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離婚後も父母双方が法的に親権を有することの必要性と有効性 [家事]


離婚後も、父母双方が子どもの養育にかかわることが望ましいことについては、これまでアメイトらの統計研究や実証研究で離婚を経験した子は、離婚を経験しない子よりも自己評価が低下するという問題を生じる可能性が高いとうものです。ただ、日本における研究では、離婚や別居ということ自体が子どもに対して悪影響があるというよりは、一方の親が他方の親に対して離婚後も葛藤を抱き続ける(別れた相手を子どもの前で罵る。悪口を言う等)ことが問題だと指摘されるようになっているようです。

父母が双方で子どもとかかわることが必要だとして、その方法として法的地位ないし権能である親権を離婚後も双方持つことが必要なのか、メリットがあるかについて考えてみようと思います。

1 子どもの保護が必要な場合も、親権が無ければ保護できないということが解消され、無駄に子どもの命を失うことが減る。

実際の例を参考にすると、

例えば子どもが問題行動を起こして児童相談所に入所することがありました。子どもと単独親権者との折り合いが悪いことが原因でした。親権を持たない父親が、児童相談所に一時保護されたことを知って、児童相談所に子どもとの面談を申し入れたところ、児童相談所は親権者でないことを理由に面談を拒否しました。子どもはそのあとも問題行動が見られました。

例えば、母親と暮らしている子どもが登校拒否を続けているようだということを知った父親が心配になって学校に問い合わせたところ、父親が親権者ではないことを理由に、学校は個人情報だから教えられないと拒絶しました。

例えば、東日本大震災があった場合のことですが、子どもの安否を確かめようとしても、やはり親権者でないことを理由に情報へのアクセスを拒否されたケースがありました。

例えば母親が子どもと同居していたケースで母親が死亡しても、親権者ではない父親は当然には子どもを引き取ることはできません。

親権者でないことによって子どもの健康や安全に危険がある時でも、子どもを救うことができないということが、今の個人情報保護社会においては現実なのです。

さらには同種のことは、離婚前でも、離婚調停などが継続していれば、監護者ではないことを理由に情報への到達などを拒否されています。後の非親権者という扱いがされているわけです。この理不尽な違法とも思われる対応も離婚後も親権者だということになれば解消されると思われます。

次に、将来的な見通しについて述べていきます。思うに、今の共同親権反対論は、既存の状態を前提としてうまくいかなくなることを想定して反対の理由としているようです。しかし、法律ができるということで、これまでの状況とは異なる状況が生まれていくことをできるだけリアルに想定しなければならないと思います。

2 離婚後の共同親権制度になれば、離婚は穏やかに迅速に進む

実際に離婚事件に弁護士として立ち会っていると、別居から離婚手続きに至る中で、一方の親の感情が高まり攻撃的になっていることが多いということを感じます。

つまり、最近の典型例で言えば、夫がある日勤務先から帰宅すると妻が子どもを連れて家を出て行っていた。連絡を取ろうとしても連絡が取れず、所在が分からない。そのうち保護命令が申し立てられたり、離婚調停が申し立てられる。離婚理由は、DVだとか精神的虐待だとかを上げるが、何ら具体的な事実が指摘されていない。ようやく出てきた具体的事情は、身に覚えのないことかかなり盛った話になっている。裁判所は、自分がDV夫であるかのように扱っている感じをする。妻に関しては仕方が無いと割り切るしかないかもしれないが、数か月を経ても子どもと直接会うことができない。急に居住環境が変わって、自分にも会えなくて戸惑っているかもしれないので大変心配だ。

裁判所では、別居後も継続して養育している親に親権を与えようとしているようだ。自分は何かの罠にはめられたようだ。子どもと引き離され、何の楽しみもないのに金だけは支払わなくてはならない状況に置かれている。何とか子どもに会いたい。子ども一緒に暮らしたい、未来永劫子どもに会えなくなるようで怖い。なんとしてでも裁判所で戦うしかない。

こういう心理状態が典型的であるように感じます。

面会交流調停の申し立て件数が急角度で右肩上がりに上がっていることは、子どもと会えない親が増え続けていることが一つの理由だと推測できます。

しかし、離婚後の共同親権制度ができれば、離婚が子どもとの未来永劫の別れになることが無くなりますから、それは突然の離婚要求で頭に来ないということはないでしょうが、子どもに会える保障となり、今に比べれば相当穏やかな離婚調停が進むことと推測できます。つまり、離婚手続きにおいて一方当事者を感情的にさせる事情が一つ減るということです。

3 そもそも子の連れ去りが無くなる

先ほど述べた典型例の、ある日夫が帰宅したら妻が子どもを連れていなくなっていたといういわゆる連れ去り案件も減少すると思います。

子の連れ去りは、連れ去って頑張れば、その後離婚が成立して親権者が自分ひとりとなり、もう一人の親が子どもにかかわる方法が無くなり、それはつまり自分とかかわる方法もなくなるということで、相手から自由になれるという目標があるから行われるわけです。
それでもしつこく付きまといをされたら、ストーカー規制法で警察に頼めば警察が排除してくれます。
だから、最終的には確定的に相手から自由になれるのであれば、離婚手続きは相手の感情を逆なでするような手段をとっても、とにかく有利に離婚を勧めた方がよいし、子どもを自分の元においておくわけです。

このようなことをする妻には、本当にDVを受けていてその窮地から脱出をしようとする人と、本当はDVを受けていないのにDVを受けていると思い込む人、他の男性との生活を目的として夫から離れたり、自分の使い込みなどが発覚するなどして自分の行為によって夫のところにいられなくなってDVをでっちあげる人と3種類の人たちがいます。

その3種類すべてで、夫は子どもを連れ去られ、子どもと面会できず、お金だけは給与の2分の1まで差し押さえられるという威嚇の元支払い続けなければならない状態になってしまっているわけです。

この子の連れ去り自体が、夫の感情を逆なでして、攻撃感情を高ぶらせて、離婚手続きがこじれていく大きな原因になっています。

離婚後の共同親権制度になれば、このような葛藤の高まりを起こしてしまうと、後々自分が困ることになるので、なかなかできなくなります。

4 離婚後の再婚相手との子どもの養子縁組が(少)なくなる。

現在離婚後は単独親権ですので、例えば妻が子どもの親権者になって離婚をすると、妻が再婚した場合再婚相手と子どもの間に養子縁組をすることができます。このことを恐れて、子どもを連れ去られている親は、離婚に徹底抗戦したくなるようです。これはよくわかります。自分の子どもが別の人間に奪われてしまうような感覚ですから、頭がおかしくなりそうになるということは簡単に推測できます。実際に妻が夫のDVを主張して別の男性と生活をはじめて、離婚が成立したら、その男性と入籍したというケースがありました。

しかし、離婚後の共同親権制度になると、同居していない親も親権者ですから、よほどの事情が無いと親権をはく奪されることは無くなります。理屈の上では一人の親権者だけの判断では養子縁組ができないことになりそうです。

そうすると、離婚をしてしまうと他人に子どもを奪われてしまうという、離婚手続きを困難にする事情がまた一つ減ることになります。

5 今後の課題

今後離婚後共同親権ということになると、様々な課題が出て、新たな対応が必要になったり、これまでの対応を改めなければならないことが増えてくるでしょう。

何よりも、離婚をしない方向での支援のニーズが高まると思います。現在家族や夫婦の仲を強化するという公的支援が無いに等しい状況です。それにもかかわらず、連れ去りを指南したり、その後の居住場所の隠匿と提供をしたりという支援ばかりが税金を使われて行われています。DV保護の名目で行われているのですが、最大の特徴はDVの有無については調査をしないということです。

私は、現代においても、離婚をしない方向での支援のニーズは高いと思っています。つまり、家庭が安心できる場所であり、戻ると自分が癒されて勇気と明日への活力がわいてくるための支援です。そのためには人間関係の在り方についてん研究が前提となりますが、それが私の対人関係学だと自負しています。

次に必要な支援というか行政サービスは、子どもの重大事項について、親権者同士の意見対立が激しい場合にだれがどのように仲介するかということです。根本的には裁判所が関与するべきことは間違いありません。しかし、現状の人員配置状態を見るとそれはなかなか実現可能性があるとは言えないようです。根本的には抜本的に裁判所の人員を増やすことです。なかなかこれを主張する人間がいないところが大きな問題です。

裁判所の拡充が間に合わない場合は、専門ADRを要請して話し合いのサポートをする方法で対応することが次善の策になるでしょう。認定ADRとして、この手続きを踏まないと裁判所の判断が受けられないというADR前置主義とする必要がありそうです。

その際には国や地方自治体の支援が不可欠で、双方及び子どもが安全に話し合える体制を整えることが必要だと思います。前から私は家事紛争解決支援センターを作ることを提案していますが、そういうものを作る必要があると思います。

とにかく立法を企画している法務省が、肝心なことを具体的に提案せず、理念的に離婚後の共同親権とすることの是非を問うている有様です。何のために家事法制の改革を言っているのか見えてきませんし、全く主体性が見えません。家事制度の改革を拒否したいための態度にしか見えません。おそらくそういうことなのでしょう。

最後に言葉として「親権」という用語に問題があるということは言えるかもしれません。明治以降日本の親権制度の立法論の議論では、親権が親が子に対する権利をダイレクトに定めた、例えば支配権とはされていません。

子どもは大人になって自立しなければならない存在だという認識の元、そのような養育をする責任があるのは親であること、その責任を遂行するために必要な権能を親権と呼んで議論をしてきました。親権の目的の中核は、子どもを教育するという目的だということは、戦前の民法学者は前提としていたことでした。

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共同親権反対の某弁護士会の意見書に落胆した理由 結論についての落胆というより法律家の意見として成り立っているのかということについての私の考え [弁護士会 民主主義 人権]


共同親権反対の意見を単位弁護士会(都道府県の弁護士会)で上げるところがいくつかありました。共同親権のような微妙だと思われる問題について、単位弁護士会が単一の意見を上げることにも、弁護士会の役割、性質に照らして疑問もあります。

最大の問題だと思うことは、その意見の理由の構造についてです。これは少し説明が必要だと思います。

我々法律家は、法律を現実の人間関係に適用して、紛争を解決することを実践しています。法律の条文というものはご存じのとおりとても短い文章です。抽象的に定められていることが多いと言っても良いでしょう。その中で、一方の利益だけを考えているのではなく、双方の利益を考慮に入れて、法律ですから誰に対してでも適応され、しかし、個別事件で適切妥当な解決を図らなくてはなりません。法律家は、勉強をしているときも、実務についてもそのような法律の特質について叩き込まれているはずです。

だから共同親権というこれから法律を作る場合の議論にあたっても、様々な利益を考慮して、制度の実現によって得られる利益をなるべく確保しながら、その制度の弊害をなるべく小さくしていくように議論をしていくことが求められると思います。このような作業が法科学としての手法であり、法律家としての命であると私は思っています。

このような法科学の手法を使った意見表明をすることによって、弁護士会の意見が、意見を異にする人たちに対しても一目置かれて、無視できないものとして価値を承認されてきていたと私は思います。

