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カウンセリング技術と弁護技術の融合 ロジャーズの「来談者中心療法」(「カウンセリングの話」シリーズ3) [進化心理学、生理学、対人関係学]



ロジャーズの理論が、この本を読んだ時から一貫して感銘を受けている場面です。現在においても異論がありません。むしろ、積極的に弁護士業務に取り入れていくために今回も再確認をしたくらいです。

さて、ロジャーズの理論は、来談者(クライアント)中心療法というもので、カウンセラーがあれこれクライアントに指示を出すことを中心にすることをせずに。クライアントの成長を信じて、その力と決断力を中心に進めるカウンセリングのことを言うのだそうです。

これを理解するためには、この反対の理論を知る必要があるでしょう。それが、精神分析だと平木先生はおっしゃります。精神分析は、「人間は本能の塊である」と考えていて、本能は奔放でコントロールが難しい、だから本能をいかにうまくコントロールして人間にふさわしく発揮をさせていくかを教えなければならないという理論だそうです。

この時期の本能の考え方は、現代と異なります。「本能というのは人間に悪さをするもので、本能に従って物事を行動してはならない、人間は理性的に生きなければならない。」というデカルト的な考え方といえるかもしれません。理性が礼賛されていた時代です。(だからこそ、フロイトの無意識による行動決定は理性の及ばない人間の行動の存在を主張したもので、世界を震撼させたわけです。)しかしこの理性礼賛というか、本能は悪であるという考え方は現在は否定されています。対人関係学の親ともいうべき、アントニオ・ダマシオの「デカルトの誤り」に書かれているように、本能(二次の情動)によって人間は対人関係の中で自分の位置を「考える」より早く「感じ取り」、自分の行動を抑制するという側面があるということでした。

だから、この本能をつかさどる前頭前野腹内側部が欠損すると、ギャンブル的な行動をしたり、他者から顰蹙を買う行動が「できるようになって」しまったりということで、本能(二次の情動)が人間が群れを作るうえで、つまり人間らしく生きるためで重要だということになっています。

また人間の意思決定も、理性をつかって思考の結果結論を出すという思考パターンはそれほど多くなく、ほとんどの行動は無意識の、思考をそれほど使わないバイアスがかかった意思決定をしているという二重意思決定モデルも理性のとらえ方を修正するべき方向に向かう理論ではないでしょうか。

このシリーズのこれまでの記事で述べてきた、人間が対人関係で安定した帰属をしたいという欲求があるということも脳科学や認知学的な裏付けのある話だと私は考えます。

まあ、そのような原理問題にかかわらず、弁護士業務を長年やってきて思うのですが、ロジャーズの来談者中心療法は、弁護士業務においても全く正しいと思い当たることが多くあります。

この来談者中心療法の魅力的な部分は、クライアントは、実は問題の所在をよく知っており、問題をどう解決してどのように生きて行こうかということを真剣に考えて育んでいるととらえ、人間の意思の尊重、本人の意思の開発を中心とするという考えです。そしてカウンセラーは、クライアントの実現しようとする意思が何らかの障害にあたっているために実現していないという現実を踏まえて、その障害を取り除いてクライアント本来の力を解放することが仕事だとしています。だから、カウンセラーが偉いわけでなく、クライアントと同等の立場であり、これなくしてカウンセリングは成り立たない。

こういう話です。そしてこれは弁護士においてもぴったり当てはまるように思うのです。

私はこの部分を、過剰に読み込んでしまっていて、クライアントこそが自分の悩みの解決方法を知っているのだというように誤解をしていました。しかし、それは誤解ではなく結果としてはその読み方でよいと思っています。

弁護士の依頼者や相談者も、全く同じです。問題の所在をよく知っていますし、解決方法も考えています。ただ、他者と紛争中ということで、戦闘モードや逃走モードに入っているために、①思考がうまく働かないという事情があります。さらに②紛争を起こしているというストレスが持続することによって、悲観的な思考に陥ったり、自信を失ったり、あるいは過度に攻撃的になったりしたり、あるいは③解決のための知識がないために、自分が考えた方法が選択肢とならなかったり、選択肢にはあるのに選ばなかったり、実行に踏み出せなかったりという事情があることがほとんどではないでしょうか。

だから弁護士は、その意思の実現の障害を取り除いてゆき、法的手続きを代わって行うことによってクライアントの意思を実現するということを心掛けるべきです。カウンセラーとこの点においては全く一緒ではないかと思うのです。

常々思っているのですが、知識や法的思考ができるのは当然として、弁護士に一番価値があるのは第三者として冷静にものを考えることができることだと思うのです。つまり岡目八目が最大の武器ということになると思っています。

平木先生は本の「はじめに」の部分で、カウンセリングの本質を相手の立場に立って援助することだとおっしゃっています。「相手の立場に立つ」ということの意味は、実はいろいろ議論があることで簡単ではないのですが、一つの意味としては対等の立場に立って、クライアントが何を実現したいのかを考え、そのための方法を提起する、それも選択肢を提起して、あくまでもクライアントが自分で決定するということを大切にしていくことだと思います。

つまり、クライアント、通常の民事事件だけではなく、刑事事件の被疑者、被告人であっても、その人の置かれた広い意味での環境に置かれたら自分も同じようなことをやっていたかもしれないという同じ地平線に立つということが、相手の立場に立つための大前提になると思っています。刑事事件も労災事件も離婚事件もそのような立場に立つことができることによって、良い結果を出しているということを実感しています。

例えば、最近、別居した夫婦や離婚した夫婦の再生の結果が出るようになってきました。もしかすると、最も困難な仕事かもしれません。通常は、どちらかが離婚だと言い出したら離婚を受け入れなければならないという考え方をすると思います。しかし、離婚を受け入れられない方と離婚を申し出る方とどちらとも同じ地平に立ち、それぞれの本当に言いたいこと、こうありたいと思ったことを探求していく中で、依頼者と真剣に話し合い、方針を確立して、励まして、再生の方法というものをある程度確立していくことができました。弁護士の頭であれこれ考えているだけではとてもそんなことはできなかったと思います。クライアントと対等の立場で対等に考えることによって切り開いていっている分野です。


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人間の欲求の階層 マズローの人間観によせて 2種類の欲求の様々な側面ではないかということ(「カウンセリングの話」シリーズ2) [進化心理学、生理学、対人関係学]



前回のY理論に対する疑問より早く疑問が大きくなっていったのがマズローの人間観です。疑問と言っても、マズロー以前はこのようなことを述べる人はいなかったわけですし、大きな功績であり、とても重要な学説であることは待合ありません。要するに、知名度のあるマズローの学説と比較することで自分の考えをわかりやすく伝えようとしているだけのことです。

さて
マズローの人間観とは、「人間は生まれながらにして、より成長しよう、自分の持てるものを最高に発揮しようという動機付けを持つ存在である」というものだそうです。

そして従来の心理学は、人間の足りないところや欠けたところの研究を中心に発達しており、人間に何が不足するとどんな風に障害が起きるのかということが主の関心事であった。その典型が精神分析であると主張し、

これからの心理学の研究課題として重要な側面は、人間がより成長しようとする存在であり人間存在そのものをもっと積極的に、可能性に身と他者として見ることである。
と平木先生はおっしゃっております。

さらに、マズローは人間の欲求は階層になっているとし
第1に、生理的欲求があり、性欲や飢え乾きを癒す欲求
これが満たされて
第2に、安全の欲求、保護されたい、雨風をしのぎたいという欲求が生まれ、
第3に、所属と愛の欲求が生まれ、集団に帰属したい、友情や愛を分かち合いたいとなり、
第4に、承認の欲求が生まれ、人から尊敬されて、自尊心を持ちたいと思い、
第5に、自己実現の要求がわき、可能性の実現、指名の達成という欲求が起きるとされています。

これまで私は、人間が自己実現を求める存在だというマズローの人間観には賛成していて、5つの欲求があることもその通りだけど階層の順番が違うのではないかという違和感を持っていた程度でした。

