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婚姻費用の算定表の一つのリアルケース 連れ去り別居を国が認めるなら、国が支払いの補助をするべきではないのか。 [家事]

婚姻費用の算定表の一つのリアルケース 

ご本人と相談して公開

ケース概要
夫30歳代 公務員 年収約580万円
妻30歳代 民間  年収約290万円
14歳未満の子ども3人

別居の形態 突然の連れ去り別居 
DVの有無 なし

算定表に基づいて月12万円から14万円の
婚姻費用の支払いを求められて調停を申し立てられた
(改正前は10万から12万円)

夫のリアル収入
月収手取り27万円くらい
ボーナス月2回 手取り100万~110万円くらい
(令和2年12月のボーナス支給額は減額になった)

夫のリアル支出

住宅ローン    6万6千円
太陽光ローン   1万5千円
生命保険終身   1万2千円
  個人年金   1万円
  医療保険     7千円
  火災保険     4千円
(ここまで        11万4千円)
電気代        5千円
水道代        5千円
灯油代        3千円
NHK         2500円
通勤・自動車   2万円
電話       1万6千円
食費       3万円
散髪代(仕事)    3千円
(ここまで         8万4500円)

二つの合計約20万円

年間の支払いは、固定資産税、自動車税、自動車保険、2年に一度車検代


支出は、本当に最低限のものである。
リアルには、これに衣服費、社交費用(会社の友の会などの慶弔費用)が不可欠な費用として加算される。
さらには、病院代が実際にかかっている。
趣味のお金、例えばCD代とか、雑誌購入費用とか、文化的な費用、飲み会費用等は一切計上されていない。

なお、子どもと妻が扶養から外れると
手取り額は月21万円くらいになるとの職場の説明があった。

保険の効かない事故や、電化製品の購入、家屋の修理費などが支払われる余地が全くない。

なお深刻なことは、子どもたちに会いに行く旅費が出ない。誕生日プレゼントを買う余裕もないということ。

父は婚姻費用を支払いたいと考えていて、
調停前の現段階でも既に相当部分できる限り支払っている。
数万円足りないくらいで、既に支払っている。
それもこれも子どもとの面会をするために、
できるだけ母親と争わないという方針があったから。

しかし、
婚姻費用を払うと(払えれば)、面会が事実上できないならば
婚姻費用を無理して支払う気力が出てこないのはわかる気がする。
払わなければ、職場の賃金差押をしてくるという腹なのだろうけど
その時に職場に居続けられるかどうか黄色信号ということが実情。

なんのために働くかわからなくなった状態のため。

さて、皆さんは、どうアドバイスするのでしょうか。
頑張って働いて会えなくてもお金を送り続けろというのでしょうか。

子どもの貧困を救うために養育費の支払い額を改定したというけれど
そのことだけを考えるのであれば、
そもそも自由な別居を認めないことが一番ではないか。

自由な別居を認めるならば
認める国や自治体が補助をする必要があるのではないか。

この算定表のとおりにこれからも変わらないならば
結局父親の稼働能力が終了してしまい
子どもへの養育費が滞る事態が
多発するのではないかという危惧がある。

別件で、婚費の一部(妻分相当額)を支払わないという争いをしているが
これは妻側の別居の経緯があまりにもひどいから
通常の連れ去り別居で信義則が認められるという展望は
あまりにも弱くて暗い。

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「日本の親子」を読む 母の育児不安、夫の子育てが嫌われる理由と、男性が子煩悩になっていく本当の理由、子育てクライシス等家庭問題の根本問題としての職場イデオロギー、 [家事]

1 育児不安と言う概念 母親自身の生き方についての焦りや不安
2 育児をする夫に対する妻の満足と強烈な嫌悪
3 熱心に子育てをする父親が増えた本当の理由
4 家庭に忍び寄り、家庭を崩壊させかねない企業の論理
5 職場の論理の最たる影響、根本的問題


これまでこのブログでは、産後クライシスを取り上げてきました。
主として、妊娠、出産のホルモンバランスの変化と
脳活動の変化から共感の対象が、大人から新生児に移りやすい
大人の特に男性に対して共感する力が弱くなり不信感が生まれやすくなる
という生理的な特徴から産後の夫婦の危機、
女性の生きにくさを勉強してまいりました。

この度
子どもが育つ条件(岩波新書)
大人が育つ条件(岩波新書)
日本の親子(金子書房)平木典子先生との共編
と、柏木恵子先生の著作を拝読する機会に恵まれ、
生理的な変化ではなく、社会環境的な要因に
女性の生きづらさがあることを学びました。

私は離婚事件を担当することが多い弁護士です。
自分の依頼者であったり、相手方であったりする女性の主張を拝見していると
先生のご指摘は正鵠を射ている感を強く持ちました。
感動しながら、共感しながら学ぶことができました。

ただ、
先生は発達心理学者というお立場であり、
私は弁護士という立場であり、
やや異なる側面を見ていることに気がつきましたので
メモ的に書き留めておくこととします。

1 育児不安と言う概念 母親自身の生き方についての焦りや不安

まず、柏木先生の著作によると
子育てをしている日本の母親は、
多くの人たちが育児不安を抱えているそうです。
育児不安とは、育児や子どもについての不安だけでなく、
自分自身の生き方についての不安や焦燥感が大きな比重を占めているそうです。
(日本の親子65ページ)

育児をしながら、(おそらく子どもをどう育てたいのかと思いながら)
それでは自分自身の生き方はどうなのかと考えてしまい、
不安や焦りが生じるのだそうです。

興味深いご指摘として
この焦りや不安は、専業主婦の方が強く
父親の子育て参加が少ない場合も強くなる
とされています。

ただ、ここでいう専業主婦の概念は注意が必要なようです。
ご指摘をされている点を読むと
初めから職業を持たないまま結婚をしたと言う方よりも
どちらかというと元々は職業に就いていて
妊娠を機に退職した女性についての分析が中心のように感じました。

そうであれば、弁護士実務や友人知人のケースともピッタリと符合します。
どちらかというと他者に貢献する意味合いの強い職業に就いていたけれど
妊娠、出産を機に退職した方に、
柏木先生の言うところの育児不安が強く見られるという実感があります。

泣き止まない赤ん坊に翻弄されながら、
自分は何をやっているのだろう
子どもの奴隷となっているのではないか
夫ばかりが外に働きに行けて不公平だ
という意識を持たれる方が多くいらっしゃいます。

子どもに対する殺意を感じるということを語られた方も
少なくありません。
もっともそれを実行しようとする人は稀ですが。

2 育児をする夫に対する妻の満足と強烈な嫌悪

育児をしない夫よりも、夫が育児をする場合
妻の満足度が高いという統計を報告されています。
おそらく一般的にはその通りなのだと思います。

しかし、ご夫婦の間に弁護士が介入するということは
夫婦間に紛争が生じているときなので
おそらく例外的な場面ということになると思うのですが、
夫婦間紛争の実務においては、
夫を嫌悪し、恐怖感を抱いて
子どもを連れて一方的に別居する事例の多くは、
夫が子どもに対して愛情を注ぎ
父子関係が良好なケースが圧倒的に多いのです。

こういうケースは、
別居後、あるいは離婚後
父親と子どもを会わせることを
母親は頑なに拒否することが多いです。

実務的経験から感じる問題として
子どもに愛情を注ぎながら
妻に子どもを連れ去りをされた男性の多くは
ある程度年齢が高くなってから子どもが生まれたというケースが多いという印象があります。
おそらく若い父親よりも年齢が高い父親の方が
仕事などにも慣れて、余裕があり、
子育てに対する憧れのようなものもあり
熱心に子育てをするのではないかと感じられます。
また、実のない規則や決まり事に対する批判的な視点を持てる人が多いようにも感じます。

それではどうして、そのような育児をする夫が
妻から嫌悪され、恐怖感を抱かれてしまうのでしょう。

一つは、子育ての本質は大らかさなのですが(子育てが終わるころに気付くのですが)
そのような父親たちは、知識も経験もあるため
細部にわたり、正しい子育てに邁進しようとしてしまうところだと睨んでいます。
(そこでいう知識や経験は、人生経験というより職業を通したスキルだと思います。)
子どもに愛情を注ぐあまりに、
自分が不適切だと思う子育てを、母親がそれをしようとするならば
容赦のない修正要求をつきつけてしまうところにあるということと
母親ができなくて自分ができる正しい子育てを見せつけてしまうということが
母親の自尊心を傷つけているようなのです。

受け取り方の問題も大きいのですが、
子どもと妻と同時に愛情を注ぐということは
なかなか難しいことのようです。

ここで考えなければならないのは、
「自分はそういうつもりではなかった」
ということは言っても仕方がないことだということです。
相手が、自分は否定されたと思ってしまえば
関係性は悪くなるものです。

子育ては両親が共同でやるということはよいのですが、
余裕がある夫は、
母親がメインで子育てを行い、自分は補助に回り
母親の言うことはその通り実践するという
母親を立てる子育てが実際は良い結果を残すと思います。

そして自分の妻が
夫は子育てに参加するなんて言うのだから意識が低い
なんて不満を持っていることに鼓腹撃壌していればちょうどよいのだと思います。

3 熱心に子育てをする父親が増えた本当の理由

高度成長期までは、離婚が一方の親と子の永劫の別れになることが
多くありました。
それを仕方がないことだと受け止められた
お父さん、お母さんが多かったと思われます。

最近は、父親も子どもに対する愛情表現を積極的に表明することが多くなり、
別居後、離婚後の子育てに関わる要求も大きくなり、また多くなりました。
たまに、この理由についてマスコミなどに尋ねられることがありましたが、
自分でも納得ができる回答ができないでいました。

日本の家族という本には、
その理由を示唆する記述がありました。

まず、子育ては母親が行うことだという分業の意識は
元々は、日本にはなかったということを指摘しています。
幕末や明治直後に日本を訪れた外国人の記録からは、
日本人男性が子どもを可愛がる姿が描かれており
日本特有の風習だという指摘がなされているということは
これまでもこのブログでも述べてきた通りです。

「日本の親子」の中に、神谷哲司という先生が書かれている部分です。119ページ
小嶋秀夫先生の「母親と父親についての文化的役割観の歴史」という論文を引用し
明治以降の国力増強策として、政治的なキャンペーンによって作られ
戦後高度経済成長の時代の男は仕事、女は家庭という性的分業が定着した
というのです。
これは今度入手して勉強したいと思います。

つまり、この性的分業は、最近起きたものであり、
国策によって植え付けられたものかもしれない
というわけです。

そうだとすれば、近年になって日本の父親が子どもに愛着を抱き始めたのではなく、
明治から戦後までの一時期(戦争遂行に明け暮れていた時期)、
男はそういう行動を取るべきではないという風潮があり、
それが今般、高度経済成長の崩壊とともに崩れ出して
元々の日本男性の本音を表明できるようになった
ということなのだろうと思います。

