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カウンセリング技術と弁護技術の融合 ロジャーズの「来談者中心療法」(「カウンセリングの話」シリーズ3) [進化心理学、生理学、対人関係学]



ロジャーズの理論が、この本を読んだ時から一貫して感銘を受けている場面です。現在においても異論がありません。むしろ、積極的に弁護士業務に取り入れていくために今回も再確認をしたくらいです。

さて、ロジャーズの理論は、来談者(クライアント)中心療法というもので、カウンセラーがあれこれクライアントに指示を出すことを中心にすることをせずに。クライアントの成長を信じて、その力と決断力を中心に進めるカウンセリングのことを言うのだそうです。

これを理解するためには、この反対の理論を知る必要があるでしょう。それが、精神分析だと平木先生はおっしゃります。精神分析は、「人間は本能の塊である」と考えていて、本能は奔放でコントロールが難しい、だから本能をいかにうまくコントロールして人間にふさわしく発揮をさせていくかを教えなければならないという理論だそうです。

この時期の本能の考え方は、現代と異なります。「本能というのは人間に悪さをするもので、本能に従って物事を行動してはならない、人間は理性的に生きなければならない。」というデカルト的な考え方といえるかもしれません。理性が礼賛されていた時代です。(だからこそ、フロイトの無意識による行動決定は理性の及ばない人間の行動の存在を主張したもので、世界を震撼させたわけです。)しかしこの理性礼賛というか、本能は悪であるという考え方は現在は否定されています。対人関係学の親ともいうべき、アントニオ・ダマシオの「デカルトの誤り」に書かれているように、本能(二次の情動)によって人間は対人関係の中で自分の位置を「考える」より早く「感じ取り」、自分の行動を抑制するという側面があるということでした。

だから、この本能をつかさどる前頭前野腹内側部が欠損すると、ギャンブル的な行動をしたり、他者から顰蹙を買う行動が「できるようになって」しまったりということで、本能(二次の情動)が人間が群れを作るうえで、つまり人間らしく生きるためで重要だということになっています。

また人間の意思決定も、理性をつかって思考の結果結論を出すという思考パターンはそれほど多くなく、ほとんどの行動は無意識の、思考をそれほど使わないバイアスがかかった意思決定をしているという二重意思決定モデルも理性のとらえ方を修正するべき方向に向かう理論ではないでしょうか。

このシリーズのこれまでの記事で述べてきた、人間が対人関係で安定した帰属をしたいという欲求があるということも脳科学や認知学的な裏付けのある話だと私は考えます。

まあ、そのような原理問題にかかわらず、弁護士業務を長年やってきて思うのですが、ロジャーズの来談者中心療法は、弁護士業務においても全く正しいと思い当たることが多くあります。

この来談者中心療法の魅力的な部分は、クライアントは、実は問題の所在をよく知っており、問題をどう解決してどのように生きて行こうかということを真剣に考えて育んでいるととらえ、人間の意思の尊重、本人の意思の開発を中心とするという考えです。そしてカウンセラーは、クライアントの実現しようとする意思が何らかの障害にあたっているために実現していないという現実を踏まえて、その障害を取り除いてクライアント本来の力を解放することが仕事だとしています。だから、カウンセラーが偉いわけでなく、クライアントと同等の立場であり、これなくしてカウンセリングは成り立たない。

こういう話です。そしてこれは弁護士においてもぴったり当てはまるように思うのです。

私はこの部分を、過剰に読み込んでしまっていて、クライアントこそが自分の悩みの解決方法を知っているのだというように誤解をしていました。しかし、それは誤解ではなく結果としてはその読み方でよいと思っています。

弁護士の依頼者や相談者も、全く同じです。問題の所在をよく知っていますし、解決方法も考えています。ただ、他者と紛争中ということで、戦闘モードや逃走モードに入っているために、①思考がうまく働かないという事情があります。さらに②紛争を起こしているというストレスが持続することによって、悲観的な思考に陥ったり、自信を失ったり、あるいは過度に攻撃的になったりしたり、あるいは③解決のための知識がないために、自分が考えた方法が選択肢とならなかったり、選択肢にはあるのに選ばなかったり、実行に踏み出せなかったりという事情があることがほとんどではないでしょうか。

だから弁護士は、その意思の実現の障害を取り除いてゆき、法的手続きを代わって行うことによってクライアントの意思を実現するということを心掛けるべきです。カウンセラーとこの点においては全く一緒ではないかと思うのです。

常々思っているのですが、知識や法的思考ができるのは当然として、弁護士に一番価値があるのは第三者として冷静にものを考えることができることだと思うのです。つまり岡目八目が最大の武器ということになると思っています。

平木先生は本の「はじめに」の部分で、カウンセリングの本質を相手の立場に立って援助することだとおっしゃっています。「相手の立場に立つ」ということの意味は、実はいろいろ議論があることで簡単ではないのですが、一つの意味としては対等の立場に立って、クライアントが何を実現したいのかを考え、そのための方法を提起する、それも選択肢を提起して、あくまでもクライアントが自分で決定するということを大切にしていくことだと思います。

つまり、クライアント、通常の民事事件だけではなく、刑事事件の被疑者、被告人であっても、その人の置かれた広い意味での環境に置かれたら自分も同じようなことをやっていたかもしれないという同じ地平線に立つということが、相手の立場に立つための大前提になると思っています。刑事事件も労災事件も離婚事件もそのような立場に立つことができることによって、良い結果を出しているということを実感しています。

例えば、最近、別居した夫婦や離婚した夫婦の再生の結果が出るようになってきました。もしかすると、最も困難な仕事かもしれません。通常は、どちらかが離婚だと言い出したら離婚を受け入れなければならないという考え方をすると思います。しかし、離婚を受け入れられない方と離婚を申し出る方とどちらとも同じ地平に立ち、それぞれの本当に言いたいこと、こうありたいと思ったことを探求していく中で、依頼者と真剣に話し合い、方針を確立して、励まして、再生の方法というものをある程度確立していくことができました。弁護士の頭であれこれ考えているだけではとてもそんなことはできなかったと思います。クライアントと対等の立場で対等に考えることによって切り開いていっている分野です。


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人間の欲求の階層 マズローの人間観によせて 2種類の欲求の様々な側面ではないかということ(「カウンセリングの話」シリーズ2) [進化心理学、生理学、対人関係学]



前回のY理論に対する疑問より早く疑問が大きくなっていったのがマズローの人間観です。疑問と言っても、マズロー以前はこのようなことを述べる人はいなかったわけですし、大きな功績であり、とても重要な学説であることは待合ありません。要するに、知名度のあるマズローの学説と比較することで自分の考えをわかりやすく伝えようとしているだけのことです。

