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馬鹿な子ほどかわいいということが当然である理由 「かわいい」とは人間が人間であるために必要な感情だということも含めて。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

意外に思われるかもしれませんが、まじめなまじめな話です。

現代では、馬鹿な子ほどかわいいということの意味は、例えば「馬鹿なことをやってみんなを笑わせるような子はかわいい」とかいうように、何とか理解しやすいように意味を改変して解釈して納得していることが多いようです。しかし、これは、昔に作られたことわざの解釈としては間違っているというべきでしょう。「馬鹿」という評価は、ちょっと深刻な、まじめに心配な気持ちを起こさせる文字通りの意味でよいと思います。厳しい世の中で、要領よく立ち回れずに損をしてしまうような状態ということになろうかと思います。
だから、辞書などでは、「不憫な子ほどかわいい」という意味だと説明しているものもあるようです。当たらずしも遠からずと思います。辞書という短い字数での説明を求められていることを考えると、これで精いっぱいという評価もあるでしょう。
日常会話では、「手のかかる子どもほどかわいい」という意味でつかわれることが多いと思います。こちらは正鵠を射ていると思います。

「馬鹿」という言葉も難しいのですが、「かわいい」という言葉の意味もやはり正しく使われていないところにも、このことわざを難解にしている理由があると思います。
現代では、いろいろな肯定的評価の意味で、「かわいい」という誉め言葉を使うようです。仲間内でならば、どんな言葉にどんな意味を込めて使おうと、通じているなら他人がとやかく言うことはありません。但し、ことわざのような古典を味わうためには、そのことわざが成立したころの意味を知らないと意味が通じません。結構もったいない話なんです。このカテゴリーはそういう役に立つことわざを発掘することがテーマなのであります。

ところでかわいいという感情ですが、これがなかなか難しい。古典的な日本語の意味は、「神々しくて顔を向けることもはばかられる。」という意味でつかわれていたようですが、そのうちにその意味に付け加えて「自分も何かをしなければいけない気持ちになる」という感情を伴うことも付け加えられた意味の言葉になっていったそうです。その後、「自分も何かをしなくてはならない」という感情をそのまま残しながら、それに付け加えて自分よりも弱い者、小さい者に対しての肯定的評価、好ましいという感覚が込められて使われるようになっていきました。

なんとなく、言葉の変遷は理解できるような気がしませんか。高校生の頃、とてもきれいなモデルさんがいて、「ああ美しいな。この人の役に立ちたいなと思うけれど、その人が近くにいたら恥ずかしくてたまらずにとてもじっと見つめることなんてできない。」というような感情がもともとのかわいいなのかもしれませんし、働くようになって、自分のことを「おっさん」と自称するようになるころは、よその子でも道で泣いていたら「どうしたの?」と声をかけたくなるというような、そんな変遷でしょうか。

子どもをかわいいと思う気持ちは、太古から各時代の大人の心にあったのだと思います。しかし、それを表現する言葉が、少なくとも「かわいい」という言葉ではなかったわけです。しかし、徐々に、本来人間が持っていた気持ちを「かわいい」という言葉にあてはめて表現するようになっていったという流れだと思います。時々見られる美しいものをかわいいと表現することは、太古の意味の名残なのかもしれません。しかし、単なる美人よりも、少し隙のあるような人間の方が可愛いと思うのも、こう考えると合理的かもしれません。「あの人は美男子だと思うけれど、かわいいとは思えない。」ということはよく理解できると思います。

現代で乱発されている「かわいい」ですが、私は、共通項として、安心できる対象(形状、色、柔らかさその他が自分に災いをもたらすとは思えないもの)であり、かつ自分もそのものと何らかの形でかかわりたいという感情を呼び起こすものということでつかわれているような感じがしているのですが、若い人に聞いてみないとわかりません。

さて、意味が変遷するので混乱してきましたが、元に戻って、ことわざができたころの「かわいい」という感情についてまとめてみましょう。
かわいいという言葉は、自分よりも弱い者、あるいは小さいものに対して使うもので、自分がかかわってその弱さなどを手当てしたくなるという感情を言うとまとめられるのではないでしょうか。典型的には赤ん坊に対する感情です。

こういう意味でかわいいという感情はどこから来るのでしょうか。また、かわいいという感情が人間の本能に根差した感情だと説明されることがあるのですが、それはどういう意味でしょう。

私は、「かわいい」という感情は、人間が群れを作るために不可欠な感情だったと思っています。私たちの祖先は、文明のない時代から群れを作ることによって、肉食獣から身を守り、飢えないように食料を獲得して生き延びてきました。言葉もない時代です。それでも数十人から100人余り程度の群れを作ってきたのです。

群れを作る動物はたくさんあります。イワシも巨大なウミヘビのような魚群を作りますが、それは各魚が、群れの内側で泳ぎたいという本能を持っているために結果として魚群が成立するそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があり、鳥は風圧を軽減して飛びたいという本能があって隊列の形が生まれるそうです。それぞれ、理由があって群れの形、群れをつく方法が変わってくるように見えます。

そんな都合の良い進化はどうやって発生したのだろうか、誰かがそのような動物のデザインをしたのだろうかと思いたくなるのも無理はありません。しかし、実際は、地球が生まれてから現在までの間に、群れの中に入りたいと思わないイワシも生まれたでしょうし、群れ内で逃げたいという馬も生まれたでしょうし、風圧を好む鳥もいたでしょう。しかし、そういう不合理な行動傾向をもった個体は、死滅していったわけです。一人でゆらゆら泳いでいたイワシは簡単に大魚や海洋哺乳類に捕食さるでしょうし、群れから離れて草を食んでいる馬は集団で狩りをする肉食獣の格好の標的になったでしょう、風圧を好む鳥は渡りをする体力を消耗して渡りができなくなるわけです。つまり、都合よく進化したのではなく、環境に適応できた個体群が生き残り、子孫を作ることができたということなのです。数字を数えるだけで気が遠くなるような年数をかけて、現在生き延びた子孫という結果だけが見えているだけなのです。

さて、そうすると、どのような人間が、群れを作って生き延びてきたのでしょうか。群れを作る本能とは何でしょうか。

私は、人間が群れを作ることができたツールは「心」ないし「感情」、あるいは「情動」というシステムなのだと考えています。つまり群れの中にいると安心して、群れから外れると不安になるという心です。認知心理学的に言えば、「心というモジュール」ということになるでしょう。

群れにいると安心するという心から派生した心は、群れから尊重される、感謝される、高評価をされると嬉しいという心。努力をねぎらわれると嬉しいという心、群れの役に立つことを自分が行ったというと安心する心等です。
群れから外されると不安になるという心は、群れから外されそうになると不安になるという心を派生させ、共感力を背景に、仲間が自分を低評価をしているとか、自分が差別されているとか、攻撃される、健康を顧みられない等の事情があると不安になるという心を発生させました。
それらが組み合わさって、様々な心が生まれたと考えています。

人類は他の動物と比べて卓越した共感力を持つことによって、仲間の心における自分の状態、評価を感じ取ることができ、安心感や不安感が生まれたわけです。安心感の得られる行動は率先して行い、不安感が生まれる行動はしないようにして、うっかりそれをした場合や、仲間から否定的に思われていると感じた場合は、自分の行動を修正し、仲間の中にとどまろうとしたということになります。この仕組みで群れを作っているのは、人間だけです。自分が損をしても他人である仲間に得をさせる利他行為は、一見自分が損をしているように見えても、仲間の中にいたいという根源的要求を満足させるという自分の究極の利益を獲得するための行為ということになるわけです。

かわいいという感情も、人間が人間になった時代(200万年前と言われています)から、存在していたはずです。すなわち人間の赤ん坊は、全く無力で自力で生きていくことができません。また、人間は母親だけで赤ん坊を養育するようにはできておらず、多くの大人たちが一人の赤ん坊の面倒を見ていたと言われています。ここがサルと人間の本質的違いです。大人たちは、無防備な赤ん坊を見て、かわいいと思い、自分ができることをしようとしていたというのが人間の歴史です。こうやって、何もできない赤ん坊は、群れの大人たちから可愛がられ、面倒を見てもらい、大人になることができたということです。

もしこの感情を人間が持たないで、他の哺乳類のように母親だけが赤ん坊の面倒を見たならば、そもそもお産で母体が死んだ場合は、赤ん坊も死んでしまうことになるでしょう。また、母親だけが一日中赤ん坊の面倒を見ていたら餌を確保することができず、母乳も出なくなってしまっていたでしょう。赤ん坊が成体になることは極めて難しかったはずです。また、1年に一人くらいしか産めない人間からすれば、また、当時は赤ん坊の成長する確率は今より格段に低かったということを考えれば、母親だけが子どもの面倒を見るサルみたいな修正があったら、人間はあっという間に死滅したことでしょう。いわばかわいいという感情が赤ん坊を成体とすることができ、人類を存続させてきたわけです。小さくて弱い者をいとおしいと思い、自分のできることを行い役割を果たしたいと思い、赤ん坊が健やかに育つことに喜びを感じるということが人間に不可欠な感情だったわけです。そして私たちは、その人間の子孫たちなのです。

さてさて、最初の問題に向かい合いましょう。馬鹿な子ほどかわいいということわざの真実性です。もはや小さくて弱いとは言えなくなった年齢の子どもであっても、親として子どものために手をかける余地が大きいというのであれば、親は子どものために、我が身を削っても役に立とうとするわけです。自分が先に死ぬわけですから、死んだ後のことまでも考えてしまうのも当然です。大事にして、何とか傷つかず、楽しく生きていてほしいというのが、多くの親の願いなのではないでしょうか。そして自分が子どもの役に立ったと思えば、満足もするし、喜ぶわけです。生きがいと言ってもよいと思います。

馬鹿な子ほどかわいい。このことわざは、人間という動物の特徴を端的に、象徴的に表していると私は思います。

蛇足
可愛い子には旅をさせよということわざもありますね。かわいいと親が感じれば、なんでも親がしたがりますから、子どもがなかなか自立することができません。旅に出して、親の庇護を離れて、他人の恩義を受けながら育つことで、子どもは自立していくことができるようになるということなのかもしれませんね。

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予防政策を減速させてしまう、二方向の「被害者の落ち度論」 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]




自死でも、虐待でも、いじめでも、性犯罪でも、
予防政策を進めるにあたって、その足かせになってしまう二つの
二つの「被害者の落ち度論」があります。

<一つ目は、被害者(および加害者)の特殊人間論です。>

前もブログで書いたことがありますね。
ニュース報道だけで、何も事情が分からないくせに、
被害者にも悪いところがあったから、被害にあったのだという決めつけです。
ネットでの書き込みなどでよく目にします。