いくつかの比較的大きな単位会で、共同親権について強く反対するという極端な意見が出されています。

例えばこれが、これから作る法律が一部の人にだけ利益が生まれる一方、多くの人に対して人権侵害に該当するということであれば、注意喚起と法律の制定を慎重に行う観点から意見を述べるということが理解できます。例えば、残業時間の割増賃金制度の撤廃などという法律を作るとしたら反対するということもまだわかります。その場合でも制度廃止の目的をよく検討して、その目的に合理性があるのか否か、そもそもその目的を掲げて法律の廃止をする必要があるか無いか等の議論をすることが普通です。そして、廃止の目的によって得られる利益と、廃止をしないことによって得られる利益を比較して、最終的な意見を述べるということがこれまでの弁護士会のあるべき意見提出だったと思います。

さて、離婚後の共同親権について、それらの弁護士会は立法の目的についてきちんと検討しているのでしょうか。最新の単位会から出た意見書を見ると、立法目的は、離婚後も父母が子どもの養育にかかわることが子どもの利益に合致するという「理念」があり、この理念によって離婚後の共同親権が導入される傾向があるという難解な一言で、目的の検討が終わっています。

先ず、今回の共同親権の目的について、きちんと検討していないということが指摘できると思います。
次に、離婚後の共同親権制度が「導入される傾向」とは何を言っているのでしょうか。どこの傾向なのでしょうか。確かに離婚後の共同親権制度は、令和2年の法務省の調査では、24か国を調査して離婚後の共同親権制度にしていない国は、トルコとインドだけだったそうです。世界の趨勢は、離婚後も共同親権制度をとっていることになります。もちろんG7等のいわゆる先進国と呼ばれている国や、中国や韓国などの隣国も離婚後も共同親権制度をとっています。この各国の制度が具体性のない理念で決められる傾向にあるというのでしょうか。そうであるならば、その具体性のない理念だけで制度導入がされているとする根拠こそ示すべきではないでしょうか。ところが何も示されていません。単なる決めつけで述べているだけにすぎないと受け取られても仕方が無いと私は思います。

この点については、立法化を検討している法務省が、具体的な離婚後の共同親権制度の立法目的を明示しないという行政府としての立法作業として不可解な態度をしていることにも原因があるように感じられているところです。

また、政府などの説明を報道する報道機関によって、具体的内容を割愛して「子どもの利益のために離婚後の共同親権は必要」という言葉しか出てこないので、我が国の立法論においても子どもの利益のためという抽象的議論をする傾向があるということなのでしょうか。そうすると「導入する傾向がある」という表現は間違いだということになります。きちんとした日本語の読み方をすれば、意見書が正しく記載されているとすれば、「海外では離婚後の共同親権を導入しているが、それは抽象的な理念から導入している」としか読めないことになりますが、本当にそうなのでしょうか。弁護士会の意見ですから、そこは責任をもって述べてもらわないといけないと思います。国際問題になりかねないことを述べていると思います。

弁護士たるもの、法律家であり、また、離婚事件が日常的な業務になっていることからも、海外であっという間に広がった共同親権制度の目的を調べ、あるいは離婚後の子どもの養育の実態をみて、離婚後の共同親権制度の目的や必要性についても検討をするべきだと思います。

先ず、離婚後も父母が子どもの養育にかかわることが子どもの利益に合致するという「理念」は、具体的な意味を持って存在します。これは、家庭裁判所の研究雑誌や子どもの権利の実現のために書かれた法律書籍などで、十分に記載されています。いろいろな調査があるのですが、アメイトという研究者が行った統計的研究によって、実父母の離婚を経験した子どもは、離婚を経験していない子どもと比べて、自己評価が低下するということが示されています。これはその他の研究でも裏付けられています。離婚後の共同親権制度に反対する論者で、これらの研究結果に対する科学的批判を私は見たことがありません。

子の親であれば、自分の子どもが将来自己評価の低い子どもになる危険があるなら、その危険を排除したいと思うのではないでしょうか。もし離婚後の共同親権制度が、そのために子どもにとって有効ならば、賛成の大きな力になるはずです。

真の問題は、離婚後の別居親の子どもとのかかわり方はいろいろあると思うのですが、共同親権という方法が必要かどうかという点にあるはずです。ここでは、世界の国々は、共同親権制度が必要だと判断したからこそ制度を導入したということだけを述べておきます。

さて、某弁護士会の意見書は、後は、離婚後の共同親権制度ができた場合の弊害についてだけが述べられています。いくつか考慮しなくてはならないうちの一方の利益だけを根拠に立法反対の意見を述べていることになります。これでは立法論ということについての説得力はなく、一方の問題の所在を述べただけの議論で終わっていることになります。また、その中でも、これも法務省の問題提起がいかに曖昧化を物語っているのですが、共同親権制度の具体的な提案の中身を明らかにしないで、単に離婚後の共同親権制度の是非を問うている問題提起になっていることに非常に問題があります。その結果、こういう悪い事態も想定できる、もし具体的にはこういう制度になればこういう悪い事態が想定されるという意見に終始してしまうわけです。物事全てにメリットデメリットがあることは当然です。また、離婚後の共同親権制度の在り方についてはJ.ワラスティン(ウォーラースタインと表記される場合も多いです)も警告を発しています。形式的な共同が、子どもの便宜を考慮されないで具体化されてしまうことで子どもの成長に負担が生じるということが指摘されています。

但し、法律家の議論であるならば、「離婚後の共同親権制度は子どもにとってこのような利益がある、しかし、先発国家の具体的な制度運用を見るとこのような弊害が生じているという実態がある。より子どもの利益にそった制度とするためにはこういうことを考慮して具体化するべきだ」という意見になるはずだと私は思っています。

反対意見であっても、「これこれの弊害が必然的に伴うために目的とした利益を考慮してもなお、制度化するべきではない。」というならば襟を正して意見を伺うという気持ちになるのです。しかし、実態は、先ずは反対だという結論をだして、その理由付けとして考えられる弊害を上げているように読めてしまうのです。だから大きく言えば論理学的用語でいうところの「感情論」になってしまっているとしか思えません。

ここで意見書の反対理由をメモ代わりに記載しておきます。
1 離婚を選択した夫婦は葛藤が強く、子の監護などについて話し合いをしなくてはならないと葛藤が高くなり、子への悪影響が生じる、また、葛藤が残っている夫婦の一方が、子に関する重大な決定について拒否権を発動して支配を試みる危険がある。また、裁判所の調整は裁判所の能力から困難がある。(この点の指摘は一理あって、子どもにとって本当に有害なのは、離婚や別居自体ではなく、離婚をした後でもまだ相手に対して葛藤が続いている場合だとされています。ただ、それは他方の親が子どもにかかわりが無い場合であってもという意味です。)
2 DVがある場合は単独親権となったとしても、裁判所がDVを見抜けず単独親権を主張できないケースが不適当だ。(裁判所でDVが無いと判断するのは、見抜けなかっただけでなく、DVの主張はあったけれど実際にはないケースももちろんありますけれど。)
3 どうやら共同監護になりそうなのがけしからんと言っているようです。表題だけ読めば、共同親権と共同監護は別物であるから共同監護を義務づけなければ共同親権でもよいと読んでしまいそうなのです。これは離婚後の共同親権制度に対する反対理由ではなく、共同監護制度に関する意見のようです。
4 共同親権になっても養育費が支払われる保証はない。(だから共同親権反対?)
5 立法によらずとも共同監護は可能(だから共同親権反対?)
3,4,5の理由は、仮想敵に対する反論のようなものなのかもしれません。

結局離婚後の共同親権制度に反対する理由は、共同親権になると、子どもの養育を理由に子と別居することになった親が子と同居する親に対して干渉をし、同居親の精神的安定を害するとともに、離婚後もDVが継続するからということに尽きているようです。そこに子どもたちの利益を最優先に考慮した形にはなっていないと私は感じます。

いくつかの利益を考慮して調整して立法するという態度ではなく、特殊の立場の人の利益だけを一方的に優先して考慮して反対意見を述べている形になっていると私は思います。反対意見を出すとしても、もう少し法律家らしい体裁の意見書を出すべきだったのではないかと落胆したわけです。

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離婚をしたくないのに離婚調停が申し立てられた場合、何をどうするべきなのか。特に「法律の趣旨が形骸化されている場合の現実の離婚調停」にどのように対処するべきか。 [家事]



<離婚調停申立書には離婚理由について何が書いてあるのか>

離婚調停申立書は、離婚理由をいくつか挙げて、それに〇をつけさせる書式を裁判所が用意しています。ちなみにその項目としては、
1 性格が合わない
2 異性関係
3 暴力をふるう
4 酒を飲みすぎる
5 性的不調和
6 浪費する
7 病気
8 精神的に虐待する
9 家族をすててかえりみない
10 家族と折り合いが悪い
11 同居に応じない
12 生活費を渡さない
13 その他
です。

弁護士をつけなくても離婚調停を申し立てやすくするために、アンケート方式で理由を記載するという形になっているのだと思います。弁護士が付いていても、このアンケート回答だけしか離婚理由が開示されない場合も多くあります。

<離婚調停第1回期日行われていること>

これだけで離婚調停を進めるというのではなく、調停委員(年配の男女が調停委員として、一つの事件に配属され話し合いを進行します。裁判官は別室に待機しており、調停委員2名と裁判官の3名で調停委員会を構成します。)が、先ず申立人から話を聞いて、丸を付けた項目を具体的に尋ねて行くわけです。

ここで聞いた事情について、相手方に伝えるか伝えないかは、申立人の要望と調停委員の判断で決められます。だから、最後まで、どうして離婚をしたいのか相手方がよくわからないまま調停が進められることが少なくないように思われます。

<法律が想定した離婚調停の進め方>

離婚をしたい場合でも、最初に離婚訴訟を提起することはできません。先ず、離婚調停(夫婦間調整調停・離婚)を申し立てなければならず、これを「調停前置主義」と言います。

調停前置主義が定められた理由については、いくつか説明の方法にバリエーションがあるようです。
A)家族間の紛争は、一般的に他人に知られたくないことであるから、公開の法廷(裁判は公開で行うことが憲法上定められています)で裁くことは不穏当であり、先ず非公開の調停制度で話し合って相互に譲り合って解決することが穏当であること。
B)家族間の紛争は、家族という形態にも家族関係にもその家庭によっていろいろなものがあり、また紛争についても権利というよりも感情という要素が大きな位置を占めるため、必ずしも、国家(裁判官)による客観的にどちらの言い分が正当かという判断になじまない要素が多いと判断し、先ず当事者の話し合いによって解決をする方が結果の妥当性を得られること。
C)家族の問題は、法的に離婚等の結果が出ても、未成年の子がいる場合等、離婚後も何らかの関係が継続することが想定されるため、紛争を先鋭化しかねない訴訟よりも、話し合いで解決して離婚後の最低限度の信頼関係を維持するべきだということ。

離婚が、一般にそういうものですが、特に家庭裁判所に持ち込まれるときは、離婚をしたい方と離婚をしたくない方と意見が対立していることが一般的です。中には、離婚は良いけれど、慰謝料や親権は争うというパターンもあり、表面的には少なくない争いのパ田0ンですが、実際は離婚をしたくないという感情があるために争いになることが多いのではないでしょうか。

さて、話し合いで解決する場合は、このように意見の対立がそもそもあるのですから、離婚をする、離婚をしないというどちらの結論となっても、常に一方には不満が残ることは仕方がないことです。それでも、双方がある程度納得して離婚を決めるという作業が、話し合いということになるはずです。

