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「子ども家庭庁」の名称に賛成する。安心して帰ることができる家庭を意識的に育んでいく政策を進めてほしい。子どもから家庭を奪わないでほしいと願う意味 [家事]



政府は、子ども家庭庁という機関を創設するそうです。とても素晴らしい政策になる可能性があると期待をしています。
子ども一人一人が健全な成長を遂げることは、国民一人一人の幸せに直結すると思われます。

名称については、インターネット上で議論があるところですが、私は「家庭」という文字をつけることに賛成です。
ここでいう「家庭」のあるべき姿としては、「その中にいることで、安心できる人間関係」、「どんなことがあっても、自分が見捨てられることがないと信じ切ることができる人間関係」ということになると思います。また、その意味で、ここでいう家庭とは必ずしも親子という限定的な意味ではないと考えています。

子どもという概念と家族という概念は、政策立案及び執行にあたっては、切り離すべきではないと考えています。子どもは単体で生きているわけではないからです。子どもであっても、「自分」を意識する場合、家族や、年齢によっては友人や学校の先生などの、「他者との人間関係の中にいる自分」ということを意識し、自分という概念を形作っていくわけです。
特に子どもという時期の人間にとって、家族はとても影響力が強いわけです。だから、家族の在り方が子どもにとってふさわしい在り方にすることが、その時の子どもの幸せに直結するし、成長するという子どもの特性を踏まえても必要なことであるということは間違いないと思います。

例えば、両親が離婚したり別居したりした子どもは、一緒に住んでいない方の親とも交流を持ちたいと思い、交流が持てないことに不満を持つという調査結果があります。一緒に住んでいない親と定期的に交流していない子どもは、そうでない子どもと比べて自己評価が低いという統計もあります。このために日本も民法を改正し、離婚をする際には面会交流の方法を親に決めさせることを原則としています。

この点、「子どもの独自の権利を認めるべきだから、家庭と切り離して子どもの在り方を考えるべきだ。」という立場から、家庭という文字を庁名に入れるべきではないという反対説の論拠があります。しかし、家庭という名前を入れたからと言って、子どもの独自の権利を否定するということにはなりません。心理学的にあるいは発達科学的に、子ども、子どもの成長と家族の関りを関連付けることは必要な考えだと思います。
子どもの独自の権利を考えるからこそ、親や社会に対して、子どものために家族の在り方を見直していこうという問題提起ができるのだと思います。

また、インターネット上で話題になっていることとして、家族から虐待を受けた経験がある方が、家庭という文字に心理的な抵抗があるということで、家庭という文字を削ることを提案し、一度は政権党のチームもこれを受け入れて子ども庁という名称にする動きがあったとのことです。
拝聴し、考慮し、検討の材料とするべき話ではありますが、およそ国の政策決定の際に決め手にするべき要因にはならないと思います。国家政策ですから、原則的に推進していく課題と、そこに不可避的に生じる個別の不具合への対応ということは当然あるわけです。政策決定にあたって必要なことは、現状の日本の状態がどのようなものであるかという分析と、それに基づいて何をどのように修正するかという政策方針の決定という科学ではないでしょうか。個人の体験に基づいて政策の原則論が左右されるということはあってはなりません。寄り添いとか優しさとかそういった感情は大切な感情です。しかし、政策を立案する場合は、感情を大切にしつつも、国家情勢という視点から政策を進める必要がどうしてもあると私は思います。

私は、現代の日本の社会病理は、人間が、自分が安心して帰属できる人間関係が存在しないという対人関係の現状が大きく影響としていると考えています。学校でもいじめを受けないように親も心配し、子どもも気を使い、仕事を始めてもいつまでこの職場で働くことができるか不透明な非正規雇用があり、正規雇用労働者であっても、偶然に左右され、上司の主観に左右される業績評価によって、自分が不当に低い評価を受けたり、解雇におびえたりしているわけです。家庭においても、子どもに良かれと思いながらも、厳しい就職状況を背景にして、高い学歴を身につけるという方法論によって、子どもに高いハードルを押し付けているような状況もあるのではないでしょうか。子どもに限らず、人間の多くが、自分のよって立つ場所、自分のありのままに過ごしてよい場所が無い、四六時中緊張していなければならないという有様ではないでしょうか。多くの人間に、自分がいつか、この仲間から切り捨てられるのではないか、自分の能力が高いことを見せつけなくてはならないのではないか、仲間が自分よりも優秀であることに不安を感じてしまう、そういう焦りや不安が蔓延しているというのが今の日本だと思います。私は、この不安や焦りが社会病理の温床だと思っています。

人間が、安心して過ごす場所を求めているというのが現代社会だと思います。安心して過ごすことができる場所の第一の候補は、消去法で言えば、やはり家庭なのだと思います。

こういう考えに対しては、「家庭にはいろいろな形がある。虐待をする家庭もあることだから、家庭を改善することは効果が期待できない。」という反論が考えられます。すべての家庭で子どもにとって居心地が良い家庭にすることは確かに難しいでしょう。
しかし、だからといって、「子どもが安心して生活する家庭を育てる」という政策が重要であることを否定することはできないと思います。
そのことについて説明をします。

たとえば、児童虐待という言葉を一つとっても、私は、国民が「虐待」という言葉によって、少なくとも二つの誤解をしていると感じています。あたかも、「虐待」と「しつけ」には、完全な仕切りがあるという誤解が一つです。もう一つの誤解は、子どもを虐待する人は、特別な思考をする人、特別の性格、人格を持っている人であり、自分とは別の種類の人間であるという誤解です。いくつかの児童虐待事件に接して思うのですが、例えば児童相談所に、児童虐待があって子どもを引き離される人の例を見ると、そうではないという思いが強くなります。
例えば、危険なので子どもが近づいてはいけない沼があり、母親からそこにはゆくなと再三言われているような場合に、友達と遊んでいる流れで沼の近くで遊んでいて、ついつい時間を忘れて遊んでいて遊んでいたとします。母親は、感情的ではなく、二度と沼に近づいてほしくないために、子どもに手を出させて手を叩くということをしたとします。体罰だから虐待だとする人もいれば、その程度の痛みは母親の心配を伝えて、命を守るためには許されると考える人もいると思います。私は、子どもの年齢や性格、母親の育児補助がいない等の事情があれば、子どもの命を守るためには、子どもが危険に近づかないために許される懲戒だと考えます。懲戒の後のフォローは考えなくてはなりません。
例えば。何かの罰として子どもに食事を与えないことは虐待であると思いますが、例えば約束を守るということの大切さを教えるために、約束を果たしてから食事をするということは、その約束を果たすことの難易度や所要時間に照らした場合は、認められることもありうると思っています。もちろん、その場合は、兄弟には食事をさせて、せめて親の一人は一緒に食事を遅らせる等の対応は必要だと思います。
例えば、子どもが不道徳な遊びをしているときに、こんなことをやっていたらダメな人間になってしまうとか、夜遅くまで寝ないと成長に影響が出てしまうということを親が子どもに言う場合でも、子どもがひどく恐怖を感じてしまう場合もあるわけです。言い方によっては精神的虐待になるかもしれませんが、子どもにとって必要な説教だという場合もあるわけです。

とかく児童虐待事件というと、極端なケースばかりが報道されます。しかし、児童相談所が介入する場合は、そのようなわかりやすいケースばかりではありません。私から見ると、虐待としつけ、体罰としつけというものは、それほど完全に区別のつくものではなく、連続しているのではないかと考えています。そして、例えば親が会社で理不尽な叱責を受けていたとか、子どもが友人と喧嘩したとか、色々なタイミングが影響して、子どものこころに影響が残る場合とポジティブに受け止めることができる場合と、偶然に左右されることがあると感じています。
つまり、私も虐待をしてしまうこともあれば、あなたも虐待をしてしまうタイミングがあるかもしれないということなのです。虐待というのは他人事では決してありません。完ぺきという御家庭がないのであれば、みんなで家族という人間関係を安心できるものに育てていくという国家政策が必要だと思うのです。

子どものこころや成長にとって必要なことは、虐待をしないことというよりも、なんやかんやあっても、安心できる家庭があることということになるはずです。絶対自分は家族からは見捨てられることはないという確信を持つことだと考えています。これさえあれば多少の親子関係のぎくしゃくがあっても、子どもは自尊感情を低下させることはないでしょう。また、学校や職場で理不尽な思いをして傷ついても、「自分には帰るべき家庭がある。」ということで精神的ダメージを軽減することができるはずだというのが私の考えです。

それから、親の虐待については、知識不足ということが大きく影響としているように感じます。偏った知識、ある状況には対応できる優れた対応方法でも、その人の家庭で行ってしまったら子どもの不安を招くだけだというような対応をした形の虐待も多く見受けられます。それから、親のその時の社会的立場だったり、職場での人間関係だったり、あるいは内科、外科、精神科的な健康状態ということも大きく影響をしていると感じています。
だから、親の健康状態を悪化させないこと、対処方法の選択肢を増やすこと、精神的安定なども、子どもの幸せに直結することになると思っています。何よりも親の育児を様々な側面から支援することも、子どもの幸せにダイレクトにつながっていくことだと思います。

日本の家庭の多くは、「伸びしろ」が期待できる。こういう状態だと思います。

もう1つ、無視してはならない問題があります。親と同居していない子どもが存在するという現実です。原則的政策を進めるにあたっては、必ず少数者が生まれるわけで、その少数を無視してよいということにはなりません。
しかし、子どもにとって家庭が大切であるという理解は、親と同居していない子どもにとっても有益になるはずです。子どもにとって何が大切か、家庭とは何かという問いに対して、「安心して暮らせる人間関係、絶対に見捨てられないと信頼しきることができる人間関係」であると考えることが必要です。そういう風に考えられるのであれば、親と一緒に暮らしていなくても、親ではなくとも、固定の人間関係の中で安心できる状態で生活できることを目指すべきだということになります。ヨーロッパでは、このような考え方が第2次世界大戦後には主流の考え方になっています。養護施設や病院などで、世話をする担当者がくるくる変わってしまう状態では子どもの精神状態が安定しないとして、抜本的な改善が進められました。日本でも、さまざまな困難なポイントがありながらも、もっと改善を進める契機になると思われます。
さらには、壊れない家庭を作るという選択肢を提起するということにもつながると思います。様々な国家政策の中で、これまで家族というものが軽視されて続けてきました。家族に問題があれば解体するという発想が優位になっていたような印象すらあります。子どもにとって家庭が大切であるならば、それにふさわしい家庭を作る方向で政策を進めることが期待されます。親に対しても、子どものために努力をしたり、我慢をすると言う選択肢を臆することなく提起するべきです。親だけでなく、社会全体が子どもから家庭を奪わないということを第一次的な目標にしてほしいと切実に感じています。

子どもから家庭を奪う最大の問題は過労死等の親の死です。私も過労死啓発シンポジウムなどで強調しているところですが、過労死を筆頭として、働き方が家庭に大きな影響を与えています。子ども家庭庁の事例や調査の蓄積をもって、親の働き方の問題について、他の省庁や社会に対して問題提起をすると言うことも素晴らしいと思います。学校や地域、受験制度等についても、子どもの利益という価値観から意見を述べてほしいと願っています。これまでこういう発想、立場の機関はなかったと思います。子どもの利益を図る横断的な国家機関ということは、こういうことをまさに求められているということになると思います。

子ども家庭庁という名称に、以上のことから私は大賛成です。色々な意味で、子どもから家庭を奪わないでほしいと思います。子どもの利益を基軸に、様々な国家政策が展開されていけば、日本という国はだいぶ住みやすい国になっていくと思います。

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DV法の保護拡大の報道に接しての危機感を表明する。家族制度解体に向かう亡国の法律となる危険があるということ。国家としてあるべき政策とは。 [家事]




配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(DV法)が拡大の方向で改正される動きがあるらしい。

私は、この法律実務に関与した経験のある弁護士として、この改正によってこれまであったDV法の危険がより深刻化するのではないかという懸念があります。その懸念をここに記しておきます。

<現行法のおさらいと改正の動き>

今改正の動きがあるのは
保護命令(DV法10条)と呼ばれる制度の拡大です。
保護命令は、
A:すでに夫婦等が別居している場合は、6か月間、被害者(DV相談をした相談者という意味)の住居、勤務先などに近づくこと、付近を徘徊することの禁止命令
B:申し立て時夫婦等が同居している場合は、加害者(被害者の配偶者等という意味)を、2か月間自宅に立ち寄らせないという命令
を命じることです。

罰則として1年以下の懲役または100万円以下の罰金があります(DV法29条)。

但し、すべてのDVではなく、
① 身体に対する暴力又は生命等に対する脅迫のある場合で、かつ、
② さらなる身体的暴力によって、
③ その生命又は身体に重大な危害を受けるおそれが大きいとき
という条件のすべてが認められなければなりません。

今回の報道では、上の①,②,③のどの部分が改正されるのかはっきりしませんが、①が改正されることは間違いないことになります。

問題は、②,③も改正されてしまうかというところにあると思います。ここが不明です。ただ、読売新聞の報道(司法関係の報道では安定して正確だと感じているため)では、「内閣府によると、2020年度に政府のDV相談窓口に寄せられた内容のうち、身体的暴力は約3割にとどまり、精神的暴力が6割近くを占めた。精神的暴力によって心的外傷後ストレス障害(PTSD)など深刻な被害を受ける恐れもあることから、政府は保護命令の対象に加える必要があると判断した。」
とされており、生命または身体に重大な危害ということの中に、PTSDの発症の危険が含まれることになるということも想定しなければならないと思います。
そうすると、②の条件も、PTSDは、必ずしも身体的暴力によって起きるのではありませんから、PTSDを発症させる外傷体験があれば足り、身体的暴力を要件とする必要がなくってしまう可能性も出てきてしまいます。逆に身体的暴力の要件は温存するという考え方もないわけではないでしょう。身体的暴力がある時に限って、PTSDの発症の危険も考慮することにしてバランスを保つということです。

