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テレビ番組発信の誹謗中傷が生まれる仕組み 攻撃参加の論理、あおりの原理 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

 

フェイスブックなどの政治がかった投稿等で、
ある程度権威のある人の投稿のコメント欄を見ると
なんとも情けない気持ちになることがあります。

例えばそのリーダーが、
政権だったり野党だったりを皮肉たっぷりに批判する投稿をしたとします。
コメント欄は、
批判の過激さだけを競うようなものが並びます。

単なる人格攻撃だったり
皮肉の工夫だけに力を入れていたり
それならまだよいのですが、
お決まりの単語を書き込むだけのコメントもあります。
読んでいて恥ずかしくなります。

たとえ最初の意見の核となる部分には同調できても
この人たちと同じに見られたくないなあと
「ひいて」しまうことが私の場合良くあります。

私にはこのようなコメントは
リーダーにすがっているようにしか見えないのです。
「ね、そうだよね。私も一緒だよ、ほらね。」と
なぜここまで必死なのだろうと首をかしげてしまいます。

仲間内のサークルでそれをやっているなら
罪がないのかもしれません。
空虚な賛辞が続いていたとしても
おそらく仲間内では
それほど深刻に意味なんて考えないで
応援しているというメッセージが伝わればよいのでしょう。

おそらくそのコメントを出すことで
特に誰かが傷つくわけではないのだとすれば
それは言葉の持つコミュニティー機能
サルの「毛づくろい」と同じ
相互のなだめ行動ということで、
人間としての正しい在り方なのでしょう。

通常の人間は、多かれ少なかれ
誰かと仲間でいたい、仲間の中に入っていたい
という意識を持ち、
これがかなわないと心身に不具合が生じるそうです。
(Baumeister : The Need to Belong)

現在の人間関係は人間が心を持つようになった時代に比べて
複雑になっています。
仲間以外の人間とも日常出会うことになりますし、
仲間と生活できないで一人暮らしをしている人も多くいます。
学校でも、職場でも人間関係が希薄になっているために
仲間の中にいるという安心感を持てないのかもしれません。


自分の周りに仲間を感じられないと
よりわかりやすく明確に考えを表明する人と
仲間だと思って結び付きたくなるのでしょう。

その人と仲間であることを優先して考えるあまり、
例えばその人を賛美することが
他の人間を攻撃することになって、傷つけるということも
考えられなくなっているのだと思います。

人間相互の結びつきが希薄であるために
探し出しても結びつきの中に自分を置いて安心したくなる
ということなのでしょう。
ネットでのいじめも、学校でのいじめも、パワハラも、
このようにして生まれます。

2人の対立に利害関係はないけれど
攻撃者との関係で仲間意識を持ちたくて
攻撃者に協力する、攻撃参加するわけです。

この場合、攻撃者がわかりやすい方が
より仲間意識を持ちたくなります。
怒り、悲しみ等、感情がはっきりしている方が
無責任な追随がしやすくなります。
追随しても攻撃者から自分が攻撃されることがないだろうと
安心して攻撃参加できるからです。

いじめられる方はいじめられ続けると
感情表現をやめてしまいますから
ますますいじめられるわけです。

また、思想、政治、宗教など
仲間意識を強く求める仲間の中にいる人ほど
対立する相手の感情を顧みない傾向があります。
「自分たち以外は敵。」
結果としてそういうことになっていることに気が付かないようです。
これは思想の中身、政治傾向、宗教内容とは関係なく
仲間としていたいという要求度によって変わるようです。

こういう仲間意識の強い人たちは
リーダーの感情が高ぶったときこそ
その感情に追随して仲間の中にいるという意識を満足させる
絶好のチャンスだととらえるわけです。

リーダーが誰かを非難すると
仲間であることを確認したくて、あるいは確認してもらいたくて
積極的に自分と利害関係の無いはずの人に
攻撃を仕掛けていきます。
どうやら攻撃することが自己実現ではなく
仲間として共通の行動をしていると実感することが
自己実現であるように感じてしまいます。

仲間意識を渇望している人たちは
色々なことをとらえて仲間になりたがるようです。
テレビ番組なども
ただドラマを楽しむことができず、
ただ野球を観戦することができず、
誰かの感情が現れることを待って
その人の感情に追随しようとします。
そしてリアル生活で誰かと感情を共有したくても
近くに誰も感情を共有できる人がいない場合、
インターネットなどで探してまで
仲間を求めるようです。

テレビではこれを積極的に利用しています。
テレビ番組では、小画面(ワイプ)を作り、
そこでタレント等の反応した表情を同時に映す
その表情を見て安心して自分の感情を追随させているようです。

ニュースショー、ワイドショーでも
それぞれ事実を自分なりに評価すればよいのに
コメンテーターの言葉にうなずいているうちに
意見が整理されてしまうのです。

確かにその場その場の視聴者の感情の
一部をコメンテーターは言い当てているかもしれませんが、
それは複雑な感情の一部にすぎません。
一部でも言葉にしたかったことを言葉にしてくれているので、
自分も同じ感情を共有していると仲間意識を満足させてしまうので、
コメンテーターの言わない側面は捨象されてしまうわけです。

人間を尊重しないで馬鹿にするようなテレビ番組も
ワイプの中でタレントが笑っていれば
笑ってよいのだというように追随してしまう。
「ちょっとやだな」という感情は捨象されていくわけです。

その番組に対する自然な感情、感想ではなく
一部が拡大されて、感情、感想が集約されてしまうわけです。
誰かと仲間になりたいということを渇望する人にとっては
感情を共有しているという実感を持つことによって
仲間でいる安心感を持つのでしょう。

だから、テレビ番組で
司会者などが、番組のキャラクターを非難して怒りをあらわにすると
その怒りという「部分に」共鳴した人たちは
その司会者やコメンテーター、番組参加者と仲間になりたいと
どうしても思ってしまうようです。
人間の本能で、無意識に思ってしまうのでちょっと厄介です。

その怒りが弱い者を守ろうとしての怒りから始まる場合であると
さらに積極的に攻撃参加してしまうのが人間のようです。
人間は弱い者を守るという要素があると
その他の人間を傷つけるという要素に目が行かなくなるようです。
日常的に怒る口実を探しているのかもしれせん。
それだけ現代社会では、
人間の仲間の中にいたいという欲求が満たされていないのでしょう。

(でも、本当にその人が弱い人なのかどうかは
 テレビのこちら側の人間は分からないはずなのです。)

人間の仲間の中にいたいという要求は
誰かの攻撃に参加することで
協同攻撃をしているという実感である程度満たされるのでしょう。
さらに正義感から出発するのでそれを止めることがなかなかできない
止めるという発想が生まれないようです。

攻撃しているうちは、攻撃している人間は同じ仲間だと感じて
一体感を持つのかもしれません。

テレビ番組やメディアは学習するべきです。
視聴者の感情をあおって視聴率を上げようとする場合は、
うかつに司会者が感情をあらわにすると
それに追随しようとする多くの視聴者が生まれてしまうのです。
番組の時間、テレビの前ということにとどまりません。
仲間意識の残像を求めて、インターネットに向かうわけです。

だからあおりというは、怒りとか正義感をあおっているのではなく
仲間意識の的を作るということが出発点なわけです。
これが大変危険なことなのです。
弱い者を守るために誰かを責めるという大義名分が
大変危険なことなのです。

つまり、テレビなど不特定多数人に発信する場合、
特定の人に対する怒りを無責任に発信することは
大変危険なことだ
ということを肝に銘じてほしいと思います。

自分の欲望を満たすための行動ですが、
仲間のなかにいたいということは人間の根源的要求なので、
防衛意識に似たような切実な求め方をするようです。

攻撃対象者の感情、立場、人間関係など
その人の人間性はすべて捨象されてしまい
単なる攻撃目標になってしまいかねません。
彼らは、攻撃対象者に恨みもないのに、
同じ攻撃仲間の一員でありたいという強い感情が
強い攻撃になるわけです。

彼も攻撃している、彼女も攻撃している
自分も攻撃しているので、自分は彼と彼女の仲間だと
言葉にしてしまうと大変ばからしいのですが
そういうことだと思います。


少しだけ攻撃される方の心ものぞいてみましょう。
例えば、テレビなどメディアに露出して攻撃を受ける人は、
昔、インターネットの無い時代は、その場限りの攻撃でした。
漫才のボケ役であれば
テレビの中だけ、演芸場の中だけで馬鹿にされればすんだでしょう。

俳優の悪役であれば
テレビの前だけ、舞台の前だけでののしられれば終わりだったはずです。

昔の国民は、ボケを、悪人を「演じていたこと」は了解していました。
ボケ「役」、悪「役」ということで、
それは仕事としてやっているということをどこかに意識しながら
お茶の間で楽しんでいたはずです。

