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埼玉医師殺人事件報道「母親の治療に不満」という見出しに対する疑問 2 原因はマスコミが考えているそのはるか先にある。結果があるから原因があるということがどういう意味で間違いなのか。犯罪など社会病理の予防とは何か。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

令和4年1月27日の医師殺人事件についての報道で、被害者にも落ち度があるかのような報道だと私は感じたので、前回その内容を記事にしました。今回は、なぜこのような報道がなされたかについて、別の視点で考えてみました。
その視点とは、令和3年11月の中学生の事件、12月の大阪クリニック事件、そして今回の事件の報道に共通していることとして、「加害者は合理的な理由をもって加害行為をしている。」という考えが背景にあるのではないかということです。つまり、「犯罪を実行するのはよくよくのことで、犯罪の相手つまり被害者に加害者が恨みなどを抱く強い原因があって、初めて犯罪を行う」という考えです。
しかし、犯罪というのは、
「それほど合理性のある単純明確な動機があるわけではない」
と私は感じています。
犯罪をする人に限らず、およそ人間は、自分を害する人に対して怒りを向けるわけではありません。そうではなくて、怒りを向けやすい人に対して、その人以外の人対する負の感情のエネルギーも合わせ足して、怒りを向けるということがむしろ通常です。加害者の怒りの原因と被害者の行為があまり関連しないことは実に多くあります。
例えば、会社の上司から一日中行動を監視されて心理的に追い込まれた人が性犯罪を起こすとか、暴力団員の知り合いに自分の名前や住所を使われて違法取引をされている人が放火をするとか、原因は別にあるけれど、加害しやすい相手に加害行為を行うという不条理があることがむしろ犯罪の大勢だと思います。そういう場合の警察の調書では「むしゃくしゃしてやった」と記載されます。被害者からしてみると、とばっちりの被害ということが多いわけです。
一見関係のないことが、心理的圧迫という通路を伝わって、原因のない人に被害を与えているわけです。万引きなんかが典型的ですよね。通常は店に原因はないわけです。心理的な圧迫からの解放を求めすぎて、それが一番の行動原理になってしまい、些細なきっかけで犯罪を実行するということになります。この些細なきっかけで犯罪を起こしうる状態、生活環境を私は「犯罪環境」という言葉で説明しています。これはまた別の機会に。
これは犯罪だけに限らず、夫婦問題でもあることはわかりやすいと思います。職場で上司からコテンパンに叱責されるとか、クレーム処理をしていたらこちらに怒りが向けられるとか、職場で負の感情が蓄積されている場合、家族の些細な言動が、自分を否定しているかのように深刻に聞こえてしまって、驚くほど感情的な発言をしてしま足りということもあると思います。虐待や自死をはじめ、社会病理一般には共通の側面があります。
もちろん、犯罪環境にあったから犯罪が許されるわけではありません。犯罪環境にあっても犯罪を行わない人が圧倒的多数でもあります。それでも、予防の観点からは、被害者を出さないということを第一に考えた場合はこの犯罪環境を改善していくことがどうして行われなければならないと思うのです。
しかし、3件の報道では、いじめにあっていたために刺した、トラブルがあって放火した、治療に不満があって射殺したという単純な図式で報道されているわけです。あたかも、犯人は被害者に対する怒りから犯罪を実行したかのような報道です。しかし、本当は、もしかすると3件とも、「むしゃくしゃしてやった」というパターンの犯罪だったかもしれないです。被害者はたまたまそこに居合わせただけというパターンです。それなのに、事件の全貌が明らかになっていない段階で、拙速に、被害者や家族の人権に配慮しないで、原因が被害者にもあった可能性があるという報道表現になるのか不思議でなりません。
おそらく、警察が被害者の行為に原因があるかのような発表をするということは、一つには、国民感情として、「理不尽な行き当たりばったりに人が殺されるということを認めたくない」という無意識のニーズがあるのかもしれません。「理由があったから被害にあったのだ。理由を作っていない自分たちは被害にあわないだろう」という感覚を持ちたい、少しでも安心したいというニーズです。
悲惨な事件であればあるほど、自分は同じような被害にあいたくないという気持ちを強く持ちたいものです。被害者に原因があったというならば、「原因がない私には関係がない。被害にあわないだろう。」と感じやすいわけです。しかし、それで国民が安心したとしても、原因がある可能性があると言われた被害者とその家族は傷ついているのです。通常反論の機会も与えられません。
よく言われることは、性犯罪には女性に原因があるかのような説明です。服装に乱れがあったからではないか、加害者を誘うような行為があったのではないか、などと何も知らない人たちが、その可能性としてあるいは決めつけでインターネットなどで語っています。しかし、実際は、被害者が女性であるだけの原因で被害にあっているということが実態です。だから、予防のためには、言動を慎むとか、服装に気を付けていただけで性犯罪の被害にあいにくくなるわけではありません。真夜中に、一人で外を歩かないことが一番効果があるわけです。このように、「自分が安心したいために事件を勝手に色塗りする」という論法は効果的な予防をさせなくするというミスリードにつながります。これをマスコミが行うことがいかに危険なのか想像がつくことと思われます。

怒りが原因に向かうのではなく向かいやすいところに向かうという私の考えが正しいならば、真実は、被害者の方たちが良い人だったから被害にあったということになります。つまり、包容力があって、優しい人で、自分を差別しない、自分に反撃してこないだろうという感覚を人に抱かせる人を分け隔てしない立派な人物であったために、怒りを向けられやすかった可能性があります。実際の世の中では、安心できる人、良い人、優しい人に怒りが向かうようにできているように思います。今回の事件も、犯人がどう語ろうと、治療に不満があったから殺人行為をしたわけではないと思うのです。
犯罪を実行する人は、社会との関係で、あるいは自分の絶対的に必要だと思っている人間関係の中で、自分が仲間として認められていないと感じていることが犯罪を誘発する可能性があります。収入などによって社会的な不遇にあることも、犯罪環境になりえます。

犯罪が起きる仕組みをあまり単純に考えてはいけません。いじめがなければ不合理な殺人が少なくなるわけではありませんし、夏でも暑苦しい格好をしていれば性犯罪にあわないということもありません。ピンポイントで予防ができるわけではありません。犯人の言動をうのみにして、その原因を除去しようとしても犯罪は減らないと思います。
だからと言って対症療法をしないということも間違いです。効果的な予防とは、対症療法と、犯罪環境の改善のような、根本的な人間関係の改善、社会的不遇の緩和、あるいは孤立を解消していくという地道な対策が同時に行われて行って初めて効果が上がると考えています。だから、対人関係学は必要な学問分野であり、予防法学としての意味合いも強くあるということなのです。


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怒り依存症 怒ることで幸せになれる条件と、怒り続けるしかないことになってしまう不幸を産むメカニズム [進化心理学、生理学、対人関係学]



<怒りが幸福を呼び込んだ事例>

怒りという感情も人間が生きるために必要な感情だと思います。

ある人間関係に関する事件で、
私の依頼者にも落ち度があって、
そこを攻撃されて落ち込んでしまい、
立ち直れなくなって、うつ状態になって通院していました。

ところが、怪我の功名みたいな出来事があり
突如、相手方に対して怒りが込み上げてきて
相手方と気持ちの上で決別することができるようになりました。

怒りを持てるようになった結果、
ストレスを感じ続けていた人間関係から
自分の意思で離脱をすることができました。
その結果ストレス自体が無くなったのです。
現在は、健康で、穏やかに、楽しく人生を謳歌されています。

この仕組みというのは以下のように説明ができると思います。

私の依頼者は、自分の失敗が原因で、
自分と相手の人間関係がダメになってしまいそうだ
自分がその人間関係から追放されてしまいそうだ
という感覚になっていたのだと思います。

相手方はその失敗を執拗に責めてきたわけです。
私の依頼者はますます、
その人間関係から追放されるという危機感が強くなりうつになりました。
追放されたらどういう実害があるかということをかんがえたわけではなく、
ただ、人間関係からの追放ということに危機感を感じさせられていた
ということになると思います。

しかし、怒りによって、相手を責める気持ちを持つことによって
危機感を感じることが中断したのだと思います。
だいぶ気持ちが楽になったのだと思います。

おそらく、追放の予期不安が苦しかったのですが、
実際に自分でその人間関係からの離脱を決意したとたん
離脱による実害が実はたいしたことがなく
予期不安の苦しみよりもよほど楽だった
ということを実感したということだったのだと思います。

ここでいう不安、危機感というのは
その人間関係から自分が外されそうになっているというもので
何とか外されまいとしがみつくので余計苦しいのです。

外されてしまうと考えると
何かとてつもなく悪いことが起きてしまうのではないか
ということが不安の正体のようです。
ところが、実際その関係から外れてみれば
(厳密には、自分から外れようと決断をすれば)
「なんだこんなものか。こんなものなら恐れることはなかった。」

と別離という危険が現実化したことによる危険の実態を把握できたことで
予期不安から解放されたということなのだと思います。

このケースは怒りによって危険の感覚自体が喪失したケースなので
まさに怒りが人を救った事例でした。

<怒りが依存症のようにやめられなくなってしまう事例>

危険の状態が変化がなければ怒りによって人は救われない
さらに、怒りは放っておいてはなくならないので
ずうっと怒りが持続してしまうということを
それは危険の感覚も持続して精神的に消耗するということを
今回はお話しします。

人間に限らず動物は
危険を感じた場合、3種類の方法をとります。
逃亡(flight)
闘争(fight)
凍結(freeze)
このどれかの方法を自動的に(本能的に)とることによって
危険から身を守っているわけです。

逃亡と闘争については、生理的反応が一つです。
つまり、感覚野から扁桃体に信号が出され危険を把握し
扁桃体から副腎皮質等に指令を出して
筋肉を動かしやすい血流変化を起こして
逃げたり戦ったりしやすい体の状態にするそうです。

逃亡時の感情が、恐怖の感情ということになり、
今は安全ではないと感じ続けることによって
いつまでも逃げ続ける心理状態という便利な感情が作られるようです。
簡単に安全になったと思わないので、逃げ切ることができやすくなるわけです。

闘争時の感情は、怒りの感情ということになり、
いつまでも攻撃し続けることに便利な感情になるわけです。
相手を完全に叩きのめすまで攻撃をやめないから
確実に相手を倒すことができるからです。

感情と行動は切っても切り離せないようで、
逃げるから怖くなるという順番もあるし(ウイリアム・ジェームズ)
攻撃するから怒りもわいてくるという順番もあるようです。

そうすると冒頭の例では
自分の失敗とそのための人間関係の切断が怖くて逃げてばかりいたから
逃げることばかり考えていたために益々苦しくなってうつになっていった
という側面もあるのかもしれません。
そして、怒りに転じたことで、怖さを感じなくなった
という説明もありうるのではないでしょうか。

幸いなことに、冒頭の例では責める相手と縁が切れたので
責められることが無くなり、
恐怖も怒りも必要が無くなり
穏やかに生活することができるようになった
と説明できるのではないでしょうか。

これに対して
怒りが苦しさを軽減するという事例をまず挙げて
そのメカニズムとイメージを持っていただき
怒りが持続していくという事例を順に説明していきます。

例えば
職場で自分がミスをして上司に叱責された場合、
自分が悪かったと感じるだけだと
自責の念が生まれるだけですから
職場における自分の評価がずうっと低いままかもしれないと
危機感に襲われるだけです。

これが例えば、上司の指図の仕方が悪かったのだとか
同僚に足を引っ張られたのだとか
他人に原因があるとして、他人を責めると
自責の念が少し軽くなるようです。

また、夫婦間では、
妻が夫から落ち度を指摘されることがあり
自分に対して、夫から否定評価されるという危機感に対して
「そんなことを落ち度だと思う夫が悪い」
と逆切れをすると、逃げ場がないという意識は解消されるようです。

つまり、逃亡は、逃げなければならないという意識を作り
「危険がある」という危機感に加えて、
「逃げなければならない」という
もう一つの危機感や負担感を持つようです。

逃亡の意識から闘争に意識を転換し、
感情も恐怖から怒りの感情に転換することによって
このもう一つの「逃げなければならない」という負担感から
解放されることになるようです。

これはとても精神的負担を減らすようです。

ネズミとして逃げるよりも猫として追う方が気が楽でしょう。

職場の問題と夫婦の問題と例に挙げましたが、
人間の心理はもう少し複雑なようです。
職場で、同僚が大きなミスをして会社にいられなくなり
上司からパワハラのような叱責を受ける出来事があるとします。

