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リアル ツルの恩返し  人情噺筋書き [現代御伽草子]



6月の雨の夜、雅紀は街から漁村にある自宅に帰ろうとしていた。駐車場で車に乗り込もうとしたときに、助手席側の後ろで犬のようなものが動いたような気配がした。危ないなあと思いながら雅紀は助手席側に回った。そこにいたのは、犬ではなく、若い女性だった。下着のような服を着て、靴も履かずに雨に濡れてみじめな姿をしていた。
「危ないからどけてくれる?」
なるべく不機嫌な様子を見せないように女に声をかけた。
女はおびえるような目でこちらを見上げて、駐車場の壁の方へ後ずさりをするようなしぐさを見せた。かなり憔悴したような様子だった。車から離れる様子が無かった。ここは怒らせては逆効果だと思い、努めてのんびり話しかけた。
「何か訳ありなんだね。でもね、そこにいられると車を出しずらいよ。これから家に帰るところなんだ。年取った両親が待っているので、早く帰りたいんだ。ごめんね。」
すると女は、私も乗せていってくださいと小さな声でつぶやいた。
雅紀は、自分の家がここから1時間以上離れた海辺の集落であることを告げた。女は、自分もそっちの方に行こうと思っていると、少し投げやりな様子で話した。
関りになることは面倒だと思ったが、このままここに置いておくと、何か悪いことが起きて女にとって深刻な事態が起きるような気がしてきた。見捨てて立ち去ることで、何か自分が悪いことをするような奇妙な感覚になった。
「勝手に乗り込まれたなら、仕方がないかな。」と雅紀が独り言のように言って運転席に乗り込むと、女は急いで後部座席に乗り込んできた。
「すいません。私お金を持っていません。」
「最初に言ってくれれば御の字だよ。自分ちに帰るのだから、お金をもらおうと思ってはいないよ。」
そんな会話をしながら、雅紀は自宅に向かった。

女は、車が動き出してしばらくすると、寝息を立てて熟睡したようだった。風邪などひかなければ良いけれどと思いながら、こちらには関係ないと思おうともした。

自宅についても女は起きなかった。
仕方がなく、雅紀は両親に事情を説明した。案の定、二人とも眉をひそめて、ため息をついた。とりあえず朝まで寝せておくことにして、タオルケットだけは掛けてやった。
朝になっても起きなかったので、さすがに気持ち悪くなり、両親と雅紀は女を起こすことにした。少し意識が戻ったような気がしたが、すぐには起きなかった。母親が、警察に連絡した方が良いのじゃないか。と父親に尋ねたとき、女は飛び起きた。
「すいません。すっかりお世話になってしまいました。このお礼は必ずしますが、今持ち合わせがないので、しばらく待っていただきたいのですが。」と言って、立ち去ろうとした。
「お金が無ければどこにも行けないだろう。いいから朝ご飯を食べていきなさい。」
そう呼び止めたのは父親だった。女は一瞬ためらったが、深く頭を下げて家の中についてきた。

女は案の定風邪を引いていた。朝ご飯を食べた直後に倒れて三日間眠り続けた。その後、お礼だと言って掃除、洗濯、調理などの家事をするようになった。こうして女は雅紀の家にいつの間にか同居するようになった。女は家の外に出て買い物をするということもなく、家の仕事をしていた。雅紀の母が体を悪くしていたので、雅紀の家でも家事をやってもらうのは都合がよく、そのままずるずる居続ける格好になった。家政婦としての賃金を払おうという話をするが、女はかたくなに断るのだった。
しばらくして、夕食のとき、父親と母親が女に言った。
「どうだろうね。このままうちの嫁にならないか。この辺の若い女たちは、みんな都会に出てしまって、誰も残っていないんだよ。こんな田舎に街から嫁には来ないし。」
女は一瞬顔をほころばせたが、すぐに表情を引き締めて考え込んだ。
「雅紀はいやかい。」
女は顔を横に振ったが、何も話さなかった。

月満ちて、雅紀と女の間にかわいらしい女の子が生まれた。
絵にかいたような円満な家庭で、このまま幸せが永遠に続くのだと思われた。

ある時、母親の容体が悪くなり、検査の結果、健康保険の聞かない手術が必要だということになった。だいぶお金がかかるという。雅紀も両親も、一度に用意することができず、借金をしなくてはならないと話し合った。母親は、そんな手術なんて受けなくっても良いよと言い出す始末だった。しかし、借金をしてしまうと、本当に返済を続けられるのかについては誰も自信が無かった。
小さい娘だけがすやすやと寝入っていた。女はそんな娘を見て、ほほ笑んだ。そして真顔になって両親と雅紀に言った。
「私は今とても幸せです。あの時こちらに迎え入れていただかなかったらと思うと涙が出ます。そのお金は私が用立てます。」
みんなその言葉に驚いた。また、本当だと信じることができずにどう反応してよいのかわからず、顔を見合わせた。」
「皆さんが心配されるのはもっともです。私はお金を友達に預けています。ちょうど返してもらう約束の時期になりましたので、そのくらいならば、用立てられると思います。こういうことが無ければ返してもらうことはなかったと思いますから、気にしなくてよいのです。」
そして、話をつづけた。
「但し、お願いがあります。お金を持って戻るまでに1か月くらいかかると思います。私一人で行きますから、誰もついてこないでください。心配になっても捜索願なども出さないでください。これは絶対にお願いします。また、帰ってきても私がどこに行ったか、絶対に尋ねないでください。約束をまもってもらわなければ、私は二度とこの家に戻れなくなります。私の留守の間どうか娘をよろしくお願いします。」
ただならぬ気配に、雅紀も両親も、女を止めた。何か大変なことのようだから、そこまでしてお金を作らなくても良いからと旅立つことを止めた。
女は微笑んでうなずいた。
しかしあくる朝、誰も起きないうちに女は一人で家からいなくなっていた。

1か月半くらいが過ぎて、女が突然帰ってきた。厳しい形相だった。手術代と入院費用には十分すぎる現金をもってきた。女は、子どもの顔も見ないで、これから寝室にこもるから決して起こさないでくださいと言って、それから2日間眠り続けた。

この後も女は同じように現金を作ってきた2回ほどあった。

最後に女が旅立ったのは、雅紀が友達の保証人になって、友達が夜逃げをした時だった。娘は、5歳になろうとしていた。
「私がお金を作れるのはこれで最後です。もう、友達に預けているお金は無くなります。また、くれぐれも私が帰ってこなくとも警察に捜索願など出さないでください。私はこの子と二度と会うことができなくなります。それでは留守の間娘をよろしくお願いします。」

借金取りの催促は女が留守の間も続いた。思いついて役場に相談したところ、たまたま巡回法律相談に来ていた弁護士に相談するように促された。おさらぎ法律事務所の岩見恭子という名刺をもらった。
「ああ、それなら保証人としての責任は負いませんよ。あなたは債権者との間で保証契約を締結していませんね。後の手続きは、有料になりますけれど、こちらの方でやれますよ。」
保証債務を払わなくてよいと聞いて安心した。そのとたん、女を追いかけなければならないと焦りだした。女はいつも、旅から帰ると、何日間か寝込んでいた。顔色も悪く、何よりも表情がすさまじかった。やはりとても苦しい思いをしてお金を作ってきたのだろう。一刻も早く、女を連れ返さなければと気ばかり焦った。女を気遣うあまり、やってはならないことをやってしまった。警察に捜索願を出してしまったのである。

女はあっけなく見つかった、ある街の病院に入院していた。症状は悪いものではなく、間もなく退院するから迎えに来るなということであった。しかし退院予定日になっても女は帰らなかった。そのかわり警察から電話が来た。女を逮捕して留置したというのだ。それだけでも驚いたが、女が家族との面会を拒否しているので、誰もこちらに来ないようにと言っているというのだ。どうやら、6年前に雅紀が女と出会ったとき、女は何らかの罪を犯した直後で、そのことでの逮捕のようだった。

キツネにつままれたような気持ちだった。しかし、女のことは、みんな何も分からなかった。そういうことがあっても不思議ではないほど、女の過去は雅紀たちにとっては空白だった。
「捜索願を出さないでと言っていたのはこういうことだったんだね。」
「どんなにか、娘のことを心配しているだろうかね。」
雅紀たちは、おさらぎ法律事務所の岩見恭子弁護士の名刺を出して電話をした。

岩見弁護士と、おさらぎ所長が弁護人となった。
雅紀の家で弁護人を依頼することにも女は激しく抵抗した。事情を呑み込んだおさらぎ弁護士がとぼけた味を出してうまく説得した。但し、女は二人の弁護人を弁護人に選任することに条件を付けた。雅紀の家族は一切女に面会に来ないこと、弁護士から家族に一切女について説明しないことというものだった。雅紀も両親も、それでも良いからと二人の弁護士に弁護人になってもらった。
二人の弁護士の活躍は見事だった。逮捕されたときは殺人罪の容疑だったが、起訴された時は傷害致死罪の容疑だった。そんなことよりも、女を住所不定で押し切ったのだ。新聞でもテレビでもインターネットでも、雅紀の住所である津留村の名前は一切出てこなかった。この事件と幼い娘を関連付ける情報は何も出てこなかった。
逮捕されてから裁判が終わるまで、半年以上がかかった。ここでも二人の弁護士は大活躍した。正当防衛が認められて女は無罪となった。

裁判官から無罪といわれた時も、女は浮かない顔をしたままだった。法廷を出るときにいつものように手錠をされるために刑務官に手を差し出したが、刑務官は微笑んで首を振った。その時初めて女は我に返って二人の弁護士に弱弱しく笑顔を見せて頭を下げた。傍聴席を振り返って、雅紀たちがいないことを確認して、安堵のため息をついた。
岩見弁護士は声をかけた。
「これから荷物を取りに、一度拘置所に戻ることになります。すぐに拘置所から釈放されるので、迎えに行きます。拘置所の門のところにいますから。」女はそれを聞いてうなずいた。おさらぎは、「主語が抜けているから嘘にはならないか。」と頼もしい後輩弁護士に話しかけたが、もうその声は聞こえなかった。

女が荷物をまとめて玄関を出ようと、岩見弁護士を探したところ、そこにいたのは岩見弁護士ではなく、雅紀の母だった。女は立ち尽くしてしまった。母が駆け寄って話しかけた。
「お疲れだったね。よく頑張ったって先生方から教えてもらったよ。教えてもらったのはそれだけさ。大丈夫、みんなもおさらぎ先生の事務所で待っているから。だって、娘をここに連れてくるわけにはいかないだろう。ずいぶん大きくなったよ。似てほしくないとこだけ雅紀に似てくるんだから困ったもんだ。でもあんだに似てべっぴんになるようだな。」
女はようやく絞り出すように言った。
「わたし・・・本当は、岩見先生に、離婚の手続きをお願いしたんです。そうしたら、岩見先生は、私は雅紀さんの代理人だからあなたの依頼は受けられないんですって言われて。それで今日まで何もできないでいたんです。」
母親は、泣きながら微笑んで首を振った。
「わだしらは、なんにも聞いていないよ。本当さ。もちろん、あんだが半端ないほど苦労したということはわだしらもわかるさ。あんだは、自分の身を削ってお金を作ってくれたんだろう。言わなくてもいい。そんなことやらせてはダメだったんだ、ほんとは。私はそんなあんだのおかげで元気になって、今こうして迎えに来ることだできたんだ。」
「でも、本当のことを言わなくてはならないのはわかっています。」女は唇をかみしめた。
「何言ってんだ。わだしら、一番あんだの本当のことを知っているんじゃないか。働き者で、家族思いで、気立ての良い娘のような嫁だ。それが一番大事な本当のことだ。それを知っているから、本当でないあんだのことなんて知りたいやつなんてうちの中には誰もいねえ。雅紀がそう言い出したんだけど、あのバカもたまには気の利いたことを言う。」
母は続けた。
「今は言うな。その代わり、本当に自分からどうしても言いたくなったら。私にだけ言え。なんぼでも聞いてやる。私以外には誰にも言わなくてよいんだぞ。」
本当の母親が小さいわが子にするように女と手をつないだ。
「さあ、一緒に帰ろう。雅紀もよい仕事が見つかったんだよ。もうあんだに苦労させることは二度としない。私もあんだのおかげでここまで元気になることができた。あんだに恩返しさせておくれ。私も津留村の女だ、義理堅いんだ。これが本当のツルの恩返しだな。」


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リアルかちかち山 [現代御伽草子]

リアルかちかち山

ある小山に警戒心の弱いタヌキが住んでいました。
その年の秋は、夏から続く冷害と長雨のために
山には食べる物がとても少なかったのです。
タヌキは、家族や友達に食べ物を分け与えてしまうものですから
自分はいつも腹ペコでした。

あまりにも腹ペコだったので、本当は行ってはいけないと言われていた
山のふもとの人間の住む近くまで食べ物を探しに来てしまいました。
四角い地面に柔らかな土が盛られているところに
良いにおいがしたので掘り起こしてみると
野菜や種が埋まっていました。
タヌキは、これで弟たちに食べ物を持っていくことができると
大喜びで野菜や種をもって山に戻りました。

行ってはダメだと言われていましたが
次の日も一人で四角いフワフワの土地に行きました。
弟たちの喜ぶ顔が浮かんできて、心が急いてしまいます。
さあ、ついたと思ったとたん
タヌキは足に鋭い痛みを感じました。

人間の罠にはまってしまい、歩くことができなくなりました。
タヌキは困ってしまいました。
弟たちはタヌキの持ってくるえさを楽しみしていると思うと
とても悲しくなりました。

すぐに人間がやってきて、タヌキは前足と後ろ足を縛られました。
もう一人の人間は、ぐらぐら沸いたお湯の前にいました。
タヌキは、悲しい気持ちで体が動かなくなっていましたから
人間は観念したのだろうと勘違いしたのだと思います。
最初にやってきた人間はどこかに行ってしまい、
もう少しやせた小さな人間がタヌキをお湯に入れるときに
罠の縄を緩めてタヌキだけお湯に入れようとしたその時でした。
タヌキは、弟たちの顔を思い出し、
自分でも信じられなくなるような力が湧いて出て、
小さい方の人間を蹴飛ばして一目散に逃げだしました。

沸き立ったお湯が小さい方の人間にかぶったようです。
大きな悲鳴を後ろに聞えたような気がしますが
タヌキは自分が逃げることに精一杯で
あまり気にしませんでした。

タヌキは人間の近くに行こうという気持ちには二度となれず
深い山の中から出ようとしなくなりました。

それからしばらくして
タヌキの家に一羽のうさぎが訪ねてきました。
良い山があり、良い柴が取れる
柴を刈って里にもっていくと
里の柿と取り換えてくれるらしい。
里には自分が持っていくから柴刈りを手伝ってくれ
そうしたら柿を分けてあげるというのです。

里に行かないなら怖くはないし
離れたところで暮らす母親に柿をもっていったら
どんなにか喜ぶでしょう。
そう思って、警戒心の弱いタヌキは
うさぎの柴刈を手伝うことにしました。

柴を背負って歩いているとカチカチと音が聞こえました。
聞いたことが無い音なのでタヌキは不思議に思いました。
うさぎは
さすがカチカチ山だね。カチカチと本当に音がするんだ。
とわざとらしく言いましたが、タヌキはそんなものかと思いました。
ぼうぼうという音が聞こえてきたときにうさぎは叫びました。
「危ない!ぼうぼうどりだ。柴を盗もうとしている柴を離すな!」
言われた通りタヌキは柴を自分の背中にぴったりとくっつけて
盗まれないように頑張りました。

このためタヌキは大やけどをして、
その上ようやくよくなりかけたころに
うさぎに騙されてトウガラシを練りこまれ
地獄の苦しみを味あわされました。
でも、タヌキは、この薬のおかげで
結局は良くなったのだと信じていました。

まさかうさぎが自分を傷つけようとしたとは思いませんから
タヌキはされるがままにされていたのです。
ただ、母親に柿を持っていけないことをとても悲しみました。

タヌキの傷が癒えたとき、再びうさぎが現れました。
食糧不足は続いていて、
タヌキは食糧を探しに出かけることができなかったものですから
家族に大変心苦しく思っていました。
それなので、うさぎの罠にまたもやすやすと乗ってしまったのです。

山の上の沼に魚が大発生しているようだ
まだ知っている者が少ないので
今なら大量に魚が釣れるから行こう
この間ひどい目に合ったのは、誘った自分の責任だから
何とか埋め合わせをしたくてやってきたんだ。
こうやってうさぎはわなを仕掛けたのです。

うさぎは自分用に小さい木の船を作り
タヌキ用に大きな泥の船を作って用意していました。
さあ、どっちの船を選ぶとうさぎは尋ねました。
それは悪いから僕は小さい方の船でよいよとタヌキが言うと
いやいやこの間の埋め合わせだから君が大きい方を使っていいよ
とうさぎは笑って答えました。

タヌキは大きな船を使えば
弟たちだけでなく、親戚たちにも魚を分けることができると思い。
ありがたく大きい方の泥船に乗ることにしました。

沼の真ん中あたりに来たときに、
それほど魚がたくさんいないことにタヌキも気が付きました。
泥船が壊れて水が入ってきたときには
さすがにタヌキもうさぎに騙されていたことに気が付きました。

タヌキはもはやこれまでと覚悟を決めました。
うさぎに騙されて、船の底に足を縛り付けていたからです。
不思議とうさぎに対しての怒りはなく、むしろ不思議な気持ちでした。

静かな口調でうさぎに尋ねました。

君は、柴刈りの時も今回も
僕を苦しめようとしたし、僕の家族も苦しんだ。
どうして君が僕を苦しめようとするかわからないんだ。
僕はもうすぐ死ぬだろう。せめてそれだけを教えてくれないか。

うさぎは笑いながら言いました。
ようやく気が付いたようだな。
君が殺したおばあさんは
僕の命の恩人なんだ。
おじいさんも苦しんでいる。
その恩人を鍋の中で煮たのは許せないのだ。
当たり前だろう。

この時うさぎは、タヌキの足を固定して泳げなくさせたとは言っても
泥船が溶けるからタヌキは浮かび上がるだろうと思っていました。

しかし、泥船は底が割れて水が入ってきましたが
溶けだすほど壊れはしませんでした。
ただ、タヌキと一緒に沈んで行ったのです。
沈みゆく船の上で下半身が水に浸りながらタヌキは言いました。

僕は捕まって逃げるのに必死だった。
君だってそうするのではないか。
僕はおばあさんを突き飛ばしたのかもしれない。
それはなんとなく覚えている。
逃げるのに必死だったから後ろは見なかった。
そうか死んでしまったのか。それは悪いことをした。

でも、そのまま逃げたので
おばあさんを煮るなんてことはしていない。
できるわけないよね。
もう一人がおじいさんなんだね。
おじいさんが帰ってきたら今度こそ殺されると思ったから
一目散に逃げたんだよ。
そもそもおばあさんを鍋の中に入れるほど
僕は力はないし、そんな大きな鍋なんてなかったと思うよ。

もうタヌキは、首まで水につかっていました。

君にとって
僕はあの時死ななければならなかったのかなあ。
僕があの時、怖いけれど死ななかったから
僕だけでなく、僕の家族も苦しまなければならないのかなあ

お母さんに柿を食べさせたかったなあ。
柿を食べて喜ぶお母さんの顔が見たかったなあ。

タヌキが本当に行ったのか
うさぎがそういう風に感じただけなのか
もううさぎにもわかりませんでした。

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リアル親指姫 [現代御伽草子]


小高い丘のふもとに野ネズミのおばあさんの家がありました。おばあさんといっても、まだ自分の稼ぎで生活していましたから、おばあさんというほどの年齢ではなかったのでしょう。親指姫はこの野ネズミのおばあさんの同居人でした。

親指姫はとても夢見がちの女の子でした。たまに訪ねてくる野ネズミのおばあさんの親戚の子どもたちに、自分の生い立ちを話すことが好きでした。

自分は、チューリップの花のようなきれいなお家で生まれたの。幸せに暮らしていたのだけれど、ガマガエルが私のことをかわいいと言って、自分の息子のお嫁さんにしようとお家から沼へ連れてってしまったの。とても怖かったわ。連れていかれた沼の家はじめじめしてとても住むことなんてできないもの。私がおびえて泣いていたときに、親切な魚さんたちが、私が閉じ込められていた蓮の葉の茎を切って、沼の岸まで流してくれたのよ。そうしたら今度はコガネムシにさらわれてしまったの。私がかわいいからお嫁さんにしようとしたのね。コガネムシの家に行って、彼は友達や親せきに私のことを自慢したの。私は幸せな気持ちになったわ。でも、意地悪なコガネムシが、私の足が二本しかないとか、羽がないとか悪口を言ったの。彼は、私をさらったくせに、馬鹿にされたら、私にどんどん冷たくなっていったのよ。ひどいと思わない。私は追い出されて、あてどもなくさまよったわ。そうしたら、この家にたどり着いたの。おばあさんが病気で寝込んでいたので、介抱してあげたらおばあさんにとても感謝されて、そのままお願いされてこの家にいるのよ。

親戚の子どもたちが親指姫の冒険談を目をキラキラ輝かせて聞くものですから、親指姫は得意になって話をしました。野ネズミのおばあさんは、そんな時、いつも少し離れたところに座って、口を挟まずに静かにその様子を眺めていました。

そんな親指姫も結婚適齢期となりました。親指姫は、街に出ていきたがらないので、結婚相手に巡り合うこともありませんでした。野ネズミのおばあさんも大変心配しました。生活一通りのことはできるようになったけれど、男の人と暮らすことはできるだろうか。親指姫は愛想をつかされないだろうか等と考えるときりがありませんでした。
結婚話はすぐ身近から飛び込んできました。野ネズミのおばあさんの仕事先のモグラが親指姫の話を聞きつけたようです。仲介人を通じて結婚を申し込んできたのです。野ネズミのおばあさんは、仕事先が相手ということなので親指姫が何かトラブルを起こして生活に影響を及ぼさないか心配にはなりました。でも、モグラならば、堅実な働き者だということは知っていましたし、貯えもある裕福な家です。争いごとが嫌いで、小さなことにはこだわらないという性格だということもありました。何よりも、仕事の関係でモグラが野ネズミのおばあさんの家の近くにもよく来るので、何かあったら私も手伝いに行けるということから、縁談を進めようと思う大きな理由でした。

親指姫は、モグラが地味で華やかなところが無いことから、当初は縁談には乗り気ではありませんでした。しかし、このまま野ネズミのおばあさんの家で一生を終えることは気が利かないことだし、野ネズミのおばあさんが死んでしまったらどうやって生きていけばよいかわからないということで、縁談に応じた方が良いかもしれないと考え始めました。そこに、モグラからのプレゼント攻勢が始まりました。これまで見たこともないドレスにうっとりしましたし、きらきら光る指輪も気に入りました。自分が本当のお姫様になったような気持ちになりました。それならばということで縁談がまとまりました。

結婚当初は親指姫は幸せに暮らしていました。自分の欲しい服を手に入れ、自分の理想の家具に囲まれて、何不自由なく暮らしていました。モグラは、親指姫のおねだりにこたえようとして、これまで以上に仕事に精を出すようになりました。だんだん親指姫は一人ぼっちでいることが多くなり、不安になってきました。親指姫は自分の生い立ちについて誰かに話したくて仕方がなかったのです。でも、町に行くことは嫌いだし、野ネズミのおばあさんの家に行っても話す相手もいないので、つまらないなと感じて始めていました。

そんなときです。
家の近くに空から何かが落ちてきた音がしました。羽の折れた一羽のツバメがモグラの掘った外穴の中に落ちていました。親指姫は、ツバメを雨風の当たらない場所に移動させ、手当をしました。ツバメは、南の国からやってきたけれど、途中で怪我をして落ちてしまったというのです。親指姫はモグラと相談してツバメの世話をすることになりました。
親指姫は、良い相手を見つけたということで、ツバメに、得意の生い立ち話を何度も聞かせました。だんだんツバメも飽きてきたのがわかったので、今の境遇を話し始めました。

私は、野ネズミのおばあさんの世話をしておばあさんを助けてきたのだけど、おばあさんの体の具合がよくなったら、厄介払いをされるように縁談を持ち掛けたのよ。おばあさんの仕事が有利になるように仕事先のモグラに売られたようなものだわ。モグラったら、仕事に夢中で私のことなんかほったらかしなのよ。ツバメさんもご存じのとおりいつも家にいないのよ。モグラって、にぎやかなところが苦手だから、私が誘っても街に連れて行ってくれるなんてこともなく、こんな暗い穴倉に閉じ込められているんだわ。本当は街に行きたくないのは親指姫だったのですが、そういうことにしました。
この話は、生い立ち話よりもツバメは興味を持ったようです。親指姫は、自分の話を無条件に信じてくれて、自分が同情されていることがとても気持ちが良かったのです。

ツバメは尋ねました。
モグラは親指姫に乱暴なことはしないの?
親指姫は答えました。
ひどい暴力はないけれど、言葉が怖いの。低くてよく響く声はそれだけで怖いわ。言葉遣いは乱暴だし、あれをやれ、これはやるな。このやり方はだめだなんて言うだけだから楽しくないのよ。
ツバメは尋ねました。
お金はちゃんと渡されているの?
お金をもらっても親指姫は、街に行くこともないので買い物もしないし、必要なものはモグラが揃えますので、お金をもらう必要はありませんでした。
でも親指姫はツバメに答えました。
いいえ。お金なんてもらったことはないわ。だから、私は一生この暗い穴の中に閉じ込められて生きていくんだわ。
ツバメは満足そうな顔をして聞いていました。
その顔を親指姫が見て、親指姫も満たされた気持ちになりました。

またある時ツバメは尋ねました。
モグラは、本当に親指姫に乱暴なことはしないの?
親指姫は、どういう風に答えればツバメが満足するか分かってきていました。
実は、これはだめだとかあれをやれと言うとき、私が悪いんだけど、納得ゆかなくて素直にはいって言わないときに、ちょっとだけ肩を押されたりすることはあるわよ。たまたま近くにいた時だけど、感情的になって背中を押されたこともあったけど、暴力なんて思っていないわ。私が悪いのだもの。
それを聞いたツバメは、それはひどいと言いました。親指姫はかわいそうだね。辛い思いをしているねと言いました。
親指姫は、これまで他人から、自分のことを心配されたことがあまりなかったので、とても満たされた気持ちになりました。しかし、一方で、少しモグラに悪く言い過ぎたなあという気持ちも出てきました。そこで、慌てて付け加えました。
でもね、モグラも優しいところがあるのよ。私を叩いた後は、ごめんねって優しくいってくれるの。私を怒鳴った後は色々なものを買ってくれることもあるし。
それを聞いたツバメは悲しそうな顔をして言いました。
それは乱暴者みんながすることだよ。乱暴なときと優しいときと順番にでてくるんだよ。優しくする方が危ないよ。そういうものなんだよ。おそらくモグラは大変危険な乱暴者だ。親指姫、安心できないよ。命の危険があるよ。逃げた方が良いよ。

親指姫はびっくりしてしまいました。モグラは気が利かないところはありますが、真面目な働き者です。結婚前に比べれば信じられないくらい裕福な生活です。自分が殺されるなんてあるはずがない。ずいぶん上手に話しすぎたのだろうなと思いました。ちょっぴり反省しました。

大丈夫よと言ってその場は立ち去りました。

それからというものツバメは、顔を見るたび逃げろというようになり、自分と一緒に南の国に逃げようと繰り返し言うようになりました。最初は親指姫も不思議でした。どうしてツバメはモグラと話したこともないのに、モグラが危険な乱暴者だというのだろう。私がツバメの世話をしているのもモグラが良いと言ったからなのになあと思っていました。

でも命の危険があるから逃げろということを繰り返し言われたものですから、親指姫は何となく怖くなってきたのです。そういう気持ちでモグラを見るようになったからでしょうか。モグラに対する不満が生まれてきました。モグラは、親指姫がやった家事について、ありがとうという言葉がありませんでした。いつも夜遅く帰ってきて、親指姫の話を興味を持って聞いてくれるということはありませんし、帰るとすぐに眠ってしまいます。親指姫が失敗したこと、気に入らないことだけは仕事に行く前に言い残していくという具合でした。ツバメの言う通り、私を認めていないのかなと心配になってきていました。
そういえば確かに、叩こうとして叩いたわけではないけれど、背中に当たった手は強かった気もしてきました。今日も疲れたような顔しか見せないで、私を見ても前のように笑顔になることは無くなったな。心なしか声も大きくなったかな。と親指姫はますます心配になってきました。

モグラはモグラで、親指姫の希望を叶えるために収入をあげようと必死でした。少し無茶をやるせいで、あちらこちらと衝突することも増えてきました。それでも妻のために精一杯頑張ることで、生きがいを感じていましたから、少し仕事を減らそうなんてことは考えたこともありませんでした。また、一度引き受けた仕事に対する責任感が強かったので、最後までやりぬくことはたり前だと思っていました。家に帰るころにはくたくたで、話をする気力もなくなっていました。それでも、親指姫の無理なおねだりを聞いて、それは頑張ればかなえてあげることができると思うことが、無上の喜びでした。そんな自分の親指姫への愛を親指姫は理解しているものだと信じて疑いませんでした。

9月になりました。小高い丘にも秋の気配が漂い始めました。親指姫は、何となく体調が悪く、息苦しいかなと感じていました。ふいに昔のことを思い出してしまうといたたまれない気持ちになって、外に飛び出していきたいという衝動が抑えられなくなるようになりました。それと同時に自分はモグラから優しくされていないという気持ちが生まれ始めました。自分だけが損をしているのではないか、不公平だという気持ちが抑えられなくなってしまいました。ある日曜日、親指姫が些細な失敗をしたことがありました。モグラは何の気なしに、ここはこうするとうまくいくよと親指姫にアドバイスをしたとたん、親指姫は外に飛び出したいという衝動が抑えられなくなりました。何か叫んだかもしれませんが、親指姫はそのあたりから何も覚えていません。ただならぬ気配を感じてモグラは親指姫の名前を呼びました。親指姫は出口に向かって取りつかれたように走り出しました。危険を感じたモグラは、親指姫の腰に抱き着き、必死になって親指姫を止めました。親指姫は勢い余って、頭から床に転んでしまいました。モグラも一緒に倒れて親指姫の上に乗っかってしまった格好になりました。親指姫のおでこにたんこぶができてしまいました。そのあたりから親指姫は我に返り記憶を取り戻しました。

次の月曜日、親指姫がツバメの元に行ってみると、ツバメは、羽の具合もすっかり良くなり、南の国に帰る準備をしていました。
ツバメは尋ねました。
おでこのたんこぶはどうしたの?
ちょっと覚えていないのだけど、気が付いたらモグラに倒されていたみたい。
どうして倒されたの?何かあなたが悪いことをしたの?
私は何も悪いことはしないわ。ただ、家事で失敗してモグラに責められたことは覚えているわ。
では、あなたが家事で失敗したので、モグラは怒ってあなたを突き飛ばして怪我させたのね。
ああ、そういうことになるのかしら。
やっぱり私の言う通り、モグラは危険な乱暴者だよ。この次はたんこぶでは済まないと思うよ。私は仲間と一緒に南に行くよ。もう秋になったからね。あなたもつれていくことができる。一緒に南に行こう。
でも私は、南には知り合いがいないし。
南には、あなたみたいな人がたくさん住んでいるところがあるよ。そこまで連れてってあげるよ。
でも私を乗せたら重いでしょう。
大丈夫、仲間にも親指姫のことは話したから協力してくれるってさ。みんなモグラはひどい奴だって言っているよ。
モグラは追ってこないかしら。
大丈夫。仲間と一緒に南に行けば、モグラは追っては来られないよ。何より命が大事だよ。

こうして親指姫は木曜日に南に向けて旅立つことになりました。お気に入りのドレスと指輪だけを持っていくことにしました。全部モグラに買ってもらったものです。

木曜日に出発することはモグラに言ってはだめだよ。気が付かれてもだめだよとツバメは親指姫に念を押しました。

木曜日、モグラが仕事に行っている間に親指姫はツバメの背に乗って南の国に旅立ちました。



さて、親指姫は南の国で幸せに暮らしたのでしょうか。

よそ者で、言葉も通じないだろう親指姫は現地のコミュニティーに受け入れられたのでしょうか。それとも、収入もなくなり、こんなはずではなかったと言って、ツバメに元に戻すようにお願いしたでしょうか。そうしたら、ツバメはまた親指姫を野ネズミのおばあさんが住んでいる丘のふもとまで運んでくれるでしょうか、それとも「南の国に行くことはあなたが決めたことですよ」と突き放すでしょうか。親指姫はツバメが送って行ってくれるという場合に、散々不義理をしたモグラや野ネズミのおばあさんの元に平気で戻れたでしょうか。

この親指姫の話は、複数の実話をもとにして作成しました。実話と違うところは、親指姫とモグラの間に、概ね2歳以下の子どもがいなかったことです。

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特に定年退職後に男性が家庭内で孤立していることがあからさまになる理由。言葉には二つの起源があるということとコミュニケーション方法の性差。家庭内ラポール。柏木恵子先生「大人が育つ条件」岩波新書に触発されて。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

特に定年退職後に男性が家庭内で孤立していることがあからさまになる理由。言葉には二つの起源があるということとコミュニケーション方法の性差。家庭内ラポール。柏木恵子先生「大人が育つ条件」岩波新書に触発されて。

多くの家庭において
男性の家族に対する会話と女性の会話では
質や目的が異なっているとのことです。

最近の男性はこのことに気が付いて
コミュニケーションの女性化を意識しているそうです。

このコミュニケーション方法の違いは
特に定年後にあからさまになり、
男性は家庭の中で孤立するし、
熟年離婚の原因になるとも指摘されています。

弁護士として離婚事件を担当していると
このような現象は確かにありまして、
男性側のより男性的な会話と
女性側のより女性的なコミュニケーションがそろってしまうと
熟年前の離婚の原因の一つになっているようです。

このことについて私なりに説明します。
是非柏木先生の名著もご一読ください。

みんながみんなそうではないとしても
男性と女性とでは家庭内の会話の目的自体が違うようです。

男性の会話の主目的は、必要な情報を提供することにあります。
そして、その情報に基づいて行動してもらうことによって
相手に良い結果をもたらそうとするわけです。
このためここでいう「情報」は、その次に出る行動に有益な情報です。

女性の会話の主目的は、相手に快適でいてもらうことにあるようです。
会話をすることで、安心してもらう、楽しんでもらうということです。
提供された情報に、差し迫った意味が無く、
むしろ、声の音色、声の大きさ、抑揚、言葉の表現などに
神経が向かうようです。

そして、柏木先生は、女性に多いコミュニケーションスタイルを
「ラポール的コミュニケーションとおっしゃいます。」
ラポールという言葉は、臨床心理でよく使う言葉です。
クライアントと心理士がラポールの関係を形成する
等という言い方をします。

要は、相手に自分を安全な仲間だと思ってもらうことだと思います。
自分の弱みをさらけ出しても、自分の悪いところを教えても
それによって、当たり前の非難をされず否定をされず、
心理士に対して警戒感を持たなくて済むようにして
必要な情報引き出して
アドバイスを素直に受け入れてもらうようにする
という効果があるのでしょう。

心理士や精神科医を警戒するあまり
自分に不利な事情を話さないという人をたくさん見てきました。
そのため、善意の第三者が傷つけられることもありました。
ラポールを形成するということは大切なのですが
なかなか難しいようです。

このコミュニケーションの違いは歴史的な理由があるようです。
それは言葉(会話)がどのように始まったか
ということと関連します。

認知心理学や進化生物学では、この言葉の起源については争いがあり
現在でも決着はついていないようです。

一説によると、
毛づくろいの代わりに言葉ができたという説があります。
サルの毛づくろいは、
お互いを安心させて落ち着かせるために行われるそうです。
ところが人間は体毛が薄くなり毛づくろいができなくなりましたし、
また、サルよりも大勢の人とコミュニケーションをとらなければならないので
一人ひとり毛づくろいをしているよりも
大勢で会話をした方が手っ取り早い
そのために会話をするようになったとしています。

発声学的にも
二足歩行をして声を出しやすい条件が整ったところ、
安堵の域を出すことで声になってしまうということは
冬のお風呂場で経験していると思います。
湯船につかってあまりにも気持ちよいので
「ああー」
とか言ってしまった経験はないでしょうか。

緊張や不快から、急速に安心に変わるとき、
つい声が出てしまうようです。
そうすると、かなりエキサイトしている仲間の元に行って
「ああー」と脱力の音声をすると
仲間も共感力を使って
思わず脱力して緊張を解いてしまう
ということになるようです。

自分が脱力している様子を見せれば
警戒感も消えてしまうでしょう。
これが会話の始まりだという説です。
ラポールの会話の始まりです。

言葉というよりも、脱力し合うということで
安心し合うということが会話の原点だという説です。
裸の人間の群れが、一斉に「ああー」と言い合っていたら
観ている方もユーモラスな気持ちになると思いませんか。

これに対する説は、むしろよくわかりやすいのですが
警戒をさせる音声が会話の始まりだという説です。
これはほかの動物でもそうですが
天敵が近づいてきたことをいち早く気が付いた仲間が
緊張のあまり、短い悲鳴のようなものを上げる
そうするとその緊張感が伝わり仲間も緊張をする。

この伝え方は空に天敵がいるのか、木にいるのか
はたまた地上にいるかで悲鳴の上げ方が変わることが
他の動物で報告されているので、
その悲鳴の上げ方によって
逃げ方が決定されるということになるようです。

つまり、その場合は、相手の気持ちなんて考えている余裕はなく
とにかく無事に逃げましょうという行動提起しかありませんから
俺は大丈夫だと思うなどという議論は必要ないのです。
行動指示の言語あるいは会話ということになるでしょう。
受け取り方によっては、命令だと思いやすくなります。

そして、ラポールの会話を大事にしているのが女性で
行動指示の会話を当然だと思うのが男性
だということになるようです。

今から200万年前は、人類は狩猟採集の時代で
男が集団で小動物を追い詰めて狩りをしていたそうです。
男は小動物に逃げられないように、肉食獣に襲われないように
短い言葉を、断定的にかわしていたのでしょう。

女性は、植物を採取して子育てをしていたので、
チームの和が生存のためには一番重要でした。
ラポールの会話が合理的でした。

こういう遺伝子上の性差があるように私は思います。

これを助長したのが軍隊と企業社会だと思います。
軍隊や生き馬の目を抜く企業活動では
何か議論をするよりもトップダウンで行動することが
効率が良いという思い込みがあります。

軍隊やそれをまねた企業スタイルの中では
会話は行動指示であり、命令そのものです。
男性はそのような社会を前提として教育を受けますし、
時代が変わっても社会価値の残存がありますから
行動指示的な会話をする訓練と教育をされるわけです。
遺伝的な発想と教育によって
行動指示的会話が当然だと思い込んでゆきます。

そしてこれが家庭の中でも行われてしまうのです。

妻の愚痴を聞いていても
頭の中で買ってに翻訳してしまい
何が彼女にとって必要なことなのかを考え
そのためにはどういう手段、行動に出るかを考え
過不足なく伝達することに努め
そしてそれを実行するため伝達する。

相手の気持ちに共感することを示しません。
共感していることが前提であり
相手を助けようという気持ちがあることが前提で話しているのですが、
それを伝える必要性を感じていないのです。

必要な言葉情報を伝達することに神経を集中していますから
声が大きくなろうが、表現が少々乱暴になろうが
気にしません。
そういう配慮をするという発想がそもそもないのです。

例えば妻が職場のトラブルについて相談すると
妻の同僚に対する憎悪が先走り
つい言葉が乱暴になり、声が大きくなり、
必要な情報提供をすぐに理解しない妻にイライラします。
考え出した自分を称賛する言葉でないこともイライラするわけです。

妻からすれば会話の主目的はラポールですから
先ずは自分を安心させてもらいたいわけです。
職場では嫌なことがたくさんあっても
家庭では安心してよいのだということを
会話によって実感したいわけです。

この主目的部分がまったく欠落していますから
夫がどんなに良い情報を提供しても
頭に入らないで不満が募るだけです。

しかも、とても残念なことは
夫が妻に命令をしているように聞こえていることです。
そして、夫が妻より自分が偉いという態度をしていると
どうしても思ってしまうようです。

知っている情報を知らない人に伝達しているだけなので
夫は自分の方が偉いとは思っていないのですが
ラポールが欠落している会話のために
偉そうに聞こえてしまうようです。

もっともベストな行動はこれしかないと思って話していますから
断定的に行動提起をしてしまいます。
妻からすれば命令だと受け止めてしまうのでしょう。

夫は妻の困りごとを
自分の困りごととして妻の話を聞いているのですが
伝わりません。
妻が自分が夫から責められていると感じられるのはこういう事情です。


夫の大きな声、乱暴な表現、
妻が自分のアドバイスを歓迎していないことを感じてのイライラの表明
それらが重なって蓄積されてしまうと
精神的DVと言われ出し、離婚の危機が生まれるわけです。

夫が色々家庭内のことに口を出す場合も
相談するという女性的スタイルの会話の技術が無いというだけで
結果的に一方的指示をしてしまい
命令とダメだしとしか受け取られないわけです。

逆に夫は妻の発言には必要な情報の伝達が鈍く
余計なことばかりを延々と聞かせられると感じるわけです。
夫は行動指示の情報提供が会話だと思っていますから
それが始まるのを待ち続けているわけです。
会話のスタイルの違いによって
相手の言葉が頭に入らないことは夫も妻も一緒なわけです。


家庭の中ではどちらのコミュニケーションが大切かというと
私は、女性のラポールコミュニケーションが
本来行われるべきコミュニケーションの形態だと思います。

それぞれメリットデメリットがあるわけです。
この使い分けを意識するということなのだと思います。
公私の区別というのはこういうことだと思っています。

長くなるので割愛しますが
様々な現代的な社会病理の中において
いじめ、パワハラ、セクハラなど家族の被害を救出すためには
ラポール的な人間関係を形成し
十分な情報を引き出し、家族で対応する必要があるということもあります。

また、統計的に生命的に寿命が長いのも
活動を長くできるのも女性です。
活動的な女性と老いが早く来る男性ということを考えると
男性は家族に受け入れられているほうが
よほどよいわけです。

絶対その方が楽しいし穏やかだと思います。

私は、本当は職場でも
もっとラポール的なコミュニケーションを作ることが
企業戦略上有意義だと思っています。
どうしても男性的な価値観を無批判に正しいものとして
時代遅れの企業活動が行われているのではないかという
不安が払しょくできません。
行動指示万能論と目先の利益第一主義はとても親和します。

これからの時代男性が行うべきことは

第1に、職場と家庭と会話の方法を切り替えるということ
第2に、会話は、先ずラポールを形成するところから始めるということ
必要な情報伝達を優先するのは例外的な事情のときだけで、
その際にも、声の大きさ、言葉遣い、話す速さなど
穏やかな会話になるよう意識する必要があると思います。
第3に、情報伝達が必要ではなくても、意識して会話をする。
相手を安心させることを話す。毛づくろいを行うという意識を持つこと。
楽しかったこと、嬉しかったことを声に出して話すということです。
特に家族の感謝、自分の謝罪は必須であるということです。

口調は、語尾を上げていくのではなく、意識的に語尾を下げていくことです。
安心させるということは警戒感を解くことですから
責めない、批判しない、嘲笑しない
感謝と謝罪を伝える。相手の良いところを探し出してでも見つけて言葉にするということです。

これができなければ夫とは、父親とは
気が向いたときにダメ出しをして否定ばかりして
何を怒っているのか分からないけれど予測不可能なときに
声を荒げて、乱暴な言葉を使い
聞いている自分たちにイライラをぶつける厄介な相手
ということになります。

また、家族には体調に波があり
精神状態が一定ではないことが人間です。

嫌がられない会話をするよりも
相手を楽しませて、安心させる会話をすることを心掛けた方が
よほど簡単です。

わかってはいるのですが
なかなかやってみると難しいことも確かです。

私は頑張ってみます。
あなたはどうしますか。
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雇用の安定化こそ、資本主義国家が行う最低限度の仕事  自立自助は国民に丸投げという意味で政府が使ってはならない。 [労務管理・労働環境]



国家政策という観点からのお話です。

雇用は安定した方が良い。
従前の、コンセンサスでした。

様々な政策に合致していたからです。

一番イメージしやすいのは人道的効果、人権的効果ですね。
働いても食べられない、あるいは食べられる仕事が無い
ということになれば収入が無くなり、
生物的貧困を招き、健康や生命が侵害される。
社会的貧困の場合は、劣等感や疎外感に苦しめられる
ということになります。
社会も殺伐としてくるわけです。

経済効果としては、
労働力が消耗して働けなくなれば
生産活動に支障が出ますし、
収入が無くなれば、
消費活動が低下していくわけです。

治安も悪くなります。

もっとも影響を受けるのは福祉の関係です。
昔の日本には社会政策学というものがありました。
雇用政策と社会保障を軸とした
国民の福祉を向上させるという政策です。

国民が仕事に就けるようにしよう
安定して就労し続けるようにしよう
働いた分だけ、それなりの賃金を得られるようにしよう
という労働政策を基盤としています。

そしてその賃金の中から社会保険の保険料を払わせるわけです。
雇用保険(失業保険)
健康保険
労災保険
老齢年金
不可避的に起きる失業、傷病による就労不能
労災、老齢による収入の喪失に備えて
保険料を支払うということです。

自分の賃金の中からあるいは使用者の負担で
お金を出し合っていざというときに備える。
こういう制度ですから自立自助的な制度といえるでしょう。

公的に自立自助の仕組みを作っていたとも言えるでしょう。
それが資本主義国家なわけです。

だから、雇用の安定化は資本主義国家における屋台骨ですし、
政府は雇用の安定化をすることが基本任務だ
ということが言えるわけです。

しかし、それぞれの使用者は、
できるだけ人件費を抑えたいと思うでしょうし、
不要になったら人員整理をしたいと思う傾向にあります。

そこで、「総資本」という概念が提案されました。
社会政策学者として名高い大河内一男先生で勉強しました。
東大総長をされて、
「太った豚になるよりやせたソクラテスになれ」といった発言や
学生運動の頃に学生に取り囲まれた等の話の方が有名ですが
日本の社会政策学の屋台骨を形成していたおひとりです。

一つ一つの使用者が個別資本だとすると
個別資本に任せていたのでは雇用が不安定になり
社会保険制度が成り立たず、
公的扶助で税金が流出してしまう
その税収も減少してしまい
資本主義国家が成り立たなくなる
このため、すべての資本の共通利害を体現する
というフィクションとして「総資本」という概念を提唱された
のでしょう多分。

総資本の観点から行う国家政策が社会政策であるというわけです。

行動成長あたりまでは、こういう考え方が主流で
疑われることもなかったようです。
ところが、特にバブル崩壊あたりから
このような考え方は急激に姿を消します。

社会保障の基盤である「労働政策」
という観点からの政策や研究がどんどんなくなり
代わりに、
労働力流動化政策を中心に据える
労働経済政策にとってかわられるようになりました。

労働力流動化とは
必要な企業に労働力が足りず、
別のところに労働力がだぶついている
このミスマッチをいかに解消するかという問題です。

この観点からすると雇用は不安定の方が良いのかもしれません。
一つところの企業に労働力(労働者)が滞留しないで、
解雇されたり雇止めされたりすることによって
労働力が必要な企業へ流れやすくする
その企業で労働力が不要になったら別の企業へ流す

しかも、雇用が不安定で「どんな職場でも良いから就職したい」
というニーズが生まれると
安い人件費で労働力を確保できるという
特定の人たちにとってのメリットも生まれます。

そこでは、既に、「労働力」という資材の話になっているわけです。
漁船が、情報を入手して
なるべく高い買値を突ける港に魚を水揚げする
というような感覚で労働力という人間を売り買いしているわけです。

一時的に利益の膨大に出る企業はあるでしょうが
総資本の観点からはじり貧になっていくだけです。

収入が不安定であると政策的観点だけでなく
メンタルの問題も生じやすくなります。
家庭不和が起きやすくなり、その影響で学校も殺伐となるでしょう
そもそも労働現場では人間扱いされていないところの歪みが出てくるわけです。

つまり、雇用の不安定を放置するというのは
何も考えないで目先の利益を追求するということです。

政府が特定の企業と結びついて便宜を図る
ということは、
道義的に非難されることだけでなく
資本主義国家を崩壊させる危険な行為なのです。

現在は夢見がちな国家政策は何も力にならないでしょう
健全な資本主義国家を取り戻す
その第一が雇用の安定化、収入で生活も保険料も賄える
そういう政策こそ必要なのだと思います。

それが資本主義社会における自立自助ということだと思います。
政府が国民の自立自助を求めるときは
責任を国民に丸投げするときではなく
自立自助の可能な社会を作ったときの話だと私は思います。


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どうして死の恐怖によって自死行為をやめようとしないのか。自死のメカニズムのまとめ 焦燥感の由来 何に気を付けるべきか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



「死にたいと思っても、死ぬことが怖くて死ぬことができないはずだ
それにも関わらず、どうして命を絶つことができるのだろう。」

この疑問に真正面から取り組んだのが
ジョイナーの「自殺の対人関係理論」です。
この理論は、自死のメカニズムを探求するというための理論というよりも
今生きている人が自死を行う危険があるのか
あるとすればどの程度危険性が高いのか
という危険性の評価方法を構築して自死を予防する
という実務的観点から構築されています。

ジョイナーは、
リストカットや自死未遂という行為を繰り返すことによって
あるいは戦争などで人間が死ぬことを目撃して
死ぬことに慣れていくのだと考えました。
これをジョイナーは自殺の潜在能力が高まるという表現をしています。
つまり、通常の人間は死ぬことが怖い
うつ病であっても死ぬことが怖い
しかし、人間の命が尊重されない現実を体験していく中で
少しずつ、死ぬことに馴れていくということなのでしょう。
外科医であっても自殺の潜在能力が高まることを指摘しています。

ジョイナーによれば
この自殺の潜在能力の高まりとともに
自殺願望(所属感の減弱、負担感の知覚)がそろうと
自死の危険が極めて高くなるというのです。

自死リスクの評価を、
できるだけ客観的な個別事情によって評価しようとする試みは
極めて画期的で、
高い評価を受けています。

私も自殺の対人関係理論は強く影響を受けているというか
繰り返し勉強させていただいている理論ですし、
評価事項を作る上でとても有効な理論だと思います。

ただ、
自死の心理的メカニズムというものをもっと探求できるのであれば
それを知りたいという気持ちはあるわけです。

後付けの言い訳ですが、
もう少し心理的メカニズムが解明できれば
自死リスクの詳細で多岐にわたる評価項目を
もっとすっきりできるのではないかと思うのです。

専門的機関では、詳細な調査で自死リスクを評価するとしても
その専門的機関につなぐために
自死の危険性を、例えば家庭、学校や職場などで
簡単な要素で専門的評価や専門的な介入が必要だと
判断できるようになると
もっと有効な自死予防、自死介入ができるのではないか
と思うのです。

学校や職場は、自死の危険性を評価するための機関ではないかもしれませんが
もし、危険に気が付き、専門機関につなぐことができれば
かなり自死予防の効果が上がるのではないかと思うわけです。

心理的メカニズム、自殺行為に至るプロセスに焦点を当てた理論としては
日本の精神科医の張賢徳先生の「解離仮説」
というものがあります。
主としてうつ状態からの自殺の場合は、
自死行為の実行時、当人は解離状態にあるというのです。
解離状態とはどういうことかというと
Wikipedia(寄付をすることによって存続を呼びかけられています)
によると
「無意識的防衛機制の一つであり、ある一連の心理的もしくは行動的過程を、個人のそれ以外の精神活動から隔離してしまう事である 。抽象的に表現するならば、感覚、知覚、記憶、思考、意図といった個々の体験の要素が「私の体験」「私の人生」として通常は統合されているはずのもののほつれ、統合性の喪失ということになる 。」
とあります。
要するに、自分が自分でなくなっていて、自分の人格の発言として行動しているわけではない。わけのわからない状態。
ということなのでしょうか。
極端な例が二重人格の状態です。二人目の人格がはっきり確立していない場合が通常の解離状態だということでしょうか。

この解離仮説が、私の考察の出発点でもありましたから、
私にとっても大切な学説だということになります。

では、この解離状態はどういうメカニズムで起こるのか
あるいは解離状態の直前の状態とは何なのか
という疑問が出てきます。
自死を完遂できる場面というのは
他者に目撃されない場面ですから
その前の状態がわからないと自死は予防できないことになりそうです。

また、実際の自死のケースを後追いに見ていた場合
解離ということで説明がつくのか
(私の解離の理解が不十分である可能性は大いにあります)
という疑問も生まれしまいます。
どうも、冷静に、自死という行為を選択するケースも多いのではないか
遺書には、遺族に対するあふれんばかりの
愛情と謝罪が書かれていることが多く
こういう場合、少なくとも、わけのわからない状態というわけではないように
思います。

つまり、自分には死ぬ他に選択可能な方法がなくなったと
冷静に(この言葉は難しいですが、少なくとも静かに、興奮しないで)
判断しているという印象を受ける自死が比較的多いのです。

張先生は、
解離仮説に親和する考え方として、焦燥感や不安感が高まっている
という考え方を指示されているようです。
この点は、私も常々そのように感じていました。

では、焦燥感や不安感とは何か
それがどのようにして死の恐怖を凌駕させるのか
ということについて、まとめたいと思います。

もっとも自死の完成に至るプロセスは人それぞれ異なります。
しかし、これまで後追い的に自死を見てきて、
これから述べるプロセスは、
大きな柱となる典型的なプロセスであると考えています。

自死が起きる場合は、
実際に何らかの悩みがある場合が多いと感じます。
悩みの多くが対人関係的なもので、
学校や職場、家庭などで
自分が仲間として尊重されず仲間から追放されてしまう不安
仲間の中で顔向けできずこれまでの関係を維持できなくなるという不安
つまり仲間から離脱する不安
という形で不安を還元できると考えています。

(もちろん身体的な悩みを主たる悩みとして
自死リスクが高まるケースもありました。)

但し、精神的な不安定が明らかに先行しており、
口に出した不安の内容が荒唐無稽の場合もあります。
過敏になり、客観的には妄想的不安を抱いている場合ですね。
つまり確たる理由がないにもかかわらず、
不安や焦燥感が出現してしまう場合もあるということです。

人間は(本来人間に限らないかもしれない)
不安を抱くと、不安を解消したいという要求が生まれるようです。

犬が怖い人が、自分が進む先に犬がいる場合、
回り道をするとかですね。
危険の認知と回避行動との間に
危険に対する不安と「不安解消の要求」という
心理過程があると仮定してお話を進めます。

不安解消要求にもとづいて簡単に不安が解消できれば
不安は解消されます。
しかし、不安解消要求が発生しているのに
不安を解消されない場合はどうなるでしょうか。

不安解消要求は維持されたままになります。
そして不安が解消されなければ
不安解消要求は高く強く変化していくようです。

不安解消要求が高度に変化するとは、
なんとか不安を解消したいという想いが強くなると同時に
早く不安を解消したいという想いが生まれてきて強くなります。

感情が強くなるため、理性的な思考力が後退していきます。
理性的な思考力が後退するということは、
複雑な思考ができなくなるということです。
具体的には、
・二者択一的な思考になる
・悲観的な思考になる
・将来的な派生問題、因果関係の把握が難しくなる。
・他者の気持ちについて考えることができなくなる
・結果として視野が狭くなっている
ということです。

これは逃げる場合にとても都合の良い思考変化です。
但し、それは例えば文明ができる以前の
狩猟採集時代の場合において都合の良い変化でした。
このころの危険は、自然現象や野獣でしたから
何も考えないで逃げるという方法が一番有効だったのでしょう。
その時代から現代はせいぜい2万年くらいしかたっていないので
脳が対応できていないわけです。

だから、このような不安解消要求が持続してしまうと
人間の脳は、今生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められている
というような極端な危機感を感じたように
動き出してしまうようです。

このため、ますます出口が見えなくなるわけです。
例えば途中で、
だれか他人に救出してもらいたいという意識が芽生えることがあり、
それ以外に方法が考えられない状態になりますから
その人に対する依存度、要求度も大きくなるわけです。
そして、その人から援助を拒否されると
絶望を感じやすくなることが多くあります。
つまりこの人だけが私を救ってくれる
その人が私を助けてくれない
では、解決方法はすべてなくなった。
という具合です。

さらにさらに、不安解消要求が大きくなります。
早く解決したいという要求も高まっていきます。

早く解決したいという気持ちは、
脳が勝手に生きるか死ぬかという場面だと勘違いして
それにふさわしい脳の活動をしているわけですから
外のすべての要求よりも不安解消要求を優先してしまうわけです。
今は生きることができればそれでよい
あとはどうなっても良いという心理です。
これが焦燥感です。

既に、不安の原因を除去、修正しようというような
論理だてをした思考をすることは、そもそもできない
発想としても生まれてこない状態になってきます。
不安が解消されればそれでよいという姿勢に一貫されるようになります。

そして早く不安を解消したいという悲鳴が生まれてきます。
元々は、がむしゃらに何も考えないで逃げるためのシステムでした。
おそらく人類の多くがこのようなシステムによって
野獣などから逃げ延びて、我々が生まれてきたのだと思います。
しかし、生きるためのシステムが、生き延びる方向と
反対側の行動を促し始めます。

何かを行って不安を解消できていればよいのですが、
アルコールやドラッグで不安を一時的に感じなくしようとしたり
自傷行為で不安の感覚を消そうとしたりする行為がみられてきます。

その究極の不安解消要求に基づく不合理な思考が
「死ねば不安から解消されるのではないか」
という希死念慮の芽生えです。
じっくりと不安の原因を探求して解決を目指す
という姿勢はなくなっています。
そういう気力が無くなっているという表現がリアルかもしれません。

この早く解決したい、しかし方法はない、しかし早く解決したい
という堂々巡りが焦燥感です。
焦燥感が大きくなっていくと
ますます思考力がなくなっていきます。

さらに、解決するという方法ですら思い浮かばないにもかかわらずに
早く解決をするという方法までを探さなければならなくなるため
ますます解決の可能性が狭まっていくわけです。
そうするとさらに絶望しやすくなってしまう
なんでもよいから不安を解消したいということになりますから
死ぬことを考えると、
長いトンネルの出口が見えたような少し明るい気持ちになるそうです。

また、
不安と向き合う時間は、初期は短く、
眠れば忘れるほどでしょうけれども
どんどん長い時間不安にさらされるようになります。
眠れなくもなるようです。
これがさらに思考力を奪います。

自死すれば死ぬということの意味も十分把握できず
つまりデメリットを正しく評価できなくなり、
不安が解消されるという結果だけが意識に上るようになります。

取りつかれたように自死行為を行う
という事例もありましたが
こういう状態だったのかもしれません。
多くの事例では、
自死というアイデアが生まれ、それを決行する日時を予定すると
静寂の気持ちを取り戻し、
遺族に対する謝罪と感謝をつづった遺書を記したりするようです。

既に死は恐怖ではなく、
安らぎ、温かいイメージ、明るいイメージになっています。
むしろ自死行為を取りやめるということが
不安に苦しめられる時間に戻ることですから
恐怖を抱くのかもしれません。
なかなか思いつくことも難しい状態になっているようです。

死ぬことを思いついて
冷静になっているように見えますが
意識は確実に死ぬことだけを目指しているようです。

この状態で家人などに発見されて
自死を思いとどまるように説得されると
本人は、確実に死ぬことしか考えていませんから
説得を受け入れたような態度を見せ、安心させ、
すきを見て自死に至るという例も複数ありました。
一見冷静に見えますが、
既に、絶望の果ての強固な自死の意志が生まれているわけです。
私は、そこには自由意思はないと思っています。

この状態で自死を思いとどまった事例で私が知っているのは、
自分の周囲に対する感謝や愛情ではなく、
憎しみや敵意のようです。
「死んでまで相手を喜ばせることは許せない」
という怒りが不安を握りつぶして自死を思いとどまった事例が
実際にあります。

なお、自死が失敗に終わって救急搬送され、入院しているときは、
自死の原因を作った不安から一時的に解放されていますから
例えば、2週間以上の入院が確約されている場合は
不安の源から離れることができるために
一時的に自死の意志が弱まっていることが
多く観察されます。
思考をする余裕も出てきます。

この時期に適切に、適切な人材がかかわることによって
不安の原因について考察をして、
必要な人間関係の状態を改善することで
自死リスクを解消することができる場合があります。

つまり本人の考え方(認知)を変えるだけでなく、
退院後に本人を取り巻く人間との関係が改善されることが
とても大切なことだと思います。
私がかかわった事例では、親の力が有効でした。

オープンダイアローグ的な発想が有効だと思います。

対人関係的な不安で私が強調したいことは
一つの人間関係、例えば職場で自分が追放されると感じた場合、
本来離脱しても人生において大した不利益にならない人間関係で
他の人間関係、例えば家族などにおいては
尊重され、大切にされていたとしても
職場での孤立感、疎外感によって
世界中から自分は孤立しそうになっているという不安を
脳が感じてしまうようだということなのです。

おそらく、人間がチンパンジーと別れて600万年前、
農耕集落ができるまでの2万年前
この間、一つの群れだけで一生を終えていたことの
脳の名残なのだと思います。

このように人間にとって群れとは、
水や空気のように、生きるための不可欠な要素だと
脳が思い込んでいて、進化できていないようです。

自死をする人たちは、必ずしも自傷行為をしておらず
アルコール依存症にもなっておらず
突然自死する場合があります。

ただこういう場合でも、多くのケースで

自分を取り巻く人間たちから
自分が尊重されていない、仲間として認められていないという
いじめやハラスメントが繰り返されていることがあります。

おそらく人間が生きるということは
生物学的に生きるだけでなく
自分の周囲の仲間の中で尊重されて生きるということなのでしょう。

仲間の中で尊重されない体験は
自分の体を傷つける自傷行為や戦争のように
自殺の潜在能力を高めているのだと思います。

また、自死前に社会的な逸脱行動をする場合がありますが、
(自分の評判を落とす行為を理由もなくやってしまう)
それはある意味自傷行為と同じなのかもしれません。

それでは、以上のまとめの中から
直感的に自死の危険が高いと判断する要素を抽出してみます。

自殺未遂は、当然高い自死の危険があるわけです。
一見冷静になったように見えても、
冷静にこちらをだまそうとしている可能性があります。

原因がどこにあるのか分からず、
何ら不安解消要求が解消される出来事が無ければ
自死リスクが極めて高い状態で維持されていることは当然です。

衝動的な行為が目立ち始め
特に刹那的な理由での行為で
社会の評判が落ちることを気にしないような行為
しかし、落ち着くとどうして自分がこういうことをしてしまったのだろうと
激しく公開するような態度を見せる場合はかなり危険だと思います。

解離状態に近いとうことになるでしょう。

衝動的な行為に暴力が伴う場合は
不安解消要求が自分では収拾つかなくなっている状態ですから
とても危険です。
特に暴力の対象が他者に向かわず、
自分に向かっている場合、自分の持ち物に限定して向かっている場合は
自分がなくなってしまうことによって不安が解消されるかもしれない
という感覚が生まれていると考えた方が良いでしょう。

仮に確定的に自分が死ぬ意図が無くても
「死ねたら死のう」みたいな感覚で、はたから見たら事故のように
死ぬ危険のある行為を行うことが若年者を中心として見られます。

また、いじめだけでなく、クラスや同僚から受け入れらなくて孤立し、
多数派から侮辱されたりからかわれたりすることが続くと
行き場のない気持ち、解決不能の気持ちになりやすく
自殺の潜在能力が高まりますから
何らかの解決が必要です。

先ずは家族など支援的仲間があることを
強く意識付けすること
次に問題のある仲間をチェンジすることです。

自分は悪くないのに転校しなければならないのか
転職しなければならないのか
という気持ちはわかりますが、
そのようなこだわりよりも命が大切だと思います。

そして最近つくづく思うのですが、
私の依頼者の方の何気ない発言で衝撃を受けたのですが、
変な行動をしたら、心配する
という仲間として当たり前の気持ちをもつことが
自死予防のすべての出発点になりそうです。

面倒くさいな、けむったいなと思われる行動を
衝動的に行ってしまうのが
自死リスクの高い状態です。
迷惑をかけるわけです。

そのときに心配になるということは
家族でも難しいかもしれません。
でも心配して、その心配を本人に伝える
ここから始めるということが
大前提になるようです。

変な行動をしていたら理由を聞いてみたくなり聞いてみる
これが自死予防の第1歩かもしれません。

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【勝手に書評】人間の本性が善であることが紛争を生む原因だとすれば、ポール・ブルームの「反共感論」は、福音となる。(AGAINST EMPATHY PAUL BLOOM)心と環境のミスマッチ。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

【勝手に書評】人間の本性が善であることが紛争を生む原因だという結論に対して、ポール・ブルームの「反共感論」(AGAINST EMPATHY PAUL BLOOM)は、福音となる。心と環境のミスマッチ。

性善説、性悪説という言葉ありますね。
人間の本性は、善であるか悪であるかという議論です。
これは、単純な理由で性善説を指示するべきです。

その理由としては、もし、人間の本性が善でなければ
文明ができる前の脆弱な動物としての人間は
群れをつくることができないために
とっくに死滅していたからです。

そして、善とは
仲間の痛み、喜びに共感し、
仲間と平等に分かち合い、
仲間が困っていたら助け合い、
特に一番弱い仲間を助けようとする
ということにあると思います。

証拠は、私たちの心にあります。
他人が痛い思いをしたら、
ああ、痛いだろうなあと目を背けたり、顔をゆがめたりしてしまいますよね。
誰かが、抜け駆けして、自分一人が得することをしようとすると
反感を抱いたり、怒りを感じたりしますよね。
誰か困っている人を助けたりすると
安心したり、感動したりします。
弱くて小さいものを見ると、かわいいという感情が起きるでしょう。

こういう本性を持った人間だけが
群れをつくり、自分たちを守り
子孫を遺してきたわけです。
実に単純です。

性善説と性悪説の対立は
既に文明が生じてからの人間を固定的なものととらえるところに
思考方法の間違いがあったのです。

それでは、どうして本性が善であるのが人間ならば
身近ないじめ、虐待、ハラスメントがなくならず
犯罪や自死に追い込まれることがなくならず
戦争を次々と切れ目なく起こすのか
ということが疑問となると思います。

これも最近の科学によってある程度明らかになってきています。

人間(ホモサピエンス)が、その能力を超えた人数の人間と関わるから
本性が善であっても、他の人間を傷つける行為が止められない
ということにあるようです。

1説では、人間の脳が個体識別できる人数は
150人程度、多くても200人を超えるくらいと言われています。
このくらいの人数ならば、善を貫くことができるのでしょう。
元々というか2万年以上前までは、
人間は一生のうちこの程度の人間とだけ交流があったとされているようです。
そして通常は数十人単位で生活していたようです。

群れの頭数が維持できることが人間として生きる条件でしたから、
誰かひとりが苦しむと、頭数が減り自分の生存も危うくなりますから、
平等に分け合い、抜け駆けをせず、特に弱い者を守ろうとする心であることは
どうしても必要だったわけです。
逆にこういう心を持たない群れは、簡単に滅びたのだと思います。

多少自分が損をしても
弱い者を助けようとしたのだと思います。
誰かの失敗も、不十分なところも、みんなでカバーしたのでしょうし、
それは当然のことだったはずです。
誰かが獣に襲われたら
夢中になってみんなで反撃したでしょう。
個体としては弱い人間も、
こうやって他の動物から恐れられるようになったのだと思います。

人間の本性が先ほど言った善であることは
人間の始まりの頃にはとても都合が良かったのは、
人間が自分たちの能力に見合った環境にいた
ということも言えるでしょう。

ところがおよそ1万年位前から農耕が始まり、
人間が一生涯に会う人間が飛躍的に増えていきました。
文明が発展するたびにその人数は増えていきました。
今や、自宅のマンションだって既に200人を超えた住民がいる
ということも珍しくないでしょうし、
自宅から勤め先まで移動する間に
何千人という人間とすれ違うかもしれません。

そして厄介なことに、すれ違うだけの人とも
利害関係は衝突するわけです。
典型的なことは交通事故です。
見ず知らずの人と事故を起こし、
相手がお金が無くて困っているからと言って
重大な事故を起こしたり死亡したりした場合、
「いいからいいから」と笑って済ませることはできないわけです。

損害賠償の金額の折り合いが悪ければ
そのことに対しても
相手に怒りを覚えることは当然でしょう。

特に、自分の家族が犠牲になる場合は
その負の感情が強くなります。

しかしそれは、仲間を守ろうとするという側面から見れば
まぎれもなく善の心なのです。

子どもを厳しく育てる親は、
自分が社会の荒波の中で苦労をしていて
大人になる前に身につけておけばよかったと思うことが
たくさんありすぎたのかもしれません。
子どもを社会について行かせようと思う親心も善でしょう。

もし、家族がけがをしても社会全体が保護してくれるならば
相手に対する追及はそれほど厳しくならないかもしれません。
もし子どもが学校について行けなくても、
社会的に尊重されて、生活に追われることなく
良き伴侶を得て自尊心高く生活できるならば
それほど子どもに厳しくならないで済むかもしれません。

しかし、現実の社会は
他人と生存競争を戦っている状態があるわけです。
仲間ではない人間に囲まれているわけです。

人間の中にいるからと言って必ずしも安心できるわけではありません。
この不安定さ、あるいは不安な心ゆえに
もしかしたら、太古の人間よりも
仲間に対して、多くのものを要求しているのかもしれません。
そして、仲間と仲間ではない人間との間に
厳しく深い線が引かれているのかもしれません。

ただこれは客観的な利益状態ではなく
見知った人は仲間で、見知らぬ人は敵、すなわち人間ではないという
意識が自然と生まれているのでしょう。

ネット炎上等がその典型例です。

プロレスラーの木村花さんが、テレビ番組の演出を理由に
インターネットに攻撃的書き込みをされた事件で
先日、特に悪質な書き込みを送検したというニュースが流れました。

そこには、なぜ死なないで生き続けているのか、いつ死ぬのか
という趣旨の文面があったそうです。

そんなことを言われて平気な人はいないでしょう。
けれども、この書き込み者は、善の気持ちで書き込んだのだと思います。

テレビ番組の花さん以外の共演者を仲間だと無意識に感じてしまい、
仲間を攻撃する木村さんを敵だと線引きしてしまい、
敵である以上人間ではないですから
その人格や家族などその人の仲間の存在を一切捨象することができて、
思う存分攻撃をすることができたのでしょう。

そういう感情的になって正義を振りかざす人間は
少数であり、例外的だという人もいるかもしれません。

でもこういう、人間を人間と思う能力には限界がある
限界を超えると人間を人間扱いしなくなるという現象は、
自治体や警察でも行われています。

女性が夫からDVを受けたと相談すると
その女性の言っていることが真実か否か夫から事情を聴くことがなく、
女性は、公的に「被害者」として扱われます。
当然夫も、公的に「加害者」という名称で呼ばれるようになります。
そして夫は何の反論をする機会もないまま
妻と子どもたちを知らないところにかくまわれ、
子どもとも会えなくなります。

別居が開始され、収入の少なくない部分の支払いが強制されます。

そこまで抵抗する方法を奪われて
弁解の機会も与えられずに不利益を受ける原因があったのか
疑問が大きいケースが多いです。

ここでも、仲間と敵の選別が行われています。
目の前で、苦しんでいる様子を語る女性については
なるほど保護をしたいという善の心が自然と生まれるわけです。
夫に対する怒りの感情も生まれることでしょう。

一瞬で見ず知らずの夫は敵とされてしまい、
夫がどんな苦しみを抱こうが
人間を襲ったクマをみんなで串刺しにするような正義感で
夫が苦しむ行為を躊躇なくするわけです。

「加害者」は、人間扱いをされていないということを
理屈ではなく実感するため
メンタルをやられてしまうわけです。

しかし、加害者扱いをするのですが
何が本当であるか全くわからないというべき段階で
心情的に敵対的な感情を簡単に持つのが人間です。

どこかの思慮分別の無い人間が行うのではなく、
税金で給料を得ている公務員が
こういう状態なのです。

いじめも同じような始まりを持つことが多くあります。
最初は1対1の喧嘩でも
泣き出して、友達にアッピールすることができる人が
多くの仲間を獲得して
本当は悪いかどうかわからないもう一方は、
多くの同級生から攻撃を受けます。
多くの同級生は泣いた子どもを助けようとする
善の気持ちで行っていますから
容赦がなくなります。

もしかしたらパワハラも
会社の効率を、部下の人格よりも上に置いてしまい
効率を優先させるために行われるということが
きっかけであることが多いかもしれません。

戦争であっても
色々な立場から戦争を推進するのでしょうが
正当化する口実は
仲間の救出、保護ということが挙げられます。

局面においては善の気持ちで戦争を推進する人がいるのかもしれません。
善の気持ちが利用されていることは間違いないでしょう。

なぜ、見ず知らずの人と争い、
人を人とも思わない扱いをするか

多くの場合、人間の本性が善だからだと思うのです。

もちろん誰かを守るということよりも
自分を守るために紛争が起きることが多いのですが、
それとしても、自分の立場が主張の不安定であるために
自分が攻撃されているかもしれないという
過敏な感覚を持つことが原因の大多数だと考えれば、
人間が多すぎる世の中は、人間が暮らしにくい世の中なのかもしれません。

それでは、人間の本性が善である限り
人間は人間と争い、不安を抱き、苦しみ続けるのか
これを解決する方法が無いのか
ということが問われるわけです。

私は、これまで、漠然と理性という解決方法を考えていました。
ただ、理性をどのように使うべきかということは正直
具体的に思い当たらない状態でした。

この混迷から救ったのが
ポール・ブルームの「反共感論 社会はいかに判断を誤るか」(白揚社)
です。
この本は書店の社会心理学のコーナーで見つけました。

ブルームは、いま言った私の「善」の部分を「共感」と置き換えて
共感を否定しようと呼びかけています。

心理学の立場から共感が害悪を生むメカニズムとして
共感が当たるスポットライトが狭い範囲に限られるとして
その弊害を述べています。
自分の共感しやすい人は、自分の身の回りの人であったり
自分と同質性のある人なので、
客観的に支援が必要な人よりも、共感した人に支援が偏る不公平がある
というのです。

そして、「共感は、他の人々を犠牲にして特定の人々に焦点を絞る。また、数的感覚を欠くため、道徳的判断や政策に関する決定を、人の苦痛を緩和するのではなく引き起こすような方向へと捻じ曲げる」と指摘しています。

但し、ここからがブルームの主張の本質なのですが、
それらの否定的すべき共感と、あるべき共感と、
共感には二種類あるというので。
「情動的共感」と「認知的共感」です。

情動的共感とは
その人が感じているであろう感覚を追体験してその人のために何かをしようとする感覚です。
認知的共感とは、
「他者が何を考えているのか、何がその人を怒らせたのか、他者が何を快く感じるのか、その人にとって何が恥辱的で何が誇らしいのかを理解する能力」
としています。

そして、
「他者の快や苦を自分でも感じようと努めている自分に気づいたら、その行為はやめるべきだ。その種の共感力の行使は、時に満足を与えることもあるが、ものごとを改善する手段としては不適切であり、誤った判断や悪い結果を生みやすい。それよりも距離を置いた思いやりや親切心に依拠しつつ、理性の力や費用対効果分析を行使したほうがはるかによい。」と結論付けています。

ここには道徳の本質というところと議論が重なり合っているのですが、
詳細は別の機会にいたしましょう。
既に対人関係学では、
道徳という規範は、人間の自然感覚とは別のもので、
人間の能力を超えた関りが求められるようになった
農業開始の頃に起源を求めていることだけ触れておきます。

道徳・正義・人権 | 対人関係学のページ (biglobe.ne.jp)

また、ブルームのいう情動的共感が妥当する人間関係もあるという
ことを主張しておきます。
これが家族です。
ただ、この場合、純粋な情動的共感を抽出する作業が必要で、
そのためには、相手に対する寛容が前提なのかもしれません。

親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)

誰かのために活動をする人、誰かを支援する人
それを職業やボランティアとしている人は
ブルームの反共感論を特に読むべきです。

自分のしている善で、善良な誰かを不当に苦しめているかもしれない
そういう視点は大切です。

もう一つブルームが言っていたことを付け加えます。
情動的共感によって、他者を支援する場合の弊害として
自分も同じように苦しんでしまうことによって
メンタルを消耗してしまう危険があるということでした。

真面目な人ほど、認知的共感を使う
ということを意識して追及するべきだと思いました。

他者への共感力(情動的)の低い人こそ、
他者を支援すべき人なのかもしれません。
それは現代に生きる人間としては
とても重要な資質かもしれません。

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アルコール依存症と向き合うためのメモ [進化心理学、生理学、対人関係学]


9%缶酎ハイの売り場面積の増大など心配があったわけですが、周囲でアルコール依存症の問題が明るみに出てきました。具体的に知りえた例においては、コロナとの関連は不明です。コロナの問題以前からの蓄積の結果という事例が多いです。私の周囲の感触からすると、現状のアルコール依存症はまだ特殊事例が多いのですが、今後は、特殊事例とは言えないほど事例が多くなるような予感があります。
今のうちに、しっかりアルコール依存症と向かい合う必要がありそうです。

今日はとりとめもないメモになります。

<アルコール取得過程>

世の中の経済の基本は物々交換だそうで、
お互いの所有物が必ずしもお互いが必要なものではないと交換が成立しないため、とりあえず万能の価値のあるお金が生まれたそうです。

そうすると、アルコールを買うことは、実際は他の物を買うことをあきらめる結果となるわけです。あるいは貯蓄を放棄するということですね。
ここはちょっと押さえておきましょう。
それでもアルコールを買わずにはいられないわけです。

お金も失いますが、アルコールを飲んで、アルコールの影響下にある時間が生まれるということですから、他にやることができなくなる、あるいは不完全にしかできなくなるということです。
結果としてアルコールにお金と時間を使ってしまっているということになります。
アルコールが無いと不安だから、買わずにはいられないとなると依存症の入り口をくぐっているのかもしれません。

一昔前に、アルコール依存症の人たちが飲む典型的な酒は、
ペットボトルのウイスキー、ペットボトルの工業焼酎
紙パックの日本酒、ストロー付き
等が定番でした。

酒を飲む目的が酔うという一点に集中していますから、安くて大量に飲めればよいのですから、ある意味合理的です。
現代では9%缶酎ハイです。冷やして飲めば、単位時間の摂取量も増やすことができますので、酔うまでの時間をさらに短縮できます。

こういう酒の飲み方は、酒を口に入れたらできるだけすぐにのどの奥に流し込むという飲み方です。そもそも味わうことができにくい飲み方だと言えるでしょう。一つにはアルコール刺激を最小限にする飲み方です。これが危険な飲み方だと思います。アルコール依存症とのん兵衛のぎりぎりのメルクマールもここにあり、そんな一時に飲んだらもったいないだろうというのがのん兵衛です。

だから、アルコール依存症気味だと思う場合は、できるだけおいしいと思える酒を飲むべきです。少々高額でも、その方が安全です。また、冷やしすぎないで飲むことも考慮していただきたいと思います。意地汚く飲むということも有効ですね。私はバーに行くと、珍しいウイスキーをストレートで頼みます。先ず、くんかくんか匂いをかいで楽しみます。そしてちびりちびり時間をかけて楽しみ、口の中いっぱいで酒を感じます。そうしてひとしきり堪能しきったら水を飲んで、リセットして新たな気持ちで楽しみ、これを繰り返します。残念ながらグラスに液体がなくなったら、やはりクンカクンカ匂いを嗅いで楽しむわけです。
私は、酒にこだわる人は依存症になりにくいと思っていました。しかし、高い酒を飲んでも、金払いの良い人はアルコール依存症になる危険性が高くなるような例を見たので、今回考えてみようという気になりました。


<アルコール運搬過程>

外で、居酒屋などで酒を飲む場合は、運搬過程はありませんね。
問題は、コンビニやスーパーで酒を買う場合です。家に帰る前に飲んでしまうというのはアルコール依存症の高度な段階です。これまでにあった事例では、コンビニで紙パックの日本酒を大量に買って、物陰で隠れて飲み、容器をどこかに捨ててきたくするという事案がありました。家族に隠れて酒を飲みたい人ということですから、家族からは酒を飲むことを禁止されているとか、監視の目が厳しいという事情がある場合です。当然近所の人から通報があって、家族の知るところになったわけです。運搬過程が無い人もいると。

<アルコールの摂取・ソフト依存症>

典型的な依存症ではないソフトタイプの依存症というものがあり、おそらく典型タイプに移行しやすい予備群を構成していると思います。
ソフトタイプの依存症とは、イベントに酒を利用する傾向が強い人たちです。例えばお祝い事があると酒を飲んでお祝いするとか、悲しいことがあると酒を飲んで気を紛らわそうとするとか、怒りがあると酒を飲んでやろうという気持ちになるとかそういう人たちです。自分で書いて気が付くのですが、私もそうですね。
うれしければ喜べばよいし、悲しければ悲しめばよいのですが、アルコールの補助を、いつの間にか必要とするようになったのかもしれません。
いや、結婚式とか正月、クリスマスくらいならそれでも良いと思いますが、その補助を要する機会が増えていったり、仕事が疲れたからということで、あるいは、夕飯を食べるためにどうしてもというような場合は文字通りアルコールに依存する傾向が生まれているというべきでしょう。

どうやら感情の解放とは、イライラとかもやもやとか、言葉にならないような心理状態、感情を酒の力で解放するということのようです。
常識人であればあるほど、つまり、周囲との調和に敏感な人であればあるほど、自分の感情を解放するということに抵抗感が生まれるようです。そうして「自分の心を抑圧している」という意識を解放したいということのようです。
どうやら、脳の中に感情を高ぶらせる部分と、感情を制御する部分とが別々に存在し、制御する部分は前頭葉と呼ばれる部分で目の奥のあたりにある脳の部分らしいのです。怖いから怖がる、悲しいから悲しむ、嬉しいから喜ぶというように、感情をそのまま出す方が楽なようです。ところが、それを楽のまま行うと他者との関係で気まずくなることが多くなるわけです。幼児までは感情を解放して楽に生きているわけですが、大人として生きるためには感情を制御する必要があります。さらに、その人その人が置かれている環境でこの事情は増幅するわけです。
部下がいる人であればそれなりに権威を持たなければならないとか、お客さん相手の仕事だとにこにこしていなければならないとか、上司が理不尽なことをするからと言って怒りに任せて行動したのでは解雇されてしまうとか、いろいろと感情を解放できない事情があるようです。
どうやらアルコールの作用として、その前頭葉の制御作用を鈍らせることによって感情を解放することができるのではないかと思うのです。他者との協調性のための制御を抑制することによって、少し羽目を外して喜んだり、悲しんだり、怒ったり、あるいは不安をさらけ出したりできるようになるのだと思います。
現代人の置かれている感情抑制が必要な社会環境は、感情自体がスムーズに表現できなくなる危険があることにもなるでしょう。
そんな中で、アルコールの力を借りて、喜怒哀楽という一時的な感情を表出するのだろうと思います。
逆に言えば、アルコールの力を借りないと、感情を表出できない状態に追い込まれているのかもしれません。

ソフト依存症の人でも、唇からのどに直接入れるタイプの酒の飲み方をするようになったら大変危険な状態だと言えるでしょう。のどが乾いたら水を飲むべきです。のど越しで味わうという飲み方は、依存症になる危険が高いというべきです。

<アルコール摂取過程 ハード依存症>

ハード依存症の人も、アルコールを飲んでいない状態の時間があるようです。しかし、徐々にアルコールを飲んでいない時間は短くなるようです。飲む酒が切れたらとどうしようと不安になるので、必要以上のアルコールが自宅にはあるようです。そして、飲むことを止められない心理状態になるようです。自己抑制が効かないという言い方をします。のん兵衛やソフト依存症の人のように、ビールの栓を抜く爽快感というものはあまりないのではないでしょうか。高度な依存症になると、コップに注ぐ時間も惜しくなるのかもしれません。
前頭葉の動きを止めたいというより、前頭葉をとってしまいたいような勢いで飲んでいるのでしょう。さらに視床下部まで麻痺させようとしているような気がします。恐怖や不安を感じるという人間らしい感覚を持ちたくないようです。アルコールは飲み方によってかえって覚醒してしまいますから(自分比較)、恐怖や不安は、悲観的な傾向と合わさり倍増していくのではないでしょうか。忘れてしまいたいから飲んで忘れるということは感覚的にあっているのだと思います。こうなるとのどの刺激を伴う薬ですね。
肝心なことはちょうどよいほどに忘れたり、感じなくなったりするのではないということです。例えば防犯もしなくなったり、火の始末を忘れたりという大変危険な状態になりますが、酔っ払っていますからあまり気になりません。酔いつぶれたいのか、眠りたいだけなのか、意識がなくなることを目指して飲んでいるようにさえ思われます。外で飲んでいたら、泥棒や詐欺師の餌食になるわけです。
私はブドウ品種がわからなくなったらワインを外で飲むことはやめます。お金がもったいないからです。金持ちの依存症は、もはや味覚がなくなっていますから、二束三文の酒を高い値段で吹っ掛けられても文句を言えないわけです。ここで私たちも学ぶべきことは、苦しみや辛さは、それを感じることによって行動の修正を促している大切な人間の機能だということです。苦しいこと、辛いことはやめてしまえということですね。苦しみや辛さを感じないと、どこまでも危険な行動をやめることができず、取り返しのつかないダメージを受けてしまうわけです。酒を飲んで、嫌なこと辛いことを忘れてしまうと、必要な注意もできなくなり、破滅的な行動をしてしまうことにつながる危険が高くなります。

生きるということは、このようにつらいこと危険なことから身をそらし、楽しいことを追求することかもしれません。危険なこと、辛いことを無かったことを感じなくなってしまったら、それを回避することができません。そして恐ろしいことに楽しいことを感じることができなくなるのです。
ハードなアルコール依存が起きてしまうと、このように生きることを少しずつ放棄していくことになります。感覚的に、自分が生きることの価値を見出しがたくなるわけです。自殺の潜在能力が高まるという言い方をします(ジョイナー)。

いったいどんな辛いことを忘れたいのでしょうか。
最初に依存症の人の事件をした時は、職場の人間関係でした。本当はそこに原因があるのです。職場での不遇な扱いを忘れようとして飲んでいたのですが、本人も医療機関もそこにはあまり関心が無かったようです。
案外簡単に依存症になったのは、養子に入った男性でした。隠れて飲んでいるうちに危険な飲み方になってアルコール量が増えていきました。
夫から虐待の過去という壮絶な女性もいらっしゃいました。言葉に出すこともはばかられるような壮絶な虐待を受けた方です。精神科の治療を長年にわたり受けていたのですが、医療機関とのコミュニケーションがうまくいっておらず、本当の苦しみを医師に伝えることができませんでした。亡くなってから後追いに調査をしたところ、そのような事実がわかりました。結婚前は明るい性格で、たくさんの友達にいつも囲まれていたような方だったそうです。ご自分の身内との関係もうまく形成できなくなり、孤独を感じながら亡くなられました。最後は酒以外口にできなくなっていました。死に向かって生きていたような形かもしれません。
アルコール依存症といえば「星の王子様」です。アルコールの星で、酔っ払いの住人が酒を飲んでいました。王子がなぜ酒を飲むのかと尋ねたところ、忘れたいからだと答えました。王子な何を忘れたいのかと尋ねたと頃、酒を飲んでいる自分だと答えたのですが、それは真理だと思います。意識のある時に酒を飲むわけですから、苦しい思いをして飲んでいる自分を自覚することが残念ながらできているのです。ご自分ですらなんで飲むか分からないけれど、飲んでいる自分は自覚しているのですから、私は悲劇だと思います。

<アルコール摂取に付随する過程への依存>

アルコール依存症の診断を受けた人の中には、実際はハードな依存症とは別のタイプの依存症があるように感じていました。バーでなければ酒を飲まない人たちです。ハード依存症は、酒場に限らず、自宅で飲みますし、自宅から出られなくなります。隠れて飲んでいるときは路上でも公演でも飲みます。最近の缶の酒は、路上で飲むことの抵抗感を減らすようです。
バーでしか飲まないタイプの依存症は、おそらくアルコールだけに依存しているのではないのではないかと思えてならないのです。接待を伴う飲食店は、当然嘘に満ちた世界です。金を落とすから接待してくれるのですし、客側もそれでよいから行くわけです。このちやほやされる状態に依存しているタイプが一定限度いるようです。必ずしも異性の接待に性的な期待があるというわけではなさそうなのです。性的な接待よりも、優位な人間関係、尊重される体験、尊重されている言動を求めているような感じです。お金を払っている限りで尊重されているということでもよいから、厳しい扱いをされない、ぞんざいな扱いをされないというところに、たまらない魅力を感じてしまう人がいるようです。まさに依存症です。バーの扉をくぐることをやめることが難しい状態になっています。実生活で、人間的な関係が形成できないという人が多いように感じます。
だから、ちやほやする人に簡単に騙されていくようです。騙されていても良いから、金をむしり取られても良いからその関係の中にいたい、ちやほやされていたいというように感じます。
無銭飲食詐欺に多いタイプの依存症です。この場合は損をしないからよいのですが(店は大損です)、お金持ちで孤独な人が破滅するときにもこのタイプが多いのではないでしょうか。こういう人たち(金持ち)もアルコール依存症になり、内臓を壊します。おそらく、詐欺師たちはもう少し酔わせればもっとお金を搾り取られると思うから酒を飲ませるのでしょう。依存症の方は、だまされているという不安をお酒を飲んで紛らわせようとするから悪循環になるのでしょう。
本当の友人たちは、このような飲み方を批判してやめさせようとするのですが、だんだん耳が痛い話から遠ざかってしまい、孤立するためにどんどん無防備になっていくようです。

<メモの終わり>

アルコール依存症はすべてを失う病気とされています。酒を飲んで仕事ができなくなり、再就職もできない。そのころになると家族からも見捨てられ、孤立していきます。働けませんので、収入もなくなっていきます。肝機能が悪くなり、糖尿病も悪化すれば腎機能も低下するでしょう。糖尿病の合併症で自由な行動ができなくなるかもしれません。健康も失われてしまいます。生きる目標も失われるかもしれません。
私はそのような男性の破産申し立ての代理人になったことがあります。依存症から脱却するために、かなりの努力をしていました。彼は、すべてを失いましたが、ポケットにお子さんの写真を大切にしまっていました。そんな状態でも子どものことはあきらめきれない。人間ってそういうものだということを学ばせていただきました。再び家族を取り戻すことはできなくても、子どものために仕送りができるようになりたいという新しい夢を彼は持つことによって、再出発に向かうことができたようです。アルコール依存症の話になると、きまって彼のことを思い出すのです。遠くから子どもを見に行こうという計画があったようですが、どうなったか事後報告を聴けないまま事件が終わってしまいました。
今回、新たにアルコール依存症と診断された知人ができてしまいました。彼に向き合おうと思っています。その前に頭を整理しておこうと、とりとめのない話を書き連ねてしまいました。

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仙台市講師のいじめアンケート書換えは氷山の1角であるという意味。個人攻撃よりも取り上げるべきこと 日本の国家政策の一貫姿勢 [弁護士会 民主主義 人権]



仙台市の小学校で、子どもたちが記入するアンケート調査を
講師が書き換えていたということが全国ニュースになっています。

後追い記事は、この講師の教師がいかに乱暴な人間であったかということにとどまっています。
それがダメだとは言いませんが、もっと他に取り上げることがあるだろうと思います。

この講師は勝手に他人の書いたものを直接書き換えていた点が悪どいところですが
アンケートを操作するということは学校現場において悪びれもなく行われているようです。

アンケートは記名式で行われます。
アンケートを書いた児童を呼び出して、話を聞き、
「それはいじめではないよ」と説得して
本人に書き換えさせることは、学校や地域によっては常態化しているようです。

また、アンケート調査開始にあたって
いじめにあたる例と当たらない例を説明してからアンケート記入をさせる例もあるようです。

友達との喧嘩の場合はいじめではないよ
話をしていて、自分の意見が通らないこともいじめではないよ
うっかりあなたが来ないうちに出発しているだけならいじめじゃないよ。
言い合いになっても、すぐ仲直りをしたらいじめではないよ
とかです。
おそらくこれを読まれた方は、そりゃそうだろう、そんなものはいじめではないはずだから
問題ではない
と思われるでしょう。

しかし、いじめ防止対策推進法のいじめの定義は
児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
ということになっています。

つまり、例えば同級生の行為であれば、本人が心身の苦痛を感じていれば
全ていじめになってしまうわけです。

だから、この定義を限定する事前のレクチャーは
全てアンケート内容の改竄と同じことになってしまいます。

この定義が問題であり、いじめ防止にどこまで役に立つか、
それ以上の弊害は無いのかという考えは健全ですし、
私もそう思います。
おそらく、学校現場でもそう思っていることでしょう。
また、いじめに該当すると、
学校はいじめ行為をした生徒を処分しなければなりません。
ますます、いじめの定義を限定したくなるのはよくわかります。

しかし、法律が定義をしている以上、
これと違う定義を表立って作り直すことはできません。
このため、各地で、あるいは各学校で、
独自の定義を作って、いじめ防止をしているのです。
いじめアンケートなんてこんなものです。

だからいじめアンケート改ざん問題が出たならば
こんな使えない定義をいつまで温存するのだということを
マスコミを含めて考えなければならないのではないでしょうか。

この改ざんをした講師という身分にも着目するべきです。
身分が安定していない非正規労働者の性質を持っているわけです。
そんな不安定な立場の人に教師をやらせていること
なぜ正規の先生を使わないのかということにも
目を向けるべきではないでしょうか。

それはともかく、
自分がいじめられたと思ったらいじめ
あとは処罰というのは、
実は日本の弱者保護の基本政策として一貫しています。

配偶者保護法も
一定の行政機関に相談したら、即「被害者」という実務です。
そして本当は加害を与えているかどうかわからない夫婦のもう1人が
「加害者」という名称で扱われるのです。
そして家族を断裂させていくしか政策がありません。

児童虐待も、全てではありませんが、
通報によって、児童を隔離して一定期間義務教育も受けさず
親に会わせず、高校を卒業したら勝手に生きていきなさい
ということが実態です。
子どもが親と家族を再生したいと強く訴えない限り
子どもが望んでいないからと言って会わせないのです。
子どもは自己責任を負わせられています。

そういう政策が、どの政党からも問題視されていません。
実態調査が必要だという声もないのが実情でしょう。

単純な正義感による怒りに国民を誘導するマスコミも
結果として一役買っているわけです。

マスコミはいじめがあったかどうかということにだけこだわるわけですが、
法律の定義のように漠然としたいじめに該当すると一度言えば
加害者探しと加害者糾弾という心地の良い正義感の発露に
貢献しようと煽り続けるわけです。
いじめの定義が漠然として広範囲だと知っていながら、
それを知らない国民に対して
いかにも、複数の生徒で1人の生徒を
執拗に繰り返し嫌がらせをした
という誤解を助長させて行きます。
いじめという言葉の感覚を利用しているわけです。

DVという言葉、虐待と言う言葉も
国民は勘違いを利用されています。
そして、正義感を行使する手段として
加害者を糾弾する。
これが基本パターンです。

これでは防止なんてできるわけがありません。

また、たびたび間違いを犯すのが人間ですから
間違いを学習して人間関係を再生することこそ
行われるべきことだと思うのですが、
そのような政策は一つもありません。

マスコミにも全くそのような視点はありません。
特にいじめは学校現場の問題ですが、
いじめの後の教育という視点がおよそありません。

要するに、国の政策は
何かことが起こり不幸になることを予防するということはしないで、
何かことを起こした者に不利益を課すだけの政策なのではないでしょうか。

その代わり、被害者に対して加害した者に
もれなく不利益を与えることが優先で、
そのためなら被害を与えていない者に不利益を与えても
まあ仕方がないかなという制度設計だと言わざるを得ません。
国民にあみをかける政策なのです。

