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米国の配偶者虐待研究が、日本に「DV」として輸入されるにあたってどのようにゆがめられたのか The Battered Woman 2 各論の1 [家事]

1 理念

本書では、「女性対して暴力をふるう社会の姿勢を変えることは、新しい平等な社会秩序を作る基礎となるだろう。」ということから始まっている(27)。そして、その問題として男女間の賃金格差、就業構造の格差についても言及がなされている(30)。女性は自由意思で虐待環境にとどまっているのではないということも述べられている。これらの意見を文字だけで見れば大賛成である。
 しかし、筆者(レノア・ウォーカー)が、家庭内虐待を社会問題にしようと提案する理由は、アンケートの結果28%が暴力や暴力的対応を受けたことがあるという数の問題である(51)。社会的背景と言えば、男性が女性を暴力で教育する権利が認められてきたことと、伝統的な家族主義ということ以上の分析はない。これは男性側の分析をほとんどしていないからである。
 これは日本の政策、日本のリーダーたちの主張と重なる。その背景に社会構造や労使関係は、所与のものとして不動の前提とされている。ナンシー・フレイザーがフェミニズムがグローバル企業の召使に堕したと批判するポイントがここにある。
 筆者は、最後に、「家庭は外の世界から我々を守ってくれる避難所であり、休憩所であってほしいという期待は明らかに間違っている。今日の世界では、家庭はその役割をはたしていない。」(222)と述べている。
そのくせ、末尾では人間観の協調に価値をおくフェミニスト的な見方が普及しなければならない(227)とも述べている。
 筆者は、男性全体を否定的に見たと述べているが(11)、例外がある。それは自分の父と夫である(扉)。だから、「自分の家族以外の」男性全体が暴力的であると言っているのが本当である。
 ところが日本のリーダーたちは、この部分を削って、男性全体はと人間を類型的に見てかつ否定評価をするという言動をおこなっている。筆者の推定でも半分は暴力を振るわない。ふるったとしてもはずみのような暴力も含まれるのである。筆者の表現は、文字通りの意味ではなく、社会に対して警鐘をならしたものであれば、説得力をもって受け止められる。しかし、日本では、これを真に受けて政策がすすめられているように感じる。
 とあるリーダーが、新聞で、家族分離の方向で長年努力してきた。共同親権制度となったらこの努力が水の泡になるということを述べていた。当初何を言っているのかよくわからなかった。しかし、この本の特定部分の文言の文字面(もじづら)を真に受けていたということであれば、とても理解しやすい。家族制度を崩壊させようとしていたという意味で間違いないようだ。
なお、筆者は、大家族が崩壊し孤立化していることで虐待が起こると主張している(51など)。これには、私の立場からは大賛成である。ただ、伝統的な家族主義が虐待の背景だとしている点とどのように整合するかについては説明が必要だろう。この点、つまりDVと大家族の崩壊の関連を指摘した大学教授もいる。その文章を読んだときはどこから唐突にこのような話が出たのか理解できなかったが、この本の影響を受けていたということであれば、理解は容易である。かなり、日本の男女参画政策のリーダーたちに、影響を与えている本であることに改めて驚いた。

2 虐待は治らないという神話の否定

筆者は、家庭内虐待について、様々な俗説があり、社会は間違った認識をしていると警鐘を鳴らしている。虐待される妻はマゾヒストであるとか、主として貧困層だけの問題だとか、虐待する男性はすべての人間関係で乱暴者だとか
そういうことが間違っていることは私も同感だ。
 「虐待は止めることができない」ということも神話として挙げている(40)。攻撃ではなく主張すること、威圧しないで話し合いができるようになることができれば、虐待を止めることができると筆者は述べている。ただその実現可能性については積極的ではない。しかし、虐待をやめられないということは神話に過ぎないと言っているのだ。
 この筆者の意見に賛成する。私は、虐待は虐待者の自己防衛から始まると考えている。虐待者は、自分の感情を言葉にできない事情があって、感情が高まりすぎて手が出てしまうということが一般的である。言葉にできない事情とは、リテラシーが足りないということよりも、説明することが男として恥ずかしいという事情が多いように思われる。この点について、虐待者の考え方と行動を修正すれば、虐待は起きない。
 また、筆者は、夫は妻を鞭で叩く権利があるという背景事情(自己の虐待を正当化する文化的背景)を指摘しながら、虐待者は、自分の行動が間違っていて公にすることができないようだと虐待者に罪悪感があることも指摘している。正当化する習慣と罪悪感の関係は、どこかで折り合いを付ける説明をしなければ矛盾となってしまうように感じる。ただ、負の自己評価があり、できるならばやめたいと思っていることはその通りである。
 ところが、現代日本の男女参画の行政行動は、筆者の指摘した重要な条件付けを一切捨象して、「DVは治らない。逃げるしかない。」と言い続けているのである。いったい誰のどういう理論に基づいてこういうことを言うのか説明を求めたい。この結果、抵抗する妻や何の責任のない子どもは、夫や父親から引き離なされてしまうのである。
 DVは治らないということは、ウォーカー博士の理論ではない。そもそも博士は、これは神話だと言って否定しているのである。

3 虐待夫の元からは逃げるしかない

これは、筆者も言明している(41)。但し、筆者は男性自体の虐待の背景について調査研究をしているわけではないので、本来的にはこのような結論を言う立場にはないはずだ。ところが、なぜ暴力をやめないかという仕組みについては、「男性が女性との対等の立場を受け入れないからだ」と鋭い指摘をしている。感想レベルの話としては、その通りだなと思う。権力を渡す、もっと実務的に言えば、「相手の裁量を承認する」という行為が虐待や暴力をやめさせる特効薬だと私も思っている。
真実虐待を受けている妻の場合は、とりあえず逃げることしか方法がないのかもしれない。問題は、真実は虐待とは言えない場合であり、妻の裁量を認めており、役割分担をしている夫婦にはこの理論が適用できないはずだということである。
 ところが、現代日本の男女参画政策では、虐待の有無、程度に関わらず「逃げるしかない」と嫌がる妻を説得するのである。興奮している妻があることないこと言っているのは当然のことである。それにもかかわらず、それを全部額面通り受け止め、子どもがいるのに夫から事情を聴くこともなく、逃げ場所を提供して居場所を隠す手伝いをしてしまう。筆者は、バタードウーマンの場合にのみ妥当する理論として提案している。しかし、現代日本の政策では、バタードウーマンの定義に該当する事案か否かの吟味をすることなく、一律「逃げろ、隠れろ」という働きかけをする。

*バタードウーマンの定義「男性によって、男性の要求に強制的に従うように、当人の人権を考慮することなく、繰り返し、肉体的・精神的な力を行使された女性」(9)


4 逃げなければ命の危険がある

現代日本の政策は、妻の言っていることの信ぴょう性はさておいて、DVは治らない。話し合いは無駄だ。DVはエスカレートしていき、あなたは殺されるかもしれない。」と妻を脅かす。
確かに、自殺に追い込まれて死亡する場合もあるかもしれない。これは否定できないだろう。PTSDや酷い解離状態になり、アルコール依存症が合併していると、自死なのか事故なのかわからない自己ネグレクトが起き、人が死んでいく。
 しかし、筆者が指摘する死の危険性は、妻側ではなく夫のことを指摘している。筆者の経験では、虐待によって死亡した妻はいないとのことである(43)。これは生きて相談に来た女性を対象としているのだから、ある意味当然だと思う。しかし、300人中、4人の女性が夫を殺害している。殺害のメカニズムとして、「常に恐怖を感じて暮らしていると、暴力や死の深刻さに無感覚になる」(58)との指摘は全く正しいと思う。
 レノア・ウォーカーが虐待で死んだ女性はいないという指摘はとても重い。ところが、現代日本の政策では、この事実は無視されている。(もちろん、死ななければ良いというものではなく、精神的な破綻による生活不能ということはありうるとは思っている。特に、本当に深刻な虐待が継続してあった場合の予後は大変悪い。しかし、精神科を受診していたとしても、家庭内虐待の話を医師に打ち明けない場合も多いようだ。病前性格について調査しない場合、家庭内虐待の事実を見落として、病名がパーソナリティー障害になることが多いように感じる。) ところが、現代日本の政策は、まったく暴力がない場合においても「逃げろ、隠れろ。殺される。」という指示を出しているようだ。最近は、自治体の相談室では、暴力がないことを確認した場合は、そのような指示は出さなくなった。何らかの暴力があったように誘導されるようだ。しかし、誘導にのらないと何らの支援もされなくなってしまうようだ。「逃げろ、隠れろ、殺される。」以外の支援のバリエーションが貧困だからであろう。

5 男性から事情を聴かない

 男性から事情を聴いていないということは、筆者は何度も繰り返している。それは立場の問題だからだろう。筆者は心理カウンセラーとして仕事をしているのであるから、そもそも相手方から事情を聴くということがレアケースであることは致し方ない。また、職業的限界から、虐待を受けた妻に対しても決定的な行動を起こすこともできない。その意味で、バランスが取れている。
 しかし、現代日本の行政は、例えば妻を逃がし、かくまうだけでなく、子どもも学校や幼稚園から引き離す。子どもや両親にとって、将来的に重大な影響を与えるような行為を行っている。弁解を許さずにこれらの行為をすることは憲法上の問題があると考えている。
 筆者が男性から事情を聴かないのは理解できるが、このような影響力を実行する行政機関が男性から事情を聴く必要がないということは本書には何も書いていない。

6 現代支援を受けている女性と虐待を受けた女性の違い

虐待を受けた女性の共通項は以下の通りだと紹介されている。
1)自己評価が低い。それそうだが、これは、虐待された事後的な性格である可能性が高い。
2)虐待関係の神話を全部信じている。神話とは21項目あるが、虐待を受ける女性はマゾヒストだとか、気が変だとかそういうものも含まれており、そういうことを信じているような女性は現代日本にはいないだろう。
3)伝統的な家族主義者。これもそれほど多い割合を占めるわけではない。
4)虐待者の行為について責任をとる。これはある程度当てはまる女性もいる。
5)恐怖と怒りは否定する。これもあまりないように思われる。暴力もハラスメントも何もない場合は、恐怖と怒りがないことは当然である。
その他が挙げられている(42)。
このほかにも虐待の共通項が挙げられている(76)。
ひどい虐待が始まるときは予測不能、過剰な嫉妬、虐待者の異常性欲、激しい虐待の詳細な記憶、銃やナイフ、拷問などの怖い話がある、死の意識というようにこれらは、現代日本の政策で保護されている女性の多くに全く当てはまらない。
虐待の詳細な記憶はほとんど存在しない。厳密な裁判官は、重大な出来事なのに記憶が曖昧であるため、証言の信用性を低く評価する。いかに誘導によってつじつまが合わない話が語られているかを強く物がっている。
弁護士などの中には、事実はどうなのかということをさておいても保護をしろと言う主張にしか聞こえない主張される方々も多い。

7 精神的虐待

 日本の配偶者支援においては、身体的暴力などの刑事事件に該当する場合にのみ支援ができる機関がある。警察である。警察が夫婦間に過度に介入することは不適切だと警察庁自体が判断しているし、法もそのように定めている。
 ところが、現在警察は、身体的暴力がなく、脅迫罪なども成立しない場合でも法や通達の定めた支援措置を行う場合があり、国家賠償訴訟が起こされている。
 「身体的暴力がない場合でもDVというのだ。」という言い訳を聞かされるが、DVの定義の問題がどうあれ、法や通達は守らなければならない。現場の警察官は通達を学ぶ前に、何らかの講習を受けているそうだ。
 筆者も、心理的圧迫や言葉による緊張の高まりの重要性を指摘しているが、背景として身体的暴力のある事案であることを重視している。この姿勢は正しい。身体的暴力のある場合と無い場合では、言葉による影響も全く意味が違ってくるからである。一度、身体的暴力を受けると、言葉の一つ一つが重い意味を持ってきて、心理的圧迫が強大になる。その時は暴力がないにもかかわらず、服従や迎合が起きてしまう。虐待を受けていた女性は、自分の迎合や服従行動と、過去の暴力との関係を意識できない場合も少なくない。意識には上らないが、意識下で記憶は過去の暴力と結びついているのである。本書の事例を一つ一つ読むと、その過程が理解できる。
 身体的暴力のない精神的DVと身体的暴力のある虐待は別物ともいえる。それだけ身体的暴力のある虐待は深刻な影響を与えるのである。身体的暴力がない場合も同じDVだという主張は、この点を理解していないのである。マニュアルだけの政策の弊害がここにあらわになる。国家が積極的に介入する場合、デメリットも出てくる。結局は、強制と強制のぶつかりあいになり、何も解決はしないと思う。法律や通達は守られなければならない。