この被害者の落ち度論を言う人の心理というのは、
一言で言えば、被害に動揺して、自分の不安を鎮めたいというものです。
つまり、
「被害者は特殊な人間だから被害にあったのだ
(あるいは特殊な加害者に偶然関係したために被害にあった)
私は普通の人間だから被害にあう可能性は著しく低い
だから自分は大丈夫だ。」
と思いたいわけです。
そして誰かに肯定してもらいたくて
ネットに書き込んだり、友達とそんな話をするのです。
そうだねと言ってくれれば、安心できるからです。

しかし、実際は、自死でも、虐待でも、いじめでも
被害者が特殊な人間であることはありません。
(加害者であったとしてもどこにでもいるような人間
である場合がほとんどです。
登場人物はどこにでもいる普通の人間であることが通常です。)

特に被害者については、被害を受けやすい属性のようなものはなく、
全くの被害者であることが通常です。
理不尽で絶望的な被害を受けるのです。
つまり誰しも被害に合う可能性があります。
だから、予防の方法を構築することが大切になるわけです。

根拠がなくても安心を求めるのは、人間の常です。
自分だけがそう考えて、安心していればよいのですが、
「被害者が特殊なだけだから、対策なんていらない。
被害者の行動をしっかり修正すれば被害にあわない。」
ということになってしまえば
対策を講じれば予防できたはずの被害も
対策を講じられなくなり、予防できなくなります。

予防政策を立案するにあたっては
普通の人が被害にあう構造をよく理解することが
第1歩ということになると思われます。

<二つ目は、被害者に被害の原因を求めるなというものです>

具体例を挙げて考えてみましょう。
深夜、1人で帰宅中の女性が痴漢にあったという例で考えてみます。

一つ目の特殊な被害者論の論者たちは、
被害女性が、肌の露出した服を着て歩いていたから目をつけられたのだ
とか、
1人で深夜歩いていることが悪い
というように被害者の落ち度を強調して
自分は大丈夫と安心しようと思うわけです。

これに対して被害者に原因を求めるなという立場からは
深夜に一人で歩いていようと露出の多い服を着ようと
犯罪でも不道徳でもない
犯罪を行った加害者が悪いだけであり、
被害者の行動をとやかく言うことはおかしい
ということになるでしょう。

分かりやすくするためにどちらも極論をあげてみました。

善悪論で言うならば後者が正解でしょう。
深夜に一人で歩いても、犯罪にはなりません。
仕事帰りだったり、何かの事情で、
どうしても夜中の道を一人で歩かなければならない事情があった
ということを想像するのはそれほど難しいことでもありません。

犯罪被害にあってもやむを得ないという理屈は
全く出てこないことはその通りです。

また、露出の多い服を着ているから犯行を思い立って実行した
ということは、私の弁護や損害賠償実務の経験ではあまりなく。
どちらかというと、かなり前から犯行を思い立ち、
自分が捕まらないような場面と、ターゲットを物色して犯行を行いますから、
その時の服装というのは、あまり決め手にはなっていないようです。
(被害者の心理としては、自分が前々から狙われていて、
自分の行動を監視されていて、その結果襲われたと考えがちです。
しかし、実際は行き当たりばったりの犯行が多く、
加害者は被害者がどこの誰だかわからないことが多いです。)

但し、
犯人がターゲットを探しているときに二人の候補がいる場合、
露出の多い服を着ている方がターゲットに絞り込まれやすいし、
犯行を決行するかやめるか迷っているときに
露出の多い服が背中を押すということはありうることかもしれません。

被害にあった人も悪くないのですが
これから被害にあうかもしれない人も悪くないのです。
そうだとすると、
ちょっとの工夫などで被害にあわないで済む、
あるいは被害にあう確率が著しく低下するなら
その工夫を明らかにして、一般的に広めるべきだ
ということになるのではないでしょうか。

おそらく冷静に考えれば、あまり批判されないことだと思うのですが、
被害にあわないように行動の修正を提案すると
(例えば夜中に一人で歩かない等)
「被害者に落ち度があったと言っているようなものだ。
被害者を苦しめるからけしからん。」
(一人で歩いた被害者が悪いと言うのか)
というような極論を言う人たちが出てきてしまうわけです。

路上の痴漢行為という犯罪に関しては
加害者と被害者がきれいに分かれるわけですが、
他の社会病理に関しては
例えば家庭の中の問題等継続的な人間関係の問題に関しては
加害者と被害者ときれいに分かれる場合だけではありません。
相互作用の問題として考えて対策を立てた方が
関係者の今後の幸せに大きく貢献するという場合も多いような気がします。

こういう場合は、行動の修正を提案された方が
「悪かった」から被害が起きたのだと言っている
と受け止められると対策を立てにくくなります。

良い悪いではなく、
被害にあわないためにどうするかという視点は
受け止め方によっては冷たい視線になるようです。
被害者に寄り添っていないということになるらしいです。

言い方の問題で解決できる問題なのかもしれません。

考慮しなければならない要素は
・被害を出さないこと
・すでに被害にあわれたかの気持
ということになろうかと思われます。

予防策は、あくまでも、被害にあう確率を少しでも下げるための方法論だ
ということを徹底しなくてはなりません。

そうすることが悪いわけではないけれど
被害にあわないためにはこうするべきだ
ということを自由に言えるようになることは
被害予防政策の立案にとっては
極めて重要なことだと思います。

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他人との不具合は、自分の行動を修正して解決しようとする人の方が長生きする 堅強なる者は死の徒 柔弱なる者は生の徒の意味 但し、過労死の危険もあるということ 共通の対策としてはその人と心中しても良い人と巡り合うことかもしれない [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



例えば上司からわけのわからない理由で叱責されることが増えたり
妻から冷たい言動を言われることが増えてきたリ
あるいは、SNS等で、それほど近しい人でもないのに批判のコメントが来るようになったり、
人間関係で、嫌な思いをするとき、
人間の反応は二種類に分かれるようです。

Aタイプは、自分に何か失敗事があり、周囲を不愉快な思いにさせているかもしれない。だから、自分の行動を改めようとするタイプ。
Bタイプは、上司や妻、それほど近しい人でもないのに自分を批判するその相手こそが問題のある人格であり、腹立たしく怒る。あるいは、自分の不遇を呪う。

こういう場合、対人関係を円満にするのはAタイプの方のようです。

両タイプで、もし本人の主張が正解である場合は、
Aタイプは、自分の行動を修正することによって不具合が解消される可能性が高まります。
Bタイプは、相手や自分を呪うだけで解決することがなく、精神的ダメージが継続するだけです。

Aタイプは、相手に率直に尋ねることによって、相手もこちらに悪意はなかったことを知ります。また、将来に向けて何をしてはいけないのかということを知ることになります。
Bタイプは、そのような解決策は生まれません。

Bタイプは、周囲から改善のための提言を受けても、自分の行動を修正して乗り切るという発想がないために、概ねそれらは自分に対する攻撃だと受け止めてしまうことが多くあります。周囲から見ればBタイプの人が不合理なことをしていると評価して、特に自滅しかねない状況に注意を促しても、聞く耳を持たず、結局自滅していくという事態がよく見られます。

「そしてあの時あの人の言うことを聞けばよかった。」との振り返りができません。「どうしてもっとわかりやすく教えてくれなかったのだ。」と親切な人、自分のためにアドバイスしてくれた人を非難してしまいます。

Bタイプの人は結局損をしてしまう運命になります。

第1に、通常は「自分を攻撃する人」だと思わない人も、「自分を攻撃する人」だと思うのですから、世の中に自分を攻撃する人、自分にて期待する人が一般の人よりも多いということになるでしょう。
第2に、その裏返しですが、自分を助けてくれる人がいるという実感を持てないので、一般の人よりも自分は孤立しているという気持ちになりやすいのです。
第3に、自分では見えないけれど、周囲からは見える解決方法を使おうとしないので、自分の直面している人間関係上の課題に、解決策が無いと感じやすくなってしまいます。
第4に、せっかくの他人の親切を攻撃だと思ってしまう結果、自分を守るために反撃してしまいます。親切行動をした相手は、反撃されると思いませんから、無防備な自分の状態に攻撃をしてくる人間だとみてしまいます。
第5に、その結果解決策がありませんから、世の中すべてに絶望をする可能性が高くなります。

派生問題としては、

自分を助けてくれる人がいないと感じていますので、誰かを助けようと思う気持ちに離れずに、ますます孤立していきます。
自分を助ける人を逆恨みしますから、誰も援助しようとは思わなくなり、ますます孤立します。
そもそも、誰も信じられない状態で、これが悪化してゆくのですから、孤立感は深まっていくのは当然だと思います。
結果、周囲の協力を受けることができる人であればやすやすと解決できることも解決できずうまくいかないことばかりになっていきます。

Bタイプスパイラルという感じに悪い方に悪い方に結果が生まれてしまいます。

Bタイプに、どうしてなってしまうのでしょうか。

色々原因があると思います。
確認できた原因をあげていきます。但し、それぞれが単体としてBタイプになる理由ではなく、複合して理由になっているのではないかと思います。
① 育ち方
つまり、厳しく育てられて(厳しい評価をされ続け、他者は自分を否定するという学習をしてしまった)、あるいは、親とのコミュニケーションがうまくゆかず、親からの援助を拒否するような習慣が生まれてしまった場合、
② マイナスの経験値の蓄積
周囲の援助を受けてことごとく失敗したような経験の蓄積 特にいじめの体験
信じていた人の助言に従ったら裏切りの助言で損害を被った
③ 被害感情・孤独感情
何らかの人間トラブル、特に近しい人とのトラブルが継続している場合は、Bタイプの行動をとりやすいと思います。だから、Bタイプだから孤立したのだろう思われがちですが、そうではないことがあります。孤立したからBタイプの傾向が強くなっている可能性があると私は思います。
④ 無意識の日常行動の否定に対して
日常の何気ない行動(日常的ルーチンのような言動)に対して特に近しい人から否定評価されてしまうと、これまで平穏に行っていた行動が否定されたことになり、自分の行動を修正する必要性を認識しにくい。自分の行動が無意識に行われているため、どこを振り返ればよいの変わらない。その結果、相手の言動が自分に対する言いがかりだと思うこともある。
⑤ 体調
自分が否定されていると感じやすい、精神に影響を及ぼす内科疾患、脳などの傷害、あるいは精神疾患がある場合。あるいは、病気とまでは行かないけれどなんらかの心理的影響がある。

概ねAタイプの方が、問題を解決してストレスを軽減し、その結果長生きする可能性が高くなり、Bタイプは孤立感とストレスを抱えて苦しんでいくことになると思います。

解決方法は難しいのですが、一つ考えられることがあるとすれば、援助者をみつけるということですね。この人は自分を見捨てることが無いと信じて悔いない人、この人が自分を裏切るならば仕方がないと思える人をつくり、その人の意見は必ず肯定的に聴くということです。それができないのがBタイプなのですが、それができれば有効だと思います。
つまり全面的にAタイプになる必要はないということです。特定の人にだけコミュニケーションの風穴を開けるということです。限定Aタイプ行動とでも言いましょうか。そして心中上等ということをはっきりと意識する。おそらく結婚というのはこういうものであるべきなのでしょう。

