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セクハラは群れを作る人間の本能によって握りつぶされるされる。伊藤詩織氏とH議員の被害者との扱いの違いに学ぶ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

伊藤詩織氏がジャーナリストから性暴行を受けたと主張し
損害賠償を請求した裁判で
東京地裁は、伊藤氏の主張を認めた判決を出した。

伊藤氏に関しては
顔と名前を出して性被害を訴えたということで、
一方では称賛と励ましの声が上がったが、
もう一方では、
ハニートラップ、枕営業という中傷の外
飲みについて行った方が悪いという
性犯罪につきものの被害者の落ち度論が
第三者から挙げられていた。

極端な挑発がなければ
落ち度があったところで同意なき行為は道義上許されない。
それなのに被害者が責められてしまうと
被害者にとってみれば
自分こそが道義に反する行動をしていたと言われているようなもので、
精神的に大きな打撃を受けることは簡単に想像できることである。

もちろん、このような被害者の落ち度という論調に対しては
女性の権利の立場から大いに批判が上がった。

奇妙なことは、
今回伊藤氏を擁護、支援したのがリベラル系で、
伊藤氏を中傷したのが自称保守系という傾向がみられたことだ。
加害者のジャーナリストが、首相寄りで
首相礼賛の新書を出版するような
傾向を持った人物であることが関係しているのかもしれない。

伊藤氏を非難した人たちは
ジャーナリストや首相を擁護しようという
心情にもとづいて非難したのかもしれない。

お身内はともかく、男女関係については
首相は定評のある方なので、
このジャーナリストの事件に関連付けられることは迷惑だろう。
ここでもなにがしかの忖度が働いて
その結果首相の足を引っ張る皮肉が生まれていたのかもしれない。

さて、数年前に
野党第1党のベテラン議員H氏が
タクシーという密室で性犯罪を行ったということで
伊藤氏の判決の直後に
書類送検をされるという事態になり
そのH議員が離党したというニュースが飛び込んだ。

この問題は数年前に明らかになりニュースにもなった
しかし、当時は、
離党や辞職の話は出ず、
党内の役職を解かれただけで終わっていた。
当時の党首は女性である。

被害の重大さに違いがあるのかもしれないが
伊藤氏の場合は一介の民間人が加害者であるのに対して、
H議員は国会議員という公的な立場の人間である。

もしこの政党が女性の権利を擁護することも
政策の一つに入れているならば
微罪としての処分をすることは理解に苦しむところである。

さらに不可解なことは、
この政党の党員たちが
微罪処分に対して批判をしなかったのかということだ。

この政党からは
女性の権利の政策を極端とも思われるほど重点課題に掲げて
立候補し、有権者に宣言していた人たちもいて
何人かは国会議員になっている。

この女性の権利の活動家は
微罪処分に対して反対を表明しなかったのだから
身内の性犯罪に対して著しく寛容だった
と言わざるを得ない。

今回の書類送検を受けても
その政党からは、H氏に対して
離党処分や辞職勧告の動きの情報はない。

H議員の性犯罪を不問に付した人たちのほとんどは
伊藤詩織氏を擁護、支援していたはずだ。
なぜ、伊藤氏を被害者として擁護、支援するのに
同じ性的暴行の被害を受けた
H議員の行為の被害者に寄り添って
性暴行をただそうとする
女性の権利の活動家がいなかったのか
そこが問題なのである。

政党外の女性の権利の活動家も
なぜ、H議員やこの政党の
女性の権利侵害の軽視を批判しなかったのか
そこが問題なのである。

私は、影響力は少ないながら
女性の権利の観点から批判をし続けてきて
同調者が現れないということから
よく記憶しているし、
現在の状況も変わりがない。

そしてもしかすると
伊藤氏を擁護した人たちの中には、
H議員の被害者は
ハニートラップ、枕営業という中傷の外
飲みについて行った方が悪い
タクシーに乗った方が悪い
性犯罪につきものの被害者の落ち度論によって
精神的バランスをとっている人も
いるのではないかという疑念がある。
そうでないと批判がないことが整合できない。

特に政治的な問題から
権力に仕掛けられた等と考えている人もいるかもしれない。

いずれにしても被害者女性の心情を思いやるという感覚は
初めから排除しているのではないかと疑りたくなる。
そうだとすると、結局、伊藤氏を中傷した人たちと
同じ発想だということになる。

ここで、誤解を受けないように説明をしておく。

私は政治的議論をしたいのではなく、
左翼やリベラルを批判したいのでもない。

あくまでも、性暴力加害者をかばい
女性の権利侵害が無視される現象が起きる
そのメカニズムを検討したいだけである。

人間は、仲間をかばうという本能がある
ということをいいたいのだ。

認知心理学では
単純接触効果
プライマリー効果(これは二つの意味があるので注意)
等として説明されているようだ。

対人関係学では、
人間は本能として仲間を無条件に守ろうとする
そういう性質のある個体だけが群れを形成して
生き延びてきたのだというし
単純明快な主張をする。

この観点から見ると、
ジャーナリストを擁護した人たちは
・元々知り合いだった
・政治的な立場が共通で仲間だと意識しやすかった
・あるいは単純に政治的理由
等という理由で
ジャーナリストをかばおうという気持になりやすかった。

もうひとつ注意していただきたいことがある。

対人関係の対立が起きている場合は
一方の味方をするということが
同時に他方を敵として攻撃することを意味する
ということになりがちだということだ。

加害者のジャーナリストを仲間として守るための行動として
伊藤氏を非難していたのである。

これは、仲間という一つの秩序を維持しようという形の意思である。
仲間だと認識した以上
仲間を守り、自分たちの群れの秩序を守ろうとしてしまう。
このために、客観的真実がどこにあるか
という探索ははそれほど重要でははなくなる。
客観的真実、一般的な価値観よりもよりも
仲間の利益が優先事項となるのである。

そうであるから、
例えば会社内で性犯罪があったとしても
会社の大部分の人間にとって
加害者の方がより仲間だと意識されているのであれば
性犯罪は大ごとにはならず
握りつぶされてしまう危険がある。
典型的な例は、加害者がベテラン社員で
被害者が派遣社員等で一時的に社内にいるような場合である。

そのような場合には、
多数派にとっては
権利侵害がなされているにもかかわらず
女性が悪いということで
権利侵害を救済しない後ろめたさにに
落ち着きが欲しくなる。
自分達という仲間が卑劣な集団ではない
という落ち着きである
これは人間の本能なのだ。

こうなると、加害者は仲間で人間であるが
被害者は仲間ではなく
人間扱いする必要がない
という無意識の区別が生まれてくる
大変恐ろしいことだ。

今回伊藤氏を擁護、支援した人が
広範囲に広がった一番の理由は、
伊藤氏が名前と顔を出して被害を訴えたからである。
具体的な人間の、具体的な苦しみが
映像として、音声として直接感じ取ることができたので
しかも繰り返し報道されたということもあり、
伊藤氏に対する仲間意識が生まれたという効果があったはずだ。

野党のH議員が苛烈な批判を浴びなかった理由も
全く同じことの裏返しだ。
H議員は顔も名前も知っている
仲間という意識が持ちやすい。

その反対で被害女性は顔も名前も分からない
だから心情を理解しようとする的がなかったようなものである。

だから、特に政党という結束が求められる組織は
容易に政党内の秩序を守り、H議員を守ろうとする
空気が形成されて
あえてその空気に逆らおうとすることができない状態に
なっていたのだろうと思う。

私が言いたいのは
このようにセクハラによる権利侵害の問題は
難しいということだ。
難しくしているのは人間の本能である
仲間を無意識にかばおうとしてしまう本能
群の秩序を無意識に守ろうとしてしまう本能
それが被害者の方を攻撃する理由である。

顔も名前も分からない女性の心情は
なかなか思いやることができない。
人間の能力なんてそんなものだと自覚しなくてはならない。

だから常日頃女性の権利を主張する人たちでさえも
伊藤氏を擁護、支援することはできても
H議員の被害者を擁護、支援することをしなかったのだ。
仲間であるH議員を攻撃することがためらわれたのである。

セクハラに対して戦いを挑もうとするならば
感覚的な議論ばかりをするのではなく
人間の本能を見据えて取り掛からなければならない。

世論に大きな影響を与えたのが伊藤氏の行動だということも間違いがないが
被害者が顔や名前を出さなくても
権利侵害が回付されなければならないことに異論はないだろう。

そういうことがクリアになった
伊藤氏の判決とH議員の書類送検
という二つのニュースであった。


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「DV」サイクルという学説などない。レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論とは似て非なるもの。 The Battered Woman ノート 3 各論 2 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

1 レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論

DVサイクルという言葉は、現代日本が作った造語です。
DVサイクルを発見したとされるレノア・ウォーカーは、
DVという言葉を使っていません。
レノア・ウォーカーは、「バタードウーマン」という本を出しています。
バタードとは、虐待された人間であり、
虐待者はバタラーと表現します。
本書では、「暴力のサイクル理論」という訳語になっています。

ちなみにバタードウーマンの定義は
「男性によって、男性の要求に強制的に従うように、当人の人権を考慮することなく、繰り返し、肉体的・精神的な力を行使された女性」
とされています。

「DV」という言葉は、とらえどころがなく曖昧で、
かなり広い意味で使われています。
レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論は
このような広い意味でのDVに当てはまるものではなく
上記のかなり限定された事案に対する分析です。

バタラーとバタードウーマンの関係は
時期的に3つの相に分けられ、
それが繰り返し起きている、
これが暴力のサイクル理論です。

第1の相は、緊張の高まりの時期です。
この時期も些細なものながら暴力事件が起きています。
女性の関心事は、正しさや人権ではなく
暴力をエスカレートされないことだけです。
このため、進んで自分が悪いとアッピールしたり、
怒りや痛みがあるにもかかわらず無いと思い込むようになります。