まとめ

以上のとおり、レノア・ウォーカーの「バタードウーマン」は読むべき本である。復刻版を出版するべきであり、多くの実務家に読まれるべきである。家庭内暴力の現場の実感が文字で書いてある。筆者の言うとおり科学的ではないかもしれないが、優れて実務的である。実際に読んでみて良かったと思う。
しかし、その射程範囲を誤れば、大変恐ろしいこととなる。あたかも殺人罪には死刑があるが、それを暴行罪や脅迫罪に適用してしまうような問題が生じているのである。殺人罪も暴行、脅迫罪も、他人を攻撃する罪だとあまりにも大雑把にくくってしまうと、とにかく処罰すればよいという恐怖政治が生まれてしまう。アメリカの配偶者虐待の研究が、日本に輸入されDVという言葉でくくられることはそいうことなのかもしれないという恐ろしさを感じた。

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The Battered Womanノート 1 総論部分 日本の男女参画政策の原典を読む [家事]


1 絶版

男女参画政策の根幹であるDV対策の
その根幹の理論であるDVサイクルの基礎となった
レノア・ウォーカーの「バタードウーマン」を
是非読んでみたいと思い探していた。
大きな書店や古書店に行って探したが見つからなかった。
それもそのはず既に絶版になっていた。
発行は、1997年1月である。

現在もこの本にもとづいて政策が行われていることを考えると
早すぎる絶版だと思う。

要するに、男女参画に携わる人が
この本を読もうとしていないということだ。

自分が行政やNPOとして、一般市民の家庭、特に子どもの一生に
多大な影響を与えている行動の
その原点を読もうとしている人が少ないというところに
この政策の特徴が表れている。

では、各機関は何にもとづいて
DVサイクル等ということを声高に主張し、
DVは治らないから逃げるしかないと
家族分離に抵抗する母親を説得するのだろう。

見えてくるものは
研修会のレジュメである。
ほとんどマニュアルみたいなレジュメが作られている。
その背景や具体的な考察がほとんど書かれていない
結論だけのレジュメである。
これに疑問を持たずに、言われたとおり行っているということのようだ。

おそらく当初は翻訳本がなく
原典に当たることは難しかったので
それも仕方がないと是認されたのであろう。
しかし、その後翻訳本ができてしまった。

実際の人間の家族の生活は千差万別で
本来マニュアル的な処理をするのは不向きである。
それにも関わらずに、
マニュアル的処理をしているのである。
不具合は生じるべくして生じたのである。

この本を読み進めていると
DV対策の理論的リーダーと呼ばれている人たちが、
この本の読みかじりのような主張をしていることがわかる。
こっそり引用しているのだ。
しかも、文書全体の意図とはべつに
例えば重要な条件付けの条件を外して
断定的に主張している。
(この点については、次回に説明する)

マニュアル型政策だとすれば
原典はむしろ政策推進の弊害になるだろう。
マニュアルと原作者の主張が違うということが
明らかになってしまうからだ。

この本が絶版になっていることこそ
現代日本のDV政策を象徴した出来事であると思う。
絶版だと知ったからには
なんとしても読みたいと思い入手して読んでみた。

2 欧米の家庭内暴力と日本の決定的な違い

この研究がはじめられたのは1975年だという。
おそらく、その当時の欧米の事情が語られているのだろうから
21世紀の日本の家庭事情を比較して
欧米を論じることは間違っているだろう。

この本によって、家庭内の虐待が問題視されるようになり、
その結果、人々の意識がだいぶ変わったと思われるし、
その効果は日本にも及んでいるのではないかと想像する。
私も影響を受けているのかもしれない。

そのことを踏まえたうえでお話しするのだが、
欧米の夫婦間虐待の背景として論じられていることは、
夫は妻に対して暴力をふるうことが許された法律があるというのだ。
親指より細い鞭であればそれで妻を叩いてもよいと
法律でそう規定されていたらしい。

これは日本では考えられないことだ。
特に江戸時代以前の日本では、
あるいはその後江戸時代までの価値観が続いていた庶民の間では
男が女に手を挙げるということはご法度であり、
無教養の極みとして軽蔑されていたはずだ。

明治維新後には、
特定の出身地の人間が権力を握るようになり、
酒乱で妻を殺した人間が総理大臣になる等ということはあったが、
江戸時代以前の文学を見ても
男女は比較的平等で、
女性に対する暴力が、称賛されたことはないと思う。
ただこの点については自信がない。
教えを請いたい。

ただ、少なくとも法律で男性の特権として
女性に対する暴力が是認された法律や、思想はないように思われる。
(江戸時代の「女大学」と言う文書はあるが、
これはその逆の行動が一般的であったことを物語るものであり、
当時の女性たちのおおらかさと
一部女性の賢さが透けて見えるというべきだろう。)

もう一つ、前提的な話として
欧米では、男性が女性を虐待する場合、
それは教育なのだから許されるということを
理由にしていることが多いということだ。

現代でも児童虐待がしつけの名によって行われる。
虐待の本質を見たような錯覚に襲われるが、
男性は女性を教育するために暴力をふるっているだろうか。
いくつかの日本のDV事例に関わってきたが
男性がそのような理由で自己の暴力を正当化することは
聞いたことはない。

もっともレノア・ウォーカーもほとんど男性の言い訳を聞いていないので、
暴力男性が、虐待された女性に対して言った
自己を正当化する言い訳を
虐待された女性から聞いたという経路は意識しなければならない。

日本において、
妻などを教育する手段として暴力をふるったと
主張する事例はない。

つまり欧米の男性は自分の妻を「もの」と見ていて
所有権の対象だと考えるようだ
そうして所有物である以上、
叩くことも、教育することも男性の権利だと考えているということになる。

もちろんすべての家庭でこういうことにはなっていないだろう。
逆に日本の家庭でもそのように考えている人が
全くいないというわけではないだろうとは思う。

しかし、この本、ウォーカーの学説が
この欧米人の意識を背景に見ているとしたら
これを日本に「直輸入」することには問題だということは
少なくとも受け入れていただけると思われる。

しかししかし、日本では直輸入どころか
大事な部分を削り取って不具合を拡大させて主張されている。
このことについては次回説明する。

3 科学的ではないこと

レノア・ウォーカー博士自体は科学者である。
だから、ご自分の学説が
十分な統計や調査に基づくものではないことを承知されており、
これは科学ではないということを繰り返し述べられている。
このこと自体は尊敬に値する態度である。

ただ、だからと言って博士の研究が色あせるものではなく、
むしろ、その時代を切り開く力があったことは間違いがない
本書は十分その役割を果たしたと思われる。

また、本書の基礎となった研究データは300例だという。
300例といっても、必ずしもいわゆる男女の関係ではない
例えば親子の間の問題も入っているような節があるので、
症例としては少ないかもしれない。
それでも、データを解析し、分類を進めることによって
十分な仮説として提示できる方法もあったかもしれない。

しかし、あえてそういう時間をかけず
フェミニストとして現実の女性を救済するという観点から
本書は作られたのであり、
それは、それでありうる手法であると思う。

問題は、それを現代日本という
時代も歴史も場所も異なるところで
機械的に当てはめようとすることが行われていることだ
ということも本書を読んで感じたところである。

博士は前書きで、事実認識の情報源は
虐待された女性から得たということもはっきり述べられていて
男性に反論の機会を与えていないとはっきり述べられている。

これは、私的研究の限界でありありうる話である。

だからと言って、現代日本においても
公的機関が同僚に一方の側からしか事情を聴かないで
聞いていない方に不利益を科すことが許されることとは
全く違うことである。

博士は、今回は女性を犠牲者、男性全体を否定的な目で見たと
これも科学者らしくはっきり述べられている。
しかし、将来的に研究が進んだら
男性もまた犠牲者だとみることが必要になるだろうと述べられている。

あくまでも、このような態度は
本書が書かれた時代には必要な態度だったのだと思う。
現代でこのような態度で権力的な政策を行うことは
何ら合理化できないことが本書においても示されていると思う。

定義が曖昧なことも本書譲りであるが、
現代日本では曖昧にする理由があるのかもしれない。
ちなみにバタードウーマンの定義は
「男性によって、男性の要求に強制的に従うように、当人の人権を考慮することなく、繰り返し、肉体的・精神的な力を行使された女性」としている。
定義がそれほど問題にならなかったのは、欧米の虐待は、明らかな暴力が存在したからであろう。
本書は、精神的暴力についても言及しているが、
明らかな身体的な暴力があることを前提として、
暴力以上に精神的暴力の影響が深刻だ
という主張として記載されているという印象がある。

この本自体は、予想通り勉強になるものであった。
特に学習性無力感が虐待を受けた妻が
虐待者である男性に対して服従以上の迎合をすることを
良く解説している。


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令和元年12月14日に忘年会をやるわが子に会えない親の会、今年を振り返る [家事]

丸2年目が終わろうとしています。
我が子に会えない親の会の不定例会
12月14日5時から忘年会となります。

相変わらず、妻が子どもを連れて家を出て行って
行方が分からないという相談が来ています。

不思議なことに9月くらいに子どもを連れて家から去る
という事例が多く
しばし呆然として
10月くらいから12月くらいまでの間に
ネットなどを調べていただいて
相談のご予約を入れていただくというパターンです。

結構類似事案は多くて
結婚前は妻と妻の母とは仲が良くなく
(母が過干渉ということが多い)
結婚後はむしろ姑との関係が良く、
しかし、出産後、これが逆転する
というパターンは王道のようです。

最近は女性の権利を声高に叫ぶ弁護士よりも
離婚を商売にしようという弁護士グループが台頭してきて、
このチェーン店は、
子どもの成長などということは
まったく気にしないようです。

どんどんひどい状況になっているという側面もあります。
離婚ビジネスということを危惧していましたが
こういう形で出てくるのですね。

会員の皆様の近況ではずいぶん変化がありました。
このブログでも書いたと思いますが、
某市の児相を相手に、国賠をやっていた裁判は
裁判官の強い勧告で謝罪が盛り込まれて和解をしました。

子連れ別居で児相に相談してみようかという人がいますが、
その都道府県、政令指定市で違うのかもしれませんが、
某市の児相は、子どもよりも
母親に味方をするような印象さえありました。
だから児相に相談することは
やめておいた方が無難かもしれません。

上の国賠訴訟は、
父親のデータを母親に丸流しして
離婚訴訟に母親がそのデータを証拠で出した
ということから始まりました。

子どもに積極的に保護されなければならない事情があるのに
データ流しは積極的にやるにもかかわらず
保護どころか、子どもに会いもしませんでした。
まあ、そこが裁判官の怒りに触れたのかもしれません。

統合失調症の妻が、刃物を持ち出して
夫が110番をしたところ
妻の方を保護して、娘も連れて行ったことから
娘が1年近く、脅かされて拉致されて
ようやく交番に逃げ込んで父親のもとに戻った事案も
形式的には解決しましたが、
続きがありそうです。

面会交流調停の方ですが、
裁判官の書いた論文なんかでは
原則面会実施ということになったなんて言われていますが、
仙台本庁でようやくそういう雰囲気になってきた
ということでしょうね。

支部は一部の例外を除いて
まだまだその最高裁の方針が徹底されていません。
本庁の方も
審判官がきちんと評議に参加しないと
会わせる会わせないということの押し問答が続き、
こちらが会わせる条件を整えても
なかなかどっちもどっち的な調停が
行われることが少なくありません。

でも、
ようやく、本当は会わせる必要がある
というコンセンサスが少しずつ浸透しているということは
肌で実感してきました。

会わせる会わせないではなく、
どのように会わせるかに議論を早期に移すべきです。

別居親の方も
同居親の葛藤を鎮めることが子どもの利益だ
ということを理解される方が圧倒的多数です。

そう言えば、このブログを見て
女性の方の相談や依頼が増えています。

どうして妻が離婚したいのかということが
的確に書いてあるようです。
同性の方が理解できないことも多いようです。

だから、いわゆる連れ去り側の女性も
子どもを父親に会わせることは
抵抗はあるけれど仕方がないし
むしろ会わせたいと思っている
という人がほとんどなんです。

こういうケースに限って
夫の方が子どもにきつく当たってしまい
会わせるのに苦労している
ということが多くあります。

時に、
女性が子どもに会えなくなるケースは、
追い出される場合がほとんどです。

一族郎党で追い出しをする例なんてのもありました。
こういうケースは、夫は妻に未練があることがとても多いです。
姑や小姑、そして弁護士がやたらエキサイトしているのですが、
それらがいないときに、そっと便宜を図ってくれたりするのです。
でも外野の動きに逆らえずという感じですね。
妻を第1にするべきだと思うのですがね。