あなたは、その網に
今のところ、かかっていないだけかもしれません。

ただ、どんな網が用意されているかについては
予め知っておくことが必要だと思います



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被害者の心理 3 被害者の心理が起きるのは生きる仕組みであることとなぜ過剰な反応が生まれるか(心と環境のミスマッチ)、「被害」はいつまでも継続しているということ [進化心理学、生理学、対人関係学]

前回と前々回に述べた被害者の心理をまとめると以下の通りになると思います。

・被害を受けると人間は感じ方や行動パターンが変化する。
・些細な刺激で自分が攻撃されていると感じてしまう
・このため一つ一つのことを聞き流すことができず逐一反論してしまう
・理不尽な攻撃に対する反撃ということから、感情の抑制が難しくなる
・完璧に反論しようとして、仲間に対する要求度も高くなり
・要求度に達しない仲間に対しても攻撃的になる
・仲間や相手の心理状態については合理的な考察ができなくなる
・自分が受けている攻撃が客観的な評価以上に大きく強い攻撃だと感じる。
・このためにさらに強い疎外感を感じる。

以上です。これらの反応は本能的に起きるもので、生きる仕組みです。私たちの祖先はこの生きる仕組みで、子孫を遺すことができたわけです。

例えば今から200万年前、サルから人間に代わろうとする時期の危険の代表は、野獣に襲われるときだったでしょう。野獣の存在を知ることで、人間は危険が迫っていることを理解し、危険から逃れようとします。ばかばかしいかもしれませんがここが大事です。危険に逃れるために、脳から指令が出され、筋肉を素早く動かすことができるようにホルモンが分泌されたり、心臓が活発に動いて筋肉に血液をより多く流そうとする生理的な反応が起きることはよく知られています。
同時に、脳の機能も変化を起こします。

先ず、逃げることに集中すること。つまり逃げる以外のことを考えられなくするということです。余計なことを考えるというのは気が散るということですから、全力で逃げることができなくなります。これは逃げるためには邪魔になります。逃げることだけを考える、つまり、自分に危険が迫っていて逃げなければ自分の命が終わる、逃げることによって生き延びようということですね。集中できないサルは野獣に食べられて子孫を遺せずに滅びてしまったことでしょう。
逃げることに集中するため、考えることは二者択一的になります。危険から逃げ延びたか、まだ危険が続いているか。逃げるためにはこれだけで十分です。リアルな回避可能性がなんパーセントあるかなどを正確に考えている暇などないわけです。

次に、二者択一的になったら、できるだけ悲観的な判断をすることが、逃げ延びる確率が高くなります。仲間の元に逃げ込むとか、本当に安全だと確信できるまで、まだ野獣が自分を負っているのではないかと感じる方がより確実に逃げられるわけです。逆に楽観的に考えすぎて、簡単に逃げるのをやめてしまったら、身を潜めて追っている野獣に簡単に捕食されてしまうようになったことでしょう。
些細な事情で、例えば風が吹いて葉ずれの音がしただけで、まだ肉食獣が近くにいるのではないかと過剰に敏感になった方が、逃げ続けることができるわけです。また、自分を襲っている野獣は、もしかしたらものすごい力を持っているから、確実に逃げなければ殺されてしまうと思えば、より確実に逃げ切ろうとするので、役に立つ思考パターンです。

ちなみに、このような二者択一的思考、悲観的思考となっていますから、加害者である野獣が何を考えているか等という複雑なことは考えられなくなっています。あくまでもこちらを食べようとしているのだろうと考えればそれで十分だからです。敵や第三者が人間の場合は、人間の心は複雑ですから、それを知ろうとすることは、かなりの能力が必要になるようです。危険を感じているときは、そのような能力を発揮することは不可能だということになるでしょう。
仲間に対しても、自分を安全にしてほしいという絶対的な援助を望むということも無理のないことですし、仲間はその当時、その要求に応えるべく全力を挙げて野獣と戦ったことでしょう(袋叩き反撃仮説)。

今危険があり、逃げなければならないとするならば、被害者の心理は逃げるために必要な気持ちの変化だということがお分かりになると思います。

但しその危険が身体生命の危険ということであれば、この心理変化はとても有利に働くということです。
しかし、現代社会では、被害者の心理は、被害者をますます孤立させ、被害者自身で自分を追い込む結果となるという副作用が大きく、むしろデメリットが大きくなっているということです。

これが現代社会と人間の本能のミスマッチが起きているという言い方で説明されるべき事柄です。

例えば200万年前なら、体を動かすために高カロリーの当分は貴重でした。しかし、糖分を得ることがなかなか難しい希少な栄養素だったので、糖分があれば確実にそれを摂取しようという仕組みが生まれました。糖の甘さを好むようにして、おいしいから食べたくするという仕組みです。ところが、現代社会では、糖が工場で大量生産されるものですから、簡単に入手して摂取することができます。そのため、糖を摂取しようという生きるための仕組みが糖尿病などの成人病を引き起こすというデメリットを生んでいるのです(「人体」ダニエル・リーバーマン ハヤカワ文庫)。

どのような時代変化が起こり、被害者の心理反応にデメリットが多くなってしまったのでしょうか。

被害者の心理変化のデメリットが大きくなったというミスマッチの原因として、どうやら一番大きいのは、人間にとっての危険が、野獣に襲われるなどの身体生命の危険から、対人関係上の危険、つまり自分が仲間の中で尊重されて調和的に生活できなくなるという危険に、起こりうる危険の頻度が変わってきたという事情があるようです。
農耕が始まる前ですから今から1万年前か、どんなに頑張っても2万年は前ではないつい最近のことです。人間は、それまで50人から150人くらいの同じ仲間と一生を過ごしていただろうと言われていました。そのくらいの仲間の場合は、自分と他人の区別がつかず、自分が生き延びようとするのとほぼ同じ感情で、あるいはそれより強く、仲間を助けようとしていたと思います。対人関係上の危険を感じる度合いは現代から比べるとほとんどなかったと思います。だから身体生命の危険の反応を本能的に起こしても、デメリットはあまりなかったはずです。

それから1万年くらいしかたっていないのが現代です。脳の構造が深化するにはあまりに時間が足りないので、心の反応はその時のままなのでしょう。ところが、現代社会は、朝起きてから会社に行くまででも150人以上の人たちと出会います。会社や自宅マンションだけでも150人以上の人がいるでしょう。とてもすべてを個体識別できる人はいないでしょう。また、会社でいい顔をすれば家族に無理を通さなくてはならなくなる等、複数の仲間がいて、それぞれが利害が反する関係にあることも多くあります。家庭、学校、職場、趣味のサークル、地域、その他緩いつながりの社会、国家等という複数の群れに同時に帰属しているということは、農耕が始まる前には想定されていない事態なのです。

だから、例えば、足を怪我したとしても、1万年以上前なら傷が癒えれば傷によるダメージは無くなっていたでしょう。自分の知り合いの全員が傷ついたことを気遣い、できなくなってしまったことを代わりにやってくれたと思います。体は傷ついたけれど、仲間のありがたさに癒されたというわけです。

ところが、現代では足を怪我した場合も、相手がわざと自分を怪我をさせたのではないか、自分に恨みなどがあるのではないかと考えるわけです。また、相手ではない他人に対しても、自分が足が痛いのにどうしてもっと助けてくれないのかというように考えることが起こり始めてきたのではないでしょうか。あまり人間の付き合いの幅が広いものですから、家族であっても、それほど親身に何もかも手伝ってあげるということをしなくなったのかもしれません。相手への気遣いが、1万年前と比較しても雑になっているのかもしれません。いざとなれば、夫婦でも親子でも家族を解消できるということもなにがしか影響をしているのかもしれません。また被害者からしてみても家族だからこそ要求度が高くなり、攻撃をしてしまうという傾向がうまれたのでしょう。いっそのことお金を落としてなくしてしまうならば、あきらめがついて再出発ができるのかもしれません。同じ金額でも、信じていた人に騙されたということになれば、対人関係的危険を感じ続けて苦しみ、被害者の心理が止まらないのかもしれません。
また、いろいろな不利益の中で、学校、職場、家族など、別離、悪く言えば追放の目にあった場合は、対人関係的危険がなかなか解消されないという事情もあるかもしれません。

このように、人間の能力を超えた人数の人間、多数の群れに同時に帰属しているということから、人間同士の仲間意識が薄弱となり、自分以外の他人が、絶対的な仲間と感じられなくなるでしょう。このため、その仲間から攻撃される危険を強く感じなければならない事情が生まれたようです。
無条件に人を信じることができなくなってしまい、そして極めて残念なことに、その警戒感は、多くの場合現代人が自分を守るために必要であるようです。
私から言わせれば、人間はもともと他者を攻撃するという性質があるわけではなく、人間はもともと自分の仲間以外と対立する可能性を秘めているということだと思います。そして現代社会は、仲間であって仲間でない人間ばかりが、人間の周囲にいるということ、これが現代的ストレスなのだと思います。

さて、そのような背景はあるとしても、私のお話しした生理的変化(交感神経の活性化など)及び、思考上の変化(二者択一的傾向、悲観的傾向、複雑な思考力が低下する)は、危険が現実に存在して、危険から回避する場面では有効です。しかし、危険が現実化した後ではあまり意味がありません。身体生命の危険の場合で考えると、例えばけがをしたけれど野獣が仲間に追い払われるなどして危険が去った後でいくら筋肉に血液が流れても、もはや走って逃げるということはありません。襲われた直後は、動悸もするでしょうし血圧も上がっているでしょうが、しばらくすると落ち着くわけです。
ところが、対人関係上の被害の場合は、例えば裏切りがあって何年たっても、そのことを思い出すと血圧が上がったり、恨みつらみの感情が沸き起きたりします。一方の親に子どもを連れ去られてた他方の親は、何年経っても葛藤が去ることはないでしょう。性的暴行を受けた人も、警戒感や不信感そして恐怖感が何年も続くことがあります。対人関係上の被害は、それが起きたときから少なくても心理的には長期間被害者であり続けるわけです。つまり、被害は過去のものにならない、現在でも継続しているということです。
人間は、その性質上、人間の中で生活する必要があります。しかし、一度人間の中に信頼することができない、自分に加害行為をする人間が現れると、およそ人間というものが信頼できないという心理になるということが一つの理由でしょう。特に前触れなく起きた被害、性的暴行や連れ去りなどが典型ですが、そういう被害の場合、どうやって防げばよかったかについて考察することが難しいです。記憶の仕組みからすると、そのような形の被害はなかなか記憶のファイリングに収納しきれないため心理的に昇華することができず、いつまでも現在する危険として忘れられない存在になるようです。悪夢につながりやすくなるようです。

また、対人関係的には、危険が続いているということなのかもしれません。

例えば性的暴行を受けた人は、自分が性的暴行を受けたという事実を抱えてしまって、それが自分の身近な人間に知られてしまったら自分が身近な人間たちから否定的な存在と思われるのではないか、あるいは、過度に気を使われる必要のある人間だとして扱われてしまい、これまでの仲間とは扱われず特別扱いされてしまうのではないかという不安があるようです。防衛手段を尽くさないという非難を受けることもあるのではないかと考えてしまうのかもしれません。実際はそのような対応を周囲がしない場合でも、大きな不安があることは間違いないでしょう。

例えば妻に子どもを連れ去られた男性は、家族から追放されたという行為自体は過去のものだとしても、孤立している自分が継続しているわけです。その後の家事手続きにおいて、当たり前の主張がことごとく排斥されて、自分の孤立が裁判所などで追認されてしまうのですから、少なくとも家事手続きが進行しているうちは被害が継続しているというか新たな被害が生じていることになると思います。被害者の心理の負の側面が多く出ることは自然なことなのだと思います。例えば、いったん引いて、別居を認め、自分ができることで家族に貢献して、少しずつ立場を回復していくという手段が早い段階で選択して、実行できればある程度の再生が図られるケースがあるのですが、それは自然と受け入れられる作戦ではないのも当然です。
家事手続きは終わりがあります。一応の区切りはつけられることになります。しかし、理由がわからず連れ去られた挙句、子どもには一切会えない。生活を圧迫する養育費は長年にわたって負担し続けなければならない。そういう状態になれば、被害が過去のものになるはずがありません。毎日新たな被害に苦しめられるわけです。

しかし、被害感情というのは、前回、前々回にお話しした通り、被害者自身を必要以上に傷つけて追い込んでいくものです。より正確な情報分析ができないために方針を誤る危険も高いですし、改善する行動に向かわないでより事態を悪化させる行動を引き起こすこともあります。仲間や第三者を攻撃してしまうこともあり、つい攻撃的な振る舞いや緊張感の高いあるいはテンションの高い言動が多くなり、自分を孤立させる要因になることも多く見られます。せっかくの才能をもった人たちが孤立していく姿を多く見ています。

なかなか自分が被害感情を抱いていて、自分を追い込んだり損をさせたりしているということに、被害者自身が気付くことが難しいということは、これまで述べてきた被害者の心理から承認しなければなりません。
周囲が、実際は「あなたが思うほどは悪い状態ではない。」、「自分で自分を追い込むことをやめて、正確に情勢を分析して、これ以上事態を悪化させることを防止しましょう。」とアドバイスして拡大被害を防止することが必要不可欠ということになるでしょう。
しかし、どうしても支援者は、目の前の被害者に対してできるだけ共感しようとするし、被害者以外の人たちに責任を求めて一緒になって攻撃をしてしまいます。これも、善意や正義感で行われていることなので、自分の行動を制限しようというきっかけがありません。支援感情の駄々洩れが起きているように思われます。それが結果として被害者をさらに苦しめてしまう。被害の回復から遠ざけてしまうという逆効果を生んでしまうという悲劇があるように感じます。

このことについて、さらに考え続けてみたいと思います。



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