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共同親権制度が生まれることで何か子どものために効果があるとすれば何か 家族分断法体系は温存されるのか [家事]


まもなく日本も、離婚後も共同親権とする制度が生まれます。
この法制度化に、私は多くの労力を使おうとしていません。

理由は
①外圧による国際水準化なので、共同親権制度はどうしても生まれる
②過剰な期待をすることは大変危険である。
③法律や司法によって子どもの幸せを図ろうとすることは間違い
ということになります。

①先ず、国際水準化ということですが、離婚後親であるにもかかわらず、子どもに対する権利がなくなってしまうというのは、国際的にみて産業貿易が普通に行われている国では日本くらいだということです。特に欧米は、日本人の子どもの連れ去りを犯罪視していて、根本原因が日本の法制度が、離婚によって一方の親の親権をはく奪する単独親権制度にあると見抜いていますから、共同親権制度にしろという圧力がとても強いのです。親権制度は内政干渉にはならず、子どもの人権問題だという正当な理由がありますから、外圧はやむを得ません。日本は、EUの会議等では、北朝鮮と同じ拉致を容認する国だという扱いになっていますので、親が離婚したからと言って子どもとの関係に変化が起きるという法制度を変更することになるでしょう。

②それに対して、子どもを連れ去られた親御さんたちが、共同親権制度に過剰な期待をしていることが心配されます。共同親権制度になれば、子どもの連れ去りがなくなるとか、子どもと面会できるようになるとか、そのようなことを考えていれば、それは間違いだとはっきり言えるでしょう。なぜならば、現実に夫婦が離婚前であれば、現代日本も共同親権です。共同親権の中で連れ去りは起き、子どものもう一方の親への面会は同居親によって阻まれています。別居親は、自分に責任が無くても監護権が裁判所によって奪われ、どこに子どもがいるかもわからない状態が多発しているではありませんか。

③そもそも、連れ去りや面会妨害は、両親の不仲によって発生します。どちらか一方に主たる原因があることが多いのですが、どちらか一方だけに原因があることも少ないように感じます。そして、同居親は、様々な事情で(別居親に主たる原因が無くても)、別居親を嫌悪し、恐怖を覚え、子どもと別居親が交流することを嫌がっています。このような状況を直視し、現実を改善する手立てを講じないまま、法律や裁判で制度を変えたところで、親子の効果的な交流や連れ去り防止ということは変わらないということにこそ、気が付かなければなりません。連れ去りや面会拒否は、親権制度の問題というよりも、感情の問題だと私は思っています。この感情問題を少しでも解決することによって、子どもにとって有効な交流や連れ去り予防を講じていくことこそ本論だと思っています。
 親子というものは、国がどういおうと法律がどう変わろうと、親子なのです。家族で解決することが最も妥当な解決を図りうると考えています。法律をどうのこうのとするよりも、家族が幸せに暮らす工夫の知識、人的物的支援の充実で解決するべきだと私は考えています。

このように共同親権制度に水を差す議論を始めたかというと、理由があるのです。私の考えは正しいと思うのですが、それでは、なぜ、ヒステリックに共同親権反対を叫ぶ人たちがいるのかということに着目したからです。法律家や学者といった、論理を大切にしなければならない人たちまでもなりふり構わずに、感情論で離婚後の共同親権制度に反対しています。加熱するののしりの外から見れば、大変気の毒な議論に終始しているとしか見えないのです。そして、その論拠が見えない。ここを、つまり、彼ら、彼女らが本当は言いたいけれど言えない反対する理由があるのではないかということが着目されるべきなのでしょう。

共同親権反対者の先生方は、連れ去りや面会交流拒否を支持しているようです。このことの是非については今日は議論しません。大事なことはどうやら、離婚後の共同親権制度ができると、連れ去りや面会交流拒否ができにくくなると考えているようです。もしかしたら高名な学者や法律家の先生方の危惧は正しいのかもしれません。検討してみましょう。

連れ去りをする親、高名な先生方が擁護するのは女性限定なので、妻と置き換えて論じます。連れ去りをする妻たちは、本気で夫を嫌っています。但し、離婚事件の中では、いわゆる日本ではレノアウォーカーが有名ですが「配偶者加害」として国際的に論じられているような暴力があるケースは稀ですし、マリーフランスイルゴイエンヌが「モラルハラスメント」で取り上げた自己愛型パーソナリティー障害の疑いのあるようなモラハラも日本の離婚事件ではほとんどありません。通常の市井の夫婦の問題がある事例がほとんどだということは指摘しておきます。ただ、夫の方は、妻の精神的異変に気が付かず、例えば子どもが生まれる前と後と、妻への対応を変えておらず、それがために自分の行動を修正するべきだったということに気が付きません。そのため、妻が一方的に自分に卑劣な仕打ちをする、あるいは弁護士や行政が妻をそそのかしたという把握の仕方をします。このため、さらに絶望が深くなり、精神的ダメージも大きくなるという悲劇を起こしてしまいます。深入りするときりがありませんね。

高名な先生方はこのような事情を知りません。ウォーカーやイルゴイエンヌ等の書籍を結論だけ輸入した講学上の知識で、妻が苦しんでいるのは、夫が悪い、女性は攻撃を受ける被害者で、被害者を攻撃をするのは男性という加害者だという単純な二者択一的思考をされますので、直ちに苦しんでいる妻を加害者である夫から解放しようという使命感に燃えられるようです。彼らにとっては正義感なのでしょう。正義感が人を盲目にして、考えなければならない本当の利益、ここでは子どもの利益を考慮できなくなるという典型例ですね。

どうやって妻を解放するか(家族分断の法・実務体系)。
とにかく夫から逃げる。夫を妻に近づけさせないようにする。女性が子育てをするべきだというジェンダーバイアスがかかった考えがあるので、女性は子どもを連れて逃げなければならないという流れになります。
行政や警察は妻を隠し、住民票を非開示にして、夫が探し出して近づこうものなら、保護命令やストーカー規制で妨害する。裁判所も、子どもは女性が育てるべきだというジェンダーバイアスと、女性は家で子育てをするべきだという時代錯誤的な感覚がありますし、言った当の本人(ボールビー)が否定している、人間は最初に一人(母親)とだけ愛着を形成するという理論を未だに修正しない継続性の原則を金科玉条としています。連れ去りさえすれば子どもを手元に置くことができる法体系になっているわけです。これには例外があります。夫が子どもを連れ去ったケースに限って、裁判所は原則論に立ち返ります。妻に子どもを戻せという決定がいくつか出ています。また、最初に子どもが生活し、友人たちも親戚もいるという環境から分離して、未知の生活を押し付けても誘拐罪は適用されません。逆に父親が元居た場所に子どもを戻すと誘拐罪で逮捕されます。極めて男女不平等というか、恣意的な運用がなされています。
さて、逃げ続けるという単純な作戦なのですが、これは逃げろ逃げろという人たちにとってはそれほど負担はないかもしれません。ものを考えないで済みますね。しかし逃げている妻本人は大変精神的負担がかかります。怖いから、嫌だから逃げていたはずなのですが、次第に逃げているから怖いという感情がわいてくるようです。いつ夫が自分のところに来るかという余計な心配が増えるからです。これは10年たっても消えないケースもありました。それはそうです。元々、理由なく不安を感じていただけの精神的に影響がある疾患を患っていた人が、不安には理由があるということを断定されたため、理由が存在する限り不安を抱かせられるよう呪いをかけられたようなものだからです。
このため、逃げることは長続きすることが難しいのです。逃げたゴールが必要なのです。それが、離婚です。日本の家族法は、法律の体裁をよそに、離婚したければ離婚ができるように裁判例の変更がありました。但し、夫からの離婚だけは、離婚したいから離婚できるわけではないという判例があります。妻からの離婚は、離婚意思が固いとして婚姻破綻があるとして認められる傾向にあります。もちろん子どもの親権は連れ去った同居親たる妻にあり、単独親権制度の下では夫の親権は奪われる。そうすると、あとは強制力のない面会交流の決定は無視して、強制執行できる養育費だけは受け取って、夫とは顔も観ず、声も聞かず、メールも受け取らない、全くの別人になれる。
単独親権制度は、このように家族分断の法律と実務の体系の最終目標となっていたということだったのです。
だから、なりふり構わず離婚後の共同親権制度に反対しているのかもしれません。

この考えが正しいとしたならば、共同親権制度は止められないとするならば、彼らは換骨奪胎を狙ってくるでしょう。逃げるゴールを温存させようとするわけです。これが、選択的共同親権制度というものですが、名前を変えてくると思います。原理はこうです。原則共同親権だが、当事者が同意しなければ単独親権となるというものです。つまり、連れ去りをするような妻は自分のケースでは共同親権には同意しないでしょうから、これまで通りの単独親権になるという「落ち」です。
ゴールがある以上、連れ去りは起こるでしょうし、面会交流拒否は継続されるでしょう。共同親権推進グループの中で政治家が選択的共同親権を創設すると演説していましたが、ブーイングは起きなかったようです。現在の実質的単独親権制度である選択的共同親権をもくろんでいる勢力があるわけです。これで単独親権制度に批判的な諸外国を言葉で交わそうとしているわけです。共同親権という言葉に惑わされて、その内容を吟味しないで、一歩前進なんてごまかされて、実質的に選択的共同親権制度を応援してしまうことが起こりうることを示していると私は思います。

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児相の保護という隔離の後に、直ちに親子再生の働きかけを行う切実な必要性 [家事]

痛ましい児童虐待の事件が報道されると
二者択一的な論調は、
実力による保護を訴え、警察権力の導入などを声高に叫びます。

しかし、私のように保護期間終了後の方々に関わる者からすれば、
問題は保護という名の家族の隔離をした後のことが
当該児童にとっては何よりも大切なことなのに、
それが十分行われていないということを常々感じます。
そのことを議論しないで
隔離だけを優先するということはあまりにも
児童のその後の人生において無責任だと思っています。

結論から言えば
家族を一時的に分断した直後から
方法を工夫しながら面会などの交流を開始しなければならない
ということです。

肝心なことは、
保護や施設入所は高校を卒業するまでなのです。
それまでは、施設所長の名前などで
保護者の代わりを書類上は行っているのですが、
進学や就職に関しては
保護者の関与が必要であることがほとんどです。

また、住居一つとっても
児童養護施設を出ていかなければならないのに
住む場所もないわけです。
生活費も何か保証されているものでもありません。
極端に言えば、社会に放り出されているのです。

家庭に戻れれば良いのですが
児童は家庭に戻れないことがあります。

一番の原因は、
自分が家族に受け入れるという自信が持てないからで、
その原因は長期に生活を別にしていることです。
家族だからと言って、長期間別々に住んでいながら
さあ、出てきたから一緒に暮らしましょうということは
時間の経過ということが原因となってできないみたいです。

