SSブログ

【子どもと同居している親御さんへ】子どものストレスを軽減させる特効薬は、親どうしが仲良くしていること。子どものために仲良くする方法。別居家庭、離婚家庭の場合でも。 [家事]




コロナなどが起きると、大人も自分の不安にかまけて
子どもが置いてきぼりにされてしまいます。
子どもは自己中心的ですから
自分が一番に考えられていないことを敏感に察し
それだけでストレスが強まってしまいます。

新型コロナウイルスに対する対策で欠けているのは
このような子どもの視点なのではないかと心配しています。

中には、子どものストレスにどのように対処するか
という話をする人もいるのです。
ただ、その場合も
子どもは友達と外で遊べなくてストレスがたまる
などと時代錯誤的なことを言っている大人も多くて唖然とします。

また、大人が家にいると子どもへの虐待が増える
なんてことを言う人もいますが、
だいたい虐待をしている親は子どもと一緒にいる時間が長い親です。
親というか一緒に生活している大人ですが。

虐待通報をする大人は増えるでしょうね。

虐待が氷山の一角だということはみんな異論がないと思います。
ということは、多かれ少なかれ子どもに対する風当たりが
知らないうちに強くなっているかもしれないということなのです。
ではどうするかという当たり前の視点がなく
やれ警察だ、やれ児相だとばかりでは、
通常より親原因のストレスが強まっている子どもは
放っておかれてしまうことにしかなりません。
では子どものためにどうするかという視点が欠けているわけです。
虐待なんて、自分とは関係の無い
特殊な人間が行うことだという能天気なことを考えているから
他人事だと思えるのでしょう。

これまでの日常生活が中断している場合に
人間はストレスを感じるもので、
それは子どもも同じです。
確かに自粛や感染対策に神経を使えば
子どもも大人も余計なストレスがかかっていること自体は
間違いないところでしょう。

ストレスを軽減させるための一番の方法は、
家族が仲良くしていることです。
特に親どうしが喧嘩しないで仲良くしていること。

兄弟げんかは仕方がないとしても
親どうしがいたわりあい、助け合っている姿を見ると
自分の生活基盤である家族が安泰だということを実感できますから
気持ちは楽になります。

逆に親どうしがけんか腰で日常生活を送っていると
自分の基盤である家族がいつ崩壊するかという心配が生じてしまい
さらに余計なストレスがかかるわけです。

また、親どうしの喧嘩は
自分の親が否定されているわけですから
どちらが勝ったところで子どもは精神的に傷つくわけです。

逆に親どうしがいたわりあい、敬意を示し合えば
子どもは自分までも尊重されていると思うわけです。

そうして、よそに行っても
誰かをいたわったり助けたりして、つまり真似をして
子どもの社会の中で、評判がよくなり
子どもがますます居心地の良い人間関係の中で
幸せに育つと、良いことづくめではないでしょうか。

では、どうやって「なかよく」するのか。

まず、ケンカしないこと。
本当は好きどうしで結婚しているわけですから
相手の自分に対する評価が一番気になってしまうのです。
例えば些細な生活上の不満を一方が漏らすと
相手の自分に対する評価を下げたくないという警戒感から、
自分が否定されているように感じてしまうのが人間です。
「それは誤解だ」とか、「相手の方がよりよくその批判が当てはまる」
などとムキになって、自分を守ろうと相手を攻撃すると
今度はあからさまな攻撃ですから
相手は当然に反撃をしてくるというわけです。

だから、せめて日本のどこかで非常事態宣言があるときだけでも
相手の不満、小言、当てこすりなどにいちいち反応せず、
「そうだねえ」という丹力を発揮してほしいと思います。
子どものために我慢すると思えば
自分の方が大人に見えて、相手が子どもに見えて
大きな気持ちになれるかもしれません。

いい歳した人間の場合は、
守るのは自分よりも子どもです。

それから警戒しなければならないことは、
知らず知らずのうちに相手を否定していることです。
正義感の強い人、潔癖な人、責任感の強い人は要注意です。
優秀な仕事人間は、家庭ではダメダメなことが多いのです。

一緒に自覚していただきたいことは、
相手の弱点、欠点、失敗を
責めない、笑わない、批判しない
ということです。

スーパーなんかでも
いちいち妻に細かい指図をする夫をたまに見ますが
どうだってよいことに神経を使っています。
メンタルも損失として計上すると
費用対効果は明らかにマイナスだと
他人は軽蔑しながら聞いているわけです。

「だって、こうすることが合理的ではないか」
という反論が聞こえてくるのですが(かつての自分かな)
それは相手に心がない場合の話なのです。
人間はもう少し厄介で複雑な存在なのです。
会社ではこれが切り捨てられているだけです。
それを当たり前だと思って、家庭でやっちゃあだめなのです。

他人が聞いても不愉快なのですから
こういう細かい正義が常に貫かれてしまっている家庭では
小さい子でも
どちらかの親の弱点、欠点、失敗が
もう一人の親の知るところになってしまうと
緊張が走ってしまうわけです。

ところが、逆に
その時、もう一人の親が
それに寛容な態度を示すと
子ども心に落ち着いて、安心します。
失敗した親を馬鹿にすることなく
寛容を示した親を尊敬するというか好きになるわけです。

こういう心地よさから獲得する価値観は大きいです。
どこかで自分もマネしたくなります。
こうやって他者に対しても同様の振る舞いができるようになるわけです。

さらには気遣い合うということです。

責めない、笑わない、批判しないということだけでも子どもは安心しますが、
さらに、助け舟を出したり、さえぎらないで話を聞いたり
敬意を示したりするのも気遣うということになると思います。
些細なことでも感謝したり
些細なことでも謝罪したり
話をきちんと聞くというのも
聞いてもらう方が楽しそうにしていると子どもも楽しいでしょうね。

まねして子どもも話し出したらとても良いと思います。

ここで、考えなければならないのは
親どうしが同居しておらず、
一方、あるいは双方の親と子どもが離れて暮らしている場合です。

あるいはすでに離婚していたり
深刻な対立で別居している場合は
相手を否定しない、あるいは、相手を気遣う
なんてことは気持ちの上でも難しいのは当然です。

そうだとしても、子どもは幸せになる権利があるはずです。
親に幸せにしてもらう権利というか、親の責務というか。

夫婦でも、相手に甘えすぎているという大人はたくさんいましたが
子どもにまで甘えてしまうという大人も多くなりました。
子どもはあくまでも大人によって、親によって
幸せにしてもらう存在で親は責任を果たさなければなりません。
だって子どもをつくってしまったのですから。

ではどうすればよいのか。
それほど難しいことではありません。

先ず、離れて暮らしているわけですから
日常生活の中でいたわることや敬意を示すことはできませんが
大事なことは相手にそれを伝えることではなくて
子どもに対して
あなたのもう一人の親はいいところがある、あった
ということを伝えることなのです。

ばれなければ嘘でも良いのです。
だいたい結婚して子どもまでいるのですから
どこかしら良いところが必ずあったのです。
そのうちその良いところが無くなったとしても
あったという事実は無くならないのですから
そのことを言うべきです。

積極的に元夫、元妻の良いところ言うことがわざとらしくて抵抗があっても
子どもがあなたの歓心をかう、あるいはあなたを慰めるために
元夫、元妻の悪口を言ったときに
「そうだね。そういうところもあったけれど、
 こういうところもあったんだよ。
 そういうところは、あなたも似ているよ。」
とかでよいので言ってあげたらいいのになと思うのです。

一緒に住んでいなくても
自分の血の分けた親が
全人格的に否定されるべき人間ではない
というだけでも救いになる子どもも大勢います。

確かに自分は愛されて、望まれ生まれてきたのだ
という実感は自己肯定感の基礎になると思うのです。

せっかく離婚したのに、うじうじ不幸をひきずっている人は結構多いです。
離婚したなら他人になって、自分はもう危害が加えられない
案外良かったところもあった人だけど
今は自分は自由に、一段高い位置から見ることができる
という発想の方がとてもフリーだと思うのです。

そして親どうしの連絡が途絶えているのであれば
子どもに対して
「電話してみなさいよ」
と電話番号を押し始めてよいのです。
「子どもが話したがっているので、話もらってよいですか。」
と言われて悪い気持ちになる親はいません。
大威張りで恩着せがましくしましょう。

本当は子どもはもう一人の親を慕いたいけれど
同居親に気遣って遠慮している子どもはたくさんいます。

あなたにとって許せない相手であっても
そしてそれがもっともな話であったとしても
人間の子どもは、自分の親を慕いたい本能があるので
しょうがないのです。
その人間としてのあたりまえを捻じ曲げて
自分に忠誠を誓わせてはなりません。
同居親の前では会いたいとは思わないと強がりを言っても
親が誘えばもう一人の親と喜んで接触をする子がほとんどです。

電話しづらければ私がかけてあげますから
私の事務所まで来てください。


常々感じているのですが
大岡裁きの裁く人って
現実には子ども本人なんだなあということです。
相手を攻撃する親や、自分の痛みを考慮しない親って
結局子どもは、子どもらしく親に甘えられなくなります。
居心地がとても悪いのです。
自分を捨てても子どもの利益を考える親は
子どもの心の中に温かい記憶を残し続けるようです。
いくつもの事件でつくづくそう思っています。

nice!(0)  コメント(0) 

せっかくの外出自粛なので、家庭を居心地よくしよう。人間が群れを作る意味と人生の得について考える。 [家事]


新型コロナということで外出自粛の雰囲気になってきており、
仕事も家で行うようになった人たちも多いようです。
これまで以上に、家の中に家族が集合する機会が多くなっています。

これまで、特に理由もわからないのに
家庭の中がギクシャクしているような感じがしていたけれど、
仕事に出かけたり、用事を作って一人で外出したり
あるいは飲んでくるなど、帰宅時間を遅らせたりして
なんとなく、問題解決を先送りしていた
という人も多いと思います。

せっかくの外出自粛であれば、
家族が一緒にいる時間をひと工夫して
これからの人生を楽しく、安らかにする
こういう発想の方が得することだと思います。

特に新型コロナという家族共通の敵がいるのですから、
新型コロナと闘うことによって
家族の中を円満にするチャンスとしかもはや考えられません。

1 心配すぎる人と心配の弱い人がいて強力なチームになれる

面白いことに、家庭の中でも新型コロナウィルスに対しての
心配の度合いが、個人によって全く違います。
特に心配しないで、マスクもしないで繁華街を歩く人、
マスクをすることは当然として、手袋をしたり、
口外の家の近所を歩くことさえ怖がる人

人によって、様々です。

これは、どうやら群を作る動物の習性のようです。
例えばハチであってもそうらしいのです。
外気温が高くなって、ハチの巣の中の温度が高くなのを防ぐため
ハチは、巣から出てきて飛びながら羽で巣の中に風を送ることで
巣の中の温度を下げるようです。

一度にたくさん下げすぎず、放っておいて温度が上がったままにならない
都合の良い仕組みがあるようです。
つまり、あれだけに多様な構造の体と、同じ遺伝子を持っているハチなのに、
温度が少しでも高くなるといち早く出てきてあおぎだす個体がいれば
よほど高くならないと出てこない尻の重い個体もいて、
温度が高くなるにしたがってあおぐハチの数が増えていく
このため、あおぐ部隊が適正な数に保たれるのだそうです。

私は、群を作る動物の個性の一側面がここにあるように思うのです。

つまり、個性というのは、
遺伝子や脳の仕組みという生まれつきものだけでできるのではなく、
あるいは育ち方によって決まるのでもなく
さらに、群の中の自分のポジションによっても決まるのではないか
ということです。
実際はそれらが複雑に絡み合って、人の行動が決まるのだと考えています。

だから、本当は怖がりなのだけど、
仲間が怖がっていると、仲間を助けたいという気持が強くなり、
平気な顔をして励まし役に回ったりするわけです。

みんなが平気そうにしていると逆に不安になったりして。

おんなじ行動ばかりする人の群れというのは案外弱いものです。
新型コロナに関して言えば
外に出て買い出しするくらいならば家にいて食べない方がよい
なんていう家族ばかりだと家族全体が栄養失調になったり、

