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自分に降りかかった問題は、他人の方が解決しやすい理由 だれに協力を求めたらよいのか これまで「自分で泣き止んできたんだ」としても [進化心理学、生理学、対人関係学]



今大きな悩みを抱えていない人ならば、そんなことぐらいわかっているよと思われることかもしれません。しかし、自分が今人生の岐路に立っているとか、自分の立場を失ってしまうのではないかとか今思い悩んでいる人は、案外その当たり前のことを見失ってしまうものです。

他人の力を借りることが有利だという理由には、例えば年長者が、その悩みについて既に体験しているとか、解決の知識やノウハウがあると言ったことも考えられます。しかし、自分のことを自分ひとりで解決することが困難であるのは、経験不足や知識不足などよりも大きな原因があります。

ここでは、言葉を区別して考えることがとても大切だと思います。区別するべきことは、不安や恐れ、焦りなど自然に湧き上がる「感情」と、理性を使って能動で気に論理を組み立てる「思考」ということです。通常だれでも理解していることですが、この違いを意識するだけで理解はより簡単になるはずです。

先ず、大きな悩みがあると人間はどのような感情を抱くかということを説明します。これはそれぞれの人間にとって基本は同じです。

<困難な課題がある時に湧き上がる人間の感情>
1)自分に危険が迫っている
2)この危険を排除しなければ自分は終わってしまう
3)自分を守りたい、守らなければならない

この感情の出どころは、例えばジャングルにいる場合に猛獣が近くにいる、猛獣に気づかれて襲われたら死んでしまうという感覚と基本的に同じです。現実の私たちの悩み、トラブルは、それによって死ぬようなこと、つまり身体生命の危険はあまりないのですが、あたかも身体生命の危険があるかのように不安、焦りという感情が生まれてしまうのです。

わたしたちが通常直面する問題や悩みは、人間関係の悩みです。人間関係の悩みとは、突き詰めれば、誰かとの関係が終わってしまう、自分の評価が致命的に下がってしまう、他人から一段階下に見られてしまうということです。人間関係の悩みがある場合と、身体生命の危険がある場合と、その悩み方、不安、焦りは同じ感覚であることに気が付くことは、解決の行動に出る場合に大変有益です。

このような不安や恐れ、焦りという負の感情は、思考に影響を与えてしまうことが問題なのです。

<負の感情による思考の変化>
A)思考をする力が弱くなる。
B)大雑把な思考しかできなくなる。
C)二者択一的な思考になりやすい。
D)悲観的な結論を出しやすい。
E)他人の感情などという目に見えないものについて推測ができなくなる。
F)細かい違いに気づかなくなる。

少し解説します。
先ほど述べたように、人間関係上の悩みであっても、感情は身体生命の危険と同じ感情になります。これは、群れを作る以前の人間の祖先としての動物にとっては、生き延びるために大切なメカニズムでした。つまり、熊などが近くにいるならば、生き延びるためには熊に見つかる前に逃げるしかないわけです。
 余計なことを考えないでひたすら逃げるという脳内モードにすることで、逃げるための筋肉の動きが緩やかになってしまうことを避けたのでしょう。走るのが遅い人は、余計なことを考えないで走るということが苦手なのではないでしょうか。何も考えないでひたすら逃げるということが人間の生存戦略だったわけです。

それでもわずかに、逃げ道の選択ができる程度に頭が働くのならば、少しは生存確率も高まると思います。その選択肢は右か左かという以上複雑なものは無かったのだと思います。二者択一ができれば十分であるし、それだって正しいかどうかはよくわからず、逃げ切ってみなければわからない。しかし、二者択一以上の思考が生まれてしまえば、ひたすら走ることの邪魔になるので、それ以上は考えないメカニズムが生まれたのでしょう。また、とにかく早く決断することが大事なことです。迷っているうちに熊が近づいてくるかもしれません。物事を単純化して、早く決断し、決断したら考えないでまたひたすら走り続けるということが生存戦略だったのだと思います。

悲観的な結論になりやすいことも生存戦略です。危険の相手がどの程度近くに迫っているか、あるいはすでに遠ざかったのか、よくわからないうちはとにかく逃げる。もしかしたら、まだ近くにいるかもしれないので、近くにいるかもしれないという根拠のない悲観的な思考の方が、根拠なくもう大丈夫だろうという楽観的な思考より安全な場所に逃げることができます。悲観的思考は明らかに生存可能性を高めます。

このように、逃走モードになると、あえて思考力を弱めていく戦略を人間は取ったわけです。思考力が弱くなっているため、他人の考え、他人の感情を推測する等という複雑な思考力は発揮できませんし、細部を観察するという時間をかけて意識的に集中するということができなくなることも理にかなっています。

つまり、危険察知 ⇒ 不安など負の感情 ⇒ 思考力の減退
というのは、きわめて合理的な人間の生存戦略だったということが言えると思います。このようなメカニズムのおかげで、我々の先祖は生き残ることができて、我々が生まれることができたのです。

思考力が減退したため、適切な逃走経路を選択できず、あるいは逃げなければ見つからないものを逃げてしまったので猛獣に気づかれて襲われたということはあったかもしれませんが、圧倒的多数はこのメカニズムのおかげで生き残ったのだと思います。自然のことですから完璧はありません。よりましな行動パターンの方が生き残るわけで、生き残った者が選択したパターンが遺伝子に組み込まれて我々に引き継がれたということになります。

その後人間の祖先は群れを作るようになり、群れに所属することによって外敵から身を守るという生存戦略をとるようになりました。これも理性というよりは感情を利用したものだったのでしょう。仲間から追放されるということは、熊に襲われることと同じように危険を感じ、同じようにひたすら追放されないようにしたのだと思います。追放それ自体というよりも、追放につながる群れの仲間の行動、つまり、仲間が自分を攻撃する、攻撃まであからさまにされなくても、自分だけ食料などの配分が少ないなどの差別がされる、自分の評価が下がるような失敗をして仲間に迷惑をかける、仲間の足を引っ張る等の仲間や自分の行動によって、命の危険が起こっているかのような負の感情が起きたのだと思います。

環境の変化によって、脳内システムと現実環境のミスマッチが起きてしまう事態になったわけです。
但し、このミスマッチは、群れの人数が200人弱のような少人数の時代はあまり表面化しなかったと思います。今回は詳しくのべません。ミスマッチが表面化してきたのは、これまでの話のスパンではなくてつい最近、農耕を始めて群れが大きくなった今から1万年くらい前からの話なのだと思います。

特に現代社会では、人間関係上の問題にすぎないのに、命の危険が起きているかのような感情を抱いて思考が低下することは、デメリットばかりが目立ちます。

例えば資格試験を受けるとき、この試験に落ちると自分が望む社会的立場を獲得できないという人間関係上の危険を感じるわけです。そうして不安や焦りがわいてきて大雑把な思考しかできなくなると試験に合格できない危険が高まってしまいます。
例えば仕事でミスをして上司から叱責されているとき、やはり命の危険を感じてひたすら逃げるためにあまり深く考えられないで言い訳をしてしまうと、さらに叱責される要素を作ってしまうわけです。

さらに他人に何か指摘をされたとしても、本当は善意で、仲間としてサポートしようと指摘をしたのに、自分の失敗、不十分点、欠点等を指摘されてしまうと、勝手に悲観的になり、自分が攻撃されたと思ってしまい、反撃してしまって相手から見放されるなんてこともよくあることです。

本当は違うのに攻撃されているという感情は、思考力の減退で相手に対してまずい対応をしてしまってさらに悪化する、また別の問題も引き起こしてしまうということが法律的紛争でもよく見られます。

<第1の結論>
つまり人間関係のトラブルなんて、本当はトラブルではない場合もあり、悲観的思考によって勝手にトラブルがあると思い込んでいる場合があるということです。
また、同じようにそれほど大したトラブルではないのに、とても大きなトラブルであるから自分にとっては致命的であると思ってしまう傾向もあるわけです。

半世紀以上人間をやっていると、人間関係のトラブルで命が無くなるとか、回復不可能な将来的損害があるということはほとんどないことがわかりますが、若いうちはもちろんそんなことはわかりませんでした。一言で言えば何とかなることは間違いないと思えるようになりました。さあどうやってこの致命的な問題を乗り越えるのかということが楽しみに見えてくることさえあります。

<第2の結論>
人間関係のトラブルの存在の錯覚と解決方法のミスを生むのは、誰が味方で誰が敵なのか判断が付かないことです。多くの人たちは味方として利用できる人を警戒したり、攻撃したり、遠ざかったりしています。そうして混乱している感情に乗じてあなたに損害を与えて自分の利益を得ようとする人の言いなりになるということが多いです。

何よりも追い込まれている人は二者択一的な思考しかできなくなっていますから、解決方法も単純であることを望んでしまいます。あなたに損害を与えて自分の利益を得ようとする人は、単純な解決方法で単純に解決できると提案してきます。不安や焦りがある人はつい、それで解決するのであればと他人の嘘、まあ嘘とは言わないでも解決しない方法に飛びついてしまう危険があります。

<第3の結論>
人間関係のトラブルを解決するにあたって、一番多い間違いは、損害を無かったことにしようとしてしまうことです。二者択一的な思考しかできなくなっているのでそういう「感情」になってしまって、つまり「思考」ができない状態になってしまいます。

本当は切り捨てても良いこともっても大事なもので失ってはいけないものだと思ってしまうわけです。それよりも切り捨てるものは切り捨てて、大きな利益を確保するということをしなければなかなか解決には至らないということが多くの場合でしょう。

二者択一的思考は、全部残すか全部失うかという判断を迫られていると錯覚させてしまいます。

<最終結論>
結局人間関係のトラブルで追い込まれている人は「思考」する力が減退しているために、「感情」で解決したいと思っているだけで、解決のための「思考」ができていません。

悩んでいるけれど、何がトラブルなのか、トラブルのうちの解決するべきところはどこなのか、切り捨てても良いところを切り捨てて大切な利益を守り抜く、そもそも一番守るべきものは何なのかということが見えなくなってしまうということなのです。

だから、自分以外の人間に協力してもらって解決をするべきなのです。

では、誰を協力者とするべきなのでしょうか。
最後に協力者の条件を挙げましょう。それぞれ一つ一つは当然のことだと思われるでしょうが、その条件を満たす人間はなかなかいないのかもしれません。