Aタイプは、一見、協調的に円満な生活を送るように見えます。しかし、思わぬ落とし穴があるのが現代社会です。過労死をするタイプはAタイプかもしれません。人間関係はこちらだけが品行方正にしてもダメで、相手のあることなので難しいですね。相手が悪い人格の持ち主というよりも、相手の立場や関心事のその時の状況が影響を強く与えているということなのでしょうが、本人にとっては天使から悪魔に豹変する結果になることがあるわけです。この場合、Bタイプは被害が少ないのですが、Aタイプは甚大な被害が生じる可能性があります。特定の人にだけ窓を開く限定Aタイプの場合も同様です。

例えばパワハラ上司の場合です。
相手は上司ですから最初からそれがパワハラだということにはなかなか気が付かないということが多くの実例です。周囲が見たらパワハラだと思っても、Aタイプの方は、「業務上必要なことを言われているし、会社全体の立場から考えると自分のやり方が間違っていて上司の言うことが正しいのかもしれない。」という意識になることが多いです。こういうタイプでパワハラの被害を受けると、長期間うつ病が治らないケースが多いです。10年間うつ病が治らないケースで上司に問題があったケースを3件担当しています。そのうち2件は現在係争中です。1件は労働者側の勝利的和解で解決しました。

それらのケースでは、やはり、最初は上司の正当な指導だと思って、労働者は、何とか自分の行動を上司に合わせて修正しようとしています。だんだん、上司の発言が無茶なことを言っているように感じるのですが、それでも従おうとします。従わなければならないと自分を律するという感じです。しかし、パワハラの原因は、客観的には上司の私的利益の追求というか保身、別の事例では差別・偏見だったのですが、言われている方はなかなかそれに気が付きません。上司の攻撃は徐々に強くなっていきます。薄ら笑いを浮かべた嫌味のような小言から、自分に対する発言の際の上司の顔つきが険しくなり、はっきりと憎悪が読み取れるようになります。叱責も捨て台詞のようなものも頻繁に出てくるようになります。さすがに自分が上司から嫌悪されていることに気が付きますが、しかし、どうしてそういう風な扱いを受けるかわかりませんので、困惑してゆきます。自分の何を直したらよいのだろう、上司にどのように説明したらよいのだろうということを当てもなく悩んでいきます。自分の行動を改めれば上司は普通に扱うはずだ、上司は誤解をしているのかもしれないからきちんと説明すればわかってもらえるはずだと思ってしまうのです。解決策は見つかりません。見つかるわけがないので、初めからパワハラですから、上司が行動を改めなければ解決しないのです。こういう相手を信じ切っている時期が相当程度経過したある時、様々な事情から上司の指導は、実はとても職務上の指導とは言えない、逸脱した違法行為だということに、突然気が付きます。自分は上司の保身のための犠牲にされそうになっていたのだ、あるいは上司は自分を差別していたのだと突然気が付くのです。うすうす感づいていたのを一生懸命自分で否定していましたが、否定しきれなくなり、急激に確信に変わるという感じです。

さて、こうなった場合、おそらく多くの方々は、労働者が「自分が悪くない」と理解できたので救われたのではないかと感じると思うのです。晴れ晴れとした気持ちになるのだろうと思われないでしょうか。多くの「支援者」はこのように思って、気づかせた自分をほめる傾向にあります。ところが実際は逆です。それまで、何となくモヤモヤしていたり、自分が悪いと思っていたりしていたけれど、実は相手が自分に悪意があり、保身目的で自分の害を与えようとしていたと理解したとき、一気にさらに強い精神的にダメージを受けるということが実際でした。それまで張りつめていた気持ちが一気に喪失してしまい、これまでの上司の発言の一つ一つを思い出してはとても強い悔しい気持ちになるようです。そしてそれと同時に、これでは、自分はどうすることもできないという解決不能感が一気に押し寄せてきて、絶望して、気力が失われてしまうようです。こうなってうつ病になると難治性の遷延化したうつ病になるように感じます。今まで信頼していた人間関係の基盤が一気に喪失してしまい、支えるものが無くなり、転落していくようなそんな感じなのだと思います。

こういうパワーハラスメントのケースでは、Aタイプはかなり危険な結果になる可能性があると考えなければならないと思います。*1労務管理上のコメントは後述


人間は、基本的にはAタイプの方が良いのだと思います。関係者がみんなAタイプならば、円満な人間関係が形成されるのだろうと思います。しかし、相手によってはAタイプが深刻な打撃を受けることがあるわけです。こうならないためにはどういう条件が必要かというと、親身になって客観的なアドバイスをする援助者が存在することだと思います。「あの上司の発言はひどすぎる」と言ってくれる人がいることが必須だと思います。本人ではなくても、その場面を体験した他者が修正を提案できればそれは袋小路に陥らなくて済むことになるでしょう。

パワーハラスメントが起きて、長期の療養を必要とする精神疾患になる場合は、職場の同僚にこのような正当な評価をしてくれる人がいません。「ひどいよね。」とか、「気にする必要ないよ。」と言ってくれる人が一人でもいたならば、悲劇は起きていなかったかもしれないと思うと、残念でなりません。そのような人が一人もいないと、パワハラの被害者は、上司だけでなく周囲も同じように自分を評価しているのだろうと感じていきます。そして急激にBタイプに移行していってしまいます。タイミングを逃がすと、もう、周囲の声を正当に評価することができなくなります。
いじめの場合も全く同じです。

逆に、この救いのコメントを言うべき人が本人の足を引っ張ることも良くあります。困窮している本人の認知の歪みが生じることを知らないために、本人を援助しようと手を差し伸べている人を攻撃してしまうことが多く見られます。先ほど言いましたように、Bタイプの人間は自分に対する手を差し伸べる程度を不満に思います。もっときちんと問題を解決してほしいという意識になってしまうからです。本当はその人の苦境を解消するキーマンになり得る人に対して、本人は不満を述べるわけです。そして、本当の敵とは戦う気力が無くなっています。そちらは無理だと思うのでしょうね。だから、自分に好意を示す人の不十分さ(自分の願望に照らしての)だけが具体的不満として表現されるということが結構あります。第三者の「支援者」はこのメカニズムがわかりません。だから、本論、本人を苦しめている根本問題を見ないで、本人の言動だけを聞いて、主たる敵は本来キーマンになる人間だということで、本来キーマンになる人間の低評価をあおるようになります。それを「よりそい」だというのです。これはよく見ているし、自分自身も体験していることです。本人だけがBタイプであるだけでなく、「支援者」を含めたチームBタイプというような感じです。本人も第三者の賛同を得てしまいますから、もう自分の主たる敵は本来キーマンになる人間だと信じて疑わなくなります。同時に、キーマンの手を差し伸べる行為自体が攻撃だったという記憶に置き換わってしまいます。その結果、本人は有効な協力者を失い、その様子を見ている周囲の関係者も本人から離れていくわけです。

どうすればこのような偽支援者に足を引っ張られないかというと、やはり、
・公的な立場だということで信頼しないこと
・昨日今日の知り合い、あなたの従前の性格などを知らない人、またキーマンについてのあなたからではない情報を知らない人に、そして何よりも知ろうとしない人にあなたの運命を委ねてはならないということだと思います。
こういう人は、あなたがこの人と心中しても構わないといっても、笑って私はしませんという人たちです。

先ず家族からAタイプの人間関係を広めていき、そして無理しないということしか、今は言うことができません。そして、小さいことで構わないので、なるべく早めに声掛けをして、他者を孤立させないという活動が、完全ではないけれどいずれ自分を助けると信じて行動することがよりましな方策だと思います。


*1
およそ指導であれば、具体的な改善方法を指導しなければなりません。改善方法を簡単に始動できないのであれば、一緒に考えればよいのです。抽象的な激励は、指導ではない、即ち生産を向上させないということを徹底するべきだと思います。自分で考えて見つけろと言うのは、非効率な考え方です。確かに文字を使って指導できない技術というものはあるでしょう。しかし、コーチング技術が発達した現代では、ごく例外的な事柄です。技術的な行動を反復して体得する場合も、きちんと意義を説明して納得して取り組むことが早期体得となり、生産性の向上につながるという考え方をするべきだと思います。相手を谷底に落として自力で這い上がるのを待つという論法は人権問題を生じるということを肝に銘じるべきです。


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人を呪わば穴二つの本当の意味 情動型虚血性疼痛 被害感情は自分自身をさらに傷つけるという不合理な事実 PTG(ポストトラウマティックグロース) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

人を呪わば穴二つの本当の意味 情動型虚血性疼痛 被害感情は自分自身をさらに傷つけるという不合理な事実 PTG(ポストトラウマティックグロース)

人を呪わば穴二つ
ということわざというか格言というかありますね。
受験解答的意味としては、他人を害することを望んだ場合は、めぐりめぐって自分も害されることになる。呪い殺そうとする場合は、相手の墓穴と自分の入る墓穴と二つ必要になることになる。
という感じでしょうか。

どうやら正式な意味のような因果応報的な回りくどい間接的な被害ではなく、他人に対して攻撃的感情を持つと、その攻撃的感情によって自分自身が直接傷つくということになるかもしれないというお話です。私は、このことわざを作った人たちは、今からお話しすることを良く理解した上で、わかりやすくこういう言葉を選んだのではないかと感じています。

最近二人のうつ病患者さんとお話をしました。お二人とも職場の人間関係がきっかけとなり10年ほど前にうつ病を発症させて、現在も通院中という共通点があります。

最初の患者さんは、うつ病とともに体のあちこちが痛いという症状がある方で、痛みの権威のあるお医者さんに診てもらったら、うつ病から痛みを感じることは多いと言われたそうです。その場にいた何人かで早速調べてみたところ、ある文献が出てきました。
そうしたら、怒りなどの情動が亢進すると、血流の変化が起き、一時的に虚血状態になる体の部分が出てきて、痛みが発生するのだと説明がありました。そこにいた仲間の中では、この見解がどのくらい信用できる知見なのかということを判断することはできませんでした。虚血性疼痛というメカニズムも分かったような、わからないようなというところでした。しかし、うつ病患者さんは思い当たるというのです。自分がうつ病になった原因を作った人たち、された理不尽な出来事を思い出して怒りに震えたときに痛みが出現するかもしれないとのことでした。

これに対して次の患者さんは、体の痛みは無いとおっしゃいます。この方は、怒りを高まらせるというタイプではなくて、理不尽な扱いを受けると自分が傷ついていくというタイプの人です。相手に対して恨みとか、怒りという感情が弱いところがむしろ心配なところでもあります。恐れという情動が優位になる性格なのかもしれません。