運が悪くなければ感染しないし、感染しても死ななければ良い
なんて考えの人ばかりだと本当に感染してしまったりするかもしれません。
新型コロナに感染しなくても、
インフルエンザや食中毒という可能性もありますね。

心配しすぎな人ばかりだと、
新型コロナにかからなくてもメンタルやられてしまったり
ということもありうることかもしれません。

心配しなさすぎる人は心配する人のいうことを聞いて
少しは心配した方が良いのだろうし、
心配しすぎの人は、家族が平気にしている様子を見て
それほど心配する必要もないのかしらと
思うことができるわけです。

色々な人がいることが
群を強くするわけです。
群を作る動物の圧倒的多数は
色々な個性を中に取り込んで
今日まで生きながらえてきたわけです。

おそらく個性のない動物は
群を作っても、何かがあるとあっという間に滅んでしまったことでしょう。
個性は群れを作る条件だと考えているのはこういうわけです。

2 新型コロナは心配しすぎる原因がある。

新型コロナを心配しすぎることは原因があります。
どうしてこれだけ短期に、突如広まったかよくわからない。
対抗薬がない。
肺の病気になりやすく、全身疾患になりやすく死ぬ危険がある
古典的な理由としてはウイルスが目に見えないというのもあるでしょう。

どうやって予防して、どうやって治療するか
それがはっきりしなければ心配することも仕方がありません。

むやみやたらに心配する人は、
最悪のケースから想定する個性があるのだと思います。
安全策を取ろうとするというか。
悲観的傾向があるというか。
物事をごまかさないで真正面から受け止める
という言い方もできます。
つまりメリットデメリットがあるわけです。

3 心配しすぎる人にあわせる

従って、心配しなさすぎる人から見ると心配する人は
暗い発想、ネガティブな発想として映り
心配を聞いてるだけで気が滅入っているはずです。

しかし、心配しすぎる原因があるのですから
心配することだけを否定しても何も説得力がなく、
不安をあおってしまうことになるでしょう。

心配しなさすぎる人は、心配しすぎる人よりも
メンタルがやられていませんので、
後ろ向きの発言を聞いて嫌な気持ちになるくらいは
我慢するべきなのだと思います。
自分の代わりに心配してくれているくらいの気持ちになりましょう。

心配する人は、自分が感染することだけを心配しているのではなく
あなたを含めた家族が感染することを心配しているのです。
あなたのことも心配しているのです。
必ずしもあなたが感染すると自分も感染する
ということだけで心配しているわけではないようです。

だから、マスクをしろとか帽子をかぶれとか
手をこまめに洗えということについては
もう一つ部屋の喚起をすることについても
抵抗しないで実践しましょう。

心配だというのなら
3回に一回くらいは
「そうだね」、「そうかもしれないね」
と呪文を唱えて
否定だけはしないようにしましょう。

心配は、否定されると大きくなる
ということを肝に銘じるべきです。

4 心配しなさすぎる人に学ぶ

先ほど心配しすぎる原因があると言いましたが、
徐々にいろいろなことがわかってきました。
原因不明の感染というのもあるけれど
クラスターなどの発生場所を見ると
やはり
唾が顔にかかる場合が危険であるようです。
飲み屋であると
マスクをしないで話をする
テーブルが小さいし、部屋の中がうるさいという理由で
どうしても他人の顔の近くで話をする唾がかかりやすい
密集しているというか、
頻繁に客と客がすれ違うパブ形式の場合は
なおさら唾がかかりやすい
そして、炸裂音が多い外国語の場合は
余計に唾がかかりやすいという特徴があるようです。

距離をとれば、唾が顔などに直接かかるよりも
空気中に飛び散って生きているウイルスは密度(空気中の濃度)が低いから
自然免疫力で撃退できやすい
という事情があるようです。

心配しすぎる人は
自宅近くを歩くだけなのに怖がっているようですが、
怖がりの濃淡をつけるべきだと私は思います。

それはともかく
心配しなさすぎる人は
問題を正面から受け止めないという性質がある場合があります。
逆にウイルスが目に見えないから怖さを感じないとか
重症化するポイントがわからないから怖さも感じないとか
心配する原因と、心配しない原因が
全く一緒なのです。

これは大変興味深いことです。

心配しすぎると、心配をするあまり
対策をきちんと考えられないという事態に陥ることがあります。
思考が働かなくなってしまうからです。

心配するより対策をすることが正しいことは
頭ではわかるのですが、
むやみやたらに心配しているため
対策が立てようがありません。

時々、心配を中断する必要があります。
時々心配しなさすぎる人に会わせることも大切です。

5 心配を中断する

心配を中断して双方理性的に頭を使うということが大切です。
心配しすぎな人、心配しなさすぎる人
どちらもそのためには必要です。
自分と感じ方が違う人が家族だとすれば
それはあなたの家族が群れとして機能している状態です。

後は、どちらかの感情で家族を運営することを考えず、
双方の感情を尊重することで
家族はとてつもなく強くなります。

そのためにも、
一次心配を中断するという作業が必要となります。
これも東日本大震災の教訓です。

ただ、自分の心に心配をやめろといっても
心配は、自動的に起きていることなので止まりません。
こういう時は何か娯楽や趣味に打ち込んで
ひと時心配を中断する、つまり別のことで感情を使うということです。

例えば、
これまでためていた、DVDを観るというのはお勧めです。
外にすることもありませんからうってつけだと思います。
みんなでパソコンとかの前に座り、
トイレ休憩などを時折入れながらゆるくみる。
それでも映画とかなら、最後はそれなりに感動するので
一体感も生まれたりするでしょう。

あまり家事をしない方がコーヒーを入れてみたりということもよいでしょう。
簡単なことはテレビでを観ることかもしれません。

ドライブも、人の集まるところにはゆかず、
車の中から花を見て
人のいないところであれば、少し散歩をしてみても楽しいかもしれません。
大自然を満喫するチャンスかもしれません。
大自然と言ってもその辺を流れている川でもよいわけです。

大切なことは、せっかく
心配しすぎの人にあわせようとしたり
心配しなさすぎの人に見習おうとしているのだから、
必要以上に、相手の状態に気遣うということです。

トイレに行きたくなっているのではないか
寒いのでは、暑いのでは、
カーブを曲がりすぎて気持ち悪いというなら
できる限りスピードを落とすとか、駐停車するとか
相手の状態を気遣う行為をする
ということを多少あからさまにやる
ということをお勧めします。
誰も損しません。

家族の一人の状態が悪ければみんなでフォローをする工夫をする。
感謝されることがとても心地よい体験をする
せっかく、急がないでのんびりするチャンスです。
心に余裕が生まれる絶好のチャンスです。

家族の状態を向上させるチャンスだと私は思います。

nice!(0)  コメント(0) 

夫婦の話し合いがうまくいかない理由 価値観の違い、性格の不一致ではなく、男女の行動基準が違うだけ。繁殖期を過ぎても仲良く暮らす方法。 [家事]



新型コロナのために、外出を自粛することが多く
家族の距離が近くなっています。
家族間の軋轢が高まるきっかけにもなりますが、
家族間のチームワークが強まるきっかけにもなります。
東日本大震災の時がそうでした。

お互いを理解しあって楽しい家庭生活を送りたいものです。

家庭内の紛争は、
どうすれば楽しく生活ができるかのヒントが多く隠されています。

離婚事件を多く担当していると
夫婦間の問題を解決するために話し合いをしても
解決に向かわないばかりか
逆に仲がますますこじれてしまうことがほとんどです。

なまじ「話し合い」をするから
夫は妻へのイライラが積み重なっていき
妻は夫に対する嫌悪感や恐怖が増えてゆきます。

なぜでしょうか。
それは、話がかみ合っていないからです。
そのために、それぞれが自分の言いたいことを言い、
言ってほしいことが相手の口から出てこない
話し合いが必要なまでこじれてきたこれまでのすれ違いの
総結集が繰り広げられてしまっているのです。

その結果、
価値観が違うとか性格が不一致だと言いあうのです。
言われた方は自分の人格を否定されたように受け止めて、
ますます相手に対する怒りや恐怖を覚えるのです。

性格や価値観は違うのが当たり前です。
ある時から性格や価値観が変わったわけではありません。
結婚を決めたときからおそらく変化はないのでしょう。

結婚までの時期と
結婚してから子どもを作る時期までは、
家族という人間関係を形成するという一つの目的がありますから、
お互いに、自分の言い分をわきにおいても
一つの目的の下での共同行動ができたのです。
ところがある程度家族が形成され、安定してしまうと
それぞれの主張を我慢するまでして行動するべき
目的が失われてしまうのかもしれません。

そうすると、各自の行動基準で行動をしようとしてしまうわけです。

価値観や性格が変わったわけではなく
行動基準が変化しただけだと考えると
あまり傷つく必要はないということになりそうです。

もともと人間は男女によって行動基準が異なっていました。

200万年前くらいから
男女の行動基準の違いによって人類は生存を続けることができたのです。

その頃から
男は小動物を狩りに行って
女は子育てと植物採取をしていたとされています。
数十人の群れを形成していて
仕事ができる大人が半数とすると
例えば40人の群れで勤労年齢が20人、うち男女10人ずつだとして
男性10人は狩りチーム、女性10人は植物採取チームとしましょう。

男性10人の狩りのスタイルは、
チームを組んで、イノシシなどの小動物を追いかけていきます。
どこまでも追いかけるのだそうです。
動物は分厚い毛皮でおおわれていますから
走って逃げるうちに熱中症みたいに体温が上昇して弱ってしまいます。
人間には薄い体毛しかありませんから
発汗によって、気化熱が体温を奪いますから
熱中症になることはありません。
だから熱中症で弱った動物を捕獲することができるというわけです。

ところが、必ずしも動物が捕獲できるわけではありませんので、
餓死しない、空腹をしのぐために
植物を採取しておくことは大切なことです。
また、外敵に襲われないように子どもや年寄りを守らなければなりません。
そのために子育てをしながらできる植物採取を
女性が行っていたようです。

なぜ、男女で役割が分かれたかというと、
おそらく人間が二足歩行を始めてしまい
流産をしやすくなったためだろうと思われます。

数十人の群れですし、
人間の妊娠出産は時間がかかるので、
せっかくできた子どもが流産してしまうことは
群れ全体の滅亡につながります。

女性が狩りをしない群れでは子どもが多く生まれる
ということに気が付いたら、
その理由を認識していたかどうかはともかく、
何万年の月日の中で、
女性は狩りをしないものだということになっていったのでしょう。

当時は、完全に平等社会だったようで、
「狩りに行くほうがえらい」というような
男性的価値観が社会を支配していなかったようです。
男性は、待っている女性のために喜んで狩りをしたでしょうし、
女性は、獲物をとれなくても男性を責めることはなかったでしょう。
それぞれが自分の役割を積極的に果たし、
それぞれを尊重していたものだと想像します。

さて、このような役割分担は
男性と女性に行動基準を植え付けていくわけです。

男性は、獲物をとるという目的でチームを組みます。
獲物をとるという目的にとって最善の合理的行動をとることが
行動基準となります。
目的に反する行動は厳しく禁止されます。

当時の男性にとって意味のある行動とは
目的に向かって合理的な行動だということになります。

女性の作業はこれとは異なります。
植物採取は、ルーティンの性格があり、
共同作業というよりは各自の行為です。
それよりも、獲物をとるなどの一つの目的で結集するのではなく、
結集しておくことによって、
肉食獣から身を守ることに有利になるというものであり、
どちらかと言うと、
共同生活それ自体が目的だというスタイルになります。
そのためには、合理性という行動基準ではなく、
お互いの間に波風を立てないということ
そのためには、相手の言動や存在を尊重する
相手の心に気を配る
そういう行動基準になったのでしょう。

相手の心に気を配るということは
自分の心にも気を配ってもらいたいという気持ちになったのでしょう。

もちろん、これらの違いは完全に男女で色分けできるものではなく、
特に現代では複雑に混在していると思います。
ただ、繁殖期が終わった、繁殖以外の男性、女性が顔を出してくるときは
感覚の違いが鋭く出てしまうことがあるのだと考えると
現代の夫婦のすれ違いがよく説明できるように思えるのです。

