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聴覚障害者が健常者の中で働くということ 事情聴取メモ [労災事件]



ここ1年で、3件目の聴覚障害関連事件を担当していることになる。それぞれの事件でそれなりに情報を得ていたが、心理面に関する事件を担当することになったので、新たな情報が必要になり、情報の収集を行っている。ここまでの段階で入手した情報を整理する目的でこの文章を起こす。

<事実編>

1 聴覚障害は、障害を持つ人の間でも個人差が大きい障害である。全く聴覚機能が働かない、障害、大きな音なら聞こえる、高い音は聞こえるが低い音は聞こえずらい、その逆等バリエーションがあるようだ。聴覚障害者だからどうだということは、あまり通用しない。この人の聴覚障害はこういうものだから、こうするべきだという話になる。

2 補聴器によって音が聞こえるようになるけれど、直ちに言葉の意味を理解するわけではない。その声に意味があり、音に情報が載っているということを意識するためには、専門の訓練が必要になる。老眼になり、老眼鏡をかけるとまた見えてくるというわけにはいかない。

3 口元は、読唇術ができなくても、それを見ることによって情報を補完することができる場合がある。声が聞こえるような気になる場合もある。これはどうやら、聴覚障害がない人間も同様のことが起こるらしい。

4 角度によって、聞こえないという場合がある。「あれ、さっきこのくらいの距離で聞こえていたのに、今度は聞こえないなんておかしい。」ということは言えない。これから何かを話すのだろうなという気構えをしている場合は、声の意味をつかみやすい。知らないうちに話していれば、同じ距離、同じ音の大きさでも、声をとして把握できない場合がある。例えば、道を歩いていて前から自動車が来れば、クラクションを鳴らされて、ああ自分に対して警告しているということが理解しやすい。しかし、後ろから近付いてきた自動車からクラクションを鳴らされても、自分に対して警告がなされているということが気が付きにくい。

5 1対1の会話は、意味を把握しやすい。しかし、集団で話し合いをしている場合は、だれが話しているのか分からず、話について行きにくくなる。全体が見えない位置にいると特に把握が難しい。

<心理編>

6 聴覚の一番の機能は、危険を察知することにある。聴覚に限らず五感と呼ばれるものは、すべてそのような機能がある。機能を奪われてしまうと、危険が存在しないのに、不安や恐怖感情がわいてくる。例えば、光のささない真っ暗闇のトンネルに入れられた場合(資格を奪われた場合)。味覚や嗅覚を奪われて食料を摂る場合で、食べたこともないようなものを食べさせられる場合。

7 聴覚障害のある人で、呼んでもこちらを向くことができない人に対して、職場の中でかつては釣竿を常備して釣竿でその人をたたいてこちらを向かせるということや、紙くずを投げて注意を向かせるということがあった。聴覚障害というハンデキャップがあるため、劣悪な労働環境での就労を余儀なくされたという事情がある。現代(平成以降)においても、そのような無教養な職場があるということに関係者は驚き、怒った。消しゴムを投げて注意を喚起したのが自治体であったことにさらに驚きが広がった。

8 突然物が飛んでくるということは、脅威である。
消しゴムを投げる方は、消しゴムであるからぶつかっても怪我はしないだろうと考えることができる。また、投げる強さを加減しているから大事に至らないということも知っている。
聴覚に障害がなければ、飛んでくる音や気配などで、自分にどの程度危害があるものか消しゴムが到達する前にある程度はわかる。
しかし、聴覚に障害がある人は、消しゴムが飛んできて初めて消しゴムの存在に気が付く。突然自分に向って飛んできたものが、どの程度危険性があるかについては、消しゴムが自分にぶつかって下に転がり、それが消しゴムだと気が付くまでわからない。危険の存在及び程度がわからない場合、危険を避けるという意識は、危険を実際よりも大きなものであると感じて、危険回避の行動に出ようとする。例えば、物置で細長いものが自分の頭に触ったとすれば、蜘蛛の巣ではないかと感じて慌てて振りほどこうとする。実際はほつれた糸だとしても。あるいは山の中で、突然視界に蛇がいるように見えたが、それは太いロープの切れ端だった等。突然気が付いた異物は、危険なものだとして身構えるのが動物の本能である。
  こちらを向かせようと消しゴムをぶつけられること、あるいは目の前に消しゴムを投げられることは、それ自体が行為者の想像のつかない大きな危険を聴覚に障害がある人に感じさせる行為である。

9 突然消しゴムが自分に飛んでくるということは屈辱である。その1。
  突然消しゴムが自分にぶつけられたということは、その目的を理解できれば、自分に聴覚障害があるということを強烈に示されたことである。聴覚障害があるため、多少危険を感じるように扱っても構わないという態度を突き付けられたことでもある。

10 突然消しゴムが自分に飛んでくるということは屈辱である。その2。
  聴覚障害を理由に、こちらに注意を向けるために消しゴムを投げられるということは、多少危険な行為をしてぞんざいに扱っても構わないということは、自分が、安心感を奪われてもかまわないという態度であり、仲間の中で一段階低い立場の人間だということ、その理由は聴覚に障害があるということを強烈に伝える行動である。9番がどちらかと言えば、身体生命の危険を顧みられないということを強調しているが、10番は対人関係的危険を顧みられていないという意味合いがある。敢えて区別する必要はないかもしれないが、両面があるということを強調するために別項とした。ここに差別の本質がある。

11 これが行われたのが職場であれば、同僚の目もある。これは二通りに心理に働きかける。
一つは同僚の前で恥をかかせられたという思いである。同僚の前で、他者にはそのようなことがされないのに自分だけ他者とは違う扱いをされ、それは多少にかかわらず怖い思いをさせられたということである。そしてその原因が自分の障害にあるという態度を突き付けられたという心理的効果である。
  もう一つは、そのように自分が理不尽な目を受けているのに、だれも同僚が自分の心情をくみ取る行動を起こさないということである。消しゴムを飛ばした上司に抗議することはできないまでも、自分に対して「ひどいことをするね。」と言ってくれる人もいない。この現実を突き付けられることになる。

12 聴覚に障害がある者は、集団から疎外されやすい。仲間内で歓談をすることは、楽しいものである。つい話に夢中になってしまうこともある。しかし、聴覚に障害がある者は、次々に話し手が変わる歓談にはなかなかついていけない。聴覚障害に理解がある者も、つい話に夢中になると、聴覚に障害がある者が話からおいて行かれていることを忘れ、自分が話すことに集中してしまう。
  聴覚障害を持つ者は、集団の歓談が行われると、初めからその輪に加わらなくなることがある。コミュニケーションをあきらめてしまうのだ。自ら聴覚障害を持たない者との間に壁を作るように見えることがある。しかし、彼らにとっては、既に壁はできていた。配慮がなされないという経験を繰り返しし続けてきて、その都度自分は仲間に入れてもらえない、その理由は聴覚に障害があることだということを何度も学習してしまっている結果という側面はある。自分に聴覚障害があることをわかっているのに自分だけが仲間に入れてもらえないという意識になりやすい。または、そのような思いを味わって傷つきたくないという防衛的な行動という評価も可能である。

13 聴覚に障害を持つ人の中には、頑固だと表現される人がいる。聞える範囲の狭い情報しかなく、要求を実現することを選ぶかあきらめるかという極端な二者択一的な選択肢しか与えられていない可能性がある。あきらめることができない場合に、柔軟な方法をとるという選択肢がなく、原則を言い続けるという方法をとらざるを得ないということはありうる。

14 聴覚に障害がある者が、空気を読むということが苦手な場面を示すことは多い。私たちは同じ言葉を発していても、語調や声の強弱などで意味を補充している。場合によっては全く反対の意味を伝えているときもある。「嫌い」という言い方が典型的だろう。聴覚に障害があると、これらの微妙なニュアンスを獲得しがたいことがある。

15 同時に、長い問いかけや、抽象的問いかけは言葉で発せられてもなかなか意味をつかみづらいという傾向にある。具体的に、短く切って質問をすれば答えられる。また、文書で質問をすれば答えやすい。