仲の良い同僚であればあるだけ
自分が何とかしてやらなかったかとか
これから自分がフォローしてやらなければならないのではないか
とかつい考えてしまうわけです。

どうやら人間は仲間に貢献できなかったということを感じても
危機感を感じるもののようです。
貢献できないということで自分の評価が下がる
という危機感を感じるのでしょう。

でも、実際は自分が何もしてやれないと思ったり
「気にするなよ」などと声をかけてしまったら
今度は自分が上司から目を付けられるのではないかという
現実的な、新たな危険もあります。
かばわないことで同僚に対して後ろめたさも感じるでしょう。

とにかく危険を回避しようとするのも人間のようです。

この危険を感じることを回避しようとする方法として
怒りを発動させるわけです。

つまり怒りによって
自分の危機感を感じなくさせるわけです。
「同僚が、不真面目に仕事していたから悪かったのだ」とか
「やるべき手順をしない単純ミスをするなんて
プロとしてあまりにも失格だ」とか
同僚を責めることで、
自分を責めることをしなくてすむことになります。

怒りが負担を減らすということを知っていてやるというのではなく
怒りを持ってみたら少し楽になるという学習をするのでしょう。

学習効果が高い人は、何か困ると
すぐに怒りを他者に向けるようになってしまうのかもしれません。

似たようなことはいじめでも起きます。
いじめられている子がいるとします。
当初は一人ないし少人数の主犯者グループだけがいじめているのです。

周囲の子どもたちは、いじめられている子がかわいそうですから
あるいは、正義に反することですから
いじめを止めなければならないと自然に感じます。

いじめられている子どもと近しい関係だったりすると
あるいは感受性の強い子だったりしても、
いじめられている苦しさや恐怖、強烈な孤立感に
共鳴してしまい、さらに苦しくなってしまいます。

もちろんいじめを止めたりすると
今度は自分がいじめられるという
新たな危険が来ることがわかっていますし
それは予期不安なので、
実際の不利益よりも大きな不利益を
漠然と予想してしまいます。

この場合怒りを加害者に向けることが合理的なのですが
加害者と自分の力関係を考えてしまうと
怒りは加害者に向かいません。
怒りは、勝てると感じる相手にしか向かいません。
例外的に自分の仲間だと感じる場合に
負けても仲間を守らなければならないという感覚になったときだけ
加害者に怒りは向かいます。

いじめが悪化する場合には
そこまでいじめられている子どもを仲間だとは感じないのでしょう。
あるいは加害者も被害者も仲間だと感じているのかもしれません。
いずれにしても怒りは加害者に向かいません。

いじめを止めない別の子どもに怒ったり
いじめられている子どもに怒りが向かうようです。

いじめられていることは、いじめられる理由があるからいじめられる
というようなことを心の中の言い訳にして、
さらに、いじめられている子どもを心の中で責めるわけです。
部活をさぼるとか、借りたものを返さないとか、調子に乗っているとか
そうして、いじめに加担しないにしても
いじめられている子どもに怒りを持つわけです。

怒りを持つことによって、その場をしのぐことができます。
怒りを持たないで自分を責めているような場合に比べると
とても楽になります。

でも怒りを感じ続けているということは
危険を感じ続けているということなのだと思います。

自分に危険を感じない場合は
怒りを感じる必要がないからです。

危険が去れば怒りを感じなくなるはずです。
怒りという感情もエネルギーが必要ですから
怒り続けるだけでとても疲れてしまいます。
しかも根本的に危険を感じ続けているのですから
この観点からも精神的な消耗が起き続けることになるのでしょう。

人間関係の紛争を見ていると
どうも怒りを感じ続ける理由となる
過去の危険があったことは間違いないのですが
いろいろな理由で怒りだけが継続してしまい
感情の収拾がつかなくなって
精神的に追い込まれるという現象があるように思えてならないのです。

怒り、恐怖、あるいは焦燥感などは
自分を守るための感情のシステムです。
人間の心が成立した今から200万年前は
危険といっても生命身体の危険でしょうから
こういうやみくもに危険を回避する方法が
一番有効な方法だったのでしょう。

ところが、現代は人間関係が複雑になってしまいました。
逃げたり戦ったり焦ったりという危険回避のシステムは
人間関係をさらに悪化させるという逆効果になることがあっても
有効に危険を回避することから遠ざかってしまうようです。
現代の人間の不安を解消するためには
理性を働かさなければ解決しません。
それどころかより大きな不利益を受ける危険があります。

過度の苦しみから逃れる方法としての怒りも
怒っている以上、精神的に消耗していきますし
危険から逃れられたという感覚を持ちにくいものです。

特に相手を叩きのめしたという実感がない限り
怒りは解消することができない
怒りが解消できない以上危険から逃れたという感覚を持てない
こういうデメリットがあるように感じられます。

人間関係については、決着がついてしまったのに
(それは不合理な決着であることが多い)
いつまでも、怒りを持続して、
危機意識を反芻しては、また怒るということを
延々と継続しなければならない怒りスパイラルに陥る
そんな不幸があふれているように感じられるのです。

漠然とした不安を感じている人に対して
不安の原因が特定の個人にあるということで
その特定の個人に対しての怒りをあおることをもって
「支援」だという人たちがいます。

確かに怒っているときは、
精神的負担が幾分軽減されて楽になるかもしれません。
しかし、怒りが継続していくと
終わったはずの危険意識も継続してしまい
場合によっては
怒りなのか恐怖なのかわからないような感情が
長年継続してしまう事例もたくさん見られます。

間違いなく不幸だと思います。

こういう解決しない支援をするのは
「当面の解決をすれば後は支援は終わり」
という支援がほとんどだからです。

まるで、昔の童話みたいに
王子様とお姫様が結婚してめでたしめでたしみたいな
そんな印象を受けるときもあります。

現在の感情ばかりを考えて、将来のその人を考えず
とりあえず不安を解消すればよいやというような
刹那的支援が横行しているように思います。

しかし、それでは不安が解消しているわけではなく
不安が怒りに姿を変えて継続しているだけなのではないでしょうか。
危険を解消し、怒らなくて済む状態に向かう
こういう発想の、人とのかかわり、解決の方向を
考えていかなければならないと私は思います。


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他人から精神的に追い込まれたことに気づくためのセルフチェックと対処方法 付録としての解説 傷つくのは仲間だと思うから 本能から理性にどのように転換するか [進化心理学、生理学、対人関係学]


<場面設定は対人関係に不具合=トラブルがある場合>

自分が精神的に追い込まれているということは
なかなか自分ではわからないものです。
「なんか苦しいな」とか、「しんどいな」とは感じていますが、
自分が精神的にすでに追い込まれているために
ものの見方感じ方が変容してしまっているとか
思考パターンが拘束されていて自由に考えられないとか
体調が悪いということさえも気が付かないことが多いようです。

もしも今自分が
精神的に追い込まれているのだとわかれば
その原因を探すなりして
解決しようとするのですが、
わからなければ解決しようとすることはできません。

何も対処をしないと自分をますます追い込んでしまい
四六時中、苦しんだり、傷ついたり、怒り続けたり
どんどん悪くなっていってしまいます。

私なりのセルフチェックと対策をご紹介します。

これは、脳や身体の不調で追い込まれている場合や
薬の副作用などでの追い込まれる場合ではなく
あくまでもだれか他人の行為によって
精神的に追い込まれている場合に限定した対処方法です。

<セルフチェックの方法>

セルフチェックの項目は
① 眠れない等、睡眠が快適ではない
夜中に一人で布団に入ると
その人とのやりとりを反芻するとか
妙に興奮状態となりいつまでも眠れない。
どうでもいいやと思えなくなってしまっている。
寝ているか寝ていないかわからない時間がある。
明け方に起きてしまい目がさえてしまう。

②食欲がなくなる。
おなかがすくということがあまりなくなり
何か食べるのだけど、おいしいという感じが弱まっている。
胃が膨らんだような感じがして抵抗感があり
食べなければ食べなくてよいという感じがしています。
これが激しくなると
その人と顔を合わせなければならない時に嘔吐をすることも出てくるようです。

③逃れられないという拘束感
精神的に追い込まれるまでは、
人間関係を断ち切るということを考えることができるようです。
退職しようとか、転校しようとか、その集まりに行くことをやめようとかですね。
ところが精神的に追い込まれてしまうと、
その人間関係から離脱するという選択肢がなくなるようです。
解決方法がわからず、ただ苦しみ続けるようになります。

④実際の被害よりも今後さらに拡大していくという見通しを持ってしまう。
例えば取引相手が加害者だとすると
その取引がなくなるだけでなくて
その人が某会社となり、他の取引相手に対しても働きかけるとか
会社に働きかけて自分の居場所がなくなるとか
将来的に自分は仕事を辞めなければならなくなるとか
どんどん被害が拡大していくことばかりを感じるようになります。
その人間関係だけの不具合であるのに
あたかも、自分が世界の悪訳(ヒール)になることが確実かのような
むやみな、無意味な悲観的な考えを持ってしまいます。

⑤加害者以上に、加害者の周囲の人間を恨むようになる。
この項目は、あまり説明されているところを見ませんが
精神的追い込まれた場合の特徴として、よくみられることです。
「自分の惨状を他人も理解するべきだ」という意識が強くなりすぎるようです。
援助を希望しているということなのですが、現れ方が不穏当になります。

本来であれば、自分を追い込む張本人に対して、怒りを向けるべきです。
しかし、張本人ではなく、張本人の周囲にいる人間に対して
張本人の行為を放置し続けていることについて怒りが向いてしまうようです。
加害者に対して怒りを持てない分
周囲の人に対する怒りの感情が向けられるというような印象を受けます。
周囲の人間にとっては他人事ですから、
他人のために張本人と感情的対立を生むことが嫌ですし、
今度は張本人から自分に攻撃が向くことを恐れますから
日頃他人には正義感を振りかざす人も
より仲間である張本人に対して異議を申し立てるということはなく
より他人である被害者を助けることはしません。

被害者は、張本人の周囲の日頃表明されている正義感に
過剰な期待を持ってしまいますから
自分のために何もしてくれない現実を見ると余計に落胆するわけです。

但し、その中にも、被害者の方に心情的に近い人もいて
精一杯の援助をする場合もあるのですが、
精神的に追い込まれている人は
援助行為の要求度も高くなっていて
それがその人の援助行為だということを評価できなくなっています。
無駄に傷つきやすくなっているし、
自分で孤立に向かってしまうという仕組みが生まれているのです。

自分が一番気が付きやすい項目は⑤かもしれません。
自分のトラブルの相手は誰か
その相手ではなく、相手の周囲の人間に対して
激しい怒りを持っている、あるいは激しいじれったさ
過剰な期待を持っているということは、比較的気が付きやすいのでしょう。

⑤に気が付いて、自分の異変を自覚して
④、③、②、①と気づきが進んでいくのかもしれません。

<自分が精神的に追い込まれていると自覚した次の対策>

1) 生命身体が安心であることを確認すること

精神的に追い込まれている人の体内では
あたかも間もなく自分は死の危険に直面することになる
ということと同じような生理的反応が起きています。

無意識にそのような心理状態になっているようです。
危険の程度についての判断が付かなくなっています。

ですから、まず自分が生命身体の危険がないことを自覚しましょう。
例えば深呼吸です。
深呼吸をするとなぜ落ち着くかというと
対人関係上緊張するべき事態があったとしても
まさに生命身体に危険がないということが自覚できるからです。

これは頭で考えるのではなく
全身を使って息を吸ったり吐いたりすることによって
自分の体を感じるということが肝心です。

だから、息を吸ったときのおなかや胸の体の動きや
吐いたり吸ったりするとき空気がのどや口を通る感覚を
十分感じることが大切です。
すると皮膚感覚が、「自分がいま安全な状態にある」
ということを自然に自覚させてくれるようです。

2)「笑って」みよう

もちろん笑うような精神状態ではありません。
でも、これも効果があると思います。
やるべきことは、安心できる場所で
口の両端を上に上げるという所作です。
可能であれば目じりを下げましょう。

劇的に心境が変化するようです。
体内で生理的反応が起きるようです。

3)感謝できることを探そう

どん底に追い詰められたときは
「自分に対する他者の援助が足りない」としか思われません。
何かに感謝できない状態になっています。
逆の行動をするということで巻き戻しをしているわけです。

「飢えていない」ことに感謝したり
「雨風がしのげる住居があること」に感謝をしたり、
あるいは、
「こんな自分を嫌がらずに一緒に生活してくれる家族に」
大いに感謝ができることに気が付くかもしれません。
(家族に申し訳ないと考えている人が多いと思いますが、
この「申し訳ない」を「ありがとう」に変換してみるのです。

