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笑顔をもっと、もっと 相手の背中に笑顔を向け続けるということ 家族再生編 [家事]



人見知りの子どもと仲よくする方法で笑顔の力を感じたことがありました。
親戚が遠方から私の実家に遊びに来て、3歳くらいだったかな、子どもを連れてきたことがありました。その子は私の恩人で、その子が生まれたときに自分も子どもが欲しくなって結婚を真面目に考えることができたというキーマンでした。

2年ぶりの再会ということでしたが、そのくらいの年代の子どもがどういうものかわからなかったので、なんとなく遠巻きに見ていました。案の定、こちらを怖がって気にしているようでした。

やることもなく暇だったので、テレビでやっていた音楽番組に会わせて、おもちゃを入れるような大きさの缶をドラム代わり叩くということをやっていました。うるさがられるかなと思い、ちらっとその子をみたら、こちらを見ていました。でも嫌そうではないのです。関心を持ってもらって少し楽しくなって、ニコニコと調子に乗って缶ドラムをたたき始めました。なんと、その子もニコニコと近寄ってきて、一緒に叩き始めました。あとは顔を合わせてもニコニコ笑顔の応酬でした。帰りしな、その子の方から私に手をつないできた様子を見ていたその子の両親の驚く顔はとても印象的でした。

明和政子先生の岩波ジュニア新書「まねが育む人の心」にも、実験結果で同じような結論が報告されています。つまり、子どもは、大人が楽しんでいることを理解でき、一緒に楽しもうとするようなのです。同時に、困っていれば助けようとすることも報告されています。これは子どもだけでなく本来は人間の本能ではないでしょうか。

だから一緒に住む家族だからこそ、一緒にいるときは笑顔で楽しそうにしていることが、家族円満の秘訣で間違いないと思います。

ところが、現代社会は、家族が一緒にいるという条件がなかなか整いません。長時間労働ということもあって、物理的に一緒にいないということもあります。また家に帰っても、スマホやパソコンで一人でゲームやユーチューブやネットサーフィンをする誘惑が転がっているようです。泣いている子どもを放っておいてスマホを見ているという訴えがずいぶん増えて、「ああまたか。」と思ってしまう状態です。

家族のいる中でスマホをいじってしまうことは、自分でも覚えがあります。

一度注意されても、注意した方がそれをやっていれば、「だったらこちらもやる」みたいな感じで、俯瞰してみれば、どんどん家族が離れていく方向での行動になっているようです。対抗心があるばっかりに家族が離れて行ってしまうのは、なんとももったいない話です。

対抗心を捨て去るのはなかなか難しいようです。
私の仕事ではよくあるシチュエーションなのですが、久しぶりに顔を合わせる家族に、こちらも緊張してしまい、こわばった表情をしていることに遭遇します。ご自分ではなかなか気が付かないようです。あちらも緊張していてこわばっていますから、それを見た方もますますこわばっていくことになるのは自然のことかもしれません。これでは家族再生の入り口に立てません。

対抗心を捨てることができさえすれば、相手がどういう気持ちであろうと、こちらが笑顔を作って相手に見せるということができるのではないでしょうか。それでも相手が攻撃をしてくるとしても、笑顔を見せたという実績は、相手に安心感を与えています。笑顔を見せないよりはよほど前進するはずだと思います。

但し、効果がすぐに表れないだけだと考えるべきでしょう。

前に著名なカウンセラーの方から教わった話として、反抗期の子どもが親を拒否して、こちらを見もしない時でも、背中でもよいから語り掛けるのをやめないことが肝心だと言われました。語り掛けるのをやめてしまったら、そこで親子の仲が終わるかもしれない。でも語り掛け続けていたら、そのことを子どもは記憶し、将来、親を親として感じるようになりやすいというのです。

親子の場合もそうですし、夫婦の場合も基本は同じだと思います。

楽しい人間関係を作るためには、対抗心を捨てて、先ずこちらが楽しそうにして見せる、そういう作業を意識的に行うということが肝心なのだと思います。相手があなたの笑顔を拒否して向こうを向いても、相手の背中に笑顔を向け続けることが家族再生にとって必要な作業なのかもしれません。

逆にいつも一緒にいるときはいつも笑顔というわけにはいかないかもしれません。だから、たまに会う場合は、その時間が勝負ですから、全力で笑顔を作り楽しそうにして見せる、対抗心を忘れるということが肝心なのかもしれません。

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笑顔をもっと、もっと 大変きつい話で恐縮ですが 面会交流編 [家事]



いわゆる連れ去り別居(多くは妻が子どもと一緒にある日突然家から出ていき、帰ってこなくなるケースで、居場所がわからなくなったり、連絡が取れなくなったりすることも多い)があった場合のはなしです。

こういう場合に、子どもの健全な成長をダメにしないように、子どもと家に一人残された別居親との面会を実現させるのが最近の私の大きな仕事です。

何せ、早くて数カ月ぶり、遅ければ1,2年ぶりの再会になる事案です。子どもの年齢によっては、久しぶりに別居親と会うわけですから、どう接してよいか分からないのです。なかには、母親から因果を含められていたり、悪口を吹き込まれていたりして、面会をしたくないというお子さんも多くいます。