さて
マズローの人間観とは、「人間は生まれながらにして、より成長しよう、自分の持てるものを最高に発揮しようという動機付けを持つ存在である」というものだそうです。

そして従来の心理学は、人間の足りないところや欠けたところの研究を中心に発達しており、人間に何が不足するとどんな風に障害が起きるのかということが主の関心事であった。その典型が精神分析であると主張し、

これからの心理学の研究課題として重要な側面は、人間がより成長しようとする存在であり人間存在そのものをもっと積極的に、可能性に身と他者として見ることである。
と平木先生はおっしゃっております。

さらに、マズローは人間の欲求は階層になっているとし
第1に、生理的欲求があり、性欲や飢え乾きを癒す欲求
これが満たされて
第2に、安全の欲求、保護されたい、雨風をしのぎたいという欲求が生まれ、
第3に、所属と愛の欲求が生まれ、集団に帰属したい、友情や愛を分かち合いたいとなり、
第4に、承認の欲求が生まれ、人から尊敬されて、自尊心を持ちたいと思い、
第5に、自己実現の要求がわき、可能性の実現、指名の達成という欲求が起きるとされています。

これまで私は、人間が自己実現を求める存在だというマズローの人間観には賛成していて、5つの欲求があることもその通りだけど階層の順番が違うのではないかという違和感を持っていた程度でした。

マズローの理論は実際のカウンセリングのベースになるもので、マズローの人間観も実際のカウンセリングをする場合を念頭に置いて論じられていて、その意味では優れたメリットを持つ考え方だと思います。その意味で反対をするわけではありません。価値観としても魅力がある考え方だとも思っています。

説明の便宜のために、人間の欲求の階層について対人関係学の意見から先にお話しします。

対人関係学は、マズローの5段階の関係は賛成できません。
対人関係学である人間の欲求(ニーズ)は、
1 身体生命の安全の欲求
2 対人関係的な安定帰属の欲求
の二つの柱の欲求を持つということです。

そして、マズローの言う各欲求は階層になっているのではなく、それぞれ1と2の内容、あるいは派生的欲求だということを主張しています。
1の身体生命の安全の欲求の内容がマズローの生理的欲求(第1段階)、安全の欲求(第2段階)
2の対人関係的な安定帰属の欲求の内容が、所属と愛の欲求(第3段階)、承認の欲求(第4段階)、自己実現の欲求(第5段階)だということです。

1の身体生命の安全の欲求は、人間に限らず、動物全般に見られる欲求です。動物として生きるということはこういうことだということです
2の対人関係的な安定帰属の欲求は、人間における群れ形成の方法というものであり、群れを作る動物に共通の点はありますが、やはり人間において特徴的な欲求と言ってよいと思います。

自分の群れに安心して帰属し続けたいという欲求があり、その状態が尊重されているということです。他者から尊敬されれば安定帰属が図られますし、友情や愛をわかちあえればそれ安定帰属をしている状態ともいえますし、安定帰属の保障にもなるでしょう。自尊心をもって生きることができるということは、実は群れに安定して帰属している自分の状態を感じているということに他ならないと考えています。また、自己実現についても、基本的には群れに安定的に帰属することを目的としています。

もっとも、私たちの意識としては、群れに安定して帰属したい、だから群れに役に立ちたいと考えているわけではありません。群れのために役に立ちたい、尊敬されたい、能力を発揮したいという心があったため、群れに帰属しようとする行動傾向が生まれ、人間が群れを形成し、生き延びてきたという関係にあるのだと思います。

この自己実現については、人間の個体それぞれの社会性によって意味合いが異なってくると思います。つまり、個体の社会性がせいぜい家族の範囲にとどまる場合は、自己実現と言っても家族との関係での自分の在り方にとどまるでしょう。個体の社会性が、家族を飛び越えて、社会や国家と自分の関係を意識づけて行けば、自己実現は社会的立場や国家的立場の実現、それほどの規模の何らかの発明や学問的到達、あるいはスポーツや芸能の到達ということを意識するようになるのだと思います。

文明が発達し、情報や交通が発展していく中で、この社会性を広げる圧力が強くなっていったように思われます。多くの人が社会的に成功をすることに価値を置くことに疑問を持たなくなったように思われます。私は最近このことに強く疑問を抱くようになりました。家内安全を第一目標に生きることの何が悪いのかということです。もっとも私が歳をとったということもあります。若いときは無鉄砲に社会性を広げていたようにも思われ、その反省の意味もあることは認めざるを得ません。

こう考えると、従来の心理学とマズローの言うこれからの心理学はそれほど違うものではないのではないかと感じてしまうわけです。人間のかけたところや過剰な環境に対する不適応を修正し、不安や焦燥感を解消し、自分の群れの中で尊重しあい相互に助け合い、安心して生活するということが、人間の目標であるべきであり、他者の援助の対象の範囲ということにはならないでしょうか。

社会性を広げた自己実現は、他者が誘導する話ではない
そう思っています。

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対人関係学の人間観 カウンセリングのX理論(本来怠け者論)とY理論(人間信頼論)によせて (「カウンセリングの話」シリーズ1) [進化心理学、生理学、対人関係学]



私が司法試験に合格して、試験勉強以外の本を読むことを解禁して最初に読みだしたのが平木典子先生の「カウンセリングの話 増補」(朝日新聞社)です。何度か繰り返して読む本の最初の本となりました。今回何度目かの読み返しをしてみて、改めて勉強になりましたので、メモを残すことにしました。

先ずは、カウンセリングの人間観のX理論とY理論についてです。
X理論とは、人間怠け者論であり、人間は本来、仕事とか精神労働が嫌いであり、責任は取りたがらず、できるだけ楽しようとする自己中心的な存在だという人間観です。

Y理論とは、人間信頼論であり、人間は本性的に働くことが好きであり、遊びや休息と労働は同じものであるという人間観です。

ここで平木先生が、カウンセリングはY理論の人間観に立つと明言されていることから、何度もこの本を読むことになったのかもしれません。この前読んだ時もそうですが、何度読んでも感動した箇所でした。

現在は、全く考えが変わりました。と言っても、X理論が正しいと考えるようになったというわけではないのです。
「人間の本性」という不同なものがあるような考え方自体に賛同できなくなりました。人間のこころは環境に大きく影響されるものだということを考えるようになったわけです。

対人関係学の考え方は以下のとおりです。
人間が、自分が仲間だと感じる他者と人間関係を形成している場合、仲間のために働こうとか、仲間のためになる活動に喜びを感じて、生き生きと働くし、考えるし、どんな結果になっても人生をかけて寄り添っていくという考えです。

