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現在に残存する戦争遂行イデオロギーとしての作られたジェンダー [弁護士会 民主主義 人権]



女性が女性であるがゆえに社会的に差別されているという側面は、私はあると思います。つまり、女性という「くくり」で見られて、不合理な扱いを受け、当然受けるべき利益を受けないという差別は確かに残存していると思います。
差別は、人類古来のものではなく、日本においても最近のものだと思っています。性別による区別は昔からありました。国民のごく一部を占める支配層では、厳然とした区別があったようです。政治を行う男性と行わない女性、戦を行う男性と行わない女性という具合です。もっとも奈良時代には執務は男性が行っていたものの女性も政治に参加していたような記録もあるようです。国民の圧倒的多数を占める農業においては、それほど性別での役割分担はなかったのではないでしょうか。家事においては女性が従事した率は高いでしょうけれど、電化製品が普及するまで、調理、掃除、洗濯は、時間がかかる重労働だったので、女性がそれらの行為を担当する割合が多いとしても、男女のどちらに価値が多くあるかという意識はなかったはずです。筋肉量が相対的に男性の方が多いので、より筋肉を使う農作業を男性が多く担当し、反射的に女性が家事を行うということは当たり前であり、みんなが納得した分担だったと思われます。

女性が女性であることで、差別、即ち、低評価を受けることになった時期は、明治政府樹立後であると仮定するとわかりやすいと思います。この時代以降、一部の職域だけでなく、全体的に男性であることの価値が付与されていきました。つまり、男は兵隊として使えるという価値です。
明治政府は富国強兵政策に大きくかじを取り、次々と戦争を行ってきました。1894年日中戦争、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦と10年おきに大きな戦争をしていました。その後日中戦争が1937年に始まりました。ちなみに明治元年が1968年、大正元年は1912年、昭和元年は1926年です。
これらの戦争遂行中、戦争反対の声は大きくは叫ばれずに、国民の支持のもとに戦争は遂行されました。日露戦争などは、講和条約の戦利品が少ないと言って日比谷焼き討ち事件が起きるほど、戦争による経済的利益を獲得することが国是となっていたようです。挙国一致体制を敷いて戦争遂行をしていたのだから、現代からすれば驚きです。第1次大戦までは、戦争にも牧歌的な面もあったとはいえ人を殺すのが戦争ですから、自然な感情としての戦争反対論が起きても良かったはずです。これがなぜ起きなかったかその理由を考えなければならないはずです。
私は、その答えとしては、明治政府が国民の価値観を戦争勝利一色に誘導する工夫を周到に、そして地道に行っていたからだと考えるのです。その方法が、子どものころからの教育だと思います。但し、学校教育ばかりではなく、文学や音楽などを通じた情操教育、文化の普及が大きな効果をもたらしていたのではないかと思うようになりました。
こういう戦争イデオロギーの論点でよく出されるのは、国家至上主義とか天皇制イデオロギー、軍国主義教育ということなのですが、私は、少し違う角度を考えています。もっと、国民一人一人の感情のベースになる部分に働きかけていたのではないかということです。あからさまな軍国主義イデオロギーを政府などが喧伝したところで、国民にそれを受け入れる素地が無ければ反発も起こるでしょう。軍国主義教育に対して国民が反発してしまえば、政府が瓦解して体制が変わってしまうわけです。昭和初期の国民の中でも、年配の人たちは軍国主義イデオロギーに反発していた人や馬鹿にしていた人もある程度いたようですが、それはそれとして戦争に消極的には賛成していたことになるようです。積極的に反対できなかった理由は、政府の締め付けや第二次世界大戦前夜の相互監視という強硬な事情もあったのですが、若年層を中心とした戦争が道徳的に正しい、あるいは必要悪、やむを得ない行動という根本的な価値観が確立されてしまっていたという事情があると思うのです。
この根本的な価値観を形成するキーワードが、「男は男らしく、女は女らしく」をはじめとして、「勧善懲悪」、「立身出世」であろうと考えています。明治政府以前はなかった。つくられた「日本人のこころ」を創作しだしたということになると思われます。
「男は男らしく、女は女らしく」に焦点を当て考えてみましょう。
当時の戦争戦略に照らした戦争遂行イデオロギーで意味があるのは、男は男らしくというところです。その「男らしい」の意味を考えてみましょう。
・いざとなったら命を懸けて戦うこと
・わがままを言わず自分の利益、感情よりも組織を優先すること、
・理屈を言わず寡黙に行動すること、
・上に立つ人を尊敬し、命令に従うこと、
・不言実行として言い訳を言わずやるべきことをやること、
こんな感じでしょうか。
要するに、自分の頭で考えないで上官の命令に従い、危険な行動でも国のために喜んで自発的に行うこと、当時の戦争の形態からするとこれが理想的な兵隊像になっていることはすぐにお分かりのことでしょう。
女は女らしくというのは、女性としての理想像があったというよりも、男はこうあってはならないという例示という副産物だと思います。男は女々しいことをするな、考えるなという対比の中で出てきた概念なのでしょう。要するに、兵隊でふさわしくない行動パターン思考パターンを「女々しい」ということで表したのでしょう。だから、男性の同性愛者に怒りを感じるようになるのは、国家政策が浸透した段階では必然的なことだったと思います。