16 聴覚に障害ある者が、聴覚に障害のないものだけのグループにいることが精神的にきつい。仲間がいるということで、疑心暗鬼も小さくなる。思い過ごしかもしれないという選択肢も出てくる。

<政策>

17 それでは、健常者の職場に聴覚に障害がある者を迎え入れることは困難なのか。
  それはそうではない。しっかり面談をして、その人が何が得意で、何が苦手であるかはっきり聴取しておくことが必要である。そして、それについては職場変わる場合や上司が変わる場合は、しっかりと引継ぎをする必要がある。また、歓談をする場合には、どのようなことが話し合われているか、逐一でなくても説明すれば足りる。大事なことは、仲間として尊重しているというメッセージを伝え続けることである。また、改善点について自由に話ができる環境を整えることである。
  障害者雇用は、単に障害者を雇用すれば足りるのではない。障害者が疎外を感じない職場環境を整えることも含んで必要とされているのである。

18 障害を理解するということは、現在の仕事技術の能力について理解するだけではない。疎外に対して過敏になっているかもしれないというところを含め、理解をする必要がある。
  これらは、特別な配慮のように感じるかもしれないが、通常の人間関係で本来求められる配慮と考えるべきであろう。

19 特に職場では、迅速な伝達、迅速な行動、合理的な行動が求められる風潮がある。ともすれば、障害があることが、このような迅速、合理的な行動を阻害するように感じられる場合がある。しかし、本来の人間関係は、配慮や尊重がもう一つの価値として重視されるべきである。現代の特に職場環境においては、目的至上主義的な風潮が前面に出てしまい、仲間を尊重するという風潮が切り捨てられているのかもしれない。
  職場に障害を持った方がいて、その方が仲間として尊重されていると感じる職場は、だれにとっても居心地の良い文字通りユニバーサルスタンダードを実現できる職場になるだろう。

20 障害がどのように障害になるかは、障害がない側の対応いかんによることも大きい。障害を持つ者の経験だけからは、何が改善されればよいかわからないことも多い。障害を持たない側だけの知識では何も生まれない。相手を責めたり、改善を求めるだけの議論ではなく、具体的な改善について価値を込めない話し合いが日常的にあることが望ましい。

21 直ちに、障害を持つ者に心地よい職場を実現することは、難易度が高いかもしれない。そうした場合は、職場の中ないし職場と提携した障害に理解のある相談員を設けるということも一つの解決方法である。

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「障害者差別を受けた場合の心の痛みと派生効果」 [労災事件]


1 心の痛みとは何か
    危険に対する防衛反応
  差別をされれば心が傷つく、心の痛みが発生するということは、自明の理であるとされているようだ。それは確かにそうだろう。しかし、自明の理とだけ言って、さらに分析的な検討がなされていないように感じられる。差別をされたことの無い人間には、差別をされた痛み、苦しみということを本当の意味で理解することは困難であるかもしれない。しかし、その痛み、苦しみを言葉にして明らかにすることによって、質的な感得が不能でも量的な把握が可能になるはずである。差別の解消や、人間に対する理解に貢献するはずであると考える。
「痛み」ということを理解するために、まず体の痛みということを考えるべきであろうと思う。体の痛みは、体の完全性を損ねて、神経に対する物理的ないし化学的な働きかけがあった場合に感じる。このメカニズムには意味があり、痛みがあることによってその痛みの原因になっている体の部分に身体の完全性を害している損傷があることを自覚することができる。痛みが激しい場合は、その体の部分を使わないようにして、損傷の拡大を防止する行動をとるだろう。例えば足首を捻挫して痛い場合は、歩かないようにして足を休ませ、回復を助けることができる。痛いと感じないで歩き続けてしまえば、筋肉や軟骨などの軟部組織の挫滅が拡大してしまう。痛いと感じることによって、行動修正をして、損傷を拡大することを回避することができるのである。また、痛みを感じる原因になった出来事を記憶することによって、将来的にそのような出来事が起こらないように行動を修正するようになるだろう。
  痛みとは、現在の状態や将来の行動を修正する契機となる。その目的は、致命的な損傷を回避するところにある。痛みを感じずに体を動かし続けることによって、損傷が拡大し、その結果回復不能になるかもしれない。つまり痛みは、身体生命の危険を自覚し、危険を回避するという機能を持っている。生物にとっての生きるための仕組みだと考える。
  心の痛みもまったく同様の機能があるとは考えられないだろうか。心の痛み、不安を感じることによって、行動を修正し、危険を回避するという機能があるということである。つまり、危険を感じていることを鮮明に自覚し、危険から回避するためのきっかけとなる、人間が生きるために必要な感覚であると考えてみたい。

2 差別によって心の痛みを起こさせる危険とは何か
    対人関係的危険
  身体生命の危険がない場合でも、心の痛みはある。身体生命の危険以外の危険を感じていることになる。それはどんな危険であろうか。
  私は、対人関係的危険という概念を提唱している。対人関係的危険とは、突き詰めて言えば人間が自分が所属する「仲間」から離脱させられ、孤立する危険であり、自分が仲間の中で尊重されていないという意識を持つときにそれは発動する。
このような意識が生まれる構造は以下のとおりである。人間は他者とのつながりの中に所属したいという根源的要求を持っているものであり、この要求が満たされない場合は心身に不具合を生じる(バウマイスター)。しかし、単に所属していればよいというものではなく、安定的に所属することを要求している。不安定な所属は、所属から離脱を余儀なくされるのではないかという心理的反応を引き起こしてしまい、心身の不具合が生じるようになる。この安定した所属であり続けることに危険を感じると不安になる。
  この対人関係の危険の意識、不安が、心の痛みのすべてだとは言わないが、その一つであることは間違いないだろう。
  人間が、どうやって誰かとつながっていたいという根源的な要求をもったかということは問題になるだろう。私は、このように集団の中に身を置こうとした人間の祖先だけが、言葉の無い時代にあっても集団をつくることができ、何事にも中途半端な人間であるにもかかわらず生き延びることができたのであろうと考えている。だから、その子孫である我々も個性によって程度の違いがありつつも、そのような要求を持っているはずだということになる。

3 対人関係的危険を意識するとき
  対人関係的危険を意識するときは、自分の人間関係の中から離脱を余儀なくされると感じる場合である。危険や不安を感じるということは主観的な問題なので、人間関係からの離脱の危険の客観的事実に基づくものではなく、あくまでも主観的な事情にもとづく。
  逆に、対人関係的危険を感じない場合は、自分がその人間関係の中で尊重されていると感じている場合である。
  尊重されていないという感覚は、仲間として認められていないと感じるときに発動する。人間が尊重されていると感じることは、仲間として認められ、仲間として扱われているときだということになる。

 1)したがって、はっきりと仲間として認めないということを告げられれば、当然対人関係的危険を感じる。「でていけ。」、「もう二度と顔を見せるな。」、「お前なんて仲間ではない。」と言われれば、対人関係的危険を感じることは当然であり、心が痛む。
   しかし、弁護士という仕事がら感じていることは、はっきりそう言われるよりも、それを示唆するような言動がある方が心の痛みは強くなるようである。おそらく、そうはっきり離別を宣言されれば、もうその人と自分は同じ仲間ではないと感じるのだろう。例えば、離婚を宣言された夫婦の一方、解雇を宣言された労働者などである。
   むしろ、夫として妻として失格だとか、給料泥棒と言われているときの方が、心が苦しく感じているような様子がある。このように感じるのは、通常離婚や解雇を言い渡される場合は、必ず前段階の予兆のような出来事があり、対人関係的な危険は既に感じており、危険から解放されたいという要求を含めた不安が発生しているのであろうと思われる。この時点で心の痛みは感じている。そして、離婚や解雇を言い渡されるときには、危険が現実化しているので、ある意味不安を感じなくても良い状態になる、つまり決着がつく状態なので、言い渡されると同時に同じ仲間ではなくなっているのかもしれない。独立の準備ができていたことになる。これに対して、事前に何の予兆もなく、突然別離の宣言がなされたり、別離が決行された場合は、心の準備がない分、心の痛みが甚大なものになるのだと思う。子どもの連れ去り、突然の事故による死別、身近な人の自死による心の痛み等はこのように大きな心の痛みとなる可能性がある。

