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令和の夫(妻)のTIPS 6 無駄話コミュニケーションの勧め 「さあ話して」はもう危ない。 [家事]



離婚事件を担当してよく感じることがあります。確かにデリカシーが少し足りないかもなと思うけれど、決して悪い気持ち、攻撃する気持ちの言動ではないのに、相手がそれを悪く考え過ぎて、「自分が否定されている、攻撃を受けている」ととらえてしまう、この積み重ねで信頼関係が無くなっていくことが多いようです。

相手の言動で自分が否定されている、攻撃されていると思ったときに、「それはどういう意味だ」とざっくばらんに尋ねるとか、「それはむかつくぞ」とカジュアルに言えたなら、言った方も「これはこういう意味だ」と説明ができ、実は自分が悪く考えすぎていただけだということもわかるし、相手も「こういえばこう感じてしまうのだ」とわかり、行動を改めやすくなるし、改めようというきっかけができます。

この問いかけやリアクションが無いと、疑心暗鬼が入道雲のように高まり、徐々に離婚に近づいているようなのです。。

一言で言ってしまうと、コミュニケーション不足です。
コミュニケーションが不足しているので疑心暗鬼になり、不安になり、不安が蓄積されると不安を与えた相手に対しての嫌悪感、恐怖感が生まれてくるという流れのようです。

では、コミュニケーションはどうやって取ればよいでしょう。「さあ話しなさい。私は聞きますよ。」というのでは、なかなか本音を話せません。

本音を引き出すことがコミュニケーションをとる一つの要素だと思います。
ではどうやって本音を引き出すか。

方法論としては、ピンポイントで効率よく本音を聞き出そうとしないこと。これが一つですね。無駄な時間、無駄な会話をして、その中で話しやすくなるし、本音を言っても大丈夫かもしれないと思うようになるわけです。はずみで本音を言うこともあるでしょう。こう考えると広い目で見れば無駄話それ自体がコミュニケーションなのだと思います。

つまりコミュニケーションの要素の一つは、話をする時間を長くとるということなのだと思います。質より量が大切ということでよいのだと思います。

といってもがみがみと説教ばかりするのはコミュニケーションとは言いません。これはわかりやすいと思います。逆に、ある程度のことを言っても、否定されない、説教されないというのであれば、安心して話ができると思います。言い方のミスや文法がおかしいということに気になる人もいるかもしれませんが、とにかく良いように解釈して、どうしても厳密な意味が必要な事務連絡だけ聞き返せばよいのではないでしょうか。

つまりコミュニケーションの要素として、言葉の意味を厳密に取り扱わない。ただ、声のキャッチボールをすること、それ自体が基本なのだということです。意味がある会話はコミュニケーションとは言えない「事務連絡」です。

そして、否定されなければ、説教されなければ、自由に話をしても良いのだという意識が生まれてきます。ニコニコと話して、ニコニコと相槌を打っていれば、そのうち本音が出てくるわけです。

「ずいぶんまわりっくどいじゃないか」とがっかりした人は、もう一度最初から読んでいただくことをお勧めします。「そういうところ」なんだということです。

つまり、家族は事務連絡だけで生活をしていると、やがて疲弊してストレスが蓄積するものだということです。無駄話をしてニコニコしているならばそれが家族だし、家族が一番やらなければならない仲間を安心させるということの、人間らしい実現方法が無駄話コミュニケーションなのだと私は思います。

でも、真面目過ぎる人は、細部まで聴き取らないと気が済まないようです。「うんうん」、「ああそうだね」と適当にあいづちを打つことができない。私も若いときはそうだったかもしれません。今は、聴覚も年齢で衰えてきていますので、逆に聞こえなくて当たり前という意識で、よくわかっていなくとも肯定的なあいづちを打てるようになりました。視覚的にも老眼で細部まで見えないようになりましたが、見えないことを気にしなくもなりました。歳をとって衰えることは悪いことばかりではないようです。

「真面目過ぎる」という性格は家族という人間関係ではデメリット要素にもなるということなのかもしれません。

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令和の夫(妻)のTIPS 5  写メの勧め 良いこと日記 [家事]



前回の続きで読んでくださると幸いです。

お金と時間と神経を使って非日常を体験したならば、楽しいものにしないと意味なくてもったいないですという話が前回でした。
今回は、さらに、楽しいものにするチップスということになります。

前回のおさらいとして、「楽しかったね。」、「また行こうね」という言葉を口に出すことと、何か探してでも相手に感謝することで、多くの時間は疲れていたり、或いはニュートラルな感情を過ごしていても、全体として楽しかったイベントになっていきます。

今回はさらに写メで記録をするということのご提案です。

男性は女性と比べると写メを取らない傾向があるようですが、意識して写メを取っておくとよいです。きれいな風景、楽しそうな笑顔、すかさず画像をラインなんかで共有するといいと思います。
自分が楽しい、美しいと感じたときにシャッターを押すのも悪くないですが、自分ではなくて家族が楽しそうにしている姿を画像や動画に残すというひと工夫がとても効果があります。