しかし、そういう風に拒否をすると、自分のせいで父親が孤立しているという意識が無自覚に起こってきて、後で苦しむのです。そういう痛ましい場面を黒子の立場からよく見ています。私は、その方が子どもが確実に別居親と会えるので、連れ去り親の代理人も積極的に行っています。

母親が子どもを連れ去るケースでは、母親から因果を含まれなくても、母親を忖度して父親を攻撃する場合もあります。母親が苦しんでいる、憎んでいるという姿を目の当たりにし続けている子どもは、近くにいる方の親をかばいたくなるのが人間の本能です。一緒に暮らしていない父親を攻撃するのは、父親を憎んでいるのではなく、母親を守るという意識なのだということは分かりやすいことです。

それでも父親の悪口を言わない母親も少なくありません。面会の時に一緒に暮らしていたころのようにすぐに打ち解ける姿を見ると、立派なお母さんだなと感心することも結構あるのです。

しかし、結構な頻度で、面会の時に別居親に拒否的な態度をとるお子さんも多く見られます。同居親のところに戻りたいと言ったり、話をしたくないと言ったり、別居親を攻撃するということもあります。

事前にどんなに私がレクチャーしていても、別居親は、同居中仲良くしていた普通の親子だったのに、自分の子から拒否されると、グサッと胸をえぐられたような衝撃を受けるようです。当たり前のことです。

でも、少なくとも面会を定期的に続けていって、子どもが健全な成長ができなくならないようにするために、ここはへその下に力を入れなければなりません。一番できないことをやらなくてはならないのです。

それが笑顔です。

子どもが自分の悪口を面と向かって言っても、敵意むき出しの目をしてみていても、「うんうん、そうだね。パパが悪いよね。」と笑顔で返すことが、今後に向けての一番の特効薬なのです。

むしろ、言葉を尽くして、自分は子どもを愛している、何があってもあなたの味方だということを告げるよりも、子どもの攻撃を即座に許すことを一瞬で告げる方法が笑顔であり、それで子どもは救われるし、別居親が自分の親であり、仲間なのだということを強烈に印象付けられるのです。

特に小さいお子さんは、わけもわからずに親を攻撃していますから、真に受けるべきではないのです。それでもやはりショックであることはよくわかります。

面会の期待に胸を膨らませてきたら、子どもから拒否のカウンター攻撃を受けるのですからたまったものではありません。本人は顔に出さないように努力されていることはわかるのですが、目が笑っていません。

そもそも、面会が始まる時、親の方が緊張してしまっていますから、そんな親の表情を見て子どもも「叱られるのかな」という気持ちになっているのかもしれません。そもそももう一人の親から引き離された子どもは、自分が親と住んでいないことに罪悪感を覚えているようなのです。

そういえば、家庭裁判所の中で行われた試行面会で劇的に成功した事案は、私がいつも言っているように「昨日も会ったように、明日も会うように、軽く、笑顔で同居中と同じ態度をこちらが作る」ggggggdさということを徹底した事案でした。最初が良かったです。いつものように笑顔で部屋に入ってきた父親を見たときに、子どもの笑顔がパアーっと広がった様子は圧巻でした。この面会から家庭裁判所の様子はガラッと変わり、別居親の立場から同居親を粘り強く説得するようになったものです。笑顔の力でした。

子ども悪口や、拒否の態度を楽しむように、ネタにして笑いに変えられるようにすることがベストです。

特に小さい子どもは、拒否したり攻撃しながらも、別居親にあえて安心している様子がわかります。端的に言えば、怖がっていなければ大成功なのです。

後は笑顔です。子どもは楽しんでいる人に近づいて一緒に楽しもうとします。あなたが、自分(子ども)と会って嬉しそうにしていれば、自然と近づいてきます。楽しそうにしていなければ、罪悪感や、同居親を守る意識や、そういう余計な感情に支配されて行きます。笑顔と、はしゃぐ様子を子どもに見せることが、面会交流の大成功の秘訣です。

しかしそれが難しいのも事実です。笑顔の鉄仮面を作るということなのかもしれません。

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妻からの激しい暴力の案件が多発。それでも妻は夫のDVを主張する。この基本的構造はずいぶん前から繰り返されている。 [家事]



最近の離婚事件の特徴は、妻が夫に過激な暴力をふるっていたということです。また、夫がそれを制止するとDVだと言って、子連れ別居をしてしまうという流れです。

最近DV法の影響もあるのか、夫婦間暴力が可視化されるようになってきました。警察が介入することで妻の暴力が公文書に残されることが増えてきました。その他でも動画で撮影されていたり、夫に傷口が生々しく残っていたり、物が破壊されている画像だったりとかなりリアルに妻の暴力の様子が残されています。

最近の夫婦間暴力事件で傷跡が残るのは通常夫の方です。かまれて血が流れている腕の写真とか、首を絞められた跡が数か月を経ても残っていたりとか、間違ったら死んでしまう危険がある暴力は、現在では通常妻が夫に対して行うことが多いです。sd夫が妻の暴力に対して対抗して殴り合いになるなどということは通常起きません。夫が妻に手を出す場合は、大部分は妻の暴力に耐えて、これ以上は危険だという時に妻を壁や床に押し付けて制止するということにとどまっています。