 2)人間は、どこかの人間関係に所属したいという根源的要求がある。これはかなり厄介なものでもある。理性的に行動できれば、自分を冷たく扱う人間関係なんて、自分から離別して別の人間関係を形成することが合理的である。しかし、人間は所属の根源的要求があるため、今所属している人間関係にとどまりたいという志向を持ってしまうようである。
   夫婦、家族、職場、学校など、唯一絶対的な人間関係は現代では何一つない。それにもかかわらず、太古の昔に形成された人間の心は理性によってコントロールすることができないようだ。冷たい相手の反応で心を痛めてしまう。そして、決定的な離別の宣言を回避したいと思ってしまう。パワハラ職場、いじめの学校、配偶者暴力の家庭等、なぜそこから逃げないかと事情を知らない第三者は疑問を抱くようだが、それは人間というものはそういうものだということをまず理解するべきである。興味深いことに、心の痛みが蔓延化し、うつ的状態になるほどそのような人間の本能が支配するようになる傾向がある。

 3)「このままこの状態続けば、やがて離別、孤立に至るだろう。」という感覚こそが対人関係的危険である。
   どういう場合にこの対人関係的危険を感じるかについては、個性の違いが大きい。ちやほやされなければ不安を抱いてしまう人もいるだろう。逆にどんなに悪口を言われても、自分がやることをやっていれば不安を感じない人もいる。世の父親たちは、妻や娘に受け入れられなくても、働いて収入を家に入れることで不安を感じないようにしている。自分は家族の役に立っているという意識付けを自分で行うことによって、大丈夫だと言い聞かせているわけである。自分から進んで危険を感じることはないが、仲間の反応を見てからではないと危機感を感じない人もいる。逆に仲間の反応がなくても、自分で勝手に自分はここまで仲間のために貢献しなければいけないのにできなくなってしまったということで、自分勝手に不安になってしまう人もいる。失業した場合の男性がその典型である。あるいは、何か失敗してしまい、申し訳なく思うだけでなく、これで仲間から見捨てられると感じてしまう人もいるだろう。
   弁護士としての仕事柄、この危険意識が過敏になっていて、なんら危険を感じる必要性が無いのに危険を感じる人を見ている。または、そこまで大きな危険を感じなくても良いのではないかという反応をする人もいる。逆に、もっと危機感を感じなければならないのではないかと思う人もいる。個性の違いが反映していることは間違いないが、離別や孤立を恐れていることは多少の違いあっても、確実に感じているようだ。

 4)対人関係的危険を感じる事情も、人によって違うが、共通した事情もあるようだ。
   一つは、自分の行動が評価されないということだ。何かを一生懸命やって、かなりうまくいって、称賛されるはずであるのに、自分が期待されたような評価がなされないという時に心の痛みが大きくなる。逆に自分のやることをことごとく否定評価される場合も対人関係的危険を感じる。良かれと思ってやったことが否定評価されれば、なおさら心が痛むだろう。
   もう一つのパターンは、自分自体を評価されないということだ。自分のありのままにいることを、あるいは思い通りに行動することを極端に制限される場合にやはり対人関係的危険を感じるようだ。そういう場合は、自分がその仲間のままでいる資格がないと言われるように感じるのだろう。
   否定の態様、強度によって、危険意識の程度は変わってくるだろう。また、仲間の中で自分を否定する割合が圧倒的多数だった場合、仲間の中での主要メンバーから否定される場合は、危険意識が高くなるようだ。当然否定されている期間が継続すればするほど危険の意識は強くなっていく。

3 対人関係的危険を感じた場合に取る行動の原理
    適応
  対人関係的な不安が生じれば、危険の増幅回避のため、修正行動を起こす。他者に対してコメントを出そうとしたところ、その人が嫌がっている様子を見て、失敗したという自覚を持ち、不安を覚えたために、言おうとしていた言葉を言うのをやめるという具合である。自分が何らかの失敗をすれば、心の痛みを感じて、償ったり、言い訳をしたり、様々な修正活動を行う。社会的適応行動である。
  この適応行動の結果、自分の対人関係的危険が解消されれば、事なきを得る。危険の機能が果たされたわけだ。しかし、適応行動が失敗した場合はどうなるか。これは身体生命の危険の場合も起こりうる。捻挫をして歩くのをやめるという修正を行う。休養を取り回復すればよい。しかし、休養を取っても痛みが軽減することもなく、むしろ増強する場合もある。もはや自然治癒力では回復しない場合、不安が増大していく。他の修正行動を行い、何とかその不安から解放されようと努力する。有効な治療を受けられれば良いが治療を受けられない場合、例えば権威のある医師から、もはや足の機能は回復せず、痛みも軽減されることないと宣告されたら、それは絶望しかない。

4 適応不全と絶望
  対人関係的危険の場合も、身体生命の危険の場合と同じような経路をたどる。
  職場のパワハラや学校などでのいじめ、夫婦間トラブルなど、客観的には極めて理不尽な目にあっていても、人間は本能的に適応行動を起こしてしまう。加害者は初めからターゲットを仲間だとは見ていないので、どんな修正行動をしてもそれは効果がない。つまり、どんなに加害者の意に沿う行動を考えて、自分を殺してでも相手に歓心を持たれるような努力をしても、相手からはその行動さえも否定される。自分の修正行動がまずいから相手の歓心を買えないと思い、相手の要求が理不尽で不合理なのだということを思い当たることはない。第三者の観察と意見がなければそれはうまくいかない。しかし、既に自責の念、自罰感情が優勢であるため、第三者の貴重な勧告が受け入れられないことが多い。
  対人関係的危険を感じて、自分の行動を修正するのだが、相手の反応は悪い。そうするとますます対人関係的な危険を感じてゆく。仲間ならば、自分の非を認めて自分の行動を修正しようとすることを評価してくれるはずである。しかし、それをにべもなく否定するのであるから、いよいよ自分は仲間として見られていないと感じるのは当然である。そうすると、ますます危険から解放されたいという要求が高まり、肥大化していく。合理的な思考からはますます遠ざかっていく。意味のない行動を繰り返し、事態は悪化していく。
  どうやら、人間は体の痛みに耐えることができず気絶をするように、心の痛みにも耐える力は無尽蔵ではないようだ。心の痛みに耐えられなくなる場合はどうするか。最悪の場合は自死によって心の痛みから解放されることを志向してしまう。生きるための仕組みであるにもかかわらず、人間が自然界から用意された耐性を超えてしまうと、逆に自ら命を失うことを選択してしまう。
  自死に至らなくても、体は耐えられない痛みを回避する手段を断行する。一つは心の痛みを感じなくする方法である。これは心の痛みだけ感じなくすることができないために、すべての感情を失い、精神活動が全般的に低下していく。うつ病という防衛方法である。あるいは、心の痛みが非日常的で、日常と断絶が起きている事情があれば、心の痛みを起こさせる事情を病的に忘れさせるという方法をとる。思い出さないように無意識に自分の記憶にふたをする。しかし、ふいに対人関係的危険があることを思い出し、しかも不完全な形で思い出す。即ち、精神的恐慌の一歩手前の時点の感覚だけがよみがえってしまう。蓋をしても蓋の隙間から苦しみがにじみ出てくるようなものである。これがPTSDである。その他、心が無意識にその苦しみを合理化しようとして奇妙な解決方法をとることがある。例えば統合失調症と診断されている病態の少なくない部分が、このようなメカニズムで起きるのではないかと感じることがある。いずれにしても、精神が正常な状態であると苦しみ続けるのであれば、人間の防衛の仕組みによって、精神活動を歪ませることによって苦しみを感じにくくさせていることが考えられる。
  一時的に苦しみが遠のいたとしても、理不尽な苦しみ、特に出来事が発生する合理的な因果関係が把握できない理不尽な仕打ちを受けた場合は、またいつ同じ心を痛ませる出来事が発生するか予測がつかない。このために、些細なことでも苦しみの予兆ではないかと不安になる。不安症やパニック症などの認知の歪みや過敏な反応様式が残存することがある。