その画像をふと見て、「ほら、この時楽しかったね。」とか、また行きたいねというと、一度の旅行代金で二度も三度も幸せに浸ることができます。

人間の記憶なんていい加減なものです。本当はその名所に行くまでに小雨に降られたり、ずいぶん歩いて疲れ切っていたりしても、景色が広がったときに物珍しさで笑顔になったりします。そこをすかさず画像で切り取れば、楽しかったことだけが思い出されたりします。

あるいは、最初は豪華な食事だと見栄えのする料理の写真を撮っておくと、実際は味はイマイチだったというときでも、豪華な食事だったという記憶だけが定着するものです。

逆に嫌なことを写真で撮ってしまうと、反復して嫌な気持ちが定着していきます。直ちに消しましょう。そして自分の記憶からも消すことの方がよいのではないでしょうか。

また、楽しいか楽しくないかなど、それほどはっきり色分けできるわけではありません。野球の楽天の試合を観に親子で行って、負ければがっかりして帰りますけれど、弁当食べながら親はビールを飲んで、子どもはジュースを飲んだりしたこと自体が楽しいということはあると思います。星空がきれいだったというところに感動したりしたこともあると思います。

だったら、せっかく時間とお金をかけてレジャーをしたならば、良いところだけを記録していくことが一番お得な話で間違いないと思います。

私も日記を書いて20年になりました。喧嘩したことなどは書かないようにしています。大事な出来事は記録するとして、楽しかったこと、努力したことは探し出してでも日記につけるべきです。もちろん、家族がオープンに見ることができる日記にするわけです。喧嘩したことについて、特に何も書いていないならばほっとするのではないでしょうか。

「よいこと日記」と称して、読み返して楽しい、懐かしい、安心するというのを一日5分かけて数行書くだけで、自分で書いていても良い家族だな、愛すべき家族だなと感じてくるものです。

肝心なことは「心は後からついてくる」ということです。楽しかったことだけをクローズアップして反復しているうちに、楽しい家族だなと、愛すべき家族だなという心が生まれてくるわけです。

そして大人ならば、そういう風に「自分で自分のこころを作っていく」ということを意識的に取り組むべきだと思います。

なぜならば、大人はそれができるし、その方が人生楽しいからです。


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令和の夫(妻)のTIPS4  非日常のために日常がある 時間を作ってでもドライブに出かけよう。気晴らしの重要性。 [家事]



愛する人のために世話を焼きたいという気持ちは男女にかかわらずにあるわけです。しかし、それが毎日のルーティンになってしまうと、自由がないとか、楽しみが無いとか考えだして、うつになったり、逆にいつもイライラしていて攻撃的にもなることが多いようです。

「何のために生きるのか」という破壊的結論しか出ようのないことを考えだしてうつ状態になる前に、気晴らしをすることをお勧めします。なんでも良いので、夫婦や家族で日常とは切り離した時間を一緒に過ごすということです。

非日常の王様は旅行でしょうね。知らない土地に行って知らないお酒を飲んで、知らないものを見て初めての体験をする。また、周りは見ず知らずの人たちなので、家族や夫婦のきずなも強くなるという効果も期待できます。

旅行に匹敵するのは遊園地です。離婚事件の棄却判決で家庭裁判所でもテーマパークに家族で言っていることを評価して、破綻していないという認定をしてもらったこともあります。コンサートや映画も良いのですが、家族連れになると難しいことも出てきますね。

ただ、そんなにお金をかけることはありません。回転ずしに行って食べたいものを食べるというのも楽しいものです。全くお金をかけない散歩も、時と場合によっては、あるいは道端の興味のある物を発見したりして楽しいものです。非日常は些細なところに転がっているのかもしれません。

日常生活を、節約して過ごすことも間違いなく立派なことです。但し、節約の成果をちょびちょびでも還元するとますます節約が楽しくなりモチベーションも上がります。収入を増やす精神的高揚にもつながりますし、節約も楽しくなるかもしれません。チームの一体感が高まれば、節約も効率が上がるわけです。

それから、こういう非日常をせっかくお金や時間をかけて行う以上、楽しいものにしなくてはなりません。文句ばっかり言っていたら、自分で費用をかけて費用対効果を下げていることになり、あまりにもばかばかしいです。

では、どうやって楽しいものにすればよいのでしょう。当たり前のことですけれど、忘れがちになるので例示列挙しておきます。
 1)楽しいところを探し出してでも本当に楽しむ
 2)楽しいことが見つかれば、「楽しいねえ」という。
 3)機嫌よく振舞い、感謝の言葉の一つでもサービスする。
 4)「楽しかったね」「また行こうね」と言ってみる。
 5)不満があったとしても、「でも家族一緒だから楽しいな」と笑顔を見せる

言葉を発すること、日記にとどめることはとても大事です。その時、多少楽しさを盛ることが良いと思います。より楽しい記憶が形成されれば、それは人生においてお得な話です。

気をつけておいた方が良いこととして2点あげておきます。

些細な無駄遣いを惜しまない。
特に子どもが欲しいものなんて、そんな高額なものはないので、予算を確保してニコニコと買い与える。ソフトクリームとか、たこ焼きとか、袋菓子とか。そんな総額千円もしない無駄遣いも、非日常を十分に演出できるので、かなりコスパの高い出費になるように思われます。これは今日使っちゃおうと、財布にへそくりをいれることが肝心ですね。