どうやら「疼痛を抑える」ということだけを目標とした場合は、怒りを感じない方が良いということになりそうです。

でも、最初の患者さんが職場で受けた仕打ちはそれは不条理なものでしたから、怒るのは当然だと私も感じるのです。そのことが無ければ、病気にもならないで、それまで通りに働いていたことでしょう。色々な計画もあったと思います。しかし、現実には、うつ病になり、働けなくなり、家族はうつ病患者を抱えてしまいました。かなり重症な発作が続く時期もあるようです。本人やご家族にとって、人生を台無しにされたという思いが生まれて当然だと思います。しかし、その当然の怒りが、患者さんをさらに疼痛によって苦しめるというのですから、何とも不条理なことです。

また、怒りを持てないという人は、なかなかうつから脱却できないという状況もこれまでよく目にしてきました。「自分は悪くない、悪いのは相手だ」と思えた方が回復するのかなと漠然と感じていました。怒りだけでようやく自分を支えていた人もいらっしゃいました。しかし、怒りによって、疼痛も生じ、うつ病も軽快しないということならば違うのかなとも思えてきました。

当事者である患者さんが、痛みに苦しんでも怒りを捨てたくないというのであれば、周囲がどうのこうのということはできないのかもしれません。ただ、怒りがご自分を直接苦しめている可能性があるということは言うべきではないかとも考えています。だから「怒ってはいけない」というアプローチではないのでしょうね。怒るなと言ってしまえば、信頼関係が傷つくことになるでしょうね。自分をわかってくれない。きれいごとばかりを言う。そんな感じになるでしょうね。

ただ、患者さん自身の怒りがご自身を苦しめる可能性があるとすれば、支援者は無責任に当事者の怒りをあおることはするべきではないということになると思います。患者さんが、穏やかに生活しようという価値観で、家族とともに回復の道を歩んでいるのに、「もっと怒るべきだ。」という自分の価値観で怒りをあおるということは、疼痛を招く可能性もあるし、もしかしたら回復を妨げるということがあるかもしれません。

疼痛に限らず、怒りやその前提となる被害感情によって、精神的な意味で害がもたらされている可能性があると感じています。仕事がら、人間関係の紛争の当事者の方々とお付き合いするわけですが、やはり怒りをもって当然だと思える不条理な思いをしている人たちはたくさんいます。人間関係の中でも、家族関係を筆頭に、職場関係や、学校関係など、継続して付き合わなければならない人間関係において紛争がある場合は、うつ状態になりやすいように感じています。怒りながら、精神活動が低下していくという、一見矛盾するようなご様子になる方も少なくありません。支援者等安心感を持てる人間の中では怒りを持てるのだけれど、その外の世界や一人の時間になると精神活動が低下してしまうという感じでしょうか。しかも、1人で住んでいる家、部屋から、メールを送信するときにその怒りが果てしなく膨らみ、収拾がつかなくなってしまうという様子もよく見られます。
第三者としてそういうメールを読んで感じてしまうことは、怒りで収拾が付かなくなり、冷静な判断ができず、合理的な反撃ができなくなる、むしろ、自分に不利なことを自ら行ってしまいそうになっているということが一つです。もう一つは、相手に対する呪いのような怒りによって、ご自分をさらに苦しめているなあと感じることです。相手を攻撃しているはずなのに、相手を攻撃する言葉の中に自虐的な要素もずいぶん感じてしまうのです。第三者としては、そのような呪いの言葉は、あまり効きたくはありません。ひどい仕打ちをされたのだから、それに見合うような呪いの言葉で攻撃しないと、自分を保てないということも理解はできるのです。しかし、プロとしては、その感情にまでついて行ってしまうと仕事が冷静にできなくなりますので、「理解はするけれど、同調はしない」ということが原則だと考えています。

依頼された事件を首尾よく成し遂げるという目的の範囲では、その呪いのような怒りを自分たち以外に表明することはどうしても避けるべきだというアドバイスをするべきだと思います。

しかし、恨みを抱く気持ちはよくわかる。呪いのような攻撃の言葉を発しないと自分という精神存在を保つことができないということも理解できる。しかし攻撃的感情を持つと体の痛みが生じ、精神的にもダメージを受けてしまう。どうしたらよいかわからなくなります。

こういう場合に、患者さん方は、ご自分で解決の方向を見つけられることが多いようです。最初の患者さんは、「うつ病になってこれまでの仕事、生き方が断絶させられてしまったけれど、労災を申請したり裁判をしたりする経過の中で、色々な人と出会え、色々な人が自分の味方になってくれて、色々ことを考えることができた。仕事が中断しなかったらこういうことを知らないで生きていったと思うと、悪かったことだけではないと感じている。」と言ってくださいました。
弁護士なんて言う職業は、うつ病の患者さんから励まさられる職業なのだなあと嬉しいやら恐縮するやら、そういう思いで聞かせていただきました。

2番目の患者さんからも色々なことを教わりました。このブログのいくつかの重要な記事(もっとも重要な記事を含む)は、この方と共同作業で作成したようなものです。

心理学では、悲惨な体験をして精神的にひどく傷ついてしまった場合、なかなかそれが治癒しない時に、治癒だけを優先するということをしないで、精神的外傷も承認した上で新たな人間としての成長を図るという方向での解決方法が提案されているようです。ポストトラウマティックグロース、PTGという理論のようです。治癒することを放棄するというのではなく、治癒を待たないでも幸せを実感していくという考え方なのだろうと、最初の患者さんの言葉を聞いてしみじみと実感することができました。
幸せは人それぞれかもしれません。しかし、その人なりの幸せの追求をすることも、怒りとともにでも良いから、選択肢として提起するということを目指すということになるのかもしれません。紛争解決の方向を定めるにあたっても有効な働きかけになるような気もしています。

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「パンと見世物をよこせ」は案外正しく必要な政策だと思う理由。特に見世物をよこせ! [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

「パンと見世物をよこせ」

ローマ市民が堕落していることを象徴した言葉とされていると
中学だったか、高校だったかで教わりましたね。

でも、これ案外人間不変の真実だと思うのです。

見世物がサーカスか何か議論があるようですが、
要するに、ほっと一息つくという時間なのだと思います。
大勢の人間の中で生きていると
何かと緊張をしたり、不安になるわけで
人間は放っておくと疲れていくようです。
メンタルは放っておくとやられるわけです。

何かをしないという休息だけで解決できる問題ではなく
何かに夢中になる時間があることで
緊張から解放され、不安を忘れることができるのだと思います。

その何かは人によって違うのでしょう。
高尚な学問や思想に没頭して癒される人もいれば
プロレスなんかを見てストレスを発散する人もいるわけです。

私は、この「見世物」が人間にとって必要なもの
だということが言いたいわけです。

高尚なことの没頭の一つは宗教だと思います。
キリストも、人はパンのみに生きるにあらずということを
おっしゃっているようです。
もちろんこれは見世物ではなく
神様の言葉によって生きるのだということのようです。

見世物と神様の言葉を一緒にしたら申し訳ないのですが、
共通点があると思います。
具体的な人間関係の切り結び、損得勘定から離れたところの
究極の癒しが神様の言葉なのだと考えると
だいぶ俗っぽく低級にはなりますが、
見世物も結局

具体的人間関係の切り結びや損得勘定を
そのときだけでも忘れることのできる貴重な時間で
それがあることによって
生き生きと生きていける
それが人間なのだと
そう思えてくるのです。

今のコロナの自粛ムードの中で
スポーツや芸能も観客を集められないからと自粛されてしまうと
パンだけで生きていかなければならないということになりそうです。

勉強や思想だけで、人間関係のしがらみから解放される
という人はあまりいないように思います。
また、そういういわゆる高尚な高級な人たちの社会というものを
本当に理想とするべきなのかについても
最近特に疑問に感じてなりません。

力を入れずに、どうでもよいことに夢中になる
その場が終われば引きずらないということが一番ではないか
その意味ではスポーツや芸能音楽というのは
最適の見世物のように思うのです。

コロナで解雇や賃金カットがなされ
パン(生物として生きる糧)も足りない状況になっています。
その援助を社会がもっともっと行う必要があると思います。

同時に、集客してはできないならば
テレビやインターネットなど
安価に、しかし、芸能人やスポーツ選手や関連会社の足を引っ張らない方法で
大衆に娯楽を提供することも
必要なことだと思うのです。

特にコロナの影響が長期に続く場合は
見世物を社会が工夫して実施する必要があるのですが
それが一段低級、不必要なものとして扱われることは
間違っているというのが私の結論です。

不要不急であり後回し
ということは間違っているということです。

どんどん安価な娯楽が供給されるべきです。

愚民政策ではなく、人類普遍の政策であると
コロナを通じて考えました。



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現代に受け継がれて私たちを今もなお苦しめる生きづらさの根源としての戦争という負の遺産 国策でつくられたジェンダー 目的遂行至上主義の由来と対極の価値観とは。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