<現行法の特徴 バランスのとり方>

この通り、現行法は、被害者保護のために
保護命令を発令して、加害者とされた者に対して、
・行動の自由を制限する(憲法13条)
・居住の決定権を制限する、(憲法22条、29条)
・個別の裁判所の決定で刑罰の対象となる行為が定まる(憲法31条、13条)
という強い効果を与えていることがわかります。

これとのバランスをとり、人権を保護の観点から
・そもそも身体的暴力、生命に関する脅迫の場合に限定して、保護の必要性が明白であり、かつ、国家という第三者が介入する基準を明確にする。
・さらに保護命令が強い制限効果を有するため、加害の内容を身体的な暴力であり、かつそれが生命や身体への重大な危害の場合という明らかに不道徳な場合に限定しているのです。

このようにおよそ法律は、
一方を保護すると他方の権利侵害が起きることになることを踏まえて
バランスを取りながら、保護を図るものです。
理性的な議論が必要になります。

確かに人権侵害のような配偶者加害行為から、被害者は解放されなければなりません。しかし、本当に配偶者加害行為があったのか、簡単にはわかりません。
例えば妻が浮気相手と結婚するため今の夫と離婚したい、離婚原因が特にないから、暴力があったことにして、保護命令を出してもらい、離婚調停や裁判を円滑に進めて、首尾よく不倫を成就したい
というような欲望のために、夫の財産や行動を制限しないようにしなければならないのです。こういう事件は結構な割合であると実感しています。

現行法の具体的なバランス感覚が、身体的な暴力、生命を脅かす脅迫があった場合に限定するということでした。

<現行法の問題点>
実務家の体験や保護命令手続きの現状からすると、現行のDV法の保護命令の手続きはとても大きな問題があります。

第1の問題 本来バランスをとるために必要である、上記①,②、③が極めて曖昧であっても保護命令が出されているという現実です。
 実際に保護命令が出された問題でも
申立人(妻)の主張が「激昂」、「暴力をふるうふり」、「近づく」、「周囲のものを叩く」、「蹴るしぐさをする」、「激怒し口論」、「はだしのまま体を引きずって突き飛ばす」、「乱暴な言動」で、これのどこが身体的暴力、命の危険のある暴力になるか訴訟行為としては全くわからないというべきです。
具体的な内容はほとんどなく、その場面を体験していない申立代理人の評価がだいぶ混じった内容となっています。別の事案でも、帰宅時に玄関に立っていた妻を夫が強引につかんで廊下に上げたなどと主張されたことがありますが、午前零時を過ぎて酔っぱらって帰ってきた妻を介抱するために家に上げたことが暴力とされていたりします。ハサミをもって追い回したという主張がありましたが、犬の毛のスキばさみをもって犬を探したことをもって命にかかわる重大な危険があると認定されてしまっていたりしています。また、何年か前のもみ合いをもって身体的暴力があり、今後の暴力によって生命身体に重大な危害があるという決定もよく目にするところです。
現在でも身体的暴力という要件は曖昧なまま運用されていることが散見します。
この結果、抗告審や再度の保護命令の際に、保護命令決定が否定されることがかなり多くあります。保護命令を出した当の裁判官が全く同じ申立書に対して、取り下げを説得したという事案さえあります。前の保護命令では相手方の夫は弁護士を依頼していなかったのです。代理人が付かないと法律を無視して保護命令を出すぞと言っているようにしか聞こえませんでした。
こんな曖昧な暴力認定によって、主に夫は、自分の家に2か月も帰れないという状態となり、帰ってしまうと1年以下の懲役や100万円以下の罰金が科せられるという犯罪者となってしまうのです。

第2の問題 防御の手続きが奪われる運用がなされている。
  これは前に述べました。
やっぱり保護命令手続の現状の運用はおかしい
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-03-12
   から続く一連の記事

  簡単に言うと、相手方には、木曜日に裁判の呼び出しが普通郵便で送られてきます。届くのは金曜日の午後か土曜日。働いている人は金曜日の夜以降に封筒を受け取ります。驚いても土曜日、日曜日に弁護士に連絡が取れません。月曜日に事情をよく分かっている弁護士にたどり着くことも至難の業です。そして、火曜日の何時に裁判所にきて申し開きをせよと命じられている内容を読んで、そのまま行ってもちんぷんかんぷんで何を言ってよいのかわかりません。必要な反論もできないまま保護命令が出されてしまうのです。だまし討ちのような例はたくさんあります。
  これまで真面目に生きてきた人間が裁判所に出頭を命じられるだけでもパニックになるでしょう。裁判所で自分を守るなんてことは普通の人では無理な離れ業なのです。

第3の問題 男性の申し立てが受け付けられない男女差別
  保護命令は事実上、女性だけが申立権利者になり、男性が申し立てようとしても受理されないということがあります。受付で笑われて相手にされなかったそうです。
  これはおそらく、「女性がひ弱な力で暴力をしてきても、男子たる者は、体力で制圧して自らをかばい、女性の暴力をやめさせるべきだ。お上にお願いするなんて筋違いだ。」という意識があるのだと思います。この意識は極めてジェンダーバイアスがかかった問題のある考え方であり、そもそも配偶者加害の被害について何も理解していないことを示しています。
  妻のヒステリックな言動や暴力に対して、逃げ場を見つけられず心理的に追い込まれている男性はたくさんいます。彼らは様々な理由から心理的に暴力を行使できないのです。心理的に暴言や暴力を受け入れてしまうのです。また、妻の暴力によって夫が死亡するという例はよく報道されているとおりです。妻は暴力や共犯者を使って夫を殺しているようです。夫婦間殺人で実際に男女差がそれほどあるという統計は無いように思われます。
  要するに、DVを担当する公的実務の担当者は、未だに「男性は体力で女性を圧倒するべきだ。」と考えている問題があるということになります。

<現行法の問題点を増悪する可能性のある改正>

曖昧なまま、居住権、財産権、行動の自由を制限され、名誉を棄損されるという問題点は、「身体的暴力」や、「生命身体の重大が危害」の解釈が曖昧な点に理由がありました。印象として、「申立人が言えば、明確な反論がない限り、そのままその存在が認められた」言い得ということが少なくありませんでした。そのまま自宅に立ち寄れず、子どもの安否も確認する手段がなく、DV加害者のレッテルを貼られるわけです。
おそらく、今回の改正を後押しした関係者とは、こういう無理な主張をしなくても保護命令を出すために、モラルハラスメント、精神的虐待という概念を導入するということが必要だと感じていたのでしょう。現在でもほとんどの保護命令の事案がこれですから、そういう主張は目に見えるようです。
身体(人間の体)に対する暴力(不法な有形力の行使)という明快な意味を持った概念でさえ、曖昧なまま手続きは勧められます。そうであれば、モラルハラスメント、精神的虐待というような曖昧な概念はますます曖昧に手続きが運用されるようになるでしょう。
本当にそれがモラルハラスメントや精神的虐待にあたるのか不明なことが多くあります。確かに、大声で罵倒して土下座を強要したり、正座を崩したことを理由として怒鳴りだしたりする場面を録音録画しているならば明確ですが、身体的暴力ですらそのような証拠は求められていません。具体的な例を出せば、妻が夜間長時間連絡をしないまま、どこかにいなくなってしまった。帰ってきても、何ら謝罪もない。夫婦はリビングのテーブルに座って、夫から連絡が無いと心配するのだ、連絡が欲しいと言っても妻は口も開かない。事情だけでも説明してほしい等と言うやり取りを1時間近くしていたとします。場合によっては小さい子どもを連れたままいなくなっていたとします。場合によっては子どもをほったらかして、夫のいない家に留守番させていたとします。子どもにとっても良くないということを説明をしていたら、それは精神的虐待になるのでしょうか。ある程度子どものことを想って攻撃的な表現を使った場合はやはり保護命令の対象となり、家から出ていかなくてはならず、子ども安否を確認するために家に戻ったら懲役や罰金となるでしょうか。実際にこういう例はありふれています。実際に起きている保護命令の事案というのは、こういう事案が大多数だということが実務家としての実感です。

PTSDの概念の曖昧さ

PTSDが裁判所においても乱発されていて、司法が混乱しているという問題はつい最近述べました。
簡単に言えば、PTSDという精神障害が発生するためには国際病類分類上、外傷体験という誰でも強い心理的圧迫となるような体験が必要で、それは戦争体験や人質、強姦などの強烈な被害だとされています。しかし、現代の裁判所に出てくる診断書のPTSDは、被害者が体をかがめたところに加害者の膝があったという出来事を理由にPTSDの診断をするような状態です。本来要件が厳格になるはずの外傷体験は裁判の場においても曖昧に運用されていることが実情です。PTSDでも保護命令が出るというならば、まずます運用は曖昧になっていくことは間違いありません。

男女差別の問題

法律相談や離婚事件を担当した実感としては、モラルハラスメントや精神的虐待を行うのは、男女差はなく、むしろ女性の方が行為件数としては多いと思います。
本当にこの改正を進めていくのであれば、男女平等(憲法14条)の観点からは、男性からの申し立てについてもきちんと受理するように実務を改めなければなりません。裁判所だけでなく、警察もそうです。形式的申立要件がそろっているのに受理をしない場合は、罰則を設けるべきだと思います。また、女性によるモラルハラスメントや被害例についての研修も義務付けるべきだと思われます。
 私は、裁判所がこれまでの保護命令手続きのような緩い手続きを継続していくならば、改正の中身によっては、女性に対する保護命令が男性に対する保護命令よりも増える可能性があるとさえ感じています。

<改正の目的に関する疑問>

もし報道のとおり、DV被害の相談の大半が身体的暴力以外だったとするならば、それは法律の効果が表れたのであって、喜ぶべきことであり、法律を強化するべきことではありません。
それなのに、保護命令を広く緩くするということならば、相談機関の仕事のために法律を改正しようとしているように感じてしまいます。
また、PTSDになることを防ぐ必要があるということも法律の目的として説明されているようです。この点については、反対できないことなのです。しかし、いつも思うのですが、どうして配偶者などの関係に限定しているのか、そこに疑問の目を向けるべきだと思うのです。例えば、どうして、職場のパワハラやセクハラににこのような視点が導入されて、保護命令や刑事罰が設けられないのでしょうか。なぜ、刑法自体においても議論がなされるべきではないのでしょうか。
 夫婦問題だけ特別に取り上げて保護=行動制限を増加させる政策を行うということはヒステリックな対応のように感じています。

<自殺統計から見れば夫婦は自殺を食い止める>

自殺白書を見ると
以下のような夫婦と自死の関連が掲載されています。
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男女の別なく、どの年代でも、配偶者がいる方が、配偶者のいない場合よりも自死者は少なくなっています。離別による独身者と配偶者のいる人を比べると、さらにその差は広がり、離別者の自殺率は高くなっています。特に男性の自死者の中では既婚者と離別者を比較すると10倍を超える年代もあるくらいです。

統計上は、夫婦でいることによって自死を予防する保護因子となっているということが言えるようです。

1つの原因として、夫婦以外の希薄な人間関係においても、例えば地域、例えば職場、例えば友人関係などにおいても、どうしても人間は仲間であるという実感を持ちたいようです。それがかなえられず、職場のパワハラを受けたり、近所づきあいや子どもの保護者としての付き合いなど人間関係に不具合を生じて苦しんでも、夫婦という安定した仲間が存在することで、仲間の一人であるという実感を持ち、精神的に追い込まれていくことを緩和する作用があるということが言えるのではないかと考えています。
ところが、今回の改正では、保護命令が認められやすくなる危険があるため、離婚が増えていく、配偶者と離別する夫婦が著しく増加する危険があるということが最大の心配なのです。

<本来の、あるべき国家政策>

精神的虐待やDVがあれば、夫婦は自死の防波堤にはなりません。また、一方が他方から毎日毎日暴言を受け、義務無き事を強制され続けていたら、その人は一体何のためにこの世に人間として生まれてきたのかわからなくなります。そのような姿を見て育つ子どもたちの成長にも深刻な影響を与えることになるでしょう。夫婦が安心して過ごせる関係になることは求められていることであることは間違いないと思います。

それでは国はどこまで夫婦の問題に介入するべきなのか、介入できるのかということを考えなければなりません。ここを考えないのであれば法律論とは言えません。

先ず犯罪が行われている場合に警察が介入し、犯罪者に対して刑事手続きを適用するということは、法治国家である以上当然のことです。これは当然今も行われていることです。
DV法は、犯罪が行われていなくても国家が介入するという法律です。このために、介入要件を厳格にしなくてはならないわけです。

私は、第一に予防を考えるべきだと思うのです。予防ですから、刑事罰や命令といった強制の契機はありません。それでもうまくいかない場合に、命令の発動要件をもっと厳格にした上で強制の契機を含んだ対策を考えるのが順番だと思っています。

予防の政策を行わないで、強制の政策を行う背景としては、予防には効果が無いという一部の考え方が働いていると思われます。例えば、男性は女性を支配したがるものだというジェンダーバイアスとかですね。家族は女性を縛るものだから、できるだけ離婚をさせることが女性の解放だというような考えでしょうかね。いずれにしても、加害をする男性は生まれつきなもので改善不能だという考え方があるようです。実はもう一つの考えとしては、被害を受ける女性は男性に依存するダメな女性だから、矯正をしなくてはならないという考えを持つ人もいるようです。女性の保護施設、保護制度は、元売春婦の保護施設、保護制度を踏襲しているという驚くべき実態がありますが、役所感覚というだけではなく、そのような女性蔑視の思想があるように私は感じています。

しかし、私の実務家としての感覚としては、
夫婦の仲良く仕方がわからないということの方が実態によく合っているように感じています。お互い仲良くしたいのに、余計なことを必要な配慮もなくしてしまうというようなことですね。これが日常、両親と同居していた時代では、両親から注意されて是正してきたのだと思います。現代の両親は、逆に自分の実子の方の肩をもって、実子の配偶者を一緒になって非難しているという嘆かわしい事態が日本では横行しているように感じています。