戦前は姦通罪という犯罪がありましたが、戦後は廃止されました。これは夫のある女性が浮気をすることを罰するものです。どうして、女性を罰するのかというと、男性は兵隊として海外に行くわけですが、その間日本に残した妻が浮気をするのではないかと思うと闘いに集中できない。だから不安を少しでも解消するために、妻の不貞を犯罪にして社会が監視し、国家が刑罰を与えるということにしたのです。世界共通で姦通罪は徴兵制とセットで設けられる犯罪類型です。富国強兵のための法律ということになります。結果としては男女差別ですが、男女差別の結果ばかりが言われていて、その根幹が戦争遂行イデオロギーだということはそれほど指摘されていないように感じます。
このように考えると、男女の区別は自然に存在していたけれど、区別に価値が込められたのは、明治以降の、戦争遂行のための国家政策の結果だと思われてきます。要するに、兵隊さんになる男性は偉いから命を懸けて戦いましょうということです。男は闘うのは当たり前、外国の無理難題から日本を守らなければならない。そのためには、命をなげうってでも日本を守らなければならない。こういう流れる思考方法が幼いころから身につけさせられていたのでしょう。おだてあげられて戦地という危険な場所で人殺しをさせられていたというわけです。
男らしさ、女らしさという概念は国家によって作られたものであり、それ以前に価値観は込められていなかったという事情を示す証拠としては「方言」があります。特に東北地方の方言には、相手を呼ぶ際に、女性が男性を呼ぶ場合と男性が女性を呼ぶ場合の区別はありません。東北地方で言えば「おめ」ですね。共通です。言葉は、国の権力の中枢から等距離で広まっていくものだそうです。かつては京都が国の中心でしたから京都から同心円状に言葉が分布されていたようです。離れていればいるほど、言葉の伝わりが遅く、政権の影響も遅くなるということらしいです。明治時代の首都は東京都ですから、東京から離れるほど、言葉の流行から取り残されていくわけです。これは、富国強兵イデオロギー政策、つまり男女差別や男は男らしく及び女は女らしく、が先ず首都から始まったこと、あるいは地方に行くほど影響力が薄くなっていったということを表しているのではないでしょうか。男は男らしくということは、首都から始まり、地方に行くにつれて広まり方が弱まったということです。こう考えると日本国の世論が戦争を支持していたという場合も、例えば東北地方の農民の声がどこまで反映されていたか疑わしいわけです。戦争遂行イデオロギーを浸透させていく場合も、まず首都を固めることから始まったのでしょう。国の中心部の意見が容易に国民の世論とされてしまい、日本を動かしていたのかもしれません。
この男の子を文字通り兵隊予備軍として持ち上げる戦争遂行イデオロギーをどうやって普及したかということは、大変興味深いところですが、詳細はまたの機会に譲ります。ただ、ここでは、先ほど述べた通り明治以来一貫した文字、文章、歌によって普及していき、大正期あたりまでは、心の奥底に働きかけていくという戦略をとっていたということです。教科書、童話、童謡で、男は男らしく、女は女らしくという土壌を耕していたということです。そこで言われていることが当たり前のように感じられるようになっていったのでしょう。男らしくありたい、男らしくとはどういうことかということで、兵隊になるということが受け入れられやすくなったのだと思います。少なくとも、人の殺し合いである戦争なのに、男らしい行為ということで、自然にあるべきの戦争を嫌がるという意識が生まれにくくなったと思います。そうして、昭和のあからさまな戦争遂行イデオロギーにもいつの間にか従う素地が生まれたのでしょう。
童話で言えば、明治政府は、桃太郎、かちかち山、一寸法師等、話の原形は江戸時代以前にさかのぼるものの、原型にあった残虐な描写を割愛して誰しも受け入れられる表現に改めて、どのご家庭でも読み聞かせできる内容にして普及をしました。悪い者、弱い者を苦しめる者は必ず処罰されなければならない。この処罰をする男子は英雄視されなければならない。英雄視されるため、反撃については問題視されない。このような悪い敵を懲らしめることによって立身出世が叶う。勧善懲悪、立身出世、そしてその主体は男子であるという共通項があります。この考えが浸透すれば、残虐な描写はアクセスを妨げるために削除したほうが良いわけです。
もちろんこれに対して文化的に対抗した勢力もありました。それが「赤い鳥」創刊です。良質で、リアリズムにあふれた童話、童謡、絵が盛り込まれた鈴木三重吉を中心とした雑誌です。1918年に創刊されました。男らしくとか勧善懲悪とか、立身出世をテーマにせず、人間関係の再生、寛容、思いやりなどがテーマになっています。およそ兵隊の育成には向かない話ばかりです。その芸術家たちは、明治政府の戦争遂行イデオロギーの普及にあまり影響されない教育環境を得られたという条件を持っていたのかもしれません。「赤い鳥」は鈴木三重吉の死によって1936年に廃刊になります。第2次世界大戦が翌年から始まることと関係があるようにも思われます。

さて、現代に残る男らしさは、批判らしき批判も受けないで世間一般に肯定的に残存しているように感じます。
・いざとなったら命を懸けて戦うこと、
・わがままを言わず自分の利益、感情よりも組織を優先すること、
・理屈を言わず寡黙に行動すること、
・上に立つ人を尊敬し、命令に従うこと、
・不言実行として言い訳を言わずやるべきことをやること、
最もこの男らしさが幅を利かせているのは労働現場なのだろうと思います。企業戦士やブラック企業にとっては都合の良い兵隊像ということには変わらないわけです。しかし、あまりにも労働環境が劣悪になり、賃金水準も世界レベルに達せず、将来に向けた条件改善も見込まれませんので、徐々に男らしさのメリットがないことに気が付いていくことでしょう。
収入に男女格差をつけて、男性の方が女性より価値が高いということも、明治政府のイデオロギー政策の残存物としてみる必要がありそうです。現代の非正規雇用世帯では、賃金格差は不合理さがあらわになっています。それでも、賃金の男女差別は、不自然なほど是正が求められていないように感じます。