マズローの理論は実際のカウンセリングのベースになるもので、マズローの人間観も実際のカウンセリングをする場合を念頭に置いて論じられていて、その意味では優れたメリットを持つ考え方だと思います。その意味で反対をするわけではありません。価値観としても魅力がある考え方だとも思っています。

説明の便宜のために、人間の欲求の階層について対人関係学の意見から先にお話しします。

対人関係学は、マズローの5段階の関係は賛成できません。
対人関係学である人間の欲求(ニーズ)は、
1 身体生命の安全の欲求
2 対人関係的な安定帰属の欲求
の二つの柱の欲求を持つということです。

そして、マズローの言う各欲求は階層になっているのではなく、それぞれ1と2の内容、あるいは派生的欲求だということを主張しています。
1の身体生命の安全の欲求の内容がマズローの生理的欲求(第1段階)、安全の欲求(第2段階)
2の対人関係的な安定帰属の欲求の内容が、所属と愛の欲求(第3段階)、承認の欲求(第4段階)、自己実現の欲求(第5段階)だということです。

1の身体生命の安全の欲求は、人間に限らず、動物全般に見られる欲求です。動物として生きるということはこういうことだということです
2の対人関係的な安定帰属の欲求は、人間における群れ形成の方法というものであり、群れを作る動物に共通の点はありますが、やはり人間において特徴的な欲求と言ってよいと思います。

自分の群れに安心して帰属し続けたいという欲求があり、その状態が尊重されているということです。他者から尊敬されれば安定帰属が図られますし、友情や愛をわかちあえればそれ安定帰属をしている状態ともいえますし、安定帰属の保障にもなるでしょう。自尊心をもって生きることができるということは、実は群れに安定して帰属している自分の状態を感じているということに他ならないと考えています。また、自己実現についても、基本的には群れに安定的に帰属することを目的としています。

もっとも、私たちの意識としては、群れに安定して帰属したい、だから群れに役に立ちたいと考えているわけではありません。群れのために役に立ちたい、尊敬されたい、能力を発揮したいという心があったため、群れに帰属しようとする行動傾向が生まれ、人間が群れを形成し、生き延びてきたという関係にあるのだと思います。

この自己実現については、人間の個体それぞれの社会性によって意味合いが異なってくると思います。つまり、個体の社会性がせいぜい家族の範囲にとどまる場合は、自己実現と言っても家族との関係での自分の在り方にとどまるでしょう。個体の社会性が、家族を飛び越えて、社会や国家と自分の関係を意識づけて行けば、自己実現は社会的立場や国家的立場の実現、それほどの規模の何らかの発明や学問的到達、あるいはスポーツや芸能の到達ということを意識するようになるのだと思います。

文明が発達し、情報や交通が発展していく中で、この社会性を広げる圧力が強くなっていったように思われます。多くの人が社会的に成功をすることに価値を置くことに疑問を持たなくなったように思われます。私は最近このことに強く疑問を抱くようになりました。家内安全を第一目標に生きることの何が悪いのかということです。もっとも私が歳をとったということもあります。若いときは無鉄砲に社会性を広げていたようにも思われ、その反省の意味もあることは認めざるを得ません。

こう考えると、従来の心理学とマズローの言うこれからの心理学はそれほど違うものではないのではないかと感じてしまうわけです。人間のかけたところや過剰な環境に対する不適応を修正し、不安や焦燥感を解消し、自分の群れの中で尊重しあい相互に助け合い、安心して生活するということが、人間の目標であるべきであり、他者の援助の対象の範囲ということにはならないでしょうか。

社会性を広げた自己実現は、他者が誘導する話ではない
そう思っています。

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対人関係学の人間観 カウンセリングのX理論(本来怠け者論)とY理論(人間信頼論)によせて (「カウンセリングの話」シリーズ1) [進化心理学、生理学、対人関係学]



私が司法試験に合格して、試験勉強以外の本を読むことを解禁して最初に読みだしたのが平木典子先生の「カウンセリングの話 増補」(朝日新聞社)です。何度か繰り返して読む本の最初の本となりました。今回何度目かの読み返しをしてみて、改めて勉強になりましたので、メモを残すことにしました。

先ずは、カウンセリングの人間観のX理論とY理論についてです。
X理論とは、人間怠け者論であり、人間は本来、仕事とか精神労働が嫌いであり、責任は取りたがらず、できるだけ楽しようとする自己中心的な存在だという人間観です。

Y理論とは、人間信頼論であり、人間は本性的に働くことが好きであり、遊びや休息と労働は同じものであるという人間観です。

ここで平木先生が、カウンセリングはY理論の人間観に立つと明言されていることから、何度もこの本を読むことになったのかもしれません。この前読んだ時もそうですが、何度読んでも感動した箇所でした。

現在は、全く考えが変わりました。と言っても、X理論が正しいと考えるようになったというわけではないのです。
「人間の本性」という不同なものがあるような考え方自体に賛同できなくなりました。人間のこころは環境に大きく影響されるものだということを考えるようになったわけです。

対人関係学の考え方は以下のとおりです。
人間が、自分が仲間だと感じる他者と人間関係を形成している場合、仲間のために働こうとか、仲間のためになる活動に喜びを感じて、生き生きと働くし、考えるし、どんな結果になっても人生をかけて寄り添っていくという考えです。

しかし、自分が孤立しているとか、虐げられているとか、幸せになる展望を持てない場合は、自分から進んで働こうとしないし、怠けて楽をしようと思うものだということです。

もっとも、子どもは、大人からの恩恵を受けようとする傾向にあることはやむを得ず、X理論的な行動傾向になってしまうという発達上の問題もあるだろうとも考えています。

人間が心を持ち始めた200万年前の狩猟採集時代は、他人と言えば全員が一緒に助け合って暮らしていた群れの仲間ですから、人間信頼論が妥当していたと思います。現在では、他人が自分の敵だということは大いにありうることで、このような心が壊れる原因となっていると考えます(環境と心のミスマッチ)。

X理論とY理論、対人関係学は、実践的にも違いが生まれてきます。
労務管理では、X理論に立つと、人間は怠けがちなので、報酬で誘導したり、懲罰でけん制したりしてともかく働かせなければならないという方向に向かいます。
労務管理のY理論はよくわかりません。
対人関係学は、職場が仲間であるという実感を持てることにより、より個々人のパフォーマンスが発揮できるようになり、生産性が上がるということに力点を置くようになります。

X理論の労務管理の弱点は、働くモチベーションが窮屈であり、失点を防ぐことを志向してしまい、言われた行動しかしなくなる。実際の結果よりも、上司の評価の方を気にして抜け駆けをする、職場が殺伐になるというところにあります。この点に留意する必要があるわけです。

対人関係学の労務管理理論は、人間関係論という労務管理論を理屈づけしたものです。個々人の帰属感をどのように高めるかということがカギになります。報酬や懲罰が全くないというわけにもいかないので、程度の問題となるかもしれません。

また仕事の内容に応じて出し入れをする必要がありそうですね。

刑罰理論でも古代中国の論争でも、このようなX理論とY理論の対立がありました。荀子の性悪説と孟子の性善説が対立して、人間とは無秩序に向かうものであるため法律で厳しく制限をしなければならないという性悪説の思想で法律が作られた時代があったわけです。

この二元論的な考え方は私達にも浸透していて、何か犯罪とか虐待とかという出来事があると、刑罰を厳格化して、刑罰の威嚇をもって犯罪を抑止する、警察の権限を強化して虐待を防止するという考え方になっているわけです。

これに対して対人関係学は、人間は自分が仲間だと思える他者と継続的に関係が構築されていれば犯罪や虐待は起きにくくなるということで、対人関係の在り方を改善していくことが最大の予防だという考え方になるわけです。