中には、実害を及ぼす人もいるにはいましたが
ニュースになるくらい珍しいことだったようです。
その人たちも昭和の中期くらいまでは
自宅の住所を公開し、手紙を受け取っていたようです。

昔の国民は、テレビの虚構の世界と実生活の区別がついたのでしょう。
テレビの中の世界は自分の世界とは違うということを
よくわかっていたのだと思います。

現代社会は、インターネットの普及で
攻撃者と被害者がごく身近な存在になってしまいました。
虚構の世界と現実の境界が曖昧になってしまった
ということなのかもしれません。

またインターネットの世界は、
時間が途切れないというところに特徴があるようです。
いつでも誰かが悪口を書き込んでいるかもしれないわけです。

夜中でも、明け方でも
体調が悪い時も、家族と幸せに過ごしているときも
インターネットに書き込まれるわけです。
見なければ良いというわけにはいかないようです。
気になって仕方がないようです。

プライベートがないということにもなるかもしれません。
心を休ませる暇がないようです。

そうすると、自分が世界中のあらゆる場所から
常に、ひと時も休まずに攻撃されている
という感覚になるのかもしれません。
これは、おそらく人類がこれまで体験したことの無い恐怖でしょう。

人間の心は対応できるようにできていません。
このような誤作動を起こすわけです。

一人暮らしをしているとなおさら孤立しやすくなるようです。
家族や友達に相談すればよいのでしょうが、
追い込まれていると
自分が相談することによって負担をかけてしまうのではないか
という意識が強くなっていくようです。
相談することによって
自分のかけがえのない仲間を失うのではないか
という本能的に不安が現れるようです。

切れ目なく自分に対する攻撃がつながり
知らない人から非難されていったら
大勢の人から非難され続けたりしたら
「誰も自分には味方がいない」
そういう絶望を抱きやすくなるのかもしれません。

どうか、私たちは
ネットの誹謗中傷は他人事と思わず
自分も結果的に同じことをしているかもしれないということを考えませんか。
インターネット社会の中で
他人を気遣う方法を見つけるために知恵を出し合いましょうよ。


私ももっとそのための役割を果たせればと思っています。

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【木村花選手の急逝に寄せて】人を追い詰める誹謗中傷は「正義感」からなされていることを意識しなければ、悲劇は繰り返される。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

木村花選手が22歳の若さで急逝された。
死因は分からない。
生前、木村選手のネット配信番組の関連での
とてつもない誹謗中傷があったことが報じられており
その関連を示唆する関係者のコメントが多い。

誹謗中傷の内容を一部読んだが
一つ一つのコメントもさることながら
それが連日多数寄せられていたということを考えると
精神的に追い詰められても不思議ではない。

木村選手の急逝に関しては様々なコメントが寄せられている。
その中でも最も感心したコメントが
WWE(アメリカのメジャープロレス団体)の
ASUKA(華奈)選手のコメントだ。
「渡米するまで数年間、毎日沢山の、死ね、女子プロレスを壊すな、この業界から去れとメールが私の元へきました。そして今日は、他の選手がコメントを出してるのに、まだお前はコメントをださないのか、ときました。自分の正義感に前のめり過ぎて、同類だと気がついてないんですきっと。これが怖い。」

日本人ながら本場アメリカで、多くのファンを惹きつけて
「女帝」と呼ばれる地位にのぼりつめた人のコメントであり、
本質を突いていると感じた。

それは、誹謗中傷というものが「正義感」から始まっている
という真実を言い当てていることだ。
そして、本人たちがそのことに気が付かないために
誹謗中傷はなくならないだろうということも示唆している。

この視点で見ることができれば
多くの識者のコメントが
ASUKA選手の指摘通りに
前のめりの正義感をひけらかすだけであることに気が付くであろう。

このような事態を防ぐために
ネットの言論を厳しく監視し、
行き過ぎた言動を法律で制限しようという提案もなされている。

残念ながら浅はかな主張であると思う。
1 本質が正義感から来るのであるから、自分の行為が法的規制されている言動だとは思わないため、抑止にならない。
2 匿名性を排除する措置をとるなら、自由な言論が制限され、その効果は、政治的な主張が抑制されることになる危険性を考慮されていない。
3 なんでも、国によって管理してもらうという発想は安易である上、国が国民の私生活に介入する余地を広げてしまうことになる。

正義感から人を攻撃するということはよくあることだ。
いじめも、パワハラも、DVも突き詰めれば同じことだ。
正義は人を苦しめ、人を殺す。
このことは以前書いたので、詳細は略す。
「正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-02-18

誹謗中傷が、最初から最後まで悪であり、
誹謗中傷の内容を思いつくことから間違っている
という風に考えてしまえば
対策を立てようがないのである。

誹謗中傷をする人は、
自分は正義を貫こうとしていると思うので、
自分が他者を誹謗中傷しているということに気が付かない。

例えば黒川東京高検検事長が、マージャンをして辞意を表明している。
これに対して、
「訓戒処分ではなく懲戒処分にするべきだ。」
「退職金を支給するべきではない。」
等という懲戒論も、正義感から始まっている。

これを法律家さえも主張しているのだから暗澹たる気持ちになる。
「処分比例の原則」というものが確かにある。
「行った行為の重さ以上の重い処分をしない」という意味だ。
行った行為以下の軽い処分を許さないという論理ではない。
実際の処分は、その人の功績や処分をすることの影響
等を考慮して、処分比例の原則に反しない範囲で
処分者の裁量にゆだねられる。
この軽減する事情は、処分者が一番情報を有しているからだ。

それにも関わらず生ぬるいと言って
30年近くの公務の結果である退職金を支給するなという主張を
平気で行うということだ。
彼や彼の家族の生活が全く捨象されている。
おそらくそれらの主張を声高に叫ぶ人は
そのような主張が認められた結果の相手や家族の苦しみを
全く考えられないのだろう。

漫画家と比較して処分が軽いという主張もある。
一般の人がこういう主張することはある程度やむを得ないが、
法律家がするのは疑問が大きい。
結局は重い方に合わせろという主張だからだ。

世の中は、どんどん個人の感情、個人の利益
その家族の感情について鈍感になっていくことがよくわかると思う。

前のめりの正義感が、
世の中を堅苦しく、相互監視の風潮を強めている。
自分で自分の首を絞めることになるだけだと思う。

今回の誹謗中傷もそうだが、
誰かを守ろうとすると
誰かを攻撃してしまっていることになる。

ネットの書き込みをして誹謗中傷した人たちも
攻撃が自己目的ではなかったはずだ。
出演者の誰かを守りたかったのだろうし、
人間関係を守ろうとしたのだろう。
そして、黙ってはいられないという気持ちから
弱い人たちのために力になりたい
という素朴な気持ちから始まったはずだ。

攻撃している人間が仲間であれば、
仲間のやっていることを非難したくない
仲間を応援しようとして攻撃参加する人もいたかもしれない。

それはやがて、みんなが攻撃しているのだから
自分も攻撃の輪に加わっても、
誰からも反撃されないだろうという意識を生ませる
自分のいら立ちを
彼女を攻撃することで
なだめていたという側面もあったかもしれない。

黒川氏の家族がどんな思いをしてもかまわない
退職金を払うな
と主張することとまったく一緒である。

原理は、いじめも、パワハラも、虐待も同じである。

詩人吉野弘は、「祝婚歌」という詩の中で
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
と歌っているが、全くその通りだと思う。

そう言う自分自身も今回は番組を責める言葉を探してしまっていた。
感情が起きる環境を作って
生身の感情、当然の感情をさらして見世物にするような番組は
人間に対する尊敬が欠けているのではないか。と
さらされた人間はかなりつらい状況に
そもそも初めから追い込まれるようになっていたのではないかと。

自分の放つ正義の大砲は
結果的に誰かに向けられている可能性が高い
だから大砲を打つ前に、攻撃をする前に
誰かを傷つけることになるのではないかという
チェックが必要なのである。

当初の誰かを守ろうとする気持ちを否定する必要はない。
問題は守り方、その方法論にある。

誰かを責めるのではなく
問題提起をするということだ。

誰かを責めることなく
問題の解決を目指すという
大人の社会に早くならなければならないと思われる。

「正義と悪の二者択一的な価値判断を当然のこととして
無邪気に仮想敵を攻撃すること」
に疑問を持たなければならない。
そのような行動に対しては
眉をひそめ、軽蔑する社会の風潮が必要だ。



木村花選手は典型的ではないにしろ
ヒールとして活躍した選手だとのことである。
誹謗中傷という反響は
彼女の勲章だったはずだ。
それだけで彼女が自死したとは考えにくい。

おそらくその誹謗中傷と何らかの関連をもって
自分の将来を悲観しなければならない出来事に直面し、
相談することによって、誰かを苦しめてしまうことになることを気遣い、
誰にも相談できない孤立に追い込まれたのだと
考えている。

また、頭では自分の活動が成功しているということを理解できても
22歳という年齢から考えると
そう理性的にばかり受け止めることは
とても難しかったということはもちろんあるだろう