男性であることに価値があるということはそれほど普遍的なものではないことを示す資料もあります。近年、女性の若者が、自己の性的役割を受け入れがたくなっているとのアンケート結果があるそうです。それはそうだと思います。繁殖以外は、男女の区別の合理性がほとんどなくなっているからです。家事は電化によって著しく時間が短縮されました。労働も、電化やIT化によって、男女の区別の必要性が著しく小さくなっています。しかも、社会全体が、筋肉に負担のかかる労働に対して不当だと思えるほど価値を認め無くなっています。もはや、男性と女性とを生物的特徴以外で差別はもちろん、区別する理由さえ薄れていると思います。差別感は、自然発生的に存在したものでないならば、差別を助長するエネルギーが外部から注入されないと消滅していくものです。社会構造の変化の影響もありますが、元々、男女の間に価値の違いがあるとは考えないという方が自然的な考え方なのだということを表していると思われます。

女性差別をなくすことは合理的なことであると思います。ではどうやって差別をなくしていくか。この場合、一般男性を攻撃することはあまり意味のあることではありません。一般男性は、明治以降、戦争に駆り出されて、戦争が終わっても企業戦士ともてはやされて過重労働に従事させられていました。男らしさを求められた結果だともいえると思います。あるいは、身についた男らしさという価値観に抵抗する術がなかったという評価もできるのではないでしょうか。
女性の中には、女性であるがゆえに不合理な扱いを受けたり、利益を害されたりしてきたのですから、反射的に不合理な利益を享受していたはずの男性を「不公正」な存在として攻撃したくなるという感情は、心理学的には理解できます。しかし、それは単に自分の感情を満足させることであり、女性差別の解消の方向をむいてはいません。そのような誤りが起きる決定的な原因が、男女差別というものを人間社会の自然な社会感情、自然発生的な文化だと誤解しているところにあると思います。区別は自然なものだとしても、差別は誰かが、特定の目的をもって作ったものだと私は思います。私の考えが正しいとしたら、女性差別が自然な感情であるという考えは、差別解消に向かわないばかりではなく、国民を対立させて利得を得ることを容認することになると思われます。結局国民の間で差別があることによって利益を受けている人たちが喜ぶばかりではないでしょうか。最も利益を受けている人は、女性であるというだけで低賃金の支払いという恩恵を受け、いつでも雇用を打ち切ることができることを利用して利益を受けている企業だと思います。これからも何十年か、女性は、ミスリードを誘発する活動家によって、戦わないこと、逃げることを、押し付けられていくのだろうと思えてなりません。いずれ解消されるとしても、差別が温存される要因を作っている場合もあるように感じられます。


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片親疎外の作り方 とある団体の公式見解に最大限の抗議をする。子どもに自分の親に会いたくないと言わせてはいけないこと [家事]


離婚や別居で、子どもが一方の親とだけ同居している場合、
子どもが、もう一人の一緒に住んでいない親に対して
「別に会いたくない。」
という現象があります。

ちょっと考えてみればわかるのですが、
自分の親ですから、会いたくないわけはありません。
両親が喧嘩をしていても
子どもはもう一方の親とも
仲よく遊んだり、普通に話をしていたというケースが
ほとんどです。

ではどうして会いたくないというのでしょうか。
詳しくは考えたところを既にお話ししていますので。
調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-29
こちらを参考にしてください。

簡単に言うとこういうことです。

子どもは、今まで一緒に暮らしていた片方の親が
突然自分の目の前からいなくなっていますし、
その原因が十分理解できていません。

このため、親は突然いなくなるかもしれない存在だ
という不幸な学習をしてしまっていることになり、
今一緒にいる親も突然いなくなるのではないか
という不安におびえて精神的に不安定になっています。

また、ちいさい子どもは、
自己中心的にしか物事を認識できませんから
自分が悪い子だから、何か自分に落ち度があるから
もう一方の親は自分に会いに来てくれないのだ
と考えてしまうようです。

これは親を過労死で亡くした子どもも
同様の苦しみを見せることがあります。

ただでさえ、子どもは親の顔色を窺って成長していくものですが
一方の親と会えない子どもは
この傾向がいやがうえにも高まる場合があるわけです。

そうすると、親の意向に沿う自分でありたい
という感情が自然と強くなります。
一緒に住んでいる親をつなぎとめておきたいと
かわいそうにも思ってしまいます。

同居している親が、一緒に暮らしていない親を悪く思っていて
子ども会わせたくないという強い気持ちになっていることは
子どもは簡単に見抜いています。親子ですから。

また、親が子どもに対して、自分の味方になるよう要求する場合もあります。
自分の味方になるということは、子どもからすれば
一緒に住まない親と自分と同じように敵対しろということと同じ意味です。

子どもは、自分が、
一緒に住んでいない親と会いたいと言うと
同居親を悲しませたり、失望させたり、怒らせたり
場合によっては自分を嫌いになるのではないかと
色々な思いで、
「別に会いたくない」と言っているわけです。

少し子どもの年齢が高くなると
そういう感情的になる同居親が煩わしくなって面倒くさく
「別に会いたくない」という場合もあります。

それでも一緒に住んでいる親も
子どもが会いたくないと言っていても
本当は会いたいだろうなと気が付いているようです。
親子なので、子どもが無理していることは気が付きます。
しかし、
「支援」者たちは、その子どもに対する愛情なんてありませんから
子どもが「会いたくない」と言ったというそれだけの事情で
子どもに一緒に住まない親と会わせることは
子どもの意思を無視した「面会の強制」だというのです。

