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愛しているから別離を選ぶ?精神症状を伴う疾患ないし体調不良から離婚に至る過程のサンプル 解決のヒントは、あなたの態度を改め余から私たちの状態を改善しように変えること [家事]

典型的な事案10数件をもとにした仮想事例を作って深堀りしてみます。
<事案>
子どもは3歳。双方30代後半の夫婦。夫はサラリーマン。妻は結婚後も働いていたが、出産に伴い退職。出産後は育児に専念していた専業主婦。
妻は、ある内科の病気にかかっている。症状としては、良いときと悪いときの波が大きくあるが、悪いときは、疲れやすい、意欲が低下している、理由なく気分が落ち込む等。この症状のため、前にはできていた家事がどうしてもきちんとできない。見た目からは妻に病気があることがわからないため、周囲はこの苦しみを理解できない。妻本人も、それが病気のせいだということを十分に自覚していない。
妻は、いろいろなことができなくなったことから自分に落胆している。日中働いている夫から家事のことでいろいろ言われるのではないかということを始終おびえるようになる。夫は、本当は、あまり人を批判するような性格ではないが、やや細かいところがある。常識的範囲で、日中家にいるのに家事がゆき届かないことに疑問を述べることもある。
妻は自分の体調についてうまく説明できない。このため、夫の悪意のない指摘に過敏に反応してしまう。夫が何か批判めいたことを言い出そうとすると、大きな声を出して先制攻撃をするようになる。夫は、妻がどうして不機嫌なのか、何がきっかけで自分に攻撃的になるのかわからず、困惑している。理不尽だと思い始めている。時に理不尽に耐えかねず、どうして自分を攻撃するのかというポイントで怒りだすことがあった。妻もますますエキサイトしていった。
そのうち妻は、夫が夜勤の時などに子どもを連れて、車で1時間ほどの距離の実家に泊まりに行くようになる。家事をやらなくてよいということと、夫から文句を言われることを、一緒にいる時間を少なくすることによって少なくしようとしたようだ。但し、意識としては、実家にいるほうが楽だから、わがまま言えるからというくらいかもしれない。夫は、夜勤明けの週末だけ妻の実家に行って家族3人の時間をすごす状態になっていた。妻の実家に親子3人で居住することは様々な事情で不可能だった。
3人が自宅で時間を過ごすこともあったが、妻は、夫が口を開くと、自分が家事をできないことを批判するのではないかと戦々恐々としていた。些細な行動も、自分に対する批判であると受け止める傾向が出てきた。夫から具体的に何かを言われる前に、夫に対して先制攻撃的に感情的言動をすることも頻繁になってきた。
夫からすると、それでも毎回怒るということはしなかった。しかし、何回かに一度怒るときは、どうして家にいないのか、どうして家事をしないのか、どうしてすぐに怒って大声を出すのかというこれまでに蓄積していた不満を合わせて述べるようになっていた。様々な妻の行動が、自分を馬鹿にして行っているのではないか、自分を嫌っていて自分と一緒にいることが苦痛で、嫌悪行動をしているのではないかと感じるようになる。妻が、買い物に行くのもおっくうで、食事もあまりにも貧弱なものしか作らなくなり、そのことを夫が指摘しようとしたとき、敏感にそれを察して妻の防衛感情が爆発して、夫も日ごろの不満が爆発して、収拾がつかなくなり、別居に至った。
別居に至るまでの間、妻の調子が良いときに、家族で楽しく外食をしたり、旅行に行くこともあった。妻なりに、子どもと一緒に楽しく過ごすことは必要だと考えて努力していたということもあった。それでも努力がどうしてもできないこともあった。それは妻も自覚していた。たまには頑張ろうと遠出のドライブを計画したこともあった。本当は家で寝ていたかったが、そうもいかないと思い、近場に変更するならと、ドライブに応じた。しかし、夫も子どもも自分の努力を評価することはなく、遠出から近場に変更することに不満そうだった。
別居の原因となった調理の際も、本当は、記念するべき日でもあったので、凝った料理をして、夫を驚かそうと当初は思っていた。頑張って段取りを考えていた。段取りを実行に移そうとした際に、思考のエネルギーが切れたように意欲が失われていき、結局家にあったレトルト食品を出すしかなかった。自分でも、それでは夫も怒るだろうなと思っていたので、夫の帰宅が怖かった。そうしたら案の定、夫は食卓を見たとたん口数が減って、眉間にしわが寄ったように見えた。「言われる」という感覚が稲妻のように頭にとどろいた。その瞬間、自分は大声を出していた。大声を出しながら、「もう駄目だ。元に戻ることはないだろう。」というあきらめた感情がわいてきた。興奮状態は変わらないが、張り詰めた気持ちが切れてしまった。

<解説>

1 医師。医学の問題

これはあくまでも病気が原因の事例です。精神疾患ではなくとも、病気が原因で、精神症状が現れることは少なくありません。私が担当した事例で、診断書がある事例だけでも結構な事例に上ります。しかし、その病気と夫婦仲が悪くなったことの関連性に気が付いていない当事者がほとんどです。
 私は、これは医師の問題、あるいは現代日本の医学の問題があるように思われます。もし、医師が、病気がメンタルに影響を与えて、結婚生活に支障が出る可能性があるということを患者さんに告げていたら、だいぶ様相が変わることだろうと思います。あらかじめわかっていたら、自分で気を付けることもできますし、家族に援助を申し出る可能性だって広がるわけです。患者のメンタルへの影響だけでなく、その患者の症状によって家族のメンタルも影響が生じてしまうということも研究して、家族にも病気に対する説明が行われていれば、この事例の夫ならば、もっともっと配慮することができたでしょう。ところが、実際の事例では、家族どころか、本人に対しても病気のメンタルに対する影響を十分説明がなされていなかったことがほとんどでした。少なくとも本人は、病気と自分の行動、メンタルの関連性を知りませんでした。

2 妻の不幸の原因にまじめすぎることがある。夫に対する愛情をかけすぎていることがある。

本事例の妻は、夫からの現実の批判によって追い込まれたというよりも、自分で自分に対して高い最低ラインを引いて、これに到達しなかったということで自分を追い込んでいます。「妻たるものこうでなくては失格だ。」、「夫は外で働いて苦労しているのだから、自分が家の中のことをきちんとしなくては、自分の存在価値がない。」というように、夫婦の関係を維持するための「資格」みたいなことを考えているようです。そしてそれができないと、「夫から自分が否定的に評価されるだろう」という不安を抱くようになるようです。これが自分の体調によって、できないことが続くうちに、夫からの否定評価の不安も続いていくようです。その妻の考えの根本には「夫と子どもと自分が尊重されながら暮らし続けたい。」という要求があり、これができなくなるのではないかという予想をしてしまうから不安になるのだと思います。本当は家族を維持したいのに、それが強すぎて逆に不安になっているわけです。そして愛する人にあれもしてあげたい、これもしてあげたいという優しい気持ちが、あれもできない、これもできないと自分を苦しめているわけです。こういう不安が持続してしまうと、人間は不安から逃れるということが第一希望になってしまうようです。「いつまでも夫の否定評価の不安を感じ続けたくない」という気持ちが強くなって、「もうこの関係から抜けたい」という方法論に飛びついてしまっているように私には見えてしまいます。「いつまでも仲良くしていたいから、逃げ出したくなる。」という痛ましいお気持ちを見ることが多くあります。
実際に、裁判資料などで妻の日記などが出てくることがあるのですが、そこには、自分と夫だけがわかる記載があるのです。妻の代理人にそんなことは説明しないから、代理人はその意味も分からず、証拠として出してしまうんですね。その記載からすると、妻がどんなに夫のことを好きで、一緒にいたいかということが良くわかるんです。「ああ、この人は、この時確かに幸せだったんだな」とわかるんです。それと矛盾するような記述が違う筆記用具で書かれていて、ああなるほど後から書き加えたのねということもわかってしまいます。夫を好きすぎると、妻の不安は大きくなるようです。妻の代理人は、その日記の時期の夫の妻に対する無理解があったことの証拠として日記を出すのですが、妻の代理人が気が付いていない書き込みを合わせて読むと、たいてい妻は、夫の一挙手一投足に喜んだり、悲しんだりしているし、些細なことで落ち込んだりしていて、見ている方は微笑ましく感じる事情、妻が幸せを感じていた事情が証拠として出されているとしか思えないことがあります。
もし、妻の方が「他に適当な人がいなかったから結婚したまで、疲れてできないことは仕方がないから文句があれば自分でやれ。」という合理的?な発想を持っていたならば、こういう、「夫から批判されるかもしれない」という不安は抱かなかったと思います。「離婚上等」ということで、子どもを夫に押し付けて自由に暮らそうとするのではないでしょうか。逆切れする妻ほど、まじめで夫を愛しているということは、真実のようです。
妻からすると、「できないことを批判されること」も嫌だし、恐れているのですが、それよりも「頑張ってやろうとしたのに、あるいはやったのに、何もしていなかったと批判されること」が特に傷つくようです。カウンターパンチを受けたようなダメージのようです。また、妻にとってうれしいのは、感謝の気持ちよりも、感謝の言葉なのかもしれないということを感じることが多いです。

3 夫の対応が「悪い」のか

夫が、妻の対応を理不尽に思うことはよく理解できます。自分は取引先や上司の嫌味や無理難題をくぐり抜けて、心と体力を削って外で働いてきているのに、感謝もされないどころか、稼ぎが悪いと言わんばかりのお金のかからない安易なレトルト食品があまりにもぶっきらぼうに食卓に並んでいるわけです。私は馬鹿にされている?尊重されていない?あの渡した給料はどうなっているのだろう?とそれは思うでしょう。体の調子が悪くて、意欲がわかない、料理の段取りを考える力が出てこない、一歩、二歩だけ体を動かしてごみをゴミ箱に入れることができないという状態を想像することができないということもやむを得ないでしょう。夫は靴底をすり減らして歩き回っているわけです。
時々、我慢できなくなって文句を言おうとすることも、その段階では軽く甘えているような感覚で言い始めると思います。しかし、何か言おうとしたところで、妻がそれを言わせないで、逆にこちらに文句を言う。マシンガンのように言ってはならないはずの言葉が繰り出されれば、当初笑い話のような話だったのに、瞬間的に夫の眉間のしわが深くなるのも無理のない話です。
妻は、まじめすぎるから、自分が「できない」ということができないようです。自分ができないのではなく、夫が原因でできないと言わんばかりです。
夫も夫で、自分が妻から愛されていると自信たっぷりの人はそれほど多くないようです。むしろ、妻の些細な行動で、自分を嫌っているのではないだろうかという疑心暗鬼になる人が実に多くいらっしゃいます。出来合いの総菜が出されることで自分が尊重されていないと思う人、ごみ箱からあふれたごみがある部屋の状態で自分が無視されていると思う人、言ってはならない言葉だと言葉に厳格な人、様々ですが、詳しくその人の「怒り」を分析すると、「自分が尊重されていない」という危機感から始まっているように感じられます。
仮に、本当は愛人がいて、離婚をして愛人と結ばれたいと思っていたら、ご飯の用意がなされていなかったり、ゴミだらけの部屋のありさまは大歓迎で、離婚訴訟の証拠にしようと、すかさず写メを撮りだすでしょう。怒るということは、やはり、妻と仲良くしていたい、自分を尊重してほしいという気持ちがあるからだと私は思うのです。

夫が悪いとはなかなか言えないように思います。悪いとする部分あるいは修正する部分はあるのでしょうか。しかし、妻が病気のために自分の精神状態に気が付かないならば、夫が何か行動を起こさないと、夫婦は離婚に向かうことを止められないでしょう。子どもはなすすべなく、両親が仲たがいすることを経験してしまいます。また、双方に恨みや憎しみが残ってしまうと、子どもは一方の自分の親に会えなくなってしまいます。
どうしても、妻に病気や体調不良があれば夫がキーマンにならなくてはなりませんし、逆なら妻がキーマンにならなければなりません。それは可能なのでしょうか。病気に対する知識を勉強し始めなければならないのでしょうか。それは非現実的な対応です。

4 第3者は害こそあれ、役に立つことがない理由

ここでは、家族解体思想をもっていて、妻を離婚によって家族から解放することこそが女性の幸せだというような特殊の考えを持った方々や、その思想に基づいていることも知らないでせっせと夫婦を結果として離婚させようとする行政の話は割愛しておきます。

良心的な第三者でもあまり役に立ちません。まずは、夫婦のどちらから相談を受けたか、あるいは夫と妻とどちらの付き合いが長いか、などによって意見が変わるからです。自分の付き合いの長い方に注意するという第三者はあまりいません。あくまでも知り合いを助けようと善意を働かせるわけですから、その間の罪のない「子どもの利益」という視点で物申すという第三者もあまりいないわけです。家庭裁判所も似たようなものです。
また、妻や夫が、どうしてその瞬間の行動に出たのかということをあまり吟味する人もいないでしょう。妻が大声を出したという事象から、夫の支援者は妻は常識がなく精神的に不安定な人だということになり、せいぜい病院に行くべきだということになるのだろうと思います。妻の支援者からは、そこには夫のDVがあるという決めつけが行われることが通常です。支援者というのは、客観的にものごとを見聞きできる人は、どちらが悪いのかを判断して、悪い方が行動を改めるべきだということを述べるでしょう。客観的でない人は、自分の近くにいる人をいかに支援するかという発想しか持てません。いまだに日本人は、戦争遂行のために明治政府がコツコツ教育に取り入れていった勧善懲悪という子どもじみた割り切りから脱却できていないようです。
行政を含めた第三者が入ると、話がややこしくなることが圧倒的に多いのではないでしょうか。
もし、夫と妻が離婚をしないで幸せに暮らしたいと思うならば、自分たちで活動を修正しなければなりません。