もし、彼女自身が、
彼女を非難している人たちに
うっかり共鳴してしまい、
誹謗中傷者の視点で
自分自身を評価してしまったらと思うと
恐怖すら感じてしまう。

結果的にであれ、
他者を攻撃することは
それが最悪の事態を生むことがある。
このことを私たちは忘れるべきではない。


*****


私は、
彼女のことは、おそらくデビューして間もないころしかわからない。
薄いピンクのフードと肩掛けのセットを身にまとってリングに登場し、
スラっとした長い手足で、およそレスラーっぽくない外見だった
アジャコング選手や、里村芽衣子選手と無謀にもブッキングされ
とてもかなわないながら一生懸命エルボーを打っていた姿しか覚えていない。
アジャ選手や里村選手が彼女を、
一人前のレスラーとして育てようとする愛情も感じられた。

その後彼女は団体を代表する選手に育ち
次世代の女子プロレスの目玉選手として
団体の枠を超えて期待されるまでに成長していたようだ。

母親のお人柄ということもあるのだろう
たくさんのプロレス関係者から大切にされていたようだ。

一プロレスファンとしても残念でならない。

母上の木村響子様、木村花選手を大切に思っていたプロレス関係者の方々には心よりお悔やみ申し上げます。
木村花選手のご冥福をお祈り申し上げます。

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黒川東京高検検事長がマージャン賭博の文春砲で辞意とは、出来すぎているのではないかと思う理由【斜め下から深読みしてみる】 [弁護士会]



黒川氏の問題は、以下のような問題だと認識している。

検察庁法によると、検事長は63歳定年となっており
黒川氏は令和2年2月7日をもって退職となるはずだった。
ところが、閣議決定という荒業で
黒川氏の定年は8月7日まで半年間延長された。

どうして荒業かというと
検察庁法では、定年の延長が認められていないからだ。
国家公務員法では定年延長が認められるけれど
政府の従来の見解も、素直な法解釈においても
検察官の定年延長は認められないということだった。

法律解釈の定説からすると
黒川氏は違法にその地位にとどまっていることになる。
これを合法化するためには
検察庁法を改正して
検察官も内閣の判断で定年延長ができる
という形にしなければならない。

そのため、検察庁法の改正が国会に提起され
多くの反対意見によって
今国会の成立を政府が見送り、
秋の臨時国会まで待たなくてはならなくなった。

そうすると、黒川氏は
8月7日で定年に達してしまう。
黒川氏を検事総長にすることができない。
これを回避するためには二つの方法があった。
一つは、7月に再び閣議決定をして
黒川氏の定年の再延長をするという方法である。
しかし、これだと、ますます黒川氏のための
検察庁法の改正になってしまい
世論の反発が強くなり
秋の臨時国会の運営も難航するというデメリットがある。

もう一つは、
現検事総長を7月中に辞任してもらい
黒川氏を検事総長にしてしまうという荒業である。
そうすると、黒川氏の定年は65歳まで延長される。

問題は現検事総長が辞職しないことだ。
また辞職を強要することになると
問題が大きくなるうえ、
検察庁人事に対する露骨な政治介入が行われ、
検察庁という組織自体が空中分解しかねない。

なかなか黒川検事総長は実現に困難が伴う見通しとなる。

一方
黒川氏も法律家であり、しかも法の執行者たる検察官である。
法律上正当な根拠がないのに
検察官として給料をもらい、ボーナスまでもらうということに
忸怩たる思いがあったはずだ。

普通に考えれば
本人の法律家としての立場から
また検察庁という組織の人間としても
定年で辞めたいと思っていた可能性がある。

逆に考えて
黒川氏がどんなに政権の弱みを握っていたとしても
自分の定年を延長しろとごり押しできるほど
強い立場にいたということは考えられない。

黒川氏は定年退職したかったのに
それを許さない事情が何かあったと私は考える。
つまり、辞めさせてもらえなかったのではないかということである。

そのなかで
今回の文春砲の賭けマージャン疑惑
政治家との信頼関係を職業的に守る
マスコミ関係者とのマージャンだ。

黒川氏が辞めざるを得ない状況を作ることができた。
しかも暴露したのが文春砲
これはみんなにとって都合の良いことであったと思われる。

本当に麻雀が行われたのかについても
誰も検証することはできない。おそらくしないだろう。
麻雀が行われて金をかけないということは
いい歳をした人間であれば考え難い。
しかし、そのレートは不明である。

おそらく一緒にマージャンをしたメンツの名前は
永久に出てこないだろう。
産経と朝日が、荷を分かち合った格好になっている。
それで終わりだと思う。

それでも賭けマージャンが公になれば
辞職することができる。
点2でもデカピンでも賭けは賭けということになる。

おそらく懲戒処分にまではならないだろう。
そもそも法に従えば民間人であったはずの行為だということも
何らかの役に立つだろう。

私はどこまで非難に値するかについては
レートによるだろうと思っている。
(これについては、いろいろな考えがあるだろう。)
セクハラやパワハラ疑惑に比べれば
本人の今後に与えるダメージは最小限だったのではないか。

そう考えると
あまりにも鮮やかすぎる幕切れなのではないかと
そう考えてしまう。

そういえば黒川さんの真骨頂は
人間関係の調整ということだったはずだ。


もちろんうがった見方だとは思うのだけれど。


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【ボビー氏の勾留請求却下に寄せて】なぜ、DV等の支援は過剰に、過激になってしまうのか [進化心理学、生理学、対人関係学]

勾留請求却下とは何か
DV支援が過激になること
理由1 仲間を守ろうとする本能は怒りを生んでしまう
理由2 相手が危険ならば自分の身を守らなければならない
理由3 マニュアル的な支援は個別事情を見ることができない
理由4 政策の成果主義的評価の弊害の可能性
理由5 国民の幸せを考えていないこと

勾留請求却下とは何か

タレントのボビーさんが、妻を指の先で叩いたという
日本語にすると奇妙であり、イメージがつくりにくい容疑で
逮捕されたと大々的に報道されました。
しかし、ボビーさんは、容疑を否認したにもかかわらず釈放されました。
裁判官が、これ以上の身柄拘束はだめだと判断したわけです。
これが勾留請求却下です。
検察官の異議申し立ても却下されていますから
複数の裁判官のダメ出しがあったわけです。
これはあまりないことです。

DV支援が過激になること

裁判官が勾留を却下したということは
警察の逮捕もやりすぎではないかと
裁判官が思っている可能性もあるように思われます。

ボビーさんを逮捕した警察だけがやりすぎだったのでしょうか。
いえ、実は、警察や行政機関のやりすぎた支援は
私のところには相談が少なくありません。
ただ、実に多くの人が泣き寝入りをしているという実感があります。

それでも、最近、岐阜県半田市の事件で(愛知県の間違いでした。ご指摘いただきました)
市役所がやりすぎをしたことを謝罪して裁判上の和解があったり、
仙台高裁秋田支部でも暴力もないのに警察が夫婦げんかに介入したとして
賠償請求をしている事案が係属したり、
東京地裁では子どもの引き渡しで有名になった事件について、
事情も知らないのに夫を暴力夫であるかのように嘘の事実を
多くの著名人が流したということでの提訴もありました。

少しずつ、人権侵害の回復に立ち上がる人たちが現れ、
少しずつそれが社会の知るところとなり
少しずつ成果が生まれ始めています。
新しい権利が生まれ始めています。

どうやら、DVの「被害者支援」というものは、
やりすぎてしまう構造を持っているのかもしれません。
その理由について考えてみます。
この過剰介入は、DV支援だけでなく、
およそ他人の紛争に介入する場合に起こりうることだと思うので、
誰かを支援する人はぜひ一緒に考えていただきたいと思います。

理由1 仲間、弱者を守ろうとする本能は怒りを生んでしまう

人間は仲間を守ろうとする動物のようです。
また弱いものを守ろうとする性質ももっています。
現代社会は仲間意識が希薄なのであまり問題は起きませんが
スイッチが入ってしまうと
仲間を守ろう、弱いものを守ろうという意識から
誰かを攻撃するということがよく起こります。

浮気をした芸能人を攻撃する場合も
はじめは被害者に同情して相手を攻撃するところから始まり、
この正義感が怒りを大きくして
攻撃をコントロールできなくするようです。

児童虐待が報道される場合も
このスイッチが入る場面としての典型だと思います。

もともとは、子どもを連れた動物、哺乳類の母親は
子どもを攻撃された場合は
自分の実力ではかなわないと思われる相手にさえも
我が身をかえりみずに戦いを挑む
という性質があります。
この性質が人間では母の子どもに対する感情にとどまらず
仲間を守ろうという感情に進化したものだと考えています。