5 差別を受けたことの心の痛み
  それでは、差別を受けたときの心の痛みとは何かについて考えていく。
  差別は、それがどの人間関係で起きるかに関わらず、対人関係的な危険を感じさせる出来事である。差別は何事においても、自分たちが形成する共同体の中で、あなたは正規のメンバーではないという通告である。極めて大きな対人関係的危険を意識せざるを得ない。
  特に、その人が日常的に所属する人間関係において差別されることは、危険意識が高くなっていく。家庭、学校、職場などでの差別は、毎日繰り返され、終わりがないと意識されることだから、逃げ場を失うことになる。人間の本能として最も良好な関係を望む群れとして扱われる関係であるから、もっとも根源的な要求が否定されることになる。これは心の痛みを大きくする事情である。
  差別の最大の問題は、修正ができないことにある。差別を受けたときにも、無意識に、本能的に行動修正をしようと企図してしまう。しかし、例えば、性別や国籍を変えることができない。自分の生物的な両親を変えることはできない。障害者差別の場合は障害をなくすることができない。差別される事情を修正することができないにも関わらず、心は無意識に修正しようとしてしまう。そして修正できないことに絶望する。本当は、修正することが本質なのではなく、差別しないことが本質であるにもかかわらず、差別をされてしまうと自力ではそれにたどり着けない。
  そのため、自分自身で自分を否定してしまうようになる。自分が差別される事情を抱えているから悪いということで合理化をしようとしてしまう。どうやら人間は、理由がなく差別されるという考えこそが耐えられない苦しみ、絶望を感じるようだ。それよりもまだ、自分が悪いから苦しみを与えられると考えることによって、ぎりぎりの絶望を回避しようとする傾向がある(ハーマン)。
  いずれにしても、例えば障害者差別の場合に障害を解消することができないように、修正する方法がなく、絶望を抱きやすい。差別が日常的に行われること、毎日行動を共にする家族、職場、学校でそれが起きることは心の痛みが大きくなりやすい。差別の主体が、その場の体勢である場合も絶望を感じやすい。たとえ具体的な差別行為が一人で行われていたとしても、他の人間がそのことに抗議する等差別を是正しなければ、全体から自分だけが差別されているという意識を持つ。これがいじめの本質でもある。
  被害者にとって、差別が解消されて仲間として迎え入れられたというエピソードがない限り差別は続いている。たとえ加害者の意識として、差別行為をやめたという意識だとしても、従来の差別行為についての評価が変動しない限り、つまり差別は誤りであり、今後は二度としないということが表明されない限り、差別されているという意識は継続する。職場や学校では、自分が相変わらず無視をされていると考え続けるしかない。いったん差別行動がやんだとしても、差別されていること自体が終わりを告げていないのだから、またいつ激しい差別行動がなされるのか分からず、過敏に防衛意識が高まることになる。
  差別行動が継続された結果、心の痛みの苦しさに耐えきれなくなり、様々な精神病理を発症させることによって、苦しみを緩和させようという体の仕組みが発動してしまうことはむしろ自然なことだと思われる。

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過労死から自分を守るための現実的な手段 社会人になる前に伝えるべきこと [労災事件]




法で、過労死防止月間と定められた11月が終わりました。
各地で中学、高校、大学、専門学校など
厚生労働省の過労死防止啓発授業が開催されたことと思います。
私も東北中を駆け巡ってお話しをしてきました。
本当を言うと、もう一校今週あります。

この授業は、これから就職をするという生徒さん方に
就職をする前から過労死予防を行うということで
とても有意義なことだと思います。

講師によって話す内容は違いますし、
開催学校によって、1時間だったり2時間だったり
時間も違います。

比較的熱心に
最後まで話を聴いていただいており、
話しているこちらが充実する時間を過ごさせています。

さて、何をお話しするか。

色々な考え方があるでしょう。
過労死にまつわる法律の内容
働き方に関する法律の内容を
お話しすることがもしかしたらオーソドックスかもしれません。

問題は、その内容をお話ししたことで
実際に職場に出て上司や同僚に囲まれて生活する
その人たちの過労死予防につながらなくてはならない
ということです。

そもそもどれだけ法律の知識を持てばよいのでしょうか。
法律の知識を増やせば過労死は防ぐことができるのでしょうか。
法律の知識があって、雇い主に対して
「これは法律違反です」と抗議をすることは
実際に可能なのでしょうか。

一つに、そういうことを言って職場が改善されるのかということと
肝心なことは、そんなことを上司や経営者に向かって
いうことができるのかということです。
自分がパワハラを受けているということにさえ
なかなか気が付かないことが実態なのです。

さらには、法律の範囲ないの業務命令ならば
どんな酷い命令もあきらめて従わなければならないのか
ということもあります。
裁判で負けるなら、会社に従わなければならないのか
ということですね。

この考えは、私の独特な思考の結果というのではなく、
実は、「権利とは何か」という理解の問題が関わっています。
法哲学的というか、労働法制史的な理解の違いにあるわけです。

このあたりのことは、長くなるのでざっくり説明します。

元々労働者の権利というものはなかった。
現在権利として保障される行為のほとんどが犯罪だった。
失業することすら犯罪だった
労働組合を作ってストライキをするなんて重罪で
死刑も用意されていた国もある。
しかし、労働者は、自分たちの要求が、組合を作って戦うことが
人間として正当な要求、正当な行為だと信じていた
(正当性の意識、規範意識)
長年の労働者と使用者、国家との衝突を繰り返し
その長年の苦労の結果
国家から権利として保障されるにいたった
ということです。

だから、労働者に限らず、
権利とは、
人間として当然の扱いを受けるということであり、
法律に書かれていなくたって
自分たちにとってそれが人間としての扱いだという
その正当性の意識に根源を持つということなのです。
この人間観というか、正当性の意識が後退すれば
法律がどう規定していようと法律は守られません。
また、法律自体が後退していくこともあるわけです。

大事なことは法的知識ではなく
権利意識、もっと具体的に言えば人間観です。
ひらったくいうと自分を大切にする心、習慣でしょうか。


もちろん法律の話を全くしないわけではなく、
長時間労働とは何かということを
視覚的にプレゼンするわけです。

そして、長時間労働によって過労死する仕組みを
時間に合わせて説明するのですが、
そのポイントは、
「長時間労働をすると、睡眠時間が少なくなる
 睡眠時間が少なくなると、脳や心臓の血管が詰まったり、破裂したりする
 あるいは、睡眠時間が少なくなると精神的に不健康になる」
ということが最大のキモです。
仮にそれまで寝ている人がいても
ここだけは、起こしてでも聞いてもらいます。
(前半なので、寝ている人はいませんけれど)
そして、睡眠時間は細切れにとっても有効ではない
ということをレム睡眠のグラフを見せながら説明するわけです。

長時間労働と絡めて
過労死という言葉が生まれる以前の過労死について説明します。
過労死は戦前からあったわけです。
ただ、くも膜下出血とか心筋梗塞という名前ではなく
結核とか栄養失調による衰弱とかいう病名でした。

これらの病気と長時間労働とのかかわりについては国は意識していました。
当時、現在の厚生労働省の官僚として労働基準法の条文を作った
松岡三郎先生(後に明治大学教授、私の大学にも教えに来ていただいていて、
直接講義を受けたし、もちろん教科書も買いました。)
の教科書にも、一日8時間労働と定めたのは
(当時は週48時間労働)
「労働者が早死にをしないため」と明記されています。

さて、それでは法的知識以上に大切なことはなにでしょうか。
それは過労死の特徴からも導かれます。

過労死は、くも膜下出血にしても脳梗塞にしても
心筋梗塞にしても大動脈解離にしても
うつ病などの精神症状にしても
悪くなるまで自覚症状がないというところに特徴があります。
悪くなって初めて
ああ、そういう病気だったんだと気が付くのですが、
気が付いた時には遅いということが特徴です。

だから、過重労働をしない、長時間労働をしないということで
予防するしかないのです。
ところが、漫然と働いていると
自分が何時間労働しているかすらわからない。
家族とも、長時間労働で顔を会わせないから
家族が異変に気づくこともだいぶ遅れるという仕組みがあります。