4 家庭に忍び寄り、家庭を崩壊させかねない企業の論理

これまでみてきたマイナスの現象の共通点は、
企業のやり方、職場の道徳、仕事イデオロギーとでもいうような
価値観の問題だと思うのです。
長年の職務経験から自然と身についてしまったのでしょう。

マイナスに現れる仕事イデオロギーとは、
まず、男性が子育てから脱落することです。
その理由が、
長時間労働や、労働強化によって、
家庭人としての行動をする時間と気力、体力がないということです。

この点を柏木先生は鋭く指摘されています。

次に私は、さらに価値観の問題があるように思えるのです。
働く時に必要な価値観として、
合理的行動、正確な行動、迅速な行動、無駄を省くなど
結果に直結するやり方が求められる行動だと思うのです。

しかし、家庭では、安心できる人間関係の構築こそ
最も求められる行動だと思います。

職場の道徳と家庭の道徳は別物なのですが、
どうしても長年職場で仕事をしているうちに
職場の道徳が普遍的な道徳、行動パターンだと
思い込んでいくようになるのではないでしょうか。
家庭の中に職場イデオロギーを持ち込む男性が多いように感じます。
偉そうに言っていますが、我が身を振り返ってもそう思います。
例えば結論の出ない堂々巡りの発言は
家庭ならば何の問題もなく聞いておかなければならないものなのでしょう。
職場の論理からすると、最もダメなコミュニケーションになってしまいます。

職場イデオロギーというか職場の論理自体が家庭に持ち込まれてしまった現象が、
どちらかが仕事を辞めなければならない場合に女性が仕事を辞めるということと
家庭を疎かにしても過労死するほど働くことを余儀なくされていることを受け入れる
ということなのでしょう。

あまりにも家庭が職場の論理で壊されてしまい
過労死をしないまでも家庭が崩壊してしまうということが起きているように感じます。

5 職場の論理の最たる影響、根本的問題

家庭よりも職場を優先するという価値観は、
家庭の生活についての価値を認めず、
収入を得ることに価値を偏重することだと思います。
これは女性にもその強い影響があるように感じています。

男女参画理念は、女性が社会に平等に参画することなのでしょうが
そこでいう「社会」が職場に限定されているような印象を受けるのです。
職場で働くことではなくて、
例えば、収入にはならないボランティア活動だったり
趣味の活動だったり
研究活動だったりということに
どうして価値を認めないのか私には不思議でなりませんし、
家庭を安心できる形にする人間関係形成ということや
子どもを健全に成長させるという子育てという
家事に価値を認めないのか不思議でなりません。

もちろんだから、女性が家庭に入れということではなく、
女性が働いて、男性が家庭に入るということに
もっと当たり前の価値観を社会的に認めるべきではないかということなのです。

人間が輝くのは収入を得ることだということだとすれば
大きな疑問があります。

冒頭述べました育児不安の中の
子育て中の母親の不安や焦りというものも
どちらかということ
職場イデオロギーに支配されているように思えるのです。

外に出て対価として賃金を受け取って働かなければ
人間として価値を実感できないと感じさせられているのではないでしょうか。

男性が一家の大黒柱として家計を支えなければならない
というジェンダーバイアスの裏返しが
女性はできるならば家庭に残って、仕事も男性の補助的な役割にする
ということなのだと思います。
そしてこれが育児不安の根本だと思いました。

しかし、これは、富国強兵、戦争国家のための
銃後の守りに代表される作られたイデオロギーであり、
その効果も時代とともに薄れ
男女共に働かなければ生活を維持できないという社会情勢の変化によって
化けの皮がはがされるところになっていると思います。

女性の解放は男性の解放と同時に進めなければ実現しない
私が一番学んだことかもしれません。

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連れ去り被害者は、被害者であることに徹底するべきであると強く感じることが多いという件 [家事]

平成の初期から始まり、平成22頃から飛躍的に増えてきた事件類型があります。
妻が子を連れて、夫と共同生活していた家から一方的に別居する事件
そしてどこにいるかもわからなくする
それに行政や警察が1枚かむ。
こういう事件をよくを担当しています。

その多くはDVなどなく
社会通念上「普通」の夫婦の範囲内の生活を送っているのですが、
出ていくときには
妻は精神的虐待の被害者で
夫は加害者になっています。

妻の精神的負担を察することがなく
夫婦間の問題を夫が何とかしなかったから
精神的虐待だという論調が多いようです。
夫婦の安定は夫の仕事というジェンダーバイアスが強い主張が多いわけです。

夫は、そういう乱暴な形で妻から
夫として、父親として、男性として、あるいは人間として
強烈なダメ出しを受けるわけです。

誰だって平気でいられるわけはなく
うつ病で通院を始める人、仕事ができなくなる人
その結果自死する人など
深刻な被害を受けています。

そこまでは被害者なのです。

しかし、被害を受ければ反撃して身を守ろうとするのが人間ですし、
反撃しないでうつ病が進行することは大変危険なのですが、

ある局面だけを分解してみると
その反撃行為のために加害者になっていることがあるのです。

決められた生活費を入れないとか
必要な手続きに協力しないとか
大声を出して面会を求めるとか
押しかけるとか

これらのことは、気持ちはわかりますし
自分が同じ立場なら果たして冷静に損得を考えられるか
ということについて、それほど自信はありません。

しかし、それについてのメリットはなく
デメリットだけはてんこ盛りになります。

先ず、日本の法体系や警察実務から
現場に警察官がとんでもない人数駆けつけます。
何かあったのかと思っているうちに警察官に取り囲まれていた
という体験談は毎月のように聞きます。

ストーカー規制法や保護命令など
そういう事態に対処する法律は事欠きません。

ただ、それが自分に対して執行されるとは思わないだけです。

そういう問題もありますが
一番影響が出ることを実感していることは
裁判です。

離婚裁判では、先ほど言ったように
針小棒大な主張がなされるわけです。
ちょっと、口をはさんだだけで
椅子に座らされて大声で怒鳴り続けられた。
理不尽な要求をして、要求が実現するまで
監禁されたなどということも主張されたことがあります。

夫は思うわけです。
そんなことがあるはずないのだから
裁判所はそれを認定しないよなと。

被害者が被害者のままならばそうなる可能性も高いでしょう。
ところが、被害者が反撃するものだから
証拠で出したりすればそれを裁判官も知るわけです。
ああ、やっぱり常識に反した行動をする人か
力で相手を屈服させようとする人か
裁判所で決めた養育費を払わないなら
同居中二人で約束した生活費なんて払わないよな

どんどん状況は確実に不利になってゆきます。

この人は、自分の感情を抑制できない人なんだなと思われれば
実際はDV認定まっしぐらということになりかねません。

代理人としては思うわけです。
もったいないなあと。
せっかく被害者なんだから
裁判を有利に進めようと思っていたのに、
ご自分で自分の足を引っ張っているようにしか見えません。

代理人としては、付き合いも長くなることが多いので
なんとなくわかるんです。
この人、連れ去り別居が無ければこんなことする人ではないのだろうなと

しかし、現実には連れ去り別居は起きている。
精神状態は煮えくり返るようになるわけです。人間だから。

だから、強くは言えないのですが、(いうことも少なくありませんが)
妻は裁判所の入り口だと思って
被害者然としていることが肝要で
報復的な行動をしても自分が損をするだけだからやめろと。

そういうと
皆さん口をそろえておっしゃいます。
だって不合理じゃないか。

そうなんです。
でも不合理なんです。不公平なんです。
力が及ばない代理人がそんなことを言っては申し訳ないのですが、
そんなことは100も承知の方々のはずなんですけれど

ただでさえ不合理なのに
益々不合理な方向に自分で進まれていますよと
うまく伝える方法を募集することにしましょう。

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【実務家向け面会交流調停期日メモ】拒否の度合いが比較的小さい連れ去り妻が2回目の調停で裁判所外の直接面会に応じた事件の分析 [家事]

この記事は面会交流の実現を仕事として行っている方に向けて書かれています。
事案は、本質を変容させない範囲で変えています。

夫婦は20歳代後半
子どもは二人(小学校低学年と幼稚園年中)
結婚8年目で妻が子どもを連れて、他県の実家に別居

別居に至る原因
妻の主張は夫の説教と子どもへの暴力というDV
夫の主張は妻の浪費を追及したら別居

別居から比較的早い段階で双方弁護士が受任
3か月に1度くらいで弁護士を通じて子どもの写真などが送られてきた。
現在別居して1年。子どもからの夫への返事は一度あったが
あとは双方向性のないやりとり。
婚姻費用は早期から送金。金額に不満あり。

調停は、面会交流調停、離婚調停、婚費調停
裁判所は県庁所在地を管轄する裁判所

1回目の期日と2回目の期日の間に
子どものための親に対するレクチャーと
子どもの調査官調査実施

調査官は中堅からベテランの調査官
やる気も能力も高い
報告書を読むと
子どもの様子は、わずかな葛藤も見落とさず
極めてリアルに再現されている。

夫からするとやや女性保護のバイアスがかかった質問がなされたとのこと

2回目の調停では
夫側の主張
子どもとの関係が安定したならば離婚も考える
妻側の主張
離婚が決まれば面会させる。

夫の側の主張
面会交流は子どものために実施するもの
親の紛争に子どもを巻き込むことはいかがなものか。

妻側の主張
直接交流は嫌だからテレビ電話など
調査官の意見
夫の反省を引き出せないために
妻を安心させられない
もう少し反省の弁はないか

夫側の主張
妻が嫌かどうかではなく、子ども本位に考えるべき
二人の事実認識には食い違いがある
それは大人の問題である。
面会交流は子どもの権利なので
妻側の主著はともかく、母親として頑張ってほしい。

交代中に、なおも妻側が抵抗を示した場合に備えて用意したこちらの論法
「調査官調書には、子どもが父親に会いたいということが明確に記載されていた。
これでも子どもが会えないのならば
子どもはどんなことを言えば自分の親に会わせてもらえるのか教えてほしい」

しかし、おそらく調査官の奮闘により
直接面会交流の実施方法について妻側が検討に入る。

その結果、短時間であるが
ファミリーレストランにおいて食事をしながらの面会が実施されることになり実施された。

<検討1 妻の複雑な心理>
妻側代理人が比較的鷹揚に間接面会の仲介の労をとってくれた。
頻度は少ないが、夫側としては一定の精神的安定が図られた。
写真や手紙の送付すら拒否する事例が多い中(連れ去り事例の場合)評価するべきだ。
但し、居住地などの情報秘匿は徹底していた。

もしかしたら、妻側で離婚はしたいけれど夫には嫌われたくない
という複雑な心理過程がありうるのではないかということは検討するべき。
嫌われたくないけれど、子どもは手放したくない。