5 行動修正のヒント、「私」から「私たち」という発想の切り替え

このヒントはウォーラースタインが「THE GOOD MARRIAGE」という著作で述べています。最後にお話しするのは、これを理論化したものです。今回のテーマでもあります。
私という主語でものを考えるのが普通です。私は疲れて家事ができない。私は夫から攻められたくない。私は、快適な家の中で暮らしたい。私は理不尽に妻から責められている。私は理不尽に相手から否定評価を受けている。
「だから私は自分を守らなくてはならない。」誰から?相手からということになるわけです。夫婦という人間関係の中で、自分を守ろうとすることは、相手を攻撃することにつながりやすくなるのではないでしょうか。自分を守ろうとする行動は、条件反射的に行われ、無自覚に行われていることがほとんどです。ということは、「これから自分が自分を守る行動のために相手を攻撃しようとしている」という自覚がないのですから、自分の行動を制御することが難しいということになります。夫婦のいさかいの大部分はこの仕組みでおきているようです。
これを「私たち」という主語に置き換えて考えてみましょう。
「私たちのうち、家庭の問題を担当している人間が、気力がわかず、きびきびと動くことができない、育児はなんとかこなしているが他の家事に支障が生まれている。このままでは、不衛生な家の中になってしまう。栄養状態にも偏りが出る。これを私たちは解決しなくてはならない。私たちのうちのあなた、もう少し頑張れないのか。無理。なるほど、しかし私も無理だ。これまで、あなたがやっていたことのうちのこの部分はこう省略しよう、こちらについては週一で何とかしよう。わかった。では私も調子が良いときはなるべくこうしてみる。ありがとうでも無理しないでね。」
となると美しいわけです。最初からこれができなくて途中から私たちになっても挽回できるでしょう。
「私たちは、今、普通の会話ができない状態ではないだろうか。私たちのうちの私は、何か話そうとすると話をさえぎられる気がするけれどどうだろう。私たちのうちのあなたが、そういう気持ちになることはわかる。それでも私はそうせざるをえないこころもちなのだ。それはどうしてだろう。私も苦しいけれど、あなたも苦しいのかもしれないということがなんとなくつかめてきた。私が嫌いになったとか、一緒に住むことができなくなったというわけではないのだね。少しそういう気持ちになりかけたけれど、原因は私たちのうちの一方のあなたにあるというよりも、私がいろいろできなくなったことに原因があるかもしれない。私は私たちの現状が改善されればそれほど文句はないので、あなたを責める気持ちもないし、あなただけに原因があるとも考えていない。一緒に私たちの状態を改善していこうではないか。」
と、机上の事案なので、うまくいくわけですが、うまくいく方向には無理がないような気がするのですがどうでしょう。
「あなたの態度を改めよ。」という提案から、「わたしたちの状態を改善しよう」という提案に変えることはとても有意義だと思います。
そしてそれぞれの要素を出し合うわけです。体調が悪い、こういう症状があるというのも私たちの状態を改善するためには情報開示を積極的に行う必要があるわけですし、職場でこういう目に合っていてとてもストレスを感じているということも情報開示をすることは有益です。大事なことは情報開示によって、相手を責めない、批判しない、笑わないということです。励ますつもりだとしても、相手は過敏になっていますから、悪くとらえる危険がいつもの10倍以上あると思います。慎重に、誠実に、対応をする必要があるし、その事情による相手の心情を追体験してみるという姿勢も有効だと思います。相手の不足分があれば、私たちの別の人が変わってやるという姿勢が大切です。
ただ、この発想の切り替えで一番の障害になることが、「自分を守ろうとする意識」です。どうしてもここに戻ってきてしまうわけです。
「夫婦の相手との関係では、自分を守ろうとしない。つまり自分を捨てる。」ということになるのだと思います。ジェンダーの問題があるのであまり言いたくないのですが、私は男性がそれをより多く行うべきだと思っています。この話は伊達政宗が梵天丸と名乗っていた時にさかのぼるので、今日は割愛します。まあ、男性にとって結婚するということは、妻に命を預けるということなのだという話です。
そして、多かれ少なかれ、夫婦にはそのような潔さが多少ならずともあるようです。しかし、何らかのきっかけで、自分を守るという意識が過剰になり、その結果相手を攻撃してしまうという現象が、起きてしまうようです。現代日本では、これまで以上にそのような傾向が多いのではないでしょうか。

そしてこれは離婚防止というよりも、楽しい夫婦関係を形成するための方法という方がふさわしいということを言わせていただきたいのです。離婚をされないためにという後ろ向きの方法論ではないということです。楽しい、対等平等の夫婦を作る過程の中で、離婚が起こりにくくなるということです。おそらく予防というのは、すべてそのようにマイナスを作らないようにするものではなく、プラスを目指す過程の中で達成していくものだとそんなことを考えています。


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【なぜ最近間接間接交流に誘導されるのか】裁判官も誤解している東京家裁面会交流プロジェクトの運営モデル 2 「ニュートラルフラット」という言葉が誤解のポイント 本来どうするべきか [家事]

・はじめに 前回の記事の要約
・ニュートラルフラットという言葉自体の問題点
・ニュートラルフラットという言葉の現実の効果
・そもそも調停実務においてニュートラルフラットという言葉は必要だったのか
・調停委員がニュートラルフラットを逸脱するように見える場合
・同居親から見て面会交流調停で偏った運用に見える場合
・ニュートラルフラットの本当の意味、あるべき調停運営
・もう一つだけ、人間は変化するものだということ

<はじめに 前回の記事の要約>

前回の記事で、東京家裁PTの論文が誤解されているということ、その原因の根本が、これまで東京家裁とその支部のごく一部という極限的な場面でしか行われなかったであろう、直接交流一本やりという調停実務があり、同居親の感情を無視して直接交流を押し付けてきたという反省を、無限定的に行った。ところが圧倒的多数の家裁調停実務は直接交流原則主義など行っていないのに、ますます同居親の感情を調停実務の重要要素として取り上げるようになり、その結果子どもが別居親と会う直接交流が減少していく誤った実務運用となっていると批判しました。今回はその続きです。

<ニュートラルフラットという言葉自体の問題点>

東京家裁PTの提言の冒頭部分で出てくるのが「ニュートラルフラット」という言葉です。PTは、この言葉に二つの意味を持たせており、1)同居親及び別居親のいずれの側にも偏ることなく、先入観を持つことなく、2)ひらすら子の利益を最優先に考慮する。そういう立場だと定義づけています。結論から言って、実務的にはニュートラルフラットという言葉は2)の意味が軽視される傾向に誘導する効果があるようです。ネーミングに原因があることは明らかです。
なぜならば、言葉の意味から、2)は当然に出てこないからです。さらに、提言自身が、提言の次の部分で、1)の意味でニュートラルフラットという言葉を使用しているからです。子の利益を最優先するということを強調しようとしたあまり、1)の意味で言葉を使ってしまっているように読めるということです。
どうして、「同居親、別居親の主張よりも、家庭裁判所の後見的立場から子の利益を最優先して考える」と明確にできなかったのでしょうか。世間的には、こういうと反発されることを考慮したのだとは思います。しかし、概念があいまいになり、誤解を作り出した原因になっていると感じます。

<ニュートラルフラットという言葉の現実の効果>
改めて1)の文言を再掲しますが
同居親及び別居親のいずれの側にも偏ることなく、先入観を持つことなく、
というのです。

これまでの実務で、あまり別居親に偏られた調停があったということは経験ありません。これは、別居親が男性、女性にかかわらずです。別居親が先入観、偏見を持たれたという経験ならあります。典型的には、同居親が女性で、事実に反するDVや精神的虐待を主張されて、別居親が調停委員会や裁判所によって妙に警戒されたという経験はあります。事実調査も何も行わないで同居親の言い分だけで、インカムをかぶった裁判所職員が別居親を見張っていたのです。しかし、一部の例外を除いて、概ね偏りなく扱われているように感じています。ただ、全国の当事者の方々からの相談では、同居親に偏った運用がなされているような相談を受けています。私も、面会交流調停の代理で他県の家裁の支部で、別居親が面会交流の目的はなんだと調停の冒頭で調停委員から詰問された経験があります。
 そういう意味からは、別居親にとって、ニュートラルフラットは歓迎するべき言葉になるはずなのですが、実務は違っています。提言の解説において、同居親から直接交流一本やりだという批判があって、それに対して改善を提言していると読めることが原因です。あたかもこれまでの家裁実務では、会わせたくないという同居親に、先入観をもって直接交流を押し付けてきたという反省をしているように受け止める人が少なくないのです。しかし、圧倒的な実務運用は、このような直接交流一本やりをしていません。それでもこれまでを改めて、ニュートラルフラットだといわれてしまうと、ニュートラルフラットという言葉は、会わせたくないという同居親への説得を自粛させる方向にしか働かないようなのです。

<そもそも調停実務においてニュートラルフラットという言葉は必要だったのか>

私も裁判所や弁護士会で調停委員の役割を担当していますが、あえて「どちらの当事者にも偏らず、先入観を持たない」ということを裁判所が提言することは必要だったのかということに、自分が言われる立場として疑問があります。

これ、裁判所が誰に向かって言っているかということなのです。言われているのは調停委員の人たちなんです。実際は、裁判官に対して、調停委員会をこういう風に運営しろということなのですが、主に反省を促しているのは、調停委員だということになります。当事者と直接やり取りしているのは、多くの事件で調停委員と調査官です。だから、偏っているとか先入観を持っているといわれているのは調停委員だということになるわけです。少なくとも調停委員からすればそう受け止めてしまいます。

しかし、私の実務上の経験からは、調停委員の方々は、むしろ当事者の心情に配慮して偏りがないことを第一に調停運営をされているような印象を受けます(これは必ずしも積極的に支持されることでなく、子の利益の最優先よりも親の感情を優先しているのではないかという感想なのです。)。言葉は変ですが、調停委員は本能的に、偏りのない調停運営を心掛けるという特質があります。自分の価値観を優先するような調停委員は、通常はいません。1)の意味でのニュートラルフラットな立場に立っています。
それを超えて、少なくとも別居親の立場に偏った調停委員がいるということは今まで聞いたことがありません。もしそういう実例があるならば、具体的に例示するべきだと思います。そうでなければ、もともとニュートラルフラットを心掛けている調停委員に対してあまりにも配慮を欠きすぎた提言になってはいないかという疑問があるわけです。調停委員をお願いしている立場の裁判所の言い方としては、あまりにも無礼だろうと思ってしまいます。もっとも調停員に反省を促しているとした場合のことですが。
もしかしたら、ここに裁判所の調停委員に対する誤解があるのかもしれません。もう少し検討してみましょう。

<調停委員がニュートラルフラットを逸脱するように見える場合>

調停委員が、客観的に見れば、偏りとか先入観に基づいて公平を逸脱する場合があります。それは当事者の感情に過剰に共感しすぎてしまう場合です。一方当事者が弱い立場であるとか、追い込まれて苦しんでいるとか、おびえているとか、本能的に味方にならなければいけないと感じてしまい、つい肩入れしてしまう場合です。この場合、その当事者に対して、範囲を限定するならば思う存分に共感を示すということは問題ないと思います。しかし、一方に肩入れしてしまった結果、他方に不利な対応することは厳しく戒められなければなりません。その人の感情と発言が万人からみて根拠があっての感情と発言だとは限りません。感情があるから原因があるでは調停ではなくなります。
もう一つ、偏りがうまれてしまう場面は、一方当事者が感情的になりすぎて収拾がつかず、合理的な解決に向かうことが不可能だと思うときです。こういう場合は、調停の行方に関する重要な事情ですから、事情を他方当事者に告げて進行についての意見を求めるべきです。事実を告げないで、感情的な当事者に沿う形で調停をまとめようとしてしまうことは、調停委員の都合で調停の方向を決めるということであり、これもしてはいけないことです。
そもそも、一方当事者が調停委員会に対して感情的になる場合は、その当事者の主張が実現しそうもないという事実に対して憤るという場合よりも、調停委員会が、自分にはわからない事情によって相手に偏った運用をしている、不公平な運用をしていると感じられる場合だということはよく考えてほしいと思います。
ここは調停委員会の事実認定の問題にも関連するところだと思います・

<同居親から見て面会交流調停で偏った運用に見える場合>

同居親の批判である、直接交流一本やりで強引に調停が進められたという批判には、そのような事実がないのにそう感じるだろうということは、実務家ならば理解できるところです。
子の利益を最優先として考えるならば、条件が許せば直接交流が一番望ましいということは、あまり争いがありません。そのためには、本来代理人は、双方の当事者の葛藤を高めることなく、落ち着いて両当事者が子の利益を優先して考えることができるような環境を作っていくことが求められるわけです。話し合い自体でも、無駄な争いをせず、相手の意見を尊重しながら子の利益を優先するように相手方を誘導することが求められます。また、面会自体も方法を工夫して、子どもがより安心して面会できるように同居親の安心感を構築してく努力が必要だと考えています。仙台弁護士会では、同居親の代理人の弁護士、同居親を安心させて子どもの利益を最優先するために、ボランティアで休日をつぶして面会交流に協力している人たちがいます。頭が下がります。
しかしながら、一定割合で、客観的には面会交流が制限されるべきではない事案でも、感情的に面会をさせたくないと主張する同居親が多くいます。会わせたくない理由としてあげられることは支離滅裂なことがほとんどで、子の利益からは会わせない理由がないことを隠そうとすらしない場合もあります。つまり、自己制御ができない状態であり、子どもの利益を考慮して意思決定することが不能な心理状態の同居親の場合です。それなりに理由をつける場合がありますが、簡単にそれが事実ではないことがはっきりする場合が多いです。つまり別居親(通常は父親)に、DVもなく、児童虐待もなく、精神的虐待もなく、連れ去りの危険すらない場合です。別居親からの同居親に対する敵対感情は強くなく、一方的に同居親が感情的になっている場合です。
 こういう場合、子の利益を最優先に考えた場合、同居親に対しては、理由なく子どもの面会を拒否していると調停委員会は受け止めることになるでしょう。そうすると、調停の大部分の時間は、同居親への調停委員会の説得に費やされます。事実私の代理人となっている面会交流調停期日の大部分は、待ち時間です。調停委員会は、時間をかけて同居親だけを説得するというのが毎回の調停となるわけです。同居親からすると、調停委員が自分にだけ注文を付けるのですから、「直接交流ありき」、偏った調停運営と感じるのはありうることです。これは、東京家裁PTのニュートラルフラットな調停運用の結果こうなるということが正確なのです。だからと言って問題もないのに、別居親との調停の時間をいたずらに取ったところで、面会交流の内容を下げろという話にしかならないわけです。これは、子の利益を最優先するというそもそも論から見れば本末転倒な話です。
 同居親からの批判の事実関係は、こういう流れではないかと考えることが私の実務体験(代理人実務、相談実務)からは自然のことです。だから、こういう場合、つまり同居親が理由もなく面会を拒否しているので説得されている場合でなければ、どういう場合なのか事例を上げなくてはなりません。あえてニュートラルフラットなどという言葉を使って誤解を招き、子の利益を最優先で考えられなくなるような提言をするべきではないのです。東京家裁PTは、全国の家裁運用をミスリードしないように、誤解を含んだ形での影響力が生じることを看過してはならないということを自覚するべきでしょう。