しかし、このような緊張の持続に耐えられなくなり、
不用意な刺激的言動を行なってしまい
緊張が高まっていくとしています。

第2の相は、激しい虐待です。
虐待者はコントロールが全く効かなくなります。
第2の相に移るきっかけは女性にはなく
男性の体験した外的な出来事や内面的状態の変化です。
虐待者はコントロールが効かなくなり
女性がひどいけがをしても暴力を止めることができなくなります。
だから虐待者の方が
虐待の内容を詳細に記憶していないこれが特徴のようです。
逆に虐待を受けた方はこれを詳細に記憶している。
レノア・ウォーカーは、このように報告しています。

ここが現代日本の現実に保護されている女性とその夫と正反対のところです。

日本においてもレノア・ウォーカーのいうような夫婦間虐待はあるので、
そういう場合は筆者の言う通りなのかもしれません。
確かに、そのような場合、虐待の事実について、
虐待者は事実を否認しますが、その言い分で考えると
つじつまの合わないことで相手がけがをしている
ということになってしまうのでわかります。

女性側のいわゆるヒステリーの場合も
(男性に対する虐待とは言えない場合が多いかもしれませんが)
自分ではあまり詳細には覚えてはいないようです。
攻撃者の方が覚えていないということは
興味深い指摘だと思います。

要するに怒りに我を忘れているということなのでしょうが、
どちらかというと、後で述べる
自己防衛意識が強烈になりすぎて
解離や短期記憶障害が起きているような感じなのでしょう。

女性は、救急車の出動を要請するような怪我をしない限り
手当てを受けないそうです。
第1相の否認の心理が働いているわけです。
実際の私が担当した事件でもそうでした。
「なんで診断書取らなかったの」と
後で悔しがることが多いのです。

かすり傷や転んだだけで、他覚症状のない診断書をとる
という場合とは事情が違うことがはっきりわかります。

第2相では被害を受けているはずの女性側も
男性に対して怒りを放出しているような記述があるのですが、
第2相は複雑で、
虐待者が怒り続けていても
虐待を受けた女性は第1相と同様な精神状態になる
という記載もあり、少しわかりづらいです。

バタードウーマンは、大方の予想に反して
結構夫に対して反撃しているようです。
やられっぱなしではないという記述があちこちにあります。
手が出る数も負けてはいないようで、
前回お話ししたように、夫を殺すのも女性の方が多いとされています。

確かに筆者はバタードウーマンには、
強さがあるということも指摘していました(42)。
気弱でボロボロの服を着て髪の毛はぼさぼさで
というイメージの修正を繰り返し求めています。

第2相は1番時間的には短く、
第3相、第1相の順に長くなるようです。

第3相は、やさしさと悔恨、そして愛情の時間です。
虐待者は、自分の虐待を恥じて償いをして
二度と同じことはしないと誓約し、許しを請うようです。
虐待を受けた女性は、この時期の男性が
真実の男性の姿だと思うそうです。

この第3相の時期があることが重要で、
サイクル論の根幹になっているだけでなく
配偶者加害の理論の根幹になっています。

つまり、どうしてこれだけ虐待されるにもかかわらず
虐待を受けた女性は、
虐待者の元から去らないのかということです。

この第3相の時期が幸せで
いずれ、この時期だけになるのではないかという
幻想を抱くのだというのが、
その問いの回答になるからです。

なお、虐待された女性が家を出て行った場合、
約10%の男性が自死をすると書いてありました。
家を出ることは大変危険のある行為であることは
レノア・ウォーカーによって示されていることになります。

また、虐待を受けた女性が虐待者を殺すのは
第3相から第1相に移行した時だとしています。


2 虐待行為の理由、虐待者の心理(私見)

レノア・ウォーカーは、何度も何度も
自分は虐待者とはめったに話さないと注意しています。
情報源を明確にしていることは極めて良心的な学者だと思います。

だから、虐待者の心理というものを分析はしていません。
虐待の背景としては
女性は自分の所有物であるから教育のために暴力を使う
という差別感、大家族主義を述べるくらいです。

しかし、本書で上げている具体例のほとんどが
私の分析を指示する事情を述べています。
おそらく筆者がそれに気が付かないということはあり得ない
そう感じるのですが、
筆者はそれを明示していません。

私が夫婦間虐待の事例などを分析した結果は、
「虐待者は、自分の立場を守ろうとして
女性に対して虐待をしている。」
というものです。

根本は防衛意識です。
但し正当防衛ではないので、
正当化できない防衛意識と明示しておきましょう。

何を守るのかということについては
時代により変遷が見られるようです。

確かに過去、例えば昭和の年代においては、
妻に対して夫の優位さを確保することが念頭に置かれており、
優位さが失われそうなときに
暴力が出るということがあったようです。

しかし、現代に時間が進むにつれて
優位さではなく、
虐待者の方が関係性を失う危険を感じたときに
暴力衝動が起きるという表現が適切になったようです。

この原理は男性も、女性もある程度共通のようです。

「関係性を失う」というのは、
例えば自分の立場がなくなると感じる時、
自分に対する相手の評価が低いと感じる出来事があった時、
自分が侮辱された、尊重されていないと感じたとき
等の対人関係的危険を感じたときということになります。

究極には、関係性からの排除を予感させる場合です。

昭和の時代に優位さを失うときに危険を感じた理由は
当時においては、男性は女性に対して
優位でなければ関係性を失うものだ
という社会的な固定観念があったからでしょう。

現在はなかなか優位性を保つという意識は持ちにくいので、
優位性を基準にすることにはならないようです。
但し、虐待を受けている方から見ると、
結局優位性を保ちたいのだとしか思えない
ということを実感として持つということも真実だと思います。

虐待者自身が、
本当はいつまでも一緒にいたいだけなんだ
ということに気が付かないことが多いように思われます。
いつまでも一緒にいるために、自分が尊重されなければならない
尊重されていなければ自分は見限られるのではないか
という意識に上らない感覚があるように感じられます。

だから何に怒っているか自分でもわからずに
尊重されていないと感じても言葉に出すことはできず、
イライラに気が付いてほしいけれどそれも言えない
何とかしたくて攻撃をしてしまう。
そんな感じなのかもしれません。

虐待を受ける側が、自分の度の行為が相手を激怒させたのか、
虎の尾を踏んだタイミングが分からないことも理由があります。

一つには、関係性が失われるというのは虐待者の主観的な反応であり、
客観的には別に顔がつぶされたと感じる必要はない場合だからです。
少なくとも虐待を受ける方は顔をつぶしたとは思っていません。

また、虐待を受けた女性が同じことを言ったとしても
その時の男性の内的状態が、外的出来事によって変化している
という事情があるからです。
この点の筆者の指摘(63)は正しいと感じます。

例えば会社で上司から理不尽な扱いを受けて
なんとも悔しくて仕方がないまま帰宅した場合とかですね。

但し、女性の発言は一般的に不用意です。
男同士なら絶対言わないということも
平気で言ってしまっていることが多くあります。
そう言えば大学の心理学で習ったことがあります。
女性は男性以上に男性に対して無防備なところがあるというものでした。
でも、だからといって暴力が正当化されるものではありません。

もう暴力のきっかけがひとつわかりにくい理由が
虐待者が女性の発言を勘違いした場合が
多いのではないかと思われることです。

裁判などで、虐待を受けた者の主張と虐待者の主張が違うのですが、
虐待者の主張は勘違いか幻聴がきっかけだと解釈し直すと
ああそうだったのかと納得がゆきます。

そういう意味で言ったのではないのに
つまり単なる事務連絡の発言をしただけなのに
悪くとらえて自分が馬鹿にされていると勘違いをして
怒りだすということが結構多く見られます。

また、どういう場合に自分の顔がつぶれたと感じるかについては
その人それぞれ違うようで、
またその時の精神状態によっても違うので
そういうことからも予想が難しいということがあるようです。

根本的な安心感、信頼感がないのですが
それはもっぱら自分に対する評価の低さ、劣等感によるもののようです。

虐待者は、無駄に自己評価が低いのです。
だから
女性の方が社会的地位の高い職業に就いている
自分が失業した、収入が減った
左遷された
暴漢に襲われて負けてしまった
あらゆることが自分を否定することになってしまいます。

虐待者は、けっこうあちこちにケンカを売っています。
よくあるのが、自動車を運転していて
余裕のない運転者が割り込み等をすると
聞くに堪えない悪態を吐くというものです。

だから、虚勢を張ることは自分を守るために
どうしても必要な行動です。
実力以上に見せようと絶えず表面的に努力しています。

嫉妬深いのもこういうことからきているわけで、
自分に自信がなく、自分と女性との関係性にも自信がないから
女性が自分を見限って
別の男に近寄っていくのではないかと考えるのです。
女性を浮気性とか淫乱とか攻撃しますが、
自信の無さの裏返しにすぎません。

だから、虐待者は女性を嫌っているのではなく
いつまでも自分を見捨てないでいてほしいという気持でいるようです。
虐待者からは離婚を言いださず、
虐待を受けた女性からの離婚の申し出を拒否するのは当然です。

また、第3相も当たり前です。
嫌いでも虐待したいわけでもないわけです。
別れるのは嫌なのです。
自分を大事に扱ってほしいということは
恥ずかしくて言えないために
暴力になるだけです。

この事情も男性も女性もあるようです。
わかってほしいけれど言葉に出すことが恥ずかしいということですね。
親に注意されて反論できなくて
「死ね」という中学生みたいなものです。
(親の方が余計なことを言っていることが多いかもしれません。)

暴力や暴言についても
心から相手に悪いことをしたなあと後悔するのです。
自分を見限るかもしれないと心配になるために
必死にフォローしているわけです。

そのときの二度としないという気持は間違いがありません。

しかし、怒りの情動にとらわれてしまい、
自分の冷静な感情が失われ、
相手を攻撃しきることだけが意識になってしまっているのです。
自分を守るという意識が
自分が相手と関係性を継続したいという意識が
逆に相手を攻撃してしまっているという
お互いにとっての悲劇があるのだと思います。

レノア・ウォーカーは、虐待をやめる方法として
怒らないで主張すること
威圧しない話をすること
という二つの条件を上げていますが
正しいと思います。

それをするためには、
相手がかわいそうだから、相手を守らなければならない
という情動を対立させることが有効だと思いますが、
これも訓練という作業が必要だと思います。