例をあげます。
施設を卒業して
住み込みでの仕事をしていた方の自死の介入に関与したことがあります。
まるで、愛着傷害の子どものように、
自分を尊重してくれる人間に対してはべったりとした関係になるけれど
普通にルールを厳守するよう指示をしただけの人も毛嫌いして
自分が排除されているのではないかというような
精神的ダメージを受けてしまっていたようでした。
その結果、
リストカットがどんどん増えて、また深くなっていき、
緊急で入院して一命をとりとめたという事案もありました。

幸いなことも多く
入院費用も、いろいろな協力を得て社会保障の制度内で支払うことができ、
その後も多くの人の好意で働くまでに回復したのですが、
どうしても人間関係がうまくいかず
その後の連絡は来なくなってしまいました。

そういう場合でも
家族の元に戻ろうとはしませんでした。

このケースでも形式的な家族の再統合は試みられたようです。
しかし、再び家族として生活をするということまではできず、
この現代日本の中で子どもは孤立してしまいました。

自分に自信を持てないために人の顔色を窺っていました。
それは生きづらさを感じるでしょう。
自分が相手から受け入れるかどうかは、初めから決められていることではなく、
自分の相手に対する働きかけによってもだいぶ変わってくる
ということを学ばないで社会に出されたということなのだろうと思います。

別のお子さんも
元々は仲の良い親子でした。
どうして保護分離がなされたのか納得のゆかない事案です。
私から見ると
そのお子さんは、
親とうまくいかなかった出来事を記憶の中から穿り出して
敢えてうまくいくはずがないという結論を出しているような
そんな印象を受けることばかり言っていました。

単に自信がないのです。

これまで何年も親子を分断して
誰からも保護されなくなるからさあ保護しろと
親に言っても、親も反発するでしょうが、
もっと深刻なことは子どもが親に関わる自信がなく
親に会うことすらおっくうになっているということです。

色々な事例で個別的な理由があるとは思いますが、
一番は会わない期間が長すぎるということです。
家族分離をさせたこと自体で
小さい子供は自分が悪いから孤独になっているのだと思いますし、
少し年齢が上がれば
自分が当たり前だと思っていた日常が
実は親が自分を虐待していた日常だった
自分の記憶に反して、自分はひどい目にあっていたのだ
という意識が蓄積されていきます。

それでは、日本の制度では、子どもいつまでたっても孤立していくのです。

今子どもが虐待死しなければ良い、
本当は理由がなく不合理に苦しむ人たちが出ても
一人の子どもの命を救えればそれでいいやという思想ならば
現在の制度でよいかもしれません。

養護施設卒業後は、また別の問題だというのかもしれません。
それなら早くその別の問題を解決してもらいたいです。
実際は少なくない子どもが18歳で社会に放り出されているのです。

どうしても今の保護制度、今の日本社会では
最終的には親の力が必要になります。
それが現実なのに、当然訪れるはずのこの出口に向かっての活動が
極めて不十分だと思う事例が多いのです。

その一番の問題は
親子の絶対的な分断の時間が長すぎるということです。

分断を始めたら
できるだけ早期に
親子面会が実施されなければなりません。
様々な工夫が必要ですが、
このまま18歳まで一緒に暮らせないという絶望を抱かせないことが
スムーズな面会実施のポイントになると思います。

また、ファミリーソーシャルワークの専門家も同席し
各家庭の課題ないし改善目標を明確にすることも必要でしょう。
それを上から押し付けるのではなく、
一緒に考えていくことが必要だと思います。

そのためにも長期の分離という絶望的な事態は
くれぐれも必要最小限度の範囲にとどめるべきです。
希望を持てること、希望への道筋をはっきりすること
そしてそれに向けて応援されているという実感を持ってもらうこと
これが大切だと思います。
そのためにはあらゆる工夫をして、直接の家族交流が
定期的かつ必要な時に随時行われる必要があると思います。

大切なことは警察と権力の増強ではなく、
一緒に考えるスタッフの増員のはずです。

分離後も子どもの人生が続くというリアルを
どうか考えていただきたいと思います。
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DVに男女差はあまりないかもしれない件 真の「DV対策」は孤立化を解消することではないか。 [家事]



敢えて曖昧な概念であるDVという言葉を使って進めていきます。
DVというと、役所関係なんかが特にですが、
女性の権利と絡めて予防や救済を啓発しているので、
加害者は男性で、被害者は女性というような
誤解を与えています。

実際の家事実務(離婚事件など)では、
男女差という問題ではないのではないか
という実例が山ほど出てきます。

暴力の問題でも
女性の暴力というものが結構多く
夫が、「どうして暴力をふるうのだ」
と妻に尋ねたところ
妻は、「あなたが私に暴力を振るうことをさせるのだ」
と、典型的なDV加害者の発言が出て
弁護士どうし顔を見合せたことがありました。つい最近。

それから、家のことでとやかく言うのもDVの一つだとされますが、
「壁に勝手に画びょうを刺すな」
というのが男性の特質だと言われているのですが、
結局どちらが出費して家を建てたかによるようです。
女性が相続した家などは妻が夫に言うセリフのようです。

実際法務省などのこれがDVだというパンフレットを見ると
携帯を盗み見するとか
交際範囲を制限するとか
相談例からすると
どちらかというと妻の側が行う行為のような
印象もあります。

暴力による命の問題ということもあるのですが、
夫婦間の殺人事件は
夫と妻でどちらが加害者になるかは
それほど違いはないようです。

伊達政宗の教育係の虎哉和尚が当時の梵天丸に
結婚相手とは、
この人なら寝首を掻っ切られても仕方ないと思う女性だ
と言ったと大河ドラマでは描かれていましたが
なかなか奥深い話です。

ただ、専業主婦(夫)という立場は
追いつめられる特殊性があるようです。
一つには孤立しやすいということが問題です。
夫婦間暴力の精神的打撃の最たるものが
この孤立です。
誰にも相談できない。
相談どころか会話を交わすこともできない、
それ自体がストレスになるわけです。

孤立感を抱くと
援助を求めることができなくなりますので、
絶望を抱きやすいという関連があります。

経済的依存という言ことを意識させられれば
抵抗もしにくくなるということもあるのでしょう。

ただ、現代では、経済的事情から
専業主婦という立場を持てる人が少なくなっています。
経済的に専業主婦が可能な人は
仕事以外のコミュニティーに帰属しているようで、
むしろ孤立になりにくいということがあるようです。

DV予防には、夫婦とは別のコミュニティーに帰属すること
これが一番のようです。

夫による孤立から解放されても
夫からの隔絶による孤立が生まれたら
あまり前進はしていないということになるかもしれません。

兼業主婦の一番の落とし穴は
そういう意味で出産の前後かもしれません。

これまで働いて社会参加をしていた人が
子どもによって強制的に孤立を与えられた
子の母親がそう感じてしまうと
産後クライシスが強くなる関係にある
ような事件も多く見ています。

できるだけ多く外野が
子育てをしている母に近づいてあげることが
一つの解決方法になるのではないでしょうか。

現在のDV政策は
当たり前のコミュニティを形成することで
孤立を防止して
楽しく子育てをすることで解消していく
という視点が無さすぎのところが
支援によって幸せになる人が少ない原因なのではないかと
感じられてしまうのです。

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連れ去り関連の法律の問題点 親子断絶法体系から家族の安心強化、再生の法体系へ [家事]