第1に、あなたの利益を第一に考えてくれる人である必要があります。家族であるとか運命共同体の人であれば、あなたの問題を解決することは自分の問題を解決することになるので、あなたを食い物にして自分の利益を得ようとはしないと思います。

第2に、あなたと同化しすぎない人です。あなたの悩みに共鳴してしまって、自分のトラブルだという感情がわいてしまえば、他人に協力してもらう「うまみ」もなくなります。その人も思考力が減退してしまうからです。

共鳴しすぎる人は協力者として不適当であるし、解決よりも共鳴を優先する人も大きなトラブルを解決する場合はあなたの足を引っ張るかもしれません。本当はそれを捨てて解決して大きな利益を得るべき時も、些細なこだわりを一緒に大事にしてしまい結局こじらせるだけだったという場合も多く見ています。

理想を言えば、一段高みに立って、あなたがこのトラブルで致命的な損害を受けても、その損害は自分が引き受けるから心配するなというような人がいればとても心強いでしょう。

以下は技術的な細かい協力者の理想です。
・ あなたに、あなたが考えていることとは別の選択肢があるということをはっきりと提案できる人
・ あなたにあなたがこだわっている価値観を捨てることが可能であることを告げることができる人
・ 初めから選択肢を捨てるのではなく、それぞれのメリットデメリットを思いついて提案できる人
・ その行動をとることの見通し、成功する可能性を理由を挙げて説明できる人
・ あなたが一番大事だと思っていること(感情ではなく思考の結果)を尊重してくれる人(但し、それを捨てるべき時は捨てるべきと言える人)
・ 焦らないで、許される範囲で時間を一杯に使って解決することを提案できる人
・ 自分の考えに固執しない人 あなたの意見(感情ではなく思考の結果)の良いところを取り入れてくれる人

できれば、その人に協力をお願いしたのであれば、その人の提案をすべて受け入れろとは言いませんが、先ずその人の提案を落ち着いて考えてみるということが大切です。感情的に反発することをしないということです。だから運命をゆだねることができる人が理想なのでしょうかね。何とかなるという気持ちをもって、感情を鎮めて、思考を働かせることができれば80%以上、結局は解決しているわけです。

弁護士をしていると、なんともならないという問題はあまりないことに気が付きます。確かに失うものが何もないというわけにはいかないことも多いのですが、結局は何とかなるということが圧倒的多数だと思いました。

思い悩むことも人生にとっては有益なことになるのかもしれませんが、それ自体は合理的な解決に向けて有益なことではなく、デメリットだけが多いことだと言って差し支えないと思います。まずは信頼できる人間に相談をすることが理にかなっていることだという結論は間違いないと思います。

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どうしてあの人が犯罪行為をしたのか。失敗をしないで理性的な活動をするためには、適切な睡眠時間と睡眠時刻が必要 [進化心理学、生理学、対人関係学]



そんな世間を騒がすほどの大きな事件でなくても、私たち弁護士が業務上関わる犯罪であっても、「え?どうしてあの人がそんなことを」と周囲が驚くことが少なくありません。本人は、いたって真面目な人間で、まっとうに生きているので、「魔が差した」としか言いようがないのです。しかし、犯罪には必ず理由があり、その理由を改善しないと再び犯行を行う危険が残るわけです。

実は、慢性的な睡眠不足が犯罪の背景にある場合が多いように感じています。

慢性的睡眠不足が、外国での原発事故の一つの要因とされています。失敗するはずのない失敗が起きた事故でしたが、その失敗が起きた原因が睡眠不足だったというのです。

私の業務上でも、自動車事故のケースに睡眠不足があったと思われるケースが多いです。夜勤明けに自動車を運転して帰る時に人をはねて死亡させてしまう事故がありました。人をはねる瞬間、眠っていた、つまり意識を失っていたので、見通しの良い道路で追突をしたのです。結果は大変深刻です。朝元気よく「行ってきます」と出て行った病気一つない主婦が、何の落ち度もなく歩いていて命を落としたのですから、ご遺族の無念さと悲しみは大きいものでした。

睡眠不足の場合、特に慢性的な睡眠不足の場合は、このように意識を失わなくてもミスをします。むしろ意識を失わないために、睡眠不足のために思考力が減退していても気が付かないまま、取り返しのつかない判断ミスをしてしまう危険があります。

過労死や過労自殺も睡眠不足が背景にあるため、睡眠不足の負の影響については意識的に観察をしています。その結果、睡眠不足は、思考力を奪うということが言えると思いました。

どのように思考力を奪うかというと、総論的に言えば、努力して考えるという行為ができにくくなるということかもしれません。具体的には

1 複雑な思考ができなくなる、複雑な思考とは細かい計算だけでなく、他人の気持ちや他人の立場を考えるということができにくくなります。
2 現在は目に見えない将来的な成り行きなども考えることができなくなるようです。
3 時間をかけてじっくり考えるということができなくなり、早く答えを出そうとします。
4 折衷的な考えなどの複雑な考えというか、自分の頭で考えなおすということができなくなり、あらかじめ用意された答えのどれかを選ぶという思考になりますし、イエスかノーかとか、表か裏かなど、はっきりした答えを好むようになります。あとは数字で成果がわかる方を優先してしまうようです。

この結果、奇妙に悲観的になりすべてがノーという決断になったり、奇妙に楽観的になってすべてがイケイケになったりということも起こりやすいです。まっとうにお金を稼いで目的果たすことができないと悲観的になる一方、あそこから持ってくればすぐに手に入るじゃないかという心理で、窃盗が起こされるということはよく見ています。

洗脳される場合は、意図的に睡眠不足にさせることが多いようですが、それは理にかなっていることになります。こちらの用意した「正解」に従ってしまう思考にさせるわけです。「なんだかわからないから、あなたの言う通りにしよう。それなら少し安心だ。」ということなのでしょう。

他人が意図的に洗脳する場合でなくても、「偶々その時に自分が考えていたこと」を実行してしまうことも睡眠不足の際にみられます。極端な事例を挙げると、ある商品のコレクターが事件を起こしました。ある睡眠薬とアルコールを同時に摂取し、その商品を盗もうとして逮捕された事件でした。自動車の運転をして目的地の店に到着することができ、欲しかった商品のコーナーにたどり着きました。しかし、店のものをお金を払わないで持ち出したら窃盗になるからやめようと思うことができなかったため、堂々と商品を持ち出そうとして逮捕されたのです。これは薬物の影響なのですが、結果的に薬物の影響で睡眠不足の極端な場合の思考能力が生まれてしまったのだと思います。

ここまで極端ではないものの、多くの事件で、睡眠不足が原因で、被害者の被害、被害に遭ったことでの精神的ダメージを考えることが無く、また自分も世間的に致命的に不利になるということを考えることができず、純粋に自分の欲望に従って行動し、結果的に物を盗む等の犯罪を実行するというパターンがあります。

人間が何か行動を起こそうとする時、色々な物差しでそれをしても良いのか、するべきではないのかを点検しているようです。

・ 欲望によって、何をしたいか決めるという物差し(お金が欲しいとか、何もしたくないとか)、
・ 他人の評価という物差し(これをすれば褒められるとか、これをしたら致命的に否定評価をされるとか)、
・ 道徳や法律に従うという物差し、
・ 仲間内のルールや宗教の教義などの比較的具体的な物差し、
・ 親、学校の先生、上司などの指図という物差しですね。

いつもほとんど無意識に、あるいは直感的に、それらの物差しをあて、メリット、デメリットを比較して行動を決定しているようです。

睡眠不足は、この物差しをマルチに当てはめることができなくなり、例えば欲望だけを極端に優先するようになって、他の物差しがイメージとしても出てこないという状態が生まれてしまうようです。軽い気持ちで人のものを取ったり、会社の財産を横領してしまうということが起きてしまいます。だから逮捕されても、どうして自分があんな馬鹿なことをしたのかと、悔やんでしまうのですが、理由がわからないということが起こりうるわけです。

どんなに犯罪から遠そうな温和な人でも、いくつかのアクシデントがあって、今までの生き方の修正を迫られたり、孤立が継続しているときに、眠れない日々が続いていると、つい、犯罪を実行してしまうということがどうやらあるようです。

睡眠不足は文字通り眠らないことによって起きるので誰でも起きる可能性があるのですが、睡眠不足以外にも、薬物(覚せい剤など)やアルコール等によっても起きることは仕事柄よく見ています。禁止薬物に手を出す時も睡眠不足が背景にあることも多いように感じます。

また、一定時間睡眠を確保していて睡眠不足ではないよという場合でも、よくよく聞くと昼夜逆転をしていたということもよく見られます。人間の体は細胞のレベルから体内時計があって、睡眠を効率よくとるためには夜に寝ることが必要なようです。具体的に何時から何時だということは難しいのですが、私がうかがった精神科医の話では夜の10時から2時の4時間を含む7時間だと言っていました。現代人はなかなか10時に就寝することは難しいと思いますが、11時には布団に入ることがベターのようです。そして、不足のない睡眠時間というのは個人差がありますが、成人の場合は睡眠リズムから考えて6時間半から7時間と言って間違いはないと思います。

また、最近の事例研究では、睡眠時間は必ずしも毎晩意識を失っている時間でなくても良いようです。体を横たえて、好ましいイメージを頭の中で作ってリラックスしていればよいようです。不安の種というものは誰しもあるわけで、そういうものはほっとけば頭を支配して、眠ることができなくなってしまいます。しかし人間はうまくできていて、同時に二つのことを考えられないという特質があります。意識的にリラックスできるイメージを作ることによって、心配事を考えなくするという方法論のようです。

睡眠不足によって、思考力が減退していることはなかなか自覚できません。逮捕されて生活リズムが整った後で、犯行時は今に比べるともうろうともやがかかったような思考状態だった、今は思考がクリアーになっていると気が付くといいます。睡眠不足の影響を自覚できないために、自分の行動をコントロールできないということになり、犯罪や致命的な仲たがい等取り返しのつかない行動をしてしまいます。

早寝早起きという生活リズムをいつも整えておくことは、犯罪予防の観点からも正しいということです。試験勉強や仕事という、やらなければならないこと以外の理由で、夜の10時を過ぎて活動することは意識的に避けるべきです。