<ニュートラルフラットの本当の意味、あるべき説得スタイル>

私のブログでも何度も言っていることなのですが、意思を持つ人間の何らかの行動を求める場合は、強硬に結論を押し付けても失敗するのであって、その結論に誘導していくことが求められることだということです。提言は、システム論にこだわりすぎて、わかったようなわからないようなものになっています。ここでPDCAサイクルみたいな話をしても仕方がないのですが、若い裁判官には理解した気になる論法なのかもしれません。
 要は、まず、「同居親が別居親に子どもを会わせたくないということは、特に理由がなくても当然生じうる感情だ」というリアルを承認することから始めるということです。感情だから仕方がないと割り切るところから出発するべきです。危険だとか子どもが心配だとか言うことではなく、面白くない、不愉快だ、子どもの心を奪われたら怖いということは、普通の人間の感情だと思います。こういう感情があること自体は積極的に承認してよいと思います。こういう感情さえも否定されたら次に進みません。
 その感情を他人が否定すると、その感情主体は自分を守るために感情が生まれることには合理的理由があるということを述べなくてはならなくなります。そこに嘘や大げさな言葉が必要になる理由があります。そうではなくて、「離婚した夫には子どもは会わせたくないよね。」と始まった方が、その後スムーズになると感じています。
 ここで、調停委員から「でも子どもにとっては会わせた方が良いのだ」とか、「そんなことで子どもに申し訳ないと思わないのか」という説教が始まれば、同居親はへそを曲げてしまうし、あることないこと主張が始まって収拾がつかなくなります。調停が長期化してしまい、何も責任のない子どもが別居親に会えない状態が続いてしまいます。会わせたくないというものだということを他人から言われることで、同居親は、自分の感情が承認されたという安心感を獲得できるようになります。自分の素直な感情を話しても否定されないという安心感です。これが調停委員に対する信頼感につながるわけです。同時に、わかるけれどじゃあ、調停終わりということにならないことから、同居親は「どうにかしなくてはならないのだな」という考えが生まれる可能性が出てくるようです。
 ここで調停委員は、「会わせたくないのはわかるけれど、子どものためには会わせなくてはならないのよ。」と先を急いでしまうと、せっかくの負の感情の承認の効果がなくなってしまうかもしれません。今回の提言の良いところは、急がない、時間をかけるということです。むしろ、子どもの成育状況、母親としてのかかわりを話してもらうとか、父親に対する感情を聞き出すという回り道をするべきなのだと思います。提言にもそれらしいことが抽象的には述べられているのですが、母親の会わせたくない感情に、合理的理由があるはずだという前提に立って、調停において先々検討するいわゆる6つの課題の聴取をするようなことを述べています。これでは、面会交流阻害事由があるという主張をさせるように誘導してしまっています。ニュートラルフラットの手法とは言えません。
 徐々に、会わせたくないとはいっても、もし会わせるとしたら、どういうことを条件とするかということを考え出してもらう工夫をすることが求められると思います。つまり、無条件に会わせるわけではなく、自分が少しでも納得する形で会わせる、会わせ方をコントロールできるのだという安心感を持ってもらうということです。
 この時同時並行で別居親と話をしているわけですから、別居親に対して、同居親の安心感につながるような発言を引き出していくことが大切です。そうして、その発言を同居親にフィードバックしていくという作業が必要になるでしょう。つまり、人間には弱い部分があり、離婚をしたとしても、子どもがいる場合は、双方が親として相手の弱い部分をカバーしあうという協力関係を持つことが求められているとして、この協力関係を子の利益のために双方に努力してもらうということが調停のあるべき姿だと私は思います。
もちろん、面会交流を禁止するべき事情がある場合は、事実認定ができるか否か双方から主張立証をしてもらうことが必要となりますが、今考えているのは圧倒的多数の面会を禁止する理由のない場合です。また、偶然起きたような、人格に基づかないような行動や、主張が曖昧過ぎて事実認定ができそうもない事情しか主張されないような場合は、まずは協力関係の構築の努力をするべきであろうと私は思います。
現代の調停は、逆に、双方の非難合戦を仲介しているとみられる場面があります。これと違って、あえて主張の全部を告げないで、協力関係を形成していくためには、何が調停の方向に影響のある事実であるか、ただ調停委員は聞いておけばよいだけの事実か見極めて、調停委員会の合意が確立していなければなりません。裁判官の強いイニシアチブが必要になる場面です。
また、調停委員と当事者との間の心理学でいうところの信頼関係、ラポールの形成をもう少し意識してよいのではないかと思われます。そうでなければ、人生の一大事について、当事者が見ず知らずの調停委員に対して心を開くということはないと思います。この際注意しなければならないのは、双方に公平な関係を維持するということです。これは実際は難しいことではなく、申立人と話しているときは申立人の感情を承認し、相手方と話しているときは相手方の感情を承認するということで解決できます。両方にえこひいきするという手法です。私は昭和の時代の小学校の先生から伝授されましたが、心理学でも確立している手法のようです。双方が感情が対立しているとしても、どちらかの感情に共感することが他方の感情に共感することと矛盾しないことがほとんどですが、矛盾したとしても気にしなくてよいと思います。

<もう一つだけ、人間は変化するものだということ>

今述べたような調停運営がなされて、当事者双方が安心していくと、当事者双方は安心感を獲得することができるようになります。そのような調停に立ち会うと、人間が変化していく様子を見て感動することがあります。
だから、調停の一時点をとらえて直ちに、面会交流の方法を決定することには抵抗があります。面会交流調停は急がないというのであれば、少しずつ面会交流を始めていくことで、様子を確認して、さらに子の福祉のためにより良い方法を検討していくことが適切だと思います。一方で、過大な面会条件としないために馴れという経験が双方必要だということと、他方で、子どもにとって不十分な面会を永続化しないためです。もう一つ、無駄にお互いに不信感を抱き続けたり、景観間をもっておびえ続けなくするという効果も期待できます。

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裁判官も誤解している東京家裁面会交流プロジェクトの運営モデル 誤解されるポイントと誤解の理由 1 現状分析についての誤解 [家事]

 
<この記事を書く動機というか必要性>
<実務運用分析の誤り。極限的な実務運用がスタンダードとされて分析がなされているように読めることが原因。そしてその弊害>

<この記事を書く動機というか必要性>
面会交流については、近時、今後の実務の方法について、家庭裁判所関係者から提言された大きな二つの論文があります。
・家裁調査官研究紀要の27巻 「子の利益に関する面会交流に向けた調査実務の研究」小澤真嗣他
・家庭の法と裁判  26号 「東京家庭裁判所における面会交流調停事件の運営方針の確認及び新たな運営モデル」東京家庭裁判所面会交流プロジェクトチーム
です。
それぞれ、最初に私が読んだときは、私の考えている運用論が家庭裁判所からも支持されるようになったと、すんなりと受け止めていました。しかし、実務的には、これらの二つの論文が、昨今、子の利益よりも大人の利益を優先しようとする実務運用に使われているという実感がわいてきてしまいました。
一つは、子どもに別居親を会わせたくないという同居親に寄り添って、会わせないための調停での方法を指南している弁護士が何らかのマニュアルを書いているとのことで、その論文の中で面会拒否のテクニックとして二つの論文を指摘しろと言っているというのです。論文を読まないで都合の良いことを言っているのかなとその時は素通りしたのです。
しかし、その後、家庭裁判所で面会交流の事件をしていたら、若い裁判官から、「最近は、直接面会を裁判所も必ずしも認めない流れになっている。」というような発言がありました。どうやら、東京家裁PTの論文のことを言っているらしいのです。論文を読みもせずに雰囲気だけを拾い取っていたり、誤解をしている誰かの話をうのみにしていたりして、東京家裁PTの論文を誤解している可能性がありそうです。裁判官ですらこのありさまなのだから、弁護士やユーザーも同じように誤解をしているのではないかと心配になりました。
以下、東京家裁PTの提言の何が誤解されているのか、どうして誤解されているのかということを検討しようと思います。

<実務運用分析の誤り。極限的な実務運用がスタンダードとされて分析がなされているように読めることが原因。そしてその弊害>

1)論文の実務に対する二つの批判
論文では、これまでの実務運用が改められるべきだと述べられています。まとめると
・直接交流一本やりで同居親に配慮を欠き批判された。
・面会交流の内容が貧弱であること、実際に履行されないことを別居親から批判された
というものです。
2)同居親からの批判についての改善の提言
同居親の批判に対しては、同居親に対して説教や命令をするだけでなく、心情をくみ取ったうえで、面会交流の子どもにとっての必要性と、面会が禁止される場面があることを丁寧に説明していくという改善を提言しています。
3)分析が例外的な実務運用を一般化したこととその弊害
 この分析は、面会交流調停について全国の家裁実務を調査検討したものではありません。私の仕事は、東北地方中心ではありますが、北海道から関東まで、結構多くの家庭裁判所で面会交流事件を担当してきました。また、全国の当事者の方々から電話などで相談が寄せられています。直接交流一本やりで、面会交流調停が行われているという体験もありませんし、当事者からの報告もありません。東京家裁の事件でも同様です。同居親からの批判としてあげられた内容については、ジャンダーフリーを主張する弁護士から、直接交流一本やりの家裁実務の批判を見聞きしたことはありました。しかし、特定の政治的立場からの感じ方だろうと高をくくっていました。しかし、当の東京家庭裁判所が自分たちは配慮に欠ける強引な調停をしていたというのですから、そういうこともあったのでしょう。なんとも不思議な話です。
 少なくとも、私が相談を受けた事案の調停実務の問題点は、会いたい、会わせたくないという当事者間の争いが「どっちもどっち論」になってしまい、子どもの利益が最優先とはされない調停が進められているというものばかりです。私が担当した事案の調停でも、直接交流一本やりで、強引に同居親を説得するという運用は皆無で、会わせたくない心情を解きほぐして一緒に考えていくという運用がなされています。そうでなければ、面会交流は、現実には行われないからです。もし、直接交流一本やりの調停があったとしても、それは東京家裁とその支部の極一部の事件で行われたものだと、私の実務経験からは考えざるを得ません。
 このような、調停実務の極めて情緒的な分析が、提言の誤解の根本原因になっています。つまり、全国の家庭裁判所は、東京家裁が反省しているのだから、自分たちも同じように反省して、運用を改めなければいけないと機械的に思うようです。そもそも、東京家裁の傾向を敏感に反映した実務をしていないくせに、自分たちも同じ誤りを犯しているのだと感じるようです。これまで、子ども利益のためには、できるならば直接交流を実施した方が良いと考えて、いろいろ同居親に働きかけてきたけれど、それ自体が悪かったと誤解するようです。東京家裁の反省するべき実態が示されていないために、自分たちの実務が同居親に冷たかったとした、受け止められないわけです。しかし、二つの論文とも、直接交流が条件が許せば一番子の利益に最も効果があるといっているのです。ところが東京家裁PTの「反省」によって、他の裁判所ではこの根本が落ちてしまうようです。ますます同居親へ配慮しなくてはならないということだけが結果として見えてきてしまいます。結果として、「子の利益を最優先して調停を運営する」という根本的価値観よりも、同居親への寄り添いが優先されるという結果が起きてしまっています。
4)別居親からの批判についての改善の提言
別居親の批判に対しては、現実の課題や問題点を克服していきながら、自主的な解決を実現することも視野に入れて調停を運営するという改善方法が報告されています。
5)提言の改善ポイントについての誤解とその原因
別居親の、「調停や審判事項が守られない」という批判にどう答えるかということがあいまいだと批判されるべきでしょう。間違っているわけではないけれど、あいまいだから誤解されるのです。別居親の批判は、子どもに会いたいということが根幹にあり、「調停や審判で会えることが決まったのに会えない」という批判です。これに対して解決方法は二通り考えられます。Aは、実現不可能な取り決めをしないで、実現可能な範囲で調停、審判を行う。Bは、調停や審判を家裁の手続きが終わっても同居親が自主的に履行するように、同居親の心に働きかける調停を行うということです。PTの結論はBであることが読めばわかります。私から言わせれば、同居親の自主的な面会協力を後押しするように別居親も自分のふるまいを考えるということも大切です。しかしながら、どうも裁判所というのは、自分たちの関与に批判が来なければよいと思っているのでしょうか、Aの解決方法を、おそらく無意識に志向してしまうようです。つまり、実現可能な範囲で面会交流の方法を低くとどめようとする実務傾向が最近見られています。つまり、直接交流が守られそうもないなら、初めから間接交流で決めればよいやという安易な考え方です。子どもの利益を最優先する考えが消失しているだけでなく、当事者の利益よりも裁判所の自分が批判されないという利益を優先しているようにさえ感じられることがあります。
二つの論文とも、「子の利益を最優先する」という根本価値を繰り返し述べているのですが、どうやらそれは、読んでいる裁判所では、意味が入ってこず、枕詞のように扱われているのかもしれません。
6)この分析の現実の実務的効果
 この分析の部分の実務的効果は、先ほどのBのような選択肢が取られる理想的な調停実務が展開されるのではなく、単に同居親の感情に寄り添って、同居親に積極的に働きかけることを自粛し、「嫌なものは仕方がない。できる範囲で間接交流でまとめるか、時期尚早で面会を認めないか。」という傾向になりつつあるのではないかという危機感を感じています。

<ニュートラルフラットという言葉の弊害>
 提言の冒頭に出てくる「ニュートラルフラット」という言葉の弊害については、次回また述べたいと思います。

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家族再生を目指す場合の「専門家」の関り方。加害者プログラムの受講者さん方と話して気が付いたこと、相手のこころに働きかけるというアプローチこそが重要ではないかということ。弁護士と心理士とのすみわけとコラボレーション。 [家事]


要は、ユーザーが何をどのように利用するかという話です。

最近、男性からの離婚事件の相談を受けていると
心理的な学習をなさっているというか、
「加害者プログラム」の研修を受けている人たちが多くいます。
こういう方々はよく勉強していて、
・自分が妻に何をしたのか
・どうして自分はそういうことをしたのか
・自分の気持
については、驚くほど正確に文章として記録し、説得力あるお話をされます。
つまり「自分について」はよく語れるのです。
また、その結果妻が自分から去っていったのだ
という「結論」はご自分で語ることができます。

ただ、加害者プログラムという性質からでしょうか
自分のネガティブな側面がクローズアップされすぎているような
印象は受けています。

それよりも問題ではないかと感じるところは、
自分の行動によって妻がどういう気持ちになって、
別居という選択をして行動に出たのか
というリアルな流れの説明がかなり希薄な感じがするのです。

自分についての考察がかなり正確だからこそ
際立ってそう感じるのでしょうね。

どんなに自分について詳しく説明できるようになっても
対策は生まれません。

「自分と相手の関係」を修復したいならば
相手の気持ちを動かさなければなりません。
相手の気持ちについての理解が無ければ
相手の気持を動かしようがないので、話しが始まらないからです。

自分の気持や行動を、反省に基づいて
止めるべきところをやめただけでは
二人の関係は改善されません。

この意味で
デメリットが多くてメリットが少ない例として、
「自分の気持の中に相手に対する支配欲があったことに気が付いて
自分はなんて暴君だったのだろう。」という反省です。
そんなことに気が付いたところで
仲直りができるわけではありません。

反省の内容を手紙にして相手に届けたところで、
自分も相手も苦しくなる結果にしかならないというのが
弁護士としての経験上の実務的な実感です。

あまり現実(相手のこころ)を動かさないわけです。

(そもそもわたしは「支配欲」という欲を持っている人間がいるとは思っていません。自分を守るために、つまり自分が安定して妻との関係を維持できるために、妻の自分の否定的評価をことごとく消さなければならないという過剰な防衛行動が程度を超えると「配偶者加害」(DV)となると考えています。あなたは支配をしたいわけではない。ただ、自分に自信がない状態になっているから、相手が自分に理不尽な評価をすることを何とか無かったことにしたいと思って、後先かまわずに防衛行動を起こしているのではないでしょうか。しかし、相手があなたのそのような内心を理解することは無理です。その結果、相手からしてみると、自分がどう扱われたかだけを認識しますから、支配されている、服従を強いられているという感覚を持つということだと思います。あなた、自分の愛する人に自分の奴隷として行動してほしいと思いますでしょうか。そんな他人を支配しようなんてことを考える人がパートナーをそもそも作れるでしょうか。そうではなくて、仲良くする方法がわからないのです。本当はただ「ふたりの関係の中に安心していたい」ということなのだろうと思うのです。)

だから、相手の気持ちを考えて
「どうすれば相手は安心するだろうか。」
ということを考える方がよほど現実を動かすと思うのです。

うっとうしい夫の懺悔話なんて
誰が聞きたいと思うでしょうか。
夫の自己正当化と、
真実に気が付かなかった自分(妻)への非難と受け止められ、
逆効果になるということがこれまでの経験です。

ではどうするか。
方法論はそれほど簡単ではありません。
なぜならば、人のこころに、客観的な基準なんてないからです。
こうすればうまくいくという一般論はありません。

その一人の人がどう受け止めるのか
その一人の人のこころをどう動かすのかということがテーマです。

その回答を導くための素材は、
あなた自身が誰よりも豊富に持っていることに気が付いてください。

男女として一緒にいた時間が多かったあなた自身だからこそ
その人のこころに関する情報を誰よりも持っているのです。

あくまでも相手のこころを変えるということが唯一の目標です。
あなたの内心が変わろうと変わるまいと
あなたの働きかけに対して相手は反応するわけです。
たとえあなたが、妻に対して
二度と許せない一生恨んでやるというよこしまな気持ちがあっても
それを微塵も感じない行動をとって安心させれば
相手はあなたに近づいてくるかもしれません。