1 大学時代に教授から教わった法律
  私は、大学時代労働関連法を特に勉強してきました。法律はどうしても抽象的な文言で作成しなければならないのに対して、実際に適用される実態は無数のバリエーションがあるわけです。そこで法律を実生活に当てはめるにあたっては法律の条文の意味を確定する必要がでてきます。これが法解釈です。労働関連法は、労働者保護を進めるという立法目的があります。大学に入ったばかりの私は、労働者保護という一方的な観点から法解釈をする傾向があり、指導していただいた教授からは、ここを厳しくご指導いただきました。「この場合はその解釈でよいとしても、こういう場合はどうですか?」とか、「この人にとってはその解釈は都合が良いですが、こういう立場の人の利益が全く考慮されないという問題はありませんか。」等、徹底的に考えさせられました。あの時は涙目で頑張っていましたが、今にして思うと、法律家としての基礎を体に叩き込まれたということがよくわかり、実務に出てから貴重な体験だったと感謝しております。
  さて、労働法は、現実に労働実態に法律が介入して労働者保護を先に進める形で社会を変えようという性質があります。おそらく女性の保護の諸法も同様に女性保護を強化して暮らしやすいようにするという目的がある法律だと思うのです。今回問題になっているのは、配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(DV法)が中心でしょうけれど、実務的にみているとこれをストーカー規制法が補完し、離婚手続きや面会交流手続きなどの民法や家事手続法にも影響を与えています。法律や実務の運用にあたっては、これらのDV関連諸法案の法体系ができていると考えなければならないでしょう。
2 DV関連法体系の問題
  ところが、労働法体系とDV関連法体系は同じ社会変革の目的を持った法律なのですが、一番の違いは、私が大学で教わった様々な立場の違いの中で法律が公平に、当事者間の利害調整をするという視点が決定的に弱いことだと思います。
  家族がいて、妻と夫と子どもがいるわけですが、三社の利益が考慮されているとはとても言えないと感じています。
  典型的なのは、夫の利益です。DVというのは何も夫から妻への暴力等だけではありません。妻から夫への様々な攻撃があることが実態です。実際にも夫婦間の殺人において、妻が夫を殺害することと夫が妻を殺害する件数においては、有意な違いはありません。さらに夫を自死に追いやるということを考えた場合は、私の実務的経験からは、夫の方が死亡していることが多いのではないかとさえ感じています。ところが、DV関連法体系の中には、特に実務の運用では男性の保護という仕組みは欠落しているように思われます。男性被害は野放しになっている状況です。これは被害者としての男性保護です。男性が自らの被害を訴えると、男のくせにというジェンダーバイアスがかかった対応されることが多いと思います。決して平等ではないのです。これは被害者保護としての男性の利益の観点が欠落しているという意味です。
 加害者としての男性の保護の観点も欠落しています。本来、行政手続きによって不利益を受ける場合は不当な人権侵害がないような手当を講じなければなりません。憲法上では憲法31条が刑事事件についてこれを定めていますし、その他の行政上の不利益につては憲法13条と合わせて保障がなされていると考えられています。この最大の方法が、弁解をする権利です。また、不利益を受けるためには、証拠に基づいて判断されなければなりません。ところが、DV法の支援措置においては、このような手続きが存在しません。理屈としては、支援措置は妻に対する支援であり、妻を保護する反射的効果として夫が不利益を受けるだけだから、夫の権利を侵害する処分ではないという理屈です。これは法の制定や解釈、あるいは運用としては全く稚拙でその体をなしていないと言わざるを得ません。
 例えば、犯罪をしてしまうと、そのないようによって刑務所で強制労働させられるとか罰金を支払うという権利制限が強制されます。この場合は刑事裁判という厳格な手続きを経て、証拠と本人の弁解をもとに判断がなされます。これはその人に対する処分です。例えば、DV法の支援措置で、妻が子どもを連れて行方をくらますことを手伝うことがあります。住民票の閲覧も制限され、夫は家族がどこに行ったか分かりません。これは私は人権の大きな制約だと思います。刑務所で自由が拘束されることの大きなつらさの一つは、自分の愛する人と引き離されることではないでしょうか。このつらさが、まるっきり弁解なく強行されてしまうのです。保護命令についてもこの弁解手続きが極めて希薄に運用されています。保護命令の相手方の夫は十分に弁護士と相談する機会も許されずに裁判に臨まなければならない実態があります。監護者指定の審判や、親権者指定、あるいは婚姻費用の分担の判断も含めて、子どもから引き離された父親は、それだけで不利な運用がなされていると感じています。DV法体系は、現実の機能としては親子断絶の法体系となってしまっていると感じています。
3 子どもの利益も考慮されない
  このDV法体系で最も欠落している利益考慮は、子どもの利益です。各種統計上、あるいは発達心理学の知見からも、子どもは双方の親から愛情を注がれて成長することが望ましいとされています。離婚というスポット的な出来事以上に相手に対する葛藤が残ることが子どもの成長にとって悪影響があるということも確立された見解です。ところが、DV法体系は、この葛藤を鎮めようとする配慮はなく、高める運用がなされています。DV法体系の結果、子どもの健全な成長が害されたという統計は少ないかもしれませんが、科学的に問題があるということについて、ほとんど顧みられていないということは法律の最大の欠陥だと思います。この点が、世界中から非難を受けるポイントになっていますが、なかなか報道がなされないということが実情です。
4 女性の利益も考慮されない
  人権擁護委員会の人権相談で、コンスタントに来る相談としては、離婚した女性からの相談です。「役所や相談機関に言われて離婚をしたけれど、その時説明されたような幸せな生活が送れず、お金や子育ての問題で大変苦労するようになってしまった。役所に相談したら、『離婚を決めたのはあなた自身です。』と言われて何の力にもなってもらえない。」というものです。また、葛藤を高めて離婚をした場合、いつまでたっても元夫に恐怖感情や嫌悪感情が残り、安心して暮らすことができないという結果も多く見られます。
  このような事態が起きることにはいくつか理由があります。
  最大の理由は、本来DV法だけでなく、雇用機会均等法や雇用政策など、総合的に女性の地位を向上させ、権利を拡大し、女性の幸せを実現していくということが目的であるはずなのに、そのような総合的な観点がいつしか脱落しているということです。一向に女性の正規採用の数も率も上昇しませんし、賃金格差も多くは残存しているのではないでしょうか。ただ、妻のある夫の性的役割意識の改革だけが声高に叫ばれているように思われます。女性の雇用条件の情勢は、夫の役割意識が問題なのではなく、女性の勤め口が非正規しかないところが問題なのです。もはや、現実の日本の家族において、女性は働かないで家で子育てなど家事に専念すべきだということを考えている人間は圧倒的に少数でしょう。労働実態が意識を変えてしまっているのです。女性の方が賃金が高くなると、男性の方が家事に専念するということもありうる話です。そのためには、女性が女性らしさを発揮することによって企業の収益を上げることができる道筋を開発する必要があると思います。短期的な売り上げ目標ではなく、長期的な安定経営という戦略では、女性らしい発想が有益だと私は思っていますが、そのようなコンサルは開発されていないことが実情だと思います。そしてこの女性らしさに対する信頼や尊敬が足りないことが決定的な問題だと思います。
  いつの間にか男女参画政策から、雇用分野の政策が脱落しているのです。だから、離婚後の女性の生活についての政策と言えば、せいぜい何らかの公的給付しかないわけです。その意味からすると、DV法体系は、女性の権利や社会的地位を向上させるという法体系ではなく、連れ去りをして、離婚をさせるという家族の分断法体系だと言えるのではないかと思われるわけです。
  この背景として、政策者が対象女性に対する尊敬がないということにあると感じています。実際のDVシェルターでは、スマホを取り上げられ、外出も制限を受けると入所者は教えてくれました。シェルターに入所する女性は、男性に依存する傾向にあるから、夫に連絡が取れないようにしないと、夫の元に帰ってしまうから連絡手段を取り上げるのだそうです。本人の自由意思を無価値なものとして否定するのですから、これ以上の人間に対する侮辱はないのではないでしょうか。DV保護施設が、売春婦の保護施設を引き継いでいることと関連があると思います。実際の女性観がこういうものなのです。
5 法律というにはあまりにも稚拙な二項対立的な人間観
  それでは、このような不合理なDV法体系を運用する役所、警察、裁判所は、どうして、不合理な事態を温存させることができるのかということを考えてみましょう。
  これは、一言で言えば「正義」の観念なのです。DVと言えば、非力な女性が人格的に問題のある粗暴な男性から攻撃を受けている。女性はDVの「被害者」であり、男性は「加害者」である。だから被害者救済のために、加害者が不利益を受けるのは仕方がない。むしろ不利益は自業自得なのであり、正当に考慮する必要がないという素朴な正義感が横行していると感じます。
  そのため、女性が悩み苦しんでいる様子を見ると、マニュアル通り、そこにはDVがあり、女性を救済しなければならないというスイッチが入ってしまうようです。しかし、実務的に見れば、女性が悩み苦しんでいる場合には、必ずしも夫の加害あるとは限りません。女性の体調の問題だったり、何らかの疾患があったり、本当は女性の職場や親子関係に問題があったりということも多くあります。それが相談所に行くと、夫との些細なやり取りをとって「それは夫のDVだ。モラルハラスメントだ。」ということをアドバイスされます。悩んでいる人は、自分がどうして苦しいのかわからないで悩むことがむしろ通常ですから、その原因を特定してもらえば、それが原因だと思い込んでしまうわけです。「支援」をする方は、女性の悩みがDVとしては不合理だと思っても、疑うことは「寄り添っていない」からそれはしてはならないと徹底的に教え込まれますから、疑問を持つことは許されず、すべてが夫のDVに誘導されていきます。
  このマニュアル自体、配偶者暴力の構造について表面的な知識しかない者が作成しています。また運用する者もマニュアル以上の研究は行いません。ある国の機関の相談者の相談内容を知る機会がありました。そうしたら、「いつも暴言を吐くわけではない、暴言を吐かないときは比較的優しいときもある。」という相談を受けて、「それは典型的なDVだ。DVで間違いない。」と断定していました。もし、このDVサイクル理論の元となった、レノア・ウォーカーの「バタードウーマン」という本を読んだことがある人であれば、このような単純な決断はしないことでしょう。彼女はDVサイクルなどという言葉は使いません。「暴力のサイクル理論」という言葉を使います。ここでいう暴力は、極端な暴力ばかりで、極めて精神的侵襲の強いものばかりです。そして、暴力の後にくるハネムーン期というのは、自分がつけた傷をなめるかの如くの、極端に男性が女性に対して許しを請う強い行動がなされます。この本を読むと、日本の男性のほとんどにはハネムーン期は存在しないことがわかります。暴言を吐かない時期があったとしても、それハネムーン期ではないのです。先の国の機関の事例は、何ら典型的な配偶者加害の事例ではないということが正解です。それでも、国の説明のDVサイクルには当てはまるようです。国のDV理論は、何らの実証的な研究にもとづかないばかりか、元々の原典からも外れた「まがい物」だと思います。
 DVという概念が極めて曖昧なものにされているため、何でもかんでもDVにされてしまいます。本当に国家どころか、他人が介入するべきなのか疑問の事例もどんどんDV認定されて介入が行われています。
 この最大の理由がDVという曖昧な概念だということです。夫婦間の日常的な感情対立もすべて夫のDVだとされています。そもそもDVという言葉を使うことは世界中でも例外的だと思います。通常は配偶者加害という言い方をして、「支配を目的とした暴力」を言うことが多く、偶発的な暴力はのぞかれることが一般的でしょう。そうして暴力や脅迫の内容を限定した上で、危険で重大な結果を生む暴力を、行政や他者が介入して止めるのです。ところが日本では、妻が苦しみ悩んでいたらすべてがDVだと認定される可能性が高いのです。現実の暴力や暴言については何ら吟味をすることがないこともその理由ですが、形式的に妻が警察などに相談をしただけで、「被害者」という用語を使うこととされていることにも原因があると思います。そうして、何ら加害が認定されていないにもかかわらず、夫を「加害者」と呼ぶことにしているのです。総務省は、総務省自治行政局住民制度課の平成25年10月18日の通知で、一般的には、「他人に危害や損害を加える人」という意味で、「被害者」の対義語として「加害者」と いう言葉が使われることがありますが、支援措置においては、上記のとおりこれと全て一致するもので はありませんので、窓口における「加害者欄に記載された者」等へ対応する場合や事務処理要領第 6-10 -サに基づき、庁内で必要な情報共有等を行う場合などはご留意ください。と述べています。しかし、これは日本語の加害者とは全く異なります。日本語として適正ではない用語を国が、それに気づいてもなお使い続けること自体が重大な問題だと思います。素朴な正義感を持つ人は「被害者」と名付けられた人を保護し、「加害者」と名付けられた人と敵対する心理になってしまいます。実際に区役所などの対応は加害者として対応していることが多く見られます。
 かくして、普通の夫婦のいさかいがあっても、夫に原因がないとしても、ひとたび妻がDV相談を受けると、DVだと認定されてしまい、他国では相当激しい暴力等がある場合に限定されて作られた配偶者加害のための救済措置である接近禁止や離婚、連れ去りなどの効果が日本では与えられてしまうわけです。
6 本当のDV(配偶者加害)被害は救済されにくい。では何が必要か。
  DV法の最大の問題は、DV自己申告制にあります。自己申告さえすれば実態が同であれ法の恩恵を受けるのと反対に、自己申告しなければ救済されることはありません。実際の配偶者加害の被害者は、強烈な支配を受け、行動を制限され、孤立させられています。そして、自分への攻撃がいつ来るか予測可能な状態で、常におびえて生活しています。つまり、なかなか外部に相談できない仕組みになっているのです。
  そして、現実の配偶者加害の加害者というべき男性の行動傾向を見ていると、結局は自分に自信がなく、自信がないために妻が自分から離れていくという不安を絶えず持っているようです。このため、自分以外の人間が妻に影響を与えることを極端に心配して妻を孤立させます。また、妻の失敗などをあげつらって、それでも自分は妻を見捨てないというようなアッピールをして、自分につなぎとめようとします。妻の失敗を強調するためと、自分の不安に基づく衝動行為を制御できないために過酷な暴力や脅迫、無意味な行動制限や強制を行うようです。一種の洗脳を受けているようなものですから、なかなか援助希求は心理的にも難しいですし、行動制限があるため物理的にも相談機関に出向くことが難しいのです。このような夫婦関係の在り方、あるいは、人間関係のあるべき姿に関して、まったくの無知であることが多くあります。その多くは疑心暗鬼です。
  家族の分断の法体系では、真に救済を受けるべき人は救済されません。もっと大きな視点で政策を運用する必要があるわけです。
例えばこのような実態を研究し、暴力や脅迫ではない人間関係を提案するべきなのです。無理をせず、不安にならないで人間関係を結ぶことの方が幸せであることは間違いないのです。そして、そのような理想の人間関係、夫婦関係、家族関係の提案の普及によって、自分たちの夫婦や家族の在り方に疑問を持つことができるでしょう。そうしたら、隔離や離婚ではなく、家族再生の方法論を研究し、気楽に相談できる機関が多く増えていけばよいと私は考えています。
  連れ去って離婚してという対策から、家族の在り方、楽しい人間関係の送り方の普及啓発をどんどんするべきです。そして、そのような研究に予算を投じて、民間レベルで研究結果を還元していくことが大切です。それは強制ではなく、提案です。紛争を研究して、紛争を生まないようにする予防法学の分野にも入ってきます。
  この観点から現代のDV法体系の問題を整理すると一言で言うと 法律や警察、裁判等の強制力だけで解決しようとすることに根本的な誤りがある。ということです。その背景として、人間観があると思います。一般の人間、男性や女性、あるいは大人や子どもに対する畏敬の念がないということに最大の問題があるともいます。
  総合的に家族の幸せの実現を図るという観点からの研究を行い、民間と行政と連携しながら強制ではない選択肢を提案して行く、文化として解決していくという政策に転換していく必要があると私は思います。