そして、感謝ができることを見つけたら
さっきの笑う行為をその都度やってみましょう。

先ず形、心なんて後からついて来ればよいと思います。

4)自分が所属するべき、貢献するべき仲間はどの仲間なのかを考える

自覚することはありませんが、
現代人は、同時に多くの人間関係の中で生きています。

家庭、学校、職場、地域、社会活動、友人関係
それぞれ別々の仲間、人間関係です。

人間の心が生まれたときは、たった一つの群れだけに所属していました。
このため、どんな人間関係であったとしても
仲間だと考えてしまい、嫌われることを極度に恐れてしまうのです。

だからどうでもよい人間関係の不具合があっても
この世の終わりのようなすべての人間関係で
自分の評価が低下するような気持ちにさせられてしまうのです。

その結果、本来自分が大切にするべき人間関係において
あなたは、自分の果たすべき役割を十分果たすことができず、
本当の仲間を傷つけてしまうということがあるわけです。

どうでもよい人のために、
大切な人を傷つけてしまう
こんな理不尽な話はありません。
早速これを自覚して、不合理から抜け出しましょう。

対策編の1)から3)の行動は、
とらわれのあなたの思考パターンをニュートラルにして
頭を動かすことができるための準備運動みたいなものです。
さあ、ここから考えを始めましょう。

5)仲間を大切にする

仲間を大切にするというアクションを開始しましょう。
日常生活で、相手の嫌がることをしない、やってほしいことをやる
相手の弱点、欠点、失敗を笑わない、責めない、批判しない
そういうものがあれば自分が補うとともに
感謝と謝罪をはっきりと声に出して行う。
ねぎらうということもはっきり意識して、チャンスを待ち構えましょう。

将来的な問題では、
あなたを追い込める張本人と決別すると
仲間に不利益が加わるのではないかとそういう後ろ向きの思考から
自分が仲間のためにできることを考えて、増やしていく
という当たり前の考え方に転換をしていくということが大切です。

どうしても追い込まれていると悲観的な考えに陥りがちなのですが、
それは本能に任せて思考が停止しているからです。
理性をつかって考え始めるということが
ここからの作業の根本ということになります。


6)自分を攻撃する他人を仲間ではないときちんと自覚すること

あなたが、本当の仲間を自覚して、
本当の仲間と「理性的な仲間づきあい」をするとともに
本当の仲間以外の人間との関係を切り捨てていく
特に張本人は、仲間ではないということを強く自覚しましょう。
言葉に出して自覚することも効果的でしょう。

あなたに対して理不尽な攻撃をしてくる
しかも、反撃しにくいような攻撃をするというのであれば
そんな人間は仲間ではありません。

あなたの感情や利益を無視して
張本人本人やその周囲に利益を与えようとする場合は
まさに敵です。

理性で切り捨てて、なるべくかかわらなくすることが肝心です。

無視、受け流し、気づかないふり
何でも知恵を総動員して関わらないという方法を実践するべきです。


<解説編>特に読まなくても良いですが、読むと全編の内容が良く理解でき、実践しやすい「かも」しれません。

1) 人間が他人の行為によって精神的に追い込まれるのは、その他人があなたと何らかの人間関係があり、濃い場合が多いこと


人間が精神的に追い込まれる場合の多くは
自分と何らかの関係のある人から攻撃されている場合です。

通りすがりの見ず知らずの人から言いがかりをつけられても
よほど恐怖を味わう場合は別として
通り過ぎればその人の顔も忘れてしまうし
確かに不快な印象、嫌な印象は残りますが
精神的に追い込まれるほど引きずることは少ないはずです。

もっとも、通りすがりの見ず知らずの人に言いがかりをつけられる
ということ自体それほどないことですね。

より近しい関係の人から攻撃されると、
より精神的に追い込まれるということになるのではないでしょうか。

この理由は簡単で
人間は言葉を作る前から群れを作って生活することで
肉食獣から自分たちを守ることができて
協力して食料を獲得することができたのですが、
仲間から攻撃されることを恐怖として感じることができたため
攻撃されるようなことをしないで
群れにとどまろうとした
それで群れが形成されていたということに由来するわけです。
約200万年前には、この関係とこころが確立したといわれています。

当時は生まれてから死ぬまで、
ほぼ一つの群れで生活していました
また、30名程度の少人数の群れで生活していたとされていますから
生まれてから死ぬまで群れの仲間は同じメンバーで
運命共同体であり、
仲間から攻撃されるということはほとんどなかったはずです。

よほどの理由がある時だけ、
幼馴染や、生まれた時から知っている仲間を
攻撃するかもしれないという事態になったのでしょう。
だから、仲間から攻撃されそうになっている場合は
自分の落ち度も心当たりありますから
落ち度をカバーしようとして全力で修正行動をしたのでしょう。

それこそ、本能的な恐怖を背景として
なんとか仲間にとどめてもらおうと頑張ったのだろうと思います。

この仕組みは、人間が生きていくためには
合理的なものだったと思います。

また、このような仕組みがあっても
仲間を攻撃するということはめったに怒らず
今から200万年前には
人類は、肉食獣の攻撃や飢えにはおびえながらも
仲間の中にいることで安心することができ
比較的穏やかに生活することができたはずです。

ところが現代社会は、
先ず、何らかの関係のある人も膨大な数に上りますし
それぞれ別の家庭を持っていたり
別の会社に勤務していたり、
とても200万年前の一つの少人数の仲間というわけにはゆきません。
濃い仲間意識は持ちようがありません。

またその人同士の利害対立や
周囲がどちらに味方をするかということで、
関係のある人間を敵だとみなすことができるようになっています。
人間関係が希薄だということはこういうことです。

それでも人間のこころは200万年前とあまり変わっていませんから
どんな些細な人間関係でも
自分が攻撃されることには抵抗力が小さいのです。

ここでいう「攻撃」とは
「仲間から外す」ということで
その予期不安を感じさせる
「否定評価、低評価、落ち度など弱点をことさらあげつらうということ」も
同じ意味として攻撃と感じてしまいます。

人間は、こんなことで、
精神的に追い込まれ、破綻し
自ら死ぬ危険性のある動物なのです。

厄介なことに、200万年前と同じ心の状態ですから
一つの群れで一生涯を終えていたように
人間関係であればどんな人間関係からも
人間は無意識に、攻撃されたくないと思ってしまい、
否定評価をされれば、自分の行動を修正しようと思ってしまいます。

本能的な思考にとどまる場合は
相手は自分の味方のはずだ
それなのに攻撃をするのだから自分が何か悪いのではないか
自分が行動を修正するべきだと考えてしまいます。

しかし、現代社会は人間関係が希薄ですから
相手は自分の味方ではなく
あなたと本当は利害が対立しているかもしれないのです。
一方的にあなたに損害を与えようとしているかもしれない。
それなのに、人間の本能は
自分を責めてしまうように自分に仕向けるわけです。

だから、むやみやたらに人間関係を感じる本能を停止させ
意識的に理性を使って、人間関係を整理する必要があり、
理性を使って本能を停止させることもできることが人間の特徴
だという可能性も持ち合わせているわけです。

人間が相手を仲間だと思ってしまう本能が発動されるのは
「時間的に長い人間関係であること」
「距離的に近い関係であり、頻繁に接触する人間関係であること」
この二つがあれば本能は自動的に発動されてしまうようです。
単なる物理的条件に過ぎないのに、仲間という感情が生まれてしまう
ここに注意が必要だと思います。

2)一つの人間関係の不具合が他の人間関係に悪影響を及ぼすということ

嫌な気持ち、理不尽な気持ちを家庭に持ち込まないということは難しく
過敏になっている精神状態は、
悪意のない家族の行動に怒りを覚えたりすることもあるでしょう。
子どもに対して安心して楽しい家庭を提供することもできなくなります。

既に悲観的な思考パターンに陥っていますから
意味のない行動にも、自分を否定評価していると勘違いが起こり
自分を守るために相手に対してしなくてもよい反撃をするわけです。
専門的な用語で
イライラしているために八つ当たりをしやすい状態になっている
ということにしましょうか。

また、そのような自分の不遇を家族にいうことには
責任感の強い人ほど、無駄なためらいがあり、話し出すことができません。
ただ心配かけたくないということで
無駄に明るくふるまい、ごまかしをします。
これは精神的にかなり負担となり、さらなに精神を消耗させます。

このように、どこかに人間関係の不具合が起きると
どんどん不具合が広がっていきます。
人間関係の修復ができれば修復すればよいですけれど
修復できないで放置することによって病巣は拡大していくわけです。

そんな時は大切ではない人間関係を断ち切るという
外科手術をするべきだということになるのだと思います。

3)追い詰められていると、人間関係の離脱という選択肢が消えてしまう

精神的に追い込まれている状態であると
その人間関係から離脱するという選択肢を
なかなか選ぶことができない状態になっています。

また、あなたの責任感が
その人間関係からであっても、
離脱することは、やるべきことを投げ出すことだというような
無駄な真面目さがあなたの窮地を救うことを妨げることもよくあります。

しかし、その人間関係を維持しなくてはならないということは
単なる勘違いであることが多いのです。
人間はどんな人間関係でも大切に考えてしまう傾向があります。
責任を感じてしまうということですね。

しかし、それは200万年前は妥当した思考傾向ですが
現在では環境に適合しない過去の思考の場合が実に多くあります。

繰り返しますが
「時間的に長い人間関係であること」
「距離的に近い関係であり、頻繁に接触する人間関係であること」
この二つがあれば本能は自動的に発動されてしまうようです。

だから、あなたを追い込んだ張本人が
あなたを自分の仲間だとは思っていなくても
あるいは実質的には人間味のない人であっても
その張本人と長い付き合いであったりすると、
仲間だと思ってしまうようです。

そしてその人が、あなたの利益に従って動いてくれるはずだ
自分を攻撃しないはずだ
攻撃されるのはあなた自身に問題があるからではないかと
自動的に勘違いしてしまうというのが人間のようです。

そしてまじめな性格が、
ひとたび仲間だと思ってしまうと
その人との関係を守らなければならないと
本能的に思ってしまうのです。

4)本当はその人が敵である場合の多いパターン

本能的に仲間だと思ってしまうことを他ちぎるためには
こういう場合、仲間ではないと思うべきだということを
予めわかっていれば気が付きやすくなります。

あなたに損害を与えて他人に利益を与えようとするような人
誰かあなた以外の人、その張本人に限らず張本人が大切にしようとしている人
そういう人に利益を与えるために
あなたに、あなたに原因がなく損をさせることをためらわない人

その人があなたに対して攻撃する理由が
あなたへの嫉妬である場合。
あなたが能力を発揮することで自分の立場が悪くなる
ということであなたを貶めることによって
自分の立場を相対的に上げようとする人、
今の自分の立場を維持しようという
実に個人的なわがままということがほとんどです。

あなたがその人になびかないために
自分の立場に危機感を感じている人

あなたの利益や感情よりも
マニュアルや自分の決め事を優先する人

世間的な評価はともかく
こんなつまらない人たちによって苦しめられるなんて
馬鹿な話ですよ。

あなたはこの世に生まれてきて
そんなつまらない人間との仲で悩む必要はないのです。
そんなつまらない人のために命の危険にさらされる必要はありません。

そして、そんな人を批判もできない人の集まりなんて
さっさと離脱したほうが身のためだということになるでしょう。

あるいはあなたが新人であったり
何らかの理由があり不得意分野があるということで
あなたに対して攻撃的になる人間がいて
その攻撃を周囲が止めないならば
やはりその人間関係からは早々に離脱することが
精神的な健康を維持できるはずです。

家族以外は、離脱できない人間関係はない。
家族でさえも全く離脱できないということはない。
そういう世の中であることを逆手に取るということになるでしょう
最終的には一人で生きていくことも不可能ではない
そういう世の中が既に存在しているわけです。

ところが人間の脳は200万年前から変化をしていない
そのために苦しみが生まれてしまう。
しかし、なぜ苦しみが生まれてしまうか
そしてその苦しみが無駄な苦しみであると気が付くことができれば
精神的に追い込まれた状態から回復することができる
ということになるわけです。

5)方法論としての対人関係療法の考え方

そこから脱却するためには
人間のこころの仕組みと現代の人間関係の希薄さという
こころと環境のミスマッチということを意識して
本能的な思考にストップをかけなければなりません。
これが第1歩です。

この時参考になるのは精神療法の一つの方法論である
「対人関係療法」です。
水島広子先生という方が積極的に書籍を出版していらっしゃいますから
この療法について詳しく知りたい方は
自分に最も関係ありそうな本を読んでください。
とてもわかりやすく書かれています。