ではどうするか

同僚との人間的なつながりがあることだと思います。
同僚ならば、誰がどのくらいきつい仕事をしているかわかります。
同僚ならば、顔色がおかしくなってきたことに気が付きます。
同僚と話すことができれば
パワハラを受けていることを指摘してもらえますから
自分がなぜ苦しいか気が付くことができます。

しかし、現在の職場では
同僚と、なかなかそういう人間的なつながりを作りにくいようです。
あからさまなパワハラを受けていても
関わりたくないという人間が多いために
パワハラを受けた労働者が、
上司の言うとおり自分が悪いのだろうか
という気持になってしまうのです。

私の担当した事件を振り返って、
せめて、パワハラを受けた人に
同僚が、「あれはひどいよね」と
こっそりでいいから言ってあげられれば
もっと救えた命があったのではないかと
ついそう思ってしまうのです。

会社の中で人間的なつながりを作る
ということが一番大切なことです。
これが後半のヤマです。

ここらからが対人関係学の見せ所ということになります。

人間的なつながりは会社に入ってから作ることは難しい
同期でもなければ、自分から作ることも難しいし、
同僚を出し抜かなければ評価されない成果主義の労務管理の中では
さらに難しいということになります。

だから、学校にいる今のうちに仲間づくりを勉強するということを
お話しするわけです。

人は一人で幸せになることはできない。
大切な人間関係の中で尊重されていることが必要だ。
尊重されるということは、
いつまでも仲間としていることができるという安心感であり、
それを一番感じる事情として
失敗や、不十分なところ等人間として当然持っているところを
責めない、笑わない、批判しない
助けられ、補われ
一緒に成長するものだと扱われることでしょう。

そういう環境に自分を置くためには、
自分が意識して仲間にそういう態度で接するということです。
それを生徒さん同士で
部活でも、卒業記念政策でも
あるいは受験勉強でも何でもよいですから
一緒にそういうチームを作ってみる。
そういう訓練をするということですね。

残り少ない学生生活の仲間を
そうやって扱ってみるということですかね。

そうやって、人と人とが分断されやすい現代社会の中で
意識的に人と人とのつながりを作っていく。

仲間がいれば多少法的知識がなくても
これはおかしいと思えるし、言葉に出すことができる。
誰かと知恵を出し合うことができる。
一人だと何もできないけれど、
労働基準監督署に行ってみようとか
過労死弁護団や労働弁護団に電話をしてみよう
(無料だから)
ということでもできるようになるわけです。

どうやら、人間としての誇りとか
正当性の意識というのは
一人ではなかなか生まれも育ちもしない場合があるようです。
同じ環境にいる仲間を守るという意識が
権利意識を持つためにはとても有効なのだと思うのです。
一人だとやはり人間は幸せになれない
ということは真実なのだろうと思います。

誰が何と言おうと自分は大切な存在なんだということ
自分を大切にするということは
仲間を大切にする中で実現するということ
こういうことをお話ししてくるということになります。

(ちょっと考え込んでいたことがありましたが
 書いていて吹っ切れました。
 そうか、対人関係学のルーツとして
 野村平爾先生の規範意識論があったのだということに
 気が付いたことを自己満足的に付け加えます。)

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【お知らせ】11月27日 福島、厚生労働省主催過労死等防止対策推進シンポジウム 普通の企業で過労自死が起こる仕組みと効果的な対策 [労災事件]

ついこの間と同じ記事ではなく、
今度は福島での厚生労働省シンポジウムのお知らせです。

概要は以下の通りなのですが、
私が基調報告をいたします。

参加お申し込みは以下のサイトから簡単にできます。
https://www.p-unique.co.jp/karoushiboushisympo/#area2-6

特徴的なことは、
私の担当した26件の実際の事例を分析した結果に基づいての報告であること
(個別事件の報告ではありません
 死亡事例16件、死亡に至らない精神疾患事例10件)
弁護士が担当したのですから、かなり詳細に事実関係を調査しています。

その上で、もともと確信犯的にパワーハラスメントをしなくても、
つまり普通の企業でも
パワハラが起きてしまい
従業員が精神的に傷つき、自死に至る
ということが起きてしまうというということを
説明しています。

どこにその原因があるかということを
あるいはどういう叱責が精神的に悪いのかということを
具体的な事例に基づいて説明しています。

過労自死を出した会社が悪い会社で
これから起こさなくしろ
という投げっぱなしなお話ではなく、
どうすれば、精神疾患事案を出さないようにできるのか
一緒に考えて、提案するお話です。

特に福島の企業の方は必見だと
手前みそですが思います。

実際の事件を担当した立場からの説明
パワハラ講習というのは
余りないようです。

このような話ができるのは何も私だけの力ではなく、
東北希望の会には、臨床心理士、産業カウンセラー
社会保険労務士等々
あらゆるジャンルの人たちがいて
大学の研究者の方々とも連携しているからこそ
できることです。

今回は私が代表してお話しするということなのです。

ごくごく骨の部分だけ以下に貼り付けます。



精神疾患事案26例の分析
  土井法律事務所(仙台)

本分析の前提 ------------------------------------------------------
確信犯的な使い捨て企業ではない。
   悪意を持って追い込んだわけではない。
   上司が特異な人格破綻者ではない。
つまり、
普通の企業において、
普通の上司が
労働者を精神的に追い込む可能性についての考察
----------------------------------------------------------------------------

対象事件の条件 =============================================
労災認定や公務災害認定で精神疾患を認定された事案、あるいは、
精神科の治療を受けるに至った事案、ないしは
企業が精神疾患に罹患したこと、業務が原因で罹患したことを認めた事案精神疾患事案だと思われても、これらの条件を満たさない例は除いた。

1企業から見た過労死、精神疾患事案
2 結果としての自死、精神疾患
 
3 事例にみられる叱責の内容
 ================ 
1)効果のない叱責
2)大声の叱責
3)矛盾する指示
4)不平等、不公正な取り扱い
5)理由のない決めつけでの叱責
6)遂行不可能な指示
7)不利益の示唆を含む叱責
================

4 不適切な叱責が行われる職場の条件
  =========================== 
  小さな事業場(10人未満)
  上司と部下が1対1でコミュニケーションをすることが多い
  上司と部下の力の差が大きい
  上司の会社内の立場が弱い
  異質な人がいる
  長時間労働
  上司の行動が経営者から把握されづらい
  ===========================
 5 被害者のサイドで見る
1)被災者の属性
   年齢には無関係
   責任感が強く投げ出さず、能力が高いため言われたことをできてしまう。
 素直なのでやれと言われたらやらなくてはならないと感じる。
  家族は、働き方に対して口出しをしない。どうしても働けということもない。やめてもいいよというケースがある。
2)孤立感
 3)不可能感
   不可能な業務指示、矛盾した業務指示
   自分が当該上司から尊重されるようになることの不可能感
6 考察
    わざと辛く当たって発奮させるというのは、よほど信頼関係(自分のことを尊重しているという確信)がない限り、言葉を額面通りとる。「発奮させるため」ということは、第三者が客観的な評価をすれば、つらく当たる「口実」だと思われても仕方がない。
    対象労働者の環境、諸条件、経験年数、知識と与えられた仕事量にてらして、「当該労働者の状況を推測する」ということが欠けている。やらなければならないという会社の事情が優先されて、無理が通ってしまう。
    上司が自分の能力のなさを叱責でごまかしている。あるいは、自分の能力のなさに気が付いていない。能力とは、人を動かすちから、効果的な指示、困難を受け止める度量、上司に対して穏便に筋を通すノウハウ
7 対策1 何に注意するか
  過剰叱責が起きやすい職場にあることの自覚
  <上司の方へ>
 <経営者の方へ>
8 対策2 心構えないし点検方法
  <部下は>
  孤立していないか。
  不可能を強いられていないか。
  自分と上司ないし経営者が一つのグループになって、部下が、グループに敵対する存在だと感じていないか。
自分(たち)の足を引っ張る存在、
自分(たち)に不利益を与える存在、
自分(たち)を苦しめる存在
   ⇒ これが成立すると、本能的に部下は「敵だ」という意識になってしまう危険があります。その結果、過酷な叱責、人格否定の言動が起きてしまうようです。
     かわいそうだからやめようというパターンが成立しなくなります。
当該部下を仲間として考えるように意識する必要が生まれます。