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【文研研究】「離婚の新常識 別れてもふたりで子育て」しばはし聡子著(マガジンランド)すべての夫婦問題親子問題に直面している人たちに読んでほしい。そして、これから結婚して死ぬまで幸せでいたい人にも。 [家事]

出版のうわさはキャッチしていたのですが
コロナの問題があり、なかなか書店に行けませんでした。
先日仙台の丸善に行ったら面陳列されていて
(ふつう本棚には背表紙を見せるように陳列されますが
表紙を見せるように陳列することを面陳列というそうです)
力を入れて売られているようでした。

日曜日に買って、水曜日に他県で面会交流調停だったので
新幹線の中と待ち時間で読みました。
素直に中身が頭に入るのですらすら読めました。
(見習わなければ。)

内容は期待以上のものでした。
是非皆さんに買って実際に読んでいただきたいので詳細な説明は避けます。

IMG_1405.jpg

最初は子どもを連れて離婚した妻の視点から書かれているのですが、
実際の相談活動では男性側の相談も受けておられるとのことで、
何を書くべきかということをとても意識されており、
男性読者が読むことをきちんと想定されています。

子の連れ去りにあった男性は
最初は、何が起きたのか分からず
衝撃だけを無防備に受ける形になり、
様々な疑心暗鬼をいだきます。

この本を読めば
ある程度のことを理解することができます。

その時の女性の心理をえぐり出すように描かれているからです。
ここは当事者ならではの貴重な情報になっています。
この種の事件を多く手掛けている弁護士としては、
ここで書かれていることは個別事情ではなく
ある程度、共通した心理だと感じました。
他者の相談を自分の体験で咀嚼して、ここで表現されているという感じです。
だから、必ず、これを読む人みんなの問題解決についてのヒントが書かれていると思います。

離婚を経験した人ばかりだけではなく、
夫婦問題で多少なりとも悩みを持っている
おそらくすべての結婚経験者にこたえられると思います。

但し、
妻側の落ち度ばかりを探す視点で読んでしまうと
自分の体験と重なって理不尽な思いばかり蓄積されていくことでしょう。
結局何も理解できない危険もあります。

「自分はどうすればよかったのか」
という疑問を持ちながら読むと
急に視界が開けてくると思います。

もう一つ注意することは、
読者の妻の「どの時点の心理」かというところに注意を払うべきです。

通常の連れ去り事件の場合であると
妻の連れ去りの直前あたりの心理や
連れ去りを決意する過程(不満の飽和過程)
ということで読んだ通り理解すればよいです。

そうではなくて、
例えば、女性が不貞をして、それにもかかわらず
夫にDVがあったなどと言い張って連れ去りをする場合
(最近は結構多くあります)
こういう場合は、連れ去りの時点を不貞の時点と置き換えて読む必要があります。

どうして妻が不貞をするに至ったのかという視点で
不貞をする前の段階までさかのぼって理解しようとすると
重なる部分がきっと見えてくるはずです。

この読み替えはご苦労されると思います。
不貞は悪いことだということは間違いないので、
不貞をされた被害者は100パーセント相手が悪いと思って疑いませんので、
それ以上の考察に至ることが難しいものです。
当然のことです。

しかし、そのとらわれから自分を解放し、
(自分が悪いわけではないにしろ)
自分がどうすればよかったかという視点を持つことができると
案外事態が見えてきて
余計な苦しみから逆に解放されることが少なくありません。

「それでは、これからどうしたらよいのか」

少なくとも対立を激化させるより鎮静化させる方向へ
話を持っていくことが求められるということに気が付かされます。
しかし、裁判所などでの話し合いはまっすぐには進みません。
男性と女性でどうして対立するのか
という男性の時間軸と女性の時間軸との違いも明快に書かれています。
ここは大変勉強になりました。
多くの事件を考えると思い当たるところが強くあります。

この本は、
連れ去りにあった男性たちに
特にこれから子どもたちに自分を会わせるんだと頑張っているすべてのお父さんたちに
是非読んでほしい本です。

間違った方向、目的から遠ざかる方向から
目的に向かっての最短コースに修正をすることができる本です。

もちろん、離婚をしようとしている女性たちも必見です。
弁護士として常々もったいないなあと感じているのは
わざわざ離婚までしようとしているのに
離婚しきれない女性たちの行動と感情です。

わざわざ無駄な問題を起こして
結果として相手を挑発して、その相手の反応によって
ご自分のストレスを高めているという悪循環がよく見られます。
この本を読めば
何がストレスの温床で
どうすればそれが解決するのか
という方法が描かれています。
堂々と胸を張って離婚後の人生を謳歌する方法が提案されています。

本当の意味での女性解放の道筋が描かれていると感じました。

最も感心したことは、
子どもに対してどのように愛情をかけるか
という根本的なことが中心に据えられていることです。
その注意ポイントが具体的な体験をもとに描かれています。
これは身を切るような作業だったと思います。

どうも、自分が苦しいと
他者の苦しみから目を背けてしまう傾向があるようです。
「自分が苦しんでいるのだからあなたの苦しみは勘弁してほしい」と
そう言う言い訳を自分の年端のいかない子どもに対しても
知らず知らず行っているという警告は背筋が凍る思いでした。
ここに気が付かれたのは、
お子さんをよく見ているから、お子さんに愛情をもっているから
ということになると思います。

もしかしたら、両親の離婚を経験した方も
この本を読むと何が起きたのかが理解できるかもしれません。

さらには、これから、結婚して子どもを作ろうとする方も
ほとんどの夫婦が多かれ少なかれやっている間違いを
予め知識として持つことによって
無駄に傷つけあうことをしないで済むようになるかもしれません。

弁護士にも、家庭裁判所にも
他人の結婚問題に首を突っ込むことをしている人たちすべてが
必ず読んで、考えなければならないと思います。

この本は、
不思議な本です。
学術書でもマニュアル書でも体験本でもなく、
またそのすべてでもあるような本です。

一番のセールスポイントは
読んでわかるし、すぐに役に立つことです。
その意味では、間違いなく格好の実務書です。
夫婦問題、親子問題を抱えている私のすべての依頼者に
お勧めすることになると思います。

追伸
「はじめに」にすべてのエッセンスが凝縮されていると思います。
書店で手に取ってここを読まれて心が動いた方は買いだと思います。

漫画も読む順番を間違えましたが
なかなか良い味わいです。
泣けました。


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【緊急警鐘】イソジン(ヨード)の誤用は重大な副作用が起きます。良薬の落とし穴。なぜ弁護士が呼びかけるか。 [家事]

誤解しないでいただきたいのは、
イソジンは、良く効く薬です。
先月、私自身
歯茎を傷つけたことから細菌感染を起こし
腫れあがった上に膿まで出てきてなかなか治らず
病院になかなかゆけないで困っていたところ、
ふと思い立って、イソジンを用法のとおりに薄めて使用して
患部をゆすいだら
2,3回の使用でたちまち腫れがひいたという
体験をしたばかりなのです。
水道水の洗浄ではこうはいきませんでした。

正直イソジンと正露丸には信仰のようなものさえ持っているのです。
あとモーラステープですね。

但し、どんな良薬でも薬ですから副作用は必ずあります。
イソジンに含まれるヨードの場合は、
甲状腺モルモンの体内合成を阻害する副作用があるので、
これを習慣的に使用してしまうと
ヨードの体内過剰摂取が起きてしまい、
甲状腺機能低下症をおこす危険があります。

甲状腺機能低下症は、
様々な症状を起こしますが
甲状腺ノート(非医療関係者)3 甲状腺機能低下症
倦怠感(このために家事や仕事ができなくなってしまう)
うつ病のような精神症状、つまり、
悲観的な傾向、過剰不安、意欲の低下、妄想的な被害意識
身体的影響も出てくるようです。

どうしてこのようなことを弁護士が言うのかという理由ですが、
俺は知っているぞ的な知識ひけらかし、しったかぶり
というのもあるのかもしれませんが、
業務上、患者さんによく出会うからです。

対人関係トラブル(離婚、職場のトラブル、近所づきあいトラブル)に
よく出てくる病名だからです。
甲状腺ノート(非医療関係者)を作成したいきさつ

しかも、病気が原因でさしたる理由がないにもかかわらず
夫に不信感を持ち始める妻に対して
「あなたは悪くない。それは夫のモラハラです。DVです。」
なんて言ってアドバイスをする公的支援者たちが多いものだから
無駄な離婚が増え、子どもたちが父親に会えなくなる
というケースが多発しているのです。

病気が原因だと分かれば
治療を受ければある程度は、精神症状、身体症状も落ち着きます。
また、病気を理解することによって双方の誤解も解け
温かく見守る方法も探し当てることができるのです。

患者さんは、治療を受けることによって
より重篤な状態にならなくてすむわけです。

この治療や相互理解の機会を、
甲状腺機能異常という概念を知らないために放置され、
離婚して何年もたつのに、
理由のない夫に対する恐怖感情が継続している人たちを見ています。

人間関係の修復を目指すものにとっては
天敵のような病気です。
だから、無駄にこのような疾患にり患する危険から守るために
この記事を書いているのです。

さて、問題はここからです。

ヨードを過剰摂取しても
健康体の人は一時的な症状が出るだけでおさまるようです。
元々甲状腺機能に問題がある人などに
甲状腺機能低下症の発症や症状進行が見られるというのですが、
実は甲状腺機能低下症は
かなり多くの人がり患しているのに
なかなか発見されないという特徴があるそうです。

アメリカでは人口の10パーセントが甲状腺機能低下症にり患している
とアメリカの専門医が言っていました。

日本でも見過ごされている甲状腺機能低下症が
実はかなり多くある可能性があります。
見過ごされる理由があるからです。

健康診断で検査項目がないことが多いということもありますし
触診で甲状腺機能異常を疑うことができる専門医が少ないという問題もあります。
また、うつ病や統合失調症、認知症と誤解されて適切な治療をされないこともあるようです。
さらには、さまざまな婦人科疾患と間違われる場合もあるようです。