夫には、相手が自分の家族だという意識があるために、相手を傷つけることができないという意識があり、このため積極的な暴行をふるうということができないようです。容赦ない攻撃をすることが心理的にできないということなのでしょう。

それにしても、妻側は、どうして夫からの反撃を想定しないで何のためらいもなく全力で攻撃をすることができるのでしょう。どんなに運動神経が良い妻でも、さすがに力対力になれば夫に適わないでしょうし、良い勝負になったところで肉体的なダメージを受けると思います。むしろ男同士ならば、感情的になったとしてもそのような攻撃をすることは日常の中ではほぼありません。

妻が脱抑制で夫に暴力をふるうことの考えられる理由
1 夫が自分に危害を加えないことを信じきっている。
2 そこまで考えられないくらい感情的になっている。

1と2が両方あるケースが多いように感じられます。見ず知らずの通りがかりの人間に対して暴言や暴力を行うのではなく、自分と夫婦の間柄にある夫だから容赦のない攻撃が加わっているのではないでしょうか。最近いくつかのケースを見ていますが、主たる原因は夫の個性ではなく、妻の心身の状態と夫婦という関係性の中で脱抑制暴力は行われるようです。

それにしてもどうして突如感情的になるのでしょう。ここがよくわかりません。
裁判所で妻は、自分が感情的になって夫に傷跡が残るような暴力をふるっているということを主張しないからです。

これまでの事件では、このような妻の脱抑制的な暴力はあまり担当したことがありませんでした。しかし、妻の奇妙で危険な行動を夫が静止したところ、DVだとされて、離婚や保護命令が申し立てられたケースは前々からありました。

突然豹変してトランス状態というか何かにとりつかれたように行動する点は共通しています。現在多いのは暴力をふるうということですが、一昔前によくあったのは突如家からの飛び出そうとしてしまうことです。二階の部屋の窓から飛び出そうとするならまだ良いですが、高層階のマンションのベランダから飛び出そうとする行動(インフルエンザの時にあるような飛び出し衝動)がおおかったです。尋常ではない目つきで突然行動に出るので、危険を感じた夫が転ばせて床に倒して制止させたり、壁に押し付けたりして制止するわけです。そうして体の自由が利かなくなったときに、はっと我に返るようです。記憶は制止されているところから始まりますので、夫から暴力をうけたという主張になるのです。その前段階の出来事は何ら主張されません。このような裁判で行われたことは数件経験があります。

どうやら本気で発作が起きている時の記憶は無いようです。

それでも妻は子どもを連れて突然出ていき、行方をくらまします。妻の弁護士はジェンダーバイアスによって、妻が夫に暴力を振るうなどということは考えもしません。男である夫が暴力をふるうのだということに決めつけて主張します。暴力の証拠を上げても、今度は確証バイアスで証拠の意味の認識を受け付けようとしないようです。こういうケースは保護命令を申し立てることもあるのですが、客観的にものを見ている裁判所は、淡々と取り下げるよう示唆することが多くなってきています。

それでも離婚したいのは妻の側で、離婚したくなくて、子どもと暮らしたいのは夫ということになります。

どうして夫はそれでもそのような凶暴な妻と一緒に暮らしたいのでしょうか。
「子どもと一緒に暮らしたい。」。「子どもが心配だ。」ということが先ずあることはもちろんです。

もちろん中には、もうこりごりだ。子どもには悪いけれど離婚したいという夫もいるとは思います。でも、それほど凶暴な妻を嫌がっていない夫が多いようです。

その理由は、四六時中そのような凶暴な状態でいるわけではなく、時々そういう状態になるということをよくわかっているようです。そうして、それ以外には良きパートナーであり、一緒に行動することがとても楽しいという経験があるからだそうです。

それだけ狂暴になって(本当に動画とか傷跡とか見るだけでこちらはビビります。下手なホラーよりよほど怖い。)しまうと、本人はとてもバツが悪いということはよくわかります。でも、そんなことで夫の妻に対する評価は変わらないようです。ふてぶてしく自信を持っていればよいようなのです。

昨日のブログの最後でも述べましたが、このような暴力をふるう妻は出産前にはこのような脱抑制状態になったことは無いようです。また、下のお子さんが就学前という共通点もあります。

出産後のホルモンバランスの変化が影響しているように思われますが、どうなんでしょうか。


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「どうして怒るかわからないので、いつも夫の顔色を窺っていてストレスがたまっていた。」と言うけれど、バイアスを取り去ると、そのくらいは気を付けるのが当たり前だと思えてくることが多い件 [家事]



離婚事件で、離婚理由として、「夫が突然大声で怒りだす。どうして怒るかわからないので、いつも夫の顔色を窺って過ごし、怒らないように細心の注意を払って生活していて、もう疲れた。」ということが言われることが本当に多いです。

確かに、中には会社などでのストレスを家族に八つ当たりする夫(妻)もいて、怒る方が一方的に問題があるというか、怒りの対象となる方には責任が無い場合もあることも間違いありません。

しかし、特に最近の傾向、特に子どもを産んで数年未満の若い夫婦の場合、怒りの対象となる方にもかなりの責任があるのではないかと思われるケースが増えているように感じます。

