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夫婦安泰、夫婦再生の一番の邪魔ものの「真面目過ぎる」という状態とその影響がわかりにくい理由 漫画「レモンハート」のある話をとっかかりに [家事]



レモンハートは、古谷三敏氏(2021年にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします)の長期連載漫画で、舞台となるバーの名前です。元々はラム酒の銘柄です。この漫画では様々なことをたくさん勉強させていただきました。

その中で、割と最近の作品でしたが、バーの客がバーのマスターに対して、「自分には恋人がいるのだけど、デートの時に必ず遅れてくる。自分は時間にルーズな人が嫌いだから、結婚せずに別れた方が良いのだろうか。」というような質問をしたのだったと思います。

私も当時は、この男性の言い分はよくわかりました。待たせる時間が長かったというのも共感のポイントだったという記憶です。

しかし、マスターは、「時間に遅れるくらいで好きな女性と別れようと考えるのはおかしい」という厳しめの意見だったので、驚いた記憶がありました。

男性についての私の共感のポイントは、「私も相手を待たせないように、相手に失礼のないように時間には必ず間に合うように行く。何なら時間より早く言って待っている。私を何度も長時間待たせるということは、私を待たせても平気だから待たせるのだ。自分が尊重されていない、軽く見られているということなのではないか。」と心を分析するとそういうことでした。

マスターの話は、「待たせるからと言って尊重していないというわけではない。むしろ、あなたに自分の印象を良くしようといろいろ準備をして迷っているということなので、あなたはそんな彼女のことや、これからのデートのシミュレーションをして幸せな時間を過ごすべきだ。」ということを割と強めに言っていたように記憶しています。

結局双方の誤解が解けてハッピーエンドになったように記憶していますが、当時の私には納得がゆかなかったことも覚えています。

2 不寛容な自分の心の分析1 自分自身に対する自分の要求度が相手に対する要求度に反映する。それ以外の選択肢が浮かばない事情。

さて、当時の自分の気持ちから分析してみようと思います。私は時間に関しては大変まじめだと思います。つまり、時間は守らなければならないものだという意識を強く持っています。時間に遅れるということは、相手に対して失礼だという思うのです。
自分に対しての決め事、真面目さというのは、多くの場合、相手にも同じ態度、真面目さや緊張感を要求しているものです。また、時間に遅れるのは、本人の態度の問題であるという意識も強くなっていたのだと思います。もう一つ言えば、自分がこんなに努力しているのに、相手は自分に対してそのような努力も緊張感もないということは不公平だ。自分だけ損をしたような気がする。
という気持ちだったため、時間を守らない相手に怒るのは、当然だと思っていたのだと思います。

ずるいとか、不公平だという意識があるようにも思われます。あくまでも相手に対等平等の関係を望むと言えば聞こえが良いかもしれません。
しかし、それは自分の価値観を相手も共有するべきだという価値観の押しつけになっているということは見逃せません。それよりも、自分の時間を守るという意識が強すぎて、時間を守らない理由は自分の問題意識と同じと勝手に考えてしまい相手を尊重していないということだけが時間に遅れる理由として浮かんできて、他の事情を推測しようという発想になれない原因となっていたと思います。特に、自分には身だしなみに気を使うという意識が低いために、漫画を読んだ当時は服を選んだり身だしなみを調えたりすることにそんなに時間がかかるということも想像ができませんでした。一言で言えば狭い料簡になってしまうということでしょう。

3 相手との盤石な信頼関係があれば、不寛容にはならないかもしれない 不寛容な自分の心の分析2

もう一つ、相手との信頼関係の強さという要素も重要だと思います。
大学時代、友達が引っ越しをするというので、手伝うことになりました。もう一引っ越す友達がレンタカーを借りて、もう一人の友人がそれを運転して、二人が集合場所で私を拾って引っ越し先に行くという手はずになっていたと思います。ところが、1時間たっても彼らは集合場所に来ませんでした。今のように携帯電話の無い時代ですから、連絡を取る方法もありません。それでもこの時は、その友達との信頼関係があったので、自分をふざけて待たせているという発想すらありませんでした。「何か事情があって遅れていたのだろう」と軽い気持ちで待っていました。「どうせその日は夜遅くまで引っ越し作業で自分のことは何もできない」という腹を決めていたという事情もあったと思います。案の定、道が不安内の上に渋滞が発生していて遅れたとのことでした。待たせている方こそが気が気ではない状態で、焦っていたようでした。「何をそんなに」と不思議に思うほど二人は恐縮していました。

大学時代の生活自体がルーズだったため、時間に厳しくするという発想が無かったということもありますが、信頼関係がありましたし、引っ越しを手伝ってあげるという立場の問題もあり、自分が尊重されていないと考える発想が浮かばなかったという事情があったと思います。

これが、デートと言う微妙な人間関係の場合は、相手は自分からどう評価されているのだろうという不安定な状態を反映して、このままうまくいかなくなるかもしれないという不安が控えているわけです。自分に対する相手の評価ということが一番の関心事になっているわけです。そうすると、時間に遅れるということもその自分に対する評価にかかわることなのかもしれないと思いがちになるのではないでしょうか。

盤石ではないカップルの場合は、相手の遅刻を気にしてしまうとことは無理が無いような気もします。

4 相手の遅刻に焦る彼氏の感情の置き換えを考える

現代の日本人は、わずかな時間でも定刻通りではないことに不安になるようです。先日裁判のために新幹線で函館まで行ってきましたが、帰りの便で確かに2分の遅れがあるだけで場内アナウンスでお詫びをしていました。私はと言えば、駅からは帰宅するだけだったので、2分くらいどうでもいいやと思いながら聞いていました。日本以外は列車が定刻通りに発着する方が珍しいようです。

仕事であっても、時間に対して几帳面すぎるのかもしれません。どうしても「時間が無い」という感覚は、進化上の理由から、到底必要のない強い緊張を招いてしまいます。実質的な不利益をはるかに超える精神的ダメージを受けてしまうようです。ましてやデートなど家族のことでは、約束の時間に遅れるということが致命的な問題になることはめったなことではないはずです。それにもかかわらず、時間に遅れたことを責めることで、相手は確実に気分を害します。これでは費用対効果で考えると随分割に合わないことになります。

遅れることでイライラしないならば、ずいぶん家族や恋人の人間関係が暖かくなるということは認めるべきだと思います。

遅れてくることに対するイライラする感情を別の選択肢に置き換えると、みんなが少し幸せになりそうです。
レモンハートのマスターが言うように、「あなたに会うことに緊張しすぎてしまって、自分の身だしなみを調えることに夢中になってしまって、時刻に間に合うことに意識を向けることができなかった。自分はそれだけ配慮されているし、自分との関係を継続したいと考えている証拠だ。」というのは、なるほど置き換えるべき感情でしょう。

「これから二人で過ごす時間をどのように楽しく過ごそうかと考える。」これも楽しくなる結果となる感情の置き換えでしょう。

わたしはそれに加えて、「チャンスタイム!」だという感情に置き換えることを提案します。
相手は時刻に遅れていることは、当然ながら知っていて恐縮しているはずです。だから、自分が遅れたことに対してあなたがどう思っているか心配でならないはずです。そこで、イライラした様子を見せないで、何事もないように、では行きましょうかとニコニコとエスコートする、相手はあなたを寛容な人だ、私を許してくれると安心することになり、あなたが安心できる人だと強く印象づくわけです。これはなかなか作られないチャンスです。ここで大事なことは表情です。イライラするのではなく歓迎するという表情を創るということです。

「なんてことはない」という態度で相手がびっくりするだろうということを想像するだけで幸せになれると思いませんか。

実はそれが信頼関係を高めるということであり、ますます相手の行動にイライラしなくなることにつながり、好循環が期待できることです。

5 その他のイライラの根元

今見たように、真面目過ぎる人が自分の大切な家族や恋人に対して、守るべきことを守らないということでイライラしたり、文句を言って相手にプレッシャーをかける要素は、実務的に見ていると職場が関係することが多くあります。

職場で上司から文句を言われたことと同じように自分より弱い人に言いたくなってしまうという人間の行動を軽く見ることはできないようです。会社の中の常識を家庭でも押し付けてしまっているということがよく見られます。

自分が現実にイライラ顔の上司から注意されたり、取引先から嫌味を言われたことなので、それは社会常識であり、守らなければならないことだという意識がどうしても出てきてしまいます。また、真面目な性格ですから、今のうちに修正しておかなければ家族が社会に出て困ることが起きてしまうということも、自分が指摘しなければならない気持ちを後押ししてしまいます。

しかし、冷静に考えれば、「本当にあなたの価値観を家族に対して押し付けることは正しいのだろうか」という疑問を持たなければならないかもしれません。特に相手の感情、思わず口走ったこと等、緊張しないで偶然発した言葉や行動に、それほど目くじら立てないほうが良いです。そうでなければ、相手はあなたと一緒にいると、いつ何時不意打ちで注意されるかわからず、常に緊張する状態になりかねません。あなたの注意の程度と頻度によっては、あなたといることが常に恐怖になってしまうことも出てくるかもしれません。


家族にイライラした場合は、簡単にそれを告げず、できれば表情も見せず、感情の置き換えを試みることが幸せな家庭生活の保障になるのかもしれません。

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連れ去り別居。離婚調停への対応についての現実の夫の行ってしまいがちな行動行動決定の傾向と、家族再生を目標とする場合に行うべきこと [家事]



私のところには、妻に子どもを連れ去られた上に、妻から離婚請求をされているけれど、それでもまた以前のように家族仲良く暮らしたいという人が多くいらっしゃいます。簡単ではありませんが、少しずつ、家族再生に成功した事例も増えてきています。また、家族再生には至らなかったけれど、子どもとの面会が定期的に行われるようになったという実績はそれ以上に増えています。

しかし、世の中では、家族再生どころか子どもとも会うことができず、養育費だけを支払っているような状態になっている男性もいらっしゃいます。大事なことは、自分に責任もないのに父親に会えない子どもたちが日々増えているということです。

どこに違いがあるのでしょうか。もちろん、条件面として、妻の夫に対する拒否の度合いの違いはあります。もちろん、家裁実務の問題もあるでしょう。妻の状態、家裁手続きの対応が結論を動かす要素であることは間違いありません。

だけどもう一つの要素として夫の対応というものがあります。ここは夫が「意識をして取り組めば」できることなので、夫側がやるべきことであることは間違いありません。

何をするのか。

答えはもうはっきりしています。妻を安心させることです。妻が夫と一緒にいることに安心できるようにすること。今さらだけど帰ってきても大丈夫だと思うこと。これまでの成功例からすると、妻を安心させるための行為を徹底することが不動の王道であることは間違いないと思います。

妻の精神状態がどうあれ、調停委員や相手方代理人がどう対応しようと、夫はあらゆる方法を総動員して、妻を心配させない存在であることを妻に実感させること、これだけです。

ところがせっかくのチャンスでの調停での陳述書作成や証拠提出において、逆方向の活動をしている人たちがほとんどなのです。

もちろん、「もう家族再生なんて目指さない。不当な損害を受けることだけを回避できれば、一人で生きていく。」という強い決意がある人ならば良いのですが、夫婦再生を目指しているはずの人も、逆方向の活動をしてしまうのです。妻を怒らせ、不安にさせて、自分から遠ざけているということが実情です。

単純な結論である「妻を安心させる活動」を貫くということはとても難しいことだからです。

人間は、目標を定めて、それに向かって効果がある行動を行い、効果が無い行動や逆方向に向かう行動をしないという単純な動物ではないということなのだと思います。意識的に自分のやるべきことを検討して、その派生問題まで考慮して行動を決定していないという言い方もできると思います。

現場では、私からしてもそりゃあそうだろうという気持ちになることも間違いありません。全く事実として成り立つことのない主張が正々堂々となされていますし、誰の作文なのかわかりませんが、事実に反して下品で醜悪な行為を自分がしていると言われたり、何よりも大切に思って大事にしてきた妻に対して自分が暴力をふるったり、呼びつけにしたり、それ以上の侮辱をしているという虚偽の主張をされてしまうと、「そんなことはしていない。」ということをムキになって反論したくなることは当然です。第三者の私が読んだって、うっかりそんな気持ちになることも多いです。

その結果、言われた夫は、気に障った箇所についてだけ重点的に反論をしてしまったり、相手に対して人格を非難するような反論内容になったり、大事なところをきちんと説明するのを忘れて致命的な失敗をしたりという訴訟技術的な問題も起こしてしまいます。妻側の意図にまんまと引っかかるわけです。

しかし何よりも最大のデメリットは、相手を怖がらせる、不安にさせる、こちらに対してますます安心できなくなるということにあります。

企業秘密に触れない範囲で説明しますと、家族再生を目指す離婚調停をする場合にお勧めする弁護士は、あなたの怒りを理解しつつもそれに従わず、家族再生の目標を堅持して書面を書いたりして対応をする弁護士です。こういう人と一緒に手続きを行うことが有効です。

威勢がよく、相手が犯罪者であるかのように(まあ連れ去りについては講学上は見解を持っていますが)決めつけて、少しの誤りも許さず完膚なきまでに叩きのめす対応をする弁護士は、連れ去りをされたような理不尽な思いをしている人にとっては確かに救いだと思います。家族再生を目指さないならばそれでも良いかもしれません。

しかし、家族再生を目指す場合はそれでは逆方向に向かってしまいます。

但し、事実と違うところは事実と違うということを明確に指摘する必要がありますし、評価が偏っているところも明確にこちら側の評価を主張する必要があることも間違いありません。だから、離婚事件は難しいし、家族再生を目指しながらだとさらに難しくなるわけです。相手の主張を否定しながらも、相手を怒らせないというところが、弁護士の腕の見せ所ということなのです。

