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聴覚障害者の職場でのノーマライゼイションと対立概念としての差別 差別は差別しているという意識が無くても相手を苦しめているということ [労務管理・労働環境]


差別は人の心に深刻な影響、打撃を与えて、それが当然視されて温存されると、精神を破綻させてしまう恐れもあります。様々な差別の解消が、現在提起されています。大変良いことだと思います。ただ、どうしても私から見ると、声の大きい人たちの差別ばかりが取り上げられており、予算をかけて解消されようとしているような印象があります。私は、聴覚障害者の労働災害事件を担当したことを踏まえて、聴覚障害者が健常者に混じって働くために必要なことがまだまだあるということを痛感しました。このことについて述べたいと思います。
序 前提として障害の内容は千差万別
まず、最初に申し上げなければならないことは、聴覚障害者の障害の内容、程度は、各聴覚障害者によって異なるということです。Aさんは、同じ条件で聞こえていたのでBさんも聞こえるはずだとか、Cさんはこれが聞こえなかったのでDさんも聞こえないはずだとか、そういう「聴覚障害者」というひとくくりでは障害の内容は把握できないということです。
今回お話しするのは、具体的な一人を想定してのことですが、実際の方については、その人の状況をよくリサーチすることこそが一番大事だということです。
そして、その際には、聴覚障害者は、健常者の聴覚の状態がわからないので、何ができて、何ができないのかは、障害を持つ人にはわかりづらいということを理解する必要があります。まず、これまでの障害者本人の経験を踏まえて、自分で自覚している障害の内容を個別に聴取することが大切です。次に、日々職場で活動している中で、何ができて何ができないのかについて判明したことについて、職場と本人との共有をこまめにしていくということも大切だということです。
1 聴覚障害に関する誤解1 小さい音が聞こえないという誤解
  聴覚障害についての一番ポピュラーな誤解は、「聴覚障害というのは、小さな音が聞こえないのだろう。だから、大きな声で話せば聞こえるはずだ。」という誤解かもしれません。
  確かに聴覚障害という場合は、小さな音が聴き取りづらいということは一面の真理です。しかし、では、大きな音なら聞こえるかと言うとそうではありません。
  例えば、一対一で面と向かってお話しした場合が、一番聴き取りやすいようです。これと違うのは聴き取りにくくなります。極端に言えば後ろから話しかけられた場合、例えば車座になってめいめいがめいめいに話しかけているような場合は聴き取りにくくなるようです。話す方が、他の作業をしながら顔は手元に向けて障害者に話しかける場合も、話しかけられていることが分かった後でも聞き取りにくくなるようです。
  実はこれと同じ傾向は、健常者にもあります。何かの作業に没頭していて不意に話しかけられても気が付かなかったというご経験は誰しもあるでしょう。また、急に話が変わってしまうと話について行けなくなることがあると思います。ずっとお酒の話をしていたのに、前触れが無く突然天気の話に変わってしまったら「何か話しているな。」ということはわかっても、全く言葉が頭に入らなかったこともご経験があると思います。
  聴覚障害のある方は、この音が耳に入るが言葉として気が付かないということが健常者よりも頻繁に起こりやすいようです。
  人間は、音がしているという音をすべて耳を通して脳が拾ってしまっています。しかし、脳の中で、これは言葉として意味がある音、これは雑音と自然に区別して言葉だけに神経が集中しやすくなっているようです。そして、言葉の意味を脳で認識して、発言者の発言内容を理解するようです。
  聴覚障害者は、この区別がうまくできない人が多いようです。だから、視覚などでこの人がこちらに話しかけていると感じて、「よし意識して聴き取ろう!」と思って半ば意図的に区別をするという作業をして聞いているようなのです。どうやらここがポイントではないだろうかと思うようになりました。
  このことを示すエピソードがあります。デジタル補聴器とアナログ補聴器です。アナログ補聴器は、値段的には求めやすい補聴器です。しかし、雑音も言葉もすべてが音が拡大して聞こえるようになっている仕組みです。声も聞こえるのですが、その他の音も聞こえてしまうので、声が音の中にうずもれてしまう傾向があるようです。デジタル補聴器は、イコライザーが内蔵されており、主に声が拡大して聞こえるようにはなっているようです。聴覚障害者としてはデジタル補聴器を使う方が聞こえやすいことは確かです。しかし、デジタル補聴器は値段が高額で、何らかの補助が無いと片耳分だけで数十万円かかってしまうそうです。アナログ補聴器よりは格段に聞きやすいということですから、集団の中で働く場合はデジタル補聴器を使うべきですが、お金の問題が障壁になっているようです。何とか国の方で、合理的配慮をしてデジタル補聴器を求めやすくしてはもらえないかと思う次第です。
  ただ、デジタル補聴器にしても、聴覚障害者は健常者に比べて、言葉の意味を理解するまでに若干時間を多く必要とするようです。
  どういう場合に聞こえて、どういう場合に聞こえないかということは、一人ひとり違いが大きいようです。最初に一通り聞いて、あとは仕事をしながら発見し共有することが大切だということは前にも述べたとおりです。聞こえないという場合は、それを理解して記憶するように努めることが第一です。前同じような状況で同じ程度の音量で話したら聞こえたから、今度も聞こえるはずだという思い込みはくれぐれも行わないこと。自分の声以外の条件によっては聞こえたり聞こえなかったりするということがあるということです。例えば気圧も関係するかもしれません。もっと簡単には、他の音の状況に違いがあるかもしれません。前聞こえたときは、その部屋で聞こえる音は、話者の声だけだったかもしれません。聞こえないときは、別の人も話をしていたかもしれませんし、車が通っていたかもしれません。聞こえているはずだという思い込みが一番障害者を傷つけることになります。
2 聴覚障害に関する誤解2 どこが聞こえないか本人はわかるだろうという誤解
  はなはだしい職場になると、「聞こえなかったから聞こえないと言え」と聴覚障害者に対して冷たく当たる職場があります。この発言が無茶苦茶だということを理解することは、実は骨を折ることです。この発言には、論理的前提として、「聴覚障害者が、誰かの話を聞いた時、自分が聴き取ったところと聞き取れなかったところを自分で自覚しているはずだ」という考えが忍び込んでいるということです。自分が相手の言葉をよく聞き取れなかったということを知っていたのだから、聴き取れない部分について聞き返せということです。こう整理すると、なるほどひどい話だと分かるのですが、実際の例を挙げると、なかなか難しいことがわかります。誰かから事務連絡Aと事務連絡B、そして事務連絡Cの話を聞いたとしましょう。AとCの内容については聴覚障害者が聴き取っていて、上司に報告をしたとしましょう。Bの話は報告しませんでした。上司としては、AとCの話を聴き取っていたのであれば、Bの話も聴き取っていたと思うのはある意味自然のことのような気がします。あとでBの話もあったということを上司が知ったときに、当然部下の聴覚障害者に対して、「どうしてBの話の報告をしなかったの。」と尋ねることも自然な話でしょう。これに対して、Bの話を聴き取っていないということは実はありうる話です。Bの話がAの話とは全く関係のない話で、突如話題転換があったような場合、あるいはBの話をしたときに誰かが別の話をしていて同時に聞こえてきたような場合等、Bの話をしたこと自体を認識できない場合があるようなのです。この時、話があったということがわからないのですが、上司に対しては、何と答えて良いかわかりません。職場の中で聴覚障害の実例のフィードバックが十分に行われていないときは、自分がどうして聞こえなかったのかについて、自分でも理解できていないからです。すると、答えは、「聴き取れませんでした。」と言うしかないのです。本当は「Bの話があったという認識はありません。」と答えることが「正解」なのですが、Bの話が合ったことが前提として話が進んでいるので、正解を回答しずらい状態になっています。また、上司が「どうして認識できなかったのか。」という無茶な質問を素朴に行いますので、障害者は「聴き取れませんでした。」と回答せざるを得ません。そうすると、「聴き取れなかったことは、繰り返し聴いて確認しろ。」という無茶な指導を素朴に行うことになるわけです。
  つまり聴覚障害者は、話が、報告しなければならない事項を話されているのか、話のない「間の状態」なのかを区別できない場合があるということなのです。
  職員間において、部下である聴覚障害者から上司に報告してもらいたいということはあると思います。できるだけメモを作って渡しながら説明をするべきです。あるいは、最後に3点の報告をお願いしますと言って、復唱させるなどの方法をとるべきです。これは、聴覚健常者どうしでも伝達ミスを減らすためには有効だと思います。
3 聴覚障害者を困惑させる職務慣行と意識
  聴覚障害者に対して合理的な配慮ができない職場の体質というものがあります。業務の繁閑ではなく、その職場の慣行、体質というものが、結構長期間にわたって継続しているようです。
  例えば、複雑な基準で対応を変える場合、社長と常務が来室した場合はお茶を出すけれど平取締役にはお茶を出す必要が無いとか、取引先のこれこれにお茶を出すけれどこれこれには出さないなんてことは、一回聞いてわからなくても当たり前のような気がします。特に聴覚障害者に対しては、口頭で説明したから、その通りやらなければ叱責するということではだめだと思います。音で聞いてもなかなか理解できないところだと思います。そういう、上司の勝手な「基準」「ルール」は、きちんとメモを作って部下に渡すべきです。
また、取引業者や顧客に対しての対応の場合は、定型的な聴取をする場合などは、聞き取り票を作り、最低限必要な事項はチェックや単語の書き込みとして、メモを完成させやすくするなどの工夫が必要だと思います。これも聴覚障害者に限らず職場のミスをなくすために効果的だと思います。
  また例えば、聴覚障害者は、言葉の意味を理解するまでにタイムラグがあることがあります。そして、よくわからないのに自分なりの解釈をして回答をしてしまう場合もあります。いわゆる打てば響くという状態にならないことが頻繁にあります。迅速な処理、迅速な対応が当たり前の職場では、予想外にレスポンスに時間がかかるとイライラしてきます。さすがに舌打ちしたり、遅いと怒鳴りつけるということは無いと思いますが、案外待っている間に眉間にしわが寄ったり、声が高くなったりすることがあるようです。
  このようなイライラがあると、障害者に問題が無いところでも障害者の部下を攻撃しようとすることが出てきたりします。あまりイライラを自覚できないようですから、別の部下なり同僚なりにチェックしてもらうことが有効です。あるいは、聴覚障害を持つ部下に対しては、上司と聴覚障害者だけのやりとりだけでなく、上司の補助者を置くということも有効です。イライラしだしたら補助者が引き取って、上司に変わって説明をするという方式です。この方式は、できる限りすべての職場で行われるとよいですね。聴覚障害に限らず、新人教育などでも、パワハラ防止に有効だと思います。
  いずれにしても、聴覚障害者が何ができて何ができないかということを常に点検し、理解を共有するということが第1です。次に、聴覚障害があっても、自分たちが合理的配慮をすることで、障害者が自分の持っているパフォーマンスを職場で発揮できるようにするという使命感を持つことが第2です。これを常に持ち続けていると、怒りやイライラはだいぶ収まります。この二つが無いと、いつの間にか聴覚障害が無かったことにされて、健常者と同じ条件で評価しようとして、障害がないかのような行動を要求してしまいます。そして障害が無いかのような無茶な要求が実現しなかったことに怒りやイライラを持ってしまうという悪循環に陥るようです。この2つは、放っておくと無くなります。定期的に点検をして、共有をすることが必要だと思います。
  また、本来職場というものはそういうものだという意識を持っていくことは、取引先や一般市民を相手にする場合にもプラスになりますし、本当の意味での永続した生産性向上を保障するものだと思います。一番弱い者を守るという意識は、人間らしい好ましさを周囲にも印象付けますし、自分たち同士の結束にも役に立ちます。
4 健常者の中の聴覚障害者の孤立
  今述べた、二つの人間らしい態度をしない場合は、聴覚障害者にとって過酷な職場となります。つまり、聞こえたはずなのに聞こえないと言っている「ずるい奴、卑怯な奴」という意識をもって扱われたり、レスポンスが悪く、口頭で説明したのに覚えが悪いという意識を持っていたら、聴覚障害者の些細な言動でもイライラしてくるものです。まじめに仕事をしていないと感じたり、ちょっとしたミスをしてもしつこいくらい叱責したり、あるいは言わなくてもいい「馬鹿」とか「なにやってんだ。」とか「言い訳するな」とか、端的に「卑怯な言い訳をするな」とか言ってしまうきっかけになってしまいます。典型的なパワハラを行うきっかけになってしまいます。だんだんと不真面目な仕事の取り組みをして、言い訳ばかりする部下だという気持ちになってくるわけです。周囲指導することは上司の責務であるし、正義の観点からも許せないという気持ちになりますから言動が厳しくなることを抑制することも難しくなります。
 パワハラの被害を受ける労働者は、常にその労働者に落ち度があるわけではありませんが、ミスが多かったり、反論をしないことをもって攻撃しやすくなって攻撃をしてしまうということがあります。障害を持っている人たちは、攻撃されやすいと言えるかもしれません。もちろん障害を原因に叱責しているという意識を持つ人はいません。正義とか合理性とか社会的常識を理由にした感情形成なのです。致命的な話としては、そこでは障害が無かったことにされているということです。
 障害者から見れば、どうして自分が叱責されているかわかりません。このために、「実は障害に対してイライラしているんだ」ということには気が付きにくいのです。できて当然のことを自分ができないので叱責されているという意識になることが通常です。健常者に対するパワハラも同じ構造で自分が悪いから叱責されていると思い込まされています。イライラからつい言ってしまう、「馬鹿」とか「何やってるんだ」とか、「まじめにやれ」という言葉は字面通りの意味として受け止めてしまいます。障害に対してイライラしているだけなのに、自分が人間的な問題で上司から疎まれている、嫌われているという意識になることは当然です。上司から嫌われているということだけで、人間は職場全体から嫌われているという受け止め方をしてしまうものです。
 上司だけでなく、同僚も障害に無理解の場合は、同僚も上司からの障害者に対する叱責やパワハラに共感してしまいます。誰も上司を止めようとしないことが起こりますし、さらに上司の叱責の後で「ひどいよね。」とか、せめて「大丈夫?」とかいう人間も現れないことが多いです。上司が無理解であれば、部下に理解を促す人がいませんので当然でしょう。さらに職場全体から嫌われているという気持ちが強くなる大きな事情です。不思議なことですが、通常であれば「部下がミスをしたからと言って、上司は部下の人格を否定する言葉を発してはならない。」という意識を持てるのですが、聴覚障害によってミスをして仕事が遅滞したり、同僚が自分が変わってやらなくてはならないなどということが重なれば、「上司がそのようなことを言ったのは、その人がミスをしたから仕方がないと思う。」等ということを平気で言うことが多いのです。パワハラの同僚に対するアンケート調査なんてそういう恐ろしい発言のオンパレードです。
 そもそも聴覚障害者は、同僚と交わることが苦手です。前に言った通り集団で雑談をすることができない人が多いからです。自分以外の人たちが打ち解けて話しているなということはわかるのですが、自分はその中には入れないというあきらめの気持ちを多く持っています。
 会社ですから、全体に向けて話さなければならないことも多いと思います。一対一で話治すということができないこともあるでしょう。そういう場合でも聴覚障害者に対して顔を向けて話して、健常者には話だけ聞いてもらうなどの工夫が必要だと思います。また、補助的に聴覚障害者に対して個別に説明をする人を配置することも検討するべきです。
 日本は、安倍内閣の時に障害者差別解消法という法律を作って、障害者に対して合理的配慮をすることによって、差別を解消し、障害者の社会参加を促そうとしています。ところが、肝心の職場の合理的配慮が、公的な職場においても極めて不十分な状態です。障害を持った方々は、健常者に混じって働くことによって、精神的に深いダメージを受けることがあるようです。かえって仕事をすることによって精神的に傷ついている可能性があるのです。
 もっと障害者の研究が行われるべきです。どういう障害があり、その障害をカバーするためにはどうするかという研究です。そうして、障害があることを克服できるような体験をもっともっと共有するべきです。
 もう一つ言わせていただくと、差別とは、違いを理由に攻撃しようとして攻撃する行為だけではないということです。障害があり、その人に言っても不可能なことを強制してしまうこと、その結果相手が困惑してしまい、どうしようもない状態にされてしまい、そしてその場の人間関係の中で孤立してしまい、仲間として尊重されることが不可能だと思わせられる、そういう結果が生じることが差別なのだととらえなおすべきです。
 そうして、弱さを持っている人間に対しても仲間として尊重していく、そのためにはどうしたらよいかという知識をしっかり身につけるということが差別のない人間関係なのだと思います。そしてそれは、障害者だけでなく、仲間全体に居心地の良い空間を作るし、仲間全体を無駄に苦しめていることを排除し、全体の目的に役に立つことであることを勉強しました。報告します。