それでも、「いつも夫の顔色を窺っておびえて過ごしていた。」というような話を聞くと、どうしてもそれを聞く第三者、例えば調停委員は、「怖い思いをして辛い日々だったのだなあ。お気の毒だったなあ。早く解放してあげたい。」とついそういう発想の流れになってしまうものです。この発想の流れは、女性が怒られる方であればなおさらです。実態がどうだったのかを見ようとしないで、女性はか弱いものというジェンダーバイアスに引きずられた発想の流れだと思います。

最近は、「親しき中にも礼儀あり」という言葉が機能しなくなっていて、「言ってはならないこと」をずけずけと何の躊躇もなく、ささいなことをきっかけに言っているということが多いのです。

典型的な発言は、相手の親の悪口です。これをためらいなく、むしろ気の利いたことを言っているような言い回しで言っている若者が本当に多くなりました。

あとは、本人に言っても仕方が無いことを悪口のタネにするということです。背が高いとか低いとか等の身体的特徴や、収入が低いとか、本人のコンプレックスに感じていることをドストライクで指摘しています。

その言葉によって相手の尊厳を傷つけることをずけずけと言っているケースが実に増えていました。尊厳が傷つけられれば、逃避傾向にならなければ、怒りが出てきやすいのは自然な流れです。

もう一つの類型の発言として、自分たちの子どもの悪口や、子どもに対する攻撃的言動があると、相手はそれに対してつい感情的になるというパターンも多いように感じられます。仲間である我が子を守ろうとする余り、仲間であるはずの夫婦の一方を敵視してしまうような感情が芽生えるわけです。子どもに対して優しい気持ちであればあるほど、怒りは強くなってしまいます。

「相手の顔色を窺っていた」なんてことを言いますが、言えば相手が怒って当然だと思われる言動をしているわけです。「顔色は窺っていたけれど怒らせないようにすることはしていなかった。」とでもいうことなのでしょうか。「どのタイミングで怒るかわからない。」というけれど、「わからない方が悪い」のではないかと思えてきてしまいます。そういう暴言に対しては、通常の抗議の範囲であれば、多少熱が入っていても社会通念上許容されるべきことで、およそ離婚理由にはならないはずです。


但し、妻の場合は、妻の精神状態が平穏である場合の話です。


例外があります。それが産後うつというか、産後2年程度の時期という特殊な時期の場合です。

産後うつの特徴として、実例を多く見ている立場からすると、「うつ」という言葉は実態を表していないと感じる場合が多くあります。不安という感情を基盤としていることはそうだとしても、それが怒りやすさにつながっていたり、些細なことに敏感に反応してしまうということも産後うつの症状の一つです(MDSプロフェッショナル版)。ところが、なぜか日本の産後うつの解説は、抑うつや悲しみ、漠然とした不安等ことしか説明がされない傾向にあります。このため、怒りが激しくなることも産後うつの症状であるということが理解されにくくなっているようです。

また、私からみると、産後うつの他の特徴として、露悪的な言動をすること、あえて不道徳、違法な行為をするような言動をすること、刹那的な判断、安易な決断などがよく見られます。十分に考えてからの行動ができなくなり、感情的に行動をしてしまい、自己抑制をしようとする発想自体が減退するということがみられます。

この場合は、妻の人格に基づいた発言ではなく、何かの不安や苦しみから解放されようとしている発言だと切り替える必要がありそうです。口から出た言葉は引っ込めることができませんが、本意ではないと割り切って考える必要がありそうです。これもまた難しい作業になります。

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何回話しても伝わらないもっとくだらない理由 家庭編 言葉の二つの源流 Inspired by 今井むつみ先生 「何回説明しても伝わらないはなぜ起こるのか?」(日経BP) [家事]

何回話しても伝わらないもっとくだらない理由 家庭編 言葉の二つの源流
Inspired by 今井むつみ先生 「何回説明しても伝わらないはなぜ起こるのか?」(日経BP)

本の紹介は職場編で行うとして、今回は早速本題に入りましょう。
夫婦間や親子間あるいは兄弟間で、例えばお願い事をしても、相手はその場では承諾しても結局やっていなかったとか、例えばレジャーの行く先を相談しているのにこちらの意見が無視されているように話が進んでいくということをご経験したことがあると思います。

離婚事件で多いのは、多くは妻側から「夫は話を聞いてくれない」という不満が主張されます。しかし、その中の多くは、夫は例えば妻の職場での相談事に時間をかけてのっており、どのように妻が苦しんでいるのか、どうやったら解決するのかということを考えながら熱心に聞いており、そしてかなり適切なアドバイスをしているのです。それでも話を聞いてくれないというのが妻の受け止めだったのです。