あれこれ欲張らない。
どうしてもサービス精神の旺盛な人は、あれも見せたい、これも体験させたいと無理をしてしまいます。そういうイベントはあくまでも非日常を演出する道具ですから、それで窮屈になったり、時間に間に合う過緊張をしていたのでは、本末転倒になるわけです。

無駄を楽しむくらいの気持ちで、ゆったりとスケジュールを立てましょう。また、家族の様子を見て、柔軟に予定を変更しましょう。これも離婚時点で妻側の主張で多いのでした。「せっかくの旅行も詰め込み過ぎて忙しい思いばかりしていた」という主張は結構出てきます。もちろん、イベントごとは十分楽しんでいたはずなのにです。

こういった非日常があることで、気晴らしが成功し、日常のルーチンを楽しいものに戻すことができるのだと思います。

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令和の夫(妻)のTIPS 3  (正しいことの主張)正義・合理性の追求は他者に緊張を強いる 燃えるゴミの日に妻が段ボールをいれた場合に夫は何をどうするべきか [家事]



男性に多く、けっこう「やっちまったなあ。」というエピソードの一つが、この、過剰な正義感、過剰な合理性を家族に求める言動です。正義からの逸脱が些細なことでも、その心の物差しに触れると、家族に厳しい指摘をしてしまうことがあります。離婚手続きで、妻の離婚理由の主張に、激しく叱責をされることが多いので、いつも夫の顔色を見て生活していた。夫が仕事から帰ってくると言え重が静まり返ったというものが結構あるのです。

なぜ、例えば燃えるゴミの日に分別すべきわずかな段ボールをいれたからってそれほど目くじら立ててしまうのでしょうか。

その時の夫は、法律や道徳の実現をしているという意識なので、正義を貫くことに何のためらいもなくなってしまっています。自分は良いことをやっていると信じて疑いません。使命感に夢中になっていると言っても良いでしょう。

どうやら人間は、複数のことを同時に考えることが苦手なようです。正義に夢中になってしまうと見落としてしまうことが出てくるわけです。相手の感情に対する配慮を見落としてしまうわけです。

仮に段ボール紙を燃えるごみの袋から取り出して分別したとしても、その時の妻の心理は、「夫の指摘が正しいから従わなくてはならない」という思考回路を取ることはありません。「それはそうかもしれないけれど、この人は、いざというときに私の味方にならずに、私を切り捨ててしまうだろう」ということを、イメージとして抱くようです。自分が家族というユニットの一員として夫から尊重されていないと感じています。そしてその結果、夫が自分の仲間ではなく、自分を攻撃する存在だと感じ始めるようです。

議論がかみ合っていないというよりも、その時のテーマ、問題設定自体が二人とも、全く別々なのです。

夫はその時正義が実現されたと留飲を下げても、些細なことですから忘れてしまいます。離婚手続きで言われても覚えていません。しかし妻は仲間として否定評価されたと感じるわけですから、この事実は忘れないで嫌な感覚が蓄積されてしまいます。

些細でも正義を実現しようとすることは否定されることではないかもしれません。もしかしたら単なる言い方なのかもしれません。でも、正義を遂行しようとする時は、不正義の行為に対して幾分怒りが混じるものです。
もし、究極の選択として、正義を実現するか、家族の感情、立場を優先するかどちらかを選ばなくてはならない時はどうするべきでしょう。

私は、家族の感情、立場を優先することが正しいと思うのです。詳しくは私の過去ブログをどうぞ 「親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。」

大事なことは、家族とは、単に同じ家に寝泊まりして、一緒にご飯を食べ、幼児や老人の世話をするだけではないということなのでしょう。太古から人類は、老若男女すべて家庭に安心感を求めていたと思います。

それでも仲間とのかかわりが濃く、純然たる他人とのかかわりがうすかったので問題は生じなかったのでしょう。

しかし、現在はご近所の目やSNSの友達をはじめとして、他者の視点で自分たちを見る癖が蔓延していると思います。自分の考え、感覚で自分の行動を決めることができにくくなり、自然に身につかないルールなども多く覚えていかなくてはならなくなってきているようにも思えます。

自分の感覚から自然な行動をすることで他者から非難されることが多くなったということは、ストレスの蓄積と直結すると思います。だからこそ、家族相互は許しあい、隠しあう関係でいることが健康に生きていくためには必要なことなのだと思います。大切なことは、家族でいることで安心できること、心強く感じられることかもしれません。そういう家族が現代社会ではますます存在意義を高めていると思います。

では、もし家族が許されないことをしていることを見た場合、家族を糾弾してやめさせるというのが間違いだとしたら、どうしたらよいのでしょうか。

違法性の軽重には寄りますが、些細なことであれば、まずは自分がその責任を取る覚悟を決めるということでしょうか。
次に、妻が別の選択肢を選ぶようになるように、環境を作るということでしょうか。プラ用ごみ袋を買うとか、段ボール捨てとドライブを組み合わせて段ボール捨てを楽しみにするとか。