もう一つは、家族との関係では自分を守らない
家族に殺されたら本望だと
そういう気持の訓練でしょうね。

これ、案外、身体生命の危険の場合はできるのです。
我が身を犠牲にしても家族を守るということですね。
ところが、対人関係の危険、家族から追放されるという危険の場合は
家族を守らないで自分を守ってしまうようです。

同じ事を、離婚後の子どもの研究をした
J.S.Wallerstein も述べていました。
身体生命の危険は我が身をなげうっても子どもを守る
しかし、離婚となると子どもよりも自分の感情が優先となると。

3 日本におけるサイクル

レノア・ウォーカーのサイクル理論は、
欧米の社会を前提に話されています。
日本においては事情が違うようです。

ほとんどが第1相で
第2相もほんの一瞬
そして、明白な第3相はない。
こんな感じではないでしょうか。

割とはっきり3相に分かれているのは
結婚前のカップルかもしれません。

なぜならば、日本人は
自分が悪いといってもあやまることはあるでしょうが、
埋め合わせにはっきりとした優しさを示すとか
許しを懇願するとか
二度としないと誓約するという
オーバーアクションは起こしにくいからです。

行政の相談の記録を見ても
こじつけにこじつけを重ねて
DVサイクルを教え込もうとしている様子がうかがえます。
全くマニュアルから抜けられないし、
何でもかんでも保護の対象としようとしているからです。

そもそもDVサイクルで説明をするのは無理があるのです。
また、根本は、レノア・ウォーカーのいう
虐待とまでは言えない場合に無理に当てはめようとするからです。

日本家庭では
家庭内別居をすることが多く、
そうやって衝突を回避しようとしているようです。

そうして何年後かに
ようやく口では自分が悪かった仲よくしようと切り出しても
全く心が動かない状態になっているわけです。

あるいはそうなる前に
元に戻らないと思った方が逆切れして
相手を追い出すとか、自分が子どもを連れて出ていく
ということが起きるようです。

サイクルとしては回っていないようです。

第3相があるから結婚生活を維持するというのは
日本ではあまり説得力がないように感じます。

4 なぜ、虐待があっても自ら去らないのか(私見)

レノア・ウォーカーは、この理由として
一つに学習性無力感ということを指摘し、
もう一つとして暴力のサイクル理論を上げています。
暴力のサイクル理論が理由になるということは、
先に述べた第3相があるため、
希望を持ってしまう。離れられないというものです。

第3相があるから立ち去らないというのは
日本においてはあまり説得力はないのではないか
ということは今述べたとおりです。

学習性無力感というのは、
訳が分かりにくいのですが、
自分がどうして虐待を受けるかという
原因が分からず対策も立てられないと感じることが
何度か繰り返されることによって、
出来事に抵抗をすることができなくなっていくという
反応が起きてしまうという行動学的な説明です。

初めから改善をあきらめてしまうというものでしょうね。

レノア・ウォーカーは、うつ病との近似性についても言及しており
大変興味深く学ばせていただきました。

私見ですが、
ここでも対人関係的危険がキーワードになると思っています。

つまり、人間は本能的に群れを作ろうとする動物だということです。
もう少しだけ具体的に言えば
①群の中に自分を置きたくなる。
②この裏返しで、群から追放される予兆を感じると
身体生命と同様の危機感と生理的反応が生じる(対人関係的危険)。
③無条件に群れの存続維持を図ろうとして
群の秩序を維持しようとする。
④群れの弱い者を守ろうとする。

一つに、どんなに虐待を受けても
家族というユニットを感じていると
自分はそのユニットから離れることによって物事を解決しようとする
選択肢がなくなるということです。

これは、パワハラを受けている労働者も
退職するという選択肢は不思議となく
追い詰められても
「このまま苦しみ続けるか」それとも「死ぬか」
という二者択一的思考になってしまうことが
よく見られています。

群から離脱するという選択肢は
人間の場合持ちにくいようです。

二つ目には、虐待を受けて仲間として扱われない
という扱いをされると、逆に
何とか見放さないでほしい、
自分を承認して、仲間として認めてほしい
という気持を起こさせるようです。
これの極限的な表れが洗脳です。

三つ目は強い者の言動を中心に
秩序を組み立ててしまうようになります。
いじめの場合の傍観者はまさにこの作用が起きていると思われます。

いじめの場合、しばしば被害者までも
いじめ行為に同調しているかのような態度を示すことがあります。
からかいやいじりだということで
恐怖や屈辱を否認しますが、
これはこのように仲間でありたいとか
仲間の秩序を壊したくない
という要求の表れだと考えると理解できますし、
なおさら悲惨な状態なのだと思います。

レノア・ウォーカーは、
暴力のサイクル理論の中で、
第1相において、被害者が
これ以上被害を大きくしないために
自分の非を認めたり、相手の要求に逆らわないということを言いますが、
自分を守ると同時に
家庭を守ろうとしているのかもしれません。

人間が群れを作るのは一人では生きていけなかったからです。
群の外にいると不安になり
群の中に戻ると安心する
こうやって心身のバランスをとってきました。

ところが群れの中にいる方が緊張が高まるということになると
心身のバランスが取れなくなり、
心身の不具合が生じるということは
残念ながら理にかなったことになります。

以上のように、虐待を受けても
家族から離脱するという選択肢を持ちにくい
むしろ虐待している当人に対して
何とか自分を認めてほしいとしがみついてしまう
自分を犠牲にしても群れの秩序を守りたい
という人間の本能から
家庭から去ることをしないというのが実態だと思います。

このことを理解しないと
本当に保護が必要な人ほど保護を拒否する
ということが理解できないでしょう。

5 感想

長距離の出張と役所での缶詰が続いたことを良いことに
古典をじっくり読ませていただきました。
役所のDVサイクルというものに違和感があったのですが、
それは作者レノア・ウォーカーの責任はなかった
というのが感想です。

バタードウーマンという
かなり過酷な体験の中での出来事として書かれたものである
ということを理解できれば
色々な学びがあることが分かりました。

問題なのは、家庭内虐待ということがない事案に
DVサイクルを持ってきていることに
違和感の正体があったということのようです。

DVという言葉はとても便利ですが、
あまりにも広範囲になりすぎて
それにも関わらず対応が一律だというところに
夫婦の悲劇、そして何よりもお子さんの悲劇が生まれる原因がありそうです。

どうして、そんなに無理をしてまで
レノア・ウォーカーの理論や、
虐待対策を機械的に当てはめようとするのか
原典を読んで、ますますわからなくなりました。

是非復刻版の出版をお願いしたいと思いました。

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自己肯定感なんていらない。それは社会の問題を個人に責任を押し付ける専門用語。ではどうするか。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



これまで私も
「自己肯定感」というものが大切なのではないかと
無条件に考えてしまっていたところがあったかもしれません。

自己肯定感や自尊感情がないとどうなるかということで、
言われているのは、

社会で成功しないとか
喫煙、飲酒、未成年の未婚の母等も自尊感情が低いことが原因だとか
学校の成績が上がらないという身近なことや
離婚、犯罪、自死の原因になるのだ

といわれれば、
自分や我が子の自己肯定感が低いのは大変だ
「自己肯定感を高めなければならない」と
心配になってしまいます。
若者自身の中に「自分は自己肯定感が低い」
と悩む人も多いそうです。

学校教育や国の若者政策においても
自己肯定感を高めるための政策というものが
莫大な予算を投じて行われているようです。

でも
自己肯定感とか自尊感情とは何でしょう。
自己肯定感を高めるということはどういうことでしょうか。

自尊感情や自己肯定感という言葉の意味は
必ずしも定まってはいないようです。
人によって内容が違うのです。

自分を好きだと思う感情をいう人もいますし
自分の現状をありのままを承認することという人もいます。
自分を大切に思う気持だという人もいます。
自分のすべてに満足する気持ちなんて言うのもありました。

でも
自分のすべてに満足する人なんていないと思います。

自分が自分を好きだというのもよくわからない。
「私は自分が好きだなあ」と思っている人っているのでしょうか。

また、自分の現状をありのまま承認するというけれど
自分の現状を把握することはとても難しいことです。
そんな高い認識力を持たなければならないなら
ほとんどの人は自己肯定感がないということになると思います。
無くてもどうでもよいということになりますね。

自分を大切に思う気持ということはあった方がよいですが、
それは具体的にはどういうことということの
説明はあまりないように思われます。

おそらくそれらの定義は
ネガティブリストを裏返しにしたものなのでしょう。
つまり自己否定感や
自己肯定感が低い時の心の状態を並べ上げて
そうではないと言えることを
総論的に述べたというような気がします。

ちなみに自己肯定感が低い場合の例が
挙げられているサイトがありました。

自分に自信がなく不安になりがち
自分で決められず人の意見に流されやすい
他人の評価を気にしすぎる、何かあると落ち込みやすい
将来に対する希望をもてない、意欲を持てない。
どうせ何をやってもうまくゆかないと思う
自分なんて価値がないと思う。物事をすぐにあきらめて投げ出す。
怒りっぽい、他人に干渉しがち
他人を否定することが多い

こんな感じでしょうか。

全部、正常な人間だと思いますけれどね、私は。
これらの悩みのない、あるいは少ない人間は
私はあまり付き合いたくないですね。

ところで、どうやって自己肯定感を高めるかというと

考え方を変える
親の対応で、褒め育てる
何か他人の役に立つことをして評価される
何か他人から評価される体験をする。
こんな感じなんですよ、本当に。

後は高額な費用のセミナーだとか
カウンセリングを受けるということが一般的でしょうか。

どうして自分が好きだなんて言う変わり者になるために
高額の費用を払わなければならないのか
そう考えるとおかしな話です。

そもそも自己肯定感って
その人の属性みたいなものなのでしょうか
いわゆる自己肯定感が高い人、低い人みたいな。
放っておけば変わらないものなのでしょうか。

そうではなくて
もしかしたら、その時のその人の置かれている状況が
心みたいな形で反映しているだけなのではないでしょうか。

自己肯定感が低いとか
ネガティブリストの心持になるのは、
自分の置かれている環境に原因があるのですよね。

受験競争を一つとっても、
他者より成績が悪ければ、
他者より偏差値の低い学校に行かなければならないし
学校によって、就職の条件が違う
そして、下手なところに就職すると
社会保険がないとか、長期の就業が保証されないとか
甚だしいのはブラック企業だったり、過労死したり
ということにつながるわけです。
「自分は大丈夫だろうか」と問い続けていたら
ネガティブリストの心持に、それはなるでしょう。