そうすると、調停では、離婚をしたい申立人が離婚をしたいという自分の感情と、その感情の出どこを相手になるべくわかりやすく告げるという作業が求められます。相手は、どうして申立人が離婚をしたいのか、先ずはじっくり話を聞いて、冷静に相手の身になって考えることが必要になるでしょう。

<離婚をしたくない場合の必須の相手方の態度>

そうして、それでも離婚をしたくないと主張するのであれば、
①離婚を決意させた申立人の感情の部分に対してどのように手当てをするのか提案をすることになるでしょう。自分の改める部分をどのように改めるか、なるべく具体的に説明していくことが求められると思います。
②また、相手に誤解があるならば、それは誤解であると説得的に説明する必要があります。説得的ではない説明とは、言い訳にしか聞こえない説明で、要するに嫌な思いをこれからもすることになりそうだと申立人が思ってしまうような説明です。
③それから、どうして自分が離婚をしたくないのかを説得力を持って説明する必要があるわけです。ここでいう説得力がある説明というのは、申立人が自分が必要とされていて、尊重されるべき人間だと思われているという説明です。「離婚をしたら子どもがかわいそうだから」ということがよく言われるのですが、現実問題として説得力がないばかりか、逆効果になることが多いようです。どうも現代日本社会というのは、妻、母といった役割の評価というよりも、一人の人間としての評価を皆さん求められているようです。

お互いに自分の気持ちを相手に理解させようと努力して、お互いが相手の気持ちを理解しようとして、それをお互いに示して、話し合いをして、結論にたどり着くということが調停で行われるべきことになると私は思うのです。

<法の趣旨が形骸化されている現実の調停のパターン>

<パターン1 話し合いの拒否>
家裁の調停は、多くのケースで、調停委員は申立人から話を聞きます。アンケート方式で記載された理由について、〇をつけているだけでは、相手方は通常納得せず(暴力や浮気の場合はともかく)、ある程度具体的に言われないと申立人の心情がわからないからです。そして、申立人の話を聞き終えたら、今度は相手方から話を聞くというターンになります。

しかし、最近多いケースは、調停の初日から、調停委員が、相手方に対して、「申立人の離婚の決意は固いようです。あなたのお気持ちはどうですか。」と尋ねて、相手方が「離婚は考えていない。離婚したくない。」等というと、調停委員が「それでは平行線ですから調停では決まりませんね。別の手続き(裁判)に移行することになるでしょうね。」と言って、第1回期日で調停を打ち切るというパターンが少なくないようなのです。

家庭裁判所に離婚調停を申し立てるのですから、離婚意思が固いことは当たり前のことです。これは誰でもわかることです。それでもまず話し合いをしましょう、お互いを少しでも理解して話し合いで解決しましょうということが法の趣旨ですから、離婚意思が固いから裁判にしてくださいでは法の趣旨に反していることになると私は思います。

裁判でも離婚の意思が固い場合は離婚が認められる傾向が見られます。これでは、離婚を強いられた相手方は重大な精神的打撃を受けてしまいます。ここは何とかしなくてはなりません。

<パターン1の対処方法>
相手方は、「はじめから離婚は絶対しない」ということは離婚に行く近道を自分から作ってしまうことになります。少し引いて考えることが必要となります。そもそも結婚生活の維持は、一度合意があっただけでなく、その合意が継続していることが必要であると考えるしかありません。そうだとすると、誤解でも勘違いでも言いがかりでも、夫婦の一方が「離婚をしたい」と言っているのですから、夫婦である以上相手の気持ちには真剣に向き合わなければなりません。またそれをすることが、ここまで来た以上、やり直すという少ないチャンスを勝ち取るための必須の前提となることが、「申立人の離婚の理由を聞きたい。申立人の離婚の理由を自分なりに考えて、仕方が無いと思ったら離婚を考える」ということを言うべきです。

バリエーションとして、「離婚をしたいということはある程度分かった。ただ、子どものことが気がかりだし、子どもに対して親として責任もある。子どもとの交流がどのように図られるのか、その点が解決できれば離婚を考える。」という言い方もあります。

弁護士がいれば、調停前置主義をとうとうと語るパターンもあります。

<パターン2>

パターン1と実はセットになっていることが多いのですが、申立人が離婚をしたい理由を明かさないことが少なくありません。抽象的なDVがあったとか、精神的虐待だとか、中には身体的暴力があった等ということを言いますが、そこで終わりとなることが多いです。さらに突っ込むと、「これまでの積もり積もった結果である(いちいち個別の出来事は覚えていない)。」という回答がなされることが、実際にパターン化しているような印象です。

具体的に言えない事情は様々で、多いのは該当事実が無かったことです。「言ったら逆上される」と心配しているわけではありません。敵意はむき出しなので、その心配をしているわけではないと思います。

該当事実が無いパターンもいくつかバリエーションがあって、①端的に理由が無い(自分の失敗の隠ぺいや、自分の不貞を隠すような場合もあるのですが、どうして自分が離婚をしたいのか自分でもうまく説明ができないことが多いと思います)場合、②弁護士が十分な聴取を行わないことによる要約ミス(つまりどうして離婚したいかという事情聴取が不十分である場合)、③思い込みDVの場合(なんとなく嫌になったし、何か理由があったはずだという漠然な思いと漠然とした記憶がある場合) ②のパターンも結構あり、粘り強く聴取をしていくと、少しずつ離婚をしたい理由が理解できてくることが多いと思います。ここでも、なんとなく離婚したいという人はいないということを前提に、依頼者の人間性を信じて聴取をすれば、それに賛成はできなくても、なるほどその人は離婚したくなるかもしれないというところまでは到達するはずです。「どうせDVがあったのでしょ。」という態度では、依頼者を理解することができないばかりか、離婚訴訟において足をすくわれかねないという問題も起こしかねません。

<パターン2の対処法>
とにかく断片的でもよい、時期的、場所的にあやふやでもよいから何らかの具体的なエピソードを引き出す。

<パターン3>

パターン2の続きなのですが、
申立人から出てきた離婚をしたい理由が、①相手方にとって身に覚えのないこと、②それらしいことはあったけれど、事実は申立人の主張内容と違うこと、③離婚理由となるのだろうか疑問のある相手方の落ち度が主張されること

これは、調停制度の問題というより、背景として裁判離婚の判例の問題なので、対処方法を早速

<パターン3の対処方法>

離婚に応じるか否かということは、自分の人生の根幹にかかわることであるので、真剣に考えようとしている態度は見せる必要があります。しかし、だからと言って、間違っても好戦的な、攻撃的な態度をしてはならないということです。あくまでも穏やかに対応する必要があるということが必須の前提です。「理由がわからないのでは応じられないではないか。」という当たり前のことをストレートに言うのは、良策ではありません。

一生懸命真面目に相手の言い分を理解しようとする態度を徹底しましょう。そして、相手の言い分にまず反発することをしないで、そこに何かしらの相手の気持ちが隠れていないかを検討することが大事です。しかし、これはなかなか難しいことです。人間も動物も同じでしょうが、自分が攻撃されていると認識すれば、何とか自分を守ろうとするのが、生き物の特徴だからです。普通の行動パターンは誰でも反射的な反発を起こします。こういう場合、弁護士が一緒にいると、反射的な怒りを抑えてもらい、少し検討するために時間をもらうということができるわけです。調停期日における弁護士の役割などというものは、当たり前の反応をする前に理性的に考えてみることに誘導することが大半なのかもしれません。

ここから先は一応言いますが、ご自分でそれができるかなかなか難しい分野に入ります。まず考えなければならないことは、心の赴くまま相手を攻撃してしまわないこと、あくまでも相手を尊重している様子を見せること、相手に安心して本音を出してもらおうとすることです。

①身に覚えのないことと②それらしいことに心当たりがある場合
身に覚えのないことを言われた時こそチャンスです。もちろん、事実に無いことは事実に無いということは必須だと思います。問題は、事実に反することを言ったと申立人を責めないことです。
まずは、そのものズバリではなくそれらしいことに身に覚えがないかどうかを考えることです。そしてそれらしいことがあれば、実はこうだったのを甲受け止めて記憶してしまったのではないかという説明をしてあげることと、事実に反した出来事だとしても、申立人の感情を思いやることができます。
全く事実が無い場合も結構無いわけではないのですが、「思い込みDVhttps://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-03-14#:~:text=%E3%80%8C%E6%80%9D%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%81%BFDV%E3%80%8D,%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%82」の説明などを参考にして、どうしてそう勘違いしてしまったのかを考えて、自分がこうすればそういうことはなかったと思うという二人の問題だったということを説明することが一つの対処方法です。
いずれにしても、申立人は離婚をする気が満々ですから、ただ否定するというよりも、そのものずばりの証拠が無いとしても客観的な状況証拠をできるだけ提出することが求められると思います。

③離婚理由になるのか疑問なこと
これも代理人がいれば、逆に落とされてしまう危険があるのですが、案外一般の我々も他人には理解できない大切にしていることというものがあって、例えばペットだとか、例えば愛車等の所有物に関してとか、例えば子どものこと(これはわかりやすい。)だとか、そういうことで相手に安心感が持てなくなり、一緒に生活できなくなるということが案外あるようです。

ここも、むしろ、申立人代理人よりも自分が申立人を理解しているということを示すチャンスです。
この場合は、「自分としてはここまでやった。しかし、足りなかったという結果を重く受け止める。本当はこうすればよかったのかもしれない。」等という対処方法を考えると思います。

一件それが離婚理由になるのか、おそらく裁判所でも疑問を持つでしょう、裁判所でも自分の代理人も取り上げないところをこちらが取り上げるということはポイントになるようです。

繰り返しますけれど、調停は、相手に対して自分に関する安心感を持ってもらう材料の宝庫です。しかし、自分を守るという当たり前の防御態勢が作られているとそれがなかなか見つからないし、見つけようとしなくなってしまいます。だから、代理人と一緒に調停に臨むことが有効になるのだと思います。



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第三者の無責任な支援、寄り添いが、いじめ、紛争を作り出すその構造 複雑な現代社会で他者を支援するとき忘れてはならないこと [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 「世界」に書かれていた寄り添いの純粋形態

ネットを見ていたら、岩波出版の雑誌「世界」の2023年7月号に、以下のような文書が掲載されていたということが紹介されていました。

「♯withyou の声を多くの人があげることは、被害者の言葉に「嘘だ」というのではなく、「あなたの言葉を信じる」ということ。そして誰かが心無い言葉を浴びせた時には、「あなたは悪くない。悪いのは加害者だ。」とともに感じること。自分の被害が認められることは、被害回復の第一歩である。」

マニュアルらしきものがあるということは具体的な支援の事例から想像していて、このブログに想像したその内容を書いていました。まさかここまで私が想像していたとおりの文章が存在するとは思いもよりませんでした。

現在の日本の支援、特に女性支援も、行政も含めて、精神的ダメージを受けている女性が被害者、その相手が加害者だと二者択一的に色分けをします。「加害者」とは加害をした者というわけではないと総務省も説明しています。

少しでもご自分の頭で考えながら、冒頭の「世界」に掲載された文書を読めば、違和感に気が付くはずなのですが、ただ読んだだけでは「善いことが書いてあるな」と感じてしまうのではないでしょうか。

