SSブログ

務台政務官報道から考える今のマスコミの危険性 怒っている場合じゃないよと [事務所生活]

務台政務官が、被災地で長靴を履かず
道の上に雨水の流れができているところを
おぶってもらって渡ったことが報道されています。

被災地視察で長靴を用意しないことを
よってたかって批判している論調です。

そりゃあそうなんですが、
政府の視察団ならば、
本来役人が長靴をはじめとして一式を用意するので
政務官が長靴のチェックまでするとなると
これは、部下を圧迫する行為ということになります。

おそらく用意した長靴が足にあわなかったのだと思いますが、
そういったところで、足にあう靴を用意しなかったのが悪い
ということになりますので、辛いところでしょう。

興味深いのは、
務台さんが、スタッフに責任転嫁しないこと
スタッフの長靴を取り上げて、履かなかったこと
です。
ひょっとすると、政治家としては抜けているけれど
案外いい人なのかもしれません。

むしろ、普通の靴ではあることもままならない
という体験を、復興に活かしていただければ
私はそれでよいと思っています。

ところが、被災地以外の人たちは
思いやりを全開にしてくださり
こういうことを許してくれません。
東日本大震災の時も見られましたが、
思いやり爆弾みたいに感じていました。

問題は、マスコミの取り上げ方にあります。
二つの方向から切り込めればと思います。

先ず第1は、いつの話をいまさらということです。
これは、9月1日の出来事です。
2週間もたとうとする今日、
テレビなどで、何度も同じ映像が流されていました。

ネットでは、翌日くらいには
写真などが流されていて
なんだかんだと話題になっていました。

マスコミは、当初から情報をつかんでいたのに
報道をすることを控えていたことがわかります。
その後、ネットでの反響が大きくなったので
慌てて、オクラばせながら
何度も垂れ流ししているという実情だと思います。

これは、社会的な問題に対して
ネットで粘り強く話題にすれば、
やがて、マスコミを通じて全国に明らかにされる
という側面の可能性を示唆しますが、
実際は違うでしょう。

われわれが気を付けなければいけないのは、
マスコミが、事実を報道するのではなく、
何が受けるのかを見極めてから報道している
ということだと思います。

そして、話題になったというのは
本当に自然発生的なのでしょうか。
中には、良心的に憤って話題にしていた方もいらっしゃいます。

しかし、それなりに資本があり、
それなりに有名人が執筆して
それなりにキャッチも作っているサイトが
繰り返し話題にしていた
ということがなかったか
検証するべきです。

つまり、
大手広告代理店が
インターネットのサイトを作り、
人々に話題にさせて、
堂々とマスコミの情報を操作する
という危険性があるということを示しています。

「世論」に迎合するマスコミの
その「世論」が大手広告代理店によって作られたものならば、
大手代理店によって「世論」操作が可能になる
ということを示しています。

2週間近くたった事柄を
トップにおくマスコミは、
独自調査能力が減少いるのかもしれません。

二つ目の切込みは、
勧善懲悪の単純化ということです。

実際どういう事情で負ぶわれたのか、
負ぶった側がどのように働きかけたのか、
その後の調査はどのように進められたのか、
そういうことが全部切り捨てられて、
体格の良い政務官が自分を負ぶわせた
もっと苦しんでいる被災者を冒涜する
というコントラストの手法で
わかりやすく怒りの対象にしているということです。

そしてどの程度の反道徳性かという
程度の問題を捨象して、
「悪」一色に塗りつぶしていることです。

このような報道には警戒しなければなりません。
人を黒く塗りつぶして、黒だという批判は
誰にでもわかりやすく、
怒りを持った時点で、思考は停止します。

インターネット情報の陥る危険性です。
そんなに悪くない人も、
とことん悪くしてしまうことが可能になります。

これを、この二者択一的観点からの情報を
テレビや新聞も追随しているということが
大きな問題なのです。

自分と意見が同じだと
安心して情報を受け取っているうちに、
ひっくり返されて
誤った情報に誘導されるということが
第二次世界大戦の教訓だったはずです。

素朴すぎる正義感に訴えて
怒りに火をつけることはそれほど難しいことではありません。
「さあ国民の皆様怒りましょう!」
という報道に乗っていると
冷静に考えることができなくなります。

今時こんな勧善懲悪では
プロレスだってお客さんは来ないでしょう。

務台政務官報道は、
単純に怒っている場合ではなさそうなので、
あえて取り上げてみました。

自称フェミニストと新自由主義の結託の産物として連れ去り虚偽DVの運用があると思うということ [事務所生活]

配偶者控除の見直しが検討されています。
これは、多くは夫の税金に対して
配偶者(念頭におかれているのは専業主婦)
を扶養する経費がかかるだろうという事情で
税額が軽減されるという仕組みです。

これが撤廃されるというのです。
単純な増税なのですが、
「女性の社会進出」が理由として持ち出されています。

即ち配偶者控除を受ける条件として
配偶者は一定額以上の年収を上げてはならない
というものがあります。

これが女性が働かない理由だから
これを撤廃すれば、
女性はますます社会進出(就労)するだろう
というのです。

確かに増税されれば
収入が減少するので、
働かなければやっていけないでしょう。

騙されている気がしませんか。

賛成論者の中には
生活が大変になるかもしれないが、
価値観に影響を与えることだから推進すると
浮世離れした論者もいるようです。

これは、1980年代ころから
あからさまに論じられてきた論法です。
私はそのころ労働法を学んでおりましたので
リアルタイムでみてきました。

労働基準法が改悪され
生理休暇や、女性の深夜労働禁止が撤廃されました。
強制力のない雇用機会均等法と引き換えでした。

女性の社会進出を妨げているのが母性保護だから
これを撤廃して社会進出を果たすのだということでした。

現状どうでしょう。
生活は豊かになったでしょうか。
女性は幸せになったでしょうか。

確かに働く女性は増えたと思います。
それがどうしたというのか、憤りすら感じます。

一番のマイナスポイントは、
男女間の賃金格差に手を付けなかったことにあります。
この結果、
企業は、安い賃金で労働力を補充することができました。

また、時同じくして
労働者派遣法の制定の動きが出て、
非正規雇用労働者が多数出現しました。

この時も女性に働きやすい多様なニーズに合わせた
多様な労働形態の確保ということでした。
子育て中や、子育て後の働きのために
フルタイムでは困るというニーズが多いという理由で
非正規雇用が推奨されたのです。

企業は安い労働力を使うことが定番となり、
景気の波があっても、派遣契約を解約すれば
労賃を抑えることができるようになりました。
労働者と判例が積み重ねてきた
解雇法理をいとも簡単に破ることができるようになりました。

結局、女性の社会進出を進める目的の政策で
世帯収入が減り、
家族の中で、どちらかが働けば生活できた
という仕組みが失われ、
共稼ぎを強いてくる仕組みが成立したわけです。