このような場合、安心感を得られる形の面会方法であれば
実施される可能性が高くなるようだ。
調停の話し合いを見ていて絶対無理だという葛藤の強い事案でも
映画やサーカスの干渉という形で面会交流が実施できていることも多い。
妻は、子どもに時間を過ぎてももっと父親と交流しろと促すこともまれではない。

直接面会交流を大胆に提案するべきだと思う。

<検討2 調査官の役割>

今回間接交流にこだわった主張はしたものの
調査官の強い働きかけて直接面会が可能となった。
コロナでこれまで実施されていた面会さえ中止になることが多いにもかかわらず
画期的なことである。

調査官の女性保護バイアスは確かにあったが
思想的なものとして反論するより
弱者保護の観点からの正義感だととらえることが肝要である。
但し、それは調査官の役割ではない
調査官や家庭裁判所の役割は最弱者であるこどもの利益である。

このことを気づかせるのが代理人の役割であり
喧嘩してしまうことはデメリットしかないだろう。

正義は人の視野を決定的に狭めてしまう。

このために、できるだけ早い段階で
子どものためのプログラム、ないし、面会交流プログラム
を実施するべきではないかと考えている。

実際よくできていて、子どもの利益を第一にという
共通言語が生まれる効果がある
無い場合も大きいが、
この考えに照らして主張を強めることができる。

そして、調査官にもこのプログラムを主宰することで
親の紛争を子どもに及ぼさないということを
調査官自身が再確認するきっかけになる。
代理人は、現実の調停の中で、
そのことが問われる場面を特定し、気付きを促す
という役割を果たすことが求められる。
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なぜ虚偽DV、おおげさDVの主張に逃げ込むのか、それは妻の苦しみを弁護士が理解していないことと、心情を表現することが成功していないから 離婚後の幸せを明確に意識した離婚手続きの勧め [家事]



25年以上前、弁護士になりたての頃
「弁護士は事件を解決するのではなく紛争を解決するのだ」
ということを先輩弁護士から叩き込まれました。

先ず人と人との間に紛争があり、
それを法律の枠でとらえ直して事件とする。
判決などで事件は解決するけれど
逆に紛争が長期化したり深刻化したりするならば
それは弁護士として二流だという意味です。

離婚事件などを担当する場合も、
当事者の言い分をだらだら清書するのではなく、
しっかりと解決の道筋を考えて
紛争を解決する視点で仕事をしなくてはならない
と未熟な私はご指導をいただいておりました。

だから初めから、「勝訴判決をもらえば良いのだ」
という発想は持てませんでした。
自分の依頼者はもちろんのこと相手方も、
離婚事件後の再出発によって
ご自分の大切な人生を歩んでいただく
という壮大な目標が常に頭の中にはあったのは
こういう先輩方の厳しいご指導があったからだと今気が付きました。

この視点は、実務的に大変役に立ちました。

私の離婚事件の依頼者は25年を振り返るとどちらかという女性が多く、
中にはDVをにおわせるような離婚理由を述べられる事件もありました。
明白な暴力や暴言はなかったのですが、
あたかも暴力や暴力が日常にあったように
女性側は嫌悪感や恐怖感を持っていました。

ここで、暴力だ、暴言だと離婚理由を述べたら
おそらくそれは虚偽だ、ねつ造だと夫は主張するでしょうから
収拾がつかなくなったことと思います。

私は、依頼者の女性と丹念にご自分の心の経過を振り返りました。
そして、どのような夫の言葉やどのような態度が
どのように妻が不自由な思いをし、ストレスが生まれ
かつどのような怖さを与えていたか、
そしてそれが継続することによって
どのように苦しくなっていったか
どのように無力感が生まれ希望が無くなっていったか
ということを述べていきました。

この女性の気持ちを理解しようとしなければ
「どうせDVなんでしょ」と
安易な聴き取りで終わってしまい
相手方が反発するだけで、立証もできないような主張になるわけです。
無駄な精神的葛藤が大きくなってしまい、
裁判でも和解できず、判決が出てもなかなか終わらないわけです。
控訴審で引き継いだ離婚訴訟では
かなり危険な状態になっていることもあります。
これでは離婚判決が出ても、緊張が継続してしまいます。

大切なことは、本人も忘れていたような事実を正確に抽出し、
心理過程を丁寧に、できるだけリアルに再現することだと思います。

その上で大事なことは、
だからといって夫を非難するのではないということです。
夫にこちらを苦しめる目的や動機はなかった
考え方や何が当たり前かということがそれぞれ違い
おそらくそれは夫にとって当たり前の行動だったのだろう
妻はことさら夫を悪いとか、劣っているという評価をしているわけではない
夫のそのような行動も理解できる
しかし、だからといってこれ以上一緒にいることはつらすぎる
ということを丁寧に説明するという方法をとるようにしました。

相手を理解するともに、こちらも理解してもらう。
おそらく日常生活の中で少しずつこの作業を
夫婦はしていくべきものなのでしょう。
それができなかったために離婚になるのかもしれません。

離婚のときこそこの作業を丹念に行うことによって
心の摩擦がだいぶ軽減されるようです。

すべてがうまくゆくとは限りませんが
わずかな回数の調停期日で離婚が成立することが多くなります。

離婚事件の常として
離婚したい人間と、離婚には納得できない人間がいます。
離婚が成立しても、すべて納得できるものではありません。
それでも、このように離婚手続きがスムーズにいく場合は、
双方礼節を保って挨拶をして裁判所を後にすることができます。
この挨拶は当事者同士ではできないことが多いので、
代理人が変わって挨拶を受けるということも多いです。
無駄な争い、人格非難をしないで済むので
挨拶を受ける私も、相手に尊敬の念を込めて頭を下げることができました。

なかなかこのような調停が行われなくなってきています。
ベテラン弁護士も若手も、DVという言葉のオンパレードです。
DVという言葉を使うなとは言いませんが
具体的な中身が無い。
どこに妻のストレスのポイントがあるのか
何が苦しめていたのか
全く分かりません。
相互理解ではなく、
判決に逃げ切るための活動のように思えてなりません。

依頼者の苦悩を理解していないから
依頼者が打ち明ける事実以上のことがあったのだろうという
先入観が生まれるのでしょう。
ちょっとした不快なありふれた行動も
DVという言葉を当てはめていくのですから
それは大げさになっていくわけです。

しかし、そんなものが無くても、大げさにしなくても
心理的に圧迫され、緊張状態の継続を強いられ
日常生活のありとあらゆることがどうしたらよいかわからなくなる
という心理状態になってしまうことがあるのです。

ハラスメントなんて言う言葉を使わなくても
きちんと理解さえすれば、その心理経過は
きちんと説明することができるはずです。
それができていないのですから、依頼者は
なんか違うなと思いながら
離婚をするための裁判ゲームだと自分に言い聞かせ
あるいは弁護士が書面に書いている方が真実だと
無理やり思い込まされているのかもしれません。

それでも女性は、自分の目的である離婚に向けて
弁護士が頑張ってくれるので
それなりに心強いかもしれません。
しかし、そうやってコナンのつり橋のように逃げ切って
ありもしないDVがあったと自分で思い込んでも
なかなか離婚後の人生を安心して歩んでいけないのではないでしょうか。

誰かを攻撃していないと安心できないとか
他人が困ったり、苦しんだりしているときだけ笑えるとすれば
とても不幸なことだと思います。

相手が悪かった
という振り返りではなく
相手のこういうところに自分は苦しんだ
自分としてもこうすればまだよかったかもしれない
という人間関係の相互関係をしっかり考えることによって
離婚後の未来に向けて再出発がしやすくなるはずだ
と私は確信しています。

私も女性側で離婚事件を多く扱っています。
お引き受けする際には、
離婚に至る経緯や理由だけでなく
離婚後の生活をしっかり打ち合わせをします。
経済的な基盤の確立や子どもの養育のビジョン、
もう一人の親と子どもの安定した関係を
しっかりと打ち合わせてから事件に移ります。
離婚後の生活に必要な手続きや有益な手続きを
ご自分でしっかり調査していただきます。
きちんと生活の目処が立ってから離婚手続きに入ります。

離婚はしたけれど生活ができないという相談をよく受けるからです。
離婚した後のことを用意していない例が多すぎるのです。

離婚をすればそれでよいという事件のご依頼は受けません。
離婚をするという目の前の目標ではなく、
離婚した後幸せになるために依頼を受ける
そうである以上
離婚後の生活基盤を確保してからことを始めるということが
当然のことだと思っています。

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虐待加害者からの相談や依頼を受ける弁護士として、虐待問題は特別な問題でないことが多いと思っていること [家事]



私の事務所には、「自分が虐待している」と他人から言われているという人からの相談がきます。警察に通報するとか児相に通報して子どもを保護してもらうとか言われるそうです。どうやらそういう世の中になってきているようです。「虐待」という言葉が使われてしまうと、あとは権力や行政に通報するという対応方法しか世の中出てこないようです。そしてその後は、親から子どもを引き離すか引き離さないかという選択肢しかでてこないようなのです。

どうして、その親御さんにアドバイスをする人がいないのでしょうかね。理由は3点思いつきます。
一つは、官が主導する児童虐待対策の方法が、児相や警察通報という手段しか提示しておらず、後はその専門家に委ねるべきだという政策になっているというところに理由があるでしょう。
もう一つは、例えば幼稚園などで児童虐待が話題になる場合、児童虐待だと感じる大人と児童虐待をしていると評価される大人が、人間的なつながりが無いために、アドバイスだったり、注意だったり、普通の人間関係ならば行われるはずのことができないという対人関係的な問題が理由となっていると私は思います。虐待をするような人は、初めから自分とは別種の人間だと思いたいのだと思います。
さらにもう一つ、「虐待」という言葉に過剰に反応してしまうことも理由だと思います。「虐待」という言葉が出てしまうと、それを行なっている人は悪虐非道の、罪もない幼児を傷つけて平気でいる鬼のような人物であって、うっかり何か関わってしまうと自分が攻撃されてしまうというような意識を持ってしまうわけです。だから、できるだけ自分は直接関わらないで専門の人に任せようという意識が出るのではないでしょうか。

私は、虐待と言われているような事象は、それほど特別な出来事ではないことが多いと感じています。虐待といわれる行為をしてしまうことは、子育てをしているときには多かれ少なかれあることだと思うのです。私自身や身近にもあるにはあったと思います。
例えば、キツくしかり過ぎてしまう人がいます。
多くは、その親御さんも何か必要なしつけをしようとしているのです。しかし、子どもがなかなか理解しない。子どもに叱らないで理解させる技術が親にはない。その結果、勢いきつく何度も繰り返し結論を押し付けてしまう。それでも子どもの反応が今一つはっきりしない。するとなんとか教え込もうとさらに厳しくなってしまう。このあたりまで来ると周りから見るとそれは紛れもなく虐待が行われていると感じる行為になってしまっている。「あんなちっちゃな子どもに、鬼のような形相で親が怒鳴っている。」「手も出そうな勢いだ。」「子どもはすでに泣きじゃくっているじゃないか。」そんなことが何度か続いていれば虐待親だと認定されてしまうわけです。その上、子どもが転んで顔を怪我でもしていたら、夫婦で虐待しているという疑いを簡単に持ってしまうようです。

