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人間関係があるところ秩序があり、秩序への迎合がある 迎合三部作完結編 [進化心理学、生理学、対人関係学]

前々回に少し無理してロサンゼルス暴動の分析をまとめたことは
有意義な結果となりました。
これを前回の記事で、いじめの問題に応用する試みをしましたが、
私なりには成功したと思っています。

「人間関係があるところに、
秩序に向けた個人個人の迎合がある」という
一般理論の構築を意識していたもので、
他の問題もこの迎合の理論で説明することを
射程に入れながら記事を書いていました。

<官僚の不祥事と組織の秩序への迎合>

例えば、官僚の不祥事にもきれいにあてはまると思います。
公文書を廃棄したり、権力者に忖度したりというのも
これまでは官僚の保身にその原因があるということで
それなりの批判がなされていました。

しかし、これは自分の上司やその頂点にいる首相に対して
こびへつらっているということでは
説明しきれないように感じています。

官僚たちは、自分の保身を主たる目的にして行動していたのではなく、
主観的には、「行政という秩序を維持している」という意識、目的があり、
義務感、正義感を抱いて行動していた
と考えるとわかりやすいように思われます。

省庁や地方自治体の幹部役員は
とてつもなく高学歴で、相応のキャリアを積んだ方々です。
それなのに、普段接していると、腰が低く、物腰も柔らかい
立派な方々が多くいらっしゃるという印象を持ちます。
ところが、自分の属するトップに対しては
「どうしてそれほど」というほど高く持ち上げます。
その人がそこにいないのに、
そこにいるのは私のような部外者だけなのに
心底尊敬しているような口ぶりをするのです。

どうもお役人というのは
役所の秩序を最優先する人が多いようです。
そして秩序を形成するために、
トップを高く奉ろうとするものみたいです。
迎合の的はトップのように見えますが、
実際は秩序を維持しようとしているように思われます。

だから官僚の不祥事の多くは
主として自分の利益を守ろうとして行うものではなく、
秩序を維持するために、自分が犠牲になるという
そのような妙な正義感から行動しているようなのです。

ただ、もちろんそれが正しいことではありません。
正しいことかどうかということよりも
秩序を守ることを優先してしまう性質を
人間が持っていることの現れです。
それが、教養があり、人間的にも強靭な人でさえも
抵抗できない誘惑だということの象徴が
官僚の不祥事だと私は見ています。

<群れの秩序に迎合する人間の源流>

善悪よりも秩序を優先することがはっきりする場合は、
自分たちに危機が訪れていることを
共同体がみんなで感じている場合です。

これは人間の心の性質のことですから
心の発生当時の約200万年前のことを思い浮かべると
簡単に理解できます。

当時は、道具も大したものはなく、火も使わず、
言葉もない時代でした。
人間はたいそう無防備で頼りない生き物でした。
このために、群れを作ってお互いを守りあって生きてきたわけです。

言葉もない時代にどうやって群れを作って守りあったかというと
群れを作ることに都合の良い本能をもっていたからだと考えます。
群れの中にいたいという本能
群れから外されそうになると感じると不安になる本能
弱いものを守ろうとする本能
共感する脳の力
そして弱い者を守ろうとするときの勇気でしょうか。

こういった本能や生物的能力は現代に引き継がれていますが、
当時は生まれてから死ぬまで原則として一つの群れで生活したので
このような本能や能力がとてもよく環境と適合していたのですが、
現代社会はさまざまな群れに同時に帰属しなくてはならないという
環境の変化があったために様々な不具合が生じているわけです。
(対人関係学のHP[心と環境のミスマッチ詳論]
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html
に詳しく書いています。

さてそのような時代に感じる危険のポピュラーなものは、
肉食獣に襲われそうになっているという場合でしょう。
進化の説明をするCGなどでは、
人類の祖先が、簡単に肉食獣に襲われて
群れの仲間は簡単にあきらめている姿が描かれています。
私は、この解釈に反対しています。

おそらく、群れが一丸になって
襲ってきた肉食獣に対して
襲い返していたと思います(袋叩き反撃仮設)。
「ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-06-19

肉食獣に対抗するためには、
むしろ襲われにくくすることが肝心で、
そのためには群れが結束していることが必要になります。
一体として、一個の生き物のようにふるまうことが
襲われにくくなるための唯一の方法だったはずです。

言葉もない時代に群れが一体化するためには、
群れの誰かが行動を提起したら
それに無条件に従うことが必要です。

手巻きをして仲間を密集させる「最初の行動者」
「最初の行動者」の行動に反応して
他の仲間を促して密集ポイントに誘う「最初の行動者に準ずる者」
そして、それらの誘導に従う「一般」
それぞれが、自分の役割を瞬時に悟って
率先してその役割を果たそうとする
こうやって群れが一体の動物として動くことができるわけです。

善悪なんて余計なことを考えていたら
肉食獣の犠牲になってしまいます。
群れが完全崩壊する危険さえあります。
だから必死になって迎合しているわけです。

現代の組織論などを参考にすると
「最初の行動者」と「最初の行動者に準ずる者」を合わせて
群れの2割から3割くらいの人数に過ぎず
7割から8割はい「一般」の人だったのかもしれません。

一般の人は自分の意見を殺して
2~3割の人間の行動に積極的に従った
いやいや従ったのではなく
生き残ろうとして従うわけですから
服従ではなく迎合という言葉が近いと思うのです。

「最初の行動者」や「最初の行動者に準ずる者」は、
生まれながらにそういう性質を持った人間でしょうが、
群れ全体の中の役割を敏感に察して行動する場合もありそうです。

誰が威張っているという時代ではなく
食料などは完全な平等を貫かれていたということなので、
従うということに何らへりくだる要素を感じる必要もなかったのだと思います。
全員が自分の役割を積極的に果たして
群れの犠牲者を出さないようにしたはずです。

これが群れに協調するということです。
どうやってそのような技を人間が身に着けたかというと
初めからそういう能力を持っていたという偶然なのだと思います。
たまたまそういう能力を持っていたから生き残ったのであり、
そういう能力を持たなかった自由人たる個体は
厳しい自然環境に適合しないでほろんだということになると思います。

私たちはそういう適合した人間の子孫ですから
どうしても秩序に迎合してしまう特性を持っているわけです。
しかしその中にも、もともと「最初の行動者」の
血を濃く引き継いだ人たちも生まれるわけで、
秩序に迎合しようとしない人たちということになるでしょう。

現代社会は、様々な群れにおいて
「一般」の人たちの割合が多くなってしまっていて
「最初の行動者」が排除されてしまう傾向があるように感じられます。
しかし、「最初の行動者」が尊重されている群れは
とても強い群れになり、
尊重されていない群れはとてももろい側面を持っていると
いうことになると思います。

<その他の秩序への迎合例>

これまでこのブログで迎合例をいくつか書いています。
両親による児童虐待の例は、
この迎合の理論がよくあてはまると思います。
年齢の割に強すぎる言動でのかかわりを
どちらかが夫婦の間の秩序に迎合して容認する
結果として虐待行為がエスカレートしてしまう。

私が少しかかわった事例でも
離婚後の母親が、娘の性的虐待を
事実としては認識しているのです。
でも、それが新しいパートナーの行為だということを
どうしても認めようとしなかった例があります。
頭ではわかっているのに、気持ちでは否定しようとする
そういう現象だと解釈しました。

そもそも配偶者からの虐待を
第三者に助けを求めることができないことも
迎合の理論で解釈できるのかもしれません。
夫婦という共同体に第三者から介入されることを
無意識に避けているのかもしれません。

パワーハラスメントなんて言うのも
迎合の理論で考えるとわかりやすいですね。
会社本部の設定したノルマの達成を最優先し
つまり会社の秩序に迎合して
従業員に対して罵倒してでもノルマを達成させようとする
そういう場合にパワハラが生まれることがあります。

パワハラを受けている同僚を見て見ぬふりをするのも
こちらが攻撃されることを恐れてというよりも
できてしまっている秩序を壊せないという
心理的プレッシャーがあるというほうが近いようです。

フェイスブックなどで
誰か政治的なリーダーみたいな人が記事を上げると
反対派に対して罵倒するコメントが並びます。
これなんかも典型的な迎合行為ですね。
アンチ権力という共同体ができていて
その共同体の趣旨に反しなければ
安心してコメントを出して、
賛同が得られることに喜びを感じているのでしょう。

最初に記事をアップした人と比べて
コメントは気が利かない極端なものが多いのも
積極的に迎合した結果なのでしょう。
共同体の秩序に沿ったものになっていますが、
通常は共同体の外にいる人が
そのコメントに賛同することはほとんどないようです。

多くの政治的な思想の共同体の構成員ができれば
有力な野党ができるのだろうと思います。

与党になるためには、それだけでは足りないようですが、
共同体が形成され、迎合の理論が通用していることには
変わりがないように感じます。

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いじめによる被害は想像するより深刻である一つの理由。「深刻ないじめ」とは「いじめ共同体」という秩序を形成することが本質であること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

普通の子どもの行動がいじめになり、普通の子どもがいじめを傍観して、いじめのターゲットが自死に至るような「深刻ないじめ」が起きてしまうメカニズムを説明します。
目次
1 からかいが「深刻ないじめ」に育ってゆく流れ
2 いじめ共同体という秩序
3 いじめの被害の本質、深刻な被害はどのように起こされるのか
4 なぜ、その人は、いじめのターゲットになるのか
5 いじめを深刻にしない方法

1 からかいが「深刻ないじめ」に育ってゆく流れ

 どんな深刻ないじめも、初めから強烈な攻撃が始まるわけではありません。もし初めから理由なく強烈ないじめが起きたならば、あからさまに悪い加害者が悪いことをしているのですから、さすがに大人が適切な対処をするでしょう。どんな「深刻ないじめ」も、最初は、いじり、からかい、ちょっとした悪口などがから始まります。いじめの第一歩は、どこの学校でも、習い事でも、スポーツ少年団の中にもあるありふれたこととして、日々起こっています。そして、多くは「深刻ないじめ」に発展しません。
「深刻ないじめ」につながる「最初の行動」を行った「最初の行動者」は、からかったことに対する周囲の反応を気にしています。例えば、「なんだお前、ズボンからシャツが出ているぞ。」ということを言ったことで、周囲から自分が否定的な評価を受けるのではないかと思っているはずです。例えば「こっそり言えばいいじゃないか。」、「そんなこと言わなくてもよいじゃないか。」、「俺は言わなかったよ。」、「自分だってだらしなく服を着ているだろう。」、「お前は先生か。」等々です。実際こういうツッコミがあって「深刻ないじめ」に発展しないで終わることが多いでしょう。
「深刻ないじめ」に発展する場合は、ここのポイントであいまいな容認が行われているようです。積極的に同調することがなくても、あるいは言葉では「そんなことを言うなよ」と言ったとしていても、目が笑っていたり、うなずいていたり、「最初の行動者」からすれば、自分の「最初の行動」が、容認された、ウケたなどと肯定的な評価を得た感覚を持つ事情があるようです。
この容認の後で、ターゲットが再びからかわれるすきを見せると、一度容認されたという経験を持つ「最初の行動者」は、第1回目のからかいよりもターゲットに対する強い行動をします。言葉や身体的接触は強くなり、行動時間は長くなります。
ここでも、誰かが、「最初の行動者」に否定的な評価を加えることをすれば、例えば「もうやめろよ」とか「それはしらけるよ」とか言ってしまえば、「深刻ないじめ」にはつながらないのです。それをしなければ、この段階でも自分の行動が容認されたという体験が重ねられてしまい、だんだん自信が積み重ねられていくわけです。そのうち、自分が、ターゲットをからかう集団の中での役割を与えられたという意識が芽生えてくるようです。周囲から行動を期待されているという感覚です。そうなると、ターゲットが落ち度を見せなくても、無理やり理由をつけて、攻撃を繰り返していくようになるのです。
それにしても、どうして罪もない他者であるターゲットを攻撃するのでしょう。一般に他者を攻撃する場合は、「自分を守る必要性」を感じていることが背景にあります。自分が何らかの危険にさらされている場合、不安を感じるわけです。動物は、不安を感じると不安を解消したいという要求が起きます。この不安解消要求に基づいて逃げる行動と戦う行動のどちらかを選択します。原則は逃げる行動ですが、相手と戦った場合は勝てると思ったり、仲間を守るために戦わなくてはならないという意識を持ったりしたときは、逃げないで戦うことを選択します。いずれにしても、戦う行動をする場合は、まず不安を感じているわけです。自分が攻撃されている、安心できない状況だという不安の意識です。この不安を解消するために他者を攻撃するのです。それにしても、これだけいじめの問題がありふれた問題になっているということは、現代日本の子どもたちの多くが何らかの不安を感じているということになります。国際機関は、日本における過度の受験競争を指摘しています。いつの時代にも大学受験はあるのですが、受験競争の意味合いが、激しさが、例えば昭和の年代とはかなり異なっているようです。ある大学の医学部の偏差値が、30年前よりも10以上も上がっています。有利な職業に就くための競争が激しくなっているのです。30年前には、大都市圏にしかなった中学受験が一般的になりました。中高一貫教育は、子どもたちにゆとりを与えているのではなく、受験対策を小学生やそれよりの下の世代まで早期化しているだけのようです。ブラック企業、リストラ、派遣、有期雇用、無保険者などのキーワードがマスコミや漫画などを通じて直接、あるいは、親の焦燥感を通じて間接的に、子どもたちに伝わっているようです。子どもたちは、危機意識をもたされ、緊張感が持続しているようです。
子どもたちは、持続する緊張から逃れたいという不安解消要求を持ちますが、子どもたちにとっては、不安を解消する手段は見つかりません。そうすると、ますます不安解消要求が大きくなってゆくのです。
このような状態のときに、誰かをからかったり、攻撃することで、緊張が一時的に和らいだり、忘れたりするという体験をしてしまうとどうなるでしょうか。誰かを攻撃することによって、一次的に、解放されたような快い気持ち感じているのかもしれません。ターゲットに対する怒りは、不安を解消するために選択した攻撃の感情なのです。攻撃をすることによって怒りの感情を持ち、怒りの感情を持つことによって、自分の不安を解消するのです。これがいじめの「八つ当たりの構造」です。
この「八つ当たりの構造」が、「最初の行動者」、「最初の行動者の取り巻き」、「一般傍観者」で共有されることによって、深刻ないじめが完成されます。彼らは、すべて同じような不安を共有しているのです。

