弁護士の机の上
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仙台弁護士会の弁護士のブログです。労災(過労死、過労自死含む)、自死対策、面会交流、子どもの連れ去り問題、夫婦再生、家族再生、対人関係等。土井法律事務所(宮城県)
ドイホー
2024-03-15T13:16:12+09:00
ja
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妻側からの家族再生の相談が急増 その心配な背景
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-03-15
3月に入って、無料相談会や事務所へのこのブログを読んでの面談相談で、妻側が夫に対して家族再生を提案しているという事例が増えてきています。本来の対人関係学とは、紛争予防にとどまるものではなく、家族などの人間関係を円滑にして、みんなが安心して生活をするための学問です。こういった家族再生の相談に対応するためのものですから、対人関係学を屈指してご一緒に考えていきます。とても楽しく頭を使えるわけです。再生の相談の中では、何が相手から安心感を奪っているかを探求し、これまでの成功例を踏まえながら、これまでの自分の言動をどのように修正するか、お互いに尊重しあう関係にどのように誘導していくかということを考えていきます。そして、再生が必要な度合い、つまり、逆にうまくいかない程度によって、法律相談で終わって当事者で解決するパターン、私が代理人になって調停や話し合いをするパターンとバリエーションがあります。私のところにこのような相談が多く寄せられることは、私としてはありがたいことです。しかし、いろいろと心配なことが見え隠れしています。<弁護士に相談に行くと 夫婦再生希望なのに離婚を勧められる>これは、前々から、私のところにたどり着いた方がよく言っていることです。何人もの弁護士に相談に行くのですが、決まって最後は弁護士から離婚する場合の条件について話を詰めるように言われるというのです。恐ろしい話だと思います。食事をしにレストランに入ったのに、「うちはデザートしか作ることができませんので、ぜひパフェを注文してください。」と言っているようなものだと思います。この人たちは、夫婦の再生については相談に乗るつもりが無いようです。離婚の法的手続きについては勉強すれば誰でもわかりますが、再生については様々な事例と向き合い、様々考えなければ相談に乗ることができません。相談者の相談したいことではなく、自分ができる方法で依頼を受けるということですから、無理を通していることになると私は思います。そもそも再生のノウハウが無くて、離婚の調停や裁判を維持することが本当にできるのか、根本的な疑問もあります。離婚というのは、数々のライフイベント調査によって、人間の人生にとって最上級の精神的ダメージを受けることだとされています。それを自分が再生のノウハウがないからと言って、依頼者の意思に反して離婚に誘導するということは、依頼者にとっても不誠実ですし、相手方という人権主体で..
家事
ドイホー
2024-03-15T13:16:12+09:00
3月に入って、無料相談会や事務所へのこのブログを読んでの面談相談で、妻側が夫に対して家族再生を提案しているという事例が増えてきています。
本来の対人関係学とは、紛争予防にとどまるものではなく、家族などの人間関係を円滑にして、みんなが安心して生活をするための学問です。こういった家族再生の相談に対応するためのものですから、対人関係学を屈指してご一緒に考えていきます。とても楽しく頭を使えるわけです。
再生の相談の中では、
何が相手から安心感を奪っているかを探求し、
これまでの成功例を踏まえながら、
これまでの自分の言動をどのように修正するか、
お互いに尊重しあう関係にどのように誘導していくか
ということを考えていきます。
そして、再生が必要な度合い、つまり、逆にうまくいかない程度によって、法律相談で終わって当事者で解決するパターン、私が代理人になって調停や話し合いをするパターンとバリエーションがあります。
私のところにこのような相談が多く寄せられることは、私としてはありがたいことです。しかし、いろいろと心配なことが見え隠れしています。
<弁護士に相談に行くと 夫婦再生希望なのに離婚を勧められる>
これは、前々から、私のところにたどり着いた方がよく言っていることです。何人もの弁護士に相談に行くのですが、決まって最後は弁護士から離婚する場合の条件について話を詰めるように言われるというのです。
恐ろしい話だと思います。
食事をしにレストランに入ったのに、「うちはデザートしか作ることができませんので、ぜひパフェを注文してください。」と言っているようなものだと思います。
この人たちは、夫婦の再生については相談に乗るつもりが無いようです。
離婚の法的手続きについては勉強すれば誰でもわかりますが、再生については様々な事例と向き合い、様々考えなければ相談に乗ることができません。
相談者の相談したいことではなく、自分ができる方法で依頼を受けるということですから、無理を通していることになると私は思います。
そもそも再生のノウハウが無くて、離婚の調停や裁判を維持することが本当にできるのか、根本的な疑問もあります。
離婚というのは、数々のライフイベント調査によって、人間の人生にとって最上級の精神的ダメージを受けることだとされています。それを自分が再生のノウハウがないからと言って、依頼者の意思に反して離婚に誘導するということは、依頼者にとっても不誠実ですし、相手方という人権主体である人間に対しても冒涜のような気がしてなりません。
少なくとも
①離婚をしたい理由が、主として相手の言動に起因しているというよりも、本人の精神的な状態を反映していることではないこと
②具体的な破綻事由があり、その存在の裏付けられており、程度が明らかなこと
③回復の可能性が無いこと
という条件をクリアしてから離婚の選択をするべきだと思います。
特に、夫婦に子どもがいる場合は
④子ども利益を考慮しても離婚以外に選択肢が無いこと
⑤両親の離婚による子どもの不利益を軽減するべき行動を計画すること
があって離婚という選択が支持されるべきだと思うのです。
国民の皆さんは注意して弁護士に相談するべきです。
このような考えを持っている弁護士は少数派になってきているようです。少なくとも簡単にアクセスできるわけではなさそうです。
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面会交流手続きにおける、連れ去り母の精神的不安定を理由に、申立を取り下げるべきかについての一考察
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-02-27
面会交流調停というのは、親同士が離婚の前後に関わらず別居した場合、子と別居している親と子どもを面会させるための家庭裁判所の手続きです。多くは母親が子どもを連れて別居するので、父親が母親を相手に申し立てるという形を取ります。私が担当したのは父親の方が幾分多いですが、母親が別居親として面会交流調停を申し立てる際の代理人になることも少なくありません。父親が申立の場合、特に母親による子どもを連れての逃亡のような形の別居の場合、母親が精神的不安定になっている場合が少なくありません。面会に対して激しい抵抗を示すというより、子どもが父親と面会をすることに病的な反応をするという感じです。実際に母親の方が自ら様々な診断書を裁判所に提出して、自分が精神的不安定であることを主張します。調停は、申立人と相手方が同じ部屋で顔を会わせることはめったにありません。交代で調停委員と話をするわけです。だから申立人の代理人も、調停中の相手方の様子はわかりません。それでも、調停委員や裁判官を通じて、様々な情報が入ってくることがあります。取り付く島が無く一方的に話し続ける方、30分間泣きっぱなしでなだめるだけで期日が終わったとか、言っていることがおよそ成り立たない荒唐無稽な話を真顔で行うとか、メンタル面に問題があるのではないかという事情がうかがわれる場合が少なくありません。調停で話し合いがつかない場合は、面会交流の場合も審判になります。審判になれば裁判所は、最終的には、面会交流阻害事由が無いと判断した場合は、面会実施の審判をすることになります。ただ、審判の効果ですが、強制力はないため、審判で面会交流を命じても面会交流が実施される保証にはなりません。それにもかかわらず、相手方に対しての心理的影響が大きいため、このまま審判を出しても良いか関係者一同が躊躇することがあります。子どもを連れ去った妻に対して、憎悪感情しかない場合は、妻のメンタルが悪化しようと「知ったこっちゃない」と割り切ることができます。しかし、家族再生を求めている場合で、妻が面会交流さえ応じないために、裁判所の決定を得る場合、常に葛藤が生じてしまいます。妻のメンタルが悪化したため、今や密室となっている母子の家の中で、子どもに対して悪い影響が生まれることも考えなければなりません。相手方の心情の考慮を最優先してしまうと、調停や審判を取り下げるという選択肢が出てきます。ケースバイケースなので一般化す..
家事
ドイホー
2024-02-27T16:34:43+09:00
面会交流調停というのは、親同士が離婚の前後に関わらず別居した場合、子と別居している親と子どもを面会させるための家庭裁判所の手続きです。多くは母親が子どもを連れて別居するので、父親が母親を相手に申し立てるという形を取ります。私が担当したのは父親の方が幾分多いですが、母親が別居親として面会交流調停を申し立てる際の代理人になることも少なくありません。
父親が申立の場合、特に母親による子どもを連れての逃亡のような形の別居の場合、母親が精神的不安定になっている場合が少なくありません。面会に対して激しい抵抗を示すというより、子どもが父親と面会をすることに病的な反応をするという感じです。実際に母親の方が自ら様々な診断書を裁判所に提出して、自分が精神的不安定であることを主張します。
調停は、申立人と相手方が同じ部屋で顔を会わせることはめったにありません。交代で調停委員と話をするわけです。だから申立人の代理人も、調停中の相手方の様子はわかりません。それでも、調停委員や裁判官を通じて、様々な情報が入ってくることがあります。取り付く島が無く一方的に話し続ける方、30分間泣きっぱなしでなだめるだけで期日が終わったとか、言っていることがおよそ成り立たない荒唐無稽な話を真顔で行うとか、メンタル面に問題があるのではないかという事情がうかがわれる場合が少なくありません。
調停で話し合いがつかない場合は、面会交流の場合も審判になります。審判になれば裁判所は、最終的には、面会交流阻害事由が無いと判断した場合は、面会実施の審判をすることになります。
ただ、審判の効果ですが、強制力はないため、審判で面会交流を命じても面会交流が実施される保証にはなりません。それにもかかわらず、相手方に対しての心理的影響が大きいため、このまま審判を出しても良いか関係者一同が躊躇することがあります。
子どもを連れ去った妻に対して、憎悪感情しかない場合は、妻のメンタルが悪化しようと「知ったこっちゃない」と割り切ることができます。
しかし、家族再生を求めている場合で、妻が面会交流さえ応じないために、裁判所の決定を得る場合、常に葛藤が生じてしまいます。妻のメンタルが悪化したため、今や密室となっている母子の家の中で、子どもに対して悪い影響が生まれることも考えなければなりません。
相手方の心情の考慮を最優先してしまうと、調停や審判を取り下げるという選択肢が出てきます。
ケースバイケースなので一般化することはできません。しかし例えば、変な応援団が妻側についている場合、医師だったり、教員だったり、行政だったりが、一方的な妻側の情報だけで、夫婦間の対立をとらえた上で夫を全面的な悪と決めつけて面会交流阻止を主張する場合もあります。こういう人たちは、十分な考察が無く正義感という感情によって、子どもの利益も考えずに、つまり無責任に面会交流阻止を叫んでいるわけです。こういう場合、調停や審判申し立てを取り下げてしまうと、「やはり夫は極悪人であり、妻の保護のために、面会交流を阻止できた。」となり、子どもは現状からさらに父親から物理的にも心理的にも遠ざかってしまいます。「極悪人を親に持つ自分」という観念を植え付けられてしまうわけです。
そうして、後で、本来ならば父子のきずなが復活しても良い時期になっても、「自分は父親から取り下げという形で見捨てられた。」という気持ちを抱いたまま、父親との交流の機会が未来永劫失われ、わだかまりを抱えたまま一生を送ることも考えすぎかもしれませんが、考えるべきだと思うのです。
子どもは母親(同居親)の所有物ではありません。母親を通しての評価で父親を考えなくても良いはずです。自分が同居中に直接体験した人間として、母親とは別に関係を構築することはむしろ自然なのではないでしょうか。このように、子どもを一人の人間として見た場合は、夫婦間で葛藤があったとしても子どもが別居親から愛される権利を誰も奪うことはできないと思うのです。
面会交流審判が、実際の面会交流につながらないことも良くあります。第三者である裁判所から見れば、「出しても実現しないなら出さなくても良いのではないか」と思われるかもしれません。しかし、別居親の気持ちの問題だけでなく、面会交流を実施せよという裁判所の判断が下りた事実は、妻の一方的な言い分を信じている子どもにつながる人たちに考えるきっかけを与えるのではないでしょうか。中には、子どもの世話をしている機関であるにもかかわらず、妻の一方的な話をうのみにして、夫を子どもから遠ざけようとする人たちもいます。子どもがいざというときに、父親は救いの手を差し伸べることすらできない状態になっていることもあります。こういう人たちに、面会交流審判が出ていることはとても威力を持つことになると思うのです。もっとも使い方にもよるでしょう。
考えてみれば、面会交流の調停や審判は、子どもの監護の方法についてどうあるべきかということを定める手続きです。子どもの利益をやはり最優先するべき手続きであるという大前提は崩すべきではないと思うのです。
確かに母親は精神的不安定である。しかし、審判によってどの程度悪い影響が生じるかは、実際は予測することができないと思うのです。悪化するかもしれませんがしないかもしれません。悪化したとしても、それほど重大な結果となるのか、つまり程度の問題もわからないとしか言いようがありません。
もちろん、父親と会えないことで子どもの将来が暗いものになると決まったわけでもありません。しかし、実際に父親と会えず、一方的に母親の評価を通した父親像しか持てない場合、子どもに父親を拒否する行動傾向がみられることが多いことは確かです。母親の話を真に受けなくても、母親の意をくんだ行動をしようとすることはとても多いです。
実際に父親(別居親)と交流できないことによって、程度の差はあれ、子どもに対してマイナスの影響が生まれることも確かだと思われます。
親としては、例えば発がん性の疑いのある物質だとわかれば子どもに食べさせないようにしようと思うのではないでしょうか。こちらのパズルをすれば、成績が上がるというならば、やらせてみようと思うわけじゃないですか。少しでも良い方向に、お金がかかったとしても子どものためにしようと思うのではないでしょうか。
裁判所の審判を求める場合は、子どもの育て方に対して、両親が意見を別にする場合であり、裁判所が両親に変わって結論出すということになるはずです。そうだとしたら、子どもの利益を最優先して、子どもが健全な成長を遂げられない可能性を少しでも排除する方向で明確な結論を出すべきではないか。多少それで同居親の精神的問題が生じたとしても、そのことを子どもの健全な成長に優先させるべきではないと今のところ考えております。
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妻からのDV事案が増加している 3 なぜ夫はDVに対抗できないのか 相談窓口の設置は急務である
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-02-22-1
「男性は他者を支配したい生き物であるから、相手の支配を目的とするDVは男性の属性だ」とする考え方があるようです。腕力が強く、筋肉量が多い男性の方が暴力的な手段で相手を屈服させようとするとか、女性は人間関係の調和それ自体に価値を感じるため仲間の調和が第一になるが、男性は人間関係の外に目的を持つので仲間の調和以上の目的を持つため、仲間との関係が後景に追いやられるなどの考え方があるようです。しかし、それは古い考え方です。前に述べたように、DVの内容には男女差はありません。人間が他者を攻撃する場合は、自分が強いから攻撃するというよりも、反撃により致命的な被害を受けないと感じた場合に、怒りという感情が生まれ攻撃という行動が起きるようです。つまり、攻撃を受け入れてしまうからDVが繰り返されると言ってよいと思います。DVを受けている男性は、争うことを嫌う人が多いです。一般的に争いを好まないというわけではないにしても、妻と争うことができない人が多いです。「どうしてそんなこと言われて黙っているのだ?」と疑問が起きるほど、反論や反撃をしません。どうして争うことができないかについては、いろいろな理由があるようで、この点を分析することにはあまり意味がないと感じています。むしろ、通常の男性であれば、タイミングが悪いと反撃ができなくなり、DVを受け続けることが誰にでもあるというように考えた方が良いと思います。早い段階に適切な対応を取れば、場合によっては第三者や裁判所の力を借りたりして、激しいDVがおさまったり、何らかの損害が生じる前に解決することもありうる話です。しかし、前回や前々回にもお話しした通り、DVを原因とする精神破綻や自死は、むしろ夫の方が多くみられるようです。その理由は、一つに相談機関が無いということ、なかなか知人に相談することができない事柄であるため、公的な相談機関は絶対に必要です。ただ、DVの本質を安易に男性の属性の支配欲だ等というドグマに陥っていたのでは相談にはならないでしょう。また、「男性なのだから妻のDVをやめさせろ」というこれまたDVの本質を理解せず、また女性は腕力で従わせろとでもいうような指導が役所の相談所でなされたということの報告も受けています。こういう人が女性のDV相談を受けているのですから、「子どもを連れて逃げろ」しか結論は出てこないわけです。この配偶者暴力の防止に関する法律、いわゆるDV法は男女の区別があり..
家事
ドイホー
2024-02-22T09:05:58+09:00
「男性は他者を支配したい生き物であるから、相手の支配を目的とするDVは男性の属性だ」とする考え方があるようです。腕力が強く、筋肉量が多い男性の方が暴力的な手段で相手を屈服させようとするとか、女性は人間関係の調和それ自体に価値を感じるため仲間の調和が第一になるが、男性は人間関係の外に目的を持つので仲間の調和以上の目的を持つため、仲間との関係が後景に追いやられるなどの考え方があるようです。
しかし、それは古い考え方です。前に述べたように、DVの内容には男女差はありません。人間が他者を攻撃する場合は、自分が強いから攻撃するというよりも、反撃により致命的な被害を受けないと感じた場合に、怒りという感情が生まれ攻撃という行動が起きるようです。つまり、攻撃を受け入れてしまうからDVが繰り返されると言ってよいと思います。
DVを受けている男性は、争うことを嫌う人が多いです。一般的に争いを好まないというわけではないにしても、妻と争うことができない人が多いです。「どうしてそんなこと言われて黙っているのだ?」と疑問が起きるほど、反論や反撃をしません。
どうして争うことができないかについては、いろいろな理由があるようで、この点を分析することにはあまり意味がないと感じています。むしろ、通常の男性であれば、タイミングが悪いと反撃ができなくなり、DVを受け続けることが誰にでもあるというように考えた方が良いと思います。
早い段階に適切な対応を取れば、場合によっては第三者や裁判所の力を借りたりして、激しいDVがおさまったり、何らかの損害が生じる前に解決することもありうる話です。
しかし、前回や前々回にもお話しした通り、DVを原因とする精神破綻や自死は、むしろ夫の方が多くみられるようです。その理由は、一つに相談機関が無いということ、なかなか知人に相談することができない事柄であるため、公的な相談機関は絶対に必要です。ただ、DVの本質を安易に男性の属性の支配欲だ等というドグマに陥っていたのでは相談にはならないでしょう。また、「男性なのだから妻のDVをやめさせろ」というこれまたDVの本質を理解せず、また女性は腕力で従わせろとでもいうような指導が役所の相談所でなされたということの報告も受けています。こういう人が女性のDV相談を受けているのですから、「子どもを連れて逃げろ」しか結論は出てこないわけです。
この配偶者暴力の防止に関する法律、いわゆるDV法は男女の区別がありませんが、実務的には男性は冷遇されています。鼻で笑われて帰るように促された例も聞いています。
行政が真面目に取り組んでいないことを端的に表しています。
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妻からのDV事案が増加している 2 夫の対処方法
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-02-22
対応方法ですが、明らかな精神疾患や、精神影響を与える内科婦人科疾患の場合は、治療をして原因となる疾患の手当てをすることが第一とするべきだと思います。問題は精神疾患とまでは言えない場合です。一つは、先ほどお話ししたように、相手のDVを良く分析し、自分に対して理由なく攻撃しているのではなく、自分をつなぎ留めたいということが相手も気が付かない本当のところだという認識を持つということです。これだけでもかなり受け止め方が変わってきます。相手方は日常的に心理的圧迫を受けているうちに、自分が悪いから相手方を怒らせているのではないかという自責の念を抱いたく場合やとにかく自分は、「容赦ない攻撃をされるような人間」なのだと思わされて、絶望感に苦しめられるようになります。そして、緊張状態が高まる中で、睡眠が十分とれないこととなり、その結果考える力がほとんどなくなり、考えることができなくなるために、つまみ食いのようにいろいろなことに不安を感じるようになり、優先関係を判断できなくなり、やらなくても良いこと逆効果になることを衝動的にやってしまうという現象がみられてきます。このため、それ以外の理由を問題提起することによって、自分が悪いから攻撃されるのでも、自分が攻撃されて当たり前の人間でもないことに気が付くことができるようになることが多いです。ここで、「相手のほうこそ『悪い』のだ」という観念を植え付けようとする支援者がいるのですが、それは自分は悪くなく、防ぎようのない攻撃を受け続けているということを述べているの等しく、「自分の苦しみは対応方法がないのだ」という絶望感を抱くようになり、終わらない精神的苦痛が始まる場合があるので、くれぐれも注意するべきです。次の対応方法は、こちらから相手を先行して安心させることです。また、相手を不安にする言動をやめるということも大切です。これらのことは無意識に行っていることなので、点検が必要です。もしかすると、相手を何らかの理由で馬鹿にしている態度をとっているとか、相手を孤立させる態度をとっているのに、それに気が付かない場合があります。そうであれば「馬鹿にしていないよ」というよりも、感謝や尊敬の言葉を発する方が無難です。また、相手に何かを任せる、お願いするということも、尊敬を伴って行うとうまくいくことがあります。おだてるということです。逆に、掃除や片付けができない相手に対して、眉間にしわを寄せて自分で片付け始める..