追い出される時
連れ去りの虚偽DVに相当するのは、
パーソナリティ障害、統合失調症、ヒステリーなど
私から見れば異常ではないよなあと思うことで
追い出されるようです。

最後に、養育費改定のことについて一言言わせてください。
私の依頼者は女性で、非正規、有期雇用で働いています。
離婚訴訟1審で敗訴して親権を失いましたが
2審の和解で子どもの親権を得ました。

夫は、精神的問題もあり収入がありません。

色々事情があって
子どもが一人父親と暮らし始めました。
もし、親権が父親に移ったら
有期雇用労働者の母親が養育費を払わなければなりません
今の基準だって、親子2人の生活がやっとなのに
この上養育費を支払ったら生活ができません。

子どもや女性の保護ということで
別居親に負担を増加させるということで
典型的には母子家庭を保護する政策なのでしょうが、

それによって、母子家庭が崩壊に直面することになる
そう思いました。

ここで注意してください。
一連の女性保護政策は、
夫がきちんと働いていて、妻の収入が夫より低い
ということを前提としているのです。

夫の方の収入が低い女性は
いないことにされているように思います。

また、共同親権に反対している人たちがいますが、
それによって一番苦しんでいるのは、
婚家から人格否定された挙句追い出された女性です。
命を懸けて出産した子どもと
会う望みを託した共同親権を
冷酷にも反対しているわけですが、
そのように一番苦しんでいる女性を
いないことにして議論が進んでいる。

そういう感覚が私のような実務家の感覚なのです。





12月14日17時からの忘年会に
参加ご希望の方は、土井法律事務所の土井までお問い合わせください。
番号は022-212-3773担当土井
予約の都合があるので、遅くとも前日までにお願いします。

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感謝や謝罪の言葉に心をこめようとするからダメなのよ。先ず幸せを盛る器を作ること、心は後からついてくる [家事]



<家庭の危険度は会話の量ではかることができる>
<感謝や謝罪が口に出ない理由>
<感謝や謝罪をする大人の理由>
<慣習、礼儀、エチケットの目的>
<言葉の二つの源泉>
<幸せは作るもの、その方法・抹消から中枢へ>

<家庭の危険度は会話の量ではかることができる>

離婚事件等の家事事件を担当していると、
家族に不具合が生じている場合、
会話が極端になくなっていることに気が付きます。

一方は、なにかを不満に思っていて会話を拒否しているのです。
でも他方は、
忙しいとか、他のことに気を取られてとか、あるいはあきらめていて、
会話が少ないことにも気が付いていないことが多いようです。

挨拶することは最低限必要です。
「おはよう」、「お休み」、「言ってらっしゃい」、「お帰りなさい」。
それは比較的できることが多いようです。

ところが、
自分のために何かをやってもらった時の感謝の言葉が出なかいとか
あなたの行為で相手が不愉快な気持ちになっているのに
謝罪の言葉が出ないとか
そういうことで不満がたまり
たまった不満の量だけ心が離れていくようです。

せっかくあなたのためにやったのに
当然受けるべきねぎらいがない
という場合は、結構深刻な疎外感を受けるようです。

<感謝や謝罪が口に出ない理由>

なぜ、感謝や謝罪の言葉が出ないのでしょう。

むしろ誠実でまじめな人に多いようですが、
感謝や謝罪は心をこめなければならないと固く考えていて
心が十分感謝や謝罪の気持ちに達していなければ
言葉にしないという誤った生活習慣が
身についているような気がします。

例えばせっかく料理を作ってくれた、日曜大工をしてくれたのに、
自分が思った出来栄えではないので感謝しないとか
相手が不愉快な気持ちになっているのはわかるけれど
それは自分だけが悪いわけではないから謝ることはできないとか

心をともなわない言葉は出したくないと言っているようです。

子どもならばわかります。
子ども親に何でもやってもらう存在ですから。
例えば赤ん坊は、
泣いている原因が親がお腹がすいているからだろうと思い
ミルクを与えていても
本当はおむつが汚れているから泣いていれば
ミルクをもらっても泣き止みません。
自分勝手で許されるのです。

親は言葉も分からない年齢の子どもに
「ごめんごめんおしめだったね。」と話しかけ
要求にこたえるわけです。

これを大人がやってはダメなのです。
家族なのですから。

一つは大人になり切れていないという問題が原因としてあるのでしょう。

もう一つは、子どものころの教育の問題もあるかもしれませんね。
学校で叱られてふてくされてごめんなさいと言っても許されず、
「ちゃんと心をこめて謝りなさい。」とか言われたり、
友達に感謝しなさいよとか言われて、おざなりにありがとうと言って
「ちゃんと心をこめて感謝しなさい」と言われたりしたのでしょう。

これは間違いです。

心をこめないから怒られるのではなく、
言葉は感謝、謝罪をしていても態度が感謝、謝罪をしていないから
相手が感謝されていると思わない、謝罪されているとは思わない
つまり相手に伝わらないからだめなのです。

その証拠に、心は謝っていなくても
それらしく謝って解放されたでしょう。

これはずるいことでも卑怯なことでもありません。
感謝、謝罪の目的を考えればすぐにわかります。

<感謝や謝罪をする大人の理由>

感謝や謝罪をする理由はと尋ねたら
誰でも正解にたどり着くでしょう。
感謝は、相手をねぎらうためです。
謝罪は、相手の気持ちをとりなすためです。
つまり相手の心に対する手当です。

自分の気持ちなんてどうでもよいわけです。

肝心なことは相手にどう伝えるかということ
それ以上のことは、相手には関係ない。
心無い言葉ばかり口にしたことによって
自分の心がすさんで、人間性がゆがんだとしても
自分で自分に損害を与えているだけですから
他人に迷惑をかけるものではありません。

問題は相手の心だとすれば
相手がやってくれたことで、満足できなくても
とりあえず感謝をするということも必要ですし、
自分が悪くなくても相手が不愉快な気持ちになっているなら
ごめんなさいと言って相手の気持ちをとりなしてあげてよいわけです。

これが日本語の「ありがとう」、「ごめんなさい」だったのです。
赤ん坊のように誰かに自分の思い通りのことをしてもらう
自分こそが他人の評価者だ
という態度を大人はしなかったのが、
昔の日本だったはずです。

今の日本の離婚の一番の原因が「性格の不一致」です。
しかし、子細に本音を分析すると
自分の感情に気が付いてくれなかった
自分がしてほしいと思っている(だけの)ことをしてくれなかった。
要するに、「自分の思い通りにしてくれない」という
赤ん坊的な理由のことをそれらしく言っているだけ
ということが多いように感じます。
相手に何かをしてもらおう、しかも
自分が言わなくても気が付くべきだというように感じられます。

赤ん坊が親に従属しているように家族に従属しているように
思えてならないことがあります。
それだから幸せにならないのだと思います。
自分を幸せにしてくれる人を待ち続けるしかないからです。
そんな人は現れません。

幸せというものは作るものだと思うのです。

<慣習、礼儀、エチケットの目的>

慣習や、礼儀、エチケットは守るべきものですよね。
それはどうしてでしょう。
基本的には、人間関係を円滑にさせるものですが、
相手に失礼のないように、相手に不愉快な思いをさせないようにして
人間関係を円滑にする
というのも一つの考えで否定されるべきではないでしょう。

私は、そうではなくて、これらの始まりは
相手を不愉快にさせないためというよりは、
人間関係を楽しいものにしてみんなが幸せになるため、
というようにマイナスをなくすという発想から
プラスを作るというゼロの先のプラスという発想が大切ではないか
と考えています。

感謝の言葉や、謝罪の言葉もそう考えたほうが
人生楽しくなるように思うのです。

何かしてもらったらありがとうという
相手が不愉快ならばごめんなさいという。
そうすると相手も
いいえどういたしましてと言えますし、
こちらこそごめんなさいといえるわけです。

だから、「ありがとう」は、「どういたしまして」とセットですし、
「ごめんなさい」は、たとえば「こちらこそごめんなさい」
とセットのエチケットシステムなのです。

自分がないがしろにされていなくて尊重されているなと
実感することができます。
何か不満があっても、自分が尊重されているというと
安心することができます。
尊重されていると思うし、相手が自分に敵意がない
ということも実感できます。

エチケットや礼儀、慣習は
尊重されていないと不安になる人をなくして
安心して暮らすための人間の知恵だと考えられないでしょうか。

<言葉の二つの源泉>

ありがとうとかごめんなさいという言葉を発することを
おすすめしているわけですが、
これを阻む壁のような考え方があります。
言葉というのは、「大事なことを伝達するためにある」
という考え方です。
大事なことを、正しいことを、合理的に伝えるのが言葉だ
という考え方は、
言葉を発する原因とそれにふさわしい言葉を
吟味してしまうようです。

危険があることを知らせる言葉、
危険の回避の方法を知らせる言葉
このような危険対応のための言葉も
言葉の始まりの一つだと思います。

この言葉の正当な後継者が今に言うところの「指図とダメ出し」です。
これも必要な場合はあるのです。

もう一つの言葉の源泉が
ロビン・ダンバー先生の学説で
サルの毛づくろいに代わるものだというのです。
コミュニケーションの手段だというもので、
もっと言えば、安心しあうためのもの
というものです。

指図とダメ出しこそが言葉だという
現代型労務管理理論では無駄話だとして排斥される会話こそが
本来的な言葉だという主張です。

私はどちらが言葉の成り立ちかということについて議論するよりも
両方が言葉の別々の源泉だと考えています。

「緊張させる言葉」と「安心させる言葉」ですね。

緊張させる言葉ばかり使われる環境では、
人はその環境から離脱したいと思うようになるでしょう。
これが現代の離婚の一番の多い理由です。

つい指図とダメ出しばかりになりがちだからこそ
意識して安心させる言葉を話す必要があるわけです。
感謝、謝罪、そして挨拶です。

意外なことに、心をこめて話そうとする誠実な人は
感謝や謝罪の言葉が足りなくなるようです。
自分の心なんでどうでもよい
相手の心を手当てするんだという要領の良い人が
幸せになりやすいということは致し方のないことです。

人が自分に、自分たちのために
何かしたら、あるいは何かを我慢したら
条件反射的にありがとうというべきなのです。
そこで考えては言葉が出なくなります。
相手の出来栄え点を評価しようとすることが最もいけないことです。

相手に不愉快な思い、悲しい思い、怒りの思いなど
何らかの危険を感じ不安を感じていたら
自分だけが悪くないとしても
ごめんなさいというべきなのです。

これは言葉の二つの源泉のうちの一つの使い方として
全く正しいことなのです。


<幸せは作るもの、その方法・抹消から中枢へ>

おそらくここまでお話しても
心の伴わない言葉は不誠実だとおっしゃる方はいらっしゃるでしょう。
私もつい最近までそう考えていたように思います。

でも、心は後からついて来ればよいのではないでしょうか。

まず、決められたこととして
誰かに何かをやってもらったらありがとうという
ありがとうと言われたほうはどういたしましてという。

誰かが不愉快な気持ちになっていたらごめんなさいという
ごめんなさいといわれたこちらこそごめんなさいという。

誰かが自分のために何かを我慢したら
ありがとうまたはごめんなさいといい、
言われたほうはそんなことないよ言ってくれてありがとうという。

まず、感謝と謝罪という、相手の心をケアしあう言葉を
自分たちの関係の中にあふれさせる。
安心の言葉を発しあう人間関係を作るということです。

これはすでに幸せな人間関係になっている関係の中では
意識しなくてもあふれていることなのかもしれません。

もしあなたが今不幸だとするならば
そして幸せになろうとするならば、
こういう幸せの器を作ることが
実は王道なのではないでしょうか。

極端な話ですが、うそでもよいから
感謝の言葉、ねぎらいの言葉、思いやる言葉あふれる家庭であれば
(もちろん、態度も伴うのですよ)
それはもう、幸せになっているのではないでしょうか。

不幸を感じている場合
うなだれて歩くことが多いと思います。
幸せを感じているとき口の端が上がってにこにこしていることが
やはり多いと思います。
脳が、体に指令を送って態度を作っているようです。
中枢から抹消へと神経がリレーしているわけです。

えらい心理学者の話を直接聞いたのですが、
この逆もまた真で
多少不幸を感じていても
胸を張って歩くと気持ちが明るくなるし、
口角を上げていれば楽しくなる
ということがあるとのことです。

体を幸せの形にしてみると
脳が勝手に幸せを感じるようです。
これが抹消から中枢へということになります。

人は一人では幸せになれないようです。
そもそも幸せというのは、
自分の対人関係の中で自分が尊重されて生活することで、
自分だけが尊重されるということも
赤ん坊ではないのであり得ないことです。