2 いじめ共同体という秩序

この「深刻ないじめ」の完成を秩序の観点からみていくことは、いじめとは何かについての理解を深めます。
「最初の行動」が起きたときは、秩序は一般の社会秩序、学校の秩序の中にあったはずです。ところが、最初の行動の後で、いじめが繰り返されて攻撃性を高られてしまい、それが名誉を侵害する言動、暴力、物を壊す行動、物を隠す行動という行為が現れた段階では、犯罪ですから、一般の社会秩序に反する行動をしているわけです。しかし、それが大勢からとがめられることがないという段階に入ると、「いじめ共同体の秩序」が生まれていることを意味します。子どもたちの行為は無秩序に、ゲリラ的に行われているように見えますが、そうではありません。行動する人、積極的に加担する人、容認する人という役割分担が生まれてきます。それぞれが自分の役割感をもち、その役割を遂行することで「いじめ共同体」の秩序が形作られているのです。いじめの「ターゲット」以外のその場にいる人間たちの共同作業が行われていると言って良いと思います。人間は、何らかの共同体に帰属してしまうと、その共同体から離れまいとする無意識の行動をしてしまいます。群れを作る動物である人間の性質です。その行為が良い事か悪い事かなどの判断より前に、共同体の秩序に従おうとしてしまうのです。秩序に迎合しようとしてしまう動物のようです。
「最初の行動者」のターゲットをいじめる役割感というものも、この秩序を維持しようとするという人間の本能から生まれるものだと思います。
「最初の行動者のとりまき」の役割に基づく行動は、「最初の行動者」のエスカレートした行為を強く否定しないことから始まります。なぜ、強く否定できないのでしょう。意外なことにそれは仲間に対する優しさなのです。一般社会秩序から見れば、「最初の行動者」が悪いことをしていることは明らかです。しかし、悪いことを悪いと評価して、否定的な言動をすることは、「最初の行動者」と「最初の行動者のとりまき」との元々あった秩序を壊すことになります。これを恐れて否定的な言動をできないようです。ある意味、仲間をむやみに責めない、否定しないという健全な感覚がゆがんだ形で表れていると言えると思います。「最初の行動者のとりまき」の承認行動は、「最初の行動者」に対する優しさ、寛容なのです。それは「ターゲットに対する冷酷な仕打ち」ということを同時に意味します。これを読んで眉をひそめる大人も多いことと思います。しかし、仲間に対する優しさが、同時に仲間以外に対する不利益になるということは、現代社会に一般的にみられる現象です。現代社会の複雑さということはそういうことなのです。人間は、一方に肩入れしてしまうと、他方の利益を同時に考える能力は乏しいようです。そのために、自分の肩入れをしない方の落ち度を探し出すということを無意識に行い、精神的なバランスをとっているようです。
さて、一度、大事な出来事でいじめの端緒行為を追認してしまうと、「最初の行動者のとりまき」たちも、秩序を維持する方向で行動するようになります。単に「最初の行動者」のからかい行為を笑っているだけでなく、自分も攻撃に参加するようになることも多く見られます。それは、「最初の行動者」に対する優しさ、同調であることが多いと思います。「ターゲット」をいじめたいからいじめるのではなく、いじめることが面白いからでもなく、そういう秩序に沿った行為をしなくてはならないという義務感すら感じて行動しているようです。
「最初の行為者」と「最初の行為者のとりまき」のあいだで、「いじめ共同体の中核的秩序」が生まれたことになります。そうやって複数人の間で秩序が形成されてしまうと、その雰囲気、秩序を守ろうとする雰囲気はその他の傍観者たちにも広がっていきます。よく、なぜ傍観するのかということの答えとして、「注意すると攻撃が自分に向かうことを恐れて傍観する」という表現が使われます。しかし、実際傍観していた人に話を聞くと、それを認めようとしない人が多いのです。傍観者たちにも「ターゲット」がかわいそうだという気持ちがあるし、攻撃者に対する怒りもありながら、介入して「ターゲット」を守ることしません。自分への攻撃がいやなことは間違いないのですが、それだけで傍観しているわけではないようなのです。それではどういうことなのでしょう。傍観者たちの話を総合すると、「最初の行動者」と「最初の行動者のとりまき」が、その「場」の秩序を作っているため、自分が介入することによって、自分がその秩序に反する行動をしてしまうということで、介入ができなかったようなのです。秩序に消極的にでも迎合してしまった結果、介入をしないばかりか、事後的なフォローとしてのターゲットに対する声掛けもできなかったようです。すでにでき始めた秩序、ターゲットを攻撃するという秩序に消極的に迎合することが傍観なのです。
しかし、どうしても疑問が生まれます。学校という閉鎖空間にいるとしても、もちろん殺人や窃盗が悪いことだという知識はありますし、実際にそれを行えば警察に捕まるということは知っているはずです。大きく言えば一般社会秩序の中にいることも間違いがありません。それなのにどうして、簡単に一般社会秩序違反を気にしないで、「いじめ共同体」の秩序に従ってしまうのでしょうか。
一番に考えなければいけないことが、子どもたちが一般的社会秩序に恩恵を感じていないという可能性があることです。社会は、自分たちを安心させないで、緊張を強いる、恐怖を感じさせる、不利益を与え続けるという意識があるということです。一般的社会秩序を守るより「いじめ共同体」の秩序を守ったほうが、自分は守られると感じていることになってしまえば、その子どもたちにとっては一般的社会秩序は存在する力を失うでしょう。ちょうど、学校をドロップアウトして行き場のない若者たちが、徒党を組んで非行行為をする場合があり、つまらないことで対抗グループとの死闘が行われることがあります。一般社会秩序を守ろうという意識はとても低いのですが、仲間の一大事から自分だけ逃げることによって非行グループの秩序から逸脱することのほうが怖いようなのです。同じような心理状態なのかもしれません。
このような社会による心理的圧迫、生きづらさ、あるいは緊張とその解放要求という心情を共有することで、一般社会秩序を逸脱した行動の仲間である「いじめ共同体」の形成を容易にしているのだと私は思います。自分に緊張と不安を強いる社会の中で、いじめ共同体の中にいるということで、つかの間の休息を得ているような印象を受けます。
このように、いじめを傍観するのは、すでに形成された秩序に迎合するという理由と、傍観者が自分自身の不安を解消しようという自分の心理的事情があることになります。誰かが攻撃されていると、攻撃されている子どもよりも、自分は優越的地位に立っているという意識をもつことによって、不安が一時的に緩和されるという効果もあるかもしれません。
悪いことなのに、悪いと言わないでいじめを放置するもう一つの理由は、慢性的不安による思考能力の低下という問題もあります。
先ほども述べましたが、怒りは自分の何らかの不安、危険意識を解放させるための行動である「攻撃」に伴う感情です。先行して、不安感、緊張感の持続があったわけです。不安感、緊張感、怒りという生理的現象がおきると、複雑な思考をする能力が著しく減退します。分析的な思考ができなくなります。二者択一的な思考になったり、これをすれば将来どう言うことが起きるということを考えなくなったりします。他人が自分の行為によってどのような感情になるか、今彼はどのような気持なのかということについては脳が動かなくなるのです。ターゲットの感情は気にならなくなるので可哀そうだという気持ちは強く感じられません。このままいじめが続くことによって自死や不登校などの事態になるなんてことは頭の片隅をかすめることができれば優秀な脳ということになるでしょう。二者択一的な思考は、いじめ共同体に自分も入るか、いじめられる方に味方するかという問題提起を自分に行うことで精一杯になってしまうようです。大人と相談していじめを穏便になくそうということは、はじめから選択肢に入っていないのです。
また、怒りは、自分に不安を与えるものを攻撃して存在を消去することによって不安を解消しようという性質を持ちます。怒りがこのようなシステムを持っているために、一度怒りの感情に火が付けば、ターゲットを完全に消去しようとする傾向があることになります。途中でやめることができないシステムです。怒りはいじめをエスカレートする性質をもっています。
「いじめ共同体」は、社会的な存在としての生きづらさという感情を共有しますが、さらにいじめが進行していくうちに、いじめをしたことの後味の悪さ、発覚したときの不安を共有していきます。これはいじめをやめる方向には向かわせず、「いじめ共同体」の結束こそを強くします。いじめはエスカレートするようにできているわけです。
なかには、いじめがエスカレートした段階でも、いじめに反対して抗議する子どももいます。「いじめ共同体」の秩序に入らない子どもということになります。こういう子どもは、もともと、一般的な子ども同士の共同体秩序にあまりなじめていなかった子どもたちであることが多いようです。人間の多くは、その秩序が一般的な秩序からみて正しかろうが間違っていようが、秩序に迎合していくものです。いじめを止めるか否かは、正義感の強さということもあるでしょうが、正義感よりも共同体秩序に迎合しない個人の性質というものが決め手になっているような印象を持ちます。今、学校では、こういう変わり者は冷遇されているようです。これがいじめがだれにも止められない原因になっているように感じます。そういう子どもが、教師から冷遇されているので、「いじめ共同体」を構成する子どもたちから、いじめに対する抗議というまっとうな意見なのに賛同を得にくいのです。

3 いじめの被害の本質、深刻な被害はどのように起こされるのか

 これまでみてきたとおり、「深刻ないじめ」は「いじめ共同体」による組織的な行為です。共同体による行為というよりも、「いじめ共同体」が作られることで完成します。いじめのターゲットは、いじめの初期段階では、いじめられているのに笑顔を見せていることがよく報告されます。この理由も簡単です。笑うことで、自分に対するいじめを容認して、自分も共同体の一員だということをアッピールしているのです。大変痛ましい現象だと思います。
 ターゲットにとって、「深刻ないじめ」によって深刻な影響を受ける理由は、悪口を言われた衝撃でも、暴力を受けた痛みでもありません。怖いから学校に行きたくないということでも、痛いから学校に行きたくないというわけでもないようです。心の痛みの一番の原因は、自分が「いじめ共同体」の外に置かれたことです。
 先ほど述べたように、「最初の行動者」のいじめ行為が、「最初の行動者のとりまき」によって承認されるのが、その仲間内のやさしさが原因であると言いました。それは同時に、自分という存在を否定されていることです。その場にいるターゲットは、そのことを肌で感じ取るわけです。悪いことをした「最初の行動者」が許され、やさしさの対象となるのに、悪いことをしていない自分が否定されることが容認されるということです。それは、精神的にパニックになってもおかしくないでしょう。いじめ行為によって傷つく以上に、いじめが容認されたことによって傷つくことは当然です。
自分以外の自分の周囲の人間が、自分を攻撃していることで結束していると感じることは、自分が人間扱いされていないという恐怖感情を与えます。自分が自分の周囲にいる人間から存在自体を否定されているということです。学校に来ると、自分は守られていない、仲間として認められていないということです。具体的ないじめエピソードが続かなくても、気が休まらないどころか、常に危険意識を持ち、高度な緊張感から解放されることはないでしょう。そうして、先ほど来説明しているように、そのような危険意識、不安を感じると、その不安を解消したいという要求が生まれますが、ことごとくその要求は否定されます。ますます、要求が大きくなっていき、慢性的な危険意識、不安感が、どこまでも持続していきます。これは人間の脳の限界を超える事情に簡単になってしまうようです。合理的な思考、解決のための分析的思考は著しく減退し、精神は破綻してしまうことがよくあります。それほど激しい暴力がなくても、それほど激しい罵倒がなくても、自分だけが仲間から外され、自分が攻撃されていても誰も助けてくれないという意識は、やがて自分で自分を否定する思考も起こされることがあります。自分という存在に全く自信を持てなくなり、家から出られなくなったり、これからもこうやって生きていくことを考えると自分の体を傷つけて心の痛みを忘れようとしたりするようです。子どもの頃のいじめが、統合失調症のような症状を出現させ、精神病院への入退院を繰り返させ、引きこもりや自死に向かわせることは、このように考えるともっともなことのように思えてくるのです。
いたましいことに、自分がそのように、学校では普通の存在ですらないということは、家族に知られたくありません。家族の中でも、そのような可哀そうな存在として扱われることは、家族という組織にいることも許されないのかと感じるようです。深刻な八方ふさがりの状態になります。いじめ被害の本質は、この絶対的孤立感にあると考えています。この絶対的孤立感こそ、人間が最も苦手な感覚なのです。
 いじめ相談を受けていると、私から見れば、勇気を出してターゲットを気遣い、フォローする子どもたちがほぼいるようです。ターゲットは、そのフォローである声掛けや情報提供の事実を認識しているのですが、自分が気遣われているというような評価をしないものです。おそらくこれは、フォローをする者は、まさにターゲットが攻撃を受けているときには、「いじめ共同体」の一員としてその秩序に迎合しているとターゲットは感じているのでしょう。どんなにフォローする者にとってその場にいることで苦しんでいたとしても、秩序の外に置かれたターゲットにとっては、あちら側の人間だと感じているのだと思います。いじめの解決の第一歩は、ターゲットが思っているほどターゲットは孤立していないというところをターゲットと家族にしてもらうことから始めます。

4 なぜ、その人は、いじめのターゲットになるのか

 これまでの分析に一片の真実があるとすれば、いじめのターゲットになる人物像というものが見えてきます。それは、「子どもたちの秩序になじめない子ども」ということになります。傍観者となる人間からみても、いじめのターゲットになる子どもに対して共感を持ちにくく、むしろ加害者の方と日常的な心の交流があるということが多いようです。他者から共感を示されないということは、他者に対しても共感を示せなかったり、共感の示し方が弱かったりするようです。加害者、傍観者から見れば、なかなかなじめない存在のようです。そうすると、「いじめ共同体」ができたときも、ターゲットはそれ以前から共同体の外にいたという感覚を持ちやすくなってしまうようです。
 このようになじめない存在になってしまう一つの理由に、突出した行動をする子どもであるというケースもあります。突出してピアノがうまい、突出して成績が良い、突出して容姿が整っているなどの理由で、共同体秩序から外される場合もあるようです。「最初の行動者」たちの嫌がらせや、やっかみは、通常であれば、周囲から受け入れられません。しかし、ターゲットがクラスでなじみのない存在の場合は、嫌がらせが容認させる条件になってしまうようです。
 また別のケースは、多くの子どもたちが気にして、努力して、なんとかついていこうとする「こと」に対して、平然として、努力せず、ついていこうともしない場合です。進学について努力しない、校則についてあまり気にしない、身だしなみが人並外れてルーズだ、部活動も平気でさぼるという場合です。自分の努力して行っていることをターゲットが平然と踏みにじる場合、奇妙な正義感のような怒りが生まれるようです。そのような努力をしている子どもが圧倒的多数になれば、努力をしない子どもは、簡単に共同体から外されてしまいます。気に留めていただきたいことは、ターゲットにされる子どもが、自分の意思で努力をしないのではなく、何らかの事情で努力ができない場合が多いということです。子どもたちの正義感が、実は、学校など大人の子どもたちに対する統制行動を反映していることも多いような気もします。また、子どもたちにとっては、それをしないことが不安であるのに、ターゲットはそれをしないということに不公平感を感じている節もあります。いずれにしても、それがターゲットがいじめられることを正当化するものではありません。人間が周囲から追放されることが許される事情はないと思います。
  