家事
ドイホー
2024-02-22T09:05:12+09:00
対応方法ですが、明らかな精神疾患や、精神影響を与える内科婦人科疾患の場合は、治療をして原因となる疾患の手当てをすることが第一とするべきだと思います。
問題は精神疾患とまでは言えない場合です。
一つは、先ほどお話ししたように、相手のDVを良く分析し、自分に対して理由なく攻撃しているのではなく、自分をつなぎ留めたいということが相手も気が付かない本当のところだという認識を持つということです。
これだけでもかなり受け止め方が変わってきます。
相手方は日常的に心理的圧迫を受けているうちに、
自分が悪いから相手方を怒らせているのではないかという自責の念を抱いたく場合や
とにかく自分は、「容赦ない攻撃をされるような人間」なのだと思わされて、絶望感に苦しめられるようになります。
そして、緊張状態が高まる中で、睡眠が十分とれないこととなり、その結果考える力がほとんどなくなり、考えることができなくなるために、つまみ食いのようにいろいろなことに不安を感じるようになり、優先関係を判断できなくなり、やらなくても良いこと逆効果になることを衝動的にやってしまうという現象がみられてきます。
このため、それ以外の理由を問題提起することによって、自分が悪いから攻撃されるのでも、自分が攻撃されて当たり前の人間でもないことに気が付くことができるようになることが多いです。
ここで、「相手のほうこそ『悪い』のだ」という観念を植え付けようとする支援者がいるのですが、それは自分は悪くなく、防ぎようのない攻撃を受け続けているということを述べているの等しく、「自分の苦しみは対応方法がないのだ」という絶望感を抱くようになり、終わらない精神的苦痛が始まる場合があるので、くれぐれも注意するべきです。
次の対応方法は、こちらから相手を先行して安心させることです。また、相手を不安にする言動をやめるということも大切です。これらのことは無意識に行っていることなので、点検が必要です。もしかすると、相手を何らかの理由で馬鹿にしている態度をとっているとか、相手を孤立させる態度をとっているのに、それに気が付かない場合があります。そうであれば「馬鹿にしていないよ」というよりも、感謝や尊敬の言葉を発する方が無難です。
また、相手に何かを任せる、お願いするということも、尊敬を伴って行うとうまくいくことがあります。おだてるということです。逆に、掃除や片付けができない相手に対して、眉間にしわを寄せて自分で片付け始めることは、相手からすると自分を否定評価しているということを意味しますので、要注意です。包丁をかざして「やめろ」と脅かされた人が複数人います。
それからレクリエーションも大事です。高いレストランなどでなくて構わないので、理由をつけて誘うことはするべきだと思います。
相手を安心させる戦略をするためには、相手を観察する視線は上からであるべきです。「自分が家庭をうまくまとめるのだ」という意識で行う必要があります。そうでないと、怖くて提案できないし、何か自分が卑屈になってこびへつらっているようで気がめいってしまいます。
相手を大切にしているというメッセージを言葉にする必要があります。葉が浮くようなセリフこそ大切です。そうでなければ伝わらないからです。感謝や尊敬の気持ちを言葉に出すとよいでしょう。そんな気持ちを持てというのではありません。言葉を発するということです。心なんてものは後からついてくるものだと心得ましょう。
それでもうまくいかないことも多いです。あまりにもうまくいかない場合は家庭裁判所に調停を申し立てるということも効果がある場合が確認されています。ギャンブル的な要素もあります。つまり、それでうまくいく場合もあるのですが、逆に離婚の話になっていく危険もあります。
最後の手段という覚悟は必要かもしれません。
大事なことは夫婦関係調整調停(円満)という調停を申し立てるということです。夫婦関係調整調停(離婚)になってしまうと、離婚調停になってしますからです。ただ、調停の事件名だけでなく、具体的にどういうことをどう改めてもらいたいか補充書面を出すべきです。その書面で、あくまでもこれからもずっと一緒にいたいためのアクションだということをアピールするわけです。
今後の人生を左右することですから、弁護士に書面にしてもらうことも選択肢に入れるべきだと思います。但し、離婚の事件の経験しかない弁護士もいるので、家族再生をキーワードにしている弁護士を探す努力は必要です。
調停を申し立てると、しばらくして家庭裁判所から申立書の副本が相手の元(同居している場合はその家)に送られてきます。相手がこの書類を見て、申立てがあったことを知ったことによって、態度を改めることがあるという実績があります。問題が解消されるのであれば調停を取り下げるという選択肢も生まれます。調停は何回でも申し立てることができます。
家庭裁判所でも、こちら側が行う努力の方向は、一言で言って、「相手を安心させること」です。あとは相手方の心情を聞きながらその事案に適した安心させる方法を構築していくことだと思います。第三者を交えて話し合いをすることによって、相手に物を考える場を提供するということになるわけです。
ただ、DVを受けている場合、妻からDVを受けているときも、解決の方向が見えず、単純に右肩上がりに解決していくということはありません。どうしても耐えることができずに、精神的に破綻したケースも少なくありません。無理はしないことです。むしろ、離婚という選択肢を常に持ち続けることの方が長持ちするようです。もちろん離婚とか別れるとか終わりだという言葉を相手に使ってはなりません。
その場合精神的に破綻することを回避することを最大の目標にするということを忘れないでください。大変残念な話ですが、家庭裁判所の手続きでは、子どもとの関係では女性が有利になっています。乳幼児の頃のかかわりで、現在では男性と女性とそれほど関り度合いに差がないご家庭が増えています。また、母親が精神的に不安定のために父親のかかわりが多いケースもあります。それにもかかわらず、親権者は圧倒的に母親になる場合が多いです。
このため、夫からすると、離婚してしまうと子どもたちに会えなくなるという危機感を持ち、無理をして離婚を回避しようとするケースがあります。あるいは、責任感から自分が家族を手直そうという気持ちを強く持ってしまったという事情もあったかもしれません。
このケースでは、夫は自死しました。
その後夫のご両親が相談に来て知った事案でした。
子どもたちにとって、一時的に父親と別離することは、確かにもしかすると取り返しのつかない成長上の不利益を被る危険はあります。しかし、父親の命が無くなってしまうと、それこそ本当に取り返しのつかない事態になってしまいます。子どもたちのためにも生き続けるということを最優先にしなくてはなりません。
この事例は、母親が子どもに過酷にあたる行為もあり、それが夫としては一番辛かったようです。
精神的に破綻するかどうかは自分ではわかりません。どこまでならば大丈夫かということも確かなことは誰に言えません。もし、妻や夫の行為によってそれが辛い、毎日暗い気持ちになっている、解決不能感を持っているならば、あるいはそのことを考えて眠ることができないとか、自分の行為の記憶が亡くなっているということがあるのであれば、他者に相談してほしいと思います。
他者から見て、精神科で診察を受けるべきだとか、入院が必要だということは、自分で判断するよりわかります。
あなたは離婚という選択肢を持っていますか。常にそれを点検してください。メンタルが破綻した場合は離婚という選択肢が無くなり、解決不能の問題を解決しようと資するようになります。相談するべき時期だと思います。
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妻からのDV事案が増加している 1 どのようなDVがどうやって起きるのか
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-02-21
ここ数年間、離婚訴訟や相談事例で、夫が妻からDVを受けている事案を切れ目なく担当している状態です。DVの内容は、暴力(殴る、蹴るが中心)間接暴力、(ドアを大きな音を立てて勢いよく閉めるとかコップを投げて壊すとか))多いのは暴言(恐喝をする時のような相手の人格を否定しきるような暴言)子ども(赤ん坊)に対する危害予告不貞家庭内での無視、会話の拒否夫の自由になるお金がない状態にする夫の親戚、友人や取引相手との交際などの妨害GPSの発信の強要こんな感じで、その事例によってさまざまです。男女に違いは無いようです。令和の夫は、妻からこのような仕打ちをされても、怒らないし、是正を要求することもあまりしない。他者ともあまり相談しない(できない)。ストレスの発散もできず、ただ耐えている状態です。「男なんだから厳しく対応すれば良いじゃないか。」という反応はまさに昭和の反応であり、女性の生活を大切にしない時代遅れの発想です。以前にもこのような相談が無かったわけではないのです。ただ、これまでのケースは、奥さんは明らかに精神疾患を抱えており、医療機関の受診を継続していたり、入院することになったりという感じでした。最近の妻のDVにも何らかのメンタル上の問題を匂わせることもあるのですが、精神病を発症しているわけではなく、少なくとも仕事をきちんと行っていて、日常的な社会生活を破綻なく送っている人がほとんどです。これまでのDVの理解は、DV行為者は配偶者を支配することを目的として、身体的虐待や精神的虐待をして相手を無力化させるという意識的な活動だと理解されていました。しかし、ここで分析がとどまっていては穏便な解決を図ることができません。どうして「支配」しようとするのか、なぜそのような方法を身に付けたかなどについて考察をしていません。従来の理論は、男女の機微についてあまりにも無知であり、机の上で現象面だけをなぞるだけの説明だと感じてなりません。ここで止まる原因は、DV行為者が、特別な人間であり、生まれながらの人格を持っているということで切り捨てられているということです。DV行為も普通の人間の感情の延長線にあり、ある要因があって相手を支配しようと見える行為を止めることができない状態なのだと考えるべきです。私も程度の差こそあれ同様の問題行動を起こしている可能性があるのだと考えるべきだと思います。特に日本では、アメリカの学者の分析対象となる極端なDV事案..
家事
ドイホー
2024-02-21T14:54:49+09:00
ここ数年間、離婚訴訟や相談事例で、夫が妻からDVを受けている事案を切れ目なく担当している状態です。
DVの内容は、
暴力(殴る、蹴るが中心)
間接暴力、(ドアを大きな音を立てて勢いよく閉めるとかコップを投げて壊すとか))
多いのは暴言(恐喝をする時のような相手の人格を否定しきるような暴言)
子ども(赤ん坊)に対する危害予告
不貞
家庭内での無視、会話の拒否
夫の自由になるお金がない状態にする
夫の親戚、友人や取引相手との交際などの妨害
GPSの発信の強要
こんな感じで、その事例によってさまざまです。男女に違いは無いようです。
令和の夫は、妻からこのような仕打ちをされても、怒らないし、是正を要求することもあまりしない。他者ともあまり相談しない(できない)。ストレスの発散もできず、ただ耐えている状態です。
「男なんだから厳しく対応すれば良いじゃないか。」という反応はまさに昭和の反応であり、女性の生活を大切にしない時代遅れの発想です。
以前にもこのような相談が無かったわけではないのです。ただ、これまでのケースは、奥さんは明らかに精神疾患を抱えており、医療機関の受診を継続していたり、入院することになったりという感じでした。
最近の妻のDVにも何らかのメンタル上の問題を匂わせることもあるのですが、精神病を発症しているわけではなく、少なくとも仕事をきちんと行っていて、日常的な社会生活を破綻なく送っている人がほとんどです。
これまでのDVの理解は、DV行為者は配偶者を支配することを目的として、身体的虐待や精神的虐待をして相手を無力化させるという意識的な活動だと理解されていました。
しかし、ここで分析がとどまっていては穏便な解決を図ることができません。どうして「支配」しようとするのか、なぜそのような方法を身に付けたかなどについて考察をしていません。従来の理論は、男女の機微についてあまりにも無知であり、机の上で現象面だけをなぞるだけの説明だと感じてなりません。
ここで止まる原因は、DV行為者が、特別な人間であり、生まれながらの人格を持っているということで切り捨てられているということです。DV行為も普通の人間の感情の延長線にあり、ある要因があって相手を支配しようと見える行為を止めることができない状態なのだと考えるべきです。私も程度の差こそあれ同様の問題行動を起こしている可能性があるのだと考えるべきだと思います。
特に日本では、アメリカの学者の分析対象となる極端なDV事案というのはごく少数です。DV行為者は生まれつきであり治らないという発想は日本の実務においては取るべきではないドグマだと私は思います。
結論を言うと、支配という現象の心理は、関係性の継続の欲求だということです。極端に孤立に対する不安を抱くことに原因があるということです。つまり、相手が自分から離れることがとても怖いために、何とか相手をつなぎとめようという感情が高まり、相手を拘束しようとしたり、相手に忠誠を誓わせようとしたりして不安を解消しようとしているという現象が日本におけるDVと呼ばれる現象だと思います。
これはDVを行うのが男性であろうと女性であろうと共通です。
もちろんDVを受ける方は、そのような事情は分かりません。悪意の嫌がらせをされているという意識しか持てません。
ここで、おそらく多くの方々は、「相手をつなぎ留めたいならば、そのような感情に任せた行動をとらないで、相手を安心させる行動をとるのではないか。そういう行動をとらないことは相手をつなぎとめる気持ちが無いのではないか。」と思われるかもしれません。
しかし、人間の行動なんて、合理的な行動だけを行っているわけではありません。意識的な行動決定すら怪しいということが認知心理学の定説です。ましてや日常生活の節々に突如高まる自己の感情を、いちいち冷静に客観的に考察して最も良い方法は何か、そのための最も効率よく行動を起こそう等と考えているひとはほとんどいないようなのです。「そこまで考えていない」で行動を先行させてしまうというのが人間の行動であり、家庭の中の行動は特にそうなのではないでしょうか。
関係をつなぎとめておきたい感情に基づく行動ということは、DVの内容やきっかけから矛盾なく説明ができそうです。
自分以外の人間とかかわりを持つことによって、それが相手の実家であろうと友人であろうと、或いはプライベートの時間の取引先や同僚であろうと、その人が自分から離れて行ってしまうのではないかという不安が起きてしまい、不安の爆発のまま行動をしてしまっているようです。
自分の知らないところに移動することも、「何か悪いことが起こるのではないか」という漠然とした不安が沸き上がってしまうので、GPSで行動を把握しようとしていると考えられます。
さらに、自分に対して反論する等、自分を否定されることによって、孤立の不安が生まれてしまうので、自分を否定することは徹底的に粉砕しようとしてしまうのでしょう。暴力などの衝動が生まれる瞬間です。
このような病的な発想は、DV行為者のその時々の人間関係の状態やこれまでの人生の経験、そして精神状態に原因があるようです。そこで言う精神状態とは、様々な理由で
孤立不安が高まっている
何事も悲観的な見通しを持ってしまう
何かがあれば被害的に受け止めてしまう。
精神的に余裕がなく、感情的、衝動的な行動をしてしまう
子どもに対する影響など周りが見えない。
という感じです。
様々な理由の中で女性のDVで実務的に一番多くみられる不安の要因は産後うつです。
内分泌疾患、婦人科疾患が次に続きます。
これらのために症状として「安心できない心の状態」に苦しんでいらっしゃることが多いです。
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原作改変問題に見るこの国の公平公正や自由競争の現状 テレビ局が自分自身のためにも検証するべき内容とは
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-02-19
テレビや映画の脚本が、原作と大きく異なることについて、改変それ自体の良しあしの評価とは少し異なった角度から考えてゆきます。なぜ、原作を改変するのかというその理由について、業界内部からの問題提起が続々と上がってきています。それによるとどうやら、脚本家が原作を「自分の好みで好き勝手に原作を書き換えている」というわけではなさそうなのです。私がなるほどと思った理由は、テレビドラマや映画の制作初期の段階で、先ずキャスティングが先に決まるようなのです。この時間帯のこういう期間、こういう年代をターゲットにするドラマを作ると、それに対して、それぞれの俳優の「実力」、所属の「実力」等に応じて、おおよその役柄を配点して、少なくとも出演の合意をとっておき、出演者のスケジュールを確保するということのようです。なかには旧名称を持つ事務所と音楽番組のように、所属タレントを使うために企画を持ち込んでいくということもあったのかもしれません。ところが、原作にそのような売り込み俳優の出番が無いとか、所属事務所が配役の原作の人物を所属俳優が演じることに難色を示すことが出てくるわけです。そこでニーズが生まれるのが、脚本家による原作の改変だというのです。原作には登場しなかった登場人物を脚本による原作の改変で登場させるとか、はなはだしい場合には登場人物が男性なのに、女優を使うために原作を改変するということも、これらのニーズに応じる手っ取り早い方法だというのです。件の脚本家の方は、このような制作側のニーズに合わせて器用に原作を改変させる「才能」があったということだったのでしょう。「じゃあ、原作を使わないで、オリジナルの脚本を作ればよいではないか。」ということも考えられると思うのですが、それも理由があって、オリジナルの脚本を書けないというよりも、原作があった方が話題になる分視聴率が見込めるし、テレビ化すれば出版の側も売り上げが上がるという思惑もあるようなのです。私はこの一連の理由には説得力があると思いました。この原作改変システムであれば、特定俳優の割り当てという制作の思惑は実現するわけです。私は、原作の改変や原作では出ない登場人物をつくるとか、逆に割愛させるということについては、原作者の承諾があれば、それは理由のあることだと思っています。絵やアニメのようなメディアでできても、実写映像では表現しえないこともあるし、逆に実写映像だから表現できることもあると思います..
弁護士会 民主主義 人権
ドイホー
2024-02-19T12:03:16+09:00
テレビや映画の脚本が、原作と大きく異なることについて、改変それ自体の良しあしの評価とは少し異なった角度から考えてゆきます。
なぜ、原作を改変するのかというその理由について、業界内部からの問題提起が続々と上がってきています。それによるとどうやら、脚本家が原作を「自分の好みで好き勝手に原作を書き換えている」というわけではなさそうなのです。
私がなるほどと思った理由は、テレビドラマや映画の制作初期の段階で、先ずキャスティングが先に決まるようなのです。この時間帯のこういう期間、こういう年代をターゲットにするドラマを作ると、それに対して、それぞれの俳優の「実力」、所属の「実力」等に応じて、おおよその役柄を配点して、少なくとも出演の合意をとっておき、出演者のスケジュールを確保するということのようです。
なかには旧名称を持つ事務所と音楽番組のように、所属タレントを使うために企画を持ち込んでいくということもあったのかもしれません。
ところが、原作にそのような売り込み俳優の出番が無いとか、所属事務所が配役の原作の人物を所属俳優が演じることに難色を示すことが出てくるわけです。
そこでニーズが生まれるのが、脚本家による原作の改変だというのです。原作には登場しなかった登場人物を脚本による原作の改変で登場させるとか、はなはだしい場合には登場人物が男性なのに、女優を使うために原作を改変するということも、これらのニーズに応じる手っ取り早い方法だというのです。
件の脚本家の方は、このような制作側のニーズに合わせて器用に原作を改変させる「才能」があったということだったのでしょう。
「じゃあ、原作を使わないで、オリジナルの脚本を作ればよいではないか。」ということも考えられると思うのですが、それも理由があって、オリジナルの脚本を書けないというよりも、原作があった方が話題になる分視聴率が見込めるし、テレビ化すれば出版の側も売り上げが上がるという思惑もあるようなのです。
私はこの一連の理由には説得力があると思いました。この原作改変システムであれば、特定俳優の割り当てという制作の思惑は実現するわけです。
私は、原作の改変や原作では出ない登場人物をつくるとか、逆に割愛させるということについては、原作者の承諾があれば、それは理由のあることだと思っています。絵やアニメのようなメディアでできても、実写映像では表現しえないこともあるし、逆に実写映像だから表現できることもあると思います。また、一人の頭の中で作った進行に不自然な点があり、それが実写化されると矛盾として受け止められ、視聴者を混乱させるということもありうるからです。
このように、制作側の主観で構わないのですが、エンターテイメント性を高めるとか、作品の質を高めるとかというならば、ある程度原作から変わることもありうるだろうという風に考えています。こう考えるのも私が松本清張氏の影響を受けているということもあると思います。
しかし、観る側の満足度を高めるとか、作品の質を高めるとかそういうことではなくて、制作側やスポンサー、俳優の所属事務所の都合で原作を改変して行ったら、それは視聴者や作品の質という方向は二の次になっているということだから、観る側からすれば、つまらない方向への改変ということにしかならないでしょう。単にその「ごり押し俳優」のファンだけが喜ぶ、程度の低い番組になることは予想が付くことだと思います。一部のファンだけが見る番組は視聴率が低下していくことはあまりにも当然だと思います。
思えば、旧名称を持つ事務所の問題も、性加害問題だけでなく、そのようなテレビ局の事務所による私物化というところにも本質があったはずです。つまり、所属事務所とテレビ局の関係が旧名称を持つ事務所だけの問題ではなかったということです。考えれば当たり前です。
昨年から今年にかけてインターネットで話題になっている様々な問題は、このようにテレビ局の特定の人間との結びつきに関しての問題であると整理できそうです。
「特定のスタッフやキャストとの結びつきがどうして起きたのか」ということについて厳しく検証をしていくことが必要であると言えそうです。
単なる人間的結びつき、情実等の問題なのか
そこに利益供与があったのか
スポンサーの意向なのか
それが論点になるはずです。社会的非難をかわすことを目的とした検証ではなく、自社の生産性を高めるための検証でもあるのだから、真剣に取り組まなければならないことだと思うのです。
テレビ局が私企業であっても、報道部門もあるわけです。同じように報道の目的以上の私的な結びつき、個人的な利益、スポンサーの圧力等によって、報道するべき事柄を報道せず、報道内容を都合よく改変している可能性が否定できないということになり、貴重な電波をこのテレビ局に割り当てて本当に良いのかという公的事情が存在することになります。
あれはドラマ制作部門だけの問題だということは通らないと思います。音楽制作部門でも同様の問題があったのだから、報道部門だけは別だという理屈は通らないからです。少なくとも、そのように部門独自の問題だという構造を解き明かした検証は無いと思います。
もしかすると、テレビの衰退は、この日本という国の生産性の衰退を象徴しているのかもしれないという危機感を持っています。良いものを作るという製作者の誇りよりも、一部の担当者の感情や利益を満足させることが優先となるとか、良いスタッフに活躍の場を与えるよりも、個人的な都合に対応できる要領の良い人ばかり起用され、あるいは本当の実力とは関係のない人間関係の力学によって場を与えられている人ばかりが横行し、能力のある人たちが能力を発揮できないということがあるのではないか。このような状態だから、日本企業の生産性が高まらず、本当はもっと繫栄するはずの社会が停滞しているのではないかという危機感です。
これが現代日本のように複雑な人間関係であり、かつ、大量の人間と利害関係が生じている社会ではなく、100人前後のムラが人間の世界のすべてであれば、仲間を大切にして、仲間の利益を優先することは当然のことだと思います。
しかし現代日本では、誰かに利益を与えることが、誰かに損をさせることになってしまうということをもう少し意識しなくてはならないと思います。意識する際のツールが、「公平公正」という概念だと思います。仲間がいたとしても、公平公正な起用をしていくこと、良いものが流通するようなシステムによる資本主義的な自由競争原理を精巧に作り上げていくことが求められていると思われます。
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【SNSの危険性の注意喚起】脚本家の投稿への支援的なコメントが凶器になる理由 正義感、同情が第三者を傷つけることの好例 それにしても脚本家の仕事って・・・
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-02-06
才能あふれる漫画家が、原作のテレビの実写化にあたって、テレビ局が制作した内容が約束に反して原作から逸脱していることから、SNSなどでのいくつかのやり取りの後に、先月自死されるという痛ましい出来事がありました。そのことについての詳細はわかりません。今回のテーマはそのSNSのやり取りの方です。その実写化の脚本を担当された方が、全10回の放映のうち、8回は自分が脚本を書き、最後の2回分は原作者が脚本を書いたので、最後の2回が面白くなかったとしても自分の責任ではないということと、このように脚本の担当を外されたことの不満をインスタグラムに投稿したようです。この投稿に対しても、原作へのリスペクトが足りないなどといった批判がネット上で上がっていましたが、今回はこちらの問題も脇に置いておきます。問題として取り上げるのは、この脚本家のインスタグラムの投稿に対して、同業者の一人が、その脚本家の苦悩というか外された悔しさというかそういうことに共感して、支持的なコメントを出したことがテーマです。このコメントを出した人は、おそらく善意でコメントを出した良い人なのだろうと思います。ご自分もそのような悔しい思いをしたこともあるのでしょう。最初の脚本家も、そのようなコメントをもらって、自分の感情は正当であり、自分は尊厳を傷つけられたと承認してもらったことで、少しは気持ちも落ち着いたことと思われます。ただ、善意の良い人で終わりませんでした。このコメントは、脚本家に対しては暖かい、善意あふれるコメントになりますが、原作者にとっては攻撃を受けていると読めるわけです。原作者が自死されたことによって、このコメントが自死と関連付けられて炎上してしまいました。原作者は言い分が言い分がもちろんあるわけです。一般論ではなく、自分の作品の大切な部分は改変してもらいたくないという意思表示を事前にはっきり伝えていたとのことです。少なくとも原作者はそう認識していたようです。それにもかかわらず、その大切な部分が改変されているので、脚本に手を入れるようになり、最終的には最後の2話分を自分で手掛けたというところまでいきました。おそらく、事前に「どんな改変でもよいよ。」なんてことであれば、テレビ局も原作者の脚本への口出しや自らの脚本執筆なんて許さなかったと思いますので、そこから考えると原作者の言っていることの方が信用できるのかなという推測は成り立つでしょう。原作者としては、「最..