子育てが終わることになると誰しも気がつくのですが、そんなに一つ一つのことを完璧にしつけようとすることにあまり意味が無いようなのですよ。どうしてもそれができなくても、あまり子どもの人生に変わりはないのですね。例えば靴の紐が結べなくても、友達と一緒にやっているうちに覚えたり、どうしても覚えられない場合は紐のない靴を履かせれば良いわけです。忘れ物をしたとしても、幼稚園時代の忘れ物なんて、後は先生がなんとかしてくれる事がほとんどです。失敗したらまず謝る。親が笑われるかもしれませんが、笑われたら一緒に照れて笑えば良いのです。そういう関係はとても楽ですよ。失敗しないことよりも、失敗の後のリカバリーの方がよほど人生にとって有意義です。

それに言葉で教えるのではなく、子どもに何かを慣れさせていくうちに少しずつできるようにすることが上策でしょう。一番は親のやっていることを真似させていくことが人間教育の本質だと思うのですね。おそらく、他人から見たら虐待だと見られるようなしつけって、親ができないことを子どもにはやらせようとしているときに起きるのではないでしょうか。初めから無理があるわけです。もちろん、自分ができなかったことを子どもにやらせようとか、自分が苦労した道を子どもに歩ませたくないということはよくわかります。自分にも覚えがありますからね。

だから、虐待に見える行動を取る親御さんが、悪逆非道の人格破綻者だという見方は、リアルな見方ではないように思います。むしろ普通の人で、多くは責任感が強く、子どもでも努力をするべきだという真面目過ぎる人ですよね。だから、少し年配の親御さんがお話をしたりをしたり、子どもを預かる側にも年配の、つまり子育てを一通り経験した人を用意して、そういう人からアドバイスするという方法が一番有効なはずなんですよね。「あなた、そういうことをすると虐待だと思われるよ。」、「あなた、それではお子さんかわいそうだよ。」とはっきり言ってあげられれば良いと思うのです。言われれば気がつく人の方が多いと思うのです。

言われたことで殻に閉じこもる人もいるでしょうが、自分もそういうところがあったからといって同じ目線で話せば、親御さんの方もどうしてそんなに厳しくするのか、悩みがあるなら悩みを打ち明けて、そんなこと悩むことじゃないことがわかり、子どもをかわいがる方が早道だと気が付けばみんなが幸せになるはずなのです。悩みが解決しなくても、とりあえず虐待に見えることはやめておこうということになるはずなのです。大切なことは、虐待しているように見える親も別種の人間ではなく、同じ地平に立っている先輩と後輩みたいな関係で仲間だという視点だと思うのです。

ところが、現状の虐待防止政策の選択肢は通報と引き離しなんですよね。それでは親は、他人から見えるところでは厳しいしつけをしないように隠すだけなのです。虐待とはいえなくても、子どもは苦しい毎日を送ることにはそれほど変わらないということになってしまいます。子育てなんて、そんなに頑張らなくても良いのだということに親が気がつくチャンスがなくなるからです。


児相に子どもを引き離されてしまったら、一体誰が親にアドバイスをするのでしょう。引き離しは対立構造を不可避的に生みますので、児相が親に適切な教育を指導してそれを受け入れるということはとても期待できません。こんな当たり前のことがないがしろにされているわけです。子どもは緊張しないで親から愛情を受けて育つチャンスを、人生で一度だけのチャンスを失ってしまうわけです。これは大変恐ろしいことです。しかし、子育て経験が乏しい児相の職員の方や児童養護施設の方々は、その恐ろしさをあまり理解されていないようにいつも感じています。

どうも政策を立案する方々というのは、特に数字に興味があるのではないかと感じています。虐待通報数を増加させたいとか、一時保護の数字とか、そういうことです。おそらくそれが増加すれば、虐待死の件数が自動的に減るのだろうと信じているように感じます。あるいは数字をあげることによって、成果を主張し、予算の獲得を図ろうとしているのでしょうか。そうではなく、子どもたちが楽しく人生を歩むとか、親に育てられて安心して育つとか、そういう数字にならない事に興味を持っていただきたいと思っています。極端なことを言えば、数字に現れなければ考えないというならば。子どもが死ななければ良いというように感じてしまいます。これではみんなが不幸になっていくだけだと思うのです。

人間の子育ては、親だけが行うものではなく、200万年前から群れが行うということになっています。他人の子どもであっても、縁あって同じ群れになった仲間がどんどん口を出さなければならないのでしょう。どうやって口を出すのか。どうやってそれを受け入れていくのか。そういうことこそ議論をして実践していくことが必要だと思います。

縁あって相談を受けた弁護士は、やみくもに虐待親に対する過剰反応をすることなく、逆に過剰防衛意識を持つことなく、子どもの利益の視点で、親御さんにアドバイスできれば良いと思います。行動を修正することは、子どもを引き離されないための有効な手段となりますし、何より子どもが楽しい子ども時代を送れる方法にもなります。
また、悩みを抱えていて、子どもに厳しく接することを自分で抑制できない親御さんもいます。そういう場合は悩みを解決する方法を一緒に考えるべきでしょう。心理面に問題を抱えておられるのならば、信頼できる臨床心理士を紹介するという方法も選択肢に入れるべきだと思います。
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子の連れ去り事例の場合は特に離婚訴訟など戦うべきではない3つの根拠と調停と裁判でデメリットを減らす方法 [家事]



最近の離婚事件事情は、ある日夫が仕事から帰ると妻が子どもと身の回りの荷物とともに、家から出て行っていたというところから始まり、行方をくらまして、夫が近づこうとするとストーカー規制法や保護命令などで近づけさせない。そうこうしているうちに離婚調停、婚姻費用分担調停が申し立てられる。一緒に生活もしない相手に毎月負担感の大きい費用を払い、子どもには会えない。さらには離婚調停や訴訟では、相手はありもしない夫の暴力や身に覚えのないモラルハラスメントを主張してくるという感じです。少なくとも夫から見ればそう感じて当然のことが起きています。
こうなれば、誰でも(およそうつ状態になっていない人間であれば)、「それは事実と違う」という反論を行い、理不尽な事態は許さず、真実を明らかにするために戦おうとするでしょう。そして、裁判なのだから間違った事実にもとづいて離婚が命じられることはないだろうと思います。だから、自分を守るため、あるいは不合理な事態を是正するため戦うということが自然体だと思います。
しかし、その常識だと思われる予想に反して、離婚訴訟で戦うことは、大きなデメリットが確実にあるにもかかわらずメリットがあまり期待できないと言わなくてはならないということが実情です。

1 妻の子連れ別居の意思を固めて、子どもと父親の距離が遠くなる。

訴訟ですから、相手方の主張について、事実と違うことは違うと反論することは必要なことです。やってもいない父親の虐待を認めた判決が下ることは子どものためにもなりません。何としても避けなければなりません。当然訴えられた夫は、裁判で自分の主張を堂々と展開することは必要なことです。
ところが、妻の主張で、ありもしない事実の主張やことさら大げさな表現の主張の多くは、妻にとっては嘘をついている自覚はありません。また、そのような真実とは異なる事実は、結婚生活が破綻している根拠、妻が夫を嫌悪して恐怖を感じている根拠として述べられています。だから言われた方の夫は、原因となる事実が真実ではないから、妻の夫に対する嫌悪や恐怖の感情も事実に反するという感覚を持つのは当然です。すると、夫が裁判で、妻の主張は虚偽だ、ねつ造だ、そのような事実がないから妻の感情も嘘っぱちだと主張することは自然な流れになってしまいます。
しかし、ここは前回の記事で述べたところですが、真実と異なる妻は、それは実際に起きたことだという記憶をもっています。だから妻は、夫は裁判になっても「事実を認めない」、「裁判でさえ自分のいうことを否定するのか。」という気持ちになっていくわけです。
 もともと妻が子どもを連れて逃亡する理由は、確かに夫に対する嫌悪感と恐怖感にあります。但しこの原因が主として夫の行動であるということはむしろ少なく、妻の体調変化に伴う漠然とした不安感であることが多いと感じています。この不安感の強さと、夫がこの不安感に気が付かないで妻の奇異に見える言動を批判し続けることによって、「自分が夫から尊重されていない。」、「夫は自分の言動をすべて否定する。」という感覚が生まれて、やがて自分を守らなくてはならないという意識から夫に対する嫌悪感や恐怖感が生まれてくると考えています(このあたりの詳細はこの記事の前の記事で述べています)。そのように自分が否定されているという意識は、漠然とした抽象的なことが多く、その原因をはっきり述べられないために、無理に夫の行為に結び付ける自己暗示のようなことも、真実に反する主張が起きる原因の一つだと思っています。
ところが、それまで抽象的な夫の行動が、裁判における準備書面や陳述書という明確に自分を否定してくる言動として現れるわけです。「やはり夫は自分の言動を否定してくる存在だ」ということが訴訟活動を通じて確信として高められていくということが実情のようです。夫は、裁判で懇切丁寧に客観的事実を説明すれば、妻は自分の間違いに気が付くと思うかもしれません。こういう劇的な話は奇跡が起きるよりも確率は低いようです。
この弊害は、妻が子どもと一緒に生活しているときに大きくなります。面会交流をすることが子どもにとって必要になるのですが、そのためには二人の間で最低限の信頼関係がなければなりません。信頼関係を再構築するどころか、訴訟活動によって、逆に妻の嫌悪感や恐怖感は夫に原因があるのだという確信が強まって行く結果、夫に対する嫌悪、恐怖が増大し、さらには固定するため、子どもを父親に合わせようという気持ちがますます失われていきます。無理に子どもが父親に会うと、子どもに対して裏切り者という扱いをするので、子どもは父親に会いたいとさえ言えなくなってしまいます。やがて、「お父さんに会いたいとは思わない。」と言わざるを得ないという極めて残酷なシチュエーションになります。父親が嫌いだから会いたくないのではなく、母親がかわいそうだから会うのを我慢するということが、正しいようです。もちろん子ども自身が自分の行動の要因を分析することはありませんし、そのような可能性を訪ねる調査官もいないわけです。
そのような妻に対して、夫は、「人間は道理に従うべきだ。」、「子どものために感情を捨てるべきだ。」という前提の素、子どもに会わせない妻を非難するわけです。しかし、どんなに非難しても子どもは父親に会えません。非難するからますますあえなくなるわけです。感情としては夫の感情がよくわかるので、なかなか言いにくいことですが、妻の感情が可変要素ではないとすれば、夫の言動が可変要素だということを考えなければなりません。子どもを父親に会わせなくしているのは妻ですが、妻の気持ちを強化し固定化しているのはご自分かもしれないのです。どちらが正しい、どちらが悪いでは、子どもは父親に会えないということを多くの事件で学びました。
 そのことに気が付いて、夫自身が、子どものために、子どもを自分に合わせるために、妻の言動は大目に見て妻の葛藤を下げようとされる方もまた増えてきました。しかし、裁判で妻側が客観的事実に反した主張を読んでいるとどうしても夫自身の葛藤が高まってしまい、どうしても応戦したくなります。ますます子どもを父親から遠ざける結果になるのです。
 この悪循環を断つ一番の方法は裁判をしないことだと思うのです。