逆に、あなたが誠心誠意懺悔して、申し訳ない気持ちがいっぱいになっても
相手のこころを動かす行動をしなければ
相手があなたに対する気持ちに変化は生まれませんから
何も変わらないわけです。

どんなに攻撃的な心が内心に渦巻いていても
相手から歩み寄りがあり、信頼関係を築くことができれば
つまりあなたと相手の関係性が生まれれば、
その結果
あなたのこころも相手のことを想うように代わっていくはずです。

こころは後からついてくればよいわけです。
この点で、同じ過ちを犯さないようにするという意味では
自分の行動の反省も役に立つのかもしれません。
でも、自分の反省も、相手のこころを抜きにして行っても
あまり意味が無いと思うのです。

自分を守ることをやめて、自分のこころなんてうっちゃっておいて
相手の心を動かすことに専念する
これがあなたのやるべきことのすべてなのだと思うのです。

そうすると「自分というものが無くなってしまう」という
頼りない気持ちになるのかもしれませんが
ある意味これが対人関係学の出発点で
ここが大事なところです。

要するに
「人間というのは、いかなる意味でも
1人では生きていくことができないし
『自分』という概念ももつことはできない。
仲間の中の自分という
他者とのかかわりの中で初めて自分というものが存在し
自分という存在を感じることができる」
という側面を重視することです。

人間の紛争の解決に人間の相互作用という問題を重視するというのが
対人関係学の立場です。
この思考パターンは元々弁護士的な発想なのかもしれません。

これと違い心理学の多くは
どうしてもクライアントの心理分析が主体となっているようです。
そういうアプローチをする学問なのでしょう。

但し、これには例外があって
私も常々勉強させていただいている「家族療法」という学派は
家族の相互作用ということを大変重視されていますし、
カップルカウンセリングという学派もどうやら相互作用が
解決の指針のようであります。
これらの学派からは学ぶところが多くありそうです。

しかし、多くの依頼者のカウンセリング経験を聞くと、
この相互作用という視点がどうも足りないような感じを受けますし
クライアントの心理を重視し過ぎているような印象を受けます。
「どちらがより悪いか」ということをカウンセラーが直感で判断して
悪いと判断された方が変化するべきだというカウンセリングが
とても多く感じます。

何よりもカウンセリングが成功していないだろうなと感じるポイントは
そのカウンセリングを受けている人たちが
自分に対する内省は進めながらも
相手の行動に対する怒りがちっとも減らないで
自己の行動を制御することをあまり訓練されていないようだ
というところです。

何にも刺激のないところでは反省をしているのですが、
相手のアクションがあるとつい反応してしまうところは
あまり変わっていないというところでしょうか。

「相手のこころをどう動かすか」という視点を持っているようには
とても思えないのです。

自分で自分を大切にしているのだろうなというお話はよく聞くのですが、
自分を守ろうとする結果なんだろうと感じるのですが、
無駄な争いを目的もなく繰り広げて
家族の再生とは逆方向に歩んでいるなという姿をよく目にします。

もちろんうまくいっている加害者プログラムはあると思います。
また、プログラムは立派なものだとしても、当の本人が
まだ研修の半ばのためにうまくいかないということもありそうです。

あるいは、カウンセリングを受けたため、
ここまで前進したということも真実かもしれません。

ショックが大きすぎると、
自分が攻撃されているという意識が拡張していきますから
冷静に考えるということさえできないかもしれません。

カウンセリングのおかげで私と話ができるようになり、
次のステップを目指すことができるようになったのかもしれません。

もしかしたら対人関係学はこういうところは
あまり関心を持っておらず
その人任せにしているのかもしれません。

そうだとすると、
家族の再生に向かうための他人の関りは
複合的なものが良いのかもしれません。
つまり、何人かの専門家がフォローをすると言うことですね。

その際には、お互いのフォローがお互いに邪魔しないで
効率的に家族再生を進めるために
情報交流をした上で相互に利用し合う形が生まれると
良いのかもしれません。

つまり、認知のゆがみを是正するパートと
相手に対する働きかけを担当するパートということになるでしょう。

そうすれば、もっとうまく解決する例も増えてくるかもしれません。

但し、その最大の弱点は費用が掛かりすぎるということかもしれません。

個別の連携よりも
家族を再生させるためのプログラムを確立して
各専門家がどのように関与していくかという
サンプルを蓄積していくことが実務的ではないかと思われます。

情報を広く提供して
専門家に個別の費用をかけないで自分で解決していく
ということができれば
当事者にとってはなお良いということになるでしょう。


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ジェンダー平等の夫婦を築く方法 どういう男性と結婚するべきか。男性を操作する方法 「DV」をしやすい男性とは  [家事]


私が男性ということもあって
夫婦を楽しいものにするために
男性に対してどう自分を修正するかということばかり
お話ししてしまっているようです。
必ずしも男性だけに向けて言っているのではないのですが
表現として男性の視点で言っています。

それは自分のこととして考えて、その結果をお話ししているので
自然とそうなっているだけのことです。
ジェンダーバイアスがかかっているからではありません。
しかし、結果的に、
「女性は男性によって幸せにしてもらう」
というジェンダーバイアスを進めていることになりそうなので、
なんとか頭を絞って女性に対してお話しする表現
ということで考えてみました。

この「女性は男性によって幸せにしてもらう」ということになれば、
それは女性という性を馬鹿にしたことになる
ということをまず認識してください。

「それでも良いのじゃないの」というならば
ジェンダー云々なんてことを言わないで
男性に従属して生きて行ってください。
しかし、現代社会では
その結果、不幸になる人が多くなっている
と私が感じていることだけ頭に入れておいてください。

弁護士という仕事がら離婚の場面という切り口からお話ししていきます。

離婚理由で本当によく聞かされるのは、
「夫は自分の気持ちを察してくれなかった。」
というものです。

それを詳しく聞いてみると
「なるほど、それはガサツすぎる。無神経だ。」
という場合もあるにはあるのですが、
その妻の気持を夫が察するということは
微妙なこと過ぎて難しすぎるのではないか
というようなケースの方が多くあります。

この「察しない」ということについて
どんなに離婚訴訟の中で説明を重ねられても
夫は、「どうして妻が離婚したいのか。」について
それでは全く理解をすることができません。
私もわからないのです。
(だからもしれませんが、そのときはそれほど嫌なことではなかったのではないか。後から振り返ったときに、新たな意味づけをされたのではないかと感じるのかもしれません。)

この点妻側の代理人は、もう少し当事者とディスカッションをして
夫に伝わりやすく表現を工夫するべきだと思います。
すっきりした離婚、あるいは再生のためにはそうするべきです。

しかし、家庭裁判所はそのような曖昧な離婚理由でも
夫婦関係は「回復しがたいほど破綻している」と認定して
離婚の判決を出してしまう傾向にあります。
だから妻側の代理人の伝える技術、前提として聴き取る技術は
その必要がないと判断しているのか、向上されません。
離婚訴訟が泥沼化する大きな要因になっていると感じています。

こういう主張をされる妻の一番の問題は
離婚の問題が始まる前に、同居期間中に、
自分の何を知ってもらい、どう修正してもらいたいのか
ということについて、夫に対して全く言葉にしていないことです。

シビアな見方をすれば
・自分は夫から幸せにしてもらう客体である
・だから自分で自分の立場を改善する必要はない。
・夫は自分が何も言わなくても自分のこころを察するべきである。
・その上で夫は夫自身の行動を修正して妻である自分のこころを満足させるべきである。
と主張していることになると思います。

これでは、
夫の男性という性が、妻という女性を支配したいというのではなく、
妻という女性の性の方が、
夫に支配されたい気持ちが満々だというように聞こえてしまいます。
こういう「夫が察しない」という離婚時の主張は
男女平等なんてそんなの関係ないという主張に感じてなりません。

こんな男性依存にしがみつくような主張は
ジェンダー平等の足かせにしかならないと感じる次第です。


第1の私の主張
自分が幸せになるためには、自分の環境を自分で改善する必要がある。
それが大人というものだ。

第2の主張
他人はあなたの心の中はわからない
そのために言葉というものがあるのだ。

第3の主張
男も女も関係なく、自分で意見を言って、
共同生活を心地よいものにすること
これが二人が一緒に幸せになることだ。

<なぜ相手に改善を求められないのでしょうか>

離婚訴訟の場合は、本来夫に主たる原因がないのに
妻が自分の気持ちをうまく説明できないこと
特に自分のネガティブな気持ちの由来を説明できないため
すべての原因を夫に求めるという無茶な視点の働きかけがあり、
妻自身が自分の記憶を改変させていることもあるので、
こういうケースは除外しましょう。
今はこうならないためのお話なので必要ないと思います。

提案ができない原因の1つには、
遠慮というか恐れがあると思います。
「こんなことを言うと、相手の機嫌が悪くなるのではないか。」
「自分がわがままだと思われるのではないか。」
「相手から嫌われるのではないか。」
ということです。

2つ目は
言い方がわからないということがあると思います。
相手の貧乏ゆすりだったり、口を開けて咀嚼をする癖だったり
声が大きすぎてこちらが怖くなるとかに対して、
ただ単に「嫌だからやめて」というのは
「少しきついかな」と思うのかもしれません。
命令みたいに受け止められて空気が重くなった
という経験がしこりになっている可能性もあるでしょう。

3つ目には
自分がお願いしたことで、
自分も何かいわれたら面倒くさいな
ということもあるかもしれません。

<ではどうやって改善を提案するか>

1)心構え

自分だけが我慢することは不満が蓄積して楽しくない
その結果、二人とも幸せな感覚が薄れていく
つまり
相手に修正ポイントを教えてあげるのは、
一緒に幸せになるためだ
という心構えでいきましょう。

おっかなびっくり物申すと夫からは
「ああ、自分のことを悪く言っているのだな。」
と変な解釈をされてしまいます。
堂々とにこやかに、一緒に幸せになりましょう

言い方を工夫すれば、相手単体にとってもいいことしかありません。

2)方法論
全面否定をしない。

相手に何か行動を求める場合全般なのですが、
全面否定をすることはメリットが少なくデメリットが多いです。

「声が大きいからしゃべるな」と言いたくなる前に
「今少し声が大きすぎると思う。ちょっとびっくりしてしまった。」
という方がよほどリアルに、あるいはニュートラルに
つまりは事務連絡的に伝わると思うんです。

ここで「ごめんね」と付け足すことは潤滑油の役割を果たします。
あなたが悪いわけではないにしても、
悪意がないことがわかっているのに、他人に修正を提案することは
相手に動揺を与えるわけです。
その時、「こちらにはあなたを攻撃する気持ちはありませんよ」
という表明が「ごめんね」等の目的です。

英語のNo thank you.
のサンキュー見たいなものです。

夫からすれば「しゃべるな」と余計なことまで言われれば
自分が否定されたと思い反発するでしょうが、
ちょっとボリュームが大きいならば、改善することができますから
改善することに抵抗は少ないのではないでしょうか。

(私もよく言われるのですが、夫側は全く「大きな声」という自覚はありません。言われると意外な気持ちや、自分を攻撃しているのではないかという気持ちになりますが、「大きい」か「小さい」かは、聞いている人が決めることですから、一緒にいる人の心地よい方を選んでも、傷つく必要はありません。また、聴覚というか耳の神経の過敏な人は、少し大きい音でもかなり苦痛を感じるようです。)

また、
「貧乏ゆすりしてみっともないからやめて。」
というよりも
「あら珍しいね。なにかあったの?でもよそでせわしなく動いていると
あまり良い印象を受けないから、もったいないわよ。」
なんていう方が「すまんすまん」というようになると思うけど、どうでしょう。

マイナスを指摘してゼロを目指すように促すことよりも、
プラスを目指そうという方が相手も受け入れられやすいし、
その気になると思います。
自分が否定されているという気持ちになるのではなく
一緒にプラスを目指そうということで仲間として見られている
ということを実感できるからです。

特に相手が自分や家族のために一生懸命やった努力は
否定してはなりません。
「そんな無駄なことに時間とお金をかけてバカじゃないの」
という言い方は「臓物をえぐる悪罵」だと思います。
そこに十分感謝をした上で、あるいは努力に感謝をした上で
少し時間をおいて
「こうすればもっと良くなるのではないか」
という提案をしていくのがより良いと思います。

あるいは、全体としては称賛しつつも
部分的に修正するべき問題の所在を一緒に考える
ということならなおよいのですが、
すいません具体的な例が思い浮かばない。
どうしても否定しなければならない時は
別のことを十分肯定しておいてから切り出すということが
有効です。

要するに、
「その失敗、その不十分によって
私はあなたの評価を下げることはしない
安心して私の言うことを聞けばよいのだ。」
ということを伝える努力なのです。

相手が機嫌を損ねるポイントが
・自分を否定された
・自分の評価を下げられた
・自分の努力を否定された
というところにあるからです。
(人間が傷つくポイントがここにあるわけです。)

ただ、だからと言って
「あなたを否定するわけではないけれど、口閉じて食べて」
とか
「あなたの評価を下げるわけではないけれど、大声で話さないで」
等と言っても意味ないですからね。
ここは言葉で説明すればよいというのではなく
そう思わせない工夫をすると言うことですから。

「ジェンダーを利用する」というのも昔からの知恵です。

夫婦は、全世界、全時代の、男性と女性の代表同士の二人である。
あなた個人の問題であっても女性の性質ということで説明すればよい
という論法です。
「私はそういうの嫌なの」という代わりに
「女性はそういうのは嫌なものなのよ」
というということも相手の機嫌を損ねない工夫だと思います。

つまりあなたが悪いわけではなく
男性はそうするものだからそのことであなたの評価を下げないよと
わかってもらえば良いのだからというアッピールにもなりますね。

そうして相手があなたの話を聞いてくれれば感謝を示す。
あなたの提案で行動を修正してくれればさらに感謝を示す。

この方法は一つにあなたが嫌なことを減らすことになりますが、
相手もあなたに要求するときに、マネをするはずです。
あなたが言われるときに、必要以上にダメージを受けないように
という予防措置にもなるわけです。

こうしてこまめに修正をし合えれば
解決しやすいうちに解決できるので
不満をためることも少なくなるでしょう。

感謝ということも、実は、自分の気持を満足させることではなく、
何かをしてもらった相手に安心してもらうための言葉なのだと思います。
ちゃんと自分の努力が評価されている
自分は人間関係の中で肯定され、尊重されている
という潤滑油なのだと思います。

自分の中で一定の基準があり
この基準を超えた場合はありがとうと言おうとか
この基準を超えない場合は感謝する必要がない
と、「なんでありがとうと言わなければならないの」
という人もたまに見ますが、
どちらが楽しいか、幸せを感じるか
ということで、絶対ありがとう、ごめんなさいが
自然に言える方が幸せになれると思うのですがどうでしょう。

相互に感謝し合うことによって
あるいは自分の要求に応えようと相手が努力するのを見ることによって
とても居心地の良い、安心できる人間関係がカスタマイズできると思います。

大人どうしが人間関係を形成するということは
こういうことだと思うのです。

<夫の操作方法まとめ>

人間は、仲間の中で貢献しているという実感を持てば
本来とてもうれしい気持ちになります。
逆に否定評価をされると
悲しんだり、がっかりしたり
場合によっては評価の仕方が悪いと反発することがあります。

自分はあなたを否定評価していませんよ
ということを上手に伝えて
相手がしたことに感謝を示すことによって

相手はあなたとの人間関係に安心をして
自分の能力を発揮してあなたに貢献しようとするわけです。

おだてられて木に登った豚は
幸せに包まれているわけです。

<最後に>

ここまで読まれた方には本当に感謝します。
どういうご感想を持たれたでしょうか
そんな面倒なことをやる人はいないのではないか
というご感想を持たれた方もいらっしゃると思います。