自死(自殺)・不明死、葛藤
ドイホー
2024-02-06T11:49:39+09:00
才能あふれる漫画家が、原作のテレビの実写化にあたって、テレビ局が制作した内容が約束に反して原作から逸脱していることから、SNSなどでのいくつかのやり取りの後に、先月自死されるという痛ましい出来事がありました。
そのことについての詳細はわかりません。今回のテーマはそのSNSのやり取りの方です。
その実写化の脚本を担当された方が、全10回の放映のうち、8回は自分が脚本を書き、最後の2回分は原作者が脚本を書いたので、最後の2回が面白くなかったとしても自分の責任ではないということと、このように脚本の担当を外されたことの不満をインスタグラムに投稿したようです。
この投稿に対しても、原作へのリスペクトが足りないなどといった批判がネット上で上がっていましたが、今回はこちらの問題も脇に置いておきます。
問題として取り上げるのは、この脚本家のインスタグラムの投稿に対して、同業者の一人が、その脚本家の苦悩というか外された悔しさというかそういうことに共感して、支持的なコメントを出したことがテーマです。
このコメントを出した人は、おそらく善意でコメントを出した良い人なのだろうと思います。ご自分もそのような悔しい思いをしたこともあるのでしょう。最初の脚本家も、そのようなコメントをもらって、自分の感情は正当であり、自分は尊厳を傷つけられたと承認してもらったことで、少しは気持ちも落ち着いたことと思われます。
ただ、善意の良い人で終わりませんでした。このコメントは、脚本家に対しては暖かい、善意あふれるコメントになりますが、原作者にとっては攻撃を受けていると読めるわけです。原作者が自死されたことによって、このコメントが自死と関連付けられて炎上してしまいました。
原作者は言い分が言い分がもちろんあるわけです。一般論ではなく、自分の作品の大切な部分は改変してもらいたくないという意思表示を事前にはっきり伝えていたとのことです。少なくとも原作者はそう認識していたようです。それにもかかわらず、その大切な部分が改変されているので、脚本に手を入れるようになり、最終的には最後の2話分を自分で手掛けたというところまでいきました。おそらく、事前に「どんな改変でもよいよ。」なんてことであれば、テレビ局も原作者の脚本への口出しや自らの脚本執筆なんて許さなかったと思いますので、そこから考えると原作者の言っていることの方が信用できるのかなという推測は成り立つでしょう。
原作者としては、「最初の約束を守ってもらいたいだけだったのに」という気持ちがあったと思います。また、繊細な作風の原作者としては、キャラクターや話の流れの一つ一つに思い入れがあるのだと思います。
だから、脚本家のインスタグラムの投稿は、原作者にとっては、「自分のわがままで脚本家を侮辱した。」と非難されたと受け止めたのではないでしょうか。
インスタグラムに限らず、SNSの投稿の特徴は一方的であることです。それに対して効果的な反論をすることは大変難しいです。また、字の数が多いと誰も読みませんので、背景事情まで説明して反論することは難しいと思います。かなりのストレスにはなるはずです。
脚本家の投稿にコメントを出した人は、「そこまで考えていなかった」ということでしょう。
コメントを出した人は、善意で
当初のテレビ局と原作者の約束も知らず、
どのような改変がなされたのかも知らず、
「脚本家が役を下ろされた」ことの憤慨に対して共感を示したということになります。
これがインスタグラムではなく、家庭の中の会話や友人同士の会話ならば、コメントを出した人の発言は、善い人ということになったと思います。問題はSNSというツールをつかったコメントだということに問題があったのだと思います。
人間と人間が対立している場合に、SNSというツールを使って一方を支援するコメントをすることに当たって考えなければならないことは、
不特定多数の人が見ること
もめている他方の人も見るということ
その他方の人は、コメントを出した人間が、自分が読むことを気にしないで、あるいは意識して発信していると感じること
もめている人の一方を、その人は擁護していると感じること
それはとりもなおさず、他方の自分に対する非難に加担したという意識が生まれること
また、実態も知らないでのコメントだと分かったとしても、インスタグラムの影響力から、自分の周囲の人にも読まれてしまい、自分の立場が悪くなるということを直感的に感じてしまうこともよくあることです。
そして、元の脚本家の投稿や、それに対する支持的コメントに対して、自分以外の誰も反論してくれなければ、「自分の味方だと思っていた人が自分を助けてくれない」という意識になりやすいということがあるようです。これはいじめを受けた人の心理です。加速度的に孤立感を深めていきます。
コメントをした人は、ただ、考えが足りずに無責任にコメントしただけの人だと思います。われわれとしては、「SNSというツールがこのような危険性を持ったツールだ」ということを意識する必要があると警鐘を鳴らした事例と捉えるべきだと思います。
ただ、とても疑問なことがあります。ある人のセリフによって、そのセリフの相手や、せりふの相手につながる人が反応を示し、またその相手なりがセリフや行動を起こして、元々の人が反応を示して、ドラマは進んでいくのだと思います。そして、それを視聴者が「なるほどそうだね。」とか「そんなこと言えばそうなるの当たり前だろう」、「あれあれ、この続きはどうなるのだろう。」等と制作側が意図した反応を示して、視聴率も上がり、制作側は「してやったり。」と思うのだと思うのです。
自分の発言や投稿に、他人がどう反応するか「そこまで考えなかった」人たちが、一般視聴者に反応を起こさせるテレビドラマを制作することが本当に可能なのでしょうか。プライベートと仕事では意識を切り替えることができるということなのでしょうか。それが私の疑問でした。
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女性のヒステリーについて 極端なジェンダーレス思想が少なくない女性を苦しめる。 発達障害、パーソナリティ障害への分類という弊害
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-01-15
ジェンダーフリーとか、ジェンダーレスという主張があります。女性だから、男性だからという、個人を捨象して性という大雑把な違いに基づく取り扱いの違いは、概ね社会的、文化的に押し付けられた不合理な扱いであり、かつ、個人の特性を無視した評価であり、本当は個体差があり違うのに不当に個人の能力を否定評価することにつながりやめるべきだという主張のように思われます。その意味では、正しい側面もあると思います。ただ、生物学的違いが厳然と存在していることも事実です。端的に言えば女性は子どもを産む性です。この子どもを産むということは、妊娠してから出産するまでに限った話ではなく、それ以前から綿々と続く生体内システムの問題であり、その後においても影響が生じていることも間違いありません。例えば今から約200万年前から数万年前まで続く狩猟採集時代においても、小動物を狩るのは原則として男の仕事であり、留守を守り育児をしたり、植物を採集したのは女性の仕事だったと進化生物学では考えています。これは、群れの頭数を確保するために、流産を避けるために成人女性は走り回ることを回避したというものだと考えられます。そうだとすれば、これは社会的、文化的な性的役割ではなく、生物学的な性差から派生した人類の生き残り戦略だったと考えられます。どこからが、生物学的違いに基づいた取り扱いの違いなのか、どこからが社会的文化的な不合理な差別なのかについては、なかなか難しいことなのではないでしょうか。また、200万年当時は合理的な違いがあったとしても、その後の機械技術の発展とか、人間の考え方の変化、つまり時代の変化によって、合理性が失われた差異的取り扱いも多くあることも間違いないと思います。ただ、私の感想ですが、あまりにも急進的なボーダレスの主張は、合理的な評価を逆に阻害してしまい、人間的な扱いを阻害することがあると思うのです。女性だから、男性だからという言い訳がきかないことは、本当にあるべき社会なのかというところに疑問が生まれます。例えば女性のヒステリーの問題があります。これはだいぶ前にブログで記事にしました。配偶者のヒステリーは抑え込まない方がよい。賢い対処法https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-10-31その後もちょくちょくこの話題は触れています。このヒステリー問題ですが、ここでは、理由もなく怒りの感情が沸き上がり、道徳的な観点から..
家事
ドイホー
2024-01-15T11:37:17+09:00
ジェンダーフリーとか、ジェンダーレスという主張があります。女性だから、男性だからという、個人を捨象して性という大雑把な違いに基づく取り扱いの違いは、概ね社会的、文化的に押し付けられた不合理な扱いであり、かつ、個人の特性を無視した評価であり、本当は個体差があり違うのに不当に個人の能力を否定評価することにつながりやめるべきだという主張のように思われます。その意味では、正しい側面もあると思います。
ただ、生物学的違いが厳然と存在していることも事実です。端的に言えば女性は子どもを産む性です。この子どもを産むということは、妊娠してから出産するまでに限った話ではなく、それ以前から綿々と続く生体内システムの問題であり、その後においても影響が生じていることも間違いありません。
例えば今から約200万年前から数万年前まで続く狩猟採集時代においても、小動物を狩るのは原則として男の仕事であり、留守を守り育児をしたり、植物を採集したのは女性の仕事だったと進化生物学では考えています。これは、群れの頭数を確保するために、流産を避けるために成人女性は走り回ることを回避したというものだと考えられます。そうだとすれば、これは社会的、文化的な性的役割ではなく、生物学的な性差から派生した人類の生き残り戦略だったと考えられます。
どこからが、生物学的違いに基づいた取り扱いの違いなのか、どこからが社会的文化的な不合理な差別なのかについては、なかなか難しいことなのではないでしょうか。
また、200万年当時は合理的な違いがあったとしても、その後の機械技術の発展とか、人間の考え方の変化、つまり時代の変化によって、合理性が失われた差異的取り扱いも多くあることも間違いないと思います。
ただ、私の感想ですが、あまりにも急進的なボーダレスの主張は、合理的な評価を逆に阻害してしまい、人間的な扱いを阻害することがあると思うのです。女性だから、男性だからという言い訳がきかないことは、本当にあるべき社会なのかというところに疑問が生まれます。
例えば女性のヒステリーの問題があります。これはだいぶ前にブログで記事にしました。
配偶者のヒステリーは抑え込まない方がよい。賢い対処法
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-10-31
その後もちょくちょくこの話題は触れています。
このヒステリー問題ですが、ここでは、理由もなく怒りの感情が沸き上がり、道徳的な観点からの自制ができなくなり、周囲を気にしないで罵詈雑言を叫びだすようなことを言うことにします。
離婚事例を多く担当していて気が付いたのですが、少なくない女性がヒステリー状態に陥ります。例えば夫の対応が悪いことに対する報復だというような、対人関係的な問題とは別に突然起こり、脱抑制的な言動になると考えることが正しいと私は思います。あえて言えば、女性に周産期があること、あるいはあったことと関連した生理的な問題だと思っています。
確かに人によって程度や頻度が違うのですが、通常は、対処方法さえ間違わず、それも家庭生活だと思えば、ヒステリーがあるからと言って女性が劣っているとか、合理性が無いということにはならないと思うのです。ある特定の時期(人や年齢によって異なるので、時期を特定することは困難です。)の例外的な特質だととらえることができればお互いに不幸にはならないようです。
しかし、ヒステリーに性差があるということを承認しないで、個人の問題だとしてしまうと、とても過酷な評価を本人に与えてしまうことになります。
本人の精神が不安定であり、穏やかな人間関係を形成できない劣った人間と評価されてしまいます。最近だと、「発達障害」、「人格障害」等と決めつけられたり、感情障害や「統合失調症」、「躁うつ病」(最近多い)だと診断されて、ひどい場合は病院に入院させられたりしてしまうこともあります。
確かに中には病的なケースや頻度が高いケースもありますが、多くのケースでは、一時的なヒステリー症状だとして、適切な対処方法を習得することが必要十分で適切な対処だと私から見れば思われるケースも多いです。
男女に性差が無いという主張が過激になれば、このような少数派(実際は程度の差はあれ多かれ少なかれこのような症状は出現するようで、必ずしも少数派とは言えないと思われる)の女性は、女性であることを言い訳にすることができなくなり、「男性が同じようなふるまいをした場合のように」、正常ではないという評価が下されてしまう危険があると思うのです。
「男女に性差はない」という主張は、しばしば「女性も男性並みに働くし、働くべきだ」という結果を産み出していると思います。男性並みに働きたい女性もいるし、子育てや家事をしながら、収入を得ることを目的としない趣味やボランティアに傾注したいという女性、あるいは男性もいると思います。
また、就労という組織的な行為、他者との目的的な行動は苦手だけど、家事や子育ては得意だという人たちも多いように感じます。しかし、他者との組織的な行動が苦手で、目的的行動に必要なコミュニケーションも苦手だという人たちは、何らかの障害があるという否定的評価をされる傾向にもあるようです。
大雑把な人の評価を否定して個人に着目して個人として評価するべきだというものの考え方は正しい側面もありますが、逆にその社会的評価のものさしが特定の価値観に基づくものであれば、その価値観で恩恵を受ける人たちの利益にしかならず、個人を無駄に否定評価することにもつながりかねないのです。
そして、その特定の価値観は、社会の価値観だと認識されやすいために、普遍的価値観であることを疑わない危険が常に付きまとっています。そして、無駄に苦しむ人たちを作り出していると私は思うわけです。
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我が子に会えない母親たち 親子引き離しを問題視しない社会の犠牲者
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-01-12
最近、母親が我が子と引き離される事件を担当することが多くなりました。夫が妻を排除することももちろんあるのですが、義母や実母が子どもを引き離すこともあります。父親が子どもから引き離される場合は、母親が子どもを連れて同居していた家から逃げ出して別居を開始するというパターンがほとんどの形式です。これに対して母親が我が子から引き離されるパターンは、夫や義母、実母が子どもと同居している家から、母親だけを排除するというパターンが多いようです。母親が家から追い出されるわけです。様々な事情で母親は自分の子どもと会えない状態が続いています。このような事件を担当して感じることは、警察はあまり熱心に問題解決にあたってくれないということです。母親から子どもが引き離されていれば、必ずしも要件を満たさなくても誘拐や監禁に匹敵する非人道的な行動だと私は思います。しかし、特に引き離した方が子どもの父親であるとか、祖母である場合は反応が鈍いと思います。誘拐罪に該当しそうな行為も動いてくれません。民事不介入という言葉も出ましたが納得ゆきません。引き離す方の言い分の多くは、母親が精神疾患だ、発達障害だ、パーソナリティ障害だというメンタル的な問題があるというのです。その多くが虚偽であり、その多くが決めつけです。いずれにしても、日常生活を支障なく送っているのです。我が子と引き離されても仕方がない理由にはならないと思います。私は、この背景として、行政や警察が母親のDV政策ということで子の連れ去りを許容していることが背景となっていると思います。また、小さな虐待でも児童相談所や警察に通報するという風潮も背景になっていると思います。DV政策によって、父親の元から母親が子どもを連れ去ることに対して、行政や警察などがそれを奨励して、逃亡に協力するということが当たり前になってきました。この点については何度も述べていますので繰り返しませんが、肝心ことは、DVがあったか無かったかということは一方の申告だけで行政や警察が行動に移ること、子どもの健全な成長に対する悪影響をほとんど考慮していないことです。虐待の親子引き離しも担当していますが、ほとんど印象だけで、何があったかを十分調査しないで虐待認定をして簡単に親子を引き離しますし、平成の初期や昭和の時代の裁判所と異なり、現在の裁判所は子どもを親から引き離して施設入所させることを簡単に認めてしまいます。DVや虐待という言葉は、幅..
家事
ドイホー
2024-01-12T11:03:18+09:00
最近、母親が我が子と引き離される事件を担当することが多くなりました。夫が妻を排除することももちろんあるのですが、義母や実母が子どもを引き離すこともあります。
父親が子どもから引き離される場合は、母親が子どもを連れて同居していた家から逃げ出して別居を開始するというパターンがほとんどの形式です。これに対して母親が我が子から引き離されるパターンは、夫や義母、実母が子どもと同居している家から、母親だけを排除するというパターンが多いようです。母親が家から追い出されるわけです。
様々な事情で母親は自分の子どもと会えない状態が続いています。
このような事件を担当して感じることは、警察はあまり熱心に問題解決にあたってくれないということです。母親から子どもが引き離されていれば、必ずしも要件を満たさなくても誘拐や監禁に匹敵する非人道的な行動だと私は思います。
しかし、特に引き離した方が子どもの父親であるとか、祖母である場合は反応が鈍いと思います。誘拐罪に該当しそうな行為も動いてくれません。民事不介入という言葉も出ましたが納得ゆきません。
引き離す方の言い分の多くは、母親が精神疾患だ、発達障害だ、パーソナリティ障害だというメンタル的な問題があるというのです。その多くが虚偽であり、その多くが決めつけです。いずれにしても、日常生活を支障なく送っているのです。我が子と引き離されても仕方がない理由にはならないと思います。
私は、この背景として、行政や警察が母親のDV政策ということで子の連れ去りを許容していることが背景となっていると思います。また、小さな虐待でも児童相談所や警察に通報するという風潮も背景になっていると思います。
DV政策によって、父親の元から母親が子どもを連れ去ることに対して、行政や警察などがそれを奨励して、逃亡に協力するということが当たり前になってきました。この点については何度も述べていますので繰り返しませんが、肝心ことは、DVがあったか無かったかということは一方の申告だけで行政や警察が行動に移ること、子どもの健全な成長に対する悪影響をほとんど考慮していないことです。
虐待の親子引き離しも担当していますが、ほとんど印象だけで、何があったかを十分調査しないで虐待認定をして簡単に親子を引き離しますし、平成の初期や昭和の時代の裁判所と異なり、現在の裁判所は子どもを親から引き離して施設入所させることを簡単に認めてしまいます。
DVや虐待という言葉は、幅広い意味があります。また、実態がよくわからないことがあります。それなのに、ひとたびDVや虐待というくくりの中で整理されてしまうと、それらの行為は徐々に拡大していって、妻や子どもが殺される危険があるという認定がされてしまっています。
即ち、ちょっとかんしゃくを起こしたり、思わず手が出てしまうと、行政や警察の生活安全課からはDVであり、虐待であり、そのうち殺人事件になるという認定がされてしまうということが起こっているのです。
子どもと親を引き離すと子どもの成長に悪い影響が出るという世界標準のコンセンサスは、21世紀の日本の司法や行政には通用しないようです。
これでは、子どもに悪い影響があるから子どもから引き離されるのではなく、目をつけられれば引き離されるということにもなりかねません。
DV保護は、しばしば女性保護の文脈で語られます。この主張を突き詰めていけば家族は女性を拘束する前時代的な制度だということになり、家族を解体するべきだとする主張と親和するようです。
しかしながら、行政や警察の力を借りて子どもを親から引き離すことが横行している結果、親から子どもを引き離すことになれてしまって、その非人道的な問題について鈍感になっているのだと思います。
これは父親から子どもを引き離すことだけに鈍感になるということではありません。結局子どもを親から引き離すことに、抵抗やためらいが失われてしまってゆくのだと思います。
何とでも言える、あるいは単なる女性特有の問題がある場合の精神状態をとらえて、精神疾患だ、発達障害だ、パーソナリティ障害だと言ってしまえば、行政や警察は「理由のあることだ」と反射的に反応して、親子引き離しは仕方がないことであり、むしろ子どもの利益になると機械的に考えるようになっているとしか思えないことが横行しています。
現状の「DV政策」による女性保護は、ステロタイプの「女性」の保護であり「女性だから被害者だ、女性は被害者だから支援する」という単純論法だと思います。子どものことを考えないだけでなく、少数の女性が最も苦しむことになっているということを全く考慮していないと思います。物事はメリットデメリットあるのですが、自分の立場のデメリットを考えようとしないから、行き過ぎの弊害を是正するという発想にならない恐ろしい政策立案です。
我が子から引き離されている女性は、このような政策の犠牲者だと私は思います。
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財産分与で納得いかない実務 離婚の可能性のある夫婦は、婚姻前の通帳は家庭の関係の費用の支払いに使わず、新しい通帳を作らなければならないということか
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-01-11
離婚の際には、財産分与という制度があります。これは、婚姻期間中に築いた財産は、名義がどうあれ、夫婦で分けるという制度です。銀行口座でも共有名義で口座を開設することができないし、不動産登記についても特に意味なく、単独名義で登記することがあるなどの実情があります。だから、例えば夫の名義の財産だとしても実質的には夫婦の共有財産である場合、離婚の場合に財産分けをするということです。ここまでの理屈は銀行口座の所有の最高裁の理論などとも整合があり、必要な制度だと思います。法律的には記載が無いのですが、実務的には、婚姻期間中に築いた財産は折半する、つまり5:5の割合で分けています。特殊技能による収入は別として、通常は、賃金等を得たのが夫であったとしても、専業主婦であろうと妻がそれを支えて初めて可能になったということから、一律5:5になることが原則です。どういう場合が特殊技能による収入かというところはなかなか難しい判断になります。それよりも問題があると私が思っているのは、預貯金の問題です。例えばA銀行がメインの口座で、結婚前から使用していたとします。結婚前から働いていた会社の給料が振り込まれていたので、口座をそのまま使っていました。結婚前には700万円の口座残高がありました。という事例を見ます。別居時の口座残高が500万円だとします。そうすると、私の感覚では、「500万円は、婚姻によって得た財産ではなく、婚姻期間中に目減りした預金額の残額だから、分与すべき財産はない。0円だ。」とするべきだと思うのです。ところが、この口座が家の光熱費や公共料金、子どもの教育関連の引き落として使われている場合、500万円が財産分与の対象だと誘導される傾向にあるのです。この口座の残額が、家の関連の仕様ではなく、全く自分のものであり、夫婦の共有にするつもりが無いということが明白でなければ共有財産だというのです。自分の専用財産だというのであれば、専用財産として扱っていた証拠が無いと共有財産だというのです。それならば、結婚と同時にそれまでの通帳の取引をやめて、新しい通帳に給与の振込口座を変えなければならないことになります。あるいはいったん口座残高を引き下ろして、新しい口座を開設するということになるでしょうね。こんな離婚することに備えて口座を変更して結婚生活を始める人はいないのではないかと私は思うのです。皆さんはどう思われるでしょうか。私の感覚はおかしいので..
家事
ドイホー
2024-01-11T14:46:31+09:00
離婚の際には、財産分与という制度があります。これは、婚姻期間中に築いた財産は、名義がどうあれ、夫婦で分けるという制度です。銀行口座でも共有名義で口座を開設することができないし、不動産登記についても特に意味なく、単独名義で登記することがあるなどの実情があります。だから、例えば夫の名義の財産だとしても実質的には夫婦の共有財産である場合、離婚の場合に財産分けをするということです。ここまでの理屈は銀行口座の所有の最高裁の理論などとも整合があり、必要な制度だと思います。
法律的には記載が無いのですが、実務的には、婚姻期間中に築いた財産は折半する、つまり5:5の割合で分けています。特殊技能による収入は別として、通常は、賃金等を得たのが夫であったとしても、専業主婦であろうと妻がそれを支えて初めて可能になったということから、一律5:5になることが原則です。
どういう場合が特殊技能による収入かというところはなかなか難しい判断になります。
それよりも問題があると私が思っているのは、預貯金の問題です。
例えばA銀行がメインの口座で、結婚前から使用していたとします。結婚前から働いていた会社の給料が振り込まれていたので、口座をそのまま使っていました。結婚前には700万円の口座残高がありました。という事例を見ます。
別居時の口座残高が500万円だとします。そうすると、私の感覚では、「500万円は、婚姻によって得た財産ではなく、婚姻期間中に目減りした預金額の残額だから、分与すべき財産はない。0円だ。」とするべきだと思うのです。
ところが、この口座が家の光熱費や公共料金、子どもの教育関連の引き落として使われている場合、500万円が財産分与の対象だと誘導される傾向にあるのです。この口座の残額が、家の関連の仕様ではなく、全く自分のものであり、夫婦の共有にするつもりが無いということが明白でなければ共有財産だというのです。
自分の専用財産だというのであれば、専用財産として扱っていた証拠が無いと共有財産だというのです。それならば、結婚と同時にそれまでの通帳の取引をやめて、新しい通帳に給与の振込口座を変えなければならないことになります。あるいはいったん口座残高を引き下ろして、新しい口座を開設するということになるでしょうね。
こんな離婚することに備えて口座を変更して結婚生活を始める人はいないのではないかと私は思うのです。
皆さんはどう思われるでしょうか。私の感覚はおかしいのでしょうか。
ところで、ここまで読んだ方の少なくない方は、私のことを保守派やミソジニスト(女性に対して攻撃的な偏見を持っている人)等と思っているかもしれません。保守派はともかく、ミソジニーは心外です。
注意深く読まれた方にはお分かりのとおり、私が例に挙げたケースは男性が700万持っていたとは一言も言っていません。実際にも、金額は架空の金額ですが、女性の方が実家で済んで働いていた時にせっせと貯金をして、婚姻生活で持ち出しが多くなってという事案でした。
預金を多く持っているのは男性だという決めつけの議論が横行しています。限界を超えて払う制度が養育費や婚姻費用であるという制度になっていますが、どうやら女性保護の観点(子どもは女性が育てるべきだという観点=ジェンダーバイアスも絡む)で、高額化しているようです。しかし、その中で一番困っているのは、派遣や有期雇用で勤勉に働いている女性たちなのです。
女性保護を叫ぶ人たちは、多数派の女性ばかりの利益を考えていて、少数派の女性の利益は考慮されないで、少数派の女性が一番苦しんでいるということについてお話ししていきたいと思います。
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東日本大震災から1か月半後に発表した震災相談メンタルケアマニュアルを掲載します。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-01-04
まだ、弁護士が役に立つ時期ではないと思います。先ずは、メンタルに特化した解決方法ではなく、生活の安全と確保が最優先される状況だと思います。二つだけお話しします。1 大地震という特別の出来事があったということは、平時を前提とした仕事などの約束事はゼロになるということ。つい、被災地以外の場所から、震災のマイナスを取り戻せと号令がかかり多くの人たちが病んでいきました。大地震が起きたのだからしかたがないということから出発してよいのだということ業績を気にして無理を言う人には誰かが考えを改めさせていただきたいと思います。無意識に平時を前提とした思考をしてしまう人が被災地の外に少なからずいました。2 自治体の公務員の方々は不眠不休で仕事をしています。誰しも経験の乏しいことですから不具合不手際があります。ご自身も、ご家族も被災されているわけですから配慮をしていただくとともに少しでも休みを取って、睡眠をとって長丁場を乗り切っていただきたいと思います。ご自身の健康に問題がある場合は無理をしないでほしいと思います。この辺りは上司の腕の見せ所です。東日本大震災で、仙台弁護士会で作成したQ&Aをアップします。これを作ったのは、震災から1か月半の頃でした。主に被災地以外から相談に訪れた人たちを念頭に置いて作成しています。何かの役に立てれば幸いです。震災法律相談に関するメンタルケアQ&A初版2刷 仙台弁護士会自殺対策PT~震災相談の際に気をつけること~1.被災者の心理状況一般Q 3.11の大震災から2か月近くが経過しましたが,避難場所で生活されている被災者の方々の心理状況はどのようなものでしょうか。A1 話を聞いてもらうだけでいい,という時期は過ぎている人が増えている。先々の不安(収入,住居,ローン,相続等)が現実化し,何とかしなくてはならないと考え始めている。現実の問題に立ち向かおうとしている人には,単に結論をあいまいに先延ばしにする(例「しばらく支払を猶予してもらいなさい」)のではなく,メリットとデメリットを挙げて具体的な道筋を示すことが必要(猶予や金利減免を受けても支払できない場合は破産という手続きもある,など)。仮設住宅や新居に落ち着いたら具体的な行動に移れるよう,避難所で心の準備をしておくことが安堵感につながる。A2 他方でライフラインすら復旧の見通しが立たず,がれきに囲まれ,先の見えない状況にいる人も依然としている。津波の被害が大..