昔は成績が悪いことは格好悪いみたいなものですんでいたのが
一生を極端に左右するということになれば
それはネガティブリストの心持になることは
当たり前のように思われます。
むしろそれが正常な反応ではないでしょうか。

結構子どもは早い時期から敏感で
小学校の4,5年生になると
苦労しているご家庭では「正社員になりたいね」なんて
学校の昼休みに話しているのです。

子ども本人が厳しい社会に気が付かない場合でも、
親はそうはいきませんから
自分の子どもの弱点などにピリピリしていますし、
よそのお子さんを親がライバル視している場合もあります。
親の自分に対する対応を見て
さらにネガティブリストの心持になるのは
簡単に想像できると思います。

自己肯定感や自尊心とモチベーションの研究は
自己肯定感の役割を否定しているものもあります。

成績が良い時に自己肯定感が高まるけれど
だからと言ってその後も成績が上がり続けるかというとそうではなく、
成績が落ちれば自己肯定感も低下するだけだ
という結果があります。

それから自己肯定感が高くても
飲酒、喫煙、未成年の未婚母は出現する
という結果も出ています。

自己肯定感や自尊感情が大切だ、高めなければならない
なんていう考えは眉唾かもしれないと
少し構えてかかる必要がありそうです。

自己肯定感の高低は、結果に過ぎないのではないでしょうか。
その時にその人を取り巻く状況がその人を追い込んでいる状況だとか、
その人が何かに悩んでいる状態、何らかの事情で生きづらい状態
こういう状態に対する心の反応を
「自己肯定感が低い」と表現しているだけではないかと思うのです。

「置かれている環境の状態を反映した心のありよう」ということならば、
その人が置かれている環境を改善しないのに
結果としての心のありようだけを修正することは
無理があり、不健全だと考えています。
心の機能をマヒさせるだけではないかという心配があるのです。

誰しもネガティブリストの心持になるような環境を作っておきながら
その結果人間として当然の反応をする者たちに対して
自己肯定感が低いとか、自尊感情が足りないと
その人間個人に責任があるかのように
すり替えているだけなのではないかという疑問がわいてきました。

もちろん、そのような社会がすぐに変わっていくわけではありません。
特に子どもたちは、大人が作った社会で生き抜かなければなりません。
そうやって、社会を動かないものだと考えて
柔軟性のある個人の感じ方を制御して
社会を生き抜くということが実務的な考え方だと言えるようにも思います。

しかし、その副作用を心配する必要はないのでしょうか。

心や感情が現在の環境を反映しているとしたら、
それは生きるための反応だということです。

体の痛みは、痛みを感じる部分に傷害があるから
休ませて、手当をして、使わないようにして
回復させることを、意識に伝える役割があります。

心の痛みも、
本来痛みを感じることによって
自分をその環境から離脱させたり
環境に働きかける(自分の行動を修正する)等の
対人関係という環境を改善する役割があるはずです。

環境をそのままにして
意識だけ変容させるということは
この心のメカニズムを変容させてしまうことです。

当然に感じるべき苦しいという感覚を麻痺させることによって
本来撤退するべき事態から撤退せずに
心身を消耗させていったり、
苦しみを感じにくくして
他者に共感する能力を摩耗させている可能性はないのでしょうか。

例えば、「そんなことで悩むなんて負け犬だ」と言うとか。

人間性が摩耗していき、
心がすさむということはないのでしょうか。

もちろん自己肯定感を高めようとしている人たちが
このような結果を意図しているわけではありません。
「それは自己肯定感があるとは言わない。」
とおっしゃることは承知しています。
しかし、結果としてそういうことになるのではないかということです。

また、根本原因が変わらないならば
一時的に自己肯定感が高まるけれど、
やがてすぐに元のネガティブリストに戻るのではないか
という懸念もあります。

もっと副作用がなく、
それでも現実の社会を前提として
ネガティブリストから脱却する方法があるなら
それを考えてみるべきだというのが私の主張です。

ではどうするか。

色々ある自己肯定感の定義の中で
「自分のありのままの状態を認識し否定しない。」
ということがあったと思います。

しかし、その人のありのままの状態を否定しないで受け入れるのは、
本人ではなく、その人の属する人間関係や
社会なのではないでしょうか。

人間関係の中で自分の欠点や失敗も受け入れられていれば
その結果を反映する心持としては
ネガティブリストの心持にならないと思うのです。

自分を取り巻く人間関係が
自分の現状を否定的に評価するからこそ、
ネガティブリストの心持になるのではないでしょうか。

しかし、あちこちの人間関係のすべてが
その人のありのままを受容する人間関係に
そう簡単に転換することはないでしょう。

私自身、
現実の人間関係の中で
仲間だと信じていた人の裏切りや、
理不尽な扱いを受けて思い悩むことが途切れません。
積極的に攻撃してくるひと
仲間だと思っていた人が攻撃者に協力しているのを知ったとか
そのくせ、自分たちは正しいと主張する集団。
理不尽なことから自分を守りながら
生きていかなければならない社会なのかもしれません。

今考えていることは、
その人の「心の拠りどころとなる人間関係」を
一つ作ることだと思います。
自分がその中に好きなだけいられる人間関係です。
何があっても追い出されない人間関係です。

自分が失敗しても、不十分なことがあっても
期待外れみたいなことがあっても
責めない、笑わない、批判しないで
ありのままを受け入れる人間関係です。

子どもだって、自分で考えてした行動ならば
親はあまり口出しをしないようにする。
メリットデメリットを提示するなどの
助言をすることは良いとして
子どもが、自分で考えてすることを
邪魔をしないということですね。

どうでもよいとはいえないとして口を出すのは
必要最小限にする。

そういう人間関係の中にいることができれば
その他の人間関係でどんな嫌なことがあっても
逃げ場にもなるし、
他の人間関係から追放されることも
それほど深いダメージを受けなくて済みます。
大切な人間関係のために頑張ろうという気も起きます。

帰属に不安のない人間関係を作ると、
本来の自分の能力が発揮されやすくなります。

逆にどこに行っても自分が受け入れられないという不安を抱えていると
不安にばかり意識が向いてしまって
何をやるにしても集中ができないのです。

パワハラが多い職場は
パワハラを受けたくないということに意識が集中するために
ケアレスミスが多くなるわけです。

こういう人間関係が本来は家族であることが一番なのでしょう。
それも現在はいろいろな事情があって
なかなかうまくゆきません。
それだけに家族を壊す方向での働きかけは
とても罪深いと思います。

さて、それでは家族でも友人関係でも
どうやってそういう人間関係を作ればよいのか
ということなのですが、
100パーセントを目指さなければ
案外簡単なものです。

自分が一番大切な人間関係に
まず自分から、
どうでもよい所を増やして干渉を最低限にする
失敗や不十分点を責めない、笑わない、批判しない
ここだけは合理性とか正義とかそういうことを抜きにする。
そういう習慣を作るということですね。

他人を変える唯一の方法は
自分が変わってみせるしかないのです。
お手本を示すという表現が人間関係において
しっくりくることでしょう。
とにかく相手の反応を気にせずに
仲間をひたすら大切にするということです。

もちろん嫌な顔もしないということです。

そういう受容の態度を
10回のうち3回成功させれば
仲間はあなたの変化に気が付くでしょう。
あなたの努力の方向に気が付くでしょう。

あとは受容の競争になるはずです。

でも
それほど、それほど劇的な人間関係の変化ではないですよ。
おそらく少しずつ、居心地がよくなる
ということだと思います。

それでもこれは副作用もないはずです。
なぜならばこうやって、人間が
数百万年前から群れを作ってきた方法だからです。
人間の本能を利用する方法というわけです。


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大切な人間関係でぎくしゃくしている、居心地が悪いと感じる方へ。「どうでもよい領域」を増やす努力をお勧めします。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

離婚事件で、
暴力も、脅迫もないという事案なのに
モラルハラスメントだDVだと主張される場合に、
夫婦の会話が、指図とダメ出しばかりだった
と相手に感じさせていたケースが多いように感じます。

職場や学校でも同じかもしれません。

聞いてみると間違ったことを言っているわけではない。
言わなければならないことを誰も言わないから言っている
そういう感覚を持っているようです。
そうこのブログみたいな人ですね。

しかし周囲は同調してくれません。
注意されるべき人が庇われて
注意した自分に冷たい視線が浴びせられるように感じることでしょう。

「私は孤立を恐れない。生きたいように生きる。」
という方はそのまま頑張ってください。
何とか、自分を変えたい、あるいは、
自分の主張がもう少し受け入れられたいと思う方は
この記事を読み進めてください。

<前提知識、人間は行動の自由が制限されると怖く苦しい>

人間も動物です。
動物の基本は、自分の身を自分で守ろうとするということです。
だから、危険が襲ってこなくても
自分で自分を守ることができない状態だと感じることとは
耐え難い恐怖であり、苦痛です。

例えば目隠しをされるとか、騒音で危険の予兆を聞けないという
感覚を遮断された場合、
手足を縛られるなどの行動を制限された場合、
具体的な危険がなくても、恐怖を感じ、苦痛を感じます。

心理的にも同じようです。
典型的なことは
やることが多すぎる場合と
自分の判断でやり方を決められない時です。

例えば、他にやろうとしていることがあるのに
あれもやれこれもやれと言われる場合(心理的感覚遮断)
何をやっても先ず不十分な点を指摘され
どうしてよいかわからなくなっている場合(心理的行動制限)ですね。

<心理的に圧迫を加えた相手は苦しくなる>

例えば妻が離婚を切り出す典型的な場合、
夫は、妻にとって
自分の身を守ることを妨害する攻撃者であり、
自分に恐怖を与える嫌悪の対象になってゆきます。
一緒にいることが嫌で嫌でたまらなくなるようです。
安心して一緒にいることができなくなりますよね。