科学も、人情もない人たちが実際にいますし
そういう子どものことを考えていないことがはっきりしている見解を
得意になって正式に公表している団体もあります。
恥ずかしい限りです。
醜悪です。

それがどのように罪深いかが今回のテーマです。
どうか耳をふさがないで聞いていただきたいと思います。

子どもが会いたくないということは
一緒に住んでいる親の気持ちを感じ取って言っているだけで、
もう一人の親のことまで考えて言っているわけではありません。

しかし、会いたくないと口にした後で
自分の「会いたくない」と言った声が耳から聞こえてきます。
記憶に残ってしまいます。

年齢や性格によってもだいぶ違うのですが、
子どもは、もう一人の親の気持ちを想像してしまうことがあります。
一緒に住んでいない親と同居中に一緒に遊んだときなどの、
楽しい思い出を思い出しているとき
その親が笑顔で自分に優しく話しかけている時を思い出したとき、
自分の「会いたくない」という声が聞こえてくるわけです。

自分はなんてひどい人間なのだろうと
自己嫌悪になると同時に
申し訳ない気持ちになるようです。

もう一人の親に会えない理由は自分が悪いからだという
罪悪感に苦しめられることがあるようです。

人間の心は、その罪悪感に耐え続けるようにはできていません。
それなのに耐え続けてしまったら
だんだんと
自分はなんてひどい人間なんだ
こんな自分は価値のない人間だ
幸せになる資格がない人間だ
という自己評価が低くなってしまう危険があります。

人間は、本能的にこのような絶望を回避する
心のメカニズムがあるようです。
ちょうど熱いものに触ったら反射的に手を引っ込めるようにです。

どうやって罪悪感を感じにくくするか
それは、
自分が悪いのではなく、
一緒に住んでいない親が悪い人間だからこれで良いのだ
という正当化、合理化です。

一緒に住んでいる親の言うとおりだ
あの親は、一緒に住んでいる親を散々苦しめたのだ
自分が会う価値のない人間だ
自分と会って楽しむ資格のない人間だ
と一緒に住んでいない親を繰り返し否定していくことです。

親の前でも家裁の調査官の前でも
積極的に一緒に住んでいない親の悪口を言うようになります。
どんなに自分が苦しめられたか
記憶を変容させてありもしない事実を
さもあったかのように告げる子どもも少なからずいます。
(客観的事情から虚偽だったことが証明された事案だけでも驚くほど多い)

本当は些細な出来事だったのに
自分が泣いたという記憶と
別居後に作り上げた親の悪性格を
無理やり記憶の中で結びつけるわけです。
そしてそれが本当に起きたことだと
記憶を変容させるようです。

そのような虐待や悪感情が無くても
同居中に厳しくしつけられていれば
親が自分のことを想ってやっていたことでも
親の悪性格が原因で不必要に厳しく当たった
つまり虐待だったというように記憶を変容させるのです。

これは自分を守るために行う自動的に進行するプログラムです。

では、罪悪感を解消できたのであれば
めでたしめでたしでしょうか。

とんでもありません。
もしかしたら罪悪感に苦しみ続けるよりも
悪影響が出てくるかもしれません。

つまり、罪悪感を感じなくするために
新たに罪悪感の理由となる行為を上書きしていくわけですから
最初の罪悪感が消えても
上書き行為の罪悪感が新たに加わるからです。

それでは、
罪悪感を感じなくなるまで
一緒に住んでいない親を否定しきったらどうでしょう。

これまで述べてきたことは
「片親疎外」という現象が現れるメカニズムです。
この片親疎外の最大の問題(子どもが受ける深刻な影響)が
親を否定しきるということなのです。

ちょっと考えればすぐ気が付くことですが、
自分(この場合子ども)という存在は
半分はその親の遺伝子を受け継いでいるわけです。
(昔は血を分けたという言い方をしていましたね)

自分のルーツの半分を否定しまったとすると
「自分とは何か」ということ考えるようになった場合、
自分が極めて不安定な存在だということなり、
自分とは何か分からなくなってしまうとされています。

自分は、完全に否定するべき親と
全面的に支持し助けなければいけない親という
完全に対立する性質を持つ親の子どもだ
ということになってしまうからです。
じゃあ、自分は何者だということが分からなくなることは
想像しやすいのではないでしょうか。
これが起きる時期は15歳ころだとされています。

他人は、「人は親がすべてではない」と簡単に言いますが
本人は、そう割り切ることはできません。
当たり前だと思います。
他人や支援者は、ちょっと考えればわかることを
考えようとしません。
子どもと一緒に暮らしている親の「支援」で頭がいっぱいだからです。

片親疎外が完成してしまうと
自分というものが何だか分からなくなり
自信を持てなくなり
自分が幸せになることはできないのではないか
自分が生きている価値があるのだろうか
という感覚になる危険があるわけです。

15歳くらいから引きこもりがちになり
20歳前で精神科病棟に入退院を繰り返すお子さんたちを
何人か見てきました。

しかし、病院は、片親疎外という知識がありませんでした。
あったとしても、少なくとも治療の方法を身に着けていないようです。
なかなか良くなることはありません。
統合失調症、人格障害などと病名をつけていたところもありました。