もしそれでも口で言ってやめさせたい場合は、遠慮がちに、控えめに選択肢を提示するということになると思います。

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令和の夫(妻)のTIPS 2  妻子の聴覚の保護 「なぜ怒る?」思わず大声「怒ってない!」 [家事]



妻が子どもを連れて出て行って離婚調停を申し立てるケースで離婚理由の一つとして案外多く主張されることが、家族に向かって大声で叱責するということです。

多くの男性は、確かに比較的大きな声を出すことがあります。この時、妻から「何を怒っているの」と抗議されることがあります。
このようなケースの多くで、夫からすれば、妻が自分(夫)が怒っていないことを知っていながら、わざと妻から夫が「怒った」と言われていると感じています。そう言って自分をイライラさせているのだと受け止めている人も多いです。そんな時に夫は、「怒っていない!」と比較的大きな声を出し、妻から「やっぱり怒っている」と言われてしまうわけです。

男性、女性双方の代理人活動をしている私はその秘密をよくわかっています。

夫は真実「怒っていない」ですし、
妻は本気で「怒っている」と感じているということのようなのです。

さて、その食い違いの理由ですが、意外なところにあるようです。

女性側は、大きな声は、それだけで本当に怖く感じるということのようです。話の内容ではなく、声が大きいという「音量の問題」で、自分が攻撃されていると感じるようです。だから「怖い」とも思いますし、ぞんざいに扱われている、自分が大切にされていないと感じるので「悲しい」という感情も伴うこともあるようです。

実際は女性も話に夢中になっていつしか大きな声を出すこともありますが、その時でも男性はあまり怖いと思うことはありません。

個人差はもちろんあるのですが、大雑把に行って男性と女性の間には、「声の大きさと聴覚の敏感さについて感じ方に差がある」と理解していた方が無駄に悩む必要が無くなるようです。

男性の大き目の声は、男性の自覚しないうちに無駄に威嚇的な響きを伴って女性に聞こえてしまうのでしょう。女性にとっては、男性には全く不快に思われない音量でも、異常事態を感じてしまい、緊張してしまうのかもしれません。

声の大きさを意識的に小さくすると、同じ言葉を発していてもそれだけでエレガントな話しになるようです。音量を気にしてお話しする方が、感じが良いことは間違いないようです。

また、声が少しでも大きくなると、顔の筋肉を使うために顔の表情も連動して険しくなるようです。典型的な表情の変化は「眉間にしわが寄る」ことです。これは注意が必要です。実に多くの男性が、この「眉間にしわが寄る」だけで妻子を不快にしています。何か相手に意見を言ったり、相手の意見を変えさせようとしたり、提案をする時も、ニコニコして話すことを心がければ解決できます。

声が大きくなってしまうと、妻は文字情報をあまり吟味しなくなるようです。何事が起きたのだろうという緊張状態となり、文字情報以外の表情(声の大きさ、眉間のしわなど)から夫の感情を読み取ろうとしてしまうようです。そこで眉間にしわが寄っていたら、「夫が自分に対して不快に思っていて、自分の言動を否定しようとしている」と感じやすくなるのは、考えてみれば当たり前のことのような気もしてきます。

さらに加えて、乱暴な言葉遣いをしてしまうと、妻からすると夫が自分を攻撃していると確定してしまうのでしょう。怖い気持ち、悲しい気持ちになるようです。

これらの音量、表情、言葉遣いは、出産前はそこまで敏感にはなっていないようです。出産後になると、突然恐怖や嫌悪の感情が起きやすくなっててしまうといった変化が起きることが多いようです。夫としては「同じように言っていただけなのに。」と思うのですが、出産後、特に直後は「同じように言ってはいけない」ということなのでしょう。

これを読んで窮屈に思われる方もいらっしゃると思いますが、大きな声をどうしても出したいという方は多くはないと思います。要は習慣づけということなのだと思います。

また、失敗してつい声が大きくなることはあります。その時の自分のフォローは「怒っていない!」と熱くなっては絶対にしてはなりません。心配そうな顔をするとか、ニコニコするとかして、先ずは謝るべきなのでしょう。こちらが悪いという自己認識を示すことが謝罪ではなく、相手を心配させない、怖がらせないための行為が謝罪だと、ここは考えを変えた方が良いと思います。


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令和の夫(妻)のTIPS 1  家族を意識して作る必要性 妻子の保護と意識 二人目の子どもの写真が少ない理由から必要性と可能性を考える。 [家事]



家庭円満は、神様に頼むのでもなく、放っておいてなんとかなるものでもなく、家庭の中の大人の誰かが「意識して作る」もののようです。そうでなければ、現代日本の家族は、気が付くと分解されていて、憎しみ合っているということが普通に起きてしまいます。

離婚手続きに入り、お互いに攻撃しあう事例のほとんどが、双方の言い分を聞いてもどちらが悪いわけではないと私には感じられます。ただ、知識が無く、また意見をする第三者の存在が無く、意識して幸せを作るという発想がないことが原因だとしか言いようのない事例がほとんどなのです。

悪意が無くても、家族にさみしい思いをさせるケースはよくあります。わかりやすいのが子どもの写真だと思います。今は動画でしょうか。一人目の子どものときは写真が膨大にあるのに、二人目以降はそれほどは無いというご家庭が多いのではないでしょうか。