しかし、自分が孤立しているとか、虐げられているとか、幸せになる展望を持てない場合は、自分から進んで働こうとしないし、怠けて楽をしようと思うものだということです。

もっとも、子どもは、大人からの恩恵を受けようとする傾向にあることはやむを得ず、X理論的な行動傾向になってしまうという発達上の問題もあるだろうとも考えています。

人間が心を持ち始めた200万年前の狩猟採集時代は、他人と言えば全員が一緒に助け合って暮らしていた群れの仲間ですから、人間信頼論が妥当していたと思います。現在では、他人が自分の敵だということは大いにありうることで、このような心が壊れる原因となっていると考えます(環境と心のミスマッチ)。

X理論とY理論、対人関係学は、実践的にも違いが生まれてきます。
労務管理では、X理論に立つと、人間は怠けがちなので、報酬で誘導したり、懲罰でけん制したりしてともかく働かせなければならないという方向に向かいます。
労務管理のY理論はよくわかりません。
対人関係学は、職場が仲間であるという実感を持てることにより、より個々人のパフォーマンスが発揮できるようになり、生産性が上がるということに力点を置くようになります。

X理論の労務管理の弱点は、働くモチベーションが窮屈であり、失点を防ぐことを志向してしまい、言われた行動しかしなくなる。実際の結果よりも、上司の評価の方を気にして抜け駆けをする、職場が殺伐になるというところにあります。この点に留意する必要があるわけです。

対人関係学の労務管理理論は、人間関係論という労務管理論を理屈づけしたものです。個々人の帰属感をどのように高めるかということがカギになります。報酬や懲罰が全くないというわけにもいかないので、程度の問題となるかもしれません。

また仕事の内容に応じて出し入れをする必要がありそうですね。

刑罰理論でも古代中国の論争でも、このようなX理論とY理論の対立がありました。荀子の性悪説と孟子の性善説が対立して、人間とは無秩序に向かうものであるため法律で厳しく制限をしなければならないという性悪説の思想で法律が作られた時代があったわけです。

この二元論的な考え方は私達にも浸透していて、何か犯罪とか虐待とかという出来事があると、刑罰を厳格化して、刑罰の威嚇をもって犯罪を抑止する、警察の権限を強化して虐待を防止するという考え方になっているわけです。

これに対して対人関係学は、人間は自分が仲間だと思える他者と継続的に関係が構築されていれば犯罪や虐待は起きにくくなるということで、対人関係の在り方を改善していくことが最大の予防だという考え方になるわけです。

但し、対人関係学は、性善説に立ち切っているわけではなく、人間の本来的な心が複雑な人間関係の中に適合していないために、犯罪やいさかいなどの不具合を起こす原因が現代社会には常に存在しているという認識を持っています。放っておいても大丈夫というような考え方ではありません。

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うつ状態のときに決断をしてはいけない理由 うつ、悲観、焦燥、不安からの解放要求 頑張れないよこれ以上という状態 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



うつ状態のときに大事な決断をしてはいけないということはよく言われています。それは、正しい判断ができにくいからです。どうして正しい判断ができないのでしょうか。いくつか理由があります。

先ず、うつ状態というのは、何事も悲観的な見通ししかたたない状態です。何事もあきらめてしまいます。特に他人との関係が、おっくうになります。引きこもりを考えるとわかりやすいと思うのですが、他人との関係を切り捨てて、一人になろうとする方向での行動になりやすいのです。

次に、悲観的な見通し、思考を含めてエネルギーを使うことができなくなる、つまり頑張れなくなるわけですが、それに加えて焦りが強くなっているようです。今の状態が不安で不安でたまらなくなり、早くこの不安から解放されたいという気持ちになっているようです。だから、ますます、関係を断ち切る方向や自分はどうなっても良いから頑張らなくても良い方向を選択してしまいます。

また、焦りや悲観的な状態、脳の活動をする気力がないという状態は、思考力が低下しますので、正常の思考ができなくなり、何が大事か何がどうでもよいことか、誰を大切にするべきか、誰を頼ればよいか、すべてが間違ってしまう可能性も大きくなります。

そして、他人との関係に自信が持てなくなり、本当は自分はもっと能力などがあるにもかかわらず、「できない」、「頑張れるわけがない」という信念のような気持になり、その考えを修正できなくなります。

しかし、本人はまじめで責任感が強い人が多いため、そんな自分が許せない状態になったり、罪悪感に苦しんだりするわけです。そしてさらに、焦るわけです。それでも解決を思いつきませんから、関係を断ち切る方向の選択肢ばかりが強くなってしまいます。

どうしても、夫婦や友人との別離を選ぶし、退学や退職を選んでしまいます。これまで頑張ってきたことも、周囲がまさかと思うような諦めの決断をしてしまいます。関係を断ち切られた相手は、そのメカニズムはわかりませんから、関係は二度と回復しないということになる可能性が高くなります。

その最たるものが自殺です。

これ等は形式的には自分で決めて行動しているようにみえますが、他に方法が無いところまで追い詰められたということも言えるのではないでしょうか。

うつ状態の場合は、一言で言って先延ばしができるだけ先延ばしをするという方針が一番良いように思います。結論を迫られるということが最も危険なことだと思う次第です。

すぐに決めなければならないというのは、本人の都合ではなく、誰かの都合です。すぐに決めて失敗するより、決めないでぐずぐずしている方がトータルで見て正解ということが多いように思われます。

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「私」の創り方 創るのは私  [進化心理学、生理学、対人関係学]


これを読んでいるあなたが、もし、今のご自分だけが不幸だとか、不運だとか、みじめだとか、存在意義に悩んでいるという場合に何らかの参考になればよいなという気持ちで書いています。

こうあるべきだとか、こうするのが正しいということを言っているわけでありません。一つのサンプルとしてお読みいただければ幸いです。

私はこうありたい、こういう風に生きたいという「なりたい私」があるのに、それになかなか近づけないということで苦しまれている方もいらっしゃるかもしれません。

なりたい私になろうとすることは良いのですが、そのためには自分だけを鍛えればなれるわけではない場合が多いようです。
というのは、「私」だと考えているものの実態は、実は私以外の人からの「私に対する評価」や、人間関係の中での「私の役割」や「私が結び付いている人たち」だという可能性があるということです。

この「私以外の人」(との人間関係)は、実は様々で、子どものころは家族しかいませんが、徐々に成長につれて友達とか先生とか増えていきます。若者は、一足飛びに社会に目を向ける傾向があり、社会の中の自分ということでなりたい職業とか、入りたい学校とかを考えるわけです。新しい人間関係を作ることに意欲を持てるということは若者の特権かもしれません。繁殖行動としての側面もあるように思われます。