多いのは、程度の軽い甲状腺機能異常です。
性格や人格に問題があると誤解されたり
倦怠感の症状をなまけ病ということで非難されたりしていることです。
大事な人から誤解されたり
自分自身を誤解して苦しんでいる人が多いようなのです。

きちんとした服薬で症状が抑えられ
無駄に苦しむことがないことが多いのに
発見されにくいので適切な治療を受けられないという問題があるそうです。

そこに来てイソジンの過剰摂取で症状が重篤化したらと思うと
心配でなりません。

イソジンの紹介のされ方が誤用を招くされ方だという問題が一つあります。
予防のために、心配に任せてうがいをしていたら
コロナが収まるまで長期にわたって使用する危険があります。
単なるうがい薬だという誤解を与えれば
用法を守ることに注意が向かない危険もあるでしょう。
簡単に過剰摂取になってしまう危険があるわけです。

さらに、コロナが陰性になるということも大きな問題です。
症状が出て、感染や発症を自覚している人たちが
隔離を恐れてイソジンを使用して
医療機関などに行かない傾向が出てくる危険はないのか
ということを考える必要があるということです。

これは大きな問題を引き起こすでしょう。

無責任な発言をした人だけでなく
無批判にその発言を拡散したメディアは
このような危険を発生させたという自覚を持ち
自らが発した危険な情報から国民を守るために
必要な情報を十分すぎるほど提供しなくてはならないと思います。

そうやって、私の常備薬イソジンも守りたいと思っています。





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つい虐待をしてしまう親御さんへ。虐待をしないことよりも虐待をしてしまった後のフォローならば頑張れるかもしれませんよ。 [家事]



1 ついしてしまう虐待。その後のフォローとは。
2 もしかして、親御さんはまじめすぎるのではないですか。
3 もしかして、親御さんが追い込まれているのではないですか。
4 もしかして、親御さんは体調が悪いのではないですか。
5 虐待されたお子さんの気持ちの動き
6 子どものために大勢の人の世話になろう。借りを作って豊かな人間生活を送ろう。

1 ついしてしまう虐待。その後のフォローとは。
 
親だって人間ですから、お子さんに対してだって
自分の素の部分が出てしまうことがあるのはみんな同じです。

つい大声で注意してしまったり、
言葉の内容がきつすぎたり
時には手が出てしまったり、
あるいはどうしても必要な世話ができなかったり
多少なりとも親ならば覚えがある方が多いと思います。

やってしまった後で後悔するのですよね。
その時の子どもの表情が
信じられないという表情で、恐怖の表情でこちらを見たり、
泣き出して収拾がつかなくなったり
悲しい顔をして黙り込んだり、
それを見ると、忘れられなくなり、
ああ、自分は悪い親だなと思うわけです。

虐待してはいけない、してはいけないと思うと
逆にそれがプレッシャーになって
余裕がなくなってきたりします。

発想を変えてみるということがあると思うのです。

ある程度虐待には目をつぶってもらうとして、
大事なことはそのあとのフォローだと考えてみてはどうでしょうか。
もっとも、命を奪ってしまったり、
一生消せない傷を負わせてしまってはこのお話も通用しません。

考えてみれば、
昔から子どもはぞんざいに扱われることが多くありました。
それでも健全に成長していました。
今とそのころと違うのは、
昔は誰かがフォローをしたということです。
例えば母親が感情に任せて手を出したとしても
おばあさんが、
「お母さんはあなたが大事だから、心を鬼にしていってくれたんだよ」
とか
一緒に住んでいるおじいさんが
「あとで一緒に謝ってあげるから心配しなくていいよ」
等と飴などくれながらフォローがあったものです。

お母さんもお父さんも他の家族の目があるから
自分をある程度はコントロールできていた
ということもあったと思います。

父親が子どもを叱った後で
母親がとりなすというパターンも多いでしょうか。

あるいは別の人がとりなさなくても
感情に任せて叱った後で、はっと気が付いて
「お父さんはお前が憎くて怒ったわけではない。
 このことは大切なことだからどうしてもわかってほしかったのだ」
等と都合の良いことをずうずうしく言って
子どものフォローなのか自分のフォローなのかわからないようなことを
言ったものです。
それでも子どもは救われたと思います。

フォローとは
自分の行動が子どものために行ったことだという説明と
(多少嘘でも構わない)
自分は子どもを憎いと思っていない、愛している
どんなに失敗しても親として見捨てることはない
というメッセージを伝えることです。

子どもの年齢によってはハグも有効でしょうし、
気持ちを切り替えて一緒に何かをするということも良いでしょう。
要するに
お子さんが自分は嫌われていない
自分は厄介者にされていない
自分は見放されることはない
という感じさせることがフォローなのでしょう。

お父さんはあなたを大切に思っているよ
お母さんはあなたが嫌いではないよと
虐待した後は必ず言いましょう。
それから虐待しないときでもいつでも
是非至近距離で、声の風が伝わるところで
時々は声に出してお話ししましょう。

時々は子どもに思いっきり甘えさせましょう。

つい手が出てしまったり、ついきついことを言うのをやめられなくても
フォローをすることはできることです。
できるだけ間髪開けずにフォローしましょう。
できれば、虐待する前でもフォローしましょう。

2 もしかして、親御さんはまじめすぎるのではないですか。

虐待をする親御さんをむしろ心配している年配の私たちがいます。
もしかしてこういう方々が多いのではないかということです。

第1は、まじめで責任感がありすぎるのではないかということです。
お子さんの些細な失敗や不十分点も
今のうちに直しておかなければならないと思って
100パーセントできるまで追及してしまうとか。

お子さんの道徳に反したことに絶対に言い訳をさせない、
親は間違ったことを許さないという態度をとらなくてはならない
と思い込んでいらっしゃるとか

大きな声を出したり、手を出したりしたあとで
自分が許せなくなり、フォローができない
フォローなんて図々しいと思ってしまう。

正直すぎるわけです。
でもそれでは、だれも幸せになりません。

子どものためならずうずうしくて良いのではないでしょうか。
あなたが潔癖でいる事より
お子さんの気持ちを優先するべきだと私は思います。

まじめすぎる人は
二度と虐待はしないと誓ってしまいます。
誓ってしまうと
ご自分が失敗してしまうと自分が許せないですし
一度手を出したりすると
自分は虐待しなくては生きていけないんだと
わけのわからない発想に陥って、くよくよしてしまいます。

自分の失敗や風十分点こそ許しましょう。
自分に甘くすることが虐待を少なくする出発点かもしれません。

自分を甘くすることによって
子どもはもっと甘くしていいんだということがわかるようになると思います。

いいじゃないですか
たまには子どものずる休みに付き合って一緒に昼寝するのも
子どもにとっては一生の思い出になるかもしれませんよ。

3 もしかすると親御さんが追い詰められているのではないですか。

もっと心配なのは、
親御さんが、会社ですとか、家族ですとかから追い詰められていたり、
あるいはお金がなくて困っているとか
解決不能の問題に直面していて
自分を守れないと感じている場合です。

こういう場合は、一時的に頭がおかしくなっていますから、
子どもの何気ない仕草でも
子どもが自分を馬鹿にしているのではないか
と感じやすくなっています。

子どもを疑ってしまうときは
何か感謝ができることを探しましょう。
あるぼろぼろの時、
自分が夜風がしのげる家で眠ることができる
ということを感謝してみたのです。
そうしたら、いろいろなことを感謝できるようになり、
笑ってみることもできたのです。
もっともそれを誰かが見ていたら
おそらく不気味に感じたと思います。

親だって失敗してよいのだと思います。
失敗から立ち直る姿を子どもに見せられたら
子どもにとってかけがえのない財産になるでしょう。

失敗しないことを見せるよりも
失敗を跳ね返すことを見せる方がより実践的なしつけです。
必ず失敗することはあるのですから。

それができるのは親のあなただけです。

子どものために頑張るというのは、
失敗を無かったことにすることだけではない
と私は思います。
フォローというよりリカバリーですかね。

誰かに助けてもらえば良いのです。
助けてくれそうな人がいなければ
片っ端から相談して助けてくれる人を探せばよいのです。


4 もしかして親御さんは体調が悪いのではないでしょうか

気が付かないうちにお体を悪くされて
どうしても朝起き上がることができない
どうしても立ち続けることができない
ご飯を作ることすら集中力が続かない
ということはあることです。

それでも、やるからには
一つ一つ手作りで、一つ一つの栄養を十分に
なんてことを固く考えていると
結局何もできません。

小学校の中学年くらいまでは
炭水化物中心の食事で構わないと栄養士の先生の本に書いていました。
ごはんとか、パンですね。
パン買っておくとか、場合によってはお弁当を買っておくとか
時にはカップのラーメンを買っておくとか
どうしてもできないときは
勘弁してもらうしかないと思います。
何もしないことよりずうっとましです。

なまじゴミ箱なんか使わない。
大きなごみ回収袋を用意して
片っ端から入れていく方が実行的なときはあります。

元気になってからまとめてお世話するしかないと思います。
困ったときはお互い様です。
最後にお話ししますが、
子どものために、誰かの世話を受けることも検討してください。
それだけは、あなたが他人の世話になることが嫌でも我慢してください。
だけど、世話になりやすい人って必ずいますから
情報を入手しましょう。
片っ端から探してみましょう。

弁護士という仕事柄
罪を犯した人と話をするのですが、
いろんな人に支えられて今いることを思い知らされた
借りを作り、みんなに感謝しながら生きている方が
一人で頑張って生きるよりも
よほど豊かな人生を送ることができる
他人にも優しくなれるという言葉が印象的でした。

5 虐待されたお子さんの気持ちの動き

虐待の内容によって違うところはあると思うのですが、
虐待を受けた子どもの心をのぞいてみましょう。

人間に限らず動物は、生きていたいと思うものです。
馬は草を食んで、肉食獣が来たら群れで逃げたいと思うでしょう
ライオンは、力を強くして走って獲物にとびかかろうとするでしょう。
生きていくために動物はいろいろな戦略を立てて生き延びてきました。

言葉の無い時代から
人間は仲間を作るという戦略で生き延びてきました。
仲間から外されると不安になるので
自分の行動を改めても仲間に入れていてほしい
と、だれも何も教えなくてもそういう気持ちになります。
そういう仕組みで仲間を作ってきたわけです。

一言で言えば
仲間から外されそうになると不安でいっぱいになる
ということが仲間を作って生き延びる方法だったわけです。
そう言う不安にならない人間たちは生き延びることができず
不安になれる個体だけが子孫を残していったとも言えるでしょう。

子どもは特に仲間にしがみつこうとします。
自分では何もできない、生きていけないので
仲間に強烈に依存しています。
子どもは依存の天才です。

ところが虐待をされるということ
叩かれたり暴力を受けること
人格を否定する暴言を受けること
食事や排せつなどの世話をされない放置
殺伐とした家庭環境におかれること
等を受けている子どもたちは
自分が仲間として扱われていないということを感じて
たまらなく不安になるわけです。