2 弱者を保護することが人間の共通の価値観に合致すること

この文書が何も考えないと高評価をされる理由について、先ず説明します。

ある人が誰かとの人間関係等を原因として精神的ダメージを受けて傷ついている場合、人間の本能的価値観としては、「ダメージを受けている人を力づけて、ダメージを少しでも軽減する働きかけをすること」が、「善いことだ」と感じますし、このような働きかけでその人が少しでも回復したら、「充実した気持ち」になることが一般的だと思います。

この価値観が妥当して、人間の共存にとってメリットとデメリットを比べるとはるかにメリットが大きかったのは、今から200万年前から2万年前の「狩猟採取時代」のことです。

狩猟採取時代は、人類は、数十名から150名程度の一つの群れの仲間で、生まれてから死ぬまで生活を共にしてきました。
もしその群れの中の人間関係で誰かが精神的ダメージを受けた場合は、心傷ついている人に共感を抱きやすい仲間が、自分がダメージを受けているかのようにその人のダメージを軽減しようとするのは、弱者保護という人間の本性でした。弱者保護をしないと弱い者から死んでゆくので、群れの頭数が減って、肉食獣の餌食になったり、食糧を探し出せなくなって飢え死にすることを回避できる、とても都合の良い心理傾向、行動傾向でした。弱者保護の行動を本能に組み込んだものだけが厳しい自然環境を生き抜いてきたという関係になります。

だから現代社会の人間たちも、個性による程度の違いはあるとして、このような弱者保護を「善いこと」と感じ、自分が弱者保護の行動をすると充実感を抱くようにできているわけです。

そして、弱者保護をしているという意識は、そのための行動を本能的に行ってしまい、理性的に振り返るという思考が停止してしまう要因があるのです。

3 複雑な現代境において、狩猟採取時代の支援が成立しないことを構造的に理解してみる

問題は現代社会の第三者である支援者による支援についてですが、狩猟採取時代との違いに着目して考えてみましょう。

狩猟採取時代は、生まれてから死ぬまで同じメンバーで生活して、極めて近くにいつも一緒にいるという特徴がありました。だから、精神的ダメージを受けたその経緯についても、すぐ近くで目撃していたということになります。事実関係を直接把握していたということが第1の違いです。現代の支援者は、第三者であり、当事者の関係性も、歴史も直接見るということはありません。通常どちらか一方の話だけを聞いて支援を始めます。
第2の違いは、精神的ダメージを受けている方も、その相手方も、狩猟採取時代は間に入る者からすると、どちらも同じ群れの仲間だという点に大きな特徴があります。できれば、再び仲良くなって、群れを支えてほしいと思っているわけです。だから、よほどのことが無い限り、ダメージを受けた者の相手を一方的に糾弾したり、排除したりするということはなかったと思います。よほどのことをしていたという場合は、群れを守るために容赦なく排除したということもあったのかもしれません。

その結果、おそらく狩猟採取時代では、単純にどちらかが悪で加害者で、どちらかが被害者だと認定することはよほどのことが無い限り無かったと思います。双方をなだめて仲直りをさせるということが主たる働きかけだっただろうと想像しています。

もちろんこれが人間対人間の争いではなく、群れの外の野獣が群れの仲間を傷つけたということであれば、容赦なく野獣を襲って致命的なダメージを与えるまで攻撃を続けたのだと思います(袋叩き反撃仮説)。


しかし現代は環境が著しく変化しました。通常は、人は、様々な群れに同時に帰属しています。家族、学校、職場、社会、国家、ボランティアやサークルなどに所属しています。また、誰かにダメージを与える可能性のある他人は、群れの数の大きさや、職業を分担する社会構造、インターネットの普及等により膨大なものとなっています。これが「複雑な人間関係」の本質だと思います。

人間は、このようなとてつもない環境の変化の中にいながら、先ほどのべた狩猟採取時代の価値観を有してしまっています。この心(価値観)と環境のミスマッチが様々な弊害を起こしています。

支援の関係で整理すると現代の環境では、一言で言えば、ある人の精神的ダメージを回復させようとする支援者は、全くの第三者であるということです。つまり、第1に、その精神的ダメージがどういう形で起きたのか、出来事以前のその当事者同士の関係性はどのようなものであったのかについては全く分からないという特徴があります。第2に、精神的ダメージを受けた者に対しては、支援担当者は仲間であるという感覚を持つのに対して、精神的ダメージを受けた者の相手方は、顔も知らない人間であり、仲間だという意識を持っていないという特徴もあります。

現代社会の支援は、事実関係を十分把握しないで開始されるということを意識する必要があります。

4 改めて冒頭の文章を読む

先ず、被害者の言葉に「嘘だ」と言わないで、「信じる」べきだというようなことが書かれています。なるほど、これは必ずしも支援者の心得として書かれたものではありませんが、弱者保護の集団的なムーブメントの中での心構えのようなものだと受け止めて良いのでしょう。これはかなり無責任な態度だと言わざるを得ません。

なぜならば、第三者は、そこで何が起きたのかよくわからないということから出発するべきなのに、心室性の吟味をすることを否定しているからです。被害者の主張する「被害」が事実として存在していたのかについてはわかりません。また、「被害」の程度、被害を受けるに至った事情などについてわからないのです。

また、「被害者」が複数いる場合は、解決の目指す方向もその人によって異なることは通常あることです。必ずしも同じ被害感情を持っているわけではありません。これがピアサポートの難しいところです。

もし、支援者が自らが「加害者」とされた人にとっても影響を与える行為をするならば、何らかの方法で真実を調べ、何が真実であるのか確定し、それに基づいて被害者の意思に沿った支援をする必要があるはずです。

被害者の言い分を「嘘だと疑わないで信じる」という行為は、真実か否かわからない情報によって行動を起こすということですから大変危険な行為です。仮に「被害者」の主張が、事実に反していたり針小棒大な主張であれば、罪もない人を加害者だとして、攻撃をして社会的に排除する行為になりかねません。

さらに、真実がどこにあるかもわからないのに「あなたは悪くない。悪いのは加害者だ。」ということも極めて無責任です。
「あなたは悪くない」ということはとても簡単で安直な言動です。また、人間関係を善と悪で割り切る二者択一的考え方です。例えば、二人の関係が家族どうしならば、必ずしも善と悪が対立しているわけではなく、疑心暗鬼や言葉の不足から、コミュニケーションがうまく取れていないことが多いのです。ちょっとした工夫をアドバイスすることによって、お互いが幸せな関係を築くことだって不可能ではないかもしれません。

また、この態度はアメリカのフェミニズムの精神科医で、複雑性PTSDの病名を提唱した、ジュディス ハーマンは、「あなたは悪くない」という言葉を発することで、支援者は具体的な被害者の被害、精神的打撃、絶望の恐怖を理解しなくても済む、被害感情を共有することを拒否する態度だと批判しています。

むしろ本当はどうすればよかったのか、過去の時点で別の行動をとった場合のシミュレーションを後に行うことも、絶望を回避する方法になり、精神的ダメージを受けた者の回復に役に立つのです。「あなたは悪くない」ということで、支援者は思考停止をすることができます。それは支援者の心の負担を軽減する以上の効果はありません。同時に支援対象者は、支援者への依存を深めていくという効果は確かに見られます。

つまりあなたは悪くないということは、被害回復の第一歩ではなく、被害者の絶望の淵を垣間見ることを拒否する支援者の防衛行為であり、被害者を自分に依存させるだけの効果しかないということです。あくまでも支援者の利益にしかならないと私は考えます。

5 被害者の言動を嘘だと思わないで信じた弊害 草津町議事件

実際は、様々な被害を受けている人がたくさんいます。ひとたび「加害者」とされると、それは支援者たちは仲間だと見ないで、あたかも肉食獣のように被害者を攻撃する人間だとみなしているかのように、容赦のない攻撃が加えられます。仲間だと思わないから、そういう非人道的なことを正義の感覚で遂行することができてしまうのです。
私が多く見ているのは、DV被害者保護の名目によって、子どもと会えなくなった無数の父親たちですが、これは何度もこのブログで書いていますので割愛します。

今日は、草津町という温泉の町で起きた典型的な弊害についてご紹介します。
事件の詳細は、真の被害者である町長の黒岩信忠氏を紹介するWikipediaに記載されています。要約すると、2019年に女性町議Aが、2015年に町長室で町長から性的暴行を受けたと電子書籍を出版して主張し、告発をするので、町長は辞職をしろと言う記者会見まで開いたことから始まります。Aは、町議会でも自分の主張が真実であるとして、町長に対して不信任決議案を提出しますが、賛成者が二名しかおらず否決されました。
その後、町議会は、Aの行為が品位を欠くということで、懲罰動議を発議しAは失職します。しかし、知事の裁決によって懲罰動議は無効となり、町議としての地位は回復します。2020年9月には、虚偽の事実の書籍を出版して名誉を棄損したことと、町議会議員に立候補するにあたっての居住実態が無かったことから、リコール運動が起き、圧倒的多数をもってAは解職されました。圧倒的多数でリコールが成立した背景には、Aの言っている暴行事件が、電子書籍に記載した内容と、刑事告訴をした内容と根幹部分で異なっていたことが、つまり電子書籍には事実に反することが書かれているということを刑事告発をしたことによってAが認めたことが大きな原因だと分析する町民が多いようです。

この一連の行動に対して著名人も含んだ支援者たちが、Aを支持し、草津町長ばかりではなく、草津町議会や、リコール投票をした草津町町民に対して攻撃を行い、デモが行われるほか、Aは外国人記者クラブでも記者会見を行い、この事件を世界に広めました。支援者の言い分は、現在では、町ぐるみで女性町議を強権で解職したというのは女性に対するいじめだということを根幹にしているようです。しかし、彼女らは当時はこのリコールに対して「セカンドレイプの町草津」と書いたプラカードを掲げて抗議していました。A町議のいう、町長室でレイプされたということを疑わないで信じたからそれがファーストレイプであり、リコールがセカンドレイプということになるはずです。

ちなみにAは、電子書籍に記載したことの根幹部分が虚偽であることを民事訴訟において認めています。

結局、町長は、根も葉もないことで、町長室という公的な場で、女性に性暴力を行ったということを世界中に広められてしまい、あらぬ疑いを各方面からかけられてしまったわけですから、著しい人権侵害が起きていたことは間違いありません。町政を混乱に陥れられたということも事実だと思います。さらに、「セカンドレイプの町」ということで、大々的に抗議をされて、温泉という観光業が主力の町は大ダメージを受けたことも想像に難くありません。一人の嘘が、多くの人たちに大きな損害を与えました。

この被害が拡大した要因こそが、冒頭の文章のような無責任な被害者支援の手法だったわけです。追い込まれた町長らが自死でもしたならどのように責任を取るつもりなのでしょう。町長という高い地位のある人は犯罪者とされてしまうことで、自分の立場がジェットコースターのように下がるので高い自死のリスクが発生したことになります。

当然少し考えれば、もしAの主張が虚偽であれば、このような悲惨な結果が起こるだろうということは、頭が働く状態であれば容易に想定できることです。でもセカンドレイプの町とプラカードを掲げた人たちは、想定したとしても、同じことをしたでしょう。

これは、Aが被害者であるという主張から、弱者保護の本能が発動していたしまったことと、Aは仲間であり人間として尊重をしなくてはならないという強い考えが、町長は仲間ではない、肉食獣のようなものだという、仲間からの排除の意識が強く出てしまって、町長の心情や家族の心配、草津町の人たちに対する侮辱による精神的苦痛、経済的損害などということを配慮できなくなってしまった結果なのです。