なお勉強も、思考系の勉強はもちろんですが、暗記系の勉強も睡眠時間が大切です。実は記憶というのは眠っている間に整理され、整理されることによって定着されるということがわかってきています。また、暗記系は覚えこむことよりも、思い出す訓練をすることで記憶が定着していくというのが記憶学の近年の到達です。睡眠不足では、努力して考えるということができなくなりますので、思い出すということがなかなかできにくいようです。

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怒りは生活習慣病 小手先のルールよりも効果のある怒りの予防方法、生活習慣・環境の改善こそ [進化心理学、生理学、対人関係学]



「アンガーマネジメント」という言葉あります。この言葉があちこちで使われるということは、それだけ怒りで失敗したと感じる人が多いのだろうと思います。しかし、「アンガーマネジメント」で、怒りを抑えられるようになったという話はなかなか聞こえてきません。世俗的な(しかし受講料は決して安くない)アンガーマネジメント研修の二つの問題点を先ず指摘します。

1 怒ってから怒りを鎮めるという方法論は非科学的であるため実践できないこと

アンガーマネジメントの内容として多いのは「6秒ルール」です。「怒りを感じたら6秒待ってから行動する」ということなのです。これは科学的に考えると無理な話なのです。

なぜ無理かというと、「怒り」という感情は、自分が怒っていると気が付く少し前に既に始まっています。また、怒りと同時に攻撃行動も起きてしまっているのです。だから、「自分が怒っていると感じる ⇒ 6秒待つ ⇒ 怒りの行動の回避」という流れは、理屈上はあり得ません。「怒る+怒りの行動 ⇒ 自分が怒っていると認識する」という流れが本当だからです。行動に出てしまってからでも、怒りが静まればまだましかもしれませんが、怒りは一度大きくなるとなかなか静まりにくいという性質があります。

怒らないようにするためには、怒りを感じたその時どうするかではなく、怒らない体質を作るということで、常日頃の予防こそが実現可能な方法だと思います。
もっとも世俗的な研修でも6秒ルール一本で怒りを鎮めようとするものはあまり無いようです。

2 怒る人にばかり原因をもとめ、怒る人だけに対策をさせようとする

確かに怒りやすい状態になっている人はいますし、現代社会では多くなってきているようです。怒る人が怒らなければ問題が解決するという安直な考え方をする人たちは多いようです。「加害者教育」という考え方はその純粋形でしょうね。

怒るのは、怒る人だけに原因があり、怒る人だけが悪いのでしょうか。

怒る原因は、前回の記事でもお話ししましたが、自分に危険が迫っていると認識し、危険を破壊することで回避しようという行動です。このような危険を感じる原因としては、

対人関係的な危険が迫っている、つまり、意識的か無意識であるかを問わず、自分が仲間として扱われたい人から否定評価を受けるという危険を感じている場合に起きることが典型でしょう。

しかし、このような対人関係的危険の意識(不安)は、実際の怒りの対象の人間の行動がなくても、
・ 内科的あるいは婦人科的疾患によって引き起こされたり
・ 薬の副作用で起きたり
・ 妊娠、出産などのホルモンバランスの変化
・ あるいはいじめを受けたなどの過去の人間関係上の経験
・ 何らかの精神疾患
・ 人格的な問題
・ 他の人間関係での是正を求めにくい不合理な扱い
等々、様々な理由で、本当は危険が迫っていない場合にも、危険が迫っていると感じやすくなっていることから危険を感じ、怒りの行動をしやすい状態になっていることが本当です。

何らかの疾患があればきちんと治療を受け、薬が合わなければ変えてもらったり、普段の人間関係を円満にしたりすることこそ、怒りを起こさない根本的な対処方法です。また、この対策を効果的にするためには、一人で頑張っても難しく、周囲の協力があれば効果的に怒りを予防できます。不安を感じさせる行動を無くして、安心をさせる言動をかけてあげることによって不安を感じにくくできて、怒りに転嫁しにくい体質が生まれていきます。

環境を変えるという地道な生活習慣を身に着けることが大切です。問題はその環境の作り方です。

3 すべての人間関係が円満になるはずがないということを意識すること(あちこちに手を出さない)

怒る人を見ていると、多くの割合で、真面目過ぎる人が多いことに気が付きます。その人の怒りをその人の視点でみると、「それは怒っても仕方がないな」とつい思ってしまうことがあります。しかし、思い直してみると、「何もそこまで難く考えなくてもいいのではないか」とか、「そのような人にまでそんな期待をしていたらきりがないだろう」という感想を持つことに気が付きます。

怒りやすい人は、およそ人間であれば、すべての人が自分に配慮しなくてはならないとかという思いが強すぎるように感じます。逆に言うと、すべての人間関係で危険を認識してしまうということなのだと思います。これでは身が持ちません。

朝起きてから会社に着くまででも、とてつもない数の人間と顔を合わせます。店に入れば店員と言葉を交わすこともあるでしょう。それらすべての人に正義や配慮、あるいは合理性を求めていたのであれば、怒りも出るでしょうが、相手からの反発も出てしまいます。

「ご自分」は唯一一人ですが、通行中に触れ合う人やコンビニで対応してくれる人からすれば、「ご自分」は無関係なその他大勢の一人です。配慮を求めてもピンとこないことは仕方がないことかもしれません。

やるべきことは、自分が大切にするべき仲間の人間関係と、それ以外の人間関係を区別することです。

大切にするべき仲間以外に対しては、自分への配慮を求めることをやらないことです。自分を良くも悪くも無関係の存在として扱う人たちが存在することを自覚することが第一歩です。配慮をされなくても自分は攻撃を受けているわけではない、気にすることではないということを腹に落とすことです。

4 大切な仲間からは配慮されるように自分で仲間づくりをする

「自分が大切だと思う仲間」、つまり「いつまでも一緒にいたい仲間」が誰なのかをはっきりと自覚して、その仲間が自分に自発的に配慮するような人間関係を作ることが、怒りを抑える特効薬になると思います。

その仲間は家族であるべきです。子の連れ去り別居事件を多く担当していると、普段は意識することが少ないにしても、家族がかけがえのない存在であるということを知らされます。連れ去り別居をされた男性は、時には生きている目標を失い廃人のようになることもあり、職場なり社会的信用なり様々なものを失うこともあれば、自死に至ることも少なくありません。好きあって認め合って結婚した相手で、長い間一緒に生活する人間は、自分では自覚が無くてもかけがえのない仲間のようです。その仲間が自分に対して自発的に配慮をすることで、自分のベースキャンプを確かなものにすることが、怒りやすくならない特効薬になるということです。

ではどうやって、自発的に仲間から配慮される関係を作るかということに移ります。

最善の手はこちらが先ず仲間を安心させる行為をするということです。究極の安心感は、どんなことがあっても決して見捨てないということを示すことです。感謝する、謝罪する、労力に対して評価を表すということが基本です。また、仲間の失敗、不十分点、苦手なところを責めない、批判しない、嘲笑しないということも有効です。そうして、改善するべき点があれば一緒に考えるという態度をしめすということです。

それらをできるだけ言葉にすること。

それから情報伝達以外の会話を行うこと。相手の話にうなづいて、共感できるところ、肯定できるところを探し出してでも共感し肯定すること。「仲間の間に無駄話なし」ということを意識することです。

自分が努力することによって、相手も同じようにふるまおうという意識が出てきます。だから、自分が努力することで図に乗って尊大になる人とは仲間になってはいけません。しかし、人間はどこかそういうところがあるので、大抵のことは許すという作業が必要になるでしょう。多少の図に乗ることでいちいち「そうすべきではない」と怒っていたら本末転倒になるでしょう。

そうやって仲間に安心感を与えることで、居心地の良い人間関係を作る。これが王道だと思います。自分は家に帰ればかけがえのない仲間がいるということで心に余裕ができ、大抵のことは怒らないで乗り切ることができるようになると思います。また、仲間を大切にするという行動パターンは、仲間の外で自分に無理をさせることを予防することになります。

このプログラムを一人で行うことを念頭に書きましたが、仲間がみんなこの方向性を理解して、共通目標として行うことで、より効果的な仲間づくりができるということになります。大切なことは人間は失敗をするということです。それをとことん責めることをしないで許し、支えることで怒らないどころか、幸せな人間関係が形成されていくと考えています。

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怒りは原因に見合わないほどに大きく、激しくなることについて 「目には目を」のハムラビ法典が必要になった理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]



ハムラビ法典は紀元前18世紀という途方もない昔に作られたものです。多くの方が、「目には目を」、「歯には歯を」という言葉を聞かれたことがあると思います。この意味として、「被害を受けたら報復をするべし」ということで理解をしている方も多いと思うのですが(実際そう使われている場面ばかりを私も見ていました。)、実際は目をつぶされたら加害者の目をつぶす程度で報復は抑えなければならないということを定めたものとされています。

法典ですから、社会の秩序を維持するために作られています。こういう同害報復定めることは、それなりの理由があったわけです。その理由というものは、人間は、報復をしようとすると、自分が受け互いに見合わないほど激しい報復をしてしまう生き物だ。だから規制をしなければ報復の報復はますます大きくなり、報復に対する報復が際限なく続いて社会が大混乱になるということから、被害と同程度までに報復は抑えなければならないというルールを作る必要があったということだと思います。

このように私的な報復にせよ、公的な刑罰の執行という形の報復にせよ、報復の強さについての制限については、現代の刑法典に脈々と受け継がれています。

報復が原因に見合わないほど大きくなる理由はいくつかあります。

それは、報復が怒りの感情に基づいた行動だからです。つまり、自分が受けた被害の範囲で怒るということではなく、一度怒りだせば、その怒りの程度などを考えることもしないし、少し怒り過ぎからしらと思い直すのも時間がかかるということです。怒りによる行動はコントロールしにくいという特質があります。だから、怒りの対象に向かって怒りをぶつけると、歯止めが利かなくなってしまうことが多いわけです。

事件報道などを見ていると、よく「そんな些細なことでそこまでするのか」という事件がありますが、それは「報復」という要素があるならば理解しうる話です。賛成するということではなく、そのようなこともありうるという理解ができるということです。