そのうちのおひとりは一緒に住んでいない親御さんと
交流をすることができるようになり
就職ができるまでに回復しました。
一緒に住んでいた親御さんも
もう一方の親との交流に頑張って協力されたことがわかります。

その他の事例はその後連絡が取れなくなっているので
お子さんが社会復帰できたのかわかりません。
大変心配です。

子どもは、体が成長するということはみんな知っていますが
心も成長するということは
あまり意識されることがないようです。
自分の振る舞いで子どもの心の成長を阻害することに
一緒に住んでいる親は気が付きません。

子どもが自分を思いやって
一緒に住んでいない親の悪口を言っても
「あなたの親なのだから悪く言うのはやめなさい」
という方は必ずしも多くないように感じています。

自分の心を守ることで精いっぱいだからです。

子どもは成長するものだということは、
今子どもに問題が生じなければそれで良いというわけではない
ということなのです。
このままでいると子どもが何年後かに悪い影響が出てきてしまう
という今は見えないけれど、
将来の子どもの成長を見通して
子どもがどうあるべきかという考えをもつことが
なかなか家庭裁判所でもできていないと今日も実感しました。

子どもは自分で自分の将来を見通すこともできませんし
両親が仲良くしていてほしいという
当たり前の希望も、
自分の胸にしまってしまい
自分でも気が付かないふりをしているわけです。

「子どもの意思を尊重する」と
さも、もっともらしいことを言って
子どもに「会いたくない」と言わせて
ほらだから会わせないんだ
強制はするななどということが
いかに愚かしく、子どもに対して残酷なことか
少しでも多くの方に理解していただきたいです。

子どもの一番言いたいこと
「お父さんとお母さんと仲良く笑って安心して暮らしたい」
という意思を
誰も尊重しようとしないではないですか。

自分達に都合の良いときだけ
子どもの意思を尊重するという大人たちに
強烈な嫌悪、憎悪を覚えます。

片親疎外の悪影響を受けることは
子どもの自己責任ではありません。
両親、裁判所をはじめとする法律家という大人の責任です。

片親疎外はお子さんの性質や
一緒に暮らしている親御さんのふるまい
親以外の人間交流によって
影響が出るお子さんと出ないお子さんがいます。
それは間違いないようです。

ただ、一緒に暮らしている親御さんと
一緒に暮らしていないもう一人の親御さんと
両方から養育されて、愛情を感じているお子さんには
確実に片親疎外は出ません。
簡単に防止できることだと言えます。

子どものことを何も知らないで
勉強もしないで
ちょっと考えればわかりそうなことも気が付かず
つまり人間の心、情を忘れて
冷酷な意見表明をしている人たちは、
子どもを危険にさらしていることに
生まれてきた意味を見失う子どもたちが生まれることに
どうやって責任を持つというのでしょうか。

わからないことは黙っているべきだと思います。
物言わない子どもの利益を全く考えない考えを
心から軽蔑します。


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第20回 意見が違う時の歩み寄りの方法 コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント20 [家事]

新婚時代は意見が違えば無条件に相手に従うわけです。
対立は起きません。

しかし、しばらくすると
相手はいつも自分を優先してくれなくなりますから
(母親と赤ん坊の関係ではないので)
本当に自分は愛されているのかしらと
疑問に思うことが少しずつ増えていくわけです。

自分の意見に反対されると
自分をないがしろにしているように感じてしまうわけです。
だから、自分を守るために自分の意見を通したくなるようです。

第三者から見ると
どうしてそんなくだらないことにこだわるのと思うことでも、
その時は自分を守る戦いになっているから必死です。

例えば、週末は海に行こうねと言ったのに、
疲れているから外出したくないと言われれば
以前なら「それは休んだ方が良い。ゆっくり寝ていてね。」
と言えたはずなのに、
自分が愛されているという自信がなくなると
せっかく楽しみにしていたのに、
自分がないがしろにされている
と瞬間的に被害的に考えてしまうわけです。

自分との約束なんてどうでもよいということかという意識になるようです。

確かに、約束は守らなければならないということが道徳でしょうが、
家族の中には約束よりも相手の体調、場合によっては気分を
尊重することが真の道徳だと思います。

前のように、「じゃあ今週の週末は家でのんびりしよう
私がランチを作るよ」というようなことを言えば
相手も体調を整えて次の週末に海に行けるのですが
争いになってしまうと
海に行くこと自体がうっとうしくなるし
お互いの関係もしっくりこなくなることがあります。

まず考えるべきことは家族を怒らないという鉄則です。

家族の意見と反対の意見にこだわる理由になりそうなことは
約束、合理性、道徳、あるいは常識、正義、権利法律ですから、
これらの言葉が自分から出た場合は特に気を付けましょう。
そして、むきになって意見を言っている自分に気が付いたら
「自分」が「相手」から被害を被っているという考えは極力捨てて
「二人は」、「私たちは」どうするべきか
という発想で考えてみるようにしましょう。

約束を破る方は、家族ですから遠慮しなくてよいのですから
身構えず、
楽しみにしていたのに申し訳ないと
ヘロっと謝るくらいの心の余裕を持った方がうまく行くでしょう。
相手はあなたから尊重されないと感じたから怒るのだから
しっかり謝るとか、代替案を提案するとか
相手のことを自分は尊重しているということを分かってもらえればよいわけです。


千字式は、今回20回目でいったん終了します。
また思いついたら、突拍子なく第21とか言いながら始めるかもしれません。
一家族でもより多くの家庭が安心の場所になりますように
お祈り申し上げます。
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第19回 赤ん坊が生まれれば上の子が可愛いと思えなくなることは当然 だから上の子を意識的にかわいがることが大切 コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント19 [家事]



新たに赤ん坊が生まれてしまうと
上の子が可愛いとは思えなくなって
自分はなんてひどい親なんだろうと悩まれる人がいるようです。

悩む必要はありません。全く正常な感覚です。

人間が哺乳類である以上逃れられない宿命です。

「可愛い」という感覚は、
小さくて弱い者を守ろうとするときの感情なのですね。
そうやって哺乳類は一番弱い赤ん坊を
守ろうとすることができたわけです。

もしこの感覚がなかったら、
自分が大事ということになってしまって、
赤ん坊が泣こうが気にしないで
自分の都合を優先してしまいますから
弱い赤ん坊は簡単に死んでしまうわけです。

これでは、子孫を残すことができません。
その種は絶滅しまいます。

弱い者を守ろうと進化したというよりも
弱い者を守ろうという仕組みを持った種だけが
子孫を残したと考える方がわかりやすいと思います。

だから可愛いという感情は、
われわれ人間が赤ん坊をかわいがることによって
子孫を残してきた遺伝子的戦略
本能的な感情です。

赤ん坊が生まれると2年くらいは、
母親の脳が生理学的に変化して
生まれたばかりの赤ん坊をかわいがるように脳が動き出すそうです。
もっとも個人差はあるみたいです。

さて、人間は他の多くの哺乳類とは異なり、
子どもが大人として独り立ちするのには
途方もなく長い時間を必要とします。

だから、兄弟が同時に同じ家族の中にいて
同時に同じ大人に養育されているという形態をとります。

かわいく感じてしまう赤ん坊と
それほどかわいく感じられなくなった上の子と
子どもが複数いるご家庭では
多かれ少なかれそういうことが起きているわけです。

赤ん坊が生き抜くためには仕方がない体の仕組みなのですが、
上の子もかわいそうです。

うまくできていることは、人間には本能だけでなく
理性や言葉が備わっているということです。

自然には可愛いとは思えないお姉ちゃんお兄ちゃんには
理性で愛情を示せばよいということになります。

言葉というものは便利なもので
「あなたが一番大切だよ」ということは
苦労しないで言えるわけです。
あとは食い物での特別扱いですね(私基準)。

もう一つ人間には進化で獲得したものがあります。
それは家族です。
他の動物は母親が子育てをしますが
人間は家族で子育てをします。
母親だけで子育てをすることは
年代の違う子どもが同時に存在する人間の養育形態では
無理がある話だと言えると思います。

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第18回  自分を守ることをやめて家族全体を守ろうと切り替えることが自分を守る最大の方法かもしれない 自分を勘定に入れるということ コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント18 [家事]



一緒に住んでいると多くの時間を共有しているわけですから、
誤解が生じたり、うっかり虎の尾を踏んだりして、
けんかが起きる可能性はあるわけです。

それら日常の不満が蓄積されたり、
体調の問題が悪く影響を与えたりして、
家族の中に深刻な亀裂が生じてしまうことも見てきました。

「自分は妻の被害者だ」という夫も、その逆も当然いらっしゃるわけで、
ある局面だけを見ると、そう思いたくなることも当然だということは確かにあります。

でも、そのときは被害者なのに、
過剰な反撃をしてしまえば加害者になってしまいます。
家族は再生の方向に向かわずに崩壊し、
子どもたちが犠牲者になってしまいます。
また、当事者夫婦もやはり大きな痛手を受けます。

家族の再生、メンテナンスは、
早いうちに細目に行う必要があると感じています。
でも相手から攻撃されてしまうと、つい反撃をしてしまうのが人間のようで、
反撃すれば相手にとっては新たに攻撃されたという記憶になるだけなのです。

どうしたらよいでしょうか。

なかなか難しい話なのですが、
家族の間では、自分を守ろうとすることをやめることが一つの方法です。
生きるという行動と逆行する行動ですから、自然にできることではありません。
自分を攻撃にさらし続けるという発想は、精神的にも悪いと思います。

ここで発想を切り替えるということの提案です。
自分を守るという意識から
家族全体を守るという意識に
切り替えるということです。

相手の言い分、子どもの言い分や利益、
そして自分の言い分、
そのすべて守ろうと考えるということです。

この時自分の言い分も正当に取り上げることが肝心です。
全員の言い分が通ることはないのですが、
できるだけ家族全体の利益を守るためにはどうしたらよいか、
その中で自分は家族のためにどのような役割を果たすべきか
という発想に立つということです。

このような形での自己犠牲は人類は誕生の時から行っていますから、
比較的無理がありません。

問題は自分が攻撃されているときに、
家族という仲間意識を持てるかということにあるかもしれません。

そうやって、対立関係から離脱できれば、相手を攻撃しなくて済みます。
家族が再生されれば、自分にとっても利益になるというわけです。

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第17回  相手ができないことをフォローすることは実は相手を傷つけていることがある こういう時こそデリケートさが必要 コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント17 [家事]



今回は難しい問題です。
どうしてそうなるかの説明は簡単なのですが、
じゃあどうすればよいかということが難しい。

そして、結構「あるある」の問題のようなのです。
そして、われわれは良かれと思ってやる場合、
結構無神経に、雑な行動をしてしまっている場合があるようです。

人間いろいろできないことってあるわけです。
仕事でもそうですが、
家庭でよくあるのは、
片付けができない。掃除をしない。調理が苦手。お金の計算が苦手。

他の家族は、それが「できない」ということをなかなか理解できません。
サボっている、自分を馬鹿にしているとか思う人まで出てきてしまいます。

じゃあ、「そっちができないならこっちがやるよ」で本当は良いのでしょう。
しかし離婚事件では、
どうやら自分のできないことを上手にやって見せることで
自分が馬鹿にされている、否定されていると感じてしまい、
それが蓄積して憎しみになってしまうことが案外多いようです。

片づけをしない妻を見るに見かねて、夫が片づけをやり始めたところ、
妻が包丁を振りかざして片付けをやめろと脅かされるというケースもありました。

片付けをしているときに、
眉を寄せていやそうな顔をして片づけをしてはならないということはわかることだと思います。
言葉には出さないものの相手を明白に責めていますから、
相手は自分を守ろうとして逆上していると整理することができます。

問題は、ニコニコして片付けをするとか、
こちらがやるのは当たり前だと言いながら片づけをする場合でも、
やはり不快な気持ちになる場合が多いということです。
対処が難しい。

どうすればよいのか、特効薬が見当たらないのです。
ただ、例えば今の例で言えば、
夫が片付いていないことをそれほど気にしていないけれど、
片付けられないことに妻が気にしていて、
妻にしてみれば夫からの評価が下がるという不安を抱いていることがあるということです。

妻自身、世間がそれを許さないだろうという気持ちを持っていますから、
当然夫も自分を軽蔑しているだろうと常々おびえているのかもしれません。
その敏感な部分に触る行為ですので、
デリケートな対応が必要な場合があるわけです。

相手にやってもらってラッキーと思える図々しさがあれば簡単なのですが、
案外繊細で責任感も強すぎる人なのかもしれません。

でもできないものはできないのです。

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第16回  自分以外の家族同士が対立しているときの板挟みの挟まれ方 中立的態度を貫く方法としての「えこひいき」コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント16 [家事]

例えば、夫から見て妻と娘とか、親からみて兄弟げんかが行われているとか、
家族の中で自分以外が言い合いしているとき、
どう立ち回るべきなのかということです。

やってはならないことは、
対立している二人の面前で、どちらかにだけ味方することです。
対立する二人のどちらかに注意をすることも逆効果になる可能性があります。

例えば
夫がインターネットの会員登録をしていて入力ミスとかでなかなか前に進まない、
それでイライラしているときに、
妻がアドバイスをしているそばから、
夫が間違ったままエンターキーを押しそうになるので妻が慌てて注意したのが、
声が大きくなりきつい言い方に聞こえたということがあるとします。

子どもは、事情が分からず喧嘩していると思い、
妻がきつい言い方をしているから悪いんだと思い、
「そんなにきつく言わなくても良いじゃない。」と言ったとします。

夫は子どもが妻に意見を言ったことで、
ネット操作のイライラのうっ憤を晴らして留飲を下げるとともに、
「ほら見ろお前の言い方が悪いから俺が落ち着いて入力できないんだ。子どもの言うとおりだ。」
と無駄な対立関係が生まれてしまうというようなことが結構あるわけです。

庇ったつもりで紛争を大きくしてしまっているわけです。

対立当事者のどちらかあるいは双方が大人の場合は、
静観することが良いのかもしれません。
しかし、収拾がつかなくなってしまい、
このままでは対立関係が持続してしまうという時は、
それぞれ一人にして、相手に聞かれないところで味方する
という方法がお勧めです。

つまり隠れて思う存分えこひいきするということです。
この時、できるだけ、対立相手の行動を否定するのではなく、
話している本人の行動に共感を示し、肯定することです。
「お兄ちゃん辛いのはわかる。
でも、妹はまだ小さくて、相手の気持ちになって考えることができないのよ。
ここは収めてもらいたい。申し訳ない」とかです。

母娘の対立で父親が間に入る場合は
「お母さんも心配していっているのだから言い過ぎの所は勘弁して、
お父さんも心配だから、このことだけは頑張って説明してくれないかな。」
とかですね。

家族のトラブルでどちらかだけが悪いということはめったにありませんから、
双方を肯定するということが理に適った解決方法になるのは当然のことかもしれません。

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第15回  家族のからの攻撃に傷. . つかない方法は言葉を真に受けないということと、受け止めたふりをして流すこと。コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント15 [家事]



前に自分が八つ当たりをすることをチェックしようと言いましたが、
今回は家族からの八つ当たりを受けた場合です。

大体の怒りは八つ当たりだし、怒りの程度は過剰になります。
家族の場合は八つ当たりでもそれなりに的を射た話をされるので、
言われた方は聞き流すということはできません。
「何をっ!」
ということで反応してしまい、怒りが炎上します。

また、予想していない攻撃とか、
そんなに責めるかという程度の攻撃を食らいますので、
こちらも自分を守ろうと、本能的な反応、つまり反撃をしてしまうわけです。

家族から攻撃を受けたら、
本能的な反応をする前に、良く考えましょう。

具体的には先ずにらみつけるだけにしておきましょう
(何も反応しないのは難しいからにらむ)。
こちらが話し出すまでの時間稼ぎをするということです。

相手が怒っている原因に心当たりがあれば、謝ることができます。

問題は、そこまで言わなくても良いじゃないかという時と、
相手が何を怒っているのかわからない時です。

相手をにらみつけながら、
ああ、これは「私に原因がないのだな」という結論に達した場合は、
「人間こういう時もあるよな。」という受け止めることが正解です。

相手が暴力に至る危険がないことを確認できれば、
第1、あなたがやっているほかのこと(テレビとかゲーム、急がない家事とか)は
止めましょう。
第2、自分以外の何かに不安を感じているのだなと思ってあげましょう。
第3、時折相づち(「はい。」とか「それはそのとおり。」
とか肯定できるところを肯定して)をうちながら、悲しそうな顔を作りましょう。
第4、言葉は極力形式的に聞いておきましょう。
とにかく嵐が過ぎ去るのを待つ。怒りは持続しにくいということも特徴です。
相手が落ち着いてきて、バツが悪そうな顔をしたら、
何事もなかったように別の話題を始めるという流れです。

2点注意が必要です。
一つは、身体生命の危険が無いことを確認すること。
危険があれば委細構わず逃げる。
二つ目は、相手を馬鹿にした態度をとらないということです。
反射的に負けないぞという気持ちになり、
強がって笑って見せるなんてことがあります。
全く無駄な行動です。

馬鹿にした態度と思われない方法が、いま述べた4つのステップです。
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第14回  家族の無駄話は無駄ではない。家族を成り立たせるのは無駄話にあり。コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント14 [家事]



無駄話を禁止する会社って結構多いのです。
バブルに陰りが見えてきたころからこういう会社が多くなって、
一般的になってきたように感じます。

その影響なのか会社だけでなく、家族の間でも
「結果が出ない話はするべきではない」
と信じ込んでいる人が男性には多くいるようです。
男性は長電話が苦手な人も多いので、元々ある性差なのかもしれません。

無駄話とはどういう話でしょうか。
話しても結果が出ない、
結果が変わらない話。
意図、目的持たないで始まる話。
誰かの噂話。
一方には関心のない趣味の話。
だから何だというわけでもないその日あった体験話。
こんな感じでしょうか。

こういう話がなぜ無駄だと思うのでしょうか。
それは、言葉というものは、人に何らかの行動を促すための、
共同行動を成り立たせるための道具だと思っているからなのだと思います。
代表は命令ですね。

そういう言葉ばかりの人間関係は、
何かの行動をする共通の目的をもった仲間なのでしょう。
例えば会社は利益を出すための仲間であるということは間違いないでしょう。

しかし、言葉の機能はそればかりではありません。
相手を安心させる、相手の不安を取り除くという機能があり、
人類がそういう目的で言葉を使っていたという説明がなされるようになりました。

この観点から見れば、先に述べた無駄話は無駄ではなく、
相手に安心感を与える言葉本来の効果を持っているということになります。

そもそも家族は、会社ではありません。
子育てとか家を建てるとか共同行動もしますが、
一番の目的は「安心して一緒にいるということ」だ
という説明の方法もあると思います。

帰り道、大きな犬がいてドキドキしたということを報告し、
家族が笑顔で聞いてくれれば安心することができます。

楽器が少しだけだけど上達したと言って、
良かったねと言ってもらえばうれしい気持ちになるでしょう。

あの女優が不倫をしたといって、いやあねえと否定評価を言い合うと、
同じ価値観だと安心できるかもしれません。

それなのに家庭でも共同行動の提起ばかりだと嫌になるわけです。
ゴミ捨て忘れているとか、電気を消さないとか、片付けができていないとか。
つまりダメ出しですね。

これは、今後は、言葉の意味、機能をよく理解していないという評価になりそうです。

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第13回 家族の在り方に関する他人の話は真に受けてはいけない 家族が良ければそれでよいという信念を持つ コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント13 [家事]



新婚さんに対してアドバイスをする人がいます。
結婚生活のノウハウみたいな書籍やインターネット記事も目につきます。
しかし、親のアドバイスを筆頭に
百害あって一利なしということが多いと感じています。

一番注意をしなければならないのが、
「常識」というやつですね。
片づけをしないのは非常識だとか、
出来合いの総菜ばかり買ってくるのはいかがなものかとか。
自分の家ではこうしていたのにしていないのはおかしいとか。

結局「常識」という服を着せた誰かの意見にすぎません。

確かに、封建時代では、行動様式が画一的な時代がありました。
この時代はこうやって生活すれば
後ろ指をさされないで穏やかに暮らせるという約束がありました。

しかし、現代では、家族によって事情が大変異なります。
ほかのご家族では当てはまっても、
こちらのご家族では当てはまらないということばかりです。

それを、最初が肝心だとか、財布のひもはどっちが握るとか、
間違いだらけのアドバイスする人が実に多くいます。
無理に主導権を握ろうとするとか、無理に給料を渡さないために、
簡単に夫婦の心に亀裂が入ることがあります。

他人のアドバイスで行動してしまうと、
あなたの心が嫌がっていないのに、
言葉では別のことを言うということになってしまっています。

相手はあなたの反応を見て行動をしようとするものですから、
反応と違う言葉が出てしまうと、
何を基準に行動してよいのか分からなくなってしまいます。
無駄に不安になるわけです。

相手が喜ぶことを学習してそれをする。
相手が嫌がることを覚えてそれをしない
というのが夫婦なのだと思います。
他人の意見で行動するとそれができなくなってしまう。
万年床になっていようと、スーパーの総菜ばかり食べていようと
二人が良ければそれでよいわけです。

ただ、子どものこととか将来のこととか考えなければならない時に、
ゆっくりのんびり相談をして、双方が協力して二人が良いと思う行動ができれば
最高なわけです。

そのためには、嫌なことは嫌と安心して言える関係を作ること、
嬉しいことはうれしいとわかりやすく伝えること、
自分ができることをしても相手の心に負担を掛けないこと、
そういうことができる安心した関係を作ることが
すべての基礎になるのではないでしょうか。

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