ただ、これがうまく回り出すと
とても楽しいし、充実感をもてるし
家に帰るのも楽しみになります。

ただ、面倒にならないためには
完璧を目指さないことだと思います。
いろんなコンディションで、できない時もありますし
条件反射的に相手を否定してしまう時もあるでしょう。

そんな時は失敗を大後悔するより先に
謝っちゃえばよいのだろうと思います。

知らん顔して、相手を尊重することを示す別のことを始める
ということも、実際はよくあることです。
話しを変えるということはそういうことです。

いかに家族であっても、最低限の尊敬の念を持つべきだと思います。
自分が他人を動かすときは、敬意を払う必要がありますし、
他人が動いてくれたときは感謝を示す必要があると思います。

言葉をどうして人間が持ったのか
私は、毛づくろい説に賛成しています。
つまり、仲間を安心させるために言葉がある
ということです。
そうやって言葉を使えるようになった人間を
大人と呼べるのだと思っています。

また、相手を動かすことで
自分が幸せになるだけでなく
相手と一緒に幸せになるならば
人間もまんざらではないなと思うのですが
いかがでしょうか。

<どういう男性と結婚するべきか>

忘れるところでした。
どういう男性と結婚するべきか。

何か言われるとムキになって反論するような男性とは
結婚するべきではないでしょうね。
こちらがどんなに言い方を気遣っても伝わらないならば
確実にお互い不幸になっていくことになるでしょう。

こういう男性(女性)は、あまりにも自分に自信がなく
あらゆることが自分を攻撃していると
被害を取り込んでしまう傾向にあります。
自分を守ることに過敏になっています。

自分が何とかしてあげるということはなかなか至難の業ですし
家に帰ると常に緊張しているというのでは長続きしません。

結婚前に相手と十分やりとりをして
こちらがうまく事を運ぼうとすれば、うまくいく
という実感を持てる相手と結婚すればよいと思います。

ただ、100パーセントを目指すと結婚は無理だということも
頭の中に入れておいていただくとなおよいと思います。

自信たっぷりに見える相手というのも警戒する必要があるかもしれません。
本当に自信があれば、自信があるぞということをアッピールしません。
これをアッピールするのは、自信があることを装っているだけの
気弱な不器用な人間である可能性があります。
相手の心をつなぎとめる方法がわからず
結果として相手を否定して縛り付けようとする男性は
こういうタイプかもしれません。

柔軟な考えができて、あなたのことを1番に尊重してくれる
そういう相手をお互いに選ぶと幸せになるのではないか
また、何年経っても夫婦はそうあるように
お互いに努力するべきではないか
今のところそう考えています。

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コロナ禍の経験を活かす リモートワーク、自宅勤務増でDVが増えなかった理由と家族コミュニケーションで本当に必要なもの そしてDVとは何なのか [家事]




年が明けてコロナ禍3年目となりました。思えば一昨年、コロナ禍が始まり、リモートワーク、自宅勤務という勤務体系が増加し、夫が家庭にいる時間が長くなるという変化が生まれました。その際、夫によるDVが増加すると警鐘を鳴らした人たちがいました。新聞なども夫による家庭内暴力の特集を組んだくらいです。
しかし、実際はDVは増えず、現在では自宅勤務とDVを結び付ける議論自体がなくなりました。われらが仙台弁護士会の所管委員会も、そのような警鐘が鳴らされたことで、本当にDVが増えているのだろうかということで昨年特別電話相談などを実施し、実態把握に努めたところ、コロナ禍によるDV相談は増えなかったということが結論だったそうです。

本記事は、どうしてDVは増えなかったのかということの理由を説明します。

理由の一つは予想自体が特定の思想に基づく政治活動であったということ、これは幾分皮肉めいた話になりますが、大切なことなので敢えてお話しすることとしました。
理由の二つ目は、対人関係学的考察で、そもそも現在喧伝されているDVは夫が妻を支配しようとして行われているのではなく、卑近な言い方をすれば仲良くしたいために攻撃してしまうというものであること、あわせて、家族相互に安心感が生まれるコミュニケーションとは質だけでなく量の問題が重要であることをお話ししていきたいと思います。

先ず、第一の理由は、「家庭時間の増加でDVが増える」という主張は、科学的根拠のある見通しではなく、DV相談の需要が高くなるから予算をよこせという政治活動だったということです。コロナ禍で人々の不安が高まっているだろうと当て込んで、「その不安の原因は、夫のDVです。」という決まり文句を言って離婚に誘導するという、いつも個人個人の女性に対して行っている手法をマクロ的に行ったというだけのことです。かなり宣伝活動を行って相談を募集していましたから一定件数相談は増えたと思いますが、詳細を見れば、予算や相談員の増加に見合った相談件数も増えておらず、DV案件が増えたわけではないということは現場の実感のようです。それでも、昨年、文部科学省の審議会である「児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議」という機関では、たった2回のリモート会議を行い、報告書をあげています。その中で、コロナ禍である令和2年の児童生徒の時の原因のトップが受験以外の進路問題と健康問題であり、コロナ前は1番だった家族問題という原因が後退したにもかかわらず、増えた原因についての分析を行わず、夫が自宅にいる時間が長くなったので生徒の自死が増えたというような報告書を出しています。こういう何が何でも夫が家庭の癌だという考え方が滑稽であり、政治的な主張に過ぎないということがわかりやすくなりました。この会議は、増加傾向にある児童生徒の自死予防よりも、家族解体という主張を優先しているわけです。子どもの自死問題について真面目に考える機関が文科省内に存在しないことの象徴として注目されることでしょう。こんなやっつけ仕事の審議会にも税金が使われているわけです。

コロナ禍でDVが増えなかった第2の理由こそ重要です。
但し、冷静に先入観なく考えてみれば、極めて当たり前のことです。つまり、一緒にいる時間が長くなったので、仲良くなった。これだけの話なのです。現代社会では、これが当たり前のことではなくなっているということが問題です。一緒にいると仲良くなるということの意味、構造を理解することは、いま求められていることだと思います。

1)家族解体主義者の考えるDVの原因 男性の支配欲求

「家庭時間の増加でDVが増える」という主張の極端な理由を述べるのは、家族解体主義を主張する人たちです。家族解体主義とは、「家族というものは女性を支配する装置であり、女性は妻として母として家族に支配されてきた。だから、女性の幸せのためには家庭から女性を解放しなくてはならない。」という考えを本当に言っています。この考え方では、「男性は、女性を支配しようという性質がある。」とされてしまいます。だから、長時間夫婦が一緒にいるということは、即ち、「男性が女性を支配しようとする時間が長くなる。」ということになるわけです。だから支配の手段であるDVが増えるという考え方なのです。これが新聞などで、取り上げられて特集まで組まれているということです。また、文科省の審議会で税金を使って、子どもの自死予防よりも優先して取り上げられていることなのです。家族解体主義は、一部の際物思想ではなく、マスコミや国家機関に浸透している考え方だと私は考えています。

2)対人関係学の考えるDVの原因 孤立化防止の防衛活動 知識不足

家族解体主義の対極として、対人関係学の考え方があります。ほとんどのDVとされる事案は、関係を継続したいという欲求を原因として、自分が相手から否定評価されること、相手から愛想をつかされることを極度に恐れて、相手の自分に対する否定評価を打ち消すために、相手を否定してしまうという矛盾が原因で起きているというものです。
だから、自分が家族の一員、夫婦のパートナーとして安心できているならば、攻撃的感情は起こらない。という考え方です。男性に特有の現象ではないということになります。

ところが現代社会は、おそらく物心ついてからずうっと、自分が否定評価されることに不安にさらされて、自分を守ることが私たちの多くの、大きなテーマにされてしまっているようです。例えば職場でも、自分に落ち度があるとは思われないことで叱責され、責任を取らされ、あるいはわけのわからない理由で評価を下げられ、または正当な評価をされず、気をはりつめて周囲の中に溶け込まないと孤立してしまうという不安にさらされ続けているのではないでしょうか。自分がよかれと思ってこつこつ行ってきた努力も、誰かの気まぐれで一瞬にしてなかったことにされてしまう。こういうことが起きている世の中だと思います。常に自分を守ろうとしている意識は、家庭の中に帰ってきてもなかなか消えません。子どもの無邪気な言葉でさえも、自分を否定評価しているのではないかと、おびえて、腹が立って、本気になって否定しようとしているということはないでしょうか。そこには、冷静な思考はありません。「自分が不当に否定されている。→ 自分を守らなければならない。 → 否定評価こそ否定する。」という条件反射的な短絡的な行動です。余裕がないのです。

つい大きな声で反論してしまう。
つい、言葉を選ばないで反論してしまう。
つい手が出てしまう。(これは現代のDV主張では驚くほど少ないです。)
自分が上司から叱責された内容よりもはるかに落ち度が大きいことをやってるのに誰からも否定されないから、教えてやる。という心理もよく見られます。

これらは、職場の影響を家庭に持ち込むという事例です。このように家庭自体に原因が無くても、家庭に中で不安が起きてしまう事例は多くあります。職場の影響のほかには、子どもたちは学校での出来事ですし、大人の場合は体調の変化から不安が生じることも特別なことではありません。

前々回の記事に書いたとおり、私は現代の夫婦は、相手に対して依存傾向が強く、相手から否定評価されたり離別を切り出されたりすることについて、過敏に反応してしまうという傾向があると感じています。

この不安に基づく反射的な反撃は、相手方は攻撃している意識はありませんから、とても驚くとともに、相手が先に自分を攻撃してきたという意識になりますから、やはり反撃しようとするのは無理のないことになってしまいます。家族の間に怒りが生まれ、新たな、裏付けのある不安が生まれてしまいます。

この一連の流れの中のどこを切り取るかで変わるのかもしれませんが、当事者にとっては理由のある反撃としてしか意識できませんが、善意の第三者が後から見ればもったいないいさかいであることがとても多いわけです。

3)それでは、なぜコロナ禍でDVは増えなかったのか むしろ減ったのか

家族解体主義者の「男性は支配しようとする性別である」という差別的な考えに基づけば、コロナ禍でDVが増えるはずです。これが統計的に増えていないむしろ減っているということであれば、「DVが巧妙化して相談ができなくなっている」のだというのかもしれません。そうであれば、従来のDV相談をやめて予算を削り、その分でもっと被害実態をあぶりだす方法をとるべきです。また、家族時間が長くなるとDVが巧妙化するという論法もよくわからない論法です。端的にDVは増えなかった、現代日本の男性に無茶な支配欲に基づく行動は一般的ではなかったとすることが無理のない解釈でしょう。

対人関係学的解釈では、支配欲と言われていたものは、実は関係性を維持するという欲求であり、これがDVとされるものの原因になっているという考え方では、「家庭時間が長くなったために不安を感じるきっかけが少なくなった」だからいさかいが減ったという流れが認められなければなりません。そんなことがありうるのでしょうか。

実はここが、今回一番言いたかったことで、私がコロナから学んだことなのです。
つまり、「家族コミュニケーションの一つの重要な方法は、一緒にいることによってお互いに安心感を持つこと」ということだということです。

これまで私は、時間軸の変化をあまり考慮せず、同じ時間軸で生活を続けることを前提に、コミュニケーションの「質」を高めることに重点を置いて提案してきました。しかし、コロナ禍の人間関係の研究を見ると、質とともに、コミュニケーションの「量」もコミュニケーション効果を高めるということが報告され始めているのです。しかも、一緒にいるということはまさに近くにいるということで、インターネットなどを間に挟まないで、「一緒にいる」ということのようなのです。

家族という人間関係の特徴は、毎日関係が継続していくというところにあります。特に、昼間の仕事や学校や他人との関係という緊張を余儀なくされている人間関係の時間を過ごした後の、緊張を緩めて、食事や睡眠を共有する時間を共に過ごすという関係にあります。
どうやら、一緒にいるということだけで、しかも、リラックスしてよい時間を一緒にいるということだけで、人間は一緒にいる相手に安心感を持つようです。人間の根源的要求である「特定の人間関係の中で安心していたい。」という要求が満足されるようです。

それから、毎日関係が継続するということは、毎日かかわり方の変化が生じ、新しいルールの小さな変更に全員が対応していっていることが起きているようです。こういうことが起きているためか、日々、新たな安心の記憶が生まれていくようです。

そして、リモートワークによって自宅にいる時間が延びれば伸びるほど、ストレスフルな職場などの関係から遠ざかり、自分を守るという緊張感が緩められていくようです。そうすると家族に対する八つ当たりの要素が生まれる機会も少なくなっていくようです。

このような日々刻々と積み上げられていく新しい安心の記憶と、外部的なストレスフルの出来事が減るために、外部の緊張の時間と、内部の緊張緩和の時間が意識の上でもはっきりと区別できるようになるのではないでしょうか。ひとたび、自分の不安の高まりが減り、家族への安心感が高まっていけば、家族から何か言われたとしても、それは自分に対する評価を下げるような危険な意識を持つ必要を感じられなくなると思います。無駄な反撃が起きる理由が少なくなっていく。相乗効果で家庭内が安心できる方向に動いていっているのではないでしょうか。

安心できる仲間と一緒にいる時間が長くなれば、単純に共鳴力、共感力も高まっていくでしょうし、この人のために貢献したいという気持ちも高くなるというのが対人関係学の主張でもあります。

4)コロナ禍が過ぎても安心できる家庭を維持するために

①一緒に過ごす時間が長くなったことで家族の状態がどうなったかを各自が検証する。
 今、私の仮説を述べました。これは一般論ですから、各御家庭に必ずしもきれいに当てはまることは無いかもしれません。どうぞ、それぞれの方々が自分の時間について考えていただきたいと思います。

②良かったと思う経験を意識し、記憶する
 これまでと比べて、良かったと思うことをピックアップしていただきたいと思います。自分が感情的になる時間が少なくなったとか、家族の自分に対する発言、自分が家族に貢献できたと感じること、家族の表情の変化、家族のために使用としたこと等小さなことの積み重ねを記憶されて、コロナ禍が終わって過重労働が始まっても、できることをできるだけ維持することを考えるというのはどうでしょう。
 特にご自分がしたことで、ご家族が喜ばれたことはしっかり記憶しましょう。

③コロナ禍以前の、自分の間違いをあぶりだしましょう。そして、それがコロナ禍が終わったときの自分が犯しやすい失敗だということを予め知っていれば、失敗しにくくなりますし、失敗してもすぐに気が付いて謝ること、訂正することができると思います。



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Kさんからのお便りに返信 離婚調停で妻側の意思決定をしているもう一人の代理人を感じるときの対処方法 夫(妻)が戦うべき相手は、夫婦が協働で戦うべき相手だということ。 [家事]



前にお電話でお話をさせていただいたKさんからお便りをいただきました。
Kさんは、奥さんの典型的な「思い込みDV」によって妻子に会えなくなり、
現在調停中ですが、電話ではお子さんとお話しできているそうです。

少しずつではあるけれど、奥さん本人の歩み寄りが感じられるエピソードが
増えてきたとのことです。
私がこのブログなどでぼんやり考えていたことを
より精緻に再構成して果敢に実践されているとのこと、
もはや私の考えというよりはKさんの理論になっているのですが、
お便りをいただきました。ありがたいことです。何よりの励みになります。

何が事態を前進させたか、
何が事態の前進を邪魔しているか
ということについて考えましたので、共有したいと思います。

1 攻撃より感謝のアクション(感謝の「気持」よりも大切なこと)

離婚紛争を抱えている当事者の方に伝えたいことは
感謝の行動が事態を好転させるという成功のカギになっている
ということです。
私に感謝しなさいということではなく、
妻が軟化した姿勢を示せば、すかさず感謝を伝える
不十分でも子どもとの交流ができれば感謝を伝える
(Kさんのお子さんがとても良い子でうらやましい)

このアクションが、相手に伝わり、相互作用でプラスに作用していくようです。
誰でも不合理な状況におとしめられれば
自分を守ろうとして、怒りがこみあげてくるのは
人間として当然のことです。
それでも、希望をもって突き進む中で
怒る気持ちを見せず(怒りを持っていても相手に見せないということ)、
一つ一つのエピソードを「事態打開の通過点」だと認識できることによって
着実に前に進んでいくことができる。
そういう印象を受けます。

2 離婚調停が建前通り機能しない本当の原因、戦うべき本当の相手

今回、Kさんの手紙の中に
私が、時々ぼんやり感じていたことが
極めて正確に言葉で記載されていたので
これはぜひ多くの方々と一緒に考えてもらいたい
そう素直に思いました。

どちらかというと子どもを連れて夫と別居し、
居場所を隠して保護を受け
支援を受けて離婚調停を申し立てた
お母さん方にこそ読んでもらいたいのです。

先ず、現在の離婚調停の問題点の第一は
「離婚についての、あるいは家族の在り方についての
実質的な話し合いになっていない」
というところにあると感じています。

申立人本人が裁判所に来ない。
代理人だけが調停期日に出頭するのです。

本来の離婚調停ならば
離婚を要望する申立人側も相手側も
「どうして離婚をしたいのか」ということを
できるだけ具体的な形で
話し合いの「まないた」に乗せるべきです。

少なくない事例で
「離婚をしたい気持ちは固く変わらない」という結論だけが
他人から幾度も声に出されているのですが、

素朴な感情として、どうして
ということが知りたいわけです。

割と弁護士になってそれ程の期間がたたないうちから
私は気が付いていたのですが、
本当に離婚したいのであれば
ここを丁寧に説明し、相手に対して最大限の理解を示すことが
早期の遺恨が残らない離婚になる
離婚後のこまごまとした問題解決にも役に立つのです。

これをしないのだから
離婚手続きは長期化し、遺恨が残り
離婚後の処理も弁護士が間に入らないと進まない
という状況になると思っています。

離婚という当事者や子どもにとって重大なことを決めるのだから
大人の責任として、相手に説明する責任があると思います。

しかも本人が調停に出席しないで
他人である弁護士だけによって、「離婚の意思は固い」
ということを繰り返されるだけですから
不信感だけが強くなることは当然です。

これでは家事調停はなりたちません。

ただ、
Kさんのケースや私の代理人として担当した別件では
こちらの働きかけ方によっては
妻の「夫よりの感情」が漏れて出てくるような印象を持つ出来事があることがあります。
妻の譲歩が突然現れることもあるのです。
弁護士が書面などで主張していることと
まるっきり矛盾する好意的な行動を提案してくることがあります。

妻側の弁護士が、妻の時折見せる夫への配慮、心情を
調停などで情報提供をすることがあるのです。
でも、それにもかかわらず、相変わらず妻は出てこないで
その弁護士が妻の離婚の意思は固いということを繰り返します。

Kさん曰く

裁判所に来ないもう一人の代理人がいるみたいだ

まさにそんな感じです。
但し、離婚を切望している妻であっても人間としての情があるわけですから、
夫否定一辺倒ではなく、肯定的評価をコメントすることもあり、
だからといって離婚という結論は変わらない
という場合ももちろん多いのです。

妻の弁護士が揺れる妻の心情を
大体は妻の強い要望に押し切られる形で
伝えることが少なくありません。

こういう肯定評価を最大限大切にさせてもらい
仮に離婚になったとしても
子どもとの関係をより広く自由に行うための
手掛かりにするということも大事なことです。

でも違うのです。

こういう、妻の要望を伝えようとする弁護士の他に
もう一人の代理人がいて
妻の代理人よりも、妻本人よりも
離婚の意思の固い人間がいて
離婚に向かうスピードを緩めることを許さない監視者がいる
そういう感覚を持つことが確かにあるのです。

妻の意思決定に干渉し、代理人の活動に口を出す
そういう人間がいるということならば理解ができる
そういう現象は確かにあるような気がします。

これ、私のホームであるS裁判所での事件では
というより、S弁護士会の弁護士が代理人に就かれた場合は
あまり感じないのです。
他県の裁判所で多く感じるということに気が付きました。

S弁護士会の弁護士は、男女問わず、男女参画政策との距離を問わず
本人の意思を尊重し、自分の頭で事件処理をなさっているのでしょう。

それでもS家庭裁判所で、
その「もう一人の代理人」を見かけたことがありました。
夫も知らないその女性は、おそらく
婦人保護施設のセンセイという職業の人のようでした。
NPOの職員というわけです。

婦人保護施設というのは、
売春防止法が制定され、管理売春が禁じられ
職と住居を失った元売春婦の方々を自立させるための施設でした。

文芸作品等を読むと施設ではたらく人たちは二種類の人がいて

社会構造によって売春を余儀なくされた女性に
幸せな生き方を提供しようという理想に燃えた人と

売春という女性として屈辱的な仕事をするしか生きていけない
男性に従属して生きるしかない女性に対して
矯正してまともな人間にしてやるという
そういう発想を持った人たちがいたようです。
つまり、自分達女性の足を引っ張る人たち
という見方があったようです。

現在、夫のDVがあった場合の保護施設が
この同じ婦人保護施設なのです。
DV保護のための作られた施設ではなく
元売春婦の保護施設をそのまま利用しているということになります。
それは建物を利用しているという形の問題だけではなく、
保護を受ける人たちに対する見方もそのままだということです。

そうでなければ、元売春婦の保護施設を
そのまま利用しようという発想になるわけはないのです。
夫との結婚生活が
売春宿で売春してきたことと同じに考えているわけですから
無茶苦茶だと思います。

だから施設の職員は矯正を担当する少年院の職員みたいなものですから
センセイと自分たちを呼ばせたいわけです。
(施設によってここは異なります。)

ここまで素材がまな板の上に上がると
以下の通り、すべてがつながります。
原則に反する調停の形の理由が見えてきます。

1)
妻は、自分の体調の理由が主たる理由で
特に出産直後に、漠然とした不安感が生まれ
この不安感から逃れたくてたまらなくなります。
当初は夫に相談をすることも多いのですが、
気の迷いではないのでなかなか解決の方法が見つけられないでいます。
2)
妻は経産婦というか、頼れる女性に対して安心感を抱くので
公的な相談所に相談に行きます。
公的な相談所が家族解体が女性の幸福だという考えの影響を受けていれば
「それは夫の精神的虐待がある。DVだ」と何の根拠もなく言うわけです。
真面目で正義感を持っているだけの人はマニュアル通りに言うわけです。
とにかく不安から解消したいと切望している妻は、
だんだんと夫に嫌悪感や恐怖感を抱くようになります。
つまり、不安の原因が夫にあるかもしれないと意識するようになります。

夫から離れることによってこの不安が解消されるかもしれない
と思い込むようになるわけです。
思い込みDVの完成です。
3)
妻は不安を解消したいという一心で
DV相談所に言われるがままに子どもを連れて別居し
夫から姿をくらまし保護施設に収容されます。
収容所では、離婚調停や保護命令の手続きを紹介され
法テラスで弁護士の援助も受け
離婚調停などを申し立てます。
4)
中には、このあたりで、不安が何も解消されないし
生活が不自由であることに気が付いて
保護施設を出て夫の元に帰る妻、脱走する妻も現れます。
5)
婦人相談所は
逃げ出す女性は男性に対する依存傾向が強いという
情けない女性だとみなすと同時に
逃げ出しの予防措置をとろうとするわけです。
結局確実に離婚させようと
「正義感」を発揮してしまうわけです。

先ずスマートホンなどは施設入所の段階で取り上げ
夫と連絡をとれないようにします。
そのままにしておけば夫と連絡を取るだらしない女だと思っているので
自分が保護した女性を信用していないのです。
自分で考える力のない人間だとみているから
自分で考える余地を奪おうとするのです。
自由を奪っていると言えるのではないでしょうか。

保護施設と関係の深い(付き合いの頻繁にあるお得意様の)
弁護士を妻に紹介し、離婚調停などを申し立てさせます。
別居した日の直後に申立書の日付が記載されていることが多いです。
じっくり離婚しかないのか考える時間を
与えられていないわけです。

保護命令の申立書の用紙も施設に備えおき
妻に自分で保護命令を申し立てさせるところも多いようです。
保護施設の職員のアシストもあって作成するのですが
法律家からすると、稚拙で必要事項も記載されていないような
内容の申立書です。
ずさんな申立にもかかわらず、
かつては裁判所は今よりも頻繁に保護命令を出していたようです。

これが正しければ、申立人本人である妻を
調停にも出席させない理由は明白です。
調停の場で妻の本音が出たら困るからです。
夫の元に戻ることを思いつかせないという戦略なのでしょう。

夫への嫌悪感、恐怖感があるから裁判所に来られないと裁判所に話すのは
それが真実の気持ではなく逆の気持だからという場合がありそうです。
(もちろん、夫に理由があり、そのような感情になる
古典的な離婚申立てももちろん少なくはありません。)
7)
但し、完全に保護施設に収容されてしまう場合より
実家や実家の近所で居住している場合の方が
夫の働きかけに対しての良好な反応が
漏れてくる確率は多いようです。
8)
ここからは想像なのですが、
おそらく妻が弁護士と打ち合わせをする際には
婦人保護施設のセンセイも同席して
妻の決意が揺らがないように監視しているのでしょうね。

徐々に妻抜きでセンセイと弁護士が打ち合わせをして
妻にはセンセイから連絡が入り
必要な資料を取り寄せて弁護士に渡しているのではないでしょうか。

弁護士との打ち合わせや調停の前の打ち合わせなどでも
決意が変わらないように妻に働きかけをしている場合もありそうです。

そしてこれらのセンセイの行動を
「支援」と呼んでいるのでしょう。

<ではどうするか>

このような仮定が間違っていようと
このように「もう一人の代理人が存在している」ということは
とても役に立つ想定ということになります。

つまり、
今の事態を引き起こした元々のきっかけは
夫婦関係かもしれませんが、
事態を悪化させた原因として
もう一人の代理人が存在すると想定するということです。

夫はもう一人の代理人と、妻のこころをめぐって
綱引きをしている場合がどうやら多くありそうです。

怒りは、もう一人の代理人だったり
夫婦関係で不具合を起こしただけの女性を
売春婦と同じように扱っている国家政策に対して向ける
大いに向けるということ、これが第1ステップです。

もう一人の代理人は、離婚が成立した後の面倒を見ない
期間限定の「支援」であることが多く
途方に暮れた元妻が色々なところに相談しますが
離婚をした以上は解決する方法がありません。
離婚訴訟などで、夫はたいそう傷ついていて
その怒りの対象が妻に行っていますし
色々なお金を負担していますから
妻と連絡をすることさえもこりごりになっています。
子どもを抱えて途方に暮れています。

その先を考えると
妻子を守るのは夫の役割であり
そのためには正しく戦う相手に標的を定めなければなりません。

すると調停に出てくる代理人さえも形式的なものに過ぎないのだから
あまりムキになって相手にする必要はなく
漏れ出る情報を漏らしやすくするということが得策です。

あるべき調停の姿に戻すために調停委員には一緒に考えてもらう。
「本人が出てこないで、本人の意思がわからないなら
 調停は成り立ちませんね。」
と共感を引き出すということが正攻法だと思います。

私は申立人が出頭しない調停は、相手方が同意しない限り
期日を開くべきではないと考えています。

そうして、妻から攻撃されているわけではないという意識をもって
妻に対して、自分の存在が安心できるものだということを
準備書面や陳述書を使ってアピールしていく。
抽象的に言えばそういうことが正しい戦略のようです。

綱引きをしているのに
悪の張本人が妻だというような主張立証をすると
益々妻のこころはもう一人の代理人の方に傾いていきます。
「思うつぼ」ですね。

もちろん、必ず成功するわけではありません。
しかし、そこに可能性があるならばやってみる価値はあると
参考にできるのではないかと
そういうケースもあるのではないかということで
ご紹介してみました。


ところでKさんはお怪我をされたということで心配です。
一日も早いご快癒をお祈り申し上げます。

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「子ども家庭庁」の名称に賛成する。安心して帰ることができる家庭を意識的に育んでいく政策を進めてほしい。子どもから家庭を奪わないでほしいと願う意味 [家事]



政府は、子ども家庭庁という機関を創設するそうです。とても素晴らしい政策になる可能性があると期待をしています。
子ども一人一人が健全な成長を遂げることは、国民一人一人の幸せに直結すると思われます。

名称については、インターネット上で議論があるところですが、私は「家庭」という文字をつけることに賛成です。
ここでいう「家庭」のあるべき姿としては、「その中にいることで、安心できる人間関係」、「どんなことがあっても、自分が見捨てられることがないと信じ切ることができる人間関係」ということになると思います。また、その意味で、ここでいう家庭とは必ずしも親子という限定的な意味ではないと考えています。

子どもという概念と家族という概念は、政策立案及び執行にあたっては、切り離すべきではないと考えています。子どもは単体で生きているわけではないからです。子どもであっても、「自分」を意識する場合、家族や、年齢によっては友人や学校の先生などの、「他者との人間関係の中にいる自分」ということを意識し、自分という概念を形作っていくわけです。
特に子どもという時期の人間にとって、家族はとても影響力が強いわけです。だから、家族の在り方が子どもにとってふさわしい在り方にすることが、その時の子どもの幸せに直結するし、成長するという子どもの特性を踏まえても必要なことであるということは間違いないと思います。

例えば、両親が離婚したり別居したりした子どもは、一緒に住んでいない方の親とも交流を持ちたいと思い、交流が持てないことに不満を持つという調査結果があります。一緒に住んでいない親と定期的に交流していない子どもは、そうでない子どもと比べて自己評価が低いという統計もあります。このために日本も民法を改正し、離婚をする際には面会交流の方法を親に決めさせることを原則としています。

この点、「子どもの独自の権利を認めるべきだから、家庭と切り離して子どもの在り方を考えるべきだ。」という立場から、家庭という文字を庁名に入れるべきではないという反対説の論拠があります。しかし、家庭という名前を入れたからと言って、子どもの独自の権利を否定するということにはなりません。心理学的にあるいは発達科学的に、子ども、子どもの成長と家族の関りを関連付けることは必要な考えだと思います。
子どもの独自の権利を考えるからこそ、親や社会に対して、子どものために家族の在り方を見直していこうという問題提起ができるのだと思います。

また、インターネット上で話題になっていることとして、家族から虐待を受けた経験がある方が、家庭という文字に心理的な抵抗があるということで、家庭という文字を削ることを提案し、一度は政権党のチームもこれを受け入れて子ども庁という名称にする動きがあったとのことです。
拝聴し、考慮し、検討の材料とするべき話ではありますが、およそ国の政策決定の際に決め手にするべき要因にはならないと思います。国家政策ですから、原則的に推進していく課題と、そこに不可避的に生じる個別の不具合への対応ということは当然あるわけです。政策決定にあたって必要なことは、現状の日本の状態がどのようなものであるかという分析と、それに基づいて何をどのように修正するかという政策方針の決定という科学ではないでしょうか。個人の体験に基づいて政策の原則論が左右されるということはあってはなりません。寄り添いとか優しさとかそういった感情は大切な感情です。しかし、政策を立案する場合は、感情を大切にしつつも、国家情勢という視点から政策を進める必要がどうしてもあると私は思います。