馬で言えば足を折られそうになっている場合の不安ですし、
ライオンで言えば、牙を全部おられるときの不安
と同じということです。
つまり、自分を守ることができなくなる
という現実を突きつけられるわけです。

ここから先はお子さんの個性によって変わってくるようです。

あるタイプのお子さんは
親が自分の仲間になってくれないなら
およそ誰も人間というものは自分に利益を与えてくれない
誰でも人間を見たら攻撃者だと思い遠ざかり
近づいてくるものに敵意を示す
という具合になっていきます。
これは人間だけでなく哺乳類全般の傾向らしいです。

もう一つのタイプは、人間特有なのですが、
自分が仲間扱いされないならば
仲間扱いされるまでこびへつらうというタイプです。
なんとか機嫌を損ねないよう常に細心の注意で相手を観察し、
何か間違った行動をしてもひたすら隠したり
自虐的な行動をとる
誰にでもすぐになつこうとしてうっとうしがられる
適正な距離を保つことができず
悪い大人の食い物になるパターンもこのタイプです。

ずいぶん前に母と祖母からの虐待で亡くなった10歳の女の子は、
亡くなる半年前、小学校での2分の1成人式で
「お母さん大好き」という作品を残していました。

多くの虐待を受けた子どもたちは
自分の親を嫌いになるとか、親の元を去るという選択肢を
初めから本能的に与えられていないのです。

そのようなお子さんたちが
今自分が受けている理不尽な対応をどのように考えるのでしょうか。

殴られたくない、疑われたくない、タバコの火を押し付けられたくない
ご飯を食べたい、大事にしてもらいたい
仲間外れにされたくない
でもそれをしてくれない。

自分が悪くないのにそういう目にあっている
そう正しく理解してしまうとどうなるでしょうか。
待っているのは今の苦しい状況から逃れる方法はないという悟り
つまり絶望です。

人間は絶望を感じることに耐えられません。
絶望を感じてしまうと命も大切に思えなくなるようです。
このため、
無意識に絶望を回避する思考をしているようです。

子どもたちであれば
自分が悪いからこういう目にあうのだ
自分がもっと良い子であれば
もっと楽な生活が送れる。

それは、子どもにとって絶望に陥らないための
ぎりぎりの生きるための知恵だと言われています。

理不尽な目にあえば会うほど
自分は悪い人間だと自分に言い聞かせて大人になっていくわけです。
自分に自信がなく、幸せになれるということも信じません。
どうして生きてきてしまったのかなんてことを考えるようです。

ですから、
虐待の最大の問題は子どもの心に与える影響です。
暴力暴言、ネグレクトだけが虐待ではない
暴力暴言、ネグレクトがなくても
虐待をしているかもしれないのです。

6 子どものために大勢の人の世話になろう。借りを作って豊かな人間生活を送ろう。

人間はサルやクマなんかとは違う種類の動物です。
母親だけが子育てをするわけではありませんし、
両親だけが子育てをするという仕様にはなっていません。

多くの大人たちによって子育てをしてきました。
それができない現代社会は
人間という動物種にとっては異常な時代なのです。

子どものためにたくさんの人に借りを作りましょう。
不自由な思いをしても、感謝ができるということは
人間として生きるということだと思うのです。

どうしても人間は絶望を回避するために
自分が悪いからうまくいかない
という風に思いがちです。
本当にそうでしょうか。

私は、
子育てに関しての社会的なハンディキャップを放置している現代社会は
人間社会になり切れていない未成熟社会だと感じています。
子育ては親の責任かもしれませんが、
子どもに自己責任を負わせるわけにはいかないじゃないですか。

親を中心としてみんなで子どもを育てるシステムが
あまりにも貧弱なだけではないかと考えているのです。
社会というシステムの整備の
優先順位を間違っていると思います。

安心して誰かを頼れるシステムがないということは
本当に問題です。
子育ての相談をしたら
子どもを取り上げられてしまうということでは
誰にも相談ができなくなってしまいます。

不利益を受けるのはいつも子どもです。

子どもの利益を第一に
しかも科学的に考えたシステムの構築が
最優先事項だと思います。

「きちんと子育てをさせろ」
社会に向かって要求することが
人間らしい要求であると私は思います。

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夫婦喧嘩の悪影響 子どもの前で夫婦喧嘩をしてしまった場合に、必ずしなければいけないこと。 [家事]


同じことを他人から言われても
笑って聞き流すことができますが、
どうしてっていうほど、頭に来ますよね
妻から言われたり、夫から言われたりすると。

対人関係学的に言えば
潜在意識の中で、
一番尊重されたい相手だ、一番大切にしたい関係だ
と感じているので、
些細な非難めいたことでも、
強烈な痛みに感じてしまうから
自分を守ろうとして、相手を攻撃してしまう
という言い方をしています。

いずれにしても、
夫婦喧嘩ということはついしてしまうことで、
5秒待ってから怒りを表現しようなんて余裕は
私の理論からすると
相手を愛していればいるほど無理な話だということになります。

5秒なんて待っていたら
過去にもああ言われた、こういう目にあった
なんてことを思い出して、ますます逆上してしまう
と思うのですが、まぜっかえしすぎな屁理屈でしょうか。

しかし、夫婦喧嘩は子どもに対して悪影響がある
これは統計的に確立された結論のようです。
(シャファー「子どもの養育に心理学が言えること」)

夫婦喧嘩を見せることが児童虐待にあたるとも言われています。

確かに自分の両親が喧嘩しているのを見ることは嫌なことです。
子どもにとっては、両親が円満でいることこそ家族のようです。
家に帰ってきたくなり、家に帰れば安心して
嫌なこと、危険なことの体験を親に報告してアドバイスをもらう。
子どもだけでは解決しないことがあれば
大人が解決に乗り出す
こういうことが可能となります。

ところが夫婦喧嘩を見せられると
自分の所属するべき家族が、今にも空中分解するのではないか
という気持ちになってしまうようです。

夫婦だって、別に安心しきって喧嘩しているわけではないのですが、
一人になってもそれなりに生きていけると感じているのが大人ですが、

子どもはこのまま両親の喧嘩がついてしまった結果
学校にも行けなくなるのではないか。ご飯も食べられなくなるのではないか
みたいな不安を覚えるようです。
当事者が感じているよりもばかばかしいほど大きな
恐怖を感じるもののようです。

夫婦喧嘩ばかりの家では、子どもは常に緊張しており、
夫婦喧嘩の様子を自分の将来に重ね合わせて
ドキドキハラハラしているようです。

家が、家族が無くなってしまうのではないかという恐怖は
自分がどうにかなってしまうのではないかという恐怖と同じです。

これは離婚した後も続くようで、
現在では離婚の子どもに与える悪影響よりも
離婚した後の親の葛藤が子どもに与える悪影響の方が大きい
と言われています。

ところが、シャファーの調査研究紹介で面白いことが報告されていました。

夫婦喧嘩は、やりっぱなしで終わるよりも
最後何らかの解決に落ち着く方が
子どもへの悪影響は少なくなるということでした。

これから考えると
子どもの前で夫婦喧嘩をしてしまってもそれで終わりではなく、
ある程度歩み寄って、あるいは嘘でも良いから
子どもの前では問題を解決して
夫婦喧嘩を終了させることが大切だ
ということになりそうなのです。

「そうだね。カッとして大きな声を出したことは悪いのでそこは誤ります。」
「この点については、改めて考えてみます。」
「大事なことなので、また話しましょう。」
ということで、嘘でも良いので、その場を完結させる。
これは子どもの前で喧嘩したときはどうしても必要な作業のようです。

子どもの前でヒートアップしたときは、
どちらかふと我に返った方が
謝れるところを探して謝るという作業が第1ということになるのでしょう。

声を大きくした
乱暴な言葉を使った
言わなくても良いことを言った
ものにあたった等

こういうルールを作り、何度も確認することが
子どもへの悪影響を最小限にするための方法だと思います。

夫婦喧嘩をしないに越したことはないと思いますが。

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体罰が子どもにとって有害であるかについては科学的に結論が出ていない。これをどう考えるか。むしろ体罰をやめようとするよりも大切なこと。 [家事]



体罰禁止を法に盛り込む方向で検討が加えられているようです。
しかし、驚くべきことかもしれませんが
科学的には、体罰が子どもの成長にとって有害である
との証明はなされていません。
(「子どもの養育に心理学がいえること 発達と家族環境」
 H.R.シャファー 新曜社)

本稿は、
科学的に証明されていないのだから体罰禁止をすることをやめろ
ということを言いたいのではありません。
体罰が子どもの成長に影響があるという証明ができない理由の分析と
もしかしたら
子どもに悪影響を与える体罰と
健全な成長を壊さない「体罰を含んだしつけ」があるのではないか
ということの問題提起と
何よりも、体罰よりも気を付けるべきことがあるのではないか
ということを一緒に考えたいということです。

シャファーは、統計調査に基づいて
「体罰が子どもに悪影響を与えるかわからない」と結論付けています。

近年の心理学は、理系の学問であり
統計調査の手法はかなり洗練されています。
体罰の定義もきちっと定めて調査を行っているのです。

しかし、それがために、
個別の具体的な体罰についてリアルな違いを調査することが
不可能になっていると思います。

例えば、親が子どもに平手打ちをすると言っても
①反射的に手加減をする余裕なく平手打ちをする
②色々言い分を聞いたうえで、必要な罰として選択された平手打ちをする。
③平手打ちをするけれど、叩いたところをさすったり、抱きしめたりして
愛情を示すフォローをする。
④平手打ちをした後声もかけずに孤立させる

①④の組み合わせは子どもに害がありそうですね。
さらに追い打ちをかけて子どもをののしっていたら
子どもの心はさらなる害を受けるでしょう。
殴った後で指をさして笑っていたらますますひどい。

②と③の組み合わせであれば
よほどひどくたたかない限り
子どもに害はないのではないかと考えてしまいます。
叩いた親の方が悲しそうな顔をしていたりしたら
「自分が悪かった」と子どもも思うのではないでしょうか。

こういう細かい事情は統計では調査しきれません。
個別聴取の方が有効でしょう。
ただ、個別聴取は大量聴取ということが逆に難しいため、
普遍性のある結論をだすことには難がある
という弱点があります。
どうしても一長一短があることは仕方がないことです。

対人関係学は、統計学や実態調査が不可欠であると考えていますが、
この間隙を理論的に考えることが多いかもしれません。

体罰の問題で言えば、対人関係学は
体罰が、子どもの成長に悪影響を与えるとしたら
それはどういう理由なのかというところから考えるのです。

暴力の直接の害悪は
痛いということ、あるいは
身体の完全性を損なう可能性があるということです。
しかし、心への影響はもう少し複雑だと思います。

子どもに限らず、人間は仲間の中で尊重されていたい
仲間から見捨てられたくないという意識を持ちます。
子どもの場合はもっと積極的に
大人の仲間から守られたいという意識があります。