要するに怒りの反応で行動決定してしまうと、本当に望むことの逆方向に行ってしまうということを抑える必要があります。第三者を近くにおいて、感情による行動をストップして、目指すゴールに向かっていくということが必要になります。

もう一つ、攻撃的手段を選択したくなる「現代的な理由」があるようです。インターネットでの離婚手続きに関する情報サイトには、戦闘的な裁判手続きを紹介するサイトが結構あるようです。中には、「そんな方法最初から取ったらまとまる案件もまとまらなくなるし、認められるわけがない。お金と時間だけを浪費して逆効果にしかならない。」という方法について、「これをしなくてはならない」と紹介しているサイトもあるようです。「ネットではこう言っているのですが」と紹介してくださる依頼者もたくさんいらっしゃいます。どうも不安をあおる効果もあるようです。

ある程度ちゃんとした当事者の方々が運営しているサイトであれば、私の方で大筋は把握できるので、その真意などについて説明できるし、メリットデメリットを紹介して、ご自分の最終目標との関係で選択してもらえますので問題にはなりません。しかし、中には商業的な意図を持っているのではないかという疑わしいサイトもあり、きちんと信頼できる弁護士に依頼できたならば、その弁護士を信頼した方が良いと思っています。また、弁護士は、メリットデメリットや、実務的な実現可能性についても的確な見通しをお話しできなければなりません。

私の依頼者の方への提案は、一度本当の目標に立ち返ってから考えるという作業をしないと、すんなりと気持ちに収まらないことも多いです。せっかく家族再生という目標がありながら、逆方向に行こうとする場合、それを考えた上で行うならば良いのですが、感情に任せて行動決定する場合、どうしても思い直してもらうことに必死になってしまうことがあります。高圧的だとか言われたこともありますが、そういう事情なので勘弁していただければ幸いです。

一番うまくいった例も、その時は離婚という結論になってしまったのですが、面会交流がかなりうまくゆき、すぐに宿泊付きの面会交流になり、夫の家にお泊りになり、やがて子どもが父親の元から学校に通う問い話になったと思ったら再婚していたという事例があります。

離婚手続きの間、早急に態度を決めなければならないことも多く、感情的に態度を決めるのではなく、目標から考えるとここはこうした方が良いということをかなり細かく打ち合わせしなければならない事案でした。何せ、その時は再婚の保証もないのに、離婚や、子どもたちと別れての生活を選択しなければならなかったのですから、それに至るさまざまな過程で当事者の意図しないことが多く、こうすべきだという私の提案には反発を繰り返したり、自暴自棄になるような発言を繰り返したり、大変疲れました。おそらくその依頼者も同じく疲れたし、理不尽な思いをしたことだと思います。

でも、離婚後にもたびたび連絡をしてくれて、面会交流がきちんと実施されたとか、子どもの体調を理由に面会交流を中止にされ、かなり疑わしい事情があったけれど、私から言われた通り、「それは仕方がない。一人で看病させて申し訳ありません。この次を楽しみにしています。」と言ったら、とても感謝されて、今度はホテルを取って子どもたちと宿泊することになった。もちろん、相手に感謝をがっちり伝えました。その後も、今度は私の家に子どもたちが止まることになったとか、いつもいつも嬉しくなるような報告をいただいています。私の弁護士として生きる支えになってくれている人の一人です。

理屈はわかっているのですが、このように絵に描いたように成功した事例でも、そこに至る道筋は簡単ではありませんでした。とにかく、ひたすら相手を安心させるということに徹したことができたという素晴らしい精神力の賜物だと素直に感じました。よりを戻した奥さんも尊敬できますが、この人も心の底から尊敬していますし、弁護士としても感謝しています。

やることは明確だ。しかしそれをやりきることはとても難しいことだ。しかし、それをやりきることができれば、必ず然るべき場所まで到達できる。そう確信できる事例が少しずつ増えています。

お金と時間を使った挙句に逆効果になることだけは無くなってほしいと思います。

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行動決定の原理 4 離婚、特に理由の曖昧な離婚と効果的な離婚予防 [家事]


1 離婚を社会病理の一つとして考える理由
2 不可解な離婚群 離婚は自由意思の熟慮によって行われているのではない場合が多いこと 
3 不可解な離婚の行動決定過程と二次の情動
4 離婚を考える前、日常の夫婦生活で考えて行動すべきこと 夫婦を単位とした生活は歴史的には始まったばかりであること 自立した人間とは
5 離婚予防とは何か 幸せになる方法として考える

1 離婚を社会病理の一つとして考える理由

これまで述べてきた犯罪や自殺が社会病理の一つであることには異論は無いと思います。ただ、離婚に関しては、離婚を社会病理に入れる人と、離婚はいれないで家庭内の児童虐待や配偶者加害を社会病理に入れる人と様々なようです。
離婚を社会病理に入れない人は、おそらく、①離婚したい人を無理やり結婚生活に拘束することの方が不合理だ。とか②離婚によって女性は自分を取り戻し、依存体質から脱却して自立して生きることができる。というような論拠を掲げる方が多いようです。また確かに、一方配偶者の人格を否定する行為を常習として行い、改善可能性が無いような場合等、離婚をすることが有益である場合もあるとは思います。

1)離婚は自由に認められるべきか

「離婚」は、人生の各局面におけるストレスポイントの調査である「ライフイベント調査」において、「配偶者の死」という出来事に次いで上位の精神的ダメージが生じる出来事だという結果が出ています。離婚という出来事は、深刻なダメージを与えたり、受けたりする出来事です。あまり簡単に考えるべきことではないように思います。
また、気に入らなくなったら離婚できるということであれば、それこそ相手を人間として尊重していないということではないでしょうか。離婚を積極的に評価する人たちは、「夫のDVからの防衛手段」として離婚を考えていることが多いようです。昨今の共同親権の議論でもそのような傾向が如実に表れています。しかし、離婚をしたいのは女性ばかりではありません。むしろ少し前までは、一方的な離婚は男性が女性に対して離婚を突き付ける方が多かったのです。今も夫ないし夫の親が妻を排除しようとして、一方的に離婚を工作する場合も少なくありません。女性が男性と離婚したい場合に理由として持ち出すのはDVです。逆に夫側が妻と離婚する場合に用いる手段は、妻を発達障害だとか人格障害だとかということにして子どもを夫の元に残したまま、妻を入院をさせたり、実家に引き取らせたりして、その後は妻を家に入れず、子どもに会わせず、親権を父親にしての離婚を強いられているのです。連れ去り離婚の手段は、妻の追い出しにそのまんま利用されているわけです。「離婚は一方配偶者からの解放だ」という評価によって、女性が苦しむことになっているのですが、その点は目をつぶるようです。私には納得できません。

そもそも夫婦の在り方において夫婦が一番に考えるべきことは、「子どもの将来」のはずです。日本以外の諸国は子どもの利益がきちんと考えられているかを裁判所などで審理をして、許可を得て離婚をするという厳格な手続きとなっています。
それには科学的根拠があります。統計的に、離婚後の子どもは、自己評価が低くなり、社会生活に適合することにハンディキャップを生じる傾向にあるという共通認識が背景にあります。日本では「子どもは家のもの」という考えが色濃くありました。でも、今よりはましな考え方かもしれません。現代は子どもの利益は大人の二の次になっていて、しばしば相手を苦しむために利用される存在になっています。これでは単なる自分の付属物であり、子どもの人権が無視されているのではないでしょうか。現在の離婚実務では、離婚を申し立てる方がどこまで子どもの利益を真剣に考えているか甚だ疑問であることが実に多いのです。確かに離婚によって必ず自己評価が低くなるわけではありません。子どもにも個性があります。しかし、親として、少しでも子どもの将来に悪い影響が生じる可能性があるとするなら、親の健全な感覚では、少しでもその悪い可能性を排除しようとするものではないでしょうか。

このような他者に深刻な影響を与える離婚にもかかわらず、現在の調停実務、裁判実務における離婚手続きでは、離婚したい理由が判然としていない事例が圧倒的に多いのです。もちろん不貞や虐待などと明確な理由がある場合もありますが、私や他の特に離婚に関して主義主張のない公平な目で見ている弁護士の多くは、「暴力による配偶者加害が原因となった事案はあまり経験が無い」とのことでした。

また、離婚を社会病理とは考えないもう一つの論拠である、離婚は女性の自立を促進するでしょうか。これは疑問です。離婚後も働く人の多くは離婚前から就労して収入がある人が多いと思います。結婚時働いていない人は、離婚をしても働かないケースは少なくありません。現代日本の場合は、女性であっても働かないことにはそれなりの理由がある場合が多く、離婚をすることによってその働けない理由が解消するという関係に無いことが圧倒的多数のようです。

結局、婚姻時働かなかった人は、離婚後も働かないで、実家の世話になったり、再婚相手の世話になったり、行政福祉の援助を受けて生活するようになることが多いようです。
むしろ、婚姻時は育児を分担していたために働いていた女性も、離婚後は一人での育児を理由に働くことをやめたという事例もありました。

離婚と自立の問題は後でもう少し考察します。

2 不可解な離婚群 離婚は自由意思の熟慮によって行われているのではない場合が多いこと 

「『離婚はあなたが決めたことです。』ということを離婚後に離婚を勧められた相手からそう言われた」と法務局の人権相談で訴える女性が少なくありません。行政や行政と一体に見えるNPO等の団体に相談して、強く離婚を勧められて、弁護士もあっせんしてもらって無事に離婚が成立した。しかし、離婚をするまでに時間がかかった上、離婚をしても言われたように収入が確保できず、生活は苦しくなる一方だ、離婚なんてしなければよかったと後悔している人が、離婚を強く勧めた行政やNPO等に抗議をした時に、担当者から言われる言葉が「離婚はあなたが決めたことです。」という言葉だそうです。これは、訴える人が違っても同じ言葉が言われているようです。おそらく、この種の抗議が多いために、その場合の回答マニュアルが整備されているのだろうと感じました。

私は、女性から強い決意の下での離婚の相談が寄せられた場合は、離婚後の生活のシミュレーションを先ず行うことを勧めます。自分の想定する収入、一か月の生活費、行政からの援助の項目と金額などをすべて調査するということです。制度がどうなっていようと、例えば元夫の養育費や婚姻費用分担の制度があろうと、元夫が抵抗すれば差押えまでしなければなりません。すぐにお金が入ってくるとは限らないのです。また、元夫の給料を差押えをしたことによって元夫が会社を退職しなければならない事態になる危険があります。夫の精神的ダメージも合わせて、元夫が会社を退職してしまい結局お金が支払われない等という事態を想定するべきです。離婚後の経済的問題は、特に子どもがいる場合ははっきりさせておかなければならないことだと思います。しかし、人権相談に訴え出てくる人たちは、そのようなアドバイスをもらえずに、「とにかく離婚」、「とにかく子どもを連れての別居」を強く勧められたのかもしれません。

離婚の実態として、全員が全員そうではないにしろ、離婚後の経済的基盤も検討しないで離婚の行動決定をする人たちが少なくないのです。つまり、離婚のデメリットを真正面から検討して対応策を講じないで離婚手続きに入ってしまう人たちが多いことを示しています。

また、離婚が裁判所の手続きになった場合でも、子どもと他方の親の関係が悪いということはあまりなく、母親が「父親の子どもに対する虐待」を主張する場合であっても子どもは父親を慕っているケースが多いのです。それは父親側の自己申告ではなく、母親からの報告で私たち弁護士は知りえる情報なのです。ましてや、実際は虐待のないケースがほとんどであり、虐待、あるいはそれに近いようなことがあっても、その子以外の兄弟姉妹は父親に会いたいと思っているケースが圧倒的多数です。それでも同居親は子どもを別居親に会わさないように全力を挙げて抵抗をし、裁判所が説得をしても会わせようとしないケースも少なくありません。実際、会わせないために、子どもに事実に反することを父親の悪口を伝えて、子どもに父親を嫌いにさせたということを裁判官の前で堂々と述べた母親もいました。離婚にあたって、デメリットとして考えなければならない「子どもの健全な成長に対する影響」を考えていないか、それが行動決定に全く影響を与えていない人が実に多いというのが実態です。

そして裁判所で主張される離婚理由は、どうして離婚をしたいのかが理解できない内容がほとんどです。「離婚の意思はかたい。元に戻る気はない」という言葉は判で押したようにどなたも言うのですが、こういう事実があったという主張がほとんどないのです。それでも事実関係の主張をすると、針小棒大であるとか,事実に反するという反論をすることができますし、それが事実とは違うという裏付けがあることも少なくありません。もしかしたら、このような反論をされることを回避するために、あえて具体的な理由を書いていないということがあるかもしれません。

結局、本人はどうして離婚をすることにしたか、十分な理由を示すことができないケースが圧倒的多数です。抽象的に「DVがあった」とか、「精神的に虐待された」とか、「積年の不満が爆発した」とかそういう抽象的な表現しか主張書面に出てこないのです。そんなもの実際に無くてもできる主張です。「それが通用するのかと、それでは離婚はできないのではないか」と感じる方も多いと思います。しかし家裁の実務では、離婚の意思がかたいことと、別居の事実という二つの要素で離婚を認容する傾向にあります。離婚が認容されるなら、下手に詳細な事実を主張して反論をされて、「理由が無いから離婚を認めない」という流れになることを回避するのは、仕方がないかもしれません。

ただ、結論としていえることは、離婚後の生活を吟味せず、どうして離婚をするかということを自覚できず、子どもに対する影響もあえて考えずに、「離婚をしたいから離婚をするのだ」という離婚が増えているということです。離婚の意思表示に至るための「分析」ではなく「感情」によって、離婚手続きに入るという行動決定をしているようです。もっと正確に言えば感情で離婚決定をして、後は弁護士や裁判所という万事心得ている人たちが確立した離婚手続きのレールに乗っていれば、離婚判決に到着できるというケースが多くなっているということです。