災害等
ドイホー
2024-01-04T13:54:46+09:00
先ずは、メンタルに特化した解決方法ではなく、
生活の安全と確保が最優先される状況だと思います。
二つだけお話しします。
1 大地震という特別の出来事があったということは、
平時を前提とした仕事などの約束事はゼロになるということ。
つい、被災地以外の場所から、震災のマイナスを取り戻せと号令がかかり
多くの人たちが病んでいきました。
大地震が起きたのだからしかたがない
ということから出発してよいのだということ
業績を気にして無理を言う人には誰かが考えを改めさせていただきたいと思います。
無意識に平時を前提とした思考をしてしまう人が被災地の外に少なからずいました。
2 自治体の公務員の方々は不眠不休で仕事をしています。
誰しも経験の乏しいことですから不具合不手際があります。
ご自身も、ご家族も被災されているわけですから
配慮をしていただくとともに
少しでも休みを取って、睡眠をとって
長丁場を乗り切っていただきたいと思います。
ご自身の健康に問題がある場合は無理をしないでほしいと思います。
この辺りは上司の腕の見せ所です。
東日本大震災で、仙台弁護士会で作成したQ&Aをアップします。
これを作ったのは、震災から1か月半の頃でした。
主に被災地以外から相談に訪れた人たちを念頭に置いて作成しています。
何かの役に立てれば幸いです。
震災法律相談に関するメンタルケアQ&A初版2刷 仙台弁護士会自殺対策PT
~震災相談の際に気をつけること~
1.被災者の心理状況一般
Q 3.11の大震災から2か月近くが経過しましたが,避難場所で生活されている被災者の方々の心理状況はどのようなものでしょうか。
A1 話を聞いてもらうだけでいい,という時期は過ぎている人が増えている。先々の不安(収入,住居,ローン,相続等)が現実化し,何とかしなくてはならないと考え始めている。現実の問題に立ち向かおうとしている人には,単に結論をあいまいに先延ばしにする(例「しばらく支払を猶予してもらいなさい」)のではなく,メリットとデメリットを挙げて具体的な道筋を示すことが必要(猶予や金利減免を受けても支払できない場合は破産という手続きもある,など)。仮設住宅や新居に落ち着いたら具体的な行動に移れるよう,避難所で心の準備をしておくことが安堵感につながる。
A2 他方でライフラインすら復旧の見通しが立たず,がれきに囲まれ,先の見えない状況にいる人も依然としている。津波の被害が大きい地域では行方不明者も多く,1か月以上ずっとストレスにさらされ続けている。このような事態を我々は経験したことがない。
こういう人に対しては安易な励ましはせず,まずは話を聞くことが重要。相談担当者の勝手な解釈を加えず,相手の言葉をそのまま繰り返す:リフレクションが有効。(「大変なんですよ」と言われたらまず「大変なんですね」と忠実に再現するなど)。リフレクションすることで「聞いていますよ」という姿勢をまず示す。
2.避難所に入る際
Q 避難所に入所する際,どのようなこと(服装・態度など)に気をつければよいでしょうか。
A 避難所でスーツにネクタイは違和感あり。身構えてしまい本音を話せない。
Q 法律相談ブースで相談を待っているだけでなく,被災者のそばに行って,積極的に話しかけることは問題ないでしょうか。
A 「お困りのことはありませんか」「体の調子はどうですか」などと声を掛けるのは問題ない。避難所の外の状況に関心がある人は多く,外の様子を聞かれたらありのまま話せばよい。自分の体験を話すのも良い。被災体験を話したい人にはそのまま話してもらえばよい。話したくない人には深追いしない。
3.法律相談等で被災者からの相談を受ける際
Q 被災者とはじめて対面します。被災者と対面した際に,何に気をつけなければならないでしょうか。
A 言葉使いに注意すべき。支援者という立場や「上から目線」で話さないように。一緒に考えようという気持ちが大切。何か役にたてることはないか,力になれることはないか,という姿勢で臨むとよい。
Q 「何もかも嫌になった」「全く希望がもてないのでもう自殺したい」などと,希死念慮を打ち明けられた場合はどうしたらいいですか。
A 「自殺したい」との発言は,助けてほしいというメッセージ。何かしてほしいからそう言っている可能性がある。あわてて「死んではだめだ」と頭ごなしに否定すべきではない。死にたいのだという感情は否定することなく受け入れて,「なぜ自殺したいと思うのですか」「何が解決したら自殺せずに済みますか?」など、相談者がなぜ死にたいと言っているのかを尋ねてみる。先行きが見えるような具体的な制度(自己破産,生活保護,失業保険…)を説明し,具体的な手続きを取れるよう道筋をつけることが必要。このような対話すら受け入れることができない人の場合はメンタルケアチームにつなぐ。
Q 被災地の状況や相談内容によっては,弁護士自身が無力感や強いストレスに襲われることもあります。支援者自身のメンタルケアで気をつけるべきことはありますか。
A タフな消防隊員ですら凄惨な現場に臨場することが自らのトラウマとなる。「惨事ストレス」に対するケアが必要とされ実践されている。無理をせず,辛くなったら途中で撤退する勇気を持つ。避難所等に行くのであれば,心身ともに健全な状態で行かなければかえって迷惑をかける。法律相談で全てが解決するとは期待されておらず,次に繋げられれば充分であることを自覚しておく。相談担当者自身が耐えられないような話を聞いた場合は,相談担当者同士でその日の体験・気持ちを話すこと(デフュージング)や,管理者がいる場合は全体でのミーティングで話をさせる(デブリーフィング)というストレスマネジメントの手法がある。現場で実施し,ストレスを持ち帰らないことが重要。
Q 深刻な相談(家・仕事場が流失した,将来の見通しが全く立たないなど)を笑いながら話す相談者には,どのように接すればようでしょうか。
A 現状を見ないふりをしている人,自虐的になっている人,それぞれ違うはず。深刻さの度合いが尋常ではなく感情のバランスが崩れてしまっている可能性もある。笑いながら目は泣いていることもある。「もう笑うしかない」と前向きになっている人からは逆に元気をもらうことも。その場の雰囲気に応じてやんわり共感できればよい。
Q 相談担当者に怒りをぶつけてくる人がいるのですが。
A 震災から2か月近く経過し,天災を誰かのせいにしたくて他人に怒りをぶつけてくるのは正常な反応でありむしろ健全と考えるべき。相談担当者が非難されているわけではないので理性的に対応する。ただしいわれのない個人攻撃になれば率直にその点を指摘して相談担当者は自分を守る必要がある。
Q 親族が死亡している方からの相談,あるいは行方不明の方からの相談について,気を付けることは。
A 死亡の場合は無理にお悔やみの言葉をかけることはなく淡々と進めることもよいが相談者の気持ちを察して。行方不明の場合,法律相談に訪れたのは相談者も3月11日に死亡したとの推定を前提としていると思われる。ただし憶測はせず気持ちを聞いてみる。認定死亡の説明(認定時期の見込み等)や認定された後の相続手続きについて,具体的な次の入り口を示せばよい。
身内に行方不明者がいる場合,あらゆる避難所を訪ね歩き手段を尽くしているのが通常だが,最近では多くの遺体が身元確認できないまま火葬されているのが実情。安易に「ご遺体が見つかるといいですね」とは言わない方がよい。
Q 親族を亡くした未成年者(あるいは若年者)からの相談で,大人たちの相談と異なり,特に留意すべきことはありますか。
A 中学生以上であれば,大人と同様に接するべき。ただ社会経験が少なく気持ちは子どもであることは配慮して。
Q 相談者からの相談内容が的を得ず,わかりにくい場合,堰を切ったように止まらない場合,話をさえぎってしまうのは問題ないですか。また,相談内容が法律問題ではない場合,どのように対応すればよいでしょうか。
A 相談者が他にいない場合はできれば聞いてあげてほしい。時間の制約がある場合,「今のお話をちょっと整理させてください。」「~ということですよね」と一旦待ってもらってテーマを絞ることは問題ない。あまりに一方的に多くしゃべる場合はフラッシュバックの危険もあり,こちらの話を受け入れられないようであればメンタルケアチームの支援が必要。
Q 現状の法制度では相談者の希望に添った制度がない場合の相談に対して,どのように答えるのがよいでしょうか。
A 安易な気休めでなく,根拠に基づく正確な情報を伝えることが大事。ただし断定的な表現は避けて「現在の制度では難しいですね」などと伝えるべき。先延ばしにするにしても,具体的な時期(長めに見積もる)を伝えると安心する。次に繋げる場合は,具体的な相談先を示す。その場で全て解決できるわけはなく,割り切りが必要。
4.法律相談を終える際
Q 相談を終える際,「頑張ってください」「ありがとうございました」などと声をかけることは問題ありませんか。
A 具体的にやるべき目標がなく見通しがない人や,すでに十分すぎるほどがんばっている人にさらに「がんばれ」は逆効果の場合もある。「大変ななかよくお越しくださいました」といった感謝・敬意の気持ちを示すのはよい。「私たちに力になれることがあればまた相談してください」など一言添えるとよい。
5.その他
Q 相談者がいない待機中に,震災とは関係ない話をしたり,談笑することは問題ありませんか。ほかの地域の被災者の状況を話すのは問題ありませんか。
A 特に問題ないが,避難所の外の情報に敏感な人はいる。公共の場における一般的なマナーを守って。
居住性や食事の内容など,避難所によって実情が全く異なる。その避難所の「いいところ」を指摘すると,安心感を得られることもある。
Q その他のアドバイスなど。
A 被災者の支援からの帰りに日常に戻り気が緩んで支援者が事故にあうことはめずらしくないので注意。一般に避難所にアルコールは持ち込まないこととされているが,重い話を聞いた後はアルコールも控えるべき。
専門家へのアクセスについて
主要な避難所や各地域にメンタルケアチームが派遣され待機しているはず。
その当時知りえたアクセス方法を記載しました。
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貧困から凶悪犯罪に至る経路
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-12-28
よく貧困が犯罪の温床となるとか、社会政策こそが裁量の刑事政策だと言われていて、生活苦と犯罪が関連していることはよく言われることですし、その通りだという実感があります。ただ、「貧困だから生活費が無い、だから生活費を稼ぐために犯罪によって金銭を獲得しよう」ということだと短絡的な考えも多いのですが、これは貧困と犯罪の関連性の説明としては間違っているようです。住宅ローンを抱えて子ども三人の養育費を裁判所の命じた通りに支払っている男性は、朝はコンビニのおにぎり、昼はディスカウントストアでまとめ買いをしたカップ麺で、夜は自炊しているという話でしたがまだ良い方でした。同じ様に住宅ローンを抱えて婚姻費用を抱えているお父さんは、電気代節約のため、換気扇の明かりで生活していると言っていました。換気扇に明かりがつくことは知りませんでした。実際に重大犯罪を行った人は、給料が入っても寮費などが天引きされる上、前借金の返済、サラ金の返済、自動車ローンその他でお金が無く、ご飯に焼き肉のたれをかけて食べていただけだったそうです。この人のケースに焦点を当てて説明します。彼は、20代男性です。そんなに悪いやつとは思えません。敬語もきちんと使えますし、他者に配慮もできています。ただ、何をやってもうまくいかず、例えばローンで自動車を買ったのですが、ローンの途中で事故を起こしてしまい、もう一台車を買わなければならなくなりました、ローンを二重に払っているわけです。その他にも人間関係で、悪い人に捕まってしまい、示談金を払っていました。仕事をやったら約束した報酬が支払われないとか、そんなことばっかりで支払いが多くなってしまいました。サラ金からお金を借りても、返すプラス財産が無いので、借り手は返すを繰り返していました。ないところからいろいろ払うわけですから、考えても財源は無いのです。満足に考える余裕はなく、次から次への支払い期限が来て、何とかつじつま合わせをしているという状態でした。本当ならば自己破産をすることになるのでしょうけれど、そのような情報は彼の閲覧している動画には出てきませんでした。彼は凶悪な財産犯となるのですが、ここでも運の悪いことが起きてしまい、極悪な財産犯になってしまいました。ただ私は不思議に思ったのです。彼の借金というか支払うべき金額は、かなり膨大な金額でしたから、その財産犯をしたところで、借金を返し終わるわけはないし、何を目的でその犯罪を行っ..
刑事事件
ドイホー
2023-12-28T16:28:30+09:00
よく貧困が犯罪の温床となるとか、社会政策こそが裁量の刑事政策だと言われていて、生活苦と犯罪が関連していることはよく言われることですし、その通りだという実感があります。
ただ、「貧困だから生活費が無い、だから生活費を稼ぐために犯罪によって金銭を獲得しよう」ということだと短絡的な考えも多いのですが、これは貧困と犯罪の関連性の説明としては間違っているようです。
住宅ローンを抱えて子ども三人の養育費を裁判所の命じた通りに支払っている男性は、朝はコンビニのおにぎり、昼はディスカウントストアでまとめ買いをしたカップ麺で、夜は自炊しているという話でしたがまだ良い方でした。
同じ様に住宅ローンを抱えて婚姻費用を抱えているお父さんは、電気代節約のため、換気扇の明かりで生活していると言っていました。換気扇に明かりがつくことは知りませんでした。
実際に重大犯罪を行った人は、給料が入っても寮費などが天引きされる上、前借金の返済、サラ金の返済、自動車ローンその他でお金が無く、ご飯に焼き肉のたれをかけて食べていただけだったそうです。
この人のケースに焦点を当てて説明します。
彼は、20代男性です。そんなに悪いやつとは思えません。敬語もきちんと使えますし、他者に配慮もできています。
ただ、何をやってもうまくいかず、例えばローンで自動車を買ったのですが、ローンの途中で事故を起こしてしまい、もう一台車を買わなければならなくなりました、ローンを二重に払っているわけです。その他にも人間関係で、悪い人に捕まってしまい、示談金を払っていました。仕事をやったら約束した報酬が支払われないとか、そんなことばっかりで支払いが多くなってしまいました。
サラ金からお金を借りても、返すプラス財産が無いので、借り手は返すを繰り返していました。ないところからいろいろ払うわけですから、考えても財源は無いのです。満足に考える余裕はなく、次から次への支払い期限が来て、何とかつじつま合わせをしているという状態でした。本当ならば自己破産をすることになるのでしょうけれど、そのような情報は彼の閲覧している動画には出てきませんでした。
彼は凶悪な財産犯となるのですが、ここでも運の悪いことが起きてしまい、極悪な財産犯になってしまいました。
ただ私は不思議に思ったのです。彼の借金というか支払うべき金額は、かなり膨大な金額でしたから、その財産犯をしたところで、借金を返し終わるわけはないし、何を目的でその犯罪を行ったのかわからなかったです。
彼の話によると、借金を返し終わることはできないが、ある程度余裕ができ、自分の収入で借金を返していけるようになるのではないかと思ったようです。それも明確に金額を見積もっているのではなく、なんとなくそうではないかということでした。
彼が凶悪犯罪を行った一つの理由は、明白に落ち着いてものを考えることができず、今の極限的な状態から少しでも楽になるということくらいしか考えられなかったことにあるようです。だから、自分がその犯罪を実行したところで成功するかどうかとか、いくら金をとれるかとか、逃げられるかなどということは、気にしてはいたけれどまともには考えなかったということでした。
彼の話を聞いてもう一つ理由がありそうでした。
彼の貧困の状態は結局米にたれをかけて生きていたということですし、何か夢中になれる趣味や、かけがえのない友人関係もなかったようです。何をするにもお金がかかるので結局はお金の問題かもしれません。動画サイトで犯罪の動画ばかりを見ていたようです。もっと給料が上がるような職業はどこかにはあっても、彼の選択肢には上がってきたこともなかったようです。ただ生きていても、社会から尊重されている、自分が誰かから尊重されている、自分が生き生きと充実して生きているという実感なんて考えたこともない生活だったそうです。
それを端的に表した言葉が
「死ぬことは嫌だけど、別に怖いとは思わない。」
でした。
これは、
「犯罪は悪いことだとわかるけれど、逮捕されて刑務所に行ったところで、今よりはましな生活になる。」
ということと同じ意味になる危険が高いと思います。
つまり、凶悪犯罪と貧困を結び付けるもう一つの流れは、「その犯罪をすると、自分の立場が悪くなる。だからしない。」という人間の本能が働きにくくなるということにあると思うのです。
令和5年がもうすぐ終わるわけですが、
令和6年は、ますます、不可解な犯罪、残虐な犯罪が増え、反省をすることがなかなか困難な境遇の人たちが増えていくように思われて仕方ありません。
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ちょっと待って、あなたのその言動をハラスメントチェックしませんか。パワハラ、DV、いじめ、クレーマー等
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-12-25
<ハラスメントの多くは気が付かないうちに行い、みんなに良いことが無い>ハラスメントとは、「相手に対して悪意を持って、相手を傷つけようとして行う言動」ではありません。ハラスメントの加害者だとされている人は、自分がハラスメント行為をしたという自覚は通常ありません。それでもハラスメントの相手方は精神的に傷つき、あなたとの人間関係が悪くなるうえ、あなた自身の他者からの評価が地に落ちてしまい、会社であれば回復しがたい損害が生じることもあります。発言者の思惑にかかわらず、言われた方の受け止めを基準に物を考える必要があります。また、これはハラスメントに限らず、日常の人間関係にある場合に、本来みんなが気にしなければならないことです。<これに気が付いてチェックを開始しよう>先ず、どんな時に、自分の言動をチェックする必要があるかについて考えてみます。・ 声が大きくなったとき・ 自分だけが話しており、相手が口をはさめない状態になっているとき・ 話を続けていても、相手が自分の話に納得していない様子を見せているときこれがあるからと言ってハラスメントでないとは言えない事情・ 第三者が聞いていても誰も自分を注意しない・ 言っている相手が頷いていたり、ニコニコしているように見える場合・ 自分の話しかけのきっかけ及び内容が業務に関連している場合(職場の場合)子育てや家計、家事に関係している場合(家庭の場合)自分の正当な権利に関しての発言の場合(クレーマー)道徳や正義、常識に関する話しかけの場合(共通)自分の言動で気が付いてハラスメントだと判断して修正したり、謝罪したりできれば理想ですが、これはなかなか難しいことです。自分が攻撃者であり、相手に効果的な攻撃をしていると感じている場合は、相手に対する攻撃はむしろ激化してしまうものだからです。言動の後で気が付いて、謝罪し、今後は気を付けるということができれば、大分ましです。相手の傷つきは軽減されますし、あなたの評価は逆に上がるかもしれませんし、人間関係が破綻しないで済むかもしれません。<ハラスメントチェック項目>さて、このような場合、以下の項目に当てはまらないかチェックをすることをお勧めします。1)自分の指示、お願いごとなどが相手にきちんと伝わっているか。 ハラスメントの要素の一つに不可能を強いるというものがあります。「言わないことを言われた通りしろ。」という図式が成り立つ不可能を強いるパターンは実に..
進化心理学、生理学、対人関係学
ドイホー
2023-12-25T12:01:40+09:00
<ハラスメントの多くは気が付かないうちに行い、みんなに良いことが無い>
ハラスメントとは、「相手に対して悪意を持って、相手を傷つけようとして行う言動」ではありません。ハラスメントの加害者だとされている人は、自分がハラスメント行為をしたという自覚は通常ありません。
それでもハラスメントの相手方は精神的に傷つき、あなたとの人間関係が悪くなるうえ、あなた自身の他者からの評価が地に落ちてしまい、会社であれば回復しがたい損害が生じることもあります。
発言者の思惑にかかわらず、言われた方の受け止めを基準に物を考える必要があります。また、これはハラスメントに限らず、日常の人間関係にある場合に、本来みんなが気にしなければならないことです。
<これに気が付いてチェックを開始しよう>
先ず、どんな時に、自分の言動をチェックする必要があるかについて考えてみます。
・ 声が大きくなったとき
・ 自分だけが話しており、相手が口をはさめない状態になっているとき
・ 話を続けていても、相手が自分の話に納得していない様子を見せているとき
これがあるからと言ってハラスメントでないとは言えない事情
・ 第三者が聞いていても誰も自分を注意しない
・ 言っている相手が頷いていたり、ニコニコしているように見える場合
・ 自分の話しかけのきっかけ及び内容が
業務に関連している場合(職場の場合)
子育てや家計、家事に関係している場合(家庭の場合)
自分の正当な権利に関しての発言の場合(クレーマー)
道徳や正義、常識に関する話しかけの場合(共通)
自分の言動で気が付いてハラスメントだと判断して修正したり、謝罪したりできれば理想ですが、これはなかなか難しいことです。自分が攻撃者であり、相手に効果的な攻撃をしていると感じている場合は、相手に対する攻撃はむしろ激化してしまうものだからです。
言動の後で気が付いて、謝罪し、今後は気を付けるということができれば、大分ましです。相手の傷つきは軽減されますし、あなたの評価は逆に上がるかもしれませんし、人間関係が破綻しないで済むかもしれません。
<ハラスメントチェック項目>
さて、このような場合、以下の項目に当てはまらないかチェックをすることをお勧めします。
1)自分の指示、お願いごとなどが相手にきちんと伝わっているか。
ハラスメントの要素の一つに不可能を強いるというものがあります。「言わないことを言われた通りしろ。」という図式が成り立つ不可能を強いるパターンは実に多いのです。この要因としては、
・ 言っていないのに言ったつもりになっている
・ 言い方が下手、わかりづらい、実質的に言っていないと同じ
・ 相手にふさわしい言い方をしていない。ベテランの人にならば十分伝わる指示言動でも新人の人には伝わらないとか、職場ではそのようなコンセンサスがあったが家庭ではないのに家庭でもコンセンサスがあると勘違いしている場合、
2)話している内容がどんどん変わっていっていないか
ハラスメント的言動は、最初に言い始めたきっかけになったことからどんどん変わっていくことが特徴です。「こういう事項については事前に報告をしろ」という話だったのに、受け答えの時の言い間違いや、誤字脱字の話になり、はては受け答えの態度の話になり収拾がつかない状態になるようです。もはや相手の弱点を探し出して攻撃しているということがほとんどです。あれやこれや話が変わっていくときは自分の今の言動はハラスメントかもしれないというチェック場面です。相手に注意、指導する場合は、関連があるかもしれない事項であっても、一度の機会は一つの話題だけで終わらせる
3)同じ話を繰り返していないか
もう、相手を攻撃したいだけの時は、攻撃効果のあると感じた話を何度も繰り返す傾向があります。もはや、思考が停止して、攻撃本能だけで話している可能性があります。そもそも同じ話を繰り返すだけというのはコーチングになっていません。無駄な時間です。
4)過去の話をネタに攻撃していないか
これは二種類の意味があります。
1つは、過去の失敗をネタに攻撃していないかということです。「一事が万事」等と言って今回の失敗と過去の失敗を関連付けて話すことは深刻なパワハラ被害が生じたときに多く行われています。
2つ目は、その行為があったときに言わないで、「あの時は言わなかったけど、こういうことはやめてくれ」というようなことです。何をやめてくれと言うのか全然相手に伝わりません。直しようもありません。具体的にどういうことをもって、あなたはそういうかと尋ねても答えられません。もはや事実に基づいて話しているのでもなければ、何か改善を求めているのでもなく、純粋に攻撃をしたいという意識になっている可能性があります。
5)長時間になっていないか
これが日常的な伝達事項であれば、長くて3分で済むことが通常です。10分、20分と話が長くなるのは、上のチェック項目に複数該当していることがほとんどだと思った方がよいでしょう。
<気が付いたら行うこと>
1 直ちに中止する
話し始めてしまうと、話しが完結しなければ終わることができなくなるものです。しかし、話し続けることの方があなたの評価を下げてしまいます。唐突でも良いので「ごめん、ちょっと考えてみる。」と言って中断しましょう。これだけで、かなり解決する場合が多いようです。
2 その場を離れてチェックする。
いったん相手から離れて、自分の言動が上のチェックリストに該当するならば、次のことを考えましょう。
① 相手に不可能なことを強いていないか。
自分ならばできるということはどうでも良いことです。相手の立場に立って、考えてみましょう。できないならばなぜできないのかを考えて、その理由の言語化をしなくてはなりません。
② 相手の責任が無いことを相手に責めていないか。
相手に責任が無いことを責めてしまうと、相手が混乱してしまうし、あなたに対しての評価が一気に下がってしまいます。二人の関係だけでなく、周囲の雰囲気も悪くなるし、周囲の人のあなたに対する評価も下がってしまいます。
③ 改善点を具体的にコーチングできているか
改善点をコーチングできずに否定評価をしているのであれば、それは単なる相手の否定評価です。何が問題なのか、それをどう解決するのかということをきちんといわなければ社会人としての評価が下がります。
④ 何か別の人間関係でのストレスが無いか
怒りは、大半が別のところで抱えているストレスの解消という関係にあるようです。例えば職場でのパワハラは、自分の上司から無理難題を言われているとか、家庭で夫婦喧嘩をしていたとか、道を歩いて言いがかりをつけられた等のストレスに端を発することが結構あるようです。そのようなストレスはなかなか自覚できないのですが、人間には自分よりも弱い者を攻撃して解消しようとしてしまう行動原理があるようです。別の人間関係でストレスを抱えているときは八つ当たりの危険を意識する必要があるでしょう。
⑤ どうしてもしなくてはならないわけではないのに、相手を低評価していないか。
低評価を自覚させようとして、不必要な人格否定をする場合が多いです。一般的な低評価をさせる必要はありません。ここもくれぐれも注意しましょう。
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私は、パワハラ相談でこういうことを行っています。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-12-21
<パワハラ被害者の方は何度か相談に来る>私の事務所に相談に来るリピーターの方で多いのがパワハラ相談です。実際は、私が「それはパワハラになる」ということを上司に教示して提案して解決したり、すでに退職したりということで、パワハラは終わっているのです。それでも、自分に何が起こっていたのかということを確認したい(そして、安心したい)ということで、何度か面談をご希望されていらっしゃいます。料金も法律相談料に準じてお支払いされてゆきます。そして徐々に、いらっしゃる頻度が少なくなり、いらっしゃらなくなるという経過をだどることがほとんどです。<パワハラ被害の心理面の症状の原因>前回の記事を参考にしていただきたいのですが、パワハラ症状で、心に現れる症状として、自責の念や自己肯定感の喪失というものが現れることが多いです。パワハラを受けているときに、上司から、「お前は無能だ」、「こんなこともできないのか」、「そのくらいのこと考えられないでは社会人失格だ」、「人間としてなっていない。」等と言われることを真に受けてしまい、本当にそう思ってしまうということらしいのです。パワハラの本当に怖いところ、うつ病やPTSDになる原因は、ひどいことを言われて悔しい思いをすることではなく、自分がだめな人間だと思い込んでしまうところにあるようなのです。<非常識な上司の評価を真に受けて悩む被害者>ところが、これも前回の記事で詳しく述べたように、社会常識的に評価すると、大方の人間が、上司が無茶なことや常識はずれのことを言っているに過ぎなくて、「どうしてそんなつまらないことを言われて真に受けてしまうのだろう」と不思議に思うわけです。しかし、パワハラの被害者は、「言われてもいないことでもやらなかったのは自分に問題がある。私が思いつかなかったことは私に問題があるからだ」と思い込んでしまうのです。また、パワハラで傷つく方は「上司から意味の分からない指示を出されて聞き返したりすると『お前は人間としておかしい』」という失礼なことを上司から言われても怒るのではなく、自分は発達障害ではないかと思い悩み、心理テストを受けに行ってしまうのです。<パワハラ相談で私がお話しすること>パワハラの被害者が私のところにいらっしゃるときは、皆さん損害賠償やコンプライアンスへの相談申立てや、労災申請などが漠然と念頭に置かれています。ただ、パワハラと言っても実際は程度の違いがあったり、症状も程..
