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怒りの行動の対人関係的把握 加害行為としての自傷行為 自死の経路の可能性 [進化心理学、生理学、対人関係学]

どうして人間は、怒るのでしょう。
一説によると、
要求の実現が阻まれることによってフラストレーションがたまると
怒りになるというようです。

この説を批判するというのは、真意ではなく、
別の側面に光を当ててみる試みをするというのが正確でしょう。

対人関係学は、
基礎的事情としては、
欲求が充足されないと言っても
危険を感じて危険な意思不安を解消しようとして
解消できないということが基礎的事情だと考えます。

不安解消や危険は、
基本的には、自己防衛ということになります。

但し、仲間を防衛しようという時も基礎事情になる事がややこしいのですが、
情動的共感をすることによって
怒りの基礎事情になるわけです。

不安解消や危険解消の行動は、
必ずしも怒りにつながるだけではなく、
恐れやフリーズにつながる場合もあるわけです、

そうすると、怒りと恐れとその違いが生じる事情はどこにあるかが問題となります。
この点も対人関係学は、極めて単純です。
勝てるか勝てないかという無意識の判断をしているということです。
つまり、勝てると思ったら怒りになり、負けると思ったら恐れになる
ということです。

もっとも、危険が意識に登る前に、この判断は終わっていると考えています。
怒りと恐れを、自由意志による選択することはできないわけです。

仲間を守るためには、自分が攻撃の矢面に立っていないので
自分が負けると思うリアリティがないので、
怒りを起こして攻撃行動に出やすくなります。

公正さや道徳を見出すものに対しても同様に怒りを起こしやすいわけです。
この場合も、自分や仲間に対して不利益を与える行動だと思われますが、
自分が直接攻撃を受けている訳ではないので
怒りが起きやすくなる訳です。

怒りは攻撃行動をしている場合の感情だと考える訳です。
攻撃をして、危険を除去するという危険回避行動だと把握しています。

逆に自分は勝てないと思うと、
逃亡をする訳ですが、その時の感情が恐れということになります。

怒りも恐れも、危険回避反応ですから
生理的な反応は共通していて、
副腎皮質ホルモンが分泌され、交感神経が活性化します。


怒りの本質は、このように単純なものなのですが、
複雑に見せる原因がいくつかあります。

一つは今述べた、自分の防衛だけでなく、
仲間を防衛する場合も情動的共感によって発動されてしまうことです。
母熊が子熊が危険にさらされていると思うと
怒りによる報復をするような場面が典型的です。

もう一つ怒りがわかりづらくなるのは、
必ずしも危険に対して攻撃が向かわないということです。

そこの危険には二種類あって、
身体生命の危険の場合に、危険回避として怒りが選択された場合は
八つ当たりは起こりにくいのですが、
身体生命の危険はなく、対人関係的な危険だけがある場合は
八つ当たりが起こりやすくなります。

対人関係的危険とは、
人間関係の中で、顔が潰されるとか立場が悪くなるとかという負の評価が起き
究極的には、人間関係から離脱されてしまうという危険をいいます。

例えば会社で上司や取引先から理不尽な叱責を受けていると
職場での人間関係に危険を感じていても
上司や取引先を相手に怒りの行動を起こす訳には行きません。

そうすると、家に帰っても不機嫌になり、
子どもの何気ない言葉に敏感に反応してしまい
怒りを持って攻撃的言動をしてしまう
これが八つ当たりです。

なぜ八つ当たりをするかという理由ですが、
一つは、今見たような過敏な状態になっていること、
もう一つの理由は、
攻撃行動をしている時は、
対人関係的不安が一時的に緩和されるからです。

自分より弱いものを攻撃することによって
自分が感じていた対人関係的危険を
一時的に感じにくくなるようです。

このため、
八つ当たりの対象がない場合
それでも攻撃によって不安を解消できるということを覚えてしまうと
自分を攻撃することによって不安を解消しようとしてしまう
という現象が起きるようです。

自分の体を傷つけないとしても
自分の所有物を破壊するという現象が見られることがあります。
徐々に自分を守る意識がなくなっていくようです。
自分の身体を攻撃することも出てきてしまいます。

不安解消行動は、基本的には防衛行動なのですが、
合理的な解消ができない場合は、
解消要求が強くなってしまい、
自分を攻撃することになっても解消しないではいられなくなるという
矛盾した行動を起こしてしまうのです。
それだけ追い詰められたということなのでしょう。

どうも自傷行為は、自分が傷害を受ける行為という側面と
自分を加害するという側面もありそうです。

加害することによって
不安が解消されるという悲しい矛盾です。
自分の体を犠牲にして
対人関係的不安を解消しようとしているのでしょう。

死ぬことが目的ではないけれど
死んでしまいかねない行為をするタイプの自死が起きる
一つの経路となる可能性があるように考えています。

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特に定年退職後に男性が家庭内で孤立していることがあからさまになる理由。言葉には二つの起源があるということとコミュニケーション方法の性差。家庭内ラポール。柏木恵子先生「大人が育つ条件」岩波新書に触発されて。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

特に定年退職後に男性が家庭内で孤立していることがあからさまになる理由。言葉には二つの起源があるということとコミュニケーション方法の性差。家庭内ラポール。柏木恵子先生「大人が育つ条件」岩波新書に触発されて。

多くの家庭において
男性の家族に対する会話と女性の会話では
質や目的が異なっているとのことです。

最近の男性はこのことに気が付いて
コミュニケーションの女性化を意識しているそうです。

このコミュニケーション方法の違いは
特に定年後にあからさまになり、
男性は家庭の中で孤立するし、
熟年離婚の原因になるとも指摘されています。

弁護士として離婚事件を担当していると
このような現象は確かにありまして、
男性側のより男性的な会話と
女性側のより女性的なコミュニケーションがそろってしまうと
熟年前の離婚の原因の一つになっているようです。

このことについて私なりに説明します。
是非柏木先生の名著もご一読ください。

みんながみんなそうではないとしても
男性と女性とでは家庭内の会話の目的自体が違うようです。

男性の会話の主目的は、必要な情報を提供することにあります。
そして、その情報に基づいて行動してもらうことによって
相手に良い結果をもたらそうとするわけです。
このためここでいう「情報」は、その次に出る行動に有益な情報です。

女性の会話の主目的は、相手に快適でいてもらうことにあるようです。
会話をすることで、安心してもらう、楽しんでもらうということです。
提供された情報に、差し迫った意味が無く、
むしろ、声の音色、声の大きさ、抑揚、言葉の表現などに
神経が向かうようです。

そして、柏木先生は、女性に多いコミュニケーションスタイルを
「ラポール的コミュニケーションとおっしゃいます。」
ラポールという言葉は、臨床心理でよく使う言葉です。
クライアントと心理士がラポールの関係を形成する
等という言い方をします。

要は、相手に自分を安全な仲間だと思ってもらうことだと思います。
自分の弱みをさらけ出しても、自分の悪いところを教えても
それによって、当たり前の非難をされず否定をされず、
心理士に対して警戒感を持たなくて済むようにして
必要な情報引き出して
アドバイスを素直に受け入れてもらうようにする
という効果があるのでしょう。

心理士や精神科医を警戒するあまり
自分に不利な事情を話さないという人をたくさん見てきました。
そのため、善意の第三者が傷つけられることもありました。
ラポールを形成するということは大切なのですが
なかなか難しいようです。

このコミュニケーションの違いは歴史的な理由があるようです。
それは言葉(会話)がどのように始まったか
ということと関連します。

認知心理学や進化生物学では、この言葉の起源については争いがあり
現在でも決着はついていないようです。

一説によると、
毛づくろいの代わりに言葉ができたという説があります。
サルの毛づくろいは、
お互いを安心させて落ち着かせるために行われるそうです。
ところが人間は体毛が薄くなり毛づくろいができなくなりましたし、
また、サルよりも大勢の人とコミュニケーションをとらなければならないので
一人ひとり毛づくろいをしているよりも
大勢で会話をした方が手っ取り早い
そのために会話をするようになったとしています。

発声学的にも
二足歩行をして声を出しやすい条件が整ったところ、
安堵の域を出すことで声になってしまうということは
冬のお風呂場で経験していると思います。
湯船につかってあまりにも気持ちよいので
「ああー」
とか言ってしまった経験はないでしょうか。

緊張や不快から、急速に安心に変わるとき、
つい声が出てしまうようです。
そうすると、かなりエキサイトしている仲間の元に行って
「ああー」と脱力の音声をすると
仲間も共感力を使って
思わず脱力して緊張を解いてしまう
ということになるようです。

自分が脱力している様子を見せれば
警戒感も消えてしまうでしょう。
これが会話の始まりだという説です。
ラポールの会話の始まりです。

言葉というよりも、脱力し合うということで
安心し合うということが会話の原点だという説です。
裸の人間の群れが、一斉に「ああー」と言い合っていたら
観ている方もユーモラスな気持ちになると思いませんか。

これに対する説は、むしろよくわかりやすいのですが
警戒をさせる音声が会話の始まりだという説です。
これはほかの動物でもそうですが
天敵が近づいてきたことをいち早く気が付いた仲間が
緊張のあまり、短い悲鳴のようなものを上げる
そうするとその緊張感が伝わり仲間も緊張をする。

この伝え方は空に天敵がいるのか、木にいるのか
はたまた地上にいるかで悲鳴の上げ方が変わることが
他の動物で報告されているので、
その悲鳴の上げ方によって
逃げ方が決定されるということになるようです。

つまり、その場合は、相手の気持ちなんて考えている余裕はなく
とにかく無事に逃げましょうという行動提起しかありませんから
俺は大丈夫だと思うなどという議論は必要ないのです。
行動指示の言語あるいは会話ということになるでしょう。
受け取り方によっては、命令だと思いやすくなります。

そして、ラポールの会話を大事にしているのが女性で
行動指示の会話を当然だと思うのが男性
だということになるようです。

今から200万年前は、人類は狩猟採集の時代で
男が集団で小動物を追い詰めて狩りをしていたそうです。
男は小動物に逃げられないように、肉食獣に襲われないように
短い言葉を、断定的にかわしていたのでしょう。

女性は、植物を採取して子育てをしていたので、
チームの和が生存のためには一番重要でした。
ラポールの会話が合理的でした。

こういう遺伝子上の性差があるように私は思います。

これを助長したのが軍隊と企業社会だと思います。
軍隊や生き馬の目を抜く企業活動では
何か議論をするよりもトップダウンで行動することが
効率が良いという思い込みがあります。

軍隊やそれをまねた企業スタイルの中では
会話は行動指示であり、命令そのものです。
男性はそのような社会を前提として教育を受けますし、
時代が変わっても社会価値の残存がありますから
行動指示的な会話をする訓練と教育をされるわけです。
遺伝的な発想と教育によって
行動指示的会話が当然だと思い込んでゆきます。

そしてこれが家庭の中でも行われてしまうのです。

妻の愚痴を聞いていても
頭の中で買ってに翻訳してしまい
何が彼女にとって必要なことなのかを考え
そのためにはどういう手段、行動に出るかを考え
過不足なく伝達することに努め
そしてそれを実行するため伝達する。

相手の気持ちに共感することを示しません。
共感していることが前提であり
相手を助けようという気持ちがあることが前提で話しているのですが、
それを伝える必要性を感じていないのです。

必要な言葉情報を伝達することに神経を集中していますから
声が大きくなろうが、表現が少々乱暴になろうが
気にしません。
そういう配慮をするという発想がそもそもないのです。

例えば妻が職場のトラブルについて相談すると
妻の同僚に対する憎悪が先走り
つい言葉が乱暴になり、声が大きくなり、
必要な情報提供をすぐに理解しない妻にイライラします。
考え出した自分を称賛する言葉でないこともイライラするわけです。