(本記事は対人関係学という立場で書かれていますが、
対人関係療法とは全く別の概念です。
あくまでも水島先生の本をお読みください。)

つまり、いくつもあるあなたを取り巻く人間関係の中で
あなたを攻撃している張本人のいる人間関係は
あなたが仲間だと思って大切にするべき人間関係なのか
ということを見極めることなのです。

そして、その本来大切にする価値のない人間関係で悩んでいることによって
あなたが本当に大切にするべき人間関係の中で
あなたが果たすべき役割を果たせなくなっているのではないか
ということを恐れるべきだと思うのです。
つまり、あなたにとって大切にするべき人間関係はなにか
ということを理性でもって考えなければなりません。

そして、大切さの度合いによって
解決方法を変えなければならないということになります。

あなたの最も大切な人間関係であれば
自分の行動を修正し、相手の行動の修正をも提案して
人間関係を修復するという解決方法が選択されるでしょう。

それほど大切な人間関係でなければ
その人間関係から離脱するという選択肢を持たなくてはなりません。
つまり、関係度によって対応、考え方を変えるのです。

6)その人の攻撃は繰り返される。スパっと断ち切ろう。

今回だけ攻撃されているのではなく
また同じようなことがあれば確実に相手は
あなた以外の人の利益のためにあなたを攻撃すると思うべきです。
そんな人との関係を継続しても
どこまで行ってもあなたは苦しくなるだけです。

スパっと人間関係を断ち切りましょう。
形式的には、関係を続けざるを得ないにしても
こころは仲間だと思う必要はありません。
敵だと思ってよいのです。

敵が近くにいると思うと
不愉快な気持ちにはなりますが、
味方ではなく敵だと思うことができれば
以前よりも精神的な負担は軽くなるはずです。

そのためにも、あなたの本当に大切な仲間は誰か
ということを明確にして意識しましょう。
あなたのまじめさや責任感は
仲間のために使いましょう。

その仲間に裏切られるなら
仕方ないと諦められる仲間こそあなたの本当の仲間です。


(付録)プロ野球の乱闘シーンでチーム全員が出てくる切実な必要性と人間らしさ

プロ野球で乱闘が起きると、
チームの全員がグラウンドに飛び出てきますね。
あれはとても重要な意味があります。

選手の一人が理不尽な思い(通常は危険な行為を相手からやられたという思い)
をする場合、自分の存在を否定するような行為をされたと
激しく感じているわけです。
そういう時には、仲間であれば当然に自分を助けてくれる
という期待が生じてしまいます。
これは人間が遺伝子上に組み込まれている感覚だと私は思います。

それにもかかわらず、
極端な話、誰もベンチから出てこなければ
自分には、自分を大切に思ってくれる仲間がいない
という意識を強烈に感じてしまうわけです。

これは精神的に極めて危険な状態になります。

特に、自分が攻撃されているという意識を持つと
仲間に対する期待も高まってしまいます。
逆に自分のために仲間が怒ってくれているということで
本人が落ち着いていくということも期待できます。

だから、その人の怒りが理屈に合わない自分勝手なものであっても、
チームとしてはグランドに飛び出さなければならないのです。
どこまで暴力をふるうかはともかく
飛び出していくことは、とても合理的で必要な行為なのです。

だから、「なんであんたが怒るのだ」というほどエキサイトしている
選手やコーチがいますけれど
これは人間としては仲間を助けるという気持ちからの行動ですから
本当はとても人間的な行動なのです。

仲間に助けてもらえないというだけで
かなり精神的に錯乱するような状態になります。
ましてや仲間から攻撃されると
平気でいられる人間というのは考えられず
大抵はひどく落ち込んだり、怒りを感じて眠れなかったり
そういう状態になってしまいます。

人間は、仲間から見放されるということに
耐えられない生き物のようです。



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家事事件の案件でパニック発作が起きるという報告が増大していることの原因としての、現代の夫婦にとっての夫婦の関係 [進化心理学、生理学、対人関係学]

最近離婚事件の相談を受けたり、代理人として仕事をしていて気になるのが、妻のパニック発作が多いということです。私が夫側から妻の様子を知らされてパニック発作だとわかる場合もあれば、妻側からの相談でパニック発作が起きたことを打ち明けられる場合もあります。パニック障害の診断書が出される場合も多くなってきたような感覚もあります。

事件に出てくるパニック発作の具体的症状で多いのは過呼吸ですが、手にしびれが現れたり、葛藤というより焦燥感が制御できなくなったりしてしまい、救急車を呼ぶということも少なからずありました。体の力が失われてしまい動けなくなるということも報告されています。情動性の反応なのでしょうか。情動性の反応だとすると、ナルコレプシーを思い起こさせます。但し、むしろ眠れないということから不安が原因でパニック発作が起きるという順番のようです。

教科書をつなぎ合わせて考えると、「もともと、精神的に弱いところのあるところに、夫からの働きかけによって逃げ道がないという精神状態に追いやられた。」ということになるようです。「女性の解放は家族から解放することから始まる」という考え方の人は、妻がパニック障害を起こすということは、そこに夫のDVがあると即断してしまいます。そしてパニック障害が夫のDVの証拠だとされてしまいます。

パニック発作は、発作を起こさない人の日常とは異質な出来事です。また、発作を起こしている本人は、このまま死んでしまうのではないかと不安が止まらなくなることがあるようです。また、確かに夫の行動が、直接、間接の原因になっていることも少なくありません。

パニック発作の直接の原因として多いのが、DV以外では、口論をしている場合です。妻が夫に何か言って、夫から言い返されて、さらに追及されるということが多いようです。妻の言い分に共感できる場合もあれば、共感できない場合もあるのですが、夫の側が、妻が窮地に陥っているのに、さらに攻撃を継続していることが少し目につきます。自分が妻に攻撃されたと思って、自分を守ろうということから怒りに火が付き、怒りに任せて、「相手をかわいそう」と思う気持ちを持てなくなり、さらなる攻撃を継続するという感じですか。
気持はわかるのです。中には臓物をえぐるような妻の言いがかりがあり、「それは反撃したくなるよな」というところまではわかるのです。しかし、妻が黙ってしまい、行き場がなくなったところを逃げ道をふさぐような攻撃をしたのでは、やっぱり家族としてはダメなんだと思うのです。怒りという感情は、性質上途中で止められなくなるという特徴が確かにあるような気がします。
但し、夫婦仲が悪くなってしまうと、夫が近くに来ただけでパニック発作が起きたということもあります。この場合は、夫に攻撃をする意図もそぶりもない場合でもパニック発作が起きることがあります。

間接の原因というのは、夫に何かミス(借金発覚とか職場での処分とか)があり、妻が大変ショックを受けている場面です。直接ではないのは、パニック発作が起きる直前には口論などの夫の働きかけがなく、夜寝ているときに発作が起きたり、別居後に発作が起きたりする場合です。おそらくいろいろなことを考えているうちに焦燥感が高じ、不安がいやがうえにも高まってしまったのでしょう。ここには、眠れなくなって、ますます不安になるという流れも多くのケースであるようです。

実務上で知らされるパニック発作は、多くはこんな感じで起きています。パニック発作のきっかけは、虐待とかDVと言えるレベルでもないのではないかなという感じがするんです。口論の場面で、支配を目的とした攻撃とまでは言えないと思う場面でも、パニック発作は起きています。
もちろん、「DVや虐待ではないから夫の行動は自由だ」というわけではありません。妻が逃げ場のない状態になっているのだから、その時点で攻撃は止めて、後でゆっくり話し合うなり、水に流すなりするべきだと思います。夫からすれば、妻が最初に自分に攻撃を仕掛けてきておいて、自分が我慢しなくてはならないなんて不公平だと思う人が多いと思います。しかし、家族ですから、不公平とか正義とかを持ち出してはダメなんだと私は思っています。

特に妻が多いのですが、時折、自分の感情が制御できず、発言を抑制することができなくなる時が、多かれ少なかれ誰にでもあるようです。「うちはないなあ。」と言われる方はとても幸運な方だと思うので、奥さんに感謝するべきだと思います。
「妻のヒステリーを真に受けてはだめだ」ということなんですね。我慢しなければならないし、古今東西、男は我慢してきたというのが、多くの文学作品から読み解けます。(但し、限界はあるし、馴れるまでには時間を要するということも真実ですね。)
そして「泣いたら終わり。血が出たら終わり。」というのが、小さい頃の地域の年齢混合での遊びや喧嘩のルールでしたが、最近の若い人たちはよくわからない人と遊ぶということがないから、ルールが身についていないのかもしれません。過呼吸になる前に、相手が言葉に詰まったら、口論は終わりにする。後で冷静に話し合うなり、水に流すなりということなのだと思います。
これ実はなかなか難しいことです。動物である以上、自分を守ろうとすることはどうしても発動してしまいます。そして、怒りを伴って防御の体制になると、同じように攻撃衝動を抑えることが難しくなるからです。本能的には抑えられないならば、予め、妻から理不尽な攻撃があることがあるという知識を身につけておいて、その場合でもできるだけ我慢して、逃げ場のないところに追い込まないという覚悟を予め持っていなければならないということなのだと思います。
そこで男女平等だとか正義に反するなんてことを家庭の中に持ち込んで、自己を正当化しようとすると、DV認定がなされた上の連れ去り別居離婚がどんどん増えていくだけだと思います。

(それでも、妻の仕打ちの極端に悪い例があり、夫が自分で自分を守れないケースもあります。そういう場合は、離婚を考えるしかないというか、離婚という選択肢を抱えておかないと極めて危険なことになるので、そちらの方向で考えることもやむを得ないと思います。命を守ることは肯定されなければなりません。その場合こそ、条件反射的な反撃をせずに、証拠をとって後に備えるということが鉄則です。)

それにしてもです。

それにしても、パニック発作を起こしやすくなっているのではないかという疑念がどうしても残るのです。パニック発作は不随意的な運動ですから、芝居を打つことはできません。発作は起きていると考えるべきです。

しかし、それだけDVが増えたと考えることはどうしても納得ゆかない。「そんなことでパニック発作が起きてしまうのだろうか」という事例が大変多いのです。

どうしてかという思考の歩ませ方は、
①パニック発作を起こしやすい個体が増えたのかという生物学的な変化が起きたのかということと
②パニック発作を起こしやすい人間関係が増えたのかという環境的、対人関係的変化が起きたのかということだと思います。

前者は私にはわかりません。前者と後者は矛盾するわけではなさそうなので、とりあえず後者だとすればどういうことかということを考えてみようと思います。

その上で考えたのは、
「現代の夫婦は、夫婦の関係が壊れることを極度に恐れている」ようになったのではないかということです。しかし、それを自覚することはありません。
「いつも断崖絶壁のがけっぷちに立っていて、相手から愛想を突かされてしまうと、がけ下に転落するしかない。」
そんな切羽詰まった感じなのです。
だったら、相手を大事にすればよいのですが、
相手を大事にするという発想を持つことができず、自分を大事にしてしまうのです。自分を守ることに精一杯という感じを受けてしまいます。
それと仲良くする方法がわからないという感じです。

つまり、家庭でも、学校でも、会社でも、地域でも、友人関係でも、他人と仲良くして、心地よい人間関係を作る方法がわからない。波風を立てないように我慢をしてしがみつくか、他人と人間関係を結ぶことをはじめからあきらめたり、時間や場所など限定的な付き合いしかしないということなのではないでしょうか。

それでも繁殖期の勢いで結婚をしてしまう。そうすると、夫婦という人間関係だけが自分が帰属する唯一の人間関係だと思い込んでしまう。その結果、夫婦という人間関係が自分と配偶者という未熟な人間の集まりに過ぎないのに、「夫婦」という関係に過剰な期待が生まれてしまう。その安住の場所であるべき夫婦関係の中で自分が否定されることが何よりも恐ろしくなる。
こんな感じなのでしょうか。

つまり、友人、会社、その他の人間関係が希薄になっているために、夫婦という関係を気が付かないうちに相対的に重要なものだと認識してしまっているというかんじでしょうか。

(理由がわからないパニック発作が起きるケースでは、
発作を起こす人の特徴として、仕事上では業績がある人、能力を評価されるべき人ですが、同僚との間の人間関係についはあくまでも職場だけの人間関係で、職場の外でまでは付き合いをつくらない人が多いように感じられます。)

夫婦関係が自分にとって大切な人は増えているのですが、それを自覚する人も少ないですし、大切にする方法を知っている人も少ないように感じます。
お互い大事にしあうことによって、いたわり合うことによって、相手との絆を強くして、壊さない人間関係を作る。それを意識して作るという発想を持ちにくいようです。それでも関係を維持しようと汲々としてしまうと、対等な人間関係ではなくなってしまいます。ますますストレスが増えていき、やはりうまくいかなくなるというようなこともあるようです。