労災事件
ドイホー
2023-12-21T13:56:40+09:00
<パワハラ被害者の方は何度か相談に来る>
私の事務所に相談に来るリピーターの方で多いのがパワハラ相談です。実際は、私が「それはパワハラになる」ということを上司に教示して提案して解決したり、すでに退職したりということで、パワハラは終わっているのです。それでも、自分に何が起こっていたのかということを確認したい(そして、安心したい)ということで、何度か面談をご希望されていらっしゃいます。料金も法律相談料に準じてお支払いされてゆきます。そして徐々に、いらっしゃる頻度が少なくなり、いらっしゃらなくなるという経過をだどることがほとんどです。
<パワハラ被害の心理面の症状の原因>
前回の記事を参考にしていただきたいのですが、パワハラ症状で、心に現れる症状として、自責の念や自己肯定感の喪失というものが現れることが多いです。パワハラを受けているときに、上司から、「お前は無能だ」、「こんなこともできないのか」、「そのくらいのこと考えられないでは社会人失格だ」、「人間としてなっていない。」等と言われることを真に受けてしまい、本当にそう思ってしまうということらしいのです。
パワハラの本当に怖いところ、うつ病やPTSDになる原因は、ひどいことを言われて悔しい思いをすることではなく、自分がだめな人間だと思い込んでしまうところにあるようなのです。
<非常識な上司の評価を真に受けて悩む被害者>
ところが、これも前回の記事で詳しく述べたように、社会常識的に評価すると、大方の人間が、上司が無茶なことや常識はずれのことを言っているに過ぎなくて、「どうしてそんなつまらないことを言われて真に受けてしまうのだろう」と不思議に思うわけです。
しかし、パワハラの被害者は、「言われてもいないことでもやらなかったのは自分に問題がある。私が思いつかなかったことは私に問題があるからだ」と思い込んでしまうのです。また、パワハラで傷つく方は「上司から意味の分からない指示を出されて聞き返したりすると『お前は人間としておかしい』」という失礼なことを上司から言われても怒るのではなく、自分は発達障害ではないかと思い悩み、心理テストを受けに行ってしまうのです。
<パワハラ相談で私がお話しすること>
パワハラの被害者が私のところにいらっしゃるときは、皆さん損害賠償やコンプライアンスへの相談申立てや、労災申請などが漠然と念頭に置かれています。ただ、パワハラと言っても実際は程度の違いがあったり、症状も程度の違いがあったり千差万別です。パワハラだから何をするということが決まっているわけではありません。ご本人と話し合って、一番ふさわしい方法を選択しているということが実情です。
その選択の資料にするために、何が起きたのか、時系列に添ってお話ししていただくことは不可欠です。ご本人の体調次第ではありますが、時系列のメモを作っていただくことも多いです。ただ、これは苦しいことを思い出す作業なので、無理に一人お作業をさせることは慎重になる必要があります。
メモは不完全で構いません。抽象的な表現でも構いません。ただ、順番だけを気にしていただきます。そして、面談で、順番に添って一つ一つのエピソードを伺ってゆきます。
そして、そのエピソードについて私が解説をしてゆきます。ここで肝心なことは、「あなたは悪くない」というアバウトな気休めを言っても何も意味が無いということです。
前回の記事でお話ししましたが、私の考えるパワハラの3要素は1)不可能を強いる、2)評価を下げる(これは様々な意味があります)、3)孤立させるというものです。
それから人間は群れの権威に迎合をする本能があること等から、パワハラ上司の言葉がまともなことを言っているように思えてきて、それを実現しなければならないように思い込んでしまうようになるということを説明していきます。
迎合しようとするのだけど、上司からは否定されるということは、ある意味不可能を強いられることであり、かなり精神が傷つくことです。この傷つきは人間の本能に起因することなのです。
次に、あるいは前後して、本来上司は「そういう場合どのように業務指示をするべきか」ということを労務管理とコーチングの視点から私が評価をしていきます。どの点が業務指示として成り立っていないか、稚拙なのか、通常の人間は部下としてその言葉でどういう風に判断するのかということを説明していきます。その結果不可能を強いることになるし、評価が下げられる不安が大きくなるので、ますます上司に従おうとしてしまうということを説明してゆきます。
ただ、部下としての本人の弱点もきちんと取り上げてゆきます。大体は、経験年数が低い、言葉を文字通り受け止めてしまう、真面目過ぎる、責任感が強すぎるということになることが多いようです。
つまり、善か悪か白か黒かという二者択一的な説明をするのではなく、相手の修正するべき点とこちらの修正すべき点をしっかりと説明するということです。
大体パワハラをしなければ業務指示ができない上司は、上司としての評価が下がりますが、心理分析を加えると、例えば子どもっぽい(ダダッタコというか)とか、「相手の気持ちを考えることができない人」だとか、余裕のない人という評価が妥当することが多いです。
こういう立派でもない人の話を真に受けていた、その通りにしようとしなければならないと思い込んでいた、馬鹿な考えを抱いてしまっていたということをしっかりと自覚していただきます。
なかなか一回だけで洗脳が解けるということはありません。1回目は、頭では自分の考え(自己低評価、自責の念等)がばかばかしいことだということは理解されるようです。これだけで苦痛はだいぶ緩和されるようです。しかし、十分腹に落ちるためには何回かの面談が必要なようです。少しずつ安心感を蓄積されていく感じです。
<精神科医、カウンセラーとの関係>
私のところに何度かいらっしゃる方は、精神科にも通院しているし、臨床心理士からカウンセリングも受けている(但し、精神科医と心理士は連携が取れている)方がほとんどです。私と面談していることも、医師や臨床心理士に伝えるようお願いしています。また、私が紹介する医師や臨床心理士にお世話になっている方も多いです。
ご本人から心理士や精神科医の施療の内容を教えていただくのですが、アプローチが全く違うことに気づかされています。心理士や精神科医は本人の問題として本人に働きかけて、本人の状態を改善するように働きかけるようです。私は本人の改善を目標とはしません。それは医師や心理士の領域のことだと思っています。そうではなく、本人を取り巻く人間関係の状態が、本来どうあるべきか、何が欠けていたのか、今後はどのように修正されるべきかということを本人と一緒に考えるという、人間関係の状態について考えるということをやっているわけです。
あくまでも、将来的に起こす法的手続きに向けた準備ということは間違いないです。但し、状態が良くならないために損害賠償や労働災害申請をするよりも、症状が消える方がより価値が高いということもアドバイスします。そして過去を何らかの形で清算する作業が不要となり、私へのご依頼が無くなっても、むしろそれが私の一番の収穫であると嬉しい限りです。
<料金と付き添い人歓迎のこと>
料金は相談方法と料金のページを参照していただければと思います。結局は所要時間によって料金が高くなってしまいますので、時系列メモを作っていただくことで料金がかさばらないし、私としてはお話もしやすいのでウインウインの関係になります。
また、若い人であればご両親と一緒に、そうでない場合はご兄弟やご友人、配偶者と一緒にお話をされる場合もいらっしゃいます。特に最初は、誰か信頼できる方と一緒においでいただいた方が良いと私も思います。
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あなたの健康と行動の異変は、不合理極まりないパワハラによるものかもしれません。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-12-07
事務所のホームページ記事の原稿を転載します。いろいろと工夫を試みてみます。1 パワハラを受けた時に出現する体と行動の異変 これまで多くのパワハラ事件(自死の労災申請、うつ病など精神疾患の労災申請、損害賠償、改善請求、継続相談)を担当してきました。(私の労災事件実績を参考にしていただければ幸いです。)ホームページ用なので・・ 多くのケースで共通する様々な異変について、先ず紹介します。すべての症状が現れるわけではありません。・ 体に現れる異変 体重減少。特に朝に吐き気がする、実際に出勤途中で吐く場合もある。朝目が覚めてもなかなか布団から起きられない。全身の倦怠感。頭痛。難聴。味覚障害。・ 行動に現れる異変 いつもの時間通りに家を出るが、会社の近くでぎりぎりまで出勤しない。集中力が続かない。記憶が飛ぶときがある。注意力が著しく減少している。ルーティンのような趣味の活動をしたいと思わなくなる。推し活とか、定期的に購読していた雑誌に手が届かないとか。家族に八つ当たりしている。あるいは、休日は家に閉じこもりがちになる。・ 心に現れる異変 自分が低いレベルの人間だと思う。自分は仲間に迷惑をかける存在だと思う。自分は世の中に不要な存在だと思う。何かを壊したい。自殺をする自分を想像してしまう。家にいても、不意に上司から叱責をされた時の感覚が突如よみがえり苦しくなる(具体的な出来事を思い出しているわけではない)。悪夢を見る。理由もなく何か悪いことが起きるのではないかと感じて敏感になる。現実感が無くなり、すべてが他人事のように感じる。 これらの症状は、長年パワハラを受け続けて起きるというよりも、2か月程度のパワハラでも起きるケースが複数件ありました。2 パワハラで苦しむ人の多くに共通する性格1)真面目で正義感が強い。2)責任感が強くて素直。3)能力がある。本当は、会社に行きたくないのに、「会社には遅刻しないでいかなければならない。」ということを強く意識しすぎるわけです。体はもう限界で、何とかストップをかけようとしているのに、色々なアクシデントを想定して家を出ていきます。でも出勤したくないという気持ちが強いため、会社の近くのコンビニや自家用車の中で時間をつぶしてぎりぎりに出勤をするひとがとても多いです。上司などから言われたことは遂行しなければならないと思います。これも当たり前と言えば当たり前のことなのですが、度が過ぎるようで..
自死(自殺)・不明死、葛藤
ドイホー
2023-12-07T13:56:13+09:00
1 パワハラを受けた時に出現する体と行動の異変
これまで多くのパワハラ事件(自死の労災申請、うつ病など精神疾患の労災申請、損害賠償、改善請求、継続相談)を担当してきました。(私の労災事件実績を参考にしていただければ幸いです。)ホームページ用なので・・
多くのケースで共通する様々な異変について、先ず紹介します。すべての症状が現れるわけではありません。
・ 体に現れる異変 体重減少。特に朝に吐き気がする、実際に出勤途中で吐く場合もある。朝目が覚めてもなかなか布団から起きられない。全身の倦怠感。頭痛。難聴。味覚障害。
・ 行動に現れる異変 いつもの時間通りに家を出るが、会社の近くでぎりぎりまで出勤しない。集中力が続かない。記憶が飛ぶときがある。注意力が著しく減少している。ルーティンのような趣味の活動をしたいと思わなくなる。推し活とか、定期的に購読していた雑誌に手が届かないとか。家族に八つ当たりしている。あるいは、休日は家に閉じこもりがちになる。
・ 心に現れる異変 自分が低いレベルの人間だと思う。自分は仲間に迷惑をかける存在だと思う。自分は世の中に不要な存在だと思う。何かを壊したい。自殺をする自分を想像してしまう。家にいても、不意に上司から叱責をされた時の感覚が突如よみがえり苦しくなる(具体的な出来事を思い出しているわけではない)。悪夢を見る。理由もなく何か悪いことが起きるのではないかと感じて敏感になる。現実感が無くなり、すべてが他人事のように感じる。
これらの症状は、長年パワハラを受け続けて起きるというよりも、2か月程度のパワハラでも起きるケースが複数件ありました。
2 パワハラで苦しむ人の多くに共通する性格
1)真面目で正義感が強い。
2)責任感が強くて素直。
3)能力がある。
本当は、会社に行きたくないのに、「会社には遅刻しないでいかなければならない。」ということを強く意識しすぎるわけです。体はもう限界で、何とかストップをかけようとしているのに、色々なアクシデントを想定して家を出ていきます。でも出勤したくないという気持ちが強いため、会社の近くのコンビニや自家用車の中で時間をつぶしてぎりぎりに出勤をするひとがとても多いです。
上司などから言われたことは遂行しなければならないと思います。これも当たり前と言えば当たり前のことなのですが、度が過ぎるようです。「できませんでした。」と言うことができないようです。「上司は自分のできることでは無ければ命じないはずだ」と無意識に思ってしまい、「できないのは自分が悪い」という発想になじんでしまいます。そして業務遂行能力があるため、無理なこともやろうとしてしまいがちです。
極端な話、「嫌なものはやりたくない」とか、「無理っぽいことはできないからやろうとしない」とか、「どうせ自分は能力が無いので、できないことはできない」とすでに割り切っている人は、同じパワハラを受けても、「また怒られちゃったよ。」と笑いのタネにしたりして、あまり気にしていない人は実在します。
能力があると、会社の無理なノルマも時間をかけても達成させようとしてしまうし、ある程度達成できてしまいます。上司は「この人の尻を叩けばセクションのノルマが達成できる」ということで、他の人よりも厳しく当たることがあるようです。
いずれにしても1)真面目で正義感が強い。2)責任感が強くて素直。3)能力がある。という人は、過労死をする人に当てはまる特徴でもあります。会社は業績を上げる社員に対してパワハラをしてさらに苦しませていることをしているわけです。これでは生産性も低下していくことでしょう。
3 身体症状が出るメカニズム
頭痛、吐き気、朝に起きられなくなるその他の身体症状ができる理由は、身体(脳)が行動をストップさせていると考えられないでしょうか。例えば足首をねんざする(軟骨や筋肉繊維の挫滅)と、痛くて歩けなくなります。このおかげで歩かないでいると、足首が回復して歩けるようになります。ところが、痛みを感じないで歩き続けると、いつまでも負傷が回復しません。痛みは行動を止めて体を回復させると考えられます。
比ゆ的に言えば、心が負傷しているのに、その原因を繰り返そうとすると、回復できなくなることを恐れて、体のどこかに不具合を起こして行動をストップさせているように感じます。本来であれば、心が壊れそうなことはやらなければよいのですが、真面目で責任感が強く、「やらなければならないことはやらなくてはならない」という信念があると、弱音を吐くことができないし、不安を感じることも自分で拒否してしまうようなところがあります。少しずつ、不快や恐怖、不安を吐き出すことができないので、気が付けば体に異変が出てしまうということではないでしょうか。
体の異変は心が壊れつつあることを本人の意識に上らせるシステムだと考えます。
そしてこれらの異変は、パワハラ職場から退職などで離脱しても、適確な対応(治療や心理療法)を受けなければ継続してしまうこともありますし、自死に至る場合もあります。ここで書いた症状が出たら、できるだけ早く、あなたの状態を理解してくれる人に打ち明けてほしいと思います。
4 どんなことがあると心が壊れるのか
多くのパワハラのサバイバーから話を聞きました。ある時期、臨床心理学の研究者の方と合同で事情聴取をしたこともありました。まとめると以下のような場合に心が壊れるようです。
①不可能を強いられた時、②仲間として低評価を受けたとき、③孤立・誰も助けてくれない
①不可能を強いられるというのは、文字通りできないことをやれと言われた時ですが、それをやらなければ低評価を受けなければならない状態が待っています。例えて言えば、とても高い梯子の上まで登らされて、「雲の塊をつかんでもってこい、さもないと梯子を叩き壊す」と言い続けられているような感覚のようです。もちろん仕事上そのような命の危険があることは現実にはないし、無理な業務命令を出されてもそれだけで命を落とすことが無いにしても、まるで命を落とすような絶望感を抱いてしまうようです。
②上司からの低評価があると、「何とか低評価を改めてもらいたい」と自然に思うのが人間のようです。つまり、群れに所属していたい、群れから追放されたくないという心というシステムがあったために、人間は文明も言葉もない時代も群れを作ることができ、代々生き続け、今の私たちがあるということになります。そしてその心ができたころから脳は進化していないといわれているので、私たちの脳は200万年前から数万年の仕様のままなのです。しかし、その低評価が改められなければ、自分に対する低評価が改善されることはない、つまり絶望を抱くということになります。
③孤立は、仲間のすべてから低評価を受けているということですから、200万年前から数万年前の仕様の人間の脳にとって、死に匹敵する恐怖、絶望感を抱くものなのだと思います。自分の評価が改善されないという確固とした絶望感を抱かせる要因になると思います。
<会社だけの問題が世の中すべてからの問題だという錯覚>
それにしても、「これは、会社の中だけの話だから、会社にいる時間だけの信望ではないか。死ぬことに匹敵する絶望感は大げさではないか。」と思われる方もいらっしゃると思います。通常はそちらの感覚の方が一般的かもしれません。しかし、先の200万年前から数万年前の仕様の脳は、複数の人間関係を経験していないので対応していません。一つの群れでの出来事がこの世の中から自分は低評価を受けている、自分は世界から孤立しているという感覚を持たされてしまうということが起きているということなのだと思います。
5 実際の事件で起きていた、不可能、低評価、孤立
<不可能を強いる>
「知らないことをやれ」ということが本当に多いです。これは入社して日が浅い新人が過労自殺をした多くの事例で言われていたパターンです。「知らないこと」とは、教えていないこと、経験が乏しくて命じられた内容や遂行の方法を理解できないことが典型です。そのさらに不合理なことは、言葉にしていない上司の感情でした。「俺はお茶を飲みたいのだからお茶を持ってこい。」、「新聞を読んでいるときだけは話しかけてほしくないのだから話しかけるな。」、「このパターンの行動をしているときは、俺はこういうことをお前に期待しているのだからその通りやれ」。はたで見ていると怒りさえわくことですが、言われている本人は、それを知らなくてはだめなのだと思い込まされてしまい、上司の顔色ばかりを見るようになってしまいます。
「膨大な量を時間までにやれ」これも、確かに仕事はだらだらやるものではないことは間違いないですが、極限まで無駄を切りつめても時間オーバーになるようなことを強制します。時間オーバーの原因は、ベテランならできるけれど仕事に不慣れな新人のためにできない。例えば会社の車で移動をすれば時間通りに帰社できるけれど、会社の車を使わせないために時間通りに帰社できない、営業のように相手のある仕事のため、運不運があって、時間の見当がつかない。
「複数のことを同時にやれ」確かに職場によっては、例えば書類を作成しながら、接客をしなければならないこともあるでしょう。しかし、厳密に考えると複数のことを同時にやっているわけではなく、時間で切り上げて順番にやっているだけなのです。例えばラジオを聞きながら勉強すると言っても、ラジオに意識が向いているときは勉強をしていませんし、勉強に意識が向いている時間はラジオに意識は向きません。どうやら200万年前から数万年前の仕様の人間の脳は複数のことを同時に行うようにはできていないようです。自分の体の痛みすら、一番痛い痛みしか感じることができません。側部抑制というようですが、これはアリストテレスの時代から言われていることのようです。無意識にであれば、様々な情報を脳がキャッチしているのですが、意識に上るのは一つのことという人間の限界があるようです。
「何を言っているのかわからない。指示されたのかもわからなかった。言っていることが前と違う。」 「あれやっておけよ」とか言われても「あれ」がなんだかわからず、軽い調子で言われたので、「それほど重要なことではないかな」と軽く流してしまったら、「なんでこれをやらないのだ。」と強く叱責され、入社時のエピソードまで穿り返されてみんなの前で馬鹿にされるというようなことも結構見られます。前は、「ほうれんそうは大切だからこういうことはきちんと上司にお伺いを立てろ」と言っておきながら、次に同じことを報告したら、「いちいちこんなことで上司の時間を奪うな。」と説教されるということも多いようです。
クレーム対応で会社の判断が必要であるにもかかわらず、会社が何も判断をしないためにクレーマーにさらされたままになっていたということもありました。
こうやって文字で書くと、実にばかばかしいことだと感じられるでしょうが、不可能なことをしなくてはならないという思いに駆られて逃げ場のない従業員は、徐々に初めから不可能だということを認識できずに、できない自分が悪いと自分で自分を責めるようになってしまいます。
<低評価>
低評価とは一言で言うと仲間として認めないということを本人に示すことです。
「追放を示唆する言葉」「仕事をやめちまえ」「転職先を探してやる。」「君にはこの仕事は無理だったのではないかな」
「働く資格が無いことを示す言葉」「こんなの子どもでもわかる。」「俺の孫でも知っている。」「幼稚園からやり直せ」「給料泥棒」
「暴力」暴力は痛いから心が壊れるのではなく、仲間であれば健康を気遣われるはずなのに、一切気遣わないということを示されていること、暴力を振るわれても仕方がない奴だという意思表示が示されていると受け止めるから脳の仕様の問題で絶望を抱きやすいので心が壊れるのだと思います。「このノルマを達成しないとロープで縛って、7階の事務所の窓からぶら下げるぞ」等も実際にあった発言です。上司は冗談を交えて言っているつもりかもしれませんが、本人はそれ以上の恐怖を感じてしまいます。
「人格否定」本来すべてが人格否定ですが、仕事を与えない、親の悪口を言う、業務の遂行と関係のないことを非難される、差別侮辱的な言動等が典型なのでしょう。
「不合理な低査定」理由がある低い査定評価であればまだショックは小さいかもしれませんが、言いがかりのような低い査定の場合は、「いい加減な考えで、自分やその家族に対して不利益を与えても良いのだ」という低評価を受けている意識が強くなるようです。
低評価を受けるたびに、本人は、何とか低評価を改めてほしいと不可能なことを実行しようとさらに考えてしまい、ますます行き場がなくなってしまうようです。
<孤立>
上司から低評価を受けること自体が、200万年前から数万前の仕様の脳は打撃を受けるのですが、上司以外の仲間からも低評価を受けることに打撃が強くなるようです。
本人の脳は、「仲間から助けてもらいたい、フォローをしてもらいたい」という意識です。それにもかかわらず自死が起きた事例では、誰からもフォローが無かったという事例が多かったです。