5 いじめを深刻にしない方法

 子どもたちに不安、緊張を与えない社会にすることが根本的な対策だと思います。多少失敗しても、安心して生活できる社会であり、無理して頑張らなくても生活ができる社会になることが必要だと思います。しかし、その実現が難しいからと言って、いじめの問題を放置するわけにはいきません。いじめ被害の深刻さは、その人の一生を台無しにするからです。今すぐできることを考えてみました。
1) いじり、からかいをさせない
いじり、からかいをさせないように誘導することが一つの有効な方法になると思います。この場合、いじめやからかいを禁止するという発想ではうまくゆかないと思います。どうも教育機関には、禁止か容認かという二者択一的思考が蔓延しているように感じる時があります。いじめやからかいをしないコミュニケーションに誘導することが大切です。子どもたちに、そういう誘導係を設けて、自分たちで大きな秩序を作るように誘導することが有効だと思います。現在学級委員という制度が無くなったそうですが、いじめの発生との関係を調査してみるのも面白いと思っています。
このようにからかいやいじりをしないようにさせようと問題提起をすると、人間関係のための潤滑油だとか必要悪だとかとか言う人たちが出てきます。そうです、セクシャルハラスメント的言動を温存させようとする人たちと同じです。だから、いじりを温存する人たちに対しても同じ理屈で批判することができます。そのようなことがなければできないコミュニケーションならば無理してコミュニケーションをとらなくてよいということです。
私は、極論を持っています。学校では、「さん」とか「君」とか敬称をつけて姓で呼び合うべきだと思っています。その子どもが家族とつながっている存在だという意識を持たせることが有効だと思っています。学校は学びの場です。必要以上に近しい感覚を持つ必要はないと思います。教師も、子どもたちをファーストネームで呼び捨てにすることをしてはならないと思っています。人間は敬意を払いあう存在だということをこういうことから始めることが有効だと思っています。
2) 教師の役割
 教師、特にクラス担任の役割は、あるべき秩序を作ることです。学級内に個別のグループを作らないということは不可能だと思いますし、必要な場合もあります。それとは別にクラス全体の秩序作りということを意識するべきです。何かにクラス全体で取り組むことが有効だと思います。クラス全体で取り組むのは目標があった方がやりやすいのですが、そのためにクラス対抗にしがちです。そうすると、取り組みにうまく参加できない子どもがいる場合は、その子を攻撃することが起きてしまいます。これでは逆効果です。何とか、失敗する子、うまくゆかない子を助け合い、補い合う仕組みが生まれればよいのです。それができれば、クラス対抗でもよいかもしれません。
 このように秩序を誘導するのは、クラス担任であるべきだと私は思います。いつも一緒にその子どもたちといて、何らかの権威を持っている人でなければ秩序形成は難しいからです。逆に、クラス担任がいじめを容認してしまうと、「いじめ共同体」の秩序が簡単に形成され、強いものになってしまうので、注意が必要です。間違っても教師が、特定の子どもを秩序の外に置くような暴力や、排除をしてはならないということになります。
 但し、教師が、子どもたちと別の立場で秩序を形成することはなかなか難しいことです。先に述べたように、教師と子どもとの共同作業で秩序を形成することが望ましいのです。
 また、いじめを認めた場合、教師は「えこひいき」という批判を恐れずに、徹底的にターゲットをかばうべきです。「いじめ共同体」の秩序を否定して、一般的な社会秩序、弱者保護を実践して見せつけることが、「いじめ共同体」秩序への迎合を阻止する有効な方法になるでしょう。弱者保護の形を示して子どもたちにもまねをさせるということです。その場合も、「最初の行動者」や「最初の行動者のとりまき」を排除するのではなく、一般社会の秩序に復帰させることが肝心です。
3) 弱者の心理に対する推測、共鳴の訓練
いじめが深刻になる時、ターゲットの苦しみや寂しさ、怖さに共感ができないという現象が起きています。これは犯罪が起きる場合にも一般的に起きています。被害者の被害を考える余裕がなくなっているのです。再犯防止のためには、被害者の具体的な被害、もっと具体的には困っている顔、苦しんでいる顔、不安におののいている顔を想像してもらうところから始めます。これを事前に行うことによって、具体的ないじめ行為と人間の苦しみを結び付ける作業をするわけです。誰しも、仲間外れにされた時はこういう感情を抱くのだということを予め教えておくということです。これは、行動制御に有効なのです。
4) 人間の多様さに対する価値観を持たせる
これほどいじめや、10代の自死が減らないで増えているということを深刻に見るべきです。もしかしたら、現代の学校教育の何かがいじめを誘導している可能性はないかと顧みるべきでしょう。
学校主導でいじめが始まることもあるようです。落ち着きのない子が、教師から授業妨害をする者という評価が下され、他の子どもたちにあからさまに示されると、これが直接的に共同体から外されるという事態を招くことがあるようです。実務的には、理想論ばかり言うわけにはいかないので、難しい問題なのかもしれません。授業中に不規則行動をすることは改めるよう指導する必要があるのですが、他の子どもたちの共同の敵のような扱いをすることは厳禁です。
できるだけ、色々な子どもたちにそれぞれ価値があるということを実感として身に着けさせるべきです。そもそもいじめを止めてきたのは、子どもの秩序になじめない変わり者たちだったのです。変わり者の代表として私は、変わり者の価値を主張します。しかし、このような変わり者は、学校からすると煙たい存在として扱われることも多いようです。その他、行動のおそい子、人と違う感じ方をする子、少しルーズな子、几帳面な子、不安を感じやすい子、そういう様々な個性を持った子どもたちが、それぞれ価値があるということを、大人が示すべきです。実際、そういう様々な個性が尊重される社会、共同体が強い共同体なのです。同質の構成員ばかりの共同体はとてももろいところがあります。多様な個性を持つ子どもたちを、子どもたちの秩序の中から外さないということが、多様な価値観を尊重するということだと思います。これまでの学校教育が、画一的な人間像となることを目標としてしまっていたということはないでしょうか。
学校の中でも少なくとも公立の義務教育機関は、教育という意味を改めて考える必要があると思います。根本的な社会の問題が色濃く影を落としているということなのでしょうが、学校が児童生徒の人格の向上という目標を忘れ、予備校と化しているということはないでしょうか。保護者も含めて学校の在り方を話し合って、何を一番大切にするかを考えなければならないと思います。
大人が、自分たちを反省することからいじめ予防は始めなければならないのだと思います。




  


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現代社会が生きづらいことの意味と、家族強化が有効である理由と、その方法について 家族を大切にして幸せになるとはどういうことか [進化心理学、生理学、対人関係学]

<なぜ生きることは苦しいのだろう>
<楽しく生きるためには家族が有効だ>
<現代型家族の作り方>

<なぜ生きることは苦しいのだろう>

この世の中が快適で楽しくて仕方がない
と感じ続けている人はいないでしょう。

テレビ、インターネット、街の話題では
いじめ、虐待、不登校、パワハラ、セクハラ、リストラ、過労死、離婚、配偶者虐待、虚偽DV 。親子断絶、貧困、借金、倒産、性犯罪、ヘイト、無差別殺人、戦争、テロと
「社会病理」の話題が途切れることはありません。

こういった「社会病理」の原因は難しいことではなく
人間の心が満たされないために精神的に不安定になっている
ということから起きています。

では、心が満たされないということはどういうことでしょうか。
これは、現代社会が、人間の心が適応できない環境になっているということです。
人間は水の中には住めません。
水の中では呼吸ができないことなどが原因で、
水の中には人間の体は適応していないからです。

これと同じように、心も
現代社会に適応していないから、苦しいのです。

では
心とは何でしょうか。
現代社会とは何でしょうか。

心というものに、いろいろな意味を込めるのは自由です。
それを否定することはしませんが、
苦しさを感じる心は、それほど難しいものではありません。

心が成立したのは今からおよそ200万年前のことだとされています。
そのころの環境に都合がよいように心が作られたのです。
それは、当時、文明はもちろん、火も言葉もなかった時期に
無防備な人間が群れを作って生き延びるために必要なシステムが
心だったのです。

つまり、人間の心の本質は誰かと一緒にいたいという人間の性質です。
その裏返しで、誰かと一緒にいないときに不安になり、
一緒にいる仲間から一緒にいられなくなると感じると
やはり不安になるというシステムです。
逆に、ずうっと同じ仲間で仲良く一緒にいられると
安心感や喜びを感じるというわけです。

群れから離れなくてはならないと感じるきっかけは
自分が群れに迷惑をかけるといった主に自分の行動が原因の場合と
自分が悪くなくても群れの自分以外のメンバーが
自分を仲間として認めていないと感じることです。
(これを対人関係的危険を感じると私は表現します。)

200万年前の人間は
生まれてから死ぬまで原則として同じ群れで生きたので、
仲間の個性を尊重し、弱点も欠点も失敗さえも
許しあって、補い合っていたのだと思います。
対等平等で、弱いものを保護して仲間と守ってきたのです。
そう確信できるのは、
そうしないと弱く無防備な人間が、
厳しい自然環境の中で生き延びることができなかったと思うからです。
仲間と自分と全く同じに大切にしていたので、
利害が対立することもなかったと思われます。

人間の心は、そのような環境の中で作られたので
その時の仲間相互の関係がなければ
自然に苦しくなってしまうのだと思います。

ところが現代社会の人間は多種多様な群れに同時に所属しています。
家族、職場、学校、地域、趣味のサークル、友人関係
あるいは、通行人や販売店での一時的な人間関係もあります。
自分の利益を他人に譲れば
感謝されるどころかどんどんつけあげられることだってありますし、
とんだとばっちりを受けて傷つくことも多くあります。

利害が対立している様々な群れに同時に帰属する社会
これが現代社会です。

一時的な人間関係も含めて
つい反射的に、この人間関係から外されるなんて感じていたら
きりがなくて、それこそ心がいくつあっても足りない状態です。

実際、私たちは、慢性的に、持続的に
対人関係的危険を感じ続けて、緊張し続け、
心が消耗しかかっている状態だと思います。

この緊張がストレスです。

このストレスのゆくつく先は、
まともな思考ができなくなり、
危険から脱出することだけが最優先課題となってしまい、
死ぬことによって危険を感じなくしたい
つまり自死につながるわけです。

自死に至らなくても
あるいは社会病理的な行動をしなくても
私たちの心は現代社会の中で苦しんでいます。
自死や社会病理は、氷山の一角で
水面下では多くの人たちが苦しんで、
心を消耗させています。
自死や社会病理の予備軍が蔓延している状態ではないでしょうか。
そうでなければ、未来を問うに諦めてしまった人たちが
蔓延してきているのかもしれません。

この心と環境のミスマッチについては
対人関係学のホームページで詳しく説明しています。
心と環境のミスマッチ 詳論
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html

現代社会は、心が苦しくなる理由があったわけです。
しかし、私たちはこの社会で生きていかなければなりません
もっと快適に、つまり幸せに生きるための方法はあるのでしょうか。

<楽しく生きるためには家族が有効だ>

現代社会で幸せに生きるためには
家族の力をつけることが現実的な解決方法です。

行きずりの人間関係を含めて全部の人間関係で心が満たされるということは
すぐにできることではありません。
どこか一つに人間関係を核にするべきです。

家族は、寝食を共にする最も基本的な人間関係です。
傷ついた人間が帰る場所であり、
特に夜間という人間の体の修復のための時間を共有する関係です。
もっとも200万年前の群れに近い関係です。

父、母、子どもという関係を単位に家族が形成されたのは
それほど古いことではありません。
しかし、人間の子どもは、父と母がいて、
二人から愛情を注がれて生きていく自信とノウハウを得ています。
現代社会でもこれは変わりません。

無責任に家族を解体するなんてことを言っている人たちは
それに代わる心を満たす人間関係を提起しておらず、
生身の人間の生きるということをまじめに考えているとは思えません。
特に子どもが健全に成長するということの大切さ
最も弱い者を守るという人間らしい考えに至っていません。

さて、様々な対人関係の中で傷つき、苦しんでも
帰るべき家族があるならば、
極端な話、家族以外の人間関係を取り換えればよい
という実感を持つことができます。

家に帰れば自分を守ってくれる家族がいる
個人として欠点を含めて尊重してくれる家族がいることが実感できれば
自分はずっと家族に迎え入れられる存在なのだと
心が安心することができます。

これが望ましい心が強くなるということです。
巷で言うところの心が強くなるとは
危険を感じにくくするということであり
デメリットが大きすぎるので注意が必要です。

こういうと、
すべてなれ合いの関係を作るのかという
浅はかな批判がくることがあります。
こういう批判をする人は人間を成長させるのは
誰かが無理をさせることだと信じているようです。

しかし、人間が成長するときは、誰かに強制される時ではなく
自分で目標をもって、自分から向かっていくときです。
帰るべき家があって
自分が尊重されている存在だと感じていれば
自分の将来に対しても希望が生まれてきます。
夢を持つことができ、夢を成し遂げるために困難を克服するという
力が生まれてくるのです。

自分が家族に支えられていることの喜びと感謝があれば
他人にも優しくする方法を知っているということにもなります。

では、家族をどのようにすれば、幸せな人生が送れるのでしょうか。

<現代型家族の作り方>

私は、弁護士としての職業柄
家族が壊れた場面に多く立ち会っています。
その多くは、何か問題行動があるというよりは、
普通の家族であり、
タイミングが悪かったり、横やりが入ったり、
そういう普通の出来事の中で家族が壊れていっています。

どうやら現代社会では
普通の家族の状態では壊れてしまう危険性が高いために
家族を強くすることを意識的に行わなければならないようです。

心が不安にならない関係を作ればよいという結論は見えています。

心が不安にならないというのは、
どんなことがあっても、自分は家族から追放されない
という安心感です。

家族がお互いに、
相手の弱点、欠点、不十分点を
責めない、笑わない、批判しない
ということが基本です。

しかし、これは、なかなか難しいことです。

弱点、欠点、不十分点は
もちろん誰しも持っているものなので、
理性的に考えると、責めない、笑わない、批判しないということは
それほど努力しないでできそうなのですが、

自分の心が弱っているときは、
相手の弱点、欠点、不十分点は
自分が尊重されていないために、相手がわざとそうしているのではないか
というように悪く考えてしまって
不快を示したり、怒りを持って対応したり
してしまうようなのです。

自分を守ることが
相手を責めることと同じことになることが
人間関係の難しさです。

相手を尊重するためには
暴力を振るわないということも当然のことです。
暴力は、肉体が傷つく以上に
自分が仲間として尊重されていないという強烈なメッセージになるので、
心がより深く傷ついてしまうのです。
この当たり前のことがわからない人が多すぎるように常々感じます。

それから大事なことは、
家族間のトラブルの多い原因が
他の人間関係である職場や、学校などの
人間関係のトラブルをひきずってきて
家族に八つ当たりをするというものです。

むしろ外であった嫌なことは
本当は、客観的な事実として報告したほうが良いようです。
そうして、共感を示してもらう。
それだけ得だいぶ救われるようです。
男性はこれが苦手な人が多いようですが。

打ち明けられたほうは、ともかく聞く
そうして、「ひどいね」とか「たいへんだったね」とか
共感を形で示す。
これが大切です。

イライラのまま家族に持ち込むと、
家族の何気ないことが
自分を攻撃しているようにとらえてしまい
言わなくてもよい言葉を言って
相手を傷つけたり、怒らせたりすることが出てくるようです。

家族は仲間なのだということは
苦しみを共有することで
それは事実を報告して、感情を共有すること
その形を作るということかもしれません。

中々難しいことは、
誰がこういうことを始めるかということです。
自分だけ一方的に相手を尊重して
自分が尊重されなければ損をしている
と感じることが次のハードルのようです。