それを間接的に示す統計もあります。離婚件数自体は平成14,5年をピークにして右肩下がりに下がっています。それにもかかわらず、面会交流調停申立はその傾向とは逆に平成以降右肩上がりに増え続けています。各年の配偶者暴力相談の相談件数の50分の1の数字と面会交流調停申立件数とほぼ同じであり、増加傾向はぴったり符合しています。離婚件数が減ったのに、相手にとって理不尽な子どもとの切り離し事案が増えているために、子どもと会わせてほしいという訴えが増えているということです。
面会交流調停.png

3 不可解な離婚の行動決定過程と二次の情動

理由のはっきりしない妻の離婚の行動決定はどのような過程を経ているのでしょうか。はっきりしていることは、妻が夫を嫌悪し、恐怖さえ感じているということです。あたかも一次の情動、つまり、自分の身体生命を守るために離婚の行動決定をしたかのようです。

おそらく支援者も裁判所も、妻の身体生命を守るために離婚に踏み切ったと思っているのでしょう。しかし、私は違うことを考えています。「二次の情動による行動決定パターン」だということです。

今回意思決定や意識の勉強をしていて再発見したのですが、「カプグラ症候群」という疾患があるというのです。これは、「周囲の他者(通常、親しい関係にある人)が、本来の人物によく似た替え玉に置き換えられているという妄想的確信を持つ病態である。替え玉は本物そっくりだが、時に患者は本物とのわずかな「差異」(雰囲気や身体的特徴)を指摘する。すり替えられた対象は、動物や非生物であることもあり、自分自身を含む場合もある。配偶者、両親など自分が愛着を持つ人物が偽物であることが妄想の主題であ」るとのことです。

1960年代まではストレスが原因だという考えが主流でしたが、1970年代から脳の部分的損傷や機能不全が原因だという考え方が主流になってきたそうです、前は女性に多く見られるという報告がされていたようですが、現在では性差が無いとされているそうです。

カプグラ症候群と言えるまで極端ではないのですが、妻に程度の軽いカプグラ症候群が起きているような印象を夫側が持つことが多いです。これまでと同じように接してきて、これまでは何も問題が無く二人で幸せに過ごしていたのに、突如自分に対して被害的な発言が飛び出すようになったとか、わけがわからずに自分を拒否するようになったという印象を持つできごとが始まるようです。場合によってはそのような兆候が無く(気が付かず)、ある日仕事から帰宅したら、家がもぬけの殻で妻と子どもが行方不明になっていたという突然の別居となるというパターンも少なくありません。

きっかけがあって、妻がそうなっているのですが、夫は何がきっかけかわかりません。妻自身でさえきっかけはわかりませんし、自分が変わったという自覚も持てないようです。過去の夫との仲が良かった時代の楽しかった記憶、幸せだった記憶は消えてなくなっているような印象を受けます。

この変化の一番の理由は、妊娠出産によるものです。以下産後うつの関連の、私の過去記事を紹介します。

引用開始
2016年12月にバルセロナ自治大学の
オスカー・ヴィリャローヤ率いる研究チームが、
https://www.sankei.com/wired/news/161222/wir1612220002-n1.html
2018年2月5日に福井大学 子どものこころの発達研究センターが
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20180205/index.html
それぞれ大変興味深い研究発表を行いました。

バルセロナの研究は、脳のある部分の大きさの変化をとらえ、
福井大学の研究は、脳の動きをとらえ
同じことを発見しています。

ざっくり要約すると
妊娠した後、あるいは赤ん坊を産んで育てている間に、妻の脳が変化をしているということです。
その結果、
妻は、赤ん坊の状態に対する共鳴力、共感力が強くなるのに対して、
大人に対しての共鳴力、共感力は弱くなる
ということになるようです。(以上引用終わり)

これが極端なケースでは、夫に過去に感じていた愛情や、夫のそばにいることによる安心感が湧き起こらなくなり、過去の愛情や安心感を思い出すための現在の感情が欠落していることから思い出すことができなくなるという表現が当てはまっているように感じます。

これまで、離婚裁判の手続きの中で産後うつという診断書は多くは出てこなかったのですが、内分泌疾患、頭部外傷、神経性障害(ICD10 F4)等の精神疾患の診断書が提出されることがありました。突然、夫に対して、過去の愛情や安心の記憶が欠落する要因になりうる疾患の診断名だと思います。

このような生理的変化によって、夫に対して過去の愛情や安心の記憶が欠落するということはありうるのではないでしょうか。そうして、愛情や安心の記憶の無い成人男性が、いつも自分の身近にいる、そして自分の行動に文句をつけるということであれば、恐怖を感じたり嫌悪感が大きくなるということになり、夫の些細な言動が、自分に対しての攻撃であると被害的に受け止めてしまうようになる、やがて自分の行為は全般的に夫は気に入らない、「自分が想定していない場面で夫の自分に対する攻撃が始まるかもしれない」という予期不安に支配されるようになるという流れが、突然に夫に対しての嫌悪感を感じる流れのようなのです。

この流れは夫が実際に暴力的な加害を妻にしている場合の妻の心理変化とほとんど重なるようです。暴力が典型的ですが、必ずしも暴力が無くても、要は「自分が理不尽な苦しみを受けて、約束事さえも踏みにじられる」という体験をした場合、妻は、夫に対する愛情を抱いていた記憶や、安心感が失われて、存在自体に恐怖と嫌悪を感じるようになる。同じ空間にして同じ空気を吸うことも嫌になり、街で夫に似た後姿を見るだけで体が硬直してしまうという報告を受けています。

これらの問題は一見すると自分の生命身体を守るための防御として離婚の行動決定が行われたようにも見えます。しかし私は、離婚の行動決定は二次の情動が基本であり、場合によってはいくつかの人間関係の組み合わせで行動決定がなされていると考えています。

先ず暴力から身を守っているのではないかということですが、暴力があったとしても頻繁に起きているわけではなく、また大きな暴力であることは少ないようです。暴力があっても次の瞬間に逃げるというわけではないようです。また、実際は暴力の有無にかかわらず幸せの記憶の喪失は起きるようです。

また、この点は妻側の代理人になる方に特に注意していただきたいのですが、暴力が痛いから離婚したいという短絡的な流れではないようなのです。暴力は、本来、敵に対して自分(たち)の身を守るために行う行為です。仲間から暴力を受けるということは、仲間は自分の身体生命という基本的価値を否定している、自分を怖がらせることを何とも思わないということを感じさせ、その結果二次の情動を強烈に高める、つまりその人間関係が安心できる人間関係ではないという感覚を強烈に与える出来事なのです。

だから、その人間関係が自分を大切にしていない、仲間として最低限度の配慮もない、むしろ敵とみなしているという感覚を持つことになれば、その人間関係の相手である夫は、自分の社会的存在を脅かす「敵」ということになってしまうわけです。

暴力が無くても、感じる主体である妻側が、妊娠後、出産後の安心できない状態変化を起こしていれば、夫の些細な言動も攻撃と感じるようになるでしょうし、夫側が例えば「離婚する」、「別れる」、「出ていけ」という言葉を発してしまうとそれだけで、「敵」という認識になってしまうようです。

二次の情動と一次の情動をどこまで区別する必要性があるのかわかりませんが、主としては二次の情動が活発化しており、一次の情動がそれを後押ししているということがリアルな捉え方だと考えた方が実務的には正解だと思います。

夫が敵であるとしか受け止められなくなった以上、離婚をするという行動決定に出てしまうことはある意味自然なことになってしまいます。

4 離婚を考える前、日常の夫婦生活で考えて行動すべきこと 夫婦を単位とした生活単位は歴史的に始まったばかりであること 「自立した人間」とは

離婚の裁判手続きで気になる妻側の主張があります。それは、妻側の不満や言い分を、「夫は妻の不満を察して、自分の行動を改善するべきだった。私はそれを待っていたが、夫はそれをしなかった。だから修復不能なのだ。」という言い回しが非常に多いということです。そしてその不満を同居中は口に出していないというのです。「言わなくても察しろ」ということを堂々と主張しています。

結構女性の自立を主張する代理人たちもこのような主張をしてくるので、不思議でたまりません。これでは、「女性は男性から守られるべきものであり、男性が全てを見越して女性を守らなければならない。女生はそのような男性の行動の一方的評価者なのだ。」と言っていることと同じだと思えるのですがどうでしょうか。

言葉にしなければわからないことはたくさんあります。自分に妻に対する攻撃的感情が無ければ、ますます自分の言動によって妻が苦しんでいることはわかりません。実現が困難な無理難題を要求しているということが一つです。それ以上に不思議だと思うのは、「女性は夫に依存する社会的立場にある」と言っているようなものではないかということです。男性次第で女性は幸せにもなるし、不幸せにもなる。こういう主張に思えてなりません。

そんな奇跡とも思えることを期待していないで、自分の言いたいことを言うべきです。子どもと大人の区別はそこにあるはずです。子どもは親に依存して成長しなくてはなりませんので、例えば乳児は泣くということですべての要求を通そうとしますが、それは止むを得ません。

しかし大人である以上、男女にかかわらず、自分の環境を快適にする行為を自分で行う必要があるわけです。その方が楽しいですし、黙って待っていてイライラするよりよほどストレスを感じないのではないでしょうか。女性は男性に意見を言ってはならないという価値観は極めてナンセンスで時代錯誤も甚だしいと私は思います。

この依存的傾向が強い人は、結婚時は夫に依存して、離婚をしたら実家や行政に依存しようとするようです。誰かに依存しなければ不安になるようですし、自分で責任を取ることを嫌がっているようにみえます。離婚の行動決定も相談機関に依存した結果ではないかと疑いたくなる場合もあります。このような場合は離婚後の生活苦をNPO等に訴えても「結婚はあなたが決めたことです。」と言われると人権問題だと感じる流れになることは自然だと思います。

現代社会の特徴について少しお話しします。
例えば戦前は、多くの家庭ではでどちらかの両親と同居する場合が多かったわけです。また、両親との同居が少ない都市部では、職場とか近所との人間関係の結びつきが強く、おせっかいな人も多かったわけで、子育てでも夫婦問題でも、夫婦だけで解決しないで、夫婦以外の人が首を突っ込んだり、相談に行ったりすることが通常の状態だったようです。また、夫に非があると思っても、「早く逃げなさい。離婚しなさい。」というアドバイスをすることはよほどのことが確認できない限り無くて、「私が言ってあげる」と夫に態度を改めるように意見を言いに来たということが多かったのではないでしょうか。

それに対して現代社会は、どちらかの両親と一緒に暮らしていることはまれであり、近所や職場の人間関係も極めて希薄になっているのではないでしょうか。相談する相手が行政やNPOしかないという状態なのだと思います。

だから夫婦の理想の在り方、あるべき付き合い方ということは自分たちで考えるしかありません。自分の行動の不具合は自覚しにくいということが実情です。二人で情報を提供しあって考える必要がどうしてもあるのです。

その際、どちらが良いとか悪いということは、考えてもメリットの無いことです。いずれにせよ夫婦の問題ですから、双方が協力してよい方向へ進まなければ解決しないことは当たり前です。どちらが悪いとか加害者、被害者では解決する方向を間違っているとしか思われません。双方がどのように行動を修正すれば楽しく安心して暮らせることができるのかという発想が出発点だと思います。

そのためには一緒にいる時間が長く無ければすべての信頼の土台が構築できないと私は思います。
基本は一緒にいる時間を長くとること、一緒にいる時間で生きるために必要なこと以外のこと、どうでもよいことを共有することがとても大切だと思います。

5 離婚予防とは何か 幸せになる方法として考える

結局離婚予防とは、離婚しなければそれでよいというわけではないということです。一緒にいてお互いが楽しく、安心して生活できるようにすることが結果として離婚予防になるということなのだと思います。

例えば職場で嫌なことがある場合、家族に当たり散らして雰囲気を悪くする場合があります。八つ当たりですから攻撃される方も不意打ちを食うという現象になることが多いです。「自分がどうして辛く当たられるかわからないため、不信感が増大します。他の人間関係での不具合があるということは予め情報提供をしておくとだいぶ不安が軽減されると思います。男性は、女性に助けを求めることになることだと感じて、相談しづらい気持ちになることはよく理解できます。でも八つ当たりするよりは相手にとってはよほどましなのです。

もう一つ男性目線で言えば、本当に「男性側の態度が変わらないのに女性側の感じ方が変わっただけだ」と言い切れるでしょうかということです。確かに先に述べた産後うつ等のエピソードによって敏感になっているということはあると思います。しかし、結婚前、出産前、出産後で、知らず知らずのうちに夫側が平気で乱暴な言葉遣いになったということはないでしょうか。今の言葉遣いのままでプロポーズまで貫き通したと言い切れる人はどれだけいるのでしょうか。プロポーズの前は、自分を失うほど大きな声で相手を怒鳴ったことは無いと思います。

やはり、男性も女性も、自分の行為で自分が生活する環境を良いものに変えていこうとすることが大人の自立なのだと思います。相手の状態を想像すること、相手の役に立とうとし(喜ばせようとし)、そして自分で快適な家族を作っていくという発想を意識することが大切だと思います。そもそも産後うつや疾患のために被害的に感じやすくなってしまうのだって女性に責任があるわけではありません。大切にしているというメッセージを意識的に相手に届けるということが、女性の被害意識を軽減させることにつながると考えるほかなさそうです。そしていつそのような気持ちの変化があるかわかりませんから、そのようなそぶりが無くても大切にしているということを態度や言葉ではっきり告げるということをそれなりの頻度で行うことが前向きな方法だと思います。