相手から愛想を突かされるとか、自分に対する相手の評価が下がりそうだとなると、自分を守るために言われる前に言い訳をするとか、自分を否定評価しそうな相手を先制攻撃してしまう。それで自分を守っているような錯覚に陥ってしまっている。そんな感じなのです。

相手からの自分の評価を守るために相手を攻撃する
こういう本末転倒なことをやっているようです。

反撃された妻は、逃げ場が無くなってしまい、夫婦という関係に依存しているために、すべての望みが絶たれたような絶望を感じて、パニック発作を起こしているのではないかとも感じます。

必ずしも身体生命の危険を感じているわけではなく、夫婦の中の自分という立場が失われるという不安がパニックとなって表れるということです。それでもパニック発作が起きると「このまま死んでしまうのではないか。」というところまで感じてしまうことがあるそうです。

これが続くと、もう夫婦でいることは「疲れてしまうからいいや。」ということになるのも理解できるような気がします。

もっとも、自分の立場が危うくなるという危険性を病的に感じやすくなっている夫が、あらゆる妻の自分に対する否定評価を断ち切ろうと、妻の人格まで操作しようと働きかけを強めればそれは配偶者加害(DV)ということになってしまいますね。こういうケースもないわけではありません。こういうケースは、同時進行で表に発覚することが難しいですし、その結果妻が精神破綻をしてしまうことがあり、大変恐ろしい結果になります。

でも、近時のパニック障害のケースはここまでひどいケースは見当たりません。

つまり、パニック発作を起こすまで追い込まれているといっても、それに見合う精神的虐待があるというよりも、二人とも仲良くしたいのに仲良くする方法がわからずやみくもに自分を守ることしか考えられない。相手の気持ちを推し量る余裕がないから、相手が自分の行為によってどういう気持ちになるのか考えられないといった、現代の夫婦の弱点があると私はにらんでいます。

心理学が盛んになり、皆さん自分の気持、自分の行動の原因について説明することが上手になってきています。なぜか、そのとき相手がどう思ったか、今どう思っているかということを考えるのは苦手なようです。

夫婦や家族の仲良くする方法、喧嘩をしない方法について、普及啓発をすることが、つまり選択肢を提示することが、現代日本では求められている、そう思えてくるのです。

相手を攻撃してしまうのは、よく考えない反射的行動、本能的です。仲良くするということは理性的行動です。反射的行動を抑えて理性的行動に出るためには、、どこで反射的行動を起こしてしまうかということを予め知り、そのポイントがここだと感じる訓練と、反射的、本能的意思決定ではない、行動の選択肢を予め持っていること、それによって理性的行動をしやすくすることだと思います。


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会話の本質は仲間を安心させるということ、文字に置き換えられる情報伝達だけでは心の交流ができないということを認知症患者さんから教えてもらいました。リモート社会、SNS社会の何が不完全なのか [進化心理学、生理学、対人関係学]

私のような乱読者の最大の欠点は
記憶している文章があってもその出典を示せない
というところにあるような気がします。

今日も、どこかで読んだ本を紹介するところから始めなければなりませんが
何の本だったのかわかりません。
その本では、認知症の患者さんの施設で、
入所者の高齢の3人の御婦人方の会話の描写がありました。

お三方は、日の当たるロビーのソファに腰かけて
仲良さそうにニコニコしてお話をしていたそうです。
遠くから見る分には、それぞれ自分の順番を守って話をしているようで、
上品なご婦人がたのおしゃべりにみえたそうです。

近くに行って話の内容を聞いて作者は驚いたそうです。
三人が三人とも全く自分勝手なお話をしていたというのです。

ある人は、施設の待遇についてお話ししていて
ある人は、自分の子どものことについての自慢話をしていて
もう一人の人は、自分の趣味の話をしていたそうです。

それでもお三人は、順番を守って、他人の話を遮ることもなく
おしゃべりを楽しんでいたそうです。

実際話している内容を聞かなければ、三人が認知症であるとは
思いもよらない光景だったそうです。

そしてある日、
三人の中のおひとりが、施設にクレームをつけていたようです。
別のおひとりが、その人の名前を読んで
「つまらないことはやめて、また三人でおしゃべりしましょうよ」と
話しかけてくれたそうです。
それをきっかけにクレームを述べていた人も
また楽しいおしゃべりの輪に加わった
という話だったと思います(細部は脚色しているかもしれません)。

この話を読んでいたときは、
「認知症は不思議だな」と思っただけでした。

何年かしてに、ロビン・ダンバー先生の学説を読む機会に恵まれ
「人間の会話の起源はサルの毛づくろいの省エネ化だ」というお話を聞いて
つまり、お互いをなだめあい、集団でいるストレスを軽減させる
ということらしいということで、
徐々にこのお考えを理解するようになっていきました。

このブログなどでもダンバー先生のお話を紹介していたのですが、
それから何年かして、はたと3婦人のお話を思い出したのです。
ダンバー先生のおっしゃる毛づくろいは、
この認知症のご婦人方の会話そのものなのではないかということです。

本来の会話の目的が相手を安心させることだとすれば
そこに言葉の意味や、言葉による情報伝達などは
元々は必要事項ではなかったのではないかと考え始めているのです。

三人のご婦人は、
明らかに会話をして楽しそうにしていらしたということです。
一緒にいて楽しくするというが会話の本来の目的なのかもしれません。
ここで一緒にいて楽しいというのは
一緒にいて会話をすることで安心できるということなのではないでしょうか。

認知機能が衰えると、当たり前のことがわからなくなり
不安が増えていくようです。
不安解消行動で、徘徊が起きるという話を聞いたことがあります。

穏やかに楽しく過ごすために、お三方の会話は立派に機能していたのでしょう。

それから、クレームを言って感情穏やかでないご婦人は
三人での会話をすることによって
感情が鎮まった。

これも不安に基づく怒りという感情を
会話をすることによって鎮めた、つまり
会話が不安を鎮めたということなのではないでしょうか。

不安を鎮めること自体が会話の大切なこと、会話の本質なのだと思うのです。

一つは仲間意識が持てて楽しい
もう一つは、感情を鎮めてくれる。
それでよければすべてよしなわけです。
なにも、相手の言葉の意味をきちんと理解して
話を合わせる必要なんてないわけです。

ここに会話の本質があるということを言いたいわけです。

会話や言葉の本質についての議論で、
この考え方と違う見解というのは、
「会話というのは言葉や会話に付随するコミュニケーションによって
情報を伝達することに本質がある。」

私は実はこれも本質だと思っているのです。

私の考えは矛盾しているように見えますが、
会話とは
「緊張を和らげて、仲間意思を持つことによって安心すること」
「情報を伝達すること」
という二つの源流があるという考えなのです。

おそらく先に発生した会話は前者で
言葉もない時代に群れを形成するために
無くてはならない人間の行為だったのだと思います。

その後、その初期会話によって形成された信頼関係を基礎として
(遺伝子レベルの無意識の話なのですが)
農耕の始まりによって他の群れとの近接がきっかけとなることと相まって
情報伝達の必要性が増えてきた
言葉の意味の存在と意味の明確さが求められていった
という順番なのではないかなと考えているわけです。

そう考えると冒頭で例に挙げたお三方は
とても人間らしい営みをされているということになるのです。

お互いを楽しい気持ちにしようと行動しているし
無駄にお互いを批判することをしない
お互いが話すことによって安心することができる
攻撃的感情も会話によってなだめている
こういうことです。

私たちは、
情報伝達ということに力点を置きすぎていて
会話の大切な目的、機能を忘れてしまっているということはないでしょうか。
それは人間性というものを失うということなのかもしれません。

インターネット社会、SNS社会、そしてリモート社会も
人間の会話の本質からすれば
極めて不十分なコミュニケーションなのかもしれません。


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大新聞のあおり記事は、戦前に戦争遂行の下地作りで行ってきたことを、性懲りもなく繰り返している。煽情的な記事に無邪気に反応してしまわしないために。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



「戦争反対」というスローガンは最近あまり聞かれなくなっているように感じます。私がぼーっと生きているからでしょうか。戦争の技術が高度になりすぎて、戦争が起こる、あるいは戦争に巻き込まれるという実感が持てないからかもしれません。しかし、戦争であったり、戦争と同じ不道徳な行動は、鉄砲担いで飛行機乗ってと言うだけではないと思います。戦争あるいは戦争と同様の不道徳な行動の加害者にも被害者にもならないで、平和に生きていくという準備をすることは当面は必要なことのような気がします。

この準備をしないで無防備に戦争に突入していったのが、戦前の日本の歴史だと思います。私自身、ふと気が付くことがあるんです。戦争を行った当時の日本人は、あたかもものを考えずに、右向け右で一斉に疑いもしないで戦争に突入した無邪気な人たちが圧倒的多数だったような錯覚を抱いてしまう自分に気づくことがあるわけです。しかし、戦前の具体的な文化人(法律学者をだいぶ含む)や、自分の祖父母などの話を聞くにつけて、むしろ今よりは高度な知能、高度な文明、高度な人間関係を営んでいたと言っても良いのではないかということです。無駄に他人を攻撃しないという観点からは現代人はほとほと情けないように思っています。特に公的な場面で人情が無いというか。まあ、それは極端な議論、偏った議論だとしても、戦前と現代と、人間の能力はほとんど変わらないわけです。それにもかかわらず、戦争を描いたドラマや映画で少数派の主人公の敵役のように強調されて描かれるものだから、戦争を行ったと人間たちがそういう敵役のような人たちばかりというバイアスがかかった見方をしてしまうのかもしれません。戦争に反対しなかった世代の人間という目で、ひとくくりに見てしまう自分に戦慄を覚えるのです。

要するに戦争遂行勢力が、戦前と同じように十分な準備をすれば、現代でも鉄砲担いで飛行機乗っての原始的な戦争も可能なのだということなんです。

ここでいう戦争の準備については、多くの人たちは昭和に入ってからの思想統制だったり、特高警察や軍部の締め付け、五人組制度等の相互監視というものを念頭に置くと思うんです。しかし、特高警察にしろ、軍部の台頭にしろ、大日本愛国婦人部にしろ、先にこれがあったわけではなく、むしろ結果なのだと考えた方が良いと思うんです。ここに来るまでが大変だったんだと、当時の日本の支配層は言うでしょうね。日本人なのか、外国人なのかわかりませんが。

要するに戦争は善だ、百歩譲って仕方がないものだ、やらなくてはならないものだ、日本人を、自分の家族を守らなければならないという意識があって初めて特高警察や、軍部、五人組は国民の支持を受けたのだと思うのです。

本当に国民の思想づくりをしていたのは、明治から大正にかけてのことだと思います。このことは前に詳しく述べました。
「現在に残存する戦争遂行イデオロギーとしての作られたジェンダー 」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-06-14

そこで一役買っていたのが、間違いなく大新聞なわけです。
それまで先行的に、戦争準備をしていたのを知っていながら
戦う思想づくりを推進していたわけです。

そして、昭和に入りアカラサマな戦争遂行イデオロギーを露わにすると同時に
マスコミも同調したわけです。

分かりやすくすれば
「何にもまして正義は大切であり、
正義に反することがあれば怒りをもって制裁しなければならない。
反正義に怒りを持って戦うことは国民の義務である。」
こういうことですね。

高度成長期は「正義」が「生産性」に代わっただけですから
日本人の価値観にぴったり合ったのでしょうね。

こういうと、
このような感情は人間の本能であるから
人間の本能にマスコミが迎合したのだ
という人が出てくると思いますが、
それはサルと人間とを区別できない人のセリフです。

サルと人間は次々と進化の過程で枝分かれしていきました。
最後に分かれたのがチンパンジーで
600万年まえまでは人間とチンパンジーは同じ祖先をもっていました。
それぞれ進化を遂げていますから
人間がチンパンジーだったわけではありません。

人間とチンパンジーはこのため遺伝子的にはたいして違いませんが
大きな違いがいくつかあります。
1つは犬歯、糸切り歯が人間は極端に小さいということです。

この犬歯は、オスがメスを取り合って戦う時に使うものだとされています。
人間の糸切り歯が小さくなったということは
人間はメスをめぐってオス同士が物理的な戦いをしなくなったということです。