原因を考えていきます。

1 あなたの意見は関係ないので持ち込まないでください。
  本題ではないのですが、これが一番多いと思います。相手の求めているのは、よりよい結果を導くために、お互いが情報や意見を出し合って結論を作り出そうとしているのではないということです。自分の意見に賛同してもらうことだけを求めて会話をしているということです。あなたの意見は初めから聞く体制に入っていないわけです。だから、いくら意味のある音声を発して、その音声が相手に届いても、言葉の意味は相手の頭の中に届いていません。恐ろしいことに悪気はなく、ただ、頭に入ってこないだけなのです。結果として、客観的には無視しているわけですが、無視しているという意識はありません。
 あなたが反対意見、あるいは修正意見を出していても、穏やかに発言しているうちは、二人でレジャーの会話を楽しんでいるという意識なのです。あなたが、例えば旅行で立ち寄り先を追加してほしい場合は、「その方が有意義だ。」「その方が合理的だ。」という表現ではなく、自分の要求として追加をお願いしたいとはっきり述べる必要があるということになると思います。但し、最善は、「相手が楽しんでいるならそれでいいや」とあきらめることだと思います。その結果が重大な違いを生まないと思います。一緒にいて楽しい時間をおおらかな気持ちで実現しましょう。
2 守りに入ると言葉をシャットアウトする。
あなたが話そうとしているときに、相手が自分の不利益になることを話そうとしていると思ってしまうと、話を聞かないぞという固い防御の姿勢を作ってしまいます。相手に有利なことを言ってもすぐにそれを理解できない状態になってしまいます。笑顔を作って相手の防御をつくらせないこと、相手に不快な言動は極力しないことが実務的な解決方法です。

3 言葉の二つの源流による、会話の目的のすれ違い
今日は結論だけ言います。言葉の本質、言葉の発生は、二つの要因、二つの使われ方があったということです。
言葉の源流の一つは、集団で狩りをする時の指令を主として、気勢を上げる、動物に対する威嚇等、狩りという目的を遂行するための情報伝達のツールだと思います。200万年前、小動物を集団で狩りをするわけで、ただぞろぞろ動物を追いかけるというよりも、動物が逃げ切って終え亡くならないように波状で追い詰めていくということをしたはずで(推測)、その時に明確な言葉ではないけれどわかるように、つまり、声の大きさとか、シリアスさとか、あるいは身振り手振りを交えて音声を発していたと思うのです。(目的遂行型)

二つ目の言葉の源流は、ロビン・ダンバー先生が提唱する、毛づくろいの代替物です。サルは群れを作りますが、群れの仲間相互に毛づくろいをして、相手の不安感を解消するそうです。つまり仲間を安心させるという行為をしています。しかし、毛づくろいは一頭が一頭に対してだけしかできないし、人間は毛が退化していったため、代わりに言葉を発して相手を安心させるように進化したということらしいです。

現代でも、会社や戦争などでの目的遂行のための情報伝達という言葉が主として発せられる場面と、長電話やくだらないおしゃべりのような言葉の内容の情報伝達を目的とせずに、話をしていること自体が目的の安心感作出型の言葉の使われ方の二種類があるということです。

冒頭の職場の悩みを伝える妻と夫のすれ違いは、妻が安心感作出を目的として言葉を発して会話をしようとしているのに、夫は安心感作出に協力をせずに、悩みを解決する目的遂行情報伝達型の言葉を発しているので、妻は会話をした目的を達せられないというわけです。話を聞いてくれないということは、このような補助線を使うと理解しやすいと思います。夫は、会話自体で妻を安心させようという言葉を発していません。また、そんなことで会話を終えることは無責任だと思う真面目な人が多いことも事実です。

「大変だねえ」とか「それは苦しいね」という言葉を発することが、どれほど心から心配して力になりたいと思うよりも、相手にとってはありがたいということになるのです。共感をすることではなく、共感を示す言葉を発することが肝心だということのようなのです。

最初に安心感を与える反応をしない夫と会話をしている妻は、求める対応が無いので、話を聞いてもらえないと感じるのも仕方が無いことなのです。

何かアドバイスをしたいという気持ちはよくわかります。くれぐれも、先ず、共感を示す言葉を発することから始めなければ、次に進まないということを意識しましょう。

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「正解は押し付けちゃ不正解」  不可解な離婚申出事案の多くに見られる現象 [家事]



堂島孝平「愛すべきべきHuman Life」より

ポップミュージックの歌詞には、ドキッとさせられることがあります。私が高齢の域に達してようやく気が付いたことが、さらっとうたわれているからです。この歌詞も、このフレーズの前が、「正論ってはやり病」という言葉がさらっと置かれています。詩人の感性というものは恐ろしいくらい素晴らしいものがあります。

さて、離婚というものは、離婚したい方と、それを言われて戸惑う方とがいることが通常です。特になぜ離婚をしたいのかということが理解できない場合は戸惑うだけでなく、その後の人生にも深刻な影響が生じることがあります。

理由が不可解な離婚の一番多い理由は、申出者側の体調の不具合によって、被害的な受け止め方をし続けて、それに耐えられなくなるという思い込みDVのケースが実務的にはとても多いです。ただ、そういう風に相手が弱っているのに、気が付かないでさらに追い打ちをかけてしまっているケースも結構多いです。 自分の依頼者だったり、相手方だったり、丁寧に理由を話し合っていくと、案外多いのがこの、正解を押し付けている、結論を押し付けているということから、ストレスが高まってしまっていることです。