歳をとると、新しい人間関係を作ることにおっくうになり、いつものメンバーの中での自分の立場を守ろうとするだけということはありうるかもしれません。

ただ、社会の中の自分を求めるということは、それほど古い歴史があるわけではないようです。江戸時代までの日本人の職業構成は圧倒的に農業でした。農業従事者たちはそれほど国家とか社会の中での自分ということを意識しなかったと思います。海外に目を向けた幕末の林子平は変わり者とされたわけですから、極少数派だったわけです。鎖国という問題が強調されますが、外に目を向ける人が少数だったということを物語っているエピソードだと私は思います。

江戸時代までの多くの日本国民が、「他者」と言えば自分の家や集落を意味していた時代が続いていました。この考えが変化したのは明治時代の富国強兵政策です。戦争の準備のために国は立身出世、勧善懲悪を幼いころから国民に教え込み、男子であれば兵隊になって出世して悪い外国を懲らしめるものだと教え込みました。各地から一般国民が徴兵され、日本国という大きなユニットが人々の意識に上るようになりました。日本一を目指す人が増えてきたわけです。

戦後は男女平等ということで、この社会という大きな舞台を女性も意識するようになりました。ただ、人によっては歓迎することも人によっては迷惑なわけです。家事を一生懸命やるのが自分だという考え方を公にすることがはばかられる風潮があると思います。しかし、現在女性が輝くということで、この女性に社会性を意識させようとする政策がすすめられていますが、結局、煽られた結果に行く着く先は低賃金労働だという落ちがあるのかもしれません。

戦後すぐに社会を意識させたものはテレビですが、最近はインターネットです。自分の動向を不特定多数人に向けて発信する人が増えて、SNSを利用することが当たり前のようになってきました。有益な情報もあるのですが、概ね知らなくても良いことを読まされているのではないでしょうか。その結果、これまでなら考えなかった、自分と他人を比べてしまって自分の状態に落ち込むこともあると思います。

それらのいわば社会性、不特定多数人の中での自分に対する価値評価を否定するわけではありませんが、本当に乗りこなせているのか考えてみた方が良いということなのです。

そして、家族や固定した友人関係の中で、安心して暮らすのが「私」ということでよいじゃないかと思うのです。その考えを誰からも非難されないような風潮こそ持続可能社会なのではないかということだと思います。どうも、大きな誰かの利益のために、無理やり社会という規模の他者を意識しなければならないように仕組まれているということが歴史的な流れを見て思います。

わたしにもまだ野望はありますが、意識は狭い人間関係に傾くようになっています。例えば家族の中の自分の在り方を意識して創っていくということも私の作り方なのではないでしょうか。家族とはいえ、なかなか手ごわいわけです。

若い人が社会に対してチャレンジをすることはとても素晴らしいことです。しかし、私を創る舞台は、必ずしも社会という大きな舞台だけではないし、大きな社会だけに価値があるわけではないと私は思います。どんな時でもどんな場所でも、自分のできる範囲で自分の居場所をカスタマイズしていく、周囲と円満に暮らす、周囲から頼りにされるし、周囲に大切にしてもらうということが、幸せの一つの形だと私は思います。

いつからだって、どこでだって、創ることのできる私でありますし、創ることにできる幸せなのだと思います。他人の価値観をうのみにしないで、「私」見つめることさえできれば幸せはそれほど難しくないのだと思います。

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心と環境のミスマッチ 複数のグループに所属することによる問題1 外部での仲間へのいじり ウケを狙うことに夢中になって大事な仲間を傷つけているかもしれないし、自分がその外部の人から致命的な低評価を受けている可能性があること [進化心理学、生理学、対人関係学]



なぜ現代人が苦しむのか、なぜ犯罪や戦争が起きるのかということの一つの答えとして、「心と環境のミスマッチ」の問題があると対人関係学では主張しています。

「心と環境のミスマッチ」とは、
人間の心はおよそ200万年前までに完成しており、その後さしたる変化はしていない。心は当時の環境である数十人から百数十人の単独の群れでだけ一生涯生活していて、その環境に心はとても都合よく作られた。ところが現代社会は膨大な人数とかかわりを持ち、家族、学校、会社、地域、社会、国家等々複数の群れに所属して生きなければならない。環境が激変したのに心が変わらないので、不安を感じ、苦しみ、悩み、不健全な行動をしてしまう原因になっている。
というものです。

今回のテーマは、「外部での仲間へのいじり」の弊害です。

例えばの①、他の会社とプロジェクトチームを組んでいて雑談しているとき、「おたくの新人女性なかなか頼もしいですね。」なんて言われて、「いやいやあれでそそっかしくて、この間も大口開けてハンバーグを食べて口の周りソースだらけになりまして」なんて言ってしまう場合です。

上司は、部下の女性のなごむエピソードを話して、親近感を持ってもらおうということで悪意なく話しているかもしれません。しかし、取引先からその情勢社員が「大口ソース」とか呼ばれたりして、体裁を気にしないずぼらな人間だなどの評価を受けて一線級だった新人が軽く扱われてしまう等という弊害があり得るところです。

少なくとも、言われたその女性新人は、そのように心配するかもしれません。「取引先とのなごみ」という目的があったとしても、そんなエピソードなんて言わなくてよいことです。謙遜するということが礼儀だとしても抽象的に「ありがとうございます。しかしまだまだです。ご指導よろしくお願いいたします。」程度に言えばよい話です。

例えばの②、夫が自分の妻をほめられた場合、嬉しくなって「いや実は家では・・・」なんてことも同様に言う必要がありません。「うちのは愚妻でして」と抽象的に言っておけばそれで十分です。しかし、最近はそのような文化も廃れてきていますので、礼を言って終わりでが良いかもしれません。

例えばの③、自分の仲良しグループの一人について、別のグループの人と話題になっていて、実はこういう面があるということで笑いを取ろうとする時も同じような場面が出てくるでしょう。グループをチームに置き換えたり、組織に置き換えたりすることも可能でしょう。

言われている本人は、そのことを後で聞いた場合、その場の雰囲気やノリがわかりません。文字情報だけで、「あの人があなたのことをこう言っていた。」という形で伝わってしまいます。単純に自分の悪口を言われたと思う危険があります。

言われている本人は、その人との関係に安心しているために、他人の前では見せない姿をしているという可能性があります。それなのに、そのことを他の事情が分からない人に言われたことに傷つくことがあります。大げさな話ではなく、信頼関係が危うくなることがあります。