妻からすれば会話の主目的はラポールですから
先ずは自分を安心させてもらいたいわけです。
職場では嫌なことがたくさんあっても
家庭では安心してよいのだということを
会話によって実感したいわけです。

この主目的部分がまったく欠落していますから
夫がどんなに良い情報を提供しても
頭に入らないで不満が募るだけです。

しかも、とても残念なことは
夫が妻に命令をしているように聞こえていることです。
そして、夫が妻より自分が偉いという態度をしていると
どうしても思ってしまうようです。

知っている情報を知らない人に伝達しているだけなので
夫は自分の方が偉いとは思っていないのですが
ラポールが欠落している会話のために
偉そうに聞こえてしまうようです。

もっともベストな行動はこれしかないと思って話していますから
断定的に行動提起をしてしまいます。
妻からすれば命令だと受け止めてしまうのでしょう。

夫は妻の困りごとを
自分の困りごととして妻の話を聞いているのですが
伝わりません。
妻が自分が夫から責められていると感じられるのはこういう事情です。


夫の大きな声、乱暴な表現、
妻が自分のアドバイスを歓迎していないことを感じてのイライラの表明
それらが重なって蓄積されてしまうと
精神的DVと言われ出し、離婚の危機が生まれるわけです。

夫が色々家庭内のことに口を出す場合も
相談するという女性的スタイルの会話の技術が無いというだけで
結果的に一方的指示をしてしまい
命令とダメだしとしか受け取られないわけです。

逆に夫は妻の発言には必要な情報の伝達が鈍く
余計なことばかりを延々と聞かせられると感じるわけです。
夫は行動指示の情報提供が会話だと思っていますから
それが始まるのを待ち続けているわけです。
会話のスタイルの違いによって
相手の言葉が頭に入らないことは夫も妻も一緒なわけです。


家庭の中ではどちらのコミュニケーションが大切かというと
私は、女性のラポールコミュニケーションが
本来行われるべきコミュニケーションの形態だと思います。

それぞれメリットデメリットがあるわけです。
この使い分けを意識するということなのだと思います。
公私の区別というのはこういうことだと思っています。

長くなるので割愛しますが
様々な現代的な社会病理の中において
いじめ、パワハラ、セクハラなど家族の被害を救出すためには
ラポール的な人間関係を形成し
十分な情報を引き出し、家族で対応する必要があるということもあります。

また、統計的に生命的に寿命が長いのも
活動を長くできるのも女性です。
活動的な女性と老いが早く来る男性ということを考えると
男性は家族に受け入れられているほうが
よほどよいわけです。

絶対その方が楽しいし穏やかだと思います。

私は、本当は職場でも
もっとラポール的なコミュニケーションを作ることが
企業戦略上有意義だと思っています。
どうしても男性的な価値観を無批判に正しいものとして
時代遅れの企業活動が行われているのではないかという
不安が払しょくできません。
行動指示万能論と目先の利益第一主義はとても親和します。

これからの時代男性が行うべきことは

第1に、職場と家庭と会話の方法を切り替えるということ
第2に、会話は、先ずラポールを形成するところから始めるということ
必要な情報伝達を優先するのは例外的な事情のときだけで、
その際にも、声の大きさ、言葉遣い、話す速さなど
穏やかな会話になるよう意識する必要があると思います。
第3に、情報伝達が必要ではなくても、意識して会話をする。
相手を安心させることを話す。毛づくろいを行うという意識を持つこと。
楽しかったこと、嬉しかったことを声に出して話すということです。
特に家族の感謝、自分の謝罪は必須であるということです。

口調は、語尾を上げていくのではなく、意識的に語尾を下げていくことです。
安心させるということは警戒感を解くことですから
責めない、批判しない、嘲笑しない
感謝と謝罪を伝える。相手の良いところを探し出してでも見つけて言葉にするということです。

これができなければ夫とは、父親とは
気が向いたときにダメ出しをして否定ばかりして
何を怒っているのか分からないけれど予測不可能なときに
声を荒げて、乱暴な言葉を使い
聞いている自分たちにイライラをぶつける厄介な相手
ということになります。

また、家族には体調に波があり
精神状態が一定ではないことが人間です。

嫌がられない会話をするよりも
相手を楽しませて、安心させる会話をすることを心掛けた方が
よほど簡単です。

わかってはいるのですが
なかなかやってみると難しいことも確かです。

私は頑張ってみます。
あなたはどうしますか。
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【勝手に書評】人間の本性が善であることが紛争を生む原因だとすれば、ポール・ブルームの「反共感論」は、福音となる。(AGAINST EMPATHY PAUL BLOOM)心と環境のミスマッチ。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

【勝手に書評】人間の本性が善であることが紛争を生む原因だという結論に対して、ポール・ブルームの「反共感論」(AGAINST EMPATHY PAUL BLOOM)は、福音となる。心と環境のミスマッチ。

性善説、性悪説という言葉ありますね。
人間の本性は、善であるか悪であるかという議論です。
これは、単純な理由で性善説を指示するべきです。

その理由としては、もし、人間の本性が善でなければ
文明ができる前の脆弱な動物としての人間は
群れをつくることができないために
とっくに死滅していたからです。

そして、善とは
仲間の痛み、喜びに共感し、
仲間と平等に分かち合い、
仲間が困っていたら助け合い、
特に一番弱い仲間を助けようとする
ということにあると思います。

証拠は、私たちの心にあります。
他人が痛い思いをしたら、
ああ、痛いだろうなあと目を背けたり、顔をゆがめたりしてしまいますよね。
誰かが、抜け駆けして、自分一人が得することをしようとすると
反感を抱いたり、怒りを感じたりしますよね。
誰か困っている人を助けたりすると
安心したり、感動したりします。
弱くて小さいものを見ると、かわいいという感情が起きるでしょう。

こういう本性を持った人間だけが
群れをつくり、自分たちを守り
子孫を遺してきたわけです。
実に単純です。

性善説と性悪説の対立は
既に文明が生じてからの人間を固定的なものととらえるところに
思考方法の間違いがあったのです。

それでは、どうして本性が善であるのが人間ならば
身近ないじめ、虐待、ハラスメントがなくならず
犯罪や自死に追い込まれることがなくならず
戦争を次々と切れ目なく起こすのか
ということが疑問となると思います。

これも最近の科学によってある程度明らかになってきています。

人間(ホモサピエンス)が、その能力を超えた人数の人間と関わるから
本性が善であっても、他の人間を傷つける行為が止められない
ということにあるようです。

1説では、人間の脳が個体識別できる人数は
150人程度、多くても200人を超えるくらいと言われています。
このくらいの人数ならば、善を貫くことができるのでしょう。
元々というか2万年以上前までは、
人間は一生のうちこの程度の人間とだけ交流があったとされているようです。
そして通常は数十人単位で生活していたようです。

群れの頭数が維持できることが人間として生きる条件でしたから、
誰かひとりが苦しむと、頭数が減り自分の生存も危うくなりますから、
平等に分け合い、抜け駆けをせず、特に弱い者を守ろうとする心であることは
どうしても必要だったわけです。
逆にこういう心を持たない群れは、簡単に滅びたのだと思います。

多少自分が損をしても
弱い者を助けようとしたのだと思います。
誰かの失敗も、不十分なところも、みんなでカバーしたのでしょうし、
それは当然のことだったはずです。
誰かが獣に襲われたら
夢中になってみんなで反撃したでしょう。
個体としては弱い人間も、
こうやって他の動物から恐れられるようになったのだと思います。

人間の本性が先ほど言った善であることは
人間の始まりの頃にはとても都合が良かったのは、
人間が自分たちの能力に見合った環境にいた
ということも言えるでしょう。

ところがおよそ1万年位前から農耕が始まり、
人間が一生涯に会う人間が飛躍的に増えていきました。
文明が発展するたびにその人数は増えていきました。
今や、自宅のマンションだって既に200人を超えた住民がいる
ということも珍しくないでしょうし、
自宅から勤め先まで移動する間に
何千人という人間とすれ違うかもしれません。

そして厄介なことに、すれ違うだけの人とも
利害関係は衝突するわけです。
典型的なことは交通事故です。
見ず知らずの人と事故を起こし、
相手がお金が無くて困っているからと言って
重大な事故を起こしたり死亡したりした場合、
「いいからいいから」と笑って済ませることはできないわけです。

損害賠償の金額の折り合いが悪ければ
そのことに対しても
相手に怒りを覚えることは当然でしょう。

特に、自分の家族が犠牲になる場合は
その負の感情が強くなります。

しかしそれは、仲間を守ろうとするという側面から見れば
まぎれもなく善の心なのです。

子どもを厳しく育てる親は、
自分が社会の荒波の中で苦労をしていて
大人になる前に身につけておけばよかったと思うことが
たくさんありすぎたのかもしれません。
子どもを社会について行かせようと思う親心も善でしょう。

もし、家族がけがをしても社会全体が保護してくれるならば
相手に対する追及はそれほど厳しくならないかもしれません。
もし子どもが学校について行けなくても、
社会的に尊重されて、生活に追われることなく
良き伴侶を得て自尊心高く生活できるならば
それほど子どもに厳しくならないで済むかもしれません。

しかし、現実の社会は
他人と生存競争を戦っている状態があるわけです。
仲間ではない人間に囲まれているわけです。

人間の中にいるからと言って必ずしも安心できるわけではありません。
この不安定さ、あるいは不安な心ゆえに
もしかしたら、太古の人間よりも
仲間に対して、多くのものを要求しているのかもしれません。
そして、仲間と仲間ではない人間との間に
厳しく深い線が引かれているのかもしれません。

ただこれは客観的な利益状態ではなく
見知った人は仲間で、見知らぬ人は敵、すなわち人間ではないという
意識が自然と生まれているのでしょう。

ネット炎上等がその典型例です。

プロレスラーの木村花さんが、テレビ番組の演出を理由に
インターネットに攻撃的書き込みをされた事件で
先日、特に悪質な書き込みを送検したというニュースが流れました。

そこには、なぜ死なないで生き続けているのか、いつ死ぬのか
という趣旨の文面があったそうです。

そんなことを言われて平気な人はいないでしょう。
けれども、この書き込み者は、善の気持ちで書き込んだのだと思います。

テレビ番組の花さん以外の共演者を仲間だと無意識に感じてしまい、
仲間を攻撃する木村さんを敵だと線引きしてしまい、
敵である以上人間ではないですから
その人格や家族などその人の仲間の存在を一切捨象することができて、
思う存分攻撃をすることができたのでしょう。

そういう感情的になって正義を振りかざす人間は
少数であり、例外的だという人もいるかもしれません。

でもこういう、人間を人間と思う能力には限界がある
限界を超えると人間を人間扱いしなくなるという現象は、
自治体や警察でも行われています。

女性が夫からDVを受けたと相談すると
その女性の言っていることが真実か否か夫から事情を聴くことがなく、
女性は、公的に「被害者」として扱われます。
当然夫も、公的に「加害者」という名称で呼ばれるようになります。
そして夫は何の反論をする機会もないまま
妻と子どもたちを知らないところにかくまわれ、
子どもとも会えなくなります。

別居が開始され、収入の少なくない部分の支払いが強制されます。

そこまで抵抗する方法を奪われて
弁解の機会も与えられずに不利益を受ける原因があったのか
疑問が大きいケースが多いです。

ここでも、仲間と敵の選別が行われています。
目の前で、苦しんでいる様子を語る女性については
なるほど保護をしたいという善の心が自然と生まれるわけです。
夫に対する怒りの感情も生まれることでしょう。

一瞬で見ず知らずの夫は敵とされてしまい、
夫がどんな苦しみを抱こうが
人間を襲ったクマをみんなで串刺しにするような正義感で
夫が苦しむ行為を躊躇なくするわけです。