結婚をして、子どもを作るというところまでは、
目的のもとに行動するという要素と
人間関係を作っていくという要素が
どちらも含まれた活動をしていますから
放っておいても、男女ともお互いにとって
都合よく行動しやすくできています。

ところが、ある程度人間関係が形成されてしまうと
それぞれの無意識の思考である行動基準が
先祖返りのように傾向が分かれてきてしまいます。

男性は小さなことでも、目的というものを意識して
目的に向かって合理的なことが正義であり、するべきことと考えるようです。
目的に反するこうどうや、目的を阻害する行動は
悪だとして怒りをもつこともあります。

女性は、行動が合理的かそうでないことをそれほど気にしません。
目的を達するということを行動基準としないということです。
むしろ、それぞれの仲間が、尊重されて楽しく不安を持たずに生活する
ということが第一の目的であり、行動基準なのです。
目的を達しようが達しまいが、みんなで仲良く暮らしていたい
そのために行動するわけです。

片づけができないということを例に挙げてみましょう。

片づけは簡単なことであり、通常なら誰でもできます。
しかしいろいろな事情があって
片付けに手が出ないということはあるのです。

ゴミが落ちていたとか、汚れが解消されていないことはあるでしょう。

男性的な発想は
家をきれいに保つことが主婦としての目的であるべきだと
無意識に感じているのでしょう。
それをしないことは悪になってしまいますから
無意識に怒りを含んで、片付けることを要求してしまいます。

女性は、みんなで仲良く暮らしたいと思っているのに、
自分を攻撃する家族がいることに驚き
みんなで仲良く暮らすことをしないことに怒りを持ち
同時に攻撃されていると感じますから自分を守ろうとして
その結果怖がったり、それに対して怒りを持ったりするわけです。

簡単なことでもできないことがある。

男性は、そういう時は、自分が片づけをやっていたのであり、
それでした妻を叱責したことはないということをよく言いますし
それはその通りなのでしょう。

ところが子細に話を聞いていくと
汚れを目にして、思い切り顔をしかめ舌打ちをして
「何で仕事から疲れて帰ってきたのに俺が片づけをしなければならないのだ」
ということを全身で表現して片づけをしているようなのです。

子どもだってそんな父親を見ているわけですから
母親としてはいたたまれない気持ちになるでしょう。

夫は家をきれいに保つという目的に従った行動を妻がしていないので
マイナス評価をすることは当たり前で、
口に出して文句を言わない自分は大人だと思うのです。

しかし、妻は、まず夫が
みんなで仲良く暮らすという目的に反した行動をとっている
ということを強く感じます。

もちろん夫のイライラも敏感に察しているわけです。

だから話し合いは
男性の主張としては、家の片づけをしろよという主張になり、
女性の主張としては、私を侮辱したり否定したりしないでよ
ということになるわけで、だからかみ合わないのです。

男性が考える目的に従った行動ができない事情があるのです。
成人女性には特にあることです。

女性的な行動基準では
先ず、相手を尊重する。尊重しない態度はとらない。
では、現状の課題をどうするか
という流れになるのだと思います。

これを意識して男性は自分の心にストップをかけなければ
日常生活小言だらけになってしまいます。
女性は、当初は自分の評価を下げたくないから頑張りますが、
だんだん、自分は尊重されていないのではないかと
無意識に感じ始めるわけです。

何をしても感謝されない、ダメ出しと否定しかされない。
そういう気持ちが募っていけば
そしてそれが毎日長期間続けば
だんだん相手は自分を否定する存在なのだと評価が固定し
嫌悪と恐怖しか出てこなくなるのかもしれません。

男性的行動基準も女性的行動基準も
メリットやデメリットがあります。
どうやら家庭の生活では
女性的な行動基準で行動するべきなのでしょう。

どちらかというと、家庭は
何か目的をもってそれに向かって結束して行動するよりも、
みんなで仲良く生活すること自体が目的となるべきだからです。
女性の行動基準がいかんなく発揮される人間関係なのでしょう。

ただ、子どもの進学だったり、しつけだったり
家庭の中の行動が、他の人間関係に影響を与えるような場合は
男性的な行動基準が部分手金導入されることが求められることもあるでしょう。

職場では男性的な行動基準が求められます。
それが会社にとって都合がよいと思われているからです。
みんなが目的的な行動をとれば生産性が上がると思われがちで、
目的に反したり、最短距離を進まない行動は否定されています。
このような労務管理に、男性は洗脳されやすいのでしょう。
いつしか家庭に企業の論理を持ち込んでいるようにも感じられます。

本当は行動基準が違うことが
家族が社会の中で楽しく暮らすためには必要なことなのです。
女性的な行動基準だけで家庭生活をしてしまうと、
社会の中から取り残されてしまうということがありうるからです。

細かい話で言えば
今日は子どもの学用品を買いに行こうと出かけても、
売り場に行く前にほかのところで時間をとりすぎて
目的の場所にたどり着かないというのでは子どもに迷惑をかけてしまいます。

協調性に価値を置くことを基本にしながらも
必要の範囲で、目的的行動を追求する場面がある
ということがバランスが取れているのではないでしょうか。

細かいことに気をしないで、おおらかな男性に人気が集まりますが、
それは目的的行動ばかりを口うるさく言わないという
女性的行動原理で行動しても安心できる相手だからかもしれません。

先ほども言いましたが、繁殖期はこれが男性でもできたのです。
相手の心にくどいほど気を使って心を砕いて
何とか相手をモノしようと努力していたではないですか。

女性も目的的行動に順応しようと努力をしていたのでしょう。

繁殖期を過ぎても家族が仲良く円満に暮らすためには
ここを意識しなければならないのだと思います。

自分の思い通り相手が動かなくても
決して価値観が違うわけではなく、
育った環境が違うからではなく、
自分を馬鹿にしているわけでもなく、
だらしないわけでもなく、
性格が悪いわけでもないのです。

動けない事情があるのです。
怒らなくてもよいのです。

そもそも家族という他人を
思い通り動かそうとすることが間違いだ
と考えることが夫婦円満の秘訣かもしれません。

片付けない妻は悪いかもしれません。
しかし、だからと言って、妻に
屈辱的な思いや不安を与えることはもっと悪い
ということなのかもしれません。

nice!(0)  コメント(0) 

全ての子どもにまつわる事件の当事者の親御さんたちは、最高裁判所の動画を武器にしっかりと身に着けるべき 最高裁は私たちの味方だ! [家事]




最高裁判所が動画を配信しています。
https://www.courts.go.jp/links/video/hanashiai_video/index_woc.html

ビデオ「子どもにとって望ましい話し合いとなるために」
という動画があり
「基本説明編」と「子どもの年代別説明編」の2本が配信されています。

子どもと言っても発育段階によって感じ方に違いがありますので、
年代別説明編を作ったことはとても配慮されていると思います。
基本説明編では未就学児と小学校高学年を例に
模擬事件を作ってわかりやすい説明がなされています。

これはとても使えます。

面会交流調停だけでなく、
親権者の指定(離婚調停、訴訟)、変更、
監護者の指定、子の引き渡し
全ての事件で、
この動画を裏付け資料として主張を行うべきなので、内容を紹介します。

基本説明編の内容としては、
大きく分けて二つの構成で、
<子どもが両親の争いから受ける影響>とそれを踏まえて
<子どもを両親の争いに巻き込まないために>
が述べられています。

全体の章立ては、
1. 話し合いを行うときに
2. 子どもが両親の争いから受ける影響
3. 子どもを両親の争いに巻き込まないために
4. 自分自身の心の状態を知る
5. 子どもへの接し方
6. 話し合う内容と心がけること
となっており、最初の画面からその動画部分に飛べるようです。
この点もよくできています。

先ず、
<子どもが両親の争いから受ける影響>
が述べられています。
文字ではなく動画で、しかも子役がみな素晴らしい演技をしているので
これでもかというほどわかりやすくなっています。

10歳の子どもの場合は、
一見平気そうに見えても、
内面では悲しい気持ち、辛い気持ち、不満などを抱えていることがある
というようなことを説明しています。

よく調停などで、
子どもは平気そうにしているから
今の環境になじんでいるとか
別居親と会わなくても良いから会わせないとか
等と言う当事者がいるわけですが、
その言い回しは間違っているということの裏付けとして使えるわけです。

まさかとは思いますけれど
調査官調査報告書がこのようなトーンで書かれていたら
最高裁の見解に反するという言い回しも可能になるでしょう。

もし万が一、審判でこのような能天気な理由付けがなされていたら
抗告理由に私は使わせていただきます。

ビデオの内容の説明を続けます。

小学校高学年になると
どちらの親の気持ちもわかるため
どちらにも気を使って板挟みになり
辛い気持ちになっている
ということも説明されています。

そして、板挟みになることを避けるために
どちらか一方の親の肩を持つような
極端な言動をすることがあるとまで
はっきり説明しているのです。

子どもは親に気を使うわけです。
それにも関わらず、子どもの言葉を表面的にとらえて
能天気な、つまり、ものを考えない結論を出してはならない
と最高裁判所は考えているわけです。


また、動画は
良い子にしていると両親が仲直りするのではないかと
無理をして良い子にふるまうことがあるということを指摘しています。

これはよく見られる現象で
勉強を頑張ったり、習い事を頑張ったり
無理をする子どもたちを学校現場でもたくさん見ているそうです。

小学校低学年までは
自発的に無理をする子はほかにあまりいないため
無理をすればするほど成績は上がります。
しかし、小学校高学年から中学年にかけてになると
無理して頑張るだけでは成績はついてきません。
自分にかかる歪んだ期待の大きさと、
成績という現実とのギャップに子どもは苦しみます。

学校や習い事の成績が
いつしか子どもにとっては
自分をささえる唯一の道具になっていますから
成績が頭打ちすることは精神的な打撃になるようです。

自分が無理をしないでありのままにいても尊重されるべきだ
という発想は、子どもには持てません。
保健室登校や不登校につながる事例があるようです。

まさかとは思いますが、
調査官調査や審判書などで
子どもがテストでよい点数を取っているから
子どもに問題が起きていないなんてことは言わないと思いますが、
もし、万が一そのようなことがあれば
最高裁の考え方とは全く違うということを教えてあげなければなりません。

次の大きなまとまりは
<子どもを両親の争いに巻き込まないために>です
ポイントとしては
「心の状態を知る」
「子どもへの接し方」
「話し合う内容と心がけること」
が挙げられています

心の状態を知るとは、
親自身が自分の心の状態を知るべきだということなのだそうです。
離婚の問題はこれまでになかった強いストレスを受けるので、
相手の言動を実際よりも悪くとらえてしまう
ときちんと説明されています。

これは、とても基本的なことなのですが、
これまで家裁実務では、あまり取り上げられてきませんでした。

当事者が感じたことを、すべて事実だというような扱いがされることが
たびたびありました。
裏付けもないのに暴力があった等と言う認定はないと信じたいのですが、
それに似たようなことはたくさん目にしています。
事実でないことで不利な決定を受けた方は
防ぎようのない攻撃を受けることになります。

ビデオでは悲嘆反応にまで言及しています。

次は子どもへの接し方です。

子どもに親の争いを見せないということが一番に出てきます。
これはとても大切なことです。
これは同居時に子どもの前で喧嘩しないということが勿論一番ですが、
別居した後でも、
子どもの前で、相手の悪口を言うとか、別居してよかったとか
そういう話をするということも同じだと思います。

昔は、親の親、子どもから見れば祖父母は
相手の悪口を子どもの前で言うことを良しとしない風潮がありましたが、
今の祖父母は、子どもの前で平気で
その子どもの血を分けた親の悪口を言っているという
嘆かわしい世の中に日本はなっているようです。