但し、対人関係学は、性善説に立ち切っているわけではなく、人間の本来的な心が複雑な人間関係の中に適合していないために、犯罪やいさかいなどの不具合を起こす原因が現代社会には常に存在しているという認識を持っています。放っておいても大丈夫というような考え方ではありません。

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「私」の創り方 創るのは私  [進化心理学、生理学、対人関係学]


これを読んでいるあなたが、もし、今のご自分だけが不幸だとか、不運だとか、みじめだとか、存在意義に悩んでいるという場合に何らかの参考になればよいなという気持ちで書いています。

こうあるべきだとか、こうするのが正しいということを言っているわけでありません。一つのサンプルとしてお読みいただければ幸いです。

私はこうありたい、こういう風に生きたいという「なりたい私」があるのに、それになかなか近づけないということで苦しまれている方もいらっしゃるかもしれません。

なりたい私になろうとすることは良いのですが、そのためには自分だけを鍛えればなれるわけではない場合が多いようです。
というのは、「私」だと考えているものの実態は、実は私以外の人からの「私に対する評価」や、人間関係の中での「私の役割」や「私が結び付いている人たち」だという可能性があるということです。

この「私以外の人」(との人間関係)は、実は様々で、子どものころは家族しかいませんが、徐々に成長につれて友達とか先生とか増えていきます。若者は、一足飛びに社会に目を向ける傾向があり、社会の中の自分ということでなりたい職業とか、入りたい学校とかを考えるわけです。新しい人間関係を作ることに意欲を持てるということは若者の特権かもしれません。繁殖行動としての側面もあるように思われます。

歳をとると、新しい人間関係を作ることにおっくうになり、いつものメンバーの中での自分の立場を守ろうとするだけということはありうるかもしれません。

ただ、社会の中の自分を求めるということは、それほど古い歴史があるわけではないようです。江戸時代までの日本人の職業構成は圧倒的に農業でした。農業従事者たちはそれほど国家とか社会の中での自分ということを意識しなかったと思います。海外に目を向けた幕末の林子平は変わり者とされたわけですから、極少数派だったわけです。鎖国という問題が強調されますが、外に目を向ける人が少数だったということを物語っているエピソードだと私は思います。

江戸時代までの多くの日本国民が、「他者」と言えば自分の家や集落を意味していた時代が続いていました。この考えが変化したのは明治時代の富国強兵政策です。戦争の準備のために国は立身出世、勧善懲悪を幼いころから国民に教え込み、男子であれば兵隊になって出世して悪い外国を懲らしめるものだと教え込みました。各地から一般国民が徴兵され、日本国という大きなユニットが人々の意識に上るようになりました。日本一を目指す人が増えてきたわけです。

戦後は男女平等ということで、この社会という大きな舞台を女性も意識するようになりました。ただ、人によっては歓迎することも人によっては迷惑なわけです。家事を一生懸命やるのが自分だという考え方を公にすることがはばかられる風潮があると思います。しかし、現在女性が輝くということで、この女性に社会性を意識させようとする政策がすすめられていますが、結局、煽られた結果に行く着く先は低賃金労働だという落ちがあるのかもしれません。

戦後すぐに社会を意識させたものはテレビですが、最近はインターネットです。自分の動向を不特定多数人に向けて発信する人が増えて、SNSを利用することが当たり前のようになってきました。有益な情報もあるのですが、概ね知らなくても良いことを読まされているのではないでしょうか。その結果、これまでなら考えなかった、自分と他人を比べてしまって自分の状態に落ち込むこともあると思います。

それらのいわば社会性、不特定多数人の中での自分に対する価値評価を否定するわけではありませんが、本当に乗りこなせているのか考えてみた方が良いということなのです。

そして、家族や固定した友人関係の中で、安心して暮らすのが「私」ということでよいじゃないかと思うのです。その考えを誰からも非難されないような風潮こそ持続可能社会なのではないかということだと思います。どうも、大きな誰かの利益のために、無理やり社会という規模の他者を意識しなければならないように仕組まれているということが歴史的な流れを見て思います。

わたしにもまだ野望はありますが、意識は狭い人間関係に傾くようになっています。例えば家族の中の自分の在り方を意識して創っていくということも私の作り方なのではないでしょうか。家族とはいえ、なかなか手ごわいわけです。

若い人が社会に対してチャレンジをすることはとても素晴らしいことです。しかし、私を創る舞台は、必ずしも社会という大きな舞台だけではないし、大きな社会だけに価値があるわけではないと私は思います。どんな時でもどんな場所でも、自分のできる範囲で自分の居場所をカスタマイズしていく、周囲と円満に暮らす、周囲から頼りにされるし、周囲に大切にしてもらうということが、幸せの一つの形だと私は思います。

いつからだって、どこでだって、創ることのできる私でありますし、創ることにできる幸せなのだと思います。他人の価値観をうのみにしないで、「私」見つめることさえできれば幸せはそれほど難しくないのだと思います。

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心と環境のミスマッチ 複数のグループに所属することによる問題1 外部での仲間へのいじり ウケを狙うことに夢中になって大事な仲間を傷つけているかもしれないし、自分がその外部の人から致命的な低評価を受けている可能性があること [進化心理学、生理学、対人関係学]



なぜ現代人が苦しむのか、なぜ犯罪や戦争が起きるのかということの一つの答えとして、「心と環境のミスマッチ」の問題があると対人関係学では主張しています。

「心と環境のミスマッチ」とは、
人間の心はおよそ200万年前までに完成しており、その後さしたる変化はしていない。心は当時の環境である数十人から百数十人の単独の群れでだけ一生涯生活していて、その環境に心はとても都合よく作られた。ところが現代社会は膨大な人数とかかわりを持ち、家族、学校、会社、地域、社会、国家等々複数の群れに所属して生きなければならない。環境が激変したのに心が変わらないので、不安を感じ、苦しみ、悩み、不健全な行動をしてしまう原因になっている。
というものです。

今回のテーマは、「外部での仲間へのいじり」の弊害です。

例えばの①、他の会社とプロジェクトチームを組んでいて雑談しているとき、「おたくの新人女性なかなか頼もしいですね。」なんて言われて、「いやいやあれでそそっかしくて、この間も大口開けてハンバーグを食べて口の周りソースだらけになりまして」なんて言ってしまう場合です。

上司は、部下の女性のなごむエピソードを話して、親近感を持ってもらおうということで悪意なく話しているかもしれません。しかし、取引先からその情勢社員が「大口ソース」とか呼ばれたりして、体裁を気にしないずぼらな人間だなどの評価を受けて一線級だった新人が軽く扱われてしまう等という弊害があり得るところです。

少なくとも、言われたその女性新人は、そのように心配するかもしれません。「取引先とのなごみ」という目的があったとしても、そんなエピソードなんて言わなくてよいことです。謙遜するということが礼儀だとしても抽象的に「ありがとうございます。しかしまだまだです。ご指導よろしくお願いいたします。」程度に言えばよい話です。

例えばの②、夫が自分の妻をほめられた場合、嬉しくなって「いや実は家では・・・」なんてことも同様に言う必要がありません。「うちのは愚妻でして」と抽象的に言っておけばそれで十分です。しかし、最近はそのような文化も廃れてきていますので、礼を言って終わりでが良いかもしれません。

例えばの③、自分の仲良しグループの一人について、別のグループの人と話題になっていて、実はこういう面があるということで笑いを取ろうとする時も同じような場面が出てくるでしょう。グループをチームに置き換えたり、組織に置き換えたりすることも可能でしょう。

言われている本人は、そのことを後で聞いた場合、その場の雰囲気やノリがわかりません。文字情報だけで、「あの人があなたのことをこう言っていた。」という形で伝わってしまいます。単純に自分の悪口を言われたと思う危険があります。

言われている本人は、その人との関係に安心しているために、他人の前では見せない姿をしているという可能性があります。それなのに、そのことを他の事情が分からない人に言われたことに傷つくことがあります。大げさな話ではなく、信頼関係が危うくなることがあります。