「加害者」は、人間扱いをされていないということを
理屈ではなく実感するため
メンタルをやられてしまうわけです。

しかし、加害者扱いをするのですが
何が本当であるか全くわからないというべき段階で
心情的に敵対的な感情を簡単に持つのが人間です。

どこかの思慮分別の無い人間が行うのではなく、
税金で給料を得ている公務員が
こういう状態なのです。

いじめも同じような始まりを持つことが多くあります。
最初は1対1の喧嘩でも
泣き出して、友達にアッピールすることができる人が
多くの仲間を獲得して
本当は悪いかどうかわからないもう一方は、
多くの同級生から攻撃を受けます。
多くの同級生は泣いた子どもを助けようとする
善の気持ちで行っていますから
容赦がなくなります。

もしかしたらパワハラも
会社の効率を、部下の人格よりも上に置いてしまい
効率を優先させるために行われるということが
きっかけであることが多いかもしれません。

戦争であっても
色々な立場から戦争を推進するのでしょうが
正当化する口実は
仲間の救出、保護ということが挙げられます。

局面においては善の気持ちで戦争を推進する人がいるのかもしれません。
善の気持ちが利用されていることは間違いないでしょう。

なぜ、見ず知らずの人と争い、
人を人とも思わない扱いをするか

多くの場合、人間の本性が善だからだと思うのです。

もちろん誰かを守るということよりも
自分を守るために紛争が起きることが多いのですが、
それとしても、自分の立場が主張の不安定であるために
自分が攻撃されているかもしれないという
過敏な感覚を持つことが原因の大多数だと考えれば、
人間が多すぎる世の中は、人間が暮らしにくい世の中なのかもしれません。

それでは、人間の本性が善である限り
人間は人間と争い、不安を抱き、苦しみ続けるのか
これを解決する方法が無いのか
ということが問われるわけです。

私は、これまで、漠然と理性という解決方法を考えていました。
ただ、理性をどのように使うべきかということは正直
具体的に思い当たらない状態でした。

この混迷から救ったのが
ポール・ブルームの「反共感論 社会はいかに判断を誤るか」(白揚社)
です。
この本は書店の社会心理学のコーナーで見つけました。

ブルームは、いま言った私の「善」の部分を「共感」と置き換えて
共感を否定しようと呼びかけています。

心理学の立場から共感が害悪を生むメカニズムとして
共感が当たるスポットライトが狭い範囲に限られるとして
その弊害を述べています。
自分の共感しやすい人は、自分の身の回りの人であったり
自分と同質性のある人なので、
客観的に支援が必要な人よりも、共感した人に支援が偏る不公平がある
というのです。

そして、「共感は、他の人々を犠牲にして特定の人々に焦点を絞る。また、数的感覚を欠くため、道徳的判断や政策に関する決定を、人の苦痛を緩和するのではなく引き起こすような方向へと捻じ曲げる」と指摘しています。

但し、ここからがブルームの主張の本質なのですが、
それらの否定的すべき共感と、あるべき共感と、
共感には二種類あるというので。
「情動的共感」と「認知的共感」です。

情動的共感とは
その人が感じているであろう感覚を追体験してその人のために何かをしようとする感覚です。
認知的共感とは、
「他者が何を考えているのか、何がその人を怒らせたのか、他者が何を快く感じるのか、その人にとって何が恥辱的で何が誇らしいのかを理解する能力」
としています。

そして、
「他者の快や苦を自分でも感じようと努めている自分に気づいたら、その行為はやめるべきだ。その種の共感力の行使は、時に満足を与えることもあるが、ものごとを改善する手段としては不適切であり、誤った判断や悪い結果を生みやすい。それよりも距離を置いた思いやりや親切心に依拠しつつ、理性の力や費用対効果分析を行使したほうがはるかによい。」と結論付けています。

ここには道徳の本質というところと議論が重なり合っているのですが、
詳細は別の機会にいたしましょう。
既に対人関係学では、
道徳という規範は、人間の自然感覚とは別のもので、
人間の能力を超えた関りが求められるようになった
農業開始の頃に起源を求めていることだけ触れておきます。

道徳・正義・人権 | 対人関係学のページ (biglobe.ne.jp)

また、ブルームのいう情動的共感が妥当する人間関係もあるという
ことを主張しておきます。
これが家族です。
ただ、この場合、純粋な情動的共感を抽出する作業が必要で、
そのためには、相手に対する寛容が前提なのかもしれません。

親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)

誰かのために活動をする人、誰かを支援する人
それを職業やボランティアとしている人は
ブルームの反共感論を特に読むべきです。

自分のしている善で、善良な誰かを不当に苦しめているかもしれない
そういう視点は大切です。

もう一つブルームが言っていたことを付け加えます。
情動的共感によって、他者を支援する場合の弊害として
自分も同じように苦しんでしまうことによって
メンタルを消耗してしまう危険があるということでした。

真面目な人ほど、認知的共感を使う
ということを意識して追及するべきだと思いました。

他者への共感力(情動的)の低い人こそ、
他者を支援すべき人なのかもしれません。
それは現代に生きる人間としては
とても重要な資質かもしれません。

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アルコール依存症と向き合うためのメモ [進化心理学、生理学、対人関係学]


9%缶酎ハイの売り場面積の増大など心配があったわけですが、周囲でアルコール依存症の問題が明るみに出てきました。具体的に知りえた例においては、コロナとの関連は不明です。コロナの問題以前からの蓄積の結果という事例が多いです。私の周囲の感触からすると、現状のアルコール依存症はまだ特殊事例が多いのですが、今後は、特殊事例とは言えないほど事例が多くなるような予感があります。
今のうちに、しっかりアルコール依存症と向かい合う必要がありそうです。

今日はとりとめもないメモになります。

<アルコール取得過程>

世の中の経済の基本は物々交換だそうで、
お互いの所有物が必ずしもお互いが必要なものではないと交換が成立しないため、とりあえず万能の価値のあるお金が生まれたそうです。

そうすると、アルコールを買うことは、実際は他の物を買うことをあきらめる結果となるわけです。あるいは貯蓄を放棄するということですね。
ここはちょっと押さえておきましょう。
それでもアルコールを買わずにはいられないわけです。

お金も失いますが、アルコールを飲んで、アルコールの影響下にある時間が生まれるということですから、他にやることができなくなる、あるいは不完全にしかできなくなるということです。
結果としてアルコールにお金と時間を使ってしまっているということになります。
アルコールが無いと不安だから、買わずにはいられないとなると依存症の入り口をくぐっているのかもしれません。

一昔前に、アルコール依存症の人たちが飲む典型的な酒は、
ペットボトルのウイスキー、ペットボトルの工業焼酎
紙パックの日本酒、ストロー付き
等が定番でした。

酒を飲む目的が酔うという一点に集中していますから、安くて大量に飲めればよいのですから、ある意味合理的です。
現代では9%缶酎ハイです。冷やして飲めば、単位時間の摂取量も増やすことができますので、酔うまでの時間をさらに短縮できます。

こういう酒の飲み方は、酒を口に入れたらできるだけすぐにのどの奥に流し込むという飲み方です。そもそも味わうことができにくい飲み方だと言えるでしょう。一つにはアルコール刺激を最小限にする飲み方です。これが危険な飲み方だと思います。アルコール依存症とのん兵衛のぎりぎりのメルクマールもここにあり、そんな一時に飲んだらもったいないだろうというのがのん兵衛です。

だから、アルコール依存症気味だと思う場合は、できるだけおいしいと思える酒を飲むべきです。少々高額でも、その方が安全です。また、冷やしすぎないで飲むことも考慮していただきたいと思います。意地汚く飲むということも有効ですね。私はバーに行くと、珍しいウイスキーをストレートで頼みます。先ず、くんかくんか匂いをかいで楽しみます。そしてちびりちびり時間をかけて楽しみ、口の中いっぱいで酒を感じます。そうしてひとしきり堪能しきったら水を飲んで、リセットして新たな気持ちで楽しみ、これを繰り返します。残念ながらグラスに液体がなくなったら、やはりクンカクンカ匂いを嗅いで楽しむわけです。
私は、酒にこだわる人は依存症になりにくいと思っていました。しかし、高い酒を飲んでも、金払いの良い人はアルコール依存症になる危険性が高くなるような例を見たので、今回考えてみようという気になりました。


<アルコール運搬過程>

外で、居酒屋などで酒を飲む場合は、運搬過程はありませんね。
問題は、コンビニやスーパーで酒を買う場合です。家に帰る前に飲んでしまうというのはアルコール依存症の高度な段階です。これまでにあった事例では、コンビニで紙パックの日本酒を大量に買って、物陰で隠れて飲み、容器をどこかに捨ててきたくするという事案がありました。家族に隠れて酒を飲みたい人ということですから、家族からは酒を飲むことを禁止されているとか、監視の目が厳しいという事情がある場合です。当然近所の人から通報があって、家族の知るところになったわけです。運搬過程が無い人もいると。

<アルコールの摂取・ソフト依存症>

典型的な依存症ではないソフトタイプの依存症というものがあり、おそらく典型タイプに移行しやすい予備群を構成していると思います。
ソフトタイプの依存症とは、イベントに酒を利用する傾向が強い人たちです。例えばお祝い事があると酒を飲んでお祝いするとか、悲しいことがあると酒を飲んで気を紛らわそうとするとか、怒りがあると酒を飲んでやろうという気持ちになるとかそういう人たちです。自分で書いて気が付くのですが、私もそうですね。
うれしければ喜べばよいし、悲しければ悲しめばよいのですが、アルコールの補助を、いつの間にか必要とするようになったのかもしれません。
いや、結婚式とか正月、クリスマスくらいならそれでも良いと思いますが、その補助を要する機会が増えていったり、仕事が疲れたからということで、あるいは、夕飯を食べるためにどうしてもというような場合は文字通りアルコールに依存する傾向が生まれているというべきでしょう。

どうやら感情の解放とは、イライラとかもやもやとか、言葉にならないような心理状態、感情を酒の力で解放するということのようです。
常識人であればあるほど、つまり、周囲との調和に敏感な人であればあるほど、自分の感情を解放するということに抵抗感が生まれるようです。そうして「自分の心を抑圧している」という意識を解放したいということのようです。
どうやら、脳の中に感情を高ぶらせる部分と、感情を制御する部分とが別々に存在し、制御する部分は前頭葉と呼ばれる部分で目の奥のあたりにある脳の部分らしいのです。怖いから怖がる、悲しいから悲しむ、嬉しいから喜ぶというように、感情をそのまま出す方が楽なようです。ところが、それを楽のまま行うと他者との関係で気まずくなることが多くなるわけです。幼児までは感情を解放して楽に生きているわけですが、大人として生きるためには感情を制御する必要があります。さらに、その人その人が置かれている環境でこの事情は増幅するわけです。
部下がいる人であればそれなりに権威を持たなければならないとか、お客さん相手の仕事だとにこにこしていなければならないとか、上司が理不尽なことをするからと言って怒りに任せて行動したのでは解雇されてしまうとか、いろいろと感情を解放できない事情があるようです。
どうやらアルコールの作用として、その前頭葉の制御作用を鈍らせることによって感情を解放することができるのではないかと思うのです。他者との協調性のための制御を抑制することによって、少し羽目を外して喜んだり、悲しんだり、怒ったり、あるいは不安をさらけ出したりできるようになるのだと思います。
現代人の置かれている感情抑制が必要な社会環境は、感情自体がスムーズに表現できなくなる危険があることにもなるでしょう。
そんな中で、アルコールの力を借りて、喜怒哀楽という一時的な感情を表出するのだろうと思います。
逆に言えば、アルコールの力を借りないと、感情を表出できない状態に追い込まれているのかもしれません。

ソフト依存症の人でも、唇からのどに直接入れるタイプの酒の飲み方をするようになったら大変危険な状態だと言えるでしょう。のどが乾いたら水を飲むべきです。のど越しで味わうという飲み方は、依存症になる危険が高いというべきです。