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あなたが組織・会社で浮いている理由は、まじめすぎる、責任感がありすぎるからかもしれないという、じゃあどうすればよいのという問題 [労務管理・労働環境]

*

労使紛争の事案で、労働者からの相談の中に、身に覚えのない理由で処分をされたとか懲戒解雇になりそうになっているというものが結構多いです。
労働者の話だけを聞く限り、不当処分、不当解雇だと裁判所でも判断される可能性の高い事案が多いです。つまり法律を当てはめる限りにおいては、どうも会社の違法行為が認定されそうなのです。

ただ、それは裁判をした場合の話です。あるいは労基署や労働基準局の厳しい指導がある場合ということです。専門的な知識のある弁護士を探してお金を出して依頼して裁判をするということはなかなか大変なことだと思います。解雇をされていれば、裁判に勝って賃金を後払いされるまでの生活をどうにかしなくてはなりません。必ずしも勝つとは限りませんので、借金をするのもほどほどにする必要もあるでしょう。
また、一度組織で本人が浮いてしまって、経営陣からも敵対されてしまうと、その後に裁判で処分が撤回されても、現実には会社はいづらい場所になることでしょう。査定評価や人事を巡って不安になったり、実際に理不尽な思いをするということもありそうです。

できれば、意味不明な理由で自分が処分を受けないように「予防」したいと考えることは自然なことだと思います。

ただ、この記事を読むべきである人は、「自分は組織に貢献しているから上司や経営陣から攻撃をされるはずがない」と確信している方がほとんどだと思います。大体の人は、寝耳に水で裏切られたという思いが強く、メンタル的にも大きな打撃を受けてしまいます。
こういう方々に、間接的にでも届くとよいと思って書くことにします。

組織の中で浮いてしまって上司などから攻撃されやすい人の典型的な特徴は、
・ 優秀な人
・ 無理をしてでも約束を守ろうとする責任感の強い人
・ 物事を合理的に進める人
・ 会社であれば、全員が利潤追求を最大の価値において仕事をすることが当然であり、何ら疑うことのない人です。
こんな理想的だと思われるまじめな従業員が攻撃の対象となっています。

まじめな従業員が浮く場合は、会社にも例えば以下のような問題がある場合が多いです。
・ 同族企業で経営陣の中核が固定されていて動きがない
・ あるいは田舎の自治体で議会でも行政がほとんど追及されない
・ 会社などの設立が古いため、これまでのやり方でやればやっていけるはずだと思っている
・ 利潤は目指すのだけど、それ以上に条件反射的に仲間内や長年の取引相手との人間関係の方に価値を置く
・ 現場の会議で合理性を優先して決めたことをトップが一言で覆す
・ 組織の中の有力者に忖度して、その有力者がやりづらいと感じている部下を排除するのが経営陣の仕事だと思っている
・ よく言えば上の人の立場を尊重することが何よりも優先される
こんな職場です。

だから、会社は、「まじめ従業員」から合理性や約束は守るべきだというモラルを真正面に掲げて言われるとまともに反論できません。モラルや合理性を言う従業員は、とても煙たい人間で、上司や経営者にとってその人は「自分たち」というくくりには入らない人になっていきます。以下のような場合に「まじめ従業員」と経営者の間に緊張が高まることは、はたから見ているとよくわかるのです。

例えば
・ 会議で決まったことを上司が守らない場合
・ 上司の負担を減らすために、部下の仕事を増やそうとする場合とか、
・ 納期が迫っているのに上司が前提としてやらなくてはならないことをしていないとか、
こういう場合、「まじめ従業員」は、相手が上司であろうと経営者であろうと、正々堂々と正論を述べて上司の行動を改めようとしてしまいます。それだけならばよいのですが、やや感情的な言葉を使ってしまうことも多いです。本人は当たり前のことが当たり前ではないと指摘することや、理不尽であるために行動を改めるべきだなどということは、やらなくてはならないことだと思って発言しています。しかし、言われた上司からすればかなり自分に対して厳しい態度をしていると感じてしまうようです。また、正義や論理、会社の利益を背負っていますから、声が大きくなり口調が厳しくなることを気にしなくなってしまっています。

その行動を改めろと詰め寄られた上司が、経営陣の一角(身内)だったり、あるいは経営陣が外部から招へいしてようやく来てもらった人だったりすると、経営陣はその上司が何も言わなくても(実際は愚痴をこぼしていることが多いようですけれど)、「まじめ従業員」の排除に動き出すようです。
いつしか、その「まじめ従業員」は一人リストラの対象となってしまうわけです。

こういう場合、公的な職場であっても、結局横車を押すわけですから、かなり強引に、かなりアンフェアな手口を使ってしまいます。また、着々と準備を進めて積み重ねていきます。大体はナンバー2あたりが主体となって動きます。

ナンバー2が動くと、とにかく組織に迎合して組織の秩序を保ちたいと思ってしまうことが人間の本能ですから、ある程度はまじめで公平な人であっても、ナンバー2の提案こそが正義だと思い込んでしまうようです。ここで勘違いされることが多いのは、そのナンバー2に協力してしまう人たちが、自己保身のためにナンバー2におもねるのではないということです。ナンバー2こそが組織の秩序を保とうとしていると思い、それならばそちらに従い、何としてでも「まじめ従業員」を排除しなければならないと素直に思ってしまっているようなのです。冷静に観察すると信じられないくらいのアンフェアな役割を果たしていくようです。ナンバー2が作ったシナリオを忠実に、あるいはそれ以上に実践していきます。真実ではないとわかっていながら、「まじめ従業員」の非行行為をでっちあげたりします。

いつの間にか「まじめ従業員」は、上司や部下や取引相手に対してもハラスメントをした人間だということにされてしまいます。伝達作業などの業務上必要な行為を懈怠した事実が作り上げられたり、会社のルールがあったことにされてルール違反の常習者になったりされてしまいます。正当であろうと言いがかりであろうと、上司の注意という形式的な記録が積み上げられて行きます。それが専門分野になっていくと、専門的な理由からの注意や否定評価が不当な言いがかりだということを証明することが困難になっていきます。

「まじめ従業員」はまさか自分が批判の対象、攻撃の対象になるはずがないと信じていますから、組織の動きに対して鈍感になっており、反対証拠を収集するなどの準備ができていないことがほとんどです。せめて日記だけでもつけておいてもらうと大変助かります。

紛争はかなりの労力を使います。特に外野が見過ごしがちなのは、ご本人のメンタルです。強い力の理不尽な出来事で苦しんだ時の感覚が、記録を見るたびによみがえってくるようです。裁判などが終わるまで、常に新たなストレスが加わり続けることと同じです。戦いのさなかでは、なかなかその苦しみに馴れるということは無いようです。
また、例えば不当解雇があって、裁判で勝訴したとしても、なかなか復職することは難しいです。勝ってもメンタルが回復しないケースもたくさんあります。
「まじめ従業員」がまじめなままだとすると、復職をしても同じことが繰り返される可能性が高くなることでしょう。

考えるべきだと思います。

1 まじめなあなたの職場が、誰しもが思うような普通の職場、つまり、利潤の追求を第一として、合理的な行動をすることに価値を置かれ、責任をもって取引先との約束を守り、社内の現場の合理的な意見を尊重する会社であれば、「まじめ従業員」は自然にふるまうことができるわけです。あとは過労死や家族に対するネグレクトに注意をして組織生活をしていけばよいということになるでしょう。

2 問題は「まじめ従業員」であるあなたの職場が、利潤の追求や合理的行動よりも、経営者や上司の体面を重んじ、従来の方法論にこだわって経営を行い、納期が遅れようと新しい分野に対応できないものはできない、年配の経営者には無理だからこの分野を若者にゆだねてみようという意識を持つ余地のない職場で、現場がどうしようと上司の人間関係で決定を平気で覆すような会社の場合どうするかということです。