女性の社会進出の促進のスローガンは、
新自由主義にとって、好都合であり、
その政策の口実に使われ続けてきたのです。

1980年代に女性の社会進出のために
女性の権利を後退させるということは
ギャンブル的な見込みもあったかもしれません。

しかし、ここまでの経緯をみて、
なお、価値観云々で、女性社会進出のために
配偶者控除の見直し賛成というのは、
もはや新自由主義の陣営でしかも
確信犯だと言わざるを得ません。

私は、Nancy Fraserの
How feminism became capitalism's handmaiden - and how to reclaim it
を読んで、そのようなことが述べられていることを理解して
もやもやが氷解しました。
日本の現代史こそ、このテーゼが正しかったことの証拠だったのです。

ナンシーフレイザーはまっとうなフェミニストだと思います。

私は、1980年代初めころ
日航の客室乗務員らの労働組合のシンポジウム
「いきいきともう瞳をそらさない」に
当時都立大の学長だった労働法学者
沼田稲次郎先生のご講演を聞くために出かけました。

先生は、
労働組合の役員においての女性の割合を増やす必要がある
とフェミニズムの立場から力説されていました。

女性は、男性よりも平和、公平、公正、建設的な修正を
志向するものであり、
女性の優位性を労働組合こそ生かすべきだ
というご主張でした。

女性はパンか大砲かを選ぶとしたらパンを選ぶ
男性は、職場で不合理なことがあっても
酒飲んでくだ巻いて終わりにしてしまう。

確かに、男性は、秩序を無意識に志向し、
秩序に反する行動はとりにくい傾向があります。
過敏に協調してしまうわけです。
悪く言えば負け犬根性でしょうか。

案外女性はだめなものはだめと
頑固なところがありますし、
保護的に利他行為をするところが多いように思います。

また、男性は無駄にはりあう気持ちがあり、
二人掛けで隣が足を出していただけで
むかっときてはりあってしまったりします。
つまらない意地を持っていたりするわけです。

大人になると、女性の方が緩やかなコミュニケーションを
とることがとても上手です。
職場と無関係に、友達関係を作っていくことができるようです。

こういう女性の優位さを
社会に対して影響力を与えていくことによって
平和で、公平、公正な社会を作る
ということが元々のフェミニズム運動だったわけです。

男性とは違う、女性の価値を重視していました。

ところが、一部のジェンダー「フリー」論者は、
フリーですから、
ジェンダー(の区別)を否定しようとしています。
(即ち概念矛盾です。)
もちろん英語圏の言葉ではなく日本の造語です。
英語圏ではジェンダーイーコリティ 両性の平等
という主張、表現がなされるようです。

ジェンダーフリーが否定しているのは、
実は女性の優位性です。

公平公正、平和な社会が否定されても、
価値観がのこればよいというのは極論でしょうか。
結局、その存在意義は、
新自由主義者にとって
即ち弱肉強食の世の中にとって
有効なものとなっているのが現状です。

男になりたいのだと思います。
まさに、女性に劣後している部分の男です。

あたかも賃金格差をそのままにしての
女性保護撤廃を許す必要があったのでしょうか。

法的効力があるのは保護撤廃の方で
均等法の方は努力義務でしたので、
法的効力は弱いものでした。

この時、男性も保護を強化するという方法で
女性の社会進出を平等にするという主張は
なぜ弱かったのでしょうか。
まさに、男性の論理に屈服したのです。

女性の管理職の割合を高める政策が行われていますが、
前提となる過重労働の解消は手つかずですから、
上司となる女性の男性の部下は
これほど会社のためにつくしてきたのに、
出産や子どもの病気を理由に会社を離れる女性が
自分の上司となることに納得できません。
小さな嫌がらせが執拗に起きることも多いです。

前提条件を整備しないで
数字的なつじつま合わせをした結果の犠牲者は
かなりの人数に上ると予想しています。

そうやって、女性の社会進出をしても良いことがない
ということで、何のためのフェミニズムだという批判を
かわしておく必要があります。

数字を示す必要があります。

それが、子ども連れ去り虚偽DVの制度だと思います。
全く同じ構造です。
女性の不満を一方的に取り上げ、
曖昧な定義で相手を黒く塗りつぶし
子どもから引き離し、
証拠がなくても支援措置でDV夫と認定し、
曖昧な運用で保護命令をかけて自分が働いた家から遠ざけ、
高額な慰謝料を支払わせる。

男性は、これによって、自己否定だったり、強い疎外だったり
次第に生きる希望を失っていきます。
多くの男性が自死しています。

でも、離婚後の女性を支える制度に
それほど有効な特別なものはありません。
まさに前提条件を欠いて、
制度だけ先行させているわけです。

そして、相談件数が統計上右肩上がりだとか
警察の支援措置の何がどう増えているとか
そういう数字だけが喧伝され、
留飲を下げているようです。

そうです。最近のDV啓発ビデオで
必ず出てくる統計グラフです。

そのためには、
日本の家族の実態調査はせずに
アメリカのDVの調査に基づいて制度が運用され、
また夫婦間暴力ではない
交際相手の暴力による死刑判決事案を引き合いにして
夫婦間暴力も同じだという危機感をあおり
善良で要領の少し悪い日本人男性が
みんな殺人鬼みたいに扱われるわけです。
100万位円以上も出して
セミナーを受講することを強要された人もいます。

一番悲惨なのは子どもです。
善良な被害者である母親と
凶悪な加害者である父親の子どもとして
成長しなければなりません。
アイデンティティの確立不全は
様々な不具合をきたします。

このような不合理がまかり通るのも
ナンシーフレイザーは指摘していました。

要するに、フェミニストたちは、
制度改革や社会の歴史の前進を進めるべきときにも
なお家庭内の女性の復権の行動を選んでしまったと述べています。

まさにこれを地で行っているのが
虚偽DV連れ去り政策ではないでしょうか。

「女性保護」が、法律より上位の法源とされているということを
先日も述べました。
しかし、その真の狙いは新自由主義政策の推進です。

新自由主義者は、
竹信三恵子先生の名著「家事労働ハラスメント」すら
本来、社会が家事労働に金銭的価値を認めない
このため、女性の社会進出が果たせない
女性の貧困を招いている
という社会的な問題を提起したこともすり替えて、

夫が家事を分担しないことをもって
家事は妻がやることを前提としているということを
家事ハラだとすり替えています。
新自由主義的なすり替えです。

これを自称フェミニストたちが
絶賛しているわけです。

ぜひナンシーフレイザーのテーゼを
受け止めていただきたいと思います。
まっとうなフェミニストが
どんどん出てきてほしいと思います。

フェミニズムってこんなもんじゃないという想いをもって





試合直後の選手インタビューの発言に意味はない理由と、批判も利用ももっと無意味であること [事務所生活]