正解を押し付けるということについて、いくつか例を挙げてみましょう。
ごはん茶碗とおつゆ茶碗の配置。
お風呂に入る時の洗う順番
という冷静に考えればどうでも良いことから
舅姑との付き合いかた
子どもの習い事の選定
等、なんとなく大事なことかもしれませんが、必ずしも正解が決まっているわけでもないのに、「こうしなければおかしい」という態度で「あれをやれ、これをやるな」と言ってしまうわけです。

どうしても大切な
お金の使い方や交通安全だって、
こうあってほしいという気持ちはわかりますが、これが正しいからこうしろといわれると、自分が否定されている気持ちになってしまうこともあるようです。

つまり、その人の望みを他の選択肢を許さない形で提示してしまうと、その結論が間違っていなくても、「自分で自分の行動が決められない」という息苦しさを感じていくようです。

言われる方からすると、細かいことから何から言われると、自分が何か行動をしたり発言をしたりすると、否定されるのではないかという先入観が無意識、無自覚に出てきます。そして、自分の何気ない行動を否定されると、自分の人格、育ち、つまり両親を否定されるような感覚になっていきます。自分自身を否定されるという感覚と言っても良いかもしれません。

こうなってしまうと、身体生命の危険を感じなくても、対人関係的危険を感じてしまうことによって行動が委縮するわけです。その人といると、常に不安な気持ちになって、「危険」を感じ続けてしまうわけです。

だんだんその人といること自体が、恐怖だったり、面倒くさいだったり、とにかく不快に感じてきて、嫌悪を感じたり、一緒の空気を吸うだけで嫌だという気持ちになっていくようです。

「だけど私は論理的に正しい」ということにこだわる人はいます。ただ、人間同士の付き合いの行動基準については、「論理的に正しい行動をするべきか」、「相手の感情を尊重する行動をするべきか」という選択肢が実はあるのです。職場の業務についての行動ならば論理的な正しさに従えばよいのでしょうが、むしろ緊張を緩和して安心感を持てる人間関係であることが合理的な家族という人間関係においては、仲間の感情を尊重する、相手に安心感を与えるということが行動原理であるべきだと思います。

論理的な正しさを細かく考えることはストレスがかかります。家族が家に戻ってまでストレスがかかり続ければ、人間は耐えられなくなります。

そこから抜け出したくなることは自然な流れになるわけです。

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保護命令を出されても申立取り下げで終わるために有効なこと [家事]


これまで担当した保護命令は、すべて相手方代理人として関与しているのですが、却下が一件で残りはすべて取り下げで終わっています。私の経験と近しい弁護士の経験からは、保護命令事案と言っても、DV法が想定するような生命身体に重大な危険がある事案は無いと言ってよいと思います。

問題はそれでも保護命令が出されるということです。出された事案を見る機会があると、「こんな申立人の主張立証で、どうして保護命令が出たのだろう。」という感想しかありません。

ここでのポイントは、①
「要件を満たさないような主張立証でも保護命令は出ることがある」
ということです。

だから、なるべく裁判所の判断を仰がないで、取り下げてもらうようにすることが上策だということです。

ただ、あくまでも私から見てですが、無茶苦茶だと思われる保護命令が出た場合というのは、相手方が弁護士を立てずに本人だけで対応していることがほとんどです。

ここでのポイントは、②
「保護命令が申し立てられたら、弁護士を代理人として選任する方が良い」
ということです。

できるならば、経験のある弁護士に依頼した方が良いと思います。
そして短期間に、仕事を初めとしてなにかも投げ捨ててでも、弁護士の指示の通りにたっぷりと準備をすることです。最初の審尋の時までに反論の主張立証をそろえるということが必要だと思います。最初の審尋で薄い準備だけだと危険です。東京高等裁判所平成14年3月29日決定(判例タイムズ1141号267頁)の決定を引用することも必須だと思います。また、保全係で担当する事案なので、疎明ではなく証明が必要だということのダメ押しもしておいた方が良いと思います。

そして、取り下げに至るポイント③は、
保護命令の要件を満たしていないことの十分な主張立証です。というか、相手方の主張立証が、不十分であることを論理的に冷静に主張を展開する必要があると思います。特に、「身体生命に対する重大な危険」が証明されていないことを馬鹿丁寧に、愚直に主張立証する必要があります。

そして、最大のポイントが、④
「申立人に申し立てを取り下げる口実を作ってあげる。」
ということです。

②と③が、裁判所に対するアッピールで、裁判官から申立人に、保護命令は出ないよと言う心証を開示する効果があり、それだけで裁判官が最大限説得して申立人に申立を取り下げさせたケースもあります。よくわからないのですが、相手方代理人である私が裁判官から感謝された事案でした。裁判官も要件を満たさないのに保護命令を出しているという自覚があるようです。

ただそれだけでは、取り下げることに当事者は納得しないのだと思うのです。それで取り下げやすくすると、より取り下げが促進されるわけです。

先ず相手方陳述書でタネをまいておきます。相手方の取り下げ口実なるようなことを陳述書に書いておくのです。
当面別居を承認することを前提として
・申立人が同居していた家から自分や子どもの荷物を引き上げることについて
同意して、自分がいない日を教えて家に立ち寄らないことを約束する。
・子どもを連れ去ることをしないと約束する。
・当事者同士で連絡をしようとしない