この理由は、親になってしまえば考えなくてもわかることです。
それは、一人目の子どもは子ども自体が珍しくて視線がくぎ付けになっていることと、赤ん坊という格好の被写体ができたので、カメラでの撮影も新鮮でついつい写真撮影をしてしまうわけです。さんざん観察と撮影をしているので、二番目の子どもが生まれたころには、赤んぼ自体が初めてではなく意外性や発見が少ないこと、撮影行為自体に飽きてしまうこと、この二つが二番目以降の子の写真が少ない理由です。

(だから、一番目の子育てが大変で写真や動画を撮る余裕がない場合は、二番目の方が写真や動画が多くなるだけのことです。これは割と一番目の子どもにはわかってもらいやすいことです。また、一番目の子も二番目の子育てプロジェクトに参加している意識を持たせることでも解決できますし、一番目の子どもを二番目の子どもに隠れて持ち上げることも大切かもしれません。)

それだけのことなのに、例えば二番目の子どもは、自分が写った写真が兄や姉よりも少ないという客観的事実から、自分は兄や姉に比べて歓迎されない子どもだったのではないかと暗い気持ちになっていることがあります。子どもとは頓珍漢なところがあるし、それももっともなほど知識の量が少なすぎるし、自己中心的にしかものを考えられません。「あなたに愛情が無いわけではなく、二番目だから、もうめんどくさかっただけ。」という真実を語ることは子どもの心を解決しないどころか、もっと傷ついてしまうかもしれません。

これを回避するためには、一番目と同じように二番目もせっせと写真を撮る、特に一人で写る写真を意識して撮ることで解決できます。

さて、二番目の子どもの写真を撮らないことは「悪い」ことでしょうか。「悪い」ことではないでしょうが、写真が少ないと寂しがることを知っていれば「意識して二番目も多く撮ること」で回避できることです。これが「修正するべき」ことの内容となるわけです。

意識すれば、家族がもっと楽しく家庭生活を送ることができます。このシリーズは、何かをしてはいけないというよりも、そこに気を付けて意識すれば、もっと楽しい家庭になるということを考えていくシリーズです。

家族が仲良ければ家庭が楽しいですし、家庭が楽しければ人生豊かな気持ちになります。自分の「意識をすること」によってそれに貢献できれば充実感も得られるわけです。

さあ、後はあなたの選択です。


末尾* 現代日本はとんでもなく難しい時代だと、弁護士をしていてつくづく思います。私は昭和生まれなので、昭和、平成、令和と3時代を経験しています。その間に価値観や「社会の当たり前」の内容が、目まぐるしく変わっているように感じます。まじめな人ほど、新しい価値観を頭で理解してその通りにしようとしているようです。

これから10回弱くらいのシリーズを企画したのは、そんなまじめな人たちの家族が、社会から翻弄されて壊されないように、弁護士の仕事をしながら感じたことを紹介する必要性を感じたからです。


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【実務編】夫婦の別居の際に関係修復に絶望した時に考えてみてください。自分の無意識の価値観を自覚して修正する方向 [家事]


前回の記事をお読みいただくとより分かりやすくなると思います。

夫婦のどちらかが、一方的に別居して、離婚調停を申し立てるというパターンが一向に減りません。妻が子どもを連れて出ていくパターンが多いのですが、最近は夫が一人で出ていくパターンも増えています。

また、最近特に増えているのは、出ていかれた方が、何とか再生をしてまた家族で暮らしたいと意欲をお持ちの方です。ニーズは増えているのですが、それに対応する弁護士は少ないようで、私のところに遠方から、新幹線を乗り継いだり、飛行機を利用したりしてご事務所に相談においでになる方もいらっしゃいます。現在、北海道と関西の事件も担当しています。

そのようにお金と時間を使ってご相談に見えても、なかなか再生の行動を続けること、夫婦再生の意欲を持ち続けることは難しいことのようです。くじけてしまう一番の理由は、再生の展望を持てないところにあるようです。
再生の糸口は、実は男女の価値観の傾向の違いを意識するところにあると感じています。これは前回の記事で原理論理を説明しています。
夫の価値観は合理性を最優先する傾向にあり、妻の価値観は(自分の)感情、立場を尊重してほしいということを優先する傾向にあるということです。

一例として、妻が子どもを連れて出て行ったというケースを見てみましょう。

夫は、妻を非難するわけです。突然出ていかれて、子どもと引き離されてしまえば怒ることは当然です。ただ、怒った感情を例えばラインに書いてしまうと相手の思うつぼで、「このラインのとおり、夫は自分に対して容赦のない叱責を行って、自分を罵倒してきた。」と裁判で証拠とされてしまうわけです。

夫の発想は間違ってはいません。子どもは、自分に原因が無いのに、父親から離され、通っていた幼稚園の友達や先生からも離され、生まれた時からずっと過ごしてきた家も奪われるわけです。連れ去りは子どもを孤立させ、精神的に不安定にさせ、将来的にも子どもにとって深刻な不利益を与える行為であることは私もそう思います。