現代社会においては、誰かを支援することは、誰かを攻撃することにつながることが付いて回ることかもしれません。特に、何らかの思想や信念に基づいての弱者保護行動は、思想や信念を共通にする群を守る意識が強くなり、反射的に敵対する人間を人間扱いできなくなるという傾向があるわけです。誰かを支援する立場の人はこのことを頭に入れて話さないことが必須条件となります。

支援者が対立当事者の間に入る時は、真実について自分は知らないという態度を貫いて、その上で今何をするべきかを考えるべきです。また、国や自治体は、自分たちの支援が、このような弊害が大きな支援ではないかということを早急に見直すべきであり、立法府、政治家はそれをただすべきです。

また、草津町議事件についても、抗議デモの弊害を拡大したのは一部マスコミにも大いなる責任があります。報道姿勢にも、真実がよくわからないという自覚を常に持ち続けて、罪もない加害者の人が苦しむ報道にならないようにくれぐれも注意するべき責任があると私は思います。





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いじめやパワハラは、助け合いや弱者保護と背中合わせだということ 組織の論理(排除の論理)と袋叩き反撃仮説と [進化心理学、生理学、対人関係学]



 もしかしたら、今あなたは、人間関係の中で、不当に低く評価され、あるいは仲間から外されそうになって思い悩んでいたり、そのために経済的にも苦しい思いをさせられている等生活が困難になっているかもしれません。この文書がそんなあなたの窮地を救うことにはならないかもしれませんし、気休めにもならないかもしれません。でも、どうして自分がそのような理不尽な目にあっているのか、あなた自身に問題があるとは限らずにひどい目にあっているということをわかっていただければという思いで書いています。そして少し心に余裕が生まれ、自分を大切にしてくれる人に目が向くことを願っています。

1 対人関係学はきれいごとではない

対人関係学として、これまで私は、人間の本質は、仲間を平等に取り扱おうとすること、仲間を助けようとすること、特に弱い仲間を保護しようとすること等にあるということを述べてきましたhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/。このためきれいごとではないかと反発を受けることもありました。
しかし、このような人間の本質、本能があったため、今から200万年前から2万年くらい前まで続く「狩猟採取時代」という時代の過酷な自然環境の中で、戦う牙も爪もなく、逃げる足も羽もない人間が、肉食獣から身を守って生きることができなかった人間が滅亡しないで生き延びてこられたのだと考えています。
平等取り扱いや弱い者の保護をしなければ、弱い者から死んでいく環境です。すぐに頭数が少なくなって、肉食獣に襲われたり、食料を確保できずに飢え死にしたりしたはずだからです。
 それにしても、この考えがきれいごとだと感じるのは、現代社会ではなかなかそういう人間の姿が見られず、むしろいじめやパワハラ、ネット炎上など仲間を攻撃している人間の姿ばかりが目に付くために、人間がそんなに素晴らしい生き物ではないと自然と感じてしまうことは無理もないと思います。
対人関係学は人間万歳という学問ではありません。この世の社会病理行動がどのように起きるのか、どうやって予防をして人間が幸せに生きることができるかを考えています。狩猟採取時代は人間の心は人間の生き延びるための不可欠のツールでした。しかし、現代社会では、狩猟採取時代の心が残っているために、逆に人間が苦しんで、命さえも奪われかねないということについてお話ししていきます。

2  特に袋叩き反撃仮説。肉食獣に襲われて絶滅しなかった理由。

袋叩き反撃仮説とは、対人関係学の理論の大事な柱です。(詳しくはネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp) ) 
狩猟採取時代、野獣から仲間の一人が襲わるということがあったはずです。一部の学説によると、仲間が襲われているのをなすすべもなく見ていたように描かれることがあるのですが、これは違うと思います。そこにいた仲間たちが野獣に対して怒りの感情がわいて無意識に反撃を開始して、仲間を救おうとしたはずです。ある程度大綱の高いヒトが何人かで総攻撃をすれば、野獣の方も自分の身を守りながら攻撃をしなければなりませんから、人間の反撃から逃げて行くことになったのだと思います。これが袋叩き反撃仮説です。
人間に限らず動物全般も、通常危険を感じた場合には、自分よりも強い者に対しては怒りではなく恐れを感じて逃げ、「勝てる」と判断した場合には怒りを感じて攻撃をして危険を無くすという行動パターンになります。いわゆる「Fight or Flight」という行動パターンで、これは一瞬のうちに無意識のまま感情がわいて行動が続いていくとされています。だから肉食獣に攻撃されたら、自分ひとりでは恐怖を感じて逃げるのが行動パターンです。しかし、人間の場合は、仲間がいる、あるいは仲間を守るという場合、無意識に怒りをわきあがらせて、戦うことを選択してしまうという本能があるようです。ほかの哺乳類も、母親が子どもを守る場合には、相手が人間であろうと捕食者であろうと、怒りをもって戦うという行動傾向を見せます。

こうやって、肉食獣たちに、人間を押そうと仲間から反撃されてしまい、自分の命もなくなるかもしれないという嫌な記憶を与え続けてきたことによって、肉食獣は人間を恐れる本能を受け継ぐことになったのだと思います。元々、比較的大型の動物である人間のフォルムと、集団行動をする不気味さももちろん人間を襲いにくくした要因であるとは思います。しかし、人間を無抵抗に捕食できるという体験があれば、やはり補色の標的にされて、食べつくされていたのではないかと思うのです。

この他狩猟採取時代の、言葉の無い時代に群れを作っていたのは、孤立や群れから排除されそうになる(群れから低評価を受けることが中核)と、不安になり群れにとどまりたいと感じてしまう心とか、仲間の弱い者を保護しようとする心とか、群れの権威(群れの共通価値、必ずしも人間とは限らない)に従おうとする心(詳しくは「迎合の心理」 遺伝子に組み込まれたパワハラ、いじめ、ネットいじめ(特に木村花さんのことについて)、独裁・専制国家を成立させ、戦争遂行に不可欠となる私たちのこころの仕組み :弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp))、近くにいつもいる人を仲間だと感じる単純接触効果などがあります。このような心理状態を感じることができた大きな要因は、人間にはミラーニューロンが発達していて、他者の感情を自分の感情であるかのように感じる能力(共感力)が大きいということにあります。また当時の環境が生涯一つの群れだけで生活し、みんな顔見知りであり、少ない食料を分け与えて生き延びる運命共同体だったという環境に起因したと思います。

そうすると、袋叩き反撃仮説の反撃者の心理は、「仲間が肉食獣に襲われて、死の危険を感じての恐怖を抱いている。自分が死の危険を感じているときと同じ危険を感じている。しかし、襲われているのは自分ではなく、自分の外にも反撃する仲間がいる。だから、自分たちは野獣に勝てる。野獣に対して怒りを覚えて攻撃をする。」という一連の行動を、おそらく意識に上ることなく始めていたのだと思います。仲間を助けるために無我夢中で気が付いた攻撃に参加していたという具合です。襲われている方も、仲間がいるのだから自分を助けようとするはずだという心理状態になっていたと思われます。

3 現代社会に続いている狩猟採取時代の心

現代でも、人間の脳は進化していませんから、狩猟採取時代の心という群れを作るシステムは受け継がれています。平等取り扱いであれば、不平等や差別があれば、程度は憤激からモヤモヤまでバリエーションはあるとしても、善くないという気持ちになります。弱者保護ということに関しては、小さく弱い者に対しては「かわいい」という感情がわいてきます。これは保護の行動を起こさせる感情です。本能にかなう行動は、大雑把に言えば本能的に「善いこと」という感覚を持ってしまい、自分が「善いこと」を行うと充実した気持ちになるし、他人が善いことをするのを見ると、ほっとする気持ちや、感動をしたりするものです。どうしてこのような感情になるかというと、こういう感情になる人間の先祖だけが群れを作り生き延びることができたので、それがその子孫である私たちに遺伝子で受け継がれてきたとのだと思います。

現代社会は、環境が大きく変わりました。この環境の変化に起因して、かつては人間を生き延びらせた群れを作る本能が、パワハラやいじめを引き起こしてきていると考えます。

かつての狩猟採取時代の環境と異なる二つの大きな変化は、狩猟採取時代は一つの群れで生涯を終えていたのに、現代社会は複数の群れに同時に帰属すること、例えば家族、学校、職場、地域、あるいはSNS、ボランティア団体、趣味のサークルから、お店の店員と客、道端で目があった人等、相手を助ける関係になる場合がある人間や傷つける場合がある人間関係全てを考えると私たちは無数の人間関係に帰属していることがわかります。もう一つの変化は、多数の群れに同時に帰属するということから必然的にかかわりあう人数も莫大なものになっているということです。何百万年かを要して、人間の脳は進化したとはいえ、個体識別できる人数は概ね150人程度だとされています。その程度の人間としかかかわりを持ってこなかったので、進化がそこで止まっているわけです。
人間ではあり、自分のすぐ近くに存在しているにもかかわらず、あるいはしょっちゅう一緒にいるにもかかわらず、「仲間」だと認識できない人間が現代社会では登場しているのです。これは人間関係の希薄化の意味でもあると思っています。中島みゆきさんの「帰省」という歌の歌詞には、人は多くなるほどものに見えてくるという一節があります。見事に現代社会をとらえきった詩人の感性の鋭さには脱帽するばかりです。
このような環境の変化は、複数の人間関係の間のバランスをとることを必要とします。しかし、複数の人間関係に帰属するようになったのは、ここ1万年くらいにすぎず、脳が進化するにはあまりにも短い時間です。だから、例えば家庭と職場で、バランスをとって生活するという発想が持ちにくく、真面目な人ほど職場で全力投球をしてしまい、家庭では体力的意味でも、心理的余裕という意味でも余力が無いというような、不具合も生じてしまうわけです。人間はマルチに物事を考えることが苦手だということです。そのように脳は進化していません。このため、他の人間関係の不具合によるストレスを八つ当たりで発散しようとしてしまうわけです。

4 いじめやパワハラの「正義感」の構造

最近は熊の被害が報告されていますが、都市部では肉食獣が人間を押そうということはほぼないと言ってよいでしょう。山間部でも今年が例外的なことだとのことです。野獣に対して袋叩き反撃をする機会が無くなっているようにみえます。

しかし、この本能は、肉食獣ではなく、人間に向けられており、これが多くのいじめやパワハラの正体だと思っています。説明します。

仲間を守るということで群れを維持していた人間は、仲間以外は敵だとみなして攻撃の対象としていた可能性があります。現代でも、ジャングルの奥地などに住む他の種族と交流のない人たちは、よそ者がテリトリーに入ると怒りをもって攻撃をしていたと言います。その人たちにとっては、仲間以外の人間は敵だと認識し、脅威を感じて、攻撃して自分たちを守ろうとしたわけです。彼らにとって文明人を攻撃することは、自分たちを守ることであり、「善いこと」であり、正義という認識です。

群れを守るということは、本能に合致することですから、「善いこと」であり、正義感を呼び起こすことです。群れを害する者は、人間であっても、同僚や同級生であっても、攻撃して排除することが正義感だと思ってしまうメカニズムがここにあると思うのです。

これはおそらく狩猟採取時代もなかったわけではないのかもしれません。精神破綻した群れの構成員が暴れて仲間に攻撃をしたような場合は、もはや仲間という意識を捨てて、敵だとして排除したことは大いに考えられることです。