9 人間関係論(メイヨー)の修正骨子
  人間は、自分が尊重される集団を仲間であると認識する。
  人間は、仲間だと思う集団のために本能的に働こうとする。
  自分が尊重されていると思わせる労務管理は、生産性を高める。
参考文献
 A 「コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする
    申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。」カレン・フェラン
   大和書房
  
B 「モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする」
   マリー=フランス・イルゴイエンヌ 紀伊國屋書店
  
  AとBを整合させて考えると、亜流コンサルタントはGE「ぽい」手法を提案するが、生産性向上をあげる部分(=人を大切にする部分)を除いて提案しているということになる。経営者は、短期的な売り上げに過度にこだわりをもたされ、厳しいか厳しくないかということに労務管理手法の選択基準をおいていると判断した亜流コンサルタントが「ニーズ」に適合する手法を提案していると考えると整合する。

 C 「労働時間の経済分析」山本勲 黒田祥子 日本経済新聞出版社
 D 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン みすず書房
   

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【お知らせ】 過労死等防止対策推進シンポジウム 仙台 やる気のある若者による生産性向上を実現する会社の作り方。浜田真理子さんのミニコンサート付き [労災事件]

平成30年11月13日火曜日2時から
エルパーク仙台(三越定禅寺通り館、旧141)
スタジオホールで
厚生労働省主催の
過労死等防止対策シンポジウムを開催します。

まだまだ余裕がありますが、
下記ページから予約していただくと確実です。

https://www.p-unique.co.jp/karoushiboushisympo/#area2-3

なんで私がこれをここで宣伝しているかというと
企画及びちょこっと出演をするからです。

ブラック企業対策仙台弁護団事務局長から
若者使い捨て企業とは何かというお話と
グリーンディスプレイ事件という事件の概要の説明があり、

遺族(お母さん)の訴えがあった後、
パネルディスカッションに入ります。
まず、事件を支援していたポッセの方のお話があります。

そうして話し合いに入っていくのですが、
テーマは普通の企業がブラックになってしまう要因と対策
ということになります。

老舗企業であっても、
若者に対する見方にはやや危険なところがあり、
世代が離れてしまうと、自分と違うところを持つ人の
良さということに気が付きにくいということがあるのでしょう。

社会保険労務士の先生から、そのような
企業の実態を報告いただきます。
同時に若者が起こした職場改革の実例にも言及していただき、

さらには、離職率0のために生産性が150%上がったという
奇跡の企業の紹介があります。

なぜ、一方で若者が追い込まれて
生産性が上がらず
皆が不幸になる企業がある一方、

低賃金なのにやる気のある労働者ばかりで
生産性が上がり
それなりの幸せを獲得している企業があるのか

その秘密について解き明かしていく予定です。

何よりもミニコンサートの紹介をしたかったのです。
これまで、遠野物語のあんべ光俊さん
翼の折れたエンジェル作詞作曲の高橋研さん
という信じられないアーチストのミニコンサートをしてきましたが、
今回は浜田真理子さんというシンガーソングライターの
ミニコンサートがあります。

とにかく歌がうまい。
私が言うことではないのですが、
音階の正確さが、延ばす音の一定感が
聞く方に心地よいのではないかと
にらんでいます。

熱狂的なファンが多いので、
余り余計なことは言わない方が身のためだと思いますが、
無料で生の浜田真理子さんを聞ける
ということを告知することも
身のためだということに気が付いて告知している次第です。

おそらく当日でもふらり来れると思うのですが、
先ほどの頁から申し込みをしていただくことが
確実だと思います。

ちなみに私は、浜田真理子さんのアルバムは
タウンガールブルースというのがとても好きです。






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労災死亡事案等で会社がかけていた保険の署名押印の手続きをしたが、遺族に保険金が支払われない場合 [労災事件]

会社の業務中の事故等で、家族がお亡くなりになった場合、
会社から、
「保険金をおろす手続きをするので、
 同意書などに署名押印してほしい」ということで、
会社の人か保険代理店の人が持参した用紙に
署名押印をするということがあります。

しかし、いつまでたっても会社からはお金の支給はない
「あの書類は何だったんだ」
というような案件が、どうも現実にあるようです。
これは、本来遺族に引き渡されるべきお金を
会社が遺族に引き渡さないということが起きている可能性があります。

多くは、従業員や下請労働者がなくなった場合
定額で支給される損害賠償保険であることが多いようです。

このような保険は団体定期保険等と呼ばれています。
他人の生命に保険をかけることが特徴です。

かつては、規制が緩やかで、
従業員が死亡しても企業がお金を遺族に渡さない
ということが多発して大問題になりました。
一つは、他人が死亡したことによって会社が利得することは
不道徳ではないかということ
一つは、安全配慮をしなかった会社が利得するのでは
安全対策などを会社が怠るようになるのではないか
ということです。

これが許されていたのは日本くらいで
他国では、企業に利得を残さないことが
法律で定められることが一般的です。

そこで、平成8年、ようやく日本でも基準を見直して、
総合福祉団体定期保険
という商品が導入されました。
現在では、このような保険に変更されているはずです。
この商品内容は、金融庁の監督指針Ⅱに従って
作られていることになっています。

つまり、
主契約部分は、会社が定めた遺族補償規定に基づく支給金額
を上限としている
保険金を全額遺族に支払う
但し、付加契約においてヒューマンバリュー特約を付けて
主契約の金額以下、かつ、2000万円以下でなければならない
としています。

つまり、原則として保険金は遺族に全額支払われる
ということになります。
また、保険会社は、直接遺族にお金を振り込まず
一旦契約者である会社に振り込む場合は、
遺族が振込みがあることを知った場合にのみ
会社に保険金を払うという扱いになっています。

だから、いったん会社にお金が入るので、
遺族の署名押印が必要となるわけです。

それにもかかわらず、
遺族にお金が支払われないということは、
大変な問題になる可能性があることになります。

ところがこれが発覚しにくい事情があります。
一つは遺族に情報がないからです。
社内の弔慰金規定などは知らないでしょうし、
遺族にお金が払われなければならないという情報もないでしょう。
また、自分で保険金をかけていたわけではないので、
保険会社から保険が払われるということすら
知らないことが多いようです。

また、本ブログ記事のような情報を
積極的に広めている媒体もほとんどないでしょう。

金融庁が管轄となるのですが、
主として、金融庁は保険会社に対しての説明をする機関でして、
一般消費者の質問は不馴れなようです。
監督指針の内容をすべて把握しているわけでもなく、
本件の規定についても概ね頭に入っている
というわけでは必ずしもないようです。

だから、遺族は
なんか変だな、保険が出るようなのだけどな
ということを思いながらいつしか忘れていくことも
実際はあるようです。

会社に問い合わせてもごまかされるし、
金融庁に問い合わせても要領を得ない
ということになりそうです。
保険会社では、このような変更があることを
知らない担当者もかなり多いようです。

お金はかかるけれど、
支給金額が1千万円を超える事案もありますので
それが不当にもらえないということになりますから
弁護士に依頼することが早道です。
但し、「総合福祉型団体定期保険」
という言葉を知っている弁護士を探すことが必要です。

実際の事例では、びっくりするほど迅速に解決した事例もあります。

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自己保身のために文書を改ざんした財務省職員と住民のために自らの命をなげうった被災地公務員は同じ公務員なのか [労災事件]

森友問題で、財務省の高級幹部が
首相の発言に合わせて文書を改ざんしたと報じられました。
これは、国民の行政に対する監視機能を阻止するものです。
国の統治にかかわる問題であり、極めて深刻な問題です。