しかし、夫がそのことで妻を責めても、妻は「その原因は夫にある。」と開き直り、結局は子どもは父親と会えない状態がさらに続くだけなのです。妻側は、これまでの夫と妻だけの人間関係で行動しているのではなく、「支援者」の応援を得て、夫から攻撃を受けても届かない場所にいます。

それでも夫は妻の行動は不合理だと正論を発し続けるわけです。
しかし、「不合理だ。」という主張では、相手も、行政も、家庭裁判所に対しても有効ポイントを勝ち取ることができません。むしろ相手の態度を硬化させるというデメリットしかありません。

子どもが父親に会えないことが不合理ならば、少しでも会えるようにするべきです。最終的には一緒に暮らすように家族を再生するという方法しかありません。この目標に対して、法律も行政も裁判所も、あてにならないということは、頭ではわかっているはずなのに、こちら側は有効ポイントを獲得しようという発想を持てず、合理性最優先の信仰にも似た価値観に基づいて戦略のない攻撃を続けているだけです。

しかし、妻は合理性に価値を置いてはいません。不合理だということは事実ですが、相手の弱点ではないのですし、それによって考えを改めるきっかけになりません。何もメリットがありません。

このため、一方で合理性の価値観で相手を責める気持ちばかりが出てきてしまうけれど、結論はまた一緒に暮らしたいということで、どうしたらよいのか途方に暮れるし、どうしようもないという絶望が出てきてしまいます。

だから、夫婦再生を目指すならば、先ずしなくてはならないことは、妻の行動は不合理だと言って非難することをやめることです。

これは、あなたの感情、気持ちまで変えろと言っているわけではないことに注意していただきたいと思います。不合理だと思うことをやめろというわけではなく、それを妻に向けて発信しないということを提案しているだけなのです。

合理性の価値観を捨てて、相手の感情を尊重し、相手に自分について安心してもらう方法を考えていくという価値観のチェンジをすることで展望が見えてきます。

しかし、このように自分の価値観を自覚すること、それは唯一絶対の価値ではないということに気が付くことはとても難しいことです。さらに、自分の気持ちに反する行動をするということですから、ついつい自分の気持ちに合わせた行動をしてしまうことも人間なので仕方がないことかもしれません。

合理性の価値観を否定することは、とても頼りなく感じることなのかもしれません。他者の感情や立場を尊重する価値観は、特に男性にとっては、なかなか現代日本では習得する機会がないのかもしれません。

ただ、この価値観に基づいた行動とはどんなことかを考え、行動を実践することによって、目標を達成することはできない場合であっても、目標に近づくことは間違いありません。無意識にでも家族との距離を遠ざける合理的価値観にとらわれていても良いことは何もないはずです。

目標から遠ざからず、目標に近づくことは、遅すぎるということはないのではないでしょうか。

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DV法下の家裁離婚実務は、妻である女性を普通の女性を苦しめているという実態を生んでいる。 [家事]



最近女性からのご依頼が増えています。その中で、私の心配していたことがとても鮮やかに現実のものとなっているので、事案をぼかして紹介します。

<DV法下の家裁実務とは>

DV法以前の家裁実務との様変わりは、通常は妻側が夫のDVを理由に、夫と同居していた家から子どもを連れて出ていき、夫から居場所を隠したり、実家にかくまわれたりして別居を開始します。その上で保護命令を申し立てたり、離婚調停を申し立てたりして離婚に持ち込もうとします。

DVということで、裁判所は過剰とも思える配慮をして、それまでは最初と最後は同席が多かった調停も、一緒の場所で顔を合わせないようにしますので、調停が終わるまで一度も顔を合わせないで離婚になってしまうということがむしろ一般化しています。

そして、破綻理由について吟味をせずに、
別居の事実
離婚の堅い意思
だけで頑張れば離婚の判決が出て離婚が実現するというパターンです。

<精神的DVの拡大>

DV法も当初は、身体的暴力が中心でした。実際の行政対応でも、妻の身体的暴力は不問に付されて、妻が身体的暴力をふるっていても、夫が妻や子に身体的暴力をふるえば、その暴力の程度や理由も吟味されず、離婚に向かって進んでいきました。

現在、「DV」概念が変わり、精神的DVもDVの中に入ることが強調されてきました。これは、私はとても心配がありました。なぜならば、精神的DVを行うのは、私の実務的経験からは妻側が多いということからでした。

それでも行政は、一部を除いて、相変わらず、妻の精神的DVは不問に付して、夫の妻に対する精神的DVだけを取り上げて、妻を支援していました。

ところが、弁護士の中には、同じDVだということで、妻側の精神的不安定に基づく感情的な言動をもって精神的DVだと主張をする人たちが増えてきました。そして夫側が、妻のヒステリーを録音するようになって証拠を残すようになってきています。

私は、程度もありますが、妻のヒステリーは、ある意味仕方がないものがあるため、このようなことを離婚理由とするべきではなく、適切に働きかけて修復していくべきだという強い信念があります。

しかし、DV法下の家裁実務しか知らない弁護士たちは、証拠のある妻の精神的DVを夫から相談されれば、
・ 別居しなさい
・ その後に離婚調停を申し立てなさい
・ いろいろな理屈をつけて婚姻費用を減額する
という離婚しか解決手段をもたないで、じっさい、夫は修復を迷っているのに、離婚の指導をしてしまっているようなのです。