一度被害的な気持ちになると、過去の幸せの記憶を失うと言いました。どうすれば過去の記憶を取り戻してくれるのか、その時の自分が相手にした安心感を与え続けることによって、記憶を喚起する資料を与えなければ記憶は喚起できません。わかりやすく言うと、幸せの記憶を失ったとしても、新たな幸せの記憶を蓄積させていくという方向で解決するしかないのだと思います。

家族に安心してもらうこと、何があっても一緒にいるというメッセージを折に触れて示しあうことが幸せのカギだと思います。



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夫婦再生の一番の障害は、「怒り『表現行動』」なのだと思う件 [家事]



どうしても、子どもを連れて黙って妻が家から出ると、だんだんと怒りがわいてきます。これは実際は、必要な感情の変化です。いつまでも解決しない自責の念を抱き続けていると、解決不能の問題を悩み続けることになりかねず、そのあとに対する重大な影響が生じるからです。重大な影響とは、うつ症状の蔓延化、生活破綻、自殺などです。こういう場合でも怒りに転じることで、自分を取り戻して、生きる活力がよみがえるという形はよく見る光景です。

怒りは生きる本能に根差しているということも一つの真理だと私は感じていますし、相手に対して反発できたことでうつ状態を解消した人たちも印象に残っています。

しかし、そのまま自分が怒っていることを自覚しないままで怒りに任せた行動を続けると、ご自分の目標と反対方向に強力に向かってしまうという矛盾もよく見ていることです。本当は、夫婦の再生、ひらったく言えばよりを戻すことが目標なのに、怒りの行動によって、ますます離れていくということもありふれた光景です。

家族再生を第一希望だと表明しているのに、監護者指定、子の引き渡し、仮処分を打診してくる人が最近増えています。インターネットの情報をもとに、裁判所によって正義が実現できると素朴に感じていらっしゃるようです。

しかし、裁判所は、めったなことで同居する母親から子どもを引き渡せと判断することはありません。母親による虐待、あるいは、結果としての虐待行為があり、子どもの将来に悪影響が出ることが必至の場合という特別な場合にだけ引き渡しが判断されると心が得た方が良いと思います。

子どもを父親や、親戚、学校、友人から引き離したことが虐待ではないかという主張はよく聞きますし、私もそう思います。しかし、裁判所はこれを母親による虐待だとは認めません。

「連れ去りは子どもに対する虐待だと主張して戦うべきだし、戦わなければ前進無し」という考え方ももちろんありうると思います。但し、夫婦再生には逆行するのです。夫婦再生ができなければ子どもは父親に会うことができません。自分は大切に思われていない人間だという意識を持ったまま大人になってしまう危険性を持ち続けて成長することになってしまいます。

どうしても、子の引き渡しを主張する場合は、相手方の虐待行為を主張しなければなりません。「裁判所は相手に落ち度(虐待行為)が無い限り現状維持の結論を出すと心がけましょう。」あるいは、「乳幼児期に一番長く接していた親を監護者とする傾向」もあります。

こう書くと「裁判所では正義は実現されないのか」と思われるでしょうが、私はその疑問を肯定するしかありません。むしろ、裁判所に何かやってもらうという考え方は捨てて、「自分で相手の心を変える」という考え方で、裁判所はあくまでも利用する「場」として考えるべきだと思います。

そもそも、(本当はDVと呼べる行為が無く、通常の夫婦の口論があるに過ぎない場合は特に)妻は、夫と生活することに安心できないから別居をして、離婚をしたいと考えているわけです。安心できないというのは、自分を否定評価されるということを常に恐れている意識から出発します。しかし、その原因は、必ずしも夫の行為にだけあるわけではなく、妻の体調や職場の人間関係に起因していることも多いということが実感です。
 
だから夫婦再生の基本戦略は、「自分に対して、妻が安心できる存在であることに気づいてもらう」(あるいは、今から自分を安心できる存在だと思ってもらう)というところにあるという戦略が、これまでの経験上正しいと確信しています。

それにも関わらず、「妻は児童虐待をしているので、子どもを手放して自分に渡すべきだ」という主張をし、調停や審判を申し立ててしまうと、「やっぱり夫は自分に対して否定評価をして、子どもからも引き離そうとしている」と妻はわが身の行動を振り返りもせずに、夫に対する警戒心や嫌悪感、恐怖感だけを募らせていくわけです。

「ほらやっぱり、夫は自分を攻撃する存在だ」と再認識して、離婚の意思が固まり、子どもに会わせないという気持ちもさらに高まっていくことは、少し考えればわかることです。しかし、この「少し考える」ということが、怒りの感情に支配されるとなかなかできないのです。

ただ、妻の側も、離婚手続きを遂行することに夢中で、自分の嫌悪感や恐怖感の出どころはあまり整理されていません。だから少しずつ工夫をして安心の記憶を植え付けていく余地があるわけです。ところが、裁判所での攻撃は書面で残りますから、妻はあやふやだった「自分の嫌悪感や恐怖感」はやっぱり正しかったという妙な確証を与えるだけになってしまいます。こちらの言動を悪く解釈して見せる「支援者」も常に妻の周囲にいます。夫の攻撃から妻と子どもを守るチームの一体感も強めてしまいます。

夫婦再生は、警察も裁判所も全く役に立ちません。自分で妻を安心させることが第一になります。では具体的にはどうするか。

・ 怒りを捨てることも簡単ではありません。夫婦再生の方針を持つことができる弁護士の話をとりあえず信じるという実務的な方法もあります。
・ それから、怒りを脇において冷静に考えるということに次第に慣れていく必要があります。もし、怒りを持たなかったらどう言う考えになり、どう行動することが通常化、もっと言えば相手が安心するのかということを考えて行動するということです。その際には相手の理不尽な夫に対する嫌悪、恐怖もそれなりに肯定した行動を考える必要があります。つまり、心を脇において行動を考えるということです。
・ そうすると安否の心配をすることが一番であることがわかります
・ 2番目は生活に不便が無いか、心細い気持ちになっていないか心配することが通常でしょう。
・ 3番目以降としては、子どもを連れ去ったことにより、こちらが逆上していないかという心配があるわけですから、気持ちは置いておいて「怒っていない」という情報を工夫して伝えることです。相手を安心させる方法があれば、警察でも裁判所でも何でも利用して伝えることを主とすることが肝心です。
大切なことは、「気持ち」ではなく、「相手に伝わるこちら側の情報」だと割り切って考えることがとても有効です。だから、悪いのは「怒りという感情をもつこと」ではなく、「怒っていると相手の思わせる表現行動」なのです。

そして急がないこと。

相手は「自分のペースで生活できていない」ことから不安を感じ、原因を夫にひとたびロックオンすると、夫が原因であるとして嫌悪感や恐怖感が沸き上がってくるようです。急がせることは、この夫原因説を裏書きするようです。地齋の例を見ると、家族再生のためには数か月以上かかることがむしろ当然だと思うべきです。これまでの再生例の教訓は相手に結論を急がせないことという共通項がありました。

結局、妻の安心感をめぐって、支援者と夫との間で綱引きをしているような感覚をいつも持ちます。妻に伝わる夫のメッセージが、自分の頭の中にある嫌悪感や恐怖感を抱かせる夫のイメージではないということに気が付くときに、綱引きの綱が強烈に夫側に傾くようです。しかし、勝負がつくまでにはためらいや確証の反芻のために時間がかかるという感じです。

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隠れた離婚理由  夫婦関係恐怖症 子の連れ去り別居、不可解な離婚理由の場合に結構見られるケース [家事]

夫婦関係恐怖症というのは、名前を付けた方がわかりやすいだろうということで今作った造語です。どういう状態かというと、これまで夫婦仲にそれほど問題が無かったのに、ある時期から突然妻の方が夫婦関係を行うことを極端に嫌悪するようになるのですが、それをなかなか夫に言い出せないうちに、やがては夫そのものへの嫌悪感、恐怖感に転じてしまい、その結果どうしようもなくなり夫の元から逃げ出すという状態です。離婚問題ではこういうケースが結構あります。

妻側の代理人の時の方にはっきり言われたことがあります。こういう言いにくいデリケートなことを、いかに仏像の顔をしている老人に対してとはいえ打ち明けるわけですから切実な問題が現存しているのだと思います。

こういう事例の奥さんはまじめすぎる人が多いようです。夫婦なんだから夫婦関係には応じなければいけないことになっていると難く考えているようです。応じないことで夫に後ろめたい気持ちになることもさえもあるようです。人間は罪悪感が高じると、自分を正当化して罪悪感を減らすようにできているようです。無責任な第三者の「あなたは悪くない。」という言葉があればなおさらそうなることはよく理解できます。夫婦関係を営めないのは、そもそも夫が自分を精神的に虐待するからだというように感じるようになるようです。罪悪感を解消したい⇒そのためにはどうするか⇒そうだ夫が悪いことにして自分を正当化しようという思考では無く、自然と無意識に夫を攻撃するようになるようです。そう仕向ける第三者がいるかどうかは別問題です。

ただ「行為が嫌になったのであって、あなたが嫌いになったわけではない。」と言えればよいのですが、デリケートな問題なのでなかなか言いにくい。言ったところで、夫から浮気を疑われるとか、心変わりだと単純に結び付けられることも多いようです。応じられなくなった夫も不安なわけです。また、それを理由に離婚を言い渡されるのではないかという不安から、言えないまま過ごして、最終的には自分から子どもを連れて別居して離婚を請求する側になるのですから人間の行動は不合理です。

ややこしい話としては、弁護士が依頼者から安心されていなくて、依頼者が「こんな話をしたら変にみられるのではないか」あるいは「話をすること自体が恥ずかしい」と思われる場合は、なかなか弁護士に言い出せないのはよくわかります。弁護士から聞くこともなかなか難しい問題です。だから、弁護士から離婚理由を尋ねられても、先ほどの自己正当化の方ばかり言うしかありません。そうすると何も知識(先入観)の無い弁護士は、記憶があやふやな針小棒大のDV、精神的虐待しか聞き取ることができず、あやふやな主張をするしかなくなるという流れになるようです。「日常的に暴力暴言を受けていた。精神的虐待があった。」等という、事実が無くてもかける文章しか書けないわけです。こういう依頼者に安心されない弁護士は、夫が嫌いになったから夫婦関係を拒否するようになったのだと信じて疑いませんが、事情を聴いてみるとどちらかと言えば、夫婦関係に応じることがしんどいために、後ろめたさも手伝って夫を敬遠し、嫌悪感や恐怖感を募らせていくという順番のケースが結構多いようなのです。

そもそも離婚さえできればよいという考えでは、夫を非難すればよいのかもしれません。しかし、むしろ上手に離婚して、子どもと相手との交流を絶たないで、子どもに安心してもらうし、養育費もきっちり払ってもらうしという希望にシフトをしなければ、本当の「離婚理由」は見えてこないようです。

どうして夫婦関係に応じられなくなるかというと、純粋に生理的な問題だということが多いようです。精神的苦痛というより肉体的苦痛が発生してしまうようです。きっかけとしては出産が多いようです。10年くらい前の多い事例は第2子出産後、しばらくしてもその気になれなくなってしまったということでした。現在の主流は第1子出産後です。もしかすると、初産の年齢が高齢化していることと関係があるのかもしれません。厚生労働省によると、昭和50年の第一子出産時の母親の年齢が25.7歳でしたが、平成10年27.8歳、平成20年29.5歳、平成30年30.7歳と右肩上がりに上がってきています。

夫婦関係拒否については、その他には妻側が働いているから産休を取りづらいとか、子どもが一人増えることによる経済的負担があるとか、出産に対する将来的不安事情も心理的影響があるのかもしれません。

いずれにしても夫側の事情ではないために、夫は妻の心境の変化がなかなかわかりません。夫婦関係を連想させないスキンシップは普通に行えることが多いことも、理解ができないという事情の一つになります。真面目な人ほどパートナーに言いにくいもののようです。確かに、例えば封建的な男性が、仕事で失敗して収入が著しく減少する見通しだなんてことは言えませんものね。
とにかく、夫が嫌いになったのではない、これからの二人の関係はこうしたいということを告げることで、本当の夫婦となっていくのかもしれません。繁殖期の終わりは二人同時には来ないのでややこしくなることはどの夫婦にも起きうることだと思います。

ところで、出産の次に多いとまで言えるかどうかはともかく、結構多い理由が、妻の過去の悲惨な性体験による精神的問題です。前夫との問題だったり、婚外の出来事だったり、職場のセクシャルハラスメントだったり、あるいは何らかの目撃体験だったり、様々なのですが、真面目に夫婦関係を営もうとすると過去の悲惨な体験の際の「心情(感覚)」が記憶より先によみがえってくるようです。記憶が錯乱することがあり、本当は自分の夫との関係ではないのに、自分の夫からされたことだと思い込んでしまうことがあるようです。もっともそれは今の夫との問題ではないと思っていても、夫を責めることで心理的負担を軽減しようとしている可能性もあるような事例もありました。これは、その出来事起きた時にあった出来事が、夫との同居時は存在せず、その出来事は前に結婚していた時期に起きた出来事だったということを調査の結果判明したためにわかりました。記憶の混乱ないし混同は結構簡単に起きるようです。案外悲惨な体験自体は夫に話していることも少なくないようです。それと夫に対する嫌悪感は、自分では自覚していないことのようです。


以上、隠れた離婚理由である夫婦関係恐怖症とどうしてそれが表に出てきにくいかということをご説明しました。

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離婚後の親権制度について、他国に恥じることのない議論のために 子どもの権利を最優先にした議論の枠組みをするべき [家事]


8月29日に法制審議会は、離婚後の共同親権制度などのたたき台を発表し、離婚後の親権制度についての法改正が目前という状況になっています。世界ではごく例外を除いて離婚後においても共同親権制度をとっています。日本だけは、国際的に異例の単独親権制度をとっていて、今回の改正においても共同親権が曖昧な形のまま法制化される懸念があるというのが、現在の立法にまつわる政治状況だと言えるでしょう。

この状況は、国際的に見てとても恥ずかしい状況です。なぜならば、世界では子どもが一人の人格主体であると認識されていて、大人は子どもの健全な成長に責任を持たなくてはならないという理由から、両親が離婚しても子どもは父親からも母親からも愛されて育つ権利主体であると法的にも位置付けて、共同親権制度に次々に変更していったという経緯があります。日本だけが、子どもの両親から愛されるという切実な権利に価値を置かず、子どもの権利とは別の次元で子どもの権利を制約し続けているのです。日本は権利を主張できない弱者の権利擁護を考えない国だと実際にも国際的に評価されています。結論も一択しかないと思うのですが、何よりも議論の過程を世界が注目していると思います。

前回の記事では、親権概念を確認し、
・ 親権は親が子どもを思う自然な情愛に基づいて親に親権をゆだねたということ、
・ 戦後の法改正で父親と母親の双方が平等に親権主体と定められたこと、
・ しかし実際には一方の親によって他方の親の親権が侵害されているのに回復する強力な制度が無いこと
・ 父親の親権が母親によって侵害される場合に、公権力やNPOが侵害に加担していること等を述べました。

今回の記事では、
1 立法についての議論がどのような道筋で行われるべきか
2 夫婦が離婚しても、両親から積極的に愛情を受けていることがどのように子どもの利益になるのか、
3 立法趣旨との関係で共同親権制度にする必要性はどこにあるかということを述べていきます。
今回も、実際に離婚事件その他の子どもの養育に関する事件を多く担当する法実務家として、私の実務経験をもとにお話をしていきます。

1 立法の議論のあるべき道筋

親権制度は、前回お話しした通り、世界的に近代以降では、子どもが健全に成長するために親が行うべき義務がその概念の中核になっている必要があります。「子どもが健全に成長をするためにどのような親権制度とするべきか」という議論から出発しなくてはなりません。

そしてこのような子どもの利益のためになる制度を作った結果、他の観点からの不具合が生じることもあるでしょう。法律というのは、このように一方向の利益だけで定めることはできず、それによる不具合をどのように修正するかということを考えて決められる定めにあります。

離婚後の共同親権反対論は、この出発点が欠落していると言わざるを得ません。共同親権反対論の論拠は、共同親権になるとDV被害女性の保護が不十分となるということが核心になっています。つまり、子どもの権利についての議論を欠落させて、女性の利益を元に論を立てているのです。これでは、世界に顔向けできない議論をしているということになります。

また、実務経験からすると、家裁の離婚手続きで、未成年者がいるケースのほとんどがDVの存在しない事案です。DVによる慰謝料が認められないケースは少なくありません。裁判所を通さない協議離婚の場合は、もっとDVが存在しないケースが多いと推測されます。協議離婚が成立しているということは、夫婦で離婚届けを作成しているということですから、妻が子どもを連れて夫から所在を隠しているというケースよりも、離婚届の受け渡しが行われているケースが圧倒的多数であり、つまり、DVからの逃亡が不要なケースが多いからです。

いったい、未成年者がいる離婚のケースのどの程度の割合がDVがあった案件だというのでしょう。また、DVがあったからという理由で一方の親か子どもの所在を隠す必要がある案件なのでしょう。DVの定義が曖昧であることも相まって、有効な統計資料はないはずです。離婚総数の内、DVがあるために離婚後も父親と母親の協議ができない割合はごくわずかであると思います。それにもかかわらず一律に共同親権が排除されるならば、大多数の両親が離婚した子どもたちは、自分の状況と異なる状況のために、一方の親から愛情を注がれる利益ないし権利を考慮されないという事態になりかねません。どうして子どもたちは我慢しなければならないのでしょうか。

また、共同親権反対論の論拠が、母親の権利を第一に考えて立論されているということは、子どもの権利よりも母親の利益を優先する価値観によって議論がなされているということになります。何よりも子どもの権利について議論が行われないのですから、母親の利益を優先という表現よりも、子どもの権利ないし利益を欠落させて親権の在り方が議論されていることになります。つまり、これでは、母親の利益さえ図られれば子どもの利益を考慮しなくてよいという態度に外なりません。つまり、子どもは一人の人格主体として保護されるのではなく、母親の利益に従って行動するべき母親の付属物という扱いがなされていることになります。子の連れ去りとはまさにこのような現象なのです。

封建制度のイデオロギーの残存的思考であるとともに、子どもは女性が育てるべきという看過しがたいジェンダーバイアスにとらわれた議論だというほかはありません。そこに統計や発達心理学などの科学的考察はなされていません。

議論のあるべき道筋とは、
先ずDVを脇において、夫婦の離婚後に子どもはどのように育てられるべきか、同居親と別居親がそれぞれどのようにかかわるかべきかということから離婚後の親権の在り方を議論するべきです。

次に、それで制度の骨格を定め、それにより生じる不都合をどのように最小限度にするかという議論に進むことになります。その際、DVとは何か、被害実態とはどのようなものが統計的には見られるのか、件数、割合はどの程度のものなのかという統計資料に基づいてどのような制度修正をするべきかを議論することになります。

私は、民法上の共同親権制度には、DVの問題をいれることは不可能だと思います。民法の文言にDV問題を配慮した文言をもうける立法事実が認められることは無いと思っています。特別法によってDV被害対策を、統計上の必要性が認められた時に必要に応じた立法をするべきだと考えています。

また、別居親のかかわりを「認めるか認めないか」という清算的議論ではなく、DVの被害が現実化しないようなかかわり方を検討し、物的施設や親子交流支援員を設置するなどの建設的な制度創設の提案がなされるべきであると考えています。あくまでも子どもの利益を中心に考えるべきだからです。

2 離婚後にも両親から愛情を注がれる子どもの利益

離婚を経験した子どもたちの発達上の問題は、統計上確立されています。即ち、自己評価が低くなり、アイデンティティの確立に問題が生じるということです。この統計結果を世界が認めたために、国際的にわずかの例外を除いて離婚後の共同親権制度が次々と生まれて行ったのです。

自己評価やアイデンティティの問題を少し説明します。

私が直接会った、他方の親と交流のない子どもたちは、この極端な形で苦しんでいました。中学や高校のあたり、自我が確立していく頃から、不登校、自傷行為、拒食過食を繰り返し、精神科病棟での入退院を繰り返すようになり、同居親に攻撃的になり、子どもとは言えない年齢になっても社会に出て行くこともできないような状態となりました。病院での様子を見ると、特に何か健康になるためのアプローチは見られず、ただ社会から隔離されているような印象も受けました。せいぜい興奮状態を薬によって鎮めているだけでした。

そういった状態の中、荒れる子どもを心配のあまり、別居親が同居親の助けを求めようとして、同居親の代理人を通じて離婚調停が申し立てられました。別居親と代理人の私は、離婚申立てが真意ではなく、子どものことで助けを求めているということを見抜き、面会交流を復活させました。その直後から子どもの精神症状は沈静化していき、社会に出る準備を始めていきました。自分の夢を自覚して、夢に向かって進むという意欲を持ち、現在夢を実現しつつあるという状態です。

別の例では、両親の別居後、荒れて徘徊を繰り返して児童相談所に保護されることが頻回にあった小学生がいました。別居親との交流を通じてそのような行為は無くなり落ち着きを取り戻しました。親子が久しぶりに対面した場面に立ち会いました。面会が終わるまで、子どもが満面の笑みを浮かべ嬉しそうに時間を過ごしていたことが印象的でした。

私が見た実例は、子どもの自己評価が低下した様をまざまざと見せつけられました。自己評価が低下している状態とは、自分は尊重されるべきだという観念を持てず、夢や意欲を持つこともできない状態になるようです。

また、近年では、離婚それ自体というよりも、離婚後も親が離婚相手に対して精神的葛藤を抱いていることが子どもにとって悪影響を与えるという整理の仕方もされているようです。子どもは同居親の承諾の元で別居親と交流できることで、この点も安心するのだと思います。別居親の面会にあたっては、私が同居親の葛藤を下げるチャンスとして子どもとの交流を活かすことが子どもの利益になるというアドバイスを常に別居親にしているのはこういう理由があるからです。

日本を除く諸外国は、このような科学的根拠があるということで、子どもを一人の人格者であり、親の付属物ではないとして、離婚後も共同親権制度にしたのです。日本で共同親権制度になっていないのは、日本の立法府だけが統計的に科学的に見出された子どもの権利を真正面から取り上げようとしていないからと思われても仕方がない状況なのです。アジアの隣国である韓国も中国もはるか昔に共同親権制度を整備しています。

ちなみに「選択的共同親権」ということもこのような共同親権制度が世界中に広まった今となっては恥ずかしい限りです。子どもが両方の親の愛情を確認できて健全に育つか、一方の親の愛情だけで甘んじなければならないのかを親が勝手に決めて良いという制度ですから、子どもは親の付属物として扱われて仕方が無いという制度です。政治的妥協の産物ででてきた概念ですが、制度趣旨を理解できない恥ずかしい提案になります。子どもの切実な利益を政治的駆け引きで決めてはだめだと私は声を大にして言いたいのです。

3 離婚後の共同親権制度を法律で決める必要性

現状での不合理として、離婚後親権者ではない親は、親権者でない以上に無権利になっています。例えば、子どもの養育状況が心配になったり、登校の様子を知りたくて学校に問い合わせても、「親権者ではないから個人情報の観点から教えられない。」あるいは、「親権者の同意が無いから教えられない。」という回答がなされることが少なくありません。

子どもが児童相談所に一時保護されても、親であるにもかかわらず親権が無いから一時保護の様子を教えられないとの回答がなされました。

経験上言えることは、教育機関、児相、役所と警察などの公的機関では、親権を持たない親は親であっても子どもの情報を教えないという扱いがなされているようです。実際は同居親と子どもの折り合いが悪く、中には同居親がヒステリックに子どもに対して行動を制限している場合でも、もう一人の親は情報を知らされないため子どもに対する有益な対応をとることが妨げられています。

もう一人の親に情報を与えて意見を出せるようにすると、親権者の親権が妨害されるとでもいうようです。ここでも子どもの権利よりも、親の権利が優先しているように思われます。

親権を持たない親が子どもと話すことで子どもが落ち着いていくこともよくあることなのですが、一切のかかわりを禁じているのが現在の児童相談所をはじめとする公的機関です。あたかも、親権を持たないもう一人の親は、子どもと敵対しているかのようです。これはかなり失礼な話だと感じています。

これは親権者が一人に定められなければならないため、現状の親権者の問題点をもう一人の親に知らせると、親権の変更などの手続きをするのではないかという恐れも背景にあるのかもしれません。

しかし、そもそも共同親権制度を作り、もう一人の親も親として子どもにかかわれるということになれば、親権はく奪に相当するような虐待が無いのであれば、多少の失敗があっても親権の移動はありません。だからお互いが、現状のシステムよりより冷静に子どもの成長について話し合う条件が生まれるのだと思います。

いずれにしても、両親が離婚しても親子は親子だということを行政は看過しています。親権という法的地位はともかく、親であることが公権力によって否定されているということは是正されるべきです。共同親権制度は子どものために必要な制度だと思います。

名称こそ共同「親権」ですが、実態は共同「責任」制度です。子どもへの関与が増えることの一番の効果は、両親の子どもへの愛情行使が期待できることです。

現在養育費が支払われないということで、公権力は養育費の強制徴収を検討しているようです。しかし、養育費が支払われない事情は千差万別です。養育費を支払いたくても支払えない事情がある親は少なくありません。それにもかかわらず、ある自治体は支払ない親の氏名を公示するというパワハラのような方法で養育費の強制徴収を検討したようです。これは子どもの利益ではなく、生活保護などの公的援助金の支出を抑制することしか考えていないことを示す事情です。養育費を払わなくても子どもにとっては親です。どこの子どもが自分の親の不十分点を名前をさらされて公にされたいと思うでしょうか。自分の親が養育費を払わない親として自治体から名前を公表されていたたまれない気持ちになることを想像できないのでしょうか。普通に考えれば、子どものための制度設計ではないことがすぐにわかると思います。

親は、子どもにかかわることで本能的に無理をする生き物です。十分な収入は無いけれど、自分にかけるお金を削って子どもにお金を使うということは、同居、別居にかかわりなく同じだと思います。親は子どもとかかわって子どもに親にしてもらうということが私の経験からも正しいと思います。逆に言うと、子どもから引き離された親が、子ども優先にお金だけ支払おうというモチベーションを高く維持できるわけはありません。私が最初に親子問題にかかわったのは養育費の打ち切りの相談でした。支払わなくなったり、予定した期間を支払い終えたけれど養育費が継続されないと困る事案の相談でした。新たに扶養調停を申し立てるしか法的手続きは用意されておらず、しかし時間も待ったなしという事案(大学の授業料の納付期間が迫っている等)がほとんどでした。案外簡単に解決しました。子どもがもう一人の親と交流を開始するという方法でした。同居親としても背に腹は代えられない事情があるので、実行していったところ、私の知る限りの事例で経済的問題が解決したものでした。

もし共同親権制度であれば、もっと親は子どもにかかわることができるの、子どものための行動をすることでしょう。初めから交流を続けて行けば、もっと子供は楽に自分の夢を追うことができるなど、人生の可能性が広がったことでしょう。

まだまだ、法律で共同親権制度にする必要性はあるのですが、長くなりましたので、そろそろ終わります。

いずれにしても、離婚した夫婦が、現状何も働きかけをせずに子育てを協力するということは現実的ではないと思います。しかし、法律で共同親権制度を定めることによって、当初は仕方なく協力関係を形成し、時間が立つことによって、離婚をしても子どものためには協力するものだという意識が形成されてゆき、子どもの利益につながってゆくはずです。

国家が子どもの利益のための制度をだいぶ遅くなりましたが、真面目に作っていくことが求められ、世界からも注目されていると思う次第です。


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親権の概念の再確認と離婚後の共同親権論争の真の問題の所在 [家事]

親権の概念と離婚後の共同親権論争の真の問題の所在

法制審議会が8月29日に離婚後の共同親権を含む家族法改正のたたき台を発表しました。離婚後の共同親権の是非を議論する前に、先ず親権概念をはっきりさせておいた方が良いと思いました。書いているうちに、筆が止まらなくなり、なぜ共同親権に反対するのかの理由まで考えてしまいました。このため大分長くなってしまいましたが、実務家としていつも感じていることを正直に書きました。
 
1 親権の内容
 
 親権という概念は各国にあり、実はいろいろな意味があるようです。文明国の親権という意味で「近代的な親権」というためには、親権の内容に子どもに教育を受けさせる義務を設けるなど、子どもが幸せになるように行動をする義務が含まれなければなりません。
例を挙げると、子どもを教育する義務、子どもを監護する義務、子どもの財産を適正に管理する義務などがあります。今、議論になっているのは懲戒権です。懲戒の内容はいろいろありますが、子どもが悪い行為をしたらその行為に否定的評価を与え、今後の改めるべき行動様式を指導することが共通内容でしょう。子どもが間違った道に進まないためには、私は親の懲戒権は必要だと思います。但し、親の気分によって子どもにつらく当たったり暴力をふるったりすることは、そもそも親権の中に規定されている「懲戒」ではありません。うまく言ってわからせることができる場合は懲戒という概念は不要かもしれませんが、子どもの意思をある程度制圧しても懲戒しなければならない場合、特に子ども自身の安全のために必要な場合が現実にはあると思います。

話を戻しますが、近代における親権の内容は、どちらかというと「権利」というより「義務」に近いのですが、子どもは親の親権(指導や教育)に服しなければならないという意味もあるため「子どもに対する権利」であると説明されています。ではいっそのこと権利という言葉を使わないで「親責任」という言葉を使うべきではないかという意見もあります。実際にそのような意味の言葉を使う国も外国にはあります。しかし、親権制限、親権喪失などの法律用語との整合等を考えなければならず、そう単純には決められないという指摘も有力です。

私は、親権には、親権に対する妨害を排除するという意味での自由権的側面もあると考えていますので、親権という言葉は残すべきだと思っています。親権妨害が損害賠償や妨害排除の対象となることは裁判所でも認められていることです。
 国家との関係では、最近は痛ましい虐待事例に居ても立っても居られない人たちが児童相談所の現状を苛烈に批判し、児童相談所の家庭への介入を強化し、警察との連携を主張する傾向が多くなってきました。そうすると、介入の弊害も懸念しなくてはなりません。本来虐待をしていない場合に親子分離がなされてしまうことも当然でてきます。過度な親子関係に対する公権力の介入を抑止する観点からも親権の自由権的側面を改めて強調するべきだと考えています。

2 親権を行使する主体

  親権を行使するのは親であるということは明治民法の時代から規定されています。ここで指摘しておかなければならないことは、明治民法は、封建的な「家」制度を維持するための制度となっており、親権制度も家父長的な観点から定められているという誤解があることです。
  家父長制という概念はヨーロッパの家族関係を知らなければその意味を正しく使用することはできません。法律を超えた文化的な考え方という根強いものです。この意味で日本の家族制度に家父長制という概念をストレートに当てはめることには無理があると私は考えています。
  もし明治民法が家父長制的な「家」制度の維持のための制度設計だとするならば、親権は「家」のトップである戸主にあると定められるはずです。ところが明治民法は先ず父が親権者であり、父が親権を行使しえない事情がある場合には母が親権者になると定めているのです。親権は、子どものための制度であるから、自然な情愛に基づいて親権を行使するべきであり、それは親がふさわしいという考え方が採用されて立法化されたものです。但し、父親が第一順位というところに男女差別があることは看過できません。しかし、これをもって欧米の家父長制と共通だと考えることには無理があるのです。

3 現代社会の婚姻時の共同親権という制度

戦後親子関係に関しては民法改正がされて、親権の主体は一人ではなく、父母双方であり、父母が共同して親権を行使することが定められました。

親である以上、男女の性別にかかわらず親権の主体とされるべきだということは、男女平等の価値観の元当然のことです。子どもに対する自然の情愛に委ねるという考え方は、父と母の双方が親権を有するということがよりよくなじむと思います。

明治民法では親権者は一人でしたが、二人が親権者となると、何らかの決定をしなくてはならない場合にはどうするかという問題が出ます。制度としては、どちらかに優先順位をつけるという形です。明治民法は性別で優先順位を決めましたし、理屈の上では二人の年齢によって決めるなど決め方はいろいろありうると思います。しかし、改正民法では、親権者二人に優劣を決めず、二人で相談して決めるということになっています。父親と母親とどちらにも優劣が無く、平等に話し合いで親権行使を決めるということが、日本国憲法体系かにある民法の考え方だということです。

4 現代日本の共同親権の実態

現代日本では、多くの親権侵害が存在しています。

1)一方の親が子どもを排他的に確保して他方の親の親権行使を侵害

いわゆる連れ去り事案が典型的です。つまり、例えば子どもの母親が、子どもの父親に知られないように子どもを連れて現在の居住地から離れて別居をする場合です。子どもがどこにいるかわからなくなりますので、他方の親は親権を行使することができません。明らかな親権侵害です。

このほかにも、例えば逆に父親が、母親が精神障害にり患しているとして入院させるなどして家から退去させ、母親が退院しても家に戻ることを妨害する事例が実際には多くあります。夫の母親が嫁を嫌っていて、家から追い出すという封建時代かと思わせる女性の被害が起きています。現実には少なくない母親も親権侵害を受けていています。それどころか子どもに会うことすらできない母親も少なくないのです。

また何らかの事情で、例えば母親が夫との関係で罪悪感を持っていることを利用して母親の子どもへの関与を排除してしまう事例も実際は多く相談が寄せられています。

親権侵害の事例は、子どもと一方の親を断絶させるもので、深刻な精神的打撃を受けます。とくに連れ去り事例では、一人残された父親が自死したり、廃人のようになったりするケースを私も多く見ています。


2)親権侵害に対する公権力の加担

一方の親による他方の親の親権侵害の事例の典型的な例は母親の子の連れ去りの事案です。この事案には公権力が加担している案件が実に多くあります。「DV被害者の保護」という名目です。しかし、実際には、身体的暴力や精神的虐待があったと認められるケースは例外的です。判決や和解でもDVは無かったこととして結論が出されることが多いということが実感です。

それにもかかわらず、地方自治体や警察、NPO法人は、ありもしないDVがあったとして父親の親権侵害に加担しているのです。
一方的な母親からの事情聴取だけで「それは夫のDVです。」と宣言し、子どもを連れて父親の知らないところに逃げることを勧め、そして夫から知られないように住処を与えて、生活保護を支給して逃亡生活を援助します。そして、裁判手続きを勧め、法テラスを通じて弁護士を依頼させて、保護命令申立や離婚申立てなどを行うことを容易にしています。

「DV被害者ならば逃がすのは当然ではないか」と、この時点で結論を出す人もいるかと思います。しかし、DVという概念は広範な概念で、DVというだけでは何が起きているのか皆目見当もつかないのです。離婚調停や裁判においても、DVの具体的中身が母親側から具体的に主張立証されることはほとんどありません。

事情聴取はすることになっているのですが、あまり具体的な話は聞いていないのではないでしょうか。また、その話の事実評価も行われていないようにも思われます。私が良く例に出す実際に会った話ですが、月4万円しか夫から渡されないという妻の訴えに対して相談所は「それは夫の経済的DVだ。」と即時に断定されたと専業主婦の妻が言っていました。

しかし、夫の賃金(手取り20万円を切る)が低いうえ、光熱寮などの生活経費や教育費は夫の銀行口座から引き落としになっている上、食材なども夫が全て出していた。つまり、妻の小遣いを何とか4万円捻出していたということが真実だったのです。低賃金の社会構造に原因があるにもかかわらず、夫のDVだと決めつけるところにDV相談が何なのかを象徴していると思います。

むしろ、誰にも相談できないところで深刻なDVは起きているということが実感です。量的には男女差が無いということも感じています。

母親の連れ去り事例における相談所(役所、警察、NPO他)の問題点を整理します。

・ 裁判手続きを経ないで父親の親権侵害行為が行われていること
つまり、父親には反論する権利が無く親権侵害が行われていること
・ 連れ去りに正当性が無いことが裁判で確定しても、親権が回復しない。また親権侵害による損害賠償を請求する方法が存在しないこと
・ 父親の人権侵害に重要な役割を果たしているのは、地方自治体やNPO法人などというつまり税金を使ってのこういであること

父親の親権侵害の観点からはこれらが主たる問題だと思いますが
子どもの健全に成長する権利からはまだまだ大きな問題があります。
突然住み慣れた家、仲良しの友達、学校、地域、何より父親と父親側の祖母やいとこなどの親戚から隔絶されてしまうのですから、子どもの精神的負担は大きく、チックや睡眠障害などの精神症状が出現する例が報告されています。

本来平等だと定めた父親と母親の親権ですが、実際は母親の親権が、税金を使って排他的に優先されているのが現実です。

5 離婚後の共同親権のあり方 現状から見えてくる本当の反対論者の問題の所在
 
8月29日の法制審議会の改正案のたたき台では、離婚後の共同親権が議論されています。しかし、離婚後に共同親権になったからといって、私はあまり楽観できないと思っています。なぜならば、現行法では、婚姻中は共同親権と定められています。ところが述べたように離婚前から別居親、特に父親の親権侵害が公権力によって行われているのです。母親の親権が回復する方法どころか、我が子と面会する強力な公的手段も存在しません。このような現状を見ると、離婚後に共同親権制度になろうと親権侵害が終わるという楽観的な観測を持つことは私にはできません。子どもに会えない母親が子どもに会えるようになるとは思われません。

ただ、面白いことに、そうだとすると現状で父親の親権侵害を支援している人たちは、離婚後に共同親権になったとしても同じようにDVを理由として親権侵害を継続すればよいのだから、熱心に反対する必要は無いわけです。ところが、これ等の人たちは熱心に離婚後の共同親権に反対しているのです。

これには理由があります。現状では、離婚をすれば単独親権となり、親権者でなくなった親は親権を失います。本来親権は、親子という自然な情愛に基づく関係で付与されるものです。夫婦が離婚したところで親子の情愛は続くのですから、離婚をしても親権が存続しても良かったはずです。単独親権と定めた理由は、離婚をしてしまえば他人に戻るのだから親権行使の方法を話し合うことは現実的ではないという考えが大きな理由でしょう。しかし、それは親権の順位をきめればすむことです。「親権行使の意見が分かれた場合は同居している親の考えを優先する。」という決め方だってできたはずです。法改正でこれをしなかったのは、封建制度の考え方が残存していたことによると私は思います。つまり、「離婚をすると一方は家(「家」制度の家ではなく、文字通りの家)から出て行くのだから、家とは無関係になる。子どもは家の所有だから家から出て行った場合には子どもに対しての権利を失うことは当然である。」という考え方です。子どもを一人の人格主体とは見ていなかったということです。これには時代的制約があるためにやむを得ない側面があります。日本を除く世界において子どもの権利を考えるようになったのは、第2次大戦後に始まり21世紀になって定着していったからです。日本だけはまだ子どもは母親の所有物だという考えが公権力にも残っていて、子育ては女がすることだという意識が疑問を持たれないで温存されています。看過しえないジェンダーバイアスであるとともに日本の人権意識の遅れが如実に出ている問題です。

話を戻しますと、離婚後は単独親権になっている現在の制度が連れ去り型の親権侵害では極めて有効な条件で、もしかしたら不可欠な条件なのだという認識が連れ去り推進論者にはあるのでしょう。

つまり、
行政の支援を受けて子連れ別居をする
⇒ 調停などを起こして離婚を申し立てる
⇒ DVの主張が認められなくても、現在の家裁実務では
  「別居の事実」と「離婚の堅い意思」があれば離婚判決を勝ち取れる
  加えて、連れ去り後子どもと同居している、乳幼児のころ母親の方が父親より子どもと一緒にいる時間が長いならば、裁判所は母親に親権を定める
⇒ 離婚が認められ自分が親権者となる
⇒ 父親が子どもに、子どもが父親に愛情があっても父親の親権が離婚と同時にはく奪される
⇒ 養育費は、強制執行の威嚇の下に支払いを確保できる
⇒ ひとり親家庭ということで手厚い行政の支援金が交付される
⇒ ゴールは父親を排除して子どもとの生活

という、今やルーティンともいえるような家裁実務により、連れ去りのゴールが設定されるといううまみが離婚後の単独親権にはあるわけです。(ただし、現実には生活は同居中より格段に厳しくなり、こんなはずではなかったと相談所に抗議をしても、相談所からは「離婚はあなたが決めたことですよ。」と判で押したような返事が来るだけである。という相談を人権擁護委員の多くが聞いている。)

ところが法改正されて、離婚後も共同親権となってしまい、離婚後の父親の子どもに対する関与が認められてしまうと、ゴールが見えなくなります。離婚後のバラ色の姿(空手形ですが)を吹き込むことができなくなることによって、連れ去り別居の意欲がそがれてしまうということに危機感を抱いているのだと思います。