今年のリオオリンピックは、
これまでのオリンピックと違って、良く見たような気がします。
しばらく前から愛国中年を自称しているおかげで、
心ゆくまで日の丸君が代を堪能しました。

ところで、
特に敗者のインタビューの発言を批判する論調があります。

第1に、これは、仲間意識が強くなりすぎて
求める事項の自分勝手度と強さが大きくなった結果です。

第2に、世界レベルのスポーツ選手の
脳活動の仕組みを理解していないことが原因です。

第1の仲間意識が強すぎる弊害というのは
つい先日SNSのいいねが攻撃性を高めるとかいう記事で書きました。

自国民を応援する理由は、
自国民だからというよりも、
感情表現に共鳴しやすいということがあります。

もちろん前提として、
映像などの情報を一番多く見てますから、
少しずつ身内の意識を持つようになります。

ジャイアンツファンが多い理由ですね。

福原愛選手なんぞ20年以上前から
映像で拝見していますから
とても強い身内意識を持ってしまいます。

それと同時に
喜びの表現、悲しみの表現が
国によって少しずつ違い、
なじみのある表現の方が、
理解しやすいので共鳴しやすい
という理由もあると思います。

そうするといつしか、
自分の身内という意識が強くなり、
「こうあってほしい」とか
「こうあるべきだ」と
勝手に思うようになるわけです。

無遠慮に不特定多数に向かって発言したりするわけです。
まあ、私くらいの者がつぶやいている分には罪もないでしょうが、
影響力がある人がそれをやることはいかがなものかと思います。

これは、第2のスポーツ選手の脳の活動と関係があるわけです。

筋肉を動かしやすくする工夫として
動物全般に交感神経の活性化が起きます。
これは、通常の動物ですと
主として、逃げるということに
行動が特化しますので、
余計なことを考えないでひたすら逃げる活動となります。

猛獣の捕食はひたすら攻撃です。

これは、ルールのあるスポーツでは通用しません。

ただ、力を出せばよいという競技はないからです。

駆け引きだったり、相手の技を予想したりということもありますが、
その種目に合わせて筋肉の動きや視線、足の運び等
興奮を制御して、合理的な力の使い方となるよう操作しなければなりません。

単純な興奮状態ではないのです。

もっとも、極限まで筋肉を動かすのですから
相当の、それこそ極限的な興奮状態にあるのでしょう。
それと同時に、行動制御力も同じように極限的に使う
ということになるでしょう。

そのために、毎日毎日切磋琢磨を繰り返し、
体で、その感覚をつかんでいく
つまり、脳の矛盾する活動を体で覚えていく
ということになります。
これは、おそらく、動物の中でも
人間が突出して行い得る脳の活動だと思います。

左上のリンク先の対人関係学のページを参照していただきたいのですが、
人間は、危険に近づいて利益を得る宿命を持った
動物種であることから
このような宿命を負っているわけです。

だから毎晩晩酌して高いびきで寝ている私とは
全く異なります。
興奮のまま言いたいことを言って、
相手を怒らせても既にスリープモードでいられる
うまれたままの、人間だか何だかわからない
生活を送っているのではないのです。

そうすると、試合直後の脳の活動は
私のような凡人は理解できない状態なのでしょう。
直ちに興奮が収まることも、抑制が鎮まることも
ありえないことです。

要するに、そういう状態の発言に
言葉が文字通りの意味を持っていない
いるはずがないということになります。


勝った選手は、嬉しいということ
負けた選手は、悲しいだったり、悔しいだったり
試合直後は、それだけだと思って、
そっとしておくべきでしょう。

安心できる相手である家族の元に向かいたいということは
自分の異常に高度な脳活動を鎮めるために
有効ですから、よく理解できます。

吉田選手の試合直後の発言や所作を
あれこれ論評する人がいるようですが、
全くナンセンスな話です。

吉田選手の場合は、
パニックのような状態だったと思います。

その真意はわかりませんが、
ちょっと考えれば当たり前のことです。
15年間も負けなしですから。
負けたことを理解しえない、受け容れられない
ということは、当たり前のことです。

これは、凡人には到底理解ができません。
15年という重みは気が遠くなります。
その日常が絶たれたということですから、
どうしていいかわからなくなるでしょう。

あのパニックの状況に、
どれだけ偉業を成し遂げたか、
どれだけ、偉大な脳の活動を行っていたか
推量ってみることも難しい。

彼女の偉業は
凡人には星空を眺めるようなものだと
私は思います。

おこがましいことですが、
おなじ日本人として誇りに思います。

中学生人権教室40分バージョン 人間って何だろう [事務所生活]

中学校人権教室 40分バージョン

みなさんこんにちは。私は人権擁護委員をしております。職業は弁護士です。20年以上弁護士をしておりますが、今日は人権の話ではあるのですが、法律は出てきません。むしろ、20年以上弁護士をやっていて、人間同士の紛争にかかわらせていただいていて、法律以上に大事なことがあるなと感じていますので、そのことをお話させていただきたいと思います。

怒らないで考えていただきたいのですが、
地球上の動物で、攻撃力が強いといったらどんな動物でしょうか。ライオンや熊の爪や牙は攻撃力ありますよね。鷹なんかも食物連鎖の最上位にいるとしたら攻撃力が強いと考えられるかもしれません。
では、防御能力の高い動物といったら、どんな動物でしょうか。馬とか走るのが早い動物も逃走能力が高いですし、象やカバのように分厚い皮膚や体重なんてのも防御力が高いですね。敏捷性というのも防御能力が高いと言えそうですね。

ところで、人間は、どうなんでしょう。今でこそ文明の力があり、地球上の主人公のようにふるまっていますが、文明がない時代、牙やや爪、腕力はないわけです。逃げ足ったってライオンや虎にかないませんね。熊だって走るの早いですから。絶滅していてもおかしくないですね。繁殖力だって、10月10日もかかるのに、数年は走ることもままならないというのですから有利ではないわけです。どうやって生き延びてきたのでしょう。
このグラフを見ていただきたいのですが、人類の祖先がチンパンジーの祖先と別れたのが700万年以上前、ホモ属が成立して200万年、ここにはありませんがホモサピエンスが成立してからも20万年ということです。チンパンジーも700万年前からはそれなりに進化していますが、人間もおそらく進化しているのでしょう。あるいは、身体的には退化しているのでしょうから何とも言えませんが、攻撃力や防御力はそれほど変わりはないのだと思います。
それにもかかわらず、生き延びてきたということは理由があると思うんですね。

一つの理由として、群れを作るということがあると思います。ある程度の体格がありますね。中型といえるんじゃないでしょうか。また、ある程度は攻撃力がありますよね。もっとも1対1では到底猛獣にはかなわないですけれど。そうすると、これが20体、30体あれば、なかなかライオンといえどもクマといえども手出ししにくいということはあったと思います。襲う方だって、楽に戦える相手からまず襲うでしょうからね。これも自然界の鉄則ですね。この絵のように固まると不気味ですよね。その割に、あまりうまそうでもありません。