嘘でも良いから相手の良いところだけを子どもには知らせるべきで
それをする能力がないならせめて悪口を言わない
ということをするべきです。

子どもの心に目をくばり、
逆に子どもに悩みの相談に乗ってもらってはいけない
ということが言われています。

また、一方の親に気を使って
一方の親が悪くない、相手が悪い等と子どもが言ったら
それをやめさせるべきであることが
情感豊かに描かれています。

これからの生活の見通しを述べることが
子どもの気持ちの安定のためには有効であることが述べられています。
そうであるならば
子どもに何らの説明もしないで
転校を余儀なくする引っ越しを突然することは
この観点からも子どもの心に負担が生じることだ
ということが導かれます。

子の福祉にとって有害なことのカタログのようなビデオです。
大いに活用できると思います。
もっとも、相手を攻撃するために使うのではなく
自戒のためのビデオなので念のため。

最後は話し合う内容と心がけることについてです。
子どものために何を話し、何を決めるのか
ということをまず考えなくてはならないと言っています。

ところが、家庭裁判所では、
子どもの利益があまり話題にならないように感じています。
親同士が、私は私はということで争っていることが多いのではないでしょうか。
子どもという一つの人格が無視されているということに
警鐘を鳴らす内容となっています。

離婚となった場合は、当然に面会交流をするという流れにもなっています。
これは全て子どもの利益であり、親ならば最優先しなければならない
とビデオは訴えているように思われます。

ところが、
地方の裁判所では、
まだまだ面会交流を当然行うべきだという流れにはならず、
同居親の葛藤が高ければ
実施できないとか
間接面会交流にしなさいと言ってきたりするところもあります。
最高裁の考え方とまるっきり違うわけです。

また、間接面会交流の意味ですが
子どもが読むことすら見通しがないにもかかわらずに
別居親が一方的に手紙などを出してそれで終わりという無責任な方法を
面会交流だと勘違いしている関係者も多くいます。
交流ですらないと思います。

ビデオでは、面会交流は、離れて暮らす親も
自分に愛情を注いでくれると実感することが
子どもにとって大切だと言っています。

届かない手紙を出すことは面会交流とは言いません。
子どもが読まないから仕方がない等と言う人もいますが、
子どもは気を使って読まないのです。

養育費についても子どもが愛情を実感するという利益がることを述べています。

最後に
子どもの「将来のために」何が必要かという視点が必要だと力説している
要に私は感じました。
大事なことは、子どもの場合今だけでなく
子どもは成長する存在であり、それに応じた配慮が必要だ
と説得的に述べています。

家庭裁判所の話し合いも当然に
その視点で行わなければならないはずです。

年代別の動画も基本的には今述べてきた内容を
子どもの年齢に応じた発達段階に合わせて丁寧に解説されています。
ポイントと対応方法をきちんと整理してわかりやすいです。
まだどの子役の方々も演技が素晴らしい。

ご自分のお子さんの年齢の部分は
私がこのブログで抜き書きしたように
抜き書きして手元に置いて調停に臨むべきです。

家事調停は、事件ごとにいろいろな顔があります。
必ずしも法律で画一的に調停の流れを決めることはできません。
それはそうでしょう。

しかし、現実の家事調停の多くが、
何らよるべき基準を設けず、
調停委員や、裁判官、調査官の
個人的考えに従ってフリーハンドで行われているのではないか
という危機感があります。

最大の問題は子どもの将来が全く考えられていない
ということです。

家裁月報や
「子どものための法律と実務」安倍嘉人、西岡清一郎監修(日本加除出版社)
等、勉強する文献はたくさんありますが、
その成果がコンセンサスになっていないのではないかと
感じてなりません。

今回おそらく建前としては
一般国民を対象として最高裁は動画配信を行ったのでしょう。
しかし、一般国民に向けてこのような内容の動画を作るということは、
ほかならぬ裁判所は、
この動画と同じ考えで、家裁の手続きを行う
ということを宣言したに等しいと考えるべきだと思います。

全ての子どもの事件の当事者の皆さんが、
この動画をよく観て、内容を自分のものにするべきです。

もし家庭裁判所がこの動画に反する行動をとったならば
動画の内容を教えるべきだと思います。
そして動画を見ることを提案してください。

この先、長い目で見れば
子どもの権利はますます拡充していくことと思います。
そうなれば、この動画でも不十分な点が感じられるかもしれません。

しかし、現時点においては
これは強力な武器です。
それだけこの動画とは異なる考えで
実務は動いてしまっているということです。

おそらく最高裁の真意は一般国民に向けてというよりも
家事実務の在り方に対して
動画という形で
あるべき形を示したのではないかと
考えたくなっている次第です。

いずれも、このような動画は、最高裁判所が配信しているものです。
最高裁判所は私たちの味方だということに確信を持つべきだと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

裁判所に、「子どもの福祉」とは、将来を見据えた健全な成長を図るということである」ということを理解してほしい。 [家事]



親が離婚した場合どちらの親が子どもの親権を取得するか
離婚していない場合でも共同監護ができない場合
どちらが監護者となり、どちらと住むか
親同士が離れて暮らす場合に、一緒に住まない親と子どもを会わせること
家庭裁判所では子どもの一生が決まりかねないことが決められます。

子どもの権利条約を受けて
子どもを親の付属物としてみることから
子どもを独立した一人の人間として認めること
子どもには親の利益から独立した独自の利益があるということ
これらのことを強化しようと法改正もなされました。

しかし、裁判実務は果たして変化したでしょうか。
私には大きな変化があるとはとても思えないのです。

法改正の前から
子どもの一生に関わる親権、監護者、引き渡し、面会交流は
子の福祉を第一に決定されるべきだ
という考えはあるのです。

その考えはあるのですが、「子の福祉」という概念、価値観が
それらの判断の基準なり、根拠とはなっていないように感じてなりません。

私は、両親の離婚についてだって、
子どもにとっては家族の形が変わるし
生活の様子が変わるのですから、
自分の一生を左右しかねないわけですらか、
子どもが離婚に反対する権利があったって良いように思えるのです。
しかし、子どもには、両親の離婚について、つまり自分の一生について
意見を言う権利は認められていません。
せいぜい、お父さんとお母さんとどちらと暮らしたい
ということを言えるだけです。

不合理だと思いませんか。

それも、一緒に住んでいる親に気を使って
どちらと暮らしたいと言っていることは誰でもわかることなのですが
子どもの発言が鬼の首を取ったように扱われて
子どもが言ったからということを理由にして決められてしまいます。
まるで、子どもが自分の未来に対して
自己責任を負わせられているようなものです。

原因は色々あるのですが
家庭裁判所が、「子どもの福祉」ということを理解していない
ということに大きな問題があることは間違いないようです。

家庭裁判所の審判書や判決書を読むと
「子どもの福祉」という文字は出てきます。
しかし、本来の意味での「子どもの福祉」ということが
検討されている痕跡がないことがほとんどです。
さすがに、経験トップの裁判官等の審判書では
まじめに検討されていることがわかるのですが、
なにぶんその他の裁判官は家庭の問題を判断するには
若すぎるという印象があります。
若い裁判官が書いた審判書を読んでも、
探しても探しても子どもの将来の利益の検討が示されていることはありません。

ただ、「子の福祉」という文字を置いているだけなのです。
枕詞のように文字が置かれているのですが、
枕詞に掛る言葉がありません。

「子どもの福祉」の意味は確定しています。

「子の将来を見据えて考えるべきものであり、行動科学の知見を踏まえたうえで、どのようにしたら将来子が健全な成長を遂げることができるかという社会の良識にも配慮した視点で考えるべきものである」(例えば、「子どものための法律と実務」安倍嘉人、西岡清一郎監修(日本加除出版社)16頁)

と最高裁以下、「子どもの福祉」について共通認識に立っているはずなのです。

ポイントは、今、問題が起きていないように見えても
将来的に問題が起きる可能性があるのであれば、
しっかりそのデメリットを回避するようにする。
ということです。

現在の家庭裁判所の多くで、
この子どもの将来を考えた痕跡ばかりがない判断ばかりが目につきます。

だから、
面会交流をしなくても、現在子どもは支障なく学校にも行っているとか
突然友達や父親から離されて、自分の部屋や持ち物も置き去りにされた
けれど子どもが「帰らなくてもよい」と言うので
子どもを住んでいた家に戻さなくてもよい
というようなことを本当に家庭裁判所が書いているのです。
本当ですよ。

子どもの将来についての考察はなく、
煎じ詰めれば子どもだから母親と一緒に暮らすべきだ
ということで終わっているのです。

子どもが、「元に戻らなくてもよい」といった時の
その気持ちも考えていないし、
将来影響が出るかもしれないということも
裁判所の文書からは全く考えられていないように感じます。
私には、父親と会いたくないといった日の夜
ベッドでそれを思い出して張り裂けそうになっている子どもの姿を
想像して切なくてたまりません。
子どもがかわいそうだという考えが裁判所においても通じないのは
現代社会の反映でしょうか。

愚痴のようになってしまうのですが、
子どもが子どものままでいると思っているのではないでしょうか。
人間関係の断絶が新たな人間関係の形成に支障を生む
という発想はないのでしょう。
これを近視眼的というのだと思います。

法律学においては
明治期の立法者や大正時代にかけての法学者が
人間とは何か、人間が生きるとは何か、
人間のつながりとは何か、
ということについて深遠な洞察を行ってきました。
そしてそれを受けて裁判官たちが判例を作ってきました。

現在では、人間の営みを探求することなく
初めから結論を決めつけて
つまり何も考えないで印象だけで結論を出している
と感じることさえあります。

おそらく人間の心情や行動、成長
そういうことをはじめから理解しようとしていないのでしょう。

もっと、自分たちが
人の一生を左右させる仕事をしているという
責任感と緊張感を
審判書や判決書の中で見せてほしいと思います。

せめて言葉の意味だけは
自分勝手な使い方をしないで
決められた意味で使用するようにしてほしいと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

子どもの納得も、友達とのお別れもできない居住環境の変化をしいることは、子どもから見て、やはり連れ去りと言うべきかもしれない理由。子連れ別居における子どもの精神的負担の構造。 [家事]



特に母親によって、家族が住んでいる場所から
父親の了解も、予告すらなく、
突然子どもを連れて実家その他に別居する
という事件が一向に減少することはありません。
家庭裁判所の事件もやはり減りません。

しかし、家庭裁判所においては
大人の都合ばかりが議論されて、
子どもの幸せについては議論があまりなされていないような印象があります。
自戒の意味を込めて
子どもの心理的負担という観点から
突然の子連れ別居の弊害について検討したいと思います。

では、

人間は群れを作る動物です。
普段私たちはそれを意識しないのですが、
「自己」について意識する時には、
自分以外の他者との関係の中での自分ということを
考えているものです。

人間にとって「自己」についての感覚は、
自分以外の他人と自分との関係の状態によって
形作られていくものだとされています。(*1)
自分が生きている意味を感じ、充実感を感じるのは、
他者との良好な関係を保っている状態なのでしょう。

逆に誰ともつながりを持てなくなってしまうと
精神的に不健康な状態に陥るわけです。
それが、PTSDの本質だという研究者もいます。

子どもも同じです。
特に幼児期までは、両親との人間関係が大切で、
意識がなされなくても
自分の空腹や痛みや不快などの感覚に対して
両親などが改善してくれることによって
安心感を獲得していきます。
この体験は後々も
基本的に人間関係は安心してよいのだ
という自信や自己肯定感につながる基礎となる重要なものです。

幼児であっても、
常に両親が自分の周囲におり、
あるいは決まった時間に自分の周囲に戻って時間を過ごす
という人間関係の中で安心感を獲得していくわけです。

徐々に幼稚園や学校、あるいはスポーツ少年団や習い事の
友達や教師との関係を増やしていき、
予測可能な、「いつもの人間関係」の中で
安心感の輪を広げていくわけです。

安心感というのは予測可能性が前提になるでしょう。
何年か共同生活をしている学校などの友達は、
こうすれば機嫌を直してくれるとか
こういうことを言わなければ問題ないとか
予測可能な仲間です。
人間になじむということはそういうことなのでしょう。

そうして、安心できる人間関係の中で
「自己」という存在が形成されていくわけです。
例えば友達の中での役割を果たしていきます。
率先して行動を提案する役割、
みんなを勇気づけて行動を推進する役割
黙って作業を進める役割
あるいは意見が衝突する場合に調整をする役割、
自我を通さず全体に協力する役割