2-1 一つは、こんな調子で利潤追求に背を向けて、保身を第一とする会社や組織は、沈みゆく船だと見切りをつけて転職をする。

2-2 もう一つは、会社の中で、自分がはみ出さないように仕事をするように切り替える。極端な「まじめ従業員」をやめるということでしょう。

どちらかでしょうね。

本来、「まじめ従業員」は、従来の労働運動の中では、「あなたは悪くない。断固戦いましょう。」と言われてきた人たちだと思います。しかし、このような「あなたは悪くない」は本当に本人のために良いことなのか、疑問がわいてきました。
もしかしたら、「まじめ従業員」は、さっさと転職をして、今度は「まじめ度」を下げる行動修正をすることによって、その後の人生においてもっと楽な会社生活を送れるかもしれないのです。トラブルを適正に教訓化できればそれはかなり実現可能性が高いようです。ところが、自分は悪くない。次の職場でも態度を改める必要がないと極端な身構えをすると、また同じ現実が待っている可能性が高いと思うのです。

どちらを選ぶかは生き方の問題ですから本人が決めることです。しかし、第三者は、適当な時期に選択肢、可能性を提案するのが親切なのではないでしょうか。

最大の問題は、「自分が組織の仲間に受け入れられない」という体験が積み重なることによって起きるメンタル不調の長期化と重篤化です。そのような危険があるのに「正しいのだから頑張れ」というのは、無責任であり、その人の人生を失望と怒りにまみれされる大変危険なことかもしれないということを考えるようになりました。

この場合も、善悪二元論、二項対立論でおおざっぱにどちらかが善で、どちらかが悪という単純な考えで人間を評価すると解決策は見えてきません。会社は確かにアンフェアな罠を張り巡らせて労働者を追い出そうとしていますから、正義感の強い人はどうしても会社に対する怒りだけが高まっていくようです。自分の正義感を満足させるために、当事者のデメリットを考えないということがあれば大変怖いことです。

最近わたしは、「あなたは正義感、責任感が強すぎたのではないか」と問題提起をすることが増えてきました。

正義感が強すぎるから、一度決めたことを勝手に覆すことはおかしいと思うでしょうし、自分が得するために部下に損をさせるような上司の行動は断固拒否することでしょう。責任感が強すぎるから納期に間に合わなくなる上司の怠慢を厳しく指摘するでしょう。しかも納期に間に合う間に合わないかのかぎりぎりの段階でもまだ動こうとしない上司に対してはいら立ちも生まれることでしょう。顔に出すなと言われても無理だと思います。大切にすべきことは、ルールであり、公平であり、目的遂行あり、合理的行動をするということなわけです。

しかし、「ちょっと待てよ。」
と、第三者は敢えて言うべきではないでしょうか。会社も極端で不合理だけれど、「まじめ従業員」も一方の極端な立場でものを考えていないかということです。

そもそも本当に、利潤追求のためには、合理性を追求し、正義や約束に従うことが絶対の方法論なのでしょうか。合理性や正義や約束を厳格に守れば、企業利益が永続的に確保されるのかということも疑ってかかる必要があるかもしれません。

高度成長期が終わるまでの労使紛争は、企業が利潤を追求するあまりに労働者の人権を侵害していたという理由からの労使紛争が主流だったと思います。むしろ、利潤追求や合理性の追求に異を唱えていたのは労働者だったわけです。

もしかしたら「まじめ従業員」は、このようなむしろオーソドックスな企業の論理に立って、逆に経営者や上司を追及してしまっているのではないかということも考えた方が良いかもしれません。もしかしたら、正義を優先して仲間の感情をかえりみない状態になっていたり、人の失敗を許せないという窮屈な感情に支配されたりしていないでしょうか。

上司や経営者の不合理な行動で労働者がイライラすることは、昔からあることです。しかし、だからと言って、そのイライラを未加工で上司や経営者にぶつけてしまえば、当然反発が来るものです。上司に限らず同僚、部下に対しては尊敬できるところを尊敬し、その人たちができないことを広い意味で許すということは、組織として動く以上どうしても必要なことなのではないかと思うのです。

<気を付けるべきこと>
まず、上司に対しても部下に対してもそうなのですが、
「怒りをぶつけない」
ということが一番大切だと思います。

次に、会社の仲間には
「弱点は必ずある
だから弱点をいかにうまくカバーするかを考えるのであって
弱点であることを責めない、怒らない」
ということも大切です。
会社員、社会人であるからできて当然だ
とは思わないことが大切でしょう。

「現実の仲間をどう動かしていけば目標に近づくか」
ということを考えるのが組織人の醍醐味です。

決定権のある人の決定をストレートにくつがえそうとしないこと
相手の意思に働きかけるときは、結論を押し付けてはだめで
「メリットデメリットを提示し
選択肢の可能性を説明すること」ということになります。
結論をストレートにごり押ししても何も結論は変わりません。

決定に責任を負うのは決定権者なのであなたが責任を持つことではないのです。

会社だけでなく家族、趣味、友人関係など、あなたのまじめさ、責任感、正義感などは、仲間を精神的に追い込んでいる可能性があります。仲間を不幸にしている可能性があるのです。そしてそれは、自分自身を不幸にしている原因かもしれません。



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「働かないおじさん問題」キャンペーンの行き着く先 もう国民はいい加減覚えよう!マスコミ、娯楽報道の果たす役割 その行く先は安心して年を取ることができなくなる労働環境 [労務管理・労働環境]



「働かないおじさん問題」という問題をマスコミは盛んにあおっているようです。それは、ベテランの年配社員が一日中ろくに仕事もしないでパソコンを見て遊んでいたり、新聞を見ていたりするだけなのに高給をもらっていて、まじめに働く若者は働かないおじさんに給料を払うために働いているようで不合理だと怒っている。
というものです。

「またか」という思いでした。

実際はありもしないのに、マスコミがどこの誰だか変わらない人たちの「多くの意見というような印象」を報道して、多くの意見として不平等だという声を上げたような形となり、世論が形成されたような体裁を整えて、国の制度を変えて、結局みんなが損をしてしまう。
という現象はこれまでも繰り返されてきました。

一つには高齢者医療の有料化でした。
この時は、その多数意見の外形つくりを戦争中から国策に積極的に関与していた漫才興行会社を使って行いました。「老人たちは、病気でもないのに病院にかかり、病院の待合室がサロン隣老人たちの社交場になっている。無駄な医療費が大量に浪費されているために国の財政が圧迫されている。」ということを宣伝しました。島田紳助や桂文珍が盛んにこのネタをテレビでやっていました。同じ興業会社所属です。ギャグのネタですから誰からも直接批判される状況を作らなくてすむので、一方的に偏った意見を繰り返し流していくことができるというメディア戦略でした。まだインターネットが普及していないので、テレビの威力は絶大でした。紳助は後にテレビで老人たちに謝罪たのを目撃しましたが、老人医療費有料化になった後でした。老人医療費が有料化された後は、老人いじりのネタはぱったりとやられなくなりました。

この漫才だけが原因とは言いませんが、世論は老人医療費の無料をやめて本人にもある程度の負担をさせるべきだという流れになり、結局老人医療費が有料化されました。その結果はどうでしょう。確かに有料化によって高齢者が受診を自己抑制するようになりました。一時的には医療費が減少しました。しかしその結果、初期の治療をしないために病気は悪化するようになり、悪化してから病院を受診するようになりました。このため老人医療費は一時期的には抑制したのですが、その後抑制した分を取り返しておつりがくるように高額になってゆきました。早期発見早期治療や予防は医療費は低いのです。早期治療をしなければ、当然病気は悪化し、合併症も出てきます。早期治療を抑制したために、かえって高額の医療費がかかるようになりました。目先の利益を追及して、かえって高額の税金負担となったということです。

何よりの損失は、「安心して老いる」ということが難しくなったということです。

実際に老人になってみると、体のあちこちに不具合が出ることはいかんともしがたいことです。診察券ばかりが増えていきます。「痛み」は治療をするべきだという体のサインですから、痛みには早め早めに手当てをしなくてはなりません。また、医療機関で必要のない投薬などはしません。おおざっぱな話をすれば、デマを流して世論を作り上げ、近視眼的な政策を実現してしまったということです。

年金問題もその最たるものです。
世代間の不公平感ということはいつの世にもあるものですが、これを利用して、若者の不満を代弁するというマスコミが不公平を喧伝して、受給する年金額が切り下げられて行きました。国民年金料を何のために払い続けてきたのかわからない程度の金額の保険金しか支給されません。長年支払い続けて、ある時金額が切り下げられるのですから騙されたようなものです。
またも「安心して老いる」ということができなくなりました。また、老後いくら必要だということをあおっていますから、心配性の人たちは真に受けて、老後の資金のための方法にお金を使うようになっています。

女性の働く権利の問題も似たようなものですね。
昭和の後半に、労働基準法の改正と雇用機会均等法の成立が同時に進められました。すべての女性が「働いて責任ある部署について高収入が欲しいものだ」という単一の価値観を持っていることを前提として、女性がそのような処遇を受けない原因は、労働基準法が深夜労働を禁止し、生理休暇を取りやすく定めているからだということが標的になりました。ずいぶん様々な女性の方々が、女性の地位が低いのは深夜労働の禁止や生理休暇が原因で、これさえなければもっと出世するのだということを言っていました。
結局、深夜労働禁止が廃止され女性も深夜労働をさせても良いことになりましたし、生理休暇の規定は改正されてしまいました。
その結果、40年たった現在、女性の社会進出はどうなったでしょうか。国は男女雇用機会均等室を設置したのですが、そのうち男女参画局の一部署となり、審議会も開かれなくなったようです。一連の結果は、単に女性の権利、女性の保護が削られただけではないかと思います。未だに日弁連でさえ、正規とは別に女性枠で副会長ポストを用意するかというような議論をしているのです。つまり、男女雇用機会均等法から40年近くたった現在も女性は下駄を履かせなければ男性と対等にはならない存在だとされているのです。

だいたい深夜労働が禁止されているから女性が出世しない職場なんて極めて限られた職場しかないわけです。これを理由として女性が社会進出できないなんてことを、今思うとよく恥ずかしくもなく主張していたなと思うんです。当時私は学生でしたが、まっすぐに法案について反対しているあまり、普通に考えると恥ずかしく空々しいことを言っているということに気が付きませんでした。女性の深夜労働禁止を撤廃するための方便として、女性の社会進出という空手形が発行されたということでした。

現代の男女参画の国の政策については、昨日アップしましたので、そちらをご参照ください。本記事で指摘している手法をいかんなく発揮しています。

このように、娯楽の話題提供ではなく、制度改悪のキャンペーンだと怪しむためのポイントは
・ 統計的な根拠ではなく、どこの誰だかわからない人が、どんな資格で言っているのかも不明のまま、さも「自分たち」全員が不平等に怒っているということを情緒的にアッピールする。
・ その「ありそうな」不平等が実際にあるのかどうかもわからない。
・ 漫才だったり、ワイドショーだったり、ネットだったり、批判を受けにくい方法で、いつの間にか国民の間で広く承認されたかのような外観が作り出されている。
・ その結果、表立って反対する人たちは声を出しずらくなる。
・ 誰かが得する結果となり、多数が損をする結果となる。
こんな感じです。


今回の「働かないおじさん問題」も全く同様の構造だと思います。
今の日本の状況で、どこの会社で、働かなくても高給をもらっている労働者がいるのでしょうか。天下りの人は知りませんが、普通のたたき上げの労働者でそのように四六時中パソコンを見て遊んでいる50代、60代の社員がいるとは思われません。
(パワハラの一種で仕事を取り上げられて、自主退職を促されている場合はあります)

昭和の教育テレビの「働くおじさん」をもじったキャンペーンですので、おそらく広告代理店の戦略なのでしょうけれど、これを「働かないおじさん問題」としてテレビや取材をしないインターネットニュースの配信会社がお金をもらって取り上げれば、誰も反論できません。私のこのブログで反論していてもとても影響力はありませんから、一方的に偏った情報を流し続けることができます。テレビで面白おかしく取り上げれば、笑っているうちに、そう言う問題があるのかと先入観を持たされてしまいます。
意図を持ったキャンペーンであることに気が付かないうちに、正義感の強い国民ほど「何とか問題を解消しなくてはならない」という気持ちにさせられてしまうわけです。