さらに、言われている本人は、言った張本人との関係が打ち解けたものと思っていたのに、実はその人からの自分の評価が低いのではないかと心配になることもあります。さらには、そのエピソード話を言っていた時に言った張本人だけでなく、自分以外のグループの仲間も何人かいたということになると、自分はグループ内で浮いた存在ではないかと思うようになり、自然なふるまいも軽率な行動だったのではないかと落ち込むということも出てくることがあります。

こういうところから、人間関係が少しずつ壊れていくということをよく見ます。

そのエピソードの内容によっては、受けを狙ったはずの外部の人から、そのグループ全体に対しての評価が低くなることも考えた方が良いと思います。

外部から見たら、内部の人間が内部の人間を批判する場合は、よほどひどい人間なのだと受け止められる傾向があります。実際は大したこともないのに、ここで言うのだからよくよくのことだろうと思うわけです。大口ハンバーガーくらいならばよいでしょうが、部下の仕事上のミスなんかを言って笑いを取ろうとするとチーム全体のクオリティに疑問を持たれてしまいます。そんな人がスタッフでいるところに仕事を任せてもよいものだろうかという疑念が生まれることもあります。これは言っている本人はなかなか気が付きません。笑いで済む話だと思って言っているわけです。しかし、必ずしもそれは相手には伝わらないのです。

また、聞いていた外部の人間からは、チームの人間関係がギスギスしているのではないかと思われてしまいます。たとえ本人からこのエピソードは営業トークでお話ししてよいですよと了解を得ていても、上司が部下に恥をかかせるような体質のチームなのだという評価をされる場合もあるわけです。

チーム力がウリの企業戦略ということは随所にあるわけです。特定の人がいなくてもチーム全体で案件を行ってくれるから安心するわけです。ところがチームの人間関係に問題があるという場合は、自分の担当に何か問題があると仕事が止まったり、クオリティが下がったりするのではないかとも思うわけです。

問題は取引先など他者から見た印象です。たとえ本人同士が許容していたとしても外部の者からすると、不穏当に聞こえるということが案外多いです。

さて常識的な人間であれば、自分のチームか否かを問わず、他者のマイナス評価になりかねないエピソードを話すことは無いでしょう。ではどういう人がどういう理由で、無神経に部下の知られたくない話を披露してしまうのでしょうか。

但し、チームの中のライバルに対して、そのライバルの評判を落として自分の評価を高めようというよこしまな考えのどす黒い話は除いて考えます。

先ほどの会社での取引先の話を例にしてお話します。この上司は、その場の取引先との関係に、自分なりに価値を置いて、話しをしていました。相手に受けるかどうかということが一番で、それ以外のことについてはほとんど考えない脳の活動状況だったと言えるでしょう。面白い話があったということを思い出し、その部下の気持ちを考慮せずに、取引先の顔色を見て話をしたということになります。

妻の家の中でのエピソードを言ってしまう夫や、グループ間の交流の時に自分のグループの子の失敗談を話す人も同様です。
つまり目の前の人との関係だけしか考えられず、自分が大切にするべき人間の感情を考慮することができない脳の活動状況なのです。

これは、人間が心を身に着けた当時はとても良い活動状況であり、かつ十分な活動でした。なぜならば、自分の目の前にいる人間はすべて自分の仲間だったからです。また、言葉が無く感情だけがあったのですから、いない時に悪口を言うということもしないで済んでいました。ただひたすら仲間を大切にしていればよかったし、そうしなければ群れ全体が生き残れないサバイバル状態でした。仲間をひたすら大切にするということで人間は生き残ってきました。

しかし、現代社会は、家族や職場や友人関係と、多くの組織に所属してしまっています。継続的人間関係もあれば、すれ違うだけだったり、インターネットで知っているだけ等の希薄な人間関係まで様々です。

そして、つい目の前の人間との関係で良い関係を結びたい、目の前の人に自分を受け入れてもらいたいという本能が過去の遺物としてはどうしても出てきてしまうようです。

そうしてつい、本当に大切にするべき人間関係を大切にしないということが起きてしまうようです。つまり人間は、一度に複数の人間関係を同時に大切にするということが苦手な生き物のようなのです

なお、こういうことを書くと、「そんなやわな心では仕事はやっていけない。常識を知らないな。今はまだ良くて昔なんて・・・」というご感想を持つ方もいらっしゃると思います。しかし、その場にいるいないにかかわらず、部下の悪口を言うという本末転倒な価値観を持っている人、部下の知られたくない話題を言いふらしてしまう人は、結局今何が大切かということを適切に判断できず、対応することもできず、その場の雰囲気や本能に任せて自己を抑制できない人、仕事の力を入れるべきバランスがわからない人、個人情報や内部情報コンプライアンスの管理がずさんな企業体という評価がなされていることに気が付いていないということになります。

また、学校等でのいじめ防止についても、ひどいいじめ、誰から見たっていじめだとわからないいじめは防止の対象と考えないという考えと同じだと私は思います。いじりはコミュニケーションなどと未だにおっしゃっておられるのでしょう。

自分と他者との人間関係を良好なものにするとか、他者と自分の関係を良好にして安心した生活を送るということを大切にするということはこういうことを一つ一つ考えていかなければならないことだと思っています。

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うつ病、PTSDが原因として慢性疼痛が発症する可能性を論じてほしい [進化心理学、生理学、対人関係学]



私の依頼者で、10年くらいうつ病やPTSDで苦しんでいる患者さんが数人いらっしゃいます。このような慢性的な精神疾患の場合、ほぼ必ず体が痛いという症状が出現します。順番で言えば 精神疾患が発症して何年後かに疼痛が発生するのです。痛みの部位は、後頭部や後頚部、背部が多いように思います。検査をしても痛みの原因がわかりません。慢性疼痛とか線維筋痛症等の診断名が付くようです。

慢性疼痛の本を読むと、しつこい慢性疼痛が原因でうつ病などの精神疾患にり患するということが書いてあることが多いです。確かに慢性的感覚異常というのはとても強いストレスになるようです。痛みだけでなくかゆみも深刻な苦しみになるようです。

一般的にはそのように慢性的な感覚異常になれば、精神的に圧迫されるというのは感覚的にわかりやすいと思います。しかし、私の周囲の現実はうつ病やPTSDが先ず発症して、そのあとに痛みが出現しているのですから順番が逆なのです。しかし、この逆の順番は説明がほとんどありません。

疼痛を扱う医学分野は整形外科や神経内科でしょうから、患者さんは痛みを主に訴えて医師の元に行くわけです。医師は先ず痛みから向き合いますので、患者さんの精神状態は後回しになるのではないかと思います。だから、整形外科の医師から見れば、疼痛が原因になって精神疾患が発症したと受け取りやすいのではないでしょうか。