いま必要なことは
夫婦はどうあるべきかという啓発活動なのだと思っています。
そして、その根本として、人間の幸せを真正面から考えていくという問題提起が必ず必要だと思っています。
その信念で、これまでこのブログの記事を書き続けているわけです。

家族といると安心できることのすばらしさ、その必要性、人間として生まれてきたということはどういうことか、助け合うことのすばらしさ、本来人間はそうするように生まれついているのだけれど、それができず逆に傷つけてしまう理由等々です。

被害者、加害者という言葉もこれまで何年にもわたってこのブログで述べてきましたが、あくまでもDV相談をした人が被害者、その相手が加害者ということだそうです。総務省自身が日本語として不適当であることを認めているのだから、こういうバイアスがかかった行政運用を先ず中断するべきです。
そうではないと、議論がヒステリックになるだけなのです。

DVというのは、
配慮ができない配偶者と、暴力、暴言を受け入れてしまう配偶者の共同作業の側面があります。DVに限らず夫婦のいさかいの大部分がこれです。そして受け入れてしまう方は、それをやめてほしいという提案が苦手のようです。だから、離婚訴訟などになると、あの時こうだったという主張のオンパレードになってしまい、あたかも元配偶者の同居中の行為の通信簿をつけているような感じです。自分がそのような行為が不快であるということすらいえないのです。これには様々な理由があります。
結局心理的圧迫を加える側も、加えられる側も、ちょっとした生活のヒントを知らないし、人間についての考察が足りないということがあります。そのちょっとしたところレクチャーし、みんなで幸せな家族を作っていくということ画啓発の意味です。そして心理的圧迫を受ける方も、どうして自分の行為の修正を求められると不安になり、イライラしたりするのかを知るとその後の人生がだいぶ楽になるはずなのです。これが対人関係学です。

こういう人間を幸せにしていくことが国家政策でなければ私はだめだと思います。国民を馬鹿にして、回復不可能などうしようもない人たちだという政策をしていれば、国民はやがて見限るでしょう。そうでなければ国が亡びるだけだと思います。

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【緊急提言】面会交流調停後の子どもの状態について調査をするべきだと思う。 [家事]


面会交流調停で、父親と母親との意見が食い違うと
安易に間接交流が提起されることがあります。

面会交流調停とは、離婚や別居で父親と母親が別々に暮らしていると
子どもがどちらかの親と同居して、他方の親と別居するわけです。
別居親が子どもと面会をすることが
自尊感情の低下を防ぐなどの子どもの成長にとって有益であることが
統計的にも他の調査でも明らかになったため、
子どもの健全な成長のために面会交流の実施が求められています。

ところが、同居親には別居親に対しての悪感情が強く、
子どもを会わせたくないという意識が強すぎて
DVや虐待が無かったとしても面会交流が行われない場合があります。

面会交流の実施を求めて
別居親などから申し立てられるのが面会交流調停です。

面会交流調停では
通常は面会交流が子どもにとって有益であることなどを
家裁調査官がレクチャーすることが多いですが、
最近は、理由は不明ですが行われないことも少なくありません。
主として同居親が感情的になっていて、
その感情に「寄り添って」レクチャーの実施が曖昧にされているような印象もあります。

そうして、子どもの利益ということがあまり考えられる機会がなく
同居親は会わせたくない、別居親は会いたいということで
どっちもどっちということで
調停が進まないことも最近は増えてきました。

数年前ですと、調停委員、裁判官、調査官らが
子どもの利益を説明して同居親を説得し
面会交流が行われることもよくあったのですが、
最近は大人への寄り添いがメインとなり
子どものための説得がめっきり少なくなったような印象です。

そして、子どもの利益を重視しての進行になっていないために
別居親に直接面会することを譲歩させて
手紙や電話などのやり取りを約束して調停を成立させる
「間接交流」をすることで話をまとめようとする風潮があります。

間接交流は
実際に手紙を書いても子どもに現物が渡らないことが多く、
子どもも同居親に遠慮して手紙を手に取らないことも実例としては多いです。

というか、
実際に間接的に交流がうまくいって
子どもの自尊心の低下を防止することができた
という実例は報告されていません。

私は再度の面会交流調停の申し立ても複数件行っていますが、
間接交流が取り決められた例で
間接交流が一方通行であったとしても実施されたという実例は知りません。

別居親の手紙や写真を同居親が子どもに渡すということもありませんし、
子どもは親の気持ちを忖度して見ようともしないようです。

私は直接元子どもたちからお話を聞く機会があるのですが、
別居親である父親が、同居親である母、子ども2名の誕生月に
養育費を増額して送金していても
子どもは同居親からその事実を教えられていませんでした。

そもそも別居親から養育費が支払われていることを知らない子どもも
少なくないようです。

家裁調査官の中では、面会交流や家事事件に習熟している人も中にはいて
間接交流が成功した例は無いということを
ポロっと同意していただける人も中にはいます。

知識も経験もない人たちは
理念的に間接交流は可能であると言いますが
具体的な実例は語ることはできません。

家庭裁判所は調停が成立するまでしか関与しませんので、
その後のことなんて通常誰も知らないわけです。

これは極めて無責任ではないでしょうか。
民法等が子どもの利益のための制度を作っても
家庭裁判所は役に立たない間接交流を勧めて
あとは知らんふりということが実情なのです。

実際はなにも子どもに役に立たない間接交流を勧めて
調停は終わりになるのでしょうけれど
子どもの成長はこれからなのです。

本来調停後の子どもの成長を考える事こそ
家庭裁判所での大人の役割のはずです。

私は、国家的プロジェクトとして
面会交流調停後(面会交流を定めた場合の離婚調停後)の
子どもの追跡調査を行うべきだと提言したいのです。

子どもはその後別居親とどのような交流があるのか、ないのか。
子どもの健全な成長が遂げられたか否かについては
なかなか難しいし、比較対象も難しいのですが、

私が見てきた面会交流の無かった事例での不具合のあった子どもたちは
リストカット
拒食過食
不登校
精神科への入退院の繰り返しがありました。
中学校の頃から不具合が始まり、
20歳前に深刻化していました。
そのようなことが他のお子さん方にもあるのかないのか
大変心配です。

そういう調査を踏まえて、
本当に間接交流も民法766条の面会交流に含むことができるのか
あるいは間接交流を続けて直接交流ができるようになる事例があるのか
あるとすればどのようなことに気を付ければよいのか

子どもと同居親のプライバシーの問題もあるのでなかなか難しいとは思うのですが、
そういう調査をしないで、間接交流を勧めるということに
強い抵抗があるのです。

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先生(Dear Doctor)! 離婚(別居)してしまうと親が子どもに二度と会えなくなることが現実には起きています。 [家事]


ある夫が、入院中に離婚を迫られて、離婚届に判を押した
ということがありました。
最初は二人の話し合いに主治医が立ち会っていたそうです。
何の病気でも怪我でも、入院治療中に離婚を迫られれば
治療効果に影響が出てくると思いますし、
一刻を争うことでもありませんから
私は主治医ならば、「そのような話題は退院してからお願いします。」
と言っても良いのではないかと思うのです。
ところがその主治医は、ことが離婚の話に及ぶと
止めるどころか席を外してしまったそうです。

夫は、もともと妻の言うことをその場では正しいと思うというか
正しいと思わされるような口調に負けてしまい
後から「あれおかしいな?」と思う性格だったうえ、
入院して気が弱くなっていたということもあり
離婚届に判を押してしまったというのです。

今回のお話ししたい内容は、ここから先です。
主治医は夫婦が離婚することになることを知って
夫にこういったそうです。

「大丈夫、一生お子さんに会えないということはありません。
 法律で決まっていますから、そのうち会えるようになりますよ。」

私が言いたいのは医師が無責任だということではありません。
実際は、裁判をしても子どもに会えるとは限らない
実際に子どもに会えない親(男女にかかわらず)がいる
一方の親に会えない子どもたちがいるということを
知ってほしいということです。

よほどの事情がない限り
親が子どもに、子どもが親に会えないということは
非道な話です。
しかし、
このような考えを持つ人間は、
行政や裁判所では、どうも少数派のようなのです。

平成25年10月18日付の総務省自治行政局住民制度課から
各都道府県住民基本台帳担当課にあてた事務連絡によると
DVの支援措置で言う「被害者」というのは
DV相談などをした人のことを言い
「加害者」というのは、被害者に加害を与えた人ではなく
「被害者」の相手方を言うとしているのです。

つまり、DV相談をしさえすれば
警察や市役所などが身を隠すのを手伝い
新しい住民票を「加害者」に見せない等の
支援措置をとるというのです。
しかも、被害加害は証明されていないとはっきりと連絡しています。

一方が相談をしただけで
他方は、配偶者だけでなく子どもの居場所も全く分からなくなります。
会えるわけがありません。
実際に暴力や暴言が無くても、
相談しただけで夫はDV加害者にされてしまうのです。
いくら総務省が実際の加害者というわけではないと言っても
実際の窓口担当者は、文字通り加害者として扱うのです。
子どもの所在を教えることも拒否するという
私からすれば人権侵害を行っています。

主治医はおそらく、良識をもって考えるでしょう
裁判になればそんなことはないだろう
子どもは親に会えるだろうと考えていると思います。

そうすべきだということは大賛成ですが
現実は違います。

DVの主張をしなくても
妻が夫と顔を合わせたくないと言えば
妻は夫と顔を合わせて話し合わなくて済みます。

全く第三者の弁護士が間に入って
話し合いによる相互の歩み寄りを拒否して
徹底した主張を行います。

また、住所も隠してくれます。
裁判になっても会いに行くことはできません。
むしろ裁判になった方が会えなくなることが多いかもしれません。
それまで、夫と妻が話し合って
週に一度子どもとの時間を作っていたのに
弁護士が入って調停になったことを理由に
話し合いが終わるまで会うことを遠慮くださいなんて言い出すわけです。

肝心なことは
夫と会いたくない、夫を子どもに会わせたくないという
妻の心情は裁判所では大いに大切にされますが
子どもと会いたい、
子どもが今どこでどうしているか、元気でいるのだろうか
という夫(父親)の心情は考慮されない上に
子どもが一方の親と面会しなことによる弊害が明らかになっているのに
子どもの利益も考えられていないということです。
どうしてそうなるのと尋ねたら
だって仕方がないだろうというのですよ。

DV支援の行政、裁判の姿勢は
DV以外の夫婦間紛争にも色濃く影響を与えているのです。

同居している母親が会わせようとしなければ
どうしようもないということが実情なのです。

良識的な主治医は「それでも」というのかもしれません。
「それでも父親、母親であることは変わりないのだから
DVがないならば会いに行けばよいのではないか」

この点も全く道理を説いていると思います。
しかし、それは無理なのです。
無理どころか危険なことです。

身に覚えのないDV相談を妻がしている場合は
支援措置が取られていますから、
保護命令という接近命令を裁判所が出していなくても
子ども近くに行けば大勢の警察官に取り囲まれます。
そして警察署に連れていかれて、
二度と暴力をしないという誓約書を書けと言われた人をたくさん知っています。
一度も暴力をふるったことが無くてもです。

私その警察署に電話をしました。
暴力がない場合は法律も通達も警察官は
法が定めた支援措置ができないのだと教えたところ
DVは、身体的暴力だけではないだと回答されました。
自分の警察官として行動する法的根拠にも無頓着なのです。
無頓着で市民の行動の自由が奪われているのです。

DV相談をしていない場合でも
自体はそれほど変わりません。

ストーカー規制法があるからです。

① 家族で住んでいた家を売却して引っ越すことになったので
転居先の連絡をハガキでいて
「お近くにお寄りの際はお声がけください」
と書いたばっかりに
義務無き事を強要したとしてストーカー警告を受けました。

② 子の連れ去りがあり、子どもの安否が心配で
他県の妻の実家近くに行ったところ警察に取り囲まれて
この次このあたりに来たらストーカー警告を出すと警察から警告を受けた
(警告の警告?)