<アルコール摂取過程 ハード依存症>

ハード依存症の人も、アルコールを飲んでいない状態の時間があるようです。しかし、徐々にアルコールを飲んでいない時間は短くなるようです。飲む酒が切れたらとどうしようと不安になるので、必要以上のアルコールが自宅にはあるようです。そして、飲むことを止められない心理状態になるようです。自己抑制が効かないという言い方をします。のん兵衛やソフト依存症の人のように、ビールの栓を抜く爽快感というものはあまりないのではないでしょうか。高度な依存症になると、コップに注ぐ時間も惜しくなるのかもしれません。
前頭葉の動きを止めたいというより、前頭葉をとってしまいたいような勢いで飲んでいるのでしょう。さらに視床下部まで麻痺させようとしているような気がします。恐怖や不安を感じるという人間らしい感覚を持ちたくないようです。アルコールは飲み方によってかえって覚醒してしまいますから(自分比較)、恐怖や不安は、悲観的な傾向と合わさり倍増していくのではないでしょうか。忘れてしまいたいから飲んで忘れるということは感覚的にあっているのだと思います。こうなるとのどの刺激を伴う薬ですね。
肝心なことはちょうどよいほどに忘れたり、感じなくなったりするのではないということです。例えば防犯もしなくなったり、火の始末を忘れたりという大変危険な状態になりますが、酔っ払っていますからあまり気になりません。酔いつぶれたいのか、眠りたいだけなのか、意識がなくなることを目指して飲んでいるようにさえ思われます。外で飲んでいたら、泥棒や詐欺師の餌食になるわけです。
私はブドウ品種がわからなくなったらワインを外で飲むことはやめます。お金がもったいないからです。金持ちの依存症は、もはや味覚がなくなっていますから、二束三文の酒を高い値段で吹っ掛けられても文句を言えないわけです。ここで私たちも学ぶべきことは、苦しみや辛さは、それを感じることによって行動の修正を促している大切な人間の機能だということです。苦しいこと、辛いことはやめてしまえということですね。苦しみや辛さを感じないと、どこまでも危険な行動をやめることができず、取り返しのつかないダメージを受けてしまうわけです。酒を飲んで、嫌なこと辛いことを忘れてしまうと、必要な注意もできなくなり、破滅的な行動をしてしまうことにつながる危険が高くなります。

生きるということは、このようにつらいこと危険なことから身をそらし、楽しいことを追求することかもしれません。危険なこと、辛いことを無かったことを感じなくなってしまったら、それを回避することができません。そして恐ろしいことに楽しいことを感じることができなくなるのです。
ハードなアルコール依存が起きてしまうと、このように生きることを少しずつ放棄していくことになります。感覚的に、自分が生きることの価値を見出しがたくなるわけです。自殺の潜在能力が高まるという言い方をします(ジョイナー)。

いったいどんな辛いことを忘れたいのでしょうか。
最初に依存症の人の事件をした時は、職場の人間関係でした。本当はそこに原因があるのです。職場での不遇な扱いを忘れようとして飲んでいたのですが、本人も医療機関もそこにはあまり関心が無かったようです。
案外簡単に依存症になったのは、養子に入った男性でした。隠れて飲んでいるうちに危険な飲み方になってアルコール量が増えていきました。
夫から虐待の過去という壮絶な女性もいらっしゃいました。言葉に出すこともはばかられるような壮絶な虐待を受けた方です。精神科の治療を長年にわたり受けていたのですが、医療機関とのコミュニケーションがうまくいっておらず、本当の苦しみを医師に伝えることができませんでした。亡くなってから後追いに調査をしたところ、そのような事実がわかりました。結婚前は明るい性格で、たくさんの友達にいつも囲まれていたような方だったそうです。ご自分の身内との関係もうまく形成できなくなり、孤独を感じながら亡くなられました。最後は酒以外口にできなくなっていました。死に向かって生きていたような形かもしれません。
アルコール依存症といえば「星の王子様」です。アルコールの星で、酔っ払いの住人が酒を飲んでいました。王子がなぜ酒を飲むのかと尋ねたところ、忘れたいからだと答えました。王子な何を忘れたいのかと尋ねたと頃、酒を飲んでいる自分だと答えたのですが、それは真理だと思います。意識のある時に酒を飲むわけですから、苦しい思いをして飲んでいる自分を自覚することが残念ながらできているのです。ご自分ですらなんで飲むか分からないけれど、飲んでいる自分は自覚しているのですから、私は悲劇だと思います。

<アルコール摂取に付随する過程への依存>

アルコール依存症の診断を受けた人の中には、実際はハードな依存症とは別のタイプの依存症があるように感じていました。バーでなければ酒を飲まない人たちです。ハード依存症は、酒場に限らず、自宅で飲みますし、自宅から出られなくなります。隠れて飲んでいるときは路上でも公演でも飲みます。最近の缶の酒は、路上で飲むことの抵抗感を減らすようです。
バーでしか飲まないタイプの依存症は、おそらくアルコールだけに依存しているのではないのではないかと思えてならないのです。接待を伴う飲食店は、当然嘘に満ちた世界です。金を落とすから接待してくれるのですし、客側もそれでよいから行くわけです。このちやほやされる状態に依存しているタイプが一定限度いるようです。必ずしも異性の接待に性的な期待があるというわけではなさそうなのです。性的な接待よりも、優位な人間関係、尊重される体験、尊重されている言動を求めているような感じです。お金を払っている限りで尊重されているということでもよいから、厳しい扱いをされない、ぞんざいな扱いをされないというところに、たまらない魅力を感じてしまう人がいるようです。まさに依存症です。バーの扉をくぐることをやめることが難しい状態になっています。実生活で、人間的な関係が形成できないという人が多いように感じます。
だから、ちやほやする人に簡単に騙されていくようです。騙されていても良いから、金をむしり取られても良いからその関係の中にいたい、ちやほやされていたいというように感じます。
無銭飲食詐欺に多いタイプの依存症です。この場合は損をしないからよいのですが(店は大損です)、お金持ちで孤独な人が破滅するときにもこのタイプが多いのではないでしょうか。こういう人たち(金持ち)もアルコール依存症になり、内臓を壊します。おそらく、詐欺師たちはもう少し酔わせればもっとお金を搾り取られると思うから酒を飲ませるのでしょう。依存症の方は、だまされているという不安をお酒を飲んで紛らわせようとするから悪循環になるのでしょう。
本当の友人たちは、このような飲み方を批判してやめさせようとするのですが、だんだん耳が痛い話から遠ざかってしまい、孤立するためにどんどん無防備になっていくようです。

<メモの終わり>

アルコール依存症はすべてを失う病気とされています。酒を飲んで仕事ができなくなり、再就職もできない。そのころになると家族からも見捨てられ、孤立していきます。働けませんので、収入もなくなっていきます。肝機能が悪くなり、糖尿病も悪化すれば腎機能も低下するでしょう。糖尿病の合併症で自由な行動ができなくなるかもしれません。健康も失われてしまいます。生きる目標も失われるかもしれません。
私はそのような男性の破産申し立ての代理人になったことがあります。依存症から脱却するために、かなりの努力をしていました。彼は、すべてを失いましたが、ポケットにお子さんの写真を大切にしまっていました。そんな状態でも子どものことはあきらめきれない。人間ってそういうものだということを学ばせていただきました。再び家族を取り戻すことはできなくても、子どものために仕送りができるようになりたいという新しい夢を彼は持つことによって、再出発に向かうことができたようです。アルコール依存症の話になると、きまって彼のことを思い出すのです。遠くから子どもを見に行こうという計画があったようですが、どうなったか事後報告を聴けないまま事件が終わってしまいました。
今回、新たにアルコール依存症と診断された知人ができてしまいました。彼に向き合おうと思っています。その前に頭を整理しておこうと、とりとめのない話を書き連ねてしまいました。

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被害者の心理 3 被害者の心理が起きるのは生きる仕組みであることとなぜ過剰な反応が生まれるか(心と環境のミスマッチ)、「被害」はいつまでも継続しているということ [進化心理学、生理学、対人関係学]

前回と前々回に述べた被害者の心理をまとめると以下の通りになると思います。

・被害を受けると人間は感じ方や行動パターンが変化する。
・些細な刺激で自分が攻撃されていると感じてしまう
・このため一つ一つのことを聞き流すことができず逐一反論してしまう
・理不尽な攻撃に対する反撃ということから、感情の抑制が難しくなる
・完璧に反論しようとして、仲間に対する要求度も高くなり
・要求度に達しない仲間に対しても攻撃的になる
・仲間や相手の心理状態については合理的な考察ができなくなる
・自分が受けている攻撃が客観的な評価以上に大きく強い攻撃だと感じる。
・このためにさらに強い疎外感を感じる。

以上です。これらの反応は本能的に起きるもので、生きる仕組みです。私たちの祖先はこの生きる仕組みで、子孫を遺すことができたわけです。

例えば今から200万年前、サルから人間に代わろうとする時期の危険の代表は、野獣に襲われるときだったでしょう。野獣の存在を知ることで、人間は危険が迫っていることを理解し、危険から逃れようとします。ばかばかしいかもしれませんがここが大事です。危険に逃れるために、脳から指令が出され、筋肉を素早く動かすことができるようにホルモンが分泌されたり、心臓が活発に動いて筋肉に血液をより多く流そうとする生理的な反応が起きることはよく知られています。
同時に、脳の機能も変化を起こします。

先ず、逃げることに集中すること。つまり逃げる以外のことを考えられなくするということです。余計なことを考えるというのは気が散るということですから、全力で逃げることができなくなります。これは逃げるためには邪魔になります。逃げることだけを考える、つまり、自分に危険が迫っていて逃げなければ自分の命が終わる、逃げることによって生き延びようということですね。集中できないサルは野獣に食べられて子孫を遺せずに滅びてしまったことでしょう。
逃げることに集中するため、考えることは二者択一的になります。危険から逃げ延びたか、まだ危険が続いているか。逃げるためにはこれだけで十分です。リアルな回避可能性がなんパーセントあるかなどを正確に考えている暇などないわけです。

次に、二者択一的になったら、できるだけ悲観的な判断をすることが、逃げ延びる確率が高くなります。仲間の元に逃げ込むとか、本当に安全だと確信できるまで、まだ野獣が自分を負っているのではないかと感じる方がより確実に逃げられるわけです。逆に楽観的に考えすぎて、簡単に逃げるのをやめてしまったら、身を潜めて追っている野獣に簡単に捕食されてしまうようになったことでしょう。
些細な事情で、例えば風が吹いて葉ずれの音がしただけで、まだ肉食獣が近くにいるのではないかと過剰に敏感になった方が、逃げ続けることができるわけです。また、自分を襲っている野獣は、もしかしたらものすごい力を持っているから、確実に逃げなければ殺されてしまうと思えば、より確実に逃げ切ろうとするので、役に立つ思考パターンです。

ちなみに、このような二者択一的思考、悲観的思考となっていますから、加害者である野獣が何を考えているか等という複雑なことは考えられなくなっています。あくまでもこちらを食べようとしているのだろうと考えればそれで十分だからです。敵や第三者が人間の場合は、人間の心は複雑ですから、それを知ろうとすることは、かなりの能力が必要になるようです。危険を感じているときは、そのような能力を発揮することは不可能だということになるでしょう。
仲間に対しても、自分を安全にしてほしいという絶対的な援助を望むということも無理のないことですし、仲間はその当時、その要求に応えるべく全力を挙げて野獣と戦ったことでしょう(袋叩き反撃仮説)。

今危険があり、逃げなければならないとするならば、被害者の心理は逃げるために必要な気持ちの変化だということがお分かりになると思います。

但しその危険が身体生命の危険ということであれば、この心理変化はとても有利に働くということです。
しかし、現代社会では、被害者の心理は、被害者をますます孤立させ、被害者自身で自分を追い込む結果となるという副作用が大きく、むしろデメリットが大きくなっているということです。