そうです。まさにDV法下での女性側の弁護士が行っていたことがそっくり夫側の弁護士が手本にして実践しているわけです。

夫は子育てや家計から解放されて、自分の趣味や自由な交際に時間やお金を使っています。妻は子育てをワンオペで強いられて、精神的にかなり不安定さを増している状態になっています。

法律や行政や弁護士が、マニュアルに沿って夫婦を分かれさせるという偏った結果だけを是として行われたことによって、普通のけなげに頑張っている女性たちが辛い思いをしているわけです。

DV法下の家裁実務の行きつく先を垣間見ているような気がしています。

DV法下の家裁実務に反対し続けてきたことは決して間違っていなかったと確信している次第です。

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妻側からの家族再生の相談が急増 その心配な背景 [家事]



3月に入って、無料相談会や事務所へのこのブログを読んでの面談相談で、妻側が夫に対して家族再生を提案しているという事例が増えてきています。

本来の対人関係学とは、紛争予防にとどまるものではなく、家族などの人間関係を円滑にして、みんなが安心して生活をするための学問です。こういった家族再生の相談に対応するためのものですから、対人関係学を屈指してご一緒に考えていきます。とても楽しく頭を使えるわけです。

再生の相談の中では、
何が相手から安心感を奪っているかを探求し、
これまでの成功例を踏まえながら、
これまでの自分の言動をどのように修正するか、
お互いに尊重しあう関係にどのように誘導していくか
ということを考えていきます。

そして、再生が必要な度合い、つまり、逆にうまくいかない程度によって、法律相談で終わって当事者で解決するパターン、私が代理人になって調停や話し合いをするパターンとバリエーションがあります。

私のところにこのような相談が多く寄せられることは、私としてはありがたいことです。しかし、いろいろと心配なことが見え隠れしています。

<弁護士に相談に行くと 夫婦再生希望なのに離婚を勧められる>

これは、前々から、私のところにたどり着いた方がよく言っていることです。何人もの弁護士に相談に行くのですが、決まって最後は弁護士から離婚する場合の条件について話を詰めるように言われるというのです。

恐ろしい話だと思います。

食事をしにレストランに入ったのに、「うちはデザートしか作ることができませんので、ぜひパフェを注文してください。」と言っているようなものだと思います。

この人たちは、夫婦の再生については相談に乗るつもりが無いようです。
離婚の法的手続きについては勉強すれば誰でもわかりますが、再生については様々な事例と向き合い、様々考えなければ相談に乗ることができません。

相談者の相談したいことではなく、自分ができる方法で依頼を受けるということですから、無理を通していることになると私は思います。

そもそも再生のノウハウが無くて、離婚の調停や裁判を維持することが本当にできるのか、根本的な疑問もあります。

離婚というのは、数々のライフイベント調査によって、人間の人生にとって最上級の精神的ダメージを受けることだとされています。それを自分が再生のノウハウがないからと言って、依頼者の意思に反して離婚に誘導するということは、依頼者にとっても不誠実ですし、相手方という人権主体である人間に対しても冒涜のような気がしてなりません。

少なくとも
①離婚をしたい理由が、主として相手の言動に起因しているというよりも、本人の精神的な状態を反映していることではないこと
②具体的な破綻事由があり、その存在の裏付けられており、程度が明らかなこと
③回復の可能性が無いこと
という条件をクリアしてから離婚の選択をするべきだと思います。

特に、夫婦に子どもがいる場合は
④子ども利益を考慮しても離婚以外に選択肢が無いこと
⑤両親の離婚による子どもの不利益を軽減するべき行動を計画すること
があって離婚という選択が支持されるべきだと思うのです。

国民の皆さんは注意して弁護士に相談するべきです。
このような考えを持っている弁護士は少数派になってきているようです。少なくとも簡単にアクセスできるわけではなさそうです。

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面会交流手続きにおける、連れ去り母の精神的不安定を理由に、申立を取り下げるべきかについての一考察 [家事]



面会交流調停というのは、親同士が離婚の前後に関わらず別居した場合、子と別居している親と子どもを面会させるための家庭裁判所の手続きです。多くは母親が子どもを連れて別居するので、父親が母親を相手に申し立てるという形を取ります。私が担当したのは父親の方が幾分多いですが、母親が別居親として面会交流調停を申し立てる際の代理人になることも少なくありません。

父親が申立の場合、特に母親による子どもを連れての逃亡のような形の別居の場合、母親が精神的不安定になっている場合が少なくありません。面会に対して激しい抵抗を示すというより、子どもが父親と面会をすることに病的な反応をするという感じです。実際に母親の方が自ら様々な診断書を裁判所に提出して、自分が精神的不安定であることを主張します。

調停は、申立人と相手方が同じ部屋で顔を会わせることはめったにありません。交代で調停委員と話をするわけです。だから申立人の代理人も、調停中の相手方の様子はわかりません。それでも、調停委員や裁判官を通じて、様々な情報が入ってくることがあります。取り付く島が無く一方的に話し続ける方、30分間泣きっぱなしでなだめるだけで期日が終わったとか、言っていることがおよそ成り立たない荒唐無稽な話を真顔で行うとか、メンタル面に問題があるのではないかという事情がうかがわれる場合が少なくありません。