だから、むしろ健康を気遣われることが当たり前だと感じています。

それが、逆に大切にされたいと本能的に感じる親から
健康を害する行動を自分に向けて意図的に行われることは
自分が仲間として認められていないということを強烈にアッピールされ、
やがては仲間から追放されて、孤立してしまう
というような負の感情を抱いてしまうと
そこまで整除立てて感じているわけではありませんが
不安や恐怖、疎外感などという感情が起きてしまっています。

体罰が理不尽であればあるほど
生命身体の危険とは区別された
対人関係的な危険を感じやすくなり
大きく感じやすくなります。

そうだとすると
体罰がきついものでさえなければ
体罰が一律に対人関係的危険を感じるわけではない
ということが言えないでしょうか。

(体罰がきついものであり、その体罰によって生命身体の危険を感じるほど強ければ、「生きるために自分を守る」という意識が芽生え、常時一緒にいる親に対して警官感、緊張感が持続してしまいます。このような場合、一般に人間を避けるようになるか、人間にこびへつらっていないと心配でたまらない人間に育ってしまいます。慢性持続的緊張は、生理的も悪影響が生じ、思考などにも有害な影響を与えてしまいます。)

孤立感や不安を与えない体罰であれば
それほど有害ではないのではないかとも考えます。

色々な状況で
体罰が有効であることが否定できないように思うのです。
例えば、子どもが
頭ではその行為をしてはならないと理解しても
どうしてもやってしまうということは
子ども時代の自分を考えると
ありうるような気がします。

つい、教室の中で授業中に勝手に席を離れてしまうとか
つい、友達に乱暴なことをしてしまうとか、
(相手の痛みを想像することができない子どもの攻撃は
常軌を逸していて大変危険であることがあります。)

親の言いつけを守らないで、雨降りの河川敷で遊んでいたり、
知らない人について行ったり等
子どもの命の危険を防止するということも必要です。

もちろん、暴力を使わないで
子どものしてしまったことの深刻さが伝えられれば
それに越したことはありません。
子どもが体罰抜きでそれを理解できればそれに越したことはありません。

しかし、伝わらない、理解することができない場合
それでも、伝えなければならない、理解しなければならないときがあります。

体罰も含めてしつけは家庭の問題です。
国家が介入することは慎重にあるべきだと思います。

それはともかく、
つい、つい、だめだと分かっていても
おとなも子どもに手が出てしまうことがあります。

あまりにも体罰はしてはならないということを強調してしまうと
体罰をしてしまった自分が
極悪人のだめな毒親のような気がして
落ち込んでしまう人もいるのではないでしょうか。

落ち込んで反省して、叱り方を研究すればよいのですが、
そんなに都合よい情報は検索しても出てきません。
むしろ、自分はダメな親だと開き直って
体罰を気にしなくなってしまうことが心配です。
誰にも相談できないで体罰が繰り返されることも心配です。

一つの方法として覚えていていただければ
役に立つのではないかということを最後にお話ししてみます。

体罰をしてしまったとき気にするべきは
子どもが「自分は親から嫌われているのではないか」
「親から見放されるのではないか」
「これからは一人で生きていかなければないか」
というような心配を言葉にできない状態で不安になっているということです。
そういう子どもの心を気にするべきです。

叩いた場所をさすりながらでも良いし
手を握ながらでも良いし
抱っこしながらでも良い

叩いたことを率直に詫びながら
例えば
「そういう乱暴なことをしないでみんなと仲良くしてもらいたいんだ」
「もう大丈夫だよ。学校の先生の言うことを一番にしようね、」
とか、
どうして体罰をしたのか合理的な説明をすることが一つです。
もう一つは、
「あなたが一番大事だよ」
というメッセージを、わざとらしく、くさく、繰り返すこと。
脈絡を気にしないでよいのです。

この二つのフォローすることによって
体罰があっても子どもの心を傷つけないのではないか
ということです。

これは子どもにとってのフォローなのですが、
体罰をしてしまう親にとっても
再発防止に役に立つ自己暗示の一種になると思っています。

最後に、単なる親のイライラのはけ口で子どもに八つ当たりをすることは単純な虐待であり、ここで考えている体罰とは関係がないのでご注意いただきます。

その点についてもまとめの途中ですのでもうしばらくお待ちください。




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子どもの貧困対策として養育費の支払いの強制の政策は、子どもにとって有害である愚策であること。養育費を支払う意義ともっと簡単な方法。 [家事]



先日法務大臣が、養育費の未払いが子どもの貧困の大きな原因だと言ったという報道がなされたけれど、誤報であろうと思いたい。現在の法務大臣は、過労死防止対策等で実践的に活躍されている方である。きちんと問題点、原因、改善方法を理解されてお話をされていた。こういう論理的思考ができる方だから、感情的な、非論理的な話をされるとは到底思えないからだ。
本拙文は、養育費の支払いを行政が強制する政策が、きちんとした政策ではなく、感情的、非論理的な政策であり、子どもにとって害悪しかないということを説明することを目的とする。併せてどうすればよいかということも説明する。

1 子どもの貧困を養育の未払いが原因だとすることは政治家と社会の責任逃れであること。
2 養育費が支払われることの子どもにとっての意味
3 養育費を強制することの子どもにとっての弊害
4 養育が支払われない事情
 1)同居親が養育費を請求しない事情
 2)別居親が養育費を支払わない事情
5 養育費が支払われるための簡単な方法
6 養育費が支払われるための根本的な解決方法
7 いま進められている制度に全く賛成できないということ

1 子どもの貧困を養育の未払いが原因だとすることは政治家と社会の責任逃れであること。

先ず、子どもの貧困の一番の原因は何か。当然賃金が低いということである。男であろうと女であろうと、大人が働いて子ども一人養えないというのである。これは社会の問題であり、政治の問題そのものである。さらに男女間賃金格差があること、働き口はあっても雇止め等不安定雇用が子どもの貧困の最大の原因である。特に政治家が、このような社会環境を放置しているという自らの責任を、低賃金労働者の責任にすり替えることは許されない。女性の権利を主張する人たちも、主としては元夫に責任を求める傾向にあり、低賃金、男女格差、不安定雇用を子どものために改善しようということが前面に叫ばれることが少ない。低賃金、男女格差、不安定雇用の恩恵を受けている企業や政治家にとってだけ、とても都合の良い主張ということになる。アメリカのフェミニストであるナンシー・フレーザーが、「現代のフェミニズムはグローバル企業のサーバントに堕落している」という主張をしているが、養育費をめぐる議論はこの具体例であり、象徴的な事例である。

2 養育費が支払われることの子どもにとっての意味

それでは、養育費は支払う必要がなく、低賃金、男女格差、不安定雇用の改善をもっぱら主張すればよいのか。それも違う。養育費を支払う意味は、子どもの経済的安定だけではないからである。
むしろ養育費を支払う一番の目的は、子どもの自信の獲得である。子どもは一緒に住んでいない親からも愛情を注がれることを実感することによって、離婚によって被る負の影響である自信の低下を軽減することができる。(また、自分が尊重されていると実感するためには自分の親も否定されないということが必要である。これは、結婚後、相手から自分の親の悪口を言われた場合にどういう感情になるかということで、多くの既婚者は体験していることと思われる。)
子どもは、毎月、決められた金額が欠かさず自分のために振り込まれるということを知ることで、自分が別居親からも大切にされていることを実感できる。養育費は子どもの自信のためにとても有効な方法である。養育費や婚姻費用の別居親からの支払いを子どもに隠す同居親がいるが、この意味で同居親が送金の事実を隠すことは子どもを害することである。親としての資格が欠落している。
相手が嫌いでも、「あなたのために頑張って毎月送金してくれているんだよ。いつもあなたのことを考えてくれているんだね。」と嘘でも言うことが子どもに対する愛情である。これができないということは、子どもの成長よりも自分の感情を優先しているだけの話である。

3 養育費を強制することの子どもにとっての弊害

さて、このような重要な養育費が支払われないということは子どもにとって害悪である。しかし「養育費が支払われることが必要なのだとすれば、支払わない親に支払いを強制するべきではないか。」とこのような乱暴な理屈がまかり取っているのが現代日本である。どうして乱暴な議論かというと、最大の問題は、子どもが実の親が裁判所などから強制的に支払らわされているということを知った場合、養育費の支払いは別居親が自分に対する愛情だということは到底考えないからである。さらに、自分は、強制されなければ約束も守れない親の子どもだということを子どもに突きつけることとなる。また、強制という安易な方法に飛びつくことは、結局強制されなければ支払わない現状は変わらず、放置されたままになる。今一番考えなければならないことは、強制的に支払をさせるための費用を貧困者であるはずの同居親が負担しなければならないということである。現在進められているプランは、住宅の賃貸借契約のや住宅ローンの保証会社の保証契約のように、毎月の養育費の支払いの中から将来支払が行われなくなった時に備えて、養育費の一定割合を保証会社に支払うというプランである。ただでさえ少ない養育費がさらに子どもに回らなくなるといういわば貧困ビジネスである。
このような乱暴な意見が出てくる理由は一つしか考えられない。つまり、なぜ、養育費が支払われていないのかという原因を考えていないからである。原因も考えないのであれば有効な対策を考えつくはずがない。力によって取り立てる事しか考えられないのである。そもそも養育費を支払う理由が、子どもの健全な成長のためだという意味を知らないということにも起因する。この二つの無知は、結局、子どもの健全な成長を図るということが出発点になっていないということを意味するのである。