まず、自分が家族の幸せのために努力する
そうすると家族もそれにこたえようとするはずです。

肝心なことは「自分の気持ち」ではなく、
相手がそれを知りうる言葉ですし、態度なのです。
相手に伝えてあげようとする行動なのです。

感謝と思いやりのあふれる家庭が幸せの結果なら
まず、感謝の言葉思いやりの言葉という幸せの器を作る
ということが幸せになろうとする方法だと思います。

その器ができた段階ならば
あるいはみんなで器を作ろうとする気持ちが重なるならば
器には、すでに幸せの心が盛り付けられているはずだと思います。

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ある秋晴れの面会交流の記録 代理人どうしの阿吽の呼吸をスタンダードに! [家事]



とある秋晴れの日に、
面会交流が実施されました。
本当は、親子水入らずでやってもらいたいのですが、
事情があって、父親の弁護士、母親の弁護士が立会いました。

事情というのは、
子どもたちは、別居している親に対して
やはり後ろめたさがあって、
会うのが億劫だというところがあったようです。

別居親の方は、やむを得ない側面もないわけではないのですが、
子どもたちに同居を迫ったということがあり、
子どもたちはますますおっくうになり、
両親の代理人が一肌脱いで、
間に入って関係をリセットしようというわけです。

代理人同士の打ち合わせはなし。
ただ、双方とも離婚事件はガチの対決でしたが、
親子の問題は別だということで意見は一致していました。

最初同居親の弁護士と子どもたちが面会場所に到着しました。
同居親の弁護士が、別居親の尊敬できるところを話しながら、
会いにくい心情を言い当てて、共感を伝えはしました。
子どもたちの部活動や趣味を確認したりもしていました。

次に別居親代理人と別居親が登場しました。
先に言った事情があったのか、代理人がいるからか
なかなか会話が始まりません。
元々口数が少ない親子ということもあったようです。

弁護士の一人が、子どもたちの部活動について
例えば野球の話ならば、ある野球選手の逸話を話しだし、
ガンガン話を続けました。
オチを付けながら、楽しい話になったと思います。
別居親の笑顔も久しぶりにみました。

もう一人の弁護士が、話の穂を接ぎながらも
同居を迫ったいきさつをお話しして
あの時は仕方がなかったというフォローをすると
もう一人の弁護士は、今はもう大丈夫だから
同居親の方にい続けることは問題ないけれど
もう少しフランクに別居親の方にも顔を出してほしい
ということを言いだします。

ただ、決して焦らずという意識は双方にありました。

そうして、別居親の家に行く場合として
具体的にどういう場合かを相談を始めました。

その中で、子どもたちも塾や部活動で忙しく
なかなか顔を出す時間がないという事実を
双方が共有していきました。

子ども達、別居親の双方の懸念材料を
一つ一つ外していって
安心して会うことができる工夫を探っていきました。

それ程長い時間の面会ではなかったのですが、
別居親もある程度満足してくれたようでした。
結局、ずうっとニコニコしていました。

先に別居親と弁護士が場所を去りました。
子どもと同居親の弁護士が残りました。
別居親のある発言が
子どもを圧迫したのではないかと思い聞いてみたら、
子どもの方が別居親をフォローしていました。

やはり親子なんです。

同居親からすると少し強引な形で交流が始まり
別居親からするとまだまだ物足りないと思います。
そのくらいが、もしかしたらちょうどよいのかもしれません。

小学校は卒業しているということで
子どもたちの年齢が比較的高いということもあり、
あとは、決め事などせずに
双方の都合で普通に同じ時間を過ごしていただく方が
うまくゆくのではないかと思っています。


途中から、どちらの弁護士が、どちらの代理人かを
あえて書かないで報告しました。

面会交流が終わってみると
どちらでも良いからです。
おそらく、少しトーンは違うかもしれませんが、
口火を切った弁護士が逆の弁護士であっても
同じように事は進んだでしょう。

大事なことは、どちらの代理人かではなくて
離婚は親同士の問題であり、
子どもに迷惑をかけない
ということで一致していたということではないでしょうか。

自分の方を少しでも有利にしようとしてしまうと
駆け引きになってしまい、
こうはいかなかったと思います。

弁護士同士の信頼関係が
相手の考えを尊重しようという態度につながり、
一歩も二歩も引きながら
ただ、子どもたちにとって一番良い方法
無理のない方法を探して言ったのだと思います。

弁護士同士の打ち解けた雰囲気も
とても効果的だったと思います。

親子問題についてはこれがスタンダードになるべきだと思います。

面会交流に立ち会うことは
立ち会う必要がある場合は
弁護士も積極的になるべきです。

全く話が早く、
スムーズに面会を行うことができ
面会の後もスムーズになると思います。

ああ、人間としての仕事をしたなと
魂が現れたようなすがすがしさを感じます。
秋晴れの空を見上げた時のような気持になれる
弁護士の特権だと思います。

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私が間接交流で終結することに反対する理由 直接交流こそ面会交流の原則 [家事]

間接面会交流は、面会交流としての効果はほとんどない。原則として面会交流とは呼ぶべきではないこと

子どもがいる夫婦が離婚や別居をすると
子どもにとっては、
一緒に住んでいる親と
別居している親がいることになりますが
子どもは別居している親とも交流をすることが必要となります。

子どもは別居親との面会を求めていることが多く、
別居親と会えないことに不満を持つという調査報告があります。

また両親の離婚や別居は両親の事情であり、
自分は、別居親からも同居親からも愛されている
という実感を持つことで、
自分が否定されていないということを実感できるようです。
そうであれば、別居していると親と会うことは
子どもの人権です。

別居親と交流がない場合は、
自己肯定感が低下してしまうということが
統計上実証されています。

つまり、同居親だけでなく別居親も
子どもの養育にかかわることが
子どもの健全な成長のためには必要だと説明されています。

ところが、実際は
相手に対して葛藤があって離婚したり、別居したりするわけですから、
同居親(多くは母親)は、別居親(多くは父親)に
子どもを会わせたくありませんし、
会わせることに不安を抱くことが多いです。

面会の受け渡しで顔を会わせることが嫌なことはもちろんなのですが
少し踏み込んで聞いてみると
通常は何か嫌なことを言われるのではないか
会えば自分を否定する言動をするのではないか
という不安があると話してくれる人が多くいらっしゃいます。

子どもが別居親と会えない事情がある場合は、
家庭裁判所に面会交流調停の申し立てを行います。

最近は、裁判所や調停委員も、
同居をしている親が面会を拒むことに
子どもにとっての理由はないと理解し、
面会実施に向けて同居親に働きかけてくれることも増えてきました。

しかし、子どもに何の責任もないのに
母親が会わせたくないからという理由で
親が子どもに直接会うことは遠慮しろ
その代わり、手紙を書くということでおさめたらどうだ
という提案がまだまだなされることがあります。

「直接」会わないので、間接面会交流と言っています。

わたしはこの間接交流というものに賛成できません。
実務的な理由を述べます。

第1に、子どもが親の愛情を受けているという実感を持つことが
面会交流の目的ならば
手紙や写真のやり取りでは目的を果たさないからです。

親子のコミュニケーションは、文字でするものではありません。
文字や写真だけではなかなか愛情を実感することはありません。

表情だったり、ぬくもりだったり、
言葉にしても声の調子だったり
直接会うことと比べると間接では、効果はほとんどありません。

会えば、言葉を交わさなくても
表情を見ただけで気持ちが通じ合うこともあります。

第2に、子どもの写真が別居親に届けられても
子どもの健全な成長とはなにも関係がないからです。

別居親だって写真だけを見て満足するということは
非常に酷なことでしょう。

子どもにとっても
いつ写真を撮られたかわからない、いつ送られたかわからないでは
いよいよ面会交流の意味はありません。
面会交流はあくまでも子どもが健全に成長するためにやるものだからです。
これでは交流ですらありません。

こどもの写真を送ってもらって満足しろという人は
面会交流の目的を理解していません。
単なるうるさい別居親をあしらっているに過ぎないと思います。
失礼な話です。

第3に、別居親からの手紙は
通常子どもにはわたりません。
間接交流は約束しても実現しないことが多いのです。

同居親が渡さないで取っておくというパターンが多いです。

前にも面会交流の調停を申し立てた親御さんの例で
間接交流で手紙の受け渡しで始めましょうなんて言われて、
それで調停を成立させた。
しかし、送ると約束した手紙も来ないので
二度目の面会交流調停を申し立てて調査などしてもらうと、
子どもが自分の親から手紙が来たことすら
知らなかったことが分かることが多いです。

子どもの目につくところにおいておくから誠実だ
なんて調停委員もいますが、
子どもからしたらどう思うか少し考えればわかるでしょう。

せっかく自分の例えば父親から手紙が来ても
同居親である母親は、子どもに読めとも言わない。
そうすると子どもは同居親の気持ちを推量(おしはか)る生き物ですから、
母親は読んでほしくないのだなと察し、
読もうとはしないものです。
つまり渡さないのと一緒です。

渡しても、嫌がったり迷惑そうにしていると
子どもはそんな親の気持ちを察するものですから、
「私はあの人の手紙なんていらないと言って。」
と親を安心させようとするものです。
片親疎外(PA)というものは
こうやって作られていくわけです。

家裁関係者も
間接交流を取り決めても
守られない事例が多いということは認識しています。
むしろ私は守られた事例を知りません。

例えばお父さんから手紙が来たね 良かったね。
と言って渡せば、子どももおっかなびっくり
手紙を読むでしょうけれど、
そんなことを言えるお母さんは、
直接会わせているのです。

手紙を歓迎する演技をするくらいなら
直接会わせてまた今度
という方が同居親にも気が楽だと私は思います。


手紙のやり取りを通じて直接交流に役立たせる
ということが間接交流にする理由だと
もっともらしく説明されることがあります。

しかし、調停で間接交流でよいという取り決めは、
直接交流をしないという取り決めと一緒なのです。
だいたい、親が子どもに手紙を書くことさえ
もう一人の親の許可名がないとできないということ自体
私は間違っていると思います。

とも角、直接交流がない期間が増えれば増えるほど
子どもは別居親に会うことがしんどくなります。

再開を考えると気分が重くなります。
悪い思い出や、同居親の困惑ばかりが身近な情報ですから
会ったらどうなるか不安になります。

ちょうど夏休み明けの子どものように
学校はしんどいから行きたくないと
考える気持ちと同じです。

そして何年かたって再度面会交流調停をすると
最初はあっても会わなくてもよいと言っていた子どもが、
今度はあからさまに迷惑だという発言をします。
片親疎外は会わなければ進行するわけです。

間接交流が妥当する場合は例外的な場合です。

何らかの虐待があって、
子どもが怖がっている
そのため子どもの恐怖を改善するために
安心させる内容の手紙を書く
そしてやがて直接交流の段取りをつける
というものです。

その他、
母親の葛藤が強すぎると言うときに
少しずつ慣れるために手紙のやり取りをする場合もありますが、
これは調停期日の間に行い、
内容なペースをしっかり第三者が管理し、
最終的には直接交流に結び付ける場合の手段として
行われるべきです。

調停の合意内容が間接交流というのでは、
子どもに対してきわめて無責任だと言わなければなりません。


間接交流は、交流ではないのです。


それにも関わらず間接交流が定められるのは
同居親(多くは母親)の気持ちに「寄り添って」いるからです。

どうも家庭裁判所の関係者は、
目の前の登場人物の気持ちを考えることがやっとのようです。
本当に考えなければならないのは
調停に出席しない子どもの健全な成長
少し先の子どもの状態なのです。

同居親が嫌な気持ちもわかります。

しかしながら子どものために無理をしなければなりません。

家庭裁判所は、同居親に無理をお願いしなければならないのです。

同居時に問題がなかった親子なのに
子どもが会いたがっていないというなら、
それは片親疎外が進行しているというだけのことです。
むしろ早く直接面会をさせなければならない
緊急性のサインなのです。

調停委員会や調停官は、
同居親が会わせたくないという気持を持っていることを理解して、
同居親を説得しなければなりません。
調停が必要だったケースで
子どもが別居親に会えるようになるケースは
裁判官や調停委員の説得があるケースが大半です。

説得というか
私は励ましだと思います。
そのために必要な条件は
別居親はいくらでも承諾する準備をしています。

虐待もないケースで
間接交流を説得する調停委員を見ると
私はどうしても考え込んでしまうのです。
どうして子どもは自分の親に会えないのでしょう。
自分の親に会わせられないのは、子どもにどんな責任があるからなのでしょう。
子どもの将来をどのように考えているのでしょう。