群れを作るといいますが、どうやって、群れを作ったのでしょう。20万年前なんて、文字どころか言葉もない時代ですからね。どこかのグループがたまたま群れを作ったって世界に広まる前に、滅亡してもおかしくないはずです。それは、遺伝子的な仕組みがあったと考えられないでしょうか。

群れを作る仕組みが遺伝子にあったわけです。
何か、自分勝手な行動をとっていると、群れの他の構成員からひんしゅくを買う。攻撃されたこともあったかもしれません。だんだんと何万年を経てですね、群れの他の構成員の空気を読んで、自分の行動を修正して、同じ構成員から攻撃を受けない仕組みが備わっていったのだと思います。ありゃ、こりゃまずいぞと。そうして周囲にあわせたり、発言を撤回したり、詫びを入れたり、ルールを守ったりということですね。但し、何をすれば悪いかということは、本能的というよりも、生まれてから学習して身につくことも大きいと言われています。ただ、周囲に調和しようという気持ちは、もともと遺伝子上に引き継がれていっていると思います。

不安を感じて群れにとどまろうと行動を修正するわけですが、どんな時に不安を感じるのでしょうか。自分が失敗して仲間に迷惑をかけたということもあるでしょう。それだけでなく、仲間の自分に対する言動からも不安を感じると思います。自分だけ分け前がもらえない、情報が隠される。自分の努力を評価されない。話しかけてもくれないし、何か言おうとすると黙ってろといわれる。乱暴にされたり、嫌がることをあえてされるということでも不安やもやもやした嫌な気持ちになりますよね。突き詰めて考えれば、群れの構成員として尊重されていない事情を感じた場合とまとめられるかもしれません。

さて、不安とは何でしょう。実は、脳科学的には、不安とストレスは結構類似品です。
不安になると、血圧が上昇し脈拍が増加し、体温も上昇します。内臓に流れている血流が筋肉に多く流れるようになります。また、落ち着かなくなります。これは、逃げたり戦ったりするために体を動かしやすくする仕組みです。動物、まあ哺乳類におおむね共通の生理的変化ということになります。動物の場合は、身体生命の危険を感じたときに限定されていますが、人間は身体生命の危険を感じた場合だけでなく、対人関係上尊重されていない、追放されてしまうのではないかという場合にも不安を感じるという仕組みがあるということになります。精神科の学者は、これは古代の古い反応の残存だと指摘される方もいらっしゃいますが、私は、人間が群れを作るための仕組みなんだと思います。もっとも、テストで失敗しても、忘れ物をしても不安が起きますが、走って逃げたり相手と戦う必要はありませんので、自分の行動を修正するきっかけ以上にメリットはあまりないようです。

群れを作る仕組みの2つ目には、弱い者を守ろうとするという本能があるということです。
もし、強い者が、自分だけ食料を確保したり、快適な環境を独占してしまったらどうなるでしょう。700万年それをやっているうちに、弱い者からどんどん死滅していって、グループが少数になってしまいます。どんなに洞窟に隠れても掘り出して猛獣の餌食になったでしょう。頭数を守らなければなりません。そうすると、自分を守るためには、群れの弱い者を守って群れ全体を弱めないことが必要だったと思います。人間は、誰でも、むしろ弱い者ほど大事にしなければならないということはきれいごとではなく、人類が生き残るためのギリギリの必要条件だったということになり、それが今にも受け継がれていると思います。

 その一つが、可愛いという感情です。みなさんの年代だと同かわかりませんが、私くらいの年代になると赤ん坊のコマーシャルを見ているだけでうれしくなってしまうんです。あの犬がライオンの被り物をしているコマーシャルは不覚にも涙さえも出てきてしまいます。可愛いというのは、弱い者を守ろうとする人間の高度な感情だと思います。

ところで、みなさんの年代という言い方をしましたが、中学生はどういう年代でしょうか。
小学校までは、自分は家族の一員ということで安心できたわけです。まあ、概ねね。ところが、中学生くらい、いわゆる思春期ということになると、そういう家族の一員ということから、社会の一員という意識が芽生えてきます。巣立ちの準備というか、結婚相手を見つける準備みたいなものです。動物行動学的に言えば繁殖をするための心理的変化ということになります。
家庭という絶対的帰属主体から、勝手に心が離れていくので、大変不安が多くなります。自分の将来をリアルに考えるようになります。ともすれば、自分を守りたいという意識が強すぎて、自分より弱い者を見つけて安心したいという高等な人間にあるまじき感情を持つことが多くなる時期であります。
中二病とかいろいろ勝手に言われる時期でありますが、確かにイライラしたり、空想に入ったりするのですが、こういう不安が怒りというか攻撃的感情を育ててしまいます。ここでみなさんに思い出していただきたいのですが、自分に向けられた怒りは八つ当たりではないかと考えたことはありませんか。80%くらいは、怒る相手に対する怒りではなく、自分のイライラを解消したいから怒っているとそういう感じです。反撃が怖いから弱い者に怒りが向かうわけです。弱い者とは、多数対少数で弱い者を作る場合もあります。立場が弱い者に、反撃しにくい内容で攻撃する場合もあります。まあこれがいじめですね。およそ、人間らしからぬ野蛮な行為であることは今までの説明でよく理解できると思います。群れを大事にして生き延びてきた人間のすることではありません。

攻撃を受ける者は、八つ当たりで攻撃を受けているわけですから、危機意識、不安だけはどんどん大きくなります。自分は安全ではないということが毎日の生活だということになります。しかし、自分では修正しようがありません。そうなると絶望ということになります。生きるための意欲を失っていき、朝起きるとか食事をとるとか、喜びや悲しみを感じるとか生きるための活動をどんどん停止していきます。一度いじめの案件を半年くらいかかわったことがあり、最終的には、虐めていた子から自発的な謝罪もあったので、やったーと喜んでいたのですが、何年後かにいじめとも言えないような出来事があったとき、いじめられていた子はまたあの時のようにいじめが始まるのではないかという気持ちになったということがありました。逃げようのない攻撃を受けて、毎日が針の筵だということは人間にとってとても大きな打撃を受けるということがつくづくわかりました。

ところで、いじめで侵害を受ける人は被害者だけではありません。人間が、自分ならなおさらですが、他人が人間として大事にされていない場面を見ると嫌な気持ちになりますね。残酷だと拒否反応を示すわけです。ところが、人間が大事にされていないことを見続け居ると、だんだん感覚がマヒしていきます。ちょうど、臭いなと思っても、だんだん慣れていって臭いという感覚がマヒしていくことと同じです。そうすると、無意識のうちに、人間は大事にされなければならないという感覚がマヒしていきます。人類を生き延びることをさせてきた観念が薄くなってしまいます。そうすると、自分を含めて人間は大事にされなければならないということが思えなくなり、自分を大事にできなくなっていってしまうのです。