夫の言っていることが間違っていなくてもです。
間違っていなくとも、自分で自分を守ることができなくなるから
やはり恐怖や嫌悪が襲ってくるからです。

良かれと思って、
あるいはそれが合理的だから、
あるいはそれが正義に反するからと
口を出す理由はもっともなことが多いのですが、

それが蓄積していくと
そんな些細なことで口を出して
相手を不愉快にした上、自分のポイントを下げる
という不合理なことになるようです。

<なぜ口を出すか>

元々相手が、自分にとってどうでもよい人なら
あれこれ口を出すということはなさそうです。
どちらかというと、自分と利害関係が一致し、
自分としても一定の水準を期待している人
そういう相手だからこそ口を出すように見受けられます。

愛情の表現の場合、愛情の裏返しの場合もあれば、
自分勝手な、自分の利益追求の場合もあるようです。
自己保身で相手の落ち度を探すということもないわけではないようです。
ここでは、愛情関連を考えてみます。
利益一致型ですね。

相手に求める一定水準は、かなり頭の中の理想の場合が多く
妄想に近いイメージの場合があるようです。
自分と同じことを考えているはずだという無茶が
「当たり前」になっています。

だから、自分の求めるところと違うところを批判するし、
足りないところ、失敗、落ち度ばかりを探すようです。
言わないと自分が不安になるのかもしれません。
そういうネガティブなところに意識のフォーカスがあたっているために、
感謝の気持ちはなかなか意識には上りません。

知らず知らずのうちに
自分の頭の中と同じ頭の中を求めているし、
自分の理想を実行することを求めてしまっているわけです。

<ではどうするか>

本当は、相手は自分の愛情を注ぐ対象だと
そういうところをしっかり意識して、
自分の外にある存在だということを自覚すればよいのでしょうが、
なかなかそれはできません。

相手のすることについて
「それはどうでもよいことだ」という領域を作り
できるだけ増やしていくということが有効だと思います。

どうでもよい領域で相手がしたことは
批判しない。感謝だけ口にするということです。

例えばその日の夕食を妻に任せたとします。
作り方や出てきたものについても批判しない。
口や態度は感謝だけを表す。
これは、「男子厨房に入らず」のエッセンスだと思います。
もちろん夫が食事を作ったときは
酒の肴ばかりだとかめんつゆ使ったものばかりだとか言わない。

例えば子どもの髪形についても
校則に違反しないなら子どもに任せる。

例えば、部下に任せたリサーチのまとめ方が悪くても
文句を言わずにどうフォローするかだけ考える。

心がこもらなくても感謝の言葉を発する。
これが基本です。
相手が不愉快な思いをしたら、
自分が悪くなくても詫びる、気遣う
これが日本民族の伝統だったはずです。

その代わり、自分の思うようにやってくれた
感謝を忘れても大喜びをする。
こうやって相手を少しずつ誘導していくということを
理想にいたしましょう。

<何がどうでもよい領域か>

どこにどうでもよい領域を作るかですが、
今述べた「相手に任せたこと」
「相手が自分のためにやっていること」
これは基本です。

それから、結果を出さなければメリットはなく
あなたが嫌われるというデメリットばかりあるのですから、
「言っても仕方がないこと」は言わない。
あなたが効果的に相手の行動を機嫌よく修正できるなら口を出しましょう。
「相手を不機嫌にさせる」ならどうでもよい領域なのかもしれません。

それから、自分で自分の身を守りたいという人間の本能がキモですから
「相手が自分で考えてやっている行動」は
できるだけ口を出さないということが基本です。
口を出すならよくよく出し方を考えましょう。

子どもに自分の部屋を与えたら
病気になりそうにならない限り片づけを我慢するとか
嫌がられないように片付けるとかということなのかもしれません。

「相手のプロパーのこと」はどうでもよい領域でしょう。
化粧とかファッションとかですね。
金がかかりすぎるというのはプロパーではないかもしれませんが。

<どうでもよい領域をどう増やしていくか>

模擬試合みたいなことで使えるのは
SNSです。
私たちみたいなつい口を出してしまう事例に不足はないようです。
特に男性は多くいます。

何でもかんでも否定的なコメントをするという人は、
フェイスブックでよく見られます。
他人の立てたスレに、
言わなくてもよいコメントをしてスレ主を不愉快にする人、

自分の問題意識が勝ちすぎて
論点がずれていることをかまわずにコメントしてしまう人などは
第三者から見ると(第三者も見るのです)、
罪のない人に言いがかりをつけてへこまそうとしている
としか見えません。

フェイスブックのあなたの友達が間違ったことを言っても、
日本や社会に影響が出るということはほとんどありません。
例え議論がかみ合っている場合であってさえ、
あなたが正義感を発揮させる理由なんてなにもないと
思えるコメントが見られることがけっこうあります。

もしかしたら、そういうコメントが
リアルな人間関係で
あなたが大切にした人にしていることの客観的な姿かもしれません。

そういうSNSをこのブログに書いたような観点から見て
ああ、これがどうでもよいことに口を出しているのだなと
勉強することもできますし、

思い込みや、間違いだらけの記事に対して
突っ込みを入れたくなるのを抑えるという
実践的な訓練もすることができます。

SNSは、他人のどうでも良いことばかりなので、
一切他人の記事にコメントをする必要はないのです。
そうしてどうでもよいことに対して
賛成できる部分に賛成したり、
近況を気遣ったりするという技を身に着けることができるかもしれません。

そうして、余計な口を出すということは
何かしら、自分自身を守っている場合なんだなということが
うっすら分かるようになれば、
自分の大切な人を大切にする方法が分かってくるし、
それが自分を守る最適な方法なんだということが
見えてくることと思っています。

自戒を込めて。

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智に働けば角が立つ。現代社会の人間関係の問題点の根幹にこれがあるのではないだろうか [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

夏目漱石の草枕の初めの一節である。

人間がたった一人で生きていくなら
このような煩わしいことはないでしょう。
すべて自分以外の人間とかかわって生きるがゆえの苦労です。

大きな決断をする場合だけでなく
日常的な動作をする際にもついて回る
対人関係的な悩みといえるでしょう。

智に働けば角が立つというのは
よく考えて行動すればよいというものではないという意味です。

人間は、考える道具として正義とか道徳とかに照らして
自分の行動を評価して先に進んだり立ち止まったりします。
そのほかにも合理性だったり、効率だったりを
行動を考える道具としています。
ここで大切なことは、考えて行動する場合、
正義や道徳、合理性や効率ということを考えることに夢中で、
他人や自分の感情をわきに置いて考えてしまうということが起こりがちです。

そうすると、良かれと思ってした自分の行動によって
誰かが自分を否定されたと感じてしまう
ということが起こってしまうことがあります。
否定されたとまではいかなくても、緊張関係が生まれてしまいがちになります。

正しいことを言っているからと
それについてこないほうが悪いという態度をとってしまいがちになっていないでしょうか。
良かれと思ったことで、妙な緊張関係が生まれてしまう
これが智に働けば角が立つメカニズムです。

情に棹をさせばというのは、
人情や相手の気持ちばかりを考えて行動を決めるということです。
人情や感情を川に見立てて、その川を漕ぎ出すという表現です。
こうすると誰かを傷つけるということは格段に減り、
無用の緊張関係は生まれないけれど、
本来するべきことができなくなったり、
それはおかしいのではないかと思うことも
やらなければならなくなったりする。
自分というものさえも見失ってしまうことがある
という不都合が生じてしまい、修正がきかなくなります。

特に深い考えもなく、他人や自分の気持ちも考えず、
一度決めたからこうだということばかりしていると
当然、誰からも相手にされなくなってゆきます。
文字通り窮屈な思いをすることになるでしょう。

なるほど、漱石の言うことももっともかもしれません。

おそらく夏目漱石は、何らかの事情があって、
大事な人間関係とそうでもない人間関係を
区別することができなかったのかもしれません。

会社の同僚や、近所のお店の人、そして家族と
それぞれの人たちに異なった対応をする
ということができなかった可能性があります。

まず、最も身近な人間関係である家族においては、
効率よりも気持ちが優先されるべきです。
不合理な思いをしても
家族を苦しめるよりは、
安心させるのが家族の役割なのでしょう。

確かに、よりよく生きようとすることは大切ですが、
それによって、必要以上に家族を苦しめることは
長い目で見れば間違っているというべきなのでしょう。

例えば、子どもが宿題があるのに遊んでしまって
宿題が終わらない。
こういうことが続いているので、親としては、
宿題をきちんきちんとやらないと
やるべきことを放っておく癖がつくと心配するでしょう。

あるいは決められたことはやらなければならないという
即時的な正義感が発動されるかもしれません。

ここでガツンと注意しなければならないのですが、
例えば、
「宿題が終わるまで夕飯は抜きだ」
という懲罰的な行動に出るとします。

言われた方はお腹がすくし、
弟や妹はおいしそうに食べています。
大変悔しい、恥ずかしい気持ちになります。

これが智に働いた行動ということになるでしょう。

かわいそうだから、今日はいいや
と思ってしまうと、どこまでも宿題も勉強もしなくなる。
これが情に掉さして流されるということでしょう。

夫婦の間においてもそういうことはあって、
旅行の計画を立てる場合に、
効率よく名所をめぐる、
せっかく行くのだから見られるだけ見るということで、
自分勝手な、少し無理な計画を立てると
相手は窮屈で時間に追われる旅行になると思い
なんとなく理由を言葉にできないけれど嫌だなと
思うようになるかもしれません。
相手の感情は理解できても
合理性を優先してしまい、
大きな声を出したり、
ムキになって自説を押し通そうとすると
角が立ったり、窮屈になるのですが、
どうしてわかってくれないのだろうと
理解できなかったり
相手に合わせて修正することができなかったりすることがあると思います。