思わず口に出してしまうことも仕方がないのではないかと
思わずにはいられません。

もの言わない子どもの代わりに
自分の将来を予想できず
ただ、同居親にしがみつく無防備な子どもの代わりに
わたしは、主張しています。

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共同親権制度の法制化の効果と共同養育との関連 [家事]

 

国際世論では、
子どもを連れ去る日本人という評判がたち、
日本人と結婚することは注意するよう呼びかけられている
という話も聞きます。

日本を除く先進国の政府からも
日本政府に対して非難や申し入れが相次いでいます。
離婚後の共同親権制度は
このような国際的な圧力をかわすという目的があるため
制度の実現は既定路線となっています。

これに対して、共同親権否定派は少数派であり、
影響力はあまりありません。
実務的な対立は、共同親権制度を法制するか否かではなく、
「原則共同親権」とするのか、
「選択的共同親権という任意の制度」にするのか
というところにあります。

もちろん、国際世論が任意制度にすることを許容しませんので、
任意の共同親権制度となってもそこで終わらず
無駄なう回路をへるだけで
やがては原則共同親権になるのです。

しかし、国内の世論は大変遅れていて、
巨大メディア以外のメディアが
ようやく共同親権の話題の提供を始めたところです。

せめて、国際的に日本がどうみられているか
という紹介がなされればよいのですが、
このような真の問題の所在は隠されたまま
両論併記という腰が引けた紹介の仕方をしています。


共同親権制度の目的は、
子どもの健全な成長です。
共同親権制度はその道具です。
共同親権制度を法律的な建前でなく
離婚や別居があっても両親から子どもが愛される
成長に関与される
という共同養育を実現することが究極の目的です。

このことと共同親権制度はどのような関係があるのでしょうか。

@法制度を整備し予算を伴う行政活動を推進すること
@行政から親として扱われること
@単独親権を目的とした操作的活動を減らすこと
この3点について説明し
そのあとで、そのためにどうするかということを少し述べます。

まず、法実務的に、法制度ができるということは、
法律を執行する予算が付くということを意味します。
近年成立した過労死等防止対策推進法も、
成立後には、啓発活動など様々な予算が付き、
国が予算を伴って過労死防止の政策を進めています。

共同親権制度が成立すれば、
これまで国が行ってこなかった行政活動がなされることになります。

私たちの悲願は、
共同親権行使の具体化の支援です。
子どもと同居している親が、別居している親に
子どもを会わせない理由は、
通常は、「会わせたくない」というシンプルかつ漠然としたものです。

このため子どもを別居おやに会わせるためには
会わせることの不都合を一つ一つ除去していき、
子どもは相手と会わせてこそ健全に育つことを説明し、
子どもにとって会わせられないような人間が自分の親だと評価されることが
子どもの健全な成長を妨げるということを説明することによって
子どもと相手が同じ時間を過ごすことを
嫌だけど仕方がないというところまでは通常進みます。

しかし、子どもを相手に引き渡す際に相手に会うとか
面会の日時場所を決める打ち合わせをするとか
子どもを連れ去られないかという心配があり、
なかなか面会交流すら実現しない
あるいは極めて短時間で場所的に拘束される面会になっていた
ということが実情でした。

これは同居親がそう思うことはある意味仕方がないことで
ある意味どちらが悪いわけではありません。
「そう思うな」と叫んで実現すれば苦労はありません。

心理的負担を軽減させるための
公的な支援が必要なのです。

面会交流にふさわしい場所を作り提供していただくとか、
間に中立的な支援者を挟んで共同養育の方法を具体化していくとか
子どもの引き渡しを支援する人間を配置するとか
面会交流のために、交通費や宿泊費を優遇する制度を作るとか
そのような公的支援を拡充することが可能になります。

他の予算に比べれば些細な費用で実現できます。

それから大切なことは啓発活動でしょう。
一つには離婚後の共同養育のための啓発活動ですが、
根本的には、
離婚をしない家族作りです。
そして子供が成長するということはどういうことか
という研究と啓発が根本です。
これに予算が使われるということが実現したら
私たちの生活はもっと楽しいものになるでしょう。

まだまだ予算の使い道はあるでしょうが
歴史的に見て、現在の孤立した家族を強く温かくする
そういう血の通った政策を期待します。

次のポイントは、
行政が親を親扱いするということです。
現在離婚をしてしまうと親権のない親は
行政から親扱いされません。

例えば児童相談所でも、
主として同居親の問題(精神的な問題が多い)があり
子どもを児相が一時保護している場合、
同居親の問題が解消されない状態のとき
非親権者が子どもを一時預かるということを許しません。

子どもは親から離されて他人の中で暮らし、
学校にも通学させられません。
勉強はどんどん遅れていくし、
益々友達の中で孤立させられていきます。

児童相談所の中では
非親権者の親でも面会させることも許さないところがあります。

また、現在、離婚前は共同親権ですが
親権があっても
DVをでっちあげられれば、
行政によって、親は子どもから隔離されてしまいます。
子どもが自分でもう一人の親の元に戻ってきても
行政は親として扱いません。

保険証を持って子どもを連れさられてしまい
保険証がないということを役所に相談しても
区役所の職員は
「あなたと話すことは何もない」という態度をとりました。
経済的に苦しい家庭だったので、
保険証がなく受診させることが難しく、
子どもの治療は遅れました。
結局は子供が不利益を受けるのです。

こんなバカみたいなことが実際に起きているのです。

自分の子どもを心配している親を
行政は踏みにじり、
その効果は子どもの福祉に逆行するということにしかなりません。

DV制度は、離婚させて親権を被害親に付与する
という目標を持った制度です。
離婚すれば単独親権になるということから
人権を無視し、子どもの健全な成長を切り捨ていることが
プログラムされているように感じます。
離婚後も共同親権であれば
このようなプログラム自体を見直す契機になるでしょう。

3つ目のポイントは
まさにここにあります。

法律ができるということは
国としての意思、方向性を決めるということです。

国として過労死を無くす、過労死するような働き方を無くす
という価値判断を国が宣言したことは、
どんなにか私たちを勇気づけたことでしょう。

離婚後の共同親権制度を創設するということは、
子どもにとって両親がかけがえのない存在である
ということを国が宣言することです。

親権を持たない親として
養育費だけ支払わされて
死んだときだけ相続が発生するという
非人間的な扱いをやめるということです。

矛盾する法律が見直される契機になるはずです。

但し、法律ができたことで安心していたのでは、
法律の効果は薄れていき、
やがて法律自体が改正されることにもつながります。

わたしが掲げたのはいわば理想です。
任意的共同親権制度になれば
どんどん骨抜きになっていきます。

まず、分断されないということです。
共同養育を推進する団体を作り強化するということです。
このためには、
広く国益を主張していくことです。
自分のためにということではなく、
国民の圧倒的多数のために必要な制度だという主張が必要です。

過労死防止法の時は、
優秀な人材ほど過労死するという側面を強調し、
過労死を防止しなければ国益を損なうということも
強調し、財界など保守層に訴えました。

共同親権制度の先にある共同養育の実現は
現在様々な社会問題が子どもの育ち方にあるという見方を受け入れるなら、
大幅に改善されていくことにつながる可能性もあると思っています。
子どもの健全な成長こそ
現代の日本に必要でありながら不足している国益である可能性があるのです。


二つ目に、対立をことごとく避けるということです。
連れ去り母親の利益も考慮していくという視点が必要です。
共同親権制度になることは同居親の利益にもなる
ということを主張することです。
別居親に会わせたくないという気持を
共同親権実現のための政策に反映すればよいのです。

共同親権反対論者などという泡沫勢力とは
争っている時間がないのだということを自覚しましょう。

三つめは政権与党と太いパイプを持つことです。
もちろん、個人個人がどの政党を支持しようと自由なのですが、
共同親権推進勢力として活動するためには
政権与党とパイプを作らなければ意味がありません。

野党と接触することも必要なのですが、
それは与党とのパイプになってもらうことを主眼に置かなければなりません。
ロビー活動とはこういうものです。

間違っても「この団体は野党の支持団体だ」と思われないこと
これが大切です。
お世話になっている議員さんが野党の場合も多く
なかなか難しいことです。

過労死防止法の時はこれができました。

心ある野党の先生は、
政権党の先生に紹介していただき、
これが実現できたため、
全会一致で決議をあげたり、集会をしたりということをしてきました。
過労死の時は、過労死問題は国が挙げて防止しなければならない
というところまで説得を進めて、理解していただいた結果です。


法律は実現するでしょう。
しかし、それが共同養育につながり、
子どもの健全な成長につながるためには、
まだまだやらなくてはならないことが多くあります。

せっかくのチャンスなのですが
任意的選択型共同親権制度になっては
日本の未来は、また長期間遅れるでしょう。

もっともっと幅広い方々に
この問題に関心を持っていただきたいと思います。

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これから人生の伴侶を決める娘さんたちへ 自分の人生の傍観者とならない生き方をするために。 [家事]

必要があって、C・モルガン著「人間のしるし」(岩波叢書絶版)
について書かれた評論を読んだ。

ストーリーは、
フランスのレジスタント運動を話の舞台とし、
ジャンが妻クレールとの関係で葛藤をするお話し。

ジャンは、身柄拘束をされている時ジャックに出会う。
抵抗運動に身を捧げようとするクレールを
何の屈託もなく応援し、運動に当たって心の交流を持つジャックに嫉妬する。
ジャックはほどなく死に、ジャンは解放される。
帰宅してクレールとの生活が再開されるが、
クレールは、ジャンの想定を超えて
抵抗運動や高い精神世界に羽ばたこうとしていた
ジャンはそれまで自分がクレールを
所有愛の対象としか見られなかったと悔み
より広い愛で妻クレールを理解しようとする。
ジャンは再び投獄されて釈放されるが
その時クレールは既に身柄拘束された後だった。

評論は、
女性の作者の学生時代の友人たちとの生活ぶりを紹介し、
この本が議論の的であったこと
自分は当時、ジャックのような夫こそ理想だと考えていたが、
ジャンの愛こそ人間的な愛ではないかと
今は感想が変化しているとのことであった。

評論自体はただ読んでいても楽しいものであったし、
その主張には感銘を受けるとともに理解ができるものであった。

しかし、離婚事件を多く扱う弁護士としては、
現代の女性は、その先にある生き方を考えなければならないと
筆者に対しては少し意地悪にうつるだろう感想を抱いた。

少し揚げ足取りであることは自覚しているが
わかりやすい題材なので利用させていただく。

「ジャンとジャックのどちらの夫が好ましいか。」
こういう問題提起では、現代の女性は幸せにならない
ということである。

これでは、女性は夫次第で幸せにも不幸になってしまう。
夫のもともと持っている属性で、
女性の運命が変わってしまうということが
その論理の出発点だということになってしまう。

欠落している視点とは、
自分が主体的に自分たち夫婦の関係をデザインしていく
という視点である。

そしてそのためには、
相手とよく話し合い、相手に働きかけるということだ。
自分たちの幸せは自分たちで決めて、勝ち取っていく
こういう視点が、実務的には必要だと感じている。

そうでなく、どちらの性格、行動パターンが好ましいか
今いる人がダメなら別の人
ということでは、
結局、他者に依存しているだけの人間になってしまう。

相手は自分の思い通りにはならない。
いつまでたっても相手を評価しているだけでは、
自分が思い描く現実は決して訪れない。
 
ただ、だからと言って、
自分の思い通りに相手を変えていこうとすると
相手はそれを負担と感じ、
夫婦というユニットが成り立たなくなる。
相手があなたの言いなりになるならば、
相手はあなたを評価し続け、
やがてあなたのもとを去る可能性もある。

話し合うことができる関係が必要だ。
その際、自分はこうありたいという考えを持つことは良いとして
それを相手に押し付けるということをお互いにしないことだ。

他方で、自分が何を望んでいるか相手に言わなければ
相手が自分の希望に気が付いてくれるまで待つか
気づいてくれないから別れると言って見限るかであり
やっぱりそれは相手に対する従属的関係でしかない。

そもそも、自分の考えや相手の考えが
完璧だということはなく、
押し付けるべき理想的な考えなど存在しないと思う。
より良い関係を作るために
話し合って自分たちで自分たちのことを決める関係こそ
好ましい関係のような気がする。

少しロマンチックな関係とは離れるかもしれないが
これこそ実務的には、夫婦の要だと考えている。

もちろん四六時中話し合うのではなく、
必要なときの話し合いということである。

いざと言うときに話し合いができず
自説を曲げようとしない相手は
自分を仲間として尊重していない相手だ。
時間をかけて、こちらの気持ちに配慮しながら
なぜ自分が違う意見を主張するのか
納得のいくように説明しようとする相手こそ
あなたを尊重する相手だと思う。