冷静に考えれば、現状に鑑みて、こちらが新たな負担をすることは何もないので、こちらはいくらでも約束できるわけです。

一番の問題は、子どもを連れて勝手に出て行って、そんなことを約束することに心理的抵抗があるという、自然な感情なのですが
保護命令(接近禁止命令、退去命令)を出されれば、致命的になりさらに大きな精神的ダメージを受けるということ、家族再生がさらに遠のくことを念頭に子どもの利益はどちらかということで判断しなくてはならないのだと思います。

保護命令申立てをされてからの復縁は多くはありませんがあります。


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察してほしいという行動が、二人の間に亀裂をいれる [家事]



自分にも覚えがあるのですが、相手方の行動を「それはさすがにダメだろう。」と思ったとき、フランクにその旨を指摘するのではなく、わざと不機嫌な態度を示すことによって、相手に行動の修正(反省、謝罪?)を求めるということがあると思います。

しかし、大抵相手は、「この人何を怒っているのだろう。」と思うだけで、面倒くさい奴だなと感じるくらいです。あるいはなんか怖いと感じることもあるようです。基本他人なので、価値観が必ずしも一致しているわけではありません。自分から見た不満のある行動も「それはさすがにダメだろう。」とは思っていないことが根本にあります。

自分の快適さを求めることによって、相手が自分に対して不快な思いをするという何とも言えない皮肉です。

一番は、相手に悪意が無いならば気にしない。
つぎは、うまく笑いを交えながらそれをしないでくれとはっきり言う。
それでも行動の修正をしなくてはならないというと、相手は(真面目な人ほど、あるいは嫌われたくないという意識が強い人ほど)、自分の自然な行動が否定されて、相手の前では緊張して行動しなければならないという意識が生まれていきます。

かといって、相手の気に入らない行動を我慢していれば、こちらにストレスが溜まります。なかなか難しい話なのです。それを自分の考えが絶対に正しいと思ってしまうと、単に相手を非常識な人間だとか、不合理な人間だとかネガティブな評価をして切り捨ててしまいがちになっています。ますます、仲がわるくなってしまいます。

寛容の幅を広げることは、真面目な人ほど難しいようです。

それにしても、不機嫌な様子を見せて、自分の気持ちを察してほしいという行動は、有無を言わさず相手に行動の修正を求めるものです。これは、子どもが親に対してすることであって、大人がすることではないと冷静に考えるとわかることです。

子どもは言葉にすることが苦手だから仕方がないところがありますが、音の場の場合ははっきり要求することが恥ずかしいと感じているからかもしれません。恥ずかしくて言えないのであれば、不機嫌な態度もやめるべきです。客観的に見れば余計に恥ずかしいわけです。

まず、否定的評価や感情的になることはやめましょう。それをすることはデメリットしかありません。

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むしろ産後に母親に正常でいろと言う方がおかしい。攻撃的言動も一過性であることが多いので、2年は様子を見ましょう。産後うつについて科学的に理解しよう [家事]



最近の離婚事件は妻の最終の出産から2年までの間に起きていることが多く感じられます。最近は、妻側の感情を抑制しない攻撃的言動や、破滅的な言動により、夫側が子どもを連れて出ていくということが増えてきています。

なぜそれが許されるかというと、夫が妻側のヒステリックな様子を撮影していて、動画で証拠化しているのです。それを見て、産後うつに理解の無い人たちが、「これはDVだ」ということになり、「DVならば子の連れ去りは正当だ」とでもいうように、許容してしまうのです。

つまり、女性保護という偏った政策を発動し、保護の範囲を拡大していくことによって、女性が子どもと会えなくなることが多発しているわけです。結局制度の弊害のしわ寄せはほかならぬ一番弱い女性に集中してしまっています。

しかも、産後に女性の言葉が荒くなることは、その人の人格とは関係ありません。

先ず、出産後の生理的変化があります。
生理的変化の一つ目はホルモンバランスの変化です。
出産前は女性ホルモンが多く分泌されて、繁殖をしやすくします。出産してしまうと女性ホルモンが激減して、育児のための体になってしまいます。母乳を作るためにプロラクチンというホルモンが多く分泌されます。このプロラクチンの血中濃度が高くなると攻撃的になるということがイタリアの大学の調査で発見されたということらしいです(教育ジャーナリストのおおたまさよし様ブログで学びました。)。

これは人間も哺乳類ですから、出産直後の子を守るように体の仕組みができていると考えればわかりやすいと思います。子どもを守るために、子どもに近づくものに攻撃的になることによって、子どもを守ってきたのだと思います。そうではないと、子どもは柔らかいし、戦闘力が無いので、肉食獣などに捕食されやすいからです。簡単に子どもが捕食されてしまえば、子孫を遺すことは不可能となります。だから、母親が気が荒くなるほ乳類だけが生き残ってきたということなのだと思われます。

生理的変化の二つ目は、脳の活動部位の変化です。
これは、バルセロナ自治大学のオスカー・ヴィリャローヤ率いる研究チームが2016年に解明しました。出産後、女性の脳の活動は、社会一般との共感や認知を感じる脳の領域が小さくなっており、子どもとの接触するときだけ活発化されるということらしいです。
つまり、人間は二つのことを一緒にやることが苦手であることから、他のことはしばらく脇に置いておいて子育てだけに集中するように脳が変化してしまうということらしいです。

