国民はいい加減覚えよう!マスコミ、娯楽報道の果たす役割 その行く先は安心して年を取ることができなくなる労働環境 [労務管理・労働環境]
「働かないおじさん問題」という問題をマスコミは盛んにあおっているようです。それは、ベテランの年配社員が一日中ろくに仕事もしないでパソコンを見て遊んでいたり、新聞を見ていたりするだけなのに高給をもらっていて、まじめに働く若者は働かないおじさんに給料を払うために働いているようで不合理だと怒っている。
というものです。
「またか」という思いでした。
実際はありもしないのに、マスコミがどこの誰だか変わらない人たちの「多くの意見というような印象」を報道して、多くの意見として不平等だという声を上げたような形となり、世論が形成されたような体裁を整えて、国の制度を変えて、結局みんなが損をしてしまう。
という現象はこれまでも繰り返されてきました。
一つには高齢者医療の有料化でした。
この時は、その多数意見の外形つくりを戦争中から国策に積極的に関与していた漫才興行会社を使って行いました。「老人たちは、病気でもないのに病院にかかり、病院の待合室がサロン隣老人たちの社交場になっている。無駄な医療費が大量に浪費されているために国の財政が圧迫されている。」ということを宣伝しました。島田紳助や桂文珍が盛んにこのネタをテレビでやっていました。同じ興業会社所属です。ギャグのネタですから誰からも直接批判される状況を作らなくてすむので、一方的に偏った意見を繰り返し流していくことができるというメディア戦略でした。まだインターネットが普及していないので、テレビの威力は絶大でした。紳助は後にテレビで老人たちに謝罪たのを目撃しましたが、老人医療費有料化になった後でした。老人医療費が有料化された後は、老人いじりのネタはぱったりとやられなくなりました。
この漫才だけが原因とは言いませんが、世論は老人医療費の無料をやめて本人にもある程度の負担をさせるべきだという流れになり、結局老人医療費が有料化されました。その結果はどうでしょう。確かに有料化によって高齢者が受診を自己抑制するようになりました。一時的には医療費が減少しました。しかしその結果、初期の治療をしないために病気は悪化するようになり、悪化してから病院を受診するようになりました。このため老人医療費は一時期的には抑制したのですが、その後抑制した分を取り返しておつりがくるように高額になってゆきました。早期発見早期治療や予防は医療費は低いのです。早期治療をしなければ、当然病気は悪化し、合併症も出てきます。早期治療を抑制したために、かえって高額の医療費がかかるようになりました。目先の利益を追及して、かえって高額の税金負担となったということです。
何よりの損失は、「安心して老いる」ということが難しくなったということです。
実際に老人になってみると、体のあちこちに不具合が出ることはいかんともしがたいことです。診察券ばかりが増えていきます。「痛み」は治療をするべきだという体のサインですから、痛みには早め早めに手当てをしなくてはなりません。また、医療機関で必要のない投薬などはしません。おおざっぱな話をすれば、デマを流して世論を作り上げ、近視眼的な政策を実現してしまったということです。
年金問題もその最たるものです。
世代間の不公平感ということはいつの世にもあるものですが、これを利用して、若者の不満を代弁するというマスコミが不公平を喧伝して、受給する年金額が切り下げられて行きました。国民年金料を何のために払い続けてきたのかわからない程度の金額の保険金しか支給されません。長年支払い続けて、ある時金額が切り下げられるのですから騙されたようなものです。
またも「安心して老いる」ということができなくなりました。また、老後いくら必要だということをあおっていますから、心配性の人たちは真に受けて、老後の資金のための方法にお金を使うようになっています。
女性の働く権利の問題も似たようなものですね。
