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嘘も方便 誠実に正直にというひとりよがり 無責任な態度こそ大人の態度 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

例えばプロポーズするときに
私はあなたを一生大切にします。
一生幸せにします。
なんて誓うわけです。

本当にできるか?
ということをまじめに考えてしまうと、
現代の経済状態で本当にできるのか
不安にならない人はいないのではないでしょうか。

本当に働けなくなるまで、職を失わず
安定した収入が確保できるなんて保証はないわけです。
また、定年まで働いたとしても
いわゆる老後の生活についても不安があおられています。

もしかしたらそんなことをリアルに考えて
結婚しない人が増えているとしたら
それは誠実で正直な人が増えているのかもしれません。

プロポーズのときは
本当に一生大切にして、一生幸せにしたいと
第一希望を思っているのでしょうから、
嘘ではないし、不誠実なわけではない
そういう反論がなされると思うのですが、

別に不誠実だから悪いわけでもないと思います。
そもそも一人が他方を幸せにするのが結婚でもないんだし。

でも、そういうことを言われればうれしいでしょうから
また言わなければ「なんだ?」ということになるのですから
「一生幸せにします」と言うわけです。

この記事は、「しかし心変わりが起きる」
ということを言いたいのではなく、
その後の二人の関係の中で
再びこういう約束を守ることができるかどうかの事態に
気が付かないうちに直面していることがありますよ
その場合どうしたら容易でしょうか
ということの記事です。


人間は大人になっても
色々な理由から、
誰かに支えてもらいたいと思う時が来ます。
精神的な問題、体調的な問題、人間関係的な問題
等によって不安になる時が来ます。

不安の形も様々です。
しおらしく、静かに控えめに、おとなしく不安に打ち震えている
という昔の少女漫画のような不安というものはなく
不安を持て余してしまい
異常な行動に出ることもあれば、
相手に八つ当たりをして不安を忘れようとしてしまうことも
実際は多くあります。

相手に責任がないのに
相手の行動がいちいち癇に障り
怒鳴って否定せずにはいられなくなるということが怒ります。

私の弁護士としての職務では女性の方が不安になることが多いかもしれません。
でも本当はどちらでもあるのではないでしょうか。

例えばもし妻が、
妻自身の自然にわいてくる不安に対処しきれなくなり
自分が周囲から否定的にみられているのではないかと勝手に思い出し、
そんな覚えがなくこれまで通り接していた夫に対して
鬼の形相で、やくざみたいな言葉遣いで
どすの利いた攻撃をしてきた場合、
実際は対処の方法が見つからずに
途方に暮れているという男性は多くいます。

こうなるともう、
プロポーズの時に一生大切にするという誓い
一生幸せにするという誓いが
とてつもなく無謀だったなと思えてくるわけです。
いや既に忘れているのかもしれない。

ここで誠実で正直者の男性は、
怒りに任せて適当に言っているだけの妻の攻撃的言動に対して
それがいかに不合理なもので
静かに冷静に話し合うことによって解決できると
こんこんと説得することを試みようとするのでしょう。

妻の言う
夫の稼ぎが悪いという攻撃に対しては
自分がいかに努力をしているか
自分と同じ条件では平均というカテゴリーの中に納まっている
等ということを誠実に説明しようとするでしょうし、

今後頑張れと言われても
頑張りようがない仕組みになっているし
不正なことをしなければこれ以上収入をあげることはできませんよ
と不正をして収入がなくなるより今のままで我慢しましょうね
等と言って見たくなるわけです。
誠実で正直だから。

こういう不合理な状況の中では
誠実や正直をやめることが王道なのかもしれません。

妻から何を言われようが
大丈夫だから、俺が何とかするから
俺を信じろ、俺についてこい
と話をかみ合わせずにどこ吹く風で
「普通」にしているということです。

何が大丈夫なんだか
どうやってなんとするんだか
信じて本当に救われるのだか
ついて行った先がどこに行くのだか
そんなことは考えないことが一つの対応策のようです。

どうもいろいろな文献や文化を示す資料を見ていると
昔の日本男児は無責任で
勝手なことを言っていたようです。
また、昔の日本では、仕事が急に無くなるということや
職場で人間扱いされないということもそれほどなかったようです。

ここでいう昔ということがいつなのかはまたこの次です。

でも、相手方の不安にはそれほどしっかりした理由がないことが多く
相手に大丈夫だと言われるというか
相手が全然心配している様子を見せないことで
すうっと安心するということがあるようです。

今の私たちはこれができない。
嘘でも大丈夫と言えば済む話だと分かっていても
ついつい、相手の言葉尻に反応してしまう。
「誠実や正直を捨てる」という選択肢がないということだと思います。

それだけ自分が安心できない立場で生きているということなのでしょう。

意味のない言葉だと分かっていても、
どうしても自分を守ろうとしてしまうということなのでしょう。

赤ん坊の夜泣きに苦しむ親ってこんな感じだったのでしょうね。
どうしたらよいんだ。どうしたら泣き止むんだと
誠実に正直におろおろすてうりうりやってみるが泣き止まない。
三歳のお姉ちゃんが眠たそうな眼をして起きてきて
「あらあら眠いのね」なんて言って頭なぜたら泣き止んですやすや眠った
なんてことなんだろうと思います。

言葉に対してきっちり反応としようという誠実さは捨てましょう。
臓物をえぐる言葉にもできるだけ顔色を変えないようにしましょう。
堂々と、平然なふりをして
「そういう時あるね。」
と何言われても、殴られても蹴られても
言う方が良いのかもしれません。

夜泣きをする赤ん坊にたいして泣き止ませるコツとして
大人の方がおろおろしないことが鉄則だということを聞いたことがあります。
大人のおろおろを止めるためにこそ、
自分を落ち着かせるためにこそ
歌を歌うんだと子守歌の練習をしている人もいました。

誠実さや正直をかなぐり捨てて
無責任に大丈夫だと言える
大ざっぱで
動じない「ふり」をする精神力が
求められている時代なのかもしれません。

(そんなこと言って、あとで大丈夫ではなかったときに
あの時あんな風に言っていたけど大丈夫ではなかったではないの
と責められることを心配される誠実さを捨てるということですよ。
その時も、大丈夫だよと言えば良いわけですから。)

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教育虐待の末に母親殺害 私はこういう子どもを救いたいので家族の問題に取り組んでいる。 [家事]



教育虐待の末に自分の母親を殺害した女性が
懲役10年の判決を受けました。
この刑の妥当性について私は述べる立場ではありません。

ただ、母親を殺害するところまでは行かなくても
その入り口にあるような事例を多く見てきました。
このことについてお話しさせていただきます。

通常弁護士は、離婚事件を担当しても、
離婚が成立したら関係も終わりであるため
このような事情は見えてきません。
しかし、離婚した10年後、15年後のケースでは
子どもが正常な状態を保てないくらいに
母親の干渉が見られることは少なくありません。


離婚に限らず、
離婚こそしていないが長期間別居というケースも同様です。

母親は、勉強だけではなく、芸術、芸能、スポーツと
種類は様々だけど
子どもに無謀な期待を押し付けてきます。

本件では医者になれということでした。
私が見てきた他の事例では
地域で一番の進学校に進学するとか
芸大に入学するとか
著明な劇団に入団するべくレッスンに明け暮れさせるとか
スポーツ少年団に休むことなく打ち込ませるとか
特別の才能が必要なことをやらせようとしていました。

子どもはというと、母親の期待に応えようと無理をするのです。
なぜならば
そういう子どもの多くは、自分の考えで行動をすることをやめ
母親の願望を忖度して、自分の行動を選択しているようです。
だから、他の子どものように、
眠いとか、疲れたとか、飽きたとか
自分の感覚で行動をする、しないという発想が感じられません。

だから、自分の限界を超えて頑張ることができるようです。
自分が眠くても、母親が悲しむから、頑張らなくてはならない
というような感じで頑張ります。

そして頑張れば
幼稚園や小学校の中学年くらいまでは
そこそこの成績がおさめられるのです。
そのころの子どもたちは、そこまで頑張らないため
無理やり頑張った分成績に反映してくるわけです。

頑張って何とかなるのはそのころまでです。

小学校高学年から中学に入るころには、
向き不向き、あるいは才能ということがとてつもなく大きな壁になってきます。

その分野の才能があるとか向いているという子どもたちが
自分のしている努力の何分の一の努力で自分より上の成績を上げてきてしまう。
練習時間が同じでも
その分野の申し子は練習自体が楽しいわけです。
母親に言われてやっている子は悲壮感はありますが楽しさはありません。
努力が効果をあげられないのはそういう理由もありそうです。

無謀な進学校への合格を命じられる子どもたちは
自分がどんなに努力をしても
合格に必要な成績順位を上げることができないことに気がつきだします。

それでも良いのだ、無理しなくてもいいのだ
と言ってくれる教師の言葉に耳を傾けている時間はありません
とにかく自分は進むしか選択肢がないのです。
辞める、あきらめるという選択肢はありません。
選択をするのは母親だからです。

やらなければいけないのに進めない。
常時イライラしている状態であり、
同級生たちと調和して生活することも難しくなるのは当然です。

私が中学校や小学校の校長先生方と話す機会があったとき
この話題に触れてみました。
そうしたら皆さん、そういう児童生徒が学校に常時いる状態で
その場にいた校長先生は、
そういう生徒さんの名前をきちんと把握されていたことに
感心した記憶があります。

それだけ学校現場ではポピュラーな出来事のようです。

もちろん、こういうことが
すべての離婚家庭、別居家庭で起きているわけではありません。
しかし、離婚家庭、長期別居家庭の中で
一定割合に確実にこのような教育虐待が起きていると思います。

母親はムキになって子どもの将来を
無謀と思われる職業に就かせたいようにしか思えません。
まるで、離婚した夫、長期別居している夫を
見返してやることだけに全人生をかけているように見えてしまいます。
子どもは見帰すための道具にされているわけです。

このようなケースでは離婚したり別居したりしている夫が
高学歴、社会的地位が高いケースがほとんどです。

その後の子どもの行く先は悲惨で痛ましいものになるケースがあります。

退却という選択肢がなく
例えば劇団四季に入ること、医学部に進学することが、
やり遂げなければいけないことになっているので、
「やらなければならないことができない」と
子どもは、自分がダメな人間であると思いこまされていきます。

保健室登校ができるならば幸いです。
今の自分でいいんだというメッセージを受け続け、
母親に設定された目標は無理だと少しずつ理解できてくる可能性がある。
そうして初めて、自分に無理を押し付ける母親を
ようやく批判的にみることができるようになるというのです。

逆に言うと
それまでは完全に母親と自分は一体化していて
ある意味、自分と母親との区別ができない状態だったのでしょう。

これでは教室の中で浮いてくるのは当たり前です。
コミュニケーションができませんから。
自分の感覚が行動基準とならないのだから
普通の同級生と話が合わない。
ここにいるのに、みんなが当たり前のこととして思うことが
通じないのです。