そうすると
人間は仲間を守ろうとすると
怒りを持ち、いつもと比べて攻撃的になるようです。
そうしてひとたび怒りを持ってしまうと
その感情をコントロールすることは難しく、
弱者を守ろうとするあまり
その攻撃者とされるものに怒りを持ってしまう
攻撃者に対する怒りのコントロールが効かなくなる
やりすぎの攻撃がされてしまうのだというのが
第1の説明です。

被害者は非力な女性
加害者は力があり、経済力もある男性
という図式は、
個別的な事情が気にならなくなり
それだけで非力な女性を守るために
夫と対決しなければならないという意識にさせるのでしょう。

理由2 相手が危険ならば自分の身を守らなければならない

そうやって夫と対決しに来たのは良いけれど
DV夫ということで、凶暴な夫というイメージができてしまっています。
実際は嫌味をチクチクいうだけのことだったり、
その嫌味も、当事者なら言いたくなる嫌味だったりするのですが
精神的DVもDVだ、あいつはDV夫だということになってしまうと
嫌味を言うくらいの行為なのに
アメリカの事例をもとに研修を受けたその事例が
頭をよぎってくるわけです。

マサカリをもって追いかけてくるとか
大型トラクターでひき殺そうとするとか
そんなイメージにすり替わってしまうようです。

そう言う妄想をもってしまうと
警察官も生身の人間ですから怖いですし、
市役所の職員ならばなおさらです。
自分は暴虐卑劣な男と対決しなければならない
という悲壮な考えになるようです。

弁護士だってそうでしょうね。

自分の身を守らなければならないという考えです。
自分の身を守るためには逃げるという方法もあるのですが
それは立場上できない
そうすると相手を屈服させることによって
自分の身を守ろうということになるわけです。

自分の危険に敏感ですから
相手が何を言っても、自分を守ろうという意識から
こちらを攻撃していると感じるのもやむをえません。

そうすると
市役所の人は警察の人に依頼し
警察の人は法律的に相手の反撃を封じ込めようとするしかありません。
特にボビーさんは格闘技もやっていましたので
自分を守る過剰な意識は頂点に達していたことでしょう。

もう、大勢で取り囲んで逮捕ということになるのは
自然な流れだったということが簡単にイメージできます。
もしボビーさんが身に覚えがなく
どうして警察に自分が取り囲まれたのか分からないとなれば
それは抵抗もするでしょう
その抵抗、人として当然の反応も
警察官は自分に対して反撃をしようとしていると思ってしまい
過剰に身構えるのもよくわかります。

ちなみに、相手の男性が小柄でおとなしそうな人の場合は
双方から事情を聴いて
警察官から意見を述べて終わりにしたり
妻側がの怯えが尋常でなければ
夫から保護するということが多いのですが
そうではなくていきなりの逮捕というのは
このような事情があったのではないかなと勘繰りたくなるわけです。

理由3 マニュアル的な支援は個別事情を見ることができない

先ほどアメリカの事例に基づいた研修とありますが
実際他県の同種事例の中で警察の方とやり取りをした際に
それらしいことを言っていました。
そして、警察官が介入できるDVが
法律上原則身体的暴力があった事案だけなのに
「DVは精神的DVも含まれるという研修を受けた」
という見過ごせない発言も聞いています。
彼は、法律も通達も知らなかったことになります。

おそらくDV事案に対するマニュアルがあるのでしょう。
そのマニュアルでは、
DVとは身体的暴力が伴う事案に対する対応を想定していて
警察官も当事者も身体的な被害にあわないようにすることを目的としてとして
作成されているのだと思います。
精神的DVの場合も、極端な身体的DVがある事案のような行動が
マニュアルでは指示しているのかもしれません。

もうそうなると個別事情などは全く考慮されなくなるわけです。
ただ、嫌みが多いだけなのに
ひとたびDVと認定されるとマサカリ夫の扱いを受けるわけです。
そもそも過剰な対応は、
マニュアルでそうなっているから過剰になっている
という性質もあるのかもしれません。

理由4 政策の成果主義的評価の弊害の可能性

私、実はもう一つ疑っているのです。
公務員の人事管理が
少し前から成果主義的な人事評価制度に代わっているのです。
おそらく公務員個人だけでなく
部署においても成果を上げることによって予算が配分される
という仕組みになってきているのではないかと思うのです。

それにはインパクトのある数字を挙げることが大切です。

そうするとDV事案の検挙の数がどのくらいだとどのくらいの予算になったり、
基準以下だと予算が削られたりということがある可能性がありそうです。
ノルマに合わせて警察官が動く
ということは考えにくいのですが、
なんとなく上からの圧迫があり、
本来であれば逮捕しないような事案も逮捕する
ということがあったら怖いですね。

そうして、逮捕を報道させることでインパクトを持たせるわけです。

報道価値があるのは
ボビーさんのような有名人、タレントや文化人
一般庶民が攻撃したい公務員や医師、教師などでしょうか。

通常だと逮捕しないような無理な逮捕をしても
報道機関は報道するでしょうから
それだけでインパクトファクターになるわけです。
ああ、あそこの警察は頑張っているなと。

まさかとは思いますが
一応心配を表明しておきます。

理由5 国民の幸せを考えていないこと

新型コロナウイルスのステイホームで、
報道機関は児童虐待やDVの懸念を示し続けています。
実際は、報道するほど事件が増えているわけではないようです。

国民の願いとして
児童虐待やDVは根絶されるべきだと思うでしょう。
一人でも多くの被害者を救いたいと思うのもわかります。

しかし、それでは、そういうことを防止するための措置、てだて
というものに力を入れている人はいるのでしょうか、
力を入れた政策は誰が、どの機関が考えているのでしょうか。
誰も考えていないのではないでしょうか?

また虐待通報があった場合は、その後どうなるのでしょう。
ただ、単に家族が分離されてしまうだけではないのでしょうか。
通報してくれという呼びかけは多く聞きますが
通報したらどうなるという話はあまり効きません。
それにも関わらずまじめで責任感が強い人は
どうなるかもわからないけれど通報するわけです。

おそらく成果主義の弊害なのでしょう。
私の結論としては
家族が仲良くする方法を考える、提案する
という政策が必要であるにもかかわらず
それがないように思われます。

本来であれば家族が協力し合い補い合って幸せになることを
目標とするのが自然なのではないでしょうか。
ところが、こういう抽象的目標は
成果として評価しにくいのです。

このため、幸せになる政策は行わず
不幸を救済する政策だけが行われるわけです。

マイナスからゼロを目指すだけで
その先のプラスを目指しません。

ここに一番の問題があるように思えてなりません。

もし、家族が幸せになることが目標ならば
幸せになる知識を普及して
それが不足している人に教えてあげればよいし
幸せになるための環境を整備すればよいではないですか。

不幸を救済するだけだから
一人を救済するという意識になり
その相手は敵で攻撃の対象にするしかないのです。

そのため、知識と環境が全く普及整備されない状態が
放置され続けているわけです。

虐待を起こさなくしなくてはならないのです。
そのためには虐待が起きてからの対応では遅すぎます。

不幸にしないというだけではなく
幸せにするという視点をもって政策を立てていない
これが過剰支援の原因の根本だと思っています。


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孤立の危険性 自死リスクとは何か 3 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