私は、現代の日本の社会病理は、人間が、自分が安心して帰属できる人間関係が存在しないという対人関係の現状が大きく影響としていると考えています。学校でもいじめを受けないように親も心配し、子どもも気を使い、仕事を始めてもいつまでこの職場で働くことができるか不透明な非正規雇用があり、正規雇用労働者であっても、偶然に左右され、上司の主観に左右される業績評価によって、自分が不当に低い評価を受けたり、解雇におびえたりしているわけです。家庭においても、子どもに良かれと思いながらも、厳しい就職状況を背景にして、高い学歴を身につけるという方法論によって、子どもに高いハードルを押し付けているような状況もあるのではないでしょうか。子どもに限らず、人間の多くが、自分のよって立つ場所、自分のありのままに過ごしてよい場所が無い、四六時中緊張していなければならないという有様ではないでしょうか。多くの人間に、自分がいつか、この仲間から切り捨てられるのではないか、自分の能力が高いことを見せつけなくてはならないのではないか、仲間が自分よりも優秀であることに不安を感じてしまう、そういう焦りや不安が蔓延しているというのが今の日本だと思います。私は、この不安や焦りが社会病理の温床だと思っています。

人間が、安心して過ごす場所を求めているというのが現代社会だと思います。安心して過ごすことができる場所の第一の候補は、消去法で言えば、やはり家庭なのだと思います。

こういう考えに対しては、「家庭にはいろいろな形がある。虐待をする家庭もあることだから、家庭を改善することは効果が期待できない。」という反論が考えられます。すべての家庭で子どもにとって居心地が良い家庭にすることは確かに難しいでしょう。
しかし、だからといって、「子どもが安心して生活する家庭を育てる」という政策が重要であることを否定することはできないと思います。
そのことについて説明をします。

たとえば、児童虐待という言葉を一つとっても、私は、国民が「虐待」という言葉によって、少なくとも二つの誤解をしていると感じています。あたかも、「虐待」と「しつけ」には、完全な仕切りがあるという誤解が一つです。もう一つの誤解は、子どもを虐待する人は、特別な思考をする人、特別の性格、人格を持っている人であり、自分とは別の種類の人間であるという誤解です。いくつかの児童虐待事件に接して思うのですが、例えば児童相談所に、児童虐待があって子どもを引き離される人の例を見ると、そうではないという思いが強くなります。
例えば、危険なので子どもが近づいてはいけない沼があり、母親からそこにはゆくなと再三言われているような場合に、友達と遊んでいる流れで沼の近くで遊んでいて、ついつい時間を忘れて遊んでいて遊んでいたとします。母親は、感情的ではなく、二度と沼に近づいてほしくないために、子どもに手を出させて手を叩くということをしたとします。体罰だから虐待だとする人もいれば、その程度の痛みは母親の心配を伝えて、命を守るためには許されると考える人もいると思います。私は、子どもの年齢や性格、母親の育児補助がいない等の事情があれば、子どもの命を守るためには、子どもが危険に近づかないために許される懲戒だと考えます。懲戒の後のフォローは考えなくてはなりません。
例えば。何かの罰として子どもに食事を与えないことは虐待であると思いますが、例えば約束を守るということの大切さを教えるために、約束を果たしてから食事をするということは、その約束を果たすことの難易度や所要時間に照らした場合は、認められることもありうると思っています。もちろん、その場合は、兄弟には食事をさせて、せめて親の一人は一緒に食事を遅らせる等の対応は必要だと思います。
例えば、子どもが不道徳な遊びをしているときに、こんなことをやっていたらダメな人間になってしまうとか、夜遅くまで寝ないと成長に影響が出てしまうということを親が子どもに言う場合でも、子どもがひどく恐怖を感じてしまう場合もあるわけです。言い方によっては精神的虐待になるかもしれませんが、子どもにとって必要な説教だという場合もあるわけです。

とかく児童虐待事件というと、極端なケースばかりが報道されます。しかし、児童相談所が介入する場合は、そのようなわかりやすいケースばかりではありません。私から見ると、虐待としつけ、体罰としつけというものは、それほど完全に区別のつくものではなく、連続しているのではないかと考えています。そして、例えば親が会社で理不尽な叱責を受けていたとか、子どもが友人と喧嘩したとか、色々なタイミングが影響して、子どものこころに影響が残る場合とポジティブに受け止めることができる場合と、偶然に左右されることがあると感じています。
つまり、私も虐待をしてしまうこともあれば、あなたも虐待をしてしまうタイミングがあるかもしれないということなのです。虐待というのは他人事では決してありません。完ぺきという御家庭がないのであれば、みんなで家族という人間関係を安心できるものに育てていくという国家政策が必要だと思うのです。

子どものこころや成長にとって必要なことは、虐待をしないことというよりも、なんやかんやあっても、安心できる家庭があることということになるはずです。絶対自分は家族からは見捨てられることはないという確信を持つことだと考えています。これさえあれば多少の親子関係のぎくしゃくがあっても、子どもは自尊感情を低下させることはないでしょう。また、学校や職場で理不尽な思いをして傷ついても、「自分には帰るべき家庭がある。」ということで精神的ダメージを軽減することができるはずだというのが私の考えです。

それから、親の虐待については、知識不足ということが大きく影響としているように感じます。偏った知識、ある状況には対応できる優れた対応方法でも、その人の家庭で行ってしまったら子どもの不安を招くだけだというような対応をした形の虐待も多く見受けられます。それから、親のその時の社会的立場だったり、職場での人間関係だったり、あるいは内科、外科、精神科的な健康状態ということも大きく影響をしていると感じています。
だから、親の健康状態を悪化させないこと、対処方法の選択肢を増やすこと、精神的安定なども、子どもの幸せに直結することになると思っています。何よりも親の育児を様々な側面から支援することも、子どもの幸せにダイレクトにつながっていくことだと思います。

日本の家庭の多くは、「伸びしろ」が期待できる。こういう状態だと思います。

もう1つ、無視してはならない問題があります。親と同居していない子どもが存在するという現実です。原則的政策を進めるにあたっては、必ず少数者が生まれるわけで、その少数を無視してよいということにはなりません。
しかし、子どもにとって家庭が大切であるという理解は、親と同居していない子どもにとっても有益になるはずです。子どもにとって何が大切か、家庭とは何かという問いに対して、「安心して暮らせる人間関係、絶対に見捨てられないと信頼しきることができる人間関係」であると考えることが必要です。そういう風に考えられるのであれば、親と一緒に暮らしていなくても、親ではなくとも、固定の人間関係の中で安心できる状態で生活できることを目指すべきだということになります。ヨーロッパでは、このような考え方が第2次世界大戦後には主流の考え方になっています。養護施設や病院などで、世話をする担当者がくるくる変わってしまう状態では子どもの精神状態が安定しないとして、抜本的な改善が進められました。日本でも、さまざまな困難なポイントがありながらも、もっと改善を進める契機になると思われます。
さらには、壊れない家庭を作るという選択肢を提起するということにもつながると思います。様々な国家政策の中で、これまで家族というものが軽視されて続けてきました。家族に問題があれば解体するという発想が優位になっていたような印象すらあります。子どもにとって家庭が大切であるならば、それにふさわしい家庭を作る方向で政策を進めることが期待されます。親に対しても、子どものために努力をしたり、我慢をすると言う選択肢を臆することなく提起するべきです。親だけでなく、社会全体が子どもから家庭を奪わないということを第一次的な目標にしてほしいと切実に感じています。

子どもから家庭を奪う最大の問題は過労死等の親の死です。私も過労死啓発シンポジウムなどで強調しているところですが、過労死を筆頭として、働き方が家庭に大きな影響を与えています。子ども家庭庁の事例や調査の蓄積をもって、親の働き方の問題について、他の省庁や社会に対して問題提起をすると言うことも素晴らしいと思います。学校や地域、受験制度等についても、子どもの利益という価値観から意見を述べてほしいと願っています。これまでこういう発想、立場の機関はなかったと思います。子どもの利益を図る横断的な国家機関ということは、こういうことをまさに求められているということになると思います。

子ども家庭庁という名称に、以上のことから私は大賛成です。色々な意味で、子どもから家庭を奪わないでほしいと思います。子どもの利益を基軸に、様々な国家政策が展開されていけば、日本という国はだいぶ住みやすい国になっていくと思います。

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DV法の保護拡大の報道に接しての危機感を表明する。家族制度解体に向かう亡国の法律となる危険があるということ。国家としてあるべき政策とは。 [家事]




配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(DV法)が拡大の方向で改正される動きがあるらしい。

私は、この法律実務に関与した経験のある弁護士として、この改正によってこれまであったDV法の危険がより深刻化するのではないかという懸念があります。その懸念をここに記しておきます。

<現行法のおさらいと改正の動き>

今改正の動きがあるのは
保護命令(DV法10条)と呼ばれる制度の拡大です。
保護命令は、
A:すでに夫婦等が別居している場合は、6か月間、被害者(DV相談をした相談者という意味)の住居、勤務先などに近づくこと、付近を徘徊することの禁止命令
B:申し立て時夫婦等が同居している場合は、加害者(被害者の配偶者等という意味)を、2か月間自宅に立ち寄らせないという命令
を命じることです。

罰則として1年以下の懲役または100万円以下の罰金があります(DV法29条)。

但し、すべてのDVではなく、
① 身体に対する暴力又は生命等に対する脅迫のある場合で、かつ、
② さらなる身体的暴力によって、
③ その生命又は身体に重大な危害を受けるおそれが大きいとき
という条件のすべてが認められなければなりません。

今回の報道では、上の①,②,③のどの部分が改正されるのかはっきりしませんが、①が改正されることは間違いないことになります。

問題は、②,③も改正されてしまうかというところにあると思います。ここが不明です。ただ、読売新聞の報道(司法関係の報道では安定して正確だと感じているため)では、「内閣府によると、2020年度に政府のDV相談窓口に寄せられた内容のうち、身体的暴力は約3割にとどまり、精神的暴力が6割近くを占めた。精神的暴力によって心的外傷後ストレス障害(PTSD)など深刻な被害を受ける恐れもあることから、政府は保護命令の対象に加える必要があると判断した。」
とされており、生命または身体に重大な危害ということの中に、PTSDの発症の危険が含まれることになるということも想定しなければならないと思います。
そうすると、②の条件も、PTSDは、必ずしも身体的暴力によって起きるのではありませんから、PTSDを発症させる外傷体験があれば足り、身体的暴力を要件とする必要がなくってしまう可能性も出てきてしまいます。逆に身体的暴力の要件は温存するという考え方もないわけではないでしょう。身体的暴力がある時に限って、PTSDの発症の危険も考慮することにしてバランスを保つということです。

<現行法の特徴 バランスのとり方>

この通り、現行法は、被害者保護のために
保護命令を発令して、加害者とされた者に対して、
・行動の自由を制限する(憲法13条)
・居住の決定権を制限する、(憲法22条、29条)
・個別の裁判所の決定で刑罰の対象となる行為が定まる(憲法31条、13条)
という強い効果を与えていることがわかります。

これとのバランスをとり、人権を保護の観点から
・そもそも身体的暴力、生命に関する脅迫の場合に限定して、保護の必要性が明白であり、かつ、国家という第三者が介入する基準を明確にする。
・さらに保護命令が強い制限効果を有するため、加害の内容を身体的な暴力であり、かつそれが生命や身体への重大な危害の場合という明らかに不道徳な場合に限定しているのです。

このようにおよそ法律は、
一方を保護すると他方の権利侵害が起きることになることを踏まえて
バランスを取りながら、保護を図るものです。
理性的な議論が必要になります。

確かに人権侵害のような配偶者加害行為から、被害者は解放されなければなりません。しかし、本当に配偶者加害行為があったのか、簡単にはわかりません。
例えば妻が浮気相手と結婚するため今の夫と離婚したい、離婚原因が特にないから、暴力があったことにして、保護命令を出してもらい、離婚調停や裁判を円滑に進めて、首尾よく不倫を成就したい
というような欲望のために、夫の財産や行動を制限しないようにしなければならないのです。こういう事件は結構な割合であると実感しています。

現行法の具体的なバランス感覚が、身体的な暴力、生命を脅かす脅迫があった場合に限定するということでした。

<現行法の問題点>
実務家の体験や保護命令手続きの現状からすると、現行のDV法の保護命令の手続きはとても大きな問題があります。

第1の問題 本来バランスをとるために必要である、上記①,②、③が極めて曖昧であっても保護命令が出されているという現実です。
 実際に保護命令が出された問題でも
申立人(妻)の主張が「激昂」、「暴力をふるうふり」、「近づく」、「周囲のものを叩く」、「蹴るしぐさをする」、「激怒し口論」、「はだしのまま体を引きずって突き飛ばす」、「乱暴な言動」で、これのどこが身体的暴力、命の危険のある暴力になるか訴訟行為としては全くわからないというべきです。
具体的な内容はほとんどなく、その場面を体験していない申立代理人の評価がだいぶ混じった内容となっています。別の事案でも、帰宅時に玄関に立っていた妻を夫が強引につかんで廊下に上げたなどと主張されたことがありますが、午前零時を過ぎて酔っぱらって帰ってきた妻を介抱するために家に上げたことが暴力とされていたりします。ハサミをもって追い回したという主張がありましたが、犬の毛のスキばさみをもって犬を探したことをもって命にかかわる重大な危険があると認定されてしまっていたりしています。また、何年か前のもみ合いをもって身体的暴力があり、今後の暴力によって生命身体に重大な危害があるという決定もよく目にするところです。
現在でも身体的暴力という要件は曖昧なまま運用されていることが散見します。
この結果、抗告審や再度の保護命令の際に、保護命令決定が否定されることがかなり多くあります。保護命令を出した当の裁判官が全く同じ申立書に対して、取り下げを説得したという事案さえあります。前の保護命令では相手方の夫は弁護士を依頼していなかったのです。代理人が付かないと法律を無視して保護命令を出すぞと言っているようにしか聞こえませんでした。
こんな曖昧な暴力認定によって、主に夫は、自分の家に2か月も帰れないという状態となり、帰ってしまうと1年以下の懲役や100万円以下の罰金が科せられるという犯罪者となってしまうのです。

第2の問題 防御の手続きが奪われる運用がなされている。
  これは前に述べました。
やっぱり保護命令手続の現状の運用はおかしい
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-03-12
   から続く一連の記事

  簡単に言うと、相手方には、木曜日に裁判の呼び出しが普通郵便で送られてきます。届くのは金曜日の午後か土曜日。働いている人は金曜日の夜以降に封筒を受け取ります。驚いても土曜日、日曜日に弁護士に連絡が取れません。月曜日に事情をよく分かっている弁護士にたどり着くことも至難の業です。そして、火曜日の何時に裁判所にきて申し開きをせよと命じられている内容を読んで、そのまま行ってもちんぷんかんぷんで何を言ってよいのかわかりません。必要な反論もできないまま保護命令が出されてしまうのです。だまし討ちのような例はたくさんあります。
  これまで真面目に生きてきた人間が裁判所に出頭を命じられるだけでもパニックになるでしょう。裁判所で自分を守るなんてことは普通の人では無理な離れ業なのです。

第3の問題 男性の申し立てが受け付けられない男女差別
  保護命令は事実上、女性だけが申立権利者になり、男性が申し立てようとしても受理されないということがあります。受付で笑われて相手にされなかったそうです。
  これはおそらく、「女性がひ弱な力で暴力をしてきても、男子たる者は、体力で制圧して自らをかばい、女性の暴力をやめさせるべきだ。お上にお願いするなんて筋違いだ。」という意識があるのだと思います。この意識は極めてジェンダーバイアスがかかった問題のある考え方であり、そもそも配偶者加害の被害について何も理解していないことを示しています。
  妻のヒステリックな言動や暴力に対して、逃げ場を見つけられず心理的に追い込まれている男性はたくさんいます。彼らは様々な理由から心理的に暴力を行使できないのです。心理的に暴言や暴力を受け入れてしまうのです。また、妻の暴力によって夫が死亡するという例はよく報道されているとおりです。妻は暴力や共犯者を使って夫を殺しているようです。夫婦間殺人で実際に男女差がそれほどあるという統計は無いように思われます。
  要するに、DVを担当する公的実務の担当者は、未だに「男性は体力で女性を圧倒するべきだ。」と考えている問題があるということになります。

<現行法の問題点を増悪する可能性のある改正>

曖昧なまま、居住権、財産権、行動の自由を制限され、名誉を棄損されるという問題点は、「身体的暴力」や、「生命身体の重大が危害」の解釈が曖昧な点に理由がありました。印象として、「申立人が言えば、明確な反論がない限り、そのままその存在が認められた」言い得ということが少なくありませんでした。そのまま自宅に立ち寄れず、子どもの安否も確認する手段がなく、DV加害者のレッテルを貼られるわけです。
おそらく、今回の改正を後押しした関係者とは、こういう無理な主張をしなくても保護命令を出すために、モラルハラスメント、精神的虐待という概念を導入するということが必要だと感じていたのでしょう。現在でもほとんどの保護命令の事案がこれですから、そういう主張は目に見えるようです。
身体(人間の体)に対する暴力(不法な有形力の行使)という明快な意味を持った概念でさえ、曖昧なまま手続きは勧められます。そうであれば、モラルハラスメント、精神的虐待というような曖昧な概念はますます曖昧に手続きが運用されるようになるでしょう。
本当にそれがモラルハラスメントや精神的虐待にあたるのか不明なことが多くあります。確かに、大声で罵倒して土下座を強要したり、正座を崩したことを理由として怒鳴りだしたりする場面を録音録画しているならば明確ですが、身体的暴力ですらそのような証拠は求められていません。具体的な例を出せば、妻が夜間長時間連絡をしないまま、どこかにいなくなってしまった。帰ってきても、何ら謝罪もない。夫婦はリビングのテーブルに座って、夫から連絡が無いと心配するのだ、連絡が欲しいと言っても妻は口も開かない。事情だけでも説明してほしい等と言うやり取りを1時間近くしていたとします。場合によっては小さい子どもを連れたままいなくなっていたとします。場合によっては子どもをほったらかして、夫のいない家に留守番させていたとします。子どもにとっても良くないということを説明をしていたら、それは精神的虐待になるのでしょうか。ある程度子どものことを想って攻撃的な表現を使った場合はやはり保護命令の対象となり、家から出ていかなくてはならず、子ども安否を確認するために家に戻ったら懲役や罰金となるでしょうか。実際にこういう例はありふれています。実際に起きている保護命令の事案というのは、こういう事案が大多数だということが実務家としての実感です。

PTSDの概念の曖昧さ

PTSDが裁判所においても乱発されていて、司法が混乱しているという問題はつい最近述べました。
簡単に言えば、PTSDという精神障害が発生するためには国際病類分類上、外傷体験という誰でも強い心理的圧迫となるような体験が必要で、それは戦争体験や人質、強姦などの強烈な被害だとされています。しかし、現代の裁判所に出てくる診断書のPTSDは、被害者が体をかがめたところに加害者の膝があったという出来事を理由にPTSDの診断をするような状態です。本来要件が厳格になるはずの外傷体験は裁判の場においても曖昧に運用されていることが実情です。PTSDでも保護命令が出るというならば、まずます運用は曖昧になっていくことは間違いありません。

男女差別の問題

法律相談や離婚事件を担当した実感としては、モラルハラスメントや精神的虐待を行うのは、男女差はなく、むしろ女性の方が行為件数としては多いと思います。
本当にこの改正を進めていくのであれば、男女平等(憲法14条)の観点からは、男性からの申し立てについてもきちんと受理するように実務を改めなければなりません。裁判所だけでなく、警察もそうです。形式的申立要件がそろっているのに受理をしない場合は、罰則を設けるべきだと思います。また、女性によるモラルハラスメントや被害例についての研修も義務付けるべきだと思われます。
 私は、裁判所がこれまでの保護命令手続きのような緩い手続きを継続していくならば、改正の中身によっては、女性に対する保護命令が男性に対する保護命令よりも増える可能性があるとさえ感じています。

<改正の目的に関する疑問>

もし報道のとおり、DV被害の相談の大半が身体的暴力以外だったとするならば、それは法律の効果が表れたのであって、喜ぶべきことであり、法律を強化するべきことではありません。
それなのに、保護命令を広く緩くするということならば、相談機関の仕事のために法律を改正しようとしているように感じてしまいます。
また、PTSDになることを防ぐ必要があるということも法律の目的として説明されているようです。この点については、反対できないことなのです。しかし、いつも思うのですが、どうして配偶者などの関係に限定しているのか、そこに疑問の目を向けるべきだと思うのです。例えば、どうして、職場のパワハラやセクハラににこのような視点が導入されて、保護命令や刑事罰が設けられないのでしょうか。なぜ、刑法自体においても議論がなされるべきではないのでしょうか。
 夫婦問題だけ特別に取り上げて保護=行動制限を増加させる政策を行うということはヒステリックな対応のように感じています。

<自殺統計から見れば夫婦は自殺を食い止める>

自殺白書を見ると
以下のような夫婦と自死の関連が掲載されています。
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男女の別なく、どの年代でも、配偶者がいる方が、配偶者のいない場合よりも自死者は少なくなっています。離別による独身者と配偶者のいる人を比べると、さらにその差は広がり、離別者の自殺率は高くなっています。特に男性の自死者の中では既婚者と離別者を比較すると10倍を超える年代もあるくらいです。

統計上は、夫婦でいることによって自死を予防する保護因子となっているということが言えるようです。

1つの原因として、夫婦以外の希薄な人間関係においても、例えば地域、例えば職場、例えば友人関係などにおいても、どうしても人間は仲間であるという実感を持ちたいようです。それがかなえられず、職場のパワハラを受けたり、近所づきあいや子どもの保護者としての付き合いなど人間関係に不具合を生じて苦しんでも、夫婦という安定した仲間が存在することで、仲間の一人であるという実感を持ち、精神的に追い込まれていくことを緩和する作用があるということが言えるのではないかと考えています。
ところが、今回の改正では、保護命令が認められやすくなる危険があるため、離婚が増えていく、配偶者と離別する夫婦が著しく増加する危険があるということが最大の心配なのです。

<本来の、あるべき国家政策>

精神的虐待やDVがあれば、夫婦は自死の防波堤にはなりません。また、一方が他方から毎日毎日暴言を受け、義務無き事を強制され続けていたら、その人は一体何のためにこの世に人間として生まれてきたのかわからなくなります。そのような姿を見て育つ子どもたちの成長にも深刻な影響を与えることになるでしょう。夫婦が安心して過ごせる関係になることは求められていることであることは間違いないと思います。

それでは国はどこまで夫婦の問題に介入するべきなのか、介入できるのかということを考えなければなりません。ここを考えないのであれば法律論とは言えません。

先ず犯罪が行われている場合に警察が介入し、犯罪者に対して刑事手続きを適用するということは、法治国家である以上当然のことです。これは当然今も行われていることです。
DV法は、犯罪が行われていなくても国家が介入するという法律です。このために、介入要件を厳格にしなくてはならないわけです。

私は、第一に予防を考えるべきだと思うのです。予防ですから、刑事罰や命令といった強制の契機はありません。それでもうまくいかない場合に、命令の発動要件をもっと厳格にした上で強制の契機を含んだ対策を考えるのが順番だと思っています。

予防の政策を行わないで、強制の政策を行う背景としては、予防には効果が無いという一部の考え方が働いていると思われます。例えば、男性は女性を支配したがるものだというジェンダーバイアスとかですね。家族は女性を縛るものだから、できるだけ離婚をさせることが女性の解放だというような考えでしょうかね。いずれにしても、加害をする男性は生まれつきなもので改善不能だという考え方があるようです。実はもう一つの考えとしては、被害を受ける女性は男性に依存するダメな女性だから、矯正をしなくてはならないという考えを持つ人もいるようです。女性の保護施設、保護制度は、元売春婦の保護施設、保護制度を踏襲しているという驚くべき実態がありますが、役所感覚というだけではなく、そのような女性蔑視の思想があるように私は感じています。

しかし、私の実務家としての感覚としては、
夫婦の仲良く仕方がわからないということの方が実態によく合っているように感じています。お互い仲良くしたいのに、余計なことを必要な配慮もなくしてしまうというようなことですね。これが日常、両親と同居していた時代では、両親から注意されて是正してきたのだと思います。現代の両親は、逆に自分の実子の方の肩をもって、実子の配偶者を一緒になって非難しているという嘆かわしい事態が日本では横行しているように感じています。

いま必要なことは
夫婦はどうあるべきかという啓発活動なのだと思っています。
そして、その根本として、人間の幸せを真正面から考えていくという問題提起が必ず必要だと思っています。
その信念で、これまでこのブログの記事を書き続けているわけです。

家族といると安心できることのすばらしさ、その必要性、人間として生まれてきたということはどういうことか、助け合うことのすばらしさ、本来人間はそうするように生まれついているのだけれど、それができず逆に傷つけてしまう理由等々です。

被害者、加害者という言葉もこれまで何年にもわたってこのブログで述べてきましたが、あくまでもDV相談をした人が被害者、その相手が加害者ということだそうです。総務省自身が日本語として不適当であることを認めているのだから、こういうバイアスがかかった行政運用を先ず中断するべきです。
そうではないと、議論がヒステリックになるだけなのです。

DVというのは、
配慮ができない配偶者と、暴力、暴言を受け入れてしまう配偶者の共同作業の側面があります。DVに限らず夫婦のいさかいの大部分がこれです。そして受け入れてしまう方は、それをやめてほしいという提案が苦手のようです。だから、離婚訴訟などになると、あの時こうだったという主張のオンパレードになってしまい、あたかも元配偶者の同居中の行為の通信簿をつけているような感じです。自分がそのような行為が不快であるということすらいえないのです。これには様々な理由があります。
結局心理的圧迫を加える側も、加えられる側も、ちょっとした生活のヒントを知らないし、人間についての考察が足りないということがあります。そのちょっとしたところレクチャーし、みんなで幸せな家族を作っていくということ画啓発の意味です。そして心理的圧迫を受ける方も、どうして自分の行為の修正を求められると不安になり、イライラしたりするのかを知るとその後の人生がだいぶ楽になるはずなのです。これが対人関係学です。

こういう人間を幸せにしていくことが国家政策でなければ私はだめだと思います。国民を馬鹿にして、回復不可能などうしようもない人たちだという政策をしていれば、国民はやがて見限るでしょう。そうでなければ国が亡びるだけだと思います。

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【緊急提言】面会交流調停後の子どもの状態について調査をするべきだと思う。 [家事]


面会交流調停で、父親と母親との意見が食い違うと
安易に間接交流が提起されることがあります。

面会交流調停とは、離婚や別居で父親と母親が別々に暮らしていると
子どもがどちらかの親と同居して、他方の親と別居するわけです。
別居親が子どもと面会をすることが
自尊感情の低下を防ぐなどの子どもの成長にとって有益であることが
統計的にも他の調査でも明らかになったため、
子どもの健全な成長のために面会交流の実施が求められています。

ところが、同居親には別居親に対しての悪感情が強く、
子どもを会わせたくないという意識が強すぎて
DVや虐待が無かったとしても面会交流が行われない場合があります。

面会交流の実施を求めて
別居親などから申し立てられるのが面会交流調停です。

面会交流調停では
通常は面会交流が子どもにとって有益であることなどを
家裁調査官がレクチャーすることが多いですが、
最近は、理由は不明ですが行われないことも少なくありません。
主として同居親が感情的になっていて、
その感情に「寄り添って」レクチャーの実施が曖昧にされているような印象もあります。

そうして、子どもの利益ということがあまり考えられる機会がなく
同居親は会わせたくない、別居親は会いたいということで
どっちもどっちということで
調停が進まないことも最近は増えてきました。

数年前ですと、調停委員、裁判官、調査官らが
子どもの利益を説明して同居親を説得し
面会交流が行われることもよくあったのですが、
最近は大人への寄り添いがメインとなり
子どものための説得がめっきり少なくなったような印象です。

そして、子どもの利益を重視しての進行になっていないために
別居親に直接面会することを譲歩させて
手紙や電話などのやり取りを約束して調停を成立させる
「間接交流」をすることで話をまとめようとする風潮があります。

間接交流は
実際に手紙を書いても子どもに現物が渡らないことが多く、
子どもも同居親に遠慮して手紙を手に取らないことも実例としては多いです。

というか、
実際に間接的に交流がうまくいって
子どもの自尊心の低下を防止することができた
という実例は報告されていません。

私は再度の面会交流調停の申し立ても複数件行っていますが、
間接交流が取り決められた例で
間接交流が一方通行であったとしても実施されたという実例は知りません。

別居親の手紙や写真を同居親が子どもに渡すということもありませんし、
子どもは親の気持ちを忖度して見ようともしないようです。

私は直接元子どもたちからお話を聞く機会があるのですが、
別居親である父親が、同居親である母、子ども2名の誕生月に
養育費を増額して送金していても
子どもは同居親からその事実を教えられていませんでした。

そもそも別居親から養育費が支払われていることを知らない子どもも
少なくないようです。

家裁調査官の中では、面会交流や家事事件に習熟している人も中にはいて
間接交流が成功した例は無いということを
ポロっと同意していただける人も中にはいます。

知識も経験もない人たちは
理念的に間接交流は可能であると言いますが
具体的な実例は語ることはできません。

家庭裁判所は調停が成立するまでしか関与しませんので、
その後のことなんて通常誰も知らないわけです。

これは極めて無責任ではないでしょうか。
民法等が子どもの利益のための制度を作っても
家庭裁判所は役に立たない間接交流を勧めて
あとは知らんふりということが実情なのです。

実際はなにも子どもに役に立たない間接交流を勧めて
調停は終わりになるのでしょうけれど
子どもの成長はこれからなのです。

本来調停後の子どもの成長を考える事こそ
家庭裁判所での大人の役割のはずです。

私は、国家的プロジェクトとして
面会交流調停後(面会交流を定めた場合の離婚調停後)の
子どもの追跡調査を行うべきだと提言したいのです。

子どもはその後別居親とどのような交流があるのか、ないのか。
子どもの健全な成長が遂げられたか否かについては
なかなか難しいし、比較対象も難しいのですが、

私が見てきた面会交流の無かった事例での不具合のあった子どもたちは
リストカット
拒食過食
不登校
精神科への入退院の繰り返しがありました。
中学校の頃から不具合が始まり、
20歳前に深刻化していました。
そのようなことが他のお子さん方にもあるのかないのか
大変心配です。

そういう調査を踏まえて、
本当に間接交流も民法766条の面会交流に含むことができるのか
あるいは間接交流を続けて直接交流ができるようになる事例があるのか
あるとすればどのようなことに気を付ければよいのか

子どもと同居親のプライバシーの問題もあるのでなかなか難しいとは思うのですが、
そういう調査をしないで、間接交流を勧めるということに
強い抵抗があるのです。

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