これが現代社会と人間の本能のミスマッチが起きているという言い方で説明されるべき事柄です。

例えば200万年前なら、体を動かすために高カロリーの当分は貴重でした。しかし、糖分を得ることがなかなか難しい希少な栄養素だったので、糖分があれば確実にそれを摂取しようという仕組みが生まれました。糖の甘さを好むようにして、おいしいから食べたくするという仕組みです。ところが、現代社会では、糖が工場で大量生産されるものですから、簡単に入手して摂取することができます。そのため、糖を摂取しようという生きるための仕組みが糖尿病などの成人病を引き起こすというデメリットを生んでいるのです(「人体」ダニエル・リーバーマン ハヤカワ文庫)。

どのような時代変化が起こり、被害者の心理反応にデメリットが多くなってしまったのでしょうか。

被害者の心理変化のデメリットが大きくなったというミスマッチの原因として、どうやら一番大きいのは、人間にとっての危険が、野獣に襲われるなどの身体生命の危険から、対人関係上の危険、つまり自分が仲間の中で尊重されて調和的に生活できなくなるという危険に、起こりうる危険の頻度が変わってきたという事情があるようです。
農耕が始まる前ですから今から1万年前か、どんなに頑張っても2万年は前ではないつい最近のことです。人間は、それまで50人から150人くらいの同じ仲間と一生を過ごしていただろうと言われていました。そのくらいの仲間の場合は、自分と他人の区別がつかず、自分が生き延びようとするのとほぼ同じ感情で、あるいはそれより強く、仲間を助けようとしていたと思います。対人関係上の危険を感じる度合いは現代から比べるとほとんどなかったと思います。だから身体生命の危険の反応を本能的に起こしても、デメリットはあまりなかったはずです。

それから1万年くらいしかたっていないのが現代です。脳の構造が深化するにはあまりに時間が足りないので、心の反応はその時のままなのでしょう。ところが、現代社会は、朝起きてから会社に行くまででも150人以上の人たちと出会います。会社や自宅マンションだけでも150人以上の人がいるでしょう。とてもすべてを個体識別できる人はいないでしょう。また、会社でいい顔をすれば家族に無理を通さなくてはならなくなる等、複数の仲間がいて、それぞれが利害が反する関係にあることも多くあります。家庭、学校、職場、趣味のサークル、地域、その他緩いつながりの社会、国家等という複数の群れに同時に帰属しているということは、農耕が始まる前には想定されていない事態なのです。

だから、例えば、足を怪我したとしても、1万年以上前なら傷が癒えれば傷によるダメージは無くなっていたでしょう。自分の知り合いの全員が傷ついたことを気遣い、できなくなってしまったことを代わりにやってくれたと思います。体は傷ついたけれど、仲間のありがたさに癒されたというわけです。

ところが、現代では足を怪我した場合も、相手がわざと自分を怪我をさせたのではないか、自分に恨みなどがあるのではないかと考えるわけです。また、相手ではない他人に対しても、自分が足が痛いのにどうしてもっと助けてくれないのかというように考えることが起こり始めてきたのではないでしょうか。あまり人間の付き合いの幅が広いものですから、家族であっても、それほど親身に何もかも手伝ってあげるということをしなくなったのかもしれません。相手への気遣いが、1万年前と比較しても雑になっているのかもしれません。いざとなれば、夫婦でも親子でも家族を解消できるということもなにがしか影響をしているのかもしれません。また被害者からしてみても家族だからこそ要求度が高くなり、攻撃をしてしまうという傾向がうまれたのでしょう。いっそのことお金を落としてなくしてしまうならば、あきらめがついて再出発ができるのかもしれません。同じ金額でも、信じていた人に騙されたということになれば、対人関係的危険を感じ続けて苦しみ、被害者の心理が止まらないのかもしれません。
また、いろいろな不利益の中で、学校、職場、家族など、別離、悪く言えば追放の目にあった場合は、対人関係的危険がなかなか解消されないという事情もあるかもしれません。

このように、人間の能力を超えた人数の人間、多数の群れに同時に帰属しているということから、人間同士の仲間意識が薄弱となり、自分以外の他人が、絶対的な仲間と感じられなくなるでしょう。このため、その仲間から攻撃される危険を強く感じなければならない事情が生まれたようです。
無条件に人を信じることができなくなってしまい、そして極めて残念なことに、その警戒感は、多くの場合現代人が自分を守るために必要であるようです。
私から言わせれば、人間はもともと他者を攻撃するという性質があるわけではなく、人間はもともと自分の仲間以外と対立する可能性を秘めているということだと思います。そして現代社会は、仲間であって仲間でない人間ばかりが、人間の周囲にいるということ、これが現代的ストレスなのだと思います。

さて、そのような背景はあるとしても、私のお話しした生理的変化(交感神経の活性化など)及び、思考上の変化(二者択一的傾向、悲観的傾向、複雑な思考力が低下する)は、危険が現実に存在して、危険から回避する場面では有効です。しかし、危険が現実化した後ではあまり意味がありません。身体生命の危険の場合で考えると、例えばけがをしたけれど野獣が仲間に追い払われるなどして危険が去った後でいくら筋肉に血液が流れても、もはや走って逃げるということはありません。襲われた直後は、動悸もするでしょうし血圧も上がっているでしょうが、しばらくすると落ち着くわけです。
ところが、対人関係上の被害の場合は、例えば裏切りがあって何年たっても、そのことを思い出すと血圧が上がったり、恨みつらみの感情が沸き起きたりします。一方の親に子どもを連れ去られてた他方の親は、何年経っても葛藤が去ることはないでしょう。性的暴行を受けた人も、警戒感や不信感そして恐怖感が何年も続くことがあります。対人関係上の被害は、それが起きたときから少なくても心理的には長期間被害者であり続けるわけです。つまり、被害は過去のものにならない、現在でも継続しているということです。
人間は、その性質上、人間の中で生活する必要があります。しかし、一度人間の中に信頼することができない、自分に加害行為をする人間が現れると、およそ人間というものが信頼できないという心理になるということが一つの理由でしょう。特に前触れなく起きた被害、性的暴行や連れ去りなどが典型ですが、そういう被害の場合、どうやって防げばよかったかについて考察することが難しいです。記憶の仕組みからすると、そのような形の被害はなかなか記憶のファイリングに収納しきれないため心理的に昇華することができず、いつまでも現在する危険として忘れられない存在になるようです。悪夢につながりやすくなるようです。

また、対人関係的には、危険が続いているということなのかもしれません。

例えば性的暴行を受けた人は、自分が性的暴行を受けたという事実を抱えてしまって、それが自分の身近な人間に知られてしまったら自分が身近な人間たちから否定的な存在と思われるのではないか、あるいは、過度に気を使われる必要のある人間だとして扱われてしまい、これまでの仲間とは扱われず特別扱いされてしまうのではないかという不安があるようです。防衛手段を尽くさないという非難を受けることもあるのではないかと考えてしまうのかもしれません。実際はそのような対応を周囲がしない場合でも、大きな不安があることは間違いないでしょう。

例えば妻に子どもを連れ去られた男性は、家族から追放されたという行為自体は過去のものだとしても、孤立している自分が継続しているわけです。その後の家事手続きにおいて、当たり前の主張がことごとく排斥されて、自分の孤立が裁判所などで追認されてしまうのですから、少なくとも家事手続きが進行しているうちは被害が継続しているというか新たな被害が生じていることになると思います。被害者の心理の負の側面が多く出ることは自然なことなのだと思います。例えば、いったん引いて、別居を認め、自分ができることで家族に貢献して、少しずつ立場を回復していくという手段が早い段階で選択して、実行できればある程度の再生が図られるケースがあるのですが、それは自然と受け入れられる作戦ではないのも当然です。
家事手続きは終わりがあります。一応の区切りはつけられることになります。しかし、理由がわからず連れ去られた挙句、子どもには一切会えない。生活を圧迫する養育費は長年にわたって負担し続けなければならない。そういう状態になれば、被害が過去のものになるはずがありません。毎日新たな被害に苦しめられるわけです。

しかし、被害感情というのは、前回、前々回にお話しした通り、被害者自身を必要以上に傷つけて追い込んでいくものです。より正確な情報分析ができないために方針を誤る危険も高いですし、改善する行動に向かわないでより事態を悪化させる行動を引き起こすこともあります。仲間や第三者を攻撃してしまうこともあり、つい攻撃的な振る舞いや緊張感の高いあるいはテンションの高い言動が多くなり、自分を孤立させる要因になることも多く見られます。せっかくの才能をもった人たちが孤立していく姿を多く見ています。

なかなか自分が被害感情を抱いていて、自分を追い込んだり損をさせたりしているということに、被害者自身が気付くことが難しいということは、これまで述べてきた被害者の心理から承認しなければなりません。
周囲が、実際は「あなたが思うほどは悪い状態ではない。」、「自分で自分を追い込むことをやめて、正確に情勢を分析して、これ以上事態を悪化させることを防止しましょう。」とアドバイスして拡大被害を防止することが必要不可欠ということになるでしょう。
しかし、どうしても支援者は、目の前の被害者に対してできるだけ共感しようとするし、被害者以外の人たちに責任を求めて一緒になって攻撃をしてしまいます。これも、善意や正義感で行われていることなので、自分の行動を制限しようというきっかけがありません。支援感情の駄々洩れが起きているように思われます。それが結果として被害者をさらに苦しめてしまう。被害の回復から遠ざけてしまうという逆効果を生んでしまうという悲劇があるように感じます。

このことについて、さらに考え続けてみたいと思います。



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被害者の心理2 被害者は自分で自分を追い込んでいく 過剰な被害意識に寄り添う危険性 [進化心理学、生理学、対人関係学]



<性犯罪の被害者の場合>

例えば、性的暴行を受けた被害者は、本当はゆきずりの暴行であったにもかかわらず
加害者が自分の自宅や勤め先の住所、自分の行動パターンも全て調べ上げていると思い込むことが多い。
しかし、実際は、女性の少ない深夜に肌を露出させた服を着て公共交通機関を利用していたところを見つけて
降りて歩き出すまで後をつけてきたという事案だったりする。
そちらも気持ちが悪い話だと思うが、被害者の心理としては、
また同じ加害者から暴行を受けるのではないかという怖さがあったという。

女性が少ない深夜帯に肌を露出させた服装で歩かなければ、
少なくともこの加害者からは襲われないだろうということが真実である。
加害者は、顔とか身長などの被害者の個別性はあまり意識していなかった。

こういうと、「襲われた方が悪いのか」という批判が想定されるが
悪いのは当然加害者であり、処罰を受ける。ある程度の損害賠償も支払う。
しかしそれだけである。
一方被害者は、心の傷が重く、PTSD様の後遺症が残っている。
良い悪いで評価しても、被害を防止することはできない。
被害を防止するための実利的な議論を妨害することは有害であると思う。

被害者側の求めに応じて、加害情報を提供することも、被害回復には有効であることを学んだ。
被害を受けたことには変わりがないし、それだけで恐怖が軽減するわけではない。
しかし、実際の被害態様は被害者が想定しているよりも、
軽度なものであることを知識として頭に入れてもらうということが有効な場合もありそうだ。

<連れ去り被害を受けた夫>

連れ去り被害を受けた男性は強制的に圧倒的な孤立感を抱かせられる。
家族や子どもを奪われて、行政や警察からも敵対的な対応を取られるが
その原因が理解できないため強烈な被害者意識を持たせられる。

自分がいわれのない苦痛を受けている自覚が強烈にあるため、
加害者である妻は、自分を排除して
「子供や妻の両親たち」と、楽しく自由に過ごしているのだろう
と具体的な絵を想像してしまうようだ。