③ 同じく子の連れ去りがあり、
妻の実家のある町の知人のところに相談に行ったら
付きまといということでストーカー警告を受けた。
実家近くに立ち寄らなくてもです。

一般市民は警察官は怖いです。
絶対正義だと思っていますから
警察から敵対的な態度をとられてしまうと
当然に委縮してしまいます。
子どもに会いに行くこともできなくなるし、

裁判所から妻の近くに行くなと言われただけでなく、
自宅付近の徘徊も禁止されてしまうこともあるのです。
暴力がない事案です。
それは精神的に大きなダメージを受けてしまいます。

そして会えないのです。


彼ら、彼女らは、自分の子どもと会えないのです。
生きていて、近くにいるかもしれないのに会えないのです。
大震災があっても、津波があっても
安否を確認することさえも許されないのです。

肝心なことは
暴力があった事案か否かほとんど関係がなく
こういう事態になりうるということです。

まだまだ言わなくてはならないことはあるのですが、
もしよろしかったらこのブログに書いていますし、
この続きもいつかしたいと思います。

どうか、実際に子どもと会えなくなる親がいる
親に会えなくなる子どもがいるということを
知っていただきたく、申し上げました。

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妻からのDV、妻の病的なヒステリーによる精神的な打撃を小さくする方法についての考察 傷つくのがいつでも優しい心なら [家事]

中森明菜「赤い鳥逃げた」*1作詞:康珍化(かんちんふぁ)の冒頭

「傷つくのがいつでも優しい心なら
優しさどこに捨てましょうか
あなたから教えて」

という歌詞があります。
詩人の研ぎ澄まされた感性が
人間の真理を突いたと感じられる
私の大好きな歌でもあります。

この「優しさ」とは何かということも難しいことですが、
たとえば、「相手の気持ちを敏感に察して
相手の役に立ちたいと思う気持ちを持って行動すること」が
優しさという意味の一つだとしたならば
まぎれもなく傷つくのは優しい心だと思います。

妻のヒステリーや妻からのモラルハラスメントによって
多くの男性が精神的に追い込まれています。
妻に対する優しさを発揮しようとしての夫の行動、努力に対して
妻からは容赦なくカウンター攻撃が繰り返され
自分の存在意義さえも根底から否定されるような
発言や行動が繰り広げられて
そして逃げ場がないという状態です。

これからお話しすることは
「子どものために絶対にこうするべきだ」というように
固く考えないでください。

妻からの精神的虐待によって
自死した夫の話もお身内から相談を受けていますし
(子の連れ去りが精神的虐待ならば、
何人かの自死者と生前に出会っています。)
また重篤なうつ病にり患して働くこともできなくなった夫を
この目で何人か見ています。
一言で言って悲惨な状態です。

タイミング、夫の性格、心理的な状態
あるいは妻側の加害の具体的な内容によっては
人間として耐えられないということもありうる話です。

「いざとなったら子どもに土下座をして離婚をして逃げる。」
という選択肢を心に準備していたことが
危機を乗り越えた一番の勝因だと言っている先達もいます。

むしろ離婚という選択肢を持てなくなった時が
精神破綻に追い込まれた時だという人もいます。

自分は離婚という選択肢を持ち続けているだろうか
という自問自答をすることが
もしかしたら生き残る秘訣なのかもしれません。

そのくらい、妻の精神的攻撃に苦しんでいる夫たちがいます。


複雑性PTSDが話題になっています。
この診断名の提唱者であるジュディス・L・ハーマンは、
CPTSDの本質は、
被害者が「人とのつながりを絶たれること」にあると述べています。
だから治療は、人とのつながりを再び作り出すことだというのです。

それが正しいとすれば
虐待の本質は、身体を傷つけられる痛みではなく、
自分が人間として存在するための基盤となる
人間関係を絶たれることによる絶望なのかもしれません。
身体的暴力は、身体を傷つけられると同時に
人間として尊厳、仲間とのつながりを失わせしめているから
被害が甚大になるということになるはずです。

そうすると、DV、虐待、モラルハラスメントは
身体的暴力が無くても成立するということになります。

だから、妻から夫へのDV、虐待は十分成立するのです。

「妻からのDV」というと笑う人(相談担当者、行政)がいます。
おそらく、妻からの理不尽な攻撃があったら
男子たるもの身体的優位さで制圧するだろうから深刻になるはずがない
とでも考えているのでしょうか。

男性のDV被害者の方々は、
妻からどんなに理不尽なことをされても
身体的暴力で対抗することをしません。
しないというよりも、
身体的暴力に打って出ることが「できない」のです。

夫による、妻からのDV被害の訴えを笑う人たちは
結局、DVとは何なのか理解していない人たちです。
女性が被害者となるDVも被害も
本当は理解していないことになります。
「それほど暴力を受けるなら逃げればいいじゃないか
それを逃げないのは、結局男性に依存しているだけだろう。」
等と偏見を持っている可能性があります。
男性のDV被害を理解しない人を
相談担当や行政窓口においてはなりません。

対抗する身体的な対応もできない
攻撃されたことに驚くばかりで合理的な対応をすることもできない
こういう事情が
妻からのDVを可能としているのかもしれません。
優しさが心を傷つけるのだと感じられてなりません。

これから述べる考察は、
妻がDVを行う原因が、一過性のものである時は
良く当てはまります。

これに対して、私が実務上出会った事案のいくつかは
精神病による幻覚幻聴に基づく攻撃
精神病による自己制御不能の状態
修正不能のなんらかのパーソナリティー障害
という場合があり、こういう場合には
あまり当てはまらないことかもしれませんし
高度な技術が必要なことかもしれませんのでご注意願います。

「一過性の原因」ということの代表例が
出産前後、特に出産後2年くらいで、
特に母乳での子育てをしている場合です。

また、一か月単位の周期があって
攻撃性が高まる場合です。

(もちろん、個性による違いが大きくあります。
産前からの傾向が拡大するという場合もあるようです。)

こういう場合は、理由があって攻撃的になっている
というか
攻撃的になっているというよりも
夫が仲間であると感じられなくなっている時期なので
多くのケースでは母乳をやめるか2年くらい経つと
収まっていくようです。

しかし、この時期に対応を間違えると
新たな「夫に安心できない事情」が生まれてしまい
その後もしこりが残ることがあるようです。

第1の対応策は、
いずれ収まっていくと時間の過ぎるのを待つ
ということになります。

但し、ただ我慢するよりは、
「そういうことを言われると苦しい」
「言われるのが嫌だ。情けない気持ちになる。」
「たいそう寂しい気持ちになる。」
等ということをはっきり言葉で教えてあげる必要があります。

この時の注意としては、
居丈高に反論したり、相手の不合理を鋭く突いたり
言い負かしてしまうことは
デメリットばかりが大きくなる危険があるということです。
妻の側で、「新たに夫に安心できなくなる事情」
を作ってしまう危険があるということです。
つまり被害者だったのに、加害者になってしまう
ということです。

そうならないためには、
自分が被害者であることをまず自覚することだと思います。
その上で、被害者らしく振舞うことを考えましょう。

背中を丸めて、斜め下45度を見つめる等
体全体で感情を伝えることが第1です。

これを省略して、条件反射的に怒りだけを伝えると
加害者と被害者が逆転してしまうわけです。
実際のケースではこういうことが多いです。
そして被害者であったはずの夫は、色々な辛酸をなめることになります。

次に多いのは、妻のDVに耐えきれなくなって失踪すること。
先ず被害者であることをきちんとアッピールしてから
その後で失踪するということをしないために
妻子を放っておいたという加害者にされてしまうわけです。

大切なことは被害者であるという自覚をもって
被害者として苦しんでいるということを
攻撃にならないように工夫しながら形で示すことなのでしょう。

第2の対応策は
自分の感じ方を制御するということです。

但し、傷つくことを回避するために
優しさや感受性を殺すことは
自分自身を少しずつ殺していくようなことなので
それはしない方が良いと思います。

優しさを捨てるのではなく、
真面目さや責任感を抑えて、少しいい加減にする。
とこういうことが必要な夫たちが実は多いようなのです。

被害を受けている夫一般に見られることですが、
妻からのDVに対しても過剰な反応をしてしまっていることが
多いように感じています。

とてもありふれた相談例を挙げてみましょう。
妻からのDVの相談がある場合は、
「どんなことをされるのですか?」と尋ねます。
「暴力と暴言です。」と回答があったら、
「どんな暴力ですか。暴言とはどういうことを言うのですか。」
という具体的な内容を聞くことにしています。

「キレてこちらに向かってものを投げ出すのです。」
と言われれば、
「何を投げるのですか。」と尋ねます。
そうすると、ぬいぐるみであったり、ゴミ箱であったり
妻が投げた物を教えてくれます。

何を聞きたいのかというと
例えばハサミだったり、例えばガラスコップだったり
殺傷能力のある投擲行為をしているのか
そこまで自制ができない状態かということを検討するためです。

投げられている本人は気が付きませんが、
その物が何かによって、
夫を殺傷したいのか、
ただイライラを解消したいのかということを見極めることができます。

暴力についても、
けがをさせるとか気を失うような暴力かどうか
ということを尋ねるわけです。

暴言についても一応聞いておきます。
但し、通常、臓物をえぐるような暴言しかありませんから
あまり参考にはなりません。

この記事で私がお話ししたい人物像は、
「そうはいっても、どんなもの投げても、弱い力だとしても
人に向かって物を投げることは無条件にダメなのではないか。」
と素朴に考えている方々なのです。

こういう実際に関わるならば付き合いやすい人こそが
傷つきやすい人ということになるようです。

実際にご自分が真面目で、正義感が強いからこそ
家族に手をあげるということが「できない」わけです。
その真面目さ、正義感を家族にも求めてしまうようです。
しかし、その真面目さや正義感が
自分と妻を苦しめているともいえるのではないでしょうか。

どうして真面目さや正義感が自分を苦しめるのでしょうか。
それは次に述べるような心理経過のようです。

あらゆる暴力は正義や道徳に反する。
あらゆる人を傷つける言葉も正義や道徳に反する。
妻は自分に物を投げるということで
自分を侮辱した言葉を発したことで
正義や道徳に反する行為をした。
自分はその被害者である。
妻の正義や道徳に反する行為は、
自分を侮辱し、ないがしろにする行為である。
だから自分は怒らなくてはならない。
正義や道徳に反する行為をした妻は制裁を受けなければならない。

どうもこういう理屈っぽい感情の経過を
感じる相談が多いのです。
そしてその流れは、
かつての私のように正義感の強い人間が聞けば
ついうなずいてしまうほど自然に聞こえてくるのです。

しかし、私は、常々、このブログでも
法律も、道徳も、正義だって
それは他人同士を規律するための人類の発明品であり、
仲間同士を規律することは別のところにあると主張し続けています。

そのフィルターを通してお話を再構成すると
どうもその考えは本当は自然な考えではないのではないか
という考えが生まれてしまうのです。

つまり実際の被害を基軸にものを考えるのではなく
不正を行う妻の人格を問題にしてしまうのです。
異常な人格者と暮らしている自分はなんて不幸なのだろうと。

ところで制裁について専門的な話をしてしまうと
不正を処罰される場合というのは
理性によって不正を抑制することが期待できる場合の人です。

産後うつならぬ「産後躁」のような
けんかっ早く、無敵モード状態のときは
夫が近くにいると思うとイライラして
夫が近くにいなくければいなくて無責任だとイライラして
とそういう状態になることがあるようです。

このイライラというのはなかなか男性は理解できないのですが、
やっぱりとても苦しくて、何とかこの感情から解放されたいと
そういう要求が強くなっているようです。
そこで八つ当たりをして発散したくなるようです。
自分で合理的な思考を巡らせて
自分の夫に対する攻撃は不合理であり、やってはいけないことだ
というような思考で暴力や暴言をしているわけではないようです。

婦人科系のイライラの場合は
腹部で内出血を起こしていてイライラする場合があるようです。
そういう場合に感情が制御できなくなることが多いのですが、
男性は、そういう外傷ではない内出血が起きる日常ということは
なかなか経験できません。
おそらくその場合のイライラは
強い不安を伴うもののようなものだと思われます。
「出口のない出血」が腹部内で起きているというだけで
私ならめまいがするほど恐ろしいことです。

そういうことでヒステリーを起こしたり、夫に攻撃することが
とても多いようです。

だから、暴力の行為者、暴言者は確かに妻なのですが、
妻を責めたり、罰したりする基盤が本当にあるのか
自信が無くなってしまいます。
つまり、それをしないことが、
果たしてそんなに簡単なことなのか。
そういう妻の精神面の変化という仕組みのおかげで
子どもを授かることができたかもしれません。
そうは考えられないでしょうか。
なかなか難しいこととは思います。

そうして私の研究ですが、
夫に対してヒステリーを起こす妻ほど、
夫を失いたくないと思っている傾向があるようです。
夫を馬鹿にしていたり、侮辱しようとしていたりするわけではなさそうです。
何か特別の意図があっての行動ではないのだろうと思います。

だから、
何も問題や原因がない普通の精神状態ではない
イライラで自分がつぶされそうになっている状態なのだ
と考えてみることはできないでしょうか。

実際はとても難しいことです。
暴言なんて、そういう状態でも適格なところを突いてきます。
自分が侮辱された、馬鹿にされたと思えば
自然に怒りがこみあげてくるのがむしろ当たり前だと思います。

自分を振り返っても分かるのですが、
頭では分かっても
30代までのうちは、なかなか自分の反射的な怒りを抑えるということは

難しかったかもしれません。

でも、怒りの気持ちがわいてからで良いです。
「そんなにムキにならなくても良いのかもしれない。」
と無理して思って見てはいかがでしょうか。

物を投げるということを主目的としているような行為や
あなたに「あたりたい」ということを目的としている行為の場合は、
(つまりあなたを殺傷しようとしている目的はない場合)
あなたに甘えているという理解でよいのだろうと思います。

それを夫の道徳心が強すぎるばかりによけいに傷ついたり
正義感が強すぎるばかりに制裁感情が起きたり、
責任感が強すぎるばかりに、
ヒステリーの言葉を真に受けて余計に傷ついてしまうわけです。

それに輪をかけて
自分の実母や無責任な同僚などの助言、つまり
「そんなことやらせておいたら男子の沽券にかかわる。」
「子どもへの教育的配慮のためやめさせるべきだ。」
「あなたはかなり馬鹿にされている。それでもいいのか。」
「嫁すらも制御できないのか。」
等と言う外野の言葉を真に受けて
自分は「傷つかなければならない。」
「怒らなければならない。」と
素直に制裁感情を引き起こす例は本当に多いと感じています。

文学作品などからわかりますが、
古今東西暴君の妻に虐げられ、苦労している夫たちは
実に多いです。

あなただけではありません。
人類の長期にわたる悩み事であり、
この苦汁を受け入れてきたからこそ
人類が生き残ってきたのかもしれません。

原理的には、妻のDVこそ
人類(二足歩行を常態とする哺乳類)の誕生以来
どの時代にも普遍的に存在していたはずです。

つまり、結婚をした以上、男性は、
人類が誕生したときから選択を迫られていたはずです。

八つ当たりという不合理を断固拒否するのか、
妻の精神的な不安定を伴う焦燥感(イライラ)を
自分を差し出して共有してあげるのか
(できる範囲で)

少しでもそういう視点を持つことで、
結局は、自分と子どもたち、そして最愛の人である妻が
救われるのかもしれません。

まとめますと
第1に、
被害者のままでいること、加害者にならないこと、
被害を冷静に伝えること
第2に、
自分は侮辱されたり、軽く見られてはいるわけではないと考えること

