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品質偽装等の企業犯罪が起きる理由 コンプライアンスという言葉が意味をなさない理由 [刑事事件]

長年にわたり品質検査を改ざんしたり、
検査そのものに瑕疵があり続けていることが
次々と発覚しています。

コンプライアンスという言葉があるくらいですから
今般問題になっている企業も
それなりのコンプライアンスの整備を
お金をかけてやっていたことと思います。

おそらく、法律や道徳という規範(きはん
平たく言えばルール)を守る仕組みを作っていたことだと思います。

長年刑事弁護をしている者としては
なるほどそれではダメだろうなと思っているので、
どうしてダメなのか、どうすればよいのか
ということをお話しします。

刑事弁護で、例えば万引き犯の弁護をすると
万引きが窃盗罪に当たるかどうかはともかく、
それが法に触れることだということを知らない人はいません。

もちろん、法律は守らなければならないことで
自分のしたことは悪いことだということはわかるのです。

多くの刑事裁判で万引き犯は、裁判所で、
悪いことは重々分かっている
今後気を引き締めて二度とやらないことを誓う
という言っていることでしょう。
これでは万引きを繰り返すだけです。

色々なノウハウがあるのですが、
今回は企業犯罪との関係に絞ります。

要するに、「法律があるから、道徳があるから
人は犯罪をしない」
ということではないということが重要です。

こういう考えは、
人間の自然体は犯罪を厭わない弱肉強食だ
だから法律があって悪辣な人間を縛るのだ
という考えです。
中国でいえば、荀子の思想になじむものです。

しかし、どうですか、
あなたは、法律で裁かれなかったら
弱い者から金銭を巻き上げて平気でいられますか。

あなたが殺人を犯さないのは
法律があるからですか。

小学生を拉致してぼこぼこに殴らないのは
道徳に反するからですか。

実際は、それをしたいと思わないからしない
という方が実態に近いように思います。

しかし、種々の事情
広い意味で自分を守るため等の理由から
犯罪を起こします。
その時、法律や道徳があることは
あまり実行を妨げないようです。

先ほども言いましたが、犯罪を実行した人は
自分のしたことが法律や道徳に反することを
知っています。

では、どうして、多くの人たちは
自分を守ると言っても犯罪を実行しないのでしょう。
思いとどまる理由は何なのでしょうか。

私は、それは、被害者に対する共鳴、共感があるからだと思います。
命を落とすことの恐怖、
お金を巻き上げられ事の経済的損害や屈辱、恐怖
叩かれることの痛さ、怖さ、孤立感
そういう負の感情を共感、共鳴によって感じ取り
ギリギリのところで自分の行為を思いとどまる
こう言うことが多いのではないでしょうか。

それを裏から証明することができます。

弁護士が弁護する被疑者被告人の方々は、
自分がした行為によって誰にどのような迷惑、被害を与えたか
直ぐに口に出すことができません。
その人の苦しんでいる顔を想像することが
色々な事情によってできないようです。

大型店舗の万引き犯の場合に苦労するのも
そういう具体的な人間の感情を伴った被害を
想像してもらうことなのです。

結局犯罪はなぜ起きるのかというと、
実行時に、被害者の心情に共鳴、共感できないからだ
ということになろうかと思います。

だから刑事弁護では、
まず初めに、具体的な人間が被害を受けて
悲しんでいたり、苦しんでいたり、という当たり前の感情を
想像して、言葉に出してもらうことから始めています。

形式的な法違反ではなく
実質的な法益侵害を理解してもらうという言い方もできるかもしれません。

今回の企業の一連の不祥事は、
世界的信用性を無くすということが指摘されています。
世界的なビジネス常識として、
コンプライアンス違反は
企業の経営状態の悪化を意味しているからです。
余裕のある企業はコンプライアンス違反をしない
という建前があるのは当然です。

さあ、ここから企業はどのような反省をするのでしょうか。
気が緩んでいた、法律や企業道徳の理解が不足していた
今後は気を引き締めて緊張感をもって頑張る
というまるっきり無意味な反省をして
日本という国を巻き込んで沈没していくのでしょうか。
刑事裁判なら限りなく0点に近い反省です。

もう、言わずもがなだと思うのですが、
やるべきことは、
自分が行った不正によって、誰がどのように迷惑、損害を被ったか
どのような被害があり、そのことによって
誰がどのような感情を抱いたか
途方もない被害者になりますが
それを一つ一つ考えていくことです。

それが反省の出発です。
どんなに法律を勉強して
ストッパーを構築しても、
自分の経済活動が人とつながっているという当たり前のことが
企業人すべての共通認識になっていなければ
再発は必至でしょう。

今度はばれないようにやる
という技術だけが向上するでしょう。

大事なことは、自分たちの企業活動が
人の幸せにつながっているという
社会の中の役割感、仕事をするほこりを育てる
ということなのですが、
理解されるか、とても自信がありません。

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弁護士は、なぜ強姦事件を弁護するのか、弁護できるのか、何を弁護するのか [刑事事件]

特定の事件のことをコメントしているわけではありません。
また、性犯罪加害者の刑を軽くしようと思って書いているわけでもありません。

特定の事件を弁護士がコメントしないことには理由があります。
先ず、情報を持っていないということです。
情報を持っていないのに、
あの判決は不当だとか
あの弁護方針はおかしいとか
そういうことは言えないのです。

法的関与の方針決定をする場合、
事件や被害者、被告人の更生の方法
そのための弁護方針、
細かいことを言えば、当該裁判の裁判官の傾向
もろもろを考慮して決めますので、
実際に事件に関与しないとわかりません。

報道された情報があるのですが、
警察発表は一方的になりがちで、
悔しい思いを弁護士は何度も経験しています。

児童虐待で逮捕された男性は、
性的虐待の可能性もあると広く報道されてしまい
繰り返し全国ニュースで勤務先まで写されてしまいました。

後に民事系の裁判で、
性的虐待は母親の妄想の産物だという判決が出て、
刑事事件も偶発的なかすり傷であり虐待ではないとして
起訴さえされませんでした。

警察からも報道機関からも一言も謝罪もなく、
家庭のことで冤罪なのに、男性は職場から処分されました。

そういうことで、弁護士として事件を見る場合
報道が正確だとは初めから思っていません。

但し、もちろん家庭の中のオヤジとしては、
「こいつ許せねえ」等と息巻いているのですが、
弁護士としては「私は事情が分かりませんので」
というわけなのです。

さて、タイトルの、なぜ強姦事件を弁護するか

その前に、ネットで性犯罪の弁護士と検索すると
なぜか私の名前が出てくるらしいのですが、
性犯罪の被害の重大被害を語っているうちに
いつしか弁護側になっているのかもしれません。

一言、性犯罪は予後が悪いです。
例えば、幸い未遂であったとしても
雨の日に被害に遭われた方は、
雨が降るだけで、恐怖を感じ、
被害の時の感情がよみがえってしまう
それほど辛いことで、
その後の人生が台無しになるくらい
被害が甚大なのです。

よく、被害者にも落ち度があるなんていう人がいますが、
こういう人のこういう話が
被害者を孤立させ、罪悪感を植え付け、
益々被害を甚大にするのです。

確かに、被害にあわないように
夜遅く一人で歩かないようにしましょう
と言われ、これは真実だと思います。

しかし、これは、
夜遅く歩くと、「悪い奴が来て」被害にあってしまうから
歩かないようにしようという
予防のための論理です。

実際悪い奴に遭遇してしまったといっても
悪い奴は悪い奴であって、
被害者が悪くなるという論理はないのです。
訳知り顔で人を否定するなと強く言っておきます。

さて、そのような重大な犯罪ですが、
弁護士はなぜ弁護するのか。

一言でいってしまえば
それが弁護士の仕事だからです。

こういうと金のためにやるのかと思われがちですが、
ちょっと意味合いが違います。

法制度上、そのような役割のために
弁護士による弁護という制度が設けられている
ということが近いと思います。

このような法制度がない時に
コミュニティーから排除しなければコミュニティーが成り立たない場合、
どうやって排除をしたのかよくわかりませんが、
寄ってたかって、排除したのだと思います。
孤立させられて、石をぶつけられて
追い出されたか、殺されたか。
凄惨な排除だったのではないかと思います。