この結果、社会的な評価を意識して自制していた乱暴な言葉遣い、刹那的な言動、攻撃的態度などが自制できなくなってしまうという結果が起こるのではないでしょうか。

また、自分が他者に包摂されているという意識が持てなくなるわけですから孤立感や無力感が出現しやすくなるのだとも思います。

感情の爆発、そもそも不合理な感情、攻撃的言動が起こりやすくなるのは母親の人格ではなく、人間の出産後の当たり前の変化ということなのだと思います。

この結果、しばしば我が子に対しての攻撃的言動や母子心中を示唆する発言をするわけですが、これも脳の物理的変化で説明がつくことだと思います。

そもそも産後うつというのは、アメリカの精神疾患分類によれば、抑うつ的症状だけでなく易怒性や攻撃的感情という症状も含まれているとされています。うつという言葉が抑うつを連想させるため誤解を与えているように思われます。

これらの変化は大体2年くらい続くケースが多いようです。多くは一過性というわけです。脳も復元されていくようです。
実際攻撃的な産後うつを経験したお母さんたちから話を伺うと、本当に2年くらいで嘘のようにそれまでの感情が消えてしまったというのです。

また、面白い研究があり、これもおおたまさよし様のブログで紹介されていたのですが、小野寺敦子先生の「親になることにともなう夫婦関係の変化」という論文に書かれているのですが、夫婦の親密性は子が生まれて2年間で低下していくとのことでした。しかし、その後も低下し続けているわけでなく、底段階で安定していくようです。出産後2年ということは概ね間違いのないことだと思います。

この一過性の感情、行動で何かを決めることは避けるべきです。また、そういうものだということをはじめから知っていれば、2年間での親密度の低下も避けられるように思われます。

女性はおとなしくて乱暴な言動をしないということは、出産後は一時的に別なのだと理解することが、大人の知恵だと思います。




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笑ってごまかすという美徳の訓練の勧め 争いが無くても誰かが我慢していたら意味ないとは言うけれど [家事]



笑ってごまかすということは、決して肯定的な評価がされることではないと思います。もちろん仕事など、他人に迷惑をかけたけじめから逃れるための方法とするならば、私もあえて肯定して皆様にお勧めしようとは思いません。

問題は家族の場合ですし、さらに場面は限定されるのですが、案外笑ってごまかすということを覚えると家庭円満になるかもしれないと思ったものですから、紹介しようと思いました。

特に夫婦なんかの場合、相手からミスを指摘されることはよくあることだと思います。気を使わないで、「だめじゃない。」なんて言える夫婦は、案外コミュニケーションが良好にとれている関係にあるのではないでしょうか。

しかし、そのダメ出しを食らう場面でも、言われた方にも言い分があることがとても多くあるというかほとんど言い分があると思います。

例えば
ゴミ出しを頼んでいたのに出してなかった 
⇒ あれ、自分で出すって言ったじゃないか
家を出るときトイレの電気を消し忘れているよ
⇒ 消さなかったのはわたしではなくあなたでしょう。
部屋にお菓子のクズが落ちていたよ。不衛生でしょう。
⇒ では、自分の部屋がごみ箱状態になっていることはどうすんだ。

冤罪型
どの口が言う型
否定評価をするほどのこと?型
等、本当は言われても仕方がない場合でも、「言われたくない」場合って多いというか、結婚から年数を増えるにしたがって多くなるようです。

しかし、ある時期を過ぎると、この些細な争いが影をひそめる夫婦も結構あるようです。

歳をとるということはとても素敵なことで
・ 「あれっ、そうだった、ごめんごめん。」
・ 「歳のせいか、忘れっぽくなってごめんごめん。」
・ 「ああ今度から気を付けるね。ごめんなさい。」
等とニコニコして言えるようになってくるので、この類型の争いは少なくなるようです。

だからって言いたいことを我慢しているわけではないのです。なんか白黒つけることにメリットはないし、デメリットだけしかないことに気が付くわけです。そしてなんでそんなことをムキになって言い返していたのだろうと,わからなくなってしまうのです。おそらく生きる本能的に言い返していたのでしょう。生きる意欲が年齢とともに弱くなったというのは、ちょっと違うと思いますが。

あるいは、言葉を文字通りに受け止めなくなったということはあるのでしょう。電気消したかどうかなんてことより、こちらが謝って、何らかの安心につなげてあげたいという気持ちが生まれているのかもしれません。

こういう、わざと負けてあげるという日本の美が最近失われつつあるような危機感を感じています。「謝る」という言葉の意味が、自分の落ち度等を認めて、それがいかに低い評価を受けるべきことかを告げて、それを二度としない。という狭い意味に限定されてきたような気がします。いや違うわけです。謝るということは、相手の非を否定してあげて安心させることということが日本の美風だったはずです。私の小さいときは、「へえ、謝ると自分の非を認めて、損害賠償を払うことまで考えなければならないのか。窮屈だねアメリカは。」という意識でした。今それが当たり前の世の中になったことと、離婚が多くなったことは関係があるのかもしれません。

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