こういうことになろうかと思われます。






*1 赤い鳥逃げた
ミアモーレの、題名違い、歌詞違い、曲、編曲同一の歌です。
どうやら歌謡曲では、こういうパターンを作り、どちらを売り出すか選ぶようです。ミアモーレの方は、歌を聞いただけでドラマチックな情景が生き生きと浮かんできて、曲調とマッチしたのでこちらをシングルカットしたようです。それでも、「赤い鳥逃げた」のパターンも捨てがたく、LPレコードのような大きなレコードでシングルカットされ、私も入手しています。B面はバビロン。先日、久しぶりにレコードをかけたとき、自分の記憶ではもう少し収録曲があったはずなのにおかしいと思っていたら、裏を見たらB面があって、自分で笑ってしまったことがありました。

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【家事調停の技術論】子どもがいる場合の家事調停は3面構造で考えなければならないという意味。子どもの独立した人格、利益を考える意味。面会交流調停を例に。 [家事]


家事調停の担当件数が多くなっているのですが、
家庭裁判所に危機感を感じています。

例えばということで、面会交流調停の場合を例に挙げてお話しします。

数年前に、最高裁も
面会交流の動画や、子どもに配慮した話し合いを勧める動画を作成し
子どもの独立の利益を考えろと言う号令をかけ
国も、家事事件手続法を改正し、子どもの代理人の制度を作りました。

しばらくはそのような傾向に調停実務も流れかけたのですが、
最近はまた後退していると感じているからです。

でもどうやら、家裁全体としては流れは確立しているようで、
個々の調停委員会や裁判体の問題のようなのです。

言ってみれば
言葉では、子どもの利益を考えなければならないということは知っている。
しかし、実際の調停の運営における活動では
子どもの利益を考えた結果になる方向に進めていない
という印象を持ってしまうのです。

目標は知っている
しかしその目標を実現する方法についてはわからない。
というような感じです。

無理も無いと言えば無理もないことではあります。
最高裁もそこまで懇切丁寧に説明はしていないようです。

むしろ現場から問題提起をしていくべきことなのでしょう。
ということで
問題の所在が少し見えかけました。

裁判所のスタンスは、
「別居親、同居親、どちらの立場にも偏らず公平を保つ
その上で子どもの利益を第一に考え、調停を進める
面会が子どもの利益を害さないならば、
どのような形で面会を実施するかを議論する。」
というのが、公式見解「的な」もののようです。

これと違うことがあったならば、「違う」と言って是正を求めることができる
ということになりそうなのですが、
そう簡単な話ではありません。

実際の問題点をイメージ的に提示すると

<タイプA>
別居親は会いたいと言っている
同居親は会わせたくないと言っている
話し合いは平行線で、まとまらない。
調停は終わりにして審判にしたらどうだ。

<タイプ特A>
話し合いは平行線でまとまらないから
間接交流で実施するべきではないか。
(来るか来ないかわからない写真を待つことにして終わり)

<タイプ特大A>
話し合いは平行線でまとまらない。
面会は時期尚早なので、今回は取り下げたらどうだ。
(いつになったら時期尚早でなくなるのかは不明)


面会交流調停申立人である別居親からすると
こういう対応をとられていると感じやすいものになっています。
ひところはもう少しよかったのですが。

ただ、実際は、調停委員は同居親に対して
面会交流を実施するように説得しているけれど
それを別居親に報告しないだけということもあるので
そこは注意した方が良いのですが
教えてもらわなければわかりませんからね。

問題点を整理して実践的な解決方法を考えましょう。

裁判所は二つの価値観を示しているわけです。
1 同居親、別居親を公平に扱う。
2 子どもの利益を第一に考える。

しかし、上記の問題例を見ると
1の大人の当事者間の公平が第一になっており、
2の子どもの利益を考えていることが伝わってこない
という問題があるような気がするのです。

先ず、子どもの利益を考えて、
面会することが子どもの利益を害するかどうかを検討し、
害さないなら面会の方法を考えなければならないわけです。

それにもかかわらず、相も変わらず
会いたい、会わせたくない。どちらも平等
ということになってしまってはいないのかということです。

これで話し合いがまとまらなければ
結局子どもは別居親に会えないのですから
別居親は子どもに会えないのですから、
同居親の言い分に偏った結果にしかなりません。

不平等な調停だと感じる原因はここにあると思います。

形式的公平を貫く方法論になってしまっていて、
実質的に不公平な結果にしかならないのです。


しかし、考えてみれば
民事調停だってこういう大ざっぱな調停運営はしません。

民事調停の場合だって、
双方の言い分には隔たりがありますが、
それでも、何らかの合意を成立させるべく間に入るわけです。
例えば「この点の利益を実現できるならば
金銭的な要求については譲歩できるのではないですか
金銭的には譲歩しても利益が大きいとは考えられませんか」
とか、「解決の利益」を考えて当事者の方々と一緒に考えます。

双方に支持的に関与することで、
案外まとまらないと思われる調停もまとまるものです。

「相手の言い分には納得できず、反発しかないが
何とか紛争自体は終わりにしたい」
という気持ちがあるから調停に参加するわけですから
こわもての主張がなされても
双方が譲歩して成立する余地はあるのです。

どこにくさびを打つか、そのポイントを見つけることが
調停委員会の仕事なのだと思います。

家庭裁判所の調停委員会の役割だって
両当事者の言い分が
平行線かどうかを判断することではないと思います。

(これで済むならねえ。)

そもそも、「同居親と別居親に公平に扱う」
ということをわざわざ価値観として重視するから
それを第一に考えてしまうというミスリードになるのではないでしょうか。

(当事者が何を大切にしているか、どうして感情的になるかについて
 理解していないことを表していると思います)

子どものいる場合の家事調停は
当事者が少なくとも3人いると考えなければなりません。
父親、母親、そして子ども(たち)です。

父親と母親は、調停に出てきて好きなことを言いますから
調停委員は二人の話をよく聞いていればよいわけです。
しかし、子どもは調停に出席しません。
調停の場ではものを言わないわけです。
だから、子どもの利益は大人が考えなければならないことです。

目の前にいない、語らない人間の人権や利益を考えることは
大変難しいことです。
目の前にいる人間の意見に引きずられてしまうことは
放っておけばそうなってしまうことです。

子どもの発達などの知識、想像力、理性的判断という
極めて高度な精神活動が求められているのが
例えば面会交流調停なのです。

この精神活動を補うために
専門家である調査官が面会交流などには配置されるわけです。

ところが、調停委員だけでなく、
調査官や裁判官までも
大人の平等第一主義をとってしまって
子どもの利益を結局はないがしろにしてしまっている
こういうことが起きているのだろうと感じています。

実際に面会交流調停なんて、
調停委員や裁判官の強力なプッシュが無ければ実現しません。
二、三年まえまでは、こういう裁判所の働きかけがあって
子どもが安定して別居親と会えるようになっていたのです。

今は大人の平等主義が最優先になっていて
あまりプッシュをしてくれないと感じられてなりません。
それでは、子どもは別居親に会えません。

同居親は別居親と顔を合わせたくないから
子どもを連れて別居したのですから
せっかく別居したのに子どもを相手に会わせようと
思うわけがないのが当たり前です。
同居親は子供を別居親に会わせたくないものだという
リアルから出発しなければ何も始まりません。

別居親の代理人は、子どもを別居親に会わせるという
別居親との合意した目標がありますから、
同居親の感情を少しでも下げる工夫をして
拒否反応を少しでも低くするようなアドバイスをします。

しかし、裁判所がこれを面と向かって別居親に言うことは危険です。
そもそもどうして別居になったのかについては
両当事者で言い分も違いますし、
実際は言葉で説明できないことの方が多いかもしれません。

それにもかかわらず、
子どもが別居親に会えない原因がすべて別居親にあると
裁判所が言っていると聞える話になってしまいます。

同居中の出来事の真偽を確かめようとするのではなく、
調停開始後の別居親の態度が
新たに同居親の不信感や警戒感を引き起こす場合は
(けっこうあるぞ)
それを指摘するにとどめた方が良いのではないかと思われます。

但し、同居親の不安があることも、通常の場合間違いないので、
連絡の取り方とか、子どもの受け渡しとか面会交流そのものの
ルール作りをきっちり行うということは前向きな話になるでしょう。
それは別居親も受け入れるべきだし
通常理不尽な要求というより、どうでもよい話が要求されるだけなので、
どんどん受け入れるべきだと思われます。


具体的な方法論としては、
面会交流調停が難航しそうな場合は必ず、
面会交流の必要性についての調査官のレクチャーを
(面会交流プログラムを)必ず早い段階で実施するべきです。

調停期日を一回つぶしても行うべきだと思います。
その方が解決が早くなるということが実感です。
そして、調停委員も一緒にプログラムに参加するべきです。

表向きの理由は
調査官がどのようなことをレクチャーしたか
しっかり把握して調停に入ることによって
両当事者の会話が進むということです。

少し内緒の理由は
調停委員も面会交流の必要性について繰り返し学習してもらいたい
ということからです。
(代理人弁護士も参加した方が良いですね)

そして最大の理由は
調査官自身が、当事者にレクチャーすることによって
出発点とするべき子どもの利益について
調査官自身が再確認する必要性を強く感じるからです。

これが抜け落ちていると、
子どもの利益を第一にするために理性的な精神活動を求められて
そのために調停に出席する調査官でさえも
調停に出席している人間の感情に振り回されて
子どもの利益が後景に追いやられてしまうようです。

自分が気に入った正義感で
相手を制裁しようとする行動原理が
どうしても見えてくることがあります。

感情に振り回されず、知識と理性に基づいて
子どもの利益を第一にした結果を出すと言う役割が
全く果たせません。

大人の当事者双方の感情に振り回されず
冷静に、理性的に子どもの利益を第一にする
そういうためにはこのように、
一見非情に思えるような精神活動が必要になる
私はそう思います。

面会交流の阻害事由がなければ
どのようにして面会交流を実現するか
という話に進まなければなりません。

それは同居親にとっては、感情的に受け入れられないことです。
しかし、子ども利益について一緒に考えなければなりません。
その現象自体は、感覚的には
同居親に対して不平等に扱うような現象になるわけです。

大人の間の平等よりも子どもの利益という場合は
どうしても一方の親の表面的な不利益が発生してしまい
一見不平等に見えてしまいます。
それは形式的な平等よりも優先するということを
はっきりと意識しなければならないことです。

これは、面会交流阻害事由がある場合は
別居親に不利益になるのですから
実は同じことなのだと思います。

ただ、場面が異なるだけの話だと思います。


そして、家庭裁判所で子どもの利益を考えなければ
あとは子どもは自己責任で成長していかなければならない
このことの重さをよく考えてほしいと思うのです。

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なぜ仲間を攻撃するのか、仲間から攻撃されるのか。夫婦間の攻撃とは愛情の裏返しということについて。 [家事]



攻撃する方は
自分が仲間を攻撃をしているという自覚がないことが多いようです。
自分の言動によって、多少軋轢を生んでいる自覚があったとしても
罪悪感がないことが通常です。

攻撃される方は
どうして、相手がそういうことを言うのかなと
激しく落ち込んだり、
これからは、元のように自分は仲間の一員として
一緒に笑ったりすることはないのかなという
解決不能感を感じ、
その人たちと関わることにおびえるようになります。

その人から電話が来るだけで
血圧が上がったり、脈拍が早くなったり、
どうもいやあな気持ちが台風の雲のように足早に心を覆います。

職場、学校、あるいはSNS等どの人間関係でもこれは起きるのですが、
前回お話しした通り夫婦の問題にクローズアップして考えてみましょう。

男性と女性でどちらにこういう傾向があるかという点については
誤差の範囲であり、性差はあまり関係が無いというのが実務的実感です。

例えばこんな感じの例を出してみましょう。
****
 子どもの成績が悪くて、妻が夫に心配である旨を伝えた。夫は妻の心配も分かるけれど、妻の言葉の端々から子どもの悪口に聞えて聞くに堪えないため、「そういう言い方はないだろう。」と妻の言い方の問題を先ず指摘してしまう。心配を共有したい妻、対策を講じたい妻からすれば、理由なく自分が攻撃されたと感じてしまう。そして、「どうしてそうやっていつも話をはぐらかしたりするのよ。あなたはいつもまじめに子どものことを考えてくれない。」等と反撃してしまうわけです。
****

妻の最初の子どもの成績が悪いという情報の伝達と相談ですが、つい心配してしまうあまり、余計なことを言っていることが多いのではないでしょうか。勉強しないで服装のことばかり気にしているとか、スマホばかりいじっているとか、努力をすることができない等の人格的なことまで言及してしまって、本当に言わなくてはならないことが埋没して見えなくなってしまう。このため、たんに子どもの悪口を言っているように聞こえることがあります。

分かりにくくはなっていますが、受験が近くなってきたとか、子どもの状態から、妻が何を言うのか、夫がわからないということはないはずです。
ある程度余計なことを言うのは、家庭の会話なのだから仕方がないことなのですが、どうもそれを許さない考えに染まっているということはよくあることです。「夫婦の会話なのだから」という観点で、取捨選択して聞くという作業はどうしても必要です。

これができないのは、子どもへの心配を口実に、自分が責められているのではないかという意識がどうしても出てきます。「俺のせいだと言いたいのか?」というおなじみの感情です。
でも冷静に考えれば、子どものことを心配しなくてはいけないよなと思い、「そうだよな。」という言葉をとりあえず発してから考えるという選択肢を持っても良いというのが教科書的な、対処の第1歩でしょう。

次に夫の代弁をすると
そうは言われても、自分が成績をあげさせるアドバイスをする自信なんてまるっきりないし、成績が悪いのは子ども本人が一番よく分かっているから、改めて親がそれを言ったところで子どもにとってはプレッシャーにしかならないし、子どもから反発されるだけではないか。つまり夫としては、どうしてよいかわからないから早く話題を打ち切りたいという気持ちになっているということもあるかもしれません。