しかし、国家が成立し、文明が起こると
そのような野放図なリンチは行われなくなっていきます。
いろいろな建前を作りながら、
排除者の側の心理的負担を軽減していくのです。
納得の契機みたいなものもあるのでしょう。

犯罪者であっても、
人権を認め、防御権を認め、
できるだけ理性的な装いをつくるわけです。

社会秩序のために人を罰するわけですから
罰し方によって社会が殺伐になって行ったら
元も子もないからです。

犯罪者の言い分もよく聞いて、
決して無罪の人を罰せず、
仲間として尊重しよう
こういうのが文明の発達とされています。

だから犯罪者を孤立させない。
一人ぐらいは専門家を味方にしよう。
そうやって言い分をきちんと言わせよう。
国民も犯罪者も納得して罰することが
秩序維持にも有効だ
ということになります。

その役割を担うのが弁護士ということです。
ちなみに刑事裁判の弁護は弁護士しかできません。

研修所では、無罪弁護を中心に研修しますが、
私は、これは懐疑的です。
無罪弁護はもっとも大事な刑事弁護ですが、
弁護士の基本は、
犯罪者に寄り添う、悪い人の味方になること
だと思うからです。

犯罪者は、究極のマイノリティーです。
あからさまに悪い事件は、
社会の非難も大きく、
勢い、裁判所でも過酷な刑罰が科される傾向にあります。
完全に孤立しているわけです。

弁護士は、その普通のというか自然の
人間の感情の前に立ちふさがり、
人類の近代、文明を守ろうとする仕事
ということになります。

それは弁護士しかできません。

なぜ弁護できるのか。

じゃあ、無理して弁護をしているのか
と言われると、そうでもないというのが本音です。

確かに、被疑者、被告人の方と会うまでは、
どんな犯罪が行われ、どんな被害を受けた人がいる
という基本情報しかありませんので、
初対面の前は、どんな悪い人を弁護するのかと
緊張をしています。
しかし、実際に顔をあわせると
拍子抜けするほど普通の人ということが殆どです。

そうやって、プラスチックの板越しに話をしていると
益々、どこにでもいる人だなあという感覚が強くなります。
私は20年以上もこんな感じです。

だんだんと、生まれながらの犯罪者という人はいない
犯罪を行うことには、必ず何か理由がある
という感覚になっていきました。

その理由を理解するためには
それこそ専門的な能力が必要ですし、
それでも的外れのこともありますし、
なかなか心のブロックが固い人もいます。

だけど、そこがわからなければ
自分がどうして犯罪をしたのかということがわからず、
どうやったら今後犯罪をしないですむのか
ということがなかなか見えてこない
そのために必死になって
共同作業をするわけです。

そのためにも、被害者の苦しみを
理解しなければ文字通り始まらないのです。

被害者の被害の大きさを実感し、
是非とも二度とこういうことはやらないようにしたいと思い、
親権に自分の人生を考えてもらう
これが弁護なのです。

警察の人とこういう話をした時、
「弁護士は被害者の反省を助ける仕事」
という言葉をいただきました。
何気なく言った言葉を拾ってもらい
ハッと新鮮な緊張が走った記憶があります。

だから、あまり、刑を軽くするという目的での弁護はしません。
もちろん被告人の方の最大の関心事が刑の重さなのですが、
そのこと以上に、自分の今後の生き方を見つめることが大事で、
それがうまくいったときは、
良い結果もついてくるのです。

さて、タイトルの強姦事件です。
強姦事件もそうですが、性犯罪事件一般に共通の事情があるようです。
全部が全部というわけではありませんが、
弁護した実感としてということになります。

それは、
その人の日常生活において、
自分で自分のことを決めることができない
誰かに自分の行動をコントロールされている
という息苦しい、支配されている感覚を持っている
そういう場合が多いようです。

自分であれこれしたいことがあるのに
誰かが、それをさせられないで別のことをさせる
それが日常的に繰り返されている
自分で決めることができない

しかし、その息苦しさに気が付いていないこともあります。

いわゆるエリートと呼ばれる人の性犯罪はこの傾向が強く
マルチの仕事を同時にこなさなければならない
複数の関係者から同時に叱責される
自分の自由が無い
そういう場合に性犯罪に走るようです。

性犯罪の被疑者被告人は、言葉では言いませんが、
自分が支配されているように
誰かを征服したい
という潜在的要求があるようです。

それで自分よりも弱い者
一人でいる女性を襲うという図式があるように思われます。

被害に遭われた方は、
犯人が自分をつけ狙っていて
その結果被害に遭ったと思われる方が多いのですが、

ストーカー型の犯行でない場合は、
犯人が、自分より弱そうだと思うなら
誰でもよい場合が多いです。

被害者の方にこう説明すると
安心していただくことが多いので
一言付け加えておきます。

事件を憎んで犯人も憎んでいたら
犯罪の原因が見えません。
その人が悪いということで終わります。

しかし、もし、共通の原因があるのであれば、
その原因を除去して
新たな被害を作らない
そういうことが必要なのではないでしょうか。




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菊間千乃氏の、弁護により罪を軽くすることが再犯につながる、が妄言である事。じゃあ弁護って何ってはなし。 [刑事事件]

菊間千乃弁護士が、女性自身の記事で、
「弁護により罪を軽くすることが、再犯につながっているのかもしれない
とも感じていました。」と発言しています。

https://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/crime/30969

「万引きの再犯率は約50%と、非常に高いのです。国選弁護などで窃盗犯の担当となれば、本人に反省を促すいっぽうで、なんとか罪が軽くなるように活動をします。しかし、弁護により罪を軽くすることが、再犯につながっているのかもしれないとも感じていました。万防機構は『万引きそのものをなくす』ことを目指していますので、犯罪そのものを減らしたい、という私の弁護士としての信念と同じだと思いました」(菊間さん・以下同)

もっとも、彼女の話の主眼は、
NPO法人全国万引犯罪防止機構の宣伝にあり、
万引き事案の撲滅のためには、
司法の力だけでは足りないということなのだろうと思います。

それはそうですけれど、
それなら余計なことを言わずにそう言えば良いわけです。

彼女の話は、
自分の経験に基づいて、実感として語るのではなく、
機構の用意した資料で語っているようです。

要するに、弁護士でなくても言えることです。
目くじら立てずに放っておけばよいのかもしれませんが、
彼女は発信力が強いために、
一般の方が刑事弁護について誤解をされると困る
という意識はありました。

要するに、弁護士は、適正な刑を手練手管で軽くして
お金を儲ける仕事だという誤解です。

しかし、一般の方がする誤解だけでなく、
結構まじめな若手弁護士も、同じような議論をしている人たちがいて、
慌てているところです。

研修所の刑事弁護の講義は、
無罪弁護が重視されるということもあり、
通常の無罪を争わない、
情状弁護の技術が軽視されているような危惧がありました。

それでも、弁護士や検察官、裁判官、同僚と意見をぶつけ合って、
色々と自分なりに情状弁護の在り方について実務に入るまでも悩み、
実務に入ってからも理想の刑事弁護を追い求めているのが
弁護士だと思っていたのですが、どうも様子が違うようです。

妙な割り切りがあり、
「弁護士の仕事なんて」というあきらめのようなものを感じたので、
慌てて、書いています。
先に弁護士業務を始めている者の責任もあるでしょうから。

菊間氏の話の中での一番の問題は、「刑を軽くする」ということです。
一般の人が読めば、先ほど言ったように、
適正な刑より軽くするという印象を受けるでしょう。
そこにはダーティーな匂いがします。