そうして思春期になったころ
異性の友達ができないことに気が付いてしまいます。

こういう母親との一体化は女の子であることが多いです。
最初はやせるためにダイエットを行うのですが
空腹という自分の感覚でものを食べるということができないため
極端なダイエットになってしまいます。
すると生物的な反応をして今いますから
反動も大きくなるので、過食も起きてしまいます。

過食で食べた物を無理やり吐いているとき
いつも母親のことを思い出していたという女性もいました。
ただ、どうして母親の顔が浮かぶのか
自分ではわからなかったそうです。

過食をした時の自己否定感はすさまじいです。
同級生の中にいることがいたたまれなくなり
引きこもりが起きるのは必然でしょう。

リストカットも始まることが多いです。

思春期向けと評判の精神科に入院しても
なんとも治療のしようがなく
(本当に何もしないところがある)
入院と退院を繰り返してしまうようになります。

社会適応ということが
一切不可能な状態になる子どもたちも多くいます。
40歳になっても家の外を自由に歩けない。
精神科の入退院を繰り返すという相談を受けたこともあります。

症状が悪化する事例は
やはり父親と交流の一切ないケースが多いです。

精神科の入退院を繰り返し、
手の施しようがないと医師が何もしなかった事例は
母親の父親に対する援助要請があって
面会交流にこぎつけて
仕事ができるまでに回復が見られました。

ただ、この援助要請は素直な援助要請ではなく、
離婚調停申し立てという形で行われました。
離婚調停とはいっても、お子さんのことばかりが書かれてあり
だいぶ深刻な状態であることが伝わり、
「もしや」と気が付き
離婚なんて言っている場合ではないのではないかということで
面会交流の話し合いに切り替えた
という事案でした。

父と子の間に何も問題がなかった事案ですから
父親の愛情を浴びて立ち直ることができたのだと思います。
そういえばあれから何年もたちますが
再度の離婚調停や訴訟はありません。

ただ、どうやら母親は、父親に援助要請ができない
助けてというのがとても怖いようです。
そういうとDVだとかなんと単純化しようという人が出てくるのですが
もっと人間らしいおそれのようなものです。
代理人が本当は何を求めているのかきちんと把握し
相手方に伝えるという作業をするべきなのです。

もしこの時にDVだ虐待だという主張をしていたら
私も真意に気が付くことができず
子どもは取り返しのつかないことになっていたかもしれません。

だめなんです、母親の表面的な感情を真に受けて
子どものことを考えない家事実務をしていると
子どもの一生が台無しになる危険があるということを
もう少し分からないと。

本件の娘さんは
何度か家出を試みたそうですが、
探偵や警察に捕まって母親の元に戻されたと言います。

探偵は言われたことをやるしかないでしょうし
実際このようなむごいことが行われているということはわからないでしょうから
ある程度仕方がないのかもしれませんが
弁護士がこういうことをやっては
子どもの最後の助けは誰もいないことになってしまいます。

警察もしかりです。
きちんと子どもと話をしていれば
児童相談所につなぐということもあったはずです。

もっとも児童相談所が母親と話をして
子どもの生きる権利を考えてくれればよい結果がでる
ということですが。

今その場限りの母親の感情を優先するのではなく
子どもの未来のためにものを具体的に考えるということが
今の家事実務において決定的に欠落していることだと
私は感じてなりません。

それでも多くのお母さん方は頑張っていらっしゃいます。
でも、ご自分が気が付かないうちに
子どもにも無理な頑張りを要求してしまうということがありうるのです。
そうして子どもが小さいときは
自分の言うとおりに子どもが習い事をして
母親が喜ぶようなことを言えば
考えは一つだと勘違いして
さらに無理を強いることになってしまうことがあります。

どうかお子さんの将来に一人で責任をとろうとしないでください。
父親に面会させるだけで
気が付かない子どもへの無理強いが
解消されたり緩和されたりするはずです。

ご自分で言いだせば
案外うまくいくものです。
なまじ弁護士なんて依頼しない方が良いかもしれませんよ。

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業者による政治家や官僚の接待の利益、思惑とは何か。接待を断られる業者と接待をうけてもらう業者と何が違うのか。「国民に疑惑を持たれない接待」はないということの意味。 [弁護士会 民主主義 人権]

東北新社やNTT等が大臣や官僚を接待したことが明らかになりました。
これに対して、大臣たちは、
「国民に疑惑を持たれるような接待は受けていない。」
と答弁していますね。

ここで使っている「疑惑」の意味がよくわからないので
なんとなく悪いことをしていながら逃げ切っているような
そんな印象ばかり受けてしまいます。

7万円もする酒食を平気で飲み食いする神経も不思議ですが、
どうして業者は、そのような費用をかけて接待をするのでしょうか。
企業ですから、何か企業の利益につながらないと
経費として支出することができないはずです。

ここでは、その場で賄賂などを渡すということは除外して考えます。
賄賂を渡さなくても接待をする利益があるということをお話しします。
但し、高額の接待がわいろにならない理由は
いろいろ考えるほど私にはよくわからなくなります。

まあ、わいろを渡す、つまり、企業に良いように
本来するべきでない公務をさせるために
お金や品物を渡すということをしますと
接待を受ける側も、収賄罪や受託収賄罪をとして罰せられますから
通常このようなあからさまなやり取りはありません。

逆に言うとどんなに高額な金品を提供されたとしても
刑務所に行くことになるというのでは割に合わないのですから
そのようなぎらついた接待を受けるということはしないでしょう。
あからさま要求をされないという安心感がなければ
接待は受けられないということがまずあるわけです。

それでは、具体的な不正公務の要求を掲げないにもかかわらずにする接待は
大臣や官僚にどのようなことをしたいのでしょうか。
それで何か企業の利益になるのでしょうか。

先ず、接待の中身ですが
必ずしも政治家や官僚に利益を与えることを主目的にはしていないのです。
私の感覚では、一か月分の家族の食費以上の
飲食代金やお土産なのですが、
おそらく彼らの感覚では、社交辞令の範囲内なのでしょう。
政治家や官僚は、高級な食事をしたいと
それほど渇望しているわけではないと思います。

但し、この感覚の鈍さだけを問題にしていたのでは
接待の、国民にとっての本当の問題点が見えてこなくなります。
マスコミや一部野党が、ここで批判が終わっているとすると
問題の本質に切り込んでないことになりますし、
問題の本質を国民から隠ぺいすることになってしまいます。

ここを間違えて考えている企業は
おそらく接待に応じてもらえていないはずです。
ここを間違えている企業とは
ひたすらお金を出して、珍しいもの、おいしいものを
提供しようとするでしょうし、
大臣や官僚にやってほしい便宜を、
誰が聞いても分かるようにお願いしようとしてしまっていると思います。

そんなことをしていたら
二度と接待には応じてもらえなくなっているはずです。

では接待をする一番の理由は何かというと

「顔なじみになる」ということなのです。

もう少し具体的に言えば
企業の活動分野に関わる政治家や官僚と
できるだけ多くの時間を一緒に過ごすということなのです。

できるだけ長く面談時間をとってもらうためには、
できるだけ楽しい面会時間にするように工夫しなければなりません。
そのための料理であり、雰囲気であり
そのための高額の費用だという順番になります。

政治の話はできるだけせずに
当たり障りはないけれど
とても楽しい話題を用意するということになるでしょう。
(大臣や官僚にとって楽しければよいのですから
それほど難しくはないでしょう。
かなり、一人一人の経歴や趣味などを調べ上げているようです。)

しかし、その場が楽しかったで接待が終わるとするならば
本当に自分の企業にとって有益なことを
大臣や官僚がやってくれるのか
なんとも頼りない話のように私たちは感じます。

そんな曖昧なことに高額の費用を使えるのか
という疑問がわくのは当然ですが、
これが、日本の伝統的な接待です。

ここに科学の目を入れたのが認知心理学です。
「単純接触効果」という理論です。

つまりこのような接待によって十分企業にとっての利益が上がるし、
それ以上踏み込んだお願いをすることは逆効果になる
ということなのです。

政治家や官僚にとっての政策形成過程は
統計や文書といった抽象的な資料にあふれています。
つまり、その政策で救わなければいけないような
国民の具体的な苦しみを目の当たりにしているわけではありません。
そちらに予算をとるために削られた予算で苦しむような
国民の顔は政策形成過程に出てこないわけです。

客観的に科学的にあるいは統計的な資料に基づいて
政策が立案されていくということになるわけです。
本来そこに、感情や同情が入るということはないはずです。
そうやって、個々の人間の感情に左右されず
国全体の利益を考えて政策を進めるというところに
客観的な政策形成の良さもあるのかもしれません。

しかし、本来感情が入らないはずの政策形成過程に
入ってはならない感情が入ったどうなるでしょう。

統計や理論に基づいて、あるいは法律に基づいて
淡々と政策を組み立てていくときに、ふと
「これ、厳格に仕組みを作ったら
あの企業はそういう対応ができていないから
企業の仕組みを土台から変えなくてはならなくて
対応が大変になるだろうな。」
とか、考えたら
そして、
「そこまで政策を徹底しなくてもよいのではないの」
と修正する余地があるとしたならば
政策を修正してしまうということにならないでしょうか。

それを言い出したとしても
他の人もみんな接待を受けていて
あの企業のあの担当者の立場がなくなってしまうな
なんてことをちらりと考えてしまったら
「ここまで厳格に仕組みをつくるより
 例外規定を設けますか」
と提案しても、
なかなかそれに反対しずらいわけです。
なんせほかの人たちも接待受けているわけですから。
正義感を持つ人も中に入るのでしょうけれど
既に飲んで食べてしまっていますから
なかったことにはならないわけです。
お金を返せばよいというのは政治家だけに通用する話なのでしょう。

「もう少しこの政策は先延ばししましょうか」
ということも簡単に想像することができますね。

単純接触効果というのは
長く一緒にいる人に仲間意識を持ってしまう
という人間共通の心理を言います。

他の哺乳類などは、
匂いによって仲間と仲間ではない個体と
厳格に区別をすることが多いようです。
自分の血縁があるものには共通の匂いがあるようで、
血縁を匂いで感じ取って
仲間という感覚を形成していくようです。

ところが人間は進化の過程で
嗅覚が衰えて、視覚が発達していしたから
血縁などということは本当はよくわからず
いつも見慣れている人が仲間だと感じるようです。

このおかげで、血縁を基準としない仲間を
作ることができたのだと思います。
他の動物に比べて著しく出産が大変な人間が
仲間を作るためには必要な心理だったのでしょう。

そうして、人間はひとたび仲間だと思うと
自分と仲間の関係を大事にしてしまいます。
仲間を傷つけることはしたくないし
仲間のピンチは助けたいと思うわけです。
仲間に喜んでもらうとうれしいということもそうですね。

仲間の表情、感情を気にしてしまうということも起こるでしょう。

接待がしょっちゅう行われなくても
一度楽しい時間を共有すれば
他の会合、勉強会などで顔を合わせれば
特別な感情がわいてきて、挨拶などをするわけです。

接待の効果は、その日限りではなく
接待はなくとも、顔を合わせて話を交わせば
じわじわと強くなっていくわけです。
偶然ゴルフ場や飲食店でご一緒すれば
さらに強くなるわけです。

このためには、接待担当者は、当たり障りのないように見える人
相手の感情を荒げない人
そして感情が豊かな人が最適なわけです。
ここでいう感情豊かというのは気分変調が激しいということではなく、
楽しいときは楽しい表情をして
困ったときは困った表情をするということです。
感情豊かな人は、他者が感情移入しやすいというところに特徴があります。
感情移入する相手は仲間だと思いやすくなります。

ただの会社名、東北新社、NTTという名前よりも
一緒に飲み食いしたその会社の担当者の
笑顔や自分にしてくれた配慮を思い浮かべてしまうと
無味乾燥な政策形成過程においても
その人の感情を考えてしまうとは思わないでしょうか。

仲間であれば見殺しにするということはできない
そんな感覚になるようです。
特に自分がちょっと制作過程をいじることによって
簡単にそれができるという場合ですね。

接待とはこのように
人間の特性を利用した活動だということになります。
そして案外これが企業にとって効果的なので
現代においても接待は続いているのでしょう。

しかし、だからと言って、
接待が許されるかと言えばそれは違うわけです。

一番に考えなければならないのは
大臣や官僚に接待できない人の利益が相対的に害されるということです。

国民全体の利益の観点からこうした方が良いということに
具体的な企業の利益の観点からの修正が入ると
国民全体の利益が後退してしまうわけです。

国民全体の利益と
一緒に時間を過ごしている顔なじみの人の利益
どちらかを天秤にかけている場合、
どうしても、笑顔や配慮や不安などの感情を想定できるのは
具体的に一緒にいる時間の長い人でしょう。

国民全体という人間は想定しにくいので
感情は動きにくいわけです。

もちろん、もっと具体的には
継続して接待をしている企業からはじかれた新規企業の
利益はなかなか考慮されません。

接待をしていない人たちが
相対的に不利になるということです。

政策には必ずメリットデメリットがあります。
一つの立場のメリットがあれば
それでデメリット受ける人たちがたくさんいるわけです。
特定の企業にメリットがあれば
他の企業や国全体にデメリットが大きくなる
ということはほとんど必然ではないでしょうか。

ところが、大臣や官僚は、
接待を受けても偏った判断はしない
と思っているのかもしれません。

もっとも、それを意識的に行ってしまえば
接待が贈賄になりますから
否定はしなければならないのでしょう。

また、単純接触効果は
人間の本能によるものなので
自分ではなかなか意識することは難しいのです。

エリート官僚は、自分の理性に絶対の信頼をおかず
理性がゆがめられる事情の一切を排除する人たちでなければ
ならないと思われます。

接待が繰り返されていく度にその感覚がずぶずぶになっていくのでしょう。

私は、こういう事例を見て
「国民から疑惑を受けるような接待は応じていない」
というような答弁をする大臣を見てしまうと
主食と有料サービスとお土産を伴う接待は
一切禁止しなければならないのだろうと思えて来てしまいます。

疑惑を受けない接待はあり得ないし
利益のない接待を企業が行うということもあり得ないからです。

具体的にその企業の利益に関わる政策を立案しているという情報を
企業にリークした上で、
その企業から接待を受ける場合は、
それは収賄罪に準じた公務の公正性及びそれに対する国民の信頼を
害する行為であると思う次第です。

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平成23年3月11日から10年の報道の違和感と天皇陛下のお言葉 [災害等]

そもそも、東日本大震災は被害格差の大きな災害でした。

この被害格差という言葉には二つの意味があります。

一つは同じ震災にあった被災者とは言えども
その被害の内容にかなりの違いがあるということです。

海辺の住人と内陸部の住人からはじまって
マンションも高層階と低層階での被害の違いがあり、
身内が亡くなった人無事だった人
仮設住宅にに入った人、全壊の家に住み続けた人
半壊にとどまった人
ライフラインが早期に復旧した地域、しない地域
いくつかの被害格差がありました。

もう一つの「被害格差」の意味は
誰かと比べれば重い被害ではないけれど
被害自体は厳然としてあるのだということです。

ところが、「自分はまだましだ」
ということで、
苦しさや不安を口に出せない、態度に表せない人たちが
多数だったということなのです。
物資がなかったり、知人が亡くなったり
仕事がなくなったりしながら
外部から「頑張れがんばれ」と言われ続けてきて
頑張れない自分を責めてきた人たちが
たくさんいたということなのです。

NHK仙台放送局の津田喜章アナウンサー(石巻出身)が
辛いと言ってもいいんだ、心配と言ってもいいんだと
私たちの言葉で語りかけれてくれて
始めて涙した人たちは
かなりの人数に上ることと思います。
私もこの放送を偶然見てよく覚えています。

昨日の震災から10年を話題にしたテレビや新聞に
私だけでしょうか率直に言って違和感がありました。

まだ10年しかたっていないのに津波の映像が当たり前のように流れていました。

おそらく、身内を亡くした、行方不明になっているということは
わかりやすいのだと思います。
津波の映像を流すこともインパクトがあるから
視聴率も上がるのでしょう。

震災を風化させないという言葉をよく聞きますが、
誰がどのように風化させるのでしょうか。
むしろ昨日のテレビを見ていると
ライフラインの途絶、物不足、避難所、仮設住宅
放射能が怖いのに、行政が不安を否定したこと
避難
そこでの様々な人間の感情は
早くも風化させようとしているのではないか
ということさえ考えすぎてしまいました。

震災後の生活を知らない人が
そういうテレビ番組を組むことは
ある意味仕方がないことなのかもしれません。

そんなとき、天皇陛下のお言葉の報道に接することができました。
すんなりと受け入れられる内容でした。
先ずそのことに驚きました。
そして、どうして、そう感じるのだろうと考えました。

誰かに言ってもらいたいと無意識に思っていたことが
すべてお言葉の中にあったからだとしばらくして気が付きました。

その私なりに感じたことをこれまで述べてきました。

一部では、お言葉の量が長いなどという報道もありました。
私は、簡にして要を得ている完璧で美しいお言葉であると思います。

先代の両陛下についても
この記事で10年前に感謝を申し上げていました。
今上陛下皇后陛下についても
また感謝を申し上げることになりました。

とてもとても素直な気持ちになりました。
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なぜ、子どもが餓死するまで母親は他者の言いなりになったのか 一つの可能性としての「迎合の心理」 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 報道

母親と同居していた5歳の子どもが餓死する事件が起きました。
報道によると
母親は知人女性の言うなりに行動して
我が子に対して食事を与えず
言うなりに離婚もしたとのことです。
生活保護費も巻き上げられていたようです。

5歳の子の容体が悪くなっても病院には行かず
知人女性に相談しただけとのことでした。

真実はこれから解明されるでしょう。
ただ、あまりに、先入観をもって事件を割り切る可能性があることに
懸念があるのです。

その懸念とは、
知人女性が背後に暴力団関係者がいることを語り
母親を怖がらせて言うことをきかせていた
このために怖くて言いなりになっていた
という論調があるため、
これで説明を終わらせてしまうのではないかということです。

そういう言動もあったのでしょうが
特に母親側の要因についても分析しないと
再発は防止できないのではないと思うのです。

2 迎合の心理とは

母親側の要因として考えておかなければならないのが
「迎合の心理」です。
この心理は人間一般に多かれ少なかれあります。
しかし、その迎合の程度は人によって千差万別です。
中には、迎合を拒否する傾向の人間も確かに一定数存在します。

迎合の心理とは、
人間には、現在の人間関係に協調して
その人間関係にとどまろうとする本能があり、
その人間関係、人間集団の中の
権威を有する人間に迎合しようとする傾向が
無意識の中に存在することをさします。

オリジナルは、
スタンリー・ミルグラムの「服従の心理」です。
詳細は別の所で書きましたが、
Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05

服従という言葉は、自由意思を奪われて従う
というニュアンスなのですが、
実際は
自ら権威の意思に沿うように行動しようという意欲をもって行動するので、
「服従」ではなく「迎合」という表現の方が正確だ
というのが私の立場です。

3 なぜ人間は集団の中の権威に迎合するか

人間だけではなく群れをつくる哺乳類にある程度見られる習性です。
多数の個体が集合しているだけでは集団とは言えません。
集団の秩序が形成されて初めて集団という有機体になり、
集団行動ができるわけです。
集団行動ができるから生き残るのに有利になるわけです。

人間には、
個体で単独でいると不安になり、集団に帰属して不安を解消したい
という本能があります。
そして、集団に帰属して、集団の秩序の形成に参加したいと感じ
自分がその秩序形成に役に立っていると安心し、
秩序形成を自分が害していることを自覚すると不安になります。

そういう性質をホモサピエンスが持っていたため
大きな群れをつくることができて
そのため、余裕ができるようになり
様々な発明が可能となり
現代に生き残っている
と考えています。

根本には不安解消というモチベーションがあるわけです。

人間はこの観点から大きく二つに分けることができるようです。
無条件に権威に迎合する人と
無条件に権威に反発する人
ということになりそうです。

これもうまくできていて
必ずそれぞれのパターンの人が併存しているのです。

どうして併存することが有利かというと
例えば偶然能力のない者が権威になってしまうと
みんなおバカな方針に乗ってしまい
あっという間に飢えてしまったり、
肉食獣のえさになってしまいますから
とっくに滅びているわけです。

逆に反発する人ばかりだと
群れが空中分解しますからやはり絶滅種になるわけです。

多数の迎合者(見方を変えれば協調志向の人たち)と
少ない割合の反発者がいることが
強い群れの条件になるわけです。

協調者も大切な存在だということになりますし
反発者も大切な存在なわけです。
(理想的な人間集団は、このような性質に分かれず、
 それぞれの提案のメリットデメリットを洗い出して
 デメリットをできるだけ回避してメリットを獲得する
 そういう理性的な話し合いができればよいのです。
 しかし、上は国会、国連から、下は日常の職場、家族、学校などまで
 クリアーで理性的な論議ができていませんね。
 しばらくは迎合する人と反発する人という
 自然が用意した遺伝子的な集団医師の決定が行われるのでしょうね。)

4 依存もまた権威に対する迎合

権威に対する迎合する傾向が強すぎる場合
依存性が強いという言われ方をするのだと思います。

迎合も依存もどちらも
そのモチベーションは不安解消ですから
依存心の強い人は、やはり何らかの理由で
不安が強い人なのではないでしょうか。

不安の理由は実に様々です。
健康状態がすぐれない場合
家族や職場など人間関係がうまくいっていない場合、
不安を感じやすい精神状態の場合
等々です。

不安が強いと自分の考えに自信を持つことができません。
そもそも決められないのです。
誰か具体的な人の意見にすがって
その人の指示通りに行動することで
始めて安心ができるというような心理状態になっています。

もはや自分の頭で考えようとしていません。
権威者の言うことを疑おうともしていません。
権威者を疑うくらいならば
権威者の指示にできるだけ忠実に従うためにどうしたらよいか
権威者は何を言いたいのか
ということに残された能力をすべて傾けてようとしているわけです。

今回、5歳の子が餓死したわけですが、
独立して子どもの利益を考える力は残っていなかったのでしょう。
自分が考えるより指示に従っていた方が安心だと思っていたのかもしれません。
もっとも、本当に子どもの利益を考えようとする精神活動が
行われていた場合の話です。

それすらも考えなくなっている事例が実はたくさん世の中にあるわけです。

ところが人を思いのままに動かそうなんて人は
自分に依存する人間がいることに喜びを感じるのでしょうから
どんどん自分の利益のために食い物にしていく可能性があります。
今回のケースでは、報道によると金を収奪するということらしいですが
主義主張なども「自分の利益」に入るのではないでしょうか。

意のままに動かそうとする方は
迎合している人間の子どものことなんて考えないことがむしろ通常なのです。
但し、口では「この子のためにも」と言葉には出しますけれど。

今回のケースでも
食事のことは指図していないと知人女性は言っているそうです。
もしかすると、「あまり太らせると生活保護が受給できない。」
等と言ったのを過剰にくみ取って
母親自らが積極的に食事制限をしていた可能性もあると思います。
迎合の心理とはそういうものだからです。
もっとも、そのことは知人女性は分かっていたはずで
わかっていても子どもに食事をさせなかった状態を改善しなかった
ということはあると思います。

5 どうして離婚までしたのか

もしかしたら、ここまでお読みいただいても、
そんなに簡単に他人の言いなりにならないのではないか
やはり脅かされていやいや従ったのではないか
離婚したのも夫に何か原因があったからではないか
と考えている方も多いのではないでしょうか。

しかし、この母親のように
他人の言いなりに離婚する人間は
実際はたくさんいます。

言いなりになって離婚したけれど
生活が苦しくてこんなはずではなかった。
こんなことなら離婚しなければ良かったと
その人に文句を言ったら
離婚を決めたのはあなた自身ですよ
と言われたけれどどうしたらよいですか。
という相談が私だけではなくよくあるのです。

根本には強い不安があります。

この不安を解消したいという強い要求があります。

夫と子どもと自分の家庭の中で不安が存在しているわけです。
離婚事件に見られる不安の理由の多くは
不安を抱かせる内科疾患(分泌系疾患と薬等の副作用)
パニック障害、全般性不安障害等の精神疾患
貧困
でしょうか。

夫はなかなかこういう不安に気が付きませんから
ただ妻がかんしゃくを起こしていると感じるか
自分が妻から理不尽な攻撃を受けているとしか感じません。

わかっていても
なかなか妻の不安を受け止めてあげることは難しいのです。
わからないから不安を受け止めるどころか
不安に基づく言動をする妻を叱り飛ばしたりしてしまうわけです。

「夫は自分を助けてくれない。」
妻はそう思っていくわけです。
最初は夫と関係の無いところから始まった不満が
どこに原因があるかわからないことが通常ですが、
こうやって助けてほしい夫が自分を助けてくれない
という不満は確実に認識し、その経験も重なっていくわけです。

そう思っている妻に対して
つまり不安を感じている女性に対して
今回の知人女性のような人物が
「あなたは悪くない。」
と介入するのですから、
通常の人が考えられなくなるくらい威力があるわけです。

こうして
心理学でいうところの「三角関係」が構成されてしまうのです。

夫と知人女性との、妻をめぐっての綱引きが行われるのですが
妻の不安を理解しない夫は分が悪いのは当然です。
ずるずると何もしないで知人女性に妻が引きずられて行っていることに
気が付くこともできません。
夫は、自分と妻の二人の関係しか気が付いておらず
もう一つの極があることを認識することもできません。
全く無防備な状態です。

妻は知人女性が自分の不安を理解していると思いこまされています。
この人が私の不安を解消してくれるということを
無意識に感じて依存を始めるわけです。

それとともに夫から離れていき、
離れていくと同時に知人女性との関係が自分の人間関係になってしまいます。

夫に対する不満は、嫌悪感、恐怖感に変わっていきます。

夫の嫌な面だけが記憶の中で増幅され出します。
リアルタイムでは何とも思わなかった言動の一つ一つが
そのとき振り返って思い出すととても嫌なことで、
自分は逃げようもなく嫌な夫の行動にさらされていた
という記憶の改編が起き始めるようです。

ここで「生活のことは私が面倒を見るから心配するな。」
なんてことを言われれば、とても頼もしく感じるわけです。
夫はそういうことは言えません。
誠実だからです。
そんなことを言えるのは口先だけで心がこもっていないからです。

でも不安を解消したいということが最優先課題になっている妻は
その口先だけのことをうっかり信じてしまうのです。
信じるというかすがってしまうということですね。
もはや知人女性の言葉に従うことによって
不安が解消されるという体験を重ねているのかもしれません。

こうなった段階で
あなたの夫は浮気をしている。証拠がある。
あなたの夫の行為は精神的虐待だ。モラルハラスメントだ。
等と言われてしまうと、
妻は夫に対して嫌悪感、恐怖感がさらに強くなり、
私の落ち度ばかりを夫は口に出していたな
夫は私を常に否定ばかりしていた
感謝も何もなく夫の奴隷だった
夫は自分を利用していただけだ
私だけが損をしていた
という感覚になっていくようです。

夫と一緒にいること、顔を見ること、声を聴くことが苦痛になっています。
夫が帰る家に向かう足が、どうしても動かなくなるわけです。
町で夫と同じような背格好の人間を偶然見つけると
息が止まるような恐怖で身動きができなくなるようです。

一日も早く離婚をしたいという気持ちになるのは
自然な流れだったのでしょうね。

6 どうして途中で気が付かなかったのか

それにしても話が違うわけです。
すっかりお金も吸い上げられて
とても幸せからは程遠くなった

第三者ならば気が付くわけです。

どうして、ご自分では気が付かないのでしょう。
一つは依存というものはそういうものなのだということです。

言いなりになることに安ど感を覚えているわけです。
言いなりにすれば、考えなくても良いということは
精神的にはかなり楽なことだったと思います。

だから本人は、不安がなければそれでよいという心持なのかもしれません。

幸せなんて目に見えないものですから
依存できる人間がいるということで不安がなくなれば
それが幸せなのかもしれません。

また、自分で考える力がなくなっていますから
改めて自分の境遇を顧みるということもないのかもしれません。

ただ、それはそういう側面があるとしても
うすうすは変だなと感じ始めるのではないかと思うわけです。
そういうことも折に触れあったと思います。

しかし、変だなと思い始めた途端
自分でその疑いの目を摘み取っていたことが考えられます。

これが依存行動のサンクス効果です。

ここでいうサンクスというのはありがとうということではなく
埋められた、蓄積されたということです。
これまでの努力を無駄だったと思いたくないということですね。

本件でも離婚したり、金を渡したり
そして言いなりに積極的に奉仕していったわけです。
途中で、それらはすべて何の意味もなかった
離婚前に巻き戻した方がよほど幸せだった
という自分の奉仕行動、依存行動が
マイナス効果しかなかったと思うことは
取り返しのつかないとても辛いことです。

自分が過去において行った奉仕行動、依存行動を
無駄とは思いたくないという心理が働き
無駄だという発想を打ち消そうとするように
さらに依存行動を行っていくこと
これがサンクス効果というわけです。

7 それでは知人女性の罪は軽くなるのか

これまで私が述べてきたことは
刑事責任や量刑の見通しとは
次元の違うことです。

こういう無惨な事件について言及すると
あたかも
「怒りをもって母親や知人女性を糾弾しないのはけしからん」
という趣旨のコメントが寄せられることがしばしばありました。

怒って非難しないことが
イコール弁護しているということに思ってしまうようです。

しかし、冷静に分析して
真実の選択肢を狭めないことは大切なことです。
真実を見つけることが予防につながるからです。

単に、悪質なサイコパスが、恐怖心を利用して人を洗脳して
それにやすやすと乗ってしまった母親が
我が子を餓死させた
こういう単純化した図式では、
時間が巻き戻っても本件は防止できなかったでしょう。

知人女性はサイコパスではなかったかもしれないし、
母親は恐怖心はなかったかもしれない
それでも子どもは餓死したのです。

事件の前に児相が虐待を疑わなかったのはなぜでしょう。
体重の著しい現象があったわけですから
虐待を疑うことがあっても良かったのではないでしょうか。

もしかすると児相は
典型的な虐待事案というものが
男性によるものか
孤立した女性によって行われるというマニュアルがあり、

この家庭に男性の影はなく
むしろ知人の女性も時折尋ねて支援している
だから著しく体重が減少していても
生活保護費は毎月きちんと受領していることもあり
児童虐待は行われてはいないと
用紙に記載されてチェック事項に当てはまらないから
虐待はないと判断したということはないのでしょうか。

なぜ見落としたのか
科学的な検証が必要だと思います。

それだけでなく
暴力がなく、強制が無くても
人間の不安や依存心を悪用する人間が存在する
という事実に着目しなければ

自分の利益のために他者(特に女性)を食い物にして
子どもの健全な成長を阻害してしまうという
すべての事情を排除することに
目が向かなくなってしまいます。

どうしても怒りは、問題を単純化します。
怒りも不安から生まれることは
ひとつ前の記事でも書いていますし、繰り返し書いています。

勇ましいことを言って
不安を解消したい
正義感を発揮したいというのも
人間の本能ですから
それはやむを得ない側面もあるのでしょうが、

結局、不安を解消できれば良いという行動は
問題解決を中途半端に終わらせてしまう原因だと
注意する必要があるように思われます。

私は
新たな犠牲者を生まないために
実効性ある対策は何かという
予防の方法について
できるだけリアルに考えていかなければならないと
思ってしまうわけです。

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【草稿】深刻ないじめが発覚しない原因 いじめ対策、若者の自殺対策が理解していないこと なぜ若者がSOSを発することができないか [自死(自殺)・不明死、葛藤]



1 本人の自覚

リアルタイムに深刻ないじめを受けているという自覚を持つことは実は難しい。第三者によって言語化されることによってはじめて気が付くことがある。さすがに深刻ないじめが完成した後では、いじめだと認識できても、軽微な段階からリアルタイムで自分は今いじめを受けているということを認識することは実は少ない。
ではどう感じているかというと、なんとなく苦しいと感じているが、自分が不当な扱いをされているために苦しいということはなかなか自覚できない。何が起きているかよくわからないということが実感に近いようだ。だから誰かに言葉に出して相談することができない。
これは大人のパワハラも同じである。
自分に原因があると責めること、誰かに相談することで行為者を窮地に陥らせるのではないかと心配すること等から、行為者に対する配慮のため深刻ないじめを受けていることを口に出せないことが指摘されているが、実ははっきりと自覚していないということで説明できる。
自分が何らの原因もないのに、不当な扱いを受けるということは、解決の方法がないという絶望につながる発想なので、何か理由を見つけようとすることも人間の本能である。絶望回避の思考をしてしまう。

友人や知人などから、「それはいじめじゃないの」と言われて、深刻ないじめを受けているということをはっきり自覚できる。但し、その後も解決の方法が見つからない場合は絶望感を抱くことになる。

2 本人の自分に対する言い訳

理由なく深刻ないじめを受けているということを自分でも認めたくない。そのため、攻撃を受けていると感じても、それは攻撃ではなく最近はやっている遊びであり、行為者には自分に対する敵意がないと思い込もうとする。友人であり、仲間としての扱いだと思い込もうとする。このため、自ら相談しようとする行動がとれない。

3 いじめのさらなる深刻化

行為者は、ターゲットがいじめを拒否しない場合、さらに加害行為を強める。これも人間の本能である。行為者の不満や不安のはけ口になるのである。行為者のその不満や不安は、通常ターゲットとは関係がない。自分の進路のこと、自分の家庭などの境遇のこと、兄弟や友人など自分の人間関係のこと等である。不満や不安が強い場合、誰かを攻撃することによって、不満や不安を感じない時間を作ることができる。攻撃とは怒りの情動を伴うが、この怒りの情動にはいくつかの特徴がある。
・不満や不安がエネルギー源になる
・不満や不安を与える根本原因に対して必ずしも怒りは向かわない。
・怒りは、自分より弱い者、戦えば勝てる者に対して向かう。
つまり怒りには八つ当たりがつきものである。

ターゲットが行為者の加害を拒否しないで受け入れるということは、行為者にとっては、ターゲットに対して確実に勝てるという確信が深まるだけである。ターゲットとは関係がない不満や不安がある限り、無抵抗なターゲットの存在は怒りを増幅させるだけである。行為者は自らの怒りに支配され、加害行為をやめることがなかなかできない。
だからいじめはさらに深刻化する。

さらに深刻化する要素としては、ギャラリーがいじめに参加することである。ギャラリー自体が不満や不安を抱えていること、攻撃しやすいターゲットが存在すること、複数の行為者の一人であればこちらに反撃してくることが考えられないことから、怒りの法則によってターゲットが怒りの対象となりやすくなる。

4 深刻ないじめの理由は何でもよい 通常は行為者の正義である

  上記のとおりであり、深刻ないじめの場合も、ターゲットに深刻ないじめを受ける理由がないことが多い。しかし行為者は、他者を攻撃している自覚があるため、それを正当化する言い訳をしている。複数人のいじめの場合は、特にその傾向が強く、言い訳を共同化することによって、深刻ないじめをすることが正当であるという一種の規範意識を醸成している。
  例を挙げてみる。
 ・ スポーツ推薦で入学を狙っていて、学校では品行方正にしなければならず、それなりの成績をとらなければならない生徒が、発達障害疑いのある生徒がそのような精神的緊張なく学校生活を送っていることから、発達障害であることを揶揄したことやその他の加害行為をした事例。
 ・ 毎日ハードな部活動を送っている生徒たちが、部活動を休んでいる生徒に対して、SNS等で仲間はずれにした事例
 ・ スポーツもピアノもよくできて、学校からも称賛を受けている生徒を、本人が自慢しているわけでもないのに、不道徳にも自慢しているとして執拗に嫌がらせをした事例(これは自分がターゲットから攻撃を受けているという感情を持った可能性もある)
  ターゲットは、自分なりに普通に生活しているにもかかわらず、行為者が苦労して環境に適応しようとしている場合、そのような苦労を否定されたような感覚になるようである。「あいつばかりずるい(正義に反した振る舞いをしている)。」という感覚を持ってしまうと、人間は相手に対して容赦がなくなるようだ。

5 それでもSOSを出せない理由、受け止められない理由

 1) ターゲットは周囲の大人を信用していない。ひとたび救助要請行動をすると事態はさらに悪化することを予想している。
ターゲットの過去の学習としては以下のものがあげられる。
<かつて、別の問題で親等に相談したら>
親がパニックになり学校に怒鳴り込んで、自分が学校での立場が悪くなったことがある。逆に友達が引いてしまった。
相手の子どもに対して直接怒鳴って変な親だと思われた。
些細なことで感情的になり、自分を守ってくれない。
教師に言ったところ、行為者と握手をさせられて、終わりにされた。それ以来行為者から嫌味を言われたり嫌がらせがエスカレートした。
  (大人が解決の手段方法を持っていて、華やかに解決して見せることによって、子どもは大人を信頼する可能性が高くなるようだ。)

 2)大人も深刻ないじめではないと思いたがる。
   自分が受けている行為を相談しようとしても、気にするなとか、気持ちの問題で処理しようとする。自分が攻撃を受けているわけではないから、相手の心に対するアクセスを中断すれば世界は平和になる。別の案件に没頭することができる。
   驚くことに、いじめ自死の事案の多くで、ターゲットは出来事を担任に報告している。担任も苦しそうにしていることは確認している。しかし、深刻ないじめであるという自覚をリアルタイムでは持てていない。SOSは受け止める側の問題である。
   ボーダーラインが、深刻であるために自死につながるいじめか、自死までには至らないかという線であり、その線は大人の忙しさによって高くなったり低くなったりする。

 3)そのような大人も自分の仲間であると思うことがSOSを発信しない理由
   「自分はいじめられている」ということを言うは、「自分は人間として否定されるべき人間だと思われている」という心配を持つようだ。それを言ってしまうことで本能的に心配することは以下のとおりである。
   ・自分が家族や学校から、一人の仲間として見られなくなるのではないだろうか。
   ・自分は特別扱いされてしまい、今までのように普通の仲間として扱われなくなるのではないだろうか。
   ・自分の居場所がなくなるのではないか。
   例えば家族の場合、子どもであろうと大人でも、学校や職場で辛い思いをしていても、家に帰れば家族として普通にいつも通りに接することができるという想いを頼りに家に帰ってくる。それが、かわいそうな子、普通ではない子、社会でやっていけない子として特別扱いされてしまうと、家族が仲間ではなくなってしまう。
   うつを家族に隠す人たちは、なぜ隠すのかという問いかけに対して、「家族が自分の最後の砦だから」と回答する。それは、こういう意味なのではないかと考えている。

6 SOSの発信と受信とは何か

  若者の自死対策として、国は、SOSの出し方教育を掲げる。私は、その意味がまるで分からない。せめて、何がSOSなのか、いつどうやってSOSを受け止めればよいのか、それだけでも説明してもらいたいが、対策をどう実行したかについても報告は極めて少ない。
  上記の説明から、既に深刻ないじめが完成した後でSOSを出させようとしても、無理と言わないまでも極めて困難であることが理解されたと思う。
  先ず、深刻ないじめを防止するためには、きわめて早期に不当な攻撃を受けているということを言語化し、自分が不快な気持ち、悲しい気持ち、寂しい気持ちになっているということを表現させる必要がある。この段階であれば、行為者の側も修正は容易である。それをさせる大人も深刻に考えないですむ。
  早期に異変を口に出させるためには、異変であろうとなかろうと情報の提供を受けることが最も大切である。普段会話がないのに、いじめの話だけを提供しろということはどだい無理な話である。幼稚園、保育所から小学校高学年までは、親は我が子の友達の名前を記憶して、説明抜きの話を聞く習慣を持つべきである。そのためには、幼稚園、保育所の時から、子どもが親に話をすることが楽しくなる時間を習慣化することである。
  楽しい会話のためには、話を遮らないこと、興味を持って聞くこと、感情を共有すること。レスポンスが楽しいこと等である。子どもは、人間のプロトタイプであり、また相手の家族のことも分かってしまい、なかなか興味深い。
  それでも深刻ないじめのごく初期であっても、子どもの心はとても傷つく。いったん深刻ないじめが解消されたとしても、数年たって、些細なことで、「あの時のように、またいじめられるのではないか。」と、必要以上にと思われるほど過敏、過剰な反応を見せる。
  また、時期が遅れたとしても、SOSは受け止めなければならない。SOSは言葉で発信されることはあまりない。表情、感情の乱れ、行動、特に逸脱行動や怒りの行動、破壊的な行動が起きる場合がある。いつもと違う場合には、話せる環境を整えてあげる必要がある。動揺しないこと、特別な珍しいことではないこと、どんな時も自分が子どもの見方であり、子どもの不利益になることはしないことを示す。また、子どものいやがる行動には出ないことを表明してあげる。そして、普段通り、これまで通りの対応を継続する。特別に庇護するとか、はれ物に触るような態度をしないこと。
 (自死はいじめがなくても起きる。いじめがないことで安心してはならない。)
  そして子ども本位に考えて行動すること。よく親は深刻ないじめを子どもが受けていると、怒りの感情が強くなる。相手を制裁しなければ気が済まなくなる。それはそうだ。しかし、それをすることで子どもの立場や子どもの感情をさらに侵害してしまう危険性が高い。親は、どんな場合でも、生命身体の危険に対しては身を挺してでも子どもを守ろうとするが、社会的な危険に対しては自分の感情を優先し、子どもの感情を顧みようとしなくなる。このことはなかなか自覚することができない。子どものためと口で言っても、実際は自分の感情を大切にしているだけのことがとても多い。怒りに任せて子どもを通学させることは、結局子どもを自分の所有物としてしか見ていないことになる。自分では自覚できないことなので、辛口の評価をしてくれる友人、家族は極めて貴重である。
  子どもが今日は学校にいけないというのであれば、それはチャンスである。登校できないのはそれだけの理由があるからである。それでも学校に行かないと言えば親から叱られると思っている。だから、欠席をしたいと言うことはよくよくの勇気が必要なことである。このことを先ず評価するべきだと思う。そうして、欠席を許す。但し、子どもの年齢に応じて、今欠席してしまうと、ますます学校に行けなくなるよということを言って、子どもの意思を最終確認しよう。明日は必ず行くからという言葉が出て欠席を許した例(中学生)では、翌日から出席することができた。親が自分のできないことを承認した。親は自分を理解し、信じてくれたということがその子にとって自信につながったのではないかと考えている。

7 教師、親がいじめを止められないならば

  教師や親は、これまで述べてきた通り、残念ながらそれほど力があるわけでも解決能力があるわけでもない。実際にいじめを解決した事例では、狭いグループ内のいじめを、少し広いグループ外の子どもたちが主として解決した事例が多い。」
  実際の深刻ないじめの事例でも、ほぼ必ず、深刻ないじめを受けている子どもに手を差し伸べる子がいる。そして、深刻ないじめを受けている子はそれを事実として記憶している。しかし、様々な理由でそれが手を差し伸べているとは評価することができない。
  どんなに社会的地位が高い人であっても、学校との関係では、孤立していれば極めて無力である。そのような手を差し伸べる子の親に相談することは大切である。最終的には一緒に行動してもらいたいが、最初は相談で終わらせる。そして、手短にこちらの行動の報告を受けてもらう関係ができてから協力をお願いするのがコツである。最初から相手が協力を申し出てくれたなら、それは大歓迎、大感謝するべきである。
  そのためにも行為者に対する敵対感情は、極力隠すという戦略を身に着けるべきである。
  再度述べる。目標は、親の感情、ポリシー、常識、生き方を満足させることではなく、子どもが楽しく過ごすということにするべきだと考える。

本記事で言う深刻ないじめとは
暴力を伴ういじめ、集団でのいじめ、執拗ないじめ等
自死につながる深刻ないじめという意味で使っています。
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警察官と役所の職員がその人の自死の決意をひっくり返したメカニズムとは何だったなか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

その人は、自死をするためにと自分で決めた最後の場所に向かって人気のない道を進んでいたという。
自死をする人の多くがそうであるように、その人も真面目で責任感が強すぎる人だった。自分が死んだ後で迷惑を少なくするために、家財道具を全て処分した。人目につかないような場所も選んで自死が決行されるはずだった。
その人が死のうとしていたことを私に打ち明けた時、一緒に話を聞いていた医療系の人は、精神科医につなごうと思ったようだ。私はその人の理由を聞いて、「全く正常な精神状態だからこそ死のうと思ったんだよ」と言いたかった。
その人が自死の行動に出る経緯は、誰にでも起こりうるものだった。
能力の高いその人はバブル期に、とある会社に途中入社して、どんどん出世をしていった。そのためには、過労死基準を遥かに超える残業も、断らなかった。むしろ、それを誇らしげに感じていたらフシがある。自分がこの会社を回しているのだと自負していたようだった。ところがリーマンショックで会社の事業が縮小され、他ならぬ自分の部署が切り捨てられた。関連会社に出向になり、元の部署に戻される見通しがなくなり、その人は会社をやめた。自分は何のために命を削って働いてきたのかわからなくなったらしい。それでも真面目で責任感の強いその人は、別の職種に移って働き出した。但し、個人プレーが中心の仕事だった。誰かと日常的に関わり続けるのは、怖かったという。あんなにチヤホヤされていたのに手のひらを返すとはこのことかというように、自分などいないような扱いを受けたことが消えないカサブタのようにその人の心を覆っていたようだ。順調に仕事は続いた。また続くはずだった。ところがこのコロナ禍で彼の会社の業務量が激減した。会社は、これまでの貢献ではなく、若い人を優先的に扱ったとその人は感じた。給料は3分の2になった。その時、その人に声をかける職場があり転職することにした。しかし、その職場はもう若いとは言えない年齢になったその人にはつとまらなかった。そのころ、家庭の問題でも事件があり、その人は孤独を強く感じる出来事があった。そして両親も亡くなった。職場でも家庭でも、その人はひとりぼっちであることを強く突きつけられた。
その人は、自分が何のために生きているのかわからなくなったという。ただ食べて、排泄して、寝る。それだけのことに何の意味があるのかと。私はもっともなことだと思った。それだけその人の話はわかりやすかった。
その人のその感情が作られていったのは、むしろ健全な精神状態を示しているとしか考えられなかった。誰でもその人の状況に置かれたらそういう感情になるだろう。正確に言えば、感情をなくしてゆくだろうと。
但し、その人には抑うつ状態の症状が出ていたことも間違いない。古典的なうつ病の概念である全精神活動に向かってゆくということをその人は次のように見事に表現した。
うつ病の患者さんは何かをやろうとする気が持てなくなるという。その人はトイレ掃除をしなくなるとのことで自分の異変に気がついたと言う。掃除をしようとする時、どうやら人間は、どういう道具を用意して、どういう順番で、どういう体勢をしてというように、様々なことを考えてから始めるようだ。しかし、そもそもうつ状態になると、その考えることからがおっくうになってしまう。頭を使うこと自体がひどく疲れるために出来なくなってしまうのだ。その様子をその人は、トイレの様子で私に可視化して見せたわけだ。もちろん仕事を探すなんてことはできるわけがない。他人と関わるということは、かなりの精神活動をしていて、そのためのかなりのエネルギーが使われていることはもっと研究されるべきだと思う。
かくしてその人は、「何のために生きているかわからない」という思いから抜け出せなくなり、わずかに「死ねばこのような辛さから解放される」という考えに救いを求めて、死ぬ準備に相当のエネルギーを使い込んだ。能力が高く、真面目で、責任感の強いその人の自死は完璧に成功するはずだった。
人気のあるはずのない場所をその人は最後の場所に決めていた。誰にも見られていない自信もあった。しかし、おそらく極めて低い確率の偶然が起きてしまった。巡回中のパトカーに見つかり、警察官の職務質問にあってしまったのだ。最初は誤魔化していたが、警察官の真剣な問いかけに負けてその人は死のうとしていたことを認めざるを得なかった。警察官はその人をおそらく生活安全課の職員に引き継いだ。
この職員の話というか態度というか、対応が秀逸だった。「警察も自殺をとめる権限はないかもしれないが、でも放っておくこともできることではない。そうでしょう。」と切り出して、次の日役所の係を教えて、ここに相談に行くことを約束させた。
その人はなにせ真面目で責任感が強いため、約束してしまうと守ることしか考えられなくなる。その人は約束通り役所に、相談に行った。
役所の職員も素晴らしかった。あまり精神論的なことを言わず、問題を一つずつ解決していった。最後に残った問題を解決するために、弁護士の元に行かされて私がその人の話をきくところとなった。その問題は極めて簡単に解決することなので彼の悩みは10分余りで無くなってしまった。
その相談の時はその人は口数が少なかったが、問題が解決して安心したのか、それからはむしろ話すことに喜びを感じているようにさえ感じた。そうして話してもらった話が今までの話である。
さて、警察官と役所の職員は、どうしてその人の死の決意を止めることができたのだろう。その人は今生きている意味を無つけたのだろうか?
ここからは私の考察である。
その人は今は死のうとは考えていないと言う。今死んだら、自分のためにあんなに熱心にしてくれた職員の方に申し訳ないと思う。裏切ったことになる。そう言う意味のことを話した。真面目すぎるその人は言葉も一つ一つ吟味しながら話す。
先ず、「あなたを死なせたくない」というストレートな気持ちが伝わったことは、間違いない。倫理とか正義とか法律とかそういうことではなく、その人を死なせたくないという思いが一番大切なのだろうと思う。
次は、死なないという結果を出すためには、どうしたら良いのかを真剣に考えていたことがよくわかる。だから、死んではいけないなどと結果を本人に求める近道を通らなかったのだ。警察官も職員もかなり勉強をされていて敬服する。
三番目も関連するが、指図を、一切していないこと。その人は警察官も職員も、事務的な話をしないことに感銘を受けていた。ずいぶん久しぶりに人間として扱われたと感じたのだろう。そして、一緒に考えてくれたと感じたのだろう。これも素晴らしい。人が命をたとうとするのだらか、よっぽどのことがあったのである。命を大事にしろというのは、軽はずみな人にいうセリフである。真剣に生きようとしている人に言うことではない。真剣すぎるために死のうとするしかなくなるのだ。その人は、警察官や職員に、自分が仲間として扱われたと感じた。だから、仲間を裏切ることで悲しませることができなくなったのだと思う。
私は、生きる意味なんて考えることは出口のない迷路を歩くようなもので、益のないことだと確信している。生きる意味を見失ったのではなく、「この状態で生きていることが辛い」と言うことの表現なのだと思う。生きる意味なんて考えるよりも、「どうすればもう少し楽しく生きられるのか」こそを、考えるべきだと考えている。だから、考えるべきことは、「どうして彼は生きることがつらくなり、どうしてその状況から脱したのか。」である。
とても単純化すると、「人間は、仲間から離れて孤立すると不安になる。生きることが苦しくなる。」ということである。
だから、
苦しみを和らげるためには、その人のマイナス面から目を逸らさずに、否定せずに、どうやってフォローするかを一緒に考える仲間を作ることである。
群衆の中にいることで孤独感は際立たされるる。こんな世の中なので役所に期待される役割はとてつもなく大きくなっている。その人に関わった警察官、役所の職員の方々は、奇跡的なファインプレーを敢行した。心より敬意を表すために今回記事にさせてもらった。
しかし、役所は、一時的な、仲間である。それは否定的にとらえる必要はなく、むしろそれだからできることが多い。
次は、その人の恒常的な仲間づくりである。この流れを太いものにすることが自死対策なのかもしれない。

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子の父親は誰かを決める民法の規定が改正されつつあるようです。 [家事]


現在親子関係の民法改正が流行っているのですが、
父と子の関係を定めた規定の改正も進められています。
現状、夫婦の間の子は夫の子だとの定め、
夫の子だということを争うのは夫に限ってみとめられるが1年以内にしなければならないという定め、
離婚後300日以内の子は婚姻時の夫の子だと推定される定め
があります、
これらの改正がタイムテーブルに乗っています。

改正の理由は、無戸籍児を減らすということだそうです。
離婚していないで産んだ子、
あるいは、離婚から300日を経過しないで生まれた子を
夫の子どもにしたくないから出生届を出さない
このために戸籍のない日本人が生まれてしまうようです。
ここまでは法務省も確認しているようです。

しかし、どうして夫の子どもとして届けたくないかについては
私の調べた限り、統計調査はないように思われます。
法改正を推進する人たちは、
夫のDVから逃れた妻が、
別のパートナーとの間に子どもを作ったから、
夫の子どもとして届けたくないのだ。
あるいは居場所を知られたくないからだ
等と説明しています。

確かにそのようなルポもあります。
恐らくそういうケースもあるのだと思います。

しかし、今私が担当している事件もそうですが、
だいたいDVを理由に連れ去りする事案は、
配偶者暴力のない事案が多いです。
裁判で決着がついた事案の多くは、
客観的には配偶者暴力が認められない事案です。

つまり、DVは、言い訳にされている。
単純な不貞も、突如DV被害者だという主張が始まるわけです。

といっても、
私はこの改正に反対しているわけではなく
特に、父親の子ではないと争う手段は
増やすべきだと考えています。

前に担当した事件では
外国人同士の争いだったので、
その外国の法律で決めればよかったのでそれほど悩みませんでしたが、
事案は、
確かに離婚して
10年後に再婚し、再婚後に子どもが生まれたのですが、
アクシデントがあり離婚したことが証明できなかった事案でした。

私の型破りな方法論と
国(検察官)と裁判官の親身なご協力によって
無事に解決したのですが。
母親あるいは子どもにも父親を争う手段を残しておく必要があるなと
強く感じました。

さて、冒頭上げた3つの定めがどうしてあるのか
ということは、なかなか理解されないところです。
民法ができた時代は、実は、
父と子の血のつながりというものを
現代ほど厳密に考えていなかった
と考えるとようやく理解できると思われます。

「結婚した以上、結婚相手が産んだ子は夫の子にしなさいよ。
 多少疑わしいとしても、つまんないことを争っていないで
 いち早く子どもを夫の子と確定して
 夫によって子どもが養われるようにして
 夫が死んだときは子どもに相続させることにしなさい。
 結婚とはそういうものだ。」
みたいな思想があったわけです。

日本の皇統だって、
結局は三種の神器を持っている者が血筋だと
生理学的にあまり関係の無いところで決められているのも
このようなおおらかさの表れだと思います。

疑っても決めようがないのですから
このようなおおらかさは自然の流れだった
と思います。

ところが現代では
遺伝子研究が進んでしまい、
親子関係を争うことが可能となりました。

そのような背景から
子どもの父親が誰かについて
神経をとがらせてしまうような
風潮がさらに強くなってしまったのかもしれません。

さて、民法改正が成立した後に
無戸籍者が減るならば
それは改正したかいがあるというわけですが
少し、心配も残るように思っています。


補論
実は一夫一婦制の現代の夫婦制度は
日本においては比較的新しく、
1000年もたっていないようです。

一昔前は女性がお嫁さんに入るというのが
多数だったように思われますが
これは嫁入り婚と呼ばれ、鎌倉時代に始まったようです。
その前は婿入り婚が主流で
さらにその前は妻問い婚が主流だったようです。
平安時代の貴族などの記録は文学作品からうかがえます。
(女性にちょっかいかけているうちに
 女性の実家につかまってしまったのだと思うと
 おかしいです。)
(さらに時代が遡って、形式ばってことが行われ、
 女性が男性宅に入って行ってその家の主人公になる
 というのがどうやら実態ではないかと北条政子なんて見ていると思うわけです。)

妻問い婚は、
あまり夜這いと変わらないような婚姻形態というか
出産形態ですね。

そうすると、元々は
子どもの父親なんて疑い出せばきりがなかったのでしょう。

もっともこれらは日本の人口のごくわずかの割合の
支配層だけの分析だと思います。

大部分の日本人は
かなり最近まで(地方によっては戦後直後ぐらいまで)
父親が誰かということを
厳密には考えられない習俗の中で暮らしていたのではないでしょうか。

ちなみに現代は
嫁入り婚という入る家庭がない
孤立婚であると私は特徴づけられると考えています。


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夫婦の満足度が夫が高くて妻が低い理由を考えてみた 対人関係学の視点から 仲間に貢献したいという人間の本能とその由来 [家事]



統計によると*後掲
配偶者のいない男性は、どの年代でも配偶者のいる男性に比べ
精神的健康がかなり悪く、
一方女性は配偶者の有無で差がない
男性の方が結婚の満足度が高く、相手方のケアにも満足している。
配偶者に対する愛情も男性の方が女性よりも高い
とのことです。

これに対して伊藤裕子先生の分析は(日本の夫婦 金子書房)
男性の方が女性よりも結婚に対する期待が低い
人格的かかわりを女性に求めない
快適な生活が維持できれば満足する。
結婚に恩恵を受けているのは男性の方である。
その背景として、精神的ケア・情緒的ケアは
もっぱら女性が男性に対して行うという実態がある
ということになるようです。

その分析は分析として、
対人関係学的には、
少し別角度での考察が可能だと思っています。

対人関係の中で満足を感じるとき、幸せを感じるときというのは
どういう時かという問題です。

満足を感じるのはいろいろあると思いますが
自分が仲間に貢献していることを実感しているときに
満足を感じるということがあると思います。

そうではなくて、
仲間の誰かから表立って感謝を述べられたり、
自分が特別扱いされたり
自分の失敗を責められないでフォローされたり
自分の不十分点を補ってもらったりという
相手の行動によって
満足を得たり、幸せを感じたりということもあることは事実です。

そうではなくて、
自分が群れに貢献しているという実感を得ることも
強烈に満足や幸せを感じるのが人間だと思うのです。

純粋な利他行動というわけでなくても良いのですが、
こうやって人間は
仲間に貢献できたことに喜びを感じることができたために
仲間に貢献する行動を起こすことができて
言葉が無くても群れをつくることができたわけです。
群れをつくるためのモジュールとしての心というわけです。

男女の違いなく、こういう感情があると思います。
例えば感謝などは嘘があるかもしれない。
フォローや助けは、
仲間が自分を重荷に感じているかもしれないという
自分を見下しているのではないかという
疑心暗鬼が生まれている場合はあり得ることなのですが
自分が仲間に貢献しているということを感じることは
文句なく満足を与えるものだと思います。
(だから良かれとしたことで攻撃をされることは
精神的ダメージが大きくなるわけです)

ところが現代社会の夫婦では
この満足を感じる環境的問題を要因として
男女差があるわけです。

今回私が言いたいのは、まさにここです。

男性は、外で働いて収入を家計に入れる
ということで、分かりやすく貢献している実感を持てます。
だから男性は満足度が高くなるわけです。

これに対して女性は、
賃金格差や雇用形態の違いのために、
夫と比べると家計に入れる収入は低くなることが多いですし、
家計に入れないことも多いようです。
これでは働いて収入を得ても貢献ということでの満足は
感じられないでしょう。

しかし、現在の風潮として、
収入を家計に入れるという観点が仲間への貢献の中心だ
という価値観そのものに問題があると私は思います。

だから収入を伴わない家事育児することでは
家事貢献を感じにくくなっている
これこそが問題だと思うのです。

一昔前は
夫が外で働いて収入を入れ
妻は収入に文句を言わず、感謝し、
妻は家事育児を行い、
男子厨房に入らずということで料理に文句を言わず
家事のことに口を出さないということで妻に感謝をする
それは家事育児に社会的価値が認められていたということだと思います。

ところが現在では、
家事労働に対して価値をおかないという社会的風潮が出てしまい、
どんなに家事をやっても称賛されません。
一番悲惨なことは
自分自身が貢献しているという実感を持てない
ということだと思います。

確かに夫も妻の家事育児に対して感謝をすることが少ないかもしれませんが
妻本人も自信が持てないということが悲惨なのです。
私は家事育児をやっているということで
もっと威張っても良いと思いますし、
男性が家事育児を担当して
女性が収入を得てくるということだって
本当はどちらだってよいはずなのです。

それができないのは
家事育児が収入を得るよりもかなり低い社会的評価
しかなされないということにこそ問題があるように思われます。

また、先生方が情緒的ケアというのは、
おそらくコミュニケーションの性差によるものだと思いますし、
柏木先生ご自身もそれは指摘されています。
男性的コミュニケーションが事務連絡が主体なのですが
女性的コミュニケーションは仲間でいることの快適さ、安心感が目的となる
ということもあるわけです。

できるだけ家庭の中では女性的なコミュニケーションを
男性も身に着けるべきだということが私の持論なのですが
女性の方も
男性の真意を確認すればよいじゃないかとも
たまには思えてくるわけです。

それはともかく、
女性を安い労働力として生産現場に進出させようという
政策的観点からのメッセージが多すぎると
実際の家事労働(無償有償を問わず)を低い価値のものだとする風潮を生み
妻が家庭に満足をすることが難しくなっているのではないかと
そう考えることができるようになりました。

家事は男女どちらがやっても
どのように配分してもご家庭で決めればよいことです。
賃労働の方が家事労働よりも価値が高いという意識を持っていることに
気が付かないと
知らず知らずのうちに賃労働をさせないのは不平等だ
みたいな
男性的価値観を承認する主張しか出てこないのだろうと
そんなことを思いました。



稲葉昭英 結婚・再婚とメンタルヘルス ケース研究 276号
稲葉昭英 夫婦関係の発達的変化 (現代家族の構造と変容 全国家族調査による計量分析)
伊藤裕子・相良順子 愛情尺度の作成と信頼性・妥当性の検討 中高年気夫婦を対象に 心理研究83

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PTSDの損害賠償の勉強  損害賠償実務の主張のために 記憶のメカニズムから [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 問題設定

PTSDという精神障害は、とかく議論のあるようです。
私は、その精神医学的な議論及び治療には興味がありません。
あくまでも、PTSD であると診断された患者さんの
損害賠償請求をするにあたって有効な程度の
理解をすれば足りるので、そういうお話です。

PTSDの定義、症状については末尾に掲げておきます。
PTSDとは | 日本トラウマティック・ストレス学会 (jstss.org)
様より

問題は、心的外傷を起こす出来事と、症状との関係なのです。

いずれにしても、PTSDを発症する前提として
命や安全に関する重大な脅威、危険の体験ということが必要とされています。

どうしてこのような重大な脅威があった場合、
症状としての
・侵入症状
・回避症状
・認知と気分の陰性変化(抑うつ)
・覚醒度と反応の著しい変化(過覚醒)
が生じるのかということが今回の問題です。

もっと言えば、
PTSDという診断名だとしても
事情が違えば、症状も違って当たり前なのではないか。
個性等による違いはあるにしても、
脅威や危険の認識、程度の認識が重大になればなるほど
症状が出やすく、大きくなるのではないか
という問題提起なのです。

裁判官のPTSDの判例研究があるのですが
この点についてあまり考慮されていないように思えたので
少し考えてみたいということなのです。

ここで言う、脅威や危険というのは
あくまでも本人の認識です。

例えば、ビルの屋上から小さいけれど重量物が落下してきて
(もしぶつかったら確実に死ぬような場合)
本人の体ぎりぎりに落ちてきたとしても
本人がそれに気が付かないで素通りすれば
PTSDにならずに日常生活を営み続けることでしょう。

例えば、近くで動物を見られる動物園で
檻の柵越しにライオンを見ていたとして、
実は柵が壊れていて、
ライオンが襲おうと思えば襲えたけれど
たまたまライオンがその気が無くて難を免れたという場合でも
本人が柵が壊れていることを知らなければ
楽しい体験で終わったことでしょう。

逆にテレビ番組の悪ふざけで
本当は下に防護ネットがあるけれど
断崖絶壁だと思わされて突き落とされたら
そして、周囲がみんな自分の命に関心が無いようなそぶりをされると
PTSDが生じる場合もあるのではないでしょうか。

2 事例の紹介

私がこれまでPTSDと診断された方に弁護士としてかかわった事件のうち、
検討の素材として以下の3つの事件を紹介します。

<事例1>
刑事弁護人として強制わいせつ致傷事件で
被害者と示談をした事件なのですが、
事件は雨の日で、
住宅地から少し外れたバス停で深夜一人で降りたところ
あとをつけられて暴行を受けたという事件でした。
当初誰も助けがこず、
ある程度長い時間もみ合って、抵抗をして
ようやく解放されて逃げ帰ったという事件なのですが、
数か月たっても、
雨が降るだけで、抑うつ症状となり、家から出られなくなり、
その時の恐怖感が、感覚的によみがえってくるというものでした。

<事例2> 
強盗事件で、深夜、若い女性が、手足を縛られ
バールのようなもので脅かされて
数十分監禁されて、犯人が出て行った後は放置され
しばらくして解放されたという事例でした。
外に出ようと扉を開けたところで襲われたということもあり、
ドアなどの外側に何か悪い者がいるという感覚に襲われる等
PTSDの様々な症状が出現した事例です。
その後も、安全責任者の謝罪もなく
放置された事例です。

<事例3>
当初統合失調症だと診断された事例です。
左側から災いが起きるということ言いだしておびえていたのが
妄想だと診断されたのです。
遠いところから、私のところに相談に見えて、
話を聞いているうちに、
職場で左に座っている人が、突如精神疾患の症状が出てしまい
理由も前触れもなく、その人を思いっきり殴打したそうです。
非正規労働者ということもあったのかもしれませんが、
殴られた方が手当ても同情もされず
殴った方ばかりみんなケアを始めてしまったという事情があったようです。
顔の痛みは徐々に引いたのですが
不信感というか、納得できない思いが徐々に強くなっていき
左から災いが起きるというようなことを言い始めたそうです。

その後、医師と相談して減薬して
普通に日常生活を送れるようになったとのことでした。

統合失調症を新しい医師は否定することはなかったのですが
私は一種のPTSDだと思います。

その他にも、強烈ないじめ体験(学校、職場)などで
PTSD症状と同様な症状が出現しているという
相談を何件か受けたことがあります。

きれいに侵入症状、回避症状、抑うつ症状、過覚醒の症状が
確認出来て驚くことがあります。

この時の侵入症状は、具体的な記憶がよみがえるというよりも
その時の感覚、絶望感、恐怖感、孤立感、屈辱感という
感覚がダイレクトによみがえるということを
皆さんおっしゃっておられました。
その時の状況を思い出さなくても
感覚は、今この場で起きているかのように
鮮やかによみがえるとおっしゃるのです。

なお、悪夢に苦しむということもよく聞くことです。

3 記憶のメカニズムからの検討

少し検討しましょう。

私は記憶のメカニズムの観点から考えていきます。
私たちの記憶は何のためにあるかということです。
記憶があるとどういうことに役に立つかということですが、

最も素朴な話としては
危険があった場合に、
危険の起きる理由(原因、場所、危険を起こすメカニズム等)
を理解していれば
敢えて自分から危険に近づくことをしない
ということが基本なのだと思います。

これは動物一般の話なのでしょう。
(逆にえさのありかを覚えるのも記憶の効用でしょう)

但し、人間は、弱い動物ですから
敢えて危険に接近することによって
他の動物を出し抜いて、種を残してきたということがあります。
わかりやすいのは火です。

他の動物は火を怖がりますから、安全のために火を利用できたでしょうし
火によって食料を加工することによってよいこともあったでしょう。

火の外に石器なども同様に
危険を上手にコントロールする文化なのだと思います。
動物を引き裂くことには便利ですが、
使い方を間違うと人を傷つけてしまいます。

私は、また、
個体識別ができないほどの多くの人数の人間と群れを形成することも
危険ないし危機感を伴う生活スタイルだと思っています。

このように人間は
危険だということで逃げてばかりいることはできず
利用できる危険を覚えて、利用の仕方も記憶して
危険と共存してきたのだと思います。

危険があることはストレスに感じることですが
ストレスをため込んでは生きていくこともできなくなるでしょう。
危険と共存するためには
日常生活に必要な危険を
認識の中で危険の無効化をする工夫が必要だったと思います。
ストレスにしない、ストレスを軽減して無害にするということです。

表面的には、
危険の限界、危険のメカニズム、危険回避の技術を理解し、
危険のようで、危険が無いという感覚をもつことだと思います。
但し、これはいわゆる「腹に落ちる」状態に達しないと
なかなか危険の感覚を無効化できないでしょう。

その無効化している仕組みがレム睡眠時の
記憶のファイリングだと思うのです。
過去の記憶と照合し、位置づけをして
それほど危険性が無いことを腹に落とすわけです。
危険を回避する方法があるから
むやみやたらにおびえる必要が無いと腹に落とすのでしょう。

ちなみにこのファイリングができず、
ファイルからこぼれてしまう出来事が
悪夢であろうと思っています。

ちなみにを繰り返して申し訳ありませんが
どうして、侵入という症状において
その時の情景を思い出すのではなく
その時の感覚を思い出すかというと
おそらく、その危険の感覚というのは
意識ではないのだからだと思うのです。

人間においても危険を認識した後の
危険回避行動の反応は、
つまり生理的反応は、
危険を意識するよりも前に起きているというらしいのですが
おそらく、この生理反応が
PTSDにおける記憶の正体なのだと思うわけです。
それなので、意識に対する働きかけだけでは
なかなかPTSDの治療は進まず、
無意識に対する働きかけが必要になるのではないかと
そうにらんではおります。

つまり、危険のメカニズムや危険回避の方法を
頭でわかったとしても、それは意識の改革には役に立つでしょうが
生理的反応の記憶は消えないからです。
将来的には、この生理的反応の記憶にも手当てができるようになると思いますが、
現状でこれができないならば
別の発想でPTSDを克服することを目指すことが合理的だと思います。
PTGという発想ですね。

このようなオーソドックスな危険の感覚の無効化
認識における危険の無効化の外に

単純な馴化、忘却等があるでしょう。

例えば自動車は、相当の重量物であり、
それがゆるゆると近づいて衝突するだけで
人間は死ぬような危険物ですが、
交通ルールというものを設定してはいますが
すぐ近くを高速で通過しても
それほど怖くなくなっていきますね。

自働車によって負傷したことが無いという経験の積みかさねによって
自働車の危険性に対する感覚が鈍麻しているわけです。
これが馴化ですね。

嫌な人がいて、仕事上どうしても付き合わなければならず
苦痛で不快でたまらなく、
仕事が終わってしばらくは、電話が鳴るたびにびくびくしていても
やがて付き合いが全くなくなると
その人自体を忘れて快適に生活したり
その人から電話がかかってきても
普通に話ができるようになるわけです。

こうやって、人間は、
危険の感覚を軽減させ、無害化することによって
自働車の無い地域まで逃げ込むことも
取引相手が絶対来ない地域まで逃げ込むこともせず
これまで通りの環境の中で
日常生活を送ることができるわけです。

PTSDとは、
出来事が大きすぎて、記憶の処理ができず
危険の感覚の無効化をすることができない状態
ということになりそうです。

危険の感覚が存在するために
常に危険に備えるということを反応として行っているわけです。
これが過覚醒状態ではないでしょうか。
眠ってしまうと危険が現実化してしまうと思えば
無防備に眠ることなどできなくなるのは当然です。

学校や職場に行けば
理由も分からないのに、自分が攻撃されるというのであれば、
活動自体をしたくなくなり、
家に引きこもろうとするのは理にかなっていると思うのです。

トラウマを起こした特定の危険を回避したいと思うのですが、
どうして、どのような原因でその危険が発生したか理解できない場合は
むやみに危険があると感じてしまうでしょうし、
雨の日に襲われという記憶があれば
襲われないために雨の日になれば警戒するということは当然でしょう。
意識の記憶ではなく、感覚の記憶のために
不合理だと分かっていても、危険に身構えてしまうわけです。

何か整髪料の匂いと襲われたことを関連して記憶していれば
整髪料のにおいを感じただけでその時の危険がよみがえっても不思議ではないでしょう。
但し、その整髪料を付けた人物が犯人であるか
襲われた直前にその整髪料をつけた人と会っただけなのか
それはわかりません。

そして、その記憶が、危険回避のためのメカニズムだとすれば
どうして危険が生じたのかは不明でも
・危険事態が大きな危険ではない
 (蚊に刺されたとか)
・危険を感じていた時間帯が極めて短い
 (一瞬ヒヤッとしたとか)
・危険が簡単に回避された
 (事故を起こしそうだったけれど、ハンドリングで回避した)
等の危険回避の方法を経験した場合は
危険の感覚の無効化が起こりやすくなるのではないでしょうか。

だから、有害なことは
危険回避可能性が無いという絶望感なのでしょう。
人間における絶望感は極めて有害で
人間の思考上絶望感回避の方法が
幾重にも張り巡らされているようです。

絶望感を抱きやすいのは
回復手段が無いという認識ですが、
孤立感というのも絶望を抱きやすくするようです。
人間は、誰かに助けてもらえるという
無意識の期待を持つもののようです。
犯人にすら助けてもらいたいという気持ちになることがあるようです。

これは動きの中で見ると
その危険の感覚を感じている時間が長いということも
要素になるようです。

絶望感を長く感じ過ぎた場合
記憶のファイリングが起こりにくくなるということは
あり得ることだと思います。

自分の危険が回避されたという実感が持てない場合も
絶望感を抱く事情になりそうです。
ビルの下を歩いていたら、屋上から物が落ちてきた
足がすくんでしまって逃げられなくなり
もはやこれまでと気を失って倒れたら
自分のすぐ隣に落下したというような場合。

4 暫定的結論

PTSDが起こりやすく重症化しやすい要素

1 身体生命に重大な危険が発生したこと
  (私の立場では、これは、対人関係的に重大な危険が生じた場合も含まれます。ただ、その程度などについては今後の検討が必要でしょう。)
2 危険が現実化しつつあるということを認識していること
3 危険を回避したいと思っても回避が不可能であるという絶望
  孤立、原因不明、機序不明での危険の現実化はこれを高める。
4 危険が現実化して、回復不可能だという認識が一定時間持続すること

1,2の危険の程度が大きくて、危険以前の日常生活が送れなくなる程度のことが起きれば、PTSDは発症しやすく、症状は重くなりやすいのではないか。

1,2の要素が大きくなくとも
3,4の要素が大きい場合はPTSDになりやすいのではないか。

可能性として、事例2のように、暴行が身体生命への不可逆的なほどの重大な危険がなくとも、その後の危機回避可能性が無いという認識(機序不明、孤立)が連続して起きればこれらのことが事後的に起きてもPTSDの危険が発生するのではないかということも考えています。

また、交通事故の事例では、PTSDというかどうかわかりませんが、
事故を見ている人の治療は長引く傾向にあります。
以下の場合は、危険が現実化したこと及び危険を回避する方法が無かったとしてPTSD様の症状になることもありうるのかもしれません。
側方からの衝突事故を横目で見てしまった場合、
バックミラーで追突をしてくる自動車を見たが回避できなかった場合、
センターラインをはみ出して衝突してきた事故の場合

上記の事情が無くてもけっこう多いのは、追突事故で、
あとから保険会社から被害者にも過失割合があるとか、
ぞんざいな口を利かれて具合が悪くなり、
治療が長引くというケースです。
これが事例の2と同様のパターンなのかもしれません。

加害者側の保険会社は
被害者を気遣って、優しい言葉をかけて親身になることで
治療の長期化を防ぐことができるのではないかと
また、示談期間の短縮化ができるのではないかと
常々感じているところでもあります。


PTSDとは | 日本トラウマティック・ストレス学会 (jstss.org)

PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは

<原因ないし定義>
実際にまたは危うく死ぬ、深刻な怪我を負う、性的暴力など、精神的衝撃を受けるトラウマ(心的外傷)体験に晒されたことで生じる、特徴的なストレス症状群
をいうそうです(DSM-5)。

<症状>
侵入症状
トラウマとなった出来事に関する不快で苦痛な記憶が突然蘇ってきたり、悪夢として反復されます。また思い出したときに気持ちが動揺したり、身体生理的反応(動悸や発汗)を伴います。
回避症状
出来事に関して思い出したり考えたりすることを極力避けようしたり、思い出させる人物、事物、状況や会話を回避します。
認知と気分の陰性の変化
否定的な認知、興味や関心の喪失、周囲との疎隔感や孤立感を感じ、陽性の感情(幸福、愛情など)がもてなくなります。
覚醒度と反応性の著しい変化
いらいら感、無謀または自己破壊的行動、過剰な警戒心、ちょっとした刺激にもひどくビクッとするような驚愕反応、集中困難、睡眠障害がみられます。

上記の症状が1ヵ月以上持続し、それにより顕著な苦痛感や、社会生活や日常生活の機能に支障をきたしている場合、医学的にPTSDと診断されます。
なお外傷的出来事から4週間以内の場合には別に「急性ストレス障害Acute Stress Disorder: ASD」の基準が設けられており、PTSDとは区別されています。

PTSDとは | 日本トラウマティック・ストレス学会 (jstss.org)
より。

ちなみに、ICD―10では、症状は6か月以内に出現しなくてはならないとされているようです。



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