ちなみに教科書的には、わからないことはわからないと言って、塾に行かせるなり対策を相談すればよいのですが、そう理性的に進んでいかないのも「普通」の中に入るのかもしれません。

そして、妻の反撃を受けた夫は、もう「自分を守る」というテーマでの行動となります。一連の出来事の記憶も、自分が妻から突然攻撃されたという記憶として残ることがあるようです。

妻の側からすると
子どもを心配しなくてはならない時に、「ささいな」自分の言葉に対して攻撃するとは何事だという感覚となることでしょう。子どもの心配をして親として話し合うよりも、自分を攻撃したいのかこの人はという気持ちになるわけです。もちろん、「子どもの成績が悪いのは私のせいだというの?」というお決まりの感情もでてくることでしょう。

さらには、仲の良い、お互いをよく理解している夫婦の場合は、「夫は子どもの成績対策まですべて私に押し付けようとしている」と察して、そうはさせまいと防御態勢を予め敷いてくる場合もあるわけです。もう、夫の反応としての原因が原因なのか、夫婦の在り方なのかわからない混然とした攻撃の応酬が始まってしまうわけです。そしてその攻撃から自分を守るという行動が攻撃の応酬という性格をより際立たせていくわけです。

ここまでお話ししていて、皆さんはどう思われるでしょうか。
このような些細な食い違いから攻撃を受けると感じるのは
面倒くさいし、くだらないし、初めから結婚するべきではない
とか感じられる方も多いかもしれません。

しかし、私のように年齢が高いからとか、事例をたくさん見ているからとか
何らかの理由はあるのでしょうけれど
私は人間とはいじらしい生き物であって、かわいらしい存在だと
そう思えてきてしまうのです。
仲良しでいたいという気持ちから
仲良しでなくなるのではないかという不安が生まれるわけです。
だから、仲良しでいられなくなる原因を説明して
みんなが行動を改善すれば
もっともっと簡単に楽しくなるのではないかと思うのです。

仲良くしたいという感情がうまく伝わらず
逆に攻撃されたという気持ちになってしまうということが
多くあるだけなのだと私は思います。

もつれた感情を解きほぐす手段を考えていきましょう。

これが、SNSならば、簡単です。
こちらが楽しい気持ちで楽しさをシェアしようとしているのに
わざわざコメントを書き込んで
自分はこれだけ辛い思いをしているとか
本論と異なるところで揚げ足をとってくるとかいう人がいますよね。
同級生とか面識のある人ならば攻撃とは感じないで笑いになりますが、
どこの誰なのか、本名なのかもわからない人からこういうことされると
攻撃されているとしか思われず、不愉快になります。
客観的にはシェアを台無しにされたと思うわけです。
こういう人はブロックすればすむわけです。

しかし、夫婦間ではブロックするわけにはいきません。
家庭内別居は、心理的に双方かなりのダメージを受けます。

攻撃を無くして、攻撃だと感じなくする方法は
それほど難しいことではないと思うので
一緒に考えてみましょう。

二つばかり考えてみました。

第一は、攻撃されているという意識を持つ人は
実際以上に攻撃されていると過敏に感じてしまいやすくなる
ということです。

色々な相談会で、
攻撃を受けている様子を色々とお話をされるのを聞きます。
確かにそれはひどい攻撃だなあと思うことももちろんあるのですが、
「え?それはどうして攻撃として受け止めたの?」とか
「それは明らかに攻撃として受け止めるべきではない」とか
ということを感じる時が多くあります。

率直に、その旨感想を述べると、
例えば、「これとこれはだめだよね。
でもこれも攻撃というのはどういうこと?」と尋ねてみます。
そうすると、別の人に相談したところ、それは攻撃だといわれたというのです。

こういう支援者はかなり多いのですが、
せっかく仲良くなりたいということから出発している人間通しの争いを全く理解できない
悪魔のような存在となる危険があります。

こういう人は人間は合理的に行動するべきであり
合理的な行動をしない方がトラブルの責任を持たなくてはならない
と言っていることになると私は思います。

こういう人は、
一番最初の夫婦喧嘩のケースで
子どもの成績に対する不安は、
そのことズバリだけ、客観的な情報だけを伝達するべきで、
感情的な説明をしたためにトラブルが起きた
という判断をすることになります。

人間関係を上から裁こうとしている
ということに気が付いていないのです。

私から言わせてもらうと
人間はそんなに合理的に行動することができない生物であり、
過度なビジネスライク的な評価は、流行ではありますが
人間性を無視している危険な評価だと苦々しく感じています。

攻撃を受けていると感じている人は
当然自分を守ろうという反射的行動をしますから、
自分を守るために、慎重になり、悲観的になります。
このため冷静に考えれば攻撃を受けているわけではないとわかるのですが、
冷静に考えることができず
とりあえず攻撃を受けているととらえて
守りをしておこうという発想になるわけです。
だから、攻撃だととらえる範囲が限りなく後半になりやすいのです。

攻撃を受けているわけではない第三者であるにもかかわらず、
当事者の不安の妥当性を検討しないで、無責任に寄り添い
「それは確かに攻撃です。」というのだから
極めて悪意のある態度だと言われなくてはなりません。

考えの足りない人
人間についての理解の無い人
何か自分の思惑が強くある人が
他人の相談に乗るということは
大変危険なことだと思います。

夫婦の問題だけは
自分の不安を駄々洩れのように肯定する人には
相談するべきではありません。

また、全部が気の持ちようだという回答も
稚拙な回答者のすることですから
そういう場合も別の人に相談するべきです。

客観的には、あなたのこれとこれの心配は過剰だと思う。
でもあなたがそれを心配するのは理由があることで
もしかしたらこういう理由ではないか
だからここをこう改善してみたらどうなるか
試してみる価値があるのではないか
とかいう回答をするべきパターンが一番多いように思うのです。

できればこういう相談者に相談しながら
自分が心配するべき事柄と、心配し過ぎなくても良い事柄を
区別する作業が出発になるような気がします。

第2に もしかしたらあなたは相手に過剰な期待をしているのではないか
ということを検討することに価値があると思われます。

特に攻撃を受けている人は、
自分の味方に対する要求度が高くなり、
結局、自分の不安を解決して不安を無くしてほしい
というところまで要求が高くなってしまうことがあります。
そういうことをして初めて味方だと認識できるみたいな感じです。

パワハラやいじめを受けている人が典型です。
こういう相談を受けていると、
その人の職場や学校には
いじめ等、明らかな攻撃をする人とその取り巻き
何も言わずに知らんぷりをしたり、にやにや笑って
攻撃者の攻撃を承認する人たちが確かにいるのですが、
中には、公然と
「あなたが言うその人は、勇気をもって
あなたの味方になろうとしているじゃない。」
という人がほぼ例外なくいます。

いじめのようなひどい攻撃を受けている人ほど
助けてくれようとする人の気持ちに気が付かないようです。
その水準では味方だという気持ちになれないようです。
もっと自分を助けてほしいという感情が先行してしまう
ということが理由ではないかと考えています。

実際には、いじめられている人は
その手を差し伸べる人も攻撃者としてカウントしているようです。

そういう人の多くはいじめが始まる前には
仲良く一緒にいた人たちのようです。

どうやら、攻撃者としてカウントする理由は、
その人が相手に対する期待値が高すぎて
相手がその期待値に到達していない
ということを非難する感情が起きているからではないかとにらんでいます。

夫婦の相手から攻撃されているというよりも
職場で攻撃を受けていたり
自分の親戚など人間関係で不具合が生じていたり、
相手に内緒でやっているSNSで、
自分のスレッドとは場違いな攻撃のコメントがなされ
それに別の人が同調して自分が無視されるなどのことが
多くなっているのか
あるいは単に体調から、訳もない不安が起きていて
自分が攻撃されているという意識が
慢性的に起きやすくなっているということもあるでしょう。

どの人間関係も順調で、一点の曇りもない
という人はいるでしょうか?
おそらくめったにいないと思います。

人間は少なくともどこかしらとげが刺さったようなトラブルを抱えており
悩んでいるのではないでしょうか。
また、例えば秋口になればうつっぽく不安に苦しむということは
誰でも経験があると思います。
そんな時につい、最も身近な夫婦の相手に期待が大きくなりすぎる
ということはあるのが普通なのではないでしょうか。

しかし、それがあるのは仕方が無いとしても
最低限度、そのことを自覚して相手と接する必要はあると思います。

先ほどの子どもの成績をめぐるトラブルを見てみましょう。
妻は子どもの成績不良に真正面から向き合っています。
夫はどうでしょう。
成績不良だから、志望校のランクを落とす
あるいはもっと勉強の量、質を改善する
ということを子どもに提案しなければならないはずです。
しかし、
親から成績不良の現実を突きつけることが可愛そう
子どもの反発を想定して気が重い
自分が何らかの改善を提案する能力が無い
という様々な問題から
成績不良に向き合っていない
という側面があると思います。
(本当は、いま評価しなくても良いのではないかとか
 親が言わなくても良いのではないか等
 それなりの理由があるという評価が可能だとしても)

真正面から向き合って子どもと話すということが
非常に重苦しいため
それを避ける、先送りするため
話し合いの必要性を指摘されることが苦痛だ

それはなんとか妻の方でうまくやってほしい
という、身勝手な期待があるということもよくあることではないでしょうか。

厳しい方をすれば、
責任があるのに責任を果たさない
責任を果たさないことを非難されないために
自分の行為を正当化する行動が
相手に対する攻撃になってしまう
という側面がないとは言い切れないようです。

結局は、言わなくてはいけないけれど
子どもを刺激しないように妻からうまく言ってほしい
という勝手な期待が高まっていて
妻がその期待に応えないというだけで、
夫は非難していると受け止められる行動をしている
ということになっているのではないでしょうか。

言っている方はそれに気が付きませんので
攻撃している意識はありませんし
相手からしてみると、自分が相手を攻撃していると思われている自覚もありません。 

夫婦間では、夫、妻に関わらず
子どもを守ろうとするあまり、
相手に対する期待が高まりすぎて
期待に到達しないということだけで
相手を非難しているように見える行動をすることが
けっこう多くあるようです。

結局、赤ん坊の時からの流れで
子どもには何にも期待していない
パートナーには無意識に過剰な期待をしている
ということが実態なのだと思うのです。

妻は、最初の心配の情報伝達と相談の持ちかけの際に、
自分が余計なことを言っていることに気が付きません。
この時点でも妻が言いたいのは、「一緒に心配してちょうだいよ。」
ということなのですが、
もしかすると、余計な気をまわしすぎる夫にとっては
それこそが過剰な期待だという負担感を持っているのかもしれません。

もしかすると妻は夫に、
子どもの成績を上げる結果となる働きかけをしてほしい
という過度な期待をしているのかもしれません。
結局夫はなんだかんだと言ってそれができないから逃げているのだ
と「正しい認識」になってしまうと
逃げる夫は自分と子どもを守ろうとしないで攻撃をしている
という感覚になるのかもしれません。

最低限ここから始めるのはどうだろうと思うことを箇条書きしてみます。

1 家族の中の不具合を相談されているからと言って
 その不具合の原因が自分にあると言われていると思うのは、
 はっきりそう言われるまで待とう
 (まじめで、責任感の強すぎる正義の人はこれができないようです。)

2 特に子どものこと等、自分も関わることこそ、
  相手が何を言いたいのか、まず考える。
  とりあえず、「そうだね。」と言ってから考え始める。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、そうだねと同調したら最後、自分の責任にされると思い込んでいるようです。意味のない「そうだね」という存在は頭の中に存在しないようです。)

3 相手の本当に心配していることを突き止める。
  突き止めて自分も心配しているならば、心配だと言う。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、心配という言葉を言って時間を使うということができず、心配であることを前提として心配を解消する具体的方法を提案し、実行しなければならないと思い込んでいるようです。口先で心配だねということがひどくみっともないことだという価値観を持っているようです。)

4 相手の心配から目をそらさないでしっかりと受け止める。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、自分が何とか対処して解決しなければならないと過剰に義務感に取りつかれているようです。だから自分ができないと感じたことに対しては、目をそらしたり、無かったことにしたりしてしまうことがあるようです。まじめな人ほどパニックになりやすいようです。)

5 受け止めた上で、どうしたらよいか、回答を出すよりも相談をする。
 (世の中、解決しなければならないことだけではありません。でもまじめで責任感の強すぎる正義の人は、「わからない。」、「できない。」ということを言ってはいけないと思い込んでいるようです。しかし、通常の場合は、相手はそこまで期待していません。相手の不安を受け止めているということをはっきりと言葉にした上でならば、「自分はこんなことしか考えつかないけれど、あなたはどう思う。」と投げかけてみることも誠実な対応の一つなのだという考えを持ってみましょう。

6 自分の対応、態度に文句をつけられることは、
  相手はまだあなたに何らかの信頼を置いているという風に考えてみましょう。
  あなたができないことは、おそらく多くの人ができないことです。
  相手はできないことであなたへの信頼を無くすということはないと思われます。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、信頼されている以上、無理してでもそれに完璧にこたえなければならないと考えるようです。無理なことは無理で、仕方が無いと思いましょう。)

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ごめんなさいと言えない夫・妻 ごめんなさいと言えないことにより起こる可能性のある危険、どうしてごめんなさいと言えないかという理由 [家事]



私は、以前このブログで、
相手にごめんなさいを要求するよりも
仲直りのサインを決めておいて
そのサインが出たら、とりあえず日常生活を歩き出す
という決め事をするべきだと述べたことがあります。

それは今も変わりません。

しかしこの決め事で喧嘩が終わるというならば
それはパートナーに恵まれているということかもしれない
と思うようになりましたし、

また、けんかが終わったように外見上日常生活を再開したとしても
実は相手の心の中でどす黒いわだかまりが蓄積しているかもしれません。

どうやら、ごめんなさいと要求することはしないとしても
自分から自発的にごめんなさいということに
デメリットよりもメリットの方がはるかに大きいように
感じられるようになりました。