つい76年前まで日本は戦争をしていました。戦争というのは、戦争をする人たちだけが闘うわけではなく、国を挙げて戦争を遂行する態勢を作らなければなりません。表立って戦争に反対できない状態を作ってこそ、国家として戦い続けられるわけです。
この戦争態勢づくりは、明治政府によって周到に準備されました。富国強兵政策を徐々に国是として浸透させていき、他国に戦争で勝つということを多くの人たちの共通の価値観にすることに成功しました。この価値観は、軍隊の仲だけで成立するものではなく、家庭や職場、地域など、様々な人間関係の中で戦争体制の価値観づくりをする必要があり、実際にそうしていました。
戦争の価値観とは、突き詰めれば敵に勝つということでしょう。敵に勝つためには、合理的な作戦をたて、軍隊が作戦の元に統一した意思の下、無駄な行動や自分勝手な行動を行わず、上司の命令に忠実に行動を行うことが必要です。このために厳しい上下関係があり、下の者が上の者の意見に逆らうことは厳禁でした。軍隊の対人関係は、下の者は命令通りコマとして動くという関係とも言えるでしょう。
この観点から否定される考え方として、下の者が自分の頭でものを考えて行動する自由、目的と関係の無い娯楽を楽しむこと、目的遂行よりも仲間の笑顔を大切にすること、安心して緊張をしない人間関係、多少の命令違反行動、自分の体調や感情を優先すること等はすべて否定されるわけです。また、いちいち上官が部下の行動に感謝したり、自分の間違いを謝罪したりすることは、むしろタブーだったのでしょう。身分にそった関係を維持することが命令を遂行するために必要だとされたのだと思います。
このような戦争遂行の価値観は、次第に家庭や地域に浸透していったようです。それまでの夫と妻の関係が役割分担から上下関係になっていったのも、富国強兵政策からではないでしょうか。童話も、立身出世や悪い敵は殺されるべきだという勧善懲悪というものばかりになっていったようです。「貞操」という観念も、自然な愛情にもとづくものではなく、兵隊さんが安心して戦うための道具となり、姦通罪という罪が設けられました。
戦争遂行の価値観は目的遂行至上主義的な価値観だと言えるでしょう。これと対立する考えは、仲間の和、協調至上主義とでもいいましょうか。外向きの目的ではなく、内向きの目的と言っても良いかもしれません。目的を何も持たないというところでは、あまり価値観と呼べるものはないのかもしれません。
この戦争価値観は、1945年まで作られ続けました。敗戦と同時に一挙に崩れたと多くの人たちは考えたことでしょう。
しかし、人間の考え方、行動様式、社会の仕組みは、戦争が終わったからといって、簡単に変わるものではありません。例えば戦後直後の闇市時代は、生きていくという最低限の目的すら容易ではなかったことから、生きていくという目的遂行主義的な価値観が支配していたのではないでしょうか。この時仲間を脱落させないで協力して生きていこうという価値観もありえたのでしょうけれど、戦争的価値観の残存によって、自分が生きるためになりふり構わないということが否定されなかったという側面があると思います。ここでいう「生きていく」というのは、生物個体として生命を維持するという意味です。生きていくためなら、法律を守らないということが、非難されることはなかった時代です。こういう時代を経験したことも、日本国民にとってとても不幸なことだったと思います。ルールを守らないことを誰からも非難されない時代は社会秩序の観点からは深刻な影響を与えたと思います。
大きな目で見ると、戦後の荒廃から復興をするために、客観的にはやるべきことが多くありました。日本を復興させるという目的遂行に大きな価値観をおかれました。一方で高度成長経済に向かうために、職場の中での目的至上主義は形を変えて継続したのだと思います。戦争的価値観が素地となったことから、すんなり受け入れられたという側面があるはずです。利益を向上させるために、個人の自由を犠牲にすることが、多くの人に当然のことだと受け止められたものと思います。高度成長までは、目的遂行価値観の下で身を粉にして働いたのですが、敗戦直後を基準として考えた場合、目に見えて生活が向上してきたわけですから、その価値観をだれも疑わなかったでしょう。
では、家庭はどうだったのでしょう。
明治の富国強兵から終戦まで、家庭も徐々に戦争遂行のためのツールと位置付けられていったと思います。明治以前は、あまり男女の風俗には違いがなく、上流階級や都市部を除くと、服装も髪型も男女という区分けがそれほど厳密ではなかったようです。明治初期に東京市など各市が定めた違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)というものがあり、女性が男性の服装をしてはだめだとか、女性は散発をしてはだめだとか、主に外国人の目を気にして、庶民の生活様式に干渉を始めました。これを裏から見ていると、庶民の中では、それほど女性らしさというものに価値観をおいていなかった様子が見て取れます。また、江戸時代には「女大学」なんて文章もありました。いわゆる女らしさとはこういうものだからこうしろという内容です。これも裏から読むと、そんなことが女らしいという共通の価値観はなく、女性らしさに縛られない女性の生活様式が是認されていたから、これを改めて女性らしさのある生活にしろと言わざるを得なかったということなのだと思います。
女性が男性より一歩引いて男性を立てるという行動様式は、考えてみれば不自然なことです。いろいろな男性がいて色々な女性がいるのですから、女性が主役の家庭があってもちっともおかしくないわけです。どういう家庭を作るかは各ご家庭が決めればよいことです。実際にもいろいろな家庭のスタイル、人間関係があったことだと思います。また、武家以外は、男性と女性にそれほど就労形態に差があったわけではありませんから、自然な形では、ステロタイプの男女差は生まれにくかったはずです。家事も重労働だったし、時間がかかることでしたから、家事労働は今よりも格段に高い価値が認められていたはずです。
男性に一段高い地位を与えたのは、国策だと思います。これによって男性に、家の代表という意識を植え付けることになったはずです。それは次第に、家庭を守るのは男性の役割だという意識付けを与え、それから家族を代表する社会の一員という意識付けを与え、国を守るという意識付けを付与させていったのではないでしょうか。すべての男性が、プライドを持たされ、戦う兵器に作られていったのだと思います。男性であるから、大きな視点を持たなければならない。社会のために、国のために役に立とうとしなければならない。立身出世を目指さなければならない。それは自分が貢献して戦争に勝つことだということです。こんな発想が自然発生的に生まれるはずがないと、現代に生きる私は思います。男性は血筋を残す存在から、兵隊としての任務を遂行する存在に位置付けられ、女性は男性を強い戦士にするという役割を担わされたのではないでしょうか。男尊女卑という明治以前の一地方の風習が、日本全土で強制されるようになったわけです。
例えば職場で、戦争価値観が形を変えて残存したように、家庭でも戦争価値観がそれほど簡単に消えたわけではないと思います。男は強くあるべきだ、泣くような子は男ではない、男は弱音を吐かない、すべて戦争遂行に都合がよい価値観です。戦前に生まれた親たちは、どこか戦争価値観の影響を受け、教育をはじめとする行動様式に、男らしさ女らしさを良しとしてきたはずです。
このような変化は、時代の社会構造を反映しているもので、社会構造との不具合が顕在していく中で消滅していく運命にあるわけです。1945年に戦争が終わりました。10年余りは復興のために目的遂行至上主義のもと戦争価値観を利用して国民は働きました。その後戦争価値観は高度成長期を可能としたわけです。男性が外に出て働いて、女性が家を守る。男性は猛々しく7人の敵と戦うべしということでしょう。
しかし、同時に変化も生まれてきました。女性の社会進出です。もともとテストとか就職試験の解答能力に差があったわけではありませんから、目的遂行主義的な男女観さえなくなれば、女性がどんどん進学するようにもなりますし、消費のために働いて収入を得る必要も高くなります。学校でも男女平等が進められますから、どうしたって、男性だからと言って立てられる必然性が無くなります。女性の猛々しさやリーダーシップを発揮することに、国家がストップをかけるということもなくなりました。また、高度経済成長の時代にあった働きに応じて所得を得るという実感が、高度成長期の終わりころから無くなっていくわけです。見返りが乏しくなったのに、これまで通り働くのは馬鹿らしくなるわけです。目的至上主義が国民全体の価値観だったのに、自分には何のメリットもないということが少しずつ浸透していくのは必然でしょう。バブルも、特殊な業界だけが恩恵を受けて、また、努力や勤勉さとは関係の無いところばかりが特別に潤ったということですから、目的至上主義に基づく勤勉な就労は魅力がなくなったはずです。
目的至上主義が国民から遊離してきたと同時に、男性だけの就労では国民の大部分が望む生活が不可能となりました。女性も安い賃金をいとわず働かなければならなくなりました。男性がリストラにあい収入が無くなり、女性の収入で一家が生活をするということもそれほど少数の話ではなくなります。
ここで一気に男性を立てるという行動様式の意味が失われてしまう社会構造がととのってしまったということなのではないでしょうか。子ども向けの娯楽が、戦前の立身出世、勧善懲悪の絵本から、戦後は正義を口実とした人殺しの戦隊ものという勧善懲悪に変わり、バブルの崩壊とともに女性の戦隊ものという勧善懲悪噺に変わっていくのは、社会構造をきれいに反映させているように思われます。
家事事件などに携わっていると、夫婦の親たちの間にこの戦争価値観に基づく家族形態の争いが起きているように感じることがあります。男性の両親は嫁に立てられない息子はとても不憫だと思う一方、女性の両親は女性だからと言って家事などを押し付けられることは不合理だと思い、本当は当事者にとってはどうでも良いことなのに、それぞれの価値観を押し付けて対立をあおる。こういう図式による離婚事件がしばしば見受けられます。二人はどっちでも良いですし、徐々に合理的な形に収れんされることなのですが、わが子のことだということでムキになるわけです。
もし、男をたてない家庭で寂しい思いをしているということであれば、それは無駄に寂しくなっているということになります。要するに一世代前に合理性があった、戦争遂行という観点からの合理性があった価値観の残存物に縛られているということが実態だろうからです。しかし、戦前に生まれた親の子である私たちの年代では、価値観がどこかにしみついていて、感情的反応が起きてしまうことはあり得ることです。
このように、家庭内においても、男女の役割観というものが、戦争遂行のための作られた価値観ということで作出され、戦争が終わってから80年近くが経とうとした現在も、その合理性が無くなったにもかかわらず、価値観の残存物があり、影響を与えて続けているのだと思います。戦争の価値観というものは、男女の問題や軍国主義や国家至上主義というような政治的な様式や政治的な価値観だけにとどまらない幅広い構造を持ったものなのでしょう。反戦活動というと、政治構造や政治的イデオロギーに目を向けがちですが、家庭や職場、あるいは学校教育やスポーツの中に形を変えて生き続けているということになかなか目が届かないようです。私たちの考え方や感情に影響を与える戦争価値観についてはもっともっと分析が必要だと思います。ブラック企業や非正規雇用、リストラや成果主義的賃金体系等は、私はこの戦争価値観をスライドさせて利用していると考えています。学生生徒の部活動や受験競争等はとても分かりやすい戦争価値観由来の目的至上主義ではないでしょうか。未だに他者を攻撃することが目的達成のために必要不可欠な方法論だということが社会の中で無意識に是認されているように思われます。これが現代社会の生きづらさの根源にあると私は考えています。
現代においてもなお、外に向けた目的だけが目的として是認されてしまい、仲間と協調すること、安心できる仲間づくり、緊張感を伴わない仲間づくりという、外向け目的至上主義の対極にある内向き目的主義的な価値観が、未だ価値を認められない状態に取り残されていることが大問題だと思うのです。その理由は、国策でつくられた戦争遂行のための価値観についての分析が行われないところにあるのではないでしょうか。そしてその価値観に基づいて、幸せになる、楽しく生きる、充実した人生を送るということに価値が認められない。そういう価値観の在り方を放棄しておいて、戦争にだけ反対するということだけを推し進めるといっても、幸せな楽しい充実した人間の在り方には近づかないでしょう。新たな緊張が拡大再生産されるだけではないでしょうか。
もう一つ、この生きづらさを戦争遂行のための国策で作った価値観の残存物だという考えが正しいとしたならば、それを是正する方法も見えてきます。これと違って、現在の生きづらさは人間という生物に不可避的に備わった負の性質にもとづくものだと考えてしまう場合は、人間集団の再構築は不可能な幻想だということになるでしょう。同時にそのような考え方は、戦争価値観をスライドさせて利用して私たちを苦しめる制度に対して根源的批判ができなくなります。これは、戦争遂行価値観を利用して利益を上げている構造に目隠しをするということですから、彼らにとってはとても都合の良い主張だということになるでしょう。
日本を動かしていると自負している人たちには考えてほしいところです。戦争は長期化すると民は疲弊してしまい、勝っても負けても深刻な影響ばかりが残ってしまいます。戦争により疲弊する理由は、人間は緊張感を長期間保つことを予定していない動物だということにあります。戦争価値観によって、緊張感の持続を強いる社会は、やがて疲弊して滅びてしまうでしょう。未来に明るい希望を持たない若者たちばかりになると、国家は著しく衰退するでしょう。また、国民の不満、不安の蓄積は、現状が維持されなければそれでよいという、不安解消要求を招き、とんでもない人たちが政権をとる可能性があることを昨今の選挙では目の当たりにしているところです。
国民の緊張を軽減させ、孤立を解消させ、家庭、職場、学校、地域の仲間づくりに価値をおいた価値転換が図られるべきだろうと私は思います。