そして話し合いの時に大切なことは
特に夫婦の間の話し合いに大切なことは
論理や合理性だけを大切にしてはならないということだ。
相手の感情、あるいは自分の子どもたちの心情の状態を
推察して、汲み取り、配慮できる人間が最も好ましい。
論理とともに、相手の気持ちを結論を出すための
重要な要素としてくれることがインテリジェンスなのだと思う。

もちろん最初からこのようにできる若者は少ない。
しかし、それを提案して、こちらを尊重してくれたら感謝する
そうやって相手に働きかけていき、
その働きかけを受け入れて
一緒に成長してくれる相手を見抜かなければならない。
そういう相手こそ伴侶としてほしい相手であると思う。

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DVサイクル論という日本の男女参画行政が全面的に採用する非科学的俗説の弊害と真実のありか [家事]

1 目黒事件の精神科医の証言

目黒事件の裁判員裁判で精神科医が証人として証言した。「母親はDVをされていて、DVがなかったら放置はなかった。」というものだった。母親の放置があるとして、それが夫の精神的支配によるものだということについては成り立ちうる立論だと考えていたが、そのための立証は、案の定、皮相な俗論であり、科学的な鑑定意見のようなものではなかった。前提としてDVはあったのかという議論が必要となってしまい、かつ、それは証明できていないものとなってしまった。この日本型DV論ともいえる論が持つ弱点が端的に表わされてしまった。また、この俗論に基づいた実務の手法の弊害が如実に表れた結果である。もう少し事実に即した丁寧な証言がなされるべきであったと思われる。
ちょうど良い機会であるから、この証言の元になった日本型DV論がどのように誤っていて、どのような弊害があるか、真実はどこにあり、そしてどうすべきかについて考えてみたいと思った。

2 日本型DV論の非科学性の源泉

日本型DV論は、アメリカの心理学者であるLenore E. Walker らの理論「バタードウーマン」に全面的に負っている。この理論は、筆者の心理セラピーのクライアントの話を総合して組み立てている。したがって統計的な立証ではないし、そのエビデンスとしての価値も疑問視されている。科学ではなく、どちらかというと女性の保護、解放という視点、目的からの立論である。
それにもかかわらず、日本の男女参画政策を担う、内閣府男女参画局、地方の男女参画、警察の生活安全課、厚生労働省婦人援護施設、児童相談所等では、無批判に全面的にこの理論にそって行政行為を行っている。莫大な予算も投入されている。

3 DVサイクル理論

この理論の根幹は、DVサイクルというものである。妻は、身体的暴力や精神的暴力をうけても夫と別れられない。その理由として、DVサイクルというものが存在しているからだという理論の重要なポイントである。つまり、DVは、一辺倒ではなく、暴力などが爆発する爆発期、その後暴力を反省し、謝罪し取り入ろうとするハネムーン期、それがなくなり暴力がいつ始まるか緊張が高まる緊張期という3つの時期が繰り返される。そして、暴力を受けても、ハネムーン期があるために、本当は夫は優しい人なのではないか、いい人なのではないか、爆発するのは自分が悪いためではないか、あるいはもう爆発は起らないのではないかと期待してしまう。このために妻は夫から離れられないと主張する理論である。

人間観も独特である。DVを行う夫は、結局、自己愛性パーソナリティ障害の患者で、相手を支配しようとする人格を持っていて、治療などによって改善されない。だから妻が暴力から解放されるためには逃げなければならない。分離だけが唯一の解決方法となる。そしてこの理論の実践場面においては、警察をはじめとする行政は、夫は妻を殺すだろうから子どもと自分の命を守るためにとにかく逃げろと、抵抗する妻に何時間も説得を続けている。
実は、妻に対しても独特の人間観をもっている。妻の性格も虐待される要因があるとする。妻は、暴力にも従順であり、自己主張をしない。夫に依存する傾向にあるとする。要するに男性に依存してしか生きられない哀れな存在であるとみる。売春婦と異なるのは、DVを受けている妻は夫一人に依存しているが、売春婦は不特定多数の男性に依存しているという違いだけであるというものである。この思想が端的に表れている事情は、DVを受けている妻を一時保護する婦人援護施設は、もともとは売春防止法が生まれたのちに元売春婦の生活の更生のために使われていた施設だったものを引き継いでいるということである。担当部局も同じである。運用も同じ思想で行われる。施設に保護された女性は、自発的な行動が禁止され、外部と連絡を取ることも禁止される。放っておくとまた男性のもとへ依存する行動に戻るからだということも、売春婦保護の思想と取り扱いを引き継いでいるからである。大事な家族の将来を夫と話し合うことをさせないのも、もと売春婦に売春宿と話し合いをさせなかったことの自然な流れなのであるう。主体的な思想を注入しようとしているのだから、どこかの国の理念と全く同じである。保護される女性は保護と教育、更生の対象として扱われる。私はこの扱いに抵抗がある。

4 日本型DV理論の誤りと弊害

先ず、端的な間違いは、現在DVと認定されて、家族分離がなされている事案の多数で、DVサイクルは当てはまっていないことからも本当は明らかである。暴力や支配を目的とした妻を追い詰める言動の爆発が存在していないことが実際には多数だろう。爆発期が存在していないこともあり、また日本男性の特徴ともいえるが、ハネムーン期が存在しない。多くの事例では緊張の継続の時期だけである。これでは、「なぜ、DVがあるのに(本当は緊張が継続しているのに)夫と別れることができないのか、」ということを説明できないことになる。

また、恐怖感情がない場合にもかかわらず、どうして夫の思想に共鳴するのかということが説明つかない。目黒事件では、「児相に目を付けられるだろうけれど、それは子どもが悪い」という趣旨のラインをどうして夫の暴力や強制もないのに自発的に打ったのかということが説明できない。

行政やその下請団体は、DVサイクル理論によって、女性が息苦しさを感じている場合、それは夫のDVが原因だと根拠なく決めつけて家族分離を進めてしまう。分離以外の方策を検討する余地がない。選択肢が用意されていないのである。強引に妻が子どもを連れて別居を開始し、夫が一人家に取り残されて妻子の居所もわからなくされた結果、夫が苦しむばかりではなく、子どもも自分が父親から分離されたことで不安にさらされる。また、暴力父の子であるという悩みが生まれることもあって自分に対する評価が著しく下がる。さらには、妻自身も、自分は理由なく人間扱いされていなかった、殺されるところだったという恐怖が生まれてしまい、自分が逃げているという意識を持たされることによって恐怖が固定化してしまい、夫から逃げても何年も恐怖感情がよみがえってしまうことがよく見られる。誰も幸せにはならないことが多い。
子どもの幸せは考えられておらず、妻に認知のゆがみがあっても是正できない。夫の人権は無視されている。これが日本型DV理論に基づく対策なのである。

5 真実はどこにあるのか

1) 女性の息苦しさの正体(原因が夫婦関係以外)

女性、特に子どもを産んだ母親の息苦しさの正体は、それが離婚事件などの紛争になっている場面では、「自分が主体的に生きられない」ということが多く、もう少し具体的に言えば「自分で自分のことを決めることができない。」というものである。「何か悪いことが起きそうだ」という焦燥感と、「自分だけが損をしている」という被害者感情が伴うことが多い。

必ずしもそれは、夫に原因があるわけではない。夫以外の原因としては、
産後うつ、
もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12

内科疾患やパニック障害などの精神疾患
存在しない夫のDVをあると思いこむ心理過程 思い込みDV研究
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-12-04

等がある。

日本の行政の「DVがある」との認定にあたっては、妻からしか事情を聞かない。夫から話を聞くことはない。このため、妻に息苦しさ、焦燥感、被害感情があれば、それは夫のDVがあると決めつけられることが多い。そういう結果しか出ない聞き取りを行うマニュアルがあるからである。妻本人がそれを否定しても、あなたは夫からしいたげられていると「教え込む」のである。妻は夫という男性に依存するしかできない要保護のかわいそうな人間だとされているので、自分が受けているDVを認識していない、だから行政がきちんとDVがあったことを自覚させなければならないと考えている。命の危険があるから、直ちに子どもを連れて夫から逃げて、元売春婦のために作られた婦人援護施設に囲われて居場所を隠される。携帯電話も取り上げられ、向精神薬の服用を強く促される施設もあると言われている。

2) 夫のDVがある場合

夫に妻を支配したいという意図があり、この意図に基づいて暴力や、言動による精神的な追い込みがある事例は確かにある。なぜ夫は、支配を意欲するのか。
答えは、妻との関係継続の意欲と自己防衛である。両者は同じことを角度を変えてみているだけのことである。
夫の一番の関心事は、妻から否定されないこと、妻から愛想をつかされないことである。このことに過剰に敏感になっている。妻の否定評価が起きそうだと感じてしまうと、反射的にそれを無かったことにしようとする。力づくで否定評価をさせないようにするということである。くどくどと言い訳をしたり、ごまかしたりすることは少なく、逆切れして妻を攻撃する。また、妻の自分に対する否定評価が起こりそうな場合、先制攻撃を仕掛けたりする。自分の失敗が妻に原因があるような言動をするのである。妻は、もとより、攻撃しようと思って話をするわけではなく、客観的事実を指摘する場合も多い。また、確かに妻が無神経に言葉を発することもあるが、夫が過敏になっているため、聞き流すべき言葉も、夫は自分を否定しているように感じたりしてしまう。夫は危険から逃げる形で回避することもせず、あくまでも妻を攻撃して、強引に危険を解消としているのである。その危険とは、「妻からの自分に対する否定評価」であり、究極には「妻の自分からの別離」である。この危険を回避するために妻を攻撃するという矛盾した行動しかできないのである。
一方妻は、夫を攻撃するつもりもなく、無邪気に言葉を発していたり、行動をしたりしているのに、夫が過敏に反応をするので、夫が逆上するポイントがわからない。夫は、自分を守る意識が強いので、自分の逆上を余裕をもって制御することができない。妻は、いつ夫が爆発するかわからないため、常に戦々恐々としている。夫ならどうしてほしいかということを常に考えている。爆発させないためである。こうして夫ならどうしてもらいたいか、どうすれば否定されないで済むかということが行動原理になってしまう。これでは自分で自由に自分の行動を決めることができなくなり、常に夫の目を意識するようになり息苦しくなっていく。
このパターンでは、夫は、本当は自分に自信がない。自信がないからごまかそうとするのである。虚勢を張るのである。仕事上の自信はあるという場合は、職場の人間関係には問題がない。しかし、男として、パートナーとして自信がない事情があると、職場では問題がないが家庭ではDVをしているという場合がある。実は極めてデリケートな問題を抱えていることが多い。また、全般的に人間関係に自信がなく、職場でも家庭でも問題が生じている場合もある。
このような人物は、主として、結婚以前の時期に人間関係を円満に形成した経験がない場合、円満な人間関係のサンプルを見ていないために人間関係を円満に形成する方法を知らない場合がある。また、いろいろな人間関係で自分が常に否定され続けてきた経験があるために、自分に自信が持てないという場合もある。また、職場などで、あるいは社会的状態が、自分が否定されている、人間として扱われていないと感じている場合も多い。
いずれにせよ、このパターンの圧倒的多数の事例でもおよそ命の危険はない。

3) 夫のDVがない場合

夫の目を気にして緊張を強いられる場合なのに、夫に前述のような支配の意志がない場合がある。これは日本に多いパターンのように思われる。このような場合も、行政に相談してしまうと、夫のDVが「ある」と認定されてしまう。そして、妻は命の危険があるからともと売春婦の更生施設に「保護」される。
支配の意志がないにもかかわらず、妻の行動に対して否定的評価をしたり、妻に対して過剰な指図をしたりするような場合が典型的な場合である。このような場合、夫の性格が几帳面であり、完全を目指し、正義感が強いような場合が多い。妻の些細な失敗を許すことができず、妻の感情を無視して妻の行動を是正しようとしてしまう。細かなことにいちいち口を出す。行動の要求の標準が高い。正義や道徳に、妻の感情より大きく価値を置いている。そして致命的なことは、肯定的評価、感謝をしないということ、妻の感情を満足させるような行動を自発的にしようとしないことである。
この場合でも、妻は、自分が指図やダメ出しばかりされていうるが、夫と妻の価値観が同一ではないため夫の行動基準がわからない。どうして自分の好きにさせてもらえないのかわからない。理詰めで否定する夫、指図ばかりして自由を与えない夫という評価となり、あたかもDVを受けているような息苦しさを感じてしまう。
夫の価値観の形成は、私は教育や、これまでの生い立ちによるところが大きいのではないかと疑っている。要するに子どものころ、親や学校、友人などから自分がやらされていた標準をクリアすることが人間として当然だと思い、道徳や正義を実践しないことは人間として許されないことであり、それがわずかに逸脱したことがあったとしても厳しく否定されてきたので、人間関係とはそういうものだと学習してしまっている場合が多いように思われる。「自分は努力していた。その努力をしていない妻は許せない。」と感じているのかもしれない。こういう「正しい夫」は、学歴が高いとか、仕事で成功しているという人に多いように感じる。この正しさの意識は、妻の感情を考慮しない要因になっていると感じられる。
まれに夫に共感する能力が劣っている場合がある。こういうことをしたら相手は屈辱的に感じるだろうとか、大事に扱われないことを感じ寂しく思うだろうとか、そういう相手の気持ちを理解することができないのである。相手の感情を考慮できないので、頭で理解できる正しい行動をする。おそらく自分たち家族が損をしないようにということで、妻の自由であるべき行動を細かく制限してしまう。こういう夫は、他人の気持ちがわからなくても、これまでの学習によって、社会のあるべき行動パターンを「知って」いて、そういう正しい行動をすることができるので、あまり周囲から気が付かれることがない。むしろ、頭で記憶している「正しい」行動パターンに従って行動する傾向があるため、過剰に道徳的に、過剰に丁寧に人と接しているなという印象を与えるが、悪い人ではないだろうと思われている。特に深く付き合わない人はその人が他人の感情に共鳴できないことに気が付かない。