調停で話し合いがつかない場合は、面会交流の場合も審判になります。審判になれば裁判所は、最終的には、面会交流阻害事由が無いと判断した場合は、面会実施の審判をすることになります。

ただ、審判の効果ですが、強制力はないため、審判で面会交流を命じても面会交流が実施される保証にはなりません。それにもかかわらず、相手方に対しての心理的影響が大きいため、このまま審判を出しても良いか関係者一同が躊躇することがあります。

子どもを連れ去った妻に対して、憎悪感情しかない場合は、妻のメンタルが悪化しようと「知ったこっちゃない」と割り切ることができます。

しかし、家族再生を求めている場合で、妻が面会交流さえ応じないために、裁判所の決定を得る場合、常に葛藤が生じてしまいます。妻のメンタルが悪化したため、今や密室となっている母子の家の中で、子どもに対して悪い影響が生まれることも考えなければなりません。

相手方の心情の考慮を最優先してしまうと、調停や審判を取り下げるという選択肢が出てきます。

ケースバイケースなので一般化することはできません。しかし例えば、変な応援団が妻側についている場合、医師だったり、教員だったり、行政だったりが、一方的な妻側の情報だけで、夫婦間の対立をとらえた上で夫を全面的な悪と決めつけて面会交流阻止を主張する場合もあります。こういう人たちは、十分な考察が無く正義感という感情によって、子どもの利益も考えずに、つまり無責任に面会交流阻止を叫んでいるわけです。こういう場合、調停や審判申し立てを取り下げてしまうと、「やはり夫は極悪人であり、妻の保護のために、面会交流を阻止できた。」となり、子どもは現状からさらに父親から物理的にも心理的にも遠ざかってしまいます。「極悪人を親に持つ自分」という観念を植え付けられてしまうわけです。

そうして、後で、本来ならば父子のきずなが復活しても良い時期になっても、「自分は父親から取り下げという形で見捨てられた。」という気持ちを抱いたまま、父親との交流の機会が未来永劫失われ、わだかまりを抱えたまま一生を送ることも考えすぎかもしれませんが、考えるべきだと思うのです。

子どもは母親(同居親)の所有物ではありません。母親を通しての評価で父親を考えなくても良いはずです。自分が同居中に直接体験した人間として、母親とは別に関係を構築することはむしろ自然なのではないでしょうか。このように、子どもを一人の人間として見た場合は、夫婦間で葛藤があったとしても子どもが別居親から愛される権利を誰も奪うことはできないと思うのです。

面会交流審判が、実際の面会交流につながらないことも良くあります。第三者である裁判所から見れば、「出しても実現しないなら出さなくても良いのではないか」と思われるかもしれません。しかし、別居親の気持ちの問題だけでなく、面会交流を実施せよという裁判所の判断が下りた事実は、妻の一方的な言い分を信じている子どもにつながる人たちに考えるきっかけを与えるのではないでしょうか。中には、子どもの世話をしている機関であるにもかかわらず、妻の一方的な話をうのみにして、夫を子どもから遠ざけようとする人たちもいます。子どもがいざというときに、父親は救いの手を差し伸べることすらできない状態になっていることもあります。こういう人たちに、面会交流審判が出ていることはとても威力を持つことになると思うのです。もっとも使い方にもよるでしょう。

考えてみれば、面会交流の調停や審判は、子どもの監護の方法についてどうあるべきかということを定める手続きです。子どもの利益をやはり最優先するべき手続きであるという大前提は崩すべきではないと思うのです。

確かに母親は精神的不安定である。しかし、審判によってどの程度悪い影響が生じるかは、実際は予測することができないと思うのです。悪化するかもしれませんがしないかもしれません。悪化したとしても、それほど重大な結果となるのか、つまり程度の問題もわからないとしか言いようがありません。

もちろん、父親と会えないことで子どもの将来が暗いものになると決まったわけでもありません。しかし、実際に父親と会えず、一方的に母親の評価を通した父親像しか持てない場合、子どもに父親を拒否する行動傾向がみられることが多いことは確かです。母親の話を真に受けなくても、母親の意をくんだ行動をしようとすることはとても多いです。

実際に父親(別居親)と交流できないことによって、程度の差はあれ、子どもに対してマイナスの影響が生まれることも確かだと思われます。

親としては、例えば発がん性の疑いのある物質だとわかれば子どもに食べさせないようにしようと思うのではないでしょうか。こちらのパズルをすれば、成績が上がるというならば、やらせてみようと思うわけじゃないですか。少しでも良い方向に、お金がかかったとしても子どものためにしようと思うのではないでしょうか。

裁判所の審判を求める場合は、子どもの育て方に対して、両親が意見を別にする場合であり、裁判所が両親に変わって結論出すということになるはずです。そうだとしたら、子どもの利益を最優先して、子どもが健全な成長を遂げられない可能性を少しでも排除する方向で明確な結論を出すべきではないか。多少それで同居親の精神的問題が生じたとしても、そのことを子どもの健全な成長に優先させるべきではないと今のところ考えております。

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