2 裁判は男性に不利にできている 裁判の幻想は捨てよう。メリットが期待しにくい制度。

 女性から離婚を言い出す場合は、裁判所は「極端な破綻主義」をとります。それはつまり、妻が離婚したい強固な意思があり、別居の事実があれば、離婚を認めてしまうという傾向にあるということです。本当は誰が悪いのかということは裁判ではあまり意味のあることではないのです。ところが、夫が子どもを連れて出ていく場合は、「極端な破綻主義」はとらないと手の平を返すことがしばしばあります。私から見れば、裁判は、男と女で結論が異なることがあるとしか見えません。その他判例実務法体系については前回詳細に語りましたので省略します。
 結局、裁判実務からすると、夫は裁判所に過剰な期待をしているということがリアルな話です。ご自分が本当に理不尽なめにあっているということについて、あるいはその理不尽さの程度について正確に把握できていないのです。本当の理不尽さは、子どもの連れ去りで子どもと会えなくなるという理不尽だけではなく、その理不尽を是正する手立てがないということです。夫から見た妻の理不尽な行為が公的機関によって是認されるということが最大の、そして本当の理不尽だと思います。
 裁判は、しょせん、裁判官がどちらかを決めるということです。裁判官という赤の他人に、自分と子どもの運命をゆだねているということになります。夫にとって裁判は人生をかけた、かなり分の悪いギャンブルだと思います。裁判を正々堂々と行うメリットは、通常考えるよりも期待できないと考えた方が良いと思います。
 弁護士についてかなり憂慮するべき事態であることが当事者の話からは聞こえてくることが少なくありません。ノーマルなケースでも夫と弁護士のコミュニケーションがうまくとれていないことがあるようです。それには理由があります。理不尽な目にあっている人間は、他人に対して過度な警戒感を持つものです。信用できない、普通に自分を扱っているのだろうかという心配がどうしても出てきてしまいます。その結果、あまりにしつこく念を押したり、すべてを記録化して提出を求めるとか、細かいことまで口を出したり、些細な失敗にも目くじらを立てる。こういうことは、理不尽な思いをされた方にはよくあることなのです。これは、連れ去りと我が子に会えないという理不尽な思いをしたために起きた変化と考えることもできます。理不尽な目にあった夫はそれを言うことによって何らメリットがなく、デメリットしかないことに気が付きません。これがわからないと、限度を知らないモラルハラスメント夫の典型的な行為だと受け止められることがあります。なかには、こういう性格だから妻が逃げ出したのではないかと誤解を受けることもあるようです。しかし、これは弁護士は決して口に出しませんからわかりません。事件前の性格から変貌しているのかもしれないということに気がつかない弁護士は、もともとこういう細かい性格で、他人を疑い、細かい指図をして、指示通りしないと激高する人なのだろうという感覚を持ってしまいます。「そういう言い方ははやめてくれ」と私のように夫にずけずけ言える弁護士ならば、関係は壊れないのです。しかし、相手に面と向かって言えないということで、ストレスをため込んでいると、信頼関係がなくなっていくこともあるようです。些細な誤字脱字は直してくれるけれど、肝心の相手との関係について何ら意見を言ってくれないようになり、どんどん不利に裁判が進んでしまう。これは本当に注意するべきです。あなたが心配していることは通常訴訟ではデメリットにならないのに、それをいうことで肝心なことを弁護士が言えなくなるというデメリットばかりが現実のものになるケースがあるようです。ご自分が理不尽な思いをしているという自覚があるならば、自分は他人との関係で、性格が変貌しているかもしれないという意識をもつことは、戦略的に必要です。この葛藤が訴訟活動をすることの妨げになっているかもしれないのです。
 高額なお金を出して弁護士を頼んでも、様々な理由から思い通りに裁判が進まないということだってありうることなのです。この意味からも裁判に過度の期待を持ってはいけません。
 また、判決で勝っても、例えば妻の離婚請求が棄却されたとしても、家族の状態に変化は期待できません。判決で離婚が否定されたから、また同居を開始しようという妻はほとんどいません。このことは、裁判を夢中になって戦っているときはあまり意識に上りません。目指すゴールがわからなくなってしまうのが裁判なのかもしれません。
裁判はメリットがやはり期待しにくいという考えの方が実務的かもしれません。

3 事実に反する判決が出たら、関係者全員が長年それに苦しむ。

 裁判をして和解で事件が終了すればまだよいのです。ところが、判決になってしまって、その判決も事実に反して妻側の言い分を認めてこちら側の言い分をくみ取らない判決が問題です。その結果、事実に反して、夫が子どもに虐待を繰り返していたなどという判決になってしまうと大問題です。
 裁判の後、面会交流の調停を申し立てても、妻側はこの判決を鬼の首を取ったように証拠提出してきます。子どもへの虐待は、裁判所からすればその子どもとの面会交流阻害事由になりますから、裁判所は試行面会さえ命じようとしなくなるでしょう。
 何らかの理由で、後に子どもがその判決を見たならば、自分の父親はなんてひどい父親だったのだろうと思うようになるわけです。これは子どもにとって人生観が変わるほどショックなことになる危険があります。虐待の事実が無くても判決に記載がなされれば、子どもにとって事実となってしまうということです。そしてそのような判決は実際によく出ています。
 さらには、裁判で勝ったはずの妻も、これまで漠然と抱いていた不安が、裁判によって肯定されたという意識を持つようです。改めて恐怖感情、嫌悪の感情が強くなり、固定化するということがあるようです。勝訴判決によって攻撃的な喜びはもつでしょうが、安らかな安堵ということが起きないこともあるようです。
 事実に反する公文書が出されることは、特に子どものために何としても避けなければなりません。そのためには裁判をしないこと、特に判決をもらわないことが上策です。

<では調停、裁判はなにをするのか>

この文章が円満に夫婦生活を送っている人たちにとっては、ご自分の生活を振り返るきっかけにしていただけるかもしれません。おそらく、この記事の前回の記事と前々回の記事と併せて読んでいただければ役に立つと思います。私たちは、いつしか、自分の家族を大切にする方法について、具体的な仲間に対する思いやりの示し方について、学ぶ機会が奪われて行っているように感じています。知らないことはその人の責任ではないと思います。多くの当事者、離婚事件の当事者、円満修復の当事者の方々とこれらの記事は作成しているわけで、生きた教材になると思います。

 不幸にして連れ去り別居が起きてしまい、離婚調停や面会交流、面会交流調停が係属している場合は、今から思いやりを具体的に示すというチャンスが残されています。離婚回避ということはなかなか難しいということは言わなくてはならないと思います。しかし、子どもと別居親との比較的自由な交流というのは近年増加しているように感じます。
今日現在で、問題解決のための有効な心構えは以下のようなものです。

自分が不合理な思いをしていることは、自分の行為が主な原因であるとは限らないこと。
しかし、自分の行動の変化によって事態が改善できたはずだし、これからも改善できるということ。

その上で、調停では、
1)まず相手の気持ちをじっくり聞かせてもらうこと。そのためには、自分の言い分も相手の気持ちをじっくり聞かせてもらえば、引っ込める用意があることを示すこと。相手が望む離婚であっても、選択肢に入れるということを調停委員には表明する。
2)聞かせてもらった相手の言い分をいちいち否定しない。肯定できるところを探し出してでも肯定すること。
むしろ、相手の言い分を相手が主張する前からこちら側で主張して上げるくらいの気持ちで臨むべきでしょう。このためには前回の記事が役に立つはずです。そして肯定を前面に出しながらただすところをただしていく。これはだいぶ難しいことですがやるしかありません。可能な限り、無駄な誤解は解消するべきでしょう。
3)こちら側の修正するべき点については、積極的に、相手がそうだそうだというようなことを自ら言っていくことが有効です。離婚回避とまではいかないでしょうが、面会交流など相手が幾分でも自分の主張が認められたと思うと、面会交流などに効果が出てきます。これに対局の主張が、こちらは何も悪くない。妻が虚偽の事実を主張する何らかの思惑があるんだという主張でしょうね。
4)こちらの意見を通す場合、例えば面会交流の実施などの場合、相手の気持ちを軽くする方法論、相手を安心させる方法、夫側の縛りをこちらから提案していく。これは、通常デメリットがなくメリットばかりが期待できるので、少し大げさに恩着せがましく行うくらいでちょうどよいです。
5)離婚しても別居しても家族です。不完全な状態でも家族ですが、家族全体のことを考えられるのは、自分しかいないということを自覚していただくということです。そうして、家族全体、特に子どもの長い人生のためには、いま与えられた条件の中で実現可能な結果を提案していくという観点で、結論を考えるしかないのだと思います。相手の気持ちを無視して理屈だけで結論を出してしまうと、単なる絵に描いた餅になってしまいます。結果を出すということは、調停になってしまえば、大切なことになってしまいます。

 不幸にして調停が不成立となり裁判になった場合
1)現在のプラスの状態を確認し、死守する。
  例えば面会交流が定期的に行われているとか、妻とある程度事務連絡ができるとか、なんらかの交流がある場合は、それを大切にする。妻を安心させるチャンスが残されていることになります。例えば、子どもの写真をもらったりすれば、大げさに感謝をするということが次回につながります。裁判ではいろいろ言うけれど、それは弁護士の個性であって、自分は妻を攻撃するつもりがないことを示すべきでしょう。これらのプラスは、裁判が継続していっているうちに、どんどん薄まっていくことがあります。ここには敏感になるべきでしょう。
  裁判の勝ち負けよりも大切なことかもしれません。
2)多くを期待しすぎて、すべてを失わないということを考える
  また、元のとおりに家族が戻ることが最善ですが、それは裁判という方法では無理なことです。可能性のある最善なことを実現するために、可能性のないことを捨てるという外科的手術をする選択肢を持つことが必要かもしれません。例えば、面会交流は定期的に行われていて、そのときだけは妻も楽しそうにするようになった。それでも離婚を請求してきているということであれば、離婚に応じて面会交流の維持、充実を勝ち取る方が家族全体としてはよいかもしれないという結論がありうると思います。
3)裁判官にできる限り判断をさせない。
  最たるものは判決をかかせないということです。和解で終わるべきです。相手が合意しそうで、かつ、こちら側に最大限有利な和解案を積極的に提案していくということです。
4)相手の言い分の肯定できるところを探してでも肯定して、否定するところはしっかりと否定する。相手のこちらを責める主張も、和解で終わらせるという方針の下では、こちらに有利に進む材料にもなることがあります。この辺りはなかなか難しいテクニックが必要ですが、要は、なぜ相手がこちらを理不尽に排斥するかという検討をすることです。
  その意味では、離婚訴訟と関係の無いところはいくらでも反省を述べていくということなのでしょう。