しかし、元々うつ病やPTSDがあって、後に疼痛になることをこれでは説明できません。

医師の中には向精神薬の副作用ではないかと考えている人もいるようです。そうかもしれませんが、病院などではそのような診断はなされず、疼痛があって苦しくても精神科の処方は代わりません。(もっとも患者さんが、疼痛は精神科ではないから精神科のお医者さんには痛みを報告していないという例も結構ありそうです。)疼痛の副作用があると正式にアナウンスをしている向精神薬もなさそうです。

近時脳科学が発達して慢性疼痛の仕組みが解明されつつあるそうです。それによると、整形外科ないし脳科学的な説明をすれば、脳が痛みを感じても、脳にはもともと痛みの感じ方を抑制する対応策を自動的に行う仕組みがあるのですが、痛みを長期的に感じ続けるとこの対応をする脳の部分の機能が低下してしまって、痛みの抑制という対応がうまくいかなくなってしまって疼痛が起こるということらしいのです。

そうであれば、痛みによらなくても、慢性的なうつ病やPTSDの継続、持続によって、同じ対応をする脳の場所の機能が低下してしまい、痛みを感じやすくなるということがあるのではないかと思います。

アメリカの精神科学会の病類分類では、痛みを感じる精神病という病名があるようです。これとの関連性は全く分かりません。いずれにしても、慢性疼痛が外傷からくるものではなく、脳内変化により引き起こされるものであり、それは精神疾患り患が契機になりうるのではないかというつぶやきをさせていただいた足代です。



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【ハラスメントの余後効】一度起きたハラスメントの被害者は、何も有効な行為をしなければ、かつての加害者が存在すること自体が恐怖になるということ 河北新報ナイス記事(R5.4,21)! [労務管理・労働環境]


4月21日の河北新報の記事です。職場でセクハラを受けた(その後裁判所で会社に対して損害賠償命令済みとのこと)女性が半年間の休業期間を経て職場復帰をしたところ、そのセクハラをした男性と同じ職場のままだったと報道されました。記者が会社を取材したところ、事実関係を把握したので対応を検討するとのことだったそうです。

取材によって配置転換があれば、河北新報はあっぱれだと思います。

会社としてはセクハラの損害賠償を争っていたようですが、だからと言ってセクハラ被害者が休業後に復帰した職場にセクハラをした男性がいるということはいかにもまずいです。会社を訴えたことに対しての女性に対する報復だと受け取られても仕方がないと思います。

この問題は、実は、この会社だけの問題ではなく、労災の認定機関も同じような思考をしている可能性があります。

強烈なパワハラによりうつ病になった事例で、職場復帰をしたところ、パワハラの加害者と同じ職場であることが、心理的負荷として重大なものだと扱われていない場合があるようなのです。もっともその事例は、職場の方でパワハラ加害者に対して懲戒処分を行い、一緒に仕事をすることを極力少なくして、どうしても同じ部屋で会議をする時には、管理者が立ち会うという措置を取っていたということがあります。だから会社はある程度対応はしてくれていたことは間違いありません。ここを重視してそれほど大きなストレスではないと判断した可能性はあります。

それでも、かつてパワハラを受けて、主としてそのストレスでうつ病になった人にとっては、その人の存在自体がとても強いストレスになります。この人は、主治医から外傷性ストレスを起因としたうつ病であると診断を受けています。症状如何によって、あるいはお医者さんの判断如何によってはPTSDの診断がついたかもしれません。

ここは人間の記憶のメカニズムの問題からも説明できます。記憶を持つ最大の理由は、危険の所在を記憶して老いてその場所に近づかないところにあります。ひとたびハラスメントを受けて、不快な人間、恐ろしい人間、抵抗できない攻撃を受ける人間だと認識した場合、その危険の記憶はなかなか消えません。簡単にこれが消える動物はすぐに絶滅するはずです。

だから、過去のことだからもう大丈夫だろうと考えるのは間違いです。また、あの人から抵抗ができない状態で攻撃を受けるかもしれないと、動物の記憶は警戒を高めるわけです。これが文字通りストレスそのものです。

もし、きちんとした謝罪があり、これまでの態度を改めるという宣言があり、具体的に安心ができる接し方に切り替えられていれば、あるいはストレスは著しく軽減するかもしれません。しかし、自分の発言によって、相手がどのような気持ちになるかわからないタイプの人、つまりこういうことを言うと嫌がるからやめようとか、こういう言い方をすると怖がる方言い方を変えようということのできない人は、謝罪をしたり、態度を改めたりすることができません。そしてやっかいなことに、セクハラやパワハラをする人の多くがこういうタイプの人のようです。

処分より前に大事なことは、その人がしたことで相手がどのように辛い思いをするのかを教えることだと私は思います。再びハラスメントを行う可能性がある場合は、企業の責任としては、雇用を続けるかどうか検討をする必要があると思います。二度目のハラスメントがもしあれば、会社は膨大なコストを支払わなければならなくなるということもありますし、求められるコンプライアンスが強くなってしまうということもあります。

一般的には、このようなハラスメントを起こさないようにすることが最も大切です。そのためには、ハラスメント起こすなという予防活動、マイナスを起こさない活動ではなく、積極的にプラスを作り上げる活動が大切です。つまり仲間意識を高めることと、指導力のスキルを上げることで、本人も周囲も、それに逆行するハラスメントに対する拒否反応を作り上げることです。



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労災実務上の疑問 パワハラ環境で頑張って長期間仕事を続けた挙句力尽きてうつ病を発症した方が労災になりにくいというのは不合理ではないか [労災事件]



医学の問題ではないのです。賠償学というか労災実務の問題です。

メンタルの労災の場合、労災(公務災害)認定がなされるためには、原則として
1 発症前6か月間にストレスフルの出来事があること
2 その出来事がそれ一つだけで一定水準を超えた強度があること
が必要とされています。

1の結果、1年前におきた水準を超えた出来事や、出来事や3年前から続く出来事があっても、労災にはならないことが多いのです。どういう理屈かというと、そのストレスの原因が半年以上続いているのに精神疾患を発症しないならば、それは精神疾患を発症させるような強いストレッサーではないというのです。

2の結果、それ自体が水準を超えた出来事ではないとしても、執拗に繰り返されても、なかなか労災認定されないということも起きてしまいます。例えば、部署全体の中で、その人以外はみんな打ち解けて気軽に話しているのに、その人にだけはよそよそしく他人行儀な扱いをして、ときどき嫌味が言われるというような場合も精神的に病んでも労災にはなりにくいのです。