 自死が起きる場合、孤立が必ず起きている。しかし、どういう意味で孤立なのかということは難しい。例えば高齢者の自死は、一人暮らしの場合よりも同居家族がいる場合の方が多いという統計もあるようだ。物理的に近くに他者がいるということをもって孤立ということにはならないということになる。家族と同居していないという孤立も十分に自死リスクになると考えるべきだが、家族と同居しているのに自分が尊重されていないと感じることの方がリスクとしては高いようだ。
 人間はどこかの集団に帰属したいという本能がある。しかし、集団に帰属するとはただ物理的にその場にいることではなく、仲間として尊重されていることを求めるようだ。仲間として尊重されていないと、その集団から排除される危険を感じてしまうと構成すれば基本はどこかの集団に帰属したいということで良いのかもしれない。
 孤立がどのように自死リスクになるのかについて検討する。
 一つは、物理的孤立自体が、どこかの集団に所属していたいという人間の本能的要求を満たさないことにある。心理学者バウマイヤーは、それ自体が人間の心身に不具合を発生させるとしている。
 二つ目は、心理的孤立、つまり身近に人間は物理的に存在するが、自分がその身近な人間たちから人間として尊重されていないことも、所属からの追放ということを感じさせるという論理からも、それ自体が自死リスクを発生させる。また、人間が集団から尊重されて存在したいということが人間という動物の属性であるとする立場からもそれ自体がやはり自死リスクの端緒となる出来事である。
 以上は、孤立それ自体が自死リスクを発生させる端緒となるという説明である。これとは別に、既に何らかの事情で発生している自死リスクをさらに高める事情としても孤立を考える必要がある。
 孤立の具体的弊害は、思考が解決に向かわない。あるいは悩んでばかりいて考えることができない状態に陥ることだ。味方がいるということ実感することによってわずかの時間でも、無思考状態の悩み時間を中断し、思考を始めるきっかけになる。あるいは思い違い、過大な悲観傾向を是正してもらえることは貴重だ。人間はなかなか自分の誤った思考を自発的に修正することが困難だからだ。
 孤立は、自死の危険に無防備にさらされることを意味する。何ら解決に向かう要素が無くなり、絶望を感じやすくなる。
 また、援助者がいることを実感すること自体で、安心感を獲得することもある。これは自死リスクを低める。具体的な自死予防の介入をする場合(インターセプト)、直ちに自死の要因になった出来事を解決できない場合でも、味方がいるということを実感していただくことによって自死リスクを軽減させるという手法がとられる。
 孤立の有無は判断が難しい。
 客観的には孤立していない場合、あるいは孤立していない集団があるにもかかわらず孤立を感じてしまう。例えば学校や職場では孤立しているが、家庭では孤立していないという場合がある。学校や職場は最終的にはやめればよい集団であり、絶対的な存在ではない。それにもかかわらず、一つの集団においてだけであっても孤立を感じてしまうことは人間にとって極めて有害である。職場や学校その他の自死事案や精神的なダメージを受けている案件をみると、人間は帰属するすべての集団において円満に尊重されて帰属したいと思ってしまうようで、これは人間の本能であるようである。支援の場合は、家庭などの安全な集団に帰属していることを繰り返し刷り込んでいくという作業が必要になる。病的に孤立を感じ悲観的傾向が出ている場合は医療機関での治療の必要性を直ちに検討しなければならない。
 また、安全な集団の中では、他の集団で孤立していることを知られて心配をかけたくないという心理が働くのが多くの人間で観察される。孤立の情報は、支援をしたい資源に届かないということが実情である。その心理はさらに有害な効果を生んでしまう。学校や職場で自分が孤立していることが、家族に申し訳ないという負担感を生んでしまうことが多いということだ。仲の良い家族は、孤立解消の方向に働くよりも、むしろ孤立を深めてしまう事情になるということを支援者は決して忘れてはならない。
 さらに「自分が孤立を感じていること」を自覚することもなかなか難しい。別の相談を支持的に対応しているうちに、本当の悩みが浮かび上がってくることが多い。例えば、朝になると吐き気が起きるとか、足の筋肉が機能しなくなるなどの症状が最初の主訴だったりするが、よくよく聞いていくと、それは出勤しようとすると拒否反応として起きるということがわかり、実は重篤なパワーハラスメントを受けるなどして職場で追いつめられている場合がある。労働者にとっては、パワーハラスメントが職場では当然の業務行為であると思いこんでおり、合理的な解決を志向できない状態に陥っていることがある。まさに孤立である。


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解決不能の感覚の有害さ 自死リスクとは何か 2 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



自死者の事件を担当して、後追い的に自死の調査をすると、必ずと言ってよいほど出てくるのがこの解決不能の感覚である。
毎日毎日会社に行かなくてはならないのだけれど、行けば必ず自分は侮辱されたり叱責されたりする。なんとか叱責を受けないようにと細心の注意を払っているが、自分の思いもつかないことで叱責を受ける。過去のことで叱責を受ける。言い訳をするとまた叱責される。誰も見てみぬふりをして助けてくれない。自分が仲間として扱われることは不可能で、このまま苦しみ続けるか死ぬしかないと思い込んでしまう。
毎日毎日に学校に行かなければならないのだけれど、行けば必ずちょっかいを出される。普通に席に座り授業受けたいのだけれど、必ずからかわれる。部活動も自分には向いていない。できないものはできないのだけれどやらなければならないと叱責されるでもどうやればよいのかは誰も教えてくれない。部活動に行きたくないから先生から叱られることを覚悟で家に帰ると、先生だけでなく、友達からもラインで非難される。ひそかに好感を持っている女子の前で恥ずかしい思いをさせられて逃げることができない。自分はほかの子ができることができない。これでは、将来、良い学校を出て良い会社に入って、安定した生活を送り、結婚して家族を作るなんてことは不可能だ。このまま生きていてもこの苦しみが続くだけなのかもしれない。
家族が自分から離れていった。自分としては、生まれてきてからずうっと暮らしていたスタイルのまま生活を続けていた。自分なりに愛情もかけていた。もちろん口論になったこともあるが、暴力なんてしたことがない。家族のために自分はつらい仕事もこなしてこれたし、自分を捨てても家族を守ろうとしてきた。生きる意味が家族と生活することだということも実感してきた。それなのに、理由らしい理由も言わないで、少なくともこちらが納得する理由も知らされず、自分は家族から追放された。何とか修復を試みようとしたが、もはや直接話をすることができない。警察や弁護士は身に覚えのないことで私を非難してくる。裁判もありもしない事実を認定して、私を極悪人のように評価した。理解をしてくれる人はいるけれど、家族との関係の修復に向かう道筋が全く見えない。なぜ、ここまで自分が否定されるかが全く理解できない。何のために生きていけばよいのか分からなくなる。

自死リスクが高まる解決不能の感覚とは、一つには、このように、自分の大切な人間関係の中で自分が望むポジションに復帰したいという本能が前提にあり、それが不可能だという感覚である。
自分が大切な人間関係の中で自分の望むポジションにあり続けたいというのは人間の本能であるようだ。そのような本能があるために、人間は群れをつくって生き延びてくることができた。
大切な人間関係はあくまでも主観的なものである。あるいは社会や家族、学校によって大切だと思いこまされている場合がある。また、意識はしていないが、家族のように本能的に大切にする人間関係もある。

自死リスクが高まる解決不能は、このように対人関係的な解決不能の感覚がある場合が多い。また見過ごされてしまう。例えば、会社や学校で解決不能の感覚があっても、家族の中では尊重されているという場合、家庭では穏やかに生活していることが多い。また、大切な家族にだからこそ、心配をかけたくなくて無理に平静を装うということも行われる。解決不能の感覚が継続すると、感情の平板化も起きる。悲しみを拒絶する状態であろう。いじめても苦しまない姿を見ていじめがエスカレートすることもある。大切なことは、その人の対人関係的な状態の情報を獲得して、何らかの解決不能の状態にある場合は、速やかに改善することが必要だということである。苦しみや悲しみの表情をまったり、援助希求を待つということは自死予防の観点からは非現実的な要求であり、対策としての意味はない。

解決不能の感覚は、身体生命の不安でも起きる。むしろこれが古典的であるかもしれない。ある例を出すと、高齢の女性ががんを告知された。ただし手術をすることで命には別条がないとのことであった。それでも、その女性は、がんであり放置すれば死亡すること、そうならないためには手術をしなければならないことが恐怖となった。おそらく、手術をしなくても天寿を全うしたいという願いを抱いたのだと思う。それは実現できないということで、解決不能の感覚を抱いてしまった。女性は自死をした。死の恐怖に耐えられないから自死をしたのである。矛盾するように聞こえるかもしれない。しかし、解決不能の感覚がいかに人間にとって有害なのかを示す事情になると思われる。
解決不能の感覚はそれだけで自死をするわけではないと思う。解決不能の感覚を抱くと、逆に解決の要求が高まってしまうところにポイントがある。解決の要求が過剰に高まると、解決の要求が生きる主目的になってしまう。この要求が実現されれば死んでも良いという行動様式にならされてしまうようだ。人間の行動様式は必ずしも合理性を極めているわけではない。冷静に考えると不合理なことだが、本人は不安の解消だけを渇望しているのでそれに気が付かない。
不安は自然に湧き上がってしまう。安心は繰り返し繰り返し刷り込まないとなかなか獲得できない。冷静な第三者の目で、そんな心配をしないだろうとか、死にたくないというのだから自死はしないだろうと考えることは大変危険なことである。
自死は、これらのように、本人の合理的意思に基づく行動ではない。本人の感情や援助希求を待って行動するのではなく、客観的自死リスクが認められればその手当てをすることなしに自死予防は十分なものとはならないだろう。