4) 妻側の事情

妻は、夫の価値観に従おうとするから、それに従うことが苦痛になるという現象が起きる。夫がどう言おうと、「私はそうは思わない。あなたとは価値観が違う。」と平然としていられるならば、苦しくはならない。そうはならない原因がどこにあるか。ここで、夫の暴力が怖い、暴力の記憶が冷凍保存されているので従わざるを得ないという服従の論理だけで説明しようとすると無理が生まれる。人間はそんなに単純ではない。怖いならば言われる前に逃げるだけの話である。それができない理由は実は人間の本能にある。
人間は、無意識に自分の属する群れを強化しようとしている。そのために、群れの秩序をつくり、なるべく群れの構成員が一体として動けるようにしようとする。群れの中にリーダー的な人物が現れ、それが群れにおいて承認されると、リーダーに迎合するようになる。これは人間が群れを作る動物であることからくる本能的な行動である。
本来夫婦は、それぞれが話し合って秩序を形成すればよいのだが、何かの拍子で、夫がリーダーになってしまうと、リーダーの意思を尊重するようになるし、リーダーの意図を先取りして、自分の意図だと意識しないでリーダーの意志に基づいて行動や思考をするようになってしまう。
以前から私は、これは「服従」ではなく、「迎合」だと言っていた。「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある」https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-05
その関係については考えが及ばなかったが、「服従」が自分の意志に反して他人の指示命令に従うことだが、「迎合」は自分の意志自体が他人の意志に乗っ取られる状態であるから、「迎合」は「服従」を超えた支配が完成されている状態という関係になる。

もともと、秩序を作ろうという本能があるうえに、妻が自分自身を否定的に評価している場合は、妻は自分以外の他人に、リーダーシップをとってもらいたいと思い、リーダーシップに迎合する傾向が強くなる。自分に自信がないという場合である。こうなるのも、もともとの性格というより、それまでの生い立ちや体験から、自分の意見を他者から否定され続けていて、社会的な自分の位置づけが低いものだと刷り込まれている場合が多いのではないだろうかと思う。
また、夫が自己主張を積極的にするような場合は、リーダーに迎合しようとする本能が通常以上に強まるのかもしれない。
このように夫と妻の状態によって、妻が過剰に夫の意見に迎合しようとするようになり、その結果息苦しさが生まれるということが、離婚事件でよく見られる関係である。
妻側の事情として、夫に対する愛情が強すぎる場合がある。ここまで行くと愛情という言葉が適当なのか自信がなくなる。しかし、夫のことが好きすぎて、夫から否定的評価が下されることが怖いと過剰に警戒心が強くなっているということは確かにある。離婚訴訟では虐待の証拠として日記が提出されることがある。裁判で出された日記を、裏の意味を含めて解読すると。過剰な警戒心が認知の歪みになっている過程がが明らかに浮かび上がることがしばしばある。例えばこういう失敗があり、夫からこういうふうに言われるのではないかという怯えが、記憶の中でこういうふうに言われたとすり替わっているのである。この記憶のすり替えが客観的証拠から裏付けられてしまうことも多いのである。そして自分を守るために夫に対する攻撃が始まる。こういうパターンは、見ていて大変痛ましい思いがする。好きすぎて被害者意識を抱き、相手を攻撃して自分を守る姿を見ることはは本当に切ない。またこういうパターンの場合は危険でもある。夫と別れたことによって、一番傷つくのは別離を強く望んだはずの妻のほうであることが多く、病的な悲嘆が起きることを経験している。

6 謎はどのように説明されるのか

1) 先ず、DVサイクルとは何なのか

夫は、妻をアプリオリに苦しめようとしているわけでもなく、そのような人格だというわけでもない。ただ、妻との関係を維持しようとしたいだけのである。爆発期というのは、結局逆切れや、先制攻撃という自分を守る手段としてのふるまいである。その自分の行動が、妻から嫌われる原因になると自覚すれば、そのことを無かったことにしたくなる。怒りという感情はあまり持続しない。ひと時の怒りの感情が消失すれば、ひたすら謝り続け、妻に奉仕することになることは自然の流れである。
それでも妻は、夫の爆発も、一転した謝罪攻勢も当然ながら理解できない。このために混乱もするし緊張もする。夫は自分に自信がないから、謝りながらも、自分についてのコンプレックスから、妻が自分を否定評価するのではないかという警戒感も生まれ、表出してしまう。これが緊張期である。
このような感情に任せた行動であるがゆえに、必ずしもサイクル通りに事が運ばないことが多い。特に日本人男性は、例えばイタリア人男性のように女性を持ち上げたり、べたべたした愛情表現が苦手であるから顕著なハネムーン期というものがないことが多い。自分が否定されるのではないかという警戒感はあったとしても、特に爆発することは少ない。結果的に支配のための爆発であることは否定できないとしても、能動的に支配を目的として暴力や暴言を意図的に行うというよりは、どちらかといえば、反射的に自分を守ろうとして、突発的に相手をねじ伏せてその場を乗り切ろうとするという表現のほうがしっくりくるように感じられる。

2) なぜ妻は息苦しさを抱えながらも夫から逃れないのか

これはいろいろな理由がある。
一つ目は、自分が苦しいと感じていると自覚できないという事情があるからだ。
自分が苦しんでいるというように、自分を客観的に観察し、評価することは大変難しいことだ。ましてやその原因に思い至るということは難しい。自分は、とにかく夫の意志を実現しようとしているだけである。やらなくてはならないことができない、だから何とかやり抜こうと頑張ってしまっている。イライラはするだろうけれど苦しんでいるという自覚はない。過労死、いじめなどすべての慢性ストレスから抜け出せない原因として考えなければならない理論である。夫婦関係においてはこれがよりよくあてはまる。
二つ目は、夫の愛、愛と呼べないまでも、自分に対する執着を自覚しているからである。夫は自分から離れたくないから自分につらく当たるということは、当事者はよく理解してしまう。そもそも恋愛の一つの側面として、自分を受け入れてくれると感じたことが恋愛の始まりになったり、恋愛感情を高める一つの要素になったりする。ハネムーン期がなくても、それは当然感じるものであるらしい。愛されている環境から自ら離脱するということがなかなかできない。特に繁殖期の年齢では難しいようだ。愛されている実感が、離脱に対する抵抗になっているのだ。愛されている実感がなくなれば、ためらうことなく夫のもとから逃げ出す。だから、アメリカ型DVがある場合はなかなか逃げ出すことができず、爆発期はないものの、愛情を感じるエピソードが何もない日本型の場合は、子どもを連れて逃げ出すことが簡単に起きてしまうのだ。

3) なぜ、子どもの虐待を放置するのか

支配が完成された妻は、夫の意志が正しい、夫の意志を尊重することが家族がうまくいく方法だと無意識に感じてしまっている。それは自分の意志をなるべく捨てよう、自分の考えは劣っており、家族ダメにしてしまうという意識と同じことになる。夫の子どもに対する虐待を、虐待とは感じられなくなってしまっている。夫のやることは、子どもにとっても利益だと感じてしまっているのである。それでも夫のいないところで子どもを甘やかさずにはいられない自分は、だらしない母親だと思ってしまっている。自分で考え、判断することをやめるように自分を強制し、それに自分自身を慣らそうとしているのである。
夫に迎合するほど支配が完成している場合は、夫が子どもが悪いということを喜ぶと分かっていれば、積極的に子どもを悪くいうことも起きる。これが服従を超えた迎合である。そこに必ずしも恐怖感情は必要がない。
恐怖感情から服従する段階を超えた、もっと人格が荒廃する状態となっているのである。DVサイクル論の信奉者たちは、このような深刻な状態にあることを理解できないであろう。「支援者」たちの妻に対する「男に依存するみすぼらしい女性」という意識は、真実についての考察を停止させる。

7 ではどうすればよいのか。

1) 知識の提供(価値観の転換)

せっかく好きあって夫婦になった二人の関係が、ただ苦しいものになってしまう原因は、知識がないことが大きい。逆に言えば知識があれば、ちょっとの努力で簡単に解決する可能性もあるということだと考えている。
パートナーが自分のことを自分で決められないということは、人間としてとても苦しいのだということを知る必要がある。知れば、行動を改める人が多い。
自分が関係性について過敏になっているということを自覚することも大切である。自分の失敗をごまかすよりも、誠実に謝罪するほうが関係性の継続に役に立つのだということを知る必要がある。これは、妻のアシストがあるとより効果的であり、夫の自信にもつながる。
夫も妻も、それぞれ、相手に自信をつける言動をする工夫は必要であろう。相手の言動が自分を支えれば、相手にもそれをしようとするのが夫婦である。
例えば書店に行っても、この種の本のコーナーがない。どうすれば、幸せになれるのか、家族の作り方のノウハウを教える本がない。例えばテレビ番組でも、それを問題提起するようなものがない。
人は、それぞれ勝手に傷つくばかりである。広く、家族の在り方を議論するべきである。現代社会は、夫婦は孤立しており、自分たちの状態が歪んでいることに気づくことさえできない状態なのである。

2) 苦しさの気づき、孤立しないこと

自分で自分が苦しく感じているということを客観的に認識することは至難の業である。しかし、苦しんでいることを他人が観察することはそれほど難しいことではない。誰かに話をしている中で、自分の精神的状態に気が付くことが多い。これまでの時代では、夫婦は、いろいろな人間に囲まれて生活していた。どちらかの両親と同居していたり、仲人の家を定期的に訪問したり、職場の上司や同僚と家族ぐるみの付き合いが当たり、親戚付き合いがあったり、町内の交流があったりした。ところが、現代では、夫婦は孤立している。夫婦やその子どもの利益を考えておせっかいを焼く人たちが周囲に誰もいないのである。特に都市部の住宅事情は、大家族の同居を難しくしている。終身雇用を前提としていない職場の人間関係は職場外での人間としての付き合いを難しくする。面倒なことにかかわらないようにする。マンションは、エレベーターの中で一緒になっても、挨拶さえしないということも珍しくない。夫婦は孤立しているがために、お互いに依存しあう傾向が強くなってしまう。誰も異変に気が付かないことが多い。過度の従属、迎合があった場合、誰かに苦しいのではないかと尋ねられる環境を作る必要がある。これができなければ行政が関与するべきだが、現状では、行政は、夫婦を立て直すのではなく、分離させる傾向が強くある。
子どもの幸せを第1に考える人で、夫婦のあり方を夫婦に支持的に判断できる人間を近くに配置するべきである。

3) 家族を温かく見守る機関を創設すること

一つは、人間の付き合い方を変えていくことである。積極的に家族ぐるみの付き合いを工夫していくこと。できれば、同年代ではなく、年代の異なる人との交流を行うことが有効だと思う。疑似父母、疑似祖父母である。本来自分たちの両親、祖父母から学ぶことが自然であり、一番小さい子どもの幸せを願う人たちであるから、最も合理的で、適切なアドバイスをすることが期待できる。
二つは、そのような交流をしようにも、ノウハウもなく、その相手もなかなか見つからないということが現代日本の実情である。それを解決するために、家事紛争調整センターを創設することを以前にも提案した(家事調整センター企画書http://doihouritu.com/family.html)。以前は紛争が起きたあとの調整を主眼にしていた。しかしなるべく早く相談にゆき、解決を援助してもらう機関としなければならない。それにとどまらず、個別紛争の普遍的な部分を抽出し、一般的な予防の宣伝をするとともに、あるべき家族の形を研究し、宣伝することも、その任務とされるべきだと、今回の考察を踏まえて考えている。
賛同される多くの人で、日本の家族を支えていく理性的な行動の波が起こされなければならない。