そういう加害者の楽しさを想像することによって
自分が強烈に排除されているという思いが増強していって
ますます孤立感を強めていき、ますます苦しくなるようだ。

しかし、実際は、連れ去り妻は、元々精神的に不安定で
理由もなく不安を感じる状態であることが多い
その不安の原因を夫に求めて連れ去りをしているわけだ。
しかし、その原因が本当は夫にあるわけではない
だから、別居をしても不安が解消されることにはならないことが多い
ありもしない夫の怒鳴り込みをいつも想定してビクビクしている
ということが多い状態である。

少なくとも、夫さえいなければみんな幸せという状況にはなっていない。

連れ去られた子どもたちの多くは、
1人にした別居親に対して、多かれ少なかれ罪悪感を抱いている。

しかし、被害者は、自分だけが苦しんでいるという想定をしてしまう。
相手が苦しんでいるということはなかなか想像することもできない。
あまりこの感情を追認してしまうと、方針を誤る。
相手と駆け引きをして、少しでも望む状態に改善してくという発想が
どうしても生まれないまま
100か0かという発想を持ち続けてしまう。
その結果、有利な事情を見落としてしまい、必要な手段を行使できない。
結局、いっても仕方がないことばかり言って、関係を悪化させていくことになる。

<DVを受けた妻たち>

DV被害を受けた妻たちは、
夫に対する抵抗力が著しく失われているため
夫が無敵の存在であり、どのように抵抗しても自分には勝ち目がないと感じている。
自分は夫の支配から逃れられることはできないのだと訴える妻が多い。
しかし、実際に夫と対峙すると、弱さを持った普通の人間であることがほとんどだ。

被害者は、自分の被害を実際よりも大きなものと感じる傾向がある
些細な刺激も、自分の存在を脅かすものであると受け止めやすい。
解決に向けた対策を立てようとせず、
どうせダメだろうと言うあきらめが先行してしまう。



全ての動物がそうであるはずだが、
自分の危険を感じた場合は、
危険を大きく把握した方が有利である。
危険を小さく把握してしまい、油断してしまうと
危険が現実化してしまう可能性が高くなる。
危険を実際よりも大きく想定して
想定した危険に見合った逃避行動を取る方が
危険が現実化する可能性が低くなる。
危険を過大視するのは、生き物の基本姿勢なのだと思われる。

本人がそのように危険を過大視することはやむをえない。
問題は、第三者が、本人の本能的なものの見方を追認してしまうことである。
もしその人が被害を感じているというのであれば、
本能的な危険の過大視を追認することは大変危険なことである。

冒頭の性的暴行に被害者の被害意識を追認して
「あなたは何も悪くない。犯人があなたの素性を調べ上げてあなたを研究して
あなたと言う個人を狙って犯行に及んだのだから
あなたは将来何も悪いところがないにもかかわらず、再び襲われる可能性がある。
だから犯人をできるだけ長く刑務所に入れるようにしましょう。」
と感情ダダ漏れの支援をした結果どうなるだろう。
当然それほど長い期間刑務所に入ることはない。近い将来釈放される。
被害者は自分を防ぐ方法がなく、恐怖は消えることがない。
家族を伴った遠方への引っ越しを考えることも実際はありうる。

これに対して、犯人はあなたがどこの誰だから分からなくて
その日、その時間があなたが目立った格好をしているだけで目をつけたのだそうだ。
襲った相手が悪いといっても仕方がないから
遅い事件一人でであることはやめるし、外を歩くときは肌を露出した格好をしない
どうしても遅い時間の帰宅の場合は、誰かに迎えにきて貰えば大丈夫
というアドバイスとどちらが精神的に救われるか
実務的には議論の余地がない。

それにもかかわらず、正義や支援の名の下に
客観的状況を超えた被害を追認して被害者が苦しめられていることが横行している。
支援者は自分の行動を振り返ることができない。
このように抉り出して説明すれば分かりやすいが
実際は、自分のやっていることがこういうことだという自覚を持つことができにくい。
正義感情が強すぎる稚拙さが目立ちすぎる。

連れ去り事案においても
妻の漠然とした不安を夫の行動を安易に結びつけてはならない。
確かに、妻の漠然とした不安を助長するような夫の行動がある場合もあるが
知識を授けることで、行動を改善することは通常大いに期待できる。

どちらが悪いというれベルから、家族が穏やかに幸せに生活するというレベルで考え、
相互に関係性を高めていくアドバイスこそするべきなのである。

逆に連れ去り妻に対して夫の怒りを代弁して攻撃し、
関係が修復するどころか、悪化していったら
真の被害者である子どもにとって取り返しのつかなくなる事態が訪れるだけである。

相手に対する攻撃を優先させるか
子どもの幸せのための行動をすることを優先するか
ということは常に問われなければならない。

支援というものは自己満足であってはならないし
誰かを支援することが誰かを傷つけることを正当化するものでもない。

支援の名の下に、あるいは正義の名の下に、
被害者の被害感情を拡大させることが目につきすぎる。

無邪気な正義感で人間の紛争に関わる仕組みは終わりにしなければならない..




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被害者の心理 1 被害者は自ら損を選択し、拡大被害が生まれる [進化心理学、生理学、対人関係学]

被害者の心理 1 被害者は自ら損を選択し、拡大被害が生まれる

信じていた人に裏切られた場合。あるいは、公平や正義を期待した存在に自分が理由もなく不利益を与えられる場合のその被害者の心理についてのお話です。
詐欺を受けた被害者、気が付かないうちにパワハラを受けていた被害者、あるいはいじめにあっている被害者、そして妻に子どもを連れ去られて、行政や警察が連れ去り行為に加担していることを知った夫等、弁護士はよく被害者と一緒に行動をすることになります。

最近強く気になっているのは、被害者が、例えば裁判や調停で、感情に任せて行動をして単純に損をする選択をする傾向にあるということです。

第1に、感情的になりすぎて、些細なことで怒りをあらわにするということ。逆に他人の感情を顧みずに、論理的に間違っていることをいたずらにただ主張することです。

なぜこれが損になるかというかお話しします。本当は被害を受けなければこんな正確でなかったと思うのです。被害を受けたから、感じ方や行動パターンが変わるのが人間です(1)。それなのに、例えば離婚関係の調停の中で、相手の上げ足をとり、相手の弱さを無視して、すべて理屈通りに行動しなければならないと強硬に主張してしまう、調停委員のわずかな言葉も無視できず徹底的に抗議してしまう。時に大声をあげてしまう。長時間演説をしてしまう。こういうことをやってしまうのですが、それも被害を受けたから行うことなのです(2)。それを調停委員や、あるいはその人の代理人が理解できませんから、
「ああ、同居しているときからこういうことをやっていたのだろうな。こういう人と同居していたら毎日が苦しいだろうな。奥さんが離婚したくなっても仕方がないだろうな。」と自然に感じてしまうのです。ただでさえ、男性はジェンダーバイアスと戦わなければならないのに、その偏見を自分の行動で後押ししている形になってしまいます。その結果、なかなか親身になって調停を進めてもらえません。
ここまで読んで、それでは調停はだめだろうと感じた方は、重篤な被害者心理を抱いていらっしゃいます。現実を踏まえて活動することができなくなっています。

第2に、実利をとることに目が向かず、相手方を攻撃すること、相手方の主張の矛盾を指摘することに神経が向いてしまう。

例えば財産分与で、子ども名義の銀行口座を共有財産として価値を分配するのか、妻の特有財産だとして妻に与えてこちらは取り分を放棄するかという議論があったとします。妻側はあきらめて共有財産だから、例えば80万円の口座残高だから、40万円を引き渡すと主張しているとしましょう。ところが、調停が始まる前では、この口座は、妻が「自分の元々あったたんす貯金を子ども名義でためていたのだから私のものだ。」とか言っていたような事情があったそうです。夫は既に逆上していますから、「あの時自分のものだって言って威張っていたくせに、今度は違うことを言っている。言っていることが矛盾だ。妻の特有財産だと主張する。」なんて言ってしまって、自分が40万円損をすることに気が付かないのです。割と単純化してお話ししていますし、ご自分のことでないので、読んでいる皆さんは、「なんでそんな馬鹿なことを言うのだろう。」と理解できないかもしれませんが、実際の離婚事件ではよくあることです。本当は、「妻が結婚前からためていたお金だから特有財産でよいよ。」という気持ちならば代理人もそうですかというのですが、そうではないようです。また、説明してもよくわかられません。
典型的に、自分で自分の損に向かってしまっているのです。

第3は、他人に対して高度な支援を期待してしまう・要求度が高くなる(3)

こういう現象も目につきます。被害者は自分が誰からも支援を受けられていない孤立した状況だと感じやすくなっています(4)。例えばいじめ事件やパワハラ事件でも、勇気を出して助けの手を差し伸べている人が必ずいて、その事実について被害者もきちんと認識しているのです。しかし、自分が支援されているとか、その人が自分を助けようとしているという評価ができない。このために孤立感が深まっていきます。支援をしようとしている人は、支援が正当に評価されず、自分が逆にいじめなどの対象にされてしまう危険を冒して手を差し伸べているにもかかわらず、反応がなされないために、はしごを外されたような気持ちになってしまいます。どんどん本当に孤立していってしまいます。

第4は、他人を信じられなくなり、自分の仲間を攻撃するようになる

例えば家族、例えば代理人弁護士など、「自分を助ける仲間」というカテゴリーの人は仲間だという認識はあるのです。しかし、要求度が高いということと関連するのでしょうが、些細なミスを重大なことのようにあげつらって攻撃してしまいます。これは攻撃的になるというよりも、些細なミスも命取りになるのではないかという不安が強くなっているのだと思います(5)。そうして、あれこれと自分が仲間に対して命令をするようになってしまいます。
客観的にみていると、そのさ指図やその抗議で、事件解決や自分の要求を通すことの大事なポイントが見失われてしまったり、逆効果になっていることが多いのですが、他人に任せるということができない。ついつい自分がやってしまって、失敗することがあります。

また、仲間さえも心理的に離れて行ってしまいます。大きく観た場合に利益に反する行動につながります。

第5 他人の気持ちを考えられないため、仲間を攻撃してしまう。

信じられないという心の問題もありますが、相手の心という複雑なことに対して配慮をすることができなくなります(6)。相手から見れば、「被害者だからといって、何をやっても許されるわけではないぞ。」という気持ちになってしまいます。客観的には相手に失礼なことをやっていても、本人は相手に迷惑をかけているということに気が付いていないのです。「自分と同じ気持ちでいるはず、いなくてはならないから、自分の言っていることは相手も当然なこととして受け止めるはずだ。」というくらいの気持ちでいるようです。

相手の活動を妨害している結果になることもあります。こういう場合、悪意が無いからといって、聞き流すことができないことがあるのはやむを得ません。

第6 正義に敏感になり、日常的に攻撃モードになっていることに気が付かない。

これは少し上級者ということになります。自分の被害が、自分と加害者の関係の中で完結しているものではなく、社会的背景があることに気が付くようになります。そうすると、社会的活動をするようになっていくものです。それは良いのですが、社会の色々な不正に対しても、うやむやにすることができなくなり、例えば行政に、例えば警察に攻撃を仕掛けていくということが出てきてしまいます。ところが、攻撃をする相手は社会そのものではなく具体的な個人ですから、攻撃している本人以外の人から見ると、かなりケンがあるというのでしょうか、うっかり話しかけると攻撃されるのではないかというような漠然とした印象を持ってしまいます。これは大変損です。話しかければ賛同してくれますが、徐々に近づかれなくなってしまうということが起きます。本人悪い人ではないし、間違ったことは言っていないので、大変損です。
社会的な働きかけは大勢で行わなければなりませんので、結果を出すためには、こういう状態になっているということを意識して、アプローチを工夫する必要がどうしても出てきます。
正しいことを言っているから、相手をとことん攻撃する、手を緩めないということがウリの政党の支持が拡大していかない理由がここにあると思います。一般の人、被害者以外の人は、人と人が争うのを見ることも嫌がるし、正しいことで追いつめられる人を見ることも嫌がるものなのです。大切なことはアプローチの方法だということです。