夫ないし妻という大人の構成員は
この自分だけ損をしているという感覚を捨てましょう。
捨てるしかないです。
まず自分がやって見せて
そして真似をさせなければどうしても出発はしないものです。
結局は自分が幸せに生きるための手段ですから
先行投資とでも考えましょう。
人間と家族を信じましょう。

このテーマはこれからも繰り返し検討して述べていきますが
あと二つだけ。

一つは、完璧を目指さないことです。
10割譲っていたら頭がおかしくなるらしいです。
3割くらいを目指しましょう。
3割意識して行えば
家族はこちらの変化に気が付きます。
あなたの提案自体はアッピールしたことになるでしょう。

もう一つは、家族の外にサポート機関をつくることです。
こんなブログでは全く影響力が足りないです。
誰でも気軽にアクセスできる方法で
実行できるノウハウを蓄積して研究ができればよいと思います。

さて、「幸せになりましょう」とか優雅な問題提起の表現になっていますが、
事態は、本当はひっ迫していると感じています。

家族解体思想の過激派が、私たちの家庭を虎視眈々と狙っています。
家族を強化するどころか
家族こそ解体して女性を解放しようとしている人たちが画策していて
その人たちの活動と
家族に会えなくなって苦しんでいる人たちの数が
見事な形で比例しています。

複雑で、個人が尊重されない社会の中で
人々の心が消耗して
もの後を感じなくなり、あきらめてしまう人たちが増えているようです。

死に物狂いで、歯を食いしばって生きるために
家族を自然の状態に放置しないで
私たちの生きやすいように改善していく
それこそが必要なのだと思います。

無責任な家族解体論者は
どうやら机上の空論ないし自己満足の主張ということで
現実に生きている人間の心には無関心なようです。
特に、子どもの健全な成長ということに関しては
何も考えがないようです。

それはつまり、
現代社会の社会病理についても関心がないようです。

家族の解体ではなく
現代社会とその中の人間の心に適合するように
家族を改善していくことこそ
まじめな、人間味のあるあるべき議論なのだと思います。


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特攻隊員の心情を肯定的に理解しなければ平和運動は上滑りした危ういものになるだろうということ [進化心理学、生理学、対人関係学]



<元特攻隊員の会見>

先日、ネットニュースで特攻隊員の生き残りの90歳代の兄弟が
その心情について会見を開いていました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191122-00000037-mai-soci&fbclid=IwAR1VK_0vwCjm648jaSC8-zTZhoeX9CCxMFKZM4Knv-U1dBtZq4LTTkv_T0Y
それというのも、
娘と特攻隊の展示館で、特攻隊員の遺書が展示されていて、
娘さんは、亡くなった方々が、
「教育を受けて勇ましく死のうと思ったのね」
と言ったことがきっかけだったそうです。
その遺書には、家族にあてて心配するな
お国のためだから喜んで死ぬ
というようなことが記載されていたようです。

これは違う、
こういう誤解は生きているうちに訂正しなければならないということで、
元特攻隊員の兄弟は会見を開いたとのことでした。

<元特攻隊員の話を考えてみた>

何が「違う」のか。

第1に、死ぬのは怖かったそうです。
第2に、喜んで死ぬと書いたのは、家族に向けた配慮だそうです。
恐怖の中で嫌々死ぬと思うと家族が悲しむので、
家族の苦しみを軽減させるためにそういう
いわばリップサービスをしたとのことでした。
第3に、何か自分が死ぬことが大義を受けてのことだと思わなければ
やっていられなかった
ということを説明されています。

つまり、戦前の軍国主義教育によって死ぬことが怖くなくなったのではなく、
「家族に心配をかけない」ということで
「大義のために」ということで
死ぬ恐怖を軽減させる工夫をしていたということになります。

余裕をもって死を迎え入れたのではなく、
いずれに死ぬことになる客観的情勢なので、
少しでも死の恐怖を軽減させようと
追い込まれた結果が勇ましい遺書だったわけです。

死の恐怖を軽減する方法としては
仲間のための行動をすることが有効です。
人間はそのようにできているからです。

言葉のない群れを作ることができたのは、
襲われている仲間を
みんなで助けようとする性質があったからだと思うのです。
(袋田叩き反撃仮説)

平時に野獣を見たら逃げるでしょうが、
いざ仲間が襲われていれば
怖いという気持が不思議と消えて
みんなで野獣を袋叩きにしたという仮説です。

これがなければ、人類なんて死に絶えたことでしょう。

つまり仲間のために身を挺するというのは
人間の本能なのです。
ただここでいう「仲間」は、おそらくせいぜい数十人くらいで、
いつも一緒にいる人たちでしょう(ダンバー数と単純接触効果)。
例えば家族です。

国を守る、民族を守るというのは
人数が多すぎるのと抽象的な存在なので
守ろうとする本能はないと思います。
これは「教育」が必要なのでしょう。
それでも無理かもしれません。

おそらく、見知った親しい仲間を守ろうという強い情動が
自分を守ろうという情動を軽減させるのだと思います。

大義とはこの感情、本能から派生したものですが、
実際は、仲間を守ろうという意識に還元できるのかもしれませんが、
(たとえば国を守るという言葉であっても、
実際に念頭に置いているのは親兄弟だったりするというようなこと)
自分を奮い立たす従的な役割は果たすかもしれません。


<教訓>

1 教育によって洗脳しきらなくても特攻隊に志願することはできる。
  
戦前の軍国主義教育によっても
人間の死の恐怖という本能を打ち消すことはできなかった
ということです。

現時点で戦争は現実的ではないという考えがあります。
それは、戦争を遂行するためには
国家的な洗脳がある程度進まなければならない
戦後の民主主義教育や平和教育によって
戦争を起こすような教え込みはできなくなった
だから現実には戦争に賛成する人はいないだろうと
というものです。

戦争を遂行し、特高指令を受諾するには
そこまで高度な文明支配は必要ではなかったのです。
自分や家族の危機感を認識させれば
それでよかった可能性があるということです。
自分や家族の危機感を抱けば
仲間のために我が身をなげうつという人間の本能が発動されるので、
自分の死の抵抗も下がるし、人も殺せるのです。

現代でも例えば貿易上の軋轢で
日本の生命線が断たれた
このままでは大恐慌に陥って死者が出る
ということを宣伝すれば
戦争を少しずつ受け入れていく危険性があるということです。

戦後教育や、民主主義教育、平和教育と言いますが、
実際の学校はそうなっているのでしょうか。
強い者にまかれろ、上に歯向かうなという訓練が
着々と遂行されているということはないと誰が断言できるでしょうか。

2 特攻隊賛美に対する批判が心を打たない理由

特攻隊員が、国や大義のために死んだのではなく
死の恐怖を軽減するためには、あるいは、
家族を守るため、家族に役に立つためには
勇ましく死んだような形を作るしかなかったという
人間の本能にもとづく行為だったわけです。

賛美するかどうかはともかく
大いに共感できることだと私は思います。

否定されるべきは特攻作戦であり、
それを命じた上層部、とめなかった上層部にあるはずです。
その作戦を考えた時点で、手詰まりであることを認識して、
戦争を投了するべきだったのでしょう。
それでも戦争を継続した上層部は素人集団であったわけです。
元々戦争を始めたこと自体も疑いの目で見るべきだということを
特攻作戦が行われたという事実が有力に示している
それ程の愚策だったわけです。

特攻作戦賛美には反対しなければなりません。
しかし、その中で命を無くした若者たちが
死を恐れ、
家族のためにできる死を恐れていないと
自分は平気だという気づかいをすることによって
死の恐怖を軽減したこと
ぎりぎりの本能的行動を否定してしまったら
それは人間に対する否定になるのだと思います。

素朴で敏感な国民から遊離していくだけだと思います。

<謝意>

勇気を出して真実を語った90歳代の元特攻隊員の兄弟の方の
今回の発言は、とても勉強になりました。
目を開かせていただいたという思いです。

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ダイエットに失敗するメカニズムを理解すると人間の心が200万年前から変わらないから生きづらいということが見えてくる。 [進化心理学、生理学、対人関係学]


<ダイエットが成功しないメカニズム>

現代社会において、ダイエットは必需品のようです。
容姿を気にしたダイエットが多いのですが、
我々の年代では生活習慣病を意識したダイエットもあるし、
糖尿病や腎臓病のような死活問題である場合もあります。

いずれにしてもダイエットは失敗しがちなのですが、
誰でも経験していることは、
甘いものを見ると、つい手を伸ばしてしまうということや
一度食べてしまうと想定以上に食べてしまう
という甘いものの誘惑です。
つまり、人間は、甘いものを見ると食べたくなってしまうわけですが、
それは、人間の体がそのように設計されているからだ
ということのようなのです。

実は、甘いものを欲しがるのは人間だけではなく、
くまのプーさんははちみつをとろうとしますし、
アリも甘いものにむらがります。
ハチも蜜を求めて飛びますし、
ミミズも甘いものがあれば食べます。

甘いものというのは、化学でいえば
単糖類、二糖類である、砂糖、ブドウ糖、果糖などですね。
極めて簡単な分子結合であるところが特徴です。
複雑な消火システムを抜きに消化吸収されるので、
大変効率が良いです。

また速攻で体を動かすエネルギーになりますから、
生きるためには、どんどん摂取する方が得なのです。
ここは人間もミミズもあまり変わらないようです。

さらに糖分は、形を変えて体内に蓄積することができます。
多くとって体の中に保存した方が有利だということにもなるわけです。
この蓄積されたものが皮下脂肪などということです。

つまり、甘いものを食べようとする行動は、
みて、あるいは匂いで
単刀直入に、食べようという
感情を伴った衝動が起きるわけです。
体の仕組みで起きているから強い衝動ですね。

これに対してダイエットは、
これを食べると太る、だから食べないようにしようとか
これを食べると血圧が上がる、だからたべないようにしよう
という、もって回ったあるいは理性的な行動意欲ですから、
単刀直入の感情を伴った衝動に比べると
人間の行動パターンとしてはどうしても劣ってしまう。

このため、食べてしまってから
後で後悔をするという時系列になりやすいのです。

<甘いものを吸収するシステムの理由>

どうしてこのような迷惑なシステムが作られたのでしょうか。

それはこのようなシステムが作られた時代を考えれば
簡単に理解ができます。

先ほどの例でくまのプーさんだけでなく
アリやハチ、ミミズも甘いものを欲しがるといいましたように、
甘いものを欲しがるということはかなり前
おそらく1000万年前どころではない時代から作られていたのでしょう。

一言で言えば甘いものの極端に少ない時代です。

甘いものは、消化吸収が簡単でエネルギーになりやすい
生きるためにはとても有利なものです。
せっかく甘いものに遭遇したならば
確実にそれを体内に吸収しようとする体の仕組みがなければ、
せっかくの甘いものを素通りしてしまいます。
甘いものを食べたいという感覚を持つことができれば
甘いもの摂取するわけで、この仕組みが
甘くておいしいという感覚を持つことだと思います。

逆に言うと
甘いものをおいしく感じた動物の子孫が
生存競争を勝ち残って生き残ったというわけです。

そして、少ないチャンスを確実にものにするために
甘いものはありったけ食べて体内に蓄積するメカニズムをつくることが
とても有利です。
甘いものがなくても、体に蓄積された皮下脂肪を取り出して
エネルギーとして活用ができれば、
次に見つけるまで生き残ることができます。

特に人間は、脳を発達させて生き延びてきましたが、
この脳はかなりのエネルギーを必要としますから
どうしても糖分を体内に蓄積させて
生き延びようとしたわけです。

このように甘いものがうまい、もっと食べたいというのは、
人間をはじめとする動物の生きる仕組みだったわけです。


<なぜダイエットが必要になったのか>

それでは、生きる仕組みであるところの
甘いものを食べよう、もっと食べようという行動が
様々な病気を発症させるとして
問題になるようになったのはなぜでしょうか。

それは、1万年前くらいから人類は農業を行い始め、
体の中で糖に代わる炭水化物を人為的に生産し始め、
20世紀に入って砂糖を工場で作るようになって
大量生産が可能となり、簡単に入手しやすくなったからです。

そのように砂糖が入手しやすい環境に変わったため
本来ならばむきになって食べようとしなくてもよいし、
その都度食べれば済む話ですからもっと食べようなんて思う必要もありません。
しかし、人間の体はそう簡単に環境に適応しません。
相変わらず体は、何万年も前に形成された
砂糖を摂ろう、砂糖をもっととろうという仕組みのままだということです。

こんなに多くの砂糖を日常的に摂取できるということは
人体の想定外だというわけです。
そのため必要以上に甘いものを摂りすぎて
糖尿病、腎臓病、生活習慣病
あるいは虫歯に苦しむようになったということのようです。

体は、まだ、何万年前のバージョンのままということです。

(このセクションは、ダニエル・リーバーマン「人体600万年史」(ハヤカワノンフィクション文庫))

リーバーマンは、「人体と環境のミスマッチ」と表現しています。

砂糖は必要以上に摂るように体の仕組みができてしまっている。
現代社会は、その想定を超えて砂糖が供給されている
だから、人体に合わせた分量に摂取を抑える
これがダイエットということになりそうです。


<心も体と同じ>

このような人体と環境のミスマッチは
糖の問題だけでなく起きていても不思議ではないと思います。

対人関係学は心にも応用できる問題ではないかと考えていて、
「心と環境のミスマッチ」という概念を提唱しています。
対人関係学のページ 対人関係学の概要・用語
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html

心が形成されたのは200万年前だというのが認知心理学のコンセンサスです。
当時ヒトは、群を形成して生きてきました。
群を形成しなければ生存競争に敗れていたと思います。

言葉のない時代に群を形成するために必要な、
都合の良い心をもっていたはずです。

1 群れの中にいたい、孤立することが怖いという心
2 群れの仲間に共感する能力、神経
3 自分と他人が厳密には区別がつかず、群の仲間が困っていたら自分が困っているのと同様に困り、何とかしようと思う。
4 群れの一番弱い者を守ろうとする。
5 それらの結果、群の仲間が襲われていたら、自分を守ろうとする意識をもてずに集団で反撃しようとする

だいたい現段階ではこのように整理しています。

1は、人間の心理で、これが充足されないと心身に不具合が生じるということで前々回のブログで示したバウマイスターの理論の根幹です。
2 共感は、今やミラーニューロンによるという神経学的な解明が進んでいます。
3は、認知心理学でいうところの単純接触効果の局限的な状態です。当時の群れは、原則として生まれてから死ぬまで一つの群れで生活していました。また、平等が貫かれていますから、利害対立がない。このため単純接触効果が極限まで及んだのだと思います。
4は、現代人も、かわいいという心があるので、実感できるでしょう。この気持ちがなければ、赤ん坊は成人になれず、人類は早々と死滅していたでしょう。
5 袋叩き反撃仮説として、上記のページでも提唱しています。
  もともとはこのブログ記事です。
ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説
  https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-06-19

このような人間の心は、大変きれいごとのように
現代社会では感じられるかもしれませんが、
当時で言えば、死活問題で
そのような心を持たなかった人類は
死滅していったと思います。