一番わかりやすい自死予防は、解決の目的を捨てることだ。私の依頼者や相談者の例を挙げると、転校して能力が開花してその学校にいる場合よりも豊かな人生を送るということがとても多い。転職も人によっては同僚に恵まれて生きる糧になることも多い。「こうでなくてはいけない。」というこだわりを捨てることでとても楽に平穏な生活を手に入れることがある。これは緊急避難でもある。問題は支援者が自分の価値観で、その人が解決の目的を捨てることを妨害することだ。一人前の人間が転職するということはだめだとか、自分が悪くないのに転校してはだめだとか、そういうことで苦しみが終わらないのは本人である。私は、本人がそれでよければ、家族は本人を信じて納得しなければならないのだろうという場合が多いように思われる。
ただし、死別と離別とを問わず、家族を失った苦しみ、家族との関係を修復したいという解決要求にどのように働きかけるかということはとても難解でそれこそ解決困難である。当事者との話し合いで学んでゆくしかない。これまでの中間報告的なヒントらしきものがあるとすると以下のことである。即ち、一つは、どうして死別や離別に至ったのか、結論に至る前の方法論や別れに至る経緯についての考察は、残された者が抱く絶望を緩和する場合が少なからずあった。過労死遺族であれば、労働実態を調査検討し、過労死や自死に至った流れの可能性が明らかになる場合。あるいは離別の場合は、相手方の要因とこちら側の要因について、その流れと、それがどちらかが悪意があったということがない場合でも起きるということが理解されれば解決不能の感覚が緩和されることがある。ただし、いずれも、本人が積極的に解決不能の感覚から逃れたいという希求がなければ奏功しない。無理やり悲しみを解消させることが許されている人間は存在しないということも肝に銘じるべきであろう。
また、その流れに納得した場合、失った家族は帰らないけれど、他者に同じ苦しみを味あわせたくないということで社会運動に立ち上がる人たちもいる。とても人間らしい活動であると感じている。

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自殺の落差理論仮説 自死リスクとは何か 1 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



1 自殺の落差理論の概要
「自殺の落差理論」とは、自殺は経済状態が苦しいとか、生活が苦しいという、状態の継続によって自死リスクが高まる以上に、これまでの人間関係が維持できなくなるという動きの中でよりリスクが高まっていくという理論である。
人間は、現在その者が置かれている人間関係を維持しようという本能がある。現在の人間関係にとどまることができなくなることは人間にとって極めて深刻な効果をもたらす。日本語でも、「顔がつぶれる」、「立場がなくなる」など、人間にとって打撃のある事態を人間関係の喪失の形で表現する言葉が多い。これは、言葉というものが長い時間をかけて人間の本質を言い当てた結果という性質を持つからだと思われる。
この場合、必ずしも人間関係の所属自体を失うという意味にとどまらない。同じ人間関係の中での自分の評価が地に落ちるような場合も含まれる。形式的な所属ではなく、人間関係の中の自分のポジションということがわかりやすいかもしれない。
2 自殺の落差理論で説明が可能な現象
例えば、家族の中で収入を得て養う立場の男性が、失業して収入を家庭に入れられなくなったというような場合。政治家が失態を犯してしまい、国民の支持を失う場合。自分の失敗で、会社に大きな損失を与えてしまったなど。
この自殺の落差理論は、さまざまな事象をうまく説明できる。
例えば、つい最近、日本は自殺者数が3万人を超えていたが徐々に減少してきた。生活しやすい環境になったのかという問題がある。これに対して自殺の落差理論はこれに否定的に考える。即ち、自殺者数が3万人を超え始めたのは平成10年である。それまでのバブル時代が崩壊し、証券会社などが倒産し、消費税も増税された。バブル時代やその残遺効果があった時代から、様相が一変した時代ということになる。つまり生活状況の落差があったので自死リスクが高まったという説明である。その後は、周囲も同様な生活苦が生まれたのと、生活苦に順応したという事情から自死者数が減少したと説明することが可能である。即ち自死者数は、生活状況を必ずしも絶対的に反映したものではないということである。
また、弁護士業務の中で自死者が多い類型は、多重債務、家族問題、そして刑事事件の被疑者、被告人である。刑事事件の被疑者被告人は、これまで社会の中で人間関係を形成してきたが、刑事事件で逮捕され、犯罪者とされたことから、これまでの人間関係が維持できなくなる。犯罪者として周囲から相手にされなくなるなどの変化が生じたことをとらえて自死リスクが高くなると説明することができる。
多重債務についても、危険なのは返済が苦しいこともあるが、どちらかというと破産者などの評価が下されることによって、社会的な立場が失われてしまうという人間関係維持の観点からの最高性が必要であろうと思われる。弁護士など債務処理をするものは、このような自死リスクに配慮して、今後に希望をつなぐ形での処理を心掛ける必要があるということになる。
3 自殺の落差理論を実践する際の注意点
どちらかというと、年配の者はこれまで自分の努力で気づいた人間関係の中のポジションが失われると認識する場合が自死リスクが高くなる。これに対して若者は、将来に向かって自分が描いた人間関係を築くことができないという形で自死リスクが高まる。この点を見落とすと、若者の自死予防は奏功しないだろう。
今の人間関係にとどまりたいという要求は、その人にとってふさわしくない人間関係が形成されている場合も発動してしまう。あまり能力も適性もないのに、注目されて、祭り上げられてしまったに立場であっても、ひとたび肯定的に迎え入れられると無理をしてでもその人間関係のそのポジションにとどまろうとしてしまう。無理な立場を維持しようとすること自体で、既に自死リスクが生まれ始めている。偶然試験に受かって、学校なり職業なりについて、周囲は大喜びしてくれたが、実際は周りについていけなくなって負担感ばかりが生まれている場合などが典型である。
侮辱や不公正な評価、攻撃ばかりを受ける人間関係も同様である。この場合、状態の継続であって動きがあるわけではない。しかし、このような尊重されない人間関係は、恒常的にその人間関係からの放擲を予知させる。動きは、実際に起きるよりも、動きを予感させることが精神状態に深刻な打撃を与える。結果が表れてしまえば、案外楽になる。ところが、自分が解雇されそうだ、仲間外れにされそうだ、犯罪者として非難されそうだ、離婚されそうだという予知の方が、底の割れない不気味さというか、想像の中で悲観的な結末が実際よりも大きなものとして想定されてしまうようだ。
良い意味でも悪い意味でも、その人にふさわしくない人間関係からは離脱することで精神的な負担は軽くなる。ただ離脱を進める場合も、離脱自体は、本人にとってかなり負担であり、打撃であることを理解しなくてはならない。どんなにひどい会社でも、どんなにひどいいじめがあっても、その人間関係から離脱するということはなかなか心理的抵抗があるものである。人間とはそういう行動傾向のある動物のようである。
自殺の落差理論だけで自殺のすべてを説明できるわけではない。隠された自死リスクを抉り出すための理論として考えていただければ幸いである。

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【子どもと同居している親御さんへ】子どものストレスを軽減させる特効薬は、親どうしが仲良くしていること。子どものために仲良くする方法。別居家庭、離婚家庭の場合でも。 [家事]




コロナなどが起きると、大人も自分の不安にかまけて
子どもが置いてきぼりにされてしまいます。
子どもは自己中心的ですから
自分が一番に考えられていないことを敏感に察し
それだけでストレスが強まってしまいます。

新型コロナウイルスに対する対策で欠けているのは
このような子どもの視点なのではないかと心配しています。

中には、子どものストレスにどのように対処するか
という話をする人もいるのです。
ただ、その場合も
子どもは友達と外で遊べなくてストレスがたまる
などと時代錯誤的なことを言っている大人も多くて唖然とします。

また、大人が家にいると子どもへの虐待が増える
なんてことを言う人もいますが、
だいたい虐待をしている親は子どもと一緒にいる時間が長い親です。
親というか一緒に生活している大人ですが。

虐待通報をする大人は増えるでしょうね。

虐待が氷山の一角だということはみんな異論がないと思います。
ということは、多かれ少なかれ子どもに対する風当たりが
知らないうちに強くなっているかもしれないということなのです。
ではどうするかという当たり前の視点がなく
やれ警察だ、やれ児相だとばかりでは、
通常より親原因のストレスが強まっている子どもは
放っておかれてしまうことにしかなりません。
では子どものためにどうするかという視点が欠けているわけです。
虐待なんて、自分とは関係の無い
特殊な人間が行うことだという能天気なことを考えているから
他人事だと思えるのでしょう。

これまでの日常生活が中断している場合に
人間はストレスを感じるもので、
それは子どもも同じです。
確かに自粛や感染対策に神経を使えば
子どもも大人も余計なストレスがかかっていること自体は
間違いないところでしょう。

ストレスを軽減させるための一番の方法は、
家族が仲良くしていることです。
特に親どうしが喧嘩しないで仲良くしていること。

兄弟げんかは仕方がないとしても
親どうしがいたわりあい、助け合っている姿を見ると
自分の生活基盤である家族が安泰だということを実感できますから
気持ちは楽になります。

逆に親どうしがけんか腰で日常生活を送っていると
自分の基盤である家族がいつ崩壊するかという心配が生じてしまい
さらに余計なストレスがかかるわけです。

また、親どうしの喧嘩は
自分の親が否定されているわけですから
どちらが勝ったところで子どもは精神的に傷つくわけです。

逆に親どうしがいたわりあい、敬意を示し合えば
子どもは自分までも尊重されていると思うわけです。

そうして、よそに行っても
誰かをいたわったり助けたりして、つまり真似をして
子どもの社会の中で、評判がよくなり
子どもがますます居心地の良い人間関係の中で
幸せに育つと、良いことづくめではないでしょうか。

では、どうやって「なかよく」するのか。

まず、ケンカしないこと。
本当は好きどうしで結婚しているわけですから
相手の自分に対する評価が一番気になってしまうのです。
例えば些細な生活上の不満を一方が漏らすと
相手の自分に対する評価を下げたくないという警戒感から、
自分が否定されているように感じてしまうのが人間です。
「それは誤解だ」とか、「相手の方がよりよくその批判が当てはまる」
などとムキになって、自分を守ろうと相手を攻撃すると
今度はあからさまな攻撃ですから
相手は当然に反撃をしてくるというわけです。

だから、せめて日本のどこかで非常事態宣言があるときだけでも
相手の不満、小言、当てこすりなどにいちいち反応せず、
「そうだねえ」という丹力を発揮してほしいと思います。
子どものために我慢すると思えば
自分の方が大人に見えて、相手が子どもに見えて
大きな気持ちになれるかもしれません。

いい歳した人間の場合は、
守るのは自分よりも子どもです。

それから警戒しなければならないことは、
知らず知らずのうちに相手を否定していることです。
正義感の強い人、潔癖な人、責任感の強い人は要注意です。
優秀な仕事人間は、家庭ではダメダメなことが多いのです。

一緒に自覚していただきたいことは、
相手の弱点、欠点、失敗を
責めない、笑わない、批判しない
ということです。

スーパーなんかでも
いちいち妻に細かい指図をする夫をたまに見ますが
どうだってよいことに神経を使っています。
メンタルも損失として計上すると
費用対効果は明らかにマイナスだと
他人は軽蔑しながら聞いているわけです。

「だって、こうすることが合理的ではないか」
という反論が聞こえてくるのですが(かつての自分かな)
それは相手に心がない場合の話なのです。
人間はもう少し厄介で複雑な存在なのです。
会社ではこれが切り捨てられているだけです。
それを当たり前だと思って、家庭でやっちゃあだめなのです。

他人が聞いても不愉快なのですから
こういう細かい正義が常に貫かれてしまっている家庭では
小さい子でも
どちらかの親の弱点、欠点、失敗が
もう一人の親の知るところになってしまうと
緊張が走ってしまうわけです。

ところが、逆に
その時、もう一人の親が
それに寛容な態度を示すと
子ども心に落ち着いて、安心します。
失敗した親を馬鹿にすることなく
寛容を示した親を尊敬するというか好きになるわけです。

こういう心地よさから獲得する価値観は大きいです。
どこかで自分もマネしたくなります。
こうやって他者に対しても同様の振る舞いができるようになるわけです。

さらには気遣い合うということです。

責めない、笑わない、批判しないということだけでも子どもは安心しますが、
さらに、助け舟を出したり、さえぎらないで話を聞いたり
敬意を示したりするのも気遣うということになると思います。
些細なことでも感謝したり
些細なことでも謝罪したり
話をきちんと聞くというのも
聞いてもらう方が楽しそうにしていると子どもも楽しいでしょうね。

まねして子どもも話し出したらとても良いと思います。

ここで、考えなければならないのは
親どうしが同居しておらず、
一方、あるいは双方の親と子どもが離れて暮らしている場合です。

あるいはすでに離婚していたり
深刻な対立で別居している場合は
相手を否定しない、あるいは、相手を気遣う
なんてことは気持ちの上でも難しいのは当然です。

そうだとしても、子どもは幸せになる権利があるはずです。
親に幸せにしてもらう権利というか、親の責務というか。

夫婦でも、相手に甘えすぎているという大人はたくさんいましたが
子どもにまで甘えてしまうという大人も多くなりました。
子どもはあくまでも大人によって、親によって
幸せにしてもらう存在で親は責任を果たさなければなりません。
だって子どもをつくってしまったのですから。

ではどうすればよいのか。
それほど難しいことではありません。

先ず、離れて暮らしているわけですから
日常生活の中でいたわることや敬意を示すことはできませんが
大事なことは相手にそれを伝えることではなくて
子どもに対して
あなたのもう一人の親はいいところがある、あった
ということを伝えることなのです。

ばれなければ嘘でも良いのです。
だいたい結婚して子どもまでいるのですから
どこかしら良いところが必ずあったのです。
そのうちその良いところが無くなったとしても
あったという事実は無くならないのですから
そのことを言うべきです。

積極的に元夫、元妻の良いところ言うことがわざとらしくて抵抗があっても
子どもがあなたの歓心をかう、あるいはあなたを慰めるために
元夫、元妻の悪口を言ったときに
「そうだね。そういうところもあったけれど、
 こういうところもあったんだよ。
 そういうところは、あなたも似ているよ。」
とかでよいので言ってあげたらいいのになと思うのです。

一緒に住んでいなくても
自分の血の分けた親が
全人格的に否定されるべき人間ではない
というだけでも救いになる子どもも大勢います。

確かに自分は愛されて、望まれ生まれてきたのだ
という実感は自己肯定感の基礎になると思うのです。

せっかく離婚したのに、うじうじ不幸をひきずっている人は結構多いです。
離婚したなら他人になって、自分はもう危害が加えられない
案外良かったところもあった人だけど
今は自分は自由に、一段高い位置から見ることができる
という発想の方がとてもフリーだと思うのです。

そして親どうしの連絡が途絶えているのであれば
子どもに対して
「電話してみなさいよ」
と電話番号を押し始めてよいのです。
「子どもが話したがっているので、話もらってよいですか。」
と言われて悪い気持ちになる親はいません。
大威張りで恩着せがましくしましょう。

本当は子どもはもう一人の親を慕いたいけれど
同居親に気遣って遠慮している子どもはたくさんいます。

あなたにとって許せない相手であっても
そしてそれがもっともな話であったとしても
人間の子どもは、自分の親を慕いたい本能があるので
しょうがないのです。
その人間としてのあたりまえを捻じ曲げて
自分に忠誠を誓わせてはなりません。
同居親の前では会いたいとは思わないと強がりを言っても
親が誘えばもう一人の親と喜んで接触をする子がほとんどです。

電話しづらければ私がかけてあげますから
私の事務所まで来てください。


常々感じているのですが
大岡裁きの裁く人って
現実には子ども本人なんだなあということです。
相手を攻撃する親や、自分の痛みを考慮しない親って
結局子どもは、子どもらしく親に甘えられなくなります。
居心地がとても悪いのです。
自分を捨てても子どもの利益を考える親は
子どもの心の中に温かい記憶を残し続けるようです。
いくつもの事件でつくづくそう思っています。

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授業再開、事業再開は、メンタルリスクと自死リスクが予想以上に高まる時 子どもだけでなく大人も気を付けるべき。簡単な対策。 [災害等]



これまで、長期休み明けの子どもの自死について何度か考えてきました。
整理します。

通常時も、学校などの人間関係の中で
生徒、教師、あるいは学習を通じての社会など
自分の居場所を危うくするストレスは日々起きていた。

全てをきれいに解決することは無理だから
ストレスを蓄積させることにはなるけれど
無理な目標を修正したり、課題を先延ばししたりしながら
何とかすり抜けてきた。

ところが、長期休みになると
ストレスや課題、他者からの評価から解放されるため
すり抜けてきた実績であるところの
「何とかなる」
という記憶が欠落してしまう。

そのため、課題やストレスの記憶だけがよみがえってしまい
解決不能な課題が待っているという誤解を与えさせて
久しぶりの人間関係にはいることが怖く、
逃げたいという意識が強くなる。

こういうことでした。

他者との関係が、時間的に空いてしまうことによって
その他者が自分に対して危害を加える場面だけが記憶に残り、
解決不能を意識してしまうということですね。

「記憶する」ということは、
過去の危険の発生するポイントや程度を意識して
将来の危険を回避することに主たる目的がある動物の仕組みです。
このため危険の部分だけの記憶が残りやすい
という理由があることでした。

「動物として生きる」ということは、
「危険を回避する行動をする」ということだという考えにもとづいています。

間隔があいてしまうと
その人間とのやり取りが
マイナス面ばかり思い出しておっくうになるということは
通常のあらゆる人間関係において起きうることです。

家族であっても、長期間交流がなければ
一緒に過ごした生活があれば当然ありうる
叱られたりけんかしたりという不愉快な記憶
そればかりが浮かんで来やすいわけです。

この記憶のメカニズムに加えて、新型コロナウイルスなどの災害は、
十分に心が癒えていないうちに日常に引き戻されるという事情がつきものです。

これをもう少し具体的に説明すると、
人間の心、興味関心というのは、
複数のことを同時に行うことに適していません。
例えば感染をしないように注意しようということになれば
感染予防に意識が集中しています。
感染予防のために仕事や学校が休みになっていればなおさらです。

数字の上で新たな感染者数が減少したからと言って
本当に感染の危険がないかなどということは
目に見えませんから安心を感じにくいわけです。

心は感染予防に向いている。
しかし、事業や授業が再開され、日常に戻らなくてはならない。
では感染予防はどうなるのか
自分の感染予防の意識が置き去りにされてしまう感じがします。
これは、ある程度災害にはつきものなのでやむを得ないことです。
なぜなら人間は
そう簡単に気持ちを切り替えることのできる動物ではありません。
気持ちの切り替えを待っていたら日常は戻りません。