ではどうするか。

例えばですが、子どもの例で言えば、
夕飯を食べさせてから
宿題を付きっ切りで一緒にやってあげる。
何かひらめいたら大げさに褒めてあげる。
こうできればよいのですが、
即時的な正義感が働いて
子どもに嫌悪の気持ちが生まれてしまうと
なかなかそれができなくなります。

宿題が終わるまで食事をさせないということがあっても
親も一緒に食事をしないで
宿題が終わって親子で
おいしく夕飯を食べるなんてことも想像できるかもしれません。
「やることやった後だと飯もうまいなあ」
なんて言いながらほめてあげる。

これが智に働きながら情に掉さすということかもしれません。

職場の場合は、少し、智に働くことが優先されてきますが、
それでも情を忘れると
弱い立場の人たちは、苦しいばかりの職場になってしまいます。

どうも現代社会は
智に働きすぎて、情がないがしろにされているのではないか
そう思えることがしばしばあります。

どうも私たちは正義や効率、合理性というものに
最上の価値をおくように教育されてきたような気がします。

しらずしらずのうちに
正しいことを言っているのだから
相手は自分に賛成するべきだという考えをしてみたり、

要領の悪いことをしている仲間に
嫌悪感を抱いてしまったり、

目的のはっきりしないことをやることに
他人事ながら批判したりしてしまいます。

誰かの気持ちを優先させて行動する人間を見ると
目的に向かってまっすぐ進んでいないと言って
イライラしたりすることはないでしょうか。

現代社会の智に働いて角が立つ現象だと思います。

正義、合理性、効率、ということが行動原理になれば
どうしても、仲間の感情というものに
重きを置かなくなってしまいがちになるようです。

だから、私たちは、特に身近な仲間に対しては
智に働きすぎてないかということを
意識して生活する必要があるのではないかと
わたしは、我が身を振り返ってみてそう思うのです。
私の周囲は角だらけのような気もします。

人智などそうたいしたものではない。
目的に向かって進むといっても
その目的自体が限界を持った合理性なのだと思います。

むしろ、目的はないけれど
今これをしたくてたまらない、
これをしているときは夢中になれる
というところに、
人類の進歩が見つかるかもしれません。

正義、合理性、効率ばかり考えると
案外大事なことが見落とされてしまうのではないでしょうか。

また、正義、合理性、効率を忘れて
今このことが楽しい、安らげる、安心できる
ということをやりながら生活することで、
幸せという一番の目的を実感できるものなのかもしれません。

現代社会では、それを意識しなければすることができない
という不幸があるのかもしれません。

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NO(それは嫌だ)コミュニケーションの訓練がいじめ防止等の基礎となるかもしれない。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


司法試験に合格して司法研修所で勉強していた時期、
同い年の合格者で、長髪の男がいた。
長髪なのによく見るときれいな髪質をしており
羨ましく思い、
うっかり手に取ってしまった。

そうしたところ、彼は、
俺は髪を触られるのが嫌なんだ
触らないでくれる、ごめんな
と言った。
私はそういうものかと思い
ごめんごめんと手を引っ込めた。

その拒否の仕方が秀逸で、
こちらは嫌な気持ちをしないどころか、
こちらの人格への配慮も感じた。
高いインテリジェンスのある人間だと
それ以来尊敬している。

そんな30年近く前のことを思い出した。

対人関係の紛争を見ていると、
けんかや気持ちのすれ違いが起きるホットスポットが、
この拒否をされたときだということに気が付く。

拒否をされると、
そのこと(髪の毛を触ること)だけでなく、
全てを拒否されたような気になってしまい、
無駄な疎外感を抱いてしまうようだ。
そして自分を守るために、
自分を拒否した相手を攻撃してまう。
すると相手も、どうして自分を攻撃してくるのだということがわからず、
不気味な気持ち悪さを抱いて
関係が悪化していく。

逆に、
拒否することで相手を怒らせたくないので、
本当は嫌なことなのに、我慢してしまう。
不満がたまりにたまって
ある日爆発する。
相手は、
それまで、普通に行っていたことを理由に
こちらを攻撃してくることに理解ができない。
言いがかりや八つ当たりであると受け止めてしまう。

最悪なのは、
自分の気持ちを言えなくて絶望をしてしまい、
うつ病になったり、自死に至ったりすることもありそうだ。

いじめのケースでは、
嫌がらないからいじり続けているうちに、
大勢がいじりだし、からかいだし、
気がつけばいじめになっていたということがあるようだ。
気がついた時とは、子どもが自死をしたときなど
取り返しのつかないこともある。

最初にお話しした長髪の合格者のような
拒否の仕方を訓練することが
いじめをはじめとする色々な人間関係の
破たんを防ぐことに効果があるような気がする。

最初の髪の毛の例で、
私がうっかり触ったときに、
「おっちゃん、なに他人の髪をことわりもなくいじくってるんじゃ。ぼけ。」
と言われれば、
悪かったなあという人もいるだろうが、
大半は、「なんでそこまで言われなあかんのん」
という「気持ち」になり、
自分の決まりの悪さを解消するために
言わなくてもよい余計な反撃をする、
そして収拾がつかなくなっていくだろう。

長髪の彼の拒否のエッセンスは、
短く、余計なことを言わないということで、特に、
1 何が嫌なのか具体的に特定している。
2 どうして嫌なのか端的に理由を説明している。
3 自分が悪くもないのに「ごめんな」という。
この3点だろう。

1 具体的に特定していれば、
自分が全否定されたと感じる要素が少なくなる。
それ以外は拒否しないという意思表示にもなる。
2 理由を説明されれば、
漠然と自分が拒否されているのではなく、
相手の嫌がることをしなければ良いのだということが理解できる。
3 ごめんなといわれれば
まず、自分に対して敵意がないのだなということを強烈に理解できる。
「そちらの気を悪くするかもしれないけれど」という配慮を感じる。
その結果、素直にこちらこそごめんという気持になれる。

こういう効果があったと思う。

こういう拒否の仕方を子どもの時から
繰り返し訓練することが有効なのではないだろうか。

幼稚園であれば、
子ども同士がけんかしているときに、
けんかの原因をさかのぼって
拒否コミュニケーションの問題だとすれば、
拒否からやり直す。
余計なことを言ったらそれは言わないで言い直させる。
「ごめんね」と言いたくないときは「お願いね」
と言い換えてもよいかもしれない。

言われる方の指導も大切である。
共感に基づくコミュニケーションの訓練である。

先ず拒否の3要素をはっきりさせる。
その上で、
何が嫌で何が嫌ではないかということを明らかにして
あなたが嫌われているわけではないよということ説明して安心させる。
ただ、それをされることが嫌なんだよと教えてあげる。

その上で、相手が嫌がっているということが
どういうことなのかを理解させる。
ここで一番大切なことは、
相手が嫌なことはしないという習慣づけである。

必要以上に気まずくならないということを覚える。

正義の制裁をしているつもりであっても
相手の気持ちを考えない行動はしない。
それは大人に任せるということでもよいし、
少し学齢が上がったら、
一緒に成長する観点からのアドバイスを制裁に置き換える
ということも大切だろう。
正しければよいというものではないことを
小学校からは少しずつ取り入れていくべきだと思う。

3要素が揃った拒否があった場合は
潔く撤退する。
そういう習慣をつけるということが大切だと思う。

この双方の意識的行動によるそれは嫌だコミュニケーションが成立したら
大人は大いにほめて、子どもたちは達成感を獲得してもらう。
そうやって動機づけを作っていく。

友達同士、夫婦や家族、職場という人間関係の基礎だと思うし、
案外民主主義の前提条件だったりするのではないかと
ふと思う。

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「サンダカン八番娼館底辺女性史序章」山崎朋子(文春文庫)【勝手に書評】 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

あいちトリエンナーレの取り上げ方のために
また一段と物議の対象になってしまった「少女像」について
ネットでその製作意図を読んだ。

特に少女のかかとが宙に浮いているのが
国に戻った少女たちに対しての社会の不寛容を表現している
ということを読みながら、
私はある映画の一シーンを思い出した。

今から40年前に観た
「サンダカン八番娼館 望郷」である。

ボルネオから帰京した主人公が
自分を受け入れない兄夫婦に対して絶望した心情が
象徴的に表現されたシーンである。

主人公サキは貧しい農家の娘で
両親がおらず、兄と妹と三人で極貧生活を送っていた。
口減らしのために、ボルネオに売られていった。
サキは、家のために海外の苦界に身を沈め
家に仕送りをしていた。
奉公が終わり、家にお金を携えて帰ってきて
感謝されていると思っていたところ
兄も兄嫁も外聞の悪い妹が帰ってきたと
厄介者扱いをされていることを知った。

これまでの自分の苦しみや我慢はなんだったのだ
というシーンである。

若いころのサキは高橋洋子が演じていた。

家に帰って絶望の中で風呂に入るシーンがそのシーンである。
こらえきれずに泣き出すのだが、
声を聞かれまいと湯の中に顔を沈めて
激しく嗚咽するというシーンである。

高校生の時に観たヌードシーンなのに、
高校生の私が見ても
高橋洋子は限りなく清らかだった。
ただ清らかなものと感じた。

サキの仕事の内容というか
苦界の苦界たる理由について
未熟な私には理解はできていなかったのだろう、
サキの兄夫婦の仕打ちに純粋に反発していた。
私は子どもだった。


少女像の製作意図を読んで、そういえばと連想し、
インターネットで検索して、
サンダカン八番娼館の原作があることを知った。

山崎朋子氏の著書の
「サンダカン八番娼婦館 底辺女性史序章」(文春文庫)
である。

私はこの本を読んでみたいと思い、
幸いすぐに購入することができた。

40年前の映画の記憶は、
いろいろと勘違いをしていたことも分かった。

サンダカンという言葉が不明だったが、
これはボルネオの都市名だった。
8番娼婦館だと思っていたが8番娼館だった。
何よりも太平洋戦争下の従軍慰安婦だと思っていたが、
そうではなく、いわゆる「からゆきさん」だったことだ。