そう、砂糖を食べよう、もっと食べようとして生き残ったようなものです。

では、現代の心を取り巻く環境の変化とは何でしょう。
それは、人間の能力を超えた人数との接触と
複数の群れに同時に帰属するということだと思います。

200万年前までは、一度にせいぜい150人くらいとしか
接触がなかったはずです(ダンバー数)。
また一つの群れでしか生活しないのが原則です。

ところが、現代の人間は家族があり、
学校に行き、職場に行く、
マンションという狭い空間に何人もの人たちと生活を共有する。
自分のやりたい行動をしようにも
どこのだれかわからない人と競争して勝ち抜かなければならない。
誰かに親切にするとかえって抗議をされてしまう。
世の中は優しくなく、常に攻撃におびえ、
自分を守るために緊張を持続させなければならない。

学校や職場という空間に同時に存在しても
単純接触効果が起こりにくい状態です。
弱い者は庇われないことが当たり前
自分や自分の家族を守ることが最優先。

誰かを攻撃し、怒りの意識をフォーカスすることによって
自分の現状の苦しさを忘れようとする。
みんな自分という単体を守ることに精いっぱいで、
共感なんてものはテレビやスマホに向かってするものだ
という現状になっているのではないでしょうか。

ネット炎上は、袋叩き反撃仮説の性質が裏目に出たと言えば
とても理解しやすいと思います。

いじめ、パワハラ、リストラ、DVが
当たり前になってしまうのも無理がないように思えてきます。
これらは、人間が調和的にいるための性質が働いているのだけど、
環境が変わったために不具合を起こしているとは考えたほうが、
合理的な解決が得られるように感じています。

現代社会の社会病理の視点として
心と環境のミスマッチは
必要不可欠の概念だと私は思います。

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加害者にPTSDが発症するメカニズム 共感の遮断と接続、対人関係的危険の概念と対人関係上の自己消滅 [進化心理学、生理学、対人関係学]

加害者にPTSDが発症するメカニズム 共感の遮断と接続、対人関係的危険の概念と対人関係上の自己消滅

PTSDとは、ひらったく言うと
危険によって精神的に強い衝撃を受けて
既にその危険が去ったにもかかわらず、
① あらゆることが危険であり、危険の兆候だと感じるようになる(過覚醒)
② 理由なく、危険を受けていた時と同じ感覚が、突然よみがえる(侵入)
③ 危険には解決方法がない、危険が現実することから逃れる手段がないと感じる(解決不能感)
という症状が中核的なもので
このほかに、抑うつ状態、不眠、悪夢、イライラなどが起きます。

ベトナム戦争の帰還米兵の研究によって概念づけられた歴史から
医学的ではなく政治的な概念であり、
独立した診断名は不要で既存の病名で足りる。
という主張が根強くされているようです。
ちなみに、この批判をする方々は
必ずしも政治的立場が共通しているわけではないようです。
また、フロイト学派の一部からの批判もあるようです。
PTSDを否定する立場からは、
うつ、解離、パーソナリティー障害等に別の疾患に当てはまる
という診断をされることがあります。

その中でも大きな論点としては、
「加害者にPTSDが発症することはありうるのか・」
というところにあるようです。

先ず、しっかり加害者という場面設定をすることが大切です。

戦争は、やるかやられるかという状態であり、
ある局面では加害者であっても、その直後の局面で被害者になる
ということがむしろ通常です。
敵に機関銃を浴びせているそのときに
隣で同僚が無残な死に方をすることも当たり前にあるでしょう。
その時同僚ではなく自分が死んでいてもおかしくないのですから
強烈な危険を感じることが通常だと思います。

おそらく、加害者にPTSDが発症することはあり得ない
と主張する論者も、
自分が属する国が加害国だからと言って
個人が被害者の局面があったこと
つまり、自分の死の危険を現実のものとして感じたことまでを
否定することはないと思われます。

問題設定を整理すると、
自分自身がそのような危険を体験せずに
「もっぱら加害者であった場合にPTSDが発症するか」
ということになるでしょう。

もう一つこの問題と関連して
被害者としてPTSDを発症するのは、
危険が存在した時点から精神的外傷が発症して
その後も継続してPTSDになるのに対して、
先の限定でいう加害者がPTSDを発症する場合
直ちに精神的外傷が起こらず
危険が去ってしばらく後であることが多い
という点も問題になっています。

この理由を説明しなければならないという批判は
実にもっともだと思います。

私はPTSDを医学的に論ずる立場にはないのですが、
この点の説明を試みようと思います。
私の立場からは、危険とPTSDの発症のタイムラグがあることが
むしろ加害者のPTSDをうまく説明できるのです。

便宜上次のAとB二つの論理に分けて説明していきます。
分けて説明しますが、同時に起きていることです。
A構成は、どちらかというと、PTSD肯定論者の説明に近いと思います。
B構成は、対人関係学独自の構成になるはずです。

<A構成 共感の遮断と接続>

加害者が、被害者を虐殺する場合に、
どうして虐殺できるのかということを考えます。
通常、人は他人を殺すことができません。
痛み、絶望、絶対的不安、無念さ
様々な被害者の心情に共感してしまい、
他人の命を奪うという残酷なことはできないということになります。

人を殺す人間は、二つの事情等によって
被害者への共感を遮断しているところに共通点があります。

一つ目は、相手を殺さなければ「自分」が死ぬという正当防衛、
あるいは自分ではなく「自分の仲間」、あるいは「自分たち」
を守るという意識を強く持つことによって
相手を攻撃しても良い存在だと無意識の評価を行い
相手への共感が遮断されます。

二つ目は「正義」です。
相手は人類の敵であり悪であると考えれば
相手に対する共感を遮断することができます。
正義は、相手を攻撃するための思考ツールなのです。

これらの概念、感覚、言い訳で武装して
人は人を殺します。
自国に敵が攻め込んでくる場合は、
直感的に敵だと認識し、共感が遮断されやすくなるでしょう。

これに対して、相手国に攻め込んで行って戦争を仕掛ける場合は
当然には正当防衛も正義も感じられませんので、
国民を守る、国を守る、民主主義を守るという
大義が必要であるという理由がここにあります。

ひとたび共感が遮断されてしまうと
相手は人間ではなく、せいぜい何らかの動物としてしか感じません。
人間でないものを人間のように扱うのが擬人化ならば
戦争はその反対の思考パターンが起こされているのでしょう。
敵国国民は、擬人化されたネズミやアヒル以下の存在になるわけです。
共感が遮断されるということはそういうことです。

戦争が終わって帰国しても
国や国民が敵を殺した英雄として扱えば
殺した相手への共感の遮断は維持されることでしょう。

ただ、加害者は被害者が死んでいく様子を見ているわけです。
音でも聞いているし、においも嗅いでいる
五感で残虐な様子を見ています。
意識に上らないとしても記憶が維持されています。

ベトナム戦争のように
戦争自体に大義名分がなかったのではないかと
敵からではなく自国民から言いだされてしまうと
もしかしたら単に平和に暮らしていた外国人を
わざわざ虐殺しに行っただけなのではないか
という考えが侵入することを防ぐことができなくなることも多いでしょう。

この時、
被害者への共感から自分を守っていた壁が崩壊するわけです。

すると被害者の死にざまの記憶が生々しくよみがえってきます。
共感が接続されてしまい
人間が死んでいく記憶に置き換えられていきます。
なすすべなく死んでいく様子であるとか、
恐怖の表情、叫び声、
被害者が自分で自分の運命をどうすることもできない様子
完全に自己消滅しつつある人間の姿を
繰り返し思い出すようになるのかもしれません。

「共感」とは、
他者が感情をあらわにしたその原因となる環境にいる状態を
自分が他者として追体験することです。
程度の差はあると思うのです。
他者が命乞いをしているときのニューロンの動きを
自分の頭の中で再現してしまっているのです。

そうすると、
被害者の精神的外傷が生じる状況を追体験してしまい、
自分の同僚が隣で殺されたときと同じように
絶望を追体験してしまうということになってしまいます。

個人差はあるでしょうが
共感のメカニズムが動き出してしまったら
それを自分の意識(理性)によって抑えることは
不可能に近いと思います。

かくして強烈な恐怖、孤立無援感、自己統制力の喪失、
完全な自己消滅の脅威を追体験して
PTSDが発症するわけです。

被害者が虐殺された時から
PTSD発症までにタイムラグがあるのは、
幸運にも共感が遮断されていた時間ということになります。
タイムラグがあるのは私からすれば不合理ではなくなります。

<B構成 対人関係的危険の概念と対人関係的自己消滅>


対人関係的危険とは、身体生命の危険に対応する概念です。
人間は、けがをするとか病気になるとか身体生命の危険を認知すると
交感神経を活性化させ、心臓の活動を活発化し、
血液を筋肉に通常よりも多く流すなど、
生理的変化を起こします。
口角が上がったり、瞳孔が開くなど体の状態が変化するわけです。
これは、危険から走って逃げるための仕組みです。
(あるいは攻撃して危険をつぶすため)
この生理的反応を「ストレス」と言います。

ところが走って逃げることが何の役にも立たないのに、
自分が所属する人間関係から分離されそうになると
同じようなストレス反応が起きてしまいます。
これが対人関係的危険を感じているということです。

バウマイスターらの論文には、
人間は、誰かとの人間関係に帰属したいという
根源的要求を持っている
これがかなわないと心身に不具合を起こすと主張しています。
「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」Roy F. Baumeister Mark R. Leary(Psychological Bulletin vol.117 No.1-3 January-may 1995)

対人関係学は、この学説に影響を受けていて、
この心身の不具合は、特に
所属している人間関係からの分離を想起させるときに起きる
と主張します。
これが対人関係的危険です。

これは、人間が言葉もない時代に
群を作るために必要な人間の性質でした。
つまり人間の群れを作るためのツールである
・人間はだれかとつながっていたいと思い、分離されそうになると危険を感じ避けようとする。
・分離されそうになるかどうかは、他者に共感する能力によって感じることができる
・群れの一番弱い者を守ろうとする
・仲間と自分の区別がつきにくく、仲間の窮地については、怒りをもって我が身をなげうってでも戦う
というメカニズムが遺伝的に備わっていると主張するのですが、
分離不安はその第1のツールということになります。

もっともここでいう仲間とは数十名から200名くらいの人数(ダンバー数)であり、常時一緒にいる仲間である場合が強く妥当するということです。ヒトという「種」のためとか「国」のためとか「民族」は、ここでいう仲間には含まれません。
 
人間関係からの分離不安が起きてしまうと
それがとても強い不安になり、
その不安が持続すると思考力が低下するなどの弊害が起きてしまいます。

本来、対人関係的危険を強く感じる人間関係とは
自分のアイデンティティーの一部となっている人間関係です。
家族だったり、資格が必要な職業集団だったり
「その人間関係があっての自分だ」という人間関係ですね。
このような人間関係から離脱させられると感じる事情があると
自分自身が消滅するような恐怖すら感じてしまうようです。

離脱させられると感じる事情とは
一言で言えば自分がその人間関係の中で
「仲間として尊重されていないと感じる出来事」です。
差別されたり、発言を封じられたり
仲間の役に立つ努力をしてもねぎらわれないという他者の行為や
あるいは自分が仲間に顔を向けられない失敗をした場合等です。

さて、ベトナム戦争の帰還兵は、
戦地では、命を守り合う自分が所属する軍隊が
一番大切な人間関係です。

その軍隊では敵を虐殺するということで
お互いを守り合っているのですから
虐殺したことに多少の後ろめたさはあっても
同じ仲間の中にいる限りは非難されることもないでしょう。
だから戦地で軍隊に属している場合は
自分の虐殺行為に対して対人関係的な不安を感じることはありません。

ところが人と人が殺し合わない平和な国に帰還して、
やがて結婚して、子どもが生まれて
幸せな家庭をもつようになるわけです。
自分が戦地でどのようなことをしたかについて
妻や子ども達、あるいは孫に
正直に言うことができないという感覚に襲われるのです。

自分が行った残虐な行為を家族に知られることが怖くなります。
本当のことを知られてしまったら
家族が自分を冷たい目で見るかもしれない
あるいは軽蔑されるかもしれない
あるいは恐怖の対象としてみられるかもしれない。
これまでの平和で穏やかで笑顔が絶えない家庭が
自分の過去の真実で凍り付くかもしれない。
これまでの幸せな家族が消滅してしまうかもしれない。
それは家族の中にいる人間関係をも含めた自分
それ自体の崩壊ないし消滅と感じるかもしれません。
これこそが強烈な分離不安であり、対人関係的危険を感じている状態です。


帰還兵は、
家庭の中では孤立無援ですし
自分が他者を虐殺したという過去は
自分では修正できない事実として存在し続けます。
もし事実を知られたら
自分は、最も大切な仲間を失う
その仲間なしで自分は動物として生きているけれども
人間としては消滅してしまう。
こういう恐怖感を持つのだと思います。

こう考えると
加害者や加害国の軍隊であることは
PTSDの発症とはあまり関係がないように思われます。
肝心なことは、戦争時の行為の残虐性の程度の問題だと思います。
個人に病的な精神症状が出現することを
リアルにとらえるべきではないでしょうか。


A構成は共感による追体験としてのPTSDですが、
B構成は、「対人関係的な意味での自己消滅」としてのPTSDです。
二つの構成は光を当てる部分が異なるだけで
一人の人間の中では同時に起きているうえ、
相乗効果が生じている可能性が高いと思います。

B構成の場合、タイムラグがあることは
むしろ自然だということになります。

対人関係的危険と生命身体の危険の違いは、
生命身体の危険が一瞬で結果が出現するのに対して
対人関係的危険は、結果が出現するということがあまりなく、
結果の出現の恐れだけが持続していくことにあります。

この時間の経過は危険意識を増大していくことでしょう。
時間が経過するだけで何も解決することがないならば
それだけ絶望、自己統制不全が確定的になっていき
孤立感も深まっていくからです。

危険意識が増大すれば
危険から解放されたいという欲求も増大し
かつ持続してゆきます。

かくしてあらゆる出来事が
自分が対人関係を失う兆候のように思えてきて
自分は攻撃されているという意識が生まれ、
合理的に物事を考える力が限りなく低下し
不意に恐怖が意識にとって代わる事態となり
何事も破滅に向かっていると感じるようになるのです。
自分がそれに抵抗することができない
羽交い絞めにされて殴り続けられるようなものでしょう。
そして誰も助けてはくれないということを
絶えず自覚し続けるのです。

いじめやパワハラ、支配の意図を持ったDVなど
身体生命の侵害が少ないときには
その損害は軽く扱われることがあります。

しかし、PTSDを対人関係学の観点から理解すると
身体生命の危険を感じさせる暴行や脅迫が
必要不可欠なものではない、
むしろ本質は対人関係的な危険にあるということなので
暴行や身体に対する脅迫がなくても
重大な精神症状が生じる極めて危険なことになります。

医学的問題には言及しないと申し上げましたが
もう一言どうして言いたいことがあります。
それは、このようなもっぱらいじめの被害者の文脈で
精神病院に入院を余儀なくされた子どもたちの事例を
多すぎるほど見てきました。