4 養育が支払われない事情
 1)同居親が養育費を請求しない事情
   先ず、養育費が結果として支払われない理由が、別居親が支払いを怠っているというケースが本当に多数なのか検証をするべきである。私の実感では、養育費の取り決め自体をしないケースが圧倒的に多いような気がする。
協議離婚の場合は、いち早く離婚したいという同居親の要求が強く、離婚までの期間を先延ばしする議論はしたくないという行動傾向が見られる。養育費を決めてから離婚するなんて煩わしいのである。
また、相手に対する嫌悪の情が強く、そんな相手から金をもらいたくないという意思に接することもある。養育費を受領し続けることによって、何らかの関係を継続させることが嫌だということもある。
   さらに一部は、子どもまで奪ってさらに金を払わせるということの罪悪感から、養育費を請求することなどできないと感じている同居親もいないわけではない。これらは、先の二つの感情と紙一重の微妙な感情であることが多い。
   養育費を請求しない理由は、実務的には公的給付との関係がある。母子家庭の場合、児童扶養手当が自治体から支払われる。ところが養育費が支払われていると、金額によって手当てが減額される。入るか入らないかわからない養育費のために児童扶養手当が減額されたり、手続きが面倒になるなら、養育費等受け取らず児童扶養手当を満額受給したほうがよいという選択は経済的にはもっともなことである。養育費の支払いは、実は自治体の財政との関連で考えられているのかもしれない。
   しかし、養育費は、子どもの心理発達面に寄与することが主目的の制度である。その点の理解を促すと、養育費は支払われるようになるし、請求するようになる。これ抜きに子どもの利益を経済的利益に矮小化する昨今の自治体の養育費支給キャンペーンは、子どもの利益ではなく、自治体の児童扶養手当の給付予算の削減が主たる目的ではないかという疑いが払しょくできない。
 2)別居親が養育費を支払わない事情
   養育費の主目的を考えると、同居親が養育費を請求しなくても、別居親が養育費の支払いを自ら請求するべきであり、私の依頼者たちはほぼ自ら婚費、養育費の支払いを同居親の請求に先駆けて提案し、実際に支払っている。
   しかし、実際の別居事例、離婚事例を見ると、養育費を支払うモチベーションを下げる公的手続きが行われている。家事手続きが子どもの利益よりも大人の感情で動いているということである。
   かなりの割合で、別居親が貧困状態にある。別居親に同居親よりも収入があったとしても、連れ去り事例の少なくない割合で住宅ローンが始まったばかりだという事情がある。別居親は外食が多くなるため食費がかさむ。家族を失ったことで精神科の治療や各種カウンセリングを余儀なくされる。カウンセリングは健康保険が使えない場合も多いので費用がかさむ。実際に不注意のけがをしたり、原因不明の疾患を発症したりして休業を余儀なくされるケースも少なくない。
   しかし、かなりの割合で、別居親が同居親よりも収入があるというよりも別居親の収入が少なすぎる無謀な別居である場合が多い。別居親の体調不良やリストラによって、同居親が期待していたほどの収入がないケースも多くある。
   別居親が養育費や離婚前の婚姻費用を支払いたくない理由は誰でも理解できる。つまり、別居親だけが家族から排除されているからである。養育費や婚姻費用は家族の生活のために使うものだから家族がそれぞれ分担して負担するものである。ところが突然、子どもを連れて自分の元から消え去り、どこにいるかもわからない、子どもと面会することもできない状態にされる。強制排除が行われている。家族ではないという強烈なメッセージを受けているのである。しかも、自分の排除が家族だけから行われるのではなく、裁判所、警察、自治体からも行われ、自分が極悪人として扱われている気持ちにさせられる。その上、一緒に住んでもいない、顔も見ていない元家族に金を支払わなければならないというのであれば、支払う方は刑罰として金を出させられている意識になることは当然だと私は思う。
   おそらく、事実をリアルに見られずに類型的にものを見る人たちは、排除される理由は同居中に暴力やモラルハラスメントがあったからであり、自業自得なのではないかという反論をするだろう。リベラルで名を売っている憲法学者などもそのようなことを言っているので、世論がそのように誘導されかねない状況にあることはうんざりするほど承知している。しかし、少なくとも私が担当した事案や、相談を受けた事例によれば、圧倒的多数は暴力やモラルハラスメントは存在しない。かえって、子どもを連れ去った方の不貞、浪費、あるいは理由のない不安に基づく行動などがあるケースが大半なのである。それにもかかわらず、リアルな実態を知らないで、連れ去りがあったから別居親に何らかの責任があるという類型的な見方をして連れ去り親の苦しみを否定する態度はそのものずばり差別である。冤罪を受けた苦しみを一顧だにしない人権感覚が乏しい人間だと言わざるを得ない。
   不貞や浪費をされ、自分の貯金を奪われた上に婚姻費用や養育費を支払えと言われたところで、支払いたくないことは当然である。
   多くのケースで同居親は、さすがに別居親の支払いたくないという事情を実は理解している。婚姻費用や養育を遠慮するケースは少なくない。ところが、弁護士や役所などが、差別的なものの見方をして懲罰的に婚姻費用や養育費を請求させるケースが最近増えている。もっとも私は、家族再生や、ひどい目を受けても家族だと感じている依頼者が多いため、それでも子どもたちのための費用は支払わなければならないと説得をする。こういうケースで費用を支払う別居親は、子の福祉について高度な理解をしているのである。
   但し、最近疑問がますます大きくなっている。DVやモラハラがない事案で、子どもとの相互交流を一切絶たれて、それで金だけを支払わされるということは、本当に人権が尊重されていると言えるのだろうか。
   養育費を支払いたくない理由は、このように自分の人間性が否定されているところにある。また、そのように別居親から見ればいわれのない理不尽な仕打ちをする相手に対して不信感が当然にあり、特に浪費や不貞を行って子どもを連れ去った相手に対しては、同居親が送った養育費を子どものためには使わず、不貞相手に渡したり自分のために浪費されたりするのではないかという思いがあることはもっともな話だと思う。

5 養育費が支払われるための簡単な方法

  養育費の送金先を子ども名義の口座にして、子どもが立ち会わなければ引き落としができないようにする。これで養育費の取り決めも支払いも格段に向上するはずだ。さらに、子どもから、養育費の礼を言わないまでも、ただ養育費が入金された日に安否を報告するだけの電話でもよこされればさらに支払率は倍増するだろう。子どもに直接渡すという方法も支払率を上げるだろう。
子どもは養育費を引き落とすたびに別居親の愛情を確認できる。振り込む側は、子どもが毎回確認しているということで支払うモチベーションが高まる。離れていても家族なのだという実感を持つことこそ、養育費を支払う最大の方法である。また、子どもが自分の預金が下ろされるのを立ち会って見ていれば、多少は同居親が子どものためだけに養育費を使うのではないかという期待も生まれ、モチベーションの低下を食い止めることができる。
家族から除外することの逆をするということだ。家族から除外しておいて金だけを払わせるということは、人間味のあるやり方ではない。また現実の支払いを遠ざけてしまう。
私の依頼者で、何の交流も持たされず長期にわたって養育費を支払い続けた男たちが何人かいる。一人は、定められた養育費の外、誕生月の増額を子どもだけでなく離婚した元妻にも送っていた。このため預貯金はほとんど作れなかった。養育費の支払いが終わったときに相手方から子どもの写真は送られたが、履歴書用の写真のあまりだった。それでも彼はその小さな写真を後生大事に持っていた。それでもうれしかったのである。偶然知った相手方の住所に、転居の連絡を送り、「お近くにお寄りの際は、お声がけください。」という定型のあいさつ文を記した。その結果驚くことが起きた。警察から義務無きことを強要したとしてストーカー警告されたのである。別の男は子どもが3か月のころから妻子が行方不明になった。しかし、それから20年以上婚費を支払い続けた。その挙句が、離婚請求調停申し立てであった。
こんなことが繰り返されて、裁判所や公的機関が是認しているから養育費や婚姻費用が支払われなくなるのだ。これらの行為は、自分だけがよければそれでよいという態度であり、今後の養育費を受ける子どもたちの足を引っ張っているだけの行為だ。

6 養育費が支払われるための根本的な解決方法

  連れ去り問題が表面化する前から、私は、養育費の問題の相談を受けることが何度かあった。一番効果的だった方法は、子どもが別居親に現状を伝え、例えば大学でこういうことをしている、いまアルバイトができないので養育費が途切れると苦しいということを率直にお願いすることであった。本来の家族というところまではいかないが、当たり前のコミュニケーションがあれば家族に対してなすべきことを無理してでもやろうとするのが親というものだということを痛感させられた。
  よく、「養育費と面会交流は別物で、取引に使ってはならない。」ということを聞く。大学の法律の授業の回答としては丸が付くだろう。しかし、実務では、要するに生身の人間と切り結ぶときは、こんな話、何の役にも立たない。通常これが語られる文脈は、冷酷で、およそ人間の尊厳を顧みないときにしか語られないからだ。何よりも、子どもの権利が害されるだけだ。面会交流を含めた別居親との交流が養育費などの金銭面に有効に働くのは統計的にも事実だ。子どもへの十分な経済的事情よりも、離婚後の当事者の葛藤を優先する文脈でしか使われない言葉である。
  養育費が十分に支払われるためには、親子関係を少しでも回復することが王道である。これに異論のある実務家や当事者はいないだろう。しかしこれができないことが問題なのである。
  子どもの利益を図るためには、離婚当事者の葛藤を下げること、そうして別居親と子どもとの自由な交流を確保すること。電話くらい自由に子どもから別居親にできるようにするべきだと常々思っている。それでも別居親は同居親を立てて同居親の言いつけを守れと言い、同居親は別居親への感謝のしつけを子どもにする。これが子どもの健全な成長を促進するということが科学的に証明されている。
  もちろん、これは分かっているけれど難しい。双方に被害者意識があることがほとんどなので、なかなか子どもの前だけ、嘘でもいいからといっても難しい。この解決方法はあるのだろうか。
  根本的には離婚までは大いに争えば良いが、離婚が決まったらもう他人なので、子どもの前だけでもクールダウンする手続きを国や自治体が行うべきである。実は先進国では、お隣の韓国も含めて国家や州が関与して行われていることである。日本だけがこういうことをしていない。日本だけが、大人の都合で離婚をすることが放任されている。子どもの健全な成長よりも大人の感情が優先されている情けない国が日本なのである。離婚訴訟で、子どもに自分の親の悪口を書かせて平然としている人間が司法に関与している国である。
  葛藤を鎮めるどころか、葛藤をいたずらに高めている。葛藤を高める最大の要因は、事実にもとづかないDV主張、一方的な子連れ別居の野放し、それに対する裁判所の追認、事実にもとづかない女性援助、加害をした人という意味ではない「加害者」呼ばわり(総務省)と、実際の加害者扱いである。これらの人格攻撃を受けた者は、怒りをあおられるだけでなく、無力感から働く気力もなくし、その結果収入も減少する場合がある。心身に不調を覚え、内科的疾患を発症することや、うっかりけがをすることが増える。
  「子どものために」、「子どもの健全な成長のために」という理念で物事が動かず、結果として子どもの成長に対する離婚の負の影響を軽減させるどころか増幅させている。
  夫婦の葛藤を鎮める研究、いたずらに葛藤を高める支援を排除すること、それらが子どもの健全な成長に不可欠であるというのは争いのない人類の科学の到達である。あとは子どものためにという立場に大人が経てるかどうかだけである。

7 いま進められている制度に全く賛成できないということ

  いま進められている養育費に関する制度検討の一切が、このような視点は見えてこない。現在進められている政策が、子どもの健全な成長を図る目的ではないことは、例えば養育費の未払い者の氏名を公表するということを検討していることからも明らかだ。子どもにとって、自分の親がさらし者になって平気でいるわけがないことにも気が付かない愚かな政策である。一緒になって自分の親に対する憎悪を掻き立てられた子どもが、アイデンティティを確立することが困難だということも理解されていない。
子どもの健全な成長を阻害することになっても養育費を強制的に取り立てるというのであれば、考えられる目的は二つである。つまり、一つは自治体の児童扶養手当予算の削減である。もう一つは離婚した夫婦の少数派である養育費の取り決めをした別居親の、さらに少数派である理由もなく一方的に支払いを怠る者に対する憎悪を掻き立てることによって、低賃金、男女格差、不安定雇用の改善への道筋を隠ぺいするという目的である。
  これが日本の子どもたちが置かれた状況である。科学的に働きかけが必要だということが明らかにされた離婚後の子どもたちでさえ、逆にこのような積極的な加害を受けているのである。まだ野放しの方が害がない。

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