さらに、言われている本人は、言った張本人との関係が打ち解けたものと思っていたのに、実はその人からの自分の評価が低いのではないかと心配になることもあります。さらには、そのエピソード話を言っていた時に言った張本人だけでなく、自分以外のグループの仲間も何人かいたということになると、自分はグループ内で浮いた存在ではないかと思うようになり、自然なふるまいも軽率な行動だったのではないかと落ち込むということも出てくることがあります。

こういうところから、人間関係が少しずつ壊れていくということをよく見ます。

そのエピソードの内容によっては、受けを狙ったはずの外部の人から、そのグループ全体に対しての評価が低くなることも考えた方が良いと思います。

外部から見たら、内部の人間が内部の人間を批判する場合は、よほどひどい人間なのだと受け止められる傾向があります。実際は大したこともないのに、ここで言うのだからよくよくのことだろうと思うわけです。大口ハンバーガーくらいならばよいでしょうが、部下の仕事上のミスなんかを言って笑いを取ろうとするとチーム全体のクオリティに疑問を持たれてしまいます。そんな人がスタッフでいるところに仕事を任せてもよいものだろうかという疑念が生まれることもあります。これは言っている本人はなかなか気が付きません。笑いで済む話だと思って言っているわけです。しかし、必ずしもそれは相手には伝わらないのです。

また、聞いていた外部の人間からは、チームの人間関係がギスギスしているのではないかと思われてしまいます。たとえ本人からこのエピソードは営業トークでお話ししてよいですよと了解を得ていても、上司が部下に恥をかかせるような体質のチームなのだという評価をされる場合もあるわけです。

チーム力がウリの企業戦略ということは随所にあるわけです。特定の人がいなくてもチーム全体で案件を行ってくれるから安心するわけです。ところがチームの人間関係に問題があるという場合は、自分の担当に何か問題があると仕事が止まったり、クオリティが下がったりするのではないかとも思うわけです。

問題は取引先など他者から見た印象です。たとえ本人同士が許容していたとしても外部の者からすると、不穏当に聞こえるということが案外多いです。

さて常識的な人間であれば、自分のチームか否かを問わず、他者のマイナス評価になりかねないエピソードを話すことは無いでしょう。ではどういう人がどういう理由で、無神経に部下の知られたくない話を披露してしまうのでしょうか。

但し、チームの中のライバルに対して、そのライバルの評判を落として自分の評価を高めようというよこしまな考えのどす黒い話は除いて考えます。

先ほどの会社での取引先の話を例にしてお話します。この上司は、その場の取引先との関係に、自分なりに価値を置いて、話しをしていました。相手に受けるかどうかということが一番で、それ以外のことについてはほとんど考えない脳の活動状況だったと言えるでしょう。面白い話があったということを思い出し、その部下の気持ちを考慮せずに、取引先の顔色を見て話をしたということになります。

妻の家の中でのエピソードを言ってしまう夫や、グループ間の交流の時に自分のグループの子の失敗談を話す人も同様です。
つまり目の前の人との関係だけしか考えられず、自分が大切にするべき人間の感情を考慮することができない脳の活動状況なのです。

これは、人間が心を身に着けた当時はとても良い活動状況であり、かつ十分な活動でした。なぜならば、自分の目の前にいる人間はすべて自分の仲間だったからです。また、言葉が無く感情だけがあったのですから、いない時に悪口を言うということもしないで済んでいました。ただひたすら仲間を大切にしていればよかったし、そうしなければ群れ全体が生き残れないサバイバル状態でした。仲間をひたすら大切にするということで人間は生き残ってきました。

しかし、現代社会は、家族や職場や友人関係と、多くの組織に所属してしまっています。継続的人間関係もあれば、すれ違うだけだったり、インターネットで知っているだけ等の希薄な人間関係まで様々です。

そして、つい目の前の人間との関係で良い関係を結びたい、目の前の人に自分を受け入れてもらいたいという本能が過去の遺物としてはどうしても出てきてしまうようです。

そうしてつい、本当に大切にするべき人間関係を大切にしないということが起きてしまうようです。つまり人間は、一度に複数の人間関係を同時に大切にするということが苦手な生き物のようなのです

なお、こういうことを書くと、「そんなやわな心では仕事はやっていけない。常識を知らないな。今はまだ良くて昔なんて・・・」というご感想を持つ方もいらっしゃると思います。しかし、その場にいるいないにかかわらず、部下の悪口を言うという本末転倒な価値観を持っている人、部下の知られたくない話題を言いふらしてしまう人は、結局今何が大切かということを適切に判断できず、対応することもできず、その場の雰囲気や本能に任せて自己を抑制できない人、仕事の力を入れるべきバランスがわからない人、個人情報や内部情報コンプライアンスの管理がずさんな企業体という評価がなされていることに気が付いていないということになります。

また、学校等でのいじめ防止についても、ひどいいじめ、誰から見たっていじめだとわからないいじめは防止の対象と考えないという考えと同じだと私は思います。いじりはコミュニケーションなどと未だにおっしゃっておられるのでしょう。

自分と他者との人間関係を良好なものにするとか、他者と自分の関係を良好にして安心した生活を送るということを大切にするということはこういうことを一つ一つ考えていかなければならないことだと思っています。

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うつ病、PTSDが原因として慢性疼痛が発症する可能性を論じてほしい [進化心理学、生理学、対人関係学]



私の依頼者で、10年くらいうつ病やPTSDで苦しんでいる患者さんが数人いらっしゃいます。このような慢性的な精神疾患の場合、ほぼ必ず体が痛いという症状が出現します。順番で言えば 精神疾患が発症して何年後かに疼痛が発生するのです。痛みの部位は、後頭部や後頚部、背部が多いように思います。検査をしても痛みの原因がわかりません。慢性疼痛とか線維筋痛症等の診断名が付くようです。

慢性疼痛の本を読むと、しつこい慢性疼痛が原因でうつ病などの精神疾患にり患するということが書いてあることが多いです。確かに慢性的感覚異常というのはとても強いストレスになるようです。痛みだけでなくかゆみも深刻な苦しみになるようです。

一般的にはそのように慢性的な感覚異常になれば、精神的に圧迫されるというのは感覚的にわかりやすいと思います。しかし、私の周囲の現実はうつ病やPTSDが先ず発症して、そのあとに痛みが出現しているのですから順番が逆なのです。しかし、この逆の順番は説明がほとんどありません。

疼痛を扱う医学分野は整形外科や神経内科でしょうから、患者さんは痛みを主に訴えて医師の元に行くわけです。医師は先ず痛みから向き合いますので、患者さんの精神状態は後回しになるのではないかと思います。だから、整形外科の医師から見れば、疼痛が原因になって精神疾患が発症したと受け取りやすいのではないでしょうか。

しかし、元々うつ病やPTSDがあって、後に疼痛になることをこれでは説明できません。

医師の中には向精神薬の副作用ではないかと考えている人もいるようです。そうかもしれませんが、病院などではそのような診断はなされず、疼痛があって苦しくても精神科の処方は代わりません。(もっとも患者さんが、疼痛は精神科ではないから精神科のお医者さんには痛みを報告していないという例も結構ありそうです。)疼痛の副作用があると正式にアナウンスをしている向精神薬もなさそうです。

近時脳科学が発達して慢性疼痛の仕組みが解明されつつあるそうです。それによると、整形外科ないし脳科学的な説明をすれば、脳が痛みを感じても、脳にはもともと痛みの感じ方を抑制する対応策を自動的に行う仕組みがあるのですが、痛みを長期的に感じ続けるとこの対応をする脳の部分の機能が低下してしまって、痛みの抑制という対応がうまくいかなくなってしまって疼痛が起こるということらしいのです。

そうであれば、痛みによらなくても、慢性的なうつ病やPTSDの継続、持続によって、同じ対応をする脳の場所の機能が低下してしまい、痛みを感じやすくなるということがあるのではないかと思います。