なぜ、彼らはこのようなことを行ったのでしょうか。
どうしてやめようと体を張る公務員が皆無だったのでしょうか。

国民の利益を考えていないことは明らかです。

では、首相の利益を考えたのでしょうか。
そこには少し疑問があります。
仮にそうだとして、どうして首相の利益を図ろうとしたのでしょうか。

忖度という言葉があります。
なぜ忖度をするのかということにつながります。

私は、結局は自分の利益なのだろうと考えます。

人間は誰かから評価されると安心します。
評価されつづけていると、
評価されないことで不安を感じてしまい、
他人からの評価に執着してしまいます。
いわゆる褒め育ての弊害です。

そうすると、自分を評価する上司等から
自分を評価されたいという気持ちになるものです。

今回も、自分が上のために辣腕をふるい、
汚れた仕事もこなすということで
評価されたかったのだと思います。
つまり自分のためです。

そうでなければ、隠ぺいした文書、
隠され続けている文書に
自分たちの逸脱行為が記載されているという可能性もあります。
そうだとすると自分たちを守るために
国民の利益を犠牲にしたということになるでしょう。

籠池氏に詐欺罪が成立するためには、
相手(国の担当者)をだましたという行為がなければなりません。
はじめから国と打ち合わせをして値引きしたのでは
詐欺罪が成立しません。
そんなことも文書には示されていたのかもしれません。

いずれにしても自分たちの利益です。
国民の利益ではありません。

こう言うニュースに触れるとすぐに思い浮かぶのが
仙台市若林区の職員や南三陸町の職員が、
住民の避難誘導のために、
自らの命をなげうって津波の犠牲になったことです。

私は、特殊公務災害申請の代理人として、これらの出来事に深くかかわりました。

公務員は、天災などの災害時に
住民の避難誘導を行うという公務があります。

若林区の職員は、
これから津波が来るとラジオで非難が呼びかけられていたにもかかわらず、
上司の命令で海辺の住民に避難を呼びかけに
安全な区役所から広報車で向かい避難誘導を行いました。

この活動で命を救われた住民の話によると、
彼らは、いやいや津波に向かっていったのではなく、
本当に一人でも多くの住民を助けようと
意欲的に避難を呼びかけていたようです。

南三陸町の職員も
防災対策庁舎にとどまれば命が危ないかもしれない
ということは重々承知しており、
家族に最期のメールを送信していました。

逃げることをせずに、住民のために自ら命を捧げたのです。

私は、本当にその公務を遂行しなければならないのか
ということにもろてをあげて賛成することはできません。
私の依頼者である遺族の悲しみを見るにつけ
後で非難をされても適当なところで逃げかえってもよいのではないか
と本音では考えています。
自分の家族だったらと思うとそう思わずにはいられません。

でも彼女ら彼らは、住民の命を守るという選択をしたのでした。
私は、もっともっと称賛されるべきだと
常々思っています。

ただ、もっと言わなければならないのは、
津波で亡くなった方はそれだけでないということです。

せっかく年休をとっていたのに、
規則で職場に駆け付けなければならなかった学校の先生が
途中で津波に巻き込まれて亡くなったということもありました。
ただ、教え子を安心させたいという想いから
危険を承知で駆け付けられました。

また、津波には巻き込まれなくても
重大な疾患を抱えながら
住民のために不眠不休の活動をされ
大量の吐血をして亡くなられた公務員もいます。
彼は定年退職間際で、
年休を消化して出勤しなくても済んだのに、
1週間不眠不休で食うや食わずで働きました。

さらに亡くならなくても
被災地の公務員は2ヶ月くらいは休みなく働き続けました。
海辺の避難所を回っていた職員も
自宅を津波で流されていました。
「あなたこそ大丈夫?」という被災者の言葉に号泣してしまったそうです。

県庁の職員は、新聞紙さえひかずにゆかでごろ寝をしていました。

この公務員の災難はその後も続いています。
不眠不休の長時間労働をしてうつ病になったり
長期間家庭をあけたりして
夫婦仲が悪くなって離婚に至るケースが
離婚事件を多く扱っている弁護士と話すと
みんなそういう事例を持っていました。

命を無くした職員とその家族だけでなく
その後しばらくたってから
震災後の活動が原因だとそれぞれがわからないまま
かけがえのない家族を失っているのです。

これが被災地の公務員です。

国家公務員は、同じ公務員でも全く違うようです。
少なくとも財務省職員は違うようです。

自分の利益のために国民の利益を犠牲にする職員が
真実を語らないまま私たち国民の利益のためにしなければならない
仕事を続けるということに
恐怖を感じます。

現政権の問題と切り離して
それ自体の問題もあると考えなければならない問題だと
私は思っています。
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市長救命の女性を土俵から降ろすアナウンスの「釈明」の何が足りないのか。あと一歩踏み込んだ反省を [労災事件]

極めて象徴的でわかりやすい事例になってしまったので、
取り上げさせていただく。

平成30年4月4日、大相撲舞鶴場所で、
土俵の上で挨拶をしていた市長が倒れた。
くも膜下出血だったらしい。
緊急に手当てをしようと女性の医療関係者が土俵に上がったところ、
女性は土俵から降りるよう場内アナウンスがされたとのことである。

当然大問題である。
ただ、相撲協会も釈明で、
“女人禁制”の伝統には「人命より大事なものはこの世に存在しない。女性が土俵に上がってはいけないという話とは違う次元の話」
と述べている。

「伝統」とか、「神聖」とかが
倒れた市長の命より優先されるアナウンスだった
ということを言葉にしたところは評価しなくてはならないだろう。

しかし、まだまだ足りない。
それは、なぜ、そのようなアナウンスをしてしまったか
その理由について
「(観客席の声に)あわてて反応してしまった」としているところである。

以上は、下記報道から。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180405-00000161-spnannex-spo


この時、アナウンスをした者は、
二つの反応をすることが考えられる。

人命が最優先であるから、女性が土俵に上がることを容認する。
土俵は神聖であるから、女性が土俵に上がることをやめさせる。

前者の反応をしたのがなぜかということを考えなければならない。
これが、前向きな反省である。
アナウンスをしたものの責任で終わらせない反省である。

パワーハラスメントや、セクシャルハラスメント等は
だいたいが、些細なことに対する「反応」である。
ハラスメントをする、しないという
2種類の反応が選択肢としてある。

どちらを選ぶかにどのような違いがあるのだろうか。

それは一言でいえば、協会の言うように、
人命、人格に最大の価値をおくか
それ以外のものに価値をおくか
という違いである。

会社全体が、長時間労働や労働強化という
利益追求優先(利益優先ではない残念ながら)で
命や人格に価値をおかない風潮が多いところに
ハラスメントは横行している。
つまり退廃である。
当然、長続きしない経営方法である。

人命、人格、つまり人間を大事にしようとするならば、
過労死の危険云々の前に
家族と一緒の時間を過ごせない働き方自体を
させることができるわけがないと私は思う。

「会社は厳しいのだ」
という呪文を繰り返して労働者の人格を攻撃し、
その影響を家庭に持ち込んで
家族不和の原因を作ることになるかもしれないと
人間を大事にすることに価値をおくならば
気が付くはずだ。

そもそも感情のある人間を
困惑させることだって、
心理的抵抗を覚えるはずである。

過労死やハラスメントの情緒的原因は、
この人間を大切にしない風潮である。
人間を使い捨てのきく資材と考えている風潮である。

相撲協会の場合は、
「神聖」な「伝統」である。
これが人間を大切にする価値観よりも
重く置かれているということが
最大の問題なのだ。

だから、
横綱の話を聞かないということで暴行をするのだし、
先輩力士の気に障ったら、暴行をするのだし、
立行司がセクハラをすることになる。

今回のアナウンスと一連の不祥事は
同じ根を持っている。
ここまで気が付いてほしい。

むしろ今回のことは、
相撲協会の再出発のための
問題点をクリアーにした。
責任問題よりも、この問題点を解決する
その糸口になったとみるべきだと思う。

大相撲は、巨漢が猛スピードでぶつかり合う。
立ち合いの運動エネルギーはすさまじく、
死と隣り合わせと言っても過言ではない。

ついつい、人命や、健康を
おろそかに考えてしまう危険が常にある。
だからこそ先人たちは、
相手に対する礼や、威厳というものを
大切にして、人間性を失わないように
工夫をしてきたのだと思う。