どこまで明確に意識をしていたかは不明ですが、当時の群れの共有している価値観は、究極的には群れの存続という低い内容だと思いますが、そのためのツールとしての心は、群れの仲間を大事にする、特に弱い者を保護するという形で究極の目的を達しようとしていたわけです。この心に反する行動をする者は仲間という認識を失い敵であると評価が変わり排除の対象となったのでしょう。

但し、この評価の転換は、その対象人物とは生まれた時から一緒にいた人間という記憶があり、かつては仲間として扱っていたこと等から、よほどのことがあったときにぎりぎり起きることだったと思います。

ところが現代社会の複雑化による人間関係の希薄化によって、仲間という認識が外されることはかなり簡単になったのだと思います。全員に不利益が無いようにすることは、かかわりあう人間の数が膨大すぎて初めから無理だと思ってしまうわけです。この考えは、人間が苦しんでいても、共感できなくなるという現象を引き起こすようになりました。

現代社会のいじめ、パワハラもこの点を理解する必要があると思います。いじめやパワハラをする人たちも、このような背景があるからこそ、職場の部下だったり、同級生だったりを、容赦なく攻撃することができる条件になっているということです。

群れの仲間から敵へ簡単に評価の転換が起きやすくなっているうえ、その群れの果たすべき内容が非常に高度になっていることから、果たすべきことを果たさないことに対して、「群れの仲間の足を引っ張る」とか、「群れに迷惑をかける」とか、「群れの構成員としての資格が無い」等という評価が下されやすくなってしまっているようです。

例えば学校では、授業中に変に体を動かしたり、集中をしていない児童がいたとしても、私のころは1クラス50人超の人数が詰め込まれていましたから、「そういう子どももいるな」ということでことさら問題視されることはなく、先生の気が向いたら注意をしたり、後で通知表に書き込まれたりということで済んでいました。現在は、それは障害だから、病院に行って治療を受けなければならないということになっているようです。成績の良い人間たちは、授業に出て出席数を稼ぎ、教師の話を聞くわけでもなく、授業中に教科書を読んで、問題を解いて自分で学力を上げていたので、同級生が何をしようとあまり気にならなかったと言います。今は、不規則な行動をする同級生に対して、イライラして、攻撃をするということが成績上位者には見られます。

例えば職場でも、何らかの不具合の結果が生まれると、後付けのような形で規則を持ち出して注意されるわけです。例えば課長の言うとおりに取引相手との交渉を進めていたのに、取引相手の都合で交渉が打ち切られたとしても、逐一報告をして相談をしなかったからだと叱責されるようなものです。年度目標を定めるときに抽象的な目標でよいとされてそう記載したところ、抽象的な文言から無理やりこじつけられて、求められる努力が足りないなどと低評価されるということもよくあることです。偶然的事情で査定が下がり、賃金が減額されるということは大企業では日常茶飯事ではないでしょうか。

このいじめやパワハラの「きっかけ」に着目すると、群れの目的が高度過ぎるという背景があるように思われます。群れの目的が人間が努力さえすれば容易に達成できることではなく、めいっぱい緊張して、運も味方につけてようやく達成できるかできないかというもので、構成員たちは日々一杯いっぱいの状態にあるということです。ただでさえ、人間関係の希薄化によって、他者を仲間だと認識することが困難になっているところに、ちょっと気を抜いたり、ちょっと運が悪かったりすれば、組織の目的を阻害する行動だと評価されてしまうような人間関係になってしまっているのだと思います。だから、組織の中で、人々は簡単に「悪」を認定され、その悪を正すことは、「善きこと」という意識が起きやすくなっているのだと思います。「悪」に対して、具体的な修正方法をレクチャーすることもできないししないので、「悪」と評価して切り捨てて敵として攻撃するという安直な行動に出てしまうのが、パワハラやいじめの「きっかけ」で、それは、人間関係の希薄化と組織の目的の行動かによって、実に些細なことがそのきっかけになりやすくなっているというのが現代日本の状態なのだと思います。

5 ひとたび始まったいじめやパワハラが強烈になる理由

いじめやパワハラは、きっかけとその過酷さは、別々の原因がある場合が多いことに注目するべきだと思います。

いじめやパワハラは、何もきっかけが無ければ起きにくいのですが、一度始まってしまうと過酷な攻撃になりやすいという特質があります。この他者への攻撃が過酷になる原因のほとんどは、八つ当たりです。つまり攻撃者が、自分が別の人間関係で追い込まれているために危機感を感じていると、その危機感をはねのけたいという感情が生まれます。危機回避の方法は逃げるか戦うかですが、その当初の危機感を与えた原因は大きなもので、親とか学校とか社会とか、あるいは上司とか社の方針であるとか、取引相手とかのために、怒りと攻撃で乗り切ることができません。そうかといって逃げ出すわけにもいかないので、耐えているしかありません。これでは、危機回避の要求ばかりが高まっていきます。ひとたび些細なことで、攻撃のターゲットを見つけていじめやパワハラを始めると、別の人間関係で生じた危機回避の要求の肥大が、そのターゲットへの怒りのエネルギーとして攻撃を行い放出されるようです。

実際のパワハラ事例では、上司や会社からのノルマ達成への圧力がパワハラの大きなエネルギーになりましたし、他の職場では和やかに仕事が進んでいたのに当該職場だけ店長がパワハラを行っていた原因として、家庭の不和があったということがあります。学校でのいじめは、進学に対するプレッシャーがエネルギーになっている事例が多く、偏差値の高い学校を受験するような生徒がいじめを行うということが少なくありませんでした。

このような、何らかの人間関係の圧が強すぎたり、人間関係の圧に対する抵抗力が少なかったりという理由から、圧を強く感じてしまい圧からの解放要求が強くなると、近くにいる人間の些細なことを口実にいじめやパワハラが大きくなっていくこともありうることだと思います。特に正当な根拠が無くても、こじつけて攻撃するということがあります。特に「なんとなく虫が好かない」というような嫌悪感や不快感が口実になる場合は、理由をでっちあげて攻撃を開始するということも見られます。

6 さらに不合理ないじめやパワハラの構造

いじめやパワハラは不合理ですが、さらに誰がどう見たって不合理だといういじめ、パワハラも少なくありません。それは以下のような構図、人間の本能を利用して成立していることがあります。

先ほど、群れを作る人間のシステムとして、「権威に従おうとする心の傾向、弱い者を守ろうとする心の傾向」を挙げました。このいわば人間の本能に由来するいじめも少なくありません。特に大人のいじめに多いようです。

典型的なメカニズムは、群れの権威者が、群れの中で自分よりも権威が上になりそうな相手に対して危機感(権威が無くなるという危機感)を感じ、その新権威候補者を貶めようとするわけです。それこそ、些細な事情、見解の違いがさも「悪」であるかのように、突如新権威候補者の非難を始めます。その話を周囲は熟慮の上賛同しているわけではありませんが、権威者に同情して権威者を支持してしまうという人間の共感力に基づく本能と、権威者が弱さを見せたことによって権威者を保護しようという本能が、特に詳しい打ち合わせもしないで、あたかも意を通じ合っているように、権威者の新権威候補者に対しての攻撃を見て見ぬふりをしたり、加担したりするということが起きます。

ひとたび攻撃が開始され、攻撃が継続しているという既成事実ができてしまうと、態度を変えて、「やっぱりその攻撃はまずいのではないか」と思わなくなるようです。攻撃を継続し、それになんとなく取り巻きも巻き込まれてしまうと、徐々に取り巻きの心も、新権威者候補に対して怒りを覚えてきて攻撃を是認し、その攻撃を内省することができなくなるようです。つまりこの時点で、新権威者候補は組織にとって「敵」であり、仲間ではなく、配慮や尊重の必要が無いと勝手に感じてしまうようです。行動を継続すると、心もそれに沿って変改しているようです。そして、ここまでやるかという相手に対する配慮の無い攻撃を組織的に始めていくわけです。

攻撃する仲間の共同行動によって、勝てるという意識が強くなり、相手が消滅するまで攻撃を続けます。相手はもはや人間ではなく、肉食獣と同じ仲間に危害を与える存在ですから、容赦のない攻撃が加えられ、排除が完成するまでそれは続き高まっていきます。ひとたび怒りに支配されると、相手が弱ればもういいだろうという気持ちにはなかなかならないようです。ゴキブリを見た場合、殺虫剤をかけたり、叩き殺そうとするわけですが、弱っていても少しでも動こうとする姿を見ると、さらに息の根を止めるまで怒りに任せた攻撃をするのですが、それと同じです。

権威者を守るということが、組織を守るということと同じ意味だと本能的にはとらえてしまうので、攻撃は「善きこと」正義になってしまうので、歯止めが利かなくなります。

こう書くと猿山のボス猿の時と同じかというと、それは違うと思います。自然界の猿山の群れは、基本的には雌猿とその子どもで構成されていて、ボス猿だけが大人の雄だそうです。この場合はボス猿が自らを守ろうとするのは、排他的生殖の権利を守ろうとしているわけです。しかし、人間は猿と異なり、男女が同じ群れで生活するように進化しています。犬歯が小さくなっていることが、女性をめぐって仲間同士が争うことをやめた証拠だとされています。
あくまでも組織を守ろう、権威を守ろうとする人間特有の心というシステムのゆがみに基づくものだと思います。

環境と心のミスマッチとはいえ、冷静に観察するととても醜い行動であると思います。当然、心権威候補者は何が起きているのかわからず、自分をかえりみても非があったとは理解できず、修正方法が思い浮かばないので、なまじ群れに帰属しようという本能があるため、精神打撃はとても深くなってしまいます。絶望を抱いても何らの不思議もありません。

7 まとめ
仲間を守ろうとするはずの本能がいじめやパワハラに転化しやすくなる環境
1)複数の群れに同時に帰属し、150人以上の人間と何らかのかかわりを持つ複雑な社会である現代社会
2)組織の要求度が高く、構成員の緊張が高まっていること
3)組織の要求度に合致しない行動に寛容が無い雰囲気
いじめやパワハラが激化しやすくなる環境
4)他の人間関係において不具合を抱えてストレスが高じている場合
5)相手が弱く抵抗を想定しなくてよい場合(相手を弱めてから攻撃する場合もある。)

さらに不合理な組織の論理
6)権威者が特定の個人になってしまっている場合(構成員の意識の問題であり、組織の定款や規約などの記載とは別の問題)
7)組織が攻撃にさらされやすく、構成員が組織を守らなければならないという意識が高まっている場合で、特定の権威者を守ることが組織を守ることだと自然に感じてしまう環境
8)組織が構成員の経済的な条件となっていたり、構成員が生きることを支えているような求心力の強い組織である場合

このような場合は、組織の権威を守るため、本能的に組織の構成員はターゲットを攻撃し、容赦なく排除しようとする。その人の人生や他の人間関係や生活については何らの排除もしない。まさに袋叩き反撃が行われてしまう。
組織の外に向かっての反撃もある。



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世にいう「複雑な社会」とは何なのか。社会病理の行動決定理論結論部分 [進化心理学、生理学、対人関係学]



離婚、自死、犯罪その他の社会病理の行動決定理論を検討してきましたので、そのまとめをいたします。

1 人間の行動決定は十分意識して行われるものではない。

人間の行動決定は、社会病理に限らず、無意識に行っていることがほとんどである。行動の前に、この行動をした時に「自分がどのようなデメリットやそれに見合うメリットがあるか」ということを十分に検討しないで行動をしてしまっていることが多い。行動を開始し、あるいは行動を終了してから、自分が行動をしていたことに気が付くことが少なくない。