自分を大事にできなくなるとどうなるでしょう。
自分を大事にするなら、わざわざ肺をおかしくして、呼吸を苦しくするタバコを吸うなんて馬鹿なことをしようと思わないわけです。酒もそうですよね。あれは、自分大事にできなくなっている現象です。まあ、お酒ばかりは飲み方にもよるんでしょうけど。また、自分を大事にしないことが進んでしまうと、事情が重なると、覚せい剤や危険ドラッグに手を出してしまたり、万引きという窃盗が詐欺、強盗になったり、無謀な買い物をしたり、ギャンブルに手を出したり、離婚原因になるようなことを行ったりということは仕事がらみてきました。みんな、ある日あるときぐれるということではなく、自分を大切にできない環境にだんだん慣れていってしまって犯罪になってしまうのです。この究極の自分を大切しない行為が自殺ということになります。

だから、いじめを止めることは、被害者を助けるだけではないんです。いじめを見ている人はもちろん、いじめをしている人にとっても、いじめを止めることは助けであり、救いなんです。これを大人が言っても、なかなかいじめは収まらないこともありますが、友達同士でもうやめようぜということが特効薬になることは観てきています。
大人はどうしても、いじめをするような子、いじめを傍観する子ということで決めつけをしてしまいがちです。でも友だち同士なら、決めつけではなく、友達だから心配していっているんだということになりますし、友達を失わないために自分の行動を修正することもできます。いじめをしていると、自分がいじめられたことや、そういう扱いを受けてきたことを思い出して、嫌な気持ちになりながらいじめをしているわけですから、やめるきっかけがあれば一抜けたと言いたい人は多いということは良くお分かりだと思います。おせっかいくらいがちょうどいいと思うんです。なんて、一番大事な自分を守るためにもなるんですから。おせっかいをしましょうよと言いたいです。
私は、子どもだけが勉強するのではなく、人間は死ぬまで勉強だと思います。それは、人間として成長し続けることだと思います。自分を大切にすることは、人間が生きる仕組みとして、仲間を尊重することということになります。弱いところ、間違いを責めない、笑わない、仲間から外さない。助け合って補いことだと思います。この尊重しあう人間関係の中にいることが人権が尊重されている状態だと思っています。

最後に、もしお話し合いをするのであれば、友達との関係で、寂しさ、苦しさ、怒りを感じたときは、人類的観点に立つとどういう時か話し合ってみるとよいと思います。自分は楽しくても、相手が嫌に思うということが出てくると思います。
また、自分が仲間として尊重されていないと感じる場合を話し合ってみましょう。人間が大切に扱われていないと感じるときはどんな時かということも良いと思います。また、誰かを守りたい、助けたいと思う場合についても話し合うと発見があるかもしれません。

いじめをやめようとか命を大切にしようとは私は申しません。それはマイナスではなく0にしようということのように思うからです。そんな低いレベルのことではなく、仲間を尊重しようとすること、助け合い、補い合ってみようという人間らしい目標、0の先のプラスに目標を設定すれば、いじめなんてとっくになくなっていると思います。そういう学校生活を作っていけば、ああこの学校の生徒でよかったなと、この学校に通えて幸せだなと大きなプラスが実現できるのではないでしょうか。


中学生人権教室お話20分バージョン 中学生人権作文ドラマを観て [事務所生活]

冒頭以下の動画を観てもらいました。15分。

中学生人権作文平成22年度入賞作品
私たちの声 3人の物語 いじめを無くすために
https://www.youtube.com/watch?v=BQW5zjbnkNA


その次に10人弱のグループに分かれて感想を言いあっていただきました。
中学生(学年混ぜて)
父兄(自分の子どもとは別のグループで)
人権擁護委員(年配の方)
町職員他

その後子ども110番を主宰している方から20分お話があり、
私のお話。(終わるころはまるまる2時間)

以下、お話の内容です。
私は、このビデオを見て、いじめをしていた安藤拓海が、主人公大樹の注意を聞いて、あっさりといじめをやめたことが気になっていました。法務省のホームページで元になる作文も読めるのですが、やはり、一度の注意でいじめをやめたようです。これは、本当にあった話を元にしていますので、本当のことなのでしょう。本当はこれがリアルな話なんだと思います。

どうして、拓海は、いじめをやめたのでしょう。私からお話したいことはそのことです。

大樹のお父さんが亡くなったということも一つの理由なのかもしれません。しかし、もっと、大きな理由があったように思います。

一つの理由として、拓海は、本当はいじめをやめたかったのではないかということを考えました。それは、やめたいと言葉になるような気持ちではないでしょう。自分でも気が付いていなかったと思います。いじめていることが苦しかったのだと思います。おそらく、拓海は、いじめていた飯島君に言っていたようなことを誰かから言われていたのだと思います。いじめをする人から話を聞くと、みんな、まるで自分を守るために虐めているようにお話しします。正当防衛みたいに、相手が悪いっていうんです。でも、自分を守るために他人を虐めているのかもしれませんが、自分がいじめによってますます人間性がすり減っていく、自分を攻撃してしまっているということがいじめの本質だと思います。自分が言われた言葉を飯島君にぶつけていたのだと思います。自分が飯島君を虐めているとき、苦しんでいる飯島君、逃げ場のない飯島君を見ながら、その飯島君の苦しさと、自分のおかれている状態を無意識に重ね合わせてしまっていたと思います。苦しさから逃れるためにいじめていたのですが、逆に苦しさが募っていたのではないでしょうか。

いじめている方も、もちろんいじめられている方はもっとひどく、
「人間を大事にしよう、人間は大切に扱われるものだ」
という気持ち、感覚がすり減ってゆきます。
本当は、自分でも他人でも、誰かが傷ついても嫌な気持ちになります。むごい、怖い、苦しいという気持ちです。人間だけは、二歳くらいから、誰かが困っていると助けたり、誰かが楽しんでいると一緒に楽しみたいという気持ちになり、そうします。それが、弱い人間が群れを作る仕組みです。

ちょうど、体のどこかにけがをすると、痛いという感覚になりますね。あれ、どうして痛いと思うかというと、そこが皮膚が破れてバイ菌が入るから洗ったり、薬を付けたりする必要があると知らせるためです。骨が折れていたいのは、安静にしていないと骨がくっつかないためです。
心もおんなじです。
自分の身を守るため、むごいとか、怖いとか心配になったりする生きるための仕組みなんです。
ところが、他人が苦しむ姿を見続けるとどうなるでしょう。だんだん慣れてきてしまうのです。人間はいつまでも苦しむことに耐えられないのです。最初、あれ臭いなと思っても、だんだん慣れてしまってにおいを感じなくなるのと一緒です。