言われている年代の中高年は、誰も自分のことだと思わないし、現実にはいない人なのだから、俺は働いているぞとムキになって反論する人もいないでしょう。そもそも働いている中高年は気が付きにくい時間、方法で宣伝されているようです。
言っているとされる若者は自分の賃金が低いものですから、「そんなことがあれば」不平等だという怒りが沸き上がることはイメージしやすいことです。自分の処遇が低いことの不満が、仮想敵である働かないおじさんに対する怒りにすり替えられるわけです。

誰が得してだれが損をするのでしょう。働かないおじさん問題が目指しているのはどのような制度改革なのでしょう。

端的に言えば、年功賃金の消滅を狙っているということと、極端に言えば労働の対価性のない諸手当のカットを狙っているものと思います。つまり、すべての労働者を派遣労働者にするようなそういう発想になっている危険があるということです。

その理論的根拠として、同一労働同一賃金の原則が悪用されています。

極端に言えば、働いた分量に応じて報酬をもらうべきであり、その他の要素、家族手当、扶養手当、住宅手当、交通手当は個人の事情だから、もらえる人ともらえない人が出るのは不公平だ。だからそんな手当はカットされるべきだ。
「労働に応じた賃金にするべきだ。」という主張になるようです。

また、これまでの歴史を見た場合、「平等」は実現するかもしれません。しかし、その結果は実質的な賃下げです。

働きに応じて賃金を払うということは、平等だから一見良いことを言っているなと感じることと思います。しかし、働きに応じた賃金なんてフィクションです。そもそもどうやって働いた分量をお金に換算できるのでしょうか。これは無理な話です。長時間働いたのに、働く時間が少ない人という指標はあるでしょうけれど、労働の内容は全く違います。同じ質の労働ということはそもそもフィクションです。「働きに応じて」の金額なんて、算出しようがないわけです。

また、誰がよく働いていて、誰が遊んでいるということを決める判断権者は誰でしょうか。その評価には必ず労働者の不満と、上司の恣意的な評価が入ってしまいます。

結局は、使用者が算定基礎時給を一方的に決めて、低いレベルでの平等が図られるということはミエミエではないでしょうか。平等を求めたために、賃下げが起こる可能性があるということを自覚するべきです。

また、始終誰かから監視されている、評価されていると思って働いくことになると思います。そんなプレッシャーの中でコストパフォーマンスを発揮できる人はどれだけいるでしょうか。おそらく失点をしないように、余計なことをしないで言われたことだけをするという労働姿勢が、これまで以上に進んでいくことでしょう。

特に中高年者の間では、若者と同じラインに立って評価を受けることになれば、体力的な事情もあって不安を覚えない中高年者一歩手前の人たちは多いはずです。

そこまで考えなくてよいのかもしれませんが、ますます労働者のやる気は無くなっていくと思います。

賃金とは何かということについては、学問的には、労働の対価であると同時に生活保障である、あるいは賃金の額によって良質な労働力を獲得できる要素になるという3要素があるということは基礎の基礎です。労働の対価性だけを考えて賃金の平等を考える考え方は法律にも、経済学にも、政策学にもありません。

そもそもの問題は、かかるお金に比べて賃金が低いということから出発するべきだと私は思います。例えば十分な賃金が支給されていて、手当の支給を受けなくても十分に家族を養うことができるならば、手当なんていらないわけです。ところが、現状では十分な賃金をもらっている人が少ない、特に基本給は賞与や退職金の絡みで低く抑えられているということが実情ではないでしょうか。ようやく生活保障的な手当てで家族が生活しているということが多いと感じています。生活保障的な手当てがカットされることは労働者にとっては大打撃です。賃金の生活保障という性格に照らすと、扶養を要する人と暮らしている人に扶養手当を払うことは当然のことなのです。

今回の「働かないおじさん問題」キャンペーンは、多くの労働者が派遣労働者のような待遇に切り替わっていくというか、実際に派遣労働者に切り替わっていくということが究極の着地点として想定されていると感じられます。

かなり悲観的に、かなり懐疑的に、いろいろ考えてしまいました。しかし、これまでの改悪とあまりにも重なっていて、「またか」という思いが強くあります。この最初の段階で疑問の声を上げていかないと、単純な感情に訴えかける方向で世論が形成されていくということがこれまでの教訓です。

もし、パソコンで遊んで新聞を読んで高給をもらっているように部下から見える人がいるならば、日本の国益のためにご自分が仕事をしていることをくれぐれもアッピールしていただきたいと願うのはこういう次第です。


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パワハラについての誤解 3 パワハラ防止をするときに、厚生労働省の言うように「相手が平均労働者だったら苦痛だろうか」と考えることは、百害あって一利なしということ 防止を本気で考える企業はどう考えるべきか 「業務上必要かつ相当の範囲」についても無視することをお勧めする理由 [労務管理・労働環境]

厚生労働省のパワハラ解説で、パワハラの三要素なるものがあげられています。これが「結局何がパワハラなのか」ということをわかりにくくしている根本原因です。私が読んでもわからないだろうなと感じます。

特に三番目の要素である「労働者の就業環境が 害される」という要素の解説として、
1 当該言動により労働者が身体的又は精神的に苦痛を与えられ、労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じる等当該労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じること
2 この判断に当たっては、「平均的な労働者の感じ方」、すなわち、 同様の状況で当該言動を受けた場合に、社会一般の労働者が、就業する上で看過できない程度の支障が生じたと感じるような言動であるかどうかを基準とすることが適当
等と記載されています。

看過できないかどうかを判断しなくてはならないならば、なかなかパワハラだという認定はできなくなってしまうでしょう。また、それは、「社会一般の労働者が」看過できないと感じるような言動であるかどうかということになってしまうと、ますます直ちに判断することができなくなります。結局会社の中の判断者が、看過できないと言えばパワハラになり、一般的には看過できないとまでは言えないと考えるとパワハラにならなくなってしまいます。これでは基準としては役に立ちません。

このような厚生労働省の謎を深めてしまう表現は、労災認定の判断に引きずられてしまっているからなのです。労災認定がなされると、病院代や休業した分減額された賃金の補償、さらには障害補償や遺族年金など莫大な金額の保険給付をしなければなりません。また、精神的な疾患は、何が原因かよくわからないことがあります。そのため、もともと弱かった人に労災保険を払わないための行政基準として、国は、平均的労働者を基準にパワハラなどの過重労働があったかどうかを判断することにしているわけです。私はこの考え方は不正確だと思っていますが、今日は説明を割愛します。

労災認定とするかしないかの判断基準をパワハラ防止の解説にまで持ち込んでしまったということです。

しかし、パワハラ防止は、労災防止だけが目的ではありません。
・ 従業員のモチベーションをいたずらに壊さないで生産性を上げること
・ 従業員が萎縮したり反発したりして、自分の頭で考えることができなくなってしまうような事態を避けて生産性を上げること
という労務管理上、現代日本では不可欠な政策なのです。企業担当者としてはパワハラ上司に注意したくてもしにくいという実情もあるので、できるだけ法律があることをいいことにパワハラを失くしたいということが、客観的には切実な必要性です。

さらには、看過しがたいかどうか、一般的な労働者はどう考えるかという、解決不能な判断を企業担当者に与えてしまい、企業担当者が上司に甘く判断した結果、例えば従業員が精神疾患にかかって長期休業を余儀なくされた場合、企業が看過しがたいとは思わなかった、一般的な労働者はパワハラだと考えないと思ったと主張しても、裁判所が、企業の責任だと認定してしまったら取り返しのつかないことになってしまいます。

莫大な損害賠償を支払わなくてはならなくなったり、取引相手や国民からの信用が低下するだけでなく、気が付いたら他の従業員の優秀な人間だけいつの間にか退職していた、残ったのは自分の頭で考えずに、上司の指示待ちをして、「よけいなことをしない」要領の良い従業員だけだったということになってしまいかねません。

これらの企業の損害を防止することも大切ですが、従業員のモチベーションを高めて、自発的な労働をしてもらうことによって生産性を向上させるというプラスの目的からすると、
上司の行為によって
相手の従業員が、萎縮したり、反発したりをするような指導は
パワハラだとして、指導方法の改善を指導することが一番だと思います。

大体、上司が自分の部下の性格をわからないということは考えにくいわけです。こんなことを言ったらこういう反応をするだろうなということを知らないで指導はできません。どうしても従業員の個性を無視して一律に扱うというなら生産性を上げるという目的ではなく、自分が考えるのを面倒くさがっているという上司の利益の問題になってしまいます。
わざわざ平均労働者を持ち出すのは、企業の事情ではなく、国の事情なのでしょう。

国の基準がどうあれ、企業独自のパワハラ防止基準を定めて、より上の基準を求めるべきだと思います。どうして国は、このような観点に立って必要な方法でパワハラ防止を徹底しなかったというと、中小企業にも義務を課したため、確実に守るべき内容に限定したと、考えるべきです。

ついでに言うと、パワハラ3要素の2番目も問題があります。
2 業務上必要かつ相当な範囲を超えた言動 として
社会通念に照らし、当該言動が明らかに当該事業主の業務上必要性がない、又はその態様が相当でないもの
との記載があります。

 何が社会通念かもわかりにくいですし、業務上の必要性がない又はその態様が相当でないということもわかりにくいです。一般には、業務上の必要性のない言動をしませんからね。態様の相当性の問題で出てくる決まり文句は、「昔はもっと厳しかった」です。大体が自分がやられたように部下にやっているわけです。これでは、よほど異常な行動でなければパワハラにはなりません。それでも、裁判所では莫大な損害賠償を企業に命じることがありうるのです。

部下が萎縮したり、反発したりするような言動は、余裕のある企業であれば、それは、業務に必要がないし態様が相当ではないと判断するべきですし、就労環境を悪化させるとするべきだと思います。

だからと言って直ちに処分をするなど上司を切り捨てるのではなく、改善を指導するということなのです。それがまじめに企業の業績を上げる思考だと思うのですが、国はそうは考えていないことになります。やはり労災認定がトラウマになっているのでしょうか。

うちはそんなに余裕がないよ、パワハラでもその場の必要な指示をしてしまわないとならないよ。研修をしたり、労務管理の指導を受けたりする費用もないし。
という場合には、指導後のフォローをきちんとやるということです。
従業員に、きつくいって悪かったと、他の従業員の前で謝り、憎くて言っていたわけではなく、もしかしたらいい方がわからないのかもしれない。あなたの仕事ぶりは評価しているので、勘弁してほしいと告げることなのでしょう。

そんなことを言いたくないなら、今回の三部作をよく読んで、積極的な目的をもってパワハラ防止に取り組むしかありません。

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パワハラについての誤解2 物に当たることや乱暴に事務用品を扱うということがパワハラになるのか [労務管理・労働環境]


前回の記事が思った以上にお読みいただけましたので、調子に乗って続編を書いています。

前回のおさらいを述べますと、必ずしも部下に身体的な痛みを与えようとしなくても、その時の具体的状況からパワハラかどうかは検討するべきで、特に会社のパワハラを防止して生産を上げたいと思った場合は、部下が萎縮したり反発するような行為は会社としては辞めさせて、もっと効率の良い指導方法を指導しなくてはならないということでした。だから、同じ力で肩をたたいても、パワハラになる場合もあるし、ならない場合もあるということを言いました。

その一番肝心な部分をご理解されたか否かということで、今回は冒頭に事例問題を提示しましょう。

<例題>
部下が仕事で初歩的なミスをしました。上司は、そのことに気が付いたとたん、愚痴も部下批判も言葉ではせずに、眉間にしわを寄せて不機嫌な表情をして、重量が5kgある穴あけパンチをぞんざいに扱って資料に穴をあけ、その後音が出るほど乱暴に失敗した部下の机の隣の机の上に置きました。

上司の行為はパワハラに該当するとして、会社としては改善を促してよいでしょうか。

<問題の所在>
厚生労働省の典型例の説明では、身体的な暴力に該当する例として
① 殴打、足蹴りを行う ② 相手に物を投げつける、
を上げています。
該当しない例として
① 誤ってぶつかる、を上げています。
例題のケースでは、典型例としての身体的暴力には該当しないようです。

もし、穴あけパンチを使う目的もないのに机から取り上げて、意図的に床に投げつければ、これは明らかな威嚇行為であり、「間接暴力」として、会社としては理屈抜きにやめさせるべきだと思います。

では、穴あけパンチで書類に穴をあけてファイリングするという用事はあったことはあったけれど、乱暴に扱ったために穴あけパンチを机に戻すときに比較的大きな音が出たという場合はどうでしょう。