少し原理的な話をします。

怒りによる報復は、恐れによる逃走とメカニズムが共通しています。どちらも自分に降りかかった危険を解決するための本能的行動です。危険を認識した場合、通常の動物は危険から遠ざかる方法(逃げるということ)で、危険の実現を回避しようとします。この時に逃げる行動を後押しして、逃げることに集中させる情動が恐れということになります。余計なことを考えずに、他の選択肢を考えることなく、ひたすら逃げる行動を恐れが後押しするわけです。逃げることには都合の良い心理状態になります。

怒りも同じ危険の実現の回避を後押しします。怒りに後押しされる行動は攻撃です。危険の元を破壊することで危険の実現を回避しようとするわけです。怒りにまみれることで、同じように余計なことを考えずに、他の選択肢を考えることなく、ひたすら攻撃をします。この時の情動が怒りです。

怒りが報復の程度を間違えることはこのような原理で生まれてしまいます。むしろ被害の程度に関係なく攻撃をすることが怒りの原型ですから、怒りに任せた行動は歯止めが利かなくなってしまうということもよく理解できることです。

怒りが誤射しやすいということもこの原理から考えるとわかりやすいと思います。

怒りは、客観的に怒るべきか否かを考えた上で発動される情動ではなく、自分に危険が迫っていると自分が感じるだけで発動されます。だから
1 相手の自分に対する加害行為が無いのにあると思い込めば怒りの情動が沸き起こり相手に対する報復行動が起きることがある。

2 相手以外の他者から自分が攻撃をされていると感じることが重なると、自分は誰からも攻撃をされる危険があると思い込み、相手の些細な行動が自分を攻撃する行動だと感じやすくなり、その結果怒りの情動が起きやすくなってしまう。腫物に触るみたいなことでしょうね。八つ当たりもこの類型でしょうね。

3 不安をあおり、誰かの原因だと水を向けることで、その人が第三者に怒りを持ち、攻撃する事態を作ることが可能となります。


次に危険を認識した場合、どういう場合が怒りとなり、どういう場合が恐れとなるかについては以下のように考えられるのではないでしょうか。

動物の基本は、危険を感じたら逃げるという行動になる。
反撃を考える場合は
1)勝てると思う場合 戦えば勝てると思う場合は怒りがわいてくることが多いようです。

2)戦わなければならないと思う場合 典型的な現象はほ乳類などの母親が子どもを守る本能的行動です。子熊が可愛いので遊んでいたら、母熊は子どもが危険にあると認識して相手を攻撃するということが典型でしょうね。鳥類なども卵を守ろうとする行動がみられるようです。人間の場合は、ほ乳類として母親が子どもを守るほか、群れを作る動物として仲間を守ろうとする場合に怒りが発動されやすくなるようです。

さらに、自分だけで戦うのではなく、自分には味方や賛同者がいるということを確信している場合、自分は多勢だという場合も怒りによる攻撃に移りやすいようです。正義の怒りはこの類型に入るのでしょう。勝てると思いやすくなるし、戦わなければならないと思いやすくなるのでしょう。

弁護士として人間間のトラブルを見ていると、この怒りによって、人間関係の紛争が生じたり、大きくなったり、収拾がつかなくなったりということをよく見ています。第三者が人間関係の調整をする場合は、怒りという感情の出どこをよく考える必要があり、怒りの程度についても再構成をしてあげる必要があります。

特に、我々弁護士や支援者が注意しなければならないことがこの2)です。危険を認識している人を目にすると、無責任に元気にしたくなるのが人間の本能のようです。しかし、その支援によって、自分には味方がいるという意識を持たせてしまい、また正義の観点から戦わなければならないと思いやすくなり、怒りが生じやすくなったり、「恐れ」が「怒り」に転化してしまうことも生じます。

本当は危険がないのに、危険があるということを結果的に思い込ませてしまう場合もあるわけです。また、ひとたび怒りの行動をしてしまうと、その人の人生の基本となっていた人間関係が紛争状態となり、収拾がつかなくなってしまうということも実に多く見ています。

今から4千年近く前ハムラビ法典が作られ、人間の本能を理解した上で、本能のままに行動することによる弊害を回避する手段を確立していました。現代人はどうでしょうか。人間は必ずしも進歩しているわけではなさそうです。

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例えば学校から「お宅のお子さんがいじめの加害者だ」と電話が来た場合 子育てに活かす傾聴、受容、共感というカウンセリング技法 シリーズ3 [進化心理学、生理学、対人関係学]


前回のシリーズ2は、本当は子育てと夫婦と一緒に書き始めていたのですが、夫婦の問題だけでも字数が多くなり、まだまだ書きたいことがあったので、育児を分離して正解でした。

さて、現在子育て中の親御さんが多く心配していて、実際に法律相談にも表れ始めていることが、「自分の子どもがいじめの加害者と言われたらどうしたらよいだろう」、「SNS等で、自分の子どもがいじめをしていると言われた」ということです。

子どもどうしのいじめとは言っても、確かに一方的な集団の攻撃というものありますが、実際は子どもじみたありふれたけんかやトラブルということも多くあります。それなのに法律のいじめの定義だと広範囲になりすぎて、相互の対等なやり取りが行われているだけなのに、その一断面だけを切り離していじめだと認定されてしまう危険もあります。また、そのようなありふれたトラブルでもマスコミは被害者とされた方の保護者の言い分だけに乗っかり、一方的な集団いじめの加害者であるような報道をしています。ひとたび「いじめ」という言葉が使われてしまうと、実際に何があったかということにはそれほど関心が寄せられなくなる場合もあります。

子どもを持つ親御さんは、「いじめ」という言葉に敏感になっているようです。

だから、学校から、子どもどうしのトラブルがあって、相手のお子さんがけがをしたとか、学校に来られなくなったという電話が入れば、焦ってしまうし、不安になってしまいます。

こういう時にそれを聞いた親に働く心理としては、やみくもに「何かの間違いだ」ということにしてしまい、徹底的に学校側と対立しようとしてしまうことがよくあります。あるいは逆に、それを真に受けて悪い方に自己解釈してやみくもに子どもを責めてしまうこともあります。

つまり、何が起きたのかがわからないまま、気が焦ってしまって何とか対応してしまおうとすることが一番悪い対応だということになります。

先ずは何が起きていたのかを知る必要があります。そのためにはまずは子どもから事情を聴くことが第一に必要なことです。この時に、傾聴、受容、共感という考え方はとても役に立つ聴き取りのテクニックです。テクニックと言っても意識をして聞くだけのことですから、それほど難しいことはありません。子どもから話を聞くとき、どういうことに気を付ければよいのかということです。

第1は傾聴の姿勢です。「傾聴」とは、深く相手の話に耳を傾け、その人に焦点を当てて、相手の存在そのものを知ろうとすることである。表情、姿勢、ジャスチャー、感情、考え、話しの内容、沈黙さえも十分に観察し、その意味を考えていく。ということだそうです。

「親は事実関係が何もわからない」という事実を常に意識して、子どもからできる限りのことを聴き取る、聴き取った後に評価をしようということを気を付けるべきです。

子どもに対する傾聴で特に気を付けることは、子どもは暗示にかかりやすいということです。親が「暴力なんて振るわなかったよね」という形で聞くと、子どもはつい親がどう答えてほしいのかを考えてその期待通りに応えてしまうことがあります。

だから、親の方はできるだけ細かい質問をしないで、「どんなことがあったの?」くらいの質問をして、できるだけ自由に話させて、「それで」、「それからどうなったの」みたいなあいづちをうちながら聞いていくべきだと思います。こちら側が感情的な態度で聞くと子どもはこれを話してはいけないのかとか余計なことを考え出しますから、「聞き終わってから一緒に考える」という姿勢で、興味を持って聴くという姿勢が良いと思います。

そうすると、子どもは親が自分の話を聞いてくれているという感覚を持つことができますので、安心して話しやすくなります。一人前として扱われているような気持にもなれます。言葉が途切れたりしてもあせらずに、じっくり自発的に話し出すことを待ちましょう。言葉遣いを間違う場合もありますので、その言葉遣いが正確かどうか吟味するために質問形式でテストをすることも必要になると思います。

話しているときの子どもの態度の観察は重要です。しょげているのか、無理に気を張っているのか、何も考えていないのか、よく観察する必要があります。

次が受容です。「受容」とは、無条件の積極的関心をもつこと言う。相手の感情が否定的な感情であったとしても、そのままを受け入れることが必要である。と教科書では述べられているようです。

子どもの価値観は、二者択一的価値観の傾向があります。悪いことはだめ、良いことを助けるということを善としています。程度があまり考えられないのです。一度悪者だと評価してしまうと、相手の子は全人格的に悪だと決めつけてしまうことがあるようです。そうすると、配慮をしないどころかおよそ人間扱いしないような感情を持ちになり、その子に対する態度も無駄に厳しくなることがあります。

このような二者択一的な考えによって、わが子が友達のことをあしざまに否定することには親としては抵抗がある場合もあります。聞くに堪えないので、思わず話をさえぎって叱りつけたくなることもあるかもしれません。しかし、とりあえず最後まで話を聞き、我が子がそのような感情になったことを認める必要があります。子ども感情をありのままに受け止めてはじめて、どうしてそういう感情に至ったのかということに進むことができるわけです。確認作業の中で見落としていた事実を発見することもあります。

最後は共感です。共感を示しながら指導をしていくことが最も効率的です。

例えば、順番で遊具を使っていたのに、気の弱い子どもの前に横入りした子どもがいて、何人かでそれはだめだということで、ついその子の方を押してしまった子がいて、横入りした子が転んでしまった。横入りした子は肩を押した子に反撃をしたところ、周囲の子の中に横入りした子をやめさせようとして転ばせてしまった。気が付いたら膝小僧がけがをしていて血が出てしまい、横入りした子が泣き出してしまったという例を考えてみましょう。

この場合親が単に「相手に大勢で手を出してはだめだ」とだけ言って、乱暴者だという評価を我が子にしてしまったら、我が子は横入りをした子を注意したのにどうして自分が叱られるのか理解できずに価値観が混乱してしまう可能性があります。一気に結論を述べるのではなく、一緒に順を追って考えていきましょう。

横入りはだめだよね。弱い子に我慢させることも悪い子だよね。とここまでは共感ができるということを示すことが有効だと思います。でも、横入りをした子も、どうして横入りをしたのか、弱い子を狙ったのではなく、もしかしたら何らかの理由があるかもしれないので、「どうして横入りをするの?」と聞いてみることをしたらどうだろうかということで話を振ってみるのも良いと思います。