最後の話が一番衝撃的だった。
「からゆきさん」という言葉は、
なんとなく聞いたことがあった。

太平洋戦争前、
むしろ江戸時代末期から
第1次大戦後辺りまで、
九州地方を中心として
貧困を理由として女性を
海外に渡航させ売春をさせていた時代があった。

この女性が「からゆきさん」なのだそうだ。

東北の女性も身売りをされて
それが226事件の背景にもなった。
からゆきさんは、最後は主として東南アジアに売られていき、
サキもボルネオに売られていった。

大体はだまされていくのだが
(話しても理解できない年齢ということもある)
逃げようとすると脅しや殺人事件もあったらしい。
そして大体は、渡航と言っても密航で、
貨物船の船底に隠されていく人たちが多かったようだ。

第1次大戦後はどうなったかというと、
おそらく、公娼という形で政府から特別便宜を図られた者が
大ぴらに商売をしていたようだ。
これが従軍慰安婦である。
だまされて連れていかれることにそれほど違いはないだろう。
現地の婦女子に対する暴行の防止という名目だが、
単純に大儲けができたから、国の力を利用したのだろう。
(参照:「水曜日の凱歌」乃南アサ)
これについてはひと月ほど前に別のところで書いた。

さて、山崎氏の原作は、読んでいて面白い、
学術書ということだが、
筆者の生活の様子が織り交ぜられているために
臨場感が強い。
次はどうなるのだろうというドキドキした気持ちで
読み進めることができる。
良質のルポルタージュでもあり、
筋書きのないドラマでもある。

山崎氏もこの本を読む限り魅力的な人物であり
共感を抱きやすい人物であるが、
主人公のサキさんも魅力的な人物である。
物語が面白くならないわけがない。

何より感心したのは
筆者とサキさんが対等の関係にあったことだ。
もちろん筆者がそれを意識して様々な工夫をした結果でもある。
安易な善意の押し売りをしていたのでは、
信頼もされなかったし、ここまで事実が発掘されることもなかっただろう。

そのご努力が、この作品を読むべき作品にしているのだと思う。
とても勉強にもなった。

だから、筆者とサキさんの別れのシーンが胸を打つのだろう。
このシーンは、映画ではサキさん役の田中絹代が素晴らしい演技をしている。

サキさんがボルネオに行った一番の代償は孤立だった。
男子を産むが、
息子が結婚するにあたって息子から別離を突き付けられた。
それ以来息子も嫁も孫も会いに来ることさえしない。

地域社会も同様である。
その中でサキさんは生きていかなければならない。

その象徴的なシーンが、筆者がサキさんのもとを去るというとき、
謝礼金を固辞したサキさんが筆者にあるものをくれと願った。
それは、筆者がサキさんと暮らした3週間使っていた手ぬぐいだった。

その手ぬぐいを見ると、一緒に生活したことを思い出すというのだ。

サキさんは、自分を対等な人間として
当たり前のように接してくれる人がいなかったことを
この一つのエピソードが強烈に物語る。
孤立していなかった確かな記憶が手ぬぐいだったのだ。

田中絹代の演技も圧倒された記憶が鮮明にあるし
今でも、控えめな、自信なさげに願う表情はよく覚えている。

今回の原作でも、この文章は、
最も美しい文章だと思う。
こちらの感情も高ぶってしまい、止められなかった。
今も、感情が高ぶりすぎて何度も手を進めることができない。

読むべき本である。

ただ悲惨な事実を伝えるだけでなく、
力が出てくる不思議な本である。
おそらく、筆者が、サキさんに対して感謝と尊敬という感情を
自然に抱いているというところに、
絶望を乗り越えようとする希望の手立てが見えるからではないか
そう感じてならない。



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友がみな 我よりえらく見ゆる日よ 花を買い来て妻としたしむ【勝手に解釈】 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

石川啄木『一握の砂より』

学生時代の友人たちの近況を知る機会があった。
みんなそれなりに出世して、社会的地位を得ているとのことだった。
自分はというと志を立てたものの
まだ道半ばというところにいる。

学生時代に、学業でも生活でも
彼らに負けたと思うことはなかった。
少なくとも、社会に向けて同じスタートラインに立っていたはずだ。
それを考えると悔しい気持ちになる。

自分では、もっと自分が
社会から認められても良いと強く思っている。
それなのに、名をあげることもなく、
この町の片隅で生きている。

こまま取るに足らない者として一生を終わるのだろうか
そんなことを考えると
無性にどこかに逃げ出したくなったり
何かを破壊したいような気持になったりしてしまいそうになる。

私は誰かに慰めてもらおうとしているのだろうか
そんな負け犬のようなことをしたくはない。
自分の心がすさみ、人間性が削られていっているように思う。

このまま甘えた気持ちでいると、自分より弱い者に
八つ当たりのような態度をとってしまうかもしれない
そうして、自分のそういう態度によって惨めな気持ちになり
また自分の心が余計にすさむという
悪循環に陥るだろう。

こういう時は、誰かに優しくするに限る。
こんな人間でも、妻は自分を頼りにしてくれている。
ありがたいことだ。
そんなかけがえのない人にささくれだった気持ちをぶつけてはならない。

花屋に行って、赤いゼラニウムを一鉢買って帰ろう。

こんなつまらないものでも、
妻は喜んでくれた。
そんな妻の様子を見ていると
自然と自分も微笑んでしまうことが分かる。
自分もまだ微笑むことができるのだ。
人を喜ばすことができたという安心感がそうさせるのだろう。

世間が自分をどう評価するかということは
自分という人間の一つの部分に過ぎない。
その結果がどうあれ
自分のもう一つの部分である
家族を大切にするということがおろそかになってはいけない。

私は妻とゼラニウムによって救われたのだろう。
他人の評価を気にする自分をいっとき捨てて
家族を大切にする自分を取り戻し、
人間らしさを取り戻したのだろう。

誰かに自分が辛く当たられて
悔しかったり、苦しかったり、不安になったりするときは、
そんな自分をいっとき捨てて
誰かのために役に立とうとするに限る。
だからといってそんなたいそうなことを
しなければならないわけじゃないようだ。


****

この解説の構想は、4月に書いた
「こころがすさむ、心がすさんでいるとはどういうことか.」 
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-04-15
の中ですでにあったのですが、
これを入れると長くなりすぎるので泣く泣く割愛しました。

そのため、
なぜ、その文中にこの歌が出てきたのか
中途半端でわかりにくかったと思います。

これまでのこの歌の解釈とは違いますが、
詩人の直感は、こういうことを言いたかったのだろうと
考えています。

そのときに一緒に引用した中原中也もそうなのですが、
自分が苦しい時には
そのことを無かったことにするわけにはいかない。
自分をすべて失くしてしまうわけにはいかない。
そのためには、誰かの役に立つことをするだ
そういうことを言い当てていたのだと思います。


もっとも時代的な背景があり
今の女性の方々にとっては
もう少し鼻持ちならない言葉を出すことが
リアルな解釈になるのですが、
現代的にアレンジしております。

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人間が死んでも消えてなくなるわけではないという意味 自死、過労死担当弁護士としての経験論 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

自死や過労死事件を多く扱ってきて、
あるいは交通事故もそうなのですが、
私たち弁護士は人がお亡くなりになってから事件にかかわるのですが、
私は、お亡くなりになっているはずの方と
一緒に事件を考えている感覚になることがよくあります。

実際、無我夢中で事件と格闘していると
思いもかけない証人や証拠が表れたり
何が起きていたのか不意に頭に入ってきたりすることがあります。

経験論として、
人はお亡くなりになっても消えてなくなるわけではないのだなあと
感じていました。
色々なことがまたありまして
この考えはあながち間違いではないのではないかと考えるようになりました。
今回それを理論化してみました。

現代のお経のようなものだと感じているのですが、
これも何人かとの共同作業だということになりそうです。

****


人間は、群れを作らなければ生きていけない動物です。
家族、友達、職場の同僚等様々な人間の中で生きています。
だから、あらゆる人間関係から切り離した「自分」という存在は、
人間としての存在ではありません。

あらゆる人間関係から独立した自分というのでは、
色々な個性、特徴があるように見えても、
それは意味のあるものではありません。
自分では自覚していませんが、
個性、人格、人となりというものは
自分の人間関係の中で生み出され、維持されて
意味のあるものになっています。

人間が生きているということは、
自分以外の人とのかかわりの中で生きているということです。
意識することはなかなかできませんが、
自分とは
自分の関係する人間関係の中での自分のありようなのです。

だから、人間が生きているということは
自分が関わる人間関係の中に
自分が存在して、自分を形作っているということなのです。

あなたに関わっている人たちも
自分たちの関係の中にあなたがいるということで
あなたが人間として生きているということを感じて、
そのことによって、
その人たちも人間として生きているのです。

だから、人間は今の人間関係の在り方に悩むのです。
悩みを無くすため、せめて軽減するためには
自分と他者との関係を改善することが一番です。
もしそれができないならば
他の人間関係を重要なものと考えるという方法があるのです。

ふだん言われている人間の死というものは、
肉体的な死のことを言っています。
それは動物としての死です。
人間としての死とは少し違います。

人は必ず動物として死にます。
しかし、あなたが動物としても生きているときに
あなたとかかわりのある人たちと
一緒に生きてさえいれば、
あなたが動物として死んだとしても、
あなたのかかわりの中で、
あなたは確かに人間として生き続けます。

一緒に泣いたり、一緒に怒ったり、一緒に笑ったり、
あなたに相談をしたり、あなたに愚痴をこぼしたり、
人間として生きているあなたと
人間としてかかわり、生き続けます。

動物としての死を迎えても
全くいなくなるわけではありません。
消えてなくなってしまうわけではありません。


大切な人が死ぬことはとても寂しいことです。
取り返しのつかないことです。
でも、私が人間として生きているならば、
あなたも人間として活き活きと生きています。

だからこれからも、
私はあなたと共に生き続けます。

いつまでもいつまでも
私のそばで生き続けてください。
これからも変わらずあなたは私の大切な人です。

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「自分が拒否されている」と感じるのは、攻撃的になっていることに自分で気付いていないからかもしれないこと。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