病名は、統合失調症、解離、境界性パーソナリティー障害、うつ
と様々です。
そして、長く隔離室に入れられ病名と症状に応じた投薬を処方されています。

もちろん孤立や自己統制力の喪失を
さらに与えられているわけです。

現在の操作的診断基準だからこそ、
PTSDという概念を確立していただき、
適切な治療方法を確立していただきたいのです。

精神病院に入院したことによって原因が増大し
表面的な症状に対症療法をされたところで、
本人の人間の精神状態として何ら改善されない
そういう印象をどうしても持ってしまうのです。

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プロは他人の悩みを笑わない プロの支援とは何か 探すのをやめたとき見つかる理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]


悩みは、他人からみると、
意外な原因で悩んでいることが多くあります。
典型的なことは子どもの悩みです。
大人の尺度でものを見ると
そんなことで悩んでいること自体が信じられなくなることがあるでしょう。
しかし、子どもは思い詰めています。
子どもの視線で、
どうしてそれを悩むのかということが理解できなければ
効果的なアドバイスはできないと思います。

相談会などに行くと
本人やインテークをする人が
その悩みはくだらない悩みだとか、小さいことだとか
本気か謙遜かわかりませんが、
そんなことを聞かされることがあります。

プロは、人の悩みにくだらないものとか小さいもの
ということは感じません。
その方が真剣に悩んでいて
それに自分が役に立たせてもらえるなら
それが人間としての私の喜びだ
とそう考えています。

悩んでいる方は、解決方法を知識として持っていることが多いです。
もっとも法的知識のように
それを知らなければ解決方法がないということも多いのですが、
人間関係の解決方法は「知って」いることが多いです。

ところが、それが意識に上らなかったり
その解決方法を選択して実行できないという
理由があるから解決しない
ということが実感です。

一言で言って、
人間の脳は、現代社会に適応していない
ということが言えるようです。

人間の脳の活動である意識は
一つのことにしかフォーカスをあてられない
という特徴があると考えると
その理由がうまく説明がつくようです。

悩んでいるときは、
困った、苦しいという感情にだけ
意識のフォーカスがあたっていて、
意識というか、脳は思考をしていないのです。

困難から逃れよう、逃れなくてはという焦燥感が意識に上り
それが意識のフォーカスを独占してしまっている
このため考えることができないということです。

悩んでいるとき、困っているとき、
人間は思考をすることができないのです。

悩む、困るという意識活動は
人間を危険から遠ざけて安全な場所に移動するためのシステムです。
ただ逃げるということに専念することが
逃げ切るためには有効なので、
特に危機感を抱いた時は、他のことに意識が回らないように
脳が組み立てられているようです。

これに対して、自分はいろいろなことを同時並行でやることができる
例えば、テレビを観ながら本を読んで、ご飯も食べることができる
なんてことをいう人がいますが、
実際は、それぞれ細かく分断して順番にやっているだけです。
一言で言って気が散りやすいからできるわけです。
集中が苦手ということですね。

しかし、メリットもあります。
気が散りやすいということは、
一つのことに意識のフォーカスを絞らないで
他のことにも気が付きやすくなるので、
考えるべきことが考えられるかもしれないということです。

ただし、そういう場合にも、
「逃げる」という場面の場合は、
なかなか気が散らず、悩むことに集中してしまうことが多いようです。

解決方法に移行するためには、
先ず、悩むことをやめることが必要です。

「逃げる場面で悩むのをやめる」ということは、
自分をあえて危険にさらすということです。

これは、生命身体の危険
怪我をするとか、病気になるとか
そういう場合に逃げるのをやめることができませんが、
他人との人間関係上の危険
顔がつぶれるとか、立場がなくなるとか
そういう場合の危険は、
命には別条がないので、
一瞬悩むのをやめることが本来できるはずなのです。

しかし、人間は、そのような対人関係の危険と
生命身体の危険の反応を
区別して設計していないので、
とにかく基本逃げるということを目指してしまいます。
だから、悩むだけで考えることができないわけです。

探しているように見えても
実際は目的物が見つからないので困っているだけ
ということが多くあります。
これがないと学校で恥をかくとか先生から叱られるとか
そういう逃げる意識にフォーカスがあったっていると
考えることができませんので、
見えないところにしまってあるものは見つかりません。

探すのをやめるというのは
実際には、脳にしてみれば
見つからないから困るということをやめる
ということなのです。
そうすると、ようやく思考の出番になりますので、
最後にそのものを見た場所を思い出そうとすることに
意識のフォーカスを充てることができるわけです。
そうすると、ああそうだったと照れ笑いとともに
物が見つかる確率が高くなると
こういうことになります。

岡目八目という言葉は囲碁の言葉で
囲碁を打っている当事者よりも
観戦している人の方が冷静に考えられて
その先の状況を推測することができる
ということだと思います。

負けたくない、勝ちたくないという感情にとらわれると
思考が鈍ってしまうとすれば理解ができる言葉だと思います。

困りごとの支援者とはこういうものです。
つまり、当事者は困っているから、そこの意識のフォーカスがあたってしまい、
解決方法を選んだり、それを選択したり、実行したりする
ということにフォーカスがあたりません。

支援者は、第三者として
解決に意識を集中することができる
それだけの話なのです。

もちろん弁護士などの専門家は
当事者の不足している知識を補うことも必要です。

だから、プロの支援者というのは
過度の共感をしてはならないということになります。
共感を示すべき部分は
現実に困って悩んでいるというところにするべきです。
相談者と一緒になって悩むのは
プロの支援者とは言えないのはそういうわけです。

ただ、支援者の中には
解決方法が簡単である場合は、
「そんなことで悩むことはないですよ」と
言ってしまうことがあります。

解決策があり、解決できるよと
励ましのために善意で言うのでしょうけれど、
自分の悩みを軽く扱われたという印象を持たれることがあり、
相手を傷つけることがあるので、
お互いに注意をしましょう。


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互恵的利他主義、血縁淘汰、フリーライダー論に対する疑問を述べながら、対人関係学の最弱者保護を中心とする共感力が人間が生き延びた理由だということを説明してみる。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

私が進化論を学ぶのは、便利だからです。
家庭や学校、職場の人間関係を改善する場合や、
そもそも人間はどのようなもので、
どうすることをやめ、どうすべきなのかというお話をするときに、
人間の心が生まれた背景や、
その時と現代社会の環境の変化から考えると
とてもうまく解決方法が見えてきます。

考古学や進化生物学を学ぶことは
とてもエキサイティングなことで、
時間やお金がもっとあれば
もっと勉強ができるのにと思うことがあります。

さて、
進化論の論争において、
かつて社会進化論や群淘汰説という考えがありました。
「適者生存」の原則から
現在ある社会形態が最も適切な社会形態であるとか、
社会的弱者は適者ではないから保護をする必要がないとか、

進化は種の存続と発展のために行われているとか
誤った説が生まれ、
ナチス等に利用されたという不幸な歴史があったようです。

特に人間や他の動物の
群を助けるために我が身を犠牲にする行動
利他的行動をどう説明するかというところが問題となったようです。

群淘汰説が
素朴な正義感、道徳観に訴えて浸透し
今も形を変えて存続する
不幸があったようです。
(お国のために命を捨てるのは、人間として正しいとか。)

これらの説に反対をしなければ
進化論自体が葬り去られるという危機感を抱いたようです。

それらの説の誤りは以下の通りに整理されると思います。
・ 進化は目的をもって行われるものではない。
環境に適合するように遺伝子的変化が起きることだということ 例えば種のために進化するのではない。
・ 進化は環境に適合した結果であり、進歩という意味あいではない。
・ 進化論は、進化の経過やそれを踏まえた現状を説明するための理論であり、現在の進化の到達点に価値をおくような理論ではない。

以上は進化論のコンセンサスであり、この理由付けで群淘汰説などを批判すればよいということは理解できるところです。

しかし、群淘汰説を否定することによって、
人間や他の動物が見せる無償の愛と言える
犠牲的な行為をどう説明するか
ということが大きなテーマになってしまうようです。

私は、人間の利他行為は、
人間の性質上そういうものであり、
利他行為を行いえた先祖だけが
厳しい環境の中で生き残ってきたので、
人間の特質になっていたと考えています。

およそ200万年前の人間の住んでいた環境を想像すると、
特に弱い者を守ろうとしなければ、
弱いものから順に死んでしまい、
その結果群が小さくなり、
外敵から身を守ることも、育児も、食糧確保もできないため
死滅していったということです。

人間の力、能力ははなはだしく貧弱なため
一人では何もできず、
仲間と共同してのみ
一人一人も生きていけたということです。


人間は、
共感力(ミラーニューロン)が発達し、
仲間が困っていれば、それを認識し、
自分のこととして、仲間の窮地を助けてきたのだと思います。

その中でも、特に弱い者を助けようとする心の仕組み(行動傾向)
があるものだけが群れを作ることができ
生き延びることができたという考えを私はしています。

これに対して進化論の有力説は、
互恵的利他主義と言って、
見返りを期待して利益を与える
それが利他主義だという説があります。

それは現代社会のように希薄な人間関係では
見返りもないのに自分の利益を他者に与えないでしょうが、
当時は、原則的に一生同じ仲間と生活していたのですから、
ひもじい思いをしているならば助けたいと思うのが
自然な感覚だったという説明でよいように思われます。
仲間と自分を、情動において区別をつけられなかった
ということになると思います。

例えばあなたが、お年寄りが辛そうにして席を譲るとき、
後でまた席を譲り返してもらおうという気持があるでしょうか。
あるいは、自分が歳を取ったときに備えて
席を譲るという風習を作ろうとしてやっているのでしょうか。
私は、お年寄りの状態をおもんばかって
親切にしているという方が実感に合います。

もっとも進化論ですから
一つ一つの行為の理由を説明しようとする必要もなく、
人間が他者に気遣うときはどうしてするのかということなので、
私のような批判は邪道なのかもしれませんが、
私は見返りを期待するというのは
現代的な環境を踏まえすぎていると感じています。

あるいは、進化論は、個体の主観を問題とせずに
そのような仕組みがあるから生き残ったのであり、
客観的には互恵の仕組みがあったということを
言えなくもないかもしれません。

しかし、私は、それで群が維持できたのか疑問があります。
見返りをしないずるい個体を制裁するということが
それ程きちんと行われたとは思えないのです。
あくまでも最弱保護を基本とした共感的行動が
群を形成することができた仕組みだと思うのです。


次に血縁淘汰説ですが、
利他行為の説明として、
自分の遺伝子を残すために
各個体の遺伝子の近い血縁にあるものに利他行為をする
という説明をしています。

いくつかの理由で、人間の利他主義を考える限り、
これは積極的に間違っていると思います。

一つは、進化は目的を持たない
という原則に反しているのではないかということです。
(そもそも血縁を多く残すことが進化上有利であるとも思えない
 有性生殖自体が遺伝子を薄める最大のエピソードであり矛盾する。)
一つは、血縁が決定的なのか一緒に生活をしていることが決定的かと言えば
一緒に生活しているから、あるいは生活していてなじみがあるから
という説明の方が妥当だと思います。
利他行為の動機づけの実情にも合うでしょう。
一番の否定する根拠は、人間は嗅覚が大変衰えていることです。
嗅覚に問題がある場合、血縁か否かなどわかりません。
血縁を感じ取ることは不可能です。
血縁淘汰説はあり得ないと思います。
(日本の民法は、子どもの父親なんてしょせん分からないのだから
 証拠がない限り、母親の結婚相手を父親としてしまえ、
 早く子どもの家族関係を確定した方が子どもの利益だ
 という考え方で作られています。)

現代では、血族に対する利他行為は血縁淘汰説
血族ではない相手に対する利他行為は互恵的利他行為で
組み合わせて説明しているようですが、
双方の考え方の弱点は解消されていないように感じます。

群淘汰説を否定しようと
余計な説明をしているように思えてなりません。


私のように考えると不都合があると指摘されています。
(もちろん私に対して指摘されているわけではありません。)

もし、各個体が最弱者のために無償の奉仕をするならば、
突然変異で、利己的な行動に終始する個体が生まれたならば、
利己的な個体は、利益を独り占めしてしまい、
生存において優位になるから
利己的な個体の子孫ばかりが増えてしまうのではないか
そうなると群がつぶれているはずだろう
という不都合です。

対人関係学の進化の説明に都合がよいので、
反論をしておきます。

先ず、最弱保護を中心として共感をする仕組みですが、
遺伝されるのは、
共感をする能力をつかさどる脳
(前頭前野をはじめとする大脳新皮質)と
ミラーニューロンの仕組みです。

偶然、この部分が発達した個体が生まれ(突然変異)、
当初は細々と集団を形成していたのですが、
これが強い集団で、厳しい自然の中で生き残り、
他の集団よりも環境に適合し、
繁殖によって増えていったのでしょう。

群を形成して生きていく中で
ますます、大脳新皮質や神経が発達して行ったのだと思います。

ただ、これだけでは、
相手の気持ちはわかるけれど、
それがどうしたという傍観者のままでしょう。

特に、相手が困っても自分も困っているのだから
自分を守ることの方が大事だという態度も
生き物である以上当然あると思います。

人間の子どももそのような傾向がある場合があります。
そこで教育がなされてきたのだと思います。
もちろん学校があったわけではありません。

母親を中心とした大人たちに育てられ、
自分が保護されることが当たり前だということを
我が身を持って体験してきたわけです。

そして大人になるということが
誰かのために行動するということだということを
少しずつ学んでいったのだと思います。

それから、仲間は自分が多少の失敗をしても
許してくれることを学び、
しかし自分よりも弱いものに攻撃することを止められ
共感力が仲間への奉仕に向けられていったのだと思います。
弱い者を守り、共感によって行動するという傾向は
赤ん坊が育っていく際には、教育という効果もあったのです。

この中で不幸にして、
共感力が器質的に欠如した個体も生まれたことでしょう。
子どもの時期を過ぎても利他的行動ができない個体です。

それでも子どもの時期に仲間に害を与える行動をすれば、
大人たちから攻撃され、自分が尊重されなくなる
群にいられなくなるという因果関係は把握できたと思います。
正確に言えば、そのような群れから外されるのではないか
という不安、対人関係的危機感を持つことはできたと思います。
心はついて行かなかったかもしれませんが、
行動を律することは、ある程度可能になったと思います。

それでも、子どもの時期の教育も失敗して
利己的行動に出る個体はどうされたのでしょうか。

私は排除されたと思います。

最弱保護を中心とする共感行動ができる多数の個体は、
できない個体から、自分が仲間として尊重されていない
と感じるわけです。

こちらが空腹なのに、余るほど食料を持っているのに
分けるということをしないとか
自分が転んでけがをして動けないのに
さっさと先に行ってしまうとか
順番を待っているのに、横入りされるとか
仲間であれば当然してもらうことがしてもらえない
仲間であれば当然されない仕打ちをされる

これが、多数から尊重されていないと感じると
うつ的な傾向になりますが、
特定の個体から尊重されていないと感じる方が多数となると
怒りが生まれてきます。
尊重されていない仲間を見たら
多数は、かわいそうだと思うわけですから
怒りは共有されていきます。