ドーキンス先生に言わせれば
遺伝子は自分のコピーを永続させるために
オス同士が戦うことをやめ
群れを作って生き残る戦略をとった
みたいに言うのだと思います。

ハミルトン先生を引用して
その群れとは血縁を基盤とするなんて余計なことを言ったかもしれません。

しかしリアルな言い方をすれば

人間の祖先の中には、
メスをめぐって血で血を洗う者たちもたくさんいたはずです。
しかし、殺し合い寸前のようなことを繰り返していたために
群れを作ることができず
せいぜい夫婦と子どもが何世代かにわたってグループを作ることしかできない。
そうすると、群れの中に暴力装置として有効なオスが少ない、
頭数も10人未満の群れしか作れず
肉食獣に襲われるとひとたまりもない弱い状態となり
食料もろくに獲得できないために飢えも深刻となり
あっという間に絶滅してしまったのだと思います。

しかし、たまたまメスをめぐって争わない地方があり
その地方では、オス同士も同じ群れの仲間として強力できて、
血縁に縛られない30人程度の群れを形成することができて
小動物を狩るチームと
食べられる植物を採取して子育てをするチームと別れて
効率よく餌をとることもできるし、
頭数も充実しているので
肉食獣も襲いにくく、
襲ってきたらみんなで反撃することから
強い群れが作られた。

その強い群れは子孫を残すことができ、
今の人間が生まれてきた
とまあこういう言い方になるのだと思います。

つまりチンパンジーは群れを作らなくとも生きていく能力があったものだから
オス同士が戦って遺恨が生じても種としては絶滅せず
生きていく能力に乏しい人間は
オス同士が戦ったら生きていけないので
オス同士が戦わない傾向のある者たちだけが生き残った
とこういうことなのだと思います。

この人間のこころが完成したのが今から200万年前くらいだとされています。

家族は女性を縛り付けるツールだなんていう人もいましたが、
家族が夫婦を基本として構成されるのは、最近の話であり、
女性が嫁に行くようになったのは、日本でも鎌倉時代からで
そんな古い話ではありません。
200万年前は、母系という傾向はあったかもしれませんが
夫婦という単位はそれほど重要ではなかったのではないかと考えています。

このような平和な時代は約200万年つづきます。

その後、農耕が始まり、労働時間が長くなるともに
定住が多くなり、関わる人数も増えていきます。
人間の能力を超える人数が常に自分の近くにいて
群れ同士の利害対立も起こるようになるわけです。
典型なものは水争いでしょうね。

それまで、人間と言えば仲間しかいなかったわけですから
人間が人間に怒りを向けるということは極端に少なかった
ほとんどなかったと思います。

しかし、仲間ではない人間が身近に存在し
自分達の利益を奪うという段になって
仲間ではない人間に対しては怒りを持つようになっていった
物理的な争いが起きるようになった。
ということなのだと思います。
差別の起源です。

しかし、しかし、200万年続いた人間のこころが残っているということは
仲間ではない人間だとしても人間の形をしている以上
攻撃することには抵抗があったり、後味が悪いものですから
攻撃や怒りを正当化して自分を慰めなければならない
それが「正義」であったわけです。

正義は怒りを解放する口実として生まれたと私は思っています。

正義とは必要悪か、必要のない悪かどちらかだと思います。
当時は自然を相手に生きていくためには必要だった可能性があります。

人間はこのように200万年の記憶があり、
理由もなく他の人間に対して怒りをもつことができない
という特性があります。

この例外が「自分を守る場合」と「正義感を発する場合」ということになります。

だから海の向こうの見たこともない人たちとの戦争というものは
なかなかできることではない。

本来であれば、同じ国の人でも
自分とかかわりのない人がかかわりのない場所で悪さをしたところで
怒りの感情が自然と湧きあがるということは
なかなかないわけです。

この普通なら起きない怒りを無理やり起こしているのが
マスコミです。

児童虐待に対する怒り、いじめに対する怒り、パワハラに関する怒りも
マスコミが媒介して私たちが怒るわけでして、
私たちが怒るようにマスコミが媒介するという言い方もあると思います。

東京の目黒区で、実母と実母の夫によって、
女の子が死んだという事件がありました。
この子は何歳くらいというご記憶でしょうか。
当時亡くなった女の子の写真として広く報道された写真は
亡くなる何年か前のものでした。
亡くなる直前の写真もあったのに
おそらく今でも事件に関連して出される写真は
亡くなる数年前の写真なので
3歳くらいの子が亡くなったと記憶されている方もあると思います。
亡くなった子は6歳の誕生日を目前とした5歳の子でした。

私たち人間は弱い者を守ろうとする意識を持つようにできています。
これも進化の適応の中で身につけたというか
そういう意識を持つ者だけが群れの頭数を確保して生き残ったわけです。
だから、弱い小さい者がいじめられることに
本能的に不快、嫌悪を感じます。

亡くなる直前のお母さんにそっくりな写真を使わず
いたいけな3歳くらいの写真を使って報道したというのも
私は国民の怒りをあおる意図があったと考えています。
これは印象操作です。

いじめの報道にしてもそうです。
当然記者は、いじめの内容について取材をしています。
どういういじめがあったか知っているわけです。

それが凄惨ないじめであれば
具体的ないじめの内容を報道します。
しかし、記者の目から見てそれほど重大ないじめではない時は、
いじめの内容は具体的に報道せずに
「いじめ」があったという報道スタイルになります。

敢えて読者の想像力を掻き立てて
怒りをあおっていると
いくつかの報道から感じ取ってしまいます。

いじめ調査の第三者委員会や遺族の発言も
その本来の趣旨を敢えて切り落として
怒り、いじめ、制裁の対象となるところだけを選んで
記事にされてしまいます。

名の通った新聞でもそれなのです。

怒りとは、危機感の表現です。
逃げる場合も怒って反撃する場合も
脳の扁桃体が危険が存在すると判断し、
次の逃げる、戦うという行動のための
生理的変化を体内に起こす仕組みです。

そうだとすれば怒りをあおられるということは
無駄に危機意識を感じさせられているということです。

読者に迎合して挑発的な記事、煽情的な記事にする
という解説をよく聞くのですが、
読み切りのタブロイド紙や週刊誌ならともかく
定期購読する一般新聞の記事が
煽情的で、刺激的なので購読を続けよう
という人がいるでしょうか。

いませんよ。

朝日新聞を定期購読していた人が
産経新聞の記事の方が血が沸き肉が躍るから産経に変える
なんてことは、無いとは言わないけれど
一般的には考えにくいわけです。

だいたい競合新聞数紙の中から
三面記事を読み比べて購読する新聞を決めるなんて言う人はいません。
いつもとっているからとか、勧誘が来たから
その新聞を読んでいるだけでしょう。
地方紙なんかは、それしか地元の情報を取り上げる新聞がないから
選択の余地がなくそれを読んでいるわけです。

そうだとすると結論としては、
新聞は読者を見て煽情的な記事を書いているのではないと思います。
読者とは別の人間の顔色を見て書いているわけです。

あおる新聞の文章表現こそ戦前の勧善懲悪の特徴が実に色濃く出ています。
戦前のマスコミの二番煎じです。
つまり、怒りの対象としてふさわしい悪人がいて
その悪人が罪もない正義の人を苦しめている。
さあ、悪人に石をぶつけろというものです。

いじめの被害者は絶対的な善人になり
加害者は絶対的に悪人になります。

DVの被害を訴える女性は、無条件に手を差し伸べるべき人であり、
その相手の男性は、人間とは思われな残虐な性格を持っていると
知らず知らずのうちに私たちは思い込まされ
全く必要のない怒りの感情を高ぶらされているわけです。

目黒事件でも
その母親は、わが子が亡くなったばかりで化粧っ気のない顔を
何カ月もたった時まで使われて
ことさら極悪人のように報道されていたのですが、
裁判が始まると夫のDVの被害者だということで
評価が逆転された報道がなされました。
写真もおそらく実物に近いだろうものが使われました。
手を差し伸べるか叩くか
どちらでなければならないという不文律があるようです。

しかし、人間の世の中、そうめったらやたらに
二項対立の人間関係はないでしょう。
結局国民に冷静になって考えさえることを妨害しているだけです。
冷静になって考えないで怒りをもって批判しろと言うように見えてしまします。

こうやって引き起こされた
無駄な危険意識は、やがて
自分も同じような目を受けるのではないかという
漠然な不安を抱かせるようです。

先ずます些細な刺激に過敏に反応するようになってしまいます。

他人の行動に目を光らせて
些細な落ち度を見つけては批判する
そういう風潮が生まれているように感じます。

要するに慢性的にイライラするようになるわけです。
怒りっぽくなってしまう危険もあります。
不安になりやすくなる危険もあります。

その風潮形成に貢献しているのは
間違いなく大新聞と有力地方紙です。

私たちが大事にしなければならないことは
冷静な目で世の中を観察し
静かに考える思考を確保することではないでしょうか。

新聞を見ない方が良いとは考えてはいませんし
テレビを見てはだめだと言うつもりもありません。

ただ、自分の精神状態を健康に保ち
家族や友人たちにイライラをぶつける等悪影響を避けるためには
あまり自分と関係のない事件については
「色々あったのかもしれない」
とクールな態度でいることが最善であろうと思う次第です。



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「孤独の科学」(河出文庫)カシオボ、パトリック著を読む。対人関係学と何が違うのか。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

「孤独の科学」(河出文庫)カシオボ、パトリック著を読む。対人関係学と何が違うのか。

興味をもって買ったのに、ブックカバーをつけてもらったばっかりに
数か月たってようやく読み始めた本が
「孤独の科学」(河出文庫)J・T・カシオボ、W・パトリック著
です。
最近楽器の練習にかまけて基礎的な勉強を怠っていて、
楽器演奏は上手になりましたが、本から離れてしまい
それでも良いかと思っていたところ、
事務所のバックヤードを整理していたら見つけました。

面白そうだと思って買ったのですが、面白い。
どんどん頭に入るのは、対人関係学と
ほぼ言っていることが一緒だということです。
特に人間とは何かというところです。
このブログや対人関係学のホームページを見たのかしらと
(通常の発想は逆)
思うほど主張が似通っています。

これは理由があり、この本で引用されている研究者が
バウマイスターや、アントニオ・ダマシオなどであり
まるっきり産みの親が一緒だということです。
さらにこの著作のテーマが
特にバウマイスターのNEED TO BERONGという論文の
「人間は、誰かとつながっていたいという根源的要求を持ち
この要求が満たされないと心身に不具合が生じる。」
という結論部分を論証するはずの論文となっています。

カシオボらは、「孤独」という切り口で論を進めていきます。
対人関係学では、
孤立化(追放、排除)の危険の認識を「対人関係的危険」と表現しており、
よく似ているところです。
但し、対人関係学は、
形式上は孤立していない、群れには属している
けれど、その群れから外されそうになると、不安や焦燥感を感じて
群れから外されないように自己の行動を修正しようとする
ということがセットとして考察されています。

カシオボらの「孤独」も、
必ずしも形式的にも孤立している場合だけではない場合も対象としているようですが、
多くの考察では孤立が完成した後の孤独を使って実験しているようです。
この実験の方法は詳細に語られていないので
どういうことかはよくわかりません。

興味深いのは色々あるのですが、その中でも
孤独に陥った場合に現れる弊害として
・要求ばかりするようになる
・批判的になる
・行動が消極的になり引きこもる
と言ったものをあげています。

対人関係学では「被害者の心理」として紹介しているところと似ています。

被害という評価の入った概念で用いないで
孤立という客観的状態を基軸に論を進めることにも
相当のメリットがあると思われます。

問題というか是非言いたいことというか
「どうして孤立ないし被害を受けると、そのような変化が生じるのか」
ということについては、述べられてはいるのですが
対人関係学は、少し重点を置いて説明しています。

これらの心理的変化は、対人関係学では
「過覚醒(かかくせい)」という言い方をします。

危険を感じた者(ないし生物一般)は、
平常時よりもさらに危険から自分を守ろうとします。
例えば路上強盗が現れた道路を通って帰宅しなければならない場合、
もしかして自分が付け狙われているのではないかと
強盗が現れる以前に比べてより恐怖を感じるでしょう。

ただの風の音でさえも、あるいは道路を通るバイクでさえも
自分に対して攻撃に向かってきているしるしなのではないかと
過敏に考えてしまうことはわかりやすいと思われます。

おそらく意識に上る以前の生理的な現象として
音、視覚、触覚などによって、
自分を侵害するものだと危険だという認識を持ってしまうのでしょう。

これは生物的危険として整理されます。
これと異なり、対人関係的な危険も
通常であれば感じないことでも
危険を感じているときには感じやすくなるわけです。

誰かが話をしているとき、自分に対する悪口ではないかとか
声が大きいといら立っているのではないかとか
自分が排除追放されているのではないかと
感じやすくなっているということが対人関係学の分析です。