いじめが続くと、人が苦しんでいるのに慣れていってしまう。他人が苦しんで、自分だけが平気なんて言うことは残念ながらありません。無意識に、「人間を大事にしよう、大切にしよう」という気持ちが、馴れることですり減ってしまいます。
誰かが傷ついても、あまり気にしなくなってしまうということは、実は、自分が傷ついていることに気が付かなくなることなんです。これが人間の心の仕組みです。

そうやって、このまま人間性がすり減り続けるとどういうことが起きるのでしょう。

一つには、見つからなければ良いやという気持ちになることから、犯罪が起きます。本当は、自分を大事にできているならば、そんな悪いことを自分にさせません。また、自分を大切にできないと、自分の体が悪くなるということをあまり気にしなくなり、危険ドラッグや覚せい剤を好奇心で使おうなんて馬鹿なことをするようになります。辛い状況を生き抜くために、痛みに鈍感になっていきます。
いじめを止めることは、被害者を助けることだけでなく、それを見ている自分やいじめている本人さえも、人間性の摩耗から助けることなんです。自分を大事にすることなのです。

拓海は、まだ、そこまで人間性がすり減っていなかったので、苦しさが残っていたのだと思います。何とかやめるきっかけがほしかったのかもしれません。だから、大樹の言葉に反応したのだと思います。

さて、でも、人間の気持ちとして、自分が間違っていることを分かっていても、なかなか人の注意を素直に聞くことはできません。どうして、拓海は、大樹の言葉に素直になれたのでしょうか。これもずうっと考えていました。


そこで、もう一度、このビデオを見て、衝撃を受けました。大樹は、いじめは悪いことだからやめろというようなことから言って拓海をせめているのではないのですね。
「関係ないだろう。」といった拓海の言葉を受けて、「関係なくないだろう、友達だろう。」と言いました。

このビデオの見せ場ですね。

言われた拓海は、どうせ自分なんて誰も相手にしてくれていないという気持ちだったことを打ち明けます。こういうことを言ったということは、拓海は、嬉しかったのだと思います。自分が、昔一緒にサッカーをやっていた時のように、大樹に受け入れられていたことが嬉しかったのだと思います。間違いをしても、自分を友達だと受け止めてくれる。いじめをしている自分を、そういう「虐めるやつだ」というような見方をするのではなくて、本当は違うだろうと言ってくれたことが嬉しかったのだと思います。

いじめなんていう極端な悪いことでなくても、なんかうまくできないことってありますよね。走るのが遅かったり、絵をかくのが下手だったり、そういうところを、笑ったり、責めたりしないで、いいよいいよ、俺がフォローするよと言ってくれると嬉しいものです。この人のために、自分も貢献したいという気持ちになりますね。こういうことが人間同士の付き合いなのかもしれません。拓海は、友達の前で、素直に謝ることができたのが嬉しかったと思います。とても気持ちが楽になったと思います。


 いじめなんてなくなればよい。とみんな思っていると思います。だけど、場をしらけさせてしまうんじゃないかとか、今度は自分がいじめられるのではないかと思い、なかなか言い出せませんよね。偉そうに思われるのもいやかもしれません。

でも、今回のビデオを見て思ったのですが、「もうやめろよ。」ということが、友達として、仲間として言うならば、それは、おせっかいかもしれませんが、親切なのだろうな、虐めている友達を「人間性をすり減らすこと」からかばうことなのだろうなと思いました。それが、虐めている人の弱点をフォローしてあげることにもなるんだなと思いました。

 いじめの対策の一つの考えとして、いじめがないかを監視して、発見したら加害者を攻撃して排除するという極端な考え方もありますが、これはいじめ対策が暗いものになってしまいます。弱点があったり、苦手なことがある友達をフォローして、皆で助け合う学校にする。今の苦しい、独りぼっちの状況から、自分は苦しいと言えて励ましあうことができる当たり前の人間関係を作る。私は、こういう当たり前の人間関係にあることが人権が守られている状態だと思うのです。そんな難しいことではないと思います。
 人権が守られていれば、それでもいろいろ苦しいことがあるけれど、人の中にいることで安心することができます。この人のために頑張ろうという人がいれば、生きていることが充実していきます。

だから、いじめをなくしましょうというより、この中学校の生徒たちは、みんな弱点があってもそれを助け合って、尊重して暮らしていく。そうすることによって、この中学校の生徒でよかったなと、生れてきて良かったなと思える学校づくりを目指せば、その途中経過で、とっくにいじめなんて、なくなっていることと思います。嫌なことをやめるという目標ではなく、楽しいことを膨らますという目標です。今日、こうやって、最後まで私の顔を見て私の話を聞いてくださった皆さんならきっとできることでしょう。

企業研修(経営者・幹部向け)で人権の講義をしています。覚えるのではなく、結局人権とは何かを理解すること [事務所生活]

私は、労災についての研修会の講師は、
企業連合体や国の外郭団体で行っているのですが、
気が付くと、
労務コンサルタントをされる方に対して、
服務規定やパワーハラスメント等の研修の講師をしたりしていました。

人権をテーマにした研修だと、
省庁、地方自治体の課長級以上の研修や
省庁の新人研修、
学校で、先生方や父兄向け研修、
中学校、高等学校の人権教室などで
お話をしています。

毎年、かなりの数に上ります。

これらの方々、特にお子さんに対して
人権というわかりにくい話を
無味乾燥にならずにお話しなければならないので、

「結局、人権って何なのよ」
ということを、わかりやすく説明してこなければなりません。

年齢や立場において、説明の方法は変わります。

高校生ですと、ポップ歌手の歌を題材に
人権のお話をしていきますし、
中学生ですと、いじめの問題をテーマにして、
「当たり前の人間づきあい」
という視点から人権を説明していきます。

法律上の概念や、歴史的背景すらも語らないで
人権を理解していただかなければなりません。
それも、一回勝負です。
2時間の持ち時間の場合もありますし、
40分や20分という持ち時間の場合も
とにかく一回勝負です。

何かを覚えていただくのではなく、
腹に落としていただく、
できれば、心を動かしていただく
ということを目標として行っています。

今、企業経営にとって、
人権問題は避けては通れない問題となっています。
人権問題が順調な経営の落とし穴になる可能性があるわけです。

逆に、人権問題をうまく吸収することによって、
莫大な経済効果が生まれる可能性があります。

一つは、従業員のモチベーションであり、
一つは、社会的信用の増加です。

人権問題は、実は、
利潤追求の足かせになるのではなく、
絶大な効果が期待できる経営戦略なのです。

せっかくの好機に、
パワハラがあったり、
外国人差別があったり、
障碍者問題が起きたりすると
モチベーションも下がり、社会的信用も失います。

現代においては、経営戦略に不可欠の要素だと
客観的には認識するべきです。

ところが、人権問題は、
手を変え品を変えて、次々と新しい課題が浮かび上がります。
何が人権侵害か、何がパワハラを
「覚えよう」とすると、どうしても無理が生まれます。
従業員の数以上に、人権の形が存在するからです。