勝てるという判断と
最弱者のために勝たなければならないという判断が
直感的になされ、
闘いのモードになり、怒りが随伴するのです。

共感力を持てない個体も
対人関係的危機感は持っていると思われますので、
怒りの前に行動を修正すればよいのですが、
なぜ自分は嫌われているのかわからないという個体は
攻撃の対象となったでしょう。

群から排除され、
外敵に襲われたり、食料を見つけられず
死んでいったと思います。
淘汰されていったということになるでしょう。

これは今思いついた思い付きですが、
群のための奉仕することをしない個体は
群から大人だと認められず、
繁殖を許されなかった可能性もあるのではないでしょうか。
いずれにしても性淘汰された可能性は高いと思います。

しかし何らかのアクシデントで
利己的な個体が生き延びてしまったどうなるか
おそらくその所属する群れは
先細りになり死滅したことでしょう。

だから、利己的な個体が生まれたからといて
それは環境に適応していないのだから
増殖するということはあり得ないと
考えられるのです。


私は、人間を進化の視点で考える場合、
特に心のありようを考える場合は、
時的要素に注意しなければならないと考えています。

認知心理学のコンセンサスは
人間の心は約200万年前の狩猟採集時代に形成された
というものです。

人間の心がどのように適応したのかについては、
その時代の環境、食糧や居住環境
外敵や自然環境を理解しなければならないと思います。

特に、人間の心、意思や理性、分析的思考は
対人関係の状態を理解しなければ理解できないと考えています。

心はそのときに形成された。
私もそれを承認するところから出発しています。

そしてさらに注意しなければならないのは、
200万年を経過しても、
人間の心はあまり変化をしていないということです。

それでは、どうして、現代社会は
利己的な振る舞いがこれほど蔓延しているのでしょうか、
そのために人々は苦しみ、
社会病理的行動を行うのでしょうか。

それは、環境の変化が原因だと思っています。
詳しくは、対人関係学のホームページの
心と環境のミスマッチとして検討しています。

他の動物と比べても
人間の心を取り巻く環境は
形成期と比べ物にならない変化をしている
これを念頭に置かないと
太陽系の惑星の活動には法則がないという誤解と同様の
観たままの状態が真実だという誤りをするでしょう。

先ずどのような心が形成されたのか
それが環境の変化によってどのように不具合を生じさせているか
そういう視点こそ科学的ではないかと考えています。


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人間の文明は、人間関係の板挟みが作ったのかもしれない。自我意識あるいは理性の由来 危険に接近し、群れを形成する人間 [進化心理学、生理学、対人関係学]

自我意識あるいは理性の由来 危険に接近し、群れを形成する人間

目次
1 自ら危険に近づく人間
2 群れを作る人間
3 危険接近と群れ形成の関係
4 自我意識あるいは理性とは何か

1 自ら危険に近づく人間
1) 他の動物の情動と人間の違い
人間以外の動物のほとんどは、危険を認識した場合、危険を吟味することなく、逃げる。あるいは、危険を与える相手を攻撃する。このため、そこに複雑な思考は不要である。危険の程度を考えることも不要である。判断は危険か、危険ではないかの二者択一的なもので足りる。あとは、危険から遠ざかるだけである。
そして通常の動物は、そのような大雑把な行動パターンであっても、逃走能力が十分あり、また、餌をとる能力もあるので生きていける。
ただ、他の動物もそれぞれ独自の進化をしており、一定の危険に接近しているように見えることがある。しかし、その接近パターンは類型化されているため、その都度の思考をすることは不要であり、本能的にパターンに応じた行動をしている。

2) 人間の危険に接近する必要性

人間は、危険に近づき、危険を回避しながら利益を獲得する動物である。火の使用がその典型例であろう。他の動物は、火という危険物があれば近づかない。それで事足りる。あるいは、武器という道具を使うのは主として人間である。武器は、それを使用する者も危険にさらす。
人間がこのように、自ら接近する理由は、そのような危険物の中にある利益を獲得しなければ生き残れなかったからであると思う。栄養価が高く、獲得しやすい食糧は力が強いものが獲得した。しかし、力の強い動物も危険には接近しないため、危険に近づかなければ獲得できないものは残り物として残されていた。
人間はもともと樹上生活を送っており、地球の寒冷化によりジャングルが減少し、地上に降りてきたとされている(人体600万年の歴史 ダニエル・リーバーマン ハヤカワ)。主として肥大化した脳を維持するための必要なカロリー減としてたんぱく質をとる必要に迫られた。しかし、狩りの能力を持たない人間は、屈強な肉食獣が狩りをし、食べ残した、小動物の死肉を食べていたとされている(同上)。文字通り、残り物を食べていたのである。また、肉食獣が立ち去った後で、ようやくありつけた死肉は、腐敗が進んでいたはずだ。その腐敗している肉の食べられる部分だけを食べるということもまた、危険と隣り合わせの食事だったことになる。
人間がもっと自力で餌をとり、肉食獣からの攻撃を容易に回避する体の構造があったら、好き好んで火を使うことはなかっただろう。少しでも安心して生きるために、仕方なく火を使い、道具を使いだしたのだとは考えられないだろうか。

3) 危険に近づくための条件
ⅰ)情動の抑制ないし中断
人間も、火などの危険物を認識した場合、逃げようとする感覚をもっただろう。このような危険に対する本能的対応を情動ということとする。他の動物は詳しい判断をせずにこの情動に突き動かされて逃げるわけだ。人間は、この情動が起こりながらも情動に従わず、危険に近づく。情動を抑制できなければ危険に近づくことはできない。情動の抑制が危険に近づくための第1の条件になることは理解がしやすいと思う。
後に述べるが、情動の抑制という表現が適切であるか疑問がある。私は、情動を抑制しているのではなく、情動が中断されているということが適切ではないかと考えている。

ⅱ) 危険の程度、範囲の認識、危険メカニズムの理解
危険に近づく場合に、すべての危険に近づくわけではない。燃えている火に身を投じることはしない。例えば枝が燃えている場合、燃えていない部分の枝を持ては致命的なやけどを負わないことを知っている。そして、その枝に火が映らないうちに放り投げてしまえばやけどをしないことも知っている。また、枝ではなく大木が燃えている場合は、燃えていない部分をさわっても火力でやけどをすることも知っている。
 つまり、火力の大きさによって危険の程度が変わるように、危険には程度があることを知っている。そして、どのように扱えば危険が回避できるかについて、危険のメカニズムを理解している。
 このような複雑な思考をすることができることが第2の条件である。多くの野生動物は複雑な思考ができず、危険か危険ではないかの二者択一的思考を基本としている。危険に近づかなければならない人間の知恵とはこういうものである。

ⅲ)細かい点についての記憶
まずは、一個の個体が危険のメカニズムを理解したのだろう。しかし、それをその場で理解しただけでは危険に接近することはできない。危険の程度、範囲、時期などという詳細な流れを記憶しなければならない。それがあって初めて危険を利用するために近づくことができる。

ⅳ)危険の伝達と理解のための共感力

例えば火が危険であることは、近づいた際の皮膚感覚で何となく理解することができる。しかし、本当の危険を理解するには、実際に火によって大けがをしたり、命を落としたりする者を観察することによって理解するはずだ。
やけどで苦しんでいる人間の苦しさ、その苦しさから逃げようとして逃げられない絶望などをみて、それが同じことをすれば自分も同じようになるということを理解しなければならない。また、それは、危険か危険でないかだけでなく、どの程度のやけどならば予後が良く、その程度ならば予後が不良となるのかを含めると、他者への共感力はかなり正確なものを要求されるはずである。
そして、共感力を利用して、火の利用方法を仲間に伝えていくことも、人間として火を使うための条件になるだろう。もしかすると、武道の免許皆伝のように、当初は許された特定の個人だけが火を利用していた可能性もあるのではないかと想像をたくましくしてみる。言葉のない時代であるから、火の使用法を伝達するためには相当の犠牲者が生まれたのではないか。

4) 危険に接近する人間の思考の特徴

危険に接近するようになり、人間の思考は他の動物と異なる特徴を備えるようになったはずだ。これまでの考察をまとめてみる。
第1に二者択一的な思考ではない複雑な思考ができるようになった。
第2に現実化していない近い未来について推測ができるようになった。やけどをしないような火の使い方を考えるということである。
第3に条件付けの思考や場合分けの思考ができるようになった。
第4に他者の感情など複雑かつ抽象的な思考をするようになった。

2 群れを作る人間

1) 癒しと緊張
人間とそれ以前の祖先とを区別する基準の一つが、先ほど述べた地上生活を送るようになったこと、もう一つは群れを作って共同作業をするようになったことである。これには群れのなかにいる切実な必要性があるため大きなメリットがあったはずだが、群れを形成することによる新たな緊張があったはずだ。
ⅰ) 癒し
   弱く運動能力が劣る人間も、やがて死肉をあさるだけではなく、新鮮な肉を求めて狩りを行うようになったとされている(前掲)。しかし、運動能力の劣る人間が動物を狩るのは、ほとんど偶然によるものしかなかった。そのため、人間は集団で狩りをするようになった。集団で一匹の小動物を追い詰め、小動物が疲れて、熱中症になり、弱り果てるまで囲んで追い詰めて仕留めるという方法をとっていたらしい。狩りをするにも集団でなければできなかった。防御についても、一人で肉食獣に立ち向かうことはできない。誰かが多少の犠牲を被っても、集団で立ち向かったと思う。そうでなければすぐに群れは小さくなり消滅することになる。仲間を守るためには命知らずの反撃を手段で行ったはずである。徐々に、肉食獣においても、人間が集団でいるときは危険な動物だということを学習していっただろう。
 このように人間は集団の中にいることによって、食料を調達し、わが身を守ってきた。食料調達チームが群れに復帰すれば、チームも一安心しただろうし、留守番チームも安心したに違いない。日没前の時期に、群れに復帰し、癒しの時間を迎える時刻は、ちょうど交感神経優位から副交感神経優位に切り替わるころである。緊張によってすり減った神経、血管などを効果的に修復し、睡眠をとることも可能にしたのであろう。仲間は、生理学的意味においても癒しであった。

ⅱ)緊張

ただ、群れの中にいる必要がある人間は、群れから追放されると生きていけない。自分では情動に従って行動しているだけであっても、群れの仲間との関係では、敵対するような行動になってしまうことがある。そのような場合は、自分が危険な状態にあるということを認識し、行動を修正しなければならない。
この危険な状態にあるという認識方法は、発生後ずいぶんの時間を経過したのちに、進化によって群れの行動を始めた人間には用意されていなかった。だから、生命身体の危険を感じる生理的変化がそのまま使われた。これが緊張である。生理学的に言えば、血圧の上昇、脈拍の増加、体温の上昇などの変化や、筋肉の緊張などであろう。これは、現在ではストレスと呼ばれている。群れからの追放の危険について、私は対人関係的危険と名付けてみた。
対人関係的危険の感覚も、遺伝子に組み込まれたものもあるが、学習によって形成される部分も大きいと思われる。
 癒しと緊張の関係が問題となる。群れに戻ったとたん、癒しが始まり、同時に緊張も始まるというのでは、少し無理があるように思われる。おそらく緊張は常時起きていたのではないのだろう。また、人間は、緊張を回避しようと試行していたというよりも、その逆の思考が元々各個体に組み込まれていたと考えることのほうが自然である。つまり、仲間に貢献することが喜びであり、究極の癒しだったのではないだろうか。言葉もない時代に、そのような洗脳をすることは難しい。しかし、そのように仲間に貢献しようという志向や、弱い仲間を守ろうという志向がなければ、群れとしては機能しなかったはずだ。良好な仲間関係が形成されているときに、癒しの機能がよりよく発揮させられたのだろう。そうして、本来仲間として尊重されるべき行為をしている自分が、仲間として尊重されていない、積極的な扱いを受けていないと感じるときに対人関係的危険を感じたのだろうと思う。それだけ、人間は繊細な弱い動物だということなのだろうと思われる。
<長い注意書き> われわれ人間は、その後200万年を経過した段階で、第2次世界大戦、ファシズムを経験した。ユダヤ民族をはじめとする1000万人ともいわれる人たちがホロコーストの犠牲になった。このため、ナチスにつながるあらゆる論理を排除しようとする動きが生じることは当然である。問題は、少しでもファシズムに利用された概念について、まともな論証をしないで排斥しようとする非科学的態度が副作用として生まれたことである。進化論において、群淘汰説というフィルターが存在している。群淘汰説は、生物は種を繁栄させる方向で進化をし、利他行為は種を強化するための手段であるという理論を中心とした学説一般をさす。特に明確な定義があるわけではない。ナチスに役に立ちそうな理論を排斥するためのレッテルとして使われる。しかし、利他行為の存在を否定できないために、その理屈付けとして相互互恵説とか血縁保護説とか、進化の観点からは無理があり、実感として受け入れられない議論がまかり通っているのである。
 私は、もちろん群淘汰説に立つものではない。個体の生存を確保するために群れを作るしかなかったという理論を述べている。その群れの範囲は、あくまでも個体識別ができ、単純接触効果が期待できる範囲が基本である。ロビン・ダンバーによれば、せいぜい200人くらいの人数に過ぎない。
 また、科学の態度としても、ナチスに近いからと言って排斥することは誤りで、デメリットが大きすぎると思われる。ナチスが影響力を持ったのは、人間が受け入れる素地があったからである。むしろ人間の素地を利用して影響力を拡大したのである。その利用されてしまう人間の素地がどこにあるのか、その真理を突き止めることなしに、形を変えたファシズムを排斥することはできないだろうと思うからである。
 人間は、もともと群れに貢献することを喜びと感じる動物であった。自然は厳密なコントロールを用意しなかったため、わが身を犠牲にしても仲間を助けようという行動をしばしばしてしまうものである。
 日本における特攻隊志願者の論理は、まさにこの性質を利用されたものである。自分の家族を守るためにという本音を抱いて、「お国のために」という言葉に置き換えて、わが身を犠牲に供したということが一般的であったと確信する。

2) 群れを作る条件

群れを作る条件は、奇妙なまでに危険に接近する条件と近似している。
ⅰ) 情動を抑制し又は中断する能力があること
個人の情動、空腹、怒り、恐怖の赴くままに行動することは群れを成り立たせない。群れを作るためには、個人の動物としての情動が抑制されることが群れを作る第1の条件となる。
ⅱ) 共感する能力があること
  対人関係的危険を認識し、危険を解消する行動を行うためには、群れの他者への感情を理解できていないとならない。
ⅲ) 仲間に貢献しようとする志向、最弱のものを守ろうとする志向
   自分だけが利益を得ようとする者がいては群れは成立しない。特に弱い種の群れの場合、仲間の力を奪うような個体がいたのでは、弱い仲間から死滅してしまう。そもそもの分けるべきパイが小さいためである。弱いものが死ねば、その分群れが小さくなる。その分群れの機能が低くなる。また、現代社会を見ればわかるように、自分だけが利益を得ようとする志向は途中で抑制することができない。その分群れが小さくなっていくだけである。やがては群れるうまみがなくなる。
 自分だけが利益を得ようとすることを抑制することは現実的ではない。むしろ、その逆に、仲間に貢献しよう、特に仲間の中で一番弱いものを守ろうとする志向が人間にはもともと備わっており、教育でそれを強化していたと考えるほうが自然だと思われる。