自分の価値観を肯定されたうえで、その上で何を考え、どうふるまうのかという話に流れていくと、子どもも反発なく話を聞くことができ、修正についても意欲的に取り組むことがよりしやすくなると思うのです。

およそ子どもどうしのトラブルの場合、どちらにも言い分があることが通常です。子どもの感覚のどの部分に問題があり、それをどうすればよかったのかということは、案外難しいことです。丁寧に聴き取って、こちらも本気になって考えなければならないと思います。

このような傾聴、受容、共感の技法での聞き取りは、本当はむしろ被害者とされた方の保護者こそ行うべきなのです。しかし、加害者とされた以上に被害者とされた方が冷静さは失われるものです。加害者とされた子どもに対する憎しみが先に出てしまい、正確な聴き取りが困難になるのは仕方がないことかもしれません。

しかし、もし、被害者とされた子どもも、加害者とされた子どもの攻撃を誘引しているところがあるならば、これを修正することは将来的にとても有益な作業になります。子どもが大人になって職場やママ友パパともの中で、攻撃を誘引する行動をとってしまうとかなり大きなダメージになるうえ、自分の子ども(孫ですね)も不利益を受けるかもしれません。この場合、自分の子どもからというよりも相手の子どもやその保護者の言い分を聞くということになるわけですが、頑張って傾聴、受容、共感のプロセスを使って自分の子どもの修正するべきポイントを把握することによって獲得できる利益は計り知れません。

一面的に被害者という立場に安住してしまい、全面的な同情や謝罪を受けていたのでは、もしかすると取り返しのつかない損をすることになるかもしれません。

親や学校等利害に敏感な人だけで話し合うことが困難である場合、外部の人間関係調整を取り扱い分野にしている弁護士などに、間に入ってもらって話を進めることも一手です。

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現在進行形のいじめの中断を目的とした保護者がするべき行動についてのメモ [進化心理学、生理学、対人関係学]


現在進行形でいじめが起きていて、攻撃を受けている子どもが、教室に入れず保健室登校をしていたり、不登校になっていたりする場合で、一週間以上改善の兆しがない場合は、少なくとも保護者、学校職員の話し合いを行い、事態を重大化しない行動を起こさなければならないと思います。このような事態が長期に及ぶ場合、不登校の子どもが再び教室に戻ることがどんどん困難になるからです。

30日以上の不登校や、児童生徒の自死が起きてしまってからでは何もならないからです。重大事態になってからの行動は防止対策ではなく、事後対策でしかありません。

<子どもが安心して登校できる環境づくりを第一目的として動かさない>

1 保護者は、自分の感情よりも子どもたちの環境づくりを優先すること

いじめを受けていると認識している保護者にとっての第一のハードルは、自分の感情を制御するところにあります。自分の子どもが「死ね」とか、道具を隠されるとか、孤立させられていると感じた場合、怒りが起こるわけです。それはあまりにも当然の話です。しかし、怒りが優先してしまうと、自分の感情を晴らすことをつい目的としてしまいます。その結果、他の子どもの保護者や学校関係者の反発を買ってしまい、子どもが仲間として迎えられるということが遠ざかってしまうということが起きるのも、また当然のことです。

いじめをした方は反省をしておとなしくこちらの言い分を聞いてとにかく謝罪しろということももっともですが、そればかり要求していたら、その要求が通ったとしても、子どもはますます安心して教室で過ごすことができなくなることを考えなければなりません。こうするべきだ、こうあるべきだということにこだわると、子どもがますます不幸になるだけではないでしょうか。そしてそれは当事者である子どもがよくわかっていることです。

いじめていると言われた方の親は、自分の子どもがいじめをしているということを認めたくないことはもちろんですし、相手の子どもに原因があるということを主張したくなります。確証バイアスという心理効果で、自分の子どもに有利で相手の子どもに不利な資料ばかりを集めてしまうということも、この傾向を大きくしてしまいます。

学校の方も、被害者を主張する方の保護者の感情を持て余してしまい、加害者と名指しされた方の保護者からの反発を考えたり、要求が過大であることを説明することもためらわれたりして、被害者の保護者の方を疎ましく感じて話が混乱していく危険があります。

ここまでくると子どもたちが自主的に行動を改善するということは難しいと考えるべきです。先ず何よりも、いじめられているという子どもがクラスの中で安心して過ごす対策を第一にして、保護者は自分の感情を点検し、目的に反する行動を避けるということが、第1の超えなければならないハードルということになります。

実際は、なかなか難しいことですから、このような趣旨を理解する弁護士に動向を依頼するということも効果的です。

2 「いじめ」、「被害者」、「加害者」という言葉を極力使わない

いじめ防止対策推進法という法律はあるのですが、「いじめ」という言葉が日常の言葉と違う意味でつかわれていたり、「いじめを受けた児童」、「いじめを行った児童」と、二項対立的な考えで法律が作られているので、どうしても対立構造で子どもたちの行動を評価しがちな構造になっています。これは短い言葉で一般的な事態を規律する法律の宿命的な欠点です。

ところが、一般的な言葉の使い方では「いじめ」という言葉は、道徳的に許されない、加害性の大きな攻撃として使われているので、どうしてもいじめを行ったと言われてしまうと、自分の子どもがあたかも犯罪的な行動をしたと言われているように感じてしまいます。不道徳な子どもであり、親のしつけに問題があったと言われている気持ちになってしまいます。ここに反発が生じる原因があります。

いじめなんて言葉を使わない方が良いと思います。そんな抽象的な言葉ではなく、具体的にどんなことがあったのかをリアルに共有することをすることが大切で、かつそれで足りると思います。こういうことがあったら、言われた方がどのような気持ちになるのか、人生経験が長い親であれば難しい話ではなくなります。そのように共通理解をえるためには、無駄に評価を含んだいじめ、被害者、加害者という言葉は、邪魔になるだけなのです。

3 否定評価をするよりも行動を理解すること

子どもの行動も、子どもの立場に立てば理由のあることです。大人から見て不道理な行動であっても、その行動の出発点は共感できることが多いように感じてきました。例えば正義感から、不正義を行ったものを罰しようとして、相手を否定評価していくうちに、攻撃が常態化していくということがこれまでのいじめ事件ではよく見られています。

子どもは自分の感情をどう表現したらよいのか、そのパターンを習得しきれていません。大人だって、なかなか相手を傷つけないように自分の意見を言うことは難しいことです。

大人が子どもの出発点の理解を十分に行うことによって、子どもたちに行動パターンを指導することができるようになり、相手を傷つけない穏当な行動に修正することができるわけです。

現れた子どもの行動がやってはいけないことであっても、最初になぜそういう行動をしようとしたのかについては、大人が十分に理解することがいじめ解消の基盤になるということです。

4 保護者同士の連携が必須

例えば1週間、一人の子どもに対しての暴言や嫌がらせが止まらない場合は、学校の指導だけでは行動が終わらないと考えるべきです。子どもが、自分が行動する場合のルールが自分たちの子どもが作り上げたルールだけを基準としており、学校の指導が、子どもたちの行動に影響を与えていないということを厳しく見る必要があります。何らかの事情で学校が強力に子どもたちを指導できないという場合、児童との関係で学校に指導をする能力が欠落しているという場合等、複雑な事情が絡む場合があります。だからといって、学校に責任を追及しても、子どもが安心して教室に戻れるようにはなりません。強硬な行動指示、威圧的な指導をしてしまうことによって、子どもたちの反発が増大するということも考えなければなりません。それでは第一の目的に逆行してしまいます。

子どもも小学校高学年以上になれば、大人が一対一ではかなわないことがあることも事例として経験しています。ある中学校では、問題行動をする子どもを指導している教諭が孤立して援護のない状態になっていたため、生徒の暴走に歯止めをかけることができませんでした。大人同士が連携することが必須だと思います。

先ず、何が起きたかを正確に共有する。そして、その原因というか端緒になった子どもの考えを否定評価を後回しにして共有する。そして、どのように修正していくかを話し合ってアイデアを出し合う。そして子どもが教室に戻るという結論を共有する。

ここで具体的に有効的な策が見つからなくても、保護者同士が忙しい中で、子どもたちの利益のために連携している姿を見せることは、子どもに対して好ましい影響を与えていきます。価値観を示すことで子どもたち自身も修正を考え始めることが多いです。

くどいかもしれませんが、大人たちが自分を否定評価しようとしていると子どもが感じることは結果を遠ざけてしまいます。攻撃をしてしまった子どもたちにとっても、自分の利益を大人たちが考えてくれると感じることはとても大切です。

5 現代社会では失われがちな子どもたちみんなの成長の絶好の機会

結局やることは、
1 加害者被害者やいじめという言葉を使わないで、具体的に何があったかについて保護者が理解を共通にする。そして何らかの解決に向けた行動の必要性を共有する。

2 子どもたちの行動のきっかけについて理解を共有する。

3 子どもたちのその心情を建設的に表現するためにはどのような行動をするべきだと指導するかについて共有する。

4 子ども一人一人が安心して教室で過ごすことができるという目的を共有する。

これだけのことです。

ただ、実際にこれを行うためには、いじめとか内申書とか、損害賠償とか余計なハードルが出てくるので話が複雑になるということが現実です。

なかなか保護者の会合に参加することも、忙しいということもあっておっくうになります。主催をする「人」がいない場合も少なくないでしょう。

しかし、この行動に参加することは、子どもにとっても大人にとっても、自分の人間関係で生活するためにとても有意義なことです。

私は仕事柄、離婚事件や職場の人間関係の問題など、人間関係が修復できなくなり、苦しむ人をたくさん見てきました。多くは、単に修復する経験がなく、修復する方法を知らず、修復するという発想すら持てないということが多いように感じています。本当はとても大切な人生のパートナーと呼ぶべき人を知らないうちに攻撃してしまい、人生を暗いものにする人もいます。また、素朴な正義感から相手の感情を考えずに行動を起こしてしまい、会社や友人間や社会の中で孤立してしまう人も見ています。