しかし、不正な手段を使って
適正な刑よりも軽くするとしたら大問題です。
刑事弁護とは言えないでしょう。

また、そのような手段を使って刑が軽くなるということはありません。
そんな甘いものではありません。
そんなことは若手弁護士も重々承知していると思います。

通常の刑事事件では、
弁護士が弁護しなければ裁判が成立しないようになっているので、
実際の比較は難しいのですが、
弁護したほうが弁護しないよりも、
刑が軽くなると思いますし、
そうならないと弁護する意味が無いということも真実だと思います。

それはこういうことなのです。
現行の刑事裁判は、
検察が犯人を裁判にかけ、
有罪無罪と、有罪の場合の刑の大きさを
裁判官が判断します。

検察官は、一般予防の観点から
つまり、悪いことをすれば、刑を受けることになる
ということを示して
同種の行為が悪いこと、やってはいけないこと
ということをアッピールして、犯罪の防止に努める
ということが仕事ということになります。

社会防衛の観点から、
罪に厳しく対応することが使命です。

弁護士はというと(無罪を争わない場合)、
第1に、犯人の利益を擁護します。
社会的に孤独な立場にある犯人の唯一の味方
ということもあり得る仕事です。

罪を犯したことのやむを得ない点だったり、
犯人だけの責任ではない点だったりを主張し、
検察官が言うほど重い罪ではないということを
事実をもって主張します。

検察官が類型的な主張するのに対して、
弁護人は個別的な事情を主張していくという
大雑把な傾向の違いはあるかもしれません。

いずれにしても、適正な刑の大きさから刑を軽くするのではなく、
弁護人として考える適正な刑を主張するわけです。
その結果、検察官の求刑よりも軽くなるということは、
検察官もある程度は織り込み済みということにもなります。

だから、私は刑事弁護をしているときも、
不適正な主張をしたことが無いことはもちろんですが、
言葉はともかく、刑を軽くしてくださいという
お願いトーンで弁護したことはありません。

弁護士が、手練手管で刑を軽くするというのではなく、
適正な刑にするよう努力するということは
お分かりいただいたと思います。

第2に、弁護で刑を軽くしたから再犯が起きる
ということも、とんでもないことです。
何弁護してきたのだというか、
本当に刑事弁護したことあるのという気持ちになります。

何が問題って、ここが問題です。
弁護士が、「本人に反省を促すいっぽうで、なんとか罪が軽くなるように活動をします。」というところです。
「反省を促すこと」と「罪が軽くなるようにする活動」が
見事に分かれています。
ちょっと言葉のアヤのような気もするので酷ですが、
わかりやすい部分なのであえて揚げ足をとることにします。

私の結論を先に言うと、
「本人の反省を深めることこそ」、
結果として量刑が低くなることで、
弁護人としての関わる場合の最も大切なところだ
ということになります。

適正な刑にするための弁護活動で、
例えば、実際に盗んだ金額以上に過大に評価されていることを訂正するとか
示談をするとか、
動機とか、手段とか、盗んだ商品の行方とか
そういうことを主張しますが、
それは、弁護人が主張しなくても
ある程度明らかになっていることが多いです。

やったことは、変えようがありません。

すると、実際に結果として量刑が軽くなることにつながる活動とは、
被告人に反省をしてもらうことなのです。

ここでいう反省は特殊です。
「悪いことをした」、「気持ちが弱かった」、「流されやすかった」
「もう二度としない」、「命を懸けて更生をする」
というのが、反省になっていないダメな表現です。

では、どういうことが反省なのかという前に、
どのような場合が量刑が重く、
どのような場合が量刑が軽くなるのかを考えましょう。

基本は罪の大きさ、やったことですね
これで量刑の枠が決まります。

それなのに反省をすれば量刑が軽くなるというのであれば、
反省することと量刑の軽重はどう結びつくのでしょう。
ここがポイントです。

一言でいえば、
再犯可能性ということになります。
考えてみれば当たり前の話ですが、

ああこの人裁判所出たらまた盗むだろうな
という場合は、
刑務所に入れた方が世のため人のためだし、
できる限り長く入れようということになるでしょう。

それとは反対に
なるほど、色々な事情から、
今度はやらない可能性も高いな
と言えば、一回様子を見て執行猶予にするかとか
刑を軽めにして、今の気持ちを忘れないようにしてもらおう
とかで刑が軽くなる
大雑把に言えばこういう話です。

だから、
本当に、「二度とやらない可能性がある」
と裁判官に思わせなければ
量刑の観点からは、
その反省に意味がないことになります。

少しでも短い刑にしたい
そう思うのは人情ですし、
刑務所に長くいることに、本人にメリットはないでしょう。
そこまで刑務所サイドに余裕はありません。

しかし、刑務所にいる年月を短くしたい
できれば執行猶予をとりたい
と思うならば、
「反省」をする必要があるのです。

ここは、実務ではなかなか難しいところです。

しかし、多くの人が
刑期を短くしたいというエネルギーを
更生の意欲に変えて
自分なりに見事に反省をします。

そのためには刑事弁護でいう所の反省とは何か
どのように反省に導くか
というテーマを
弁護士は持ち続けて弁護し、
後輩に具体的に提案する
という作業を意識的にする必要があると思います。

このブログは記事が多すぎになっていますが、
あちこち反省について述べています。

長文が超長文になりましたから、
その話はいずれということで。

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万引きについての講演会をします。 ~再度の執行猶予、再度の起訴猶予はどうやって実現したか~ [刑事事件]


平成29年7月20日6時から仙台アエル29階研修室で、
「万引きをしてしまった人にどのように働きかけるか」
ということをお話しします。

万引きは、軽い犯罪のように思われがちですが、
刑法上は窃盗に該当します。
10年以下の懲役(刑務所における強制労働)か
50万円以下の罰金と定められています。

最初は逮捕もされないかもしれませんが、
万引きを繰り返しているうちにやがて逮捕勾留され、
刑務所に収監され、強制労働となります。

警察沙汰になるたびに
「もう二度としません」と誓うのですが、
二度目、三度目になると
当然のことですが信用してもらえなくなり、
資本主義経済秩序を乱す危険人物
ということになり、許されなくなるわけです。

誰だって、冷静な状態ならば万引きはしません。
逮捕された後にはみんな冷静になって後悔します。
問題は、万引きをする前に、冷静に
「やっぱりやめた」という気持ちを持つことができないことです。


大人が万引きをする場合は、必ず原因があります。
だって、小学生前の子どもだって、
教えなくたって、スーパーの商品を
勝手にとって食べることはしないでしょう。

スーパーの床に寝っ転がって
顔を真っ赤にして「買って買って」と
泣き叫んだところで、勝手に持ち帰ったりしません。

子どもの時にしなかった万引きを
大人になってすることには
必ず理由があるのです。

これを明らかにして
理由を無くさないと、
「気が付いたらまた万引きをしていた」
ということになってしまいます。

万引きは理性が働いている状態で行われるのではなく、
無意識に、「お金を払わないで持ち出さなければならない」
という強烈な思い込みの中で行われるようです。

最近増えているある類型の万引きはそのような傾向が強く
我に返ったときに、
どうして自分がそんなことをしてしまったのか
という強い後悔の念と自分を責める感情が襲ってくるようです。

その時は本人も万引きを二度としたくもないと思うものです。
「今度はもっとうまくやろう」と思っている人は
なかなかお目にかかったことはありません。

ところが、無意識のレベルの原因に対応していないから
何らかの事情で冷静さを失うことによって
人格が変わるように万引きをしてしまうわけです。
(この「何らかの事情」は大人特有のものです。)