不当だと思っているうちは、「上司のパワハラを誰かが止めるべきだ」という具合に要求度が高くなるようです。だんだんそのような怒りは消えてゆき、あきらめが優位になっていくようです。
他者の前での叱責は、孤立無援であるという意識を強めます。
そして、徐々に、他の部下も「その人を仲間として尊重しなくてよいのだ」という意識が生まれてくるようです。その人が尊重されない理由を探して、自分の同情心を抑えるという心の作業も行っているようです。当初は心配そうにこちらを見ていたのに、徐々にいつもの光景だと思うようになり、パワハラをされている方に対して、「いい加減に直せよ」という意識を持ってきてしまうこともあるようです。「人が叱責されていることを見たくない」という意識がやはりあるようなのですが、その原因を不合理に叱責されている被害者に求めていくようになるようです。
パワハラを受けている方は、パワハラを受け続けていくうちに、孤立感を深めていくようです。
後で構わないから、「ひどかったね。」、「一方的だったね。」、「大丈夫か」という言葉あればどれほど救われたことかと思ったことは多いです。なぜ、かばうことができないのか。一つ言えることは、一人の人が叱責されていても、それが大勢の前で行われているときは、それを聞いている人たちも攻撃を受けているという意識を持ってしまうということがどうも起こっていように感じられます。
孤立は絶望感を深めてしまいます。
6 本人や周囲がパワハラの影響に気が付いた時にすべきこと
<理解してくれる誰かに苦しみの状況を話す。>
あなたが苦しんでいること、苦しんでいる原因に会社での出来事があること、そしてその出来事が理不尽であり、人間に対する不当な扱いだということを理解できる人間にお話をしていただくことが第1です。
多くの人は、これまで述べてきたようなパワハラがあるとは想像もつかない人が圧倒的多数です。多少の厳しさはあるけれど、会社なのだから理不尽なことは無いという先入観から、「そんなことで弱音を吐くな」、「昔はもっと厳しかったぞ」ということを言ってしまうことがあります。これは客観的には、毛をむしられたいなばの白兎の傷口に塩をも見込むようなものです。パワハラの精神症状が出ている人は、病的に安心ができないという状態です。「自分たちはあなたを見捨てない」というメッセージを強く発信し、ガマの穂綿にくるませることが必要であるはずです。
ここで話を理解できる専門家とは、一つはパワハラの事例を多く扱ってきて、実際にカウンセリング的な対応を行っている弁護士です。但し、弁護士はカウンセリングそのものやましてや精神的治療ができるわけではありません。職場を離れても精神症状が消えない場合は、きちんとした施療が必要です。
ただ、セラピーなどは、あくまでも本人の状態を改善するということに主眼を置いています。何が起きたのか、それは気にするべきことなのか、客観的に合理性があるのかということについては、パワハラ対応ができる弁護士から説明を受けることが有益であるようです。だから、精神科治療や臨床心理での施療と同時並行的に対応されることが良いのではないかと思われます。弁護士に対して、医師や心理士から、その説明をすることは今は有害だと言ってもらえる関係にあることはなおよいことだと思っています。
ここでつくづく思うのは、「あなたは悪くない」としか言えない支援者です。あまり意味のある言葉ではないようです。むしろ何が起きたのか、それはどうして起きたのか、どこが不合理なのかということを理解してもらうことが、医師や心理士以外の支援者の役割なのだと思います。
その上で、家族が安心できるその人の人間関係であるならば、家族にも説明をして、理解を共有するとともに、家族から安心感を与えられていることを実感してもらい、安心の記憶を積みかさねていくことを働きかけることが有効なようです。
基本は、よく話を聞いてもらう、安心できる場所に我が身を置く、そして嫌な記憶を忘れるよりも、もう安全なのだということを少しずつ自分に定着させていくということなのだろうと思っています。
7 企業は何を考えてどう予防するべきか
さて、昨今、企業の側も、国の指導が功を奏してパワハラ防止の対策を講じることが多くなっています。しかし、国の示した基準などが難解だということもあってなかなかしっくりくる対策を講じることに困難を覚えているようです。
一人の人を精神的に追い詰める行為は、本人自身が抵抗があることも多く、周囲の目もありますので、本来はしにくいのです。相手の気持ちを考えると、本来はパワハラなどということはできません。だから、「どうしてパワハラができてしまうのか。」という視点を持つことが有効だと思います。
一言で言えば、
言われている相手の気持ちを考えたり、共感したりすることができない
そういう状態にあるからだと考えるべきだと思います。
その要因は、
自分自身が精神的に追い込まれている。このため、他人の気持ちという複雑な問題を考えることができなくなっている。ここで言う精神的な圧迫は、会社に限らず、私的生活の中にある場合もあります。
会社の中には、無理だとわかっていて、100%達成など初めからできないだろうとしながら、目標を高く掲げて80パーセントでも良しという本音を隠して目標設定をする場合があります。でも真面目な人たちは100パーセントにこだわってしまう、真に受けてしまう、その結果無理を通そうとするという悪循環になるか、初めから無理な目標だから真面目に取り組まないかいずれにしても比較的長期的に見れば生産性は下がる運命にあると私は思います。
パワハラが起きた場合は、会社全体の指示の合理性をくれぐれも見直す必要があると思います。
無理を通す不合理な目標で思い出すのは東日本大震災の時のノルマでした。営業職の人が受けた不合理なノルマは、「その年度内の目標は被災地においても達成するように」というものでした。つまり震災を無かったことにするというノルマです。震災から半年くらいは仕事にならず、営業をしても購入は見込めなかったのに、被害品の再購入を当て込んで、増益を指図したわけです。しかし、業績を上げる営業担当は、相手が買えない状態だという事情も分かりますから、営業をかけること自体を躊躇するわけですが、そういう消極姿勢をみた経営者たちから尻を叩かれた上司は、先ほどの「窓からぶら下げる」発言や、「転職先を紹介する」等の言動で部下を追い込んでいったわけです。
なお、上司個人の問題がある場合も少なくありません。元々相手の気持ちを考えることができない問題を抱えている場合が確かにあるようです。こういうケースは簡単に最悪のケースが起こりうるため、会社はその人の資質を見抜き、常日頃の情報を収集するという細心の注意が必要となります。こういう人が営業所のトップにいると、営業所全体の雰囲気が悪くなり、多店舗の実績に比べて不自然に売り上げが減少していることがよく見られます。自分が知っていることは部下も知っていると考えて、自分の頭の中だけでひらめいたことをしないと言って部下を叱責するのはこういう人が多いです。
根本的には、精神論に終始する労務管理を改めて、コーチング技術を強化することが必要です。コーチング技術が無く、労務管理上のリテラシーが乏しい場合、業務指示が伝わりませんから、生産性が下がります。どうして、自分の思い通りに行かないのだというもどかしさから、どうしても感情的に解決しようとしてしまいます。それは解決になりません。
部下のミスを叱るのではなく、チャンスと思って、行為場合はこうするこういう場合はここに気を配るということを示す方が効率が善いことは間違いありません。「自分の頭で考えさせる方が身につく」ということは、特に新人の場合は間違っています。考えるための素材が無いからです。また、身につくというのは、反復継続してかなうものです。頭で理解することと実行することは必ずしも同じではないことはよく経験していることだと思います。
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楽天は、今が企業イメージを向上させるチャンス パワハラを無くすという目標ではなく、ゼロの先のプラスの目標を掲げて実践するという提案
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-12-01
と私が提案してもどうなるものではないのはわかっています。同じような状況にある企業の担当者さんが偶然読んでヒントにしていただければと思って書いています。<パワハラ不祥事の直後こそ企業のイメージアップのチャンス>パワハラがあったこと自体が企業の生産性が阻害される要因になります(モチベーションの低下、委縮、言われたことだけをしようとするようになり、自分の頭で考えなくなる。無駄な神経の集中があるためにミスが増える。)。もちろん、被害者の人権が侵害されるということも企業は考えなければなりません。しかもそれが、外部に公表されてしまい、話題になってしまうと、企業イメージが低下してしまいます。体力のない中小企業であれば、それだけで事業廃止となる場合もあるでしょう。企業としては、経済活動を継続しなくてはなりません。そうするとどうしてもパワハラの負の企業イメージを払しょくしようとしてしまいます。そしてそこで終わってしまうことは、ダメージを受けている経営陣としては仕方が無いことかもしれません。しかし、それでは大変もったいないのです。実はこのような社会的不祥事として認識される出来事がある時は、世間の注目を浴びているということです。そこで、ネガティブイメージを払しょくすることにとどまれば、結局過去の記憶が消えませんので、差し引きマイナスで終わってしまいます。しかし、ネガティブイメージを払しょくする以上に、新しく安心できる人間関係を形成している姿を見せることで、ポジティブイメージを世間から持ってもらう千載一遇のチャンスでもあります。さらに、企業内部のこのようなポジティブ政策の推進の優先度を上げることのコンセンサスが作りやすいという状況もあります。企業が一丸となって、生まれ変わろうとしやすいというこれも千載一遇のチャンスだと思います。平時の場合は、そんな内向きの政策をするより、取引相手に対してアピールできる外向きの企業戦略をとるべきだということになるでしょう。しかし、有事という危機感を共有している場合は、課題が人間関係の状態という環境改善にあることのコンセンサスを作りやすくなっています。また、注目されているので、そのような人間関係を外部にアッピールしやすいため、外向きの企業戦略にもなるわけです。<チャンスを生かすために考えるべきこと>では、何をするか。これをわかりやすく説明するために、申し訳ないのですが、楽天の会見を引き合いに出させていただき..
労務管理・労働環境
ドイホー
2023-12-01T11:59:01+09:00
と私が提案してもどうなるものではないのはわかっています。同じような状況にある企業の担当者さんが偶然読んでヒントにしていただければと思って書いています。
<パワハラ不祥事の直後こそ企業のイメージアップのチャンス>
パワハラがあったこと自体が企業の生産性が阻害される要因になります(モチベーションの低下、委縮、言われたことだけをしようとするようになり、自分の頭で考えなくなる。無駄な神経の集中があるためにミスが増える。)。もちろん、被害者の人権が侵害されるということも企業は考えなければなりません。
しかもそれが、外部に公表されてしまい、話題になってしまうと、企業イメージが低下してしまいます。体力のない中小企業であれば、それだけで事業廃止となる場合もあるでしょう。
企業としては、経済活動を継続しなくてはなりません。そうするとどうしてもパワハラの負の企業イメージを払しょくしようとしてしまいます。そしてそこで終わってしまうことは、ダメージを受けている経営陣としては仕方が無いことかもしれません。
しかし、それでは大変もったいないのです。実はこのような社会的不祥事として認識される出来事がある時は、世間の注目を浴びているということです。そこで、ネガティブイメージを払しょくすることにとどまれば、結局過去の記憶が消えませんので、差し引きマイナスで終わってしまいます。しかし、ネガティブイメージを払しょくする以上に、新しく安心できる人間関係を形成している姿を見せることで、ポジティブイメージを世間から持ってもらう千載一遇のチャンスでもあります。
さらに、企業内部のこのようなポジティブ政策の推進の優先度を上げることのコンセンサスが作りやすいという状況もあります。企業が一丸となって、生まれ変わろうとしやすいというこれも千載一遇のチャンスだと思います。平時の場合は、そんな内向きの政策をするより、取引相手に対してアピールできる外向きの企業戦略をとるべきだということになるでしょう。しかし、有事という危機感を共有している場合は、課題が人間関係の状態という環境改善にあることのコンセンサスを作りやすくなっています。また、注目されているので、そのような人間関係を外部にアッピールしやすいため、外向きの企業戦略にもなるわけです。
<チャンスを生かすために考えるべきこと>
では、何をするか。これをわかりやすく説明するために、申し訳ないのですが、楽天の会見を引き合いに出させていただきます。私は、地元イーグルスファンなので、どうぞご理解いただきたくお願いいたします。
と言っても誤解していただきたくないのは、かなり誠実に記者会見をしています。対症療法的とはいえ対策も示し、企業としての責任にも言及した上、当該選手の再出発の支援も表明しているので、かなり良い会見内容だったと思います。被害者のプライバシーもありますから、これ以上の情報開示もなかなかできなかったことも理解しています。
そこから先は全くの特殊専門的な分野の話なのでしょう。では、説明していきます。
<パワハラが生まれない人間関係を作る方法>
一番大事なことは、パワハラがあったときにどうするかということよりも、パワハラを起こさない人間関係の形成ということです。パワハラは起きてしまえば生産性が低下します。人権問題も起きてしまいます。外部アッピールはともかくここを根本的に解消しなくてはなりません。
そのためには、理想とする人間関係像の構築をすることになります。そしてそのためにも、何が起きていたのかという外面的な問題を踏まえて、行為者や被害者、そしてそれを知っていた人たちの行動決定原理を聴取する必要があると思います。
<加害者の事情聴取の目標>
加害をした行動決定原理、加害をやめようとしなかった行動原理がどこにあったかの聴取と分析をすることだと思います。理想は、野球に縁のない弁護士と心理士のチームによる事情聴取です。これはパワハラ行為者の再出発にとっても必須のことです。悪いことだから謝罪するというのでは、再発防止はできません。悪いことだと思ったのか、悪いことだと知っていたのにそれをやめられなかったのはなぜかという観点から一緒に考えてゆきます。
私は、本人が反省しているのならば、会社は1年間職員として採用をし、この「反省」プロジェクトに参加をさせても良いのではないかと思うのです。もちろん、必要な練習はサポートしても良いと思います。パワハラをごまかしたわけでもなく、行為者の個人的責任にもしないということは、企業としてポジティブなイメージを持たれると思います。
本人が何に追い詰められていたのかそれを突き止める責任が企業にもあると思います。
<人間関係形成のために一番重要な被害者からの事情聴取>
次に被害者の行動決定原理です。「なぜ、抵抗ができなかった」のかということです。この理由はかなりの闇がまだ隠れているはずです。被害者の個性ではなく、調査対象は被害者が抵抗できない環境に置かれた環境についてです。ただ、この聴取はかなりデリケートな問題です。そして安心して話ができなければなりません。会社から独立した第三者が、本当に会社の発展と被害者の人権、安心して働ける環境を作るという構えを理解して調査をしなければならないところです。
このためには、球団が被害者の被害に対して手厚く手当をすることが前提となると思います。
<加害者被害者以外からの事情聴取>
そして、その行動を知っていたにもかかわらず、対応をしなかった人たちの意識調査です。ここもとても大切なところです。球団は、安心して話ができる人がいなかったことを改善すると言っていますが、それは大変大切なことだと思います。その際に安心して話ができる人間関係とは何かということを十分考慮するべきだと思います。
また、誰が知っていて、誰が知らないかのチェックもとても大切だと思います。
<魅せるプレイを頻発させる人間関係形成の方法>
聴取が終わったら、その原因を十分踏まえて分析することが必要です。悪かったところを直すというのでは、対症療法にすぎません。つまり、再発の危険が居座っているということです。根治を考えなければなりません。
新しい人間関係を形成するという視点が必要です。しかも具体的に、楽しく実践できる方法でなければできるわけはありません。
近鉄バッファローズの元選手である石井氏がユーチューブで、野茂投手の野手への思いやりの態度が素晴らしく、野茂選手が投げるときは無理しても打球にくらいついていくという気持ちが自然に湧き上がったと言っています。野茂選手はミスをした選手を決して批判せずに、むしろ批判する選手を先輩でもたしなめていたというのです。純パの会の会員で野牛会に所属していた私としては、もっと野茂のような選手がいたらもっと優勝していたのにと思いました。それは良いとして、こういう話はよく聞くことです。絶対エースと言われる人は人格的にも素晴らしく、ファンを大事にするということは耳に入ってきます。
抽象的な言葉で申し訳ありませんが、パワハラの対義語はパワハラが無い人間関係では決してなく、お互いを尊重し、尊敬している人間関係なのです。すべてのプロ野球選手は、尊敬する点が多いと私は思っています。ファン心理かもしれませんが。自分が相手から尊重されていると思えば、相手のフォローをしようとするし、役に立ちたいを思うわけです。これは人間の本能的な心理、群れを作るために進化によって形成された心理なのです。仕事の多くは組織プレイです。お互いを尊重しあう組織は1+1が2よりも大きくなりますが、これが無くパワハラがあるような組織は2にも到達ができません。これが生産性が下がる構造です。
また、誰かが苦しんでいたりいじめられたりしていたら、明るく元気なプレイをすることも簡単なことではなくなります。これも苦しんでいる人に共感してしまう人間の本能です。明るくはつらつとしていなければよいプレイは生まれないと私は素人ながら思います。何よりも見ていてつまらないです。筋肉や技術にプラスアルファの力をつけるのは、モチベーションで間違いないと思います。
典型的な成功例は、今年の阪神タイガースの岡田監督の采配だったのではないでしょうか。しかし、阪神タイガースに勝つ余地があると思います。つまり、基本的には、選手間の相互の信頼関係を強化することだからです。くどいかもしれませんが、パワハラをしないのではなく、選手同士がお互いを尊重し尊敬するということです。ここを改革しなければ、コーチ陣に助けを求めても、結局は力にならない可能性が高いのです。
<コーチ陣やフロントの役割>
監督やコーチ、フロントは、率先して選手を尊重し、尊敬する扱いをしていくことがまずやるべきことだと思います。プライドを傷つける制裁的な起用は絶対にしてはなりません。そういう相互の信頼、尊重を醸し出す環境づくりをするという責任が第一次的責任になると思います。
しかし、現場の雰囲気を創るのは、あくまでも選手です。やはり、レギュラー陣が率先して行動を起こすことがカギになると思います。
<改革はファンとともに>
やるべきことを整理しますと、先ずは選手全員から聴き取りをする。目標をきちんと伝えて、悪いことを無くすための改革ではなく、もっと良くなるためはつらつとしてプレイを観客に見せるための改革だということ、強くなるための改革だという意識をこの段階から理解してもらい、改革のメンバーになってもらう。
特にレギュラー陣、ベテラン陣は、率先して改革を引っ張っていく。経営陣、コーチ陣は環境づくりを行い、選手の足を引っ張らない。
そして、その改革について、具体的な取り組みの実践課程をファンにも報告してもらいたいと思います。もちろん、パワハラ対策としてこういうことをやっていますというのではなく、プロ野球球団としてあるべき人間活動を具体的に作り上げようとしていますというアッピールとして、ポジティブな広報としてファンに報告してほしいのです。そうやってファンとともに新しい、魅力的な、そして強いイーグルスを作って行ってほしいと私は切に願います。
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離婚後も父母双方が法的に親権を有することの必要性と有効性
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-11-30-1
離婚後も、父母双方が子どもの養育にかかわることが望ましいことについては、これまでアメイトらの統計研究や実証研究で離婚を経験した子は、離婚を経験しない子よりも自己評価が低下するという問題を生じる可能性が高いとうものです。ただ、日本における研究では、離婚や別居ということ自体が子どもに対して悪影響があるというよりは、一方の親が他方の親に対して離婚後も葛藤を抱き続ける(別れた相手を子どもの前で罵る。悪口を言う等)ことが問題だと指摘されるようになっているようです。父母が双方で子どもとかかわることが必要だとして、その方法として法的地位ないし権能である親権を離婚後も双方持つことが必要なのか、メリットがあるかについて考えてみようと思います。1 子どもの保護が必要な場合も、親権が無ければ保護できないということが解消され、無駄に子どもの命を失うことが減る。実際の例を参考にすると、例えば子どもが問題行動を起こして児童相談所に入所することがありました。子どもと単独親権者との折り合いが悪いことが原因でした。親権を持たない父親が、児童相談所に一時保護されたことを知って、児童相談所に子どもとの面談を申し入れたところ、児童相談所は親権者でないことを理由に面談を拒否しました。子どもはそのあとも問題行動が見られました。例えば、母親と暮らしている子どもが登校拒否を続けているようだということを知った父親が心配になって学校に問い合わせたところ、父親が親権者ではないことを理由に、学校は個人情報だから教えられないと拒絶しました。例えば、東日本大震災があった場合のことですが、子どもの安否を確かめようとしても、やはり親権者でないことを理由に情報へのアクセスを拒否されたケースがありました。例えば母親が子どもと同居していたケースで母親が死亡しても、親権者ではない父親は当然には子どもを引き取ることはできません。親権者でないことによって子どもの健康や安全に危険がある時でも、子どもを救うことができないということが、今の個人情報保護社会においては現実なのです。さらには同種のことは、離婚前でも、離婚調停などが継続していれば、監護者ではないことを理由に情報への到達などを拒否されています。後の非親権者という扱いがされているわけです。この理不尽な違法とも思われる対応も離婚後も親権者だということになれば解消されると思われます。次に、将来的な見通しについて述べていきます。思うに、今の共..