面白いようにそれぞれ個性があり、役割を果たしています。
これが「自己」という概念を形成するということだと思います。

友達だけではなく、先生との関係も重要な自己形成でしょうし、
通学路や近所の猫や犬に対するお世話をする
ということも自己形成に寄与しているように思われます。

生き物だけではなく
自分のおもちゃだったり、趣味の道具だったり
あるいは部屋のレイアウトだったり、小物だったり
物に対しての愛着も自己形成に重要なアイテムであったりすることがあります。

これまで子どもには人格が確立していないということで
子どもの「自己」に対して考察が十分でなかったような印象があります。
人格が確立するのはハイティーンの頃だとしても、
人格の形成にとってはなおさら、
このような安定した環境において自己形成をしていくことが
大人以上に重要なことなのだと思います。

もちろん、私の子どもの頃は高度成長期のただなかで
転勤や引っ越しが多く、ほとんどが転校生という状況でした。
ただ、その場合も
突然の引っ越しということはあまりなく
きちんとお別れをして、
別れても友達だという確かな思い持つことによって
距離的には別れ別れになるけれど心ではつながっており、
自己形成のための重要である人間関係であり続けていた
ということがあったのでしょう。

そのような心の区切りがつくことで
あたらしい人間関係になじんでいくことができるのだと思います。

さて、
現在よく行われている子連れ別居は
そのような心の区切りを子どもが持つことができない形で
突然行われます。

ある場合は、何が何やらわからないまま家を出て
気が付けば自分の母親や母方の祖父母等
大人ばかりの環境の中に放り込まれてしまいます。

しばらく大人ばかりの環境にいると
学校に通わないことはまずいということで
自分の意思にかかわらず
その地域を管轄する学校に編入させられ
見ず知らずの子どもたちの中に自分が置かれてしまうわけです。

子どもにとって、親が一人
自分の周囲からいなくなったということ自体が
精神的に混乱と恐怖を与えられることですが、
どうやら学齢に達したころになると
友人たちからの離脱が
さらにその混乱を大きくするようです。

子どもにとっての友人関係は
その中に自分がいる場合の友人関係しか想定できません。
自分抜きに、自分のポジションがぽっかり空いた人間関係は
想像することができないようです。

逆に、その友人関係の中にいない自分
ということもイメージができないようです。
自分が何か、現実に地に足のつかない存在になったように
頼りなく感じてしまうようです。

子どもの発達の状態や、人間関係によっては
色々違いはありそうですが、
それだけ小学生にとってのクラスの友達は
「自己」と切り離せない存在のようです。

また、地域の犬や猫、植物や小物、なじんだおもちゃ
それらとも突然に分断されてしまいます。

確かに、新しい居住環境でも子どもは、
祖父母や親せきの大人たちの与えたおもちゃを使って遊ぶでしょう。
それしかないからそれで遊んでいるわけです。

小学生の遊びは、
友達と同じおもちゃで遊んでいるということで
一人遊びをしているように見えて
友達とのつながりが形成されている場合が多いのです。

このおもちゃを楽しみながら
明日友達に話すことを想定しながら遊んでいたりするものです。

祖父母や大人たちから買い与えられたおもちゃにはそれはありません。

子どもからしても
既に小学校に通い始めている場合は
母親が一緒にいればそれでよいと考えることはできません。
子どもながらの社会があり、
社会の中での自己形成が始まっているのです。

友達や動植物や自分のなじんだ物から分離させられることは、
実は、自分だけ別の場所にいるということではなく、
自分の一部分が切り取られるような辛さがあるわけです。

あたらしい友達ができればよいというわけでもありません。
なぜならば、新しい学校の子どもたちは
自己形成に関与した人間ではないからです。

また、予測不能な自分とその子どもと
お互いに予測可能性のある子どもどうしとは
明らかに一線が画されています。

あたらしい人間関係を作ることは大人とは違います。
大人は、それぞれの人間関係を
ほどほどの距離で結びつけることが可能です。
ところが子どもはそのように器用な交際はできません。

これまでなじんだ人間関係の形成を求めてしまいますが
それができないためにあきらめてしまうこともあるでしょう。

また、自分がなじんだ人間関係から
突然、理由もわからないままに分離されるという体験は
深刻な影響が与えられる危険があります。

自分が納得して友達や先生と別れを迎える場合は
別離が起きる場合、条件というものを理解することができます。
ところが、自分にとって突然の別離となる場合は
別離になる場合が想定できません。
こういう場合
ある日ある時、突然人間関係は消滅するのだ
ということを学習してしまう危険があります。

この結果、特定の人間と
親密な人間関係を形成することに恐れを抱いたり
初めからあきらめてしまうということがあるようです。
特に人間関係をすぐあきらめてしまう
という傾向のある子どもたちや大人が報告されています。

これは、その人たちの子どもにも連鎖がおきてしまっています。


突然の居住環境の変化
しかも子どもがしっかりと納得しないままの変化である場合には
このような弊害が子どもたちにあることをしっかり想定しなければなりません。
もちろん、子どもの弊害を考慮しても
行動を起こさなければならないという
極めて例外的な異常事態ということはあるでしょう。

現在の家庭裁判所の実務は
このような子どもの弊害については
無かったことにして議論が進められているように思われてなりません。
きちんと弊害は予想しなくてはならず、
弊害はあるけれどそれを上回る子どもの利益があるという場合に
子どもの居住環境からの分離が肯定されなければならないはずです。

ところが、大人の都合が優先されて
子どもの都合は実質的には何も考慮されていないのです。
母親にとってやむを得ないから分離もやむを得ないというのであれば
子どもは母親の付属物になってしまいます。

それは子どもの幸せが
母親といることと同視されてしまっている
つまり母親に従属するべき人格だということを意味しており
人間に対する深い考えがない
子どもについての配慮が全くないということです。

母親の多くは、
子どもに対してこれらの精神的苦労を与えたいとは思っていません。
子どもの不利益を回避したい方法があるならば
その方法をとりたいと思っています。
そのために話し合う方法こそ大人や法律関係者は作り上げていくべきです。
このような努力は感じられません。

もし、あなたが夫から離れて暮らしたいという場合、
相談した相手があなたの心に「寄り添う」ばかりで
子どもの不都合について何ら言及もしない場合は、
結局子どもの苦しみは子どもの自己責任とされていることです。
その人のアドバイスを聞くことはやめるべきです。

子どもが今いる環境を温存しながら
大人の希望を考える人のアドバイスことを考えた方が良いと思います。

結局あなたに寄り添っているように見えている人は
子どもだけでなく、あなたの利益も考えていないのだと思います。
経済的利益や、自分勝手な思想、未熟な思い込みを
あなたに押し付けているだけの場合が少なからずあるように感じます。

子どもの不利益を考えた上で、行動を実行する
それが最低限求められていることなのだと思います。



*1 この文章をはっきり自覚したのは、J.L.ハーマンの「心的外傷と回復81頁」でした。かなりの衝撃を受けました。人間とはこのようにつながりの中で生きる生物のため、精神的外傷体験は、このつながりを絶たれた孤立状態をまねき、心的外傷の回復はつながりを回復する過程だという主張は私のその後の生き方を変えました。

nice!(0)  コメント(0) 

DVで書類送検された野球選手の反論はありうることなのか。もしそうなら妻が嘘をついているというのか。 思い込みDVの生まれ方の説明として [家事]


1 プロ野球選手の事件

報道によると、あるプロ野球選手が
妻に暴力をふるったという妻の被害届によって
書類送検をされたとのことです。

警察は捜査を行い、選手を取り調べた上、
警察は微罪処分などをしないで
検察庁にその後の判断を仰ぐべく事件送致したそうです。

それにも関わらず、スポーツ紙によれば、
選手は暴力を否定しているというのです。
実際は暴力がなかったということは、
ありうることなのでしょうか。

実はよくあることです。

2 実際にはよくある裁判所で否定される妻のDV主張

この事件の真相はわかりません。
でも類似の事件はたくさんありますので、
ありうることだという説明の範囲でお話しします。
思い込みDVというものなのです。

実際は暴力がないのに、妻が夫の暴力があるとして
離婚を申し出て、調停だ、裁判だというケースは
ごく普通にあります。
巻き込まれる子どものことを考えると
多すぎるなあと思います。

現実に裁判所で夫の暴力が否定されています。
夫の暴力はなかった。妻の妄想だという判決や
夫の行為によって妻に痣ができたのは間違いないが
意図的な暴力ではなく
妻を制止しようとした際に痣ができた
という判決もあります。

また、妻の主張する夫の「暴力」が
結婚生活で唯一の暴力の場合、
めったに手を出さない人が
どうしてその時に暴力にいたったかということが
全く説明できないというケースもあるのです。
本人は、説明しているつもりなのですが、
暴力が起きる前段階の事情と切り離されていたり
流れが不自然でリアリティーがまるでないのです。

裁判官から説得されて
妻が自ら裁判を取り下げたケースもあります。

妻の妄想を児童相談所や警察が真に受けて、
子どもが父親から引き離されて
一切連絡がつかない状態になっていることもあるのです。

3 暴力があったと思い込む心の流れ

1)必ずしも病気ではない

私の担当した事件の範囲での
ありもしない暴力や攻撃があると思い込む
妻の気持ちの動きを説明してみます。

確かに病気による妄想というケースも多いのですが、
私には病気とまで言えない普通の出来事の範囲
と思っています。

2)出発点としての女性の不安、自信の無さ

先ず、その女性の元々の性格か
その時の状況によるか
はたまた病気の症状かはともかく、

女性は自分に自信を持てず、不安を持て余しているようです。
特に理由がなく、不安は漠然としたもののようで、
なかなかそれを言葉にすることは難しいようです。

「自分はこのままでよいのか。」
「自分だけが損をしているのではないか。」
「自分が尊重されていないのではないか。」
という言葉にたどり着く場合も多くあります。

自分が産んだ子どもは夫(およびその両親)から尊重されているけれど
自分は子どものように夫(およびその両親)から尊重されていない
と感じる場合があり、
自分だけがよそ者のような感覚を持つようです。
潜在意識の中で、いずれ追い出されるのではないかと感じているようです。
これは無意識、無自覚に感じているようです。

これは何か理由があってこう考えているわけではないのです。
子どもが嫌いになっているわけでもありません。
しかし、本心ではなく、子どもに加害行為をするということを
夫に予告する妻もいます。
「子どもをマンションから落とす」
「子どもなんてかわいくない」
「わしは子どもの召使ではない」
それはこういう心理状態を言葉にしたもので、
夫から尊重されたいということを言っているにすぎないと
私には感じられます。

夫との関係に自信が持てないというのが本質なようです。

そこまで夫を好きで好きでというよりは、
夫婦という関係を過剰に大切に思いすぎてしまうようです。
大切すぎるあまり、
その関係が壊れてしまうことを考えてしまい、心配になるようです。

3)不安解消要求の肥大化

不安を感じると不安を解消したいというのが
動物の生きる仕組みです。
天敵が近づいてきたら、不安になり
不安を解消するために逃げるわけです。

ところが人間関係はこのように単純ではなく、
別離の不安というものは逃げて解決するわけにはいかない。
この不安は理由があるものではないことも不幸の原因です。
解消するためのピンポイントの手立てはないのです。

不安をもって、不安解消要求があるのに、
不安を解決する方法がないというのが、一番悪い。
こうなっていくと、どんどん不安解消要求が高まってしまいます。
不安だけが高まっていくのです。

4)脳、思考に対する影響 思考の単純化と悲観的な思考

不安が高まりすぎて、いつまでも続いていると
脳が疲れてしまいます。
分析的に物事を考えることができなくなり、
複雑な思考をしなくなってしまいます。

二者択一的な思考になってしまいます。
夫は自分を嫌っているのかそうではないのか
という変な二者択一になってしまいます。

そうして、どうしても悪い方悪い方に考えていきます。
ふつうは何とも思わないことが
自分を攻撃しているように感じてしまうのですね。

例えば
家に帰ってきて、仕事を持ち帰ったので夫が部屋に入ると
自分を嫌っているから自分から離れたいのではないかとか
子どもにばかりお土産を買ってくると
自分には何もくれてやるものはないというアッピールではないかとか
自分が作ったご飯を残すと
こんな料理な下手な嫁は入らないと思っているのではないだろうとか