第7 仲間に依存してしまう結果、仲間以外を攻撃してしまっている

被害者は、自分の被害を説明することが辛いです。被害を受けたときに気持ちになるでしょうし、それを説明しなければ分かってもらえないということも辛いところです。だから、同じ被害を受けた仲間や支援者の中にいることがとても心地よいわけです。言葉に出さなくても分かってくれるということだから当たり前ですよね。だから同じ被害を受けた仲間は助けたくなるし、守りたくなるのも当然のことですし、人間らしい感情だと思います。
仲間が誰かと対立していたり、あるいは仲間が誰かにケンカを売っていたりしても、仲間を守りたくなり、支援する行動をしてしまいます。どうしても、「それはやめた方が良いよ」とか「もう少し穏便に意見表明した方が良いよ」というような相手の行動を部分的にでも否定することをしにくくなります。
その結果、仲間は自分の行動が支持されていると思って行動をエスカレートする等の弊害が生じ、支援者も相手からその仲間と一緒に攻撃を受けている加害者集団の一員だという扱いを受けてしまいます。
また、同じ被害者というくくりはあまり正確ではありません。実は被害の内容は人それぞれ全く違うからです。自分よりましな相手のましな部分にどうしても目が行ってしまうものです。元々被害に敏感になっているため、仲間の善意の言動も自分を攻撃しているように過敏に反応してしまうこともあるようです(7)。
「誰かを支持することが誰かを攻撃することになってしまう。」実はこれが人間がなかなか争いがやめられず、不合理な被害にあう人が生まれる根本原因だと私は考えています(8)。そうやって被害者になったのに、今度は別の誰かに対する加害者になってしまっている。そして被害が拡大していく。これは悲劇だと思います。
そして、そのような被害者を利用しようとする人たちもいます。迫害されていればされているほど、自分たちに救いの手を差し伸べてくれる人はありがたいです。はっきりと恩着せがましいくらいに支援しているという人に対して依存してしまいますので、第三者から見ると、なんでこんな見え透いた人に従うのだと理解できない人に対してもです。明らかな嘘を言って、被害者を利用して、第三者から見れば被害者を危険な目にあわせて、自分の利益を得ている人たちもいます。また、善意の人も、善意ではなくても被害者の利益になる人もいるにはいるのです。ここの見極めは大変難しいところです。




文中のカッコ内の数字は、後に利用するためのもので、今回については意味がありません。すいません。

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連れ去られた子どもは、なぜありもしない別居親の虐待「体験」を語るのか [進化心理学、生理学、対人関係学]



面会交流調停事件で、面会交流実施を拒否する理由として挙げられるのは、
「同居していたとき、今別居している親から虐待を受けたので
子どもが会いたくないと言っている。」
というものである。

確かに、虐待とまでは言えないとしても
別居親から厳しくしつけられていた場合、
子どもは、別居親に対して拒否反応を示すケースは実際あった。

しかし、大半のケースでは、そのような主張があった場合でも
試行面会をすると
子どもは、別居親と久しぶりに顔を合わせると
満面の笑みで別居親と遊んでいる情景を見ることになる。

調査官調査でも、子どもが父親の虐待をほのめかすケースであっても
同様である。
実際には虐待はなかったのである。
では、どうして実際にはなかった虐待を
子どもは調査官に訴えるのだろう。

答えは簡単かつ単純で、
虐待があったという暗示をかけられたため
実際にはない虐待があったという記憶が作られるからである。
子どもは暗示にかかりやすい。

ただ、同居親が意図的に子どもに虚偽の事実を思い込ませようと
一生懸命暗示をかけたとしても
それはなかなか成功せずに
調査官によって見破られることが多いようだ。

能力が高く意欲がある調査官は
子どものリアルな反応を抉り出して報告する。

そのような調査官でもうっかり子どもの申告を信じてしまうのは、
ある意味偶然暗示がかかった場合が多いように感じる。

ある事例を内容を改変して例に挙げる。

別居2年たった調査官調査の事例である。
調査当時小学校2年生であった。8歳になっていた。
昆虫が嫌いな女の子だった。

その子は調査官に対して父親と面会することに抵抗があると言い、
その理由として夜に父親が自分を物置に閉じ込めたからというのである。
その物置に閉じ込められたという時期は
なんとその子が2歳半の時、
5年以上も前のころのことだった。
もちろん別居前までの父と娘の関係は良好である。

調査官はそれを真に受け、
その子どもに対して父親は対処しなければ
面会は実現しないだろうと言った。

しかし、実際は物置に閉じ込められた事実はなかった。
真相はこうである。
その夜
母親が用事があり実家にお泊りに行き
家では父親と2歳半の娘がお留守番をしていた。

娘がぐずって言うことを聞かなかったので、
父親は、そんなにいうことを聞かないならば
物置に連れて行くよと説教をした。
ここまでは正しい。

その物置は家の外にあり、
簡易な造りのため、バッタやセミなどが入ってくることがあった。
それまで物置に特に強を抱いてはいなかったが
2歳前くらいに一人で物置を開けたときに
大きなバッタが飛び出してきて体にぶつかってから
その子はその物置にとてつもない恐怖を抱くようになった
というのである。

父親は子どもの腕をつかんで玄関を出て物置に向かうふりをしたところ、
腕が異様に暑いことに気が付いて
子どもが風邪をひいていたことを理解した。
ぐずっていたのは体調が悪かったからだということを理解し
父親は子どもに謝罪して救急外来に連れて行った。
これが真相であり、裏付けもあった。

子どもは物置が怖かったため
父親がいないときに母親に告げ口をしたようだ。
物置がいかに怖いかを切々と訴えたのかもしれない。

しかし母親は大したことではないと思い
いいかげんに聞いていたようだ。

子どもは父親と別居後、
年相応のわがままを言って母親を困らせることがあったようだ。
そのたびに母親から「物置に入れられても仕方がないわがままだ」
と叱責を受けたようだ。
そのたびに、子どもは、
自分は「わがままを言って父親に物置に入れられたことがある」
という記憶が植え付けられていった。

「自分はどうして物置に入れられたのだろうか」
という質問を母親にした時に
「それはあなたがわがままを言ったからでしょう」
と返されていたということである。

物置に入れられるという恐怖が
記憶の中で入れられて怖い思いをしたという風に改変され、
それが母親の物置に入れられたことを肯定する返事があったために
自分は父親に物置に閉じ込められたという記憶が定着したようだ。

このケースは、本来、
2歳半の記憶以外は、父親に抵抗のある理由が語られなかった
ということをむしろ重視するべきである。
実際はなんとなく会うことが怖いというに過ぎない。
その後の数年間は、何の問題もなく父親と同居していたのである。

子どもの、特に幼少期の記憶を真に受けてはならない。
通常記憶通りの出来事は存在しないと考えるべきである。

このケースのような知的能力や記憶力の高い子どものケースでなくとも
子どもなりに、恐怖や嫌悪、不安の体験は存在する。
その理由がわからないまま疑問として抱えている記憶がある。
そのような場合、同居親が
その不安を別居親に結び付けて暗示をかけると
子どもはたやすく別居親と負の感情を結び付け
子どもなりに合理的に虐待の記憶を「作り出す」可能性があると考えている。


子どもの証言は吟味する必要があるということもそうだけれど
子どもに恐怖を与える方法でしつけをすること自体を
親は控えるべきなのだろうと思う。



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【読書案内】「抑圧された記憶の神話」E・F・ロフタス外 ラディカルフェミニスト J・Lハーマンを裏から学ぶ。治療者と弁護士のアプローチの違いと弊害について [進化心理学、生理学、対人関係学]



弁護士の仕事をしていると、真実と異なる証言を目にすることがあります。
偶然に証言が違うという客観的な裏付けが得られることがあるのです。
もちろん、あえて嘘を証言する場合もあるのですが、
どうやらその人の記憶では、それが正しいと思い込んでいる
としか考えられないことも多いのです。

夫婦間の家事事件で多く真実に反する証言を目にします。
真実と異なる証言をするのは妻とは限らず、夫、そして子どもたちも含まれます。

このため記憶に関する勉強はずいぶん前から勉強をしてきていました。
ロフタスという名前は、むしろ記憶に関する勉強というよりは
認知心理学、実験心理学の本の中で
「ショッピングモールの迷子」という実験で紹介されていたのですが、
著作が出版されていることに気が付かず、読む機会に恵まれませんでした。

今回もロフタスに興味を持ったのは
アマゾンの書評で、わが師であるJ・Lハーマン先生の批判がなされている
ということから興味を持ちました。

ハーマン先生は、「心的外傷と回復」という名著の著者で
複雑性PTSDという病名の提唱者です。
私の対人関係学は、この本に記述されている
人間の心の仕組みが基盤になっていますので
大恩人でもあります。

ただ、気になることが本に書かれていて
ご自分がラディカルフェミニストだということを自己紹介されているのです。
「心的外傷と回復」では、医学的、心理学的に
つまり科学的な記述がなされていたので、
どの部分がラディカルフェミニズムなのかわかりませんでしたので、
それも知っておきたいという気持ちも強くありました。

出張先の町で時間調整のために
ロフタス博士の「目撃者」という本を途中まで読んで
あまりにも私が求めていた本だということで
「目撃者の証言」と「抑圧された記憶の神話」の2冊を
アマゾンで発注し、さっそく読み終えたところです。
ハーマン先生の本は難しく
既に4,5回読み直して繰り返し勉強しているのですが、
ロフタス博士の本は、翻訳の問題もあるかもしれませんが
すんなり頭に入ってきてあっという間に読めました。
中身が面白いというところもあるでしょう。

特に「抑圧された記憶の神話」は、衝撃的でした。
副題が「偽りの性的虐待の記憶をめぐって」というものが端的に表しているのですが、
1970年代80年代に、アメリカで、
カウンセリングによって突如20年前に虐待された記憶がよみがえり、
それをもとに、父親や母親、親せきを告訴し、
陪審員の刑事裁判で有罪を宣告され
多くの人たちが刑務所に服役しているということが起きました。

この記憶をよみがえらせるカウンセラーが
ラディカルフェミニストのカウンセラーで、
これを記憶の科学の観点から批判したのがロフタス博士で、
そのロフタス博士を批判したのが
われらのハーマン先生たちという
こういう人間関係になっているようです。

日本の刑事訴訟法では考えられない
被害者の不確かな記憶で、処罰されるということが
アメリカでは横行していたようです。

この本を読むと、なんて不合理なことが起きているのか
1歳半の時の記憶で、無実の善人が服役することになるし
日本ではそんなことは起こりえないだろうと
普通の方はそういう感想をお持ちになるでしょう。

私は違います。
このような不合理が形をそのままに日本でも横行しているからです。

この本の冒頭、日本語版の序文の最初にはこう書かれています
「問題を抱え、うつ、不安、または神経過敏を訴える人が、カウンセラーに助けを求めます。するとしばしば最初の面接で、カウンセラーがこう尋ねます。「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは子どもの頃、虐待されたのではないですか?」たとえ彼女が否定しても、問題の背後には虐待があると、強く信じ続けるカウンセラーがいます。そして度を越えた「記憶作業」が行われることもあります。」
「子ども時代や思春期は比較的幸せだったと考えていたとしても、同様のことは起こります。そして患者のなかには訴訟を起こす人も現れ、法律家が参入してきます。新しい記憶が『奇跡のように』現れることすらありました。」

冒頭の1頁を読み終える前に、衝撃の連続を体験しました。
これは現代日本においても行われている!
単に幼児期の性的虐待から
DVに代わっただけの話です。
「あなたはDVを受けています」とご宣託をするのが
カウンセラーではなくて行政やNPO法人という違いもありますね。