2 意識しない行動なのに、多くのケースで問題行動を起こさない理由

意識によって行動決定をしないにもかかわらず、人間の行動が社会秩序の範囲内の行動をしているように見える。その理由は、人間は本能的に他の人間から攻撃されたり、否定されたりせずに、人間の輪の中にとどまっていたいという本能があるということがとても大事なポイントである。脳科学者のアントニオ・ダマシオが発見した「二次の情動」というものがある。「一次の情動」とは、命や安全などにかかわる情動で、危険を覚知すると、その危険を回避しようとする行動決定を無意識のうちに脳が決定するものだ。怯え、怒り、喜び等の感情を伴う。この一次の情動と同じように、人間関係の中で自分が低評価を受ける(究極には排除される)という危険を感じると、その行動を無意識のうちに修正するのが二次の情動である。二次の情動が健全に働いていれば、人間関係の中で自分が他者から低評価を受けるような行動をするという選択肢自体が、無意識に排除される。だから、人間は十分にものを考えて行動決定をしなくても、他者から低評価をされるような行動を行わない。

十分な検討をしないため、「群の論理」に従って、群れから低評価されたり排除されたりしないように行動をしていることになる。社会心理学で論じられる「服従の心理」は、私から言わせれば群れの権威の意思決定に迎合するという「迎合の心理」である。いつも近くにいる人に親近感を覚えて、敵対しない単純接触効果も「群れの論理」で説明できると思う。

3 二次の情動、群れの論理が働かなくなる場合

このように、本来人間は、社会的評価を下げるような行為や仲間と敵対する行為は行わないはずなのに、様々な社会病理の行動を人間はしてしまう。これはどうしてなのか。どうして二次の情動が選択肢を排除してくれなかったか。

二次の情動が働かなくなる典型は、アントニオ・ダマシオが「デカルトの誤り」の中で分析していたとおり、二次の情動をつかさどる、前頭前野腹内側部が損傷したり、腫瘍で圧迫され機能しない場合だ。しかし、社会病理はこのような脳の不具合が無くても起きる。それは、既に何か別の事情で一次の情動や二次の情動が発現されてしまっているために、新たな(後発の)二次の情動が発現しにくいという事情になってしまうということだと考えている。

例えば、肉食獣から命からがら逃げようとしている場合、怖くて逃げるという情動行為がすでに発動されているために、他人の敷地に入り込むとか、敷地内のものを壊すことを厭わない状態になっている(一次の情動が既発で、二次の情動が発現できない)。あるいは、職場で無理難題を上司から言われて、それに従わなければならず、自分の評価が不合理に低いことで二次の情動が発現している場合、家庭で八つ当たりをしてしまう(二次の情動が職場の関係で発現しているために、家庭では二次の情動が発現しにくくなっている)。

これは、痛みの部位が複数ある場合もっとも痛い部分だけに痛みを感じるという「側部抑制」を応用した。もちろん、一つの情動発現が先行している場合に、必ず後発の情動が発現しないというわけではない。しかし、発現しにくくなるということはあるのではないかと考えている。

4 二次の情動が発現する事情が重複する場合、どの群れを優先するのか、優先の基準は何か

会社のことで思い悩んで自死が起きた場合、家族のことをそれほど大事に思っていなかったのかという形で問題になる。
これはどうやら違うようだ。この事例での結論を言えば、「たまたま二次の情動が職場で発現していたために、家庭に関する二次の情動が起きにくくなってしまっていた」ということにすぎないのだろうと考える。

職場で苦しんでいると、家族に苦しみを与えるようなことを思いとどまるということができなくなる理由こそ、人間の脳が複雑な社会に対応していないということを端的に表している。

5 複雑な社会とは何か

複雑な社会とは何かということを考えるにあたっては、単純な社会とは何かということを考えることが早道だと思う。単純な社会とは、①一つだけの群れに所属して生涯を全うできることと、②人間の脳が他人の個体識別が可能な人数である150人以下の人間とだけかかわりを持っている社会を言うと考える。つまり、約200万年前、人間が心を獲得したころの生活環境である。人間の脳は、このような単純な社会で、情動や感情で行動をすれば事足りるように、進化の過程で作られた。群れの権威に迎合して行動し、いつも一緒にいる仲間を大切に扱えば、それ以上の心も言葉も不要だった。この環境に合わせて脳の働きが作り上げられた。

そうすると複雑な社会とは、対立する可能性のある複数の群れに同時に所属し、150人以上の人間と関りを持つという社会環境だということになりそうだ。

6 複雑な社会環境と人間の脳(心)のミスマッチ

複雑な社会環境で起きる解決するべき問題は、人間の脳では対応が不可能な問題なのだと思う。だから、職場でのストレスを家庭に持ち込んでしまったり、見ず知らずの人の店で自分の利益を図るために万引きをしてしまったりする。仲間と調和的な関係を結ぶことができず、近しい仲間と争いごとが起きたり、仲間を食い物にして自分の利益を図ることが可能になってしまう。

逆に、職場の人間関係なんて、その他の家族という人間関係や、友人という人間関係等と比べると、それほど大事にしなくても良いはずだという考えもありうると思う。しかし、職場の人間関係で不具合が生じ、対応することができないで思い悩むと、あたかも世界中から自分は孤立しているかのような精神的ダメージを受けてしまう。200万年前の心ができた当時は、一つの群れしかなく、およそ群れから低評価を受けることや孤立することは、この世の中で孤立することを意味したため、そのように感じてしまうのだ。これが環境と脳のミスマッチの一例だ。

情動が高まってしまうと、本当に考えなければならない人間関係を大切にするための方法などということは考えようとすることさえできなくなるようだ。

7 二次の情動を阻害して社会病理の行動を選択してしまう事情

二次の情動の発現を阻害して、自死を思いとどまることができなくなったり、犯罪を実行してしまったり、離婚を決断してしまう要因はいくつかある。それは個別に検討してきた。
特に気にしなくてはならない事情の1番目は、二次の情動を高める事情だ。どこかの人間関係において、自分が低評価を受けていること、特に理不尽な低評価であり、その低評価を覆す方法が簡単ではないことが、職場での二次の情動を高めてその他の人間関係での二次の情動を出現しにくくなる事情のようだ。

事情の2番目は孤立である。1番目の事情も自分に味方がいない状態だから、広い意味での孤立かもしれない。ある一つの人間関係で孤立しているにすぎず、他の人間関係では受け入れられているとしても、受け入れられている人間関係を第一のものとして大切にして、不合理な評価をする人間関係を切り捨てることができなくなるようだ。

事情の3番目は睡眠不足だ。上の1番目の事情や2番目の事情が起こると睡眠不足にもなります。睡眠不足になると、被害意識ないし危険と感じる度合いが強くなるうえ、悲観的な発想になりやすくなるということもありそうです。ますますものを考える力が無くなるとともに、二次の情動もゆがんだ形で表れてくるようです。

すぐに全世界の人間が一つの群れのように相手を思いやって、尊重して、配慮して、助け合うということは実現不可能だと思う。

応急処置としては、家族等安心できる基本的人間関係をつくり、他の人間関係の状態がどうあっても、この基本的人間関係において安心できるという意識を徹底して意識づけを行うという対処方法が考えられる。

なぜ家族が理想化というと、そこが帰る場所であり、夕刻から朝方までの副交感神経が優位になる時間帯に一緒にいることが多く、利害が対立しずらく、永続する人間関係になりやすいという特質があるからだ。必ずしも家族がそのような形態になっているわけではないが、全世界の人間の意識づけをするよりは、はるかに対処できる方法であると考える。

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夫婦安泰、夫婦再生の一番の邪魔ものの「真面目過ぎる」という状態とその影響がわかりにくい理由 漫画「レモンハート」のある話をとっかかりに [家事]



レモンハートは、古谷三敏氏(2021年にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします)の長期連載漫画で、舞台となるバーの名前です。元々はラム酒の銘柄です。この漫画では様々なことをたくさん勉強させていただきました。

その中で、割と最近の作品でしたが、バーの客がバーのマスターに対して、「自分には恋人がいるのだけど、デートの時に必ず遅れてくる。自分は時間にルーズな人が嫌いだから、結婚せずに別れた方が良いのだろうか。」というような質問をしたのだったと思います。

私も当時は、この男性の言い分はよくわかりました。待たせる時間が長かったというのも共感のポイントだったという記憶です。

しかし、マスターは、「時間に遅れるくらいで好きな女性と別れようと考えるのはおかしい」という厳しめの意見だったので、驚いた記憶がありました。

男性についての私の共感のポイントは、「私も相手を待たせないように、相手に失礼のないように時間には必ず間に合うように行く。何なら時間より早く言って待っている。私を何度も長時間待たせるということは、私を待たせても平気だから待たせるのだ。自分が尊重されていない、軽く見られているということなのではないか。」と心を分析するとそういうことでした。

マスターの話は、「待たせるからと言って尊重していないというわけではない。むしろ、あなたに自分の印象を良くしようといろいろ準備をして迷っているということなので、あなたはそんな彼女のことや、これからのデートのシミュレーションをして幸せな時間を過ごすべきだ。」ということを割と強めに言っていたように記憶しています。

結局双方の誤解が解けてハッピーエンドになったように記憶していますが、当時の私には納得がゆかなかったことも覚えています。

2 不寛容な自分の心の分析1 自分自身に対する自分の要求度が相手に対する要求度に反映する。それ以外の選択肢が浮かばない事情。

さて、当時の自分の気持ちから分析してみようと思います。私は時間に関しては大変まじめだと思います。つまり、時間は守らなければならないものだという意識を強く持っています。時間に遅れるということは、相手に対して失礼だという思うのです。
自分に対しての決め事、真面目さというのは、多くの場合、相手にも同じ態度、真面目さや緊張感を要求しているものです。また、時間に遅れるのは、本人の態度の問題であるという意識も強くなっていたのだと思います。もう一つ言えば、自分がこんなに努力しているのに、相手は自分に対してそのような努力も緊張感もないということは不公平だ。自分だけ損をしたような気がする。
という気持ちだったため、時間を守らない相手に怒るのは、当然だと思っていたのだと思います。

ずるいとか、不公平だという意識があるようにも思われます。あくまでも相手に対等平等の関係を望むと言えば聞こえが良いかもしれません。
しかし、それは自分の価値観を相手も共有するべきだという価値観の押しつけになっているということは見逃せません。それよりも、自分の時間を守るという意識が強すぎて、時間を守らない理由は自分の問題意識と同じと勝手に考えてしまい相手を尊重していないということだけが時間に遅れる理由として浮かんできて、他の事情を推測しようという発想になれない原因となっていたと思います。特に、自分には身だしなみに気を使うという意識が低いために、漫画を読んだ当時は服を選んだり身だしなみを調えたりすることにそんなに時間がかかるということも想像ができませんでした。一言で言えば狭い料簡になってしまうということでしょう。