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嘘も方便 誠実に正直にというひとりよがり 無責任な態度こそ大人の態度 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

例えばプロポーズするときに
私はあなたを一生大切にします。
一生幸せにします。
なんて誓うわけです。

本当にできるか?
ということをまじめに考えてしまうと、
現代の経済状態で本当にできるのか
不安にならない人はいないのではないでしょうか。

本当に働けなくなるまで、職を失わず
安定した収入が確保できるなんて保証はないわけです。
また、定年まで働いたとしても
いわゆる老後の生活についても不安があおられています。

もしかしたらそんなことをリアルに考えて
結婚しない人が増えているとしたら
それは誠実で正直な人が増えているのかもしれません。

プロポーズのときは
本当に一生大切にして、一生幸せにしたいと
第一希望を思っているのでしょうから、
嘘ではないし、不誠実なわけではない
そういう反論がなされると思うのですが、

別に不誠実だから悪いわけでもないと思います。
そもそも一人が他方を幸せにするのが結婚でもないんだし。

でも、そういうことを言われればうれしいでしょうから
また言わなければ「なんだ?」ということになるのですから
「一生幸せにします」と言うわけです。

この記事は、「しかし心変わりが起きる」
ということを言いたいのではなく、
その後の二人の関係の中で
再びこういう約束を守ることができるかどうかの事態に
気が付かないうちに直面していることがありますよ
その場合どうしたら容易でしょうか
ということの記事です。


人間は大人になっても
色々な理由から、
誰かに支えてもらいたいと思う時が来ます。
精神的な問題、体調的な問題、人間関係的な問題
等によって不安になる時が来ます。

不安の形も様々です。
しおらしく、静かに控えめに、おとなしく不安に打ち震えている
という昔の少女漫画のような不安というものはなく
不安を持て余してしまい
異常な行動に出ることもあれば、
相手に八つ当たりをして不安を忘れようとしてしまうことも
実際は多くあります。

相手に責任がないのに
相手の行動がいちいち癇に障り
怒鳴って否定せずにはいられなくなるということが怒ります。

私の弁護士としての職務では女性の方が不安になることが多いかもしれません。
でも本当はどちらでもあるのではないでしょうか。

例えばもし妻が、
妻自身の自然にわいてくる不安に対処しきれなくなり
自分が周囲から否定的にみられているのではないかと勝手に思い出し、
そんな覚えがなくこれまで通り接していた夫に対して
鬼の形相で、やくざみたいな言葉遣いで
どすの利いた攻撃をしてきた場合、
実際は対処の方法が見つからずに
途方に暮れているという男性は多くいます。

こうなるともう、
プロポーズの時に一生大切にするという誓い
一生幸せにするという誓いが
とてつもなく無謀だったなと思えてくるわけです。
いや既に忘れているのかもしれない。

ここで誠実で正直者の男性は、
怒りに任せて適当に言っているだけの妻の攻撃的言動に対して
それがいかに不合理なもので
静かに冷静に話し合うことによって解決できると
こんこんと説得することを試みようとするのでしょう。

妻の言う
夫の稼ぎが悪いという攻撃に対しては
自分がいかに努力をしているか
自分と同じ条件では平均というカテゴリーの中に納まっている
等ということを誠実に説明しようとするでしょうし、

今後頑張れと言われても
頑張りようがない仕組みになっているし
不正なことをしなければこれ以上収入をあげることはできませんよ
と不正をして収入がなくなるより今のままで我慢しましょうね
等と言って見たくなるわけです。
誠実で正直だから。

こういう不合理な状況の中では
誠実や正直をやめることが王道なのかもしれません。

妻から何を言われようが
大丈夫だから、俺が何とかするから
俺を信じろ、俺についてこい
と話をかみ合わせずにどこ吹く風で
「普通」にしているということです。

何が大丈夫なんだか
どうやってなんとするんだか
信じて本当に救われるのだか
ついて行った先がどこに行くのだか
そんなことは考えないことが一つの対応策のようです。

どうもいろいろな文献や文化を示す資料を見ていると
昔の日本男児は無責任で
勝手なことを言っていたようです。
また、昔の日本では、仕事が急に無くなるということや
職場で人間扱いされないということもそれほどなかったようです。

ここでいう昔ということがいつなのかはまたこの次です。

でも、相手方の不安にはそれほどしっかりした理由がないことが多く
相手に大丈夫だと言われるというか
相手が全然心配している様子を見せないことで
すうっと安心するということがあるようです。

今の私たちはこれができない。
嘘でも大丈夫と言えば済む話だと分かっていても
ついつい、相手の言葉尻に反応してしまう。
「誠実や正直を捨てる」という選択肢がないということだと思います。

それだけ自分が安心できない立場で生きているということなのでしょう。

意味のない言葉だと分かっていても、
どうしても自分を守ろうとしてしまうということなのでしょう。

赤ん坊の夜泣きに苦しむ親ってこんな感じだったのでしょうね。
どうしたらよいんだ。どうしたら泣き止むんだと
誠実に正直におろおろすてうりうりやってみるが泣き止まない。
三歳のお姉ちゃんが眠たそうな眼をして起きてきて
「あらあら眠いのね」なんて言って頭なぜたら泣き止んですやすや眠った
なんてことなんだろうと思います。

言葉に対してきっちり反応としようという誠実さは捨てましょう。
臓物をえぐる言葉にもできるだけ顔色を変えないようにしましょう。
堂々と、平然なふりをして
「そういう時あるね。」
と何言われても、殴られても蹴られても
言う方が良いのかもしれません。

夜泣きをする赤ん坊にたいして泣き止ませるコツとして
大人の方がおろおろしないことが鉄則だということを聞いたことがあります。
大人のおろおろを止めるためにこそ、
自分を落ち着かせるためにこそ
歌を歌うんだと子守歌の練習をしている人もいました。

誠実さや正直をかなぐり捨てて
無責任に大丈夫だと言える
大ざっぱで
動じない「ふり」をする精神力が
求められている時代なのかもしれません。

(そんなこと言って、あとで大丈夫ではなかったときに
あの時あんな風に言っていたけど大丈夫ではなかったではないの
と責められることを心配される誠実さを捨てるということですよ。
その時も、大丈夫だよと言えば良いわけですから。)

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「自己肯定感」は呪いの言葉 騙されてはいけない。自己肯定感が低いといって悩む人は論理的に言って自己肯定感の高い人であるという論証 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

自己肯定感が低いということを悩む方々がいらっしゃいます。自己肯定感を高めようとして、高額のセミナーに通う方もおられるようです。でも、自己肯定感が低い、高いということはどういうことでしょうか。

良く引用されるのが、高校生を対象とした平成27年の独立行政法人国立青少年教育振興機構調査です。この中で他国と比べて日本の高校生は、自分は人並みの能力があると思う割合が圧倒的に少なく、自分はダメな人間だと思う割合が圧倒的に多いという結果が発表されました。平成25年内閣府の委託調査もよく引き合いに出されます。この調査は、13歳から29歳を対象として、日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンを比較しました。
「自分に満足しているか」という質問に対して日本人は、満足している、やや満足しているの回答が50%に達しませんでした。他の6か国は70%以上から80%が満足している、やや満足しているとの回答でした。「自分は役に立たないと感じる」かどうかという質問もありまして、これについては約50%が否定的でした。但し、英国、韓国、アメリカについで7か国中4位と、ちょうど中間的な位置となっています。

最近の調査結果では、ユニセフの調査結果が2020年9月3日に発表されました。日本の子どもたちの精神的幸福度は38か国中37位でした。身体的幸福度は1位だったのですが、総合で20位となりました。(対象年齢は不明)

ところで、どうして自己肯定感が低いと問題なのでしょうか。たしかに、それが不幸だと感じているならば幸せになりたいのは当たり前ですし、子どもたちには幸せになってほしいものです。

社会の問題としては、自己肯定感が低いと社会病理とされる行動を起こす危険性が高くなるということだと思います。「どうせ自分なんて価値のない人間だ」と思うと、まっとうに生きていこうとする意欲がなくなり、前向きな努力建設的な思考がなくなります。すべてをあきらめる傾向を持つようになり、犯罪など不道徳行為を実行することに心理的な抵抗がなくなる、職場や学校、家庭での人間関係を形成することができない、他者への攻撃をするようになる、薬物などへの依存傾向が出てくる、自傷行為や自死が起きやすくなる。ということです。

危険を回避しようという意識が薄れるということがわかります。また、健康とか安定した人間関係の構築という、今後の自分の人生の長さに見合った利益を追求しようという意識よりも、その時良ければそれでよいという一時的な快楽や刹那的な利益を求めようとする傾向になるわけです。自己肯定感の低さが社会に蔓延することは、社会不安を高めてしまうことになり、ますます環境が悪くなっていくことになります。

自己肯定感が低いと悩むのは、幸せを感じにくくなっていますから、何とか自己肯定感を高めて、もう少し不幸を感じないで生活をしたいということはよくわかります。しかし、自己肯定感を高めようとするあまりに、高額の費用を払いセミナーに参加する人も多いようです。私、こういう方々は、自己肯定感が低いとは言えないと思うのです。本当に自己肯定感が低い人は、自分は幸せになれる人間ではないとあきらめていますから、お金をかけて継続的に学習しようなんて言う発想にはなりません。仕事の外に時間を作ってセミナーを受講しようとする方々は、真面目で勤勉な方です。セミナーを受講する等努力をすれば、自分は自己肯定感が高くなるはずだとご自分を信じていらっしゃるのですから、客観的には自己肯定感が高いのです。

本当に日本の子どもをはじめとする日本人の自己肯定感が低いのかについては、さらなる分析をする必要がありそうです。

私は、自己肯定感が低いのではなく、自己肯定感を低くさせられているだけだということを何度も言うつもりです。自己肯定感が低いということで悩んでいる人の大半は自己肯定感とは別のところに問題を抱えているのであって、自分の自己肯定感が低いということで悩んでいるということは本来の自分は違うということが前提になりますから、自己肯定感、自尊感情が低くないのです。

高校生を例にとればわかりやすいでしょう。高校生という時期は、大学進学や就職など、いやでも自分の将来の岐路に直面している時期です。日本の高校生の大学進学目的は就職を有利にするためということが一般的でしょう。なんらかの研究をしたいという人は少ないようです。少しでも就職に有利な大学に入学しよう、そのためには浪人生とも競って合格を勝ち取らなければならない。高校生は、今以上に成績をあげなければならないと考えるのが当たり前です。そのためには、現状に甘んじていてはならず自分を叱咤激励しなければならないし、合格するかどうかは、実際に合格通知を受けるまで分からないという極めて不安的な時期で、緊張が持続する時期でもあります。第1希望をあきらめて、受験する学校のランクを落とすということもありふれてあることです。