肝心なことは「腹に落とす」ということです。

また、人権という言葉には、人権感覚という
阿吽の呼吸というか、一子相伝的な要素が付きまといます。
これこれ、こういう事例から考えてね
というような
途中までは面白おかしく聞いていても
結局何が人権であるかについては
実務的には難解な話がほとんどでした。

対人関係学は、
動物行動学と脳科学の観点から
「人権」を言葉で説明しています。
人権感覚を身につける努力も不要です。

だから、
「人権を守るか、企業活動を否定するか」
という視野狭窄的な選択肢を提起しなくて済むのです。
経営判断で、どの程度人権を充足するかを
チョイスすることが可能となります。

簡単に言えば、
第1に、身体生命の危険とともに対人関係の危険に
さらさないこと

第2に、自分の身を自分で守るという感覚をもたせること

具体的内容は、お話の中でお願いします。

ただ、一番の問題は、教科書が出版されていないことです。

このブログだったり、
対人関係学のページだったり
情動の研究だったり、
法律事務所のホームページに載っていますが、
すべてを閲覧するには時間がかかるということが
難点であることは自覚しています。

一般的に人権というテーマもありますが、
以下のテーマを中心に、あるいは題材にお話しすることが多いです。

パワーハラスメント
障害者差別解消法の「合理的配慮」
外国人雇用、現地労働者問題
部下の失敗の活かし方(PMG)
部下とのコミュニケーションとハラスメントの境界
メンタルヘルス対策
服務規定と企業外非行
長時間労働と人間の生きる仕組み
モチベーション
「忙しい」とは具体的にどのような事象のことか
忙しさが招くヒューマンエラー


などなどバリエーションがあります。

労働法規一般ももちろんお話しします。

事前に企業の問題事例を教えていただき
具体的にどのように考えていくか
ということも歓迎です。
とにかく、実務的に使えることが命です。

但し、マニュアルを覚えてもらうというのではありません。
アンケートを見ると
1割くらいの方が、マニュアルを期待していたことがわかりますが、
そういう研修会ではありません。
また、人間関係がマニュアルで割り切れると思っているなら
その考えこそ改めなければなりません。

これまでの私の活動歴
弁護士としてだけでなく、
人権擁護委員や調停委員
あるいは、市井の生活者という経験を踏まえて、
私だけが培ったノウハウです。


お問い合わせは、お手数をおかけしますが、
このブログの左上のリンクのリンク先にある
左側のリンクから、私の法律事務所のリンクに
連絡先があります。


対人関係修復士という仕事 対立から関係修復へ3 学校 [事務所生活]

<教師と校長、教育委員会>

気が付くと学校の先生の職場の改善ということはかなり多く手掛けています。
多くは、その先生の自力改善を支援していくというアプローチですが、
精神科のお医者様との連携を多くともなっています。

本人が、学校長や教育委員会と敵対するのではなく、
関係を修復するという視点を持てるようにすると、
解決に向かって動き出します。

本当は、尊重されて仕事を続けたいということが第一目標なのに、
どうやって裁判をするかということに
いつの間にかすり替わっている人たちが多いのです。

実は、先生の対人関係改善のために、
校長先生とお話させていただくということもあるのです。
そういう話し合いに応じてくださる校長先生は、大変尊敬できる方で、
もうこうなると歯車が良い方向に回っていきます。

<モンスターペアレント>

ただ、教育委員会は、頭が固いようです。
モンスターペアレントに苦しんでいる校長先生から修復の依頼があったときも、
教育委員会がOKを出せば仕事を始めるというところまで来ていたのに、
ストップがかかってしまいました。

クレーマーやモンスターペアレントの対応は、
対人関係学の基本です。
ヒントは、クレームをなくそうとするのではなく、
むしろ、積極的に、意見を述べてもらう方法を考えることが解決の糸口なのですし、
解決するとクレームがなくなるだけでなく、
学校の強力な協力者ができ上がるのですが、
平成の教育現場は、オーソドックスな解決法、王道が失われてしまったようです。


<いじめ>

いじめの問題は、対人関係学の独断場のようです。
簡単ではありません。
いじめがゼロになることを目標にしたり、
死ななければよいということがあからさまな対応は
絶対にプラスに作用せずに、有害になるだけです。

これまでの私の活動は、
いじめられたお子さんとご家庭を立て直し、支えるという仕事、
学校とPTA相互の協力を提案し、
大人がしっかりと解決に向かうという仕事、

加害者、傍観者も、人間性がすり減っていき、
自死のリスクが高まるという視点、

子ども通しが尊重しあったり、助け合ったりするという行為の援助など、

弁護士という職業はなるべく出さないで、
対人関係修復士を全面に出して活動をします。

いじめの被害者からのご依頼や、学校からのご依頼で調査や支援を行うほか、
学校主催やPTA主催の講演会、
学校の先生向けの後援会活動などを多く行っています。

いじめを無くすという、マイナスから0に向かう行動ではなく
0の先のプラスをめざすということ
この学校の生徒でよかったと
子どもたちに思ってもらう学校つくりこそ目指すべきです。

また、その方が対策も具体的で、実行しやすいと
現場の先生方からお話を受けております。

医療のように、対人関係の修復を行う、実務的研究分野を開拓したい。 [事務所生活]

先日、スーパードクターというテレビ番組を観ました。
それを観てぼんやりと考えたのですが、
身体、生命の危険に対して、
人は、お金を出して、対処をするわけですが、
そのために、医学という学問を発達させてきました。

しかし、
対人関係の危険に対しては、
それをどう修復したり、予防したりするか
ということについての
学問を発達させてこなかったのではないかと
感じました。

医学や治療は、
それがなければ、死んでしまったり、
痛みや苦しみが続くので、
優先されて当然だという
ご意見は予想されるところです。

それはそうかもしれません。

しかし、対人関係の問題は、
痛みや苦しみが続かないというものでしょうか。

例えば離婚についての影響は、
30年たっても葛藤が鎮まらなかったり
子どもたちに対して負の影響が与えられるということは、
ウォーラースタインの30年の追跡調査でも
ほぼ例外がありませんでしたし、
私自身20年前の離婚で生活に影響が出ている人を
目の当たりにした経験があります。