日本の男性は、あまり妻に感謝や称賛を日常的に口にしないので、
二者択一のうちの良い事情はありません。
当初の不安が、ものの見方をゆがめ、その結果ますます自信がなくなる。
益々不安になり、益々見方がゆがみ、さらに自信がなくなり、さらに不安
という悪循環になるわけです。

週刊誌を立ち読みしたのですが、
件の選手の妻は、
夫の携帯電話に一日中電源が入っていないので
浮気をしていたと断定しています。
そういう極端な考えになるわけです。
でもこれも特に出産直後は普通の出来事だと思います。

5)被害意識の増大と夫の反射的防御反応

自信がなく、夫から嫌になられているのではないかという
被害意識は、さらなる被害意識を呼ぶわけですが、

夫から事務連絡のようなことを話しかけられても
自分が攻撃されている、低評価されていると思いますから
言い訳をしたり、夫に逆切れをしたりするようになります。

例えば、夫が
「これから仕事に行くけど、子どもが鼻水流しているなあ
 あったかくさせておいてね。」
なんてことを言うと
おそらく、自分の温度管理が悪いと
しかられていると受け止めてしまうのでしょうね。
「その子の鼻水はアレルギーなの、寒いわけではないの。」とか
「私が何度言っても、靴下脱いでしまうのよ。あなたの遺伝だからあなた何とかしなさいよ。」
とか、言い訳を大声で始めたり、
「あなた一日中家にいないくせに、私は一日中この子の世話をしたり家の掃除をして、座ることだってできないのよ。そういうふうに一日家を空けるならばお手伝いさんを雇うくらい給料もらってきなさいよ。」
なんて逆切れされるわけです。

夫は、相手を責めるつもりではなく、
二人の子どもなのだからお互いに気を付けようというくらいの気持ちでも
不安解消要求が強くなった妻に対しては
文字通りに伝わらないことが多いのです。

そういう事情を夫はわかりませんから、
妻が理由もなく自分を攻撃してきたと思います。
夫にも自分を守る本能があるために、
この本能が発動してしまいます。
反射的に反撃をしてしまうわけです。

通常、議論はかみ合いません
「暖かくしているに越したことないだろう。なんでそれが嫌なのだ」
と夫は正論を吐きますが、
妻は、言葉通りに細かく受け止めません。
自分の必死の発言を即時に否定されたという外形だけを受け止めます。

「私のことを馬鹿にして何様のつもりだ」
と感じることも自然な流れですね。

字面で論点を把握する夫と
全体の人間関係としてのやり取りで論点を把握する妻は
論点がかみ合うわけがないのです。

「これは妻が悪い」と考える人は
あまりにも冷たい考え方だと思います。
会社等組織的行動原理を
家庭に持ち込んでいるだけのことだと思います。
(いろいろ考えた結果こういう結論になりました)

6)新たなる心配の種(悪循環の再生産)

妻は逆切れしたり、言い訳したりするようになると
夫との口論も増えていくのですが、
さあそうなると、妻の心配はもう一つ増えます。
「こんなに話がかみ合わないで感情的な自分に
夫は愛想を尽かすのではないか」
という心配なのです。

「どうせ、私は変なことばかり言ってすぐ感情的になる
と思っているのでしょう。」と思い出すわけです。

この心配が、益々自信を無くさせ、不安を招き、
新たな被害感情を産むという悪循環を大きくしてゆきます。

7)記憶の変容

ある事件で、偶然夫婦喧嘩が録音されていました。

どうせ〇〇だと思っているのでしょう。
というパターンが録音されていました。
夫はそれに何の反応もしていません。
ところが、
裁判で出てきた妻の陳述書では
「夫から〇〇と言われた。」
と発言者が妻本人から何も言っていない夫にすり替わっているのです。

私は妻が嘘を言っているのではないと思っています。
しかし、確かに事実と違うことを書いているわけです。
夫は〇〇と思っていると妻に言っているわけではありません。
そもそも〇〇であると思っているかどうかもわかりません。

しかし妻の記憶では、どうやら夫から
〇〇と言われたという記憶になっているようなのです。

人間の記憶なんてそれほど正確でも詳細でもありません。
私たちは自分の記憶が正確だと錯覚しているようです。
そういうふうに思われるのではないか、言われるのではないかという心配と
実際に言われたということは、
被害感情が強くなった妻のその時の気持ちでは
区別をする必要がなかったのでしょう。
どちらも同じことだということだったのだと思います。
だから
言われたという記憶として定着することもありうることなのです。

8)記憶の欠落

それから、ありもしない暴力があるというのは
記憶の欠落ということも裁判では認定されています。
例えば、客観的事情として妻の膝に痣がある
その痛みが始まった記憶と、部屋で自分がひざまづいている記憶
近くで夫が立って自分を見下ろしている記憶
これは鮮明にあるわけですし、間違っていないのです。

しかし、その前の記憶は欠落しています。
「夫が自分に働きかけて自分は転ばされたのだろう」
と考えるわけです。
しかし、どうしてそんなことをされたのかについては考えない。
だから記憶がつながらない。

それでも、それは夫のDVだという主張をするわけです。
「DVがあったことは間違いない」と考えるでしょう。

ところが、実際は、
妻が興奮状態で、部屋から飛び出そうとする
慌てて夫がそれを止めたところ
勢い余って転んでしまった。
こういうケースを、1,2件に限らず裁判で主張され
裁判では暴力が否定されています。

痣の診断書があるから暴力があったと
短絡的に認定する裁判官はもうあまりいません。
おそらくそのような主張を裁判官も多く経験したからでしょう。

4 妻が離婚を決意する理由

妻の自信の無さ、不安、被害感情、逆切れ、自己嫌悪、自信のなさ
という途切れることの無い悪循環は
それは事実ではないとしても
こころが苦しくなることは間違いありません。

何とかこの心の苦しさ、不安から解放されたい
という気持になることは無理がありません。

しかしその方法が見つからない。

苦しさから解放されれば何だって良い
という気持になることもある程度やむを得ない流れだと思います。

ある時気が付くわけです。
「離婚すればこの苦しさから逃れられる。」
ほっとする気持ち、ほのかに明るい気持ちになるようです。
本当は夫との関係を大切に考えていた気持ちが
逆に妻を苦しめ、離婚を考えさせるという
なんとも不合理な出来事が起きているわけです。

しかし、一度こういう考えにとらわれてしまうと
夫が怖くなったり、嫌悪、憎悪の対象になってしまいます。
これを覆すことはなかなか難しいのです。

5 妻が不安になる最初の事情

夫の暴力やモラルハラスメント、不貞の無い事案で
妻が不安になる最初の事情としては、
出産の影響が良く言われています。
重複するかもしれませんが産後うつ、甲状腺機能の問題、
不安障害、パニック障害、月経前症候群
という事情がある場合もあります。

出来事としては、自分の弱点を修正できない
片付けられない、掃除ができない、浪費、借金
妻が別居した後に
公共料金や家賃が支払われていないことに気が付くことは多いですし、
キャッシュカードを預けていたら、
別居した日に200万円キャッシングされていたということもありました。

実感のレベルなのですが、思い込みDVの事案では、
夫は給料を全部妻に入れて小遣いをもらうというパターンがとても多いです。

それからいたましい事情としては
お子さんに先天性の障害がある場合がかなり多いです。
この事件を担当するようになって
先天性の障害についてかなり詳しくなりました。

以外に多いのは住居を新築した後の別居も
かなり多くあります。
おそらく、住宅ローンの支払いの不安が関係しているのでしょう。

6 妻の不安を増強し、固定化する事情

本来妻の不安は根拠がなく、具体的なものではないのですが、
それを歪んだ形で具体化し、固定化してしまう人たちがいます。
配偶者相談の人たちもそうなのですが、
医師や心理士、警察、学校関係者も見過ごすこともできません。

妙な正義感があって
女性を助けようとジェンダーバイアスがかかった見方をするわけです。
女性が不安や焦りを感じていれば、
どこかに夫のモラルハラスメント、DVがあるはずだというのことです。
全ての男性は自己愛性パーソナリティー障害を持っている
ということと同じことを言っているのです。
それも男が、我が身を顧みずに言っているのですから情けない。

また、自分で言っていて、自分で怖がるのでしょうね、
夫に事情を確認しようとすることはありません。

漠然として不安を持ち、不安を解消しようとしている妻は
原因は夫だと言われるとほっとします。
原因がわかれば解決方法が出てくると思うからです。
そうなると、原因は夫であってほしいという願いさえ出てくるようです。
自分には味方がいる子どものために頑張らなければならに
という使命感さえ出てくるようです。

即時に夫に対する嫌悪感、憎悪の情が生まれるようです。
元々あったわけではなく作られるのです。

これが思い込みDVです。

7 夫に原因はないのか夫婦別離による子どもを救済する方法はないのか

さて、私は、妻のこのような思い込みDVが生まれる過程は
病的な異常なものではなく、
普通の、日常的な人間の営みの範囲に含まれる出来事だと思います。
どこのご家庭にもあることだということです。
必ずしも治療が必要でも有効でもないこともあるでしょう。

一昔前は、家の中に夫婦と子どもの外に両親がいたり、小姑がいたり
すぐ近くに親戚やご近所さんがいて
忙しい夫よりも家の中のことがわかる人もいて
一緒に悪口を言って笑ったり
被害感情が過ぎる時には、それは違うよと言ってくれたりした人たちに
まだましな方の旦那さんだよとかね。

ところが今の家族は孤立しています。
単なる気の迷いが深刻な不安になってしまうわけです。

ゆっくり子育てをしていると
働かない人間は輝いていないというように
世間も母親を焦らせることしかしていません。
子どもを育てることがあまり評価されない時代のようでもあります。
子どもに愛情を注ぐことを犠牲という表現でしばしば語られます。

どうしても夫が何とかしなくてはならない
夫しかいないのです。

例えば妻の実家とは良好な関係を作るとか
自分が妻のチームから孤立しないようにするということも大事です。

また、妻自身と一緒にいる時間を増やすということももっと大事です。

感謝と称賛、そして妻の気持ちに即した謝罪
こういうことで、少しずつ安心の記憶を積み重ねていく
こういうことはできるし、するべきなのでしょう。

そうして会社の論理を家庭に持ち込まない。

妻の不十分点、失敗、欠点をできる限り大目に見る。
妻が安心して家にいることが幸せなのですから
幸せを一直線に目指せばよいのです。

良いのですが、なかなかこれも難しい。
3割くらいこれを実現できれば
努力を感じてもらえるというように思っています。

なかなか難しいのは子ども悪口ですね。

これを全くしないことは思い込みDVを大量生産することになるでしょう。

だから、思い込みDVというのは妻が悪いわけでも
夫が悪いわけでもない。
ただ、幸せになる方法を知らないだけということだと思っています。

一番の被害者は子どもたちです。
子どもたちには、事態を解決する能力も責任もないからです。

加害者がいるとすれば
男は自己愛性パーソナリティー障害だと結果的に決めつけて
家族を分断する第三者に他なりません。
子どもたちはこれらの人たちの犠牲者だと思っています。

弱く力のない現代の家族を
これ以上壊さないでほしい。
子どもたちに、自分の血を分けた親を
悪く思わせないでほしい。
心からそう思います。

nice!(0)  コメント(0) 

子ども引き離し別居における離婚調停の場面で、当事者が考えるべきこと、弁護士が助言するべきこと [家事]


ある日、突然、主として母親が子どもを連れて別居し、
居場所を隠すなどして子どもを父親から引き離しておいて
離婚調停の手続きを申し立てるというケースが増えているように感じます。

この離婚調停の呼び出しが届いた父親が弁護士に相談に行った場合
通常話題になることは、
離婚に応じるか否かと離婚の場合に親権をどうするか
ということですが、これは間違いです。
その前に考えなければならないことがあります。
離婚調停にあたってというよりも
家族の危機状態にあたってどのように対応するかということです。