3 相手との盤石な信頼関係があれば、不寛容にはならないかもしれない 不寛容な自分の心の分析2

もう一つ、相手との信頼関係の強さという要素も重要だと思います。
大学時代、友達が引っ越しをするというので、手伝うことになりました。もう一引っ越す友達がレンタカーを借りて、もう一人の友人がそれを運転して、二人が集合場所で私を拾って引っ越し先に行くという手はずになっていたと思います。ところが、1時間たっても彼らは集合場所に来ませんでした。今のように携帯電話の無い時代ですから、連絡を取る方法もありません。それでもこの時は、その友達との信頼関係があったので、自分をふざけて待たせているという発想すらありませんでした。「何か事情があって遅れていたのだろう」と軽い気持ちで待っていました。「どうせその日は夜遅くまで引っ越し作業で自分のことは何もできない」という腹を決めていたという事情もあったと思います。案の定、道が不安内の上に渋滞が発生していて遅れたとのことでした。待たせている方こそが気が気ではない状態で、焦っていたようでした。「何をそんなに」と不思議に思うほど二人は恐縮していました。

大学時代の生活自体がルーズだったため、時間に厳しくするという発想が無かったということもありますが、信頼関係がありましたし、引っ越しを手伝ってあげるという立場の問題もあり、自分が尊重されていないと考える発想が浮かばなかったという事情があったと思います。

これが、デートと言う微妙な人間関係の場合は、相手は自分からどう評価されているのだろうという不安定な状態を反映して、このままうまくいかなくなるかもしれないという不安が控えているわけです。自分に対する相手の評価ということが一番の関心事になっているわけです。そうすると、時間に遅れるということもその自分に対する評価にかかわることなのかもしれないと思いがちになるのではないでしょうか。

盤石ではないカップルの場合は、相手の遅刻を気にしてしまうとことは無理が無いような気もします。

4 相手の遅刻に焦る彼氏の感情の置き換えを考える

現代の日本人は、わずかな時間でも定刻通りではないことに不安になるようです。先日裁判のために新幹線で函館まで行ってきましたが、帰りの便で確かに2分の遅れがあるだけで場内アナウンスでお詫びをしていました。私はと言えば、駅からは帰宅するだけだったので、2分くらいどうでもいいやと思いながら聞いていました。日本以外は列車が定刻通りに発着する方が珍しいようです。

仕事であっても、時間に対して几帳面すぎるのかもしれません。どうしても「時間が無い」という感覚は、進化上の理由から、到底必要のない強い緊張を招いてしまいます。実質的な不利益をはるかに超える精神的ダメージを受けてしまうようです。ましてやデートなど家族のことでは、約束の時間に遅れるということが致命的な問題になることはめったなことではないはずです。それにもかかわらず、時間に遅れたことを責めることで、相手は確実に気分を害します。これでは費用対効果で考えると随分割に合わないことになります。

遅れることでイライラしないならば、ずいぶん家族や恋人の人間関係が暖かくなるということは認めるべきだと思います。

遅れてくることに対するイライラする感情を別の選択肢に置き換えると、みんなが少し幸せになりそうです。
レモンハートのマスターが言うように、「あなたに会うことに緊張しすぎてしまって、自分の身だしなみを調えることに夢中になってしまって、時刻に間に合うことに意識を向けることができなかった。自分はそれだけ配慮されているし、自分との関係を継続したいと考えている証拠だ。」というのは、なるほど置き換えるべき感情でしょう。

「これから二人で過ごす時間をどのように楽しく過ごそうかと考える。」これも楽しくなる結果となる感情の置き換えでしょう。

わたしはそれに加えて、「チャンスタイム!」だという感情に置き換えることを提案します。
相手は時刻に遅れていることは、当然ながら知っていて恐縮しているはずです。だから、自分が遅れたことに対してあなたがどう思っているか心配でならないはずです。そこで、イライラした様子を見せないで、何事もないように、では行きましょうかとニコニコとエスコートする、相手はあなたを寛容な人だ、私を許してくれると安心することになり、あなたが安心できる人だと強く印象づくわけです。これはなかなか作られないチャンスです。ここで大事なことは表情です。イライラするのではなく歓迎するという表情を創るということです。

「なんてことはない」という態度で相手がびっくりするだろうということを想像するだけで幸せになれると思いませんか。

実はそれが信頼関係を高めるということであり、ますます相手の行動にイライラしなくなることにつながり、好循環が期待できることです。

5 その他のイライラの根元

今見たように、真面目過ぎる人が自分の大切な家族や恋人に対して、守るべきことを守らないということでイライラしたり、文句を言って相手にプレッシャーをかける要素は、実務的に見ていると職場が関係することが多くあります。

職場で上司から文句を言われたことと同じように自分より弱い人に言いたくなってしまうという人間の行動を軽く見ることはできないようです。会社の中の常識を家庭でも押し付けてしまっているということがよく見られます。

自分が現実にイライラ顔の上司から注意されたり、取引先から嫌味を言われたことなので、それは社会常識であり、守らなければならないことだという意識がどうしても出てきてしまいます。また、真面目な性格ですから、今のうちに修正しておかなければ家族が社会に出て困ることが起きてしまうということも、自分が指摘しなければならない気持ちを後押ししてしまいます。

しかし、冷静に考えれば、「本当にあなたの価値観を家族に対して押し付けることは正しいのだろうか」という疑問を持たなければならないかもしれません。特に相手の感情、思わず口走ったこと等、緊張しないで偶然発した言葉や行動に、それほど目くじら立てないほうが良いです。そうでなければ、相手はあなたと一緒にいると、いつ何時不意打ちで注意されるかわからず、常に緊張する状態になりかねません。あなたの注意の程度と頻度によっては、あなたといることが常に恐怖になってしまうことも出てくるかもしれません。


家族にイライラした場合は、簡単にそれを告げず、できれば表情も見せず、感情の置き換えを試みることが幸せな家庭生活の保障になるのかもしれません。

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宝塚歌劇団存続のために 何を調査し何をどう改善するのか [労務管理・労働環境]



1 企業はまず何を考えるべきか

宝塚歌劇団の25歳の俳優が転落死した事件(令和5年9月30日発覚)について、ネット上は様々な情報が飛び交っていましたが、大手マスコミはなかなか正面から取り上げてこなかったという印象があります。(それでも歌劇団は、外部弁護士9名による聴き取り調査を行っていたようです。)

大手マスコミにおいて、いわゆる潮目が変わったのは、11月10日に川人博弁護士が遺族側代理人として記者会見を行ってからだと思います。川人先生の実績に基づくネームバリューによってテレビでも報道されるようになり、一気に世間の関心が高まりました。その中で、11月14日に第三者委員会の報告書が提出されたことを踏まえた劇団の記者会見がありました。

第三者委員会の調査は極めて短期間であるにもかかわらず、踏み込んだ調査を行っていて、故人の死と劇団の仕事の関係を一定認めた内容になっています。さらに今後に向けた提言もなされている点も評価ができると思います。

ただ、潮目が変わった後の発表であるということと、マスコミの姿勢から、報告書には批判もなされています。

私は、報告書にケチをつけるつもりは毛頭ありません。私は法実務的には事実関係を把握していない立場であるというべきでありますから、本件の転落死が労災に該当するかどうかとか、損害賠償の対象になるかどうかについて論じるつもりは全くありません。この点については「わからない」としかいうべきではないと思っています。

私がこの記事で一緒に考えようとしているのは、主として企業の危機管理の問題です。不幸にして自死と思われる劇団員の死亡があって、その後報道とその変化の中で、「企業は何を考えて、何を調査し、何を行うべきか」という問題です。

まず何を考えるべきかということです。これは明らかだと思うのですが、なかなか徹底できません。つまり、「劇団の存続」を考えなければならないと思います。単に企業体の存続というわけではなく、宝塚歌劇という文化を継承する義務が、経営サイドにはあると思います。

宝塚歌劇を継承するために考えるべきことは、宝塚歌劇を愛する人たちが、これからも宝塚歌劇を安心してみようと考えること、それから劇団の卒業生の方々の劇団員であったことの誇りを奪わないことも必要だと思います。

宝塚歌劇のファンには多様性があります。「どんなことがあっても自分は宝塚や、俳優を守る。そのためには何でもする。」というコアなファンもいらっしゃいますが、それは私は「あり」だと思っています。そこまで熱心ではないとしても、何年に一回は舞台を観に行ったり、テレビ中継があれば予約をしても確実に観ようとしたり、卒業生が出るテレビドラマをチェックしてみようとするファンが大勢います。この多くのファンは、宝塚があるから人生が豊かになったり、人生のピンチを慰められたりして、まさに生きる糧、人生に添えられた花のような不可欠の存在として宝塚を大切にしています。

多くのファンの人たちは、テレビが報道する前から転落死の情報をつかんでいました。週刊文春が報じる前から、様々な風評も入ってきていて、とても心配をしていました。遺族側の記者会見がテレビ報道されたことによって、このようなファンの人たちは、悲観的な思いを深めてしまいました。存続の危機を感じている人も多数生まれてしまったということを先ず会社に知っていただきたいと思います。

歌劇団としては、このファンがこれからも安心して宝塚歌劇を観覧できるという安心感を提供することこそ、今考えなければならないことで、そのためのはどうしたらよいかという発想で対策に乗り出す必要があると思うのです。

何事もないように、ただ存続するのでは足りないということです。

2 検証や対策に対する、マスコミの功罪 「いじめ」の有無ということにはあまり意味が無いこと

先ほどからお話ししているように、遺族側代理人の記者会見から、宝塚の問題の世間的注目は格段に上がりました。潮目が変わったわけです。今回の第三者委員会の報告書にも発表前から注目が集まっていました。否が応でも調査をしてそれなりの報告をしなくてはならなくなるわけです。その意味では、マスコミ報道は検証と改革の後押しにもなりうるというメリットもあります。もっとも先ほど述べた通り、結構前から歌劇団は第三者委員会による調査を始めていたようです。

しかし、メリットがある一方、いじめやパワハラをめぐっての報道については二つの問題点があります。

一つは「いじめ」等の定義が人によってばらばらであり、その言葉自体では何も始まらないということです。

「いじめ」という言葉を例に説明しましょう。
この言葉は、狭い意味で使う場合、「加害者が悪意をもって行うことで、被害者に防御の方法が無い加害行為を行い、被害者を精神的に追い詰め、精神破綻を招くことや自傷行為、自死行為を行わしめる危険のある行為」ということになると思います。おそらく世間一般で、「いじめ」という言葉でイメージされるものは、こういうことが起きていたというものでしょう。

広い意味で使う場合は、「関係者から、ストレスを与えられる言動」ということになってしまいます。こんな広い意味で「いじめ」という言葉を使っているのは誰かというと、それは国の法律です。「いじめ防止対策推進法」の第2条は、「この法律において『いじめ』とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。」となっています。これはなるべき広くいじめを把握して、狭義のいじめを見逃さないようにするという目的があって広くしています。ただ、広すぎる弊害もあって、日弁連などもこの定義を批判しています。

様々な問題点がありますが、極端に言うと、いじめをしている友達を「いじめをするな」と注意しても、法律の「いじめ」に該当してしまうのです(友達の方も、いじめをしているわけではないという反論もあるかもしれません)。もちろん、そこは「常識的な判断」でいじめとは言わないとして扱うだろうと普通は思われることでしょう。でも考えてみてください。そこでいう「常識的な判断」をするのは誰だと思いますか。そこは学校の教師たちなのです。いじめか否か子どもたちがアンケートを提出して、先生がそれはいじめではないよと「常識的な判断」をして、アンケートを書き換えさせたりしているということを当の先生(管理職)から聴いたことがあります。結局、何がいