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4月20日放送のNHKクローズアップ現代で取り上げた事件における、妻殺害容疑の元編集者の被告人の言い分は、弁護士実務から成り立ちうる主張なのか。 [刑事事件]

令和4年4月20日にクローズアップ現代「妻は夫に”殺された“のか 追跡・講談社元社員”事件と裁判“が放送されました。と言っても私がそれを知ったのは、放送後でしたので、NHKプラスで観ました。これは登録すると簡単に視聴できますので受信料を支払っている方は登録をお勧めいたします。

それはさておき
番組で紹介された概要を記載しておきます。
ある日、妻が包丁をもって2階の乳児が寝ているところに夫と口論をしたのち、子どもを殺すと言って入っていった。夫はそれをさせまいと妻を背後から倒し、妻を制圧した。というところは争いのない事実のようです。ここから事実に争いがあります。

<夫の主張>
すきを見て子どもを抱いて、別の子どもが寝ている子供部屋に避難した。数十分して様子をうかがうために部屋を出たところ、階段の下で妻が首をつっていた。急いで妻を下ろして救急要請をしたが死亡していた。

<検察、裁判所の主張>
夫は、妻を背後から拘束をして、背後から前腕を妻の首に押し当てて妻を窒息死させた。その後、妻を階段の下まで引きずり下ろし自殺に見せかけて110番通報をした。

裁判員裁判は、「常識的に見て」夫が妻を殺害したことは、合理的疑いをさしはさむ余地がないほど明白であるとして、妻の死は夫の殺害によるものだということで、殺人罪を適用し、懲役11年の判決を下した。

こんな事件だったそうです。
私は、その場にいたわけでもありませんし、証拠を十分検討してもいませんから、実際に夫が犯人で妻が殺害されたのか、妻が自死したのかはわかりません。ただ、自分が他の弁護士よりもよく取り扱う分野(離婚、自死、精神問題)が事件の結論を左右する問題であることから、「夫側の言い分が、『常識的に見て』成り立たないのか」どうかという一般論を語らなくてはならない立場にあるという自覚がありまして、その限度でお話をいたします。

説明事項
1 妻が突然、包丁を持ち出して子どもを殺すと夫を脅かすということがあるか。
2 階段の手すりにひもをかけて、足が立つところで自死をすることがありうるか
3 どうして夫は警察が来るまで証拠保全をしなかったか
4 どうして夫は、警察に階段から転げ落ちて死んだことにしてくれと言ったのか。
5 どうして裁判員裁判では有罪になり量刑が重くなるのか
6 産後うつとは何か 母子心中等の危険行為の由来
7 子どもに障害がある場合の母親の心理
8 鑑定人(理系科学者)が針小棒大な「科学的」意見を表明する理由
9 産後うつと夫の責任 
10 自殺、他殺の動機を検討しなかった理由と裁判員裁判

1 妻が突然、包丁を持ち出して子どもを殺すと夫を脅かすということがあるか。
 あります。
 
 これは実務的には少なくないといってよいでしょう。のちに述べる産後うつの症状として、母子心中、新生児虐待も挙げられています。産後うつの他、実務で現れた事例として、統合失調疑いのケース、PTSDのケース、解離のケースなども妻が包丁などを持ち出した事例があります。でも、病気というカチッとした状態というよりも、突発的な精神的興奮が生じる場合があるという方が、医療の素人としてはしっくりきます。

 家庭内で凶器を手にするのは、圧倒的に妻の方が多いです。やはり体力差を自覚しているからではないでしょうか。夫が妻の包丁を取り上げて、「あなたが死ぬことはない。私が死ぬ。」と自分に包丁を向けたじれいがありますが、離婚調停で妻は、この夫の行為をDVだと主張して離婚原因に挙げていました。

 母親による夫への、子どもへの加害の予告ということは、もっと広範にあると感じています。つまり、必ずしも精神的に不調があるとまで言えない場合でも、このような発言があったという相談が結構あります。もちろん実行することはまれだと思いますが、聞いた夫は驚愕してしまいます。

例としては、子どもが泣き止まないために自分が追い詰められたことを夫に訴えるときに「子どもを床に叩き落として泣き止ませようとした」とか、「一緒にマンションから飛び降りようかと思った」などという脅かしは少なからず聞くことであって、珍しいというわけでもありません。もちろん母親の人格からの発言ではなく、多くは産後うつないしその傾向等に原因を求めるべき発言です。ただ、母親が孤立してしまっている場合には、事件に発展する可能性もあるので要注意です。いたわりと休養が特効薬だと思います。

2 階段の手すりにひもをかけて、足が立つところで自死をすることがありうるか

むしろ多くの場合がこう言う形態です。

足が立つところで首を吊るということは、自死の実態を知らない人は不思議に思うことだと思います。苦しくなって、死ぬことをやめようと思うから足が立つなら自死は途中でやめるのではないかと思うことはむしろ自然かもしれません。

しかし、自死は「死にたい」という生易しい動機で行うものではなく、「どうしても自分は死ななければならないんだ」という強固な気持ちで行為に出るようです。苦しくなってきたら死ぬことができると思いさえすれ、足を立てて生きながらえようという発想は無いようです。息ができない苦しい以上の苦しさを常時感じているということなのでしょう。死の意識が強い場合はむしろ足が立つ場所で首を吊ることが多いようにさえ感じています。クロゼット、ドアノブ、坂道の途中のわずかな傾斜を利用して体重をかけたという事例もありました。

3 どうして夫は警察が来るまで証拠保全をしなかったか

 家族の情愛からは当然であり、自然な行動だと思います。

もし夫が首をつっている妻をそのままにして警察に来てもらったならば、殺人の疑いはかからなかったかもしれません。自殺を装った殺人事件ならば、きっとそうするでしょう。
 しかし、夫が子供部屋に逃げ込んでから1時間も経過していなかったとすると、まだ、妻が死んでいるという確信がないというか、生きていてほしい、息を吹き返してほしいという気持ちがどうしても出てきますから、首が吊られた有害な状態から解放してあげたいということは家族として当然だと思います。たとえ死亡が確認できてもそうするでしょう。
 
4 どうして夫は、警察に階段から転げ落ちて死んだことにしてくれと言ったのか。

 それは母親が自死したと知らせないという子どもたちに対する配慮なのでしょう。

 番組によると、この点が裁判では重視されたようです。ただ、殺人犯が捜査機関、あるいは救急隊に対して死因を偽るように要請することで、自分の真犯人性をごまかすというストーリーは私はイメージが付きません。この論点は私が誤解しているのかもしれないと思うほど、リアリティにかけます。

 死亡原因についてごまかすのは、当然子どもたちの受け止めの問題だと思います。二人にはお子さんは4人いらしたそうです。自死ということは、本当はその人の人格から行われることではなく、自死をせざるを得ないほど追い詰められたために自由意思や思考能力が奪われてしまって起きてしまうことです。そのような実態を世間が理解していれば、この亡くなられた母親は、後に述べる「産後うつで苦しくてたまらない状態になり、他に選択肢がなくなり自死した」ということであり、病気で亡くなった、事故でなくなったということと同一に受け止められるべきことなのです。でも日本では、自死に対するイメージが悪いということもあり、自死をタブー視したり、家族の自死を隠す風潮があります。自死した人の家族関係を詮索するような記事がマスコミでも取り上げられることがありますが、とても残念なことです。

人間の命までもエンターテイメントの対象にしてしまうそういうマスコミの状態も自死に対する差別と偏見に貢献しているのかもしれません。

自死ということであれやこれや詮索されたり、子どもたちがショックを受けることを避けようとして、子どもたちに自死が原因で亡くなったということを告げないことは、多くの事例で行われています。これは全く普通に行われていることです。ただ、警察官にお願いすることが特殊だったのだと思いますが。それだけお子さんに対する心配をしていたということなのかもしれません。

5 どうして裁判員裁判では有罪になり量刑が重くなるのか

裁判員裁判は、有罪率が高くなり、量刑が重くなる裁判形態だから。

裁判員は一般の方で、司法の関係者ではありません。つまり、証拠提出される死体の写真や解剖写真などを生まれて初めて目にする方がほとんどだと思います。当然に衝撃を受けることでしょう。そして、一般の方は犯罪慣れしていませんから、このような事件は放っておけない、きちんと決着をつけなければならないと思うわけです。人間としては当然の心理でしょう。

悲惨な事件については、誰かを制裁することで初めて自分の心の中で決着をつけることができるのでしょう。誰かが制裁されなければ、真犯人を逃してしまうような感覚になるのかもしれません。極端に言えば誰が犯人でもよいから、誰かが制裁されなければならないという「正義感」が発動されてしまうと考えるとわかりやすいと思います。しかし、制裁する相手はその裁判手続きでは被告人しかいませんから、「被告人を見逃すか、正義の立場で制裁するか」という発想になってしまう危険があると思います。

つまり、被害者がいる以上、加害者を処罰しなければならないという意識は、職業裁判官より強いわけです。特に、一人の人間を殺して、その人の楽しみや、子どもなどとの人間関係、将来の夢などを一瞬で奪い去ったのですから、そのことに対する償いはとても大きなものがふさわしいと思うわけです。そして、人が死んだその場にその人がいたということから、その制裁要求の対象が、その人に絞り込まれることも当然の発想なのでしょう。人一人殺したら、本来死刑だという考えは自然の発想なのでしょう。それなのに無罪を主張する被告人は許せないという気持ちになるのだろうと思います。

「それが国民感情であるならば、裁判員が選んだ事実認定や刑罰が正しい判決」だという考えもあるかとも思います。しかし、裁判員という一般の方は被害のインパクトが大きいため、本来判決に当たって考えなければならない事情まで判断が至らないという弱点があるように思われます。

この事案、もし、新生児を殺そうとする妻から新生児を守るために妻を制圧して死亡させたのであれば、罪名は傷害致死になる余地もあったし、新生児に対する正当防衛が成立余地も検討されなければならなかったと思います。仮に殺人罪が成立するとしても、刑の重さについての事情として子どもの命を守ろうとして制圧したという事情は刑を軽くする事情となるはずです。そうだとすると懲役11年はかなり重い刑になると私は思います。亡くなった母親のことを考えて刑を重くして、命が守られた赤ん坊のことは考慮していないような気がしてならないのです。但し、裁判員裁判では、ここまで考えることは難しいと思います。なかなか生身の人間のできることではないかもしれません。司法関係者はかなり特殊な人間たちだということは頭の片隅にとどめておいてよいと思います。

ただ、弁護人としては、今回は刑を軽くするという活動よりも、夫は妻を殺していないという点を主張しなければなりません。「もし夫の行為で妻が死んだとしたら」という仮定を立てて主張することが難しい事案だったことは間違いありません。この仮定的主張をしてしまうと、無罪主張とは矛盾するからどっちなんだと裁判官からも言われたことがあります。(ということからわかるように私ならちょろっと正当防衛や殺意の有無を主張しておくかもしれません。)

裁判員裁判は正義感から量刑が重くなり、有罪が増えると思っています。刑事裁判は正義感を優先させるのではなく、冷徹な事実認定を優先させなければならないと考えています。無駄な正義感が冤罪を生む危険があるということを司法関係者は真正面から見据えるべきではないでしょうか。

私は、裁判員裁判は、さっさとやめるべきだと思っています。

6 産後うつとは何か 母子心中等の危険行為の由来

産後うつは、その現象自体は古今東西でよく知られていることですし、国によって、あるいは地方によってその対策も慣習として確立されていることが多いようです。ただ、その慣習がどうしてできたのか、どういう効果があるのかについては伝承されませんので、住宅事情などによって廃れていっているようです。この点は社会が変わって公的にカバーするべき問題だと思います。

しかし、「産後うつ」という病名を確立したのは、20世紀と21世紀をまたいで研究されたイギリスの王立婦人科学会であるとされているようです。

要するに、妊娠・出産を原因として母親がうつになるということです。
症状としては、ものを考えることが億劫になり、すべてがうまくいかないのではないかと考えるようになり、理由もなく不安な気持ちになり、焦りが生まれる状態となり、近くにいる人間も運命も自然も自分を攻撃してくるような息が詰まるような状態になるようです。理由もなく涙があふれてきて止められないとか、自分は生きている価値がないと思い込んだりするようです。

脳科学の研究から、こういう状態は多かれ少なかれ出産後2年くらい続くということが言われています。ただ、個性があり、産後うつの傾向がはっきり表れる人もいれば、「そんなこともあったかしら」で済んでしまう場合ももちろん多いようです。

「妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因」:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-07-17

それにもかかわらず、不安そうにしている女性や焦燥感に駆られている女性を見ると、むやみに「それはあなたは悪くありません。夫のDVです。」なんていう人たちがいるものですから、ますます悲観的におびえて、やみくもに離婚に走ることがあるわけです。こういう話はさんざんこのブログでやっていますからここでは省略しようと思うのですが、本裁判がまさにこう言うことの象徴的な判断をしている可能性があるわけです。

妻が死んでいるという究極の被害を見て、夫のDVだというのですから、日本という国の機関のお家芸なのかもしれません。

産後うつならば、だれがどういう対応したかということにかかわらず重篤なうつの症状が出現してしまうのです。

産後うつの危険性は、悲観的思考と自己抑制が効かなくなる刹那的な行動にあり、乳児への虐待や母子心中につながりやすいというところにあります。この点について、専門家がきちんと対応することによって、通常は致命的な行動を防ぐことができると思います。ここで、産後うつということを全く考慮しないで夫が原因だなんてことを言って妻を脅迫するようなことをすれば、産後うつの危険性を防止することができなくなってしまうことは少し考えればわかることです。

しかし、日本では、産後うつに対する公的な支援がまだまだ不十分であると思いますし、むやみやたらな夫に対する被害意識の醸成技術の向上ばかりが追及されているような危機意識があります。

それは女性を助けようという意識ではないし、子どもの利益が全く考慮されていないということを再度述べておきます。

7 子どもに障害がある場合の母親の心理

番組では、4人のお子さんのうちおひとりに障害があったようなことも述べられていました。知的障害に限らず、発達障害、身体障害がある場合の母親の苦しみはかなり大きなものがあるようです。原因が母親にあるなんてことはないのですが、自分で自分のせいだと思い込む、夫や家族が自分のせいだと思っているのではないかと思い込む、世間が私をそう思っているのではないかと思い込んでいくようです。

子どもの連れ去り別居が起きる場合の少なくない事例でお子さんに障害があります。父親はまったく気にしていないというケースでも、母親だけは否定的感情になっていることが多いです。

連れ去り別居とは逆に、障害のある子どもを放置して家を出ていった母親というケースも複数ありました。無責任に家を出ていったという評価も可能なのかもしれませんが、それだけ母親として追い詰められてしまっているという、自死と同じような精神状態と理解した方が実務的であるのかもしれません。

何かにすがって生きていきたいという気持ちになることも多くあり、それに付け込まれて不幸になるというケースもあります。かなり精神的に追い込まれてしまい、冷静ではいられなくなっているのだろうなと思われるケースがあります。
それだけ障害を持つ母親は精神的に追い込まれる危険があるということを周囲は理解する必要があると思います。

8 鑑定人(理系科学者)が針小棒大な「科学的」意見を表明する理由

特に刑事裁判をしていると感じることがあります。

裁判員裁判で、被告人は被害者から模造刀切り付けられた瞬間に果物ナイフで被害者を刺したという事案ですが、その刺す直前から1分程度の記憶がなくなった事案でした。後に鑑定証人になる精神科医の話では、被告人に短期記憶障害が起きたのだろうということで、情動が高まったときに短期記憶障害が起きる可能性はあるということでした。裁判の3か月くらい前の、合同打ち合わせ会の時には、この医師は、驚愕、恐怖、怒り等の場合が情動が高まった場合だと説明していました。ところが、裁判当日は、怒り等のために短期記憶障害が起きるという説明を裁判員たちにしたのです。何がどう変わったのかキツネにつままれたような気持でした。反対尋問をしたのですが、ばつの悪そうな表情に私には見えました。

模造刀で襲われて驚愕したというのであれば、刺した行為も正当防衛になる可能性が出てくるのですが、怒りのために短期記憶障害というのであれば初めから殺意をもって攻撃したことになり、被告人に不利になるわけです。これを知っていてあえて、驚愕や恐怖という情動の高まりは言葉にせず、怒りなどの情動の高まりという言い方をしたわけです。情動なんて言葉さえ初めて聞く裁判員からすると、「この被告人は、怒りが高ぶっていて被害者を殺害したのだ」と考えるほかないわけです。意図的に、医学的(生理学的)見解のある部分を隠してある部分だけを述べて、意図的に裁判員のミスリードを誘ったのだと思います。


NHKの番組では、鑑定をした科学者がインタビューに答えて、「死体の様子からどうやって死んだかその原因はわからないことが多い。だから不明だと鑑定したのだ。」と述べていました。科学者として信頼できる発言だと感じました。裁判では弁護側の医師が自死、検察側の医師が殺人とそれぞれ別の鑑定結果を出したそうです。なぜ、彼らはわからないと言えなかったか3人で議論してもらいたいなと思います。

ちなみに先の私の殺人被告事件では、解剖医も証言に立ち、被告人に対する怒りを面に出してご遺体の様子を証言していました。刺し傷は肋骨の間を取って刃物が深く入っているので、とんでもない危険な行為だったと非難するような証言でした。本当はスルーしてよい証人なのですが、余りにも余計な情報を提供するので私聞いてみました。「肋骨の間を通して人を刺すということは簡単にできるのでしょうか。」、医師はますます怒りをあらわにして、「これはとても難しいことで、我々のような専門的に何度も執刀している人間であっても簡単なことではありません。」と言っていました。つまりこの事件では偶然肋骨の間に刺さったと自分で言っているのです。「あなたの怒りはどこから来るのか」ということなんです。

おそらく科学者が感情的になったり、針小棒大の結論を言っても恥じない理由は、正義感なのだと思います。裁判員と同じように、犯罪で命を失くした被害者がいる以上、「加害者は十分に制裁されなければならないという素朴な正義感」がそういう行動をさせていると思います。そして、実はその結論に直結する決定的な事項は専門外のことだから恥だと思わないのでしょう。精神科医は必ずしも病気ではない短期記憶障害や情動について専門ではなかっただろうし、解剖医は刺し傷から人を刺す行為を具体的にイメージすることなんていう業務はないのでしょう。

しかし、科学者として呼ばれて見解を述べているのですから、科学の真実に忠実にならなければ、科学に対する冒とくになると思います。科学的真実よりも政策を優先させるということは古典的な科学のモラルの争点のはずです。

科学者は嘘をつくとまでは言いませんが、針小棒大な証言をするものだと考えてよいと思います。

9 産後うつと夫の責任 

仮に、奥さんが産後うつだとしても、夫がそれを受け止められなかったことは重く受け止めて生きていかなくてはならないと被告人である夫の友人が言っていたかのようなシーンがありました。

それはそうかもしれませんが、番組の時間の制約なのでしょうが、私はあまりにも形式的な話になっていると思いました。

例えば、日本の産後うつに対する手当である床上げという風習も、家に家事の担い手が妻だけでなく姑や小姑あるいはお手伝いさんなんかがいる場合はできますが、マンションで夫婦と子どもだけで暮らしていたら、とても出産直後だからと言って母親は休んでばかりはいられません。
「産後うつと母親による子どもの殺人と脳科学 床上げの意味、本当の効果」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2014-12-11

そもそも産後うつということは、母子心中などでスキャンダラスに取り上げられますが、その原理なり、症状なり、対処方法についてはあまり議論になりません。せいぜいうつ症状に対して対症療法が研究されるだけです。

夫だけでなく、職場や社会、自治体が、産後うつについて十分な情報共有をしていないということが一番の問題なのだと私は思います。昔の日本のように年寄りの言うことを素直に聞く時代ではないので、このような原理論理が共有されなければなりません。

本当に必要な情報は、予算がつかないからでしょうか、一般に広まらないという特徴があるようです。

夫に原因を求めても、妻は救われないのです。生まれたばかりの子どもだけでなく上の子どもたちの世話をしないわけにはいかないのです。産後うつは、社会的に解決するべき問題だと私は思います。生活保障と子育てサポートが必要です。地域ごとに子育て支援施設を充実させて、安心と労りを広めていかなければ解決しない問題です。
精神の問題ですが、精神論では解決しない問題だと思います。予算が必要なのです。

社会の問題を夫の責任にすり替えて夫を攻撃するのは、前にも産後クライシスの問題をこの記事で取り上げましたが、実はNHKのお家芸だと思っています。

「もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-10-12

10 自殺、他殺の動機を検討しなかった理由と裁判員裁判

検察を不利にしない訴訟指揮の可能性がある

自殺であっても他殺であっても、その動機が論点にならなかったことが番組では指摘されています。なるほどこれは不思議なことです。刑事裁判では検察が強引に動機を特定することが多いからです。
番組では、同期の議論をすると裁判が長くなるので、裁判員の負担を軽減するために短時間で終わりにしようと動機を取り上げなかったのだろうと分析していました。

そうだとすると、裁判の目的である「冷徹な事実認定を行って、刑事政策的観点から処遇を決める」ということとは関係のないところで、裁判の方法が変えられてしまったということです。これでは裁判員裁判はやはり早くやめにするべきだということしか出てきません。

私は、動機が取り上げられなかった理由はもっと単純である可能性があると思っています。つまり、検察が夫が妻を殺す動機について全く思いつかなかったからということです。ここでいう「想いつかない」ということは、虚偽事実をでっちあげるということではありません。夫が殺害を認めていませんから自白が取れないということ、家庭内のことであり妻を殺す動機など客観的事情から外部には出てこないということから直接動機を割り出すことができないということです。第三者などから事情を聴いて合理的に推測するしかないのです。そして、結果的として、本件では夫が妻を殺す動機を推測するための事情が出てこなかったということになります。そうだとすると、無理して殺人容疑にする必要はなかったということが、裁判員裁判前の刑事裁判の扱いだったということになるはずです。

もし殺人事件にするなら、検察は「動機不明で殺害した」という主張をしなければなりません。動機を論点にすると、初めから敗訴の主張を自ら行うことになるようなものです。それでは、殺人罪で起訴できないということなのでしょう。問題はだから殺人罪では起訴しないということをするべきだったのに、無理して動機を論点としないで殺人罪として起訴をしてしまったという横車を押したような起訴をしたというべきなのだろうと思います。そして、裁判体はこの起訴が無理であることを隠ぺいする訴訟指揮をしたということになろうかと思われます。


以上みてきたように、弁護側の主張、あるいは番組の主張は荒唐無稽な主張ではなく、実務的に見ればもっともな主張だということです。但し、実際の事件を担当しているわけではないので本件の結論がどうあるべきかということ、夫は無罪だと主張する記事ではないことはくれぐれもお断りしておきます。

番組は最高裁での審理を期待していますが、刑事訴訟法上は、最高裁判所が上告を受け入れなければいけない事情は無いようです。あるとしたら世論が高まって、実質的には職権で判断をして差し戻すということになるのだろうと思います。裁判は、必ずしも正しい認定をして適切な処遇をするシステムにはなっていないのです。このことに国民はもっと目を向けるべきです。

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「迎合の心理」 遺伝子に組み込まれたパワハラ、いじめ、ネットいじめ(特に木村花さんのことについて)、独裁・専制国家を成立させ、戦争遂行に不可欠となる私たちのこころの仕組み  [進化心理学、生理学、対人関係学]

前回の記事で述べたように、人間の体の仕組みは切実な必要があったために進化の過程で獲得したという歴史がありますが、その時の環境に合わせて作られたもので、環境が変化してしまえば、無用の長物になるだけでなく、害になることさえあります。

前回は、身体の仕組みとともに群れを作るためのこころの仕組みを進化の過程で獲得したということを説明しました。しかし、前回言わなかったもう一つの群れを作る「こころのしくみ」というものがあります。これが今回の記事のテーマです。それが
「人間は群れの権威に迎合しようとする意識傾向」がある
ということです。

1 迎合の必要性、有効性(言葉がない太古の時代)

人間は種として群れを作らなければ生きていけなかった太古の時代を経験しています。肉食獣から身を守ったり、安定して食料を獲得したりするためには一定の頭数をそろえた集団で行動する必要があったということはご理解いただけるでしょう。

ただその場に群れていても、身を守るとか、食料を獲得するということはできません。群れがまとまって、一つの統一された意思の下で行動することでよりよく群れの機能を発揮することができます。

例えば当時の狩りの方法は、集団で小動物をどこまでも追って行って、獲物が熱中症などで弱ったところを集団で攻撃して仕留めるというやり方だったと言われています。狩りのメンバーが自分勝手なことをやっていたら敏捷さに勝る小動物は逃げきってしまっていたでしょう。攻撃チームで方法論を共有する必要がありました。しかしながら、太古の時代は言葉もありませんでした。打ち合わせをして一番良い方法をみんなで探し出すということはできなかったと考えるべきです。

ではどうしたか。私は
群れのリーダーのもとに統率されて、行動していたと考えています。
それはどうやってということになるでしょう。

人間は「権威に迎合する」という性格を進化の過程で獲得したのだと思います。

狩りを例に出せば、誰をどう配置して、全体をどのように共同して進めるかを考えて、小動物をしとめるかということを、動きながら考えることはとても大変なことです。エネルギーも使います。それでいて、分け前は平等です。作戦が失敗すれば仲間に責められるかもしれません。割に合う役割ではありません。むしろ、誰かの考えの通りに動けば、あまり脳を使う必要がありません。とても楽です。リーダーの表情やしぐさを見て、自分の行動を決めてもらうことの方がよほど楽です。多くの人たちは、迎合できれば迎合しようとしたのだと思います。

何か大事なこと、生活に直結することをしようとするときほど、人間は誰かに決めてもらいたくなり、自分で考えることをやめてしまうようになっていったと思われます。現代でもその傾向を感じます。

この行動傾向があったからこそ、人類は言葉もない時代に、自由分散的な行動をしないで群れの力を発揮できたのではないでしょうか。

2 スタンレイ・ミルグラムの「服従の心理」との関係

この「迎合の心理」はスタンレイ・ミルグラムの「服従の心理」を焼き直したものです。その概要についてはすでに述べています。
Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05

「服従」というと権威者が出した指令を選択肢を持たずに従わなければならないという語感があるので、もっと自分から自発的に従っているということを強調したくて「迎合」の心理という言葉を使うべきだということが中核になっています。
迎合の心理は、例えば電流を流して被害者を苦しめるというミルグラムの実験においても、被験者である加害者は、強制されて、他に選択肢を持てないで強力な電流を流すとされるボタンを押したのではなく、任意に自分からボタンを押したのでした。今回の記事は、迎合の心理状態では、他者に対して残酷な行為、人間扱いをしない行為を、自ら進んで行うようになるその仕組みを検討いたします。

3 迎合がデメリットを生む現代の対人関係という環境

言葉のない太古の時代には、迎合の心理は、必要であり、ほとんど害はなかったと思います。
獲得した食料の分け前は群れの構成員で平等に分けていたようです。数十人の仲間は運命共同体で他人と自分の区別がつきませんから、群れの誰かが寂しい思いをした場合には、自分が寂しい思いをしたように感じていたことでしょう。リーダーの権威といっても「狩り限定リーダー」だったり、「植物採集限定リーダー」だったり、あるいは「群れの居住秩序を作る限定リーダー」だったりと固定されたリーダーではなく、リーダーの入れ替えも円満に行われたと思います。迎合の心理が誰かを苦しめることはなかったと思います。

ところが、現代社会は言葉のない太古の時代と人間関係が異なり、数えきれない多くの人とかかわりを持ち、群れも家族や職場、学校等々といった複数の群れに同時に帰属するようになり、群れのメンバーも交代が行われるようになってしまいました。同じ群れの仲間と言っても、言葉のない太古の時代と比べると人間関係は著しく希薄で、家族であっても対立することが珍しくなくなってしまいました。

仲間であっても味方ではなく、いつもすぐ近くにいる人間が自分を攻撃することも「できるように」なってしまいました。

このような現代では、誰かに迎合することが別の誰かと敵対することを意味してしまうことが当たり前のように起きてしまいます。そして、誰かに迎合することに夢中で、迎合することによって誰かを傷つけるということに思い至らないという現象が起きています。

迎合は、本能的に、無意識のうちに行ってしまうことで、被害者の被害を思い描く前に行動してしまっているという特徴があります。また本能的な行動であるため、その行動をとるときに理性の判断を介在させにくいという言い方もできると思います。気が付いたら迎合していた。後で考えたらそのことで誰かを傷つけていたということです。もっともそれに気が付かないことも多いことと思います。

以下具体的に迎合の心理で人が苦しむ様子を見て考察を深めてゆきます。

4 小学校のいじめと迎合の心理

2年近く、小学校のあるいじめの事例にかかわりました。弁護士としてではなく、保護者の一人としてかかわりました。被害者児童の親御さんからことを大きくしないでほしいというご希望があったことと私自身もその学校の一人の児童の保護者だったという事情もありました。
いじめを学校が知りながら放置していたため、解決には難渋しました。結局は、大人の力ではどうしようもありませんでした。実は、この事例は子どもたちが被害児童を徹底的にかばうことによって解決をすることができたという事案でした。子どもたちから多くを学びました。

事案は、クラスの同じグループの女児たちが同じグループに所属していた一人の女児をグループ全体で攻撃するというものでした。事の発端からみると、グループのリーダーが被害女児が自分に従属(迎合)しないことに腹を立てて辛く当たったということでした。だからそもそもは1対1の人間関係だったはずなのです。これがいじめという集団加害に発展した原因は、リーダーの取り巻きのグループ内の他の女児がリーダーに迎合して行為に加担した、あるいはリーダーの気持ちを忖度して自発的にいじめに加わったということでした。リーダーは加担も、いじめも明確な指示はしていなかったようです。取り巻きのほかに被害女児を追い出して自分がグループに入りたい女児も加わっていじめは大きくなりかけました。
ところが、クラスの男児が徹底して被害女児に親切にしだしたのです。いじめグループに見せつけるように様々な親切活動を始めました。だんだんとその親切隊が増えていき、ついにはいじめグループがはっきりとクラスの中で孤立していったのです。

子どもたちが行った「加害攻撃に対して加害攻撃で対抗するのではなく、味方を増やすことによって加害者を孤立させていく」という、平和行動を現代の大人たちにも教えてあげたいですね。これまで生きてきて私はいろいろな尊敬できる人たちに出会いましたが、この時の親切隊の男児たちは思い出しても感動で涙が出てくるほど尊敬できる人間たちでした。道で出会うと最敬礼していましたが、彼らはそんな私をきょとんとした顔でちらっと見て足早に通り過ぎていきました。

こういうと簡単に聞こえますが、解決まで1年半くらいかかったでしょうか。いじめが陰湿に行われていたこともあり、被害女児が苦しんだ期間は長かったです。被害女児にその数年後にお会いしたのですが、ちょっとした友達とのトラブルがありそうになると、「またあの時と同じようにいじめられるのかもしれない」と感じやすくなるというトラウマが残っていました。

リーダーに加担していじめを完成させた取り巻きたちは、特に何らかの見返りを求めたわけではありません。私から見れば、本能的にリーダーに迎合していたとしか言えないような、しかし狂気の行動でした。

そのリーダーは、特に人望があったわけでも、能力が高かったわけでもありません。どちらかというと、ずるい行動傾向があり、これに周囲が反発していて、その反発によって被害女児を助ける傾向が広まったくらいです。
どうしてこの人はリーダーとして権威を持ってしまったのでしょうか。どうして加担者は迎合してしまったのでしょうか。加担者たちの父親はインテリジェンスの必要な職業で収入も多く、子どもたちも成績が上位クラスでした。

迎合の的になったことについては、二つの理由が考えられます。一つにはリーダーの主張がはっきりしていたこと、わがままという言い方もあるでしょうが要求がストレートでわかりやすかったようです。何が迎合になるかがわかりやすかったということです。もう一つの理由はリーダーの喜怒哀楽の感情が豊かだったということがあります。共感しやすいわけですね。被害女児がなびかないことで思い通りにならないで悲しい顔をしていたら、取り巻きたちはリーダーに同情して、リーダーの代わりになって被害女児に怒りを覚えて攻撃をするということがわかりやすかったのだと思います。被害女児の方はというと、年齢相応の自己表現にとどまり、特に主張がなく、喜怒哀楽は控えめでしたので好対照でした。

このリーダーは迎合しやすい人間だったのだと思います。
「人間は、誰かに迎合しようと機会をうかがっていて、迎合しやすい人を見つければつい迎合してしまう傾向がある」
ということなのだと考えるとうまく説明できる事案だったと思います。

そしてひとたび攻撃を始めると、被害者の気持ちを切り捨てて、攻撃を継続してしまう。被害者が戸惑い、苦しむ姿を見ても、自分の行動を改めようとしなくなるという特性があるとするとわかりやすいと思います。

5 パワハラのうち、同僚の面前での容赦のない叱責

職場のパワーハラスメントで、精神疾患になったり、自死をしたりという悲劇が生まれると、まだまだ少ないですけれど職場の中では第三者委員会を設けてアンケート調査などの実態調査が行われることがあります。いくつかの事例で第三者委員会報告書を読みましたが、必ずと言ってよいほど大変驚くべきことが記載されていて、なるほどパワハラが行われると人間が孤立してしまうのかと変に納得してしまいます。

どんなことが書いてあるかというと、パワハラを見ていた同僚が、上司のパワハラを正当化しようとするのです。被害労働者が「言われたことを一回で覚えなかったから。」被害労働者にも落ち度があるとか、パワハラ上司は「一回は説明をした。」とか、被害労働者が難聴者であったにもかかわらず「話しかけられても無視をした。」とか、上司の口調は「それほどきつい口調ではない。」とか、「彼だけが言われているのではなく、みんなが言われている。」とかいう具合です。この正当化しようとして言っている言葉を丹念に読めば、逆に人権侵害のパワーハラスメントが実際に行われていたことが証明できるくらい、客観的事実の存在は認めているのです。

同僚たちは、何が起きたのか自分の目で見て、耳で聞いているのです。それでも、パワハラが繰り広げられ手被害労働者が思い悩んでいる姿も目の当たりにしている際に、自分なりに自分の心をごまかしてきたのでしょう。つまり、「やってはいけないパワハラが行われていたという残酷な出来事があったのではなく、被害者にも落ち度があったからそこまでひどい話ではない」として、自分がその人権侵害を止めなかったことを正当化していたのだと思います。そうして罪悪感を軽減しようとしているのでしょう。

それにしても、事案の多くは、第三者委員会が調査するほどの事案ですから、その時点ではパワハラの加害者は仕事を干されたり、退職したりしているのです。そこまで無理をして正当化する必要はない事案も多いのです。はっきりと悪いことをしていたと告発する方が、本当は精神的にも楽なはずなのです。

それでも、上司のパワハラに該当する行為を肯定しつつ、パワハラではないと頑張ったり、被害者の落ち度をことさらあげつらったりしています。その動機はどこにあるのでしょう。一つは今述べた自分の傍観の正当性を主張したいということもあるのでしょうけれど、私は迎合の心理があると思っています。

あるパワハラ職場では、昔から伝統的にしごきのある職場でした。実際にパワハラをした上司も若いころは全く同じようにパワハラを受けていたようです。しかし、誰もそれを改めようとしないで何年も放置されていたということになります。どんな職場か聞けば驚くと思いますけれど、この職場は全国組織ですが、実際は様々な問題を抱えていることが多い職場のようです。仕事の内容は、リーダーの指揮の元一丸となって行動をすることが強く求められる仕事でした。まさに太古の人間が命がけで狩りをしていたような、そういう仕事の内容です。

この職場と同じように仕事柄リーダーに意識的に迎合することが強く求められている職場では、やはりパワハラ事例が多くあります。実際に担当したこともありますし、判例も多く出ています。命の危険のある仕事をされる職場ではこの傾向が強くあります。

上司がすでに退職したり責任を取って閑職に追いやられてもなお、パワハラの客観的事実の認識に不足がないにもかかわらず、上司を正当化する部下は過去の権威に迎合しようとする本能的な行動をしているのではないかと考えております。パワハラ実行当時、本気で被害労働者に落ち度があるから厳しく扱われることは仕方がないことだと考えていたならば、事実関係の認識に不足が無くても素直にパワハラではないと感じていた可能性があります。

むしろ、上司の言う通り、被害労働者はダメな奴で、ダメな奴のせいでパワハラ叱責を聞かせられている、仕事の時間を奪われていると思っていた可能性もあることに気が付きました。傍観者の怒りの矛先がパワハラ上司ではなくて被害労働者に集中していたのかもしれません。

興味深いことは、同じ職場の同僚が上司を正当化するのに対して、同じ会社で違う場所の職場の人間の方に被害者をかばい上司をきちんと否定評価している人間がいるということです。

どうやら被害者の感情と同僚たちの距離に関係があるようです。同じ職場でも、被害者とあまり個人的に話をしたことのない人たちは、職場の権威である上司を正当化する傾向にあるようです。これに対して、いつもは別のところで働いている人たちでもプライベートの付き合いがあり、被害者の被害感情を知る機会がある場合は、被害者に共感を示しているのです。

ミルグラムの実験でも、この被害との距離が行動に影響を与えているということが結果として報告はされています。ただ、そのことがあまり注目を  されていないような気がしているところです。

一般的に迎合をしてしまうと被害者の感情を自分の感情から遮断することがある
一方、
権威者と自分の距離と被害者の感情と自分の距離の相関関係で遮断が強くなったり弱くなったりする
のではないでしょうか。大変興味深いことだと思います。

6 ボランティア活動での排斥行為

社会的活動という立派な理念を掲げて活動する組織でも、理不尽な排斥行為がありました。これも考察するべき事項の宝庫なので紹介します。

加害者はある社会活動をするための組織を立ち上げた人であり、その社会活動に貢献をした人でした。被害者はその加害者が立ち上げた組織にも深くかかわっていましたが、後発の関連グループの活動も支援していました。二つの組織は、それぞれ共通の目的と、異なる活動スタイルであったため、当初は協力関係にあり、交流もありました。そのうち時代の流れに乗った新グループは(被害者とは別の人が中心でした)、活動を広げて社会的な脚光を浴びるようになりました。地味に活動をしていた加害者の組織では考えられないことでした。

加害者は、次第に新グループや被害者が疎ましくなったようです。つまり、その社会活動で自分が果たしてきた役割が、その新グループと被害者の活躍が原因で小さなものとなったのではないか、被害者が自分にとって代わって権威者になるのではないか、新グループがあることで自分の組織の意味がなくなるのではないかと考えるようになったようです。そうして「加担者」を通じて新グループを分裂させ、被害者を孤立させたという恐ろしい出来事になりました。

被害者や加担者は、社会活動の目的とは何ら関係がなく、自分や自分たちの組織が脅かされるという危機感から攻撃をしたようです。つまり、自分が他者からの「迎合の的」であったにもかかわらず、迎合の的が自分から被害者に移ることを恐れたということになります。迎合の心理の裏側の心理と言えばいえるかもしれません。加担者にも共通の利益がありましたが、加害者に迎合しているということで、被害者や新グループに対しての罪悪感をごまかすことができたのだろうと思われます。

迎合の論理は、言葉が生まれる太古の時代のように、仲間以外は人間ではないという環境の中では特に問題が起きません。ところが複数の群れに同時に帰属することの多い現代社会では、これらの事例の通り権威に迎合することが他者を加害することに直結することがしばしばみられます。

最後に迎合の心理が働いてしまうと、被害者の被害を客観的には認識していながら、被害者の不安とか恐れとかあるいは体の痛みなどの感情に反応をしなくなる場合があるということについて上記の社会活動団体の事例等に照らして考えてみたいと思います。

加害者の心理としては、立派な社会活動のリーダーも、小学校の小グループのリーダーと全く同一であることには興味が惹かれます。自分が迎合の的から外されそうになっているという意識で、とってかわられるのではないかと恐れた被害者を攻撃していることには何も変わりがありません。被害者の意図とは関係がなくあくまでも加害者の主観にすぎません。

また、加担者にはっきりと攻撃加担を指示したわけではありませんが(大人の事例は本当はよくわかりませんが)、リーダーが攻撃意思を明確にすることによって、また怒りの感情をあらわにすることによって、加担者に迎合しやすいように環境を整えたということも共通です。

加担者は、直接指示されたか否か不明ですが、リーダーという権威に迎合して被害者を攻撃しました。大人の事例では被害者が関与した新グループを切り崩すという恐ろしい行動に出ましたし、その過程では被害者の職業も脅かす行為を行っています。被害者のライフワークであるその社会活動ができなくなるような行動をしていたとするならば、被害者の志まで葬ろうとしていたことになります。まるで被害者を亡き者にしようとしていたような恐ろしい活動を平気で行うということをしていたのです。

ミルグラムの服従実験でも、実験に参加した被験者らは自分が押した強い電流を流すボタンを押すことによって苦しんでいるという客観的事実を認識していたにもかかわらず、多くの被験者は被害者に最強の電流を流すことを敢行しました。

権威に迎合すると自分の行為によって生じる被害者の被害感情に心が動かなくなる

ということはミルグラムの実験でも、小学校のいじめ、職場のパワハラ、社会活動家の実際の事例でも共通でした。

事情の分からない被害者は、よく知った相手から攻撃を受け、あるいは見放されて、自分の同一性の基盤である小学校の同級生との生活、職場、社会活動から追放されそうになったため、精神的に不安定になり、かなり危険な状態まで追い込まれました。社会活動の事例も実際に加担者と被害者は、共同で活動をしたことも何度もあったようです。同じ志を持った仲間だと思っていた人間が自分に攻撃を加えてきたこと、それも嘘の話を吹き込んで新グループを分裂させるという卑劣な方法をとったことに大きなダメージを受けたようでした。

職場のパワハラの事例でも、パワハラを受けて落ち込んでいた同僚を見ているのに、被害者に落ち度があるということを言って上司のパワハラを正当化しようとしたのです。この自分の調査時の回答を読んでしまったら、被害者はどう思うかということを全く考えていません。

(情けないのは第三者委員会です。パワハラ上司のしたことについては、客観的行為としては同僚も認めて、本人も行為を概ね認めているにもかかわらず、同僚の正当化をなぜか採用してパワーハラスメントではないという無茶苦茶な答申をしていました。知識がない人間が第三者委員会に選任されていたということです。また、第三者委員会が会社に「迎合」したという可能性もあると言わざるを得ません。)

小学校のいじめの例も、基本的には同じグループの仲間から攻撃されているので、仲間だ、友達だと思っている人間から、無視をされたり、掃除を一人でやるように押し付けられたり、まったく非のないところで同級生の前で集団的に非難されたりしたわけですから、およそ自分以外の人間という存在に将来的に安心感を持たなくなってしまう危険があったと思います。小学生の例では、「学校関係者を除く」大人たちが一丸となって、児童と保護者をフォローし続けました。

迎合は、仲間でさえも、容赦なく攻撃をさせるわけですが、進化の過程で獲得したという事情を理解するとその由来も理解できます。
太古の昔に迎合をする必要性がある場合は、食料(小動物)を狩るときとか、肉食獣から仲間を守るために反撃をするとか、仲間の命のために相手の命を奪うという場面が強い迎合が起きる場面だったということになります。権威者が相手(の動物)を攻撃していて、それに迎合するのですから、迎合はすなわち攻撃の論理にそもそもなじみやすかったわけです。


逆に言うと、
誰かが攻撃されている場合に迎合しようという気持ちが強くなるのかもしれません。

「迎合」と、「迎合した戦いの相手方に対する純粋な敵対意識」はワンセットの意識だと考えるべきなのだと思います。迎合して戦いに参加してしまうと、太古の記憶が呼び起こされて加担者にとってその相手は人間ではなく肉食動物であり、捕食して食料にするべき小動物のように扱ってしまうのでしょう。被害者は感情を持つことを認めない物質になるようです。

(少し解説を補充します。多くの人間たちの中で、群れが戦闘態勢に入った場合、何も考えないで群れ《厳密に言えば戦闘を開始した者》に迎合して、何も余計なことを考えないで、つまり怒りだけの感情となり、ひたすら対象を殺そうとすると、対象を殺して利益を得る可能性が高くなったのだと思います。戦いに集中するということでしょう。そうすると、このような群れに迎合して戦いに没頭する性質をもった人間が当時の環境になじみ、このような性質を持たない自由分散的な性格を持った人間が多数の群れより、生存競争で有利だったことになります。そうすると、その有利な性質をもった人間が、生きながらえることができ、子孫を遺すことができたということになります。こうして人間の迎合して怒る性質が私たちに遺伝されたという結果になるということです。)

7 独裁の構造

独裁国家は、独裁者がいて、その周りにイエスマンばかりが配置されます。リーダーと加担者の純粋形態のようです。独裁国家は、歴史的にみると常時戦闘態勢に入っています。戦闘袋瀬にあればそれが侵略であろうと防衛であろうと、迎合が強くなることには変りがないと思います。

そうだとすると、
独裁国家を作るためには、戦闘態勢を作ることが早道なのかもしれません。
世界の大きな国では、戦争を起こすと支持率が上がるという奇妙な現象が起きます。自国の強さをアッピールできるから支持率が上がるという解説がなされることがあります。しかし、実際は、自分たちの国が戦闘態勢に入ると認識すると太古の記憶がよみがえりリーダーに迎合しやすくなるという人間の心理が働いているだけのことかもしれないと思います。このような形で支持率を上げた大統領は、延々と戦争を続けるしかなくなってしまいます。

国という大きな話ではなく、任意のグループの場合も同様でしょう。そのグループが誰かと戦っていると意識があると、構成員がリーダーに迎合する傾向が強くなり、結束が強まるようです。そして、自分たちに行為を示す人間以外を仲間とは思えなくなり、無意識に組織の人間を優先し、組織外の人間を敵視していくということはよく見られることです。宗教団体や思想集団で社会的に承認されているとは言えない団体は、権威者に対する迎合が極端に強まるため、権威者であるリーダーはなかなか後退しないという特徴が出現します。

地方の自治体の話でも迎合が見られます。仕事柄、自治体の中枢近くで仕事をすることがありました。かなり地位の高い人で、キャリアから見れば政治職よりも権威のある人のように感じられる人が、なりたての地自体の首長に迎合しているとしか表現できない発言を聞いて驚いたことがありました。

自治体の首長と言っても、万能ではありません。その道のキャリアは、その道では知識も活動も自治体の首長より上であり、上から政策を修正するくらいでなければならないと思います。それにもかかわらず、その道についての政策について、首長の方針に無条件に迎合していたのです。

その人はもうすでにコースの最上位にいて年齢的にもこれ以上の出世もないくらい出世していましたし、すぐに来る定年後の予定もきちんとあった人なのですが、迎合することが何か楽しそうでした。

迎合するということは、何ら卑しいことでも唾棄するべきことでもないのでしょう。人間の自然な感覚であり、遺伝子に組み込まれた本能なのだと思います。人間社会が成り立っているということは、現代でも90パーセント以上の大多数が迎合傾向にあるのだと思います。迎合の要素がなければ、人間の集団は成り立たないのかもしれません。

ただ、太古の時代で妥当性があった迎合の心理も、現代の関わる人数が多すぎて、所属する群れも複数あり、群れ相互の利害対立も微妙にある場合、特に対立をしているグループの権威に迎合してしまうことは、自分に何も不利益を与えていないはずの人間を不合理に傷つけて、深刻な被害を与える主体になりうるということは肝に銘じておく必要がありそうです。弁護士という職業は、その危険が常にあるということになります。人間はその人が自分の行為で苦しんでいることを知っているにもかかわらず、それでも何も罪もない人を死ぬまで追い詰めることをしてしまう存在だということです。

まさに進化と環境のミスマッチがここにも起きているわけです。

8 ネットハラスメント 木村花さんの三回忌を前にして

この記事の締めくくりです。
女子プロレスラー木村響子選手の娘さんで同じくプロレスラーだった木村花さんが、ネットの書き込みが原因である可能性がある自死をしました。本来接点のないはずの舞台の上の人間と観衆がインターネットという装置によってかかわりが生まれてしまったようです。最後に詳しく考察しますが、彼女はまったく無関係な人間の書き込みを読んで圧倒的な精神的ダメージを受けたことが推測されます。

書き込んだ人は木村花さんとは何らの関係もない人たちですから、花さんの行動について何ら論評をする立場にはなかったはずです。なぜ、書き込んだ人たちは花さんの行動に否定的書き込みをあえてしたのでしょうか。どうしてそれを読めば精神的に打撃になる表現を書き込むことが「できた」のでしょうか。
匿名だからできたということも理由となるとは思いますが、匿名だとしてもそれをやろうとした動機付けを問題にしなくてはならないはずです。

これが迎合の心理から説明ができると思います。

ドキュメントタッチで共同生活を描くテレビ番組で、些細なことをめぐって花さんと男性が対立をする場面が面白おかしく映し出されたことがきっかけのようです。男性そのものは、花さんに対して報復をしようと行動を起こしたわけではないようです。しかし、テレビの中で花さんを攻撃する論調があったようです。

番組内での花さんの対応あるいは対立の論理も、理不尽というか不自然なところがあり、そこに反発を誘引する素地があったようです。また花さんがプロレスラーということと、あまり感情的に対立しない若者の風潮から、男性に対して同情する気持ちを起こしやすい状態が演出された形になったのだと思います。

但し、書き込みをした人たちは、相手の男性に迎合したわけではないということを注意するべきでしょう。この男性は、対立姿勢を示していません。

書き込みをした人たちは、この男性ではなく、「花さんの『怒り』にむしろ問題があるという雰囲気を出した人間」に対して、その人が言っていることが正論だという支持を表明したくて、書き込みをしたのだと思います。花さんの怒りが理不尽だという論調に誘導した人に迎合をしたのだと思います。もしこれが政策側で意図したことならば、結果的には制作側が攻撃をあおった形になると思います。

ここは極めて重要で、大いに注目するべきポイントだと思います。当事者双方がそれほど対決姿勢を示していなくても、第三者がどちらかを非難して、どちらかの味方をすると、その第三者が権威の所在になり、当事者以外の他者がその権威に迎合して一方を攻撃するという図式が起こりうるということです。当事者双方は戦うことを考えていなくても、第三者がそれを利用して対立の構造を作ってしまうということです。その結果当事者たちも戦わざるを得ない状態に入る危険があるということになるわけです。

何らかのトラブルがあった時、当事者には双方言い分があることが通常ですが、第三者が権威になれば、第三者の言い分だけが迎合の的となるわけです。初めから他方当事者の言い分は考慮されない構造になっています。第三者が権威を持つことによって、私たちの怒りが第三者によって誘導されてコントロールされてしまいかねないということに最大限の注意が必要です。そして、第三者の権威に迎合して攻撃をしてしまうと、双方の当事者が望まない第三者を巻き込んだ戦闘が行われる危険があるということになります。

話を花さんに戻します。
仮に制作サイドの、視聴者に対するあおりの意図に乗ってしまい、例えばコメンテーターの示す価値観に共鳴し、花さんに対して怒りをもってしまって、怒りを表明しようという気持ちになってしまうと
戦闘態勢への迎合ですから、特に戦う相手となった人間は人間として感情があるということは初めから考慮の対象外のこととなってしまいます。本能的に攻撃対象は人間ではなく虎や狼だという意識になってしまいますから、容赦のない攻撃が繰り出されるわけです。可能な限り最大限のダメージを与えることしか考えられなくなります。容赦の一切ない純粋な怒りの結晶がぶつけられます。
無関係な人間からだとしても、そのような悪意の純粋結晶のような攻撃に耐えられることは、人間としては難しすぎることだったと思います。

特にインターネットは自室で観ることができます。いついかなる場合でも自分が見ていなくても、自分に対する攻撃が続けられていて、それが自分だけでなく誰にでも見られる状態にあったということを考えると、どこにいても気が休まらない状態になり、不安や焦燥感は極限に達していた可能性もあると思います。

このような多数から加害を受けているならば、家族や恋人などがいたとしたら、傷はいえるのでしょうか。孤立感は解消されるのでしょうか。実際の被害者の方々から話を聞くと、答えはいずれもノーです。

通常多数から攻撃を受けてしまった人間は、そのような人間扱いされていない自分というものを知られたくないと考えることが普通です。むしろ、自分の最後の砦となる家族には知られたくないと思うようです。家族からも自分が情けない価値のない人間だと思われたくないようなのです。また、家族にだけは心配をかけたくないと思うことが通常なのです。

助けてもらいたいと思う反面、知られたくないという矛盾した気持ちに苦しんだことでしょう。初めから孤立しているのではなく、このような集団加害がなされることによって人は孤立していくのです。

木村響子さんがインターネットに花さんの攻撃を書き込んだ人たちを相手に提訴をするようなお話があります。母親のお気持ちを考えれば当然のことだと思います。

ただ、私たちは、ネットの書き込みをした人と同じ行動をしてはならないということを肝に銘じるべきだと思います。世界を独裁にして戦争をするのか、罪のない人を人間扱いしない攻撃をするのか、それを決めるのは、私たちが本能のままに誰かに迎合して怒りを持つことを続けるか、理性で自分の感情をコントロールして迎合している人たちを鎮める行動をとれるかにかかっているともいえるかもしれません。

怒りを持つ構造、見ず知らずの関係のない人に対して怒りの純粋形態をぶつける構造がおよそ人間には遺伝子に組み込まれている可能性があるということをあらかじめ知るべきです。つまり、自分たちにも同じ行動をする可能性があることです。これを自覚し、怒りを感じたときに、もしかしたら現代社会ではデメリットしかない迎合による怒りで誰かを傷つけているのではないかということを予め注意することが、むやみに他人を傷つけない社会を作ることなのではないかと考えています。気が遠くなる道筋でしょうけれど、これを自覚しなければ人類は滅びるところまで行く可能性を持ってしまったということなのだと思います。

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ダイエットが失敗する理由とパワハラで鬱になる理由に共通すること、人間という動物の特徴 inspired by ‘The Story Of Human Body’ D.H.Lieberman [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 ダイエットが失敗する理由

ダニエル・リーバーマンという、多くの学者からその人の研究論文が引用される学者さんがいます。この方は、進化生物学者、考古人類学者です。我々が入手して読みやすい文献は、ハヤカワノンフィクション文庫「人体 600万年史」上下です。私も読みだしたら止まらなくなるくらい夢中で読みました。

この本に現代に生きる人間が太りやすい理由が述べられています。その理由とは太古の時代の生き残るための必要性でした。
人間は他の動物に比べて脳が大きいために、安静時であっても脳が体内のエネルギーの多くを消費してしまうそうです。エネルギー消費に備えて、効率よく栄養を補給し、体内に蓄積しなければならなくなりました。そのためには糖、炭水化物を摂取し蓄えることがとても有効だったわけです。
糖は、単純な分子構造からできているため、とても体内に吸収しやすく、かつ、エネルギーとして使いやすいため、糖を取り込むことができることが生存に有利になります。また、過剰にとったとしても脂肪に代えて蓄積できますから、いくらでも取るべきだということになるわけです。このため糖を口に入れると、甘さによって好ましく感じ(つまりおいしいと感じ)、あるだけ食べたくなったということです。これは実は人間だけでなく、多くの動物がこのような原理で糖を摂取しています。

ただこのような仕組みが人間にとってメリットだけがあったのは、太古の時代です。太古の時代は糖なんてものは、はちみつくらいのもので、摂取するためには危険が伴いましたし、はちみつをめぐっては生物間の競争もあったことでしょう。また、いつでもあったわけではありません。甘いものと言えば自然の中にも果物があるじゃないかというのは、高度成長期以降に生まれた方々でしょう。昔の果物はそれほど甘くなく、砂糖をかけて食べるものも多かったくらいです。自然の甘みは頼りない甘みでした。どんなに糖分をとろうとしても、取りすぎるくらいはとれなかったので、糖を取り込もう、ため込もうとしても実害が起きにくかった、だからむやみに取り込もうため込もうとする構造は、有利な体の構造だったのです。

現代は、製糖工場が作られ、純粋に甘い糖が世界中にばらまかれ、安価に糖を摂取することが可能になってしまいました。ところが、体は進化せず、太古のままです。即ち、もはやムキになって糖を取り込むこともため込むことも不要なのにも関わらず、体は依然甘いものをおいしいと感じ、糖や炭水化物を食べるともっと食べたくなり、ため込んで内臓脂肪にしてしまいます。進化の過程で想定していなかった量の糖が体内に取り込まれるようになってしまいました。このため糖尿病などの成人病が起きてしまうのだそうです。
これをリーバーマンは、当時の環境(糖が手に入らなかったという環境)に適応するように進化した「身体」と現在の「環境」(安価に糖を入手できる環境)のミスマッチが起きていると表現しています。

つまり、私たちがダイエットに失敗する理由は、私たちの体が飢餓状態により良く対応できるように進化したために、現代の食料があふれている環境には適応していないということにあります。

2 パワハラで傷つく理由

パワハラもそうですが、いじめや家庭内暴力といった継続的人間関係の中から受ける攻撃には人間は十分対応できないようです。

リーバーマンの「人体」という本の副題が600万年史とあるのは、それまで同じ生物だった人間とチンパンジーが600万年前ころに、枝分かれしたからです。つまり、人間としての歴史が始まったのが今から600万年前くらいだということです。そこから、人間は独自の進化をしてきました。

脳が大きくなりエネルギーを使う臓器に進化していきましたし、二足歩行に適合した骨格になっていくなど、身体も進化していきました。

人間が進化の過程で獲得したものとして、人体の仕組み以外に、「群れを作る」という行動傾向があります。群れを作ることによって、肉食獣から自分たちを守ったり、共同で食料を獲得して飢えから守ったり、群れにいることで安心感をもってストレスを解消して長生きができたりと、群れを作ることは人間にとって必要なことだったと思います。

これが甘いものを好むとか、もっと食べたくなるという体の仕組みであれば、分解しやすい栄養素を好ましく感じるように脳の仕組みが作り上げられるということで、なんとなくそれは可能だなと理解できるような気がします。味覚のセンサーとしての舌があり、ここから甘いという情報を脳のある部分に送る。脳のある部分から大脳皮質に情報が提供されれば、大脳皮質の報酬系が刺激されて、どんどん摂取しようとする。という具合でしょうか。これが群れを作るということになると、直ちに脳の構造がどのように進化したかなど、なかなかすんなり理解できないかもしれません。

では、群れを作るということはどうやって行うことができたのでしょうか。ある程度人類普遍に群れを作っていますから、これは遺伝子の中に組み込まれていることだろうと考えることは可能だと思います。ではどういう遺伝子があるのかということですね。

私は、その遺伝子というか体の仕組みこそが「こころ」なのだと思っています。
糖を口に入れて甘いと感じるように、仲間と一緒にいることで安心感を覚え、仲間から離されそうになることで不安を覚えるという「こころのしくみ」が遺伝子に組み込まれているのだと思います。言葉が生まれる前から人間は群れを作っていたのですから、言葉による契約はなかったわけですし、おそらく理性による損得計算の結果仲間となることを選んだわけでもないだろうお思います。ただ、誰かと一緒にいたいという気持ちが仲間の中にとどめたのだと思います。そして、目に見えて一緒にいる人間を仲間と思って離れないように行動したのだと思います。もうすでに、この脳の部分は大脳皮質であり、その中でも前頭前野腹内側部であるということが解明されています。(Robin Dumber、Antonio Damasio) 

そもそも絶対的な人口が少なく、人口密度が極端に低かったため、仲間以外の人間に出会うことはほとんどなかったはずです。人間はすなわち仲間だと思ったはずです。(但し、狩猟採取の生活で定住をしていなかったため、様々な事情で仲間からはぐれてしまうことがあったはずですし、はぐれた人間を仲間に迎え入れることもあったのではないかと思っています。)

群れの仲間の多くは、生まれたときから同じ群れで生活していたし、四六時中一緒にいるわけです。そして利害がまるっきり共通します。即ち、仲間が健康でいればいるほど、肉食獣との対抗力も維持できますし、食料の獲得可能性も高まります。このため、食料を平等に分け与えた群れが強い群れとして、存続することができたはずです。困っている仲間を助けようとすることや、あまり役に立たない個体も群れとして手厚く迎え入れる群れが、頭数を減らさない強い群れということになり、やはり存続していくための条件だったはずです。

即ち人間の群れとして永続して、のちの世に子孫を遺した群れの構成員は、
・ 仲間の気持ちを手に取るようにわかっていたはずで
・ 何事も平等で、差別をせず、
・ 群れの仲間を助けようとし
・ 困っている仲間、窮地に陥っている仲間は全員で助けて
・ 一番弱い者ほどみんなで守っていたことでしょう
これによって
・ 仲間は自分を守ってくれる存在だと思い
・ 仲間の中にいると安心できると期待していた
こういう人間関係だったと思います。

このこころの仕組みは、単独では人間が生き残ることが困難な環境の中、人間と言えば自分と他人との区別がつかないような一心同体の仲間しかおらず、その人数も比較的少数であった時代には、奇跡のように環境に適合した仕組みだったと思います。このような仕組みを持たないヒトたちは滅んでしまったのだと思います。

弁護士として人間関係の紛争を観てきましたが、現代の紛争の多くは自分を守ろうという動機で起きているということが実感です。守り方が突拍子もないことも多いために直ちに理解ことがありますが、もつれた紐をほどいていくと、結局自分を守るために結果的に他者を攻撃していたということが多いようです。
太古の群れの形成期のころだと、群れの仲間全員が運命共同体ですから、自分を守るために群れの誰かを攻撃するということは極めてまれというか、実際はなかったのではないかと考えています。

仲間と仲たがいするほど、余裕をもって生きることができない厳しい環境だったと言えるのかもしれません。パワハラのようなことをしたら、他の仲間がわらわらと近寄ってきて、引き離したことでしょう。パワハラみたいなことをした方も仲間から追放されると察して、行動を修正せざるを得なかったと思います。実際は、争う実益も、仲間から自分を守らなければならないと思うような出来事もなかったと思います。パワハラは無かったのです。

では、このような進化の過程で生まれた仲間ファーストの行動傾向やこころはどこへ行ってしまったのでしょうか。

厄介なことに、この「こころ」は、太古の昔とほとんど変わらないで残っていると考えるべきでしょう。証拠はたくさんあります。それは私たちのこころの状態を見ればわかります。

つい、他人を仲間だと思って期待してしまうわけです。
・ 自分を他の人間と同じに平等に扱ってほしく差別しないでほしい
・ 自分の失敗や不十分なことに寛容であってほしい
・ 困っていたら助けてほしい
・ 自分を攻撃しないでほしい
・ 自分を邪魔にしないでほしい
・ 仲間の中にいることで安心したい
・ そして仲間から外さないでほしい
どうでしょう。まるで太古の人間関係のようなことを求めているとは感じられないでしょうか。特に、継続的に一緒にいる時間が多い、家族、職場、学校、趣味などの集まりなどでは、特に安心したいという気持ちが強くなることと思います。
(もっともそのための行動は個性による違いが大きくあります。目立たないようにするひと、人に合わせようとする人がいるかと思えば、自分の能力をアッピールして安定的な立場に立とうとする人等々。)

こころは太古の時代に進化が止まっていたようです。
変わったのは、私たちを取り巻く人間関係という環境です。
つまり、生まれてから死ぬまで同じ人といるのは家族くらいのことです。その他の学校も家族も、ある程度は継続して一緒に生活しているわけですが、特に現代化の中で交代が予定されない人間関係なんてなくなってしまったと言ってよいでしょう。家族でさえ、交代を進められるような時代になってしまいました。
また、昔は一つの群れの中で、食料を調達し、休息や睡眠をとって,群れの外の人間とは交流がなかったはずです。今は、家族だけでなく、学校、会社、地域等複数の群れで生活しています。インターネト仲間のような群れとは言えないような人間のつながりもあるわけです。そのため、実に多くの、気が遠くなるくらい多くの人たちと、自覚しているか無自覚化を問わずかかわりを持っています。

大事なことは、利害が一致する運命共同体のような群れというものが消滅しているということです。
・ どこの群れにいても、自分が誰かと交代させられる危険があるということで、
・ 自分の失敗や不十分なところ弱点が許されないことが多くあり、
・ 誰も自分を守ってくれないということが多くあり
その結果、自分を守るために他者を攻撃する必要も生じるようになったし、実際に自分を守るために他者を攻撃するということも頻繁になってしまいました。そして相手との人間関係が希薄なため、相手を攻撃しても心が痛まないということになってしまったのではないでしょうか。
継続的な人間関係の中にいても心休まらないわけです。眠るべき時間でも、昼間の悔しかったことを思い出したり、理不尽な扱いに腹が立ったり、この次に顔を合わせたら何をされるのだろうと恐怖を感じることがあるわけです。仲間の中にいたとしても眠れなくなることがあるということです。これでは、こころを管轄する脳が不具合を起こしてしまいます。

現代社会と太古の時代の環境の変化を整理すると
・ 群れが一つではなくなった。複数の群れに帰属する。
・ 群れのメンバーは代替性があることになった。
・ どこの誰とも把握しきれいない膨大な数の人間とかかわりを持つようになった。

その結果、
・ 群れの仲間は運命共同体ではなく利害対立をするようになった
・ 群れの仲間はそれほど大切に扱われなくなった
・ 場合によっては群れから追放をすることが当たり前になった
・ 誰も助けてくれないことが起きるようになった
・ 自分を守るため他者を攻撃することが起きるようになった
・ 他者の利益を害しても自分を守ろうという行動が起きるようになった

しかし、こころは太古のまま変わらないため
人は傷つくようになった。

つまり、太古の人間が切実に糖を取り込みため込むように
太古の人間は群れに入ろうとし群れの中にとどまろうとした、

太古の人間の中で糖を取り込みため込めない人間は死滅した
太古の人間で群れにとどまることのできない人間は死滅した。

製糖工場ができて安価に糖が手に入るようになった
複数の群れ、多人数の群れを形成するようになり、一人一人がかけがえのない仲間ではなくなった。

糖が簡単に摂取できるにもかかわらず糖をため込み取り込む人間の仕組みは変わらない
仲間に仲間として尊重されることが難しくなったのに、人間の心は変わらない。

糖が進化の想定外に多量に摂取し多量に体内に蓄積するようになったため体が不具合を起こして生活習慣病を起こすようになった。

仲間として尊重されたいという意識のほとんどが実現されなくなったため心が不具合を起こして精神病を発症するようになった。
その前提として仲間として尊重されたい人間から攻撃されるという現実が起きるようになった。

自死、パワハラ、いじめ、離婚、犯罪などの社会病理は、ほとんどがこの仲間として尊重されたいという人間のこころの進化の段階と、現代の人間環境のミスマッチとして起きている。これが対人関係学です。





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「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは夫から精神的DVを受けているのではありませんか?」 夫との楽しかった記憶が恐怖と嫌悪に変貌する仕組み = 配偶者暴力相談の増加と面会交流調停申し立て件数の増加が連動する理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]

離婚事例を担当していると、特に夫側の代理人として担当すると
妻から離婚調停を申し立てられた場合、
離婚意思が固く、夫に対する嫌悪や恐怖ははっきりと伝わるのですが、
その理由が曖昧でよくわからないということが多くあります。
(最近の記事ではその分析をしています。)

今回の記事は、ただ理由が曖昧なだけでなく
客観的にその存在の裏付けが取れる同居期間中の楽しかった思い出や安心感が
記憶から抜け落ちているとしか思われないケースも多くみられるのです。
この記憶の喪失や変容について考えてみました。

妻の離婚調停や訴訟における主張には
楽しかった時の出来事が無かったことにされて
辛く苦しいことしかなかったという主張がなされているのです。

こうお話しすると、「離婚調停や訴訟を有利にするために嘘をついているだけなんじゃないの」と思われるかもしれませんが、わざわざ嘘をついてもあまり有利にならないような場面で出てくるとか、客観的に裏付けのある事実を否定してしまっているとか、その他の事情からわかるのですが、

どうやら本当に楽しかった記憶が失われているようなのです。

例えば、妻は、離婚調停や裁判で、「家族で遠出なんてしたことはなかった」と主張します。これが離婚理由の一つだというのです。
これに対して夫は、家族で遠出をして妻と子が花火を楽しんでいる写真を提出して、みんなにこにこと楽しんでいたよねと言うのです。写真が出されておそらく調停委員等から、「ここに写っている人はあなたではないのですか?」とか尋ねられて言葉に詰まるのでしょう、それでも妻は、「この時は、子どもと私だけで楽しんでいたのであり、夫は一人だけどこかに行ってしまって、子どもたちは寂しい思いをした。」とかいうのです。
なるほど、その写真に夫は写っていません。だって夫が写したのですから写らないのは当たり前です。夫が撮影したからこそ夫のスマホに写真は入っているのです。また、夫が一瞬いなくなったのは事実ですが、それは花火が始まる前のことで、数時間も一人で自動車を運転して疲れ果てて車の中で仮眠をとっていたからです。その後自力で起きて会場に駆けつけました。だから夫のスマホで家族の記念撮影ができたのです。みんな安心しきった笑顔で写真に納まっていました。

このような記憶の改変はほとんどの子どもを連れて別居して離婚調停申し立てという事例に見られます。もう少しだけ例を示しましょう。

・ 職場の人間関係で悩んでいて、夫に相談をしていたのに、相談した記憶が無くなっている。「一生懸命話したのに夫は聞いてもくれなかった」と変わっているのです。夫はもちろん親身になって聞いていましたので、その時妻がどんなことを悩んでいたか言うことができました。
・ 一方的に夫婦けんかを仕掛けてきたかと思うと、夫が突然のことで呆然としていると「どうせあなたは私が情緒不安定だと思っているんでしょう。」とか言っていながら、裁判では夫からあの時に「情緒不安定だとののしられた」というのです。これは偶然録音されていました。「言われるかもしれない」という不安が、「言われた」という記憶に変わっているのです。
・ 大きな声を出していないのに、耳元で叫ばれたなんてことを言ったりします。

・ 職場から帰宅したら、突然夫から詰め寄られて鬼の形相で大声でののしられたなんてことを妻が主張するのですが、どうやら本当に、午前2時の帰宅で遅くなるとも連絡を入れず、小さな子どもたちの夕飯も用意していなかったことを忘れているようなのです。

そうしていつの間にか、夫は、自分に対していつも怒鳴りちらしていて、気に入らないとものに当たり散らして自分を怖がらせて、何かにつけてダメ出しをして自分を否定しようとしている。夫が視界に入るだけでこれから自分が攻撃されるのだと身構えてしまう。とても安心できない。そうやって私は恐怖によって支配されていて、心休まる暇もなかった。夫との生活では人間の尊厳などとなかったなどというのです。

また、生活費をこれくらいしか渡さないことは経済的DVだとかいうのです。
生活費の問題の多くは、低賃金にあります。「それしか渡されないのですか。」と相談を受けた正規職員の公務員などはいうのですが、家計の実態を見ると「それは仕方がありませんね。」というくらい目一杯渡していることが少なくありません。また、電気、ガス、水道代やもろもろのものは銀行引き落としになっているし、食費は夫が払っているという事情があるときもありました。妻に渡したお金さえもなるべく使わせないように実家から支援を受けたりしているほどでした。渡されるお金に文句を言う妻は、この現代日本で、自分で働きに出ようとしないケースが多いのです。そのくせ、夫がもっと賃金の高いところに転職をしたら、自分の許可なく転職したなんてことが離婚理由として主張されるのです。家族が生活できる賃金が支払われないことが、夫の収入も確認しない相談員の手にかかると経済的DVだということになってしまうことが多くありました。

ずいぶんわき道にそれてしまいましたが、今回のテーマは、どうして<記憶が改変するのか>、それは可能なのかということです。

記憶の改変で思い出されるのは、Wikipediaでは「虚偽記憶」として概説が乗っているアメリカの10年余り続いた嵐のような出来事です。

不安を理由にカウンセリングを受けに来た女性たちに対して、一部のカウンセラーが
「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは幼少期に性的虐待を受けていたのではありませんか。」
と話し、催眠療法を行って、父親や兄などの性的虐待の「記憶」を「よみがえらせ」、父や兄の性的虐待を母親などの家族が追認していたなどという主張を行い、幼児のころの出来事の記憶に基づいて、多数の民事裁判、刑事裁判が行われました。多くの裁判所で遠い過去の出来事の記憶が真実であると認定し、多くの人たちが、莫大な損害賠償を命じられたり、刑事裁判で有罪とされて刑務所に収監されたりしました。裁判所においてこういう嵐が10年余り続きました。自分の娘と争うことができなかったり、そんな荒唐無稽なことを裁判所が信じるわけがないと高をくくって、真剣に争わないことも原因の一つのようです。

これは遠い昔の出来事ではなく、つい最近である1980年代から1995年にかけての出来事なのです。自称被害者は、20年前の幼児のころの記憶を細部にわたり生き生きと語り、迫真性の持った出来事の再現をします。このような発言は、「それを体験した者でなければ言えない発言であるから真実である」という認定手法によって、多くの裁判所によって記憶が真実だとされてしまいました。

この大きな流れを止めた一人が認知心理学者エリザベス・ロフタスです。人間の記憶というものは不確かであるということを解明して、「20年前の幼児のころの記憶がビデオテープのように正確に再現されるということはありえない」ということが裁判所でも理解されるようになったのです。そんな過去の記憶が鮮明で、詳細で、迫真性があることこそがむしろ疑わしいということを示す事情になることをようやく裁判所が認めたということになります。1995年ころになってからのことです。

また、この記憶が「よみがえるとき」に行われていた「催眠療法」の中でも「回復記憶セラピー」という療法については問題が大きいということで行われなくなったこともあり(予後が悪く、多くの相談者が精神科病棟からであれれなくなるほど精神状態が悪化した)、21世紀には、アメリカではこのような「よみがえる記憶」の論争自体も下火になったようです。エリザベス・ロフタスの「抑圧された記憶の神話」(誠信書房)もおすすめです。翻訳が秀逸で、途中で読むことをやめられなくなります。

なぜこのような虚偽記憶のはなしをしたかというと、実は、このころのアメリカのカウンセラーの言いぶりと、現代日本の、「DV相談」の相談員の言いぶりというかマニュアルが、とても酷似していることを説明するためです。決してこれは偶然ではないと思っています。

現代日本では、生きづらさを抱えた女性が相談に行くと
「あなたが悪いわけではありません。あなたは悪くありません」とはじまり、
「あなたのお話を聞くと、あなたにはありあらゆる兆候が確認できます。あなたは夫から精神的DVを受けているのではありませんか?」
と尋ねられるのです。
そして、夫との生活の不満を語るように促されて、どこの家庭にもある程度はある事例を挙げて「例えばこういうことはありませんか。例えばこういうことは・・・」と尋ねられていくうちに、
どんどん「夫のそういう態度は許されない態度なのだ。」
そのような扱いを受けていた「自分は夫から精神的虐待を受けていたのだ。」
と思い込むようになっていくようです。

妻が本当はDVだと思っていない夫の行動を相談員に言い出すのも理由があります。
相談員は妻が何かそれらしいことをいうまで、
あきらめずに尋ね続けるからです。

この相談を受けた結果、
「もう我慢をしなくてよいのだ。」
「自分が楽しく生きていないと子どもも健全に成長しない。」
「このまま夫と一緒に生活していくと自分は殺される。殺されないまでも精神的にダメになっていく。人間として生まれてきた甲斐がない。」
と思い込んでゆき、
「別居をすれば、夫と同居しなくても婚姻費用を裁判所が命じてくれる。離婚をすれば、慰謝料や財産分与で今お金がもらえる。保護命令が出されると離婚に有利になる。自治体からも援助金が出るから生活は何とかなる。」というような空手形を信じてしまうようです。
子どもを連れて夫から身を隠して、
保護命令を申し立てたり、離婚調停を申し立てたりするようになり、
ついには離婚ということになるという一連の流れがあります。

どうやってこのような強引な「相談活動」の内容を私が知ったのかというと、私のルートは概ね、相談を受けた「被害者」とされた女性からの情報なのです。

一つのルートは国の関連の電話相談でした。どこにも相談するところがなくった人たちのための国の関与する電話相談です。
「いろいろと離婚後のバラ色の生活を言われて言われた通り離婚しました。しかし、離婚するのも時間がかかりましたし、言われたようにお金がもらえるということもありませんでした。生活は離婚する前より苦しくなりました。離婚のアドバイスを受けた機関に『話が違う』ということで電話したのですが、『離婚はあなたが決めたことですよ。』と言われて相手にされなかった。」という相談が少なからず数寄せられているのです。「離婚はあなたが決めたことです。」という回答もマニュアルに用意されていて、マニュアル作成者はこういう事態が起きることは初めから想定しているようです。
私も直接相談を受けましたし、同じ機関の相談員たちも何回か同じような相談を受けているということを教えてくれました。

もう一つのルートは、調停や裁判手続きで妻が主張し、証拠提出をするので、これも確かなことです。
離婚を申し立てた妻から、「自分が望んで別居したわけではない。警察から強引に別居しろと言われたからだ。自分は別居に抵抗を示した」ことの証拠として、自分が情報開示請求をした行政の報告書(警察署でのやり取りの報告書)が提出されることがあります(それでも離婚請求を維持するのですから、わけがわかりません。)。それを読むと、確かに、妻は「クリスマスを家族全員で過ごしたい」、「正月を夫と迎えたい」などと言っているのですが、警察官は「2時間以上にわたり、『命の危険があるから逃げろ。DVは一生治らない』と説得し、妻にようやく逃げることに同意してもらった」と誇らしく記載していました。もちろん、この家庭では、妻以外の暴力がない事例でした。これはのちの裁判でも認定されています。当然慰謝料は認められず、別居の際に夫名義のクレジットカードで高額の借金をしていたことと、給料とボーナスを引き下ろして持って行ったため婚姻費用も支払い済みとしてほとんど認められませんでした。

このように1980年代にアメリカで起きていたことが現代の日本で起きているのです。しかもアメリカでは多くは民間のカウンセラーだったようですが、日本では、警察、自治体、NPO法人という公的団体で行われています。自治体職員の話として相談マニュアルは内閣府で作られているという情報もあります。

それにしても、アメリカの事例と違うのは、
・ 相談員たちは、催眠療法、記憶回復療法を行っているわけではないということ
・ 遠い過去の記憶ではなくて、現在進行形の夫婦の関係についての評価がくっきりと否定評価になること
・ それでも命の危険も含めて夫に対する切迫した危機意識までもつようになること
というところにあります。
妻が、これまでも何年も一緒に住んでいた夫に対して、第三者が口を出したということだけで、どうして離婚を決意するほど、嫌悪感や恐怖感を抱くようになったりするのか。ここが問題です。これが説明されなければ、「なるほどそんなことありえない。やはり、精神的DVは実際に存在したと考えるしかない。」ということが普通の考え方だと思います。

記憶が失われたり変容したりする理由を二つ考えてみました。

1 楽しかった記憶、安心の記憶が失われる事情が先行している
  
 まず、女性のいくつかの事情で夫に対する安心の記憶が失われるということが起きるようなのです。
 1番は、出産です。数年前にバルセロナ自治大学と福井大学の研究チームがそれぞれ異なる手法を使って発見し、相前後して発表した理論によると、「赤ん坊を産んだことによって女性の脳の活動が変化をする。その結果、赤ん坊の状態に対する共鳴力・共感力が強くなるのに対して、大人に対しての共鳴力・共感力は弱くなる。(失われる)」ということになるようです。

どうやらこの時、夫との楽しかった思い出、守られているという安心感が、弱くなったり消えてしまったりするということのようなのです。福井大学の研究者は、「これが産後うつの仕組みではないか」と語っていました。もちろん個性による違いはあるのですが、多かれ少なかれ2年間は出産によってこういう傾向になるということが報告されています。

確かに人間の赤ん坊ほど無防備な生物はいないかもしれません。そのくせ人間は魚や昆虫のように大量に子どもを作るということはしません。一人一人の赤ん坊を大事にするように遺伝子に組み込まれていなければ、人間は簡単に絶滅したでしょう。この母親の脳の活動の変化は進化によって勝ち取られたわけです。もっとも他の哺乳類例えばクマなどと異なり、人間は出産後も男性と同居を続けているわけですから、出産後の共同養育をさらに進化の過程で獲得したということになるのでしょう。クマと違って母親だけで子育てをする仕組みには人間はなっていないようです。

そうすると、出産直後は、脳の活動の変化によって、夫に対する感覚が極端に変わるわけです。子どもが乳児のうちは、妻は夫に対してはあまり本能的には期待していない、夫によって楽しくなりたいとはあまり思わない。夫が何かしてくれても、本能的にはうれしくもないわけです。理性によって、夫に協力させた方が自分も赤ん坊も有利だと考えるだけかもしれません。夫の気持ちより赤ん坊がくしゃみしたことの方が大問題ですし、赤ん坊が自分を見て笑ってくれると本能的に充実した喜びを感じるわけです。哺乳類である以上母親がそのような脳の構造になることは仕方がないことだと割り切るしかないようです。

このように、夫に興味関心がありませんから、夫が自分に何かをしてくれことや、夫といることで安心感を抱くということは自然には起きません。そうすると、過去の事実は「事実としては記憶していて」も、楽しかったとか、安らかな気持ちになったとかいう感覚がよみがえりにくくなります。

現在夫に対して肯定的感情をもてないということは
肯定的な事実があったことを思い出す材料がなくなっているから思い出せない
ということなのだろうと思います。

この点、少し詳しく説明をこころみましたが、本論の横道になるだけで、科学的基礎があると自信を持つ理由もほとんどないので、記載部分を後ろに回します。ほとんど妄想の世界なので、興味と時間がある方だけお読みください。

楽しい夫、安心できる夫という追体験をする材料がなくなる事情として
第2は、うつ病、パニック障害などの精神障害、うつ状態という症状を合併するような内科、婦人科疾患、頭部外傷、薬の副作用などがあると思います。

記憶が失われる原理は、結果的には産後うつと一緒でよいと思います。現在夫といることで安心できるという感覚がなくなってしまっているので、過去の楽しさを追体験できる材料がなくなっているということです。
違うのは、一緒に住んでいる夫に安心できなくなる事情が、出産に伴う脳の変化ではないということでしょう。場合によっては、夫だけでなく、人間全般に対して安心感が持てなくなるという場合もあるようです。

第3は、夫以外の対人関係による心理的圧迫です。家族以外の第三者の場合と妻自身に原因がある場合があります。
第三者との関係では、職場でいじめを受けているとか、子どもの親同士の人間関係がうまくいかないとかということが多くありました。どうやら、他人との継続的関係がうまく作れないことには妻本人の事情も少なからずあるようです。第2の事情とも関係がありそうです。
妻本人の問題とは、家族に内緒で借金をしたとか、家のお金を使い込んだとか、自分が不貞をしたとかという実際の事例がすぐに思い出されます。実家に問題が生じていたということもいくつかありました。特に自分の行動に起因する場合は、夫から馬鹿にされるのではないか、愛想をつかされるのではないかという危機感を抱くようになります。やったことはともかくとして、まじめで責任感が強いのです。しかし、自分の危機感を何とかしたいという気持ちが強くありながら現実ではどうしようもないものですから、この不自由な思いをしている原因は夫に寛容性がないからだ、夫がいるからだという意識に徐々に変容していくというケースがよく見られます。まあ、最近の私の分析では、自分の不安を夫に解決してほしいという妻の夫に対する期待の強さの表れだとは思いますが、夫にとっては何の救いにもならないようです。

第4は、夫の妻に対する「否定行動」と「肯定行動がない事実」の継続的な状態を上げておきます。
通常の記憶の変容と喪失は、第1、第2、第3と第4の組み合わせで起きるようです。妻は現在の夫に対して安心感を獲得できない状態となってしまうことから、楽しかった出来事を思い出せないという流れになるようです。
第1、第2、第3の事情が無くても、第4の事情だけで独立して起きる事情として典型的な事例は夫の虐待、暴力の継続です。こういう場合では、そもそも楽しかった事情が存在しない場合もあるので初めから安心できる材料がないということもあるでしょう。途中から虐待などが始まるケースでは、不貞行為や使い込みなど妻の行為に不信感を持つような事情があり、それに対する対抗行為を夫が継続した場合も想定できるところです。あるいは、仕事上の人間関係が家庭に影響及ぼしていることもありうることです。
この第4の事情については前々回の記事で詳しく述べました。

2 解消できない不安解消要求の高まり

妻の記憶が変容したり喪失したりする第2の理由は、「不安解消要求」にあると思います。

すぐ上の第3の事情の妻自身に原因がある場合のところでも少しふれました。1の記憶の喪失過程と同じことを別の角度で説明するという意味合いにもなるかもしれません。

人間は、その発生原因にかかわらず、
「不安を抱くと、早くその不安を解消したい」
という根源的要求を持つようです。

これは人間に限らず動物一般に言えることだと思いますが、説明の便宜のために人間を主語として話を進めます。

(この不安解消要求のメカニズムも、書いちゃったのですが、話が長くなりますから、これも後に回します。)

特に第1、第2の事情という生理的変化や病的な事情から不安を感じている場合は、それを解消する方法がなかなか見つかりません。職場のパワハラや対人関係の不具合の中にも、自分の力では危険を回避する方法がなかなか見つからない場合もありますね。

たとえば、蚊に刺されるかもしれないというような危険の場合は、危険と言っても大したことがなく、蚊をたたいて血を吸われることを防ぐこともできますし、吸われたところで大したことがないので、不安解消要求はなかなか大きくなることはありません。すぐに解消されてしまいます。

ところが、原因がない病的な不安や、立場的に解消できないような対人関係上の不安があると、不安は解消しません。不安が解消しないと、ますます不安解消要求は強くなります。先ほどの蚊の例が日本であれば、大した問題にはならないでしょう。ところが、外国で、危険な病気を感染させる蚊がいる場合は、見つけ出して殺してしまおう、あるいは蚊のいないところに避難しようとする気持ちがどんどん強くなることはイメージできると思います。

蚊の問題であれば、「逃げるか戦うか」するしかないので、比較的短期間で解決するか刺されてしまうか結論が出てしまいます。
しかし病的な不安や、会社や学校あるいは家族という継続的な人間関係における不安は、危険が避けられるか現実化するか結果が出るまでに、相当長い期間継続してしまいます。いっそのこと、退職したり転校したり離婚できて危険が現実になるなら不安がなくなります。精神的ダメージは残るかもしれません。しかし、それまでの「いつ危険が現実になるか」とイライラしが持続することで、不安も高まっていくわけです。不安が高まればそれを失くしたい不安解消要求もさらに高まるわけで、悪循環が起きてしまいます。

不安解消要求の持続が危機意識を肥大化させ、不安解消要求も肥大化させる
ということが大事なポイントです。

不安が継続し、不安解消要求が持続化し、不安と不安解消要求が肥大化すると、
「どんな方法でも良いから、とにかくこの不安を早く解消したい」
というように意識が変容していきます。

他人からみれば人間が刹那的な行動に出るのはそういう場合です。つまり、不安や不安解消要求が肥大化すると、物事を冷静に考えることができなくなります。足して二で割る折衷的なものの考え方や良いところもあれば悪いところもあるというリアルなものの見方は複雑すぎてできなくなり、「善か悪か」とか、「とどまるか逃げるか」とか、「敵か味方か」というように「二者択一的なものの見方、考え方」になってしまいます。太古の時代に人間が出会う危険なんて、例えば野獣に襲われそうになるという身体生命の危険だけですから、二者択一的にひたすら逃げるという体制になることがとても有利だったのでそうなっているのでしょう。現代社会は、危険から逃げられないことと危険発生の予感だけでなかなか危険が現実化しないことが多すぎるという人間の心にとって過酷な時代なのかもしれません。

また、確実に逃げ切るために、「悲観的なもの見方」になります。自分は被害を受けるだろう、もっと確実に逃げないといけないという発想ですから、やはり太古の危険回避には都合の良い発想だということになります。脳の発達段階と環境のミスマッチが起きているわけです。

そうすると、不安を抱えた妻は、悲観的なものの見方しかできなくなりますから、自分は夫から被害を受けるかもしれないという非現実的な見通しも受け入れやすくなっているわけです。夫から殺されるという警察官の説得も「そうかもしれない」と思いやすいわけです。その前提として、夫は敵なのか味方なのかという二者択一的判断をしやすい状態になっているということがあります。ここで、偶然にも夫は敵だという判断をしてしまえば、夫とのかかわりがすべて否定的な思い出ということになります。例えて言うと、結婚詐欺師に騙されて、楽しい思いをして幸せに思っていたのに、実は騙されていたということに気が付いたとたん、楽しい思い出は自分がまんまと騙されていたという思い出に塗り替えられるようなものかもしれません。楽しかったはずの出来事が、すべて別の意味になるわけです。

また、記憶力も減退していくのでしょう。楽しかったことをそもそも思い出せないのです。これも逃げなくてはならないという不安の継続と不安解消要求の持続によって引き起こされた脳の変化の側面があります。

論理的につじつまが合わなくてもあまり気にならなくなります。二者択一的に、「一緒にいることが嫌だ」ということから先に進むこともありません。それでも気になりません。もちろん自分の感情に基づいて行動しているだけですから、子どものこと、特に考えなければ思いつかない子どもの将来のことなんて考えることはできません。今、食べさせることで精いっぱいということは当然なのでしょう。

つまり不安解消要求が肥大化してしまったら、
考えるということができなくなるし、考えるという面倒な作業はしたくなくなるのです。
二者択一的思考で悪に塗り固められた夫を見直すという発想はどこにもありません。

<離婚のセールスマンたちに言いたいこと>

こうして、妻の不安は最大限に高まり、不安解消の方法として不退転の決意で離婚に固執するわけです。夫婦は離婚となり、子どもは一方の親との同居となります。子どもと離れた親は一緒に住んでいる親の解消されない不安と悲観的な意識から子どもと会うことができなくなり、少なくない事例で精神的な要治療状態となったり、自死に至っています。

子どもたちも、一人の親と会えず、親からの愛情を受けられず、自分は実の親からも見放されるような価値のない存在だという無意識の自損行動を起こしてしまい、自己評価が低下してしまうようです。その上同居の親や家族から別居親の悪口を聞かせられることで、その否定的な影響が大きくなってしまいます。また、自分が安心して生活できる居場所がないという感覚に陥るようです。

では肝心の妻はどうでしょうか。妻は子どもを連れて離婚できて万々歳なのでしょうか。それも違うようです。冒頭申し上げたように、新たな生活苦という不安が継続していく場合が少なくありません。また、不安が固定化されていますので、今は目の前に夫がいないけれど、近い将来に夫が自分に近づいてくるかもしれないという恐怖もまた継続してしまうのです。相当長期間を経ても病的な不安は解消されないようです。

多くの事例で、関係者全員の不幸が作られているということを、多くの離婚調停や離婚訴訟の「その後」を見ていると感じざるを得ません。この世に生まれてきた意味を見出せなくなっている人たちがたくさん生まれています。その多くが人災だと感じています。

支援者は、マニュアルとその場の感情に従って、何も確たる事情も知らないくせに「あなたは悪くない。」というわけです。不安解消要求が病的に高まっていれば、そういわれた方は「自分は悪くない。では悪いのは誰だ。」と探し出すのは当然のことです。
そこですかさず、
「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは夫から精神的DVを受けているのではありませんか?」と言われれば
自分の不安の原因は夫なのだと信じて疑わないようになるわけです。
夫と別れることができれば何でもするというように追い詰められてしまうわけです。
妻の状態によっては、誘導なんて実に簡単なようです。

そして、どの家庭でもあるような事情や、その家庭では仕方がない事情を妻が告白して、これに対する不満は「自分が悪いのでしょうか?」なんて上目遣いに言ったとき、「あなたは悪くありません。夫の精神的虐待です。」と言われれば、とにかくこの肥大化した不安解消要求を満たしたい妻にとっては、たまらず飛びつかざるを得なくなります。不安が解消されればなんでもよいと思う状態になっているからです。

夫との楽しかった出来事、安心できた心持なんてものは、思い出せないし、思い出そうともしないわけです。事実としては記憶していても、楽しかった、安心できたという肯定的感情はよみがえりません。

支援員たちのマニュアルには、相談者が曖昧なことを言ったり、つじつまが合わないことを言っても、指摘しないよう厳命しています。相談者を疑うことは「寄り添っていない」ことだということが行政的立場らしいです。これはとても気持ちが良いことでしょう。相談者にとっては、自分が100パーセント善だとされて、夫こそが100パーセント悪で、その論理的な説明はどうでもよい、自分が自覚している弱点は不問に付されるわけです。文字通りストレスフリーになることは当たり前です。この人たちと一緒にいることで、自分は解放される、不安は解消されるとそれは思うでしょう。体をくすぐったらくすぐったくなるような理の必然です。昭和の芸人は芸ではなく客をくすぐる芸は最低の芸風だと戒めたようです。

私は、安易に相談者の発言を肯定しません。そこに不安の原因がないことが確信できたからです。真の原因を言い当てて、プラスもマイナスもありのままに受け止めて、それでも楽しく生きていく方法があるのではないかと一緒に考えるだけです。

そうではなくて根拠のない不安を肯定することによって、その人の不安を固定化してしまうということの弊害を考えるべきです。原因とはなっていない事実を肯定してしまうことによって、実は不安の解消はより困難になります。解消しようがないからです。目の前から夫が見えなくなって一時的に不安を忘れても、また不安がぶり返してくるようです。

根拠のない夫への非難、正当性のない非難を肯定することによって、憎悪感情が生まれ、記憶が改変され、子どもの利益を考えなくなり、子連れ別居、離婚、生活苦となり、そのあとは誰も助けてくれない本当の解決不能の状態に陥るわけです。夫に対する攻撃は、虚実織り交ぜてすべてが善だという意識が出来上がってしまうのです。離婚意思は支援者が作り上げているという場合もあるのです。

夫からすれば、そのような事情は一切わかりません。いつの間にか妻が自分を毛嫌いするようになり、話しかけても親身に答えず、家になかなか帰ってこなくなり、こちらを見ない。たまに見れば敵意のある視線をぶつけてくる。これでは夫も自分を守ろうという意識が無自覚に芽生え、子どものためにもという気持ちから妻に対して敵対的な感情を高めてしまうのは、人間だから当たり前のことです。

支援相談員の問題点は、
・ 妻の心理的状態を肯定しようとすることばかりを考えている
・ 客観的事実を知ろうとしないため、本当にDV等夫による一方的な行為が行われていて、家族による解決が不能な状態なのか判断しないで、一律に家族解体の方針を押し付けること(それでもマニュアルに従って「離婚を決めたのはあなた自身ですよ」という逃げ道は用意している。)
・ つじつまが合わないことやあやふやことを不問に付して、感情的な行動でも是認されると妻に思わせること
・ 不安の原因はすべて夫婦関係にあるという皮相な考えに立っていること、そのために内科治療、精神科治療など、真の原因の解消のアプローチをさせないで病状を悪化させる危険のあること、
・ 妻の心理状態をすべて肯定するため、妻の考える力を奪うこと
・ 現在置かれている妻の環境を自力で改善する方法を奪っていること

こうやって、妻の不安を解消することなく、夫を攻撃する紛争の心理状態にすり替え、事実上選択肢を奪って、DVのない事案であっても家族を解体しているということです。
相談員は、困っている人を見て「大丈夫あなたは悪くないよ。不安になる必要はないよ。」と自分が言ったことで、泣いていた相手が笑えば、それは楽しいでしょう。他人のために自分は役に立っていると思うでしょう。充実しているでしょう。しかし、それはその人の家族をみんな不幸にして、特に子どもたちに取り返しのつかない発達上の問題を与えてしまう危険があるのです。

また、それは、人を馬鹿にしていることにもなると思います。

「DVを受けるような女性は、事実関係を記憶しておらず、言っていることが曖昧で、自分が夫からDVを受けているかどうかもわからない人間なのだ、その家庭は夫が悪で妻が善というどうしようもない相手と結婚してできた家庭なのだと、主として夫は治療できない精神的、人格的に問題がある人間であり、妻はそんな夫に従属して生きるしか能がないから分離して一人で生きさせなければどうしようもない人間だ」と
善意ですから自覚はしていないでしょうけれど、そういう思想が背景にあることにはならないでしょうか。

一部の相談組織は、実際にそうやって夫から分離した妻に対して精神薬を投与するために、避難所入所の条件として精神科医の受診を義務付けていることがあるやの情報がありますが、こう考えればそういうこともするかもしれません。

そもそも真実がどうあれ「寄り添う」のだという態度ほど、人を馬鹿にした態度はないと私は思います。人間をダメにする態度だと思います。

つまり相談所の使っている意味での寄り添うことや「あなたは悪くありません。」ということは、一時の快楽を呼び起こして後々深刻な悪影響が起きる阿片なのです。


マニュアルに従って相談を受けている人たちは、おそらく善意であり、目の前の苦しんでいる女性の肩の力が緩む姿を見ているから、自分の行っていることが間違っているかもしれないとは決して思わないでしょう。
しかし、肝心なことは、いま語られていることが真実ではないのではないかという想像力と、このまま離婚してしまったらこの女性の将来がどうなるのだろうかということと、目の前にいない子どもたちの将来がどうなるかということをイメージできていないことでしょう。

善意かもしれないけれど、「あなたは悪くない。夫のDVがあるのではないですか。」というマニュアル行動によって、家族解体行動をしているのかもしれないということを少しだけでもよいので考えてみてほしいと思います。また、相談を受けた人がその後どのような人生を歩んでいるのか、そのことにも興味を持っていただきたいと思います。


後回しにした二つのお話し。(逆に本文の説得力が地に落ちるかもしれませんが)

<楽しい記憶が思い出せなくなる構造の試論>

「思い出すということは、その時の体験を追体験することだ」
ということを述べました。
過去の出来事、例えばテーマパークに遊びに行ったときのことを思い出しているとき、
テーマパークのキャラクターと握手をしたときに、とてもうれしくて興奮していたという体験をしたとします。
この時の映像が頭のどこかに蓄積されているわけではなく、その時に生じた体の中の神経やホルモンの変化などの状態変化を追体験して、その神経回路のつながり具合を再現することによって、その時の状況がイメージとして再現するということが近いと思っています。神経自体が回路を自発的に形成されているとは考えにくいため神経回路自体が記憶しているのではなく、その時々の神経回路を形成している司令塔(どちらかと言えばガイドライン)のようなものが過去の神経回路のつなぎ方、ガイドの仕方を記憶しているのではないかと思っています。その最有力候補はグリア細胞です。もうこれは言い切るしか私には脳はありません。

人間が出来事に反応する場合、実際は喜びとか恐怖とか一つの単純な感情が起きているわけではなく、様々な感情が複合しているため、それぞれの出来事には個性があり、他の出来事との区別が可能になるのだと思います。我々が思い出すということをするときには、この複雑な神経回路の形成を感じ取ることができることによって、立体的に把握することができ他と識別できる像が結ばれるようです。

後々、その時体験したテーマパークやキャラクターに対して、同じような感覚を持ち続けていれば、神経回路の再形成がスムーズに行われて記憶が比較的正確に再現されるわけです。いつまでも「楽しかったなあ」と思い出すことができるわけです。

ところが、そのキャラクターが例えば犬をモチーフにしたものだとして、そのテーマパークに行った後で犬にかまれるなどして、すっかり犬に対してイメージが悪くなってしまっていれば、「犬のキャラクターと楽しんだ」という追体験はなかなかできなくなるはずです。その人の記憶では、犬は警戒するべき対象だということが優先されるようになるはずです。そうすると、犬と握手をすることは現在ではとても怖いこととして警戒するべきことだという神経回路の形成が優先されますので、「握手ができて嬉しかった」という神経回路は再形成しにくくなるわけです。

こうして楽しい記憶が追体験できなくなる、つまり思い出せなくなるという具合に考えられないでしょうか。追体験する材料が失われてしまったわけです。

対象が同一でも、対象に対する評価が変わってしまうことによって、不完全にしか追体験できないし、場合によって思い出させなくなってしまうということはこういうことだと思うのです。

さらに余計な話ですが、
数字を記憶する場合も、われわれ普通の人は語呂合わせで覚えることが多いと思います。語呂合わせをすることで何らかの感情を込めることができるため、数字であっても記憶に定着するということなのだと思います。現在の教科書からは消えましたが、「1192年の鎌倉幕府成立」と教えられていた我々は、「いいくにつくろう鎌倉幕府」と語呂合わせで覚えました。その時に、なんとなく、「平家の人たちは悪い人たちだから、平家を滅ぼして源氏が晴れて幕府を開いていい国が作れる。おめでとう」という感情をもつので、この感情の微妙な神経回路の変化で記憶が定着しやすくなったのではないかと考えています。毒にも薬にもならない「数字」自体は、我々に感情的な体験をさせませんので、神経回路をそもそも形成しません。だから回路の再形成という形での思い出しということができにくいのではないかと思っています。この点、数字の一つ一つに何らかの感情を持つ人(1は正義感、2は柔軟性、3は神秘性、4は潔さとか)は、数字についてとんでもない記憶をもつことができるはずです。



<不安解消要求の必要性と危機回避のメカニズム> 後回しその2

不安とは危険が迫っているという認識です。不安を感じることで、危険を回避しようと行動するのですから、生きていくためには必要かつ基本となるシステムです。どうやら、①危険事実の覚知 ⇒ ②危険であるという評価 ⇒ ③不安に備えた生理的変化(交感神経の活性化など) ⇒ ④不安(危険)の自覚 ⇒ ⑤不安解消要求 ⇒ ⑥不安解消行動という流れがあるようです。

もしかしたら④と⑤は、一つの事象かもしれません。つまり、不安というのは現在している危険を解消したいという心理なのかもしれないと思っています。ここでは不安解消要求に焦点を当てるので、説明のために別の事象として扱います。

例えば、蚊がブーンと飛んでくる羽音をきいたら、「あ、刺される」と思うわけです。ブーンという音は①の危険の覚知です。脳の中で、この音は血を吸い、かゆくする蚊が近づいているという評価をするわけです。これが②です。それはまだ意識としては自覚していません。その前にすでに生理的変化が体内で起きていて、蚊をたたいて殺すことに有利に、体を動きやすい状態にしているようです。これが③。そして、それにわずかに遅れて、蚊に血を吸われるのは嫌だなという意識が生まれ(④)、蚊をたたいて殺そうと思い(⑤)、蚊をたたくわけです(⑥)。

せっかく体が蚊をたたくのに都合よい状態になっても、蚊を殺して血を吸われないようにしたいという要求がなければ、蚊に刺されてしまうことになります。

不安という嫌な気持ちになって、早くこの嫌な気持ちを失くしたいという要求があることによって、危機回避行動が確実なものになるという関係にあると思います。だから不安解消要求は人間が生きていくために、基本となる大切な要求であり、この要求があることで人間はより命をながらえることができるのだとかんがえています。

何度か本文に出てきましたが、これが太古の時代であれば、人間の危険は身体生命の危険だけなので、このシステムは生きるためにうまくゆく問題のないシステムです。しかし、人間と人間(仲間と別の仲間)の利害対立等、人間の生きる環境が複雑になったため、太古の昔にはなかった人間関係に起因するストレスが人間にとって解決困難な不安を抱かせる要素として出現してしまいました。太古の昔になかった不安の継続、不安解消要求の持続というストレスに対しては人間はそれを解決する方法が進化の過程では獲得できていません。つまり、人間は太古の環境になじむように脳が深化したけれど、現在の環境には対応していないという脳と環境のミスマッチが起きていると私は考えています。

しかしながら、「脳と環境のミスマッチ」なんてこと言う学者はいないこともあって、この⑤の不安解消要求についてはあまり考察されていないようです。私(対人関係学)は、このミスマッチによって生じる、解消できない不安解消要求の存在が、自死、離婚、犯罪、多重債務など社会病理の説明に重要な概念だと思っています。

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【調査官調査を受けた元子ども達の話の分析】子どもが、離れて暮らす親の実際にはない暴力や虐待を自ら話し出す心理過程。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

必ずこうなるという話ではなく、一つのサンプルとしてご理解いただければと思います。

子ども(10代前半)が親から隔離された事例がありました。5年間親子が切り離されたのですが、その後子どもは社会に放り込まれ、制限がなくなったので、親子の交流が当たり前のように再開しました。普通の親子よりも仲が良く、助け合って生活している微笑ましい関係がはたから見てもわかります。

それでも、離れ離れになったときの子どもの発言の記録や、家庭裁判所の調査官調査において、子どもは離れて暮らした親から毎日のように暴力を受けていたとか、暴言を吐かれていたということを言っているように記録されていました。親は子どもと一緒に生活できるようになったことがうれしいので、子どもの前では言いませんが、私の前に来ると、その時の子どもの発言に対して怒りを表明してしまうということがあるのです。子どもの「公的な」発言に傷ついていて、場合によっては親子の信頼関係もなくなる危険があるという不幸が継続している状態です。

私が親に対して「それは嘘だったんだ」と一喝すると、親も我に返ってニコニコ顔に戻るので事足りるのです。でももう少し、どうして子どもが針小棒大な発言、半ば虚偽の発言をしたかまとめっておこうと思いました。その子が、その時の自分の心情を、独特の言い回しで話してくれたのです。このお子さんは、自分を客観的に見ることができ、語ることができる能力の高い方のようです。

まず、子どもが親元から離されると、親元に帰りたいということしか考えないようです。当たり前と言えば当たり前なのですが、この子どもの当たり前の気持ちは、多くのケースで無視されます。
そして、「自分を親元に返せ」ということを強く希望するそうです。このお子さんは「泣き叫んだけど、相手にしてもらえなかった。」と言っていました。
このお子さんは性格的に、あるいは年齢的に、自分の意思をはっきり言葉にすることができた人だったのですが、おそらく多くのお子さんたちは、特に10歳未満の人たちは「帰りたい」という気持ちさえ言葉にできないのではないでしょうか。「この先、自分はどうなってしまうのだろう?」という不安に押しつぶされそうになっているのではないでしょうか。
ただ、言葉に出せるかどうかはともかく、本当に虐待されていた子ども以外は、強く家に帰りたい、元居た場所、自分の親の場所に帰りたいと思うようです。

通常この切実な子どもの要求は、かなえられません。これは子どもにとって理解が難しいことです。自分がこれまで生きていて、なじんでいた場所に帰れないということがあまり理解できません。混乱が継続するようです。「当たり前の場所に帰る」という自分の要求がかなえられないという事実だけを少しずつ受け入れていくようです。

この「受け入れ」は大きな意味を持ってしまいます。
人間は、「自分」という存在を認識する場合も、単独の個体としての自分を観念することはできません。親との関係、友達との関係、地域との関係などの他者との関係の中での自分の地位、他者との比較において、自分ということを把握しているわけです。子どもの場合は、親との関係で自分を観念しているわけです。親から尊重される自分、親から小言を言われる自分、家族の中の自分という感じですね。それにもかかわらず、家族や親を一瞬にして奪われてしまえば、「自分」という存在もあやふやになってしまうため、強烈な不安に襲われるのは当然でしょう。子どもながら、パニックになっている可能性があります。
子どもを親から引き離すことは、子どもにとって、取り返しのつかなくなるような精神的負担を課すことになりかねませんので、本当に必要のある場合に、必要性の範囲で行うことが必要だということになります。

次に、元に戻りたい。家に帰りたいという願いは、自分を返してくれという願いですから、とても切実な願い、要求です。それにもかかわらず、理由もわからないまま自分の要求が実現しないという体験をすることになります。「自分の願いはかなわない。自分の要求は実現しない。」ということを学習してしまうことになるようです。無力感に支配されるようになります。

親の離婚を経験した子どもたちも、同じような感覚になるようです。強い無力感を味わった子どもたちは、「仕方がない」ということを覚えていくようです。自分の思い通りにならないことは仕方がないことだ、それが当たり前のことだと思うようになるようです。希望を持つことをやめ、まずあきらめることから考えるようになるということは大変恐ろしいことです。

あきらめることを覚えた子どもたちが次に行うことは、自分が迎合する相手をみつけることです。誰に逆らわないことが苦しみが少なくなるのか、どういう発言が受け入れられやすいのかということを覚えていきます。

あるお子さんは一人の大人に、あるお子さんは全部の大人にこびるようになっていくようです。別のタイプのお子さんは、大人にケアされることをあきらめ、コミュニケーションを自ら断つような行動傾向になるようです。
もしかすると、あきらめによる目の前の大人とのコミュニケーションをとることを、一部の大人は順応というのかもしれません。

子どもは大人たちが、自分にどのようなことを言ってほしいか、必死になって探し当てようとします。しかし、その「言ってほしいこと」は、親の悪口であることが通常です。それは子どもにとっては、自分の存在を根底から否定することを自分の口から言わせられていることになります。

他方子どもは親に対して罪悪感を抱いているようです。

この罪悪感は、子どもが小学校入学の直前頃の年齢から見られる感情です。自分が親と住んでいないことに子どもには何の責任もないのですが、一緒に住んでいないことに後ろめたさを感じているようです。離婚事例の初めての面会交流で小さなお子さんが、別居親と会って大泣きして「ごめんなさい」と言っている様子はとても痛々しいものです。

この罪悪感から、大人の期待している発言をしないで、親を擁護する発言をするのかというと、それは違うのです。子どもは、既に親と生活することができないというあきらめがあります。また、第2希望の今いる場所で安心して暮らしたいという要求もあります。また、罪悪感を処理しなければなりません。多くの子どもたちは、親と離れて暮らしていることを合理化しようとしてしまいます。今住んでいる環境の中では、親に問題があったから親から離れて生活せざるを得ないのだという刷り込みが、どんなに注意して子どもに接していても結果的には継続して行われているのですから、子どもは親の悪口を言って、自分の罪悪感を減らそうとしてしまうようです。親の悪口を言うことで、自分の今の望まない環境を受け入れようとしてしまうようです。

それでも大事な一線は超えないようにしようとすることが多いようです。自分が親から離されている根幹の原因となった出来事については口に出そうとしません。その事実が無くても「無い」とは言いませんし、もちろんあったとも言いません。肝心の「そのこと」については語ろうとせず、その代わりに別の暴力や暴言を針小棒大に語りだすようです。調査官は肝心なことについて尋ねようとはしませんので、肝心のその事の真偽は不明のまま調査は終了します。

物理的にあり得ないことまで話し出すということがありました。どうしてそんなことを言ったの?とその本人に尋ねたところ、「確かに、そんな事実はなかった。自分がそんなことを言ったという記憶もない。でも書いてあるから言ったのかな?」ととても頼りない答えしか返ってきませんでした。何か発言の下書きがなければ言えないことなのですが、それは体験した事実でないとするならば、誰かの話をまねたということなのかなと考えています。

いずれにしても家庭裁判所の調査では、子どもの言った「言葉」が重視されてしまって、子どもの真意についてはあまり関心が無いようです。どうしてその発言を子どもがしたのかという子どもの感じ方まで掘り下げられていないようなのです。これは、実際に出来事が存在した場合でも、子どもの心理の流れ、発言に至る流れについて十分に考察がなされることによって、子どもの現在の心理状態が把握でき、親やその他の大人たちが子どもにどうかかわるのがベストかということの資料になるのです。子どもが言ったことが正しいか虚偽かにかかわらず、子どもの発言の由来をよく吟味する必要があるはずです。

これをしないのは、ある子どもが置かれている環境が子どもの心にどのような影響を与えているかという考察や、発達段階にある子どもの心理過程や成長過程についての考察が不十分で、あたかも家庭の中で子どもが平穏に生活しているかのように考えているのではないかと心配になっているところです。

この原因として、聞き取りに十分な時間が取れず、考察にも十分な時間が取れないということを背景に、調査官自身が求められた結論を忖度して、表面的にそれに沿うような資料が得られると、それを生の事実として提示して、求められた結論に結び付けるということが起きていないか、大変心配になっています。

また、子どもたちは、年齢にはよりますが、小学校中学年くらいより上の場合は、調査官調査では調査官しかいない場所での聞き取りであることは知っていますが、その調査結果はいずれ自分の生活の拠点の人間も読むことになる、いずれ知られることになるということをよく知っています。調査官調査の結果から、大人から文句を言われた経験を持つお子さんであれば「ああまたか。」というあきらめが先に立ってしまうわけです。そういうことで自分がすこしでも楽になることを言おうとするわけです。それを言うことによって罪悪感を減少させようという本能もあわさって、事実よりもそういうことを優先するわけです。

こんなことを言うと、「それでは調査官調査ができないではないか。」とご心配になる方もいらっしゃると思います。しかし、子どもとの面接の方法というのは実はよく研究されています。調査官は、子どもの言葉をそのままうのみにすることは本当はないはずなのです。いろいろな可能性をあらかじめ想定しており、子どもが発言した言葉の源流はどこにあるのか、どのような過程でそのような言葉を発したのか、本当は何を言いたいのかということを、肝心な場面、特に子どもの意思が述べられている場面においては十分に吟味するように指導されているのです。そうすることによって、調査官は子どものこれから先の長い人生に対して責任を持った意見が述べられるわけです。

「子どもはこういっている。それはこういう体験や、こういう子どもが置かれている環境からの発言である。そうするとこういう発言の真意はこういうことだと考えるべきであり、子どもはこういう希望を本当は持っている。」という流れが調査報告書の調査官の意見では記載されていることになります。
「子どもはこう言っている。だからこうするべきだ。」という単純な記載は、それはプロの記載方法ではないということになるでしょう。



親権者を決める場合の調査官調査についての考察は以下の記事で行っています。
調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-29

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【妻の離婚理由がわからない場合のヒント】特に大きな出来事がないのに生じる妻の夫への恐怖感と嫌悪感の「理由」についてのまとめ。「一度嫌になったらもう気持ちは戻らない」とはこういうこと [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 今回の記事はこんなことを言います。
前回の記事と取り扱う対象は同じです。離婚理由が曖昧でも離婚意思が固い場合の妻のその気持ちの理解についてです。今回は裁判所や行政機関、あるいは弁護士の「ある思考パターン」が事実を理解しにくい構造を持っているということを問題提起し、十分な理解を行うためにどうしたらよいかということから説明します。

2 夫婦問題やメンタル問題と原因の関係についての発想の落とし穴
前回の記事で述べたのですが、妻が離婚したいけれど離婚理由が曖昧だというケースで離婚事件がこじれる原因は、代理人が妻の心情を正しく理解していないこと、正しく伝えることをしないこと、裁判所が有利に見てくれそうな事情を主張してしまうこと、それらのことのために事実を針小棒大に主張したり、虚偽の事実が真実であるかのような主張をしてしまったりするためだと言いました。

裁判所や行政が、その人の心理の変化、特に対人関係によってメンタルの不調が生じる流れについて、十分に理解できないことには「ある理由」があります。ちなみに、このようなメンタル不調という損害が生じる事案は、離婚事案だけでなく、いじめ事案、パワハラ事案も代表例です。それぞれの事案に裁判所も、弁護士も、行政も、かかわるのですが、多くの場合同じ理由で十分な理解ができていないと常々感じています。

結論から言いますと、その「理由」とは
メンタルのダメージを受けるだろうエピソードやライフイベントというスポット的な出来事を探し出して、そのスポット的な出来事の強度とメンタルダメージの程度が相関関係にあるという発想をしているからです。

この思考パターンでは、スポット的な出来事の程度が強い出来事ならばメンタル不調が出現して大きくなる。その反対にスポット的な出来事が弱い出来事ならば、メンタル不調は小さくなるはずだからそれでもメンタル不調があるとすれば別の要因があるはずだ。という思考ルーティンになってしまうことです。

では、私はどのように考えているかという結論部分をお話ししましょう。
メンタル的なダメージは、その人が自覚的あるいは無自覚に、自分の大切な人間関係だと位置づけている人間関係において、「自分が尊重されていないと感じる『状態が継続』する」ために生じる。
というものです。

スポット的な出来事は、その継続する人間関係の状態を示す要素になるに過ぎない
という位置づけをしています。

3 私がメンタル事案で心掛けている行間の説明
だから、裁判でも行政認定でも、スポット的な事実を証明するだけでなく、私は行間から推測できるその人の置かれた人間関係の状態、そしてそれを反映した心理状態を説明することを心掛けています。これまでの自分が担当した裁判例、行政認定例をみても、これがとても有効だと確信しています。認定基準に示された「出来事(サンプル)」だけでは、なんともメンタル不調になる実感が持てなくても、あるいは事実が本当にそのサンプルの示すケースに該当するのか確信が持てない場合でも、行間の状態を説明することによって説得力がでてきます。行間の説明をすることによってスポット的な出来事の精神に与える強度も表現できる関係にあるようです。(ただそうだとしても、特に行政認定はマニュアルですから、スポット的出来事の該当性について主張立証をしないということは、致命的な誤りにはなります。スポット的出来事に引き付けて主張立証することは必須です。)

4 メンタル不調の原因となる「仲間」とはどういう人間関係か

ここでいう、「その人が大事に思っている(無自覚の場合も多い)人間関係」とはどんなものでしょうか。これは、人によって程度は違うということも真実だと思います。通りすがりの人との関係も大切に感じる人もいれば、毎日顔を合わせる人との人間関係もそれほど大切に思わない人もいるでしょう。しかし、概ねないし多かれ少なかれ、人間に共通する要素があると思います。

1)相手が人間だと思うと期待してしまうことがある。
人間の心が生まれたのは約200万年前だというのが認知心理学のコンセンサスです。この時代、ほとんどヒトが出会うヒトは、自分の仲間しかいなかったはずです。ヒトだけど仲間ではないヒト、自分に危害を加えるヒトはいなかったと思われます。このため、現代でもうっかりと人間であれば仲間だと思ってしまうことがあります。つい、自分に対する親切なふるまいを期待してしまうとか、相手を助けようとしてしまうことがあります。特に自分の置かれたその時の状態によっては、見ず知らずの人間に期待をしてしまい、期待が裏切られると自分が仲間から尊重されていないと思ってしまうことがあります。
例えば、お店の店員さんや、路上での通りすがりの人であっても、その人が他人に対して期待をせざるを得ない状態に陥っていたら、過剰な期待をしてしまうことがあります。期待に応えない場合は傷ついたり、怒りをもって反撃したりということが起きるのはこういう仕組みです。

2)単純接触効果
ただ、平常の精神状態だとしても、「物理的に自分の近くにいる人間、及び、反復継続して顔を合わせる人間」は放っておいても仲間だと思ってしまいます。これは心理学でいう「単純接触効果」というものです。人間は進化の過程で嗅覚が衰えてしまいましたから、200万年前であったとしても匂いで仲間かどうかを判断することが難しくなっていました。このため嗅覚でしか判断できない血縁などよりも、このような物理的な事情の方で仲間だと判断してしまうようです。その方が、群れを作りやすく、近親相姦を避けて強い群れができやすかったのではないでしょうか。

3)仲間として必須のもう一つの要件は一緒にいて安心できること
但し、いつも近くにいて嫌味ばかり言っている人に対しては単純接触効果による仲間意識は表れにくいということになることは当然です。「自分が尊重されている」、「少なくとも攻撃されることはない」という安心感があると、より仲間という意識が強くなり、その人が近くにいるだけで安心できるようになるようです。反対側から言うと、いつも近くにいて、顔を合わせている人間に対しては、自分を攻撃しないでほしい、安心させてほしいという要求が生まれているようです。

5 群れの中にいて安心することが切実な人間の要求であること

1)群れを維持するためには不安の解消が必要であること
そうだとすると
安心させてほしい相手から安心させてもらえないと、それ自体がストレスになるわけです。つまり人間は、そばにいて顔を合わせている人に、自分を安心させてほしいという要求を生まれながらに抱くようです。これは群れを作る霊長類一般にそのようであり、人間以外の霊長類は「毛づくろい」をしてお互いを安心させているとのことです。

2)不安の解消の生理学的効果
人間は、昼間に生じたストレスを癒すために、つまり安心する必要があるために、群れに戻っていたとも言えると考えています。

つまり、昼間は獲物を探すこと、獲物を倒すために戦うこと、その間肉食動物から襲われないように警戒すること、など緊張して交感神経が活発な状態で活動します。交感神経が活性化して血圧や血液の移動する量、心拍数等をはじめとする体内変化が生じます。これが「ストレス」という言葉の意味です。もし緊張が解かれないでそのまま交感神経が活性し続ければ、血管が破綻しやすくなり、破れたり詰まったりしやすくなるほか、免疫機能が低下するなど、早死にする原因になります。

ところがそうはなりにくいようにちゃんとできています。人間の体は良くしたもので、夜間は緊張を解いて体も心も休んで、副交感神経を活性化させるしくみになっています。副交感神経が活性化されることよって、昼間のストレスで傷ついた体のメンテナンスがよりよく行われるようです。

仲間の中に帰ることによって安心することは、この副交感神経を優位にするためにとても効果的だということになります。昼間と違って夜は、自分の仲間だけであり、何かあったらみんなで対処してくれるし、群れにいる限り自分は攻撃されないし、食べ物もある。こうして一人で森をさまよっているよりも格段に安心できる状態になるわけです。
群れの機能はエサを探すこと、肉食獣から身を守ることだけではなく、交感神経と副交感神経の交代をスムーズにより効果的に行うこと、特に群れの安心感によって副交感神経を有効に高めることによって、人間が長生きできるようにするという大切な機能もあるのです。出産時から成体になるまで異様に時間がかかる人類は、この成体が長生きすることは種を保存するためになくてはならないことだった思います。
いろいろなヒトが実際はいたと思います。しかし、群れに戻って安心できるという人間だけが群れを形成して長生きをして子孫を育てることができたのだと思います。即ち、そうやって、群れに戻る、群れで安心したいという要求が本能として遺伝子に刻み込まれたのだと思います。
そのことを別の側面から表現すると、群れから離れることを極度に恐れ、群れにとどまろうとすることによって群れを維持することができたのだろうと考えています。これは、概ね人間に共通の「心の形」だと思います。

6 群れの仲間から攻撃されることの心理的効果

安心できる群れの中にいたいという本能があるために、群れの仲間からの攻撃は、それだけでとてつもないストレスになるのだと思います。このストレスは二種類のものがあります。
近くに自分を攻撃する存在があれば、常に警戒をしなければならない。安心できないストレスが持続してしまうという即自的なストレスがあるでしょう。
もう一つのストレスの形は、群れの中で自分が攻撃されるということは、自分はいつまでもこの群れにいられなくなるのではないか、群れから出ていかなければならなくなるのではないか、群れを持たないで生きていかなければならないのではないかという予期不安というストレスです。

安心したいのに攻撃されるというカウンター攻撃は現在と将来に対する不安を掻き立ててしまい、群れで安心したい、群れの中で生活したいという本能を傷つけてしまいます。生理作用に直接悪影響を与えるストレスと、群れにいたいという本能を傷つけるストレスの二つのストレスが生じます。このストレスは、事態が改善しないことによって、ますます高じていき、誰か助けてくれという要求や期待が高くなり、それがかなわないことで、さらに傷ついていくわけです。

7現代人にとって大切な群れである家族
効果的に副交感神経を発揮させるためには、副交感神経が優位になる夜間の時間を共に過ごす群れが人間にとって最も大切だということになると思います。現代社会で一番ふさわしいのはもちろん家族であり、夫婦です。人間にとって家族の果たすべき機能こそ、「安心」感を与え合うということになるわけです。

8 典型例に見る妻が夫を安心できなくなる流れ

ところが妻にとって、夫の存在が安心できない存在であれば、妻のストレスは軽減されず、蓄積されていってしまうということになるでしょう。その状態が継続してしまうと、夫が仲間だという感覚が無くなっています。夫が近くにいることで苦しくてたまらなくなると思います。

どういう事情が安心できない事情かということを典型例を組み合わせた架空事例を考えてみましょう。

<暴力事例>

一口に暴力といっても、その後の流れはさまざまです。たとえば
・ 妻が八つ当たり気味に夫に対していってはいけないことをかなり言いすぎてしまったという事情があり、
・ 妻にとって夫の怒りの流れがよくわかる場合(実際の事例では、妻に夫の行為の原因となる自分の行為の記憶がなく《ヒステリー状態》、自分が暴力を受けたという記憶からしかない《我に返ったから記憶が再開》ケースが多数あります)で、
・ かつ夫の反撃も妻の身体生命に打撃を与えようとしたのではなくもっぱら妻の行動を制止しようとしたような形態で行われた場合は、
・ その後の夫の態度次第ですけれど、
妻もあまり引きずらない場合があるようです。妻の方は、何に気を付けて、どこまでなら安心なのかという基準がわかれば、今後自分の行動に気を付ければ、夫の暴力がないと予測を立て、安心することができます。

これに対して、意見の食い違いや、夫が要求したことをなかなか実現できない場合等に多いのですが、妻が夫の暴力を「予想もしなかった無防備な状態」のところに「突然」暴行を受けたという場合は、特にそれが身体的に大きなダメージを受けた場合(頭部にあざができたなど)ほど、被害者の妻自身が自覚をしなくても、夫に対する警戒感が解けにくくなる場合があります。妻自身が暴力を受けたことさえも忘れていても、妻は無意識の中で夫が予測不能に自分に危害を与える存在だという評価をしてしまっているようです。危険の因果関係が理解できない場合は、自分で危険回避の方法を腹に落とすことができません。むやみやたらに警戒してしまうようになってしまいます。この心の流れが自分自身でも自覚できないことから、妻はその後、夫の言動に対して無意識に逆らわないようにしてしまうようになっていきました。夫の存在は、自分に対して危険を与える存在だと意識に上る以前の認知の段階で評価が定まっていくようです。うっかりした自分の夫に対する行動が夫の自分への暴力のきっかけになるのではないかという恐怖と、夫からの自分への働きかけがあるとそれが不意に暴力に変化するのではないかという恐怖となるわけです。どうすれば夫が自分に暴力を振るわないようになるかわかりませんから、ありとあらゆる刺激をしないように、逆らわないように、常に神経をとがらせて心休まらない状態になってしまいます。

こうして、一緒にいることが苦しい、不自由な感じがする、どうしてなのかわからないけれど怖い、そういうことが蓄積していくようです。

但し、その後、そういう暴力が二度とないだけでなく、仲間として尊重されている実感を持てる出来事があるならば、徐々に警戒感を解くことができるようになることもあるようです。新たに安心感を獲得していくという作業が頭の中で行われるようです。無意識に頭の中で、この人は仲間なのかしら敵なのかしらということで、敵という要素もあったけれど仲間という要素もあるなというシーソーが揺れている状態ということなのでしょう。そして、人間に限らず動物は、無駄な警戒感を維持することができないようになっているようで、安心できるという体験が続いて心配しなくてよいという学習していくと警戒感を解いてしまうようです(馴化 じゅんか)。

しかし、暴力後、新たな暴力が無くても安心できるエピソードが無いということになると、この馴化がスムーズに起きないため、夫に対して警戒感が解けず、仲間であるという評価ができなくなることがあるようです。この場合、妻の限界は自分でも自覚できないまま突然やってきます。些細なきっかけで妻は離婚を決意します。

この事例での調停や訴訟などでのダメな法律論争は以下の通りです。
妻:離婚理由は夫の7年前の暴力にある。その後最近、ギャンブルをしていたことが発覚した、もう復縁は考えられない。離婚の意思は固い。
夫:15年の結婚生活の中で暴力は一度きりである。その後も夫婦は穏やかに共同生活をし続けた。あの時の暴力が今更離婚原因だなんて後付けの理屈だ。ギャンブルと言っても小遣いの範囲で投資をしただけであり、違法なことは何一つしていない。誰にも迷惑をかけていない。

もっとダメダメなケース
妻:(暴力を忘れているし、代理人も聞き出さない)離婚の理由は、自分に内緒でギャンブルをしていてことである。子どもに必要な費用も出さないで、勝手に財産を浪費していることが発覚し、子どものお年玉にも手を出していて、信頼関係が持てない。
夫:ギャンブルと言っても違法性はなく、小遣いの範囲で行っているだけだ。家のお金に手を出したこともなければ子どものお年玉を使ったこともない。手を出す必要もない。内緒とは事実に反する。投資で利益が出たときに家族で焼き肉を食べに行っている。その時は妻も投資がうまくいったことに喜んでいた。

これと似た事案で、1審妻が敗訴したのですが、控訴審から私が代理人について、丹念に過去の暴力からの妻の心情を解き明かして控訴審で和解が成立しました。

<中絶を行ったこと>

妻:経済的な理由から子どもを産むことを反対され、中絶を余儀なくされた。それにもかかわらず、夫は高価な趣味の用具を内緒で買ったり、夫の両親に買い与えてもらったりしていた。そういう事態が長年続いたため、離婚の意思は固い。
夫:中絶は二人で決めたことで、私が強制したわけではない。妻も納得していたはずだ。趣味の用具と言っても必要なものだ。両親が私に買ったことと離婚は関係がない。

なかなか難しい問題ですが、結構多く離婚のケースで離婚理由になっています。中絶の女性側の負担ということの知識も必要ですが、そのことによって体の負担以上に、自分の健康が気遣われていないという精神的負担に着目するべきだと思います。それから、中絶の施術それ自体が精神的にもダイレクトにダメージを与えるということも理解する必要があります。命を奪ったという罪悪感も女性は大きいということも当たり前なのですが、どのように大きいのかということも代理人が言葉にするお手伝いをしなければならないでしょう。当たり前のことを言葉にすることこそ難しいことです。ここが弁護士の腕の見せ所になります。

お金の使い方の問題も、妻が何を期待したのかということを考える必要があります。この場合の妻は、夫婦のお金や夫の金銭援助は、夫婦というユニットに対して援助してほしいと思うわけです。夫個人については必要でもないことにお金を使って、自分のことについては1円も使わないつもりかという感情になっているわけです。これは、自分以外のものが仲間であり自分だけ仲間として認めてもらえないという人間にとってつらい気持ちになる事情となっているわけです。
とりあえず、まず離婚理由や損害賠償といった違法性の問題と切り離して、妻の離婚の動機ということで共感できるようになることが先決です。ここでいう共感とか、むやみに感情の追体験をするのではなく、「そういう状況であればそういう感情が起きますよね」という理解をするということです。

<大きなエピソードのない事案>

1)何も大きな出来事が無くても離婚をしたくなる事情

「エピソードよりも、エピソードとエピソードの間の状態の方が重要だ」という理論は、突き詰めると、さしたるエピソードが無くても、日常生活に仲間だという意識が持てなくなるような状態が継続していたり、むしろ夫が敵だという意識を持たざるを得ない状態であったりすると、それだけで妻が夫に安心できなくなり、夫の存在が不快や恐怖になってしまい、「妻の心の中では離婚原因になる」ということにつながります。これが離婚理由の曖昧な離婚意思のなりたちです。

2)妻が夫に仲間として求めている事項
まず、人間が仲間に対して何を求めているかということを整理しましょう。

・ 仲間であると認識できる事情は、自分が仲間として尊重されていると感じる事情である。
・ それは、自分がしてほしいことをその仲間の人間にしてもらっている事情 である。
・ そうするとその仲間に対して一緒にいて安心したいという気持ちが強くなり、仲間と一緒にいることで安心したい。昼間のストレスを癒したい。ということになり仲間にそれをしてもらっているということになる。

具体的な妻(夫)の要求として、
・ 健康を気遣ってもらいたい
・ 自分一人損をさせられたくない(差別されない)(プラスの意味で特別扱いをしてほしい)
・ 自分の努力に感謝してもらいたい、労をねぎらってもらいたい
・ 自分に不利益が与えられたら謝罪してもらいたい(それがあってはならないこと、将来に向けてやらないことを約束してほしい)
・ 自分の判断を承認してもらいたい
・ 自分の感情に理解を示してほしい
・ 自分が困っているときに助けてほしい 失敗を許してほしい。
・ 自分がうれしいときに一緒に喜んでほしい
などでしょうか。

3)日常生活での典型的な妻の夫に対する要求
もう少し日常生活に引き付けて考えてみましょう

例えば、家族より早く起きて朝食の用意をしたり、お弁当を作ったりすれば、
「いつもありがとうね。」と言われたり
「今日は俺がちゃっちゃと作るわ」とか言われたいわけです。
体調が悪くて熱を計っていれば
「大丈夫?」と聞いてほしいわけです。
仕事から帰ってきたら、「お疲れ様」と言ってほしいし
夕飯を作れば「おいしかったね。」と言ってほしいわけです。
その他の家事を自分がしたとしても、ほめてほしいわけです。
花を飾れば「いいね」と言ってほしいわけです。

これは人間である以上男性も女性も基本的にこういう要求を相互に求めているようです。ただ、どちらかと言えば、女性の方が仲間扱いをしていることを「言葉で表明してほしい」と感じている傾向があるように思われます。

4)妻の求めに必要なことは夫の「言葉」

そして、男性が勘違いしているのは、そういう夫の「心」を求めているのではなく、あくまでも「言葉」等はっきりわかる形を求めているということです。心までは求めないのなら、実は要求はかなり控えめなのです。ここを男性はなかなか理解できない。感謝の言葉、謝罪の言葉、そして表情が足りないようです。(スポット的集まりにおいては、女性のパーソナリティ障害が目立たたないのですが、その理由は、スポット的な付き合いにおいて、この「言葉を出すこと」ができるからであり、相手の心情に合わせて自分の顔の表情と変化させることや、声のトーンを調整することができるからだと思うのですがいかがでしょうか。)

5)夫の行動の言い訳を妻から見たらどうなるか。
もしこういう要求を女性が持っているにもかかわらず、言葉が不足している男性が、心のままにふるまったらどうなるでしょう。

毎日のことで、心の中では感謝しているからいちいち声に出すのは煩わしい、恥ずかしい、格好悪いということで、何をしても感謝の言葉を声にしないし、表情も変えないということになるとどういう気持ちになるでしょう。あるいは、自分だって家事を分担しているのに相手だって感謝の言葉を言わないから、自分は家事を分担していないけれどその分会社で神経すり減らしているのに給料をいれても感謝されないからとか言い訳をしているわけです。
といっても、言い訳しようと思うだけマシかもしれません。自分が無口なことの何が悪いのという男性もまだ現役かもしれません。

妻は否定されないことを求めているのではなく
肯定されて安心したいのです。

妻から見れば夫の「肯定のサボタージュ」は
まるで乳幼児が母親からいろいろお世話されているように、一方的にお世話されていることが当たり前だと思っている
と受け止めていくようです。通常の夫は赤ん坊やペットみたいにかわいいものではないので、一方的なお世話を要求される存在は王様か奴隷の主人みたいな存在に見えてくるようです。

令和の時代は、女性が働くことが当たり前になっているという事情もあり、妻の夫に対する要求度ないし期待も高くなっていると考えるべきです。専業主婦が大勢だったころと現代では、女性にとっての仲間に対して求める事項も改変しているということです。妻が自分の努力を自覚している分、ねぎらいとか、感謝とかの言葉を出してほしいということになるのだと考えておいた方が無難だということになりそうです。「時代の変化に対応する」という新たな課題を現代人は課せられているのでしょう。

ある離婚事例における妻から見た夫の一日は、
朝起きても何も言わない。目も合わせない。
朝ご飯を食べるときも、新聞を読んだり、テレビを観たりしている。(これがチンパンジーならば目を合わさないことが紛争を回避することになりますが人間の場合は逆のようです)
「ごちそうさま」くらいは言うかもしれないがそれ以上言わない。
着替えをして出勤する。その間与えられた家事を行い、ゴミ袋を出したりするかもしれない。
会社から帰ってくると、玄関で「ただいま」くらいは言う。
家のレイアウトが変わっても、妻の髪型が変わっても気が付かない。
ビールを冷蔵庫から出して飲みながら夕飯を温めて食べて、風呂に入る。
インターネットを見るなり自分の時間を過ごして寝る。

休みの日も、頼まないと外出に車を出さず、旅行や外食に行っても、にこりともしないし、店の批評、大体はネガティブな批判を行ってばかり。いつも後ろからついてくるような感じ。
家族のことを相談しようとしてもタイミングが全くつかめない。

こんな状態が続いてしまっても、夫は家族のために自分は頑張っているという意識があるので、そこにしがみつくわけです。しかし、夫に何が起きているのかについては全く報告がないので、家族は職場の夫の姿を想像することも難しいです。

これでは、夫の肯定のサボタージュは、
妻を肯定しないということ以上に
妻からしてみれば「自分は夫から価値を否定されている」と感じることと同じように感じている危険が出てきます。

6)さらに妻の被害感情を高める夫の行動と妻の感情の流れ
妻を肯定しないだけならまだよいのでしょうけれど、多くのケースではそれ以上の事情を夫は作ってしまっているようです。
・ 妻の行動による家の中の変化に気が付くと、文句を言い出す。
・ 妻や子どもが失敗すると責めたり、批判したり、嘲笑したりする。
・ 妻の意見に対して、デメリットばかりをクローズアップして反対する。
・ 妻に文句を言ったとき夫が自分で誤解したりした時も謝罪しない。
・ 自分が悪いと気が付いたら逆切れする。

普段何も言わないのに、こういうことだけこまめに言い出してしまうと妻としては、
夫が何か言いだすと、いつも自分や子どもの批判ばかりなので、
「言い出すと悪いことが起きる、自分を守らなければならない」
という条件反射が起きてしまう。
これが続いていくと、夫が家にいるだけで、いつ文句を言われるか戦々恐々となり常に警戒をしてしまう。夫が留守にしていると開放感を感じてしまうようになってしまうのも自然の流れかもしれません。
そうすると、夫と離れて、ウインドウショッピングをして開放感を感じているときに、夫の背格好に似て同じような服装をしている男性を見ただけで、息が止まるようなショックを受けて、パニック症状を起こすという流れもわかるような気もします。

安心できない存在の夫と一つ屋根の下に住んでいる。安心できない家は息苦しくなり、もし夫と一緒に暮らさないでも生きていけることがわかったら、多少貧しくなっても自分の人生を生きたいと思うという流れも何となくイメージができるような気がします。

結局は暴力があった事案となかった事案は、妻の心情において変わらない結果が生まれるということは大いにありうることなのかもしれません。

9 通常は夫の行動だけで妻の感情が生まれるわけではないということ

そもそも妻も誰かから強制されないで自分から結婚したわけですから、最初は二人の安心パターンが実行されていたわけです。最初あったものがいつしか無くなっていったと考えるほうがリアルだと思います。
1)妻側の事情
一つは出産です。一つは年齢に応じた体調の生理的な変化です。それから職場などの家の外での人間関係です。
これらの事情によって、夫の行動が無くても、妻が不安を感じやすくなっていることが多いようです。離婚事例の場合、離婚問題が俎上に上る前から妻はクリニックに通院していることが多くあります。

上記の事情は、「このために自分が不安になっている」ということは、実際は自覚しにくいので、漠然とした不安と不安を解消したいという焦燥感だけが意識に上っています。

それから案外多いのは、妻が夫の言動に逆らえない事情がある場合です。
夫を好きすぎて、夫から嫌われたくないという気持ちがとても強くなって、それでも自己肯定感が低いために自分の行動に自信がなく、常に自分の行動が夫から愛想をつかされているのではないかと心配になってしまったケースがあります。その後の行動をみると、妻に何らかの事情でうつ状態が生じていた可能性があるように思われます。

妻の性格、あるいは結婚前の人間関係などから、いつしか、妻が夫の言うことに反論できないようになっていたケース。例えば、夫は会社などで部下を動かす仕事をしていて、妻は上司の言う通り作業を進めることが求められている仕事であったとか。
こういう夫が悪いとか妻が悪いとか言えないケースでも、妻は不自由な思いを抱き、自分で自分のことを決められない、両腕を縛られているような感覚をもってしまうようです。そして夫に逆らうことで何か悪いことが起きるということを不安になりますから、不安から解放されたいと思うようになるようです。夫が暴君であり、自分を支配しようとしている。仲間という対等な関係ではなく、自分は奴隷のような扱いを受けていると感じていくようです。


2)支援者の夫婦破壊
そこに来て、夫の肯定のサボタージュが起きたり、とんでもないカウンセラーや支援者の、「あなたの不安は、夫から精神的虐待を受けている場合のあらゆる要素に当てはまります。あなたは夫からモラハラを受けているのではありませんか。」という悪魔のささやきと、そもそも自然発生的に自責の念を抱いている妻に対する「あなたは悪くありません」という言葉は、自分の不安や焦燥感は「夫が悪いからだ。」という意識を植え付けて固定化します。肯定のサボタージュ、ネガティブ発言、さらには事務連絡的な発言まで、ありとあらゆる夫の行動が、離婚原因に該当する「違法な行為」ということにされてしまうわけです。

3)夫側の事情 肯定のサボタージュとネガティブ発言のルーツは職場

夫の場合も体調の変化が原因になることが多いです。しかし、これまで担当していたケースの事情を見ると、家の外、特に職場での人間関係に問題があることが多いようです。
夫の職場や取引相手との中の夫の状態に注目しなければなりません。このように夫が無口になったり、表情が変わらなくなったり、行動力が落ちる背景として、職場の長時間労働などの過重労働やパワハラが原因になっていることがよくあります。隠れた一番多い離婚原因と言ってもよいと思います。

職場で、
・ 自分の行動が正当に評価されていない、
・ 訂正を求めることができず昇進もできない。
・ 信頼関係で取引していたのに、一瞬で打ち切られて別の会社に取られてしまう。
・ 頑張ってもできないことをやれと言われてできないとののしられる。いつ辞めてもらってもよいのだというような扱いを受ける。
・ 職場の出来事が悔しくて夜眠れない。

こういうことが続くと、「およそ人間は信頼できないものだ。自分に害を与える存在だ。」という学習をしてしまいます。四六時中自分を守っていないと付け入られて不利益を与えられてしまう。そんな人間関係にどっぷりつかってしまうと、家に帰っても、妻や子どもの些細な言動も自分に対して不意打ちを打とうとしているように反射的に身構えてしまうようになるようです。「あなたなんでそんなことを怒っているの?という不思議にさえ思う怒りが確認できることがあります。」そもそも夫こそが、職場の働き方が原因で、家庭に帰っても癒されない頭の構造に変えられてしまっている可能性が大いにあります。
しかし、男は、なかなか弱いところを家族に見せられないようです。もしかすると、そういうことで悩んでいること自体に批判をされると、立ち直れなくなると思って、悩みを打ち明けられないでいるのかもしれません。
そして、自分が低評価されることが一番いやなのは妻からの低評価なのだと思います。「それは自分のせいではない。」、「それは誤解だ。」、「私はそういうことを思っていない。」と、会社では言えないことを妻にならば言えるので、むきになって相手の低評価を否定したくて、頑張ってしまうということがよくあるようです。夫も、妻との関係にも安心できない状態になっているわけです。

仕事の内容でうつ病になって、それが妻の誤解を生んで離婚になったケースもありました。会社内の人間関係には問題はなかったのですが、取引相手との関係で大きな問題があったことと極端な長時間労働から体調がおかしくなりうつ病と診断されていました。家の中では夫は行動力が極端に低下して、食事をとるとき以外は自室にこもるようになっていたようです。妻とのコミュニケーションも極端に無くなっていました。うつ病の診断については妻も知っていました。それでも妻から離婚を求められたのですが、こちらはいろいろな証拠を提示して、離婚理由はうつ病によるものだから離婚を考え直してほしいと争ったのです。ところが妻は、うつ病ではなく、妻を嫌い妻を否定する行動だと思い込んでどうしようもありませんでした。うつを否定した一つの論理として、子どもとは感情豊かに接していた。自分に対してだけ不機嫌な顔を向けていたということがあります。うつ病の人は、争うことが極端に苦痛になるようです。妻と口論になることを避けて自室にこもっていたということは事実でしょう。また、子どもはそんなうつ病の人にも希望ですから、残された精神的エネルギーを文字通り振り絞るようにして喜ばせていたのでしょう。それが妻から見たら自分だけ嫌われていると思ったポイントの一つだったようです。

今考えるとかなり象徴的な事案だったようです。

10 終わりに

人間を人間とも思わない風潮が蔓延すると、それが職場や社会を通じて、人の心を荒ませるようです。その矛盾は必ず家庭に吹き込んでくるように思います。だから、結婚した時は円満な夫婦も、長年月の中で一方がむしばまれていって他方も自分が嫌われていると自分に原因を求めてしまうことが随分多くあるのです。
現代の夫婦は、無防備な状態で小舟で荒波に漕ぎ出しているように思われます。

まずは、夫婦はお互いに、安心させあうという行動をしなくてはならないということをお話ししました。夫が妻を攻撃するときで多いのは、「妻が自分を不当に低評価している」と不安になっている時かもしれません。一方的に安心させるということはあまり効率的ではありません。また夫婦が相互に安心させる姿を子どもに見せることは、子どもが健全に成長していく何よりの特効薬だと思います。人は人を尊重するものだということを示すことで、自分に自信が持てるようになるように感じます。こういう親の行動を見るだけで、子どもは人生がとても楽しくなるはずです。

特に言いたいことは、夫や妻に不具合が生じている場合、浅はかに「相手に原因がある」という決めつけはやめるべきだということです。人間の心理は複雑です。いろいろな人間関係を形成しなくてはならない現代社会では、この複雑さが極限に達しているように思われます。他人の家庭の中のことを30分やそこいらの相談会で真実を把握することなんて不可能です。もし、「あなたが悪いわけではない。」ということをどうしても言いたいのならば、「でも相手も悪いとは限らない。」と必ず言うべきです。

現代社会は離婚だけでなく、パワハラや成果主義賃金を初めてとする働き方の問題、学校でのいじめ、学校外でのいじめ、消費者問題、健康問題と環境問題と、切れ目のないストレスが多数存在し、ストレスで不安や焦燥感が消えず、生きにくい状態となり、自死の危険もあります。それに無防備に夫婦がさらされています。夫婦や家族という核となる群れが良好に群れの機能である安心感を相互に与え合うことが客観的に求められているのではないでしょうか。それなのに家族を解体する方向だけが、公的圧力になっているように思われます。家族を強化する方向での働きかけが存在しないように思います。人間を安心させるという、社会や国家の役割が果たされていないということが大問題だとして、議論が起きるべきだと思っています。

無駄な組織、無駄な立場、無駄なグループから自由になって、家族というコアな人間関係を大切にする風潮を作ることに貢献していきたいと思っています。

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曖昧な離婚理由から見えてくる切実な妻の苦しさ 家族再生を目指す場合に行うべき「考え」の準備 [家事]



離婚原因で一番多い理由が「性格の不一致」だとされています。これは、裁判所が用意した離婚調停申立書の書式には、いくつか離婚理由が掲げられ、自分の場合に該当する理由の番号を丸で囲んで答えるようになっているのですが、その一番多かった丸がこの性格の不一致ということなのだと思います。

以前にもお話ししましたが、元々他人同士ですから客観的に性格が一致しているという夫婦はまずありません。繁殖期特有の「相手に合わせることが楽しい」時期の勘違いか、どちらか一方が努力して合わせているということが「性格が一致」することの実態だと思います。夫婦なんてそういうもの、それで良いのだと思うのですが、裁判所は、性格の不一致は離婚理由と認める可能性があると考えて、用意した書式の中に理由の一つとして掲げているのでしょう。

その夫婦の性格の不一致が(裁判では離婚理由として認められない程度だとしても)、調停申し立て上は離婚理由として挙げることができるものですから、いわば離婚申立人の申し立てにおける「救済事項」として機能しているように感じます。つまり、はっきりした離婚理由を、調停申し立ての段階にあっても言葉にすることができない人が多いこと、それでも離婚したいと思うという人が多い、そういう人は離婚理由を性格の不一致にするということが離婚調停申し立ての実態ではないでしょうか。

だったら「離婚したい」という気持ちもあやふやなのかというと、そうではなく、離婚の意思は固いという方がほとんどです。離婚調停を申し立てるくらいですからね。

このように、他人から見れば離婚理由はあやふやなことが多いのですが、それでも調停手通期の中で何とか努力をしてもう少し具体的な理由を聞き出すことに成功することもあるのですが、せいぜい以下に紹介する程度です。これらより具体的な話が出ることはめったにありません。

・ これまでの同居期間中のいろいろなことの積み重ねが理由である。
・ 私の提案に対して夫はいつも同意しない、共感しない。不快な表情をする
・ 私のすることに夫は感謝しない。些細なミスの文句を言う。ダメ出しだけされる。
・ 物を投げられる。子に当たる。子どもに厳しすぎる。
・ 私の役割(家事や年収)について評価しない。
・ 夫の判断で行動しなければならず、自分で自分のことを決めることができない。
そして
・ 自分の不満を察してくれなかった。改善してくれなかった。(自分からは不満を述べたこともなければ改善を提案したこともないことが多い)
・ 我慢を続けてきたけれど、もう限界である。

こんな感じが典型的なのです。
夫のある女性の方々、あるいは前に夫がいた女性の方々からは、もしかしたらよく共感できる話なのかもしれません。しかし、世の夫たちからすれば、「これがどうして離婚理由になるの?」という感想が多いのではないでしょうか。

統計的にあいまいな離婚理由が増えているかどうかはわかりませんが、私の担当する離婚事件には、相変わらずといった感じでこんな申立てが多いという実感があります。

肝心なことは、
離婚理由はあいまいだけれども離婚意思は強い
ということなのです。

なぜ離婚意思が強いのかという最大の理由が不明のままで離婚手続きは進行します。ここが離婚手続きがこじれる最大の原因にもなっていると思います。

そして、夫側からすれば、理由がない、理由が曖昧であるということから理屈、論理、道徳、常識、子どもの健全な成長の観点からの離婚を思いとどまるように説得するのですが、あまり意味がないということが結論というか傾向というかという状態です。それほど離婚したいという気持ちは強固です。

おそらく、離婚したいということは、理屈の問題ではなく「感情の問題」だと言ってよいのでしょう。男性は、感情の問題というならば理由としては一段弱いように扱うと思います。自分が普段行っている仕事では、感情的に嫌だからといって仕事をしないわけにはいかないし、取引をしないわけにはいきません。そんなことができるのは、とても立場が強い相手だけです。夫婦という対等の立場で、嫌だから離婚するという話はないだろうと、男性的発想ではそうなると思います(私が妻の代理人の場合、夫の代理人(男性)からは離婚したいというのは妻の「わがまま」だと指摘されたことがあります。)。

ややこしいことに、弁護士は男性女性変わりなく、先ほどの例えで言えば「取引の習慣」で裁判手続きを行いますから、妻側の弁護士は、離婚理由として裁判所が判決で認める可能性が高いと想定できる「具体的な事実」を主張してくるのです。理由が曖昧なのに言葉で説明してしまう、つまり無理をして言葉にしてしまうのです。この時、妻が「離婚したい」という心理過程をよく聞きだせていれば、離婚調停は迅速に無駄なく進んでゆき、離婚後も「しこり」が残りにくい離婚ができます。しかし、先入観とマニュアルで主張を組み立ててしまい、突っ込んで話を聞いていないし、その結果どうして離婚をしたいのかの理由を漠然とでも理解していないしとなると、事実関係が針小棒大なものとなったり、ありもしない事実まで付け加えられたりしていると夫側が感じてしまうような主張になってしまいます。だまし討ちをされている感覚ですから、言われた方は頭にきて、妻の言っている事実は全く違うということを大声で(比喩ですが)主張していきます。それに妻側も自分の主張を守るために必死に応じますから、離婚手続きは泥沼に入っていくわけです。これではせっかく離婚をしても「しこり」が双方に残ってしまいます。葛藤が鎮まらない傾向がいつまでも続いてしまいます。

夫婦を再生させたいというご希望を持つ人が、増えてきたような気がします。なかなかうまくゆきませんけれど、いくつかの成果も上がっています。親同士が同居を再開するということは夫婦の年齢が若い場合以外は実例が乏しいのですが、子どもをめぐって、子どもの成長に多く関与できるようになったという実例も増えています。夫婦としてはやり直すことはできないけれど、近くに住んで、子どものことを中心に協力し合いながら生活している元夫婦もいます。

夫側として、曖昧な離婚理由に対する対処の方法をお話しします。つまり、子どもの成長に一緒に住んでいない親がかかわるときはどうしても一緒に住んでいる親の同意が事実上必要になります。同意を勝ち取るためには、感情的に、同居親の子どもへのかかわりを承諾するに必要な、最低限度の信頼関係が必要になります。この最低限度の信頼関係、あるいはそれ以上の信頼関係を構築する方法のお話です。

妻の夫に対する不合理な感情を理解することが第一です。なかなか自分が嫌われているということを認めることは発想として難しいです。「もし、本当に自分が嫌われているとすれば」という仮説にから始めることも手段としては有効かもしれません。

口で言うのは簡単ですが、なかなか難しいことです。
なによりも、夫としては、自分では思い当たらないことを理由として攻撃を受けていますから、どうしても自分を守ろうとするのです。これは生き物である以上当然のことで、理解ができることです。また、それだけでなく、子どもを連れ去られて別居されていればなおさらのことです。そうすると、妻が言っている離婚したいという理由も嘘ではないのだろうか、あるいは離婚したいということ自体も何か別の理由があって離婚をしたいのではないか。そういう風に思ってしまうことから自由になれる人間はなかなかいません。疑心暗鬼になってしまうことはむしろ当然のことだと思われます。

しかし、離婚を申し立てる妻の多くは、感情的には切実に離婚をしたいと思っています。ここを認めないと、打開策は生まれないように感じています。妻の心情を頭の中で理解することは必要だと思います。妻は、夫が考えている以上に夫に対する嫌悪感と恐怖感を持っているようです。

夫は、妻の心がそんなことになっている事情に心当たりがありません。こういうケースであっても、たいていはDVがあったわけではない。特に暴力をふるう夫というのは令和の時代ではあまり見聞きしたことはありません。昭和の時代とは社会認識が随分変わっています。どうして妻は夫に嫌悪感だけでなく恐怖感も感じるのでしょう。それはどのくらい強いことなのでしょうか。強さだけを言いますと、裁判所を通じてでも離婚をしたいくらい強いということが残念ながら結論です。

通常は、夫の由来ではなく不安を感じやすい状態になっているように思われます。産後うつなどの体調の変化が妻に起きているようです。特に理由がなくても、漠然とした不安を感じやすくなっています。どうしても毎日安心できないという感情で落ち着かない状態になっています。そういう状態の上に様々な人間関係上のストレスにも過敏になっています。「せめて家にいるときだけでも、安心したい」ということが、どうやらこういうケースでは先行した妻の心持のようです。

しかしながら、夫は、妻の体調に問題のないとき(例えば妊娠前、例えば病気の発症前)と同じようにしか妻に接することができません。多くの夫は妻に対して対等のパートナーとしてため口をきき、妻が何か失敗したら反射的に妻を注意してしまう。あるいはからかってしまう。夫の妻に対する要求度はいつしか高くなっており、昔なら「いいよ。いいよ。俺がやるからいいよ。」といっていたことが知らないうちに少なくなっている。信頼度が高くなることで要求度や期待が高まってしまい、肯定的評価を形にするハードルが高くなっています。やって当たり前という気持ちになっていますから、感謝や慰労の言葉がなかなか出てきません。なかなか妻の提案に同意するという機会も少なくなっています。またこれも多くの事例で関係があるのではないかと感じているのは、年齢が高くなり耳が聞こえにくくなると声が大きくなります。どうやら40代くらいで夫の声は大きくなります。明らかに妻がやらかしてしまうと、夫は遠慮がなく、自信が過剰となっていますので、大きな声で叱責したと妻かららするとそう受け止められるような声で発言をしてしまうわけです。

夫が妻に対して要求度や期待値が高くなっていると同じように、妻も夫に対して自分の不安を解消して安心させてもらいたいという要求度や期待値が高くなっているわけです。現代日本の孤立した家族は、家族同士に対してしか不安の解消を求めることができないという事情もあります。家族が自分の不安を鎮めてくれる最後の砦と考えるとわかりやすいかもしれません。子どもに自分の不安を鎮めることを期待するというのも少しおかしいので、勢い不安を鎮めてもらう相手は夫しかいないということが多くの日本の夫婦関係なのです。

それにもかかわらず、家族のための妻の行動をねぎらうことも感謝することもなく、失敗については几帳面にダメ出しをするということになると、夫の発言は「常に自分に対する批判,否定の発言だ」という印象を持ってしまいます。「夫は安心できない存在」ということになります。また、なんらかの妻の失敗で夫が迷惑するとか、妻がつい攻撃的な行動と疑われる行動をすると、夫は自分が攻撃されていると真に受けてしまい、怒りが沸き上がってしまいます。それでも暴力をふるう夫は本当にほとんどいません。しかし、腹の虫がおさまらないため、家の壁やドア、ゴミ箱を蹴って八つ当たりをするという事例をよく耳にします。夫からすれば、妻に対して暴力を振るわないという意思表示なのです。妻からすれば、暴力の予告でしかありません。

こうして、妻からすれば、夫はダメ出し等による自分という存在に対して否定の言葉ばかり出す存在であり、かつ、これから暴力を行うことを予告する恐怖の存在だということになってしまうわけです。自分のすべての不安の根源が夫だという悪魔のささやきに抵抗することができなくなってしまうわけです。

そして、以上のような流れの中で、夫は自分が妻を否定する言葉を言っていることや物に八つ当たりして妻を恐怖に陥れていることに気が付かないわけです。自分にそんな攻撃的な気持ちがないため、相手がそう思っていることに気が付きにくいようです。

これが離婚調停の始まりのようです。

この流れを理解したうえで、対処方法を考えていきましょう。

離婚調停などでの相手方の主張が針小棒大であれば、あるいは虚偽であれば、正しい事実関係はこれだとしてきちんと示さなければなりません。これはできる限り事務的に行うことがコツです。そして、妻側が「虚偽の事実をでっちあげてもこちらを攻撃している」という風には受け止めないで、あくまでも「曖昧な理由で離婚の意思を強めているのだ」という現実を受け止めて、そこに対処しようとすること、これが大切です。ヒントを言えば、「事実」については正確に主張するけれども、その時の妻の「感情」については推し量ってその存在を認めるということが基本型です。「そういうことはなかったけれど、そういうことがあったような感覚、感情を持ったことは事実かもしれない。」という感じです。

(事実に反することを認めてしまうと、後々大きな問題が起きてしまいます。子どもへの関与が決定的に不利になった事案もあります。後から面会交流調停を依頼されたのですが、判決という永久に残る公文書に書かれたことはいつまでも影響を持つわけで、現在の調停と過去の判決に対する反論と二回分の手続きをしなければならないという決定的な不利な状況になってしまいます。離婚裁判と保護命令手続きでは真実が何かについては徹底して主張、立証をする必要があります。)

実際の事例でも夫も、「妻の心情」についてはどうやら認めやすいようです。そのような表現をすることに概ね賛成してもらっています。これがうまくいくと、裁判手続きは劇的にうまくいくことが多いです。

むしろ夫側代理人が、妻の代理人が気付いていない夫婦の全体像を把握して、妻の代理人よりも妻の心情に対して理解し、さらに共感を示すことはとても有効です。これはそれほど難しいことではありません。これをやりましょう。

つまり、
・ 理由が曖昧だ、だから理由がない、離婚意思も強くないと考えることは誤りです。
・ 理由が曖昧だ、離婚意思も強い、だから理由が別にあるはずだというのも誤りです。下手な妻側の代理人の発想です。これが、針小棒大やでっち上げの理由を主張せざるを得なくなる構造で、他人を、特に子どもを不幸にする訴訟活動につながるわけです。
家族再生派は、
理由が曖昧だ、しかし、離婚意思は固い。それでは、その心情を言い当てて、妻を安心させようということになります。

では、どう対処するべきなのか。
妻が漠然とした不安を抱くようになる理由としては以下の者が代表例です。
・ 体調の変化(産後うつ、内分泌系障害、精神疾患、婦人科疾患、薬の副作用等)
・ 夫の行動(始終ダメ出し。感謝、慰労の言葉が少ない。論理的な説得や合理的なしきりに反論できないことから自分で自分のことを決められない等)
・ 家族以外の人間関係(職場、実家、友人関係など)の行き詰まりによる持続的なストレスによる精神疲労
これらの理由で、結論として「夫との夫婦の関係に安心ができない」というベースになってしまうと、
それ以前の愉しい出来事の記憶が失われたり、記憶が悪く改変されたりしている
ということが多くみられるようになります。

不思議だと気が付くべきです。

何にって、どんなに警察や男女参画の相談員が、ありもしない夫のDVと殺人の危険を吹き込んでも、あるいは離婚をビジネスにする弁護士が離婚に誘導しようとしても、
あんなに仲の良かった妻が夫から遠ざかる、離婚を強く求めるということにはならないはずだということをです。

そうであれば、どうするか。つまり記憶の喪失、改変とどう戦うかです。
先ほど述べたように事実と反することは事実と違うということを継続的かつ穏当な表現で主張し続けるということも大切です。ここは「妻が言っていることは違う。でっち上げ、虚偽だ。捏造だ。」という言い方ではなく、「ほらこうだったじゃないか。こうだったよね。」ということを、視覚的、聴覚的、味覚的、そういう具体的な事実を上げていくことが大切なのです。「楽しかったじゃないか」という抽象的なこと、心情的なこと、あるいは結論的なことを言ってもあまり効果は無いようです。

もう一つの方向として、過去について忘れているならば、これからのこちら側のかかわりで、
安心できるという記憶を新たに積み重ねていく
という地道な作業を行っていくという方針を立てることがよほど建設的だと思うのです。

残されたかかわり(面会交流だったり、ラインがつながっていたりだったり、最終的には調停の場を利用して)を大いに活用して、夫側の相手を否定しない、感謝を示す、慰労を示すということをこまめに行っていくわけです。夫から発せられた言葉を聞いてもなんら傷つくことはなく、癒されていくだけだという記憶を積み重ねていくということです。

この時も、夫の方が、うつ的傾向、悲観的傾向、無力感、あるいは妻に対する怒りを抱いていると、こんなことをやっても、相手は心を動かさないだろうと思いがちです。
しかし、だからと言って、相手の言葉を何でもかんでも全面的に否定して、怒りをあらわにして、ますます嫌悪と恐怖を高めることは、どう考えてもメリットがありません。逆方向にまっしぐらです。プラスの方向に行くことで、はっきりした結果は出ないとしても、ボディーブローのように潜在的効果が蓄積されていくことは間違いありません。

離婚は避けられなかったけれど、面会交流は拡大していくという事案は、この作戦が功を奏しているケースばかりです。相手を安心させる作戦を実行する人たちです。

ぶっちゃけた話、ここだけの話をすると、離婚意思の堅い妻たちも、夫に対してやり直しの幻想を抱いていることを、一瞬だけですがはっきり見せていることをよく見かけます。第三者からすると「おや、おや、おや。」と驚く出来事が離婚調停のさなかでも見られることがあるのです。ところが、夫の方が妻に対して、わけのわからない攻撃しかしてこないという混乱をしてくるからでしょうか、妻のサインをあっさりと見逃してしまい、相変わらず感謝なし、ねぎらいなし、謝罪なしの三拍子そろった対応をしてしまうのです。善意を善意のまま受け止められなくなっているようです。ここで、妻のいじらしさ、かわいらしさに気が付けばみんなハッピーになるのにと一人で悔しがっていることが結構あるのです。

無駄でもやって損のあることではないのですが、なかなか理屈通り男も行動できないようです。

離婚の意思は固いけれど、連れ去り別居をした妻も本当は仲良くやりたいという第一希望があるようですし、離婚しても嫌われたくないという気持ちがある場合もすくなくありません。論理的ではないのです。そのサインを見逃さずに、安心させる対応をすることによって子どもへの関与の方法が拡大していくようです。

だから、成功した人たちを思い起こすと、当事者と私で調停期日の後と言わず、待ち時間と言わず、大激論をしていました。私の方で口が酸っぱくなるくらい、「妻の行動はこういう意味だ。」、「こういうことをするべきだったのに、しなかった。」、「それをやりたいのはわかるが、今はその時期ではない。かえってぶち壊してしまったらかわいそうなのは子どもだ。」と言い、それに抵抗を示されてという感じですが、自由に言い合ったことが成功につながったと思います。そういう方々は何年たってもお子さんの近況を教えてくれたりします。こういうこともできるようになったという報告も来ることがあります。仕事やっていてよかったなあと涙ぐむ瞬間です。

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子どもが安心できる居場所としての「親」とは何か。子どもが両親に安心できない事情。子を連れての別居事例から学んだこと。 [家事]



1 子どもの親の悪口を言うこと

離婚事件を多く担当するようになってつくづく思うのが、子どもがなおざりになっているということです。

昨今言われていることは、離婚が子どもに与える影響よりも、夫婦が争っている状態が子どもに悪い影響を及ぼすということです。二つにはとても大切な違いがあります。離婚をしなくても、深刻な争いがあれば子どもが不安定になりますし、離婚をした後でも、親同士が憎しみ続ければやはり子どもが不安定になるということなのです。

母親が子どもを連れて別居したけれど、子どもが独力で父親の家に帰ってきたという事例を何件か見ています。特徴的なことは、
・ 母親のもとにいるときに、母親や母親の両親や兄弟が子どもの父親に対して憎しみの感情をその子どもの前であらわにしている場合、
・ そして連れられて行った兄弟間で差別される場合
の二つの事情が、子どもが独力で父親の元に戻る多くの場合の、原因、きっかけになっています。

子どもからすれば、父親も母親も区別がつかないくらい好きですから、自分の親の悪口を言われることはとても嫌なことだとわかります。悪口を言うのが実の親だとしても、自分の親の悪口を言われることはその場にいることが耐えられないくらい嫌なことなのです。

子どもは、今は別れて暮らしているけれど、「また親子みんなで生活したい」とどうしても思ってしまうようです。それもあって、相手の悪口を言う親を見ると、その望みがかなわないことだという現実を見せられることに苦痛で仕方がないためその場所から出ていくのでしょう。悪口を言わない方の親といることが安心できるということなのでしょう。悪口を言う親は子どもの居場所になりにくく、悪くいを言わない親は子どもの居場所になりやすいということを表していると思います。

子どもが戻ってきてもしばらくは、父親は、子どもが自分に味方をして、つまり子どもが父親と母親を比較して父親を選択したから戻ってきたわけではないということをわきまえています。子どもを迎え入れた父親は母親の悪口を言いません。酸いも甘いもかみしめている父親の周囲の大人たちも気が付いており、子どもが母親のことを低評価しようとするときには、「そんなことを言わなくてよいんだよ。お母さんのことを好きで当たり前だよ。」とたしなめています。

しかし、裁判所が不可解な調査のもとで子どもを母親に引き渡すように命じるころになると、話がおかしくなってくることがあります。理由はともかく子どもが父親と生活がしたくて生活をしていたのに、裁判所が勝手にさしたる理由もなく母親に子どもを引き渡せと命じた理不尽に憤るようになっていきます。この怒りにはさすがに周囲も同調してしまいます。子どももどうして他人である裁判所がまた家族全員で暮らすという自分の切実な願いを踏みにじるのかという思いがありますから、裁判所の命令が出ても守ろうという気持ちは弱く、母親のもとに引き渡されたのちも、子どもは頻繁に父親のもとに来るようになってしまいます。

裁判所の理不尽な決定に対する怒りは、その後の離婚や財産分与にも悪い影響を与えてしまい収拾がつかなくしてしまいます。双方の感情的対立は相乗効果で激しくなっていきます。負のスパイラルは続き、当事者の親兄弟まで参加して、裁判外でも紛争がエスカレートし、警察官の出動要請という事態にも発展する場合もたびたびあります。こうなってしまうと、当事者も精神的に不安定になってしまい、結果的に、父親も母親に対しての負の感情が激しくなっていきます。そんな中、ある事例では父親も無自覚に子どもの前で、母親に対するいら立ちの感情を口に出してしまっていたようです。

どうしてそんなことを言ったかはわかりません。父親が自発的に言ったのか、母親が子どもに言い聞かせたことを子どもの口から聞いて思わず反論したのかそこまではわかりません。結果として、子どもは、信頼をしていたもう一人の親が他方の親を悪く言う声を聴いてしまいました。子どもはその後問題行動を起こしてしまいました。子どもが精神的に不安定になり、投げやりになり、人間に対してぞんざいな対応をしてしまったという流れなのでしょう。精神的に不安定になったのは、母親のもとでいたたまれなくなったときに逃げてきた父親という安心できる居場所がなくなったからかもしれません。子どもには安心できる自分の居場所がどこにもなくなってしまったと感じたのでしょうか。その後子どもは、父親の元に戻らなくなってしまいました。

元々は子どもが住んでいる場所から、親の都合で転居させられてしまうことに子どもが居場所を求めたくなる気持ちになる一つの原因があるということは言えるでしょう。
連れ去られていった子どもが自分の居場所として元の家に戻りたいというサインを出すことは本当に多いです。理由は様々です。
元居た地域に友達が大勢いるということも人間にとっては重要な理由です。連れ去りは、そのような子どもの大切な関係も一切奪ってしまいます。
お父さんと離れて暮らしたくないということもそれは多いです。母親が嫌いなわけでもないけれど、父親との別離がたまらなく寂しいということは当たり前でしょう。子どもは父親と母親とどちらを選ぶかという選択を迫られるべきではありません。
多くの子どもの願いである、また家族で暮らしたいという理由ももちろんあると思います。
今いる場所がいろいろな意味でなじめないということもよくある理由のようです。

子どもが誰よりも親を慕う感情、親に居場所を求める感情は、未熟な形で生まれてくる人間が生き延びるために不可欠な本能です。これを否定することがいかに恐ろしいことかを考えるべきです。子どもをかわいがるのであれば、子どもの前で子どもの親を否定してはなりません。昭和の時代の教養のある人たちは誰に教わることもなくみな実践してきたことです。

しかし、親の片方を支援する人たちは、事情も知らないくせに、子どもの前であることを一切気にせずに、もう一人の親の悪口を言います。教養のない人だというだけでなく、物を言わない子どもの利益をこれっぽっちも考えない人なのです。そういう人間に自分や子どもの未来を託してはなりません。やがて子どもはあなたから離れていくことになるからです。

だからと言って私は父親を責めたいわけではありません。もともと子供の居場所になっていなかった母親が悪いというつもりもありません。子どもを第一に自分の感情を制御するということはそれほど簡単ではないということだけは間違いのないことだということは理解できます。そして、タイミングとして理性的な行動ができなくなる事情が必ずあり、それはその人だけの責任ではないと感じているのです。

対立はどんな人も変えてしまうようです。初めは理性的な対応をしていた人も、争いの中にいることで、自分を守ろうとしてしまうのは無理のないことです。自分で自覚していないうちに、立ち居振る舞いや言動、考え方が荒っぽくなっていくようです。自分を守ることに精一杯になると他人に対する配慮ができなくなっていくようです。その負の結果は、常に子どもに向かいます。子どもに深刻な影響を与えてしまいます。

2 憎しみの感情を見せること

自分でも思い当たることなのですが、夫婦のもう一人に対する攻撃ではなくても、子どもにとって何か自分に関連していると感じてしまうようなことで、親の一人が他の誰かに対して憎しみの感情を高ぶらせて自分を制御できない様子を見るということが、子どもにとってその親のところは、自分の居場所として安心できる場所だとは思えなくなるのかもしれません。ネガティブな感情があらわにされていれば、もう一人の親に対する憎しみが表出していない場合でも子どもは安心できなくなるということです。

それでも感情を高ぶらせざるをえない事情はあります。会社のこと、社会のこと、地域のこと、現代社会は怒りの感情の種が、あちらこちらであるようです。連れ去り別居に伴う相手方以外に対する怒り、憎しみの感情はその最たるもののようです。
子どもを連れ去られた親は、孤立していきます。裁判所からも警察署からも、相手方の代理人弁護士からも、場合によっては職場からもDVをふるう人間だとして、みんなが自分に敵対しているように思える扱いを受けます。社会の中で自分だけが孤立しているように感じやすくなっています。そういう状況では、鬱になるか、負けないで戦うかということしか選択肢としては無いようです。

多くの子どもと別離を強いられている人たちが、裁判所や相手方の弁護士や行政などに対して怒りを持っています。その気持ちは無理がないと思います。そういう風に気持ちを張り詰めていかないと、くじけてしまうだろうことも理解できます。実際連れ去られて残された父親の自死の連絡は毎年のように届きます。別居された夫が自死することは暴力サイクルという理論を作ったレノア・ベーカーも「バタードウーマン」という著書の中で述べています。

しかし、子どもの前で「正当な」怒りを表すことで、子どもが不安になり、落ち着かない状態になるということもまたどうしようもない真実です。特にSNSでの発信は、要注意です。最近の気の利いた子どもは年齢によっては父親のSNSを探し出して閲覧していることが多いです。そこで、だれかれ構わず喧嘩を売っているような親の記事を子どもが見たら、子どもは父親が自分の安心できる居場所だとは思わなくなるでしょう。父親のもとに近寄ろうとはしなくなると思います。

純粋に怒っている親が怖いということもありますが、自分が親と同居していないことに自責の念を持っている子どもは驚くほど多いようです。怒っている親を見ていると、自分が責められているような気になるようです。とても安心できる存在ではなくなってしまうのです。

3 家族分離を避けるために

以上から家族分離の予防のためには、あるいは子どもの健全な成長のためには、
・決して家族の悪口を言わないこと、
・家族に怒りを見せないこと
ということになることは疑いようがありません。家庭が、家族にとって安心できる居場所にならなくてはなりません。それを作るのは大人である親の責任です。一方の親に精神的な不調があるためにそれができない場合は、もう一方の親が一人ででも家族一人一人が安心できる場所にするように努力をするべきです。子どもはそれを見ています。

一番陥りやすい状況は、自分が配偶者から理不尽な扱いを受けたときです。これはもう、自分を守ろうとするのは当たり前ですから、相手に対して怒りたくなるでしょうし、評価を覆そうとムキになることも当然です。しかし、子どものことを思えば、自分の感情を優先しようとせずに、子どものために、感情を制御することこそが必要なのだと思います。子どもの利益を考えずに連れ去りをすることは悪いことでしょうけれど、もしかしたら連れ去られた方も自分を守るために子どもの心に対して同じようなことをしているのかもしれないのです。それによって生じる子どもの不利益は不相応に過大なものになる危険性もあります。どうやら、「子どものために自分の感情を制御する」ということが、現代では力こぶを入れるべきポイントのようです。

連れ去られた後でこんなことを言われてもどうしようもないと感じる方も多いと思います。もっと早く発信できるように気が付けばよかったと申し訳なく思います。

しかし、第三者から見ると、「そうでもないのではないか。遅いということはないのではないか。」というケースが実は多くあります。大変無責任な話で申し訳ないのですが、これから行う努力の結果、別離をした家族を安心させる工夫、努力をするということはできるのではないか、何らかの結果が生まれることがあるのではないかと本当にそう思っています。ご本人にとって形としてうまくいかなくても、子どもにとっては何らかの良い事情が生まれることは大いにありうると思うのです。少なくとも、家族をさらに分解する方向の行為をやめることは、今の状態以上の悪化、特に子どもとの関係を悪化させることを防ぐだけではなく、ご本人にとっても大変有意義なことではないかと思っています。


多くの方に対しては、ここでとどめておいても、私の良心は痛まないです。多くの人に有効な警鐘を鳴らせたと思っています。しかし、現実として、あまりにもひどい仕打ちを受けている人はいます。その人の話を信じる限り、裁判手続きが犯罪的に見えてくるような体験をされ続けているとしか言いようのない被害者がいます。この人に対して、子どものために感情表現を抑えろということは言えるのか、かなり悩ましく答えが出ません。「親は子どものために生きるべきだ」ということが仮に言えたとしても、その人に感情的な言動をするなということは果たして言うことができるのか、答えが出ないケースもあるということはお断りしなくてはならないと思います。

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心理学(確証バイアス)・対人関係学を学べるウクライナ報道の見方の違い 主としてプーチンに怒りを持つ人と主としてバイデンを攻撃する人の違い [進化心理学、生理学、対人関係学]


<確証バイアス>
「一度支持した仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと」

YouTubeで面白いたとえを見つけました。

1,2,4,8と4つの数字が「ある法則」で並んでいます。その「ある法則」とはどういう法則でしょう。あなたは、無制限に法則について質問をすることができます。答えがわかった段階で質問をやめて回答してください。

そうするとたいていの気の利いた人は、
一番左の数字を起点として、隣の右の数字が左の数字の倍になっていくという法則なのではないかと思うわけです。
そこで質問として、
この数字を、2,4,8,16と置き換えてもこの法則通りでしょうか。
と尋ねます。出題者は肯定します。質問者は「やはり」と思うわけです。
一応慎重に、念のために
3.6.12.24でも法則に合致するかと尋ねます。
出題者は深くうなずきます。
ここで質問者は、正当を確信して
一番左の数字を起点として、隣の右の数字が左の数字の倍になっていくという法則と答えるわけです。

しかし出題者はそれを正当だと認めません。答えは、「左から右にかけて数字が大きくなるという法則」だと告げるというものでした。

質問者は、自分の回答が真実だと思い、自分の考えた法則に都合がよい質問だけをしてしまったということになります。こういうことが確証バイアスという先入観にとらわれて真実を見落とす見方、行動傾向ということを表しているわけです。

ウクライナ戦争に関しても、ロシア非難一色でしたが、最近はアメリカやNATOを非難する声も大きくなってきました。テレビや新聞の巨大マスコミや、革新政党も含めた日本の政党がロシア非難一色に染められている状況の中で、様々な意見が出てくることは驚きでもあります。

確証バイアスという理論を理解するうってつけのチャンスです。

A ロシア一国(プーチン単独)悪論
Aタイプの方は、テレビで流される悲惨な動画、爆撃シーンや傷ついた人たちの避難の様子、爆撃後の建物の様子、子どもが泣いている様子などを見て、ロシアに対する悪感情を高めていくわけです。CNNやAP、EP通信の情報で、プーチンは精神的に破綻しているとか、ロシアにはもともと野望があるとか、ロシアが行った悪事を過去にさかのぼって聞き出してロシアに対する憎しみを高めようとします。そして、ロシア軍が追い詰められている等の記事を探し出しても読もうとするわけです。そして、ロシアが生物化学兵器を持っているという記事を探し出し、ロシアに対する危機意識を自ら高めていくようです。もちろん、その動画が何年か前の使いまわしだという情報も偽情報だと確信してみようとしません。湾岸戦争の時の油にまみれた水鳥を使ってアメリカがイラクを悪者に仕立てようとしたことや、イラクにありもしない生物化学兵器があると言って侵攻した事実も思い出そうとしないし、日本の公安調査庁や国連や人権団体が2014年以来、非ウクライナ人で構成されているアゾフがロシア語を話す人たちに極右的な思想の元人権侵害をしていたという公的情報もアクセスしようとはしません。少し憎むことにつかれてきた人はともかく、どんどんロシア、プーチンに対する憎悪は高まるばかりです。

B 戦争の原因を作ったのはバイデン大統領であり、グローバル企業の利益のために戦争は起こされ、NATO諸国がそれを知りながら自国の利益のために協力している

Bタイプの人はへそ曲がりであり、それを誇りに思っている節があります。別にロシアに対して親近感もないのですが、マスコミがあまりにも「プーチンが悪い」一色であることから、これは違うのではないかと直感的に思い始めて、いろいろ調べ始めるわけです。

Wikipediaでウクライナとロシアの天然ガスの問題を調べたり、世界史のスラブ民族大移動なんかを復習したり、2014年問題を思い出したり調べたり、歴史を調べ始めるようです。そうして、フェイクニュースのことを調べた直後、アメリカからロシアが作るフェイクニュースの情報が流れだし、そちらは信じずに逆に余りにもわざとらしいタイミングでの情報発信だと思うのです。アメリカが作るのはフェイクニュースだけど、ロシアが作るフェイクニュースは偽物だとわけのわからないややこしいことを考え出すわけです。ウクライナの閣僚の過半数はアメリカ国籍だなどと、閣僚の名前もわからないでそういう情報を入手するわけです。バイデンの息子が、ウクライナで経営コンサルタンや貿易商をやっているという情報にも真偽を確かめないで飛びつきます。そうして前述の、2014年の日本の公安調査庁のアゾフに関する分析結果を読み、アムネスティの警告をグーグル翻訳を使って読み、2016年の国連高等弁務官の人権侵害の勧告書を読んで、やはりロシア語を話す人たちが迫害されていたと確信を持ち、迫害していたのはウクライナ人ではなくゲルマン人の白人至上主義者たちだなんてことを確信するわけです。ウクライナ侵攻の前から小麦が高騰していたのにもかかわらず、ウクライナ侵攻を原因としてというマスコミの対応はいかにもわざとらしいと思うようになるわけです。すべてが、天然ガスと小麦の生産をグローバル企業がロシアから奪ってコントロールするためだなどと思い込んでいくわけです。そして、ウクライナとアメリカの合同軍事演習があり、対洗車ミサイルであるジャベリンをバイデンがウクライナに提供したことからロシアが侵攻を始めたのだと確信していくわけです。そして、ロシア軍が劣勢だというニュースは、ロシアが劣勢を挽回するために核兵器やあるかどうかもわからない生物化学兵器を使う危険が高まったからロシアに対するアメリカやNATOの攻撃を正当化するための口実準備だなんて思うわけです。

興味深いのは、Bタイプの情報ソースとなっている論者たちは、自分の主張がロシアに同情的な論調としか思われないのに、最初か最後に、「ロシア侵攻を肯定するわけではないけれど」という、とってつけたような断りを入れることです。また、トランプが意外と平和の人であり戦争を起こさない方向で頑張っていたというような態度を示すということです。だからと言って保守派とは限らないことが面白いところです。

これはAタイプ、Bタイプどちらも言えることです。左派だから、保守だからと言って対応関係にはなっていないようです。親米保守、現政権猛烈支持という人たちは当然Aタイプです。しかし、社会党や共産党もロシア制裁決議に賛成しているので熱烈なAタイプです。保守系メディアで活躍している人が論理的なBタイプの主張をするかと思えば、革新よりだった人たちが大政翼賛会のような国会情勢や大本営発表のマスコミに疑問を呈するようになってきています。とはいえ左翼系のBタイプは元々反米的な立場を保っていた人たちのような気がします。アメリカ発信の情報に乗っかって制裁決議を上げるのですから左派政党は必ずしも反米ではなかったというなので驚きですが。

どちらにしても、自分で体験したことではないので、真実がまるで分らないことなのですが、感情的にはどちらかの主張を信じて疑わなくなっていくということが起きているわけです。ただ、被害を受けている人がウクライナ人であることはまず間違いのないことのようです。

長くなって申しわけありません。ここまでが前振りです。Aタイプが多数派になる理由について考察をするということが今日の本論です。

<対人関係学による説明>
対人関係学は、人間には群れを作るモジュールとして、
・ 弱い仲間を助けようとする。
・ 仲間を攻撃するものを敵とみなして憎しみ戦おうとする。
という本能が遺伝子に組み込まれていると主張しています。その本能の前提として群れを作ろうとする本能、群れから外されそうになると不安になるという本能があるということも言っているのですが、今回は主として上に掲げた二つです。この二つがあったために、強いものばかりが群れの財産を独り占めにして群れが縮小していくことを防ぐことができたし、戦う能力も逃げる能力も貧弱だった人間が集団で戦うことによって生き延びてきたという、200万年前には不可欠の行動パターンだったと主張しています。

そうだとすると、爆撃によって逃げ惑う人たちの動画、戦うために家族と離れていく場面の動画、病院や学校という弱い者のいる場所に対しての攻撃動画などは、特に脈絡を知らなくても、その場面を見るだけで、こういう困っている人を助けたいと思うようになるわけです。人間はそういう動物だということで説明が付きます。そうして、弱い者、悪くはないのに攻撃されている者をみると、何とかしてあげたいという焦りを伴う切迫感を持つようになります。
また、怒りという感情は、危険を感じて、危険と戦うことで危険を回避するときの感情です。基本は自分が危険であるときに起きますが、仲間を作る動物である人間は、仲間が危険に陥っているときにも怒りの感情がわきます。怒りは危険回避のためのツールですから、危険が回避されるまで消滅することはなく、怒りによる逆襲が功を奏すれば奏するほど強くなっていきます。だから、反撃して優位に立っても、相手がひるんで逃げだすか死なない限り、怒りは高まり続けるのです。仲間のために戦うことは人間の本能だと思います。
こうして、プーチンに対する怒りが起きていきます。

怒りは危機回避のツールです。危険は確実に回避されなければなりません。怒りが起きているときには、他のことを考えにくくなります。攻撃に集中するためのツールともいえるでしょう。だから、「ロシア憎し」という怒りが起これば、もしかしたらそれはフェイクかもしれない、悪いのはバイデンかもしれないなどということを考えてみたりすることはできにくくなります。また、どちらが悪く、どちらが善かという二者択一的な思考しかできなくなります。複雑な実態などどうでもよく、歴史なんてことも煩わしいだけです。ただ、怒りの感情を放出したいことに集中していくことだけが要求となります。これが人間の感情の仕組みです。ロシアに対する制裁決議を上げて、それがどうウクライナ人たちの利益に結び付くかなんてことを考えずに決議に賛成するのはこういう原理です。もはや仲間を守ることより、攻撃対象を攻撃することが優先されているわけです。

もう一つ怒りには特徴があります。それは、自分の安全が確認できないと怒りという感情は起きにくいということです。圧倒的に強い相手、対処しようのない危険だと感じたときは、怒りではなく恐れを感じて、危険が回避されるまで逃げようとするということになります。それでも、近しい群れの仲間、端的に言うと自分の子どもの危険に対しては、時にかなわない相手に対しても怒りをもって戦いを挑むことがあります。子連れの母熊などを思い出すとイメージできると思います。


Aタイプの人たちは、善意の人たちであり正義の人たちです。直感的に弱い者を守ろうとするわけですし、悪に立ち向かおうとするのですから、こういう人が多くなければ人間は滅亡していたのでしょう。200万年前はヒトの群れは数十人から150人程度の群れであり、他の群れとは出会わなかったため、自分の群れの人間を守ろうと考えても間違いが起こりうることはありませんでした。群れの仲間がほとんど人間のすべてですから、仲間を守ろうとすることと人間を守ろうとすることは一緒だと考えてよいでしょう。仲間を攻撃するのは肉食獣などですから、怒りに任せて反撃することに何のためらいも必要はありませんでした。おそらく99.9パーセントはAタイプの人間だけだったのだろうと思います。

しかし、農耕を始めてから現代まで、より狭い空間により多くの人と生活をするようになったため、世の中はたいそう複雑になりました。人間を攻撃する一番の動物は人間になったと言えるのかもしれません。そういう時に、おそらく例外的な遺伝子を持った人間の活躍する余地が出てきたのでしょう。即ち、誰かが感情的になっていると逆に冷静になる人、善意や正義感に従って行動しようと思わない人、多数の意見に従いたくない人、こういう遺伝子を持った人たち、それまではその遺伝子を隠そうとしていた人たちが、時代が進むにつれて主張を始めたのかもしれません。裁判官等の法律家というのは案外Bタイプでなければ務まらないのかもしれません。

基本としてAタイプの人がいて、補助的役割としてBタイプの人が自由に発言する。そうして、全体として行動の修正をして進んでいく。これがおそらく民主主義という制度なのではないでしょうか。Aタイプを馬鹿にせず、Bタイプを排撃せず、多様性を認め合う仲間は強い群れになり、永続性を得るというのはこういう理屈です。人間は間違うものだということを認めるのが、行動経済学をはじめとする21世紀の認知心理学の基本的スタンスです。多数は多数であるがゆえに間違いを起こしている可能性がある。だからと言って、Bタイプばかりだとギスギスしてなかなか物事が進まないということかもしれません。

日本の国会の民主主義の程度が、ウクライナ情勢ではっきりしたということは大変皮肉な話だと思います。野党としてBタイプの行動をする人がいなければ、民主主義は成り立ちません。もしかしたらBタイプの保守に民主主義の継続を期待するしかないのかもしれません。

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紛争を解決するため、被害予防のためにやってはいけないこと 調停、ADR 、そして国際紛争 [弁護士会 民主主義 人権]


わが国で被害予防の対策が成功した例の代表は、交通事故防止対策です。単に交通事故に重罰を科すだけで終わりにせず、どうして事故が起きるのか、どうすれば事故を防ぐことができるのかということを科学的に分析して、一つ一つ対応をしていました。

例えば、夜間の交通事故を分析して、歩道上の明かりを増設したり、横断歩道を増設したり、信号機の位置、角度を変更したりと、こまめに対応が行われます。例えば飲酒運転と事故が関連性があるとすると、飲酒運転禁止のキャンペーンを展開して私たちの気持ちを変化させるなどの対応を行い、事故を減らそうと絶えまぬ努力をしてきたわけです。こういう警察関係者や科学者、付近住民の科学的な努力、理性の力で交通事故、特に死亡事故を減らしてきたわけです。

加害者憎しで刑罰だけを強めていったら、こうは劇的に死亡事故件数は減らなかったでしょう。被害者や家族など関係者が、運転手の落ち度を憎むということは当然ですが、誰かが理性によって次の犠牲者を出さないという活動をしていたわけです。

裁判所で行われる調停や裁判外の話し合い機関であるADRによって紛争を解決する場合の、調停委員やあっせん委員にも、同じようなことを求められています。

調停委員やあっせん委員の、話し合いが始まる前にもっている情報は、通常とても貧弱なものです。私もそういう仕事もしていますが、話し合いが始まる最初は正直何が起きているのかよくわかりません。でもそれでよいのだと今は考えています。わからない状態で、双方の当事者の方から、いろいろなことをお伺いするわけです。そもそもその取引上の常識は何か、通常はどのように行われているのか、どういう想いで調停を申し立てられたのか、教えていただくという感じで始めていきます。法律効果を導く事情(要件事実と言います)だけでなく、調停申し立てに至った心持もうかがうことで、判決ではない解決の方法が見えてくるのです。

これに対して、事情がよくわからないくせに、情報を持っていないくせに、最初の話し合いの場で、既に一方の立場になっている調停委員にも出会ったことがあります。この時は当事者の代理人として調停に臨んだ時でした。そんなことをしたら、当然他方は激高して話し合いになりません。私は代理人の立場から調書代わりの準備書面や上申書、進行に関する意見書を同日か翌日に裁判所に提出して問題提起をするとともに証拠を残すことにしています。

このケースは父親が面会交流を求めた事件ですが、その調停委員は浅はかな本による知識で、面会の要求はDVの一態様だという決めつけをもって調停にあたったようです。女性保護の観点から父親に対して攻撃的な態度をしたようでした。その調停委員の態度は正義感に基づくものであるわけです。しかし、公平であるべき調停委員が一方的な攻撃をするのですから、許されることではありません。ちなみにこの事件は裁判官が毎回調停に出席し、無事定期的な面会交流が確立しました。

思い込みや決めつけで作られた正義感は、警戒をするべきなのかもしれません。

思い込みや決めつけをしないためには、まず、情報を丹念に収集することが必要です。一方の主張だけで感情を作り、それを当事者にぶつけてしまうことは、絶対にやってはいけないことです。

不利に扱われた当事者は態度を硬化します。裁判所でも自分が尊重されていないと感じてしまいます。そうすると自分を守らなければならないという意識を強くします。聞く耳を持たなくなることもあります。自分の主張に固執してしまい、一切譲らないという態度をとるようになってしまいます。話し合いの解決は困難になります。逆に、十分に事情を尋ねられて、いくつかの部分に共感を示されれば、例えば解決金額が多少不利になっても、解決を志向して行動することが期待されます。

公平が大切です。この場合、よくある誤解は、調停委員やあっせん委員は、どちらかの当事者に感情移入しないで、どちらとも距離を置いて対応しなければならない、それが公平だという誤解です。しかしこれをしていたのでは、話し合いでの解決は難しいと思います。

心理学の手法にもあるのですが、どちらにもえこひいきをする方が公平な扱いになりやすいということが正解です。それぞれ紛争があり、当事者同士で解決つかない場合は、それぞれに言い分があることが通常です。どちらにも「味方」になるのではなく、その言い分の理解できる部分に「共感を示す」ことがコツだと思います。「こういう状況の中では、私もそういう行動をとるでしょう。」、「こういうことがあれば誰でもそういう気持ちになると思います。」ということを、共感できる部分を探し出してでも共感を示すということを心掛けています。

たったこれだけのことで、信頼関係が生まれていきます。そして、双方にとって、最も不利益にならない方法を考えて、メリットとデメリットとともに提案することができます。当事者は、調停委員に騙されているわけではないという疑心暗鬼にならないで考えを始めることができますので、メリットとデメリットを素直に検討することができます。決めるのは当事者ですが、決めるための柔軟な思考を可能にしているということも言えるかもしれません。

暴行などの不法行為の調停もあります。責任は争わないとしても、賠償額に争いがある場合に話し合いになります。被害者は大変お気の毒な場合が多く、被害の様子に思いをはせることは致し方ありません。しかし、だからと言って、無制限に被害金額を加害者にねん出させようとしてしまうことは絶対にしてはいけないことです。適正に、早期に、円満に解決することを目標としなくてはなりません。場合によっては、自分の正義感をセーブする必要があります。現在の裁判例に照らして無理な要求の場合は、要求をする側に対して、それでは解決は難しいという見通しをはっきり示すことが必要になります。そうでなく、ただ被害者に同情的になり、被害者の利益に従って加害者を説得してしまうと、まず調停ではなくなるし、加害者は調停という手続きをやめて訴訟での解決を目指すようになります。それも当事者が決めることですが、とりあえず調停が申し立てられ、相手方も調停に応じているということを尊重しなくてはなりません。裁判になって解決が長引くことは申立人の人生にとって深刻な影響を与えることもありうることです。そこまで考えて調停をしなくてはなりません。安楽な正義感は人を傷つけ、被害者の被害を拡大しかねないのです。

調停委員はあくまでも第三者です。調停委員の感情を満足させることを優先にしては調停ではなくなります。当事者の方々の意思決定を第三者の立場から補助するというくらいの気持ちでいなければなりません。もちろん、多くの調停委員が心得ていることですが、正義感が強く過ぎてしまうと、決めつけや思い込みも発生してしまいます。

紛争の局面では、解決することと感情を表現することが矛盾することが出てきます。憎しみを抑えて解決ができず、解決は遠ざかっても憎しみの感情を表に出したいという場面はほとんどすべての案件で出てくることかもしれません。当事者の方が、選択によるデメリットを覚悟してどちらを選ぶかということを冷静に決めることは自由です。しかし、当事者でもない第三者が、正義感を優先してしまって解決を後退させることはしてはならないことです。素人の代理人、支援者がよくやる誤りだと言ってい良いでしょう。

感情を満足させるために当事者に不利益が起きることを第三者が選択するということは話し合いによる紛争解決の場面だけでなく、様々な場面で見られる現象です。例えば虐待の防止を言うとき、交通事故対策のようにどうして虐待が起きるのか、虐待を防止するためにはどうしたらよいのかということを冷静に考えることをしないで、虐待親を感情的に攻撃し、厳罰化や警察の導入拡大ばかりを進めていたら、次に虐待される子どもを守ることができなくなってしまいます。虐待防止の道筋を示せない感情的な対策は、むしろ有害である可能性もあるわけです。子どもが虐待によって命を落としてから、人生を台無しにされてから厳罰が課されても、当事者にとってはあまり意味がありません。第三者の正義感を満足させることを優先にしてしまうことは、大変恐ろしいことです。

そのような視点で国際紛争を見た場合、日本は、ロシアに対する制裁を敢行して紛争当事国の一つになってしまいました。この制裁決議に、れいわ新選組以外の革新政党もすべて賛成しました。特に組織の中で批判もないようです。ロシアに対する制裁は、正義感の表れとして行われるわけです。しかし、その制裁によってウクライナの一般国民、特に子どもたちはどのような恩恵を受けるのでしょうか。私にはその道筋が見えません。経済制裁によっては、紛争は終結しないし、一方当事者のリーダーたちは戦争を終結させる目的をもって経済政策をしてはいないようです。制裁はあくまでも制裁でしかありません。

ウクライナの子どもたちの一日も早い安心感の獲得と経済制裁はつながってはいないように思われます。このような紛争の一方に加担した日本が、停戦の交渉をつかさどることはできないでしょう。少なくともその資格はないわけです。正義感を抑制して、子どもたちに安全と安心を提供する方法を真剣に考えるべきだと私は思います。正義感情の放出はこれと矛盾することだと思えてなりません。また、日本の国会の状況は、第2次世界大戦前夜のようにすら感じられるのは、私だけでしょうか。

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