具体的には誰の利益を一番に考えるかということを考えなければならず、
要するに
子どもの健全な成長を第1に考えるのか
ということを真剣に考えなければなりません。

当然そうだという人が多いのですが、
実は子どもの利益よりも、自分の利益を第一に考えてしまう人が多いようです。
感情的には理解できます。
現代の裁判所では、
妻が離婚の意志が固く別居していれば
それだけで婚姻破綻で離婚が認められるというケースが多く、
母親であるということだけで親権者になるケースも多いため
絶望をせざるを得ず、建設的な思考ができないことも
ある意味仕方がないからです。
でも、だから、第三者の弁護士が存在するのだと思います。

自分を守るため相手を過剰に攻撃してしまい
ますます、わが子から自分を遠ざけてしまうケースを
たくさん見ています。

だから、一番最初に考えるのは、
不合理な立場に置かれた自分の感情を守るのか
自分の感情を殺してでもわが子の健全な成長を
少しでも多く追及するのかということになってしまうのです。

この両者は、しばしば矛盾します。

子どもの健全な成長を守るためには二つのことが必要になります。
子どもの人生の時間において、より多くの時間を父親と共有させること
子どもがどこにいようと、子どもに子どもの親の悪口を聞かせないことです。
この二つの間違いがあると、子どもは自信のもてない人間になってしまいます。
子どもは人間の価値を感じられなくなってしまいます。

この二つを実現するためにどうするか
という発想になることが入り口なのです。
最低限度の信頼関係を作っていくということですが、
途方もない、希望のあまり持てない道を行くことになります。
これを子どもの健全な成長のために実行できるかということです。

子どもがいる夫婦の離婚調停は、
このような最低限度の信頼関係の構築も
その目的にしなければならないし、
うまく利用すれば、ずいぶん役に立つものです。

さて、最低限度の信頼関係構築のためには、
相互理解をする必要があります。
相手を理解し、自分を理解してもらうことです。
自分を理解してもらうためには、
相手を理解しようとする姿勢をきちんと見せなくてはなりません。

相手を理解するというのは、
子どもを父親から引き離して離婚調停を申し立てざるを得ない
相手の心持を理解しようとすることです。
一番否定したいこと、理解したくないことかもしれません。

二つの観点を考慮しなければなりません。
一つは、相手の身体的条件ですし、
もう一つは相手の環境的条件です。

身体的条件とは、
あなたの気に入らない相手の言動が
相手の身体的不調に原因はないかということです。

朝起きることができない、整理整頓ができない。
後ろ向きの発言ばかりする。
感情を爆発させて、自制がきかない等、
人間関係でトラブルを起こしやすい

これらの原因としての疾患である
軽度の甲状腺機能の低下、薬の副作用としてのうつ
産後うつ、パニック障害、月経前緊張症等々です。

これまでの経験から、原因がよくわからない夫婦のいさかいの背後に
これらの診断がなされていたことが多くありました。
但し、軽度の甲状腺機能の低下については、
実際の罹患者が多いのに、検査されなかったり見過ごされることが多いようです。

次に、環境要因は、実家との関係、葉ほ親の職場の人間関係
それから夫婦の人間関係です。
夫婦の人間関係の中では、
母親にとって、自分が尊重されているということを
実感できていたかということを考える必要があると思います。

自分の欠点、弱点、失敗を多めに見てもらっていたか
それとも、正義や道徳の関係で、それらが許されない状態だったか。
本人の努力が感謝をされていたか、
それとも足りないところだけ指摘されていたか。
健康や安全を気遣われていたか。
指図やダメ出しばかりの会話ではなかったか
離婚や離婚を意味する言葉を言われていなかったか。
こういうところを点検する必要があります。

こういうことがあれば、
誰しも、その関係にいることに安心ができなくなります。
いつも何か言われないかとおびえて暮らしていることになり、
大変つらい思いをすることになります。

結果として離婚が避けられなくても、
相手の不安や苦しさを理解して、
本当はこうすればよかったかもしれないと
二人で確認することはとても有益です。

フリーハンドで戦いあうよりも
その後の影響はよくなります。

お互い相手のできないことを理解しようとすること
良いところはこういうことだということを
改めて言葉にすること
それが、離婚調停にあたってまず最初に考えるべきことだと
第三者は助言するべきだと思います。

nice!(0)  コメント(2) 

出産前後の妻がいる夫こそ知らなければ始まらない。産後クライシス、産後うつ、思い込みDVとは何かということと、対処方法 [家事]


出産後に夫婦仲が悪くなることをよく見る。

夫から見ると、
自分のことを気にかけてくれなくなった。
何かと後回しにされ、はなはだしいと忘れられる。
不気味に口数が少なくなった。
妻が急に暗くなり、後ろ向きの発言ばかりするようになった。
実家の母親との連絡が頻繁になり、自分が蚊帳の外に置かれている。
わけのわからないことで相手の両親から注意を受ける。

そうして甚だしい場合には、
仕事から家に帰ったら子どもも一緒にいなくなってしまっていて
どこに行ったかまるで分らない
という事態も起きている。

そして、弁護士が入ったり、警察が入ったり、
調停だ、保護命令だということが始まる。
いったい何が起きたのかわからない。
自分は今までと何も変わっていないのに、
急に、妻の自分に対する考えが帰られてしまった。
誰かが妻をコントロールしているのではないか。

夫がそう考えることはよくわかる。
妻の出産後の変容についてはだいぶ研究が進められているが、
それが一般的に紹介されることがないからだ。
そのために無駄に夫婦は争わされて、
子どもはストレスフルな状態にさらされる。

出産によって、女性の脳機能は変化するらしい。
成人男性に対して、共感しにくい脳の活動スタイルになるそうだ。
これは誰しも多かれ少なかれそのような変化が起き、
2年くらいは継続すると報告されている。

共感ができないのだから、
夫との楽しい過去の記憶も引っ張り出すことは難しくなる。
妻にとってみれば
夫がどんな時に喜び、どんな時に怒り、どんな時に傷つくか
出産後はあらかじめ予想することができない。
不用意に行動することによって夫の怒りに出っくわし、
それが声が大きいとか、言葉が乱暴だとか
そういうことで、見ず知らずの男性がそういう言動をするように怖いのだ。
体の大きい男性に対して安心することができないようになってしまう。

これは、新生児の状態をいち早く自分のこととして察知し、
適切な対応をするための哺乳類全般の習性である。
だから、この傾向がはなはだしい場合は、
3、4歳の新生児の兄、姉に対しても
愛情を失かったかのような感情になり、
自分の子どもが可愛く感じないと母親を苦しめることがある。

決して出産後の母親がおかしくなったのではなく、
自然の摂理の範囲内であるのだ。

謎を解くカギが、この新生児の子育てにある。

妻は過剰なまでに不安になる。
この子どもをきちんと育てることができるだろうか。
こどもに何か不幸が起きるのではないか。
自分一人で育てなければならなくなるのではないだろうか。
(夫が急に幼く頼りなく見えてくる。)
お金は足りるだろうか
(実際は足りているが、病的にお金が足りなくなるという気持ちになりやすい。)
(また、かなり収入が高いご家庭でもそういう心配をするようだし、
心配だからと言って急に収入が上がるわけでもない。
これを真に受けて下手にじたばたすると、悪い方向に向かうことが多い。)

まるで夏休みが終わるときの中学生の心持に似ている。

研究ではこの状態は一過性のものだという。
しかし、悪意のある第三者がいる場合、
妻のあなたに対する不安は増強され、固定化されてしまう。
やがて、恐怖や嫌悪に変わる。

妻は、あなたと一つ屋根の下にいることが
わけもなく不安になってしまうのだ。
妻に落ち度があったり(借金、不貞、対人関係の難)
子どもに障害があったり、
精神的な影響を与える疾患が元々妻にあった場合は
その傾向が強くなり、病的なまでになることがある。

こういうことの常であるが、
妻は、自分の感じ方が変わったということは自覚できない。
自分は何も変わらないと思っている。
だから、産後クライシスや産後うつを自覚することはない。
だから、だから、産後クライシスや産後うつの対策は
妻に任せていては絶対解決しない構造があるのだ。
夫こそが理解して、夫こそが解決しなければならない。

人間はあらかじめ最悪の事態を想定することが苦手なようだ。
最悪な事態が来てからそれが最悪の事態だと知ることができる。

何も起きないうちから、
しかもこれから子どもが生まれるという喜びの中で
この長ったらしいブログ記事を読むということは
あまり期待できないことかもしれないが、

誰か周囲の人に読んでいただき、
若い夫の相談に乗ってもらえば幸いである。

では、夫の側で予防に効果がある行動はあるのか。
脳の機能が変容するならば、運を天に任せるしかないのか。
誰にでも、子どもを産んだ女性には変化があるが
個性によってだいぶ違う。
それでも、子どもと妻が自分のもとから消えてしまうという
最悪な事態を回避する方法があると思う。

実はすでにヒントは出してある。
それは、夫が出産前と同じ態度をしているところに問題があるのだ。

妻の出産前と妻の出産後では、夫は態度を変えなければならない。

妻は出産によって、新生児に共感力を集中させてしまい、
大人の男性に共感をする力を失う。
その結果、夫に対する安心の記憶をなくし、
不安を抱くようになる。

そうだとすれば、
楽しかったことを思い出させるのではなく
夫は新たな「安心」の記憶を少しずつ刷り込んでいく
という発想での行動が最も有効な方法である。
過去を思い出させるのではなく、
未来を一緒に作っていくという発想だ。

あなたの声の大きさ、話すときの言葉のチョイス
こういうものは、出産前は通用しても出産後は使ってはならない。
出産前の妻と、出産後の妻は別人なのだ。
やさおとこが話すように、少々わざとらしい話し方でよい。
お手本は、どうやら韓国ドラマらしい。
冬のソナタのヨン様の話し方を、
あなたの同一性を損ねない範囲で努力してマネすることが賢明なようだ。

体調を気遣い、代われるものは代わってあなたがやる。。
これを言葉にしないで黙々とやっても意味がない。
「私がやるよ」言って行うということが肝心だ。
安心の記憶を刷り込むためだからだ。
自分の点数を稼ぐためではなく、妻を安心させるためだ。

一番有効なことは怒らないこと。
出産後、妻はあなたの気に障る言動をすることが多くなる。
しかし、それはあなたに共感できないのだから仕方がない。
悪気があるわけではない。新生児を育てるためだということを理解しよう。

妻の失敗を、にこやかに受け流す。これが有効だ。
妻はあなたは自分に何も危害を加えない人間だと
少しずつ理解していくだろう。

それから、妻は動作が鈍くなることがある。
急がされることが苦手だ。
夫はわざとゆっくりやって、時間がないと言っているのか
と思うけれど、仕方がないと思うしかない。
妻が遅れることを計算して段取りするしかない。
そしてすかさず、「急がなくてよいよ」というと効果的である。

妻の行動を批判しないこと。
妻に対してあれをやれこれをやれという指図をしないこと。
出産後1年は確実に仕方がないだろう。

掃除をしないで不衛生なら夫がやるしかない。
その時もにこやかに行う。眉間にしわを寄せてはいけない。
片付けられていない部屋は、夫婦と子どもしかいないなら当然だ。
そういう風に思うべきみたいだ。

体力的なこと、夜泣きへの対応、
仕事がきついけれど、夫の仕事だと割り切るしかない。
どうやるのか、
無理をするのである。
子どもが生まれて1年半くらいは、家庭で無理をしなければならない
そういう風に先輩から私は言われた。

覚悟を決めていたから、無理はしたけれど
あまり精神的な苦痛を感じたことはなかった。
肉体的には苦痛だった。
だから、家庭で無理をしなければならないので
仕事では、無理ができないと割り切るしかなかった。
当時の仕事仲間には感謝しかない。
いまだに義理を感じている。

人間の場合、猿から別れて600万年の間
子どもはみんなで育てるというやり方を貫いてきた。
今はなかなかそうはいかない。

同僚の協力を得る。お互い様でやる。
現代では、こういう形になるのだろう。





nice!(0)  コメント(0) 