自分の気持ちとは別に日常が始まりますので
自分の心配が否定されたという意識を持ちやすくなり
社会から自分が尊重されていないという意識が起きやすくなるのです。
置き去りにされた感覚が生まれてしまい、
孤立を感じる場合もでてきます。

大人でもそうですから
子どもが誰かに甘えたくなることはもっともです。

通常は、出勤や登校をしてしまいさえすれば
記憶は簡単によみがえりますから
少ししんどさは残るものの
また日常に復帰していけるのです。

ところが、出勤や登校をする前は、
大きすぎる課題やトラブルの予感だけが生じている場合があります。
特に、いじめやハラスメント、過大なノルマがある場合には、
どうしても出勤や登校ができない場合も出てくるでしょう。

この予防法があります。

できれば、事前に学校や会社に短時間だけ行ってみるということです。

誰もいませんので対人関係的困難は生まれません。
それほど抵抗なく行けるでしょう。

対人関係的困難は生まれませんが
この場所で何とかうまくやっていたということは
思い出すことができるようです。

それも記憶の仕組みと関連します。
記憶というのは、
過去の出来事の追体験です。
過去の出来事の時に起きた人間の脳と体の反応が
レプリカとして再現されることが思い出すということのようです。

危険の記憶は、
生きるために必要な仕組みですから
簡単によみがえるようにできているので
きっかけの必要がなく自然に思い出します。

安全の記憶はこうはいきません。
安全の記憶につながる記憶が薄れてしまっているからです。
おそらく高度な記憶なので保持が難しいのでしょう。
そうすると、安心の記憶をよみがえらせる補助が必要なわけです。

自分が過ごしていた教室や職場を見ると
それが記憶を喚起させる補助となり、
追体験の材料が整って
リアルな記憶がよみがえってくるわけです。

そうすると、あれほど何か悪いことが起きると心配していたけれど
それほど悪く考える必要がなかったということに思い当たったり
完璧ではないけれど何とかしていたという記憶がよみがえったりして
悲観的部分が薄れ、安心の記憶が強くなる
どうやらこういう仕組みのようです。

安心の記憶とは言葉による記憶ではなく
安心というイメージの記憶のようです。
だからいくら言葉で説得されても
怖いという意識が強い状態の場合は
なかなか安心感を持つことが難しいようです。

でもなんとやり抜いていたという場所をリアルに認識することで
やり抜いていた安心感のイメージもよみがえるようです。

なんとなくそれほど心配することもないか
ということを実感できれば大成功ではないでしょうか。

警備の関係で、部屋の中まで入れないとしても
玄関口まで、あるいは通学路、通勤路をたどる中で
記憶の補助が成立して、
不安が、軽くなればよいのです。

子どもだけでなく、大人も
一応ね
プレ登校、プレ出勤をしてみることをお勧めします。
実は私もやることがあるのです。

また、休み明けの日常は
大人も子どももしんどいのですから
後ろ向きの言葉や自分の心も
先ずは受け止めてから行動提起をしてあげてくださるよう
私からもお願いする次第です。


なお、それでもどうしても行きたくない場合があります。
原因がある場合もない場合もあるのですが、
パワハラやいじめにあっている場合で
本人がそれにはっきり気が付いていないけれど
とても平気でそこで過ごすことができないという事情がある場合
体がその場所に行くことをやめさせるように
動かなくさせる場合があります。

どうしても行きたくない場合は
心理の専門家や
いじめやパワハラを手掛けて予防活動をしている弁護士などに
相談に行ってください。
「行く必要はありません。やめてしまった方がよいです。」
と言われる場合もあります。

あなたを大切に考えていても
そう言えない場合もあります。

できればあなたを大切に考えている人と一緒に
相談に行ってください。

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【コロナ自殺対策への提言】 自死の危険が高まるのはむしろ経済回復期。独自の対策チームを作り今から始動させるべきこと。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



コロナに関する自死の懸念、自死予防の声が上がり始めています。
ネットニュースでも大きく取り上げていただいています。
大切なことだなと感じています。

ただ、その論調が、どうしても
経済的苦境からの自死、あるいは
経済的苦境と環境の変化からの「うつ」そして自死
という流れが強調されてしまっているという心配もあります。

その流れはそれで正しいことであり、大切なことです。
でも自死が起きるのはその流れだけではありません。
私が心配しているのは、
自死の危険が高まる時期は、
経済が回復しはじめた時期に集中するということで、
その時に実施されるべき対策が見落とされてしまわないかということです。

それは「なぜ人間は自死するのか」ということとかかわります。

一番の教訓は、
東日本大震災の時には被災地では自死が減っていたという現実です。
その後、復興期に入って居住環境の変化等によって
自死リスクが逆に高まってきたという事実です。

そこにあった自死リスクを高める要因は「孤立」だと思っています。

東日本大震災の時も、今回のコロナの問題も
自分だけでなく周囲も、自分と同じように苦しんでいます。
苦しいのは自分だけではないということを感じていると思います。

このみんな一緒という観点は厳密に考えると間違いで、
実は東日本大震災の時も
津波被害があった地域となかった地域
地震の被害が強かった地域とそれほどでもなかった地域
マンションにおいても高層階と中低層階というように
被害格差が心の火種になっていました。
それでも、同じ被災者としてみんな苦しんでいて
みんなで頑張ろうという声掛けもあり
格差は感じていたものの孤立はあまり感じなくて済んでいたようです。

孤立感が強くなったのは
みんなが順調に復興しているのに自分だけ立ち上がれない
復興住宅ができて引越ししたため、話ができる人がいなくなった
自分の被災の苦しみをもう誰も聞いてくれない、理解してくれない
という自分だけが取り残されたと感じる時だったわけです。

自死リスクは「孤立」という観点からも考えられるべきだと思うのです。
孤立解消の自死予防政策を考えるにあたっては
感じる格差に対する対応だという側面をはずしてはなりません。

もちろん、収入がない、食べていけないという問題は
自死リスクを高めます。
しかし、食料がないけれどみんなと一緒に我慢するという意識は
孤立感を弱め、何とか生きようとする気持ちを保たせる方向にも進みます。
(但し生物的に我慢が効かなくなるというよりも
自分の家族にひもじい思いをさせるということから
精神に破綻をきたすということもあるでしょう。)

しかし、非常事態宣言の時期にやることはそう変わりません。
食べられて、寝られて、将来の不安を感じさせないということを
やるしかないと思います。
そのすべてが自死予防になるわけです。

新型コロナウイルスの問題は
誰も経験したことの無い災害ですから
対症療法的な政策や政策の変更がある程度起きることは仕方がありません。
とにかく、人間の生活の営みを維持するという観点さえあれば
そう間違った政策は起きないでしょう。

問題は、新規感染者数が減少して
経済活動が再開される時期です。
コロナの影響を最小限で食い止めた人たちと
経済活動が再開されても生活が回復しない人たちが生まれてしまうと
格差が生まれて孤立感を強めてしまい
自死リスクが高まるということが
歴史の教訓だとされるべきだということを強調したいのです。

だから、回復期の政策こそ慎重に立案されるべきです。
回復期こそ、意識して、回復の格差を作らず
孤立感が生まれないような
政策をしていくことが必要なのです。

現在の対症療法的試行錯誤政策立案とは別に
専門的な自死の構造についての理解を前提とした
格差と孤立を解消するための
政策立案チームを作り、そして始動させる必要性があると思います。


現在、やるべきことの実験が既に行われています。

本当は、今回の新型コロナウイルス対策は、
人々のつながりが物理的に遮られているところですから
そういう意味では、元々孤立になりやすい状況にありました。

その中でも、
仕事をシェアしたり、無駄な一斉行動をやめにしたり、
情報を共有する方法を工夫したりと、
人間の知恵と工夫が既に始められています。

政府としては良い情報を収集し、蓄積し、
実践しやすいように再構築したり
費用の問題を解決したり、
あるいはそこから置いてきぼりにされている人たちについて
どういう人たちがいて、どういうふうに対処できるのか
早急に対策を立てなければならないと思っています。

例えば、SNSを使ったコミュニケーションは
仕事をしている年代の人たちには簡単にできることでも
高齢者にはなかなか手が出ません。
機材をそろえることさえ困難でしょう。
高齢者はどうやって孤立感を解消したらよいのか
等、難しい問題があります。
やはり人的資源を整備して活用するしかないのでしょう。

回復期は格差を強く感じ始める時期です。
置いてきぼりの人は追い詰められていると考えるべきでしょう。

別建てでチームを作り
今から対策を講じ始めるべきだと考えています。
間もなく回復期が始まります。
その時になってからでは遅いのです。


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