日常生活再開の決め事は
結局仲直りがしたいという意思表示なのですが
この意思表示は、謝罪の言葉以外の行動ということになります。
「肩もみましょうか。」でも
「朝食は俺がちゃっちゃとつくるわ。」でも
「仲直りがしたい。」と言葉で言っているわけではありません。

言葉以外のコミュニケーションから
気持ちを汲み取らなければなりません。

このノンバーバルコミュニケーションが
できない人
できない時期、
できないタイミング
というものがあるということがあり、
それが夫婦間紛争の原因の一つになっていると思われる事例が
かなり蓄積されてきました。

ごめんなさいを強要することもだめなのですが、
自ら言わないということも大きな危険がある
ということを言わなければならないかなと
強く感じられてきました。

また、私自身、ごめんなさいということが苦手な時があり、
黙ってしまったり
ふざけてごまかしたりすることがあるので
家族に迷惑をかけないために
自分のこととして考えていこうと思います。

1 ごめんなさいと言われない人の心理 安心できないということ

ごめんなさいと言わない人がいるということは
ごめんなさいと言われない人がいることになります。

ごめんなさいと言われない人はどういう気持ちになるでしょうか。
ここを出発点とします。

紛争があるということは
夫婦間でなにかしら意見の食い違いがあったということになるでしょう。
あるいは、どちらかが一方的に相手に意見を言って
相手が戸惑っているだけなのに
例えば期待した反応をしないということから
責め始めるわけです。

(ここは次回に集中的に考え見るつもりなので
 今回は、詳しい話は割愛です。)

相手が感じることは、
「自分が否定された」ということかもしれません。
自分の意見が否定されたり、自分の態度が否定されたり、
自分の行動が否定されたということが実際なのですが、
言い過ぎている場合はたいてい、相手からすると
「自分の人格が否定された。自分の存在が否定された。」
という感覚になってしまいかねません。

極端な話を排除しますが
それだけで、「自分が殺される」と思う人はいないでしょう。
そんな恐怖は感じないはずです。
しかし、「自分が否定された」という感覚は
「自分を仲間として認めないと宣言された」
という感覚になりやすく、
「自分はいずれ、この仲間から追放される。」
と言われたような感覚になることがあります。
恐怖というか、憎悪というか、かなりの不快な感情を起こさせます。

そして、このように感じると、人はどうやら次に起きる感情として、
そのような「排除の予感を解消したい」という要求を持つようです。

排除の予感を解消するためには
・自ら行動を改める
という方法をとろうとすることがあります。
大切な仲間と感じており、仲直りができると確信している場合は
こちらの行動をとりやすいです。

新婚時代までは、双方がこういう行動をする傾向があります。
言い過ぎた方もそこで気づいて自分の行動を修正するという流れですね。

だんだんと遠慮が無くなると
排除の予感を解消するために
・開き直り、そちらこそ間違っている
という手段をとることが増えてきます。

逆切れだったり、さらに声を大きくして口論をしたりと
相手から見た自分の非を「無かったことにしよう」となるわけです。
「それは私が悪いわけではない。」ということですね。

そして、ついには、
相手が改善しないために、自分の排除の予感が途切れない
ということになると
ストレスを抱え続けることが人間は苦手ですから
・もういいや
と思うようになるわけです。
信頼関係が失われ
今の夫婦や家族に、あきらめて
相手にしなくなったり、離婚の方法を研究しだしたりする
こういう流れになるわけです。
離婚を後押しする人には事欠きませんので
そういう流れは太い流れが用意されています。

こういう対決姿勢からの離婚というパターンもあれば、
自分で自分を責め込んでいってしまうパターンもあります。

この場合、精神的に悪影響が現れるパターンがあり、
(メンタル悪化の主たる原因は別にあったとしても、悪化を増幅させている危険があります。主たる原因には気が付くことが少ないので、結局怒りや負の感情は夫ないし妻に向かうことになります。)
あるいは、日々面白くない体験を積み重ね
精神的に別離を選択することが多くなったり、
第三者(特に実家)から別離を勧められることに抵抗できなくなる
というパターンも出やすくなります。
結局正式離婚か家庭内別居に向かってしまいます。

「思い込みDV」の出現に親和しやすいパターンもこれかもしれません。

元々は結婚したくらいですから
仲良くし続けたいわけです。
相手の感情のこもった抗議があれば
「その感情に寄り添わなくてはならないのかな。自分が悪いのかな。」
という気持ちがどこかに芽生えてしまいます。
しかし、相手がどこで怒るのか
相手が結局自分に何を求めるのか
ということを理解できないままだとすると
あるいはそれが果てしなく続いてしまうと
結局どうしてよいかわからなくなります。
これ自体につかれて、もうよいかという気持ちになるのも一つの流れです。

そうではないとしても
「なんだ、結局は自分に服従しろということか」
という感覚になっていく可能性もあります。
もう付き合いきれない、疲れたということになるパターンです。

支配されている息苦しさを感じるメカニズムですね。
「思い込みDV」にとても親和しますね。

逆に「ごめんなさい」と言うとどうでしょうか。
自分の口論だったり、非難だったり、悪口だったり
そういう相手方が戸惑う自分の言動に対して
自らするべきではなかったという価値判断が示されることになります。

そうすると
自分を否定した言動をしたけれど
自分を排除しようとしているわけではなく
謝るというそれなりに感情的な抵抗のある行動をするのだから
自分と仲良くしていきたい
と、ある程度相手方の感情は回復される
という可能性が生まれるということになると思うのです。

但し、こちらが「ごめんさい」というセリフを感情的に言えないように
全く同じように、相手も
それを許すということは、感情的に難しいことがあるかもしれません。
しかし、「ごめんさい」は、あなたが作った相手のわだかまりを
薄皮をはぐような、じれったいスピード感なのかもしれませんが、
少しずつ確実に解消していると私は思います。

少なくとも、ごめんなさいと言うと言わないとでは
天地の差があると思います。

(ここまでのまとめ ごめんなさいを言わなければならない場面)

少なくとも、
あなたの気持ちに全く関わらず、言葉や態度から
あなたが、相手を仲間から排除すると思われるような場面では
ごめんなさいというべきだということになろうと思います。

例えば
離婚する
別れる
出ていけ、出ていく
死んでしまえ
消えてなくなれ
致命的な欠陥がある
人間としてやってはいけないことをしている
人間以下の行為だ、動物でもできる、赤んぼでもできることをできない。
絶対に許さない

と、まあ、言ってはいけないことを言った場合が典型ですね。
ついついエスカレートすると、
言ってはいけないことだからそれを言うのをやめよう
ということを判断することが難しくなり、
とにかく相手を叩きのめそうという意識が優先されてしまうようです。
家庭の中に敵が生まれてしまうというか
あなたが敵になってしまう危険があるということなのでしょうね。

あと、相手が大事にしていることを否定するとかですね。
親の悪口もこれに入ると思うのですが、

仕事はできない、収入は低いけれど
家族の時間だけは大切にしている人に対して
赤ん坊の面倒を見ている暇があるならもっと稼いで来いとか

家事全般はだめだけど、料理だけは頑張っているっていう人に
料理の悪口を言うとか
その人の最後の逃げ道を無くすような言動も危険でしょうね。

もちろん以上の言動は
最低限度、これだけはやってはダメということで
これ以上色々あると思います。
少なくともこの言動をうっかりやってしまったら、改まって謝って、
本意ではないことを分かってもらわなければなりません。

もちろん、誰でもこういうことを言っていけないということは
言われなくても分かっていることですが、
カーっとなっていると気にしなくなってしまうので、
予め言葉で押さえておくことも大切だと思います。

2 どうしてごめんなさいと言えないのか。

こちらの本心とは関係なく
相手が傷ついた可能性があるならば
きちんと改まってごめんなさいという方が
後々悪くなる危険が小さくなるのだから
謝まることによって、メリットがあることはわかると思います。

しかし、なかなかそれができない。
これは紛争が起きた後の事例に限ってでしょうが性差はあまり無いようです。

理由をいくつか考えてみましょう。
A)
自分が悪いことをしたとは思っていないこと

これ多いでしょうね。
自分を守るモードに入っているうちは、この意識が続くようです。
それなりのことを言う理由は
相手からそれなりのことを言われたということや
それなりの事情があることはわかります。

良い、悪いとか、正義とかが家庭の中に入ってくると
収拾がつかなくなります。
これは家族ではない他人同士のルールであって、
家族のルールは、家族を安心させるようにみんなが努力する
家に帰ればそれだけでリラックスできる家庭を作る
ということこそがルールになるべきだということは
これまでもお話してきましたので繰り返しません。

相手を安心させるという目標に照らして
謝るべきか否かを考えるべきだと思います。

また、何について謝るかは色々あると思います。
大きな声
言い方がきつい
名前を呼び捨てにした
とにかく謝る部分を探し出して謝って
その後に本心ではないことを説明する
ということになると思います。

B)
悪くない時は謝らないという信念を持っている

これ、結構金科玉条のように行動指針にしている人って結構多いですよね。

親から悪くないのに謝るなと言われて続けているとか
めったなことで人に頭を下げるなとか
自分の非を認めると後々後悔するとか
「謝ってはいけない」という信念のようなものを持っている人って
けっこう多いようです。

その信念のために
きちんと考えることができず謝らない

一度謝ると、後々何か言われて
立場が悪くなるかもしれない
と、そこまで本当に考えているのかわかりませんが
梃子でも謝らない人って結構多いようです。

家庭生活を営むにあたって、
あなたをむしろふりな立場に追いやる危険があります。

C)
謝ることが癪に障る 謝るという行為に抵抗感がある

私なんかはこれが一番しっくりくるかもしれません。
理屈でなく、謝るのが嫌だという感情です。

それは、感情的に対立するまで
双方の言い分があって、対立が生まれて
爆発するわけですから、
そういう攻撃モードを切り捨てるということは不自然で
なかなかできることではありません。

また、こっちが言っていることと
かみ合わないことを相手が言っているから
余計にイライラするということが通常の夫婦喧嘩のようです。

それなのに、こちらから頭を下げるということは
どうしても納得のできないことです。

よく大人になって、相手を立てなさい
とか言われますけれど
それはどういうことでしょうか。

おそらく、子どもであれば
感情をストレートに表現していても良いかもしれませんが
大人の場合は、家族を作るという任務があります。
おそらくそれは大人の責任であり
大人と子どもを分ける物差しなのだろうと思います。

言い分を通すよりも
家族の和を追及するのか大人だと。

だから先に謝って、家族の和を作る方が
大人なのだということになると思います。

そういう意味では、最近大人らしい大人が少なくなったのかもしれません。

家族を悲しい思い、辛い思い、寂しい思いにさせたくない
という考えを責めて家族の中では優先させるべきなのでしょうけれど、
自分を守るという考えが気が付かないうちに優先されてしまっている
ということなのだと思います。
なぜ、そんなに自分を守ることが最優先課題になるかについては
いずれそのうち、考えていることをお話しする機会があるかもしれません。
最近の大きなテーマです。

今回は、
ごめんなさいということを通じて
頭の中に入れておくと
言わないで済んだり、言ってもすぐに謝ったりして
致命的な失敗にならないだろうということで
お話しさせていただきました。

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「大変だね、苦しかったね。」と言われたい人たちと虚偽DVからの連れ去り別居の流れ ありもしないDVを主張する一つの理由 [家事]


前回代理ミュンヒハウゼン症候群の話をしましたが、
「あ、そういえば」とハタと気が付いたことがありました。

代理ミュンヒハウゼン症候群も、
主に母親が子どもが病気だと偽って
「お子さんが病気でお辛いでしょうね。」
「お子さんの世話を一生懸命されて大変ね。」
と言ってもらいたいということから
病気でもない子どもを病気に仕立て上げ
治療まで受けさせるということでした。
厚生労働省もミュンヒハウゼン症候群が動機の母親の殺人の統計を取っています。

DV相談経由の子の連れ去り、離婚事件というコースの中でも
そのような心理で矛盾なく説明できるケースが
山ほどあることに気が付きました。

あとから情報公開でDV相談の記録を取り寄せて
相談内容を証拠で出してくる同居母がいます。
「私が子どもを連れて出ていきたいと思ったのではなく
 行政から言われて仕方なく出て行ったのだ。」
ということを証明するためのものですが、
だからといってよりを戻そうとしているわけでもないようです。
なかなか理解が難しいケースに、時々出くわします。

こういう、目的がよくわからない行動をする方は
DV相談に行く場合でも
もちろん、離婚したいから行くわけではありません。
相談担当者から
「それは夫のDVよ、モラルハラスメントよ。」
と言われ、
「あなたも大変ね。辛いわよね。」
と言われることを望んでいるようです。

実際、はっきり相談の経過が記録されている事例では、
行政関係の相談に行って
話すだけ話して、
さあ、弁護士につなげましょうか、行政で取り上げましょうか
という段階になると、相談所から足を遠のかせて
電話にもでなくなるということを繰り返している人がいました。

何回目かの相談会で、
心配した行政相談担当者がマニュアル通り警察につなげてしまって
どうしても警察に行って相談しなくてはならないまで追い込まれて
いつもの調子で、夫の行為をあることないこと言ったところ
二時間くらい説得されてシェルターに入る羽目になった
そういう記録がきちんと残っているのです。

その母親は警察でも別居しないと頑張ったのですが、
別居しない理由が確かに説得力がないのです。
例えばクリスマスを一緒に祝わないと子どもがかわいそうだとか
家族で旅行に行く計画があってキャンセルするとお金がもったいないとか
本当に命の危険のあるDVを受けていたら言いそうにもないことを言って
でていくことを拒否しているのです。