ここに必要な手当てをしないと
あなたの仲間、例えば配偶者なんかは
自分があなたから追放される、排除されるという予期不安が高じて
その予期不安から免れるために
自らあなたから立ち去って、不安を解消しようという行動に出る
ということがありうると主張しています。

そうだとすると、夫婦関係の不具合がある場合は
一方が孤独を感じていて
他方がその孤独に気が付かず孤独感を逆なでしている
と説明したほうがわかりやすいのかもしれません。

そして対処方法としてはカシオボらは
・現実を直視する。
・なんでもできることをして、寂しい人間に安心感を与えよう
ということですから、ここも対人関係学の主張と一致します。
特に後段ですね。

対人関係学的に言えば
例えば子どもに対して、例えば配偶者に対して
あなたを絶対に見捨てない
というメッセージを出し続けるということで
お互いの関係に安心感を持ってもらう
ということになりましょうか。

それから、過覚醒状態にあると
自分の不安を解消してほしいという要求が強くなり、
相手に対する要求度も強くなります。
このため相手に対して批判的になり、要求ばかりするようになる
という説明の仕方をしています。

対人関係学の本の出版なんておそらく現実化しないと思います。
ブログやホームページを見るのも疲れることかもしれません。
「孤独の科学」をお読みになることはとても簡単なことです。
とても親近感を抱いています。

ご紹介方々
対人関係学の宣伝もちゃっかりやらせていただきました。


ちなみに対人関係学の学は
体系的な学問だというよりも
学び続ける、勉強し続けるものだということでつけています。
なんて、私も少し過覚醒のところがあるのかもしれません。

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内親王殿下の複雑性PTSDの診断に寄せて インターネットの誹謗中傷は極限的な攻撃性を獲得しやすいことと、インターネットの誹謗中傷が人間の精神を破壊する可能性があること [進化心理学、生理学、対人関係学]



医学会においては、複雑性PTSD(complex post-traumatic stress disorder)という疾患を認めるか否か、またそもそもPTSDという疾患を認めるか否かということについて議論のあるところだと聞きます。しかし、私は医学者ではないし、ICD-11ではCPTSDも疾患名として認められたと聞きますので、こういう疾患が認められるということを前提としてお話しします。

何よりもお話ししたかったのは、内親王殿下が中学生くらいから、インターネットで自分に対する悪口を書かれていることを見つけるようになって、CPTSDを発症したとの発表があり、それに対してある精神科医の先生が、「悪口くらいでCPTSDが発症することはあり得ない。」とコメントをされていたことについて、それは違うのではないかということです。

もしこの精神科医の先生が正しいのであれば、もしかすると昨年亡くなった木村花さんは、悪口を言われただけで自死したのはおかしいということにならないだろうかという疑問も出てくるような気がします。もっとも、精神科医の先生は、私なんぞが思いもしないところで整合したご意見を発していらっしゃるのでしょう。しかし、私には、インターネット情報の危険性の方に目が行ってしまうのです。

確かにCPTSDを提唱したJ.L.ハーマンの想定していた精神的外傷(トラウマ)は、夫婦間暴力や虐待等、直接対峙する人間関係に基づく悲惨な体験に基づくものでした。インターネットに書き込まれるということは、それに比べると身体的な侵害はないし、逃れられない継続的な人間関係の中での出来事ではありません。悪口くらいでCPTSDになるということは考えられないとする根拠もここにあると思われます。

ハーマンの「心的外傷と回復」が執筆された時代は、1990年代です。フェイスブック社の創業が2004年です。ハーマンの執筆の当時は今ほどはインターネットが一般化しておらず、その対人関係的弊害が認識されていない時代です。もっとも今は2021年ですけれど、未だにその弊害の深刻さについては十分認識されていないのではないかと思われます。ちょうどよい機会なので、この点についてお話ししようと思いました。

CPTSDを提唱したハーマンは、それまでの通常のPTSDは、戦争やテロ、強姦という、一回の出来事でも誰でもが深刻な外傷体験となる体験、通常はスポット的な体験が念頭に置かれていました。ここで念頭に置かれている強烈な外傷体験は、さすがに繰り返して体験する人はいないだろうと思われます。しかし、それほど強烈ではないけれど、繰り返し長期にわたる虐待事例において、過覚醒、侵入、狭窄という恐怖症状、心理学的監禁状態、社会との断絶などの症状が現れることを観察していました。通常のPTSDではない、慢性の外傷体験(被支配体験)による症状についての診断名が必要だということ、うつや適応障害、人格障害や解離とは症状も治療方法も異なるため新しい診断名が必要だということで、CPTSDを提唱しました。

ハーマンは、CPTSDが発症する外傷体験を
「全体主義的な支配下に長期間(月から年の単位)服属した生活し、実例には人質、戦時捕虜、強制収容所生存者、一部の宗教カルトの生存者を含む、実例にはまた、性生活および家庭内日常生活における全体主義的システムへの服属者を含み、その実例として家庭内殴打、児童の身体的および性的虐待の被害者および組織による性的搾取を含む」
としています。

これを読んでしまうと、なるほど、虐待と言えるような激しい攻撃が必要で、かつ、直接的に対峙する人間関係の相手方の行為であることが必要であるように感じてしまいます。
しかし、インターネット、特にSNSの弊害を考えると、SNSによって、CPTSDが発症するという流れがあるのではないかと考えるのです。

ハーマンは、「精神的外傷と回復」の中で、CPTSDの本質は社会とのつながりを奪われることにあると述べていると私は読みました。だから、治療方法は、人とのつながりを再生することだと言っているわけです。
どうして、先ほどの外傷体験があると社会とのつながりが絶たれるかというと、それらの外傷体験は、加害者の支配によって被害者は加害者以外の人間から孤立するからだということになろうかと思われます。全体主義的支配という意味は、そういう意味で、具体的に強制収用や、慢性的な虐待という「逃げ場のない状態」にあることを診断のために必要だとしたのでしょう。

心的外傷と回復の中で、私が一番感動したのは、人間における自己の概念というのは、単体で生きていて形成されるものではなく、自分のつながりの中での自分の在り方を意味するのだというところです。このため、自分が生きていくうえで必要な人間的つながりが絶たれてしまうと、人間は自己概念を維持できなくなり精神的破綻に向かうと私なりに理解しました。

つながりの自由が奪われること、つながりの自己コントロールが不能になることは、人間の精神に対して深刻な打撃を与えるということがCPTSD理論の中核だったはずです。
私の理論の根拠もここにあります。

つまり、
インターネットの他者の書き込みによって、
現代人は、「自己と他者とのつながり」を
「自分でコントロールすること」が不能になると感じてしまい、
自己概念を維持することができなくなり、
他者とのつながりが持てなくなってしまう。
という弊害があると私は主張いたします。

インターネットの書き込みは、ハーマンの言う外傷体験とは全く異なります。
書き込みをされても、自分の家族、学校、職場においては、変わらずに自分は他者とのつながりを持つことに支障が無いようにも思えます。インターネットに悪意が書き込まれていても、日常生活には影響が無いようにも見えます。そんなことで悩むのは馬鹿らしい、気にしなければ良いだけの話だという人もいることでしょう。

しかし、どうやらそうではないようです。人間はそう簡単に物事を割り切ることができないし、気持ちが強くできてはいないようです。

実際に精神医学の認知行動療法の中に、対人関係療法という体系があります。対人関係学とは無関係の由緒ある医学体系です。この療法の治療の考え方として、
現在クライアントが抱えている対人関係的問題が、自分にとって重要な関係なのか、重要ではない関係なのかということを、ご自分で認識することによって、無用な悩みを、無用であると判断し、精神状態の改善を図るという方法があります。対人関係療法からは、人間は、本来、悩むべき人間関係のトラブルと悩まなくても良い人間関係の不具合とを、簡単に区別ができない場合があるということを示していると思います。

できれば、すべての人間の中で尊重されていたいと思うのが人間のようです。
どうしてこのような無茶な願いをするのでしょうか。それは、人間の心の発生時期の環境と関連すると私は思います。

人間の心が発生したのは、今から200万年位前だとされています。当時は狩猟採集をして生活をしていたとされており、30人程度のコアなグループとそのようなグループで構成される150人くらいの集合体を作っていたようです。このせいぜい200人弱のメンバーが生まれてから死ぬまでに認識する自分以外の人間ということになります。こういう少人数の群れにおいては、自分と他人の区別があまりつかず、利益も公平に分配されていたとされています。誰かが、失敗をしても仲間は責めることはしなかったでしょう。体力的に劣ってもフォローをしていたことでしょう。実際に介護がなければ生きていけなかった人間の人骨も発見され、他の仲間が長年介護をしていたことも証明されているそうです。人類は助け合い、仲間を責めないで、平等に生きていたし、弱い仲間を援助するという性質を持っていたようです。

これはそのような必要性があり、必要性に向かって進化したのだと思います。つまり、人間単体では攻撃能力も防御能力も低く、すぐに肉食獣の餌食になり、食物を発見すれば餓死する危険がありました。仲間を作ることによってのみ、その弱点を克服して現代に子孫をつないできたわけです。それを行うことによって、ようやく環境に適合できたことになります。だから、利他行為は、理屈ではなく、人間の本性だというべきだと私は思います。見返りがなければ他人に利益を与えないという考えは、文明に毒されている考えだと思うのです。

この心は、現代にも続いています。仲間から責められたり、批判されたり、嘲笑されれば、人間の心は傷つきます。助け合う姿に感動するはずです。こころは200万年前から進化していないのです。

では、どうして、現代のようなインターネットの誹謗中傷や、いじめ、ハラスメントが起きるのでしょうか。
詳しくは別のところで書いていますので省略します。大事なことは、接する人数が膨大になり、また、所属する群れも、家庭、学校、職場、地域その他とこれも膨大な数の群れになってしまったという環境的変化がおきているということに原因があると考えます。
同時に複数の群れの構成員、偶然すれ違う人、そのすべての人間と接しているので、すべての人間に仲間意識を持つことができなくなっています。家庭の中でも、例えば友達との関係で、親から注意されれば、心理的な葛藤が生まれます。局面によって、同じ仲間でも利害対立が表面的には起こることになります。また、仲間も死ぬまで同じ仲間ということはなく、入れ替えもあります。家族ですら、離婚等の入れ替えが起きることが珍しくありません。仲間、あるいは人間に対するつながりの意識が希薄になっているわけです。さらには、利害対立が起きた場合に、このような人間関係の希薄さによって、他者の利益を犠牲にしても、自分を守るということが常態化しています。
客観的には、人間の対立は起きやすい環境になっているわけです。
それでも全く利害関係のない、縁もゆかりもない人間からでも、他人から攻撃されれば、大変悲しい気持ちになるわけです。心が環境の劇的な変化に対応していないということになります。

こころは、およそ相手が人間であれば、自分を尊重してほしいと思ってしまう。そして、失敗を責めないでほしいし、弱点はフォローしてほしい、嘲笑しないでほしいという気持ちを持ってしまっているわけです。
しかし、攻撃する側から見れば、相手は自分の仲間ではなく、自分を守るためには相手を攻撃をしても良いと考えて攻撃をします。

しかし、人間は、どうやら、相手を攻撃するときには、その相手の落ち度を見つけて攻撃をしたいようです。その落ち度によって、自分が損害を受けているということで攻撃の正当性を図ることが多いと思います。
相手の落ち度、自分の損害が、相手の社会的ルールに違反していること、即ち正義を口実に相手を攻撃するようです。社会的ルールとは、法律だけでなく、道徳や常識、習慣みたいなものも入ります。自分はそのルールを守って生きている、だから窮屈だ。しかし、相手はルールを守らない。相手がルールを守らないことはルールを守っている自分が損をしている。だから相手のルール違反を理由に正義の観点から相手を攻撃する。
これがネットの誹謗中傷だと思います。

そして攻撃をするときの心理としては、自分が正しいことを承認してくれる他者の存在が欲しくなり、そのように自分の意見を指示してくれる人が出てくると、自分の私益のための攻撃ではなく、自分達社会の利益のための攻撃だという正当性の意識が強固になるようです。また攻撃を支える怒りの性質から、相手の自分に対する危険性を無くさせるまで攻撃の手を緩めなくなり、攻撃はエスカレートする性質があります。誹謗中傷の表現は極限まで高まっていきます。また、攻撃行動の条件として、自分が反撃されないことが必要になります。自分が安全だからこそ、不正義に対して怒りが持てるわけです。自分を攻撃する相手が自分より強ければ、あるいは自分自身にも相当のダメージが加わると思えば、攻撃しないで逃げ出すわけです。