アメリカの精神科学会の病類分類では、痛みを感じる精神病という病名があるようです。これとの関連性は全く分かりません。いずれにしても、慢性疼痛が外傷からくるものではなく、脳内変化により引き起こされるものであり、それは精神疾患り患が契機になりうるのではないかというつぶやきをさせていただいた足代です。



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人間だけが涙を流すことについて、勝手に感想文 「『こころ』はどうやって壊れるのか」ダイセロス1  [進化心理学、生理学、対人関係学]



久しぶりに本屋に立ち寄ったところ、「『こころ』はどうやって壊れるのか 最新『光遺伝学』と人間の脳の物語」 カール・ダイセロス著という本を見つけてしまい、衝動買いをして読みました。少しずつ考えながら読もうとしたのですが、途中から続きが気になって、一気に読んでしまいました。著者は精神科医で脳科学者です。この本も、精神医学と脳科学の両方のごく基礎的なことがわからないとかなり難しいないようになっています。少しもったいないです。

一番時間をかけて考えながら読んだのが「第1章 涙の貯蔵庫」で、今回の記事でこの章を読んだ感想を書くのですが、そのあとの章はノートは取っていましたが一気読みをしたので、自分の感想や疑問を書き留めることもあまりしなかったため、お話しできるのは今回の第1章だけかもしれません。

<1章の内容メモ>

哺乳類の中でも人間だけが涙を流す。情動的な涙は類人猿の近縁類でも確認できない(36)。とのことで、第1章ではこのことについて考察しています。先ず、交通事故で妊娠中の妻を亡くしてうつ病になった患者が、「自分はなぜ泣けないのかわからない。」と話すエピソードを中心にお話が展開していきます。

本の中では、涙を流すことの機能について述べられています。涙を流すことは、他者の共感を得られやすく、助けたいという気持ちを呼び起こすということが述べられています(36)。

涙は意識的に制御できないという指摘もしています(59)。

また、涙と不安が関係しているということを述べていて、うれし涙でも不安が存在するように感じると言っています(62)。

大事なことだと思うのは、涙を流す時は希望を持っているときであり、すべての希望が立たれたときは涙は流れないという言い方もしています(64)。

<私の感想ないし疑問>

1 涙を流すことと泣くことの違い
  
著者は、泣く行為の象徴的な涙を流すことに着目して論述しています。涙の本来的機能である眼球の保護のための脳内神経構造が、進化の過程で共感の獲得に寄与する機能も果たしたのかもしれないという感じです。

しかし、他者が共感する対象は、流す涙ではないのではないかという疑問があります。むしろ、表情筋を使って顔の表情が崩れるというか、いわゆる泣き顔という表情や泣き声に対して共感が集まるのではないかという疑問です。

表情筋が動くことによって、涙腺を刺激して涙が流れることが順番ではないかという疑問なのです。ただ、泣き顔をしていなくても涙が流れるということもあるので、なかなか簡単ではありません。

もっと大事なことは、涙が流れる脳内の神経の仕組みではなく、共感の対象です。人は泣く人がいると、放っておけなくなるということです。

2 人間の年齢に応じた泣くということ 成人と依存と

なぜか言及がなかったのですが、泣くという行為が一番必要な年齢は赤ん坊のころです。赤ん坊は泣くという行動をして、親などに自分に要求があることを告げて、自分の要求をかなえてもらいます。自立して生きることができませんので、100%親などの他者に依存して生存を確保しているわけです。

良くできていると思うのは、親は自分のニーズではなく他者である赤ん坊の要求をかなえることが少なくともそれほど嫌なことでもないし、一つ一つはそれほど困難な要求でもありません。いろいろな親がいるとは思いますが、それなりに積極的に他者である赤ん坊のニーズをかなえようとします。

赤ん坊は他者に依存すればよいことを本能的に知っているわけです。

A)人間は、自分でできないことを他者にやってもらおうとする志向と
B)他者が困っていると自分が代わって行ってあげようとする志向がある
ということになると思います。

このA的思考は、年齢が低ければ低い程強く、かつ自然に起きています。人間が成長するにつれて、依存的傾向が否定評価されるようになり、自分で行動しよう、自分で解決しなければならない、あるいは自分のことは自分で解決したというように変化していきます。

但し、必ずしもすべて自分で解決できることばかりではなく、集団的に解決をする場面が残されており、他者の助けを求めてしまうことがある、ということになるのでしょう。

大人の方も、困っている人を助けようという傾向はいつまでも続きますが、どちらかというとより弱い者、より困っている者を助けようとする傾向があるかもしれません。

これ等はオリジナルな人間の志向です。人間が進化の過程で獲得した行動傾向ですが、時期的に見て、ほぼ単一の群れで生まれてから死ぬまで生活し、その群れの人数も150人程度までという少人数だった時の志向です。現代のように、膨大な数の人間とかかわりを持ち、複数の群れに帰属しなければならない複雑な人間関係は前提とされません。このため、オリジナルの人間の志向は、自分や自分の仲間の損につながり、必ずしも肯定的な評価がなされず、試行が隠れてしまうことが多くなります(心と環境のミスマッチ)。

泣くということ、泣いて誰かの助けを求めること、泣いている誰かを助けようとするのは、オリジナルの人間の志向によりよく適合するものです。人間が群れを作って生活していくにとても都合の良い仕組みです。

それにしても赤ん坊と母親の関係では、赤ん坊が必ずしも独立していない、特に哺乳類では同様の関係がみられるはずです。しかし、ほ乳類の中でも人間に最も近い類人猿種でも、子どもが泣いて親に自分の要求を伝えてかなえてもらおうという行動は少ないようです。

これはいくつか理由があります。
一つは、集団で暮らす類人猿でも、個体の結びつきは原則として母親とその子どもの関係に限定されるようです。母親が死んでいるという特殊なケースを除いては、母親以外の成体が子どもの世話をすることは無いそうです。そして子どもは、エサの獲得以外は、ほぼ自力でできることが多いようです。自力で母親にしがみついたり、自力で歩きだしたりできるということです。即ち幼体と言っても、母親以外には依存しようとしておらず、依存の内容も人類よりもずっと少なく、母親以外は幼体の世話をしないということから、泣くという行動をしなくても生活に不便はないと言ってよいということらしいのです。泣いても仕方がないと言っても良いのかもしれません。

人間の場合は、直立歩行をするため出産に困難が伴う上、脳が異様に発達しているため頭がい骨が大きすぎることも出産に苦労する理由となり、自分では何もできない超未熟児の状態で生まれてきてしまうようです。このため依存度が高くならざるを得ません。また、群れの結びつきが強く、母親以外の成体も子どもに関わろうとするようで、子どもも他の類人猿とは異なり、母親以外の大人のマネをして学習することができるようです。チンパンジーやニホンザルと比べても、群れ同士のかかわりが密であるということが特徴的だそうです。母親だけで子どもを守れずに群れ全体で弱い者を守らざるを得なかった人間の身体的特徴を反映しているのでしょう。

このような進化を遂げたのは概ね言葉のない時代です。言葉もないのに、群れ同士の結びつきが強くなければならないし、母親以外にも助けを求める必要があったということから、人間の赤ん坊は泣くことを覚え、人間の成体は自分の子どもでなくとも助けてあげたくなるという志向を持ったのでしょう。

逆に言うと、こういう志向が無ければ、人間は群れを作れず、既に種として死滅していたのだと思います。

3 泣けない理由

泣くという行為が人間が他者に対して自分を助けてほしいという反応だとすると、泣いても仕方が無いときは泣くことができなくなるのは合点がいきます。赤ん坊より少し年齢が高くなる幼児であっても、自分が迷子になったときには、泣くよりも先に恐怖を感じてパニックになることがあります。誰かが優しい声をかけることによって泣き出すということはよく見られることです。助けを求めたかったのに、それができる状態ではないと感じてしまっていて助けを求められなかったけれど、助けが現れたところで泣いて援助を求めるという時間差の援助希求なのかもしれません。自分が助かるかもしれないという希望が生まれたから泣くということも一面の真理なのかもしれません。