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幸せでないと感じる大人は、幸せになるための行動をしていない人が多い 幸せになることは努力が必要だが、不幸せになることは簡単であることの理由 [家事]

幸せでないと感じる大人は、幸せになるための行動をしていない人が多い 幸せになることは努力が必要だが、不幸せになることは簡単であることの理由

弁護士としての職業がら
長年人間関係の紛争に多くかかわっています。

これまでもうすうす感じていて、確信に変わったことがあります。
例えば家族などの人間関係で紛争になり
不幸せになる人の多くに共通のパターンがあるということです。

現状では、人間関係が壊れて不幸せになることは
どうすることもできないことだ
という考えにもとづいた扱いが
裁判所を中心に支配的になっているように感じます。

でも、もし不幸せになるパターンがあるなら、
そのパターンをふまないことで
不幸せにならないで済む方法があるのかもしれない
そしてそれは案外意識さえすれば簡単なことではないかと思い、
ここでお話しする次第です。

不幸せになるパターンについて、結論だけ言うと
相手から幸せにしてもらうということだけを待っていて
相手が自分を幸せにしないことに怒っている人です。
自分から幸せになるための行動をしないで待っている人ですね。


これが子どもなら許されることでしょう。
親を幸せにしようと子どもが努力するということはないですから。
親なんてものは、放っておいても
自分の子どもをかわいいと思ってしまうので、
それだけで幸せになるものですから、
「生まれてきてくれただけでありがとう」でよいのです。

大人はそうはいきません。

現代の人間社会は
人が二人集まると利害対立が生まれてしまうので、
放っておくと紛争が始まってしまうようです。

これが人間の心が生まれた時代とされる、200万年前なら
生まれてから死ぬまでおんなじ人たちと生活していて
その人たち以外とは原則として出会いもしなかったのですから、
利益は全く対立せずに
平等に助け合っていけたようです。

200万年前は、
仲間の誰かが病気をしたりけがをしたりして動けないと
頭数が減ってしまうという、群れ全体の死活問題となるので、
弱い者と見たらみんなで守ったようです。
自分と群れの他人との区別もはっきりとはつかなったのではないでしょうか。

ところが現代は違います。

また、200万年前から現代の前までの多くの時代
人間は数十人の群れで生活していたことが普通であり、
今のような「若夫婦と子ども」という少人数の家族になったのは
ごくごく最近のことのようです。

今は夫婦がお互いの感情を、
お互いだけで落ち着かせなくてはならないのです。
これは大変なことです。
一方では相手に不満の感情を爆発させてケンカしたとしても
自分たちでその後始末をしなければならない
現代の孤立婚は、何かと無理が起こりやすい環境だと思います。


ひとたび夫婦の信頼関係が揺らぐと疑心暗鬼が生まれ、
自分は相手から大切にされていないのではないかと思いがちになり、
ふつうは気にならない些細なことが、
自分を嫌っている証拠のように思えてくるようです。
あれもこれもそう思えてきますから
だんだんと一緒にいることだけで苦痛となり、
家族を解消したいと思うようになっていくようです。


そうだとすると、では、
このような不幸せにならないようにするための行動、
幸せになる行動があるとすれば、何をすればよいのでしょうか。

答えは簡単で、
不幸せになる行動をしないこと
もっと言えば、逆をすればよいということになります。


相手に不満を抱かせないようにすること
怖がらせない、悲しませない、困惑させないということでしょうか。

そうはいっても、相手の気持ちが分からないことがあったり、
そういうつもりではないのにうっかり不満にさせることもあるので、
嫌なことを嫌だと自由に言ってもらえる環境を整えること、
それも必要になるでしょう。


ここで大切なことは、
「自分なら不満を抱くだろう行動をしない」のではなく、
「相手が不満を感じる行動をしない」ということです。
私はこれはされても気にしないから相手にもしてかまわないとか
相手がそれで不満に思うならば相手が悪い
とかいうのではだめだということですね。

例えば、
私は男で、男友達同士では
大きな声で、多少乱暴な言葉で話をするのが楽だ
だから、相手が女であっても、大きな声で話をしても
多少言葉が乱暴でも
それを不満に思わないでほしい
というような無茶を言わないということです。

多くの家事事件を見ていると
女性の多くは、大声や、乱暴な言葉は
本当に怖いようです。
やかましく反論していたとしても
それは怖くないことを意味しているのではなく、
こわいから必死になってやめてもらおうとしている
と言うことが、むしろ一般的だと言えるようです。

基準は「相手の気持ち」です。
自分の気持ちや道徳などの一般論ではありません。
一番身近にいて、いつも一緒にいる人の感情です。
実はそれほど難しいことではないはずです。
わからなければ聴けばよいですし。

またこれも完璧にやらなくてはならないということはなく、
例えば、つい大声で話をしてしまってから
ごめんごめんと謝ってから小さい声で言い直すだけでも
相手の心を尊重したことになるようです。


相手の不満に思うことをしないだけではなく、
それ以上に相手を
ねぎらうこと、気遣うことをする。
という方がやりやすいかもしれません。

体の具合が悪ければ分担を代わるとか、
何か努力をしたら尊敬を示すとか
自分のために何かをしてもらったら喜び感謝する。
相手の感情に沿うことをするということが
相手を人間として扱うということのようです。
せっかくあなたのために行動したのに
喜びも感謝もしないとへこむわけです。

毎日顔を合わせている時間中
相手のことを考え続けなくてはならないということではなく
そういうこともするということです。
プレゼントなんて言うのは一番わかりやすいのですが、
一緒に暮らしていたら、案外されてうれしいことが
もっと簡単にあるようです。

相手の感情を考えて
相手の喜ぶことをすることができる動物は人間くらいです。

相手がうれしいと喜んでいることが
自分もうれしいことだと思えるようになれば
それを考えることも楽しくなるでしょう。

そりゃあやるべきです。

夫婦しか大人がいない家庭が多いのですが、
大人が二人しかいないならば
相手が自分をどう考えているかと言うことが
心を左右する決定的な事情になっています。
逆に言えば相手が自分を尊重してくれているなら
幸せを感じることもできるわけです。

さてこのあたりまでお話をすると
自分から不幸になっていく人たちの反論が聞こえてきます。

「なんでそこまで卑屈にならなければならないのか。」
こういうお叱りは必ずうけます。

まるで相手を幸せにすることは損だと言わんばかりです。
自分は他人から幸せにしてもらう存在であり、
自分を幸せにしない相手にこちらだけ努力することは無駄なことだ
という発想を持ち続けているのであれば
事態を好転することは難しいかもしれません。

そのような価値観を持つことを否定することはしません。
どちらを選ぶかは個人の自由です。

さて、相手を幸せにすることで
どのような効果が上がるのでしょうか。

相手が疑心暗鬼になることが少なくなる
と言うことが一つの期待できる効果です。

疑心暗鬼になってしまうと
警戒感が過敏になってしまいます。
些細なことも、自分を攻撃しているのではないかという
意味づけをしてしまうことが起きてしまいます。

そうやって、自分が否定されていると感じることで、
自分を守ろうという気持になってきます。
ちょっとしたことで警戒して自分を守るために
必要以上の反撃をしてくることがあります。
何の気なしに口にしたことで
あげあしをとられたり、嫌みを言われたり
そういう経験はないでしょうか。
いちいち気が滅入る事情になりますね。

人は自分を守るとき
逃げるか、攻撃するかという二つの行動をします。
攻撃してくるときには
自分をあなたから守ろうとする動機が隠れています。

逆に自分が尊重されていると感じて
疑心暗鬼にならないですんでいるならば、
そういう無駄な攻撃はなくなります。

多少不満はあった場合であっても
あなたの善意は善意として受け止めるでしょう。

あなたが外食に誘ったときに
本当は洋食が食べたくても
和食でも心づかいの方に感謝できるようになるでしょう。

ところが疑心暗鬼になると
和食ならば行かないよなんてことになりかねません。
行こうとした店で、前に嫌なことがあったことが
思い出されてしまうことにもつながるかもしれません。

旅行に行こうとした場合でも
体力的に疲れるのに
あちらこちらで意見が対立するのはもっと疲れる
と言うことで拒否されて、面白くない気持ちになるわけですが、
疑心暗鬼にならなければ
とりあえず行ってみようか
という気持になる確率が高くなるでしょう。
楽しかった方の記憶を思い出しやすくなるものです。
期待をすると良いことを探そうとしてしまうものです。
相乗効果が期待できます。

こうなってくると
一緒にいても苦痛でないどころか楽しくなっていくと思います。

そうすることによって、
相手も疑心暗鬼にならず幸せになれば、
こちらに敵対的になるということは
起こりにくくなるものです。

また、こちらが気づかいすることによって
相手も同じような気づかいをすることが
ある程度は増えてゆきます。
自分が家に帰って
邪魔にされるどころか気遣われて、尊重される
一緒に楽しい時間を過ごすことができる。

例えばこれが一つの幸せの形だと思います。
一緒に住む相手を幸せにすることは
自分の幸せに直結することだと思います。

このプランがうまくいかないケースはいくつかあります。

一つは、自分がした努力よりも
相手がする努力の方が小さいという
形式的平等論です。

この考えは厄介です。

形式的平等をとるか幸せをとるか
どちらかを選ぶ必要があります。
どちらが余計に努力したかなんてことは
本当はわからないことです。

それを自分の方が損しているというのでは、
結局自分の方が少ない努力でリターンを多くしないと
不満が残る人だと厳しく評価されなければならないのです。

これは幸せになれません。
潔く、見返りを求めないで相手を幸せにすることが第一だ
と割り切る方が幸せになれるのです。

二つ目の幸せになるプランを阻害する事情は、

既に関係が悪化している場合です。

悪化しているときに
こちらから先に相手に奉仕するような形になるのは
いかにも悔しいし、
相手も疑心暗鬼に凝り固まっていれば
こちらの善意も疑ってしまいます。

でも、縁あって結婚したのであれば
結局は何とかなると思えるのです。
無駄だと思っても、
努力してダメだったというのであれば、
あきらめもつくというものです。

これが、相手が自分を幸せにすることを
待ち続けているだけならば、
恨みだけが積み重なってしまうようです。

自分は大人だから自分から相手に働きかける
そういうふうに思いを転換することは
とても画期的なことです。

そしてできるところから始める
飽きずに続ける
相手の厳しい反応は聞き流す。

こちらが相手より、より大人だから
相手の厳しい態度を許す、責めない、笑わない。

そうやって安心の記憶を刷り込んでいく。
こちらの努力次第ですが、
三日坊主では関係は変わらないと思うので、
1か月はがんばってみましょう。

そうすれば馴れてきますから
3か月は延長できるようになるでしょう。

なんでそういう気持悪いことをするのだと
尋ねられれば95%成功したようなものですから
この記事を見せてあげてください。

あとは一緒に幸せになりましょう。
夫婦がそれをすることは誰からも非難されることではありません。


幸せを阻害する事情はまだまだありそうです。

双方の体調の悪化ということがしばしば
疑心暗鬼の原因になることがあります。
できるだけ安心させる行動に出ることを
意識的に行う必要があります。

双方の職場が家庭を破壊するような職場である
と言うこともよくあります。
長時間労働で一緒にいる時間が少ないとか、
会社の飲み会が異常に長いとか
パワハラでもやもやした気分が家庭に持ち越されてしまうとか
収入を第一に考えるか、幸せを第一に考えるか
これは二人で考えなければなりません。
声に出して率直に話し合いをする必要があります。

なかなかの難敵は外野です。
実家とか友人たちですね。
外から見れば
なんでそんな卑屈なことをするのと
茶々を入れることになることは目に見えています。

これが現代社会の難しい所なのです。
心は200万年前からあまり変化していないと言われていますので、
同時に複数の群れからのリクエストを調整することは
なかなか難しいことです。
はっきり優先順位を決めるべきだと思います。
わたしは、家族を優先することが
幸せになるという究極目的に合致すると思っています。

親からすると
子どもが相手のご機嫌を取るようなことをするように見えて、
子どもに不自由な思いをさせているように感じるかもしれません。
友人たちはわざと飲み会に誘うかもしれません。

ご機嫌を取る相手が誰かで変わるのだということです。
仲間であれば
それは卑屈なことではなく人間の自然な行為なのだ
という確信を持ってください。

まああまり外野に教えない方がよいかもしれません。
でもうまく言ったら自慢してください。
君も幸せになれるんだよと教えてあげてください。



さて
今日は私も花でも買って帰ろうとしましょう。

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