でも、「ハラスメント」という言葉は、「小さな攻撃を執拗に繰り返すこと」という意味なのです。そして、実際に職場の問題で精神的に大きなダメージを受けるのは、このようにそれ一つ一つは水準を超えない仲間外れ等の継続ではないでしょうか。パワーハラスメントという言葉は形容矛盾があります。本来ただの犯罪、侮辱罪、名誉棄損、脅迫罪、恐喝罪、場合によれば暴行傷害罪で、ハラスメントとは言わないものです。この結果、日本の労災実務では、正確な意味でのハラスメントは労災認定の対象外となりかねない事態となっています。

さて、1の問題に戻りましょう。

聴覚障害のある方で、上司から再三にわたり、聞こえないことを言い訳にするなというような扱いを受け続けました。その結果うつ病を発症したのですが、うつ病のためにすぐに労災申請をすることができず、発症から数年後にようやく災害申請をしました。時間が経過していたことと、日常業務においてパワハラの記録や録音を録ってなかったため、いつどういうことを言われたか、どういう扱いを受けたかという詳細ははっきりしなくなっていました。でも、その上司は、自分が何回かそういうことを言ったし、そういう扱いをした、また聴覚障害のことを知らなかったためまじめに仕事をしていないだけだと思って気合を入れた(強く叱責した)ということを認めているのです。

敵意とハラスメントの存在自体は認めていることになります。

ところが、裁判所は、その上司と同じ職場にいたのが4年間であること、いつどういうことを言われたか証拠がないために、4年という長い期間の中で起きたと扱うしかない。だからそれほど頻繁に障害を理由に注意をしたわけではないということで、うつ病になるほどの強い水準のある嫌がらせとは言えないと認定してしまいました。

事件から10年以上を経て裁判になったのですが、私は聴覚障害の方と時間をかけてじっくり話し込んで、直接ではないけれど客観的な状況証拠があるということで、それは8カ月の中で起きたことだと証明したつもりでしたが、その信ぴょう性については言及されないまま否定だけがされました。

しかし、4年間そういうことが続いたとしたら「どうなのよ」ということを考えてみました。

4年間、本当は聴覚障害のために本当に聞こえなかったし、聞こえなかったことにさえも気が付かなかったのに、やる気がないと思われて叱責され続けたのです。

これはかなりきついことではないでしょうか。

本人は、どうして自分が叱責されるのかわからないために、自分の脳に欠陥があるのではないかと思い、MRI検査を受けに行ったり、知能検査まで受けていたようです。検査の結果は何も問題はありませんでした。彼は聴覚に障害があっただけでした。そもそも自分が悪いから上司から叱責されるというのは「自責の念」であり、うつ病の症状ととらえるべきだったのかもしれません。とにかく叱責から逃れるために方法を模索して、万策尽きて自分が悪いからだということで自分を納得させようとしていたわけです。自分が悪いということで、「原因はある。理由なく叱責されているわけではない。だから解決方法があるのだ。」ということを無意識に感じようとして、絶望から自分を守ろうとするようです。これは、幼児にもよく見られる防衛機制です。

そこまで追い込まれたことには間違いないと思うのです。また、「自責の念」も叱責に対する対応、防衛機制として起きているのですから、ストレッサーは上司の叱責であったことも間違いないと思います。また、上司は、引継ぎを受けていないので労働者の障害がどういうものかわからない。聞こえないふりをしていると思ったし、真面目に仕事をやっていないと思って注意したというのです。それでも、叱責の程度が頻繁とは認められないということで労災とは認められなかったのです。

私はこの上司の無知による叱責は、被害者に聴覚障害があることによって仕事がうまくできなかったことを叱責したのですから、本人にとって初めから不可能であることを否定評価したということになると考えています。知らなかったとはいえ、本人からすれば差別を受けていたという感情を持っていることになります。自分のできないことをできなかったために他の人間がいる職場の中で叱責されたという本人の視点が重要です。

また、この裁判は、上司に対して損害賠償を請求した裁判ではありません。仕事が原因でうつ病になったということから労働災害であると認定してほしいという裁判です。責任があるとすれば、障害者だとわかっていながら雇用した会社なのに、障害者が差別的な対応とられないための措置、障害の内容、程度についての共通理解を図るということを行わなかったということが一番の問題です。

私は差別をうけること自体が水準を超えた強度のあるストレスを受けたということになると思うのですが、裁判所は数年間で数度、馬鹿とか卑怯者とか、一度教えたことを理解しないのはまじめに仕事に取り組んでいないからだとか、(聞こえないために仕方がないのに)同じ間違いを繰り返すことは馬鹿と言われても仕方がない等と言われても、それほど水準を超えた強度のあるストレッサーにはならないというのです。

要するに裁判所や認定機関は、ストレッサーというのは一回限りの音に聞こえるもの、目に見えるものということでしか把握していないということです。しかし、音に聞こえる叱責や目に見える行動、表情だけがハラスメントではないということは働いている誰もが知っていることだと思います。

自分だけがしょっちゅう叱責されている。自分が何かすると嫌な顔をされる、舌打ちをされる。あるいは自分だけが存在に扱われて、職場のお荷物のように扱われるということ、仲間の輪に混ざらしてもらえないということが、とてもつらいことであることは多くの人たちが経験しているでしょう。

職場だけでなく、家庭であったり、学校であったり、地域であったり、ママ友であったり、色々なところで孤立している人がいるはずです。
そのことで精神的に大きなダメージが加わるということを真正面から認めなければ、現代日本はだめになるとさえ私は感じています。

しかし、この聴覚障害の方だけではなく、多くの叱責されている方は、自分が不合理に叱責されているということに最初は気が付きません。自分がパワハラを受けているということに気が付かないのです。同じように自分がDVを受けているとか、自分がいじめを受けているということに気が付きません。本能的に、人間は、人間関係から追放されないようにしようとしてしまうようです。このため理由がわからない攻撃を受けると、自分が悪いからではないかと自分の行動を修正しようとします。

パワハラを受けていることに気が付かない期間は、ただ苦しいだけです。そして何とか受け入れられるようにしようと努力をして希望を持ち続けていますから、何とか持ちこたえているようです。しかし、前回の記事でも述べたように、ある日ある時、自分が自分では解決できないことで責められているということに気が付き、持ちこたえることができなくなり精神疾患を発症するようです。

気が付いた時から、遡って、今まで受けていたことは業務上必要な指導ではなくて、単なる自分に対する攻撃だと、世界の色が変わってしまうそうです。一気に解決する方法がないことに気が付いて絶望に落ちるということらしいです。