本に出てきた妻を交通事故で無くした男性が泣けなかった理由は、妻の死を救えずに妻が死んでいくことをすぐ近くで見ていることしかできなかったことから、妻の命が失われてしまったことを強く覚知したため、救われようがないということを強く認識していたためだと思います。

その意味で、泣くときに希望があるという著者の指摘はとても正しいと思います。うつ病患者の人たちに尋ねてみても、うつ病の症状が強いときは泣くことができない、泣かないという答えでした。うつ病者は症状として希望が持てない状態になっているのかもしれません。

泣くという行為は、援助をしてくれる人間がいるかもしれないという覚知と、自分の苦境が解決するかもしれないという展望を持っていることが必要なのかもしれません。

4 一人の時に流す大人の涙

著者は繰り返し述べていますが、大人が一人でいるときでも、涙を流すことがあるということが不思議なところです。何かを思い出して泣くとか、本を読んで泣くとか映画を見て泣くということもあります。こういう涙を流す時には、誰かの助けを求めているわけではありません。この結果、あまり表情筋を動かして泣いている状態を知らしめているというよりは、静かに涙を流すというイメージが強いかもしれません。しかし、表情筋は大きく活動しているということが実情です。

本や映画による涙は、主人公に共感している涙ですから、主人公が泣いて助けを求めているとか、絶望から希望が生まれたとかいうことが起これば理屈通りの援助希求行為です。感動の涙ということはこういうことだと思います。しかし、何かを思い出して泣くということは、理論から逸脱する現象なのでしょうか。あるいは、迷子の赤ん坊のように時間差の援助希求行為なのでしょうか。

人間は自分を攻撃する者に対しても、援助を求めてしまう動物です。しかし、そこで援助を求めてしまうと、自分の非を認めるからとか、屈辱的であるため、あるいはかえって危険になるからと覚知すると援助を求める反応ができない場合があります。また、自分が泣いて援助を求めることで、仲間の誰かを危険な状態にしてしまう場合もあるでしょう。だから泣かないでなんとかその場を切り抜けるわけです。その孤立無援状態から解放されて、一人の部屋に変えるなど、もう自分を守らなくても良いという状態になったときに、本当は援助を求めたかったというように、その場にはいませんが、誰か仮想の味方を想定して泣くのかもしれないと考えています。もしかすると、安心しきれない群れが存在するという心と環境のミスマッチの一つなのかもしれません。この論点は改めて考えてみるのも面白そうです。

同様にうれし涙ということも、実際は難しい説明が必要な気がします。緊張状態が突然緩和することの影響があるような気がします。笑いと構造が似ているような気がします。「怒り」と「恐れ」のように共通の出発点を持っている可能性がありそうです。

5 泣こうとして泣いているわけではないということ

実は私は、先ほどらい、気を付けた表現をして、覚知とか志向とか言葉を選んでいたのですが、泣くということは、実際は意思に基づいて泣いているわけではないと考えています。

つまり、「自分には要求事項がある、自分ではそれはできない、誰かの支援が必要だ、支援をもらうために泣こう」と思考をしているわけではないということです。赤ん坊を見ればあまり説明の必要もないかもしれません。物を考える前にすでに泣いているということなのだと思います。意思よりも先に泣くという行為が脳の中で決定され、始まっているため、意思によって泣くことを制御しにくいのだと思います。泣かないためには脳の泣く行為の発動条件を成就しないような設定をするか、泣き出したことを知覚した場合に直ちに意思によって制御しているかどちらかでしょう。大人になると泣かなくなるのは、どちらかというと脳内の泣くという行為の発動条件を成就しなくなるということのような気がします。



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こちらの気持ちを考えないで言いたいことを言う人の人との付き合い方 現代版黄金律構築の必要性6 [進化心理学、生理学、対人関係学]



言いたいことを言って、相手を傷つける人との関係が、一回きりのものとか短期間だけのものである場合はともかく、それでもできれば相手になりたくないものです。常時そのような人から否定され続けられることは精神的に著しく深刻な影響が生じます。

それでも、なかなか関係を断ち切れない場合もあるにはあるでしょう。どう付き合うかということについて、これまでの事例の教訓を並べてみます。

1 関係を断ち切るという選択肢を温め続ける
  心無いことを頻繁に言われる相手が配偶者である場合は、「最終的には離婚する」という選択肢を持ち続けることで、逆にうまく対処ができるようになり、結果的に長続きするようです。ちなみに、心無いことを言うことについては、男女差はないか、女性の方が多いかどちらかだということが実務上の実感です。そして解決方法が見つからず心理的に深刻に追い込まれるというのは、圧倒的に男性のケースが多いということが私の実務上の実感です。

  いざとなれば離婚という選択肢もあるという考えは、救いになるようです。精神的に追い込まれてしまうと、関係を絶つという選択肢を持つことができなくなり、そのことで余計に絶望しやすくなるということは、これまで多くの追い詰められた人たちが同じように答えてくれています。

  精神的に追い詰められるところから、ひと呼吸を置くだけで、心に余裕が生まれるようです。事態を客観的に見ることができるようになったり、改善のアイデアが出てきたりすることもあるようです。

2 相手に悪意はないことを頭では理解する。
  人の気持ちを考えないで自然体でひどいことを言う人は、必ずしもあなたを根本的に否定評価しているわけではないようです。関係を断ち切るとか、どうでもよい人だと深刻に考えてはいないようです。もっとシンプルに、ただ言いたいことを言って、やりたいことをやっているだけのようです。

 そこにあなたの感情が入らないだけです。あなたからするとそのようなことを言われるということは、自分はどうでもよい人間ですぐにでも関係を断ち切りたいと思われていると感じるのですが、どうやらそうではないようです。

  例えば、卑近すぎる例を挙げますが、ケーキが家にあるとします。夫はケーキがあることを知っている。しかし、妻は夫にケーキを与えず、自分と子どもだけで食べてしまった。夫としては、そこまでケーキを食べたいわけではないけれど、自分だけが仲間外れにされていることに傷ついて、妻は自分を嫌いなのではないかと考えて悩んでしまう。

  しかし、妻は自分が食べたいから食べたし、子どもに食べさせたいから食べさせたのであり、特に夫にケーキを食べさせたくないということまで考えていないということらしいのです。夫に与えないでケーキを食べることで夫が傷つくということまで考えが及んでいないということになります。

  夫としては、自分に配慮をしないということで傷つくのですが、妻にはそのような配慮をする「能力がない」ということにすぎません。必要以上に配慮をしなかった理由を先取りして考える(自分のことが嫌いであることを知らしめようとしているのだろう等)ことはあまり意味のないことだと頭では理解すると、少しダメージは軽減されるようです。

3 我慢していないで教えてあげる
  自分が傷つくことになることを思い当たらない妻や夫に対して、自分が軽んじられたということで、悪意があるなんて余計なことを考えて怒り、反撃してしまっても、相手は何を怒っているかはわかりません。それはわからないけれど、自分が攻撃されていることははっきり認識してしまいます。つまり改善はされずに、関係だけが悪くなります。

  我慢しないで言ってみることで案外解決することが多いようです。「私だけケーキがもらえないのはとても寂しい気持ちになる。せめて、私にもケーキを食べるかどうか聞いてもらえないだろうか。」と話しかけることで解決することも多くあります。

但し、この時には冷静に事務連絡というように話す必要があります。「怒っているわけではない」とはっきり断ることも大切なスキルです。相手は、自分が非常識なダメ人間だと思われているのではないかという危機感は抱くようです。攻撃はしていないよということも言葉にすることで大分分解決するようです。