これは、「暴行」だと認定することはなかなか難しいことです。間接暴力に該当するかどうかも難しいと思います。

それでも、パワハラに該当する可能性のある行為です。少なくとも、このような事情を会社が把握したならば、是正を指導するべきです。
むしろ、これまでパワハラ防止義務が企業に課されていなかった時代は、企業としては、このような乱暴な上司従業員に対して、なかなか指導をすることができなかった、二の足を踏む状態だったようです。しかし、今後は防止義務が課させられたので、「こういうことは防止するように国から言われている」という言い方で指導をすることができるようになったと思うべきでしょう。

乱暴な上司従業員と会社の総務など担当者の想定問答
担当者「大きな穴あけパンチを○○さんの隣の机に勢いよく置いたということですが、これは○○さんやほかの従業員が委縮してしまうので、パワハラになってしまう可能性があるので、ご注意ください。」
乱暴上司「え、パワハラですか。私は暴行をふるったわけではないですし、脅かそうと思ったわけではありませんよ。多少ガサツなところはあったかもしれませんが。」
担当者「それはわかっています。でもどうやら、パワハラって、部下が萎縮したり反発したりするような行為をいうようなのですよ。そうはいっても、あなたを処分するとかという話ではありませんから、心配しないでください。あくまでも、大きな音がするように重量のあるものを机に置かないで下さいという業務指示なんです。こういう業務指示をしないと、こちらも注意を受けてしまうので、ご理解ください。」

別バージョン
乱暴上司「私はそんなに勢いよく置いたかなあ。どのくらいが『勢いよく』ということなんだ。」
担当者「やっぱり、相手が萎縮するような置き方がだめだということなのです。処分をするわけではないのであなたの方で『勢いよく』ではないとおっしゃるならば、本当にそうなのだと思います。見ていた人が委縮したと言っているようなので、くれぐれも相手を委縮させるような行動にお気を付けください。」
乱暴上司「見ていたというのは誰なんですか。」
担当者「それは言ってはダメなことになっているようなので、ご不快の段は申し訳ありません。くれもぐれもあなたの行為を認定しているわけではなく、今後委縮されそうなことは避けてください。ということでご理解お願いいたします。」

こんな感じでしょうかね。会社の担当の方が、法律が変わったことを良いことに、今まで言えなかったことを、「言わざるを得ない。」という言い訳をしながら言うようにするということでよいのだと思います。責任は上手に国に押し付けてください。ただ、最終的には経営トップが、断固パワハラを失くして従業員のモチベーションを下げることをしないということが一番大切です。

だから厚生労働省の典型的な6類型
1 身体的攻撃(暴行、傷害)
2 精神的攻撃(脅迫・名誉棄損・侮辱・ひどい暴言)
3 人間関係からの切り離し(隔離・仲間外し・無視)
4 過大な要求 (業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制・仕事 の妨害)
5 過小な要求 (業務上の合理性なく能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや仕事を与えないこと)
6 個の侵害 (私的なことに過度に立ち入ること)

このどれに当たるかということを吟味する必要はないのです。あえて言えば穴あけパンチの件は、2の精神的攻撃に該当するのですが、解説の脅迫にも、名誉棄損にも、侮辱にも当たらないと思います。ただ、あえて言えば、侮辱が一番近いということになると思います。乱暴な上司が、失敗した部下を、その人の席の近くで大きな物音を出しても構わない人間だということを同僚の前で表明したということですから。

しかし、そのような分類をしようとすると、かえってわからなくなったり、パワハラであると言えずに、改善のチャンスを逃してしまうことになります。これは、会社にとって回復しがたい損失になる可能性があるわけです。

 「同じことを取引先に対してやれるのか」という基準もよいかもしれませんね。取引先の担当者の発言に腹が立ったら、重量物をその担当者の近くの床に乱暴に置くようなことをその上司はするのかということですよね。

かえって自分のところの従業員は、今後末永く会社のためにパフォーマンスを発揮してもらわなくてはならないのですから、取引先よりも大事に扱わなければならないと考えることはおかしなことではないと思います。


* 今回の記事は前回の記事と合わせてお読みいただいた方がよろしいと思われます。

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パワハラの誤解1 暴力がなぜパワハラとなるのかを理解しないと、「どの程度の暴力ならば許されるか」等という馬鹿な議論が始まる。パワハラはどうしてしてはいけないのかという基本を考える。 [労務管理・労働環境]


パワハラ防止義務が、今年から中小企業にも課せられました。何を防止すればよいのか、実際のところよくわからないという人もいらっしゃいます。実はこういう方は本気でパワハラを防止しようとしている人です。厚生労働省のチラシを見て、うちは大丈夫などと思っている会社こそ注意をする必要があります。私が読んでも厚生労働省のチラシは、最低限度のことしか書いてなくて、実際企業として何に目を光らせればよいか、イマイチよくわからないと感じることが正解だと思うからです。

こういう場合、考える順番として、なぜパワハラを防止しなければならないのかということから考えることが効率の良い考え方です。

この場合、国の思惑と企業の思惑は別のところにあります。しかし、結局はやることは一緒になるので、両方考えてみましょう。

1 労働者の精神的健康 
国の思惑は、働き方改革の一環として、労働者の働く環境を整えるということが第一です。しかし、昨今、パワハラなどによるうつ病の増加が、労災補償の財政を圧迫しており、財政的観点からもパワハラによる精神損害の被害を防止することが求められているのです。それができれば十分だというわけにはいきませんが、労働者の健康、特に精神的な健康を害さないためにパワーハラスメント防止するということは基本的な視点です。

特に自死や長期休業に至るようなパワハラは絶対に起こしてはなりません。
このような観点からは、労働者の立場でパワハラ問題を取り組む人間から、企業は話を聞くべきです。会社にとって厳しい考え方を知ることは、実際に事件が起きて裁判になる場合という現実を想定することができますし、そのためには事件を起こさないことが肝心だということをはっきりと認識することができます。
但し、あまり極端な考え方を持つ人の話は参考になりません。

2 会社の利益を害すること

1)パワハラが起きて広く知られてしまうと、会社にとっては大きなダメージとなります。
・ 莫大な損害賠償の出費
・ 労基署の関心を集めてしまう
・ 報道をされることによる企業イメージの低下、株価や売り上げの低下
・ 従業員のモチベーションが下がる
この辺りまではよく言われていることです。

2)パワハラが公にならなくても企業損害は想定されます。
・ 理不尽な叱責(理由がない叱責、一方的な評価、人格を否定する表現等)は、それをされた従業員だけでなく、それを聞いている従業員にとっても、会社に対する帰属意識がなくなります。「自分が所属する会社のために頑張ろう」という人間として当たり前の感情が消えてなくなってしまいます。
・ 特に理不尽な叱責がなされると、従業員は防御の姿勢に入ってしまいます。「私が悪いわけではない。」等という言い訳を考えることに気が向いてしまって、自分がどう改善すればよいのかということを考えようとしなくなるということが起きてしまいます。このため、何度同じことを言っても改善がなされないということが起きてしまいます。
・ 頑張っても報われないということを知らされてしまうと、頑張ることが馬鹿らしくなります。表面を取り繕うこと、つじつまを合わせることだけを習熟していきます。
・ 自分の頭で考えて行動することによって叱責をされてしまうと、叱責されないように言われたことだけをするようになってしまいます。叱責されないということが会社での最大の目標になってしまいます。

3)なぜ、従業員が傷つくかを考えましょう
人間は、会社をはじめとして群れの中に所属すると、無意識に、無自覚に、会社の秩序を維持するための貢献しようという気持ちになってしまいます。この秩序は、社訓などで張り出されるものではなく、上司が作り出す秩序に参加しようという意識が生まれるということです。
 もっと簡単に言うと、上司から自分の労苦をねぎらってもらいたいし、自分の努力を評価してほしいという意識を持っているのです。最低限、公平に扱ってくれるだろう、仲間の人間として尊重してくれるだろうと期待をするわけです。
 ここでパワハラを受けるということは、最も正当な評価を受けたい人から不当評価を受けて、仲間として扱わないというメッセージを受けることですから、カウンター攻撃を受け、大きな精神的ダメージを受けてしまいます。
 つまり、素朴な人間、会社としての秩序作りに無意識に貢献しようとしているまじめな人間ほどパワハラで傷つくということは大切な事実です。

また、パワハラを受けて精神疾患になったり自死したりする人たちは、そんな無理筋の上司の指示にもきちんと対応しようと思ってしまうまじめな人間たちですし、決められたことはやらなければならないという責任感の強い人たちであり、頑張れば何とか出来てしまう人たちなのです。そうでなければ、悩んだりしないと思いませんか。私ならできない業務指示を受けたら、適当にやってみてできませんでしたと悪びれないで報告するだけでしょう。

パワハラは、形式的な目標を達成するために、無理を命令し、できないと叱責するということが典型的形態です。上からの目標設定を遂行しようとして無理を部下に押し付けるという具合に起きることが多いです。

そういうパワハラで会社から離れていく人間は、まじめで、責任感があって、能力がある誠実な人間ばかりなのです。
企業秩序なんて興味が無いという人間は、言われたことをやらなければならないとも思いませんので、パワハラを受けても受け流すことができてしまいます。いつ辞めてもよいやという考えがあるからパワハラなんてそれほど気にならないのです。そういう人間だけが会社に残るというのがパワハラです。

私は、会社にとって大変恐ろしいことだと思います。

3 暴力はなぜいけないのか。問題提起。

暴力はなぜいけないのか。
この問いに対してどうお答えになるでしょう。
「ダメなものはダメ」
「暴力はいけないことだということに理屈はいらない。」

私はそれも正解だと思っています。

それではどこからがやってはいけない暴力なのでしょうか。

注意しながら、少し強めに肩をもむ行為はどうでしょうか。
自分の片手で真正面から相手の肩を押す行為はどうでしょうか。
袖口を引っ張る行為はどうでしょうか。

励ますにしてはやや乱暴に背中をたたく行為はどうでしょうか。

それらの行為が、叱責することに伴って行われる場合と
部下が手柄を立てたときに賛辞を述べるときに行ったので変わるでしょうか。

4 パワハラになる基準の考え方

なぜ、パワハラを防止する必要があるか。
労働者の健康を害さないため
会社に損害を与えないため
ということから考えていけばよいです。

それをされた労働者が、反射的に防御反応に入り、萎縮したり反発したりすれば、様々な損害が企業や労働者に生じてしまいます。
それは、本能的に従いたいと思っている上司からカウンターを受けるからでした。

そうだとすれば、それをされた労働者にとって、その行為によって自分が仲間として尊重されていないと感じる行為をパワハラとしてさせないようにするべきなのです。

肝心なことは上司が、悪意がなかったとか、攻撃的な気持ちがなかったとか、不当な評価をしたつもりはなかったとか、そういう上司の気持ちはどうでもよいということです。あくまでも相手がどう思うかということです。

次に、労働者は強い、弱い、感じやすい、感じにくいなど様々な性格をしています。誰を基準として、仲間扱いをしていないと感じるかを判断するべきかということです。落とし穴は厚生労働省のチラシにありました。「平均的労働者を基準とする。」ということを言っています。私はこれはどうかと思うのです。

平均的労働者という労働者はいませんから、結局は判断する人の主観に最終的にはゆだねることになります。例えば労災や損害賠償で、裁判所が「平均的労働者ならばそこまで傷つかないはずだから、パワハラではない。」と言ってくれれば会社としてはよいのでしょうか。しかし、そういってくれるかどうかなんて、「平均的労働者がどう考えるか」ということを考えるのと同じでふたを開けてみないとわからないことです。

そもそも、会社の中でパワハラを防止するための考えです。上司が部下の性格をわからないで叱責していたなんて言い訳にならないじゃないですか。そんなことをわからないで上司は務まらないわけです。こういう当たり前の現実を、どうも厚生労働省はよくご存じではないようです。

病的な悲観的考えを持つ場合や、被害意識で仕事ができない場合を除いて、その言われた人がどう思うかということを基準に考えるべきだと私は思います。
仮に国の言う通り平均的労働者を基準にするとするならば、上司の叱責の後で、平均的に考えることができる労働者の一人が、必ずフォローをする仕組みを作っておくべきです。言われている本人は、自分を正当に評価してほしい、仲間として尊重してほしいと思っている当人からのカウンター攻撃を受けていますから、言葉を客観的に評価できる状態にはありません。だから第三者のフォローがどうしても必要なのです。

会社にとって必要な人材が流出したり、コストパフォーマンスを発揮できなくなることを防ぐためにという観点から、具体的に考えるべきです。間違っても、「平均的労働者」をパワハラ上司に都合よく考えて、このくらいならまだ「平均的労働者」ならば精神的ダメージがないはずだという風に使ってはなりません。
それでは、企業にとってパワハラ防止の意味が半減するからです。

5 3の答え合わせ

3の答え合わせは、上司ならば、具体的な部下が、それをされたことでどう思うか厳しく考えてみて答えを出さなければなりません。叱責をしながら行うことはほとんどが、相手は侮辱された行為だと思うでしょう。同性であろうと異性であろうと、相手の体に触れるということ自体が行うべきことではないということです。
賛辞の際にこそ、自分と相手との関係にふさわしい行動を心掛けるべきかもしれません。賛辞だからと言って、相手が不快に思うことをしてしまったのでは、部下は報酬体験を十分に体験することができません。また、もう一度という気持ちになることが弱くなるということを考えるべきです。

但し、パワハラであれば処分するという硬直な扱いも企業の実情には合わないように感じています。特に上司が善意である場合は、粘り強く部下の心情を説明する場面も出てくるでしょう。会社が処分するよりも、上司が部下と和解をする方が双方にとってもよい場合があります。会社としては、硬直な姿勢を取らずに、双方とよく話し合って、自分が尊重されているということを実感を持てる職場にするということが、パワハラ防止義務の根幹であると私は思います。

暴力は、それをされることによって、精神的打撃が大きいということに注目しなければなりません。自分の健康や痛みのない状態を尊重されないということは、自分という存在はそのようなことを尊重されなくてもよい存在だ、価値の低い存在だ、いつ追放されてもおかしくない存在だという強烈なメッセージになります。同僚の前の暴力は、それを第三者に表明されてしまうことですから、顔をつぶされてしまいます。もはや対等の立場で同僚と接することができないという絶望感を抱かせてしまいます。

仲間にとって価値の軽い人間だという態度表明が暴力ですから、暴力の重さとか場面にかかわらず、深刻な精神的ダメージを与える行為。だから絶対に行ってはならないということが正解だと思います。

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支援者の「支援があるために」紛争をやめられなくなってしまった事例 職場内セクハラ事例 [労務管理・労働環境]


離婚事例と「支援者の役割」ということは、これまでさんざん書いていますので、それ以外の事例についてご紹介しましょう。いつもの通り、本当によく似た複数の事件をミックスした架空事例です。大事なこと以外はだいぶ創作が入っています。

職場のセクハラを被害者が訴えた事例です。

女性職員が上司に一方的に好意を持たれてしまって、最初は自分ではうまくあしらっていたつもりでしたが、次第にしつこくセクハラ行為が行われるようになった。同僚に相談したところ、きっぱりとした態度を取りなさいとアドバイスを受けたので、女性職員は上司を用心するようになり、適当にあしらうことをせずにきっぱりと誘い等を拒否する態度になりました。上司はその態度変化に異様に立腹し、数々の嫌がらせをするようになったという事例です。

女性職員は適応障害の診断を受けて、休職をしました。上司は転勤させられて女性職員は職場復帰したのですが、通院は継続し、治癒の見通しが不明だという状態でした。

この女性は、私のところに来る前に、私以外の弁護士を代理人として損害賠償の裁判を行っていましたが、敗訴しています。訴訟記録を拝見したのですが、弁護士はとても熱心に頑張っておられました。ただ、裁判官の「独自の社会常識」に切り込むことができないために敗訴になったという色彩もあり、確かにすっきりしない判決でした。

敗訴判決の後、女性を支援する人たちが、ネットで労災関連の弁護士で検索して私のところにその女性がいくことを強く勧めたそうです。職場の外の人間を巻き込んで大きな問題になっていたようです。
ただ、裁判がうまくいかなかったという結果がすでに出ているのですから、いくら私でもそのあとのプランがなかなか思い浮かびません。そもそも「いくら私でも」というほどの者でもありませんし・・・。

しかし、この女性を支援する人たちは結構多くいたようで、「裁判に負けたことであきらめないで、最後まで戦おう。私たちはあなたを支援し続ける。」、場合によっては弁護士費用もカンパするみたいな勢いで女性を「励ましていた」ようでした。

この事例は、励ましたくなる条件もそろっていました。

まず女性の容姿です。女性は、間違いなく美人ですが、派手な顔立ちではなく、冷徹な美人タイプというわけではありません。どちらかというと童顔で、性格も押しつけがましくないタイプでした。一般的な男性ならば本能的に「守ってあげたくなる」容姿だったと思います。おそらく私も相談者としてではなく、街ですれ違ったら振り返ってみてしまうような魅力があった顔立ちでした。これが、事業場を超えて支援者が存在した大きな理由だと思います。

一方パワハラセクハラ上司は、小太りで、人とコミュニケーションをとることは苦手なタイプで、髪型や服装、体形も「だらしない(清潔感がない)」という形容がなされるような外見だったようです。

その男が、女性にちょっかいを出そうとしたし、報復で異常な嫌がらせをしたということですから、周囲の人々の男性上司に対しての報復感情が高まっていったという、そんな感じだったようです。なるほど、支援をしている人たちにしてみても納得のゆかない判決が出ても振り上げたこぶしを下ろしにくいということだったのだと思います。

最初の裁判をこの女性がどこまで主体的に行っていたのかはわかりませんが、裁判の後の私への来訪は、明らかに他人から言われてきたような感じでした。
ただ、女性としては、「せっかく自分を支援してくれている人たちがいるのに、自分の一存で上司との紛争を終わりにするとは言いにくい。」という感情も感じられました。

私は「それはお困りでしょうね。」と思いました。話をいったん、ご本人の精神科治療の様子について伺うことにしました。訴訟や労災申請など、結果が出るまで時間がかかるということだけで、それだけで精神状態を圧迫され、悪化し、補償どころの問題ではなくなる危険もあるからです。

主治医は、知る人ぞ知る名医でした。一計を案じ、この主治医の先生に私は報告書を作成し提出しました。現在の彼女の置かれている法的立場、これから考えられる法的手続きのメリットとデメリット、見通しと準備、精神的負担などをできる限り詳細に記載して彼女から主治医に提出してもらい主治医としての意見を聞いてもらうことにしました。

主治医の先生のお話は、予想通り、現在治療が奏功して、治癒しかけている状態である。精神的負担の大きな行動は避けることが本人の今後にとって望ましいと主治医の立場での見解をいただきました。

これで周囲の応援団を黙らせることができるわけです。先生の権威を拝借させていただいたということになります。先生のご意見は、応援団だけではなくご本人にも大きな影響を与えたようです。
その上で本人に対して私の仮説を聞いてもらいました。

どうも「応援団の描く事件の絵柄」は以下のようなもののようでした。
悪逆非道の悪魔みたいな男が肉食獣が小動物を襲うように、自分の欲望だけで、立場の違いをよいことにその女性に対して人格無視の攻撃を行った。自分の欲望を拒否したために自分の会社内の立場を利用して異様な報復行動を行った。
というものです。

これに対して「私のみたて」は以下の可能性があるというものです。
その上司は、あなたのことが間違いなく本当に好きだったと思う。それはこれこれこれ(省略)から判断できる。それまで優しくしてくれていたあなたから、突然人が変わったように冷たくされるようになったので、戸惑い、腹も立てたのでしょう。それまであなたに優しくされていたと上司が勘違いした理由はあなたの(省略)というところに原因がある。但し、これはあなたが悪いわけではない。悪いわけではないけれど、快適に人間関係を形成することを望むならばこれからはこういう態度(略)を取れば解決できる。彼が勘違いして、あなたを女神のように思った理由は、彼にはこれこれこういう(略)生い立ちがあった可能性がある。だから、きちんとした手順を踏まなかったのは、そういうことを知らなかったからである可能性が高い。報復の嫌がらせは、大の大人がするから異様だし気持ちも悪いが、子どもであればそういう態度を、弟や妹に取ることはありうることだ。現在その報復の可能性がなくなったのは、周囲から非難されて自分のしていることに気が付いたからだと思う。
一言で言えば、彼の人格的未熟さが原因だったのではないか。

客観的な真実はわかりません。
でも、この説明を聞いて彼女は肩の荷が下りたような様子を見せました。
自分がもてあそばれたのではなく、真摯に好意を寄せられていたのではないかというところでは、彼女はほっとしたような表情になりました。

支援者たちは、自分の怒りをもって、その上司を悪く悪く描くようになっていたのだと思います。しかし、その女性にとっては自分が虐げられたと思うよりも、自分の対応がまずかっただけだったと思う方が救われることだったのかもしれません。

応援団の方には、高名な主治医と、普通の弁護士である私がこう言っていたからやめると言ってよいよとお話しました。

それからほどなくして、彼女から手紙をいただきました。「主治医から、もう通院の必要がありませんといわれました。薬も飲んでいません。」とのことでした。変な言葉を使うと「してやったり」という感覚でした。

応援団の応援が女性の精神を圧迫していたという要素があったのかもしれません。紛争を自分で終わりにするという本人の決断が、絶望感を払しょくして精神状態の回復を促したのかもしれないと思いました。

ここで言わなければならないことは、応援団が悪意のある人たちではないということです。むしろ、善意の人と言ってよいと思います。弱い立場の女性事務職員をかばって、ハラスメント上司を制裁しようという心意気を持った正義の人達です。他人をそうさせる説得力も彼女にはありました。

しかし、どうやら「正義感」が勝ってしまったようです。

正義感が勝ってしまったため、戦い続けることによる本人のデメリットについて、思いを巡らすことができなくなってしまったのだと思います。
裁判をすることによって、少なくとも弁護士や裁判官には他人に知られたくないことを何度も告げなければなりません。相手方からは、その女性職員が上司を挑発したみたいなことも言われるわけです。裁判をするたびに精神的に打撃を受けるでしょうし、敗訴になれば絶望感も抱いたかもしれません。状況から見ても、一般の方だったとしても一度裁判で負けている以上、それを覆すことは簡単ではないことは理解できることではないかとも思えます。

正義感というものは、本来的に、本当に守らなければならない人の利益に目が向かなくなり、敵を倒すことばかりが優先されてしまうという副作用があると思います。

本件についていえば、判決を読んだ時には納得はできませんでしたが、もしかすると実態は、セクハラという問題ではなく、女性扱いがわからない男性がみんなのマドンナを好きになってしまい、段取りがわからずに嫌がられることをしてしまったということでよかったのかもしれません。
私からすれば、何も特筆的するような損害を被ったわけではないと思われました。それなのに、裁判などの紛争を継続することで、変な誤解を受けて、変な評判が生まれるとか、色眼鏡で見られることによって心理的に追い込まれる危険もありました。

ただ、私は、どちらにするべきかという意見を提案することはしません。双方のメリットデメリットと見通しを提示して、あくまでもご本人が決めることです。自分に得るものが無い場合でも戦わなければいけないときもあるものです。それはその人の生き方なので、弁護士が口を出す話ではありません。

本件では、彼女の自由意思による意思決定を引き出すためには、支援者に対する彼女の忖度を排除することがどうしても必要でした。そのためには支援者の善意も理解し、今後の関係も維持しながら紛争を収めるという方法が必要でした。こういう時役に立つのは医者や弁護士が悪者になることなのだと心得るべきです。

結局彼女は、「自分のことを自分で守る」ということを始めることができました。自分の頭で考えて、自分のしたいことをするという方法を学習したわけです。もともと芯の弱い人ではなかったと思います。しかし、事件を経験して、自信のようなものをさらに獲得して、より一本筋の通った考えができるようになったと思います。

かつてのパワハラ上司とすれ違っても、悠然と会釈をして通り過ぎる彼女の姿を思い浮かべていました。



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【+宣伝】「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」(遠見書房)の熟読が必要なコールセンターの電話担当者の労働実態 [労務管理・労働環境]

本当はこの本は、弁護士とその依頼者の事例を踏まえて書かれたものです。法律分野なのか心理分野なのかイソップのコウモリみたいな本にもかかわらず遠見書房様のご英断で昨年7月下旬に初版が出ました。10月に重版となったとのことで、それほど遠見書房様へのご迷惑が甚大というほどではなくすんだのかなと胸をなでおろしているところです。それでも、やはり、自分でも宣伝をしないと義理が果たせないと思って、宣伝をしようとそういう記事です。

本当の本の目的は、依頼者は弁護士に頼むような紛争を抱えているわけだから、冷静ではいられないわけで、冷静でいられなければコミュニケーションに難が出てくるのは当然のことです。それにもかかわらず、もともと冷静ではない人ではないかと弁護士に思われて、コミュニケーションが取れなければ、弁護士に頼む意味がなくなるわけで、そのために弁護士があらかじめ冷静ではいられないという事情を熟知して、それを差っ引いてコミュニケーションをとりましょうというそのための技術書だったのです。

ところが実際の反響としては、「話す相手との苦労は、自分だけのことでなく、みんな感じていたことか。安心した。」という弁護士(初心者から大ベテランまで)の声が寄せられ、弁護士の精神安定にも役に立っているようです。

あと、サービス業の会社がまとめ買いをしていただいたり、学校現場で結構読まれていたりするようです。これは、結構発売当初から情報をお寄せいただいておりました。

今回、新たな情報をいただいたので、宣伝を兼ねてご報告します。

それはコールセンターの電話担当の方にも読まれているということでした。
コールセンターは、私、ちょっと前に、スーパーバイザーとしてセンターにどでんと座って仕事をしていたことがあるのです。電話担当の方を指導する人が何人かいて、その人を指導する人という役割でした。モニターで実際の応対を聴いたりもしていたのですが、そういう経験が何かの役になったのかも知れません。

このコールセンターの仕事って、かなり精神的ダメージがあるようで、精神的に悪化する人の話を最近よく聞くようになりました。精神疾患を発症させて休職する人、精神的不安定になって夫に対して敵対心をもって連れ去り別居をする人。男女関わらず様々です。

コールセンター職場の精神的ダメージは二種類あって、一つは職場の人間関係からくる精神的ダメージ、もう一つは電話の相手から受けるダメージです。今日は後者について少し考えます。

一口にコールセンターと言っても、どういう人から連絡が来るかということはそれぞれ違うようです。しかし、メーカーのコールセンターであれば製品のトラブルがあって電話をかけてくるだろうし、損保のコールセンターというか事故処理担当であれば、事故があって精神的に動揺している人から電話がかかってくるわけです。最近は、相談事の相談先の紹介というコールセンターもあるようで、やはり冷静でない人の相談を受け付けなくてはならないようです。

結局、電話の向こうの人は、精神的に追い込まれている事情があるということになります。私は、事務所の電話が不具合を起こして、コールセンターに電話をして直したことがつい最近ありましたが、やはり精神的に動揺していたと思います。うまく言葉による説明ができなかったかもしれません。例えば、パソコンが不具合を起こした人、給湯器が故障した人、照明がつかない人、それぞれ日常生活が通常通り営めなくなることでパニックになることはありうることです。交通事故の被害者、加害者はなおさらでしょう。

多くのコールセンターでは、電話対応はマニュアルで行われます。しかし、複雑な内容になればなるほど、その解決方法についてはマニュアルがあるのですが、電話の相手の状態別の対応方法はありません。少なくないマニュアルでは、マニュアル通り返答することで、相手を余計に怒らせてしまう回答が掲載されているようです。でもマニュアルからはみ出した回答をするわけにはゆきません。間違った回答をしないという目的では、マニュアル通りに回答をしてほしいという要請があるわけです。電話担当者の考えで臨機応変に回答方法を変えることも禁止されていることが多いようです。
そういうマニュアルががちがちになっていると、電話担当者は、ある程度経験を積めば、こういう言い方をしたら、相手を逆上させるとわかるわけです。しかし、
マニュアルからはみ出たことを言うわけにはいかない。そうすると、この回答で相手を怒らせることが分かっても、自分から相手を怒らせる行動をとらなくてはならない、自分を危険な目に合わせることを自分から行うということになってしまいます。「自分で自分の身を守ることができない。」という、人間に限らず動物全般にとっての極めて大きなストレスが生じてしまいます。

この現象は理解ができない人が多いと思います。「だって、電話で文句を言われても、あるいは怒鳴られても、命が奪われるわけではない。身の危険があるわけではない。電話担当者はどこの誰だからわからない。そもそも相手が逆上しているのは、相手の事情であって、電話担当者には責任がないのだから、おどおどする必要はないではないか」と思う人がいると思います。これはどうやら違うようです。

こういう冷静な人の感覚は、冷静に考えた場合の理屈にすぎません。感情は合理的に生まれるのではなく、反射的、予防的に生まれるようです。
反射的にという意味は、その言葉を聞いたときに即時に感情が生まれてしまうということです。冷静に考え直してから、さあおびえましょうという仕組みではないということです。予防的にということは、どの程度の危険があればどの程度おびえるかということではなく、おおざっぱに危険があれば程度を大きなものと想定して怖がったり、逃げたりするということです。おもちゃのピストルを向けられても、突然であれば恐怖を感じます。実際より大きな危険が起きてしまうという無意識な想定のもと、飛び上がったり目を大きく開いたりするわけです。その方が生き残る可能性が高くなるからです。「おや、このピストルはおもちゃかな。本物ならば何発弾が込められているのだろう。」とか考えていたら、本物のピストルだから命の危険があるという思考にたどり着いたころには撃たれているからです。そうすると、誰か人間が自分に対して怒りをぶつけてきただけで、まず感情は恐怖を感じてしまうわけです。電話の向こうで相手は確実に怒っています。そしてその怒りが自分に向けられているわけです。そうなると、人間の本能として、そしてその恐怖の原因となった危険認識は、暴行などが行われるような、あるいはもっと大きな危険認識を抱く可能性があるということになります。これが電話担当者の感じているストレスなのでしょう。

そしてその危険を自ら招く回答をすることが命じられているということで、ストレスはますます強くなるわけです。

こういうストレス職場なのですが、マニュアルには、電話の相手の感情に対する対処方法はあまり書かれていません。特に講習もないようです。これが、私が少し担当したコールセンターのように、大勢の人数で電話担当をして、何人かに一人のアドバイザーがいて、さらに総括的なスーパーバイザーがいれば、それだけで安心感がありますが、自宅に転送されてくる電話で電話応対をしている人はそれもないことになります。

それでも担当者の報告や相談などで、上司が親身に対応して恐怖や不快の感情を手当てしてくれれば少しはましなのでしょうけれど、上司もマニュアル通りの仕事にせいぜい自分の経験しかプラスすることができませんので、有効なクールダウンをすることができないようです。かえって、マニュアルに従って、感情的になっている相手の対応に困って時間が取られているにもかかわらず、「対応時間が長すぎる」とか「対応アンケートで『不満がある』との回答だった」というマイナスの事情を持ち出して、電話対応者を注意してしまうという流れになることも少なくないようです。会社は、そのことに言い訳をきちんと用意しています。「そういうイレギュラーな電話対応の結果で、査定を下げるということはありません。」というのです。あたかも査定さえきちんとやれば、使用者としての安全配慮義務は尽くしたというかのようです。これは落とし穴を見逃すことになります。

電話担当者ではなくとも、人間は日常、危険を感じることがたくさんあります。例えば、交通事故の可能性がなくても、鉄の塊である自動車が近くを通行していれば、初めて見たときは危険に感じるわけです。しかし、自動車というものは交通ルールに従って走行し、歩行者と接触することがないので危険なものだということを学習していく中で怖さがなくなっていくわけです。このように、日常の生命身体の危険や対人関係的危険は、学習によって危険意識が軽減されていきます。良くも悪くもこうなります。但しそれは、「実は危険ではなかった。」という学習ができた場合です。

電話担当者は、この実は「実は危険ではなかった」という学習ができません。感情的になって怒鳴り散らされ、何も危険性の解決がなされないまま電話が切られ、また次の電話がなるわけです。上司が危険意識を解消する手立てをとらない。そうすると、毎日毎日解決しない危険意識、ストレスが蓄積されていきます。不安感が蓄積されてしまうと、些細な刺激も怖くなります。例えば、あなたが務めている会社の近くで、発砲事件があり人が死んだという事件があり、犯人は逃亡中だという解決しない危険意識があるとします。たまたま夜遅く、人通りがなくなったときに会社を出たとたん、タイヤのパンク音、あるいは花火の音がしたとしたら、また発砲があった、自分が撃たれるかもしれない。と思うことは想像しやすいのではないでしょうか。

危険意識が蓄積されてしまうことによって、「危険を感じ、安全を感じる」という脳の正常な機能が乱されていくということは想像しやすいことのように思われます。

コールセンターは、誰からかかってくる電話かにもよりますが、このような危険をはらんだ仕事の内容だということになります。使用者は、このような感情や脳のシステムを考慮して、電話担当者の危機意識が解消される手立てを講じる必要がありますし、最低でも、相手を選べない以上、相手が感情的になったことで起きる一切の不利益、それが電話担当者の責任であるかのようなアクションを一切やめるべきです。

そして、電話の相手がなぜ感情的になっているのかについて、また、感情的になっている相手に対してどのような対応をするべきなのかについて、宣伝ですが「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」遠見書房を一人一冊買い与えて、
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みんなで学習会をするなりして心の準備をしてもらわなくてはならないと思います。このような本は、実際にはあまりないということを電話担当者の方はおっしゃっていました。ほかにないかどうかは、私にはわかりませんけれど。

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業績をアップさせる指導になるか、生産性を低めてパワハラになるか。教え方がわからない時に行う指導方法とは。 [労務管理・労働環境]




「俺は教えるべきことを教えた。あとは自分で考えろ。」
ということは新入社員に対するパワハラになることが多いです。

新入社員は、考えても分からなくて無駄に何日も立ち止まり
苦しみ続けて仕事がいやになってしまいます。
これ、「そんな奴なら使えないから会社にいらない。」という人がいますが、
苦しむ人は、真面目に仕事をしようとしている人です。
とりあえず給料もらえばいいやという人は
自分で考えることに見切りをつけて
誰かにやってもらうか、
頭を下げてできませんでしたとヘロっと言えるのです。

真面目で、戦力になる人間に、手かせ足かせをはめるようなことをして
生産力が向上するわけありません。

「なんでこんなことができないんだ。」
「前に説明しただろう。」
という言葉ばかり言う上司は、自分の無能を宣伝しているようなものです。

なぜできないかを考えるのは上司の仕事だからです。
指導とは、客観的に「必要の範囲」というものがあるわけではなく
相手に合わせて行う必要があります。
相手がわからなければ、指導としては不十分です。
社会は厳しいということを覚えましょう。

「なぜできないかわからないこと」には理由があります。

「こんな知識社会常識だろう。知っていて当たり前だ。
この知識があれば、解決方法を考えることはできるだろう。」
という考えが正しいものだと思っているのでしょう。
しかし、これは間違いです。

先ず、知識は、ひとそれぞれで、興味のある得意分野もあれば
苦手分野もあるというのが当然です。

また、知識と知識を組み合わせること、つなぐことは
実は思考というよりも
知識を組み合わせる、その組み合わせ方の知識
という側面があります。
文系選択者にはわかりづらいことかもしれませんが、
これが真実です。

組み合わせたことのない人間は、いかに必要な知識があっても
組み合わせることは、ほとんど不可能でしょう。

業務というものは、
その業務を反復継続して行い、特別な技術、知識を習得するから
収入を得ることができるのです。
誰でもできることをやって収入が上がると思っている上司は
社会の厳しさを知りません。

この組み合わせの知識は、反復継続して組み合わせを行うことによって
効率よく習得することができます。
初期の指導とは、反復継続して作業をやらせるということであって
知識もないのに組み合わせを考えさせるということは
極めて非効率で、時間がもったいないということが科学です。

また、無能な上司は
自分ができなかったときのことを忘れています。
自分がそのような知識があったのか
知識を組み合わせることができたのか
おそらくできなかったことを忘れているのです。

名人と言われる人ほどこれは忘れてしまいます。
というか初めから体験していない場合もあります。

尺八のある大師範は、子どものときに尺八を初めて口に当てたところ
初めから尺八を吹けたというのです。
おそらく99パーセントの人は
尺八の音を鳴らすまでに多くの月日を費やしていると思います。

この大師範にとっては、尺八の音の出し方を教えるということは
なかなか難しいことなのだと思います。

まあ、一般の上司は、色々先輩から援助をしてもらって
仕事を覚えているわけですが
それを忘れているわけです。

尺八など楽器も同じで
どんなに才能のない演奏家でも
楽器は吹けるようになることがあり
そして一度吹けるようになると
どうしてあの時音が鳴らなかったのだろうか
ということがわからなくなることが一般的です。
というか
そんなことを考えることもそれほどいないわけです。