ただ、会社での例を挙げたけれど、
何か、明確な目的があると
このように人間を大切にしようとする価値観が
後退するということに気づかせてくれた
と前向きにとらえたい。

学校の部活動でも
考えてもらいたいことではある。



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二度、地方公務員災害補償基金支部審査会で逆転認定を受けた公務員 [労災事件]

公務中の事故で、外傷性頸部症候群等の傷害を負った方がいます。

地方公務員の場合は、地方公務員災害補償基金に対して
当該公務員の所属長が公務災害を申請します。

裁判みたいに三審制になっており、
先ず地方公務員災害補償基金都道府県、政令市の支部長が判断します。
ここで認められない場合は、
支部に設置されている外部委員で構成する
支部審査会で判断します。

ここでも認められない場合は、
本部の審査会で判断することになります。

どこかで認められれば確定ですが、
どこでも認められない場合は裁判になります。

但し、この様に三審制ではありますが、
なかなか逆転認定が認められることはありません。
例えば、平成27年の数字
http://www.chikousai.jp/gyoumu/fufuku/kensuu/h27/h27saisin.pdf
57件中3件しか認められませんでした。逆転率は5%くらい。

と思っていたのですが、
28年は、結構逆転してますね
http://www.chikousai.jp/gyoumu/fufuku/kensuu/h28/h28sin.pdf
152件中27件というのは、18%くらいの逆転率ということになりますね。

それにしても、請求自体が倍増していますね。
(請求件数と処理件数が違うのは、年度またぎがあるからです。)
無理な不支給決定が増えてないとよいのですが。

外傷性頸部症候群の公務員は、
支部長段階で後遺症があるにもかかわらず、
後遺症が無いと認定されました。
支部審査会で、やっぱり後遺症があると
認められたのでした。

実はこの方、同じ公務災害で
前にも逆転認定を受けています。

それは、この怪我について
お医者さんの言われるとおりに治療を受けていたのですが、
それは公務災害とは認めないとか
もう治療は終わっていると
治療を継続しているにもかかわらず、
一方的に打ち切られたので、
不服申し立てをした結果、
まだ治療は終わっていなかったと
逆転認定されたという経験があります。

同じ人で、同じ事件で
二度の逆転認定があったということは
おそらく初めてのことではないかと思います。

この時の支部長の治療打ち切りの理由がすさまじかったのです。
むち打ちは、通常3カ月で治るのだから、
もう治っているはずだ
というようなことでした。
保険会社も、そんなこと言わないだろうという勢いのはなしでした。

そもそも、外傷性頸部症候群は、むち打ち症だけでなく、
その他の症状が出るから症候群なのです。

しかも、複合的な外圧がかかった複雑な症状なのに
3ヶ月でという単純なむち打ちのケースを持ち出してくることにも
無理がありました。

今回の理由もひどかったです。
レントゲンやMRI等の画像所見が無いから
後遺症はないというものでした。

しかし、軟部組織の挫滅の場合は
画像に写りません。
画像に写らないから痛みが無いとは言えないのです。
後遺症について知らないようでした。

さらには、
ストレートネックの画像所見があるにもかかわらず
臥位で写した画像でストレートネックが見られないとして
ストレートネックが治ったと言いました。

臥位(横になっての撮影)の場合は
ストレートネックがあっても判断が難しいのに、
それを根拠にないと言い張るのです。

もっとあきれたことは、
明らかなストレートネックが撮影された日から
わずか5日後の画像だったということです。
5日でストレートネックが治るということはありません。
こんな判断を医師がしたということになっていますが、
ことによると医師は関与していなかったのかもしれません。

もし医師がそのようなことを本当に言ったら、
大変問題だと思います。
医師のコミュニティーでの自浄作用が
必要なのではないかと考えます。

是非、実名で
「ストレートネックは5日で治る」
という本を出版していただきたいと思います。

公務災害や労働災害は、あるいは交通事故もそうですが、
法律や判例だけを知っていても
解決できないことがお分かりになると思います。

医学的常識を持たないと
どの点がむちゃくちゃで理由がないことを言っているか
分からないので、活動しようがないということになります。

逆に医学的な知識だけあっても
公務災害や労災保険の制度を知らないと
本当は補償されるはずなのに
申請すらさせてもらえないこともあります。

例えば、ブルガタ症候群は
遺伝的要素が大きい疾患だとされています。
(但し、患者の25%程度しか、
 関与している遺伝子を確認できなかった
 という報告もあるようです)

だから、労災制度を知らないと、
ブルガタ症候群だから
労災の対象にならないという
変な思い込みをする医師もいたりするわけです。

労災は、基礎疾患を自然的経過を超えて増悪させる場合も含まれます。

つまり、医学と法律と両方をある程度わからなければなりません。
弁護士も、できるだけ多く医学的な事件
労災や交通事故等に関与し、
一つ一つの疾患について、
よく議論の内容を理解し、記憶に入れておくことが望ましいということになります。

とは言っても限界がありますから、
弁護士は、気軽に話を聞ける医師が身近にいる
お医者さんにアドバイスを受けられる状態にする
ということが実務的には有効です。

そうして作戦を練って
主治医の先生と相談したり、
鑑定を依頼したりするわけです。

はじめから丸投げでおねがいしても
有効な医学的証拠は得られません。

そうして、かつては開かずの扉だった
地方公務員災害補償基金の審査請求も
けっこう認められるようになってきました。

だから、支部長段階で認められなくても
医学的に、医師と連絡が取れる弁護士に
相談することが必要だし、
審査請求の件数が増大しているところを見ると
理不尽だと感じる不支給が増えている可能性もあることから、
先ずは、相談してみる価値がありそうだと
そう思いました。

最後に、今回二度目の逆転認定をされた公務員の方ですが、
先ずは、ご自分で、理不尽だという強い思いを持たれていました。
これが無ければ逆転認定はなされなかったと思います。

もう一つ、
ご家族の徹底したフォローがありました。
お一人では、なかなか打ち合わせに来ることも難しかったようです。
ご家族の支えがこの結果を導いたのではないかと考えます。

おめでとうございました。

それから最後に、
主治医の先生や当事務所のアドバイザー医師の先生
本当にありがとうございました。
何度も同じことを聞いても
時々しかうっとうしがらないで
粘り強く教えていただいたおかげで、
今回の結果につながりました。








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パパは写真の人 [労災事件]

「青空と千切れ雲はパパの記憶」

高い高い青空に 千切れ雲が浮かんでた
それは私のパパの記憶の全部

私が起きる前に出かけ 眠った後に仕事が終わる
日曜日もなくて いつも家にいなかった。
私が三つになったころ、パパは写真の人になった

私はパパの動いている姿は覚えていない
パパの声も知らないし、匂いもわからない。
それでも私には、確かにパパがいた。

高い高い青空に千切れ雲が浮かんでた
それは私のパパの記憶の全部

一度だけパパに連れてってもらった
その角を曲がったとこにある近所の公園
ただ一つだけ覚えていること

高い高い青空に千切れ雲が浮かんでた
それは私のパパの記憶の全部

人はみな青空を見ると 晴れ晴れとするという
私は青空を見ると懐かしい気持ちになる
私にはパパがいたことが私にも分かるから

高い高い青空 千切れ雲が浮かんでた
それは私のパパの記憶の全部



「早く帰ってくればいいのに」

パパ早く帰ってくればいいのにって
写真のパパに言ってた私の口ぐせ

でも今日私は気づいてしまった
本当はママの口ぐせだったこと

写真の人なる前に、ママが私と二人の時
ついつい口から出てしまっていた ママの口ぐせ

パパが写真の人になった時に
ママはその言葉を言わなくなった

ママが言わなくなったことが
意味もなくわたしは寂しかった

私が写真のパパを見るたびに
早く帰ってくればいいのにって

いつも言ってたのは、ママの代わり
本当はそうだったんだ

私がいつも言うたびに
ママはどんな顔をしていたのだろう
いつしか私も言わなくなって
ママの顔も思出せない

ママは一度だって 私のいうことを
止めることはなかったけど

本当はママこそ言いたかったんだ
パパ早く帰ってくればいいのにって





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