過剰なDV保護がラディカルフェミニストによってなされることは
アメリカの幼児の性的虐待の焼き直しだったということです。

科学的な道理をもって批判したロフタスに対して
ラディカルフェミニストたちの感情的な批判が行われ
ロフタスの話が影響を持ってしまうと
「これまで女性たちが築いてきた歴史が台無しになってしまう」
という批判までありました。
共同親権に対する日本のラディカルフェミニストたちの発言と瓜二つです
これを21世紀になってそっくりまねているわけです。


さて、私はハーマン先生が未だにもちろんわが大恩師だと思っています。
それでもハーマン先生はロフタス博士をラディカルフェミニズムの立場から批判しています。
これはどういうことだろう。私はどう考えるべきか。
ということを真剣に考えてしまうわけです。

しかし、幼児期虐待の話では、どうもハーマン先生に分が無いようです。

<治療者のアプローチの限界と弊害>
一つにはハーマン先生は、
精神的不安定な女性たちを治療するという立場を貫いているということが言えるでしょう。
「治療という観点からは、その女性たちが言っていることが訴訟法的に立証されようとされまいと寄り添ってケアしなければならない。」
こういう考え方のようです。
治療の過程の中では、いちいち発言者の発言を疑わないで支持的にアプローチすることが必須なことはあるでしょう。

しかし、その女性の発言が正しいということを前提に女性の行動を援助してしまうと
例えばやってもいない幼児虐待を娘から告発される父親のように、精神的大打撃を与えられ、自死に至るという例も当然あるわけです。
許されない部分もあるはずだと思います。

でも実はここは、ハーマン先生や、ラディカルフェミニズムという思想の問題ではなく、どうやら「治療者の限界」という一般的問題のようなのです。
高名な心理カウンセラーの先生が(これまだ大恩師)、知人のカウンセリングを施術されていたことを知る機会がありました。そのクライアントは、なぜそのような精神状態になったかについて大事なことをカウンセラーに秘匿したまま、周辺事情ばかりを伝えていたようです。そのため、カウンセラーは判断を誤ってしまい、クライアントの身近な人に精神的不具合の原因を求めてしまったということを見ています。身近な人も知っている人なので、その混乱や苦悩を目の当たりにしたという体験があります。
その他、事件を通じて医師の態度も同様なことをたびたび感じています。
つまり、熱心な治療者は、患者の回復にしか興味がなくなるようです。
患者の回復にとって必要があれば、患者の周囲に対する医原性の侵襲を顧みることが薄れるようです。

弁護士というか、対人関係紛争の調停の場合は、
一方のクライアントの利益ばかりを強調すると結局みんな損をしますから
対人関係の相互作用ということを強く意識しなければなりません。
また、まともな弁護士は(法律を知っている弁護士は)
落ち度がない者が不利益を受けることは許されないという考えになっていますから
自分の依頼者の利益のためだからといって
他者に不合理な不利益を与えることを良しとしてはならないのです。
但し現実がどうなっているかを考えると暗澹たる気持ちになるところです。

<身近な人からの虚偽虐待こそクライアントを壊滅させる>

ロフタス博士の本では、
治療のために虚偽記憶を掘り起こした結果
クライアントの症状が悪化して取り返しのつかないことになる例が紹介されています。

これが当然なことだということが今回はっきり認識できました。
ハーマニストの私なら簡単に説明することができます。

ハーマン先生の名著の中でも最も感銘を受けた部分です。
孤立の害悪を論じられたところです。
75頁
外傷事件は「自分以外の人々との関係において形成され維持されている自己」を粉砕すると言っています。
「人間は、単一で生きているわけではない
自我といっても、自分を取り巻く他者との中で自我が確立される。
自分大切な他者とのかかわりを断ち切られることは
その人にとって極めて深刻な影響が生じる。」
という意味だと思います。
これは対人関係学の名称にも影響を与えた
私にとってとても大切な部分です。

幼児期の性的虐待というありもしないことが「ある」
ということになってしまうと
特にそれが両親や兄弟だとすると
「自分」というものの存在そのものが虚構だったということになるわけです。
本来、最も自分をフォーローする人間がいて
人間というものは信じて良いもので、頼って良いものだ
という人間らしい記憶が
自分の存在を否定する危険な存在だという記憶に代わるわけです。

精神的によって立つ基盤が失われるわけですから
自我が崩壊していくことになるのはよくわかります。

幼児期の虐待が、少なくとも真実でない場合、
これを真実だとしたうえで支援をすることは
犯罪的行動だと思います。
冤罪的に不利益を受ける家族もそうですが、
何よりもクライアント自己同一性を崩壊させるという
取り返しのつかないことが起きるからです。

支援の文脈で考えなければならないのは
医師やカウンセラー、行政やボランティア、そして弁護士は
その人のコミュニティーの一員ではない
ということです。

本来その人が生きていくコミュニティーを強化することこそ
クライアントのためになることだと私は思います。

それがなく、その人の自我を形成した人たちを攻撃することは
単なる自己満足の行動だと考えるほかはありません。

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脳科学等が扱う「心」と我々の思っている「心」は別物なのか。心は外界の刺激に対する生理的反応に過ぎないってことなの? 対人関係学の立場は。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



「心はいつ始まったのか」とか、「心の構造」などという題名に心惹かれて本を読むと、想像している内容とは異なり、
ナメクジみたいな動物(アメフラシ)を刺激し続けるとえらを引っ込めなくなるとか
犬がベルの音を聞くとよだれを流すとか
サルが動画を見て、手に力を入れたとか
そういうことばっかり書いてあって、本を読み終わると
「あれ?それで心はどうなってしまったのだろう?」
と肩透かしを食ったような気持ちになるということがあると思います。

脳科学で言うところの「心」というものは、私たちが使う心とは別物かもしれないという疑問を抱くわけです。脳科学に限らず、認知心理学や、進化生物学、そして対人関係学でも同じような意味の心について議論をしているようです。

普通に使う心というと、例えば「心の中で考える」というように、
何かを考えること、
何かをしたいと思うこと、したくないと思うこと、
何かについての価値判断、
誰とは仲良くなりたいとか、誰とは顔も合わせたくないとかいう意味や
可能性の判断
これはできるだろうか、うまくゆかないのではないかという判断でしょうし、
「心が折れる」という言葉からすると、我慢をするとか、気を張る、頑張るなんかも心の活動でしょうし、
「心根の優しい」という言葉からすると、優しい心、意地悪な心みたいにも使われるので、人格、個性などの意味でも使われますね。

このように、私たちは、思考、判断、意思、人格などが心の意味だとして、心という言葉を使っているはずです。
これに対して諸科学では、あたかも外界、環境からの刺激に対する生理的変化を心だと呼んでいるようです。せいぜい、他人が何を認識しているかの想像力、あるいは自分と他人の区別というものが含まれる程度です。

一般に使われる心と科学が扱う心は、別物なのではないかと疑問を持つことは当然かもしれません。

これについては諸科学というか、諸科学の学派によって説明の仕方が違うようです。あまりこの問題が正面切って論じられることはないのですが、他の学派からの批判の対象になっているという形でうかがい知ることができるというちょっと裏口からの評価になります。

極端な学説では、まったく一緒だと考えているようです。つまり心なんて、ナメクジみたいな動物がえらを引っ込めることとまったく一緒だというものです。個性や人格の違いというものやあるいは自由意志などというものは、実際は存在しない。あると思っているのは、錯覚に過ぎない。あくまでも外界からの刺激があってそれに対して反応している体の仕組みに過ぎないという考え方です。基本は、防衛反応であって、生理的な生きる仕組みだというのです。

でも、「確かに個性というものはあるじゃないか。」という反論はあるわけです。地震でも、事故でも、困ったこと、大変なことが起きたとき、逆に何か褒められたときもそうですが、人間がそれぞれ人によって反応が違うことは、我々も常に体験しているわけです。
それに対しては、人によって確かに反応は違う。しかし、それは、遺伝子の仕組みの違いだとか、個人個人の置かれている環境の違いだとかという説明がなされているようです。遺伝と環境のほかに加えるとしたら、各人の経験の違いが個性を形作るということもあるでしょう。犬に噛まれそうになって怖い思いをした人ならば、犬を見たら怖いと思い逃げるでしょうけれど、犬と一緒に暮らしていた人は、犬をみると優しい気持ちになり犬に近づくという違いが出てくるでしょう。
(心の研究と記憶の研究では同じことが論じられることが多くあります。)

でもそういう個性があるということを認めてしまうと
心というものを突き詰めて解明しようとしても、個性によって異なるということになってしまえば、心を研究しても意味がないのではないかという感想も生まれてしまうかもしれません。
しかし、大きな法則自体は変わらないわけです。例えば、熱に障ると熱いと感じて手を引っ込めるとか、けがをすれば痛いと感じるとか、根本的なことは程度の違いはあっても大筋はそれほど変わらないわけです。他の動物ではなく、人間としての共通項が確かにあると思います。

一つに大きな視点から、社会の在り方について科学は役に立つでしょう。犯罪を実行しやすい心を取り巻く環境があるのであれば、その環境を解消することによって、犯罪が起こりにくい社会を作ることができる。
夫婦や家族が仲たがいしやすい環境があれば、それを解消することによって、夫婦や家族が仲たがいしにくく、子どもが安心して育つ人間関係を作るようにすることができる。
いじめが起こりにくい学校、安心して協力し合う職場等、それですべてが解決するわけではないけれど、不具合を起こりにくくするということができやすくなるかもしれません。

個別の人間関係、あるいは個別の人間の問題点も、可変要素である遺伝(もともとの性質)、特殊な環境の有無とその影響の程度、生い立ちなどその人が育ってきた環境などを考慮に入れれば、不具合を解消する方法が見つかるかもしれません。

だから、個性があったとしても、あるいは心が外界に対する生理的変化だけではなく別の複雑な要素があるとしても、「科学的な意味での心」を研究することは意味があることだし、大きな力を得ることができる可能性が高いと思われるのです。

逆に「科学的な意味での心」を認めなければ、
つまり、人に共通の心なんてない。心は全く千差万別だということになれば、
犯罪をしてしまうのは、その人の心の問題であって社会の問題ではないとか、
離婚をするのは、あくまでも夫婦の問題であって、どうすることもできないとか
いじめや虐待やパワハラは、怒るときには起きてしまい防ぐことはできないものだということになってしまいます。
それも極端な考え方だと私なんかは思うわけです。弁護士という仕事柄、どうもあらゆる社会病理は個人の心の問題だけではないのではないと感じ続けてきました。
もしかすると、犯罪にしても、離婚にしても、いじめや虐待、パワハラにしても、そうするように追い込まれてしまう要因があるのではないかという疑問を持ち続けてきました。悪い結果、ひどい行為が、その人だけの問題で起きているということでは、解決が付かないという実感が募ってゆきました。

心には共通項がある。すべてを解決できるわけではありませんが、共通項、あるいは法則を見つけ出せば、ある程度は不具合を予防し、あるいは軽減ないし解消することができるのではないかという気持ちが強くなりました。
その人個人の責任もあるでしょうが、その人個人ではどうしようもなかった部分もある。その両方を認めないと予防も改善も効果が上がらないのではないかと考えるようになりました。

おそらく、そこからはみ出した個性がもしあるとすれば、それを他人がとやかく言うことではないのでしょう。人間の心を科学的に解明するとは、不具合を解消し、人間が幸せになるための方法を考える範囲で解明されればよいのだと思います。

こういう目的に照らして考えた場合
科学的な意味で、つまり、心も自分を守るための仕組みであり、基本的には外界の刺激に対する生理的反応であるとして、心を研究することが有益であろうと思って、いろいろ考えているのです。


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