家事
ドイホー
2023-11-30T16:45:18+09:00
離婚後も、父母双方が子どもの養育にかかわることが望ましいことについては、これまでアメイトらの統計研究や実証研究で離婚を経験した子は、離婚を経験しない子よりも自己評価が低下するという問題を生じる可能性が高いとうものです。ただ、日本における研究では、離婚や別居ということ自体が子どもに対して悪影響があるというよりは、一方の親が他方の親に対して離婚後も葛藤を抱き続ける(別れた相手を子どもの前で罵る。悪口を言う等)ことが問題だと指摘されるようになっているようです。
父母が双方で子どもとかかわることが必要だとして、その方法として法的地位ないし権能である親権を離婚後も双方持つことが必要なのか、メリットがあるかについて考えてみようと思います。
1 子どもの保護が必要な場合も、親権が無ければ保護できないということが解消され、無駄に子どもの命を失うことが減る。
実際の例を参考にすると、
例えば子どもが問題行動を起こして児童相談所に入所することがありました。子どもと単独親権者との折り合いが悪いことが原因でした。親権を持たない父親が、児童相談所に一時保護されたことを知って、児童相談所に子どもとの面談を申し入れたところ、児童相談所は親権者でないことを理由に面談を拒否しました。子どもはそのあとも問題行動が見られました。
例えば、母親と暮らしている子どもが登校拒否を続けているようだということを知った父親が心配になって学校に問い合わせたところ、父親が親権者ではないことを理由に、学校は個人情報だから教えられないと拒絶しました。
例えば、東日本大震災があった場合のことですが、子どもの安否を確かめようとしても、やはり親権者でないことを理由に情報へのアクセスを拒否されたケースがありました。
例えば母親が子どもと同居していたケースで母親が死亡しても、親権者ではない父親は当然には子どもを引き取ることはできません。
親権者でないことによって子どもの健康や安全に危険がある時でも、子どもを救うことができないということが、今の個人情報保護社会においては現実なのです。
さらには同種のことは、離婚前でも、離婚調停などが継続していれば、監護者ではないことを理由に情報への到達などを拒否されています。後の非親権者という扱いがされているわけです。この理不尽な違法とも思われる対応も離婚後も親権者だということになれば解消されると思われます。
次に、将来的な見通しについて述べていきます。思うに、今の共同親権反対論は、既存の状態を前提としてうまくいかなくなることを想定して反対の理由としているようです。しかし、法律ができるということで、これまでの状況とは異なる状況が生まれていくことをできるだけリアルに想定しなければならないと思います。
2 離婚後の共同親権制度になれば、離婚は穏やかに迅速に進む
実際に離婚事件に弁護士として立ち会っていると、別居から離婚手続きに至る中で、一方の親の感情が高まり攻撃的になっていることが多いということを感じます。
つまり、最近の典型例で言えば、夫がある日勤務先から帰宅すると妻が子どもを連れて家を出て行っていた。連絡を取ろうとしても連絡が取れず、所在が分からない。そのうち保護命令が申し立てられたり、離婚調停が申し立てられる。離婚理由は、DVだとか精神的虐待だとかを上げるが、何ら具体的な事実が指摘されていない。ようやく出てきた具体的事情は、身に覚えのないことかかなり盛った話になっている。裁判所は、自分がDV夫であるかのように扱っている感じをする。妻に関しては仕方が無いと割り切るしかないかもしれないが、数か月を経ても子どもと直接会うことができない。急に居住環境が変わって、自分にも会えなくて戸惑っているかもしれないので大変心配だ。
裁判所では、別居後も継続して養育している親に親権を与えようとしているようだ。自分は何かの罠にはめられたようだ。子どもと引き離され、何の楽しみもないのに金だけは支払わなくてはならない状況に置かれている。何とか子どもに会いたい。子ども一緒に暮らしたい、未来永劫子どもに会えなくなるようで怖い。なんとしてでも裁判所で戦うしかない。
こういう心理状態が典型的であるように感じます。
面会交流調停の申し立て件数が急角度で右肩上がりに上がっていることは、子どもと会えない親が増え続けていることが一つの理由だと推測できます。
しかし、離婚後の共同親権制度ができれば、離婚が子どもとの未来永劫の別れになることが無くなりますから、それは突然の離婚要求で頭に来ないということはないでしょうが、子どもに会える保障となり、今に比べれば相当穏やかな離婚調停が進むことと推測できます。つまり、離婚手続きにおいて一方当事者を感情的にさせる事情が一つ減るということです。
3 そもそも子の連れ去りが無くなる
先ほど述べた典型例の、ある日夫が帰宅したら妻が子どもを連れていなくなっていたといういわゆる連れ去り案件も減少すると思います。
子の連れ去りは、連れ去って頑張れば、その後離婚が成立して親権者が自分ひとりとなり、もう一人の親が子どもにかかわる方法が無くなり、それはつまり自分とかかわる方法もなくなるということで、相手から自由になれるという目標があるから行われるわけです。
それでもしつこく付きまといをされたら、ストーカー規制法で警察に頼めば警察が排除してくれます。
だから、最終的には確定的に相手から自由になれるのであれば、離婚手続きは相手の感情を逆なでするような手段をとっても、とにかく有利に離婚を勧めた方がよいし、子どもを自分の元においておくわけです。
このようなことをする妻には、本当にDVを受けていてその窮地から脱出をしようとする人と、本当はDVを受けていないのにDVを受けていると思い込む人、他の男性との生活を目的として夫から離れたり、自分の使い込みなどが発覚するなどして自分の行為によって夫のところにいられなくなってDVをでっちあげる人と3種類の人たちがいます。
その3種類すべてで、夫は子どもを連れ去られ、子どもと面会できず、お金だけは給与の2分の1まで差し押さえられるという威嚇の元支払い続けなければならない状態になってしまっているわけです。
この子の連れ去り自体が、夫の感情を逆なでして、攻撃感情を高ぶらせて、離婚手続きがこじれていく大きな原因になっています。
離婚後の共同親権制度になれば、このような葛藤の高まりを起こしてしまうと、後々自分が困ることになるので、なかなかできなくなります。
4 離婚後の再婚相手との子どもの養子縁組が(少)なくなる。
現在離婚後は単独親権ですので、例えば妻が子どもの親権者になって離婚をすると、妻が再婚した場合再婚相手と子どもの間に養子縁組をすることができます。このことを恐れて、子どもを連れ去られている親は、離婚に徹底抗戦したくなるようです。これはよくわかります。自分の子どもが別の人間に奪われてしまうような感覚ですから、頭がおかしくなりそうになるということは簡単に推測できます。実際に妻が夫のDVを主張して別の男性と生活をはじめて、離婚が成立したら、その男性と入籍したというケースがありました。
しかし、離婚後の共同親権制度になると、同居していない親も親権者ですから、よほどの事情が無いと親権をはく奪されることは無くなります。理屈の上では一人の親権者だけの判断では養子縁組ができないことになりそうです。
そうすると、離婚をしてしまうと他人に子どもを奪われてしまうという、離婚手続きを困難にする事情がまた一つ減ることになります。
5 今後の課題
今後離婚後共同親権ということになると、様々な課題が出て、新たな対応が必要になったり、これまでの対応を改めなければならないことが増えてくるでしょう。
何よりも、離婚をしない方向での支援のニーズが高まると思います。現在家族や夫婦の仲を強化するという公的支援が無いに等しい状況です。それにもかかわらず、連れ去りを指南したり、その後の居住場所の隠匿と提供をしたりという支援ばかりが税金を使われて行われています。DV保護の名目で行われているのですが、最大の特徴はDVの有無については調査をしないということです。
私は、現代においても、離婚をしない方向での支援のニーズは高いと思っています。つまり、家庭が安心できる場所であり、戻ると自分が癒されて勇気と明日への活力がわいてくるための支援です。そのためには人間関係の在り方についてん研究が前提となりますが、それが私の対人関係学だと自負しています。
次に必要な支援というか行政サービスは、子どもの重大事項について、親権者同士の意見対立が激しい場合にだれがどのように仲介するかということです。根本的には裁判所が関与するべきことは間違いありません。しかし、現状の人員配置状態を見るとそれはなかなか実現可能性があるとは言えないようです。根本的には抜本的に裁判所の人員を増やすことです。なかなかこれを主張する人間がいないところが大きな問題です。
裁判所の拡充が間に合わない場合は、専門ADRを要請して話し合いのサポートをする方法で対応することが次善の策になるでしょう。認定ADRとして、この手続きを踏まないと裁判所の判断が受けられないというADR前置主義とする必要がありそうです。
その際には国や地方自治体の支援が不可欠で、双方及び子どもが安全に話し合える体制を整えることが必要だと思います。前から私は家事紛争解決支援センターを作ることを提案していますが、そういうものを作る必要があると思います。
とにかく立法を企画している法務省が、肝心なことを具体的に提案せず、理念的に離婚後の共同親権とすることの是非を問うている有様です。何のために家事法制の改革を言っているのか見えてきませんし、全く主体性が見えません。家事制度の改革を拒否したいための態度にしか見えません。おそらくそういうことなのでしょう。
最後に言葉として「親権」という用語に問題があるということは言えるかもしれません。明治以降日本の親権制度の立法論の議論では、親権が親が子に対する権利をダイレクトに定めた、例えば支配権とはされていません。
子どもは大人になって自立しなければならない存在だという認識の元、そのような養育をする責任があるのは親であること、その責任を遂行するために必要な権能を親権と呼んで議論をしてきました。親権の目的の中核は、子どもを教育するという目的だということは、戦前の民法学者は前提としていたことでした。
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共同親権反対の某弁護士会の意見書に落胆した理由 結論についての落胆というより法律家の意見として成り立っているのかということについての私の考え
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-11-30
共同親権反対の意見を単位弁護士会(都道府県の弁護士会)で上げるところがいくつかありました。共同親権のような微妙だと思われる問題について、単位弁護士会が単一の意見を上げることにも、弁護士会の役割、性質に照らして疑問もあります。最大の問題だと思うことは、その意見の理由の構造についてです。これは少し説明が必要だと思います。我々法律家は、法律を現実の人間関係に適用して、紛争を解決することを実践しています。法律の条文というものはご存じのとおりとても短い文章です。抽象的に定められていることが多いと言っても良いでしょう。その中で、一方の利益だけを考えているのではなく、双方の利益を考慮に入れて、法律ですから誰に対してでも適応され、しかし、個別事件で適切妥当な解決を図らなくてはなりません。法律家は、勉強をしているときも、実務についてもそのような法律の特質について叩き込まれているはずです。だから共同親権というこれから法律を作る場合の議論にあたっても、様々な利益を考慮して、制度の実現によって得られる利益をなるべく確保しながら、その制度の弊害をなるべく小さくしていくように議論をしていくことが求められると思います。このような作業が法科学としての手法であり、法律家としての命であると私は思っています。このような法科学の手法を使った意見表明をすることによって、弁護士会の意見が、意見を異にする人たちに対しても一目置かれて、無視できないものとして価値を承認されてきていたと私は思います。いくつかの比較的大きな単位会で、共同親権について強く反対するという極端な意見が出されています。例えばこれが、これから作る法律が一部の人にだけ利益が生まれる一方、多くの人に対して人権侵害に該当するということであれば、注意喚起と法律の制定を慎重に行う観点から意見を述べるということが理解できます。例えば、残業時間の割増賃金制度の撤廃などという法律を作るとしたら反対するということもまだわかります。その場合でも制度廃止の目的をよく検討して、その目的に合理性があるのか否か、そもそもその目的を掲げて法律の廃止をする必要があるか無いか等の議論をすることが普通です。そして、廃止の目的によって得られる利益と、廃止をしないことによって得られる利益を比較して、最終的な意見を述べるということがこれまでの弁護士会のあるべき意見提出だったと思います。さて、離婚後の共同親権について、それらの弁護士会..
弁護士会 民主主義 人権
ドイホー
2023-11-30T14:52:06+09:00
共同親権反対の意見を単位弁護士会(都道府県の弁護士会)で上げるところがいくつかありました。共同親権のような微妙だと思われる問題について、単位弁護士会が単一の意見を上げることにも、弁護士会の役割、性質に照らして疑問もあります。
最大の問題だと思うことは、その意見の理由の構造についてです。これは少し説明が必要だと思います。
我々法律家は、法律を現実の人間関係に適用して、紛争を解決することを実践しています。法律の条文というものはご存じのとおりとても短い文章です。抽象的に定められていることが多いと言っても良いでしょう。その中で、一方の利益だけを考えているのではなく、双方の利益を考慮に入れて、法律ですから誰に対してでも適応され、しかし、個別事件で適切妥当な解決を図らなくてはなりません。法律家は、勉強をしているときも、実務についてもそのような法律の特質について叩き込まれているはずです。
だから共同親権というこれから法律を作る場合の議論にあたっても、様々な利益を考慮して、制度の実現によって得られる利益をなるべく確保しながら、その制度の弊害をなるべく小さくしていくように議論をしていくことが求められると思います。このような作業が法科学としての手法であり、法律家としての命であると私は思っています。
このような法科学の手法を使った意見表明をすることによって、弁護士会の意見が、意見を異にする人たちに対しても一目置かれて、無視できないものとして価値を承認されてきていたと私は思います。
いくつかの比較的大きな単位会で、共同親権について強く反対するという極端な意見が出されています。
例えばこれが、これから作る法律が一部の人にだけ利益が生まれる一方、多くの人に対して人権侵害に該当するということであれば、注意喚起と法律の制定を慎重に行う観点から意見を述べるということが理解できます。例えば、残業時間の割増賃金制度の撤廃などという法律を作るとしたら反対するということもまだわかります。その場合でも制度廃止の目的をよく検討して、その目的に合理性があるのか否か、そもそもその目的を掲げて法律の廃止をする必要があるか無いか等の議論をすることが普通です。そして、廃止の目的によって得られる利益と、廃止をしないことによって得られる利益を比較して、最終的な意見を述べるということがこれまでの弁護士会のあるべき意見提出だったと思います。
さて、離婚後の共同親権について、それらの弁護士会は立法の目的についてきちんと検討しているのでしょうか。最新の単位会から出た意見書を見ると、立法目的は、離婚後も父母が子どもの養育にかかわることが子どもの利益に合致するという「理念」があり、この理念によって離婚後の共同親権が導入される傾向があるという難解な一言で、目的の検討が終わっています。
先ず、今回の共同親権の目的について、きちんと検討していないということが指摘できると思います。
次に、離婚後の共同親権制度が「導入される傾向」とは何を言っているのでしょうか。どこの傾向なのでしょうか。確かに離婚後の共同親権制度は、令和2年の法務省の調査では、24か国を調査して離婚後の共同親権制度にしていない国は、トルコとインドだけだったそうです。世界の趨勢は、離婚後も共同親権制度をとっていることになります。もちろんG7等のいわゆる先進国と呼ばれている国や、中国や韓国などの隣国も離婚後も共同親権制度をとっています。この各国の制度が具体性のない理念で決められる傾向にあるというのでしょうか。そうであるならば、その具体性のない理念だけで制度導入がされているとする根拠こそ示すべきではないでしょうか。ところが何も示されていません。単なる決めつけで述べているだけにすぎないと受け取られても仕方が無いと私は思います。
この点については、立法化を検討している法務省が、具体的な離婚後の共同親権制度の立法目的を明示しないという行政府としての立法作業として不可解な態度をしていることにも原因があるように感じられているところです。
また、政府などの説明を報道する報道機関によって、具体的内容を割愛して「子どもの利益のために離婚後の共同親権は必要」という言葉しか出てこないので、我が国の立法論においても子どもの利益のためという抽象的議論をする傾向があるということなのでしょうか。そうすると「導入する傾向がある」という表現は間違いだということになります。きちんとした日本語の読み方をすれば、意見書が正しく記載されているとすれば、「海外では離婚後の共同親権を導入しているが、それは抽象的な理念から導入している」としか読めないことになりますが、本当にそうなのでしょうか。弁護士会の意見ですから、そこは責任をもって述べてもらわないといけないと思います。国際問題になりかねないことを述べていると思います。
弁護士たるもの、法律家であり、また、離婚事件が日常的な業務になっていることからも、海外であっという間に広がった共同親権制度の目的を調べ、あるいは離婚後の子どもの養育の実態をみて、離婚後の共同親権制度の目的や必要性についても検討をするべきだと思います。
先ず、離婚後も父母が子どもの養育にかかわることが子どもの利益に合致するという「理念」は、具体的な意味を持って存在します。これは、家庭裁判所の研究雑誌や子どもの権利の実現のために書かれた法律書籍などで、十分に記載されています。いろいろな調査があるのですが、アメイトという研究者が行った統計的研究によって、実父母の離婚を経験した子どもは、離婚を経験していない子どもと比べて、自己評価が低下するということが示されています。これはその他の研究でも裏付けられています。離婚後の共同親権制度に反対する論者で、これらの研究結果に対する科学的批判を私は見たことがありません。
子の親であれば、自分の子どもが将来自己評価の低い子どもになる危険があるなら、その危険を排除したいと思うのではないでしょうか。もし離婚後の共同親権制度が、そのために子どもにとって有効ならば、賛成の大きな力になるはずです。
真の問題は、離婚後の別居親の子どもとのかかわり方はいろいろあると思うのですが、共同親権という方法が必要かどうかという点にあるはずです。ここでは、世界の国々は、共同親権制度が必要だと判断したからこそ制度を導入したということだけを述べておきます。
さて、某弁護士会の意見書は、後は、離婚後の共同親権制度ができた場合の弊害についてだけが述べられています。いくつか考慮しなくてはならないうちの一方の利益だけを根拠に立法反対の意見を述べていることになります。これでは立法論ということについての説得力はなく、一方の問題の所在を述べただけの議論で終わっていることになります。また、その中でも、これも法務省の問題提起がいかに曖昧化を物語っているのですが、共同親権制度の具体的な提案の中身を明らかにしないで、単に離婚後の共同親権制度の是非を問うている問題提起になっていることに非常に問題があります。その結果、こういう悪い事態も想定できる、もし具体的にはこういう制度になればこういう悪い事態が想定されるという意見に終始してしまうわけです。物事全てにメリットデメリットがあることは当然です。また、離婚後の共同親権制度の在り方についてはJ.ワラスティン(ウォーラースタインと表記される場合も多いです)も警告を発しています。形式的な共同が、子どもの便宜を考慮されないで具体化されてしまうことで子どもの成長に負担が生じるということが指摘されています。
但し、法律家の議論であるならば、「離婚後の共同親権制度は子どもにとってこのような利益がある、しかし、先発国家の具体的な制度運用を見るとこのような弊害が生じているという実態がある。より子どもの利益にそった制度とするためにはこういうことを考慮して具体化するべきだ」という意見になるはずだと私は思っています。
反対意見であっても、「これこれの弊害が必然的に伴うために目的とした利益を考慮してもなお、制度化するべきではない。」というならば襟を正して意見を伺うという気持ちになるのです。しかし、実態は、先ずは反対だという結論をだして、その理由付けとして考えられる弊害を上げているように読めてしまうのです。だから大きく言えば論理学的用語でいうところの「感情論」になってしまっているとしか思えません。
ここで意見書の反対理由をメモ代わりに記載しておきます。
1 離婚を選択した夫婦は葛藤が強く、子の監護などについて話し合いをしなくてはならないと葛藤が高くなり、子への悪影響が生じる、また、葛藤が残っている夫婦の一方が、子に関する重大な決定について拒否権を発動して支配を試みる危険がある。また、裁判所の調整は裁判所の能力から困難がある。(この点の指摘は一理あって、子どもにとって本当に有害なのは、離婚や別居自体ではなく、離婚をした後でもまだ相手に対して葛藤が続いている場合だとされています。ただ、それは他方の親が子どもにかかわりが無い場合であってもという意味です。)
2 DVがある場合は単独親権となったとしても、裁判所がDVを見抜けず単独親権を主張できないケースが不適当だ。(裁判所でDVが無いと判断するのは、見抜けなかっただけでなく、DVの主張はあったけれど実際にはないケースももちろんありますけれど。)
3 どうやら共同監護になりそうなのがけしからんと言っているようです。表題だけ読めば、共同親権と共同監護は別物であるから共同監護を義務づけなければ共同親権でもよいと読んでしまいそうなのです。これは離婚後の共同親権制度に対する反対理由ではなく、共同監護制度に関する意見のようです。
4 共同親権になっても養育費が支払われる保証はない。(だから共同親権反対?)
5 立法によらずとも共同監護は可能(だから共同親権反対?)
3,4,5の理由は、仮想敵に対する反論のようなものなのかもしれません。
結局離婚後の共同親権制度に反対する理由は、共同親権になると、子どもの養育を理由に子と別居することになった親が子と同居する親に対して干渉をし、同居親の精神的安定を害するとともに、離婚後もDVが継続するからということに尽きているようです。そこに子どもたちの利益を最優先に考慮した形にはなっていないと私は感じます。
いくつかの利益を考慮して調整して立法するという態度ではなく、特殊の立場の人の利益だけを一方的に優先して考慮して反対意見を述べている形になっていると私は思います。反対意見を出すとしても、もう少し法律家らしい体裁の意見書を出すべきだったのではないかと落胆したわけです。
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離婚をしたくないのに離婚調停が申し立てられた場合、何をどうするべきなのか。特に「法律の趣旨が形骸化されている場合の現実の離婚調停」にどのように対処するべきか。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-11-27
<離婚調停申立書には離婚理由について何が書いてあるのか>離婚調停申立書は、離婚理由をいくつか挙げて、それに〇をつけさせる書式を裁判所が用意しています。ちなみにその項目としては、1 性格が合わない2 異性関係3 暴力をふるう4 酒を飲みすぎる5 性的不調和6 浪費する7 病気8 精神的に虐待する9 家族をすててかえりみない10 家族と折り合いが悪い11 同居に応じない12 生活費を渡さない13 その他です。弁護士をつけなくても離婚調停を申し立てやすくするために、アンケート方式で理由を記載するという形になっているのだと思います。弁護士が付いていても、このアンケート回答だけしか離婚理由が開示されない場合も多くあります。<離婚調停第1回期日行われていること>これだけで離婚調停を進めるというのではなく、調停委員(年配の男女が調停委員として、一つの事件に配属され話し合いを進行します。裁判官は別室に待機しており、調停委員2名と裁判官の3名で調停委員会を構成します。)が、先ず申立人から話を聞いて、丸を付けた項目を具体的に尋ねて行くわけです。ここで聞いた事情について、相手方に伝えるか伝えないかは、申立人の要望と調停委員の判断で決められます。だから、最後まで、どうして離婚をしたいのか相手方がよくわからないまま調停が進められることが少なくないように思われます。<法律が想定した離婚調停の進め方>離婚をしたい場合でも、最初に離婚訴訟を提起することはできません。先ず、離婚調停(夫婦間調整調停・離婚)を申し立てなければならず、これを「調停前置主義」と言います。調停前置主義が定められた理由については、いくつか説明の方法にバリエーションがあるようです。A)家族間の紛争は、一般的に他人に知られたくないことであるから、公開の法廷(裁判は公開で行うことが憲法上定められています)で裁くことは不穏当であり、先ず非公開の調停制度で話し合って相互に譲り合って解決することが穏当であること。B)家族間の紛争は、家族という形態にも家族関係にもその家庭によっていろいろなものがあり、また紛争についても権利というよりも感情という要素が大きな位置を占めるため、必ずしも、国家(裁判官)による客観的にどちらの言い分が正当かという判断になじまない要素が多いと判断し、先ず当事者の話し合いによって解決をする方が結果の妥当性を得られること。C)家族の問題は、法的に離婚等の結果が出ても、..