夫婦関係は共通の要素も多いのですが、それぞれ異なることもたくさんあります。できるだけ有効な方法論をご提示したいのですが、難しい要素も多いというところが正直なところです。少し事例と当事者のご意見が蓄積されてきたので、現段階の到達点についてご報告いたしました。


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暴力がなくとも妻が夫を強烈に嫌悪する理由 たとえ夫が悪くなくても妻は夫を毛嫌いする。自分が悪くなくてもできることをしていないかもしれないということ。 [家事]



妻が子どもを連れて家を出ていくと、外野は、夫がDVをしていたからだと決めつけることが多くあります。しかし、実際の私が担当した案件を見ると夫のDVということは極めて例外的です。妻が夫を嫌悪していることはよくわかるのですが、夫は原因に思い当たるところがない。妻の主張も、突き詰めていくと、暴力があるわけでもなく、夫が道理に外れたことをしているわけでもなく、原因については何とも曖昧なことしか言いません。こういう事例がほとんどです。だから、夫は、妻が自分を嫌悪している、一緒にいたくないということがすんなり理解できません。単純に自分が攻撃されていると思うわけです。
これは、裏側から見ると、
「暴力やモラルハラスメントが無くても、妻は夫を嫌悪し、一緒にいることが怖くなり、子どもを連れて逃げ出したくなる」
ということなのです。つまり、私たち日常の夫婦喧嘩の延長線上に子どもの連れ去り離婚はあるし、連れ去り別居と関係維持は紙一重のところにあるようです。
これまでの業務の事例、自分を含めた身の回りの事例、当事者の方々との意見交換を踏まえて、夫婦には必ず危機があるということ、それを意識することによって、家族分離という、特に子どもの人生にとって悲劇となる事態を防ぐ一助になればと思い、まとめてみることにしました。結婚しているすべての男女、これから結婚するすべての男女、大げさに言えば人類の共通の課題だと思います。

これまで当事者の方々と意見交換したときや、業務でアドバイスしていて痛感することがあります。それは、日常生活において、「不合理は存在するものだ」という構えに建てないと、理解が難しいということです。「自分が悪くなければ自分には不利益なことは起きない。」ということは作り事だということを理解してほしいということです。これは、特に男性には理解が難しいことのようです。私も男性なのでよくわかります。特に法律なんて勉強すると、責任も悪意もないのに責められることは不合理で許せないという気持ちになるものです。社会的な問題ならば、そういう考えも有効でしょう。しかし、こと家庭の問題、特に夫婦という男女関係の問題では、そういう考えは引っ込めるべきなのです。
あなたが結婚する前に、男女の問題で、そういう「論理的なやりとり」で、「合理的に」ことが進んだでしょうか。私なんかは山ほど不合理な思いに苦しんだわけですが、みんなそれを忘れているだけではないでしょうか。入籍をして、子どもが生まれるころになると、みんな「相手は合理的な反応をするべきであり、不合理な反応は許されないことで、してはいけない」と何時しかそういう考えが身に染みこんで、そんなルールなんてないということに気が付かなくなるようです。これからお話しすることは不合理の(少なくとも)存在を承認することから出発しなければなりません。

つまり、「夫に一番の原因も、大きな原因も無くても、妻は夫を毛嫌いする。」ということです。

先ず「毛嫌い」というぴったりくる表現の意味を解説していきましょう。ここはある程度共通の感情を持っているようです。列挙します。
・一緒にいることが嫌で、同じ空気を吸うことも嫌だ。
・一緒にいると何か自分にとって悪いことが起きてしまう。
・街で夫と同じ背格好の男性を見ると呼吸が止まり、体が動かなくなる。
・夫は損をしていないのに自分だけが損をしているような気がする。
・夫ばかりではなく夫の両親ばかり尊重されて、自分の両親がないがしろにされている。
・自分は人間として、女性として尊重されていない。夫は自分に興味関心がない。
・自分が社会から取り残されていく。
・このまま一緒にいると破滅してしまうのではないか。
・夫が近くにいるだけで、ひどく疲れてしまう。
・常に自分が否定されているような感覚を持ってします。自分は夫から肯定されたことがない。すべて指図される。
・自分のやることなすことすべて否定され、馬鹿にされる。
・自分が存在することを歓迎されていないのではないか。
・自分は夫からぞんざいに扱われ、いつも大声で罵倒されている。
こんな感じでしょうか。

こういうことが現実にあったならば、こう思うことももっともなことがあれば、いっしょにいることは拷問みたいなものでしょう。しかし、実際に、こういう感情が、「なるほどもっともだ」と賛成できることはほとんどありません。少なくとも、そう言われても、夫はぴんと来ないだろうなというケースがほとんどです。

なぜ、夫に主な原因が無くても、妻は夫を毛嫌いし、夫はそれを理解できないのでしょうか。
大きくまとめると2つの理由があります。
一つ目は、妻が勝手に不安になっている。自滅している。
二つ目は、夫がやるべき対応をしていない。
ということです。

妻の自滅ということをいうと、おそらく反発があると思います。できれば妻の自滅と夫の不作為ということがセットとして考えていただきたいのですが、説明の便宜のために分けて説明しています。
妻の自滅というのは、夫の行為とはかかわりなく、妻は体調の変化が起きやすく、自働的に病的な不安を感じることがあるということです。これは全ての女性に多かれ少なかれあることで、個性の差は程度の差でしかないということです。
体調の変化とは、妊娠、出産、月経。あるいは妊娠、出産の想定。更年期障害。甲状腺機能異常などの身体疾患。頭部外傷や高次脳機能障害などのけが。不安障害やパニック障害などの疾患。薬の副作用。他者と安心して関わる経験が乏しかったこと。先天的に他者を警戒してしまう要因がある。等々です。たくさんありますし、女性特有というものではない者もあります。
キーワードは不安だと思います。特に出産後に不安が増大するようです。
例えば、手のかかる赤ん坊の世話をしなければならない。自分は、赤ん坊の世話で手いっぱいだ。我が家の将来は夫一人の収入にかかっている。こういう状況の中、貧困妄想(特に理由もなくこのままお金を使い果たして一文無しになってしまうのではないか。けっこう誰にでもあることが以上に強く起きる。)があれば、扶養者が一人増えたのに、夫が子どもが生まれる前と何ら変わらない状態にあれば、このまま金がなくなっていって、預貯金などもなくなっていくのではないかという妄想はエスカレートするだろうことは想像しやすいのではないでしょうか。
高学歴が必要である職業の人や、目に見えて誰かの役に立っている職業を持っていた女性は、特に、このまま自分は社会から取り残されてしまうのではないかという漠然とした不安を持つようです。赤ん坊の世話に一生懸命でも、ふとそんなことを考えてしまうと、自分は社会から尊重されているのだろうかという気持ちになっていくようです。
自分と子どもは社会から取り残されるのではないかという不安ならば子どもと一緒に頑張ろうという気持ちにもなるのでしょうが、不安が病的に強くなると、「自分は子どもも取り上げられてしまって、天涯孤独になるのではないか」という気持ち、感覚になるようです。子どもをとられまいと異常なまでに執着する理由はあるようです。この時に、「それは自分の利益を求めようとすることで、子どもの利益を考えていない」と声高に妻を責めても良い効果が伴わないことはよくお分かりになると思います。
この不安が高まり、持続してしまうと、最も自分を安心させてほしい夫が自分を見捨てるとか、夫が自分を見限るとか、そういう最悪の状態を心配してしまいます。悲観的な思考というものはこういうもので、最悪のことが起きるということを確信してしまうものです。「こうなると嫌だな」と思ったことが、「こうなった」という記憶に置き換わるようです。一番身近な夫から、自分を守ろうという行動がみられてきます。そうする必要もないのに、「自分は悪くない。」というアッピールが始まり、「その証拠に悪いのは夫だ」という感情が自然とわいてくるようです。夫の些細なしぐさや言動が自分を責めているように感じられますから、それらに対してむきになって妻は反論するわけです。「悪いのはあなたよ。」と。
ちなみに、夫に対して逆切れして攻撃する人は、夫の愛情を求めている人が多いです。また、夫からは自分は攻撃されるはずがないという根拠のない自信を持っていることが多いです。
夫は、ヒステリーなどをぶつけられたり、無視を決め込まれたりしますので、不合理な思いをするわけです。しかし、よく考えてみれば、妻だって、そんなことしたくないのに、体調の変化で不安を感じさせられ、不安解消のためにもがいているということが真実です。女性だって不合理を感じて良いのだと思います。それらに気が付かないことは、二人に原因があるのではなく、そのことに気が付かず、研究もせず、明らかにしない社会の問題だと冷静に考えるとそういう結論しか出てこないのです。気が付けと言ったところで無理なのです。
このような各家族が、他の家族と分断されて別々に暮らしているという社会は、日本ではこれまでなかったことです。理屈は別として色々とうまい仕組みがあって、社会が夫婦を育てていたという側面があったのです。少しずつ先人の知恵を私も発掘しています。どうも日本では、昔の社会の悪い側面だけを現代の価値観から批判するばかりで、こういう経験的なメンタルの手当てを見過ごしがちだということを強く感じています。何事も全面的に否定しなければならないことは少なく、全面的に否定してしまうと良い面も無かったことにされるようです。