孤立している人たちの苦しみはとても悲惨です。ところが現代社会では、人間関係の修復とは反対方向の孤立に向かう「支援」がたくさん横行しています。修正をするという選択肢を持たないまま絶望に向かっていく人たちをたくさん見ています。

このような社会の中で、自分や自分と関係のある人間の孤立を防いで、人間関係を修復するという経験は、子どもたち一人一人の今後の人生を救うかもしれないとても貴重な体験になります。

特に自分の行動によって、他者がどのような感情を抱くかというということを考えることは、色々な誤りを防ぐ特効薬ともなります。

誰かが孤立する人間関係は、別の誰かが孤立しやすい人間関係です。自分の人間関係の中で孤立している人が出ても平気な気持ちを持ってしまうことは、なかなか修復できない恐ろしいことです。

できるだけを多くの関係者が知恵を出し合うということを目撃するだけでも、子どもの人生にとって有意義なことになります。積極的に機会を設けて話し合いの場を作ることをお勧めします。

すべての子ども、保護者の利害は共通なのです。このため進行中の出来事を改善するためには、「いじめ」とか、「被害者」、「加害者」あるいは制裁、処分という言葉は使わないで、全員の利益、子供たちの成長のための話し合いだということを徹底することが解決の道だと思います。

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アフターコロナで、若者が学校に登校できなくなる理由 夏休み明けに若者が自殺をする危険性との類似点 孤立者は孤立を選ぶようになるメカニズム [進化心理学、生理学、対人関係学]



令和5年6月4日、NHKスペシャルで、「アフターコロナが到来 人と接するのがツラい 世界で広がる対人不安 脳の異変を科学で解明」という番組がありました。興味深かったです。脳の画像データを使った話はとても説得力がありました。まさに対人関係学でした。

コメンテーターのおひとりに、明和政子先生がいらっしゃっていろいろお話をしていただきました。私は先生の影響を受けていると自負していますので、予備知識をもって番組を見ることが出たということはあると思います。

この番組では、アフターコロナで、大学生がそれまでのリモート授業が終わって出席が求められるようになったけれど、2割くらいの学生が出席できなくなっているという現象に焦点を当てました。ここに何かあるはずだという視点はとても素晴らしいと思いました。

<孤立の不安の出どこ>

先ず、人間は孤立を恐れており、孤立を自覚すると集団の中に入ろうとすることを進化の過程で獲得したということを述べています。これだとやや誤解を受けるかもしれないので勝手に補足しておきます。何百万年もの間、集団でいないと肉食獣に食べられてしまうという現実があり、そのために集団の中にいないことに不安を感じて集団の中に入ろうとするようになったという説明の仕方がされたように思いました。

ただ、進化の過程で獲得した主体は個別の人間ではなく、総体の種としての人間です。突然変異で、そのような孤立を嫌がり、集団の中にいたいという「心」を持つ者たちがたまたま表れて、こういう心を持ったために集団を形成するようになった、集団を作ったら、肉食獣にも対抗でき、食料の獲得もスムーズになったために生き残ることができた。逆にこういう「心」というシステムを持たなかった人間は、飢えて死ぬか、肉食獣の餌食になって死ぬのかはともかく、群れを作れなかったので死滅してしまった。こうして「心」を持つ者の子孫だけが生き残ったので、人間はそのような心を持つという特徴を持つようになった。
という説明の方が誤解を招かないでよいと思います。

<本来リアルに会話をしたいのが人間当科学的根拠>

そして脳の血流など画像検査によって、様々なことがわかってきました。

ある実験は、食べ物を食べさせないで一定時間おいた人間が食べ物を見て食べたいと渇望するよりも、
一定時間孤立した環境において、その後人間集団を見たときに仲間に入りたいと渇望する方が、より大きな感情になるということが示されました。

また、人間は直接会って会話をしていると感情の同機(話者同士の感情が同じように変化する)が脳内で起きるけれども、リモートでの会話では感情の同機が生じないということも示していました。
<問題提起>

それでは、アフターコロナでリモートが終わって、直接会って会話ができるようになったにもかかわらず、大学生の中で大学に登校できなくなる人が2割くらいに上るが、それはどうしてか。
という疑問が出てくるわけです。
<孤立の有無で分けて考える>

番組は膨大な論文を分析して、アフターコロナの影響を、常日頃孤立を感じている人と孤立を感じていない人と分けた論文を紹介していました。ここは素晴らしい視点だと思います。

実験以前から孤立を感じている人は、人と会えない時間を作って集団の写真を見せても、孤立していない人に比べて、それを求める脳の活動が少なかったとのことでした。
日常の中で孤立を感じている者は、積極的に他者の中に入っていこうとする通常の欲求が起きないということです。

また、孤立をしている人は、火山の爆発などの写真よりも人間通しの対立の写真(暴行の写真)を見るほうが、恐怖心が強まるということも示されていました。

日常の中で孤立している者は、「人間というものは警戒するべきもの(危険なもの)である」と感じているようです。だから、これから新たに人間関係を形成することを考えると、嫌なことばかりが想定されてしまうために、人間とかかわりたいと思わなくないということのようです。つまり、人間の中にいるデメリットの方が、孤立しているデメリットよりも大きいと感じてしまっているのでしょう。

<他者への軽快を解除する通常のパターン>

明和先生は、人間にとって他の人間とは、仲間になりたい半面、恐れを感じているというそういうアンビバレントな存在だというようなことをおっしゃったと思います。これは大変奥行きのあるお話です。短時間だったので十分な説明ができなかったのだと思いますので、勝手に補足したいと思います。

先ずは、明和先生のおっしゃるように、人間は矛盾した気持ちを他者に抱いているということは真理だと思います。こう考えるといろいろなことが説明することができるようになります。

人間は基本的に、他者を怖がるということを真理だとしましょう。ではどうやって社会を形成できるようになるか。どこかで怖がることを部分的にでも解除しなければ人間関係は形成できません。それは赤ん坊の時に自分の親(親的立場の人)との信頼関係を築いていくことから始まると思います。親という自分以外の他者に対しての安心感、自分の要求を実現してくれる存在だという認識、安心感を育てていくのだと思います。

そして親子関係というベースキャンプを少しずつはみだし、近所の人とか、良く合う人、幼稚園や保育所の友達や先生と人間関係を広げていくわけです。このためには、それらの人が自分に対して悪いことをしないということを学習していく必要があります。必ずしも順調に広がるわけではないにしても、少しずつ安心できる人間を増得ていくことが通常の社会です。そこから先は個性によってだいぶ違うのですが、人間は基本的に信頼できる、安心できる存在だと学習を続けして、誰とでも打ち解けて話ができる人ができる場合もあるでしょう。あるいは、打ち解けることができる人と打ち解けてはいけない人がいる等と部分的に警戒心を解かない場合と、そのバリエーションが生まれていくわけです。

安心体験が変化していくことによって、その時その時の人間観というものが形成されていくのだと思います。これは主として、他人に対してどの程度危険性を感じなくなるか、つまり安心感の獲得によって警戒心を解くという「馴れ」が生じるということで説明できるのではないかと考えています。

馴れと言っても単純ではなく、例えばここまで言っても大丈夫で、それ以上言わなければトラブルにはならないとか、ニコニコしていれば攻撃されないだろうとか、その人なりの条件を無意識につけながらも、警戒心を緩めるのだと思います。

そうして通常は、一度築いた人間関係であれば、相当期間会えない時間が続いても、警戒心が解除されたままになっているので、久しぶりに出会ってもすぐに打ち解けて話せるし、話せることを予想していますので、できるならば会いたいという渇望も強くなるのだと思います。

<孤立を感じている人の人間観>

今回の実験で孤立を感じているか否かで分けて考えたことは素晴らしいのですが、結局孤立をどうとらえていたのかよくわからないところもあります。一口に孤立と言っても、別の概念が一緒くたになっていないか警戒するべきポイントでもありました。

先天的に他者とのかかわりが怖い、警戒心を解いていない場合もあるでしょうし、赤ん坊のころ、あるいは社会性を身に着けたころ、あるいは小学校入学時以降に警戒心を強めなくてはならない事情がある場合等、様々な孤立感の理由が考えられます。

元々人間は他の人間を怖がっていて、学習によって警戒心を解くというのであれば、警戒心を解いたことで痛い目にあったという経験をすれば、人間は警戒するべき存在だという元の感覚に戻ってしまうということは、孤立者は孤立を選ぶということを良く説明できると思います。

孤立感と、実際に孤立しているかどうかは、必ずしも連動していません。それなりに、友達と仲良くやっているように見える場合でも、実際は孤立感を強く抱いている場合もあります。

この場合は、友人に対する警戒心を解かないまま、相手から自分が拒否されないように常に慎重に行動をしていた場合が想定できます。もちろん、それなりに友達と笑いあったり、一緒に行動して楽しんだりしているのですが、本人はそれ自体も努力をしていて、しんどさも感じているような場合です。友達の仮面を努力でかぶり続けているわけです。

また、原体験が無くても友達付き合いがしんどいと感じる性格というものもあると思います。

もしかすると、現代日本では結構大きな割合の子どもたちが、このように苦労と努力をして友達関係を維持しているのかもしれません。

警戒心を維持しているとしても、常に一緒にいれば、流れの中でそれなりに折り合いを見つけて、表面的には平穏な日常、学校生活を送っているのかもしれません。しかし、リモートなどの交流だけが続くと、人間関係に気を使って生活する必要が無くなりますので、警戒心に基づいての人間関係の工夫をする必要が無いので、いつしか忘れてしまいます。工夫をしていた、無理をしていた、気を使っていたという記憶だけが残り、また一からこういう関係を作らなければならないと考えることは、それはしんどいことだと思います。

うまくいっていた事情の記憶が無くなっていて、うまくいかなくなるのではないかという不安や、うまくいくために相当神経を使わなければならないのではないかという不安ばかりがわいてくるわけです。

つまり友達と一緒にいるときに警戒心が解かれるのは、一緒にいるという生活が継続しているからこそ可能になると思うのです。一緒にいる時間が無くなれば、元の他人に戻り、警戒感も戻ることはそれほど異常なことではないように思うのです。通常ではない少数派かもしれませんが、人間としてはむしろ正常だと思います。

私が子どもの頃の夏休みに、ちょうど中間の日が登校日になっていましたが、それなりの理由があって登校日が作られていたと今になると思います。馴れを復元する効果があったのだと思います。