3) 群れを作る人間の方法

動物が群れを作る方法はさまざまである。イワシは群れの内側で泳ぎたいという性質があるので、群泳をする場合、巨大な蛇が泳いでいるような外観を呈し、結果的に襲われにくくなる。渡り鳥が隊列を組むのは、風圧の関係で合理的な位置取りをするために大きな鳥の形に見え、捕食者から襲われにくくなる。結果としてそうなっている。イワシも鳥も、目的をもって行動をしているわけでなく、本能的な行動をした結果利益を得ているのである。進化が目的に基づいて行われるのではなく、結果が有利なものが適応するだけだということはこういうことである。
人間も同様だと思う。群れを強化しようとか、群れを存続させようとして理性的な分析がなされ行動しているのではなく、人間の本能的行動が結果として群れの存続や強化につながり、結果として弱い個体が生存できたということである。
人間の群れを作るモジュールは以下のようなものであることになる。つまり、他者に共感する、共感してしまうモジュール。仲間のために貢献しようとするモジュール。群れの最も弱い者を守ろうとするモジュールである。

3 危険接近と群れ形成の関係

以上のように考えると、人間の群れの作る能力は、危険に接近する中で形成されていったように感じられる。完全に分離して考察することは現実的ではなく、長い年月をかけて相互に影響しあって形成されていったということが表現としてはずれのない説明かもしれない。
 しかし、私は、どちらかといえば仲間の形成が先行したのではないかと考えている。
 人間の他の動物との違いの最大のものは、情動のままに行動をしないで、情動に反する行動をすることだと考える。情動に反する行動のメカニズムを考えると、そのように考えるべきだと思った。
情動を中断させることは、理性ではない。情動は自分を守るためのメカニズムであるから、ひとたび生じた恐怖、逃げようとする志向は、安全が確保されるまで中断されることがない。例えば、熊から逃げようと東の丘に向かおうとする行動が中断される場合の典型は、東の丘に新たな捕食者、例えば狼が存在することがわかりまた別の方向に移動するときである。つまり、情動を抑えるのではなく、別の情動が最初の情動を中断させるのである。
仲間を作ることによって、動物としての危険を回避する情動を中断させるもう一つの情動を獲得したのである。それが対人関係的危険を回避しようとする情動、もっと根幹的な表現を使おうとすれば、群れを形成しようとする志向が獲得される必要があったのだ。
 先ほどの熊と狼の矛盾のように、生物的情動の対立は、瞬時にその後の行動を選択して実行しなければならない。命の危険があるのだから、分析的に考えている場合ではない。社会的情動と生物的情動の対立の場合も、おそらく誰かの命の危険があり、瞬時に実行に移すべき時が多いであろう。典型的な情動の中断は、むしろ社会的情動の対立の場面であろう。簡単に言うと板挟みである。それほど時間が迫っているわけではない。しかし、選択を誤ると群れからの追放や群れからの評価の低下が待っている。他者への共感力の高さや、どれかを選択したことにより生じる結果の推論など、情動を抑制する条件、仲間を作る条件が鍛えられる場面であると思われる。仕方なく分析的思考を行わざるを得ないのである。
 もちろん、歴史的事実ではなく比ゆ的な表現なのだが、親の夫婦喧嘩や嫁姑の板挟みで、人類は高度の思考ができる脳が発達したようなものなのである。
 また、仲間を守るための自分の命を顧みない行動ということも、仲間を作ったことから余儀なくされたもので、自分という個体を守る生物本来の本能が抑制される体験を通じて情動を離れた分析的思考の基礎を作ることに貢献したのであろう。
 人間の思考も多くの部分で感覚的即決であり、分析的な思考が行われない理由は、分析的思考がここ200万年くらいの中でようやく高められてきた新しい思考法だからであろうと思われる。
  
4 自我意識あるいは理性とは何か

ここまで話をしてきたのは、人間の自分に対する意識、理性、あるいは分析的思考とはどのように生まれてきたのかということを考えたかったからである。
 人間の自分に対する意識は、理屈の上で他者と自分を区別する際に生まれるものであるというところから考えを始めていた。
 私なりに考えを進めてきたが、どうやら群れを作るということが、人間に意識を授けるにあたって不可欠の環境だったのではないかと結論になりそうである。生物的情動の対立ではなく、社会的情動の対立の中で自分の行動を決めることが脳を発展させていったという結論である。社会的な情動の対立を解決する場合は、時間的に余裕があり、様々なこと、考慮するべき人物の感情、利害状況、利害の共通性、将来的な派生効果、自分の立場、あるいは自分が守ろうとする仲間の立場、様々な状況の整理、程度の分析をおこなう。通常は情動に従って、自分の行動を感覚的に即決で足りた。しかし、社会的情動の対立に直面して、自分がどのような行動をするのかということは、自ずと仲間と区別された自分という概念が必要になったのだろう。たとえばAという人がBとCという人間の板挟みになったとき、AはBとCとの距離を考え、BとCと自分が違う人間であるということを強烈に意識せざるを得ないのであり、自分とは何かということを意識せざるを得なかったのだろう。BとCは個人とは限らない。Bが血族の一人であり、Cが群れ全体だったかもしれない。
 ひとたび生まれた情動の中断と分析的思考は、人間の大脳皮質を発展させていった。ひとたび考える器が形成されれば、情動の対立が顕著ではない場合であっても、自ら進んで問題提起を行い、分析的思考を屈指していったのであろう。複雑な思考は、細かい記憶を糧に、文明を築いていくことを可能とした。情動から離れた思考が行われることを可能としてしまった。


 私が当初想定していた結論とそれに至る流れは、すでに踏破した。想定以上のことを考えることができた。しかし、ここまで考えると、それでは満足できないという自分の新たな心情を強く自覚している。
 一つは、分析的思考がよりよく機能するためには、平板な感情の中で考えを巡らせるよりも、何らかの高揚感や自己保全、プライドをかけて考えるなどの心理状態でいるべきことの理由が理解できたことである。もともと対立した情動に直面した場合に、情動が相殺されて消え、分析的思考が余儀なくされての思考パターンだったので、その環境を再現するほうが能力を発揮するということである。
 もう一つは、分析的思考が、まじめな思考となり、社会に役に立つ思考、弱者を害さない、人類に害悪にならないための思考となるためには、自己の情動を尊重して思考を始めることが有効ではないかということである。自分を含めた人間が生きるための思考、人類を生かすための思考は、自分の中の内なる情動の声に耳を傾けることが一番の方法であるということが結論付けられそうである。
 これらのことを今後考えてみようと思った。


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家族など仲間に怒りをぶつける前に抑える方法 人間の意識からの考察 かわいそうだからやめる実務的方法 [進化心理学、生理学、対人関係学]

家族など仲間に怒りをぶつける前に抑える方法 人間の意識からの考察 かわいそうだからやめる実務的方法

目次
序 大事な仲間を自分の怒りで失わないために
1 怒りを抑えることが難しい理由 怒りのメカニズムから
2 怒りを中断し、理性を働かせる方法 エラーパターンの認識

序 大事な仲間を自分の怒りで失わないために

私は、怒りは必要だと思うので、
怒り一般を抑えることは副作用も大きいと思うので賛成できない。

ただ、仲間に対しては、怒りをぶつけてはならないと思う。
これは未熟な私自身の反省を踏まえて、
怒ることで仲間を傷つけて後悔している人たちと
一緒に考えるページである。

仲間に対して怒りをぶちまけて
反撃されて返り討ちにあうなら
結果としてはそれでよいように思う。

逆に首尾よく自分の怒りで相手を制圧してしまうと、
相手が回復しがたいダメージを受けていることを
目の当たりに見ることになってしまう。
傷つけたのは自分だと思うと取り返しがつかない気持ちになる。

あるいは、その時その時のダメージは大きくないとしても、
怒りをぶつけられた相手が
あなたに対するどす黒い泥のような負の感情を
相手の心に深く沈殿させ、それは堆積されて
ついには相手があなたから去ってしまうこともある。
そうなると本当に取り返しがつかない。

ところが自分が怒りをぶつけたことによって
相手が傷ついたということに
気が付くなら解決の糸口がある。

しかし、けっこう多い事案では、
あなたが相手にダメージを与えていることに
気が付いてさえいない。

気が付かない理由は、
自分は理性的に相手を正したのであって、
相手が傷つく必要はないと
無意識に感じているからであることが多い。
正しくないことをして正されたなら
感謝こそされるべきだなんて思っているかもしれない。

そうすると、突然の別離や
相手方の再起不能を受け入れるという事態が起こりかねない。
そしてその理由に気が付ないならば、
不幸の感じ方が加速度的に強まってしまう。

覚えのある人にだけ理解してもらえばよいし、
一緒に考えてもらえばよい。

では、

1 怒りを抑えることが難しい理由 怒りのメカニズムから

怒りを抑えることは難しい。
魔法の呪文のようなものはない。
そのことをまず説明する。

怒りを抑えることが難しい理由は、
人間の能力が貧弱なことにある。
人間は、一度に複数の事柄に意識をフォーカスできない
ということだ。

かゆい時は暑いことを忘れ、
熱いと悲鳴を上げているときは痛いことを忘れる

転んで尻が痛いときは今まで考えていたことを忘れ、
怒っているときは、冷静な思考ができなくなる。
冗談に笑っているときは不幸も忘れる。

この貧弱さは、必ずしも悪いことばかりではない。
ただ
「かわいそうだからやめよう」という思考は
怒りが継続しているときは出てくる余地がないのである。

意識のフォーカスは一瞬にして切り替わる。
このため、感覚としては
二つが同時にフォーカスされているように思ってしまう。
しかし厳密に分析すると前後関係が必ずある。

しかも怒りは一瞬で終わることは難しい。

なぜならば、怒りは
相手を叩きのめすための
自然が用意したツールだからである。

怒りは、自分に降りかかった危険を排除する手段である。
先ず危険を意識的にか無意識にか、感じていることが前提だ。
その上で
相手に勝てるという判断、あるいは
仲間のために勝たなければならないという判断が
怒りを導く。
勝てないと思えば恐れに導き逃げる。これが生き物の原則だ。

怒りを覚えて危険を除去するためには、
相手を最後まで叩き潰さなければならない。

情けが入り手加減してしまうと
相手を逃がして、後日報復されたり、
その場で逆襲されてこちらが致命的になる。

そのため、相手を叩きのめして危険を除去するため
怒りという感情が相手を叩きのめしやすくさせてくれるわけだ。
情けや、共感や、後先という思考を排除するのが役割だ。
怒りは、「かわいそうだからやめよう」ということを
刺せない仕組みと言ってもよいだろう。

だから仲間に対して怒るときは、
怒りによって
仲間ではなく、相手は敵になってしまい、人間ではなくなってしまう。
容赦なく攻撃をしてしまう。

怒っているときも
ふと怒っている自分を自覚して
怒りをやめるということはある。

しかし、やはり厳密に考えると
怒りが中断して、その後で
理性的にものを考えることができるようになっただけである。

「いや怒っていながらやめようとした」と主張する人はいるだろう。
その感覚にも理由がある。

怒りのフォーカスが外れても、
怒りで起きる生理的変化である
心拍数の増加や血圧の上昇を
体性感覚で感じているから
怒りが持続していると意識してしまうのだ。

しかし、その体性感覚を残しつつ、
怒りのフォーカスがぼやけたから立ち止まることができる。

怒っているときは理性が働かない。
理性を働かせるためには、
順番としてまず怒りを鎮めなければならない。
理性で怒りを止めようとしても無理であるのは
そういう理由による。

ところが、市販の怒りを鎮める方法は、
理性で怒りを鎮めようとする方法であるか、
怒りを予防する方法である。
だから、ひとたび怒りだしてしまうと
止めることがなかなか難しいことは当然なのである。


2 怒りを中断し、理性を働かせる方法 エラーパターンの認識

魔法のような呪文がないのだとすれば、
事前にエラーパターンを学習するということが
怒りを中断させる方法として
有効な方法になるかもしれない。

近年ノーベル経済学賞の受賞者を多数輩出している
行動経済学の応用である。

エラーパターンは教科書を探してもみつからない。
一番の教材は、つい最近自分がやったことである。

怒ってしまったことを、きちんと反省するということである。
反省と言っても、悔やんでいただけでは何の役にも立たない。

反省というのは次の3つのことを考えることである。

第1に、自分の行為で相手がどのような気持ちになったのか
ここでかわいそうだということを考えることができなければ
相手にとってあなたが仲間であるメリットが見えなくなり、
デメリットばかりを感じるようになるだろう。

基本は相手の立場に立ってみて
相手の心細い気持ち、情けない気持ち、逃げ場のない思いを
追体験することである。
かわいそうなことをしたなと思うまで考えるべきだ。

第2は、どうして自分はそこまで怒ったのかを考える。
かけがえのない仲間の気持ち以上に大切なものが
本当に存在したのか。
怒りによって回避したいと無意識に感じたのは
危険を感じたからである。
自分はどんな危険を感じていたのかを思い出す。
(通常は、馬鹿にされる、損させられる等のつまらないこと)

実は、自分が感じていた危険の多くの部分は、
本当は職場や社会など他の人間関係のうっ憤であり、
八つ当たりしていたのではないかということを
本気で考えよう。

第3は、怒るタイミングで、この反省を思い出す工夫を考えることだ
自分の心拍が上がってきたり、
血圧が上がってきたリ
体温が上がってきた場合に、
すかさず相手がかわいそうだと思う訓練をするということだ。

怒ったら相手をかわいそうと思う
そういう条件反射をする訓練だ。

だいたい人間は、
まず怒り(心臓を中心とした生理的な反応が起き)、
その次に怒りの感情を言葉にする。
感情にまかせた行動をする。

このタイムラグが貴重である。
言葉が出る前にかわいそうだと思うようにする。
一瞬怖い顔になっても、
言葉など態度に出なければ
相手を不快にしない可能性が高くなる。

また、怒りの言葉を聞かれ、表情を見られても
その言葉に反応をして、怒りが中断できれば、
うまくいけば相手はあなたを評価してくれるだろう。

つまり、特定の仲間である例えば家族、恋人に対してだけ、
怒りを覚えたら、怒りを鎮めるという
条件反射の仕組みを作るということだ。
パブロフの犬になろうということで、

これなら、「理性で怒りを鎮める」という非科学的な方法論よりも
情動を中断させる方法論として
科学的であり、有効であると思われる。

これは同時に、相手の気持ちを考える訓練にもなる。
相手の気持ちを害することをやめ、
自分を抑える姿を見せることは
相手に対する愛情をアピールすることにもつながるかもしれない。

相手があなたの努力に気が付かなくても
徐々に、あなたに対する安心感を強めていくことだろう。

つまり、自分と仲間と協調する訓練であり、
幸せになる訓練であると考えている。


仲間に対する怒りのもととなる危険は
対人関係的危険であることが圧倒的多数である。
対人関係的危険については
対人関係学のホームページを参照していただきたい。
このページの左上にボタンもあります。

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