大学に入学しても、雇用と収入が安定する企業に就職することは、それほど簡単なことではありません。それにもかかわらず受験に失敗したり、学校を怒らせて退学になったりすると、ニートの生活と無保険の老後が待っているということで脅かされたりするのが、日本の高校生ではないでしょうか。

この日本の現状とは別に、ある程度の常識的な生活を送りさえすれば、家族を持ち、家を建てて、子どもを育てて生活ができる、常識的な趣味の時間も確保でき、それなりに人間として幸せに生活できるというのであれば、それほど成績と自己肯定感は連動しないでしょう。無理な時間に無理な勉強をするより、自分の好きなことに打ち込んで将来につなげたいと思うことでしょう。

受験戦争の激化ということが子どもの権利の観点から国際的な批判を受けますが、それ自体は昔から続いていることだと思います。大学受験という入り口、ないし人生の途中経過における競争激しさは変わらないのかもしれません。しかし、大学卒業後の就職という出口の意味あいはずいぶん変わってしまったと思います。大学を卒業しても、雇用が不安定で低賃金の非正規労働しか就職口が無かったり、正社員でも過労死をするような長時間労働、過密労働が待っていたりする割合は確かに増えていると思います。
この社会変化は、高校生活の一日の意味あいを大きく変化させるでしょう

この社会変化は、自己肯定感の低さを社会によって植え付けられている一般的な事情となると思います。

しかし、自己肯定感は、その人にとって不変なものではなく、その時その時の置かれている状況の変化に左右されるものです。
例えば、高校生が大学受験に向けて模擬テストを受けて、返された成績がいくら良くても100%合格するわけではないので、一時的に安心することはあるかもしれませんが、それで「自分に満足する」ということは起きにくいでしょう。ところが、だめもとで、少し背伸びをして第一希望を受験してみたら合格したということになれば、そのときは「自分はダメな人間だ」と感じる人はいないでしょう。自己肯定感なんて案外いい加減なものです。

また、自己肯定感を得るためには何らかの客観的な水準があるわけではなく、その人の意思、希望との兼ね合いというものもあるでしょう。
別の例で言えば、それほど偏差値の高い大学ではなくとも自分が教えていただきたい教授がいるA大学を志望して努力して勉強し、順調に学力を伸ばし、入学を果たせばやはり自己肯定感が高い結果になるでしょう。ところが同じA大学に合格した人であっても、もっと偏差値の高いB大学を目標にしていたにもかかわらずその大学に不合格になったために不本意にA大学に入学した人は自己肯定感が低いという調査結果になることでしょう。

このように、自己肯定感とは、その人が元々生まれながらに持っているものではなくて、その人が置かれた状況が心に反映したものだということができると思います。
この「その人が置かれた状況」というのが、それこそ千差万別あるわけですから、一般的に自己肯定感を高める方法なんてないわけです。

もう一つセミナーに受講料を払う前に考えなければならないことがあります。それは、なぜ人間は置かれた環境の違いで、自己肯定感が高くなったり低くなったり、幸せを感じたり、不幸せを感じるかというその理由です。心や感情がどうして存在するかということです。

それは、けがをすると傷口ができて、痛みを感じることとまったく一緒です。痛みがあることによって、傷口があることに気が付きます。そうすると傷を悪化させないように、衛生を保ったり、同じ場所をさらに傷つけないために庇う行動をすることができます。傷はなくとも痛いと思えれば、捻挫などをして筋肉や軟骨という軟部組織の一部が挫滅したことがわかります。動かさないようにして患部を悪化させないかとか、直りを遅くしないということができるわけです。また、血液中に傷口をなくす成分を多くして自然治癒力を高める生理的なメカニズムも発動されます。痛みを感じるのは自分を守るためだということができるでしょう。

心の痛みも全く同じだと思うのです。
対人関係の不具合があれば、例えばいじめを受けていればとても嫌な気持ちになったり、人を信じることができない気持ちになったりするでしょう。パワハラを受けていても同じです。その対人関係を修正したり、極端な話をすれば退学したり退職したりして、自分の身を守らなければならないわけです。そういう人間関係に居続けることによって、致命的な状態になりかねないわけです。小さいころに虐待を受けたり、ネグレクトされたりして、理由がわからないで自分という存在が否定されれば、自分が何か悪いために自分は尊重されないと感じやすくなってしまいます。子どもの心理に親に対する安心感が欠落している場合は親子関係を改善する必要があります。この場合、子どもの環境を変えることも必要な場合がありますが、親から分離しても分離先でも尊重されないのであればメリットはなくデメリットだけが継続することになることをもっと気に掛ける必要があるように思われます。

こうやって本来、修正したり、離脱したりするべき人間関係であるということを、心が教えているわけです。そうだとすれば、不安や、自己否定感を感じるということは意味があることで、やみくもに、心をいじって自己肯定感を奪うようなことはしてはならないはずなのです。例えば、有害物質が流失しているから臭さを感じているのに、鼻の感覚を奪ってしまうことによって臭さを感じなくして、有害物質を吸い込んで体を壊すようなことをしてはいけないということです。疲れ切っているにもかかわらず栄養剤を服用して無理やり体を動かしていることにも似ているでしょう。

夫婦、家族であれば、人間関係の不具合を、専門家の協力を得て関係改善させるということは、初期であればそれほど難しいことではありません。お互いに自己肯定感というか、一緒にいることに安心できる関係を作るために努力すればよいのだと思います。しかし、既に離婚を決意するような段階になれば修正は容易ではなくなるでしょう。また、ひとたび傷ついた人間関係の感覚は、将来的に後を引くものです。但し、昨今の人間関係の対策は、切り捨ててしまえという外科的な発想ばかりが横行しているという危機感があります。

対人関係とは別に心身の不調で心の感じ方が不具合を起こしている場合も多くあります。専門家による必要な手当てを受けることが心の状態を回復させることもあるでしょう。このようなことの実務的研究は極めて立ち遅れています。

大切なことは危険を避けようとする意識があるかないかが本質的な問題です。これは動物全般に当てはまる自己肯定感でしょう。人間の場合は、他の動物と異なり、将来という未来を観念できる動物ですから、これから死ぬまでのスパンに見合った利益を追求できるかどうかということが必要な自己肯定感の有無だと思います。言葉を換えれば「人間として生きようとする」ということです。人間として、自分を取り囲む人間関係を居心地の良いものにしたいと思えるか、方法がなければその人間関係から離脱するということができるかどうかが必要な自己肯定感なのだと思います。

今回のブログは、去年の12月に作成した記事とほとんど変わりません。長すぎるので、ダイジェスト版を作りたかったのですが、それも成功していないように思われます。このため、そのブログも紹介しておきます。まあ、ユニセフの調査結果が出たのでということで・・・
「自己肯定感なんていらない。それは社会の問題を個人に責任を押し付ける専門用語。ではどうするか。」 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-12-03

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業病という言葉から差別の本質について考ええる。石原慎太郎氏の謝罪に学ぶ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

石原慎太郎氏が、ALSという病気を業病と呼んで非難されました。
彼は謝罪をしたとのことです。
人を傷つける言動に修正が求められるのは当然のことですが、
誤りを認めて修正するということも褒められるべきことだと思います。

一連のこのエピソードによって、
差別ということの本質を
改めて考えるきっかけになりました。
そのことをお話ししたいと思います。

業病という言う意味は、広辞苑によると
悪業の報いと考えられていた難病と出てきます。
二版では、これで終わりですが、
報道では、業が前世の行いと解説されていました。
最近の版では載っているのでしょうか。

この考えは、7世紀の日本では既に存在していたようです。
光明子伝説という聖武天皇の皇后の逸話からもうかがい知ることができます。
(光明子は、8世紀の人物)

6世紀に仏教が日本に伝来してきました。
輪廻や因果応報という概念も入っては来たのですが、
いわゆる俗説的な解釈も広まっていきました。
本来は、すべてのものは定まった実体はなく
物事の動きの結果であり、一時的なものだという理論であるにもかかわらず
(方丈記の冒頭に文学的に示されていますね)
因果応報のことだと単純化されてしまいました。
結果が起きている以上、なんらかの原因があったはずだという具合です。

ちなみにこの因果応報は、果報は寝て待てという言葉もあるように、
良い意味でも悪い意味でも使われるというか
あまり価値がこめられない概念が本来の意味だと思いますが、
悪行の報いというネガティブな意味を持たされてしまっています。

自然科学も発達せず、病気のメカニズムもわからない時代です。
体が変形したり崩壊したりする病気で、
進行していって治せない病気は
当時の人たちはとても怖かったと思います。

人間の数も多くない時代ですから、
苦しみや悲しみに対する共感も頻繁に起こったと思います。
自分も同じ苦しみを味わうかもしれないという
不安や恐怖を引き起こしたでしょう。
何とか不安から解放されたいと感じたことでしょう。

そこに仏教の教えが俗物的にゆがめられて、
理由のわからない現世の苦しみは、
前世での悪い行為(悪業)が原因だという観念が生まれたようです。

そうして、難病に苦しむ人は、
前世に悪業を行った人であり、
自分はそうではないから難病で苦しまないから安心して良い
という考えで不安をぬぐっていたようです。

そして、難病の、体が変形したり、壊れたりする人たちは
報いを受けるほど前世で悪業を行ったひどい人間だということで
人間として扱わないという差別をし、
共感を遮断して助けを放棄していたようです。

住む家を追い出されて街をさまよう生活を余儀なくさせられていたようです。

私は、社会的差別の始まりがここにあるのではないかと感じています。
差別の端緒の本質をよく表しているように思います。

共感をするべき人に共感をしても
助けることもできず、自分が苦しむだけだ

いっそのこと、人間ではないとすることによって
共感を遮断してしまえ、
そのためにはむしろ敵だということで攻撃することによって
自分の心を軽くしようという心理が垣間見れます。

つまり、自分の不安を起こさないために
絶望を起こさないために
誰かを攻撃するということです。

いじめの構造にもよく似ています。

しかし、このことが道徳的には是とはされていなかったようです。
それが光明子伝説として語り継がれています。

光明子は聖武天皇の妻で、夫妻は為政者として仏教を広めました。
光明子は、夢の中でお告げがあり、それに基づいて
蒸し風呂のような当時の浴室で千人の垢を流すという願をかけます。
最後の千人目に、重篤な皮膚病の老婆が現れて、
体のあちらこちらにある患部から出てくる膿を吸い出せと命じます。
光明子は意を決して、膿を吸い尽くします。
そうすると老婆が阿しゅく如来の化身だったという伝説です。
もちろん、史実ではないですが、
そこに庶民の価値観が見えて取れます。