この上司も、この仕事を続けていくのであれば
懇切丁寧に教えることは、自分のキャリアアップにつながるのです。
新人が何がわからないのか、
知識不足か、知識の組み合わせ不足か
どうして知識の組み合わせがわからないのか
どう教えたらわかりやすいか
そういうことを考えながら教えることによって
つまり言葉に出して説明することによって
なんとなくやっていた自分の作業も
原理や目的を意識するようになれるし
そうなれば応用を利かせることもできるようになるからです。

そうして、上司としてのスキルがアップすれば
顧客に対するスキルもアップします。
社内での人間関係も良好になっていくわけです。
人にものを教えるということはそういうことです。

さらに、懇切丁寧に指導された部下は
自分が指導するときに、この経験をまねすればよいのですから
会社は永続していきます。

これを、こわもてで接して、厳しいことばかり言って
部下に緊張させるような指導をしていたら
緊張しているのですから、吸収も悪くなるだけです。
非効率ここに極まれりという感じです。

そして真面目で責任感がある人間から
やめたり、体調不良になっていく
こういうことなんです。

それでも仕事は日々変化します。
百戦錬磨の上司でも教える方法がわからない場面も出てきます。

教え方がわからない。というよりも自分でもわからない。
分からないということを部下に言うのは恥ずかしい。
上司の沽券にかかわる。
なんてことを気にする上司がパワハラをするような印象があります。
自分の立場を守ることに汲々としている人は
会社全体の立場とか、真っ当な対応というようなことを
気にしなくなってしまいます。

こういうことが許される会社は
会社全体が事なかれ主義に陥ってしまい、
自分の立場を守れるのであれば
会社が少々損をしてもかまわない
という風潮が蔓延していきます。

言われた通りのことをやっただけで
どうして自分の評価が下がるんだ
等と本気で考えてしまうわけです。
これでは人を相手にした仕事はできません。

では、どうするのか。

1 わからないことを認める。
これが第1です。
これが無ければ、次に続く得難いチャンスとなりません。
むしろこれができれば上司としては一人前です。

「俺がわからなければ、誰もわからない」
こういう発想に立てば何でもないことです。
この発想に立つためには
勉強、実践経験、そしていくばくかの図々しさが必要です。

新人は上司が「俺も分からない」ということで救われます。
真面目で責任感の強い人間ほど救われます。
「わからない時があって良いんだ
わからないと言っても良いのだ。」
ということを学ぶことは貴重です。

2 一緒に考える。
これは、部下にとって貴重な体験です。

なにせ部下は、どう考えて良いかわからないのですから
上司の思考の流れ、知識の組み合わせ方を勉強できるということで
すぐに実践に役立つ勉強になります。

わざとわからないふりして一緒に考えるという作業を
推奨したいくらいです。

経験不足で役に立たない部下との会議でも
上司にとってとても役に立ち
解決に向けて一人で悩むよりもよほど役に立ちます。

普通考えと話の順番については
脳で考えて、考えたことを言葉にする
と思われていると思います。

ところが必ずしもそうではないようです。
まさにこのブログでいつも感じていることなのですが、
言葉にすることによって、
考えがひらめくことがとても多いのです。

言葉にしなければ、そのことを意識しないのでしょう。
あるいは、言葉にすることによって
言葉にする前には思いつかなかった
言葉の意味だったり、その言葉から連想することだったり
そういうことが広がっていき
新しい思考が可能になるのだろうと思います。
詳しくはビゴツキーという人の文献をあたってください。

頭の中の言葉と口に出した言葉は別物なのでしょう。

2 それでも分からなかったとき

どんどん部下の経験値が上がっていくわけですが、
上司が相談してもわからない時どうするか。

同僚や自分の上司に聞いてみるということをするわけです。

これとても大事です。
先ほども言いましたが、考えるということは
知識をつなぎ合わせるという知識が必要だと言いました。

そのつなぎ方がわからない人がいたとしても
そのつなぎ方をわかる人もいるかもしれない。
そうだとすると、案外簡単に答えが出てくるかもしれません。

その課題を解決できるか否かというのは
必ずしもその人の能力と関係があるわけではないのです。
経験の違いというより、経験した分野はみんな違うわけです。
だからこそ集団で仕事をする意味があるというものです。

今に日本の労務管理は
こういう当たり前の原理で仕事ができないような状態に
労働者一人一人を追い込んでいるわけで
これでは生産性が上がらないのは当然です。

また、他者に相談することを部下が覚えるということも大事ですが、
自分の仕事の状況を仲間に伝えるということも大切なことです。
しょっちゅうこういうことをやるわけには行きませんが、
考えても分からなかったという内容であれば
ある程度の人数で共有することはとても有益です。

こういう業種を超えてしのぎを削っている状態のときに
成果主義的賃金体系なんて余裕のある個人プレーを推奨する労務政策なんて
誰が従うのだろうと不思議でたまりません。
それをすると安心するというおまじないみたいなものなのでしょうか。

3 最終的に分からなかったとき

誰に聞いてもわからない。考えてもわからない。
それを会社も知っている。
ということになれば、
課題を解決できないという結論を認めることになります。

それを認めて始めて
次善の策を考えられるわけです。

この事後処理ということも
とても大切なことです。
最も高度な仕事かもしれません。





ここで大切なことこそ、
別の同僚に教え方を援助してもらうということです。
ユーチューブチャンネルを複数閲覧するということと一緒です。
自分が忘れていたことを覚えていたり、
画期的な教え方を知っていたり、
思わぬ人が思わぬ指導をすることがあるわけです。

こうして協力し合って結果を出すということを教える事こそ
本当にするべき指導だと思います。



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差別は無知から始まることの実例と差別を受けた側を基準として考える必要性 聴覚障害の場合 [労務管理・労働環境]



現在聴覚障害者に対する差別のハラスメントの問題に取り組んでいます。

上司や同僚は、職場の調査において
あからさまな差別行為をしているのですが、
それを隠そうともせずに答えているのです。
それにも関わらず職場ではモラルハラスメントはなかった
と結論付けてしまっています。

上司も、同僚も、職場も
自分たちのしていることが差別であることに
気が付いていないということです。

こういうことが差別になって
聴覚障害者が傷つくんだよということを
あまりわかりやすく説明する者が実際には
あまり見つかりません。

感心したのは町草さんのブログです。
聴覚障害者とのコミュニケーションで配慮する事とは? | 町草のブログ (machikusa110.com)
https://machikusa110.com/2020/04/30/%E8%81%B4%E8%A6%9A%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%A7%E9%85%8D%E6%85%AE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93/

わかりやすいです。

先ず、一口に聴覚障害者といっても
聞えなさは人によって違う
ということが明快に書かれています。

つまり、この聴覚障害の方には聞こえても
こちらの方には聞こえない
ということがあるということで、

職場に聴覚障害の方がいる場合は
よく話を聞いて、何が聞こえて何が聞こえないか
よく理解する必要があるということで、
これがいの一番です。

また、それだけでなく
同じ音量の音でも聞こえるときと聞こえない時があるようです。

例えば話をしている人を見て聞いている場合は話は聞こえるのですが、
後ろから離されてしまうと聞えないあるいは言っている意味が分からない
ということがあるようです。

対面の話は聞きやすいけれど
何人かで話し合う場合は
聞える声と聞こえない声とあることになります。

「あの人の言っていることがわかっているのだから
私の声が聞こえないはずがない」
という思い込みが生まれる原因はここにあります。

また、早口で話したり、口ごもって話すなど
私たちはあまり意識していませんが
そのときによって話し方が微妙に違うのは当たり前のようです。

だから、急いでいたり、イライラしていたりすると
声が大きくても、内容を聴き取れないということがあります。

「いつも聞こえているのだから、今度も聞こえていたはずだ」
という思い込みが生じる原因になるでしょう。

だから、「(聞こえるように)言ったはずなのに聞えなかった
というのは、聴覚障害をいいことに
聞えなかったふりをしているだけだ。」
というひどい思い込みが生まれてしまうようです。

私の取り組んでいる事件では
面と向かって「卑怯だ」と言われたそうです。
言われている聴覚障害のある方は
どうして自分が卑怯だと言われるのか全く分かりませんでした。

大事な用事は、筆談とか、今ではインターネットを使って
伝達することが可能なので
今の時代、聴覚障害者を雇用している以上
それらの文字情報を使わない理由はありません。

ちゃんと規則に従って指示をしていると思っても
口頭で説明しただけの場合は
しかも細かい基準なんかは、
きちんと聞き取れているか難しいところです。

また、規則ならば何らかの文字情報があるはずで
それを示さないで口頭でだけ説明するような人の場合は
そのときによって指示の内容が変わることもあるのではないかと
疑いを持ちたくもなります。

それから、口頭だけの情報の場合は
正確性を期すため、何度も聞き返すことは仕方がありません。
それを煩わしがっていると
だんだん聞くのが悪いことのように思えてきてしまうでしょう。

益々伝わらなくなってしまいます。

それからひどいなと思うのは
「聞えない時は聞こえないと言え」
という言葉です。

だって聞えないのですから、
今自分が聞こえていないのかさえも分からないからです。

自分がどうしたら改善できるかわからないことで叱責を受けていると
無駄な緊張がいつもの状態になってしまい
余計なミスも増えてしまいます。

こういう聞えないことに伴って
卑怯だとか、バカだとか、そういうことを言ったことは
みんなが認めていることですが
言った上司も、同僚も、職場でさえも
ミスが多いからバカだと言って仕方がない
聞えないふりをしたので卑怯だと言われても仕方がない
そんなことを大合唱していているのです。

呼ばれても仕事をしていれば聞えませんが
そんな時注意をひくために
消しゴムや輪ゴムを投げてこちらを向かそうともしたようです。

上司も、同僚も、職場でさえも
聞えないのだからやむを得ないと言っているのです。

これ、健聴者に対して行ったら侮辱になりますよね。
夢中で仕事をしているときに
体に異物が向かってきたらびっくりするでしょうし
危険を感じることもあるでしょう。

聞えないからやむを得ないというのはおかしいと思います。

そもそも手を振る等、視覚的な信号を送ればわかりますし、
その人は隣の席の人だったので
近づけばわかるわけです。
人に対して消しゴムを投げて振り向かせるなんてことは
言い訳の利かないことだと思います。

これが起きたときは結構前のことなのですが
現在は改善されたのでしょうか。
改善されるためには
障害者の視点を知る必要があるのですが、
未だにそのような知ろうという努力はなされていないようです。

私はこれは差別であると主張しているわけですが
関係者一同ピンと来ていないようです。

どうやら差別とは
差別をする側が
排除の意思を持っていたり、攻撃的感情を持っていたり
悪感情を持って行うことが必要だと考えているようです。

差別というのは悪い行為、不道徳な行為だというところを
協調しすぎるとそういうことになるようです。

しかし差別か否かは
差別された人が精神的に苦しむことならば
辞めさせることに主眼があると思うのです。

加害者の無知によって
差別で無くなるという発想はいただけません。

だって、実際に傷ついている人がいるのです。
傷つくのは悪感情という相手の気持ちに関わりません。
差別かどうかということは
被害者の立場に立って考えるしかないと私は思います。

それからもう一つ
聴覚障害に理解がない場合に
聴覚障害をお持ちの方々がどのように傷つくのか
という視点の報告が少ないのではないかと思われました。

疎外感とか孤立感とかいう報告ありますが
侮辱を受けたという感じ方、
寂しい思いや仲間として扱われないという感覚
あるいは、理不尽な思い
もっともっといろいろあると思うのです。

それがなんか
コミュニケーションの方法論とか
効率性に価値をおく研究が多いような気がしますし、

差別、心理で検索すると
差別をする人の心理
ということばかり出てくるように感じるのです。

人間が当然抱く感情なのですが
これも実際の所を聞かないと
本当のところがわからないと思うのです。

聴覚障害者だから仕方がないと
ご本人方が思うのは
社会の風潮が合理的配慮の必要性を
そこまで考えていないということからくるのではないでしょうか。

当事者の方々がもっと声をあげる場所を提供する必要があると思います。
この機会が圧倒的に少ないのではないかと感じました。

色々考えながら、勉強しながら事件を進めています。

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