インターネットの匿名性は、自分が反撃されないという条件を満たしています。また、自分が見られないために、怒りが抑制されるきっかけが無くなり、極限的な攻撃的な言動を可能としてしまいます。相手の反応が見えませんので、相手はあくまでもルールを破った人間という特性しかありません。容赦がない攻撃が可能となるわけです。また、自分の仲間にも書き込みが見られるわけではないので、その点からも抑止力は期待できません。

それにしても、インターネットの誹謗中傷は、見ず知らずの人間からの攻撃であるし、実際は暴力が起きるわけではない。また、自分の本当の仲間が、そんな誹謗中傷の影響を受けるわけではないでしょう。不愉快になることは当然だとして、CPTSDを発症させるような恐怖体験ではないのではないかという疑問はなお起きるかもしれません。

先ず、「人間は人間から尊重されたい。」という命題はあるわけです。この要求がかなえられない場合は心身に不調が起きるとされています。我々年寄りでも、「死ね」とか、自分の存在自体を否定されるような書き込みに対しては深い以上の怖さが出てくると思います。殺されるという具体的な恐怖というよりも、どうしてここまで自分は否定されなければならないのだろうという感情は、言い知れぬ不安感を抱くと思います。そのことをきっかけに、悲観的な考え、疑心暗鬼的な不安、安全ではないという感覚を持つようになり、焦燥感もわいてくるということはあり得ることです。特に、その自分の存在の否定に対して、その発信者以外の人間が賛同しているとか、容認する形で肯定していると感じるようになれば、自分が社会から否定されているという考え方になっていくことはあり得ることではないでしょうか。

次に、若者たちには特殊な事情があるようです。SNS等、一般に誰にでも開かれた仮想空間であっても、その中で常連のようなネット仲間がいるような場合は特に、その仮想空間が自分にとって重要な人間関係だと感じるということがあるようです。他者の書き込みによって、自分自身の評価が下げられたときは、自分その人から攻撃されたという1対1の関係での出来事ではなく、仲間の中で顔をつぶされたという感情が伴うようです。誰かが自分を庇わない時は、その誰かからも攻撃された感覚になっていくようです。自分が行っているSNS、例えばフェイスブックだったり、インスタグラムだったり、それがその若者の世界なのだそうです。そこで、自分が完全に否定されるということは、もう自分の世界の中で、自分らしく生きていくことができないというような感覚になってしまうようです。私のような年寄りであれば、フェイスブックやめればいいだろうと思いますが、若者はそれができないようです。やめるという発想を持てなくなるようです。こんなところでも、心は200年前のままのようです。

内親王殿下は、若者ですから、インターネットの書き込みは、かなり重大な打撃を受けたと思われます。SNSをやっているということはないかもしれませんが、影響力は甚大であった可能性が高いと思います。加えて多くの人間から誹謗中傷されることは、逃げ場がなくなるという感覚になったと思われます。また、中途半端に知られている、つまりお人柄などがわからないのに、身分や容姿は知ることができるということから、攻撃の的になりやすかったのかもしれません。

国民についての深刻な話は、むしろここからです。宮内庁が、CPTSDだと発表し、その原因がインターネットの書き込みにあると説明したにもかかわらず、なお、以前に増して、内親王殿下や殿下の大切にしている人に対しての書き込みが後を絶たないという現実です。皇室は必ずしも税金で生計を立てているわけではなく、税金とはかかわりのない独自の収入があるということを知らない人も多いようです。何よりも、本来自分の利害の関係のない人たちのことで、攻撃の心理によって、攻撃がやまないという現状を恐ろしいと私は感じました。

常識、道徳、慣習などのルールを破壊したという正義の名の下の攻撃ということになると思います。

皇族の生活に対する自由な意見(攻撃ではなく)と憲法上の象徴天皇制という法的な問題、及び開かれた皇室ということの不可避的なデメリットの問題は長くなるので日を改めて論じるかどうか検討したいと思います。

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今日のNHK「お帰りモネ」(104話、105話)に異議あり、東日本大震災の時の実際の教師と内心に対して自責の念を持つことのばかばかしさ [進化心理学、生理学、対人関係学]


異議ありとか言っていますが
別に文句をつけようというわけではなく、
ちょうどテレビ番組で取り上げていただいたので
説明しやすい良い機会だという便乗企画なのです。

むしろよく取り上げていただいたという大拍手なので、
アンチモネの方々には失望させてすいません。


モネの母親の亜哉子は東日本大震災の際に小学校教師をしていて、
教師を辞めた理由として、
震災の時に、教え子たちをおいて
自分の娘たちの安否を心配して家に帰ろうとしてしまった
と言うことの自責の念を吐露していました。

これは、背景として
教師という職業は、「自分の命よりも教え子の命を優先する」
という聖職論があって、
そのような教師でないから自分を責めたという流れがあるわけです。

昨今の若い人たちには伝わりにくいのは
聖職論(というかそういう教師)なんて知らないよという人が
ほとんどではないかと考えているところだからです。

但し、残業ばかりして、教え子の部活に付き合って
自分の子どもの夕食もろくに作れない、一緒に食べられない
土日は家にいない
という意味では十分聖職者の呪いがかかっているようにも思われます。

さて、私が言いたいことの1つ目は
実際の東日本大震災の教師たちはどうだったのでしょうか。
ということです。

実は職場を離れようとするのと反対で、
震度4以上の地震があったときは職場に行くという業務命令があったため、
せっかく病気休暇をとって自宅にいたのに
原付バイクで海辺の学校に向かい、
津波に巻き込まれて亡くなった先生がいらっしゃいました。

ずいぶん時間がかかりましたけれど、
公務災害が認められました。

また、自分の子どもも大震災当時小学校に通っていたのですが、
担任の先生はご自分の子どもの安否も分からないのに、
すべての教え子の親が迎えに来るまでと
いつまでも教室に残り、子どもたちを励ましていらっしゃいました。

実際の教育現場は、このような教師の皆さんの
大変な思いで教え子を守っていたということが
リアルな話でした。
このことは、目撃者として
機会があれば、いつでも語りたいことです。


二点目は、どうしてわが子を優先しようと心の中で思ったことで
自責の念を覚えなくてはならないのでしょう。
ここが「ちゃんちゃらおかしい」というべきだと思いました。

心の中のことなんで、どうでもよいのです。
色々な雑念は、その人の人格とは無関係に
現れては消えているわけです。
思考というのは、まとまったものではなく、
こういうことを考えてはいけないと思うと
つまり責任感と正義感が強すぎると
「思ってはいけない」と感じる思考に意識が向かうだけなのです。

大事なことは
自分の行動、言動が、他者にどう伝わるか
それなのだと思うのです。
亜哉子は、その場に思いとどまったのだから
どんな思考が頭の中にあったからと言って
何も問題なしで良いと私は思います。
悩むことではない。

それよりも、芥川龍之介の杜子春ではないですが、
我が子の安否を気遣わないということこそ、
後々後悔することであってほしい
そのくらいに私は思います。

教師の子どもの立場なら
そう思うと思います。

鈴木京香さんの演技が圧巻だったため
そして脚本に共感が持てたため
敢えて「文句」を言わせてもらった次第です。

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【我田引水に称賛する】南山大の偉大な研究 人間同士の争いと人口の関係 勝手に[対人関係学]の実証的裏付けであると大歓迎する [進化心理学、生理学、対人関係学]


南山大が極めて注目するべき研究を発表しました。視点といい、研究対象と言いとても素晴らしいものです。

争いの主要因は人口増 弥生時代の九州の調査分析 南山大グループ発表
https://edu.chunichi.co.jp/news/detail/11065

これから述べさせていただくことは我田引水です。全くの、しかも勝手に行うので、大変申し訳ないきもちであることをのべ、先にお詫び申し上げておきます。

この新聞のタイトル自体が、まさに対人関係学の主張そのものです。
対人関係学の主張は極めてシンプルです。

人間関係の紛争や社会的病理が起きる根本原因は
人間の脳と現代の環境のミスマッチにある

というものです。
つまり
人間の脳、またはこころは200万年前に今の状態に確立したとされています。200万年前の環境に適応するようにもっと長い年数をかけて形成されたわけです。その環境とは、人間は中途半端な弱者で、個体で生存することは難しく、30人から150人程度の群れを作ることによって、はじめて野獣から身を守り、飢えを免れることができたわけです。
その仲間は、生まれてから死ぬまで同じ仲間であり、その仲間以外には人間には出会わなかったと思われます。
仲間と自分の区別がつきにくく、仲間が悲しめば自分も悲しくて何とかしたいと思い、助け合って生きてきたと思われます。群れからはぐれるととても苦しい思いを死、群れからはぐれそうになるとたちまち心配になり、なんとか群れにとどまろうという気持ちになったと思われます。そうでなければ、言葉の無い時代に群れを作ることはできなかったでしょう。
現代人もこの心があり、自分が誰かから批判されたり、責められたり、嘲笑されれば、たちまち不安になってしまうわけです。群れから排除されそうになると何とか群れにとどまろうと努力をするのは、人間がそういう風に長い時間をかけて作られたからです。

この環境が崩された大きな原因は農耕です。一つ所にとどまり、多くの人数と近い場所に居住しなければならなくなりました。つまり、150人を超える人数が共存するように環境が変化したのです。
しかし、脳はそれにつれて進歩できませんでした。脳が深化するには時間が短すぎたようです。

近くにいるのに「仲間ではない人間」が現れたわけです。

仲間であると考えると攻撃はしません。その人の痛みを自分の痛みと感じてしまうからです。仲間であると認識できない場合は、その人が苦しもうが、困ろうがあまり感じないで済みます。そして、仲間と感じる人の利益のためならば心を鬼にして、仲間以外の人間を攻撃することができるようになります。

この時期がまさに南山大の調査研究された時期に重なると私は強く感じ入っているわけです。

人間が仲間だと感じるのは、いつも一緒にいて個体識別できる存在ということになるのでしょう。この個体識別できる人数の限界が150人程度ということになるそうです。

それでもその後の歴史を見ると、人間は人口密度と人口を増やし続けて生き続けています。私は、それを実現した方法を人類が発明していたのだと考えています。それは社会的なルール(社会規範)を作ったことです。道徳とか、原始宗教とか、もう少し時代を下れば法律ということになります。最初は強者が敗者を屈服させてつくられたのかもしれませんが、それは安定しないルールですから、社会転覆が起き、結局は、それなりに八方が丸く収まるようなルールに向かったのだと思います。つまり、仲間に対する自然な感情をもとに、それが仲間ではない人間の群れとの共存に応用されてルールが作られていったのだと思うのです。人間の価値観が、世界中であまり変わらないのは、200万年前の人間の性質が、およそ人間全体の性質だった何よりの証拠だと思います。

現代社会は、さらに複雑になりました。
人間が複数の群れに同時に帰属するようになったのです。
それまでは、人数は多くなったものの、人間の多くは、生まれてから死ぬまで同じ場所で過ごすものも多く、仲間意識がそれなりにあったと思います。しかし、家族という制度が生まれると、家族とムラという複数の群れに所属するようになり、それぞれの板挟みが生まれ始めます。さらに近代以降、交通や産業が発達して、現代社会は、家庭、学校、職場、地域と複数の群れに同時に所属することが当たり前となり、さらには、社会、国、インターネットと所属する人間関係も膨大になっていきました。
その結果、一つの群れに対する帰属意識も相対的なものとなり、例えば家庭であったとしても、自分と家族の区別がつかないほど家族に感情移入をすることが無くなっていきました。
帰属意識が希薄になるということは、仲間意識の中で安心することができなくなるということを意味していきます。人間は常時不安に苦しむようになっていったわけです。自分が、どこかの人間関係から外されてしまうという不安はどこにでも生まれてしまいます。家族でさえも、安心できる人間関係ではなくなりました。まして、インターネット上でしか関係を持たない相手に対して、仲間意識をもとうとしても、簡単に裏切られますし、簡単に攻撃を受けることになります。そうして、弥生時代のように、自分の仲間を守るために、相手を攻撃するということなんて、本当に簡単になってしまいました。

こうして人間は孤立していくわけです。人間に対して対した理由もなく攻撃できるようになってしまったのだと思います。それぞれの個別の流れはありますが、離婚、虐待、いじめ、パワハラ、セクハラ、そして自死等根本的には仲間だと感じられない相手と身近なところにいる、また、自分が安心していることのできる人間関係がないということが根本に横たわっているという考え方を、対人関係学と言います。

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