この話を支持する国民感情があったからこそ
この話が伝説として残ったのだと思います。

一方で、体が変形する難病者を業病者として排除の論理に立つ国民もいれば
そうはいっても自分の肉親だからかばいたいという国民感情があり
揺れ動く人々の気持ちが見て取れるような気がするのです。

また、伝説は仏教のプロパガンダという側面があるので、
難病者に対する排除をことさら強調して
その中で光明子の善行を際立たせているのかもしれないので
注意は必要ですが、
私は光明子伝説は、いろいろと学ぶべき資料だと感じています。

さて、いずれにしても、
業病という言葉がそのまま使われていたか否かは知識がないのですが、
前世の報いの難病という概念はすでにあったことも間違いなく
業病に対する差別も確かに存在したのだと思います。

苦しんでいる人をさらに差別するということも
差別の本質なのかもしれません。
業病は、差別とともに始まり、
差別の歴史そのものなのかもしれません。

一方でこのような概念がありながら、
近世になると、
業病が性病をさすようになることもあったようです。
梅毒など体が崩壊していき、当時は不治の病、進行性の病
という概念があったことからそう呼ばれたようですし、

前世を信じる人は少なくなり
自分の現世の不道徳の結果の病気だ
という意味合いが強くなっていったのでしょう。
渡辺淳一の「花埋み」ではこういう使い方をされています。

これは、もちろん本来の意味の業病を知らないで使っているのではなく、
当事者が、何の因果でこういう病気になってしまったのかと
嘆く場面で出てくる言葉遣いのようで
あえて誤用をしているという側面があるように感じられます。

病気以外でも
自分の不幸を嘆くときに
業という言葉を出して嘆くことが
文学には見られます。

これはもう、前世という概念を信じているというよりも
嘆き、理不尽な思いを表現する慣用句のように使われているようです。
信じてはいないけれど
知識として業病が前世の報いということは知っていたのだと思います。

つまり、理不尽なことがありその原因がわからない
もうこれは、前世というものがあって
その時に何か悪いことをしたとでもいうのか
みたいなニュアンスなのでしょう。

不合理なこと、理不尽なことが起きると
最終手段として自分に帰責性を求めて
絶望を回避するということは
現代の人間でも起きてしまう心理のようです。
子どもでもこういう思考パターンが見られます。
最終的な自己防衛手段とされています。

人間は理由なくひどい目にあうことに耐えられない動物のようです。
理由なく迫害されるよりも
自分に原因があるということで慰められるようです。
ぎりぎりの心理状態ですが。

差別は常に不合理なものだから
人間に対して絶望を与える大変危険なことになります。
差別を受けた人が自分に原因を求めてしまい、
自尊心をなくしてしまうのはそういうメカニズムのようです。

今回石原氏が業病という言葉を使ったのは、
進行性の病気で、体が変形していくなど外見上も悲惨な症状が伴う
難治性の病気という意味で使っていることは頭では理解できます。

こういう言葉に無神経であることの理由は、
歴代の作家たちが
業病の意味を知っていながらも、
表向きは前世や因果応報という場面ではないところで
業病とか業とかという言葉を用いていたことを
字面通りにしか理解できておらず
書き手が伝えたい理不尽さを表現するにあたって、
前世というありえない話を持ち出さざるを得ない
というニュアンスが伝わっていなかったということ
理解できていなかったということ示していますい。
この点を本人も不徳のいたすところとしているのでしょう。

この点に差別のもう一つの本質があります。

それは悪意がなくても差別なのだということです。
石原氏はALS患者が前世において悪い行為をしたとは
一切考えていないだろうと思います。
悪意はないのだと思います。

それでも、患者本人や患者の家族、知人たちは傷つくのです。
業病の正当な意味を知っている場合だけでなく
日本人として日本語のニュアンスとして
敏感に否定的意味合いを感じ取っているわけです。

そしてそれは、そう感じることが
日本文化の中では、正当な受け取り方だと思います。

大事なことは差別とは、
結果として差別をする側の心理的な不道徳性に本質があるのではなく
差別される側の、心理的ダメージ
排除をされる孤立感、疎外感、恐怖、不安という
自分を守らなくてはならないという強迫観念を引き起こされる側の
心理状態で判断されなくてはならないということです。

差別を受ける人の気持ちや差別される苦しみというのは
しかしながら、その人と接点のない人はなかなか気が付きにくい
ということを障碍者差別を学んでいく中で気が付かされます。

大事なことは弱者が、少数者が、
自分の苦しみや、ハンディキャップを克服するための方法など
声が伝わる仕組みが必要なのだと勉強しています。

恩恵として与えることは
差別解消とならない危険があります。
逆に人を苦しめることもでてきます。

まずは、その人の話を聞く、
その人が安心して話すことができるようにする
ということから始めなければならないようです。

また、人の苦しみから目を背けようとしないこと
これが一番難しいことかもしれません。









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「心を込めて」なんてことは子どもがする独りよがり 「正直」の弊害について考える(常識を疑う) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



実際に人間関係の紛争をみていると
これが問題の住みかだということを思い知らされることが多くあります。

例えば家族との関係でも
心にもないことは言いたくないという人が多いです。
感謝もしていないのに感謝の言葉を言うとか
悪いと思っていないのに謝罪するということが
悔しくてとてもできないと言うのです。

(本当は私もそれはよくわかります。)

でも、言っても損はないのだけどなあと
第三者からははっきり見えていることで、
「なんで言ってあげないの」
と歯がゆくなることが実に多くあります。

どうも、「こころにもないことは言わない」
というドグマがこの世の中にはあるようです。

今回は、家族や友人、職場の同僚等の人間関係に関する
「言葉」について考えてみたいと思います。

「言葉は情報を伝達する手段である」
ということは、まあ、よいでしょう。
「情報」とは、事務連絡のようなものから
このブログのように考えたことだったり、
あるいは、自分の感情などでしょうか。

但し、どうも今までの考えは、
情報を発信する立場に立った場合の考え方なのかもしれない
と思うようになりました。

情報発信は受け止める側との共同作業なのだから、
情報を受ける側の観点が必要であるはずです。
どうもこれができないから
SNSのトラブルが起きているようにも感じられます。

つまり、相手に何を伝えたいのかということと
相手に何を受け止めてもらいたいのかということは
微妙に違うようです。

そして人間関係の不具合は
相手に自分が伝えたいことを中心に考えて
言葉を使うから起きているのかもしれない
ということなのです。

そうではなくて、
相手に受け止めてもらいたいことを中心に
言葉を組み立てていくということが大切なようです。
もう少しあからさまに言うと
言葉を発することによる効果を期待して
その期待した効果を実現するために言葉を組み立てる
ということになるのでしょう。

そうすると
全て真実のことを伝えることが必要でもなく
正義でもないということにはならないでしょうか。

例えばけんかをした場合の謝罪を例に考えましょう
そう深刻なことをした場合ではなく
謝ってすむ程度のけんかの場合の謝罪を考えてみます。
そして自分は悪くないと思っている場合のことです。

言葉が自分の気持ちを伝えるものだと考えた場合
謝罪はできません。
真実を語っていないからです。
嘘はダメだとなるわけです。

これに対して、
謝罪をすることの目的が
相手の機嫌を直してもらう
二人の人間関係を破綻に向かわせないためだというならば、
自分の気持ちがどうであれ
謝罪をすることが言葉の正しい使い方
ということになると思います。

言葉を発する目的にかなった言葉の使用だからです。

言葉を発信者側から考えて
「私はあなたに悪いと思っていない、だから謝らない。」
と言う場合と、受け手に対する効果を考えて
「申し訳ない。自分が悪かった。」
と言う場合の
メリットとデメリットを考えてみましょう。

正直者のメリットは、
自分の心に嘘を言わない。自分の感情に正直だということでしょう。
自分がとった行動を悪だと認めないことによって
将来の自分の行動を制約しないということもメリットとしてあるでしょうか。
(悪だと認めたことを繰り返すことはできないから)
デメリットは
相手の気分感情をさらに害すること
相手からすると、自分は相手をそれほど大切に思っていないのではないか
という不安を高めてしまうわけです。
そして、自分に対しての相手の評価を決定づけること
その結果二人の関係が悪化することでしょう。

うそつきのメリットは
二人の関係の悪化に歯止めがかかる確率が高くなること
その結果相手に対する攻撃感情が軽減すること
相手からの攻撃感情も軽減するでしょう。
(不安が解消されると相乗効果で安心感を獲得できるというわけです)
デメリットは、
自分の心に嘘を言って悔しい、苦しいということでしょうか。

正直者の良いところは
その時の気分感情を満足させることができます。
しかし、後々自分の立場が悪くなるでしょう。

また、自分のとった行動を悪と認めないことによって
後々自分の手足を縛るということはないかもしれませんが、
それが相手にとって不満であるにもかかわらず
相手がそれを後々文句を言わないということがあっても
それは、けんかをしたくないから言わないだけで
実際はかなりのストレスを抱えることで
関係悪化が進行することになるのかもしれません。

冷静に考えれば
正直者はメリットがなく
嘘つきこそ八方が丸く収まる
ということになりそうです。

子どもは正直者ですし嘘が下手です。
「心をこめてお話ししなさい」と教育するときは、
先ず、「心を言葉に合わせて修正しなさい。」
という指令も含まれているようです。
そうすることによってはじめて
言葉を発する目的が達成されるので
心をこめるということは、手段ということで理解できます。

大人は心をこめなくたって
謝罪することもできますし、感謝することもできます。
言葉に出した後で心がついてくればそれでなおよいでしょう。

大事なことは何を目的に生きるかということです。
子どもはこんなことを考えませんから
自分の感情を垂れ流すわけです。

正直者の生きることの行動原理は
自分の感情を大切にするというものです。
これに対して、これまで述べてきた嘘つきの生きる行動原理は
相手との関係性の継続が目的だということになります。

自分の感情よりも
自分と相手の人間関係の方を大切にする
そのためには
自分の感情よりも相手の感情を優先して考える
ということなのだと思います。

おそらくこれが
「大人」
というものなのでしょう。

おそらく、私の言ってきたことは
昔の日本では常識だったはずです。
いつの間にか
大人になり切れない大人たちの影響が
世の中に蔓延してきているのでしょう。

近代文学なんてそんなものかもしれません。
音楽を含めたポップアートなんてのも
自分に正直にということかもしれません。
もしかしたらそれらは子どもじみた甘えなのかもしれません。

そしてそれを受け入れやすい状態に
今の世の中がしているのだと思います。
それは、自分と相手との関係に自信が持てない
関係性に不安を抱きやすいという事情だと思います

子どもと大人の違いは、こんなところにあるかもしれません。
子どもは自分の感情を大切にし、
大人は、自分の属する人間関係大切にする
そういうことなのかもしれません。

そして、子どもは、大人の作った人間関係の中で幸せになることが
その役割なのでしょうが、
大人は、自分たちが幸せになるための人間関係を
自分で作ることがその役割なのでしょう。

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