これが離婚後の共同親権に反対する人たちの中核の問題の所在なのです。どうして、当事者でもない支援者が危機感を抱くのか。それは、バラ色のゴールが無ければ、離婚プランの相談をしようとさえしなくなるわけです。相談所のニーズが無くなってしまいます。連れ去りの支援を受けようとしなくなれば、相談や支援を行うNPO法人の存在意義がなくなり、予算が配分されなくなるということがおそらく最大の問題なのではないかと考えることはうがちすぎでしょうか。

もう一つありました。連れ去り事例が多くなって目につくようになったのは、DV加害者に対するセミナーです。妻がいなくなった夫で、もともと真面目な人、ややうつ状態になった人は、自分に原因があって妻がいなくなり、子どもが寂しい思いをしているのではないかと自責の念に駆られる人が多いです。このため、自分のどこが悪かったのだろうか、どう直していけば良いのだろうかと悩むようです。そういう人たちがたどり着くのが加害者セミナーです。独力でたどり着くだけでなく、「離婚調停などで本当に行動を改めるつもりなら、セミナーに通え」と言い渡されて通う人もいるようです。

この種のセミナーを主宰している人に連れ去り支援に加担している人がいます。もちろん離婚後の共同親権制度の創設にも反対しています。

セミナーは長期間行われます。受講するためにはかなり高額な受講料を払わなければなりません。受講経験者から話を聞くと、いろいろ新しい知識が付くので、目からうろこが落ちた思いにはなるようですが、率直に言って効果には疑問があります。そもそも加害者セミナーという名称がその内容を表しているのではないでしょうか。

職業的な共同親権反対論者は、他でも活動をされていますが、どの分野でも共通のスキームを持っているようです。即ち、行政からの委託料ないし補助金と、高額のセミナー開催です。また、特徴として、公金の流れが、民主主義の原理によって決定されないで、情報開示請求などが無い限り公にされないというところも共通であるようです。

公的な親権侵害の特徴は、国民が知らない間にいつの間にか制度が出来上がっていて、その制度で利益を得ている人たちが行っているということです。そして、その確信犯に、心情的に追随してしまう人、正義感が強すぎる人が、一部の被害実態(あるいはアメリカの被害実態)が日本においても普遍的な事態だと思い込んでしまう人が、良心的に指示してしまっているところにあると思います。

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なぜ妻は、婦人相談所で、夫から精神的虐待を受けていると言うのか 夫が悪い、妻が悪いという二項対立をアウフヘーベンして幸せな家族を作ろう 自分たちを大切にする方法 [家事]



1 思い込みDVのパターン

 ありもしない夫のDV、精神的虐待を妻が婦人相談所であると言ってしまう一つ目の理由は、思い込みDVのパターンです。
つまり、妻がもともと出来事が無くても不安や焦りを感じやすい体調になっている(パニック障害等の精神疾患、精神症状を起こす場合のある内科疾患、婦人科疾患、交通事故などの頭部外傷、お子さんに障害がある場合、住宅ローン、夫に内緒の借金や公共料金滞納、自分の過去)。
  ⇒ 不安や焦りを解消したい。⇒相談機関があるから相談してみる。
  ⇒ 夫に対する不満を話すよう誘導される(誰だって多少はある)
  ⇒ 「あなたは悪くない。それは夫のDVです。」
  ⇒ 夫からDVを受けています。

2 ミュンヒハウゼン症候群みたいな

 妻がありもしないのに、婦人相談所でDVや精神的虐待を受けているという二つ目のパターンは、誰かから要するにちやほやされたいという感情が病的にある場合ということです。

しかし、そういう要求が出現することはやむを得ない事情があるようにも感じます。
 これまでの人生において、姉妹、兄弟、あるいは親と比較して、自分だけが他者から肯定的な評価を受けず我慢していたとか、病気等が原因で仕事も家事もできず他者に貢献する機会がなかったことに後ろめたさを感じ続けてきたような場合(基本的にはまじめすぎる人なんだと思います)、夫の仕事の都合で見ず知らずの土地に来て地域の人と打ち解ける機会もなく孤立している場合という環境因子と、やはり本人の性格が合わさり、他人からちやほやされたいと思うようです。役所の公務員、警察、NPOの専門家然としている相談員、医師や教師などからちやほやされることに免疫のある人はいないでしょう。

⇒ 夫からDVを受けている。⇒ 大変だね。頑張っているね。あなたは悪くない。⇒ 実はもっとひどいことをされている。(離婚歴などがあり、過去にパートナーからひどい仕打ちを受けていてPTSD様の状態である場合は、過去の体験を現在の夫の行為として話し出すことが複数件でみられました。その時の様子についての説明から、結婚する前の時期の出来事だと判明。)
⇒ 早く夫から逃げなければ殺されてしまうよ。⇒ いやいやそこまででは・・・
⇒ 何を言っているの?命は大事だよ。子どもも殺されるかもよ。そんなひどい人なら一生治らないよ。
⇒ じゃ、じゃあ・・・

3 夫の正しさ

妻が婦人相談所から尋ねられて、精神的虐待やありもしない夫のDVを肯定してしまう場合に他の要因と合わさって、夫の過剰な正しさがある場合があります。
8月3日付のブログでも書いていますが、今回は妻の心理の側面から補足したいと思います。
人間は、群れの中にいたいという主としての本能がある一方、生物個体として自分の身を自分で守りたいという本能があるようです。両者は局面によっては矛盾するのですが、月と地球のように遠心力と引力が折り合っているのでしょう。

自分の身を自分で守れないと感じるとパニックになり、不安や焦燥感をいだくということは簡単に想像できると思います。真っ暗の中、どこかわからないところで目隠しをされて両手両足を縛られてしまうと、誰でもパニックになると思います。具体的危険が迫っていなくても、自分の身が危険さらされていると感じると思います。誰かが、あるいは動物が近づいてくるような足音が聞こえてきたりするかもしれません。金縛りのパターンも同じでしょうね。これをまず抑えておいてください。

夫の正しさが、妻を金縛り状態にするわけです。

「それをするな。」、「それはだめだ。」、「それはダサい。」、「常識に反する。」、「考えればわかるだろう。」、「やりなおせ。」、「謝れ。」

夫の言っていることは、場合によっては正しいことも多いのです。ただ、その正しさを貫くためには家の中でも常に緊張状態でいなければならず、安らぎなんて無いわけです。当初は結婚したほどですから、何とか夫から評価されたい、あるいは、夫から嫌われたくないと思って無意識に一生懸命やるわけですが、長続きしません。

徐々に自分が何をしても否定されるという意識になって行ってしまいます。何をするのも怖くなります。家のことなのに、自分で決めることができない状態になるわけです。あれこれ行動が制約されていくうちに、「自分で自分のことを決められない。」⇒「自分で自分のことを守ることができない。」という意識になり、
⇒「自分の行動は夫から支配されている。」と思うようになるようです。

そして、広範なダメ出しによって、自分は夫から見下されている、馬鹿にされている、対等の関係を築けない
⇒ 夫といると自分は安心できない。警戒し続けなくてはならない。
という感じになるようです。犬の嫌いな人が、大型犬と一緒にいるような落ち着きなさが日常になってしまうのでしょうね。

また、人間は成長過程によって、自己防衛を指向するようになります。つまり赤ん坊の時は、自分のことを自分で決めたいという個体はあまりいません。大人になっていくにつれて、自分のことを自分で決めたいという意識が強くなっていき、これを妨害する相手を敵視するようになるようです。結局、「何かあったら守ってもらいたい。でも日常は自分で決める。」というのが成体の人間なのでしょう。

また、夫の言い分が正しいとしても、それを発する自分の労力、それに対する否定的な感情を抱く相手の気持ち、その結果夫婦にしこりを残すという多くのデメリットを考えると、妻にやかましく言うことは結局のところ誤っているということになるかもしれません。ところが実家でのしつけの家庭や学校、職場での行動様式の静かな強要、常に神経を集中させる生活が身についてしまうと、他人である妻がいる空間でも、つい神経をとがらせてしまう行動様式を取ってしまうのかもしれません。その行為だけを見て評価をする場合は間違ってはいないのかもしれませんが、根本的な家族という人間関係を良好なものとするという観点では、端的に言うべきではない。費用対効果が見合わないということになります。

見て見ぬふりをする。まあいいかという心の中の処理をする。許す。寛容になる。相手に任せたことに男子たるもの口出ししない。こんな感じの生活が幸せを勝ち取る最善の手なのだと思うことが無難なのだと思います。

4 夫の幼さ

夫に身に覚えがないのに妻が精神的虐待を受けていると主張する4番目のパターンは、以下に述べる夫の幼さを妻が指摘して夫が感情的に反発するパターンです。
別居事例、離婚事例を見ていると、夫婦で共同生活を送る以上、一方は他方に「二人で生活している」という実感を持ってもらわなければならないと考えた方がよさそうです。意識的に実感を持ってもらう行為をするということです。

しかし、おそらく学生時代に両親と生活している感覚なのかもしれません。すぐに一人になろうとして自室にこもるとか、休日に妻を家に置いて頻繁に自分の趣味の活動に出かけてしまうとか、家事を頼まれていても忘れてしまうとか、自分のことはいろいろプランを立てるけれど夫婦共通のこととなると主体的に取り組まないとか、見たい番組ではないからと言って一緒にテレビを観ないとか、高額の趣味のものを内緒で買ってしまうとか、家のことでやらなければならないことなのにそれを妻から言い出すとなんだかんだ引き延ばして嫌々やっている感を出すとか、妻が料理をしても自分の趣味(と言ってもユーチューブ見ているとか)を優先して別々に食べることになってしまうとか。

そういう不満を最近家裁手続きの書類で読むことがあります。中には職場の過重労働やトラブルでうつ状態になり、一人の部屋に逃避している場合もあります。

それでも妻からすれば、結婚しているのに二人で行動しないでどうして自分が一人ぼっちにいつもさせられるのかという不満をもつのも理解できることです。新婚の内は別々の部屋なんて本来ない方が良いのかもしれません。

逆に妻の方がべたべたするのが嫌で、一緒に部屋にいるのは良いとしても、あれこれ詮索されることがうっとうしいというストレスが爆発したような事例もあります。

いずれにしても、男性も女性も、自分が相手から尊重されていないのではないかということを自分を軸に考えますから、相手が尊重していないわけではないとしても、感覚が違うと自分だったらこうしたいけれど相手がそうしないということだけで、たちまち不安になるということはやむを得ないところだと思います。

これを解決するためには、先ず、言葉で自分は相手を尊重している問うことを明確に伝えること、そしてお互いの生活上の希望を出し合うこと、相手が切実に一緒に行動したいというならば、やはり一緒に行動するように自分のスタイルを修正するべきだと思います。但し、自分のスタイルを相手に押し付けて、相手がそれに同意しないからと言って感情的になってしまうのもわがままであり、共同生活が難しくなるようです。

加減は難しく、時間がかかります。自分の信念や哲学、心情を捨てるということも時には必要になると思ってよいのではないでしょうか。ちなみに私もだいぶ独身時代大事にしていた心の部分を捨て去りました。大げさに言えば生き方を変えたところも結構あります。でも、歳をとった今となっては、なんであんなこだわりを持っていたのだろうと肯定的に捉えることの方が多いように思います。そのおかげでこのブログや対人関係学が結実したようなものです。結婚をすると選択した以上、ある程度家族を優先して生きていくということは不可避的な話なのだと思います。余計な話ですが、それだけ努力しても、なかなか相手には伝わらないことが唯一残念なことではあります。

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家庭では意識して要領の良さを追求しないことこそが要領の良いスタイルであること 家族は安心するために一緒に生活しているということ [家事]



先日、新幹線と在来線を乗り継いで離婚調停に代理人として出席してきました。離婚をするべきか、どうすればよかったか、これからどうするか等、調停委員の先生方も一緒になって考えるという理想的な家事調停が行われたと感じました。

さて、その事案も、真面目で責任感がありすぎる夫婦が、相手のことを思い、子どものことを気に掛けるあまり、無駄な衝突を繰り返しているという多くの離婚事件に共通の出来事があり、調停委員の先生を交えてその原因について検討し、対策を話し合いました。

常々私は、夫婦喧嘩の原因が、正義感、合理性を家庭の中に持ち込んで、厳密な公平を求めすぎるところにあるということを述べてきました。ここでは合理性の弊害がまな板の上に上がりました。

合理性というと少しわかりにくいのですが、要領の良さを相手に求めるというと少し思い当たることがあるのではないでしょうか。

例えば、洗濯物を干すときに乾かすためには洗濯物と洗濯物の間をあけなければならないとして相手が干した後で干しなおすとか、風呂掃除をしているときに洗剤をつけて1分そのままにしなければならないので、その間に夜間に水を入れてお湯を沸かし始めることができるのにボーっと風呂桶を見ているなとか、無駄を省けということを家族に言ってしまうということは無いでしょうか。

液体をこぼした時に新しいティッシュを使わないで広告紙を使えとか、落語の小言隠居みたいなことをつい言ってしまうことがあるようです。落語の世界ならばうるさい爺だと相手にしないしたたかな長屋の人たちの対応が笑いにかわります。しかし、言われた相手が、真面目で責任感があって、相手から愛想をつかされたくないと考えているとき悲劇が始まるようです。

言った者の言い分が正しいように感じますから、言われた方は反論できません。そうしなければいけないのだろうなと頭では考えてしまいます。相手から失望されたくないという無意識の願いは、自分が相手から否定されたという被害意識を感じやすくなっています。さらには、相手が疲れているから休ませてあげたいと思って、本来相手の当番の洗濯物を干すことを買って出たのに後から干しなおされたり、皿洗いを買って出たのに洗いなおされたりする場合、相手のことを思いやってやったことで喜ばれると思うのに逆に否定されるアクションを受けるわけですからカウンターとなり余計にダメージが大きくなるわけです。