  職場でも同じような例があります。パワハラ(まがい)の指導をする上司が部下の気持ちを考えないで指導をしたのですが、部下も部下で上司の気持ちを考えない人だったのです。部下が上司に対して「そういう風に一方的に言われると、私はどうしてよいかわからなくなります。そういう風に言わないでください。」と言ったところ上司がたじたじになるということがありました。その時は、部下は変わり者ということで敬遠されるようになりましたが特に不利益はありませんでした。言ってみることが大切だということなのだと思います。

  私も、チームを組んで仕事をしていた時に、一人が自分のことを棚に上げて新人を説教ばかりしていたことがあって、「そんな無理なことを言っても仕方がないじゃないか。」とつい言ってしまったことがあります。相手はごにょごにょ言っていましたが、改善されましたし、特にその後私に対する報復はありませんでした。我慢するよりは、まっすぐに言うほうがいろいろな意味で良いようです。

  どうしても相手に対して物申すということになりますので、言う方も緊張してしまいます。そうするとどうしても勢いをつけるために怒りの力を借りてしまうということがありがちです。それではだめでしょう。ここは理性的になって、できるだけ事務的に教えてあげるということを心掛けることが必要だと思います。

4 第三者の支援

例えば職場などでは、研修をしたり、コンサルタントの助言を受けたりして、ビジネスの武器として他者との対応をスキルアップするということは可能ですし、とても効果が上がると思います。他者とのコミュニケーションが不要であるという職種はあまりないと思います。この観点からのコンサルはもっともっと普及されるべきだと思います。

しかし、家族という場面でのコミュニケーション術というのは、どうしても放置されてしまいがちです。

自分の気持ちを踏みにじるような発言をされるけれど、解決の方法が無くて苦しんでいる人は実際は多いようです。

逆にそのような発言をしてしまう方の人も、どうして自分の必要かつ正しい発言が家族に受け入れられないのか、理解できないまま孤立感を蓄積させていっているようです。家族の気持ちを理解しないで言いたいことを言ってしまう人は、気持ちを理解して言う能力が欠如しているだけという場合があるので、悪いことをするのはやめろというようなことでは解決しません。

ただ、そう言う人も結婚はしたわけです。初めから自分の気持ちを考えないでずけずけと言い出す人だということではなかなか結婚することは難しかったわけです。相手の感情を考えて、こういうことを言うと嫌われるから言わないでおこうなんてことを考えることは初めからできなかったはずです。

考えられることは、逆の思考はできるのではないかということです。つまり、相手がこうすれば喜んでくれるのではないかということを一生懸命やるということです。おそらく、一般の人間は、「こんなことをしたらわざとらしいと思われるのではないか」とか、「下心がミエミエで引かれるのではないか」とか、「かえって嫌われたりしないか」とか、相手の心を考えるために、かえってアプローチができないことが多いのではないでしょうか。

逆に相手の気持ちを考えないで、自分のしたいことをストレートにできるならばうまくいくこともあるかもしれません。つまり、その相手が喜ぶだろうということは、単に自分が喜ぶことを相手にもしてあげていただけかもしれません。それでも相手は、自分のために熱心にいろいろなことをしてくれるから親切な人かもしれない、自分のことを一番に考えてくれるかもしれないと錯覚して(?)しまうのかもしれません。

自分のやりたいことだけをしているとしても、案外人間関係で、ニーズが一致してうまくいくということはありうることだと思います。また、相手の気持ちを考えることが苦手な人も、相手といつまでも一緒にいたいという気持ちが確実にあるようです。ただその方法がわからないだけという奇妙な表現が比較的正しいように感じます。

そうだとすれば、第三者の支援があれば、相手に対して不快になることを言わないで、喜ばせる言動をすることは十分可能なのではないかと思います。ノウハウを少しずつ覚えて行けば、少なくとも現状からだいぶ改善される可能性が大いにあるように思えるのです。

現在、家庭問題の相談をする場所が極めて限られています。弁護士に相談に行っても、カウンセラー(家族療法、カップル療法などを除く)に相談に行っても、あるいは行政に相談に行っても、すぐに家族をやめなさいというアドバイスしかなされないようです。家族支援の団体もあって頑張っておられるのですが、首都圏に限られているようで、全国の相談に対応できません。

なんとか、物事を善悪に割り切らない第三者を増やして、相手のしてほしいことをしたり、相手のしてほしくないことをしないという黄金律が普及する具体的ノウハウを普及していければよいなと考えているところであります。現代社会はそれを行う主体が極めて貧弱なところに悲劇が起きやすくなっているように感じられます。

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SNSでみられるハラスメント行為、迷惑行為についての考察 現代版黄金律の構築の必要性5 [進化心理学、生理学、対人関係学]



今日のテーマから私の言いたいことはお察しの方も多いと思います。
SNSやメールの言語だけのコミュニケーションは面談のコミュニケーションに比べて過酷になる理由は、相手の感情や立場を考慮して発言しづらい環境にあるためです。目の前に相手がいないため、相手の感情を考えることがますます難しくなってしまいます。言われたら相手は傷つくだろうなとか、怒りだすかもしれないなという相手の反応を考慮できなくなるわけです。

もう一つ理由があるようです。相手の感情を考慮の外に置いていることに付け加えて、自分のぼんやり想定する相手以外の受け手を想定しているものだから、その相手の反応だけを考えて発信してしまうということです。このためますます、考えるべき人の反応に頭が回らなくなるようです。

昨今話題になって逮捕者も出たユーチューブでの不衛生な行為も同様に、世間一般の常識的な反応やお店の損害を考えることができなくなっています。このケースは特にウケを狙う、閲覧者を増やすという目的に夢中になってしまい、それ以外の考えるべきことに頭が回らなくっているのだと思います。だから、それを言っても仕方がないことかもしれませんが、彼らはお店に損害をかけようという意図もないし、損害がかかっても仕方がないやとは考えていないのだと思います。ただ、頭が回らなかったということなのでしょう。

SNSで他人を攻撃したり迷惑な行為を発信したりする人たちは、読み手として「誰」を想定しているのでしょうか。この「誰か」は、非常識であり、犯罪を誘導するような人たちなのでしょうか。

先ず、SNSを知らない方はわかりにくいのではないかと思うのですが、投稿者は誹謗中傷する相手に向けて発信している意識ではなく、この誹謗中傷投稿を喜んでくれる第三者を意識して発信しているようです。その「誰か」の共感を勝ち取りたいという意識で表現を工夫までして発信しているのです。SNSでは、そのなんらかの賞賛や共感は閲覧数や「いいね」のボタンを押した数字になって表れてきますので、自分の欲望が達成しているかどうかわかりやすくなっています。このため、つい、あたかも本能的にその数字を追い求めてしまうような感じです。

迷惑動画の配信も同様に閲覧数が表示されますので手ごたえがわかるようになっています。最初の発信の閲覧数よりも、多い閲覧数が欲しくなるような構造があり、そのためには多くの人が面白いと思うものや、面白いと思わなくても閲覧してもらえる動画を配信したくなるように、構造化されているようです。

投稿者は、閲覧数の多い配信を参考にしますし、自分なりに試行錯誤をしてなんとなく受けるパターンを皮膚感覚で覚えて、自分ができる閲覧数の増やし方を選択していきます。特に他人を引き付けるアイデアや技術のない人たちは、動画の内容を過激にしていって閲覧数を増やしていくほかないのです。迷惑な投稿や他者への誹謗中傷をする人は、閲覧数や「いいね」の数字に突き動かされて投稿をしているようです。そこに他者の感情を考慮する余裕は無いようです。

また、その投稿をすることで自分が決定的に悪い立場になるということも思い浮かばない。まさに数字依存症になってしまうような感じです。

犯罪にわたる投稿をしてしまったり、多くの人が不快になる投稿をしてしまい、学校や職場から処分を受けてしまう理由はこういう数字だけを追い求めようとする構造にあるので、投稿をする人ならば誰もが陥ってしまう可能性があるわけです。その結果、進学がだめになったり、就職がだめになったりするということもあるようです。それでも投稿しているときは、数字しか目に行かないためにそのような別の結果を想定することもできなくなっているようです。