人の悩みの多くが、
「自分が(特定の)人から受け入れられていない。」
と感じることにあるではないでしょうか。

具体的に言えば
夫婦仲が悪い。相手がいつもニコニコしていない。優しくない。
いじめにあっている
パワハラにあっている。
正当な評価がされていない。
あるいは、
売り上げが上がらない
支持が集まらない
賛同者が集まらない
自分の言うことが相手にされない

あの人と同じことを言っているのに
あちらは絶賛されてこちらは無視される。

等々。

自分自身にももちろん覚えがあります。

そんなときによくあるのは、
自分が攻撃的になっているために、
他人が近寄りたくないという気持になっている
ということです。

自分が攻撃している相手から敬遠される
それならまだわかりやすいのですが、
自分が攻撃をしていない人からも
自分との距離を持たれてしまう。
あるいは、距離を置かれるどころか
自分に対して攻撃的な言動をしてくる。

自分ではその原因が分からず、
「どうして自分は他者から受け入れられないのだろう」
と思い悩むわけです。

「自分を受け入れない他者は間違っている」
と憤る人もいますが、
これも思い悩むことの一種です。

自覚がないのに
自分の攻撃性によって他者が自分を受け入れない現象には、
二つのパターンがあります。

一つは、相手を攻撃しているつもりがないのに、
相手は攻撃されていると感じるパターン(A)。

もう一つは、相手ではなく
明白に別の人を攻撃しているのだけれど
敬遠されるパターンです(B)。

Aパターンの典型例は、
夫婦間、職場(特に上司)でよく見られます。

Aパターンで自分の言動が攻撃と思えない理由も二つあり、
自分こそ攻撃を受けているので防御しているに過ぎないと
無自覚に感じていて、
自分が攻撃しているという意識をもてない(A-1パターン)。

相手が間違っているので、正そうとしているだけで
いわば事務連絡的な言動だという意識のため
攻撃ではないというパターン(A―2パターン)
に分かれると思います。

大事な人間関係で不具合を感じている場合は、
プラスワンの理論で、
自分の言い分、相手の言い分を並べて比較して、
どちらが正しいということではなく、
相手の感情に配慮して不具合を修正する
という作業をしなければならないと考えます。

A―1パターンでは、正当防衛の連鎖を
自分から断ち切らなければ収まりません。
自分を守らないことによって、
相手に安心を感じてもらう作戦が有効です。
敢えて言えば(たとえば家庭内)憲法9条作戦です。
(関係を切ればよいならそれほど悩まないでしょうから
 その方法をとれない場合の最善策ということになります。)

A―2パターンでは、
<攻撃とは何か>
ということを自覚する必要があります。

これは、単純に言動だけを見て判断することはできません。
相手との距離、相手のあなたに対する期待などの
その人ごとの要素でだいぶ変わってきます。

例えば家庭ならば、
相手はあなたといることに安らぎを感じたいものです。
あなたが帰ってくる時刻になると
恐怖と緊張で心と体が硬直するという家庭は
家庭の機能をはたしていません。

安らぎを感じるためには
ただいるだけでは不十分で
理想を言えばねぎらいの言動があるべきですし、
そうではなくても、自分自身を受け入れてもらう
という時間が必要です。
言葉については
言葉の始まりと成り立ち 言葉を使おう!を参照してください。

ところが、ねぎらいも寛容もないということでは、
安らぎを感じないで緊張と恐怖だけの存在になってしまいます。
この場合、ニュートラルという状態がない場合がある
ということを意識しましょう。
つまり、プラスがなければマイナスになる危険があるということです。

離婚の最大、最多の原因が、
「会話が、指図と否定だけの生活」だったということです。
この場合、
言っていることが正しければ正しいほど、
相手の落ち度をさらすことになります。

あなたが口を開こうとすると
自然に防衛行動をしようとしてしまうことは、
本能的な反射活動です。

口を開かれることが怖くてたまらなくなるのです。
そのうちにあなたの存在自体が相手にとっては、
自分を否定し、指図する存在だというように
単純化していく危険があるわけです。

ところが、言っている方は
当たり前のことを言っているだけなので、
そのことになかなか気が付きません。

ある日、街でばったりと出会って、
相手が自分を見つけて喜んでおらず、
瞳孔が開いて硬直している
恐怖感情をあらわにしているところに出くわすことになりかねません。

そういう体験があればまだ修正が利くのでしょう。
「良い夫婦の条件」http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/couple.html

一応念のために、街で相手に会った時は、
なにがなんでも先に見つけて、笑顔を作り、手を振るなどして、
相手に恐怖感情を表現させないように先回りをする
ということを頭に入れておきましょう。

A―2パターンの防止のためには、特に家庭の場合は
正義を持ち込まない。
正義や常識、効率性ではなく、
相手の気持ちに配慮して行動するということになります。

A-2パターンは、難解で
自分の何が悪かったのかということに深く思い悩みます。
これも夫婦問題で多いパターンだということを
知識として知っていないと
これが原因だということさえ思い当たらないことかもしれません。


次にBパターンですが、
Bパターンがあるときは、Aパターンが併存していることが多いようです。
特にA-2パターンですね。
正義感の強い人によく現れます。

Bパターンの起きる場所ですが、
これも、夫婦や職場の間でも起きているのですが、
むしろ社会的な人間関係にみられることが多いようです。

職場の雰囲気が悪くてお客さんが減るということは
この典型的パターンです。
それから、常連しか集まらない政治的なSNS
社会運動の活動
自分は、自分たちは正しいことを言っているのに
第三者からの暖かい支援を受けにくい
そう悩んで、改善したい場合は、
ぜひ真剣に検討するべきだと思います。

また、
同じ事を同じように言っているのに、
なぜか相手の方にばかり賛成が集まり、
そして相手は批判がされない。
こちらの賛成はいつものメンバーだけで、
広がらない。
かえって、陰で自分は批判や中傷がなされる。
なぜ、あなたから足を引っ張られなければならないんだ。

また、自分としては当然言うべき社会的発言をしているのに、
家族からは嫌がられる。
(家族の情報を知らない人にさらすことに抵抗することは当然として、
 そういうことをしないのに嫌がられる。)

これはなぜ起きるのでしょうか。

人間の「秩序の形成に参加しよう」とする本能に原因がありそうです。

人間は無意識に秩序を形成する行動を選択する動物のようです。
もっともこれがなければ群れを作ることはできません。

この秩序を形成しようとする本能の出方には
バリエーションがあります。
・群れのトップに従おうとすること
・決まりごとに従おうとすること
・群れの仲間と仲よくしよう、仲良くされたいと思うこと
そうして、
・争いがあると不安になること
・争いの当事者にならないようにしようとすること
・争いの外に自分を位置づけようとすること
等です。
いじめの傍観者の心理は、
この秩序形成本能が悪い方に出ているように思われます。

だから、
他者に対して怒りをあらわにしている人や、
誰かを攻撃していたりする人は、
あるいは誰かを馬鹿にしたり嘲笑したりする人は、
秩序を壊している人と感じるので、
近づこうとしないし、
共感チャンネルを閉ざそうとする気持ちが生まれる
ということになります。

秩序を維持しようとしている人の方が攻撃されているときは、
さらに、弱い人を守ろうという意識まで発動されて、
批判者に憎悪の感情が持たれるということもあります。
これは、理性的な判断ではなく、
即時的な、条件反射的な感情なのです。

正しいことを言っている、
言わなければならないことを言っている
そういう気持で発言していても、
結果としては
「乱暴者が暴れている」
という意識で冷ややかに見られていることと同じだし、

無意識に自分が争いに巻き込まれるという恐怖(焦り)が生まれ、
余計な紛争を起こそうとするあなたに対して
いらだちが生まれるわけです。
少なくとも、一緒にいて安らぎを感じませんから、
一気にマイナスの感情になっている可能性も大いにあるわけです。

もう一つ、袋叩き反撃仮説というものがあり、

ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説

誰かが戦っていると、
無意識に自分も闘いに参加しなくてはならない
という人間の本能があって、
仲間であればあるほど参加しなくてはならないという
強迫神経症みたいな心理が働き、

誰かを批判する言動が的を射ていればそれだけ、
つまり正しければ正しいだけ、
行動を起こさない自分が責められている
という感覚も持つようです。
自分を守ろうとする意識が
(発言者から見れば)誤作動を起こしているのでしょう。

この分析に基づけば、
二つの目的を実現する方法が見えてきます。

一つには、自分の意見が中立の第三者とか、反対者にも受け入れられるという目的
もう一つは、自分の発言によって大事な人が遠ざからないという目的です。

<鉄則>
結論を重視するのであれば(怒りを発散すればよいというのでなければ)
怒りの感情をあらわにした発言などをしないこと
誰か「特定の人を」責める形、批判する形をとらないこと
やむなくそういう場合でも、人間に対する敬意を払うこと、
誰か特定の人を悪だと決めつけないこと
利害対立をあおらないこと。

会社、学校、社会などの不具合を修正するという視点をもつこと
具体的には、みんなの利益という観点からの主張
夫婦双方(私たち)の利益
クラス全体の利益
会社と顧客双方の利益
社会全体の利益
という視点からの発言をする。

既存の秩序、価値観の否定に終わらないこと
新しい秩序形成の提案、新しい価値の提案の形にすること
旧秩序、旧習慣の合理性の部分を肯定すること

受け手の行動は、あくまでも受け手の自由裁量にゆだねること

相手に何を求めるか
ということを明確にすることも大切でしょう。

またもう一つ考えられる理由があります。

他人は、よほどのことがなければ
あなたの絶望を覗きたくありません。
絶望に共感してしまうと
苦しくてならないので自己防衛行動を
無意識に選択する場合もあります。
このため、あなたの行動やあなた自身を
無かったことにしたい。
あなたに原因があるから(悪いから)
仕方がないと納得して自分の心の折り合いをつけたい。
これが、あなたが攻撃される理由なのかもしれません。

誰彼構わず苦境を吐露せずに、
信頼できる人だけに、あなたの苦しみを受け止める人だけに
限定して心情を打ち明けるべきです。


なお、自分の大事な人の前では
誰かを批判することは最低限にするということも
あるいはしないということも
選択しなければならないことがある
ということもお考え下さい。



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