家事
ドイホー
2023-11-27T13:23:28+09:00
<離婚調停申立書には離婚理由について何が書いてあるのか>
離婚調停申立書は、離婚理由をいくつか挙げて、それに〇をつけさせる書式を裁判所が用意しています。ちなみにその項目としては、
1 性格が合わない
2 異性関係
3 暴力をふるう
4 酒を飲みすぎる
5 性的不調和
6 浪費する
7 病気
8 精神的に虐待する
9 家族をすててかえりみない
10 家族と折り合いが悪い
11 同居に応じない
12 生活費を渡さない
13 その他
です。
弁護士をつけなくても離婚調停を申し立てやすくするために、アンケート方式で理由を記載するという形になっているのだと思います。弁護士が付いていても、このアンケート回答だけしか離婚理由が開示されない場合も多くあります。
<離婚調停第1回期日行われていること>
これだけで離婚調停を進めるというのではなく、調停委員(年配の男女が調停委員として、一つの事件に配属され話し合いを進行します。裁判官は別室に待機しており、調停委員2名と裁判官の3名で調停委員会を構成します。)が、先ず申立人から話を聞いて、丸を付けた項目を具体的に尋ねて行くわけです。
ここで聞いた事情について、相手方に伝えるか伝えないかは、申立人の要望と調停委員の判断で決められます。だから、最後まで、どうして離婚をしたいのか相手方がよくわからないまま調停が進められることが少なくないように思われます。
<法律が想定した離婚調停の進め方>
離婚をしたい場合でも、最初に離婚訴訟を提起することはできません。先ず、離婚調停(夫婦間調整調停・離婚)を申し立てなければならず、これを「調停前置主義」と言います。
調停前置主義が定められた理由については、いくつか説明の方法にバリエーションがあるようです。
A)家族間の紛争は、一般的に他人に知られたくないことであるから、公開の法廷(裁判は公開で行うことが憲法上定められています)で裁くことは不穏当であり、先ず非公開の調停制度で話し合って相互に譲り合って解決することが穏当であること。
B)家族間の紛争は、家族という形態にも家族関係にもその家庭によっていろいろなものがあり、また紛争についても権利というよりも感情という要素が大きな位置を占めるため、必ずしも、国家(裁判官)による客観的にどちらの言い分が正当かという判断になじまない要素が多いと判断し、先ず当事者の話し合いによって解決をする方が結果の妥当性を得られること。
C)家族の問題は、法的に離婚等の結果が出ても、未成年の子がいる場合等、離婚後も何らかの関係が継続することが想定されるため、紛争を先鋭化しかねない訴訟よりも、話し合いで解決して離婚後の最低限度の信頼関係を維持するべきだということ。
離婚が、一般にそういうものですが、特に家庭裁判所に持ち込まれるときは、離婚をしたい方と離婚をしたくない方と意見が対立していることが一般的です。中には、離婚は良いけれど、慰謝料や親権は争うというパターンもあり、表面的には少なくない争いのパ田0ンですが、実際は離婚をしたくないという感情があるために争いになることが多いのではないでしょうか。
さて、話し合いで解決する場合は、このように意見の対立がそもそもあるのですから、離婚をする、離婚をしないというどちらの結論となっても、常に一方には不満が残ることは仕方がないことです。それでも、双方がある程度納得して離婚を決めるという作業が、話し合いということになるはずです。
そうすると、調停では、離婚をしたい申立人が離婚をしたいという自分の感情と、その感情の出どこを相手になるべくわかりやすく告げるという作業が求められます。相手は、どうして申立人が離婚をしたいのか、先ずはじっくり話を聞いて、冷静に相手の身になって考えることが必要になるでしょう。
<離婚をしたくない場合の必須の相手方の態度>
そうして、それでも離婚をしたくないと主張するのであれば、
①離婚を決意させた申立人の感情の部分に対してどのように手当てをするのか提案をすることになるでしょう。自分の改める部分をどのように改めるか、なるべく具体的に説明していくことが求められると思います。
②また、相手に誤解があるならば、それは誤解であると説得的に説明する必要があります。説得的ではない説明とは、言い訳にしか聞こえない説明で、要するに嫌な思いをこれからもすることになりそうだと申立人が思ってしまうような説明です。
③それから、どうして自分が離婚をしたくないのかを説得力を持って説明する必要があるわけです。ここでいう説得力がある説明というのは、申立人が自分が必要とされていて、尊重されるべき人間だと思われているという説明です。「離婚をしたら子どもがかわいそうだから」ということがよく言われるのですが、現実問題として説得力がないばかりか、逆効果になることが多いようです。どうも現代日本社会というのは、妻、母といった役割の評価というよりも、一人の人間としての評価を皆さん求められているようです。
お互いに自分の気持ちを相手に理解させようと努力して、お互いが相手の気持ちを理解しようとして、それをお互いに示して、話し合いをして、結論にたどり着くということが調停で行われるべきことになると私は思うのです。
<法の趣旨が形骸化されている現実の調停のパターン>
<パターン1 話し合いの拒否>
家裁の調停は、多くのケースで、調停委員は申立人から話を聞きます。アンケート方式で記載された理由について、〇をつけているだけでは、相手方は通常納得せず(暴力や浮気の場合はともかく)、ある程度具体的に言われないと申立人の心情がわからないからです。そして、申立人の話を聞き終えたら、今度は相手方から話を聞くというターンになります。
しかし、最近多いケースは、調停の初日から、調停委員が、相手方に対して、「申立人の離婚の決意は固いようです。あなたのお気持ちはどうですか。」と尋ねて、相手方が「離婚は考えていない。離婚したくない。」等というと、調停委員が「それでは平行線ですから調停では決まりませんね。別の手続き(裁判)に移行することになるでしょうね。」と言って、第1回期日で調停を打ち切るというパターンが少なくないようなのです。
家庭裁判所に離婚調停を申し立てるのですから、離婚意思が固いことは当たり前のことです。これは誰でもわかることです。それでもまず話し合いをしましょう、お互いを少しでも理解して話し合いで解決しましょうということが法の趣旨ですから、離婚意思が固いから裁判にしてくださいでは法の趣旨に反していることになると私は思います。
裁判でも離婚の意思が固い場合は離婚が認められる傾向が見られます。これでは、離婚を強いられた相手方は重大な精神的打撃を受けてしまいます。ここは何とかしなくてはなりません。
<パターン1の対処方法>
相手方は、「はじめから離婚は絶対しない」ということは離婚に行く近道を自分から作ってしまうことになります。少し引いて考えることが必要となります。そもそも結婚生活の維持は、一度合意があっただけでなく、その合意が継続していることが必要であると考えるしかありません。そうだとすると、誤解でも勘違いでも言いがかりでも、夫婦の一方が「離婚をしたい」と言っているのですから、夫婦である以上相手の気持ちには真剣に向き合わなければなりません。またそれをすることが、ここまで来た以上、やり直すという少ないチャンスを勝ち取るための必須の前提となることが、「申立人の離婚の理由を聞きたい。申立人の離婚の理由を自分なりに考えて、仕方が無いと思ったら離婚を考える」ということを言うべきです。
バリエーションとして、「離婚をしたいということはある程度分かった。ただ、子どものことが気がかりだし、子どもに対して親として責任もある。子どもとの交流がどのように図られるのか、その点が解決できれば離婚を考える。」という言い方もあります。
弁護士がいれば、調停前置主義をとうとうと語るパターンもあります。
<パターン2>
パターン1と実はセットになっていることが多いのですが、申立人が離婚をしたい理由を明かさないことが少なくありません。抽象的なDVがあったとか、精神的虐待だとか、中には身体的暴力があった等ということを言いますが、そこで終わりとなることが多いです。さらに突っ込むと、「これまでの積もり積もった結果である(いちいち個別の出来事は覚えていない)。」という回答がなされることが、実際にパターン化しているような印象です。
具体的に言えない事情は様々で、多いのは該当事実が無かったことです。「言ったら逆上される」と心配しているわけではありません。敵意はむき出しなので、その心配をしているわけではないと思います。
該当事実が無いパターンもいくつかバリエーションがあって、①端的に理由が無い(自分の失敗の隠ぺいや、自分の不貞を隠すような場合もあるのですが、どうして自分が離婚をしたいのか自分でもうまく説明ができないことが多いと思います)場合、②弁護士が十分な聴取を行わないことによる要約ミス(つまりどうして離婚したいかという事情聴取が不十分である場合)、③思い込みDVの場合(なんとなく嫌になったし、何か理由があったはずだという漠然な思いと漠然とした記憶がある場合) ②のパターンも結構あり、粘り強く聴取をしていくと、少しずつ離婚をしたい理由が理解できてくることが多いと思います。ここでも、なんとなく離婚したいという人はいないということを前提に、依頼者の人間性を信じて聴取をすれば、それに賛成はできなくても、なるほどその人は離婚したくなるかもしれないというところまでは到達するはずです。「どうせDVがあったのでしょ。」という態度では、依頼者を理解することができないばかりか、離婚訴訟において足をすくわれかねないという問題も起こしかねません。
<パターン2の対処法>
とにかく断片的でもよい、時期的、場所的にあやふやでもよいから何らかの具体的なエピソードを引き出す。
<パターン3>
パターン2の続きなのですが、
申立人から出てきた離婚をしたい理由が、①相手方にとって身に覚えのないこと、②それらしいことはあったけれど、事実は申立人の主張内容と違うこと、③離婚理由となるのだろうか疑問のある相手方の落ち度が主張されること
これは、調停制度の問題というより、背景として裁判離婚の判例の問題なので、対処方法を早速
<パターン3の対処方法>
離婚に応じるか否かということは、自分の人生の根幹にかかわることであるので、真剣に考えようとしている態度は見せる必要があります。しかし、だからと言って、間違っても好戦的な、攻撃的な態度をしてはならないということです。あくまでも穏やかに対応する必要があるということが必須の前提です。「理由がわからないのでは応じられないではないか。」という当たり前のことをストレートに言うのは、良策ではありません。
一生懸命真面目に相手の言い分を理解しようとする態度を徹底しましょう。そして、相手の言い分にまず反発することをしないで、そこに何かしらの相手の気持ちが隠れていないかを検討することが大事です。しかし、これはなかなか難しいことです。人間も動物も同じでしょうが、自分が攻撃されていると認識すれば、何とか自分を守ろうとするのが、生き物の特徴だからです。普通の行動パターンは誰でも反射的な反発を起こします。こういう場合、弁護士が一緒にいると、反射的な怒りを抑えてもらい、少し検討するために時間をもらうということができるわけです。調停期日における弁護士の役割などというものは、当たり前の反応をする前に理性的に考えてみることに誘導することが大半なのかもしれません。
ここから先は一応言いますが、ご自分でそれができるかなかなか難しい分野に入ります。まず考えなければならないことは、心の赴くまま相手を攻撃してしまわないこと、あくまでも相手を尊重している様子を見せること、相手に安心して本音を出してもらおうとすることです。
①身に覚えのないことと②それらしいことに心当たりがある場合
身に覚えのないことを言われた時こそチャンスです。もちろん、事実に無いことは事実に無いということは必須だと思います。問題は、事実に反することを言ったと申立人を責めないことです。
まずは、そのものズバリではなくそれらしいことに身に覚えがないかどうかを考えることです。そしてそれらしいことがあれば、実はこうだったのを甲受け止めて記憶してしまったのではないかという説明をしてあげることと、事実に反した出来事だとしても、申立人の感情を思いやることができます。
全く事実が無い場合も結構無いわけではないのですが、「思い込みDVhttps://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-03-14#:~:text=%E3%80%8C%E6%80%9D%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%81%BFDV%E3%80%8D,%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%82」の説明などを参考にして、どうしてそう勘違いしてしまったのかを考えて、自分がこうすればそういうことはなかったと思うという二人の問題だったということを説明することが一つの対処方法です。
いずれにしても、申立人は離婚をする気が満々ですから、ただ否定するというよりも、そのものずばりの証拠が無いとしても客観的な状況証拠をできるだけ提出することが求められると思います。
③離婚理由になるのか疑問なこと
これも代理人がいれば、逆に落とされてしまう危険があるのですが、案外一般の我々も他人には理解できない大切にしていることというものがあって、例えばペットだとか、例えば愛車等の所有物に関してとか、例えば子どものこと(これはわかりやすい。)だとか、そういうことで相手に安心感が持てなくなり、一緒に生活できなくなるということが案外あるようです。
ここも、むしろ、申立人代理人よりも自分が申立人を理解しているということを示すチャンスです。
この場合は、「自分としてはここまでやった。しかし、足りなかったという結果を重く受け止める。本当はこうすればよかったのかもしれない。」等という対処方法を考えると思います。
一件それが離婚理由になるのか、おそらく裁判所でも疑問を持つでしょう、裁判所でも自分の代理人も取り上げないところをこちらが取り上げるということはポイントになるようです。
繰り返しますけれど、調停は、相手に対して自分に関する安心感を持ってもらう材料の宝庫です。しかし、自分を守るという当たり前の防御態勢が作られているとそれがなかなか見つからないし、見つけようとしなくなってしまいます。だから、代理人と一緒に調停に臨むことが有効になるのだと思います。
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第三者の無責任な支援、寄り添いが、いじめ、紛争を作り出すその構造 複雑な現代社会で他者を支援するとき忘れてはならないこと
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-11-24
1 「世界」に書かれていた寄り添いの純粋形態ネットを見ていたら、岩波出版の雑誌「世界」の2023年7月号に、以下のような文書が掲載されていたということが紹介されていました。「♯withyou の声を多くの人があげることは、被害者の言葉に「嘘だ」というのではなく、「あなたの言葉を信じる」ということ。そして誰かが心無い言葉を浴びせた時には、「あなたは悪くない。悪いのは加害者だ。」とともに感じること。自分の被害が認められることは、被害回復の第一歩である。」マニュアルらしきものがあるということは具体的な支援の事例から想像していて、このブログに想像したその内容を書いていました。まさかここまで私が想像していたとおりの文章が存在するとは思いもよりませんでした。現在の日本の支援、特に女性支援も、行政も含めて、精神的ダメージを受けている女性が被害者、その相手が加害者だと二者択一的に色分けをします。「加害者」とは加害をした者というわけではないと総務省も説明しています。少しでもご自分の頭で考えながら、冒頭の「世界」に掲載された文書を読めば、違和感に気が付くはずなのですが、ただ読んだだけでは「善いことが書いてあるな」と感じてしまうのではないでしょうか。2 弱者を保護することが人間の共通の価値観に合致することこの文書が何も考えないと高評価をされる理由について、先ず説明します。ある人が誰かとの人間関係等を原因として精神的ダメージを受けて傷ついている場合、人間の本能的価値観としては、「ダメージを受けている人を力づけて、ダメージを少しでも軽減する働きかけをすること」が、「善いことだ」と感じますし、このような働きかけでその人が少しでも回復したら、「充実した気持ち」になることが一般的だと思います。この価値観が妥当して、人間の共存にとってメリットとデメリットを比べるとはるかにメリットが大きかったのは、今から200万年前から2万年前の「狩猟採取時代」のことです。狩猟採取時代は、人類は、数十名から150名程度の一つの群れの仲間で、生まれてから死ぬまで生活を共にしてきました。もしその群れの中の人間関係で誰かが精神的ダメージを受けた場合は、心傷ついている人に共感を抱きやすい仲間が、自分がダメージを受けているかのようにその人のダメージを軽減しようとするのは、弱者保護という人間の本性でした。弱者保護をしないと弱い者から死んでゆくので、群れの頭数が減って、肉食獣の..
進化心理学、生理学、対人関係学
ドイホー
2023-11-24T13:53:34+09:00
1 「世界」に書かれていた寄り添いの純粋形態
ネットを見ていたら、岩波出版の雑誌「世界」の2023年7月号に、以下のような文書が掲載されていたということが紹介されていました。
「♯withyou の声を多くの人があげることは、被害者の言葉に「嘘だ」というのではなく、「あなたの言葉を信じる」ということ。そして誰かが心無い言葉を浴びせた時には、「あなたは悪くない。悪いのは加害者だ。」とともに感じること。自分の被害が認められることは、被害回復の第一歩である。」
マニュアルらしきものがあるということは具体的な支援の事例から想像していて、このブログに想像したその内容を書いていました。まさかここまで私が想像していたとおりの文章が存在するとは思いもよりませんでした。
現在の日本の支援、特に女性支援も、行政も含めて、精神的ダメージを受けている女性が被害者、その相手が加害者だと二者択一的に色分けをします。「加害者」とは加害をした者というわけではないと総務省も説明しています。
少しでもご自分の頭で考えながら、冒頭の「世界」に掲載された文書を読めば、違和感に気が付くはずなのですが、ただ読んだだけでは「善いことが書いてあるな」と感じてしまうのではないでしょうか。
2 弱者を保護することが人間の共通の価値観に合致すること
この文書が何も考えないと高評価をされる理由について、先ず説明します。
ある人が誰かとの人間関係等を原因として精神的ダメージを受けて傷ついている場合、人間の本能的価値観としては、「ダメージを受けている人を力づけて、ダメージを少しでも軽減する働きかけをすること」が、「善いことだ」と感じますし、このような働きかけでその人が少しでも回復したら、「充実した気持ち」になることが一般的だと思います。
この価値観が妥当して、人間の共存にとってメリットとデメリットを比べるとはるかにメリットが大きかったのは、今から200万年前から2万年前の「狩猟採取時代」のことです。
狩猟採取時代は、人類は、数十名から150名程度の一つの群れの仲間で、生まれてから死ぬまで生活を共にしてきました。
もしその群れの中の人間関係で誰かが精神的ダメージを受けた場合は、心傷ついている人に共感を抱きやすい仲間が、自分がダメージを受けているかのようにその人のダメージを軽減しようとするのは、弱者保護という人間の本性でした。弱者保護をしないと弱い者から死んでゆくので、群れの頭数が減って、肉食獣の餌食になったり、食糧を探し出せなくなって飢え死にすることを回避できる、とても都合の良い心理傾向、行動傾向でした。弱者保護の行動を本能に組み込んだものだけが厳しい自然環境を生き抜いてきたという関係になります。
だから現代社会の人間たちも、個性による程度の違いはあるとして、このような弱者保護を「善いこと」と感じ、自分が弱者保護の行動をすると充実感を抱くようにできているわけです。
そして、弱者保護をしているという意識は、そのための行動を本能的に行ってしまい、理性的に振り返るという思考が停止してしまう要因があるのです。
3 複雑な現代境において、狩猟採取時代の支援が成立しないことを構造的に理解してみる
問題は現代社会の第三者である支援者による支援についてですが、狩猟採取時代との違いに着目して考えてみましょう。
狩猟採取時代は、生まれてから死ぬまで同じメンバーで生活して、極めて近くにいつも一緒にいるという特徴がありました。だから、精神的ダメージを受けたその経緯についても、すぐ近くで目撃していたということになります。事実関係を直接把握していたということが第1の違いです。現代の支援者は、第三者であり、当事者の関係性も、歴史も直接見るということはありません。通常どちらか一方の話だけを聞いて支援を始めます。
第2の違いは、精神的ダメージを受けている方も、その相手方も、狩猟採取時代は間に入る者からすると、どちらも同じ群れの仲間だという点に大きな特徴があります。できれば、再び仲良くなって、群れを支えてほしいと思っているわけです。だから、よほどのことが無い限り、ダメージを受けた者の相手を一方的に糾弾したり、排除したりするということはなかったと思います。よほどのことをしていたという場合は、群れを守るために容赦なく排除したということもあったのかもしれません。
その結果、おそらく狩猟採取時代では、単純にどちらかが悪で加害者で、どちらかが被害者だと認定することはよほどのことが無い限り無かったと思います。双方をなだめて仲直りをさせるということが主たる働きかけだっただろうと想像しています。
もちろんこれが人間対人間の争いではなく、群れの外の野獣が群れの仲間を傷つけたということであれば、容赦なく野獣を襲って致命的なダメージを与えるまで攻撃を続けたのだと思います(袋叩き反撃仮説)。
しかし現代は環境が著しく変化しました。通常は、人は、様々な群れに同時に帰属しています。家族、学校、職場、社会、国家、ボランティアやサークルなどに所属しています。また、誰かにダメージを与える可能性のある他人は、群れの数の大きさや、職業を分担する社会構造、インターネットの普及等により膨大なものとなっています。これが「複雑な人間関係」の本質だと思います。
人間は、このようなとてつもない環境の変化の中にいながら、先ほどのべた狩猟採取時代の価値観を有してしまっています。この心(価値観)と環境のミスマッチが様々な弊害を起こしています。
支援の関係で整理すると現代の環境では、一言で言えば、ある人の精神的ダメージを回復させようとする支援者は、全くの第三者であるということです。つまり、第1に、その精神的ダメージがどういう形で起きたのか、出来事以前のその当事者同士の関係性はどのようなものであったのかについては全く分からないという特徴があります。第2に、精神的ダメージを受けた者に対しては、支援担当者は仲間であるという感覚を持つのに対して、精神的ダメージを受けた者の相手方は、顔も知らない人間であり、仲間だという意識を持っていないという特徴もあります。
現代社会の支援は、事実関係を十分把握しないで開始されるということを意識する必要があります。
4 改めて冒頭の文章を読む
先ず、被害者の言葉に「嘘だ」と言わないで、「信じる」べきだというようなことが書かれています。なるほど、これは必ずしも支援者の心得として書かれたものではありませんが、弱者保護の集団的なムーブメントの中での心構えのようなものだと受け止めて良いのでしょう。これはかなり無責任な態度だと言わざるを得ません。
なぜならば、第三者は、そこで何が起きたのかよくわからないということから出発するべきなのに、心室性の吟味をすることを否定しているからです。被害者の主張する「被害」が事実として存在していたのかについてはわかりません。また、「被害」の程度、被害を受けるに至った事情などについてわからないのです。
また、「被害者」が複数いる場合は、解決の目指す方向もその人によって異なることは通常あることです。必ずしも同じ被害感情を持っているわけではありません。これがピアサポートの難しいところです。
もし、支援者が自らが「加害者」とされた人にとっても影響を与える行為をするならば、何らかの方法で真実を調べ、何が真実であるのか確定し、それに基づいて被害者の意思に沿った支援をする必要があるはずです。
被害者の言い分を「嘘だと疑わないで信じる」という行為は、真実か否かわからない情報によって行動を起こすということですから大変危険な行為です。仮に「被害者」の主張が、事実に反していたり針小棒大な主張であれば、罪もない人を加害者だとして、攻撃をして社会的に排除する行為になりかねません。
さらに、真実がどこにあるかもわからないのに「あなたは悪くない。悪いのは加害者だ。」ということも極めて無責任です。
「あなたは悪くない」ということはとても簡単で安直な言動です。また、人間関係を善と悪で割り切る二者択一的考え方です。例えば、二人の関係が家族どうしならば、必ずしも善と悪が対立しているわけではなく、疑心暗鬼や言葉の不足から、コミュニケーションがうまく取れていないことが多いのです。ちょっとした工夫をアドバイスすることによって、お互いが幸せな関係を築くことだって不可能ではないかもしれません。
また、この態度はアメリカのフェミニズムの精神科医で、複雑性PTSDの病名を提唱した、ジュディス ハーマンは、「あなたは悪くない」という言葉を発することで、支援者は具体的な被害者の被害、精神的打撃、絶望の恐怖を理解しなくても済む、被害感情を共有することを拒否する態度だと批判しています。
むしろ本当はどうすればよかったのか、過去の時点で別の行動をとった場合のシミュレーションを後に行うことも、絶望を回避する方法になり、精神的ダメージを受けた者の回復に役に立つのです。「あなたは悪くない」ということで、支援者は思考停止をすることができます。それは支援者の心の負担を軽減する以上の効果はありません。同時に支援対象者は、支援者への依存を深めていくという効果は確かに見られます。
つまりあなたは悪くないということは、被害回復の第一歩ではなく、被害者の絶望の淵を垣間見ることを拒否する支援者の防衛行為であり、被害者を自分に依存させるだけの効果しかないということです。あくまでも支援者の利益にしかならないと私は考えます。
5 被害者の言動を嘘だと思わないで信じた弊害 草津町議事件
実際は、様々な被害を受けている人がたくさんいます。ひとたび「加害者」とされると、それは支援者たちは仲間だと見ないで、あたかも肉食獣のように被害者を攻撃する人間だとみなしているかのように、容赦のない攻撃が加えられます。仲間だと思わないから、そういう非人道的なことを正義の感覚で遂行することができてしまうのです。
私が多く見ているのは、DV被害者保護の名目によって、子どもと会えなくなった無数の父親たちですが、これは何度もこのブログで書いていますので割愛します。
今日は、草津町という温泉の町で起きた典型的な弊害についてご紹介します。
事件の詳細は、真の被害者である町長の黒岩信忠氏を紹介するWikipediaに記載されています。要約すると、2019年に女性町議Aが、2015年に町長室で町長から性的暴行を受けたと電子書籍を出版して主張し、告発をするので、町長は辞職をしろと言う記者会見まで開いたことから始まります。Aは、町議会でも自分の主張が真実であるとして、町長に対して不信任決議案を提出しますが、賛成者が二名しかおらず否決されました。
その後、町議会は、Aの行為が品位を欠くということで、懲罰動議を発議しAは失職します。しかし、知事の裁決によって懲罰動議は無効となり、町議としての地位は回復します。2020年9月には、虚偽の事実の書籍を出版して名誉を棄損したことと、町議会議員に立候補するにあたっての居住実態が無かったことから、リコール運動が起き、圧倒的多数をもってAは解職されました。圧倒的多数でリコールが成立した背景には、Aの言っている暴行事件が、電子書籍に記載した内容と、刑事告訴をした内容と根幹部分で異なっていたことが、つまり電子書籍には事実に反することが書かれているということを刑事告発をしたことによってAが認めたことが大きな原因だと分析する町民が多いようです。
この一連の行動に対して著名人も含んだ支援者たちが、Aを支持し、草津町長ばかりではなく、草津町議会や、リコール投票をした草津町町民に対して攻撃を行い、デモが行われるほか、Aは外国人記者クラブでも記者会見を行い、この事件を世界に広めました。支援者の言い分は、現在では、町ぐるみで女性町議を強権で解職したというのは女性に対するいじめだということを根幹にしているようです。しかし、彼女らは当時はこのリコールに対して「セカンドレイプの町草津」と書いたプラカードを掲げて抗議していました。A町議のいう、町長室でレイプされたということを疑わないで信じたからそれがファーストレイプであり、リコールがセカンドレイプということになるはずです。
ちなみにAは、電子書籍に記載したことの根幹部分が虚偽であることを民事訴訟において認めています。
結局、町長は、根も葉もないことで、町長室という公的な場で、女性に性暴力を行ったということを世界中に広められてしまい、あらぬ疑いを各方面からかけられてしまったわけですから、著しい人権侵害が起きていたことは間違いありません。町政を混乱に陥れられたということも事実だと思います。さらに、「セカンドレイプの町」ということで、大々的に抗議をされて、温泉という観光業が主力の町は大ダメージを受けたことも想像に難くありません。一人の嘘が、多くの人たちに大きな損害を与えました。
この被害が拡大した要因こそが、冒頭の文章のような無責任な被害者支援の手法だったわけです。追い込まれた町長らが自死でもしたならどのように責任を取るつもりなのでしょう。町長という高い地位のある人は犯罪者とされてしまうことで、自分の立場がジェットコースターのように下がるので高い自死のリスクが発生したことになります。
当然少し考えれば、もしAの主張が虚偽であれば、このような悲惨な結果が起こるだろうということは、頭が働く状態であれば容易に想定できることです。でもセカンドレイプの町とプラカードを掲げた人たちは、想定したとしても、同じことをしたでしょう。
これは、Aが被害者であるという主張から、弱者保護の本能が発動していたしまったことと、Aは仲間であり人間として尊重をしなくてはならないという強い考えが、町長は仲間ではない、肉食獣のようなものだという、仲間からの排除の意識が強く出てしまって、町長の心情や家族の心配、草津町の人たちに対する侮辱による精神的苦痛、経済的損害などということを配慮できなくなってしまった結果なのです。
現代社会においては、誰かを支援することは、誰かを攻撃することにつながることが付いて回ることかもしれません。特に、何らかの思想や信念に基づいての弱者保護行動は、思想や信念を共通にする群を守る意識が強くなり、反射的に敵対する人間を人間扱いできなくなるという傾向があるわけです。誰かを支援する立場の人はこのことを頭に入れて話さないことが必須条件となります。
支援者が対立当事者の間に入る時は、真実について自分は知らないという態度を貫いて、その上で今何をするべきかを考えるべきです。また、国や自治体は、自分たちの支援が、このような弊害が大きな支援ではないかということを早急に見直すべきであり、立法府、政治家はそれをただすべきです。
また、草津町議事件についても、抗議デモの弊害を拡大したのは一部マスコミにも大いなる責任があります。報道姿勢にも、真実がよくわからないという自覚を常に持ち続けて、罪もない加害者の人が苦しむ報道にならないようにくれぐれも注意するべき責任があると私は思います。
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