必ずしも閲覧者が投稿を肯定的に評価しているわけではありませんが、閲覧数や「いいね」の数が伸びればそれでよいようです。それが最優先課題になってしまい、その他のことを考えることができなくなるようです。
誹謗中傷する相手が深刻に受け止めるということも、数字だけを追い求めていれば発想にすら入りません。

インターネットはとても難しい、危険に満ちたコミュニケーションツールです。自分が取り上げている相手の感情すらなかなか考慮できません。想定していないタイプの読み手もたくさんいて、その人たちがどう反応するかということはますます想定できません。うっかり友達同士の会話の延長で投稿してしまって深刻な問題を引き起こすということが増えているのではないでしょうか。そして自分の軽はずみな投稿は、事実上消すことができなくなることがあります。

子どものスマホ教室などが開催されていますが、多くの時間は子どもが被害者にならないための使い方の説明に費やされています。それも確かに大切です。しかし、より深刻な事態になるのは、子どもが加害者になる場合です。何気ない投稿で命を落とす人もいますし、投稿した者が加害者、犯罪者として一生消えない痕跡を残してしまい取り返しがつかなくなることもあるわけです。

私は、他の理由もあり、子ども(少なくとも中学生くらいまで)が投稿できる形でのインターネット環境は作るべきではないと思っています。学校の中だけのインターネト環境をつくり、保護者など大人が監視できるようにする必要があると思います。どういう投稿が、どのような理由でやってはだめなのか、それを発信するためにはどのように修正すればよいか、一つ一つ覚えていく必要があると思います。こういう環境を実現するためには、家庭だけで気を付けても限界があるようです。地域全体で話し合う必要が本当はあるのだと思います。

十分な練習期間を経てインターネット環境に入るということが理想なのだと思います。便利だということで弊害がクローズアップされることなく普及してしまった今となっては、なかなか難しいことであることと思います。

また、大人もどこかでインターネットの講習会を受講することが理想のような気がします。

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「いじめ」の解消をどのように進めればよいのか  他者に対する貢献の喜びを教えること 現代版黄金律の構築の必要性4 [進化心理学、生理学、対人関係学]



「いじめ」という言葉は注意が必要です。世間一般で「いじめ」と言えば、一人の子どもを大勢が取り囲んで暴力をふるったり、嫌がらせをしたりという意味だと思います。ところがいじめ防止対策推進法では意味が全く異なります。「法で言ういじめ」は、同じ学校に通う児童生徒などから、心理的、物理的に影響が与えられる行為で、本人が苦痛を感じるものということであれば全部「いじめ」になります。

1対1の喧嘩でもいじめになりますし、先に手を出してきた方に対して反撃してもいじめになります。問題行動を起こした相手を注意することもいじめになりかねません。一緒に遊ぼうと言われて他の子と約束があるからダメだといってもいじめにあたるわけです。いじめの内容が広すぎるということには様々な弊害があるため日弁連も意見を上げているのですが、改正されたりはしていません。

但し広い定義には、メリットもあります。学校はいろいろ言い訳をしていじめはないと言いがちです。世間的な意味でいじめがありながら、「うちの学校ではいじめをする児童はいない」という教育者にあるまじき発言をする校長がいる学校も存在しています。こういう様々な理屈をつけていじめの対処をしないことを防止するために広い意味でいじめをとらえたということのようです。そしていじめを小さな芽のうちに一つ一つ丁寧になくしていくことによって、重大問題を引き起こさないようにしようという理想があったのだと思います。

しかし、こんな広範囲な意味をみんないじめとしておきながら、「法のいじめ」をしてはらならないとか、「法のいじめ」を早期に予防しようとか言っても、実情にそぐわないわけです。世間的な意味での過酷ないじめについてならば、してはならないとか早期に予防ということは適切な表現だと思います。しかし、法の定義する広範な意味のいじめは、必ずしもしてはらないとか早期に予防とかが適当ではないこともあります。法律は「二つのいじめの意味」を混在して規定した未整理な状態であると感じられます。

法の広いいじめは、相手の感情を基準としますので、現代版修正黄金律である
・ 相手のしてほしいことをしよう
・ 相手のしてほしくないことをしないようにしよう
という観点からは正しいとは思います。

しかし相手の感情を読むことはとても難しいことです。その上、悪意が無くても、偶然でも相手が嫌な気持ちになることをしてはならないとか、早期に予防しようとか言われても、現実問題何をしてよいのか現場ではわからないでしょう。
遊ぼうと言われたら遊ばなくてはならないとしてしまうと、先に約束した方に対するいじめになりかねません。子どもたちにこうすることが良いことだ、こうしてはならないというルール設定ができない状態と言わざるを得ません。法律がいじめを減少させるとは思えないというのが本音です。

学校も広いいじめの定義に従って指導するわけにはいかないと考えているようです。実質的にそれぞれの学校、それぞれの教師の独自のいじめの解釈で運用されているということが実情で、その結果、「うちの学校にはいじめをするような児童はない」という発言をする校長が出てきてしまうわけです。校長でありながらいじめ防止対策推進法を理解していないわけです。

またいじめを悪と決めつけるために、いじめをした児童生徒は加害者になってしまい、一方的に指導や処分の対象としか見られなくなる危険が出てきてしまいます。これではいじめの実態からもかけ離れてしまう場面も多くなるでしょう。とくに未熟で、何に気を付けて行動するか定まらない児童生徒という特性や、自分の近くの事情しか考慮できない発達上の限界があるという特性にそぐわない指導になるほかありません。

特に過酷ないじめを起こしてしまわないためには、初期のいじめ、からかい、いじりを程度が小さいうちにやめさせる必要がありますが、悪であると決めつけず、児童生徒の人格の向上のための良い機会だととらえて一緒に考える絶好の機会にするべきです。相手の気持ちを考える訓練と、相手の気持ちと他の事情をどう調整するかということを一つ一つ覚えていく貴重な機会です。自分の言動が相手を喜ばせたり安心させたりすることの喜びを感じてもらう方向で指導をするべきだと思います。

これができないまま、強い方が指導を受けたり、親の影響力が強い方が被害者として扱われたりしてしまうと、子どもたちはあまりにも早く世間の不条理を知ってしまうことになりかねません。

根本的には、相手の気持ちを考えないで行動してしまうことを、悪であり否定評価の対象とだけ考えることを止めるべきです。そのような行動をしてしまうことは、うっかりすると大人だってあるということは、前回の記事に記載した通りです。ましてや、自己中心的で、他者の気持ちに立って行動することが苦手な発達段階の子どもの行為を善と悪に塗り分けることは科学的ではありません。

こまめにどんな場合、何に気を付けて、どう気をつけて行動すればよいかという経験値を丁寧に教えていくことが一番大切なことだと思います。特に、自分の言動で相手に不愉快な思いをさせずに物事を解決したり、相手から感謝されたり、相手とさらに強いつながりができるということの喜びを教えていくということを主にしていくべきだと私は思います。これなくして学校教育は成り立たないはずです。

具体的には、担任教諭の指導力の強化であり、そのためには担任教諭の立場の強化が必要です。

学校の人間関係も人間関係である以上、秩序が必要です。また人間は無意識に秩序を求める動物のようです。児童生徒という若年者の場合は、抽象的な法律や道徳によって秩序を作ることはなおさら困難です。やはり担任がクラスの秩序を形成し、秩序者の権威によって、小さないじめの芽を丁寧に積んでいくことがいじめ撲滅の唯一の方法だと私は考えています。権威者として人間が秩序を形成しようとする性質を利用して、先ほど述べたように、他者の気持ちに配慮すること、他人が嫌がっていることをしないことで、お互いが安心して暮らせることがとても楽しいことを教えていくこと、やがてはそれが自分の身を守ることだということを教えることが初めてできるのだと考えています。



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