次に夫の「するべきことをしない」というのはどういうことでしょうか。
妻の自滅に対する対応、フォローです。家族というチームの一人が体調を崩して困っているのだから、仲間がフォローするということは当たり前と言えば当たり前の話なのです。妻が自働的に生まれる不安に困って自分を守るために夫を攻撃しているのに、夫はそれがわからないから、自分が不合理に妻から責められていると思い、夫も自分を守ろうと妻を攻撃してしまうということが起きているわけです。これは多かれ少なかれどのご家庭にもあるのではないでしょうか。どんなに妻を責めても、妻自身がどうにもならないことがあります。どうしても、朝起きられないとか、どうしても掃除や片付けができないとか、どうしても子どもに愛情が感じられないとか、どうしても金銭管理ができないとか、そういうことは妻に責任が無くてもあることです。足を骨折した人が歩けないということを同じことがメンタル的には起きるということでしょうか。夫の方も妻の不安に日常的にさらされていたり、夫自身の問題があったりして、それらの妻のできないことを自分が責められている、自分が馬鹿にされているかのように受け止めてしまうことがあります。特に妻のヒステリーに対してが一番でしょうね。つい自分を守るため、激しく妻に反撃してしまうのです。妻は、自分ができないことをやれと言われて不可能と絶望を感じるわけですし、自分の不安を否定され太と感じ、自分の存在、自分が生きていくことを激しく否定されたと感じているわけです。
このようなオープンな不安の放出ではなく、連れ去り別居が起きる家庭は、妻は不安を内に秘める傾向が多いように感じられます。じっと夫の不作為や反撃を我慢して、静かに夫の評価を積み重ねていくパターンです。離婚事件ともなれば、自分で合理的な関係修復の提案もしないで、一方的にいかにダメな夫かを饒舌に主張してくるパターンです。その多くが、起きてもいないことが起きたという記憶の置き換えにもとづいているようです。これは、その不安が起きたと同時に置き換えが起きているようです。夕方に「こういうことを言うと、夫からだからダメなんだと言われるだろうな」と思っていたことが、その夜の日記では「夫からだからお前はダメなんだ馬鹿と言われた。」と変わっていたことが証拠から明らかになった事案がありました。言われた事実はないけれど夫かそう言われたら嫌だなという気持ちがあったことは間違いないようです。
とにかく妻は、特に出産後、不安と悲観的思考が支配されていますから、今までそれでよかったということが良くなくなっています。自分が夫から尊重されている自信がなくなっているのです。出産前の情緒的な記憶が薄れているようです。「尊重されていた記憶が無い。夫が何を考えているかわからない。自分は否定されているのではないか。馬鹿にされているのではないか。」という思考です。そうだとすれば、家族というチームの仲間は、「大丈夫だよ。大切に思っているよ。」ということを分からせてあげる必要があるのではないでしょうか。
例えばあなたが仕事で上司から、あなたが会社に貢献したことについては一切評価されず、些細なミスをした時だけ、怒りを向けられたり、あざ笑われたりした場合、あるいは同僚の前で否定評価された場合、間違いなくカーっと体温が上がったり、血圧が上がったり、脈拍が早くなると思います。どす黒い気持ちになることでしょう。おそらく妻は体調が悪くなり、夫婦の蜜月の記憶が薄れていますから、あなたが少し煙たい上司に抱いている感情を妻はあなたに抱いていると考えるとよいかもしれません。そんな上司が、あなたにだけ、家族旅行のお土産をくれたり、「あなたがいるからいつも助けれている」と同僚の前で感謝されたり、あなたが失敗したときも笑顔でフォローしてくれたりすればとてもうれしいと思います。家族は職場以上に孤立した環境ですから、妻にとって、花を買ってくる人はあなたしかいませんし、子どもの前で「お母さんは日本一だ」とほめてあげる人もあなたしかいませんし、どうしても起き上がれないときに年休をとって子供たちの面倒を見ながら家事をやるのは夫しかいません。それにもかかわらず、妻へ何の感謝も示さないで自分の趣味の道具にばかりお金をかけたり、子どもの前でだらしないと叱ったり、「家の幼児で会社を休めるわけがないだろう。子どものことは母親なんだから何とかしろ」と怒鳴って、遠いところから妻の両親を応援に来させるようなことがあれば、家族ぐるみで関係が悪化していくことはわかりやすいことだと思います。
どんなに妻を愛していてもいつも良い顔ばかりはできませんが、全くしないということはだめで、2回に1回、3回に1回は夫も無理をする。尊重を形にして示す。これができれば、妻の感覚、感情にだいぶ効果があるようなのです。
「いつもと同じようにしているのだから、自分は悪くない。自分は一貫性がある。」なんてことを言うことが滑稽であるということを理解してください。妻だって、一貫した行動と感情でいたいのですが、体調がそれを許さないだけなのです。夫が悪くないということは言えるかもしれませんが、妻だって悪くない。人間はそんなに理性だけで行動しているわけではありません。でも人間は、生き物なので、どうしても自分を守ろうとしてしまう。自分が攻撃されていると思ってしまう。
ここで思い出していただきたい結婚が決まるまでのあなたの気持ちが二つあります。
一つ目の気持ちは、当時は、例えば野良犬が、二人を襲ってきたら、あなたは身を挺して将来の妻を守ろうという気持ちがあったはずです。妻から自分を守ろうとしていることに気が付いて、二人の仲を引き裂こうとする野良犬という体調変化から、自分を犠牲にして二人を守るということです。二人を守るのは二人しかいません。「自分が悪くないから相手が悪い。」という論理は、「相手が一人で自分たち二人を守るべきだ」という子どもじみた考えだとお気づきになったことだと思います。夫婦はお互いに、相手の親ではない、しかも自分が子どもの時の「絶対的親」ではありません。もう一つの気持ちは、結婚が決まる前は、相手の気持ちを獲得するために相手を観察して、分析して、自分なりに行動したということです。相手の自分に対する対応に一喜一憂したその気持ちです。相手が変な反応をしたとしても、妻から攻撃があったと感じた場合は、「先ず反撃」するのではなく、「先ず悲しむ」ということが正解だということになります。そしてあまり気にしないで、時間が経過したら別の話題を振ってみる。これで解決することも多いかもしれません。そして、感謝の行動と、感謝の言葉、そしてできないことに対するフォローです。これを3回のチャンスのうち1回は実行するということですね。
3回に1回でも男には難しいという事情があると思います。私だけかもしれませんが、より男の方に事情があります。正義感、社会常識、論理、合理性、もしかしたら「子どもの利益」なんて言うのも含まれるかもしれません。こっちが悪くないのだから攻撃するな。このごみをゴミ箱に入れることやこの本をひもでくくって捨てることやいらない物を買ってこないことをするのは常識だろう、こんなことで大騒ぎしたら、近所から変な目で見られるだろう。自分があの時ああしなかったくせに、こっちがしないときだけ怒鳴るな。多少体がきつくても子どものために頑張れないのでは母親ではないだろう。こんな感じでしょうかね。誰でも覚えがあると思いますよ。
よく、連れ去り妻を批判しますよね。「自分のために子どもを巻き込んで子どもの不利益を顧みない」という具合です。自分に原因がないと思うから相手に100%の責任を感じるのは、仕方が無かったことかもしれません。しかし、もし、夫が妻の体調変化に気が付いて対応を変えて、妻が自分は尊重されているんだと感じる機会がもう少しあったならばと思います。夫が悪いわけではないかもしれません。でも妻が悪いわけでもなかったかもしれないし、夫が別の行動をすれば事情が変わったかもしれないということを、今の日本全体で考える必要があると思います。
女性の方も、安易に夫ばかりを責めることをしない方が良いと思います。夫が自分の不安や恐怖の原因だと決め打ちしてしまうと、離婚ができても、夫が生きている限り不安や恐怖が消えないことがあります。ご自分の体調変化に気が付くということは、特にメンタル的変化については絶望的に難しいことです。でも予備的な知識があれば、必要以上に苦しむ前に、解決方法が見える場合もあると思います。


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共同親権制度が生まれることで何か子どものために効果があるとすれば何か 家族分断法体系は温存されるのか [家事]


まもなく日本も、離婚後も共同親権とする制度が生まれます。
この法制度化に、私は多くの労力を使おうとしていません。

理由は
①外圧による国際水準化なので、共同親権制度はどうしても生まれる
②過剰な期待をすることは大変危険である。
③法律や司法によって子どもの幸せを図ろうとすることは間違い
ということになります。

①先ず、国際水準化ということですが、離婚後親であるにもかかわらず、子どもに対する権利がなくなってしまうというのは、国際的にみて産業貿易が普通に行われている国では日本くらいだということです。特に欧米は、日本人の子どもの連れ去りを犯罪視していて、根本原因が日本の法制度が、離婚によって一方の親の親権をはく奪する単独親権制度にあると見抜いていますから、共同親権制度にしろという圧力がとても強いのです。親権制度は内政干渉にはならず、子どもの人権問題だという正当な理由がありますから、外圧はやむを得ません。日本は、EUの会議等では、北朝鮮と同じ拉致を容認する国だという扱いになっていますので、親が離婚したからと言って子どもとの関係に変化が起きるという法制度を変更することになるでしょう。

②それに対して、子どもを連れ去られた親御さんたちが、共同親権制度に過剰な期待をしていることが心配されます。共同親権制度になれば、子どもの連れ去りがなくなるとか、子どもと面会できるようになるとか、そのようなことを考えていれば、それは間違いだとはっきり言えるでしょう。なぜならば、現実に夫婦が離婚前であれば、現代日本も共同親権です。共同親権の中で連れ去りは起き、子どものもう一方の親への面会は同居親によって阻まれています。別居親は、自分に責任が無くても監護権が裁判所によって奪われ、どこに子どもがいるかもわからない状態が多発しているではありませんか。

③そもそも、連れ去りや面会妨害は、両親の不仲によって発生します。どちらか一方に主たる原因があることが多いのですが、どちらか一方だけに原因があることも少ないように感じます。そして、同居親は、様々な事情で(別居親に主たる原因が無くても)、別居親を嫌悪し、恐怖を覚え、子どもと別居親が交流することを嫌がっています。このような状況を直視し、現実を改善する手立てを講じないまま、法律や裁判で制度を変えたところで、親子の効果的な交流や連れ去り防止ということは変わらないということにこそ、気が付かなければなりません。連れ去りや面会拒否は、親権制度の問題というよりも、感情の問題だと私は思っています。この感情問題を少しでも解決することによって、子どもにとって有効な交流や連れ去り予防を講じていくことこそ本論だと思っています。
 親子というものは、国がどういおうと法律がどう変わろうと、親子なのです。家族で解決することが最も妥当な解決を図りうると考えています。法律をどうのこうのとするよりも、家族が幸せに暮らす工夫の知識、人的物的支援の充実で解決するべきだと私は考えています。

このように共同親権制度に水を差す議論を始めたかというと、理由があるのです。私の考えは正しいと思うのですが、それでは、なぜ、ヒステリックに共同親権反対を叫ぶ人たちがいるのかということに着目したからです。法律家や学者といった、論理を大切にしなければならない人たちまでもなりふり構わずに、感情論で離婚後の共同親権制度に反対しています。加熱するののしりの外から見れば、大変気の毒な議論に終始しているとしか見えないのです。そして、その論拠が見えない。ここを、つまり、彼ら、彼女らが本当は言いたいけれど言えない反対する理由があるのではないかということが着目されるべきなのでしょう。

共同親権反対者の先生方は、連れ去りや面会交流拒否を支持しているようです。このことの是非については今日は議論しません。大事なことはどうやら、離婚後の共同親権制度ができると、連れ去りや面会交流拒否ができにくくなると考えているようです。もしかしたら高名な学者や法律家の先生方の危惧は正しいのかもしれません。検討してみましょう。