<再会のしんどさを増大させるいじめ体験>

孤立感を感じている要因として想定するべきことはいじめ体験です。原因のはっきりしないいじめである場合はなおさら、他者に対する警戒心が固く維持されるようになってしまいます。

普通に見えるように対人関係の折り合いをつけることを、いじめを体験していない場合に比べて、相当強く努力し、神経を使い、考えています。相当精神力を消耗してきたわけです。

リモートで日常に戻って、安心できる家族との生活に慣れきってしまうと、またあの努力を一からしなくてはならないというしんどさに加えて、またいじめられたらどうしようという恐怖を伴った不安を感じてしまうことも当然のことかもしれません。

単なる疎外ではなく、周囲から一斉に攻撃される恐怖、味方が誰もいないという恐怖はかなり強烈なものであるはずです。

いじめには追い詰められる孤独の強さの大小はあるにせよ、いじめ体験のある子どもたちは想像以上にいるようです。一度強いいじめの経験をした子は、その時すでにいじめが止まっていたとしても、人間関係の再構築がとてもしんどく感じるようです。夏休み明けやゴールデンウィークあけに子どもたちの自死が起きる原因に、このような警戒心の再構築のしんどさがあると私は思っています。もっと時間が空いたアフターコロナでは当然そのような再会についての拒否感情が生まれているはずです。

小中学校であればなおさらなのですが、高校や大学であったとしても、リモート授業から実際の面談授業に復帰する場合は、警戒心を解くための何らかの安心感を獲得するためのアクションが必要な時代になったのかもしれません。

警戒心を解けない子どもたちは、その子どもたちの成長が未発達であるという自分に責任があるのではなく、それまでの人間関係のトラブルの結果であることがむしろ多くなっているのではないでしょうか。社会的な対応が求められる時代になったと言えるのではないかと考えています。

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少年、少女よ、大志を抱くな 立派になることよりもまっとうに生きることに価値を置くということ(そこまで考えていなかった3 完結) [進化心理学、生理学、対人関係学]



迷惑動画をアップする人や闇バイトに応じる人たちの具体例を見た範囲では、彼らは、必ずしも生活ができないほどの貧困に苦しんでいるというわけではないようです。どちらかというと、なりたい自分、思い描く自分になることをあきらめてしまい、その結果、自分を大切にできなくなり、自分の将来を考えての現在という見通しを持つことができなくなっているようです。

結論はそれでよいのでしょうが、時系列的に、一度なりたい自分の夢を見た⇒なれないと判断した⇒あきらめた。という流れではないようです。夢を見ることができない、願望を持つことができない、将来を考えないようにしようと無意識に将来の自分を考えることに蓋をしているようなそんな感覚を受けてしまいます。

内心の心の動きを読み解こうとして見ると、「立派な自分になることが世間的にプラスの価値だと思っている。自分には何も立派になる要素がない。だから、将来の夢など見ることができない。自分は価値の高くない人間だ。将来を考えることをしたくない」という流れのようなのです。

「そこまで考えていなかった」というようりも
将来のことを考えることが怖くてできなかったということが正解なのかもしれません。

もし、この心配が当たっていたならば、それは間違っているということを言いたいわけです。

人間の価値観があまりにも偏っているということです。この「立派な人間」というのは、どうやら社会的評価が高い人間、世間から注目を浴びる人間というように考えられているようです。職業的に評価されるとか、評価される職業に就くとか、財産を築くとか、そういうことのようです。

元々日本人は、そんなものにそれほど価値を感じていなかったと思います。そんなものとは名声とか、社会的地位、社会的評価、あるいは経済的成功についてです。明治より前の時代では、人口の圧倒的多数が農業従事者で、自分の集落を中心として生きていました。農業を行うにあたって必要な能力がある人が便利がられて、それなりに評価されたと言ってもそれだけのことです。

都市部の商工業従事者であっても、一発当てて地位と財産を築こうとしている人がどれだけいたことでしょう。いたとしてもごくごく例外で、変人扱いされていたと思われます。
人物評価の物差しとなったのは、「まっとうに生きているか」ということに尽きていたと思います。つまり、酒やばくちにおぼれていないか、荒っぽい行動をしていないか、人のものを盗んだりしていないか、返せない借金をしていないか、能力に応じて勤勉に働いているか、浮気などをしないで家族を大切にしているかというそういうことが評価の対象だったわけです。

ごくごく例外を除いて、日本人の圧倒的多数は、大志を抱いて社会の注目を浴びる人間になるなんてことはおよそ希望とはなっていなかったはずです。

今言いたいのは、その頃と現在とどちらが人間にとって正しいのか、どちらが人権が尊重され、個人として尊重されているかという比較ではありません。
 現代の価値観は、自然なことではなく、作り出されたものであること、そして、そのような価値観を持たないことこそが多様性の意味であるということをいいたいことと、まっとうに生きるということにもっと大きな価値評価を与えるべきだということなのです。

作り出されたと言いましたが、それは二つの理由があります。
一つは、戦争を遂行するための明治政府のイデオロギー政策として意図的に作り出されたこと、
一つは、文明が情報流通を促進したことにより、ほぼ無関係の人に対して近しく感じる傾向が生まれたことです。

戦争遂行のイデオロギーというのは、明治時代の前までの集落中心主義の日本人の意識では、日本という国の利益のための他国の見ず知らずの人を殺す戦争に積極的に参加しようとする雰囲気が生まれないため、兵隊が質量ともに不十分のままであり、およそ外国との戦争ができないという現実を背景としています。

このため明治政府は、かなり早い段階から、尋常小学校を整備しながら、「勧善懲悪」と「立身出世」に価値があるということを国民に徹底して刷り込んでいきました。お国のために命を捨てるというのはかなり末期の段階です。また、その考えのベースになったのも、この勧善懲悪と立身出世の刷り込みです。簡単に言えば、桃太郎のように悪を倒して名声と財産を手に入れようとあおったわけです。

二宮金次郎の銅像が学校に建てられたのも、農業従事者であっても勉学に励むことで立身出世が可能になるというサクセスストーリーの象徴を刷り込むためです。

立身出世には競争原理が伴います。立身出世に価値があるという考えが浸透していることは、競争で勝ち抜いたものが栄光を勝ち取るということに疑いを抱く人はあまりいないことでよくわかると思います。

戦争準備というのは、こうやって国民の意識を変えるところから準備をすることなのです。こういう肝心なことに目を向けずに戦争反対とか言い続けることは疑問です。その結果、戦争反対と言っていながら、ロシアの侵攻には国際的な社会制裁をしろというのでは、勧善懲悪による戦争遂行の手前まで国民を手繰り寄せることになるように感じるのですがどうでしょう。

また、新聞やラジオ等情報が質量ともに向上していくと、全く知り合いでも何でもない人に、親近感を抱いたり、尊敬心を抱いたり、敵意や嫌悪感を抱いたりしてしまいます。なんとなく、日本というくくりで語られると、「自分たち」の利益ということで考えてしまい、その中で自分ができることは何か等という発想でものを考えるようになったと思います。

戦後もこの傾向は反省なく進められました。子どもには大志を抱かせようと、偉人の伝記などが子どもに与えられます。あたかも誰でもが学者や発明王になり、誰でもがスポーツや芸能の大スターになるかのような希望を強制的に与えられ続けました。

しかし、伝記などに登場してくる人たちの実生活上の問題点については子どもたちに何も知らされません。このため、普通の人たちが普通に努力すれば社会的な成果を上げることができるように宣伝されてきたのだと思います。

情報については、現在インターネットの普及によってますます無関係の人と関係があるかのような錯覚を与えられます。全く接点のない人からの自分の評価を気にしてしまい、落ち込んだり、不機嫌になったりしているわけです。自分が誰かから見られているのではない、自分が社会的に注目されるような存在でないとして低評価を受けているのではないかとイライラするわけです。そして自分の低評価を感じなくするために、誰かを攻撃して、誰かの評価が低下したことで安心したりすることもあるのではないでしょうか。

現代社会は、あらゆるところでインターネットを使ってのつながりを作ることを利益誘導などで半ば強制されているような、誘導されているような感があります。弊害については十分に考えられているようには思われません。

但し、情報、文明については、後戻りをすることは現実的ではないようです。それならば、別の価値観を意識的に導入していく必要があるようです。
それがまっとうに生きるということです。まっとうに生きることに伴う道徳が、競争原理の価値観の中で、日本人には細々とではあるものの受け継がれていると思います。この水脈が枯れないように、水路を作って水を流すという作業が必要なのではないかとふと思いついたのです。

大志を抱いて社会的評価を受けたり、財産的成功を収めることよりも、まっとうに生きることに社会的価値を置くべきだという考えです。

実は、これを言ったのが、クラーク博士です。少年よ野心家であれと言ったすぐそのあとで、名声や財産を追及するなと厳しく戒めています。まっとうに生きながら、自分の目標を名声や財産と関係なく一つのことに打ち込めということのようです。自分を評価するのは自分であり、国家や社会や他人の価値観に照らして評価するのではないということらしいのです。時は明治時代ですから、キャッチ―な最初の部分だけが都合よく喧伝されたのでしょう。

イデオロギー政策や文明という、無自覚に自分の考えに影響を与えることから自由になることはなかなかできません。ただ、今若者を苦しめているものの正体を見極めてその対極の価値観を提示することは私たち老年者の役割ではないでしょうか。自分のできることをやることを喜びながら行い、自分自身に対して他人の目を気にしないで挑戦し続けるということは、若者だけの問題ではなく、私たち老年者も生きていくために必要なことだと思います。それによって楽しく生きていけるならそれに越したことはありません。挑戦することに喜びを見出し、失敗してもまたやり直すなら楽しいだけだと思います。

若者が劣化した等という言葉を聞くことがありますが、それは20世紀に子どもだった者が恵まれていただけであると思います。20世紀に子どもだった者たちは21世紀の明るい未来を思い描くことができたという幸運に恵まれていました。それは、私たちが子どもの頃の大人たちが作ってくれたことなのだと思います。





児玉雨子「46億年LOVE」より

夢に見てた自分じゃなくても
まっとうに暮らしていく いまどき

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闇バイトに応じる背景 「そこまで考えていなかった」その2 [進化心理学、生理学、対人関係学]