昭和の後半に、労働基準法の改正と雇用機会均等法の成立が同時に進められました。すべての女性が「働いて責任ある部署について高収入が欲しいものだ」という単一の価値観を持っていることを前提として、女性がそのような処遇を受けない原因は、労働基準法が深夜労働を禁止し、生理休暇を取りやすく定めているからだということが標的になりました。ずいぶん様々な女性の方々が、女性の地位が低いのは深夜労働の禁止や生理休暇が原因で、これさえなければもっと出世するのだということを言っていました。
結局、深夜労働禁止が廃止され女性も深夜労働をさせても良いことになりましたし、生理休暇の規定は改正されてしまいました。
その結果、40年たった現在、女性の社会進出はどうなったでしょうか。国は男女雇用機会均等室を設置したのですが、そのうち男女参画局の一部署となり、審議会も開かれなくなったようです。一連の結果は、単に女性の権利、女性の保護が削られただけではないかと思います。未だに日弁連でさえ、正規とは別に女性枠で副会長ポストを用意するかというような議論をしているのです。つまり、男女雇用機会均等法から40年近くたった現在も女性は下駄を履かせなければ男性と対等にはならない存在だとされているのです。
だいたい深夜労働が禁止されているから女性が出世しない職場なんて極めて限られた職場しかないわけです。これを理由として女性が社会進出できないなんてことを、今思うとよく恥ずかしくもなく主張していたなと思うんです。当時私は学生でしたが、まっすぐに法案について反対しているあまり、普通に考えると恥ずかしく空々しいことを言っているということに気が付きませんでした。女性の深夜労働禁止を撤廃するための方便として、女性の社会進出という空手形が発行されたということでした。
現代の男女参画の国の政策については、昨日アップしましたので、そちらをご参照ください。本記事で指摘している手法をいかんなく発揮しています。
このように、娯楽の話題提供ではなく、制度改悪のキャンペーンだと怪しむためのポイントは
・ 統計的な根拠ではなく、どこの誰だかわからない人が、どんな資格で言っているのかも不明のまま、さも「自分たち」全員が不平等に怒っているということを情緒的にアッピールする。
・ その「ありそうな」不平等が実際にあるのかどうかもわからない。
・ 漫才だったり、ワイドショーだったり、ネットだったり、批判を受けにくい方法で、いつの間にか国民の間で広く承認されたかのような外観が作り出されている。
・ その結果、表立って反対する人たちは声を出しずらくなる。
・ 誰かが得する結果となり、多数が損をする結果となる。
こんな感じです。
今回の「働かないおじさん問題」も全く同様の構造だと思います。
今の日本の状況で、どこの会社で、働かなくても高給をもらっている労働者がいるのでしょうか。天下りの人は知りませんが、普通のたたき上げの労働者でそのように四六時中パソコンを見て遊んでいる50代、60代の社員がいるとは思われません。
(パワハラの一種で仕事を取り上げられて、自主退職を促されている場合はあります)
昭和の教育テレビの「働くおじさん」をもじったキャンペーンですので、おそらく広告代理店の戦略なのでしょうけれど、これを「働かないおじさん問題」としてテレビや取材をしないインターネットニュースの配信会社がお金をもらって取り上げれば、誰も反論できません。私のこのブログで反論していてもとても影響力はありませんから、一方的に偏った情報を流し続けることができます。テレビで面白おかしく取り上げれば、笑っているうちに、そう言う問題があるのかと先入観を持たされてしまいます。
意図を持ったキャンペーンであることに気が付かないうちに、正義感の強い国民ほど「何とか問題を解消しなくてはならない」という気持ちにさせられてしまうわけです。
言われている年代の中高年は、誰も自分のことだと思わないし、現実にはいない人なのだから、俺は働いているぞとムキになって反論する人もいないでしょう。そもそも働いている中高年は気が付きにくい時間、方法で宣伝されているようです。
言っているとされる若者は自分の賃金が低いものですから、「そんなことがあれば」不平等だという怒りが沸き上がることはイメージしやすいことです。自分の処遇が低いことの不満が、仮想敵である働かないおじさんに対する怒りにすり替えられるわけです。
誰が得してだれが損をするのでしょう。働かないおじさん問題が目指しているのはどのような制度改革なのでしょう。