命の危険は実際にないので、別居する必要を感じていないからです。
それどころかDVやモラルハラスメントさえも実際はなかったのです。

むしろ財布も、夫の給料口座も、夫名義のカードもみんな自分が持っていて
夫にはわずかな小遣い(昼飯代も事欠く金額)を渡すだけの専業主婦でした。

だから、「夫のことはみんな嘘でした」と正直に言えば良いのに
それを言わないものだから、
マニュアル通り警察官からは居場所をくらますように言われるわけです。

マニュアルに決められているので、
妻の被害を疑うことはしていけないわけです。

その結果、その妻は
夫の給料口座から全額抜出し(ボーナスが出たばかりでした)、
カードで限度額までキャッシングをして
子どもを連れて家を出ていきました。
子どもだけかわいそうです。

シェルターでもどこでも、疑われません。
「疑ってはいけない」というマニュアルがあるからです。
矛盾があるのは被害者だから仕方が無いというのです。
どこでも「大変だったね。辛かったね。」で
離婚までは言われ続けるわけです。

このような相談から子連れ別居という流れが多く、
配偶者暴力センターの相談数と面会交流調停の申立件数が
連動しているという事実もよくわかります。

同情を受けたいという要求が作り上げた虚偽DVですから
夫は寝耳に水です。
子どもとも会えなくなるわけですから
それは調停申し立てをするわけです。
理不尽な人格侵害ですから。

どのような理由で、妻がありもしないDVを言うのか
そのあたりが謎でした。

精神的状況から
自分がそのような扱いを受けたと思い込む場合があることは
これまでも「思い込みDV」ということで説明は可能でした。

しかし、一定数、
それでは説明しきれないケースもあって
モヤモヤしていました。

連れ去り別居から離婚に向かう女性の中に
一定数
ただ「辛かったね。苦しかったね。」と言われたい
ということを最大の目的として、
配偶者暴力の相談会に行く人がいる
ということであれば、かなり理解ができます。

そういう人たちは、
「そんなことないよ。考えすぎだよ。」と言われることが
大嫌いだそうです。
「子どものためにも頑張ったらよいのではないか」等と言われると
すぐに席を立つのかもしれません。

複数の精神科をはしごする人もいます。
話を真に受けてもらえ、話の矛盾も指摘されない。
ただ、「辛かったね。苦しかったね。」と言われるところには
自分の調子に合わせて何度も行くようです。

そういうところで、夫の悪口を
あることないこと言って
マニュアルどおりに同情してもらい
あなたはそのせいで病気になったと言われれば
かなり要求が満たされるのでしょう。
でも、ありもしない夫の攻撃を言い
ありもしない自分の精神症状を言っている自覚があるのでしょう
病院で出された薬は飲まないという人も一定いるわけです。

シェルターに入っても、
すぐに出てくる人がいますが、
おそらくシェルターで
支持的に対応されなかったからなのでしょう。
頑張れと言われたり、あなたなんて大した被害はない
他の人はもっと・・・
と言われればすぐに出てくるでしょう。
目的がかなわないからです。

では夫はどうしたらよいのか。

夫が先行して
「大変だったね。辛かったね。」
と何か言えればよいのですが、
なかなかそんなことを言うきっかけはありません。

厄介なことに夫がいくら家事や子育てに参加しても
プラスにカウントされることはありません。
やらなければマイナスですが、
最高ポイントゼロ点にしかなりません。

プラスポイントになりそうになると
「あなたは家事を自分一人でやっていると思っているんでしょう。
 みんなにそう言って回っているんでしょ。」
と言い出す始末です。

こういうケースで、「どうすればよかったのでしょうか。」
と言われてしまったらうまく回答をする自信はありません。

おそらくということで今考えているのは、
黙々と家事育児をこなすことよりも、
「いつも大変なことをさせてしまって申し訳ない」とか
「いつもありがとう」
と口先で言うことの方が
よほど評価が高いのではないかということです。
これも大事なことなのだということを
生真面目な男たちは考えなければならないのかもしれません。

結果を出すより先ず口先

そしてそういえば、
「そんなことないよ」とは決して言いません。
(もしそう言われれば、無上の喜びをかみしめるべきです。
 自分は人類最大の幸せ者だと感じてもそれほど大げさではありません。)
現実には、ガンガン文句が湧き出すように出てくるようです。

おそらく、そういうことを言いたいだけ
という現象があるようです。
われらが生真面目な夫たちは
不正確であれば正そうとするし、抗議をしてしまいます。

言わせておく
ということも大切なのかもしれません。



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SNSでの家族情報拡散と夫婦問題 [家事]


SNSの普及は目覚ましいものがあります。つい10年前は、私にとってもSNSは全くの他人事でした。今でもやらない人はやらないと思いますが、一度始めてしまうと、時間が空いているときは、ついのぞいて見てしまうという人が多いのではないでしょうか。

フェイスブックなどでご家族の様子をアップされている方がいらして、長年継続的に見ていると、お子さん方も知り合いのような情わいてきてしまいます。成長の早さに驚いたり、無邪気な様子に笑顔にさせていただくなど、幸せを願わずにはいられません。

そういうご家族ぐるみで情報発信されている場合は良いのですが、ここ数年位の間で、SNSの情報発信が、離婚理由の一つとしてあげられるケースが増えてきました。SNSは、使用を誤ると人を追い込んだり、誤用をして自分で追い込まれてしまうという危険をはらんでいます。いじめやパワハラの手段にも使われるという情報も耳にします。これまでになかったツールなので、それが持つ危険性や危険回避の方法があまり意識されていないという、ツールとしての成熟度が途上にあるという感じです。

夫婦間のトラブルとしてのSNSトラブルは、主として妻の側からの不満として聞かれます。夫が自分の同意なく、家族の情報を不特定多数の人間にSNSを通じて発信しているというところに不快を感じているというものです。そしてやめてくれと言っても止めないということが不満の中核のようです。

しかし、離婚訴訟などでは、夫のSNS発信を名誉棄損であるとか、誤った情報を流された結果自分の対人関係から追い出されてしまったなどという夫の違法行為としての主張になってしまうようです。こういう主張になってしまうと、夫の側も、名誉棄損には該当しないとか、SNSは限定公開なのでそのような効果は起きていない等と応戦してしまうわけです。

裁判がどうなるかというよりも、こういう夫婦問題が起こりうるということを知ってほしいということと、考え方の選択肢が増えるとよいなということから少し考えてみようと思いました。

夫婦の間で、一方が嫌だということを無条件にしない
ということも一つの選択肢だと思います。

ところが、これがなかなかできない。なぜできないのかをまず考えましょう。

1つは、SNSで情報を公開されることが嫌だという妻の気持ちをあまりよく理解していないということが理由になると思います。妻自体が、どうして自分がその情報発信が嫌なのか説明できないということがあるようなので、ここでは推測してみることにします。
2つ目は、どうして家族が嫌だということが分かったのにも関わらず、情報発信をしたくなるのかということについても考えてみたいと思います。

まず、どうやら理由の1と2は、あまり切り離して考えるべきではなく、根は一つのようです。せっかく分けて問題提起しましたが、一緒に考えてゆきます。

家族のSNS使用をめぐる対立は、実際には色々な心理的要因があると思うのですが、ここではSNSという仮想空間の問題性を中心に考えてみます。フェイスブックを例にお話を進めますが、その他のSNSも同じだと思っています。

フェイスブックの使い方と言えば、タイムラインに投稿したり、タイムラインに上がってきた記事を読んだりするわけです。そこで、自分の投稿に対して、誰かからの反応があったり、コメントが書き込まれたりするわけです。誰かの投稿に対して、自分も反応したり、コメントを書き込んだりするわけです。住んでいる場所も違えば、リアルには面識もない人とやり取りするわけです。

積極的にフェイスブックを活用する人たちは、どうやら、フェイスブックのタイムラインを、自分の人間関係だと感じているようです。表現はなかなか難しいです。友人関係と言っても良いのかもしれません。その人によって、そのとらえ方、程度は違うようですが、われらが夫たちは、なにか悩みがあったら相談できるし、必要な情報があれば提供を求めることができる、その代わりフェイスブックの友達の相談には乗るし、自分の持っている情報は積極的に提供をする。そうやって、感情を共有する仲間のような感覚になっているようです。ある意味、タイムラインは生徒にとっての学校の教室のような場という感じでしょうか。

ひとたび、フェイスブックが、自分のコミュニティーだと感じてしまうと、人間の本能として、仲間のために貢献したいという気持ちや、仲間に承認されたいという気持ちが生まれます。できるだけ、意味があるようなリアリティーのあるような投稿をしたいと思うのでしょうか。投稿の回数も増えるでしょうし、内容も様々なこと、身の回りの出来事も載せていきたくなるのでしょう。また、仲間からの自分の苦境に対する励ましも求めてしまうことになるのも自然な流れだと思います。但し、ここでいうリアクションを期待する相手は、特定の誰かというよりも、仲間の中の誰かということになるのではないかなあと推測しています。敢えて言えば自分のタイムラインという実体のない仮想人間とでもいうのでしょうか。特定の誰かならば、メッセンジャーを使えば良いですからね。そうして、フェイスブックは、自分の都合の良いときに、都合の良い情報を獲得するバーチャルな友達のたまり場みたいになっていくのでしょう。こうなってしまってから、ふいにフェイスブックの投稿や閲覧をやめろと言われても、なかなかできるものではなくなるのです。仮想空間の中に「自分の立場」が生まれているという意識になっていると思います。

フェイスブックを積極的に活用する人は、見ていると、社交的な人で、不特定多数を前にしても動じず、人前で普通に話すことができる人で、リアルな集まりでも堂々と自分の意見を言える人、仲間に対して仲間全体の活動の方向性を提案できる人という性質があるようです。また、他人から自分が攻撃を受けることを想定しない傾向のある人、1人1人の反応をあまり想定しない人、自分の考えに他者も賛同するだろうと漠然と考えている人ということになりそうです。お人好しのお節介ということがあると思います。人懐っこく、しかし、傷つくことが多い人かもしれません。なぜか敵対的な対応をされることがあり、理不尽な思いもするようです。

われらが妻たちは、この点に関しては逆のタイプの人のようです。あまり大勢の中に出ていきたくないタイプであり、人前に出ると何を話せばよいのか分からなくなり、仲間の中にいても数人以上の仲間だと、ただ邪魔にされなければ良いやと感じる人、その代わり二人になれば自分の意見とか希望を持ち、積極的にお話をするようになるようです。でも自分の気持ちなど大事なことはうまく言えないために口に出すことができず、できればそういう気持ちを察してほしいと考えているようです。他人に対しては漠然とした不安があり、自分の意見が通ることはあまりないだろうと考えているようです。他人とコミュニケーションを取りながら争いになることを避ける工夫をすると言うよりも、できるならば争いを避けるという意味合いもあって、コミュニケーションをとらないで済むならばとらないでおきたいという感じでしょうか。
みんなの中にいるよりも、安心して家庭や気のおけないいつもの少人数の友人の中で過ごしたいという感じでしょうか。
こういう人はフェイスブックを活用することは少ないようです。利用したとしても、誰かの投稿を閲覧するくらいなのだと思います。

夫婦の中で一方だけがSNS発信をする場合(に限らずなのですが)の注意事項を3点考えてみました。

先ず第1に気が付かなければならないのは、人には個性があって、フェイスブック一つとっても、アプローチが全く違うということです。そして、おそらくどちらが正しいとか、どうしなければならないということもないのだということです。どうしても、新しい技術などが出現すると、それを取り入れなければならないと思い込む場合がありますが、それは根拠のない洗脳だと思います。
そしてできるならば、お互いの個性を尊重しあう方が良いということです。フェイスブックをするなというよりも、家族の情報は流さないでほしいというならば、それはしないから後の活動はさせてくれというような妥協案が一番理性的なのだろうなと思います。やるかやらないかではなく、譲歩し合うということですね。
フェイスブックをやらない人にとっては、不特定多数人にメッセージを発信することすら本当は恐怖なのです。誰かが家族のフェイスブックに否定的なコメントを書き込まれてしまうと、かなり恐ろしいことが起きていると感じるようです。本当は、そこまで家族を不安にさせてまでフェイスブックをしようという気持ちはないのですが、もはやタイムラインに自分の立場というものが確立されていますから、やめることはなかなか難しい。それもわかります。

次に気を付けなければならないことは、デジタル情報は加工ができるということです。今の中学生は、こういうことが自在にできるようです。スクリーンショットをとって、加工をして拡散してしまう。ただ、その加工は全面的に行われるということは少なく、部分的な加工がなされることが圧倒的に多いです。ここからの結論としては、やはり、誰か他人のことを話題にして投稿してしまうことは大変危険だということになるでしょう。誰かの失敗や落ち度、不十分なことを話題にすることは大変危険です。また他人の情報を発信することも控えた方がよさそうです。公開の範囲が限定的であっても、リアルに信用ができる人ばかりではなく、ほんの出来心で、加工をして一般公開されるという事件は少なくありません。

最後に気を付けなければならないことは、永久保存されるということです。本当は相手方は、その投稿をリアルタイムには見ていないはずなのですが、その投稿のせいで自分の行動が制限されたという主張が結構出てきました。証拠としてその投稿画像が出されることは、画像保存をしておけば手軽にできることです。しかし、その投稿時に、相手のネット環境がどうだったかということを証明することは案外難しいことです。また、おせっかいな人が、その画像を相手に見せているかもしれません(けっこう少なくありません)。一度投稿してしまったら逃げようがなく、確定的に不利になってしまうということがよく見られます。

もちろんこれらのことは、フェイスブックなどSNSに限らず、普通のEメールなどでも起き得ることです。大事なことは、我々は便利なところに着目してインターネットを利用し始めていますが、デメリットをすっかり把握していないということなのだろうと思います。

SNSに手を出さないでくれという人の気持ちはわかります。しかし、なんでやってはだめなのかわからない。理不尽な行動制限だという気持ちもわかります。問題は一緒に暮らしていくという意味をどう把握するかということなのかもしれません。また、本当に大事な人を守るという発想を持って話し合うということなのかもしれません。
私ももう少し考えた方が良いかもしれません。

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