銀行強盗だったり、殺人だったり、オレオレ詐欺であったり、インターネットのアルバイト募集に若者が気軽に応じてしまい、大事件の犯人として刑罰を受けるという報道を目にするようになりました。

色々な意味で、よくわからないことがあります。応募する方であっても、見ず知らずの人間を採用してしまうことによって、事前に情報が漏れてしまうリスクもあるはずなのですが、これまではそのような事前情報によって事件が未然に防がれたという話は聞いたことがありません。

一つにはマニュアル等によって、様々な不具合が無いようにシステムが整備されてしまっているのでしょう。もう一つは、アルバイトを遂行して現実の報酬を得たいという切実な意識の高い人が応募してしまうということが理由なのかもしれません。

それでも、強盗にしろオレオレ詐欺にしろ、被害者の被害は甚大で経済的問題にとどまらず、精神的にも取り返しのつかないことになることがあるのですが、そのように他人を苦しめることによって、闇バイトの応募を思いとどまることは無いのでしょうか。

自分自身も、見つかれば逮捕されて実名がさらされてしまい、将来の働き口は制限されてしまうでしょうし、評判は消えない恐れもあります。自分の人生にとって取り返しのつかないことになることは、想定しないのでしょうか。

私の弁護経験からすると、前回の記事と同様
1 切実なお金の取得の必要性があり、
2 アルバイトを行って、報酬をもらうということは考えていても
  被害者の被害や警察に捕まるということまで考えていなかった
ということがどうやら実態のようです。うすうす警察に捕まることを考える人もいるのですが、リアルには考えないようです。だから捕まると困るからやめようというくらいまでは考えが及んでいないようです。

問題は、なぜそこまで考えないのかということなんです。

極端な話、仮に警察に逮捕され、刑務所に行くことになっても、現状よりもそれほど悪くはならないのではないかというあきらめがある場合があります。

闇バイトの事件ではないのですが、無銭飲食の常習者の弁護をしたことがあるのですが、70歳近い人で、刑務所から出て何日かで、ホステスが接客するバーで豪遊して、お金が無かったということで再び刑務所に行くことになった人がいました。外で生活する自信がなく、刑務所に戻りたいという節があるように感じられました。

とはいえ、彼らはもちろん刑務所に行きたいわけではないのです。刑務所が住みやすいところだとはだれの口からも聞いたことはありません。それでも現実社会や人間関係の苦しさや不自由さを感じ続けていると、そこまで日常のストレスを感じていない通常の日常を送っている人と比較した場合は、刑務所に入る抵抗感は「相対的に」だいぶ低くなるようです。

おそらく、「犯罪をしない」、「不道徳な行為をしない」、「他人を苦しめない」とか、自分自身が困ることをしないように気に掛けることのできる人は、将来的な自分の像を思い描いたり、目標を持つことができる人なのかもしれません。将来的な自分を思い描くと、不安や絶望しかない人は、自分が障害をくぐり抜けて生きるということが一番の関心事になってしまい、社会や他人のことなどが自分の行動原理に影響を与えることが少なくなるのかもしれません。特に自分の行う犯罪や不道徳な行為によって具体的に被害を受ける人の顔がわからない時は、その人の被害に思いをはせることが無くなる傾向にあるように感じています。

もしかしたら、社会、他人は、自分を守る存在ではなく、自分を苦しめる存在だと感じていたなら、社会を敵に回す行為と言っても、元々が敵であり、自分を苦しめているのだから、これ以上悪くなることを考えようとしなくなるのかもしれません。

こういうことを言うと、「じゃあ社会が悪いのであって闇バイトをする奴は悪くないというのか」と言う人がいますが、次元の違う話です。犯罪を行ったものは、適正に処罰されればよいだけの話です。私が考えたいのは、被害者を増やさないためにはどうしたらよいか、闇バイトみたいな安易な方法で犯罪を行う集団が簡単に結成されてはいけないということです。

もう一つ深く掘り下げたとするならば、彼らは何に絶望しているのかということです。彼らは何を思い描き、自分の在り方としての最低ラインがどこにあり、何を大切にしようとして、それができないと言って絶望するのか。この点について現在考えを進めているところです。

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迷惑動画はなぜアップされるのか 「そこまで考えていなかった」その1 [進化心理学、生理学、対人関係学]



飲食店などの迷惑動画やいじめや虐待の動画がアップされることがあります。そして案の定、警察沙汰になるわけです。どうして自分の恥を世間にさらして、再起不能にさえなりかねない動画をアップするのだろうと不思議になります。
<つまり>
1)どうして恥ずかしくないのだろうか。
2)どうして他人が苦しむことをしてしまうのか
3)後で自分の不利益になることを心配しないのだろうか。
という3点の疑問です。

例外的な変わり者がアップしているのであって、そうそうあんな動画をアップする人はいないだろうなんて考えていると、同じような動画がアップされて逮捕されたなどのニュースが飛び込んできます。例外的な話ではなく、ことによると社会現象となりつつあると考えるべきかもしれません。疑問について考えてみましょう。

一言で言えば、彼ら、彼女らは、自分が社会的な評価を受けたいという希望があるのだと思います。

通常我々は社会的評価を受けたいというと、何かを成し遂げて称賛を浴びたい等自分の実績に対するプラスの評価を受けたいということを意味すると考えます。これは彼らも彼らなりにプラスの評価を受けたいという気持ちもあるのでしょうが、それ以上にある意味純粋に「社会から自分の存在を認識してもらいたい」という気持ちがあるのだと感じます。

評価の物差しは、彼らにとってはあくまでも再生回数のようです。一度再生回数を気にしだすと、再生回数を増やすことだけが目的となってしまいます。再生回数が増えればアップした動画に対する批判のコメントも来るでしょうが、どうやらコメントの数が増えることで手ごたえを感じていて、アンチのコメントもそれほど苦にならない人も多いようです。

このように物差しが一つになってしまうという現象はよくあることです。視野が狭くなるという言い方をすることが多いです。もしかしたら「依存」という概念と近いのかもしれません。おそらくいつもは自分の動画は多くの人からは相手にされない状態なのに、不道徳なこと、気持ちの悪いこと、犯罪まがいのことをすれば、多くの人が再生してくれる。そうするとこれをもう少し過激にやれば、もっと多くの人が自分の動画に注目するようになるという意識でより過激な動画を上げ、思った通り再生回数が増えることに恍惚感を覚えるようです。

では、どうして、そんなに大勢の人から自分の存在を認識してもらいたいと思うのでしょうか。

どうやら人間は、自分が関わっている人間から仲間であると思われたいという意識が働くようです。仲間であると思われたいということは仲間として尊重してもらいたい、無視されたくないという気持ちと考えて良いでしょう。

迷惑動画を上げる人たちは、自分のスマホの向こう側にいる人たちであるネットユーザーが、自分とかかわっている人間だと思ってしまっているのだと思います。ネットユーザーといっても、単にインターネット端末を操作する人という共通点しかありません。どこの誰かもわからないし、性別も年齢も考え方も性格もまるっきりわからないのです。また、それらの人から一時的に関心を向けられたところで、通常は何の得もないはずです。自分が困っているときに助けてくれるわけではありません。ただ再生をして、評価をする人はして、コメントをする人はするだけです。ネットユーザーがどういう思いで再生しているのか、興味があるのかないのか、感心しているのか馬鹿にしているのか、まるっきりわかりません。多くは暇つぶしで何となく見ているのだとは思います。

それでも自分が多くの人間から注目をされているという感覚があり、それが再生回数という数字で表れてくると、どうも人間はその数字を挙げることが自己目的化してしまい、数字をあげさえすればどんなことをしても良いというように考えてしまう生き物のようです。テレビ局で言えば視聴率ですし、新聞などであれば発行部数でしょう。企業も利潤を追求することが目的の団体ではありますが、利潤の幅が意味を失ってとにかく数字を上げるという目標になってしまっている場合があるのではないでしょうか。数字の物差しのために、なりふり構わないということは何も今に始まったことではないのかもしれません。

物差しが再生回数一つしかないということは、その他の恥ずかしいからやめようとか道義的問題があるからやめようとか、犯罪になるからやめようとか、自分の就職がだめになるからやめようとか、別の物差しが入ってこなくなるということです。数字以外のことについて、考えた上で、それでも良いやとして動画をアップしているというわけではなく、そのことまで考えが及んでいないということがリアルなようです。

誰かが不愉快な気持ちになるとか、誰かが経済的にも迷惑を受けるとか、それによって誰かが解雇されるとかという他人の将来を考えないだけでなく、自分の就職が無くなるとか、警察に逮捕されるとか、莫大な損害賠償を支払わなければならなくなるという、そういう自分自身の先のことまで考えられなくなる心理状態のようなのです。

だから彼らは注目されたいという自分本位で他人に迷惑をかけているというよりも、どちらかというと数字の魔力の奴隷になっているようなそういう状態です。

どうしてまっとうに生きることで人間としての喜びを感じることができないのか、どうして見ず知らずのわけのわからない人から注目浴びたくなるのか、そこに何があるのかの分析についてはこのシリーズの最後(3回目かなあ)に私なりの考えを述べたいと思います。

それはそうと「人間として」道義的に許されないことをしたという評価も正しいですが、自分が逮捕されるかもしれないという警戒ができなくなるということは、「生物として」深刻なことなのではないでしょうか。

どうやら最近の若者の傾向としてあるようなのです。自分の思い描く将来像というものを持てない若者がいるようです。社会的に活躍することが善だと思い込まされているけれど、その機会を与えられないと感じているようです。社会的に名声を得たり、経済的に成功しなければなることが価値があることだけど、それができない自分に価値を見失っているという痛ましい状態があるようです。社会を知る年齢になると、夢を見られなくなるということがあるようです。今から10年までの小学生の会話で、将来の夢は社会保険が付いた正社員になることといいあっていることは目撃したのですが、それがさらに深刻化しているようです。それはそうでしょう。好転するような社会事情は何もないように思われます。

私の考えたことのとおりならば、どれほど逮捕者が出ても、どれほど就職や進学が不意になっても迷惑動画のアップは減らないことになる気がします。もっと過激化が進む前に対策を立てる必要性があると考えます。厳罰化は因果応報は良いとしても、防止策としてはあまり役に立たないと思っています。

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