端的に言えば、年功賃金の消滅を狙っているということと、極端に言えば労働の対価性のない諸手当のカットを狙っているものと思います。つまり、すべての労働者を派遣労働者にするようなそういう発想になっている危険があるということです。
その理論的根拠として、同一労働同一賃金の原則が悪用されています。
極端に言えば、働いた分量に応じて報酬をもらうべきであり、その他の要素、家族手当、扶養手当、住宅手当、交通手当は個人の事情だから、もらえる人ともらえない人が出るのは不公平だ。だからそんな手当はカットされるべきだ。
「労働に応じた賃金にするべきだ。」という主張になるようです。
また、これまでの歴史を見た場合、「平等」は実現するかもしれません。しかし、その結果は実質的な賃下げです。
働きに応じて賃金を払うということは、平等だから一見良いことを言っているなと感じることと思います。しかし、働きに応じた賃金なんてフィクションです。そもそもどうやって働いた分量をお金に換算できるのでしょうか。これは無理な話です。長時間働いたのに、働く時間が少ない人という指標はあるでしょうけれど、労働の内容は全く違います。同じ質の労働ということはそもそもフィクションです。「働きに応じて」の金額なんて、算出しようがないわけです。
また、誰がよく働いていて、誰が遊んでいるということを決める判断権者は誰でしょうか。その評価には必ず労働者の不満と、上司の恣意的な評価が入ってしまいます。
結局は、使用者が算定基礎時給を一方的に決めて、低いレベルでの平等が図られるということはミエミエではないでしょうか。平等を求めたために、賃下げが起こる可能性があるということを自覚するべきです。
また、始終誰かから監視されている、評価されていると思って働いくことになると思います。そんなプレッシャーの中でコストパフォーマンスを発揮できる人はどれだけいるでしょうか。おそらく失点をしないように、余計なことをしないで言われたことだけをするという労働姿勢が、これまで以上に進んでいくことでしょう。
特に中高年者の間では、若者と同じラインに立って評価を受けることになれば、体力的な事情もあって不安を覚えない中高年者一歩手前の人たちは多いはずです。
そこまで考えなくてよいのかもしれませんが、ますます労働者のやる気は無くなっていくと思います。
賃金とは何かということについては、学問的には、労働の対価であると同時に生活保障である、あるいは賃金の額によって良質な労働力を獲得できる要素になるという3要素があるということは基礎の基礎です。労働の対価性だけを考えて賃金の平等を考える考え方は法律にも、経済学にも、政策学にもありません。
そもそもの問題は、かかるお金に比べて賃金が低いということから出発するべきだと私は思います。例えば十分な賃金が支給されていて、手当の支給を受けなくても十分に家族を養うことができるならば、手当なんていらないわけです。ところが、現状では十分な賃金をもらっている人が少ない、特に基本給は賞与や退職金の絡みで低く抑えられているということが実情ではないでしょうか。ようやく生活保障的な手当てで家族が生活しているということが多いと感じています。生活保障的な手当てがカットされることは労働者にとっては大打撃です。賃金の生活保障という性格に照らすと、扶養を要する人と暮らしている人に扶養手当を払うことは当然のことなのです。
今回の「働かないおじさん問題」キャンペーンは、多くの労働者が派遣労働者のような待遇に切り替わっていくというか、実際に派遣労働者に切り替わっていくということが究極の着地点として想定されていると感じられます。
かなり悲観的に、かなり懐疑的に、いろいろ考えてしまいました。しかし、これまでの改悪とあまりにも重なっていて、「またか」という思いが強くあります。この最初の段階で疑問の声を上げていかないと、単純な感情に訴えかける方向で世論が形成されていくということがこれまでの教訓です。
もし、パソコンで遊んで新聞を読んで高給をもらっているように部下から見える人がいるならば、日本の国益のためにご自分が仕事をしていることをくれぐれもアッピールしていただきたいと願うのはこういう次第です。