だから気が付く前と気が付いた後では、上司がしている行為は代わりません。気が付く前の長い期間に強靭な精神力で持ちこたえた人は労災認定がされません。半年で持ちこたえることができなくなった人だけが労災認定される。

こんな不合理が現実に起きていると私は訴えたいのです。

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うつ病、PTSDの治癒期間は、特に安心している環境から攻撃を受けた形の心因反応は、難治性になり治療が長期に及ぶはずだという感想 [労災事件]



私の依頼者には、長期間うつ病やPTSDの症状が継続している方が多くいらっしゃいます。

私の依頼者の方々は、広い意味での人間関係の中で傷ついたわけですが、このことで裁判をしていると、相手方から、治療期間が長くなりすぎている、本人の弱さが治療期間の長引く原因であり、相手方の責任を減額するべきだという主張がなされて再度傷つくことになることが通常です。

ものの本には、うつ病の治療期間は2,3年で完治するとか大雑把なことを言うお医者さんもいて、これが論拠とされています。よくよく読めば、薬が効果が上がるうつ病の場合は2,3年と書いてあるのですが、どんな場合が薬が効果があり、どんな場合が薬が効果がないかまでは説明されていません。

うつ病の患者さんたちは、できることなら早く病気から解放されたいと願っているわけです。それなのに、標準よりも治るのが長くかかりすぎるなんて言われてしまうと、「本当に病気なのか」、「自分が弱いから病気でいたいのではないのか」等と言われているように感じて再び傷つくわけです。

うつ病やPTSDにり患して治療が長くかかっている、10年以上かかっている場合は、共通点があるような気がします。

先ず、自然発生的なうつ病ではなく、何らかの原因があること
次に、一言で言えば、安心している状態に対してカウンターのような攻撃を受けたこと。
もう一つ言えば、それらの結果、日常が安心でき環境ではなくなってしまったことです。

強盗事件によって、5年以上部屋のカーテンを開けることができず、10年以上働くこともできなかったPTSDの患者さんがいます。
この方は、深夜帯に退勤となる仕事をしていたのですが、いつものように退勤しようと従業員出入り口から鍵を開けて外に出たところ凶器を持った強盗に襲われて、身体を拘束されて相当時間殺される恐怖を味わい続けました。

いつものように仕事を終えて家に帰ろうとしていたところ、いつもとは違う強盗に突然つかまれたという出来事がPTSDを難治にしたと感じられます。つまり自宅にいても、扉がありますし、扉が開いていても見えない場所があるわけです。見えない場所に何か悪い者がいるのではないかという警戒心を常に持ち続けていたのでしょう。カーテンを開けられなかったのも、カーテンを開けたら何変わるものが見えてしまうという警戒心を病的に感じてしまっていたということになります。

そうやって、自宅にいても安心することができなくなったことは、強盗によって命の危険を感じさせられたというだけでなく、通常は安心して警戒しないで過ごす場所で強盗に襲われたということから、自宅でさえも安心することができなくなってしまったということなのだろうと思います。

どこでも安心できず、あの時の不意を襲われて命が危ない状態になったという体験が自宅でもよみがえりやすいことが症状が治まりにくい原因だったのではないかとわかりやすい事例だと思います。

おそらくこういう日常を過ごしていたところで危険が起きると、危険を覚悟していて危険が生じた場合以上に強烈なダメージを受けるのではないでしょうか。

営業職で、外回りが多かったけれど、上司の罵倒が激しく恐怖を感じていた。GPSを車か何かに設置されていたらしく、「今どこにいるだろう」というメールや電話が頻繁に来た。深夜1時の業務連絡のメールにもすぐに返事をしないと不安でたまらなくなりうつ病を発症。7年後リモートワーク中心の仕事に再就職するが、対人関係的に過敏な症状が残存。

この会社はそれまでは比較的、無理を言わない会社だったのですが、東日本大震災で、数か月売り上げが上がらず、その期間の穴埋めをするという無理を通そうとした上、代わったばかりの上司が中途採用で自分の立場を安定させるために成果を上げさせようとしてさらに無理を通そうとしたようです。

命の危険はなかったのですが、自分が安心して勤めていた会社から、突如上司が後退したとたんに人格を否定されるような罵倒を受け、夜昼なく、自宅でもどこでもメールが来る、どこにいても監視されているということで、ほっと一息が付ける場所が無くなってしまいました。自宅ですら安心できる場所ではなくなってうつ病となったと考えやすい事案で、自宅が安心できる場所ではないことから治療が長引いたということもわかりやすいように思われます。結局この方は引っ越しされてから再就職が可能となりました。

次の事案は職場で暴行事件を受けてひどいむち打ち症となり苦しんでいるところに、上司が暴行事件が公になって管理職である自分の評価が下がることを恐れたことと、さらにその上司からの指示もあり、事件を握りつぶそうとしました。警察に通報することや労働災害の申請をすることを断念させようと1か月も説得を続けました。その理屈もあたかも、職場全体の利益から事件化することを避けるべきだとか、暴行を受けたあなたも悪いなど、暴行事件はどうなったというような内容でした。上司の上司からも説得を受けるようにもなりました。

被害者は説得していた上司は、全体のことを考えた上で、自分の利益も考えてことを大きくするなという体で話していたのですが、ある時被害者は結局上司たちの自己保身で言っていて、自分のこと等を考えていないということに気が付き、気が付いた途端に症状が重篤化してしまいました。信じていて、尊敬もしていた上司に裏切られたということが

職場内トラブルをめぐり、上司から事態の隠ぺいを執拗に働きかけられる。説得活動のため仕事に時間が当てられなくなる。いろいろ考えてアドバイスを受けていたと思っていたが、やはり隠蔽だと気が付いて発症。職場復帰を何度かするのですが、そのたびに暴行を受けた現場や上司から説得された部屋の前を通らなくてはならず、嫌な気持ちがぶり返してしまいました。11年たってようやく復職が継続していますが、復職にはいろいろなその後の状況が良い方に働いたという運もありました。

以上の3例はすべて労災認定されて、治りきらないということで症状固定となっています。

3例とも症状も異なれば、うつ病とPTSDという診断名も異なるのですが、先ほど述べた3つの特徴が良くあてはまる共通項もあります。

現在うつ病は、それが遺伝的なものであれ、原因不明のものであれ、薬物や外傷によるものであれ、今回のストレスによるものであれ、すべてうつ病という一つの診断名になっています。それがどの程度合理的なのか医学的なことはわかりかねますが、原因によっては治療方法が異なる、つまりストレスが原因のものは薬が効きにくいという話も聞きます。心因性のものは別個の病気と考えた方が良いということは無いのでしょうか。

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