家族解体思想になぜ保守政権が追随するのか 子どもに会えない親の苦悩は日本という国の客観的状態を反映しているということ [家事]

前回の記事で、
産後直後などの女性が不安になると
その原因は夫にあるとして
離婚に強引に誘導する政策を推進している人間の一定割合に
家族制度を解体しようとする極端な思想集団がいる
ということをお話ししました。

このような過激な思想ならば
美しい日本を取り戻すということを約束する
現在の保守政権が何とかしてくれるのではないか
と考える人たちがいるのはもっともです。

実際に、政権党内では
家族制度の解体に反対する勉強会も開かれていたようです。
日本会議という団体では、
団体の機関誌で連れ去り問題を何度か取り上げていただいており、
危機感を強く持たれているようです。

それにもかかわらず、相変わらず、
母親たちに対して、
あなたが不安を抱いているのは夫のDVが原因だと
個別事情を全く聴きもしないでそう吹き込んで
離婚件数を増やそうという行政やNPOの活動が定着し
ますます活発にさえなっているようです。

最近の子連れ別居離婚申立事件で述べられている離婚の理由は
見るに堪えないねつ造のオンパレードです。
たまたま知っているご夫婦の事例を見ると
針小棒大ではなく
火のないところに煙を立てているという状態です。
なかなか家族再生の糸口が見つからない事件が増えています。

どうして、美しい日本を取り戻すと約束した保守政権が
このような活動の継続を許しているのでしょうか。

それには理由がありそうです。

日常の夫婦のいさかいを
「DV」という、曖昧な言葉にすりかえて
強引に離婚にもっていくのは、前回述べた通り
家族解体思想に基づくある種の洗脳ですが、
他にも家族解体思想に基づく主張が
ネット世界に蔓延していることに気が付きました。

「三歳児神話否定論」と「母性神話否定論」、
それから、「賃金労働こそ人間の最高の価値論」です。

三歳児神話とは
本来の意味は、「三つ子の魂百まで」ということで
子どもは小さい時でも大切に育てるべきで、
ぞんざいに扱って性格がひねくれてしまうと
一生直らないということだったはずです。

世俗的な使い方としては、
小さい時からひねくれていたから
大人になってもひねくれているのは当然だという
揶揄(やゆ:悪意でからかう)する使い方が多いと思います。x

教訓的な意味としては
子だくさんの昭和の時代に
新生児に手間がかかるからといっても
上のおにいちゃん、おねえちゃんをぞんざいに扱うな
ということのだったはずです。

現在の三歳児神話は、別の意味に改変されています。

三歳児神話否定論者による三歳児神話とは
「三歳までは母親が働かないで家にいて
子どもの面倒を見なくてはいけない」
という極端に狭い意味の新説にすり替えられているのです。

これだけで誰かが都合のよいように作りだしたものだとわかります。

子だくさんの昭和の時代には
労働者の家庭の母親は専業主婦ですから
そもそも仕事を持っていた女性は少なかったのですし、
農家では、女性も働いていたので
働くなという意味を持たせようにも
それを受け入れる余地はありませんでした。
だから働くなという意味ではなかったのです。

子どもを大切に育てるべきだという言葉の意味が
母親は働かないで一緒にいるべきだ
という限定的な意味になったところが
新説の特徴です。

これと同じように
母性神話とは、元々は
母親は、自分の身を犠牲にしてまでも
子どもの命を守るものだ
ということがオリジナルの意味だったはずです。
母性というものは崇高なものだというものです。

ところが現在の母性神話否定論者のいう母性神話は
「子どもは父親ではなく母親が育てるものだ」
という内容にすり替えられています。

新説を作り、神話と名付けることによって
根拠のないものというイメージを作り
内容にすり替えて誰しも否定するようにしむける
論者の「ねらい」は共通しています。
それは、
「女性は子育てに時間を取らず、子どもを預けて仕事に出ろ」
というものです。
注意深く三歳児神話否定、母性神話否定の文章を読んでください。

そしてその多くは根拠がトンチンカンなものです。

ばかばかしい根拠の筆頭は
皇室も母親が子育てしないから日本の伝統だというものです。
皇室が母親が子育てしないのは帝王学にもとづくもので、
親子の情愛が生まれると政治に支障が出る(人質に差し出せない)という、
支配層の必要性にもとづいているものです。

少なくとも庶民には全く関係がなく
日本の伝統でもありません。

ちなみにこのような皇室の伝統に対抗するために
女官らの抵抗をはねのけて自ら子育てを行われたのが
上皇后様だったわけです。
こんなことはほとんどの日本国民は知っています。
論者は、女官たちとともに上皇后様の子育てを否定したいのでしょうか。

別の論者は
海外では保育機関で集団的に子育てした場合と
家庭内で育てた場合とあまり違いはない
というトンデモ説を根拠にします。

海外では産休、育休が充実しており
2歳ころまでは家庭で育てることができます。
その後に集団的な保育を実施しているのです。
このことを隠して誤導しているのです。

海外では、子育ての大事な時期ということをよく知っています。
これは、かつてイスラエルのキブツという仕組みの中で
生後すぐに親から話して集団で子育てしたことによって
子どもたちに否定的な結果がでたことを教訓化して反映していたり、

ボウルビーやエインズワースという科学的な愛着の理論に基づいて
親による子育てこそを励行しているわけです。
そしてそれが子どもの人権だとしているのです。

やみくもに親が子育てをしなくても大丈夫等と言う
データなど存在しません。

このような無茶なことを言ってまで
母親を子どもから切り離して賃労働に駆り立てようと
必死になっていることがわかります。

三歳児神話の否定や母性神話の否定は
私が目くじら立てて否定しなくても
子どもを産んだ母親ならば
簡単にそれを信じようとはしないでしょう。

ところが、
「もう一つの神話」によって
母親たちは賃労働に駆り立てられているのです。

それが「賃金労働こそ人間の最高の価値論」です。
(この名前は、さっき私が思いついて作ったものです。)

子育てよりも外で働いて賃金を得ることこそが
人間として最も価値のある行為だという考えです。

この考えに取りつかれている母親は多いのですが
なかなかそれを自覚することができません。
多くの子どもを産んだ女性の意識の中に
そのような考えが刷り込まれているのです。

母親たちは、焦りながら以下のように考えています。

「夫は働いていて、自分だけ子どもの世話をするのは不平等ではないか」
「自分だけ損をしているのではないか」
「自分は子どもの召使ではない」
あえて言葉にすればそういうもののようです。

そうして、外に出て働きたい
子どもの世話ばかりしたくない
という気持ちに駆り立てられます

それでも子どもに対する愛情もありますから
育児をしないで仕事に出ることに罪悪感を抱きます。

だからこそ、罪悪感を軽くするために
「三歳児神話の否定」
「母性神話の否定」に飛びつくわけです。

特にこの神話の否定に飛びつく女性は、
学歴の高い女性
社会的地位の高い仕事や他人のためにする仕事といった
やりがいのある仕事をしていた女性が多いのが特徴です。

こういう人たちが、実務的に見て
子どもを連れて別居することの多い職業の人たちなのです。

ただ、その賃労働こそが最高の価値だという考えは
自然発生的に生まれる考えではなく
誰かが少しずつ刷り込んでいるのかもしれません。

子どものためにより良い妊娠時の生活方法や子育ての方法を
インターネット等で検索しているうちに
少しずつ混ぜ込まれて刷り込まれているのかもしれません。

もっとも、女性においても賃労働が最も高い価値がある
という考えは
政府もあからさまに刷り込んでいます。
「女性が輝く」と政府が言う場合の意味は、
どうやら「女性も賃労働」をするという意味と同じようです。

家族解体論者たちも
このことを積極的に推進しています。
昔の男性が高い価値だと考えていた
働くこと、働いて収入を得るという価値観を
最優先の価値観だということを前提に
女性を家庭から賃労働に移行させることを主張しているのです。

不思議なことは
女性の賃金を男性並みに高くすれば
勝手に女性も働くようになるのですが、
男女賃金格差については
あまり積極的な行動が見られないことです。

政府が女性の中でも出産をした女性を
いち早く賃労働に復帰させたい理由は
労働経済政策にあります。
低賃金で生産性の高い女性労働者を
企業に流入させたいという政策です。

「輝き」という言葉で
いち早い母親たちの社会復帰を誘導しているわけです。

子どもが2歳になる前から働かそうとしているのです。
インターネットの神話否定論者も
政権与党とつながりのある人たちですから
学者等の肩書で「仕事」をしているということなのでしょう。

このことの賛否は今回の議論の対象ではありません。

私が言いたいことは、
家族解体論者の、夫婦を中心とした家庭から「女性を解放」することと
大企業の出産直後の母親を労働力として迎え入れたいという思惑が
結果としては同じ方向を向いてしまっているということなのです。
ここに保守的な政治家が天敵であるはずの家族解体論者と
結果として手を組んでいる理由があるのだということです。

三歳児神話否定や、母性神話否定に洗脳されることなく
子育てをしている母親を強引に働かせるための
最も効果的な方法とは何でしょう。

それは離婚をさせて母子家庭にすることなのです。

離婚をすれば養育費が多少入ったところで
それだけで生活はできません。
母親も働かなければならないのです。
仕事を選んでいるわけにはゆきませんから
放っておいてもどんどん企業に就職してゆきます。
2,3歳の誕生日を待たないで無認可保育所などに子どもを預けて
働かなければならないわけです。

下手に子どもを父親に合わせて
「子はかすがい」なんてことでよりを戻してはいけませんから
子どもを会わせないようにしている
なんてことは、考えすぎとばかり言えないような気がします。

そのためには、「それは夫のDVだ。」ということで
妻に夫に対する恐怖心や嫌悪感を定着することが有効なのです。

この考えは私の考えすぎの暴走理論かもしれません。
しかし、家族解体論者と労働経済政策は
ぴったりと目標が一致するのです。

離婚した女性に、厚い手が差し伸べられないのも
離婚して働けという目標が達成した後のことなので
「釣った魚に餌をやらない」ということでも
両者の思惑はぴったりと重なります。

このように子供を産んだ後の精神的不安定な時期に
夫から離れて片親となり
その片親も仕事で子どもと一緒にいる時間が少なくなると

当然愛着障害の危険が出てくるわけで
情緒不安定な子どもが量産されていく危険が生まれてきます。
あなたの子どもが不健全な育ち方をしても
いい加減な論拠を持ち出した神話否定論者たちは責任を取りません。

片親の収入ということになるうえ、
女性の低賃金、賃金格差が子どもの貧困を巻きます。
ますます健全な成長に対するハードルが上がってゆきます。

さらに、そういう経済状態の上
男性に対する恐怖心が消えませんので
少子化がさらに進んでいくわけです。

これらの心配が単なる杞憂に終わるならば
極論ということで歴史の検証によって排斥されるなら
それは喜ばしいことです。

しかし、良識で考えれば
家族解体、母親の早期の賃労働従事は
このような危険のあることで、
最も悲観的な結論は
日本のさらなる衰退です。

まさに亡国の政策です。

保守政治家たちは
このような危険についての勉強会をしているようなので
知らないでやっているという言い訳はできません。

家族が円満に生活を送り
子どもたちが笑って過ごすという
美しい日本という価値観は、

女性の企業への早期従事という政策によって
後景に押いやられているのではないかと
心配することは必要なことだと思うのです。

私はこれまで
理不尽な子連れ別居、虚偽DVとの戦いは、
子どもを守る戦いだと考えていました。

しかし、どうやら一人一人の子どもの健全な成長を守ることで
日本を守る戦いになっているようです。

家族再生を目指しつつ、
女性の夫への無駄な恐怖心や嫌悪感を解消することを目指しつつも
虚偽の部分や評価のすり替えの部分は
毅然とそれを正すべきです。

理不尽に子どもに会えない別居親の苦悩は
潜在的には子どもたちの未来の生きづらさ、未来の苦悩であり
日本という国の客観的な状態に対する国の苦悩なのではないでしょうか。

家族を守る行動が
日本を救うことにつながるということが
決して大げさではないと考える次第です。

nice!(1)  コメント(0)