学校のいじめの問題で
30年たっても、社会生活を送れない人たちもいます。

職場の過重労働でも
職場を離脱して何年にもなるのに、
いまだに上司からのメールが来るのではないかと
おびえている人たちがいます。

そして、多くの人たちが
自死の危険に直面しています。

苦しみや辛さ、命の危険もあることは
むしろ身体生命の危険以上の場合もあるでしょう。

「それはそうかもしれないけれど、
 精神医学や心理学があるのではないか」
というご指摘も予想されます。

しかし、これらの学問は、
本人の精神や、思考に働きかけて
物事を解決しようとするアプローチです。
中には、優れた方もいらっしゃるでしょうが、
医学として、会社の仕組みだったり、
上司と部下の人間関係だったり、
そういうことを理解しようとしているのか、
私には、不勉強でわかりません。

いきおい、本人が苦しむのは本人に原因がある
(人格の未熟さだ)とか
本人の人格障害だ、統合失調症だと
診断名を付ける事例をよく見ています。

逆に、相手方を呼びつけて、
本人の話を元に説教して、
相手方を傷つけて、本人との仲が悪くなり、
ますます混迷を深めている事例も見ています。

中には、心理学の中で家族療法のアプローチから、
家族ということの在り方を改善していく方法があり
注目しているところです。
この研究グループの
心理士さんは、職場の問題も改善された実績があり、
目が離せないところがあります。

専門的に、意識的に
対人関係の在り方を研究する
ということは、なかなか無いようです。

弁護士や法律も、
予防法務という観点が浸透しておらず、
事後的に相手を攻撃するという手法が
近年ますます増加しているような危惧もあります。

法律や裁判所は、無いにこしたことがない
使わないに越したことがない
という意識は薄れてきているようです。

身体の治療と同じように、
「対人関係の不具合を改善する」
対人関係調整、ないし修復
という観点から、
新しい実務的な研究分野を
開拓していくことが
求められていると私は思います。

病気にならなければよいというものではないように、
死ななければ良いというものでもないように、

前向きに、生きてきてよかったと思えるための
実務的研究を行いたいと考えている次第です。


参議院選挙と消費税増税見送り劇場のシナリオ [事務所生活]

もしこんなかんじだったらこわいっていうかなんていうか

<ある機関の懇談会的会議>

 野党共闘って、本当にできてしまったねえ

 まさかとは思ったが、憲法9条の非公式改正に対する
 国民的反発がこれほどまでとは、ちょっと想定を超えたね。

 まあでも、逆転までは行かないね。
 与党になるという選挙方針ではないからね
 あくまでも与党は自分たちではなく、
 与党を批判することに意義があるという従来型のようだね

 その点は安心しているけれど
 勢いということがあるからね。
 マスコミも本性を表してしまう危険性もあるし。

 やっぱ、衆院選は見送りだね。
 不確定要素が大きいね。

 消費税増税先送りは決めてもらってよかったね。

 重長さんは反発が強いんでしょ。
 税金増しても税収が増えないということを
 どうしても理解しようとしないんだね。

 もっとも、自分たちは税収が増えることは
 あまり興味がないようだけど。

 先送り見送りの反発をどうしようか。

 やっぱり、窓口の彼に、
 首相の先送りに異論があると
 文句を言ってもらうことにしよう。

 ああ、それなら顔向けが立つね。
 選挙に協力しないなんて
 子供じみたことを言いだす人たちだからね。

 選挙の傭兵は確保できたね。


 増税公約に反するということはどうだ。

 マイナスにはならないと思います。
 増税公約守れということをまじめに言っているのは
 野党ぐらいですから。

 守ってほしい国民はいないでしょう。

 本当は景気回復が公約なんだけど
 増税公約守れにうまくすり替えてもらったからね。
 マスコミのナイスアシストもあったし。

 いっそのこと、増税延期をうりにしたら?

 そんなこと言ったって、増税はするんでしょ。
 モチベーションあがる?

 だからさ、窓口の人に首相を責めさせて
 「増税しないなら国民の信を問え」とか言わせてさ・・・

 ああ、首相が孤立無援みたいになって
 「それでも増税は延期する」
 なんていうことで、世論は、
 じゃあ、首相を支持しましょうということになるものね。

 野党は言わないと思うけど
 消費税減税といわれたら、
 対立軸が不利になるね。

 野党もわれわれの説明に反対しなくなったからね
 繰り返し繰り返し継続の力だね。

 ただ、国民は馬鹿にできないね。

 マスコミを使おう。
 首相に対する批判を一部解禁にするのさ。

 消費税増税をしないのは無責任だ
 という形なら批判してもいいといったら飛びつくでしょう。

 でも、それは今までの論調と矛盾する社もあるでしょう。
 
 上層部は大丈夫だそうです。

 だから、見出し解禁なんだよ。
 見出しだけあおってよしとする。
 現政権嫌いの記者は、喜んで批判するでしょう。

 批判したいだけだから。
 
 見出しだけ批判を解禁して
 中身の記事はね。
 ご主張していただきましょう。

 首相はマスコミからたたかれても
 国民のために増税はさせない。
 孤立無援でも戦う。
 若手議員は、国民のために首相を支持する。

 まあ、これでいくしかないかね。

 野党が共闘しても従来の批判重視なら
 案外うまくいくかもしれないね。

 増税阻止の現政権に対立する野党共闘
 野党を支えて増税先送りを批判するマスコミ
 どうしても、「頑張れ首相」ということになるね。
 いやちょっと甘いか?

 野党もせっかく共闘したのにもったいないね。
 まあ、それで今まで助かってたんだからね。 
 
 

許される側だけでなく、許す側も再生されるというこ HIbakusyaに学んだこと。Thank you, Mr.President ! [事務所生活]

以前、自分が許されたいくつかの体験などから
許すという行為は、
許された側が、
再び生きる活動を始めることにつながることで
それは、神の創造に類する行為であると述べたことがあります。

今回、許された側だけではなく、
許した側も再生されるというお話に接しました。

オバマ大統領の広島訪問をきっかけに
被爆者の方々のお話が報道されました。
5月27日のNHKおはよう日本の中で、
被爆者の梶本淑子さんが、

海外の若者に被爆体験を語った時に、
アメリカの若者が頭を下げたことで、
その時原爆投下の責任を問えるはずもない若者の心に
傷を負わせてしまったと申し訳ない気持ちになったそうです。

そして許さなければ
自分の中で戦争が終わらず前に進まないことに気づいたと
おっしゃっていました。

ご自分が許すことで
ご自分の人間としての生を取り戻した
ということであれば、
ご自分を再生された
ということになるのだと気づき
衝撃を受けました。

被ばく団体の代表の方もおっしゃっていましたが、
原爆投下は、アメリカの誤りではなく、
人類の誤りだと

なるほどそうであれば、
核無き世界は
人類の共同作業になるでしょう。

原爆投下の責任はなくても
核無き世界を作る責任は
人類全体にあることになります。

許す
ということは、
創造の条件になるのかもしれません。

みなさんが生きているときに
アメリカの大統領に広島に来ていただいたことで、
やはり、
新しい一歩になったのだと思います。

人類の一人として
感動を込めて、感謝を申し上げます。