無意識のレベルでの対応とはなにか、
何に気が付いて、どうすればよいのかを
当日お話しする予定です。

また、なぜ本人がやめるように考えを深められないか
その理由もあります。

先ず、万引きが犯罪であるという
当たり前のことが原因です。
やってはだめなことは冷静になればわかりますから
「悪いことをしました、もう二度としません」
と言えるから、考えが進まないのです。

また、周囲も
「だらしないやつ、万引きをするような奴」
ということで済ませてしまうわけですから
本人の孤立が深まっていってしまいます。

私は、万引きは偶然的要素のある犯罪ではなく、
本人や家族の不具合が万引きという形で現れたもの
というように考えています。

本当に改善するべきポイントは別にあることが多いのです。

自分や家族が万引きをしたという場合は、
関わる専門家、弁護士、カウンセラー、あるいは医師を
厳選しましょう。
よく話を聞いて、
将来の万引きを予防することに
真剣に取り組んでいる人にかかわってもらうことが必要です。

逮捕された場合は時間が足りません。
貴重な時間を無駄にすることはお勧めできません。
貴方の家族が万引きをしたのには理由があります。
そしてそれは除去できる理由であることが多くあります。

将来の万引きを予防する対策をしっかり立てることが
再度の執行猶予や再度の起訴猶予に向かう手がかりなのです。

私は、刑事裁判になった万引きだけでなく、
刑事裁判になりそうな万引き事例の相談、弁護、
警察には知られていないけど万引きをしてしまった
という相談も多数受けています。

万引きをした人や被害を受けたお店の人と関わる中で
けっこう人間の温かみを感じたりしています。
肝心なことは被害店舗に自分で謝りに行くということ
そうして、それには若干のコツもあります。

そういうことを1時間半くらいかけて
ゆっくりお話ししたいと考えております。

「今でも人を殺したいと思う。」という言葉が反省を表している可能性がある事。対人関係学的な弁護人の役割 [刑事事件]

タリウム事件を連続して題材にしてしまいます。
前の記事で紹介したコラムでは、
以下のように紹介されています。

他方で元名大生が発する一言一言は、胸をえぐられるほど衝撃的だった。
 「生物学的なヒトなら誰でも良かった」
 「人を殺したい気持ちは今も週1、2回生じる」
 「個々がかけがえのない人だという感覚がない」
 殺意の矛先は家族や親友にとどまらず、法廷の裁判官や弁護人、傍聴者にも向けられた。

これを読むと、通常は、
「未だに反省していない」と感じることでしょう。

そうなのかもしれないけれど、
そうでないかもしれないということにつて
弁護士の立場からご説明します。

犯罪はそれ自体不道徳ですが、
なかなか自分のしたことが不道徳なことだということを
実感をもって理解できない人がいます。
だからこそ犯罪を事前に止められなかったわけですが。

自分のしたことがどういう風に悪いのか
誰にどのような迷惑をかけるのか
ということを、
私は弁護人として最初に考えてもらうようにしています。

最初は漠然とした考えしかありませんが、
話し合ううちに、徐々に
カメラのピントが合うように
はっきり理解される被告人の方も出てきます。

(最後までピンボケの場合もないわけではありません)

すると、飛躍的に反省や後悔がの感情がでてきて、
「自分が取り返しのつかないことをした
 そういうことを二度とやらないためにはどうしたらよいだろう」
と敬虔な気持ちになる方も少なくないのです。

このような方々は、
犯罪実行時は、自分の味方がいない
という意識がある方が多いように感じられます。

常に、自分を守っていなければ
誰かから攻撃をされてしまうという意識です。

攻撃といっても、ピストルで撃たれるわけではなく、
馬鹿にされるとか笑いものにされるとか
自分だけ損をさせられるとか、
自分だけ危険な目にあうとか
裏切られるとかそういうことです。

だから、他人に弱みを見せるということが
できない状態が持続しているということになります。

これは、タイミングと会わせると強くなります。

自分が誰かから被害を受けたのに、
誰も同情したり、いたわったりしてくれないという場合
逆に
自分がみんなのために貢献したのに
誰もねぎらってくれないばかりか
笑い者にされてしまう
ということもあるでしょう。

およそ、心情的に仲間という人が
身近にいないということになります。

犯罪によって警察署に留置されているというような場合は、
自分が悪いことをしたために責められるということは理解できます。

こういう時にニュートラルな立場の弁護士が
犯罪を責めることをしないで、
どうして犯罪に至ってしまったか
どうして事前にやめることができなかったか
ということを被疑者と一緒に考える姿勢を示したら、
被疑者被告人は、自分の弱い部分を見せても
そこを責められない
という体験をすることが出てきます。

これが、新鮮な体験だという人も少なくありません。
安心すると話し出します。
弱い部分を見せても良いのだと思うと
安らぐことができるようです。

裁判が終わるまでの限定的ではありますが
片面的なコミュニティーができるわけです。

弁護士だけでなく、
警察官の方にも同様な態度で接してもらうと、
自分の悪かったことを言うことが
自分が更生する等良い方向に向かう条件だと
素直に認識するようになります。

こういう時、弁護士が質問する場合は
答えが大体わかりますから
ドラマチックに盛り上げて完結することができるのですが、

検察官の反対質問や
裁判官の補充質問でも
同じように素直になってしまうと
その時の悪い感情やその後の感情
(裁判時には克服しているのですが)
包み隠すことをしないで
積極的に話していくことがあります。
(そこまで言わんでよいと言いたくなるくらい)

それが強烈すぎて、
現在は克服されているにもかかわらず、
検察官なんかは、いまだに反省をしていないと責め、
頓珍漢な裁判官もそのような認定をしてしまう場合も
弁護人としては心配しなければならなくなり、
あれだけ美しく完結した弁護人質問を
つぎはぎを繕うことも出てきます。
大体裁判官は理解してもらえることが多いですが。

前回引用したコラムからも、
被告人が、素直に供述している様子がうかがわれます。
少なくとも露悪的に殺意を見せびらかしているわけではなさそうです。

質問されたから誠実に答えている可能性があります。
それを応えるのが自分の役割だということですね。
うそをつかないことでメリットがあると感じているということです。

誰にも言えなかった殺意を言うことができたという
弁護団との交流による貴重な経験があったのだと思います。

弁護活動が対人関係学的には成功された可能性があります。

もう一つ付け加えます。

彼女にとって人を殺すということは
おそらく心理的抵抗が少ない状態であり、
それは、器質的問題か生育環境なのか
通常人の感覚を超えた問題がありそうです。

要するに、普通の人が人を殺すという場合、
罪悪感だったり、生物的な嫌悪、恐怖だったり
抵抗が強くあるわけです。

これを打ち破るためには、
怒りだったり、恨みだったり
強烈なエネルギーを伴う負の感情が必要になります。

だから、「今でも人を殺したい」
という言葉を聞くと、
強烈な負の感情があるものだと
無意識に受け止めて、険しい感情になるわけです。

ところが、彼女は、
そのような怒りとか恨みとかの負の感情を抜きに
人を殺したいという気持ちになるようです。

今回の裁判体は、
常識の枠の中で被告人を把握し、
無期懲役の刑を宣告しました。

そういう考えも成り立つとは思いますが、
他の適切な選択肢を持ったうえで
専門的に判断することが必要だった事案だと
思いました。







タリウム事件のコラムに寄せて、人が興味本位で人を殺すことができるとした場合の可能性と刑事罰の意味 [刑事事件]

今朝の地元紙に、タリウム事件を取材した記者のコラムが掲載された

<タリウム事件>衝撃の真相 消えぬ「なぜ」 http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201704/20170403_13015.html

丁寧な、率直な内容になっており、
真実に迫ろうとする矜持も見えて素晴らしいと思った。

刑罰と医療とどちらが適切かということは難しく、
結局は、その時々の政策に委ねられるものであり、
刑罰の運用として一義的に回答が用意されているものではない。

それはどういうことか。

殺人事件にしても
人が人を殺すということには理由がある。
殺そうと思うことにも理由があるが、
殺すことができたことにこそ理由がある。

人間は、どんなに陥れられたとしても
なかなか相手を殺すことはできない。

そういう動物である。
というか、むしろ動物一般がそうなのかもしれない。

基本的には、自分を守るために殺すということになる。

殺さなければ、自分が殺されるということ。
戦争が典型的である。
相手から殺されるだけではなく、
規律違反で殺されるというものも大きい。

猛獣が草食動物を殺すのも、
肉を食べて生き延びるという目的がある。

では、目的があれば簡単に殺せるかというと
そうでもないようだ。

人を殺すことの抵抗感があり、
なかなか殺すことは難しい。
この抵抗感を奪う仕組みが怒りの感情である。

興奮状態となり、
相手に対する共鳴力、共感力が著しく低下し、
この人を殺した場合、将来どうなるか
自分が探し出されて裁判になるとか
広く家族を含めて報道されるとか
そういう将来のことを推測する力もなくなる。

相手を殺すか自分が死ぬかという
極端な二者択一的な選択肢が残されるだけで、
いわゆる無我夢中で殺害行為を実行する
というのが典型的な例のようだ。
こういう場合、記憶も鮮明ではない。

極限的な事例で他人を殺すことの抵抗力が無くなり、
必要最低限の行為にとどまる場合は、
刑が軽くなることはある。
変な話、殺してはだめだけれど殺したくなるよねと
そういう殺人者に部分的に共感してしまうからである。
これは、裁判官が共鳴するというよりも、
おそらく世論からもある程度の同情が寄せられるだろう
という場合という方が正確だろう。

タリウム事件は、その典型的場面とは
はるかにかけ離れていたようだ。

感情的な高まり、自己防衛意識
それらがなくて、冷静に他人を殺害したいという
初めから他人を殺す抵抗感がないような
行動だったとのことである。

こういうケースでは厳罰化になりやすい。

こういうことが起きるケースは
本当は生まれた後の理由は、考えにくい。

あるとしても、
これまでの例からは、
物心ついた時から不遇で、
誰からも大事にされたことが無く、
馬鹿にされ続け、迫害され続け、
社会からも尊重されなかった。
他人とのかかわりに何のメリットも感じないで
育ってしまったケースである。

こういう場合、
自分が尊重されるべき人間だという感覚を持てず、
他人を尊重するという意識も育たない。
相手の気持ちを理解する目的は
思いやることではなく、
相手に対して付け入るスキを探すということである。

だから、後天的に、人を殺すことの抵抗を持てない場合は、
全く無防備な幼少期の育った環境に問題あったケースなのであるから、
本人がそのような人格を形成した責任は本人にはない。

考えようによっては、その殺人犯こそ一番の被害者であり、
その後の教育や治療によって、
少しでも人間の輪の中で安らぎを受けられるように
してあげることが、
原因に対する結果として、あるべきことだという考えもあり得るだろう。

ところが、こういうケースの裁判
つまり金銭や自分の保身のために、
相手の命を亡き者にすることを冷静に考え、
計画を立てて実行するというケースであるが、
通常、身勝手で冷酷な犯罪だとして
厳罰を科される。死刑や無期懲役の判決が出やすい。

法律は原則として、
どのような生い立ちであろうと、
不遇で何の喜びも、他者との関係の暖かさも知らない者も
等しく法律が適用される。

医療措置となるためには、明確な精神医療の診断がなされ
それを裁判員や裁判官が理解しなければならない。
先に述べた通り、それは裁判官個人ではなく、
世論がそれに共感できるかということを
裁判官が判断するかどうかということにかかる。

本件は、結局そのようなケースではないとして
無期懲役の判決となった。

しかし、私は、このケースは、
今の後天的な事情が理由になっていない可能性があるのではないかと
感じている。

生い立ちなど後天的ケースで、
他人を殺すことに抵抗感がないというケースはあるにせよ
なかなか他人を殺す抵抗感が一切残っていない
ということまで極端にはなりにくい。

なぜならば、100パーセント他人に依存する
乳児期には、誰かに手をかけて
生存を援助してもらっているからである。
そうでなければ大人になっていない。

虐待を受けても、
虐待を受けっぱなしという事例よりは
わずかながらでも過保護にされている時期が存在し
その記憶があるからだ。

だから、冷酷非情な犯罪の場合も、
自己保身という身勝手だとしても、冷酷だとしても
人を殺すためにはそれなりの理由があることが原則だ。
社会の不満を弱者に向けるということでも、
自己完結している殺害行為者の頭の中では
自己防衛の意識があるものである。

本件にはそれがない。
これが本件の最大の特徴だろうと思う。

あまりにも極端なケースであり、
育った環境では説明がつかない事情がありそうだ。

対人関係学的な発想からすると
脳の器質的な問題があるのではないかということである。

具体的に言えば、脳の
前頭前野腹内側部の機能に障害がある場合である。
この辺りは、アントニオ・ダマシオの
「デカルトの誤り」に詳しい。
岩波文庫にもなっている。

先ず前提として、脳は、
その部分部分によって役割がちがっていて、
例えば目から移った光を脳で画像として処理する脳の部分が
損傷すると目は見えなくなるが、
呼吸はできる。
音を処理する部分は別の部分であるし、
言葉の意味を把握する部分も別である。
部分的な損傷は、その機能をなくすが他の機能はなくさない。

もっとも呼吸機能をなくせば死ぬことにはなる。

そういうことで、鉄道事故で
前頭前野腹内側部の損傷を受けた人間の事例や
腫瘍があって圧迫されて機能障害になった事例では、

自分が他人の中でどのように思われるかというような感覚が欠落し、
(他者に対する共鳴力、共感力が欠落する。)
将来的な予測ということが苦手になり、
今浮かんだアイデアにとらわれてしまう
等という共通の異常行動が見られたというのである。

事故によって脳機能が低下した場合は人格的変貌が起きる。
しかし、日常生活を営むことができなくなるわけではない。
知能が低下するわけではない。

この脳の機能が人間のモチベーションの原理となっており、
ダマシオは「二次の情動」と名付けた。
対人関係学は、ダマシオに断りもいれず、
それは対人関係的危険を感じて行動を修正する仕組みだと
説明しているところである。
(一次の情動が身体的危険を感じて行動を修正する仕組み)

私が興味を持っているのは、
裁判での鑑定が、脳の機能検査がなされたかということである。

責任能力は、心理学的な能力である以前に
本来は生物学的な能力が存在することが求められている。
脳は、部分的に機能低下があり得るものだとすると、
部分的な脳の機能検査も可能である。

fMRI等によって血流の動きも把握できる。

ただ、もし、前頭前野腹内側部の機能低下がみられたとして、
即ち、脳の器質的問題から殺害を実行したとして、
刑罰にどのように影響を与えるかということについては、
直ちに結論が出ることではないだろう。
量刑も変わらないかもしれない。

要するに、現在の刑事罰は、
その人に責任があると言えるのかわからない事案でも、
治安維持の観点だったり、
被害者や世論の処罰感情によって
処罰されているからである。

逆に言うと、
もし、犯人以外の責任が重いとした場合に
処罰をしないならば、
犯罪行為をした原因を突き止められないケースを除いて、
処罰をしにくくなってしまう。

そういう環境で育ったならば仕方ないねとか
脳の器質的問題があるならば仕方ないね
ということも、現状においてなかなか言いにくい。

せいぜい、情状として「その1割でも裁判官に届け」
ということが関の山かもしれない。
届けば音の字であって、届かないことが一般的だ。

刑務所が、強制労働の場ではなく、
対人関係の改善のために、
自分が尊重されるという体験と
他者を尊重するという体験の場にすることも
なかなか実現することは難しいだろう。

現状は、職員の方の努力はありながらも
制度としては逆方向になっていることもあるようだ。

ただ、これが理想だとすることを忘れないでほしい。

法諺(ほうげん)という専門家の中のことわざの一つとして、
「社会政策こそ最良の刑事政策だ」
というものがある。

貧困や殺伐とした環境を改善することが、
刑務所に収監することよりも
犯罪を減らすことにつながるということである。

今回禁を犯して
自分が担当していない事件について
言及をしてしまった。

河北新報の記事に大いに触発されてしまったということになる。






【追悼せいたかさん】万引き犯人が罪を認めるまで(すいません、わかる人だけの部分けっこうあり) [刑事事件]

マサルは、警察官だ。
警察官と言っても、犯人を逮捕したり、道案内をしたりするわけではない。
犯人が逮捕されてから警察署で生活するときに対応する
いわゆる留置係という仕事をしている。

警察は、犯人を逮捕するのが仕事だと思っている人もいるが、
逮捕した後にいろいろ調べて、
刑事裁判を遂行する準備をする法律家なのだ。
犯人がいなければ裁判が成り立たないということから、
逃亡されないように身柄を拘束するのも
やはり警察の仕事だということになる。

犯人と言っても、凶悪犯ばかりいるわけではなく、
警察署の中では、
おとなしく規則に従って、静かに生活している人が多い。

素直に罪を認める人もいれば、
どうやったって犯人であることは間違いがないのに
自分はやっていないという人もいる。

でも、マサルにはそれはあまり関係がない。
裁判で有罪になるまでは、無罪の人と扱う
それだけのことだ。

今日は風変わりな犯人・・
おっと、無罪推定なので、
罪をしたと疑われている人
ヒギシャという言い方をする。
風変わりなヒギシャのお話をする。
まだ若い男性である。

名前をいうわけにはいかないので、
ジムニーと呼んでおこう。
全くの日本人の顔をしているのだか、
まあ良いでしょう。

ジムニーの罪名は窃盗罪だ。
万引きをしたとされている。
スーパーでCDプレーヤーを万引きした。

やや画質が悪いにしても防犯カメラにも映っているし、
なによりも、ジムニーの乗っていた自動車に
レジを通していないCDプレーヤがあった。

おそらく、罪を認めて謝って
弁償するなりすれば、
逮捕ということにはならなかったのではないかとも
マサルは思っていた。

最初、弁護士会から来た弁護士は、
狭い面会室で、
透明なプラスティック板越しに
大声でどなられていたようだ。
無料でアドバイスに着た弁護には、
とても気の毒だった。

すぐに、もう一人の弁護士が来た。
そういえば、この弁護士が面会室に来た時に、
変わったことが起きた。

もっとも起きたというように、はっきりしたことがあったわけではないが、
警察署の二階の面会室に案内した時に、
留置場のドアを開けたときに、
足元につむじ風が起きたような気がした。

偶々、書類を落としそうになったので
下を向いた瞬間のことだったが、
風が吹いていった方向を見ても
何も見えなかった。

二人目の弁護士には、
ジムニーは大きな声を出していなかったようだ。
弁護士との面会は秘密でおこなわれるので、
聞き耳を立てるわけにはいかないので、
詳しいことはわからないが、
面会が終わった後のジムニーの顔はみものだった。

とても困ったような表情で、
何か言いたいことがあるようだが、
誰も聞いてくれる人もいないとあきらめたというような
そんな中途半端な顔で、
話しかける言葉もなかった。
人間があんな表情をしたのは初めてみた。

弁護士さんの方は、
着たときと同じようにニコニコしていて、
私にもお世話になりましたと
礼儀正しく声をかけて帰っていった。

その日の夕方になりかけた時間、
マサルは、設備の点検のため巡回をしていた。
ジムニーは、たまたま一人で部屋を使っていた。
相部屋のヒギシャがいることが普通は多い。

マサルがちょうどジムニーの部屋の裏側で作業をしていたとき、
ジムニーの声が聞こえてきた。
マサルがいるところは、
留置係の警察官がヒギシャの様子を点検する表側ではなく、
裏側であった。
マサルからジムニーが見えないが
ジムニーからもマサルが見えない位置関係にある。

ジムニーは何かの気配を感じて驚いたようだった。
表側には同僚もいるはずだから、
本当に誰かが侵入したら連絡があるだろうと思い、
マサルは作業を続けた。

ジムニーは誰かと話しているようだった。
「そんなことないよ。ヒコのせいじゃないよ。」
ヒコといったのか、ヒトといったのか、
良くわからないが、ヒコといったように聞こえた。

「自分で、やらないようにしなければいけないんだ。」
「そんなに欲しかったわけではないんだけど。」
あれあれ、ジムニーは、罪をようやく認めたようだ。
でも、刑事の前で言わなければ意味がない。
それを告げ口するのは、自分の仕事ではない。

「いや、約束を守らなかったのは
 あのスーパーの警備員なんだよ。
 警察には言わないって言ったのに
 なかなか帰してくれなくて、
 そうしたら警察が来たじゃないか。
 話が違うって思ってね。
 じゃあ、自分もやってないって言ってしまったんだ。」

「だけど今日の弁護士は、
 やっていないならきちんと話をしろっていうんだ。
 やっていないのに、やったというのが
 警察官にも迷惑だからなって。
 プロなんだから、もっと疑ってくれなくちゃあな。」

「わかっているよ。もちろんわかっているよ。
 俺が悪いんだから。
 俺のことをこの世のすべての人間が疑っても
 自分だけは信じるといわれてもさあ。
 そのことで
 責任をとるのは俺自身しかいないって言われちゃったらねえ。」

その日の夜、書類を下に運ぼうと
留置場のドアを開けたときにも、
つむじ風が吹いた。


次に弁護士が来た後にも
ジムニーは、「独り言」を言っていた。

「刑事裁判の反省は、一般用語の反省とは違う。
 3つのことを考えることだ。
 一つは、自分がしたことでだれにどういう迷惑をかけたか。
 誰かが、困るんだって話だな。
 店の人が困るのかな。
 でも、万引きされたら、その分売り上げが上がらないよな。
 売場の主任あたりが給料減らされるのかな。
 住宅ローンや、子どもの学校のお金が足りなくなったら
 なるほどかわいそうだね。それをやったのは俺かぁ。
 やっぱり悪いな俺。」


「二つ目は何だっけ?
 そうそう、原因かあ。
 悪いことだってことはさすがにわかるけれど
 じゃあ、何で止められなかったのか。
 だから、君がこれなかったこととは関係がないって。
 何かに追い詰められていると起きるって、
 俺、何に追い詰められていたのかな。
 でも、もう大丈夫、
 ヒコがいるってことがわかったから
 もう一人じゃないよね。
 いいんだ。いつもいなくても一人じゃないってことがわかったから」

「三つめ、三つ目と
 これからどうやって生活するかか。
 絵にかけるように具体的にと、
 俺、目標を持って生きるということを考えてみたんだ。
 貯金しようかなと思う。
 新車の原付買うんだ。
 三年くらいで買ってやろうと思う。
 そして、あの山に通うんだ。
 あの小屋のあたりだけは、
 絶対に手放さないって。
 いつか友達を作って、
 天気の良い日に、パーティー開きたいな。
 そのためには、こんなところにいてはだめだよな。」

「俺、本当は、最初に警察官が来た時、
 みんなの顔を思い出したんだ。
 もう二度と俺の前に姿を見せてくれないんじゃないかって
 俺、終わっちまったのかなあって、
 そう思ったら自分が悪いのに、
 警察呼ばれたことに怒ったりしてさあ。
 ごめんな。こんなところに来させてしまって。
 みんなからヒコが怒られるかもしれないよな。
 ありがとうな。。
 俺絶対普通になって、
 みんなの役に立って見せる。俺でもできるよな。
 そうすれば、ヒコも鼻が高いよな。
 もう帰ったほうが良いよ。
 俺は大丈夫。いるってわかっただけでもう大丈夫だよ。
 今度、あの小屋で元気で会うためにもう帰ってくれた方が安心だよ。」

マサルは、書類を下に運ぶように言われて
留置場のドアを開けた。
その日はドアを開けたまま、十分時間を取って、
天井の点検を念入りに行うことにした。

なんとなく、つむじ風がゆっくり通っていった気がした。
耳の近くでカジカガエルが鳴いたような錯覚を受けた。
笑顔の気配がした。

自首をお考えの方に 犯罪を行ったことに気が付いた時にすること [刑事事件]

私の事務所には、わけあって
2か月に1度くらいは、
自首に関する電話相談が来ます。

罪名として多いのは、
窃盗(万引き)と業務上横領です。

私の事務所に連絡をするくらいですから、
自首を考えていらっしゃいます。

犯罪を実行してしまったことは問題ですが、
犯人だと気が付かれる前に
被害者に事実を告げて謝罪したり
警察に自分の罪を告白するということは
大変勇気が必要なことです。
私は無条件に尊敬の気持ちをもって
対応しています。

皆さん、一番気にすることは
自分の罪に対する刑罰が
どのくらいになるかということです。

悪いことをしたわけなので、
そんなことを気にしないで
自首をするべきだということは
みなさん100も承知です。

でも、すべての刑法犯の方々が
その点を気にされることは、
情において当然のことだと考えますし、
弁護士は、端的に見通しを述べるべきだと思っています。

失職や刑事裁判はやむを得ないと考えていらっしゃるのですが、
皆さん一様に、
家族や関係者に対する迷惑の程度という観点からも
刑罰の見通しをお聞きになりたい様です。

もちろん被害者がいるわけですから、
そもそも犯罪をしないことが
家族に迷惑をかけない一番の方法だったのですが、
そんなことも100も承知です。
100も承知でも
やはり聞かないわけにはゆかないということも
よくわかります。

特に、自分のお子さんに対して
刑務所に行った親の子どもだといわれることを
気にされている方が多いようです。

情に流されて安易な見通しを言うわけにはゆきません。
私の回答でがっかりされる方もいらっしゃいます。

しかし、私は思うのです。

やったことをなかったことにするわけにはゆかない。
人間なので失敗は仕方がないのではないか。
それでも、親として子どものためにしてあげられることがある。

一つは、反省をして、被害者に誠意を見せることです。
心をどうこうというより、やはりお金で償うことが基本です。
一度に支払えないならば
支払い終わるまで支払い続けるという
自分の責任の果たし方を示すということだと思います。

失敗をしても、
その責任を償う姿を示すことが
いろいろな意味で子どもが学ぶことが多いと思います。

一つには社会との関係です。
一度刑務所に行くかもしれない罪を犯しても、
二度と過ちを繰り返さないということです。

あるいは、社会の偏見や
悪の誘惑が再び訪れるかもしれません。
しかし、
一度過ちを犯しても、
コツコツと立ち直ることができる
ということを示すことは
子どもにとって大きいことです。

今、子どもたちは、
「失敗が許されない」
という緊張感に、毎日さらされているようです。
ささいな失敗を苦にして
精神的に立ち直れなくなってしまっています。

人間は失敗する。
しかし、失敗から立派に立ち直って見せる。
それを示すことは
子どもにとって救われることになるでしょう。

それができるのは、
失敗をしたあなたなのです。
あなたしかできないことがあるのです。


万引きにしても横領にしても、その他の犯罪にしても
被害者の方々は、実際の被害や
加害者の意図以上に深く傷ついています。

自分が人間として尊重されていないという
強烈な疎外感を受けて落胆しています。

もし自首をすれば、
自分が考えているよりも
世の中すてたものではないなと
救われる人もいらっしゃいます。

これから先も同じような被害に遭うのではないか
という精神的外傷を追っている方の
不安を解消することだってあります。

これも、罪を犯した人が謝ることが
一番効果があることです。

被害者に謝罪に行って
自首をすると告げたときに、
弁償をしてくれればかまわないと
言ってくれることもないわけではありません。

それはこういうことなのかもしれません。

罪を犯した人は、
失敗したことを自覚し、
やらなければ良かったと思っている人が多いようです。
そして苦しんでいいらっしゃいます。

せっかくそういう気持ちになったのならば、
是非自首をするべきです。
被害者も加害者も家族の方々も
それで、だいぶ救われるのです。
自首をしないことはもったいないです。

でもどうやったら良いか
パニックになってしまってわからないことも
多くあります。
是非、弁護士に相談いただければと考えていますし、
弁護士は、
自分の職業がなんであるかを自覚し、
八方が一番良い状態になるよう、
暖かく援助することをお願いしたいと思っております。


人を殺しても必ずしも死刑にならない理由、「目には目を」の本当の意味、死刑制度廃止の日弁連決議と反対派の「寄り添う」ということに対する疑問 [刑事事件]

人が殺されるということはすさまじい衝撃です。
その人の夢や希望や人間関係が絶たれるということもあります。
家族としても、いつもどおりり「行ってまいります」と行って出かけたのだから、
いつもどおり「ただいま」と帰ってくるものだと思っています。
そんな当たり前のことすらかなわなくなるわけです。

それだけではありません。
社会の中でも報道されることによって、
被害者の絶望に共鳴共感してしまい、
絶望の追体験をしてしまったり、

絶望の追体験を回避するために、
人が死ぬことに対する感じ方が磨滅していくという
人間性が喪失していくという被害もあります。
これが二次被害、三次被害の被害の連鎖を招くこともあります。
社会秩序の観点から、犯人を厳しく処罰するという必要性もあるかもしれません。

そうだとすると、犯人は死刑にしてもおかしくない
という感覚もあり得ることでしょう。

意外なことと思われるかもしれませんが、
日本弁護士連合会は、
これまで死刑制度の廃止を意見表明してきたことはありませんでした。
しかし、平成28年10月の人権大会において
初めて死刑制度廃止の意見を採択しました。

なぜ、人が死ぬという重大な結果がありながら、
死刑制度に反対するのでしょうか。

一つは、世界の国々において死刑がどんどん廃止されていること、
裁判は完璧ではなく、本当は罪を犯していないのに、
間違って犯人とされて、そのまま死刑を宣告されるという
冤罪がありえないとは言えないこと
実際に日本の刑事裁判で、何人か一度死刑が確定してから
再審で無罪となり釈放された人たちが存在します。

それから、殺人犯が、犯人だけの責任で凶悪犯罪を行ったわけではない
ということが、
実は多いという以上にほとんどだという事情があります。

本人の生い立ちや、その後の境遇などから、
普通に育つことができず、
自分は価値のない存在だと思いこまされていくうちに
人間の命に対しての価値を理解できない大人になっていく
ということが一般的に見られます。

その人自身やその人の家族、周囲の人間も原因を作っているのですが、
特に、社会とか国家とか大きなものの仕組みの中で
そのような人格が形成されてしまうということは
とても多いことです。

犯人に死刑を宣告する国家に責任がある場合
自分に責任があるくせに、犯人だけを非難するということは、
ムシが良すぎるということになるわけです。

ここは難しいところで、
それでも、被害者や遺族には何らの責任もないことが多くあります。

ただ、遺族の感情を優先して裁判が行われてしまうと
かなり過酷な判決が出る傾向となってしまいます。
殺人に対して必ず死刑ということになると、
かえって殺伐とした社会になり、秩序が乱れる
ということにもなります。

今から4000年近く前のハムラビ法典で、
よく、「目には目を歯には歯を」という条文が引用され、
「悪いことをしたら、同じような悪い罰を与えられる。」
という文脈で引用されています。

ところがこれは、本当は、
報復感情が強くなり、刑がどこまでも過酷になることを防ぐために、
被害の限度で罰を与えるべきだという制度なのです。

もっともハムラビ法典も、子が父親を打ったときは
この手を切り落とすとあるように
特定の国家秩序を促す条文もあります。

4000年以上前から、国家やそれに準じる組織ができた場合、
私的報復感情に任せるのではなく、
もっとひろい社会秩序の観点から、
一つには、被害者の報復感情を、国家というフィルターを通すことによって、
ソフティケートするという意味合いがあります。
また別の側面では国家の思惑によって刑の在り方が影響を受けていた
という意味合いもあるわけです。

こういう点、特に、冤罪が起こりうることだという
弁護士の実感から多くの弁護士は死刑廃止を主張していました。

しかし、弁護士の中でも
死刑の威嚇によって犯罪から遠ざける効果が期待できるとか
秩序形成に不可欠だというかという理由で
死刑制度の維持を主張していた人も少なくありませんでした。

このため、日弁連は直ちに死刑制度の廃止を主張せずに、
国民的議論が尽くされるまで死刑の執行を停止しよう
という主張にとどめてきました。

確かに今回の反対派の主張のように、
その状況に、特段の変更がないにもかかわらず、
今死刑制度の廃止を主張するということには
やや唐突であるという感じは否定できません。

上げること、上げる内容について、間違っているとは思いませんが、
死刑廃止の運動を日弁連が一丸となって行うという
運動論的観点からは、少しわからないこともあります。

但し、今回、死刑制度廃止に反対した論者の「論理」
にはもっと驚きました。

死刑制度廃止は犯罪被害者遺族感情に反するからというのです。
遺族に寄り添っていないというのです。

反対するなら反対するとしても、
それでは、真犯人ではないにもかかわらず有罪とされ
死刑を執行される人が出てくる可能性があることについて
どのように考えるのかを明らかにしなければ議論になりません。

ここが十分説明されなければ、
遺族が怒りの対象としている人物が真犯人ではない可能性があったとしても、
遺族の怒りを配慮して死刑を執行するべきだということにはならないのでしょうか。
 
 一番の疑問は、そもそもなぜ
「犯罪被害者遺族に寄り添うから死刑廃止を主張してはならない」
となるのかという点です。
そこでいう「寄り添う」とは一体何なんでしょう。

そもそもすべての犯罪被害者遺族が、
むき出しの報復感情を持っているわけではありません。
死刑など刑の制度と報復感情は別意にとらえている方々も多く、
そういう方々が実感としてはむしろ一般的でだと思います。
殺したいくらい憎いという気持ちは当然だと思いますが、
どうしても死刑にしないと気が済まないという方々は本当に多数派なのでしょうか。


もっとも、遺族の怒りを否定する必要はありません。
当然遺族の怒りに共感を示すことこそ必要だと思います。
ただ、第三者の弁護士として、
積極的に死刑にしたいと感情に基づいて動くことは話は別だと思います。
法律家である弁護士が、死刑執行をただ漫然と追随していることは、
本当に寄り添いになるとは思えないのです。

これは寄り添っているのではなく、複雑な人間の感情の
一側面だけをゆがんだ形で助長することにはなると思います。
寄り添いとは、果たして、
相手の表明された感情に無条件に追随することなのでしょうか。
どうして、「あなたが怒りを持つことは当然だ。」
ということにとどめてはだめなのでしょう。

むしろ、被害者としての感情を法律家である弁護士が
無条件に肯定していくことによって、
被害者が社会的に孤立していくことをも助長する危険もあると思います。
そうだとすれば、被害者はますます立ち直れなくなっていきます。
弁護士の寄り添いは遺族にとってもむしろ有害だということになる。

私の周囲にも、あらゆる死亡被害者遺族がいます。
きちんと遺族感情に共鳴共感を示すことによって、
法制度の限界を説明すればそれなりに理解を示してもらえています。
むしろ、事件の社会的背景を一緒に話し合うことによって、
より社会的な視点を持つことができ、
私の被害は私たちの被害であり、
私たちは私たちでなければできない社会的貢献がある
ということを自覚していただくことで、
生きる力を取り戻して怒られる姿を何人も目の当たりにしています。

そしてそれは、私が教えることではなく、
遺族が自ら考え、私が教わることが常のことなのです。
多くの被害者遺族の方々に接しているからこそ
私は、人間の回復力、生命力に感動することができているのです。

寄り添うということは、
できる限りその悲しみや絶望さえも共感し、
被害者の生に意味がある事、被害者の名誉を守るとともに、
遺族を正常なコミュニティーに復帰させる方向での力を
後押しすることだと思います。

そのためには、加害者を全面的に否定することではなく、
加害者を理解し、加害者を弁護する能力が
被害者のために必要だと考えています。 

失敗を成功の母とする弁護人、付添人の役割PMG ( Post-Mistaking Growth ) [刑事事件]

実際によくあるのですが、
被疑者、被告人や、保護事件の少年と話していて
本人から、「逮捕されてむしろよかった」
という言葉を聞きます。

例えば、覚せい剤をやめようとして頑張っていても
どうしても、悪い仲間が寄ってきて誘われる。
誘われると決心が鈍る、断り切れない。

だから、覚せい剤をやめためには、
今は、逮捕されて、覚せい剤や使用者のいないところにいることが
自分にとっては幸いだ。

とか、

どうしても、自分は万引きを繰り返してしまう。
どうしてなのかわからなかった
でも、警察官や弁護士と話して、
落ち着いて考えてみて
自分の気持ちを圧迫しているものがある
ことががわかった。

こういう人たちに協力してもらい、
こういう方法で解決すればよいとわかったから
もう大丈夫だと思う。

逮捕されて、自己破産という制度があることがわかった、
生活保護という制度があることがわかった等

心理面、生活面、刑事政策面など
その人だけでは解決できない外部要因が重なって、
二者択一的な思考、
自分がこれをしたら誰にどんな迷惑をかけるか
自分がどういう立場になるかという
将来的なことを推測する思考が低下ないし停止して
犯罪を実行しているわけです。

もともと、素の状態で
犯罪を行う人はいないようです。
この犯罪に向かわせる外部要因を
「犯罪環境」と言います。

どんなに、反省を口にしても、
この犯罪環境から抜け出さなければ
結局、犯罪に向かってしまうわけです。

改善できない犯罪環境もある場合があるでしょうが、
その場合でも周辺的な犯罪環境を解消することによって
犯罪率は著しく低下するはずです。

失敗をしただけでは、成功にはつながりません。
失敗の原因を正しく分析し、
多角的に分析し、
原因を除去することによって、
その人の成長があるわけです。

逆に、その明確な失敗がなければ、
例えば、万引きを繰り返しても逮捕されないことが続くと、
取り返しのつかないところまで行ってしまっている
ということがあります。

そのためにも、
できるだけ、1度目の失敗は許されてほしいと思います。
もちろん、適切な働きかけを行い、
原因を分析し、対策を講じることのできる
支援者が必要です。
これが弁護人の役割だと思うのです。

気持ちが弱かった
流されやすい性格だった
今度は二度としない
というのが、だめな反省例です。

何の原因も分析されていませんし、
対策も立てようがありません。
どうやって気持ちを強くするのか、
腹筋を鍛えるのとわけが違います。

Post-Mistaking Growth とは、
心理学の用語で
Posttraumatic Growth
トラウマ後の成長
というものがあり、
そこからのパクリです。

対人関係学的労務管理のエッセンスとして
企業研修や、官公署の幹部研修の
最後のところでお話をしているテーマです。

出発は刑事弁護だったわけです。

これは人間の成長の基本です。

だから、夫婦関係、子育て、会社の人間関係にも
もちろん応用がきく話です。

その前提として、色々な不具合を
「失敗」というかどうかは別として
改善が必要なこと
という認識は必須になります。

不具合を隠そうとすることは
成長につながらないどころか
失敗が繰り返されていくということにつながります。

たくさんそういうケースは目にすることができますね。