連れ去りをする親、高名な先生方が擁護するのは女性限定なので、妻と置き換えて論じます。連れ去りをする妻たちは、本気で夫を嫌っています。但し、離婚事件の中では、いわゆる日本ではレノアウォーカーが有名ですが「配偶者加害」として国際的に論じられているような暴力があるケースは稀ですし、マリーフランスイルゴイエンヌが「モラルハラスメント」で取り上げた自己愛型パーソナリティー障害の疑いのあるようなモラハラも日本の離婚事件ではほとんどありません。通常の市井の夫婦の問題がある事例がほとんどだということは指摘しておきます。ただ、夫の方は、妻の精神的異変に気が付かず、例えば子どもが生まれる前と後と、妻への対応を変えておらず、それがために自分の行動を修正するべきだったということに気が付きません。そのため、妻が一方的に自分に卑劣な仕打ちをする、あるいは弁護士や行政が妻をそそのかしたという把握の仕方をします。このため、さらに絶望が深くなり、精神的ダメージも大きくなるという悲劇を起こしてしまいます。深入りするときりがありませんね。

高名な先生方はこのような事情を知りません。ウォーカーやイルゴイエンヌ等の書籍を結論だけ輸入した講学上の知識で、妻が苦しんでいるのは、夫が悪い、女性は攻撃を受ける被害者で、被害者を攻撃をするのは男性という加害者だという単純な二者択一的思考をされますので、直ちに苦しんでいる妻を加害者である夫から解放しようという使命感に燃えられるようです。彼らにとっては正義感なのでしょう。正義感が人を盲目にして、考えなければならない本当の利益、ここでは子どもの利益を考慮できなくなるという典型例ですね。

どうやって妻を解放するか(家族分断の法・実務体系)。
とにかく夫から逃げる。夫を妻に近づけさせないようにする。女性が子育てをするべきだというジェンダーバイアスがかかった考えがあるので、女性は子どもを連れて逃げなければならないという流れになります。
行政や警察は妻を隠し、住民票を非開示にして、夫が探し出して近づこうものなら、保護命令やストーカー規制で妨害する。裁判所も、子どもは女性が育てるべきだというジェンダーバイアスと、女性は家で子育てをするべきだという時代錯誤的な感覚がありますし、言った当の本人(ボールビー)が否定している、人間は最初に一人(母親)とだけ愛着を形成するという理論を未だに修正しない継続性の原則を金科玉条としています。連れ去りさえすれば子どもを手元に置くことができる法体系になっているわけです。これには例外があります。夫が子どもを連れ去ったケースに限って、裁判所は原則論に立ち返ります。妻に子どもを戻せという決定がいくつか出ています。また、最初に子どもが生活し、友人たちも親戚もいるという環境から分離して、未知の生活を押し付けても誘拐罪は適用されません。逆に父親が元居た場所に子どもを戻すと誘拐罪で逮捕されます。極めて男女不平等というか、恣意的な運用がなされています。
さて、逃げ続けるという単純な作戦なのですが、これは逃げろ逃げろという人たちにとってはそれほど負担はないかもしれません。ものを考えないで済みますね。しかし逃げている妻本人は大変精神的負担がかかります。怖いから、嫌だから逃げていたはずなのですが、次第に逃げているから怖いという感情がわいてくるようです。いつ夫が自分のところに来るかという余計な心配が増えるからです。これは10年たっても消えないケースもありました。それはそうです。元々、理由なく不安を感じていただけの精神的に影響がある疾患を患っていた人が、不安には理由があるということを断定されたため、理由が存在する限り不安を抱かせられるよう呪いをかけられたようなものだからです。
このため、逃げることは長続きすることが難しいのです。逃げたゴールが必要なのです。それが、離婚です。日本の家族法は、法律の体裁をよそに、離婚したければ離婚ができるように裁判例の変更がありました。但し、夫からの離婚だけは、離婚したいから離婚できるわけではないという判例があります。妻からの離婚は、離婚意思が固いとして婚姻破綻があるとして認められる傾向にあります。もちろん子どもの親権は連れ去った同居親たる妻にあり、単独親権制度の下では夫の親権は奪われる。そうすると、あとは強制力のない面会交流の決定は無視して、強制執行できる養育費だけは受け取って、夫とは顔も観ず、声も聞かず、メールも受け取らない、全くの別人になれる。
単独親権制度は、このように家族分断の法律と実務の体系の最終目標となっていたということだったのです。
だから、なりふり構わず離婚後の共同親権制度に反対しているのかもしれません。

この考えが正しいとしたならば、共同親権制度は止められないとするならば、彼らは換骨奪胎を狙ってくるでしょう。逃げるゴールを温存させようとするわけです。これが、選択的共同親権制度というものですが、名前を変えてくると思います。原理はこうです。原則共同親権だが、当事者が同意しなければ単独親権となるというものです。つまり、連れ去りをするような妻は自分のケースでは共同親権には同意しないでしょうから、これまで通りの単独親権になるという「落ち」です。
ゴールがある以上、連れ去りは起こるでしょうし、面会交流拒否は継続されるでしょう。共同親権推進グループの中で政治家が選択的共同親権を創設すると演説していましたが、ブーイングは起きなかったようです。現在の実質的単独親権制度である選択的共同親権をもくろんでいる勢力があるわけです。これで単独親権制度に批判的な諸外国を言葉で交わそうとしているわけです。共同親権という言葉に惑わされて、その内容を吟味しないで、一歩前進なんてごまかされて、実質的に選択的共同親権制度を応援してしまうことが起こりうることを示していると私は思います。

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児相の保護という隔離の後に、直ちに親子再生の働きかけを行う切実な必要性 [家事]

痛ましい児童虐待の事件が報道されると
二者択一的な論調は、
実力による保護を訴え、警察権力の導入などを声高に叫びます。

しかし、私のように保護期間終了後の方々に関わる者からすれば、
問題は保護という名の家族の隔離をした後のことが
当該児童にとっては何よりも大切なことなのに、
それが十分行われていないということを常々感じます。
そのことを議論しないで
隔離だけを優先するということはあまりにも
児童のその後の人生において無責任だと思っています。

結論から言えば
家族を一時的に分断した直後から
方法を工夫しながら面会などの交流を開始しなければならない
ということです。

肝心なことは、
保護や施設入所は高校を卒業するまでなのです。
それまでは、施設所長の名前などで
保護者の代わりを書類上は行っているのですが、
進学や就職に関しては
保護者の関与が必要であることがほとんどです。

また、住居一つとっても
児童養護施設を出ていかなければならないのに
住む場所もないわけです。
生活費も何か保証されているものでもありません。
極端に言えば、社会に放り出されているのです。

家庭に戻れれば良いのですが
児童は家庭に戻れないことがあります。

一番の原因は、
自分が家族に受け入れるという自信が持てないからで、
その原因は長期に生活を別にしていることです。
家族だからと言って、長期間別々に住んでいながら
さあ、出てきたから一緒に暮らしましょうということは
時間の経過ということが原因となってできないみたいです。

例をあげます。
施設を卒業して
住み込みでの仕事をしていた方の自死の介入に関与したことがあります。
まるで、愛着傷害の子どものように、
自分を尊重してくれる人間に対してはべったりとした関係になるけれど
普通にルールを厳守するよう指示をしただけの人も毛嫌いして
自分が排除されているのではないかというような
精神的ダメージを受けてしまっていたようでした。
その結果、
リストカットがどんどん増えて、また深くなっていき、
緊急で入院して一命をとりとめたという事案もありました。

幸いなことも多く
入院費用も、いろいろな協力を得て社会保障の制度内で支払うことができ、
その後も多くの人の好意で働くまでに回復したのですが、
どうしても人間関係がうまくいかず
その後の連絡は来なくなってしまいました。

そういう場合でも
家族の元に戻ろうとはしませんでした。

このケースでも形式的な家族の再統合は試みられたようです。
しかし、再び家族として生活をするということまではできず、
この現代日本の中で子どもは孤立してしまいました。

自分に自信を持てないために人の顔色を窺っていました。
それは生きづらさを感じるでしょう。
自分が相手から受け入れるかどうかは、初めから決められていることではなく、
自分の相手に対する働きかけによってもだいぶ変わってくる
ということを学ばないで社会に出されたということなのだろうと思います。

別のお子さんも
元々は仲の良い親子でした。
どうして保護分離がなされたのか納得のゆかない事案です。
私から見ると
そのお子さんは、
親とうまくいかなかった出来事を記憶の中から穿り出して
敢えてうまくいくはずがないという結論を出しているような
そんな印象を受けることばかり言っていました。

単に自信がないのです。

これまで何年も親子を分断して
誰からも保護されなくなるからさあ保護しろと
親に言っても、親も反発するでしょうが、
もっと深刻なことは子どもが親に関わる自信がなく
親に会うことすらおっくうになっているということです。

色々な事例で個別的な理由があるとは思いますが、
一番は会わない期間が長すぎるということです。
家族分離をさせたこと自体で
小さい子供は自分が悪いから孤独になっているのだと思いますし、
少し年齢が上がれば
自分が当たり前だと思っていた日常が
実は親が自分を虐待していた日常だった
自分の記憶に反して、自分はひどい目にあっていたのだ
という意識が蓄積されていきます。

それでは、日本の制度では、子どもいつまでたっても孤立していくのです。

今子どもが虐待死しなければ良い、
本当は理由がなく不合理に苦しむ人たちが出ても
一人の子どもの命を救えればそれでいいやという思想ならば
現在の制度でよいかもしれません。

養護施設卒業後は、また別の問題だというのかもしれません。
それなら早くその別の問題を解決してもらいたいです。
実際は少なくない子どもが18歳で社会に放り出されているのです。

どうしても今の保護制度、今の日本社会では
最終的には親の力が必要になります。
それが現実なのに、当然訪れるはずのこの出口に向かっての活動が
極めて不十分だと思う事例が多いのです。

その一番の問題は
親子の絶対的な分断の時間が長すぎるということです。

分断を始めたら
できるだけ早期に
親子面会が実施されなければなりません。
様々な工夫が必要ですが、
このまま18歳まで一緒に暮らせないという絶望を抱かせないことが
スムーズな面会実施のポイントになると思います。

また、ファミリーソーシャルワークの専門家も同席し
各家庭の課題ないし改善目標を明確にすることも必要でしょう。
それを上から押し付けるのではなく、
一緒に考えていくことが必要だと思います。

そのためにも長期の分離という絶望的な事態は
くれぐれも必要最小限度の範囲にとどめるべきです。
希望を持てること、希望への道筋をはっきりすること
そしてそれに向けて応援されているという実感を持ってもらうこと
これが大切だと思います。
そのためにはあらゆる工夫をして、直接の家族交流が
定期的かつ必要な時に随時行われる必要があると思います。

大切なことは警察と権力の増強ではなく、
一緒に考えるスタッフの増員のはずです。

分離後も子どもの人生が続くというリアルを
どうか考えていただきたいと思います。
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