このように要領の良さを追求した行為で、相手が不快になることは当たり前のことだと思います。相手方を不快にするデメリットを払ってまで追求しなくてはならない要領の良さというものはあるのでしょうか。洗濯物なんてよっぽど重ねなければそのうち乾くでしょうし、食器なんてなんなら食べる直前できれいにすれば足りることでしょう。どうしても気になるのであれば、相手に気が付かれないようにそっと治しておけばよいはずです。

どうしてそのように相手の気持ちを考えることをしないのでしょうか。

つまり、そこまで考えていなかった。

ということのようです。相手の気持ちを考えないで夢中になって合理性を追求しようとしてしまっているのでしょう。それでは、わずかなバイト料を得ようとして逮捕されるということまで考えていなかった闇バイトをすることや、視聴者数を増やそうとして損害賠償を受けることまで考えていなかった迷惑系動画を発信する人とあまり変わりないということは言いすぎでしょうか。

もう少し相手の気持ちを考えてみましょう。
要領の良い行動をするためには、常に物を考えて要領の悪い行動をしていないか、もっと要領の良い在り方があるのではないかと考えている必要があります。無意識でできるひと、考えることが楽しいという人は確かにいます。

しかし、相手は必ずしもそうではない。要領よくやる必要性を感じていなければ特に考えたりしません。家事や労働につかれている人は、そこまで余裕がなく、風呂掃除の洗剤を巻いてしばしば休息が必要な状態かもしれません。体調の問題もあるでしょう。また、一つ一つ完結させてから次の仕事をしたいと言う人もいると思います。

それにもかかわらず、一人の視点の要領の良さを押し付けられてしまうと、自分の視点では何をどう要領よくやればよいかわからなくなります。何をやっても要領が悪いと非難される危険もあるわけです。相手のやった行動を見て後付けで要領の良い方法に気が付くこともあるでしょう。

それにもかかわらず、いちいち非難されてしまうと、自分のやることすべてに自信が無くなり、相手が返ってくると何か言われるのではないかとびくびくして、常に相手の顔色を気にしている状態になる危険があるわけです。これだけでそういう気持ちにならないかもしれませんが、要領の良さの「指導の仕方」によっては、他の体調面の問題、他の人間関係での問題と相まって、家族であるはずの相手を嫌悪する要因の一つになりかねないようです。

では逆に合理性、要領の良さを犠牲にしてまで家族に気を使わなければならない理由があるのでしょうか。

あるというのが私の結論です。

そんなことに科学的裏付けは本来不要だと思うのですが、一つの考え方として読んでください。家庭では要領の良さを追求しないことが合理的だという理論的根拠です。

夜勤をされている方々には申し訳ないのですが、夜に寝て朝に起きて仕事に行って夕方ないし夜に帰ってくるという生活スタイルを前提にお話をします。

人間は、概日リズムというものが体内にあり、細胞レベルで、朝と夜を知る体内時計があるそうです。脳の仕組みも、明け方から夕方にかけては、活動する仕様になっていて、夕方から明け方にかけては休息をする仕様になっているそうです。活動する仕様というのは、交感神経が活性化し、緊張して集中し、諸活動をうまくこなすことに都合が良い状態になっているということです。これに対して、休息をする仕様というのは、昼間の緊張によって血管をはじめとして体の部分を酷使しているわけですから、休息をして心身のメンテナンスをする仕様になっているようです。

本来副交感神経が優位になって効果的に休息をする体の状態になっている時間帯に、緊張が連続して起きてしまうと、身体の様々な部分に不具合が起きてきてしまい、このような不自然な状態が極端に続くとメンテナンスができなくなり、過労死をしたり過労自死をしたりするわけです。

つまり、夕方から明け方にかけては、極力緊張をしない、させないということが長生きするためには要領が良いスタイルなのです。また、脳が休息モードになっていれば、細かい配慮などもできにくくなります。緊張をして要領の良さを追求すること自体が要領が悪いということになるでしょう。そうして、結果的にメンタルにおいて圧迫をし続けてしまうと相手はあなたと一緒にいることが苦痛になり、あなたという存在を嫌悪するようになってしまいます。

要領の良さを追求するだけでこのようなことになることはめったにないでしょう。妊娠・出産及びその後2年くらい、頭部外傷があった場合、ホルモン分泌異常やうつ病などの疾患がある場合、お子さんに障害がある場合、勤務先での人間関係の不具合、睡眠不足と相まって不安の原因を誰かに求めようとしてしまうようです。その時、休息を妨げて緊張を強制する相手が自分の唯一のストレッサーだと決めつけるということをよく見ています。

その結果別居になって二重に生活費がかかったり、財産分与で老後の計画が崩壊したりということは、洗濯物を干したり食器に汚れが遺ったりするよりもよほど要領の悪いことになってしまいます。

どうやら人間にとって家族とは、一日の活動を終えて同じ場所に帰ってくることによって自分も安心するし、相手も安心するという存在のようです。家族と合流することで安心を増幅して、心身の休息の効果を増大させるという役割があるようです。

本来の家族の役割は他の家族を安心させること、緊張から解放することにあると言えるのではないでしょうか。大いに安心してリラックスして休息して心身のメンテナンスを行い、明日の活動の体力、活力、集中力につながるのだと思います。

ところが、職場や学校などで、要領の良さや集中力を発揮しなくてはならないようにさせられてしまうと、ついそれがすべての人間関係で同じように行わなければならないと勘違いしてしまうのでしょう。余計なものを家庭の中につい持ち込んでしまうようです。

だから、家庭の中では細かいことは言わないし、相手の行動を否定する言動をしない。すべてを大目に見て家族でいることに安心してもらう。これを意識的に行う必要が現代日本では必要であるようです。

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子の連れ去り事案で、相手方ないし相手方代理人と連絡が取れる場合にするべきこと、してはいけないこと [家事]



「ある日、妻が子どもを連れて家を出てしまっていて、どこに行ったか分からない」といういわゆる子の連れ去り案件は決して減ってはいない状態です。しかしながら、奇妙なことに残された夫側の代理人技術というものはあまり進化していないように感じられます。ただ、連れ去り側の代理人の行動がシステマティックに練られているっているような印象を受けます。

連れ去りがあっても、妻とラインがつながっていることもありますし、本人とは連絡が取れなくても妻側の代理人の受任通知が届くこともあります。ここが肝心です。ここで、純粋な本心で対応できれば良いのですが、それがなかなかできない。あたかもその弁護士が連れ去りをそそのかしたかのように攻撃的になってしまうことが、むしろ多いのではないでしょうか。

しかし、その結果は、当然妻の代理人の夫への態度を硬化させますし、代理人は聞かされた妻の思い込みのように夫は暴言や誹謗中傷を毎日のように妻にぶつけていたのだろうという偏った見方を固定化してしまいます。また、妻は、夫の怒りの対応を代理人から告げられると、やっぱり夫は怖い存在であり、嫌悪するべき存在だという思い込みが、真実だと確信してしまう効果しかありません。メリットは何もなくデメリットしかありません。

先ず、家族再生を目指すのか、きれいさっぱり離婚するのか、腹を決めなければなりません。以下は家族再生を目指すことを選択した場合になすべきことを述べます。

家族再生を目指すならば怒りを少し他所(よそ)に置いておく必要があります。

気持ちはわかりますから私から「怒るな」とは言いづらいので、しばし他所に置いておくという言い方をしました。連れ去りなんかしなければ、怒りが出てこないので本当はうまくいくのになあといつも残念に思っています。

他所に置くということは、
1 怒りの気持ちを相手や相手方代理人にみせないということ
2 怒りの発想でこれからするべきことを計画しないということ
です。

1 まずは無事を確認出来て安心したはずです。安心したということをしっかり伝えることが最優先です。つまり心配していたということを伝えるということです。しばしばこれが省略されてしまいます。怒りに変わっているから忘れているわけです。

  次に、連絡をいただいたことの感謝を伝えることです。感謝をしろと言っているのではなく、無事を伝えていただいたことに感謝を伝えるだけです。気持ちはどうでもよいのです。

  そして、心配していることを伝えましょう。経済的問題や健康問題、さらにはメンタル上の問題です。怠薬していないかとか、お金が無くて通院できないのではないか、子どもはそれまで環境から一方的に別の環境に置かれてしまっているので戸惑っていないか。などでしょうね。

 つまり、怒ることによって崩れそうな自分を支えているために、本当の気持ちが自分でも見えなくなっているわけです。だから、怒りを捨てることはできないとしても、怒りを他所において、「妻と子どもが突然いなくなって、どんな状態かまるで分らなかったのに、とりあえず妻の代理人から連絡があり妻が無事であることが確認できた場合、どういう風に行動することがあるべき行動か」ということを冷静に考えて、その考えに従って行動しなくてはならないということなのです。

 そうすると、突然の子連れ別居をしているということは、相当精神的に不安定になっていることは間違いありませんから、味方になる弁護士がいるということであれば、自分の妻子が世話になるのですから、感謝の言葉を伝えることが当たり前のことになるわけです。しつこいですが、本心は別で構わないのです。

 本人から連絡が来たら来たで、かなりの努力をして連絡をしてきているのですから感謝やねぎらいの言葉を発するということが大事です。

 本人は、色々な事情で夫と同居することに不安や不快、嫌悪を感じています。必ずしも夫に原因が無いことや主たる原因が別にあることがほとんどです。だから、家族再生を目指すのであれば、目標は一つです。「妻を安心させること」これに尽きます。不安がらせる行動を行わないで、安心させる言動を意識的に行うことです。

 そうすると、いなくなって当然心配するわけですから、先ずは心配していたということをはっきりと述べることが必要ですし、無事がわかれば安心したということをはっきり述べることが必要です。相手方代理人は、夫について妻から思い込みによる歪んだ情報しか得ていませんから、怒りではなく、「一番良い方法で」対処しようとしているという姿勢を示さなければなりません。

但し、連れ去り側のマニュアルでは、夫は狡猾に紳士を装うというものがありますから、直ちに連れ去り側の弁護士が安心することはありません。決して怒りを見せず、心配を言葉にし続けることが肝心になります。

2 怒りの発想で対応のプランを立てない

怒りは、自分が被害を受けた場合だけではなく、道理や道徳、法律や合理性に反する行動に対しても起きてしまいます。だから連れ去りで怒りが生まれるのは当然です。さらに、放っておくとうつ状態になってしまってとても苦しい状態になるけれど、怒りを持つことによって自分を保つことができるということを経験的に覚えてしまい、相手に対して無制限の怒りを抱いてしまう場合があります。

そうするとこれからどうしようということで、まず考えてしまうことは相手に対する制裁です。

だからと言って相手を襲うことを考える人はいません。警察や裁判所を通じて相手を制裁することをどうしても考えてしまいがちです。まじめな人、責任感が強い人ほど裁判所を通じて当たり前を実現したいという気持ちになります。場合によっては本人以上に家族がそういう考えになることも少なくないでしょうね。

その真面目さに従って、ネットで調べて、監護指定・子の引き渡しの審判を申し立てたり、仮処分を申し立てたりするのですが、私は今の家庭裁判所の実務ではメリットはなく、デメリットは確実にあるというのが感想です。(ただ、それでもやらなければならない場合がありますので、それはまたいつかの機会にお話します。)

メリットが無いというのは、それでまず裁判所がこちらに子どもを引き渡せという命令が通常は出ないということです。私は代理人として、一度どうしても必要であったため子の引き渡しの審判を申立てて、認められたことがありました。しかし、諸事情で控訴審の代理人に選任されなかったところ、控訴審で逆転敗訴になったようです。妻の「子どもに夫を面会させる」という空手形で判断が逆転したみたいです。当然妻は約束を実行しません。約束を実行する人か、裁判を有利にするための口から出まかせかもわからない人たちが高等裁判所の裁判官をやっているわけです。

デメリットというのは、子の連れ去りを裁判所がお墨付きを与えた形になること、妻側の夫に対しての敵対的姿勢を固定化すること、何よりも夫は安心できない存在だという気持ちも固定化してしまい、家族再生がさらに遠のくこと、そして弁護士費用が掛かることでしょうか。自分の妻に対する敵意も高まってしまうことも結局はデメリットだと思います。

怒りに基づく行動は、家族再生という目的と反対方向に向かう効果を生む行動を起こしやすいという弊害があるわけです。

私の依頼者ではありませんが、妻に対して報復をして子どもを取り返した夫は、それまで聞いたどんな人よりも妻に対しての憎しみと怒りを言葉にしていた人でしたが、妻に対しては全くそのようなそぶりを見せず、過剰なほどサービスまでして目的を実現していました。

ただ、なかなか怒りを制御することは難しいことです。どうしても人間である以上、自分を守りたくなることは本能的に仕方が無いと思います。その人が怒りを持ちやすいのではなく、怒りを持たされやすい環境に叩き落されたからだと思っています。

そういう場合は、自分で自分をコントロールするという無茶をしないで、代理人に窓口になってもらうということも選択肢とをしてお持ちになった方が良いと思います。

但し、怒り他所に置いていて家族再生を目指すという代理人活動がなかなかメジャーになりません。そもそも妻が子どもを連れて別居するのは、夫のDVが原因ではないかという思い込みを持った法律家があまりにも多すぎるような気がします。夫のDVが無くても子連れ別居はあるという認識を持てる弁護士もいるのですが、その多くが正義の弁護士が多く、戦う戦略をとることが多いようです。なかなか遠方の依頼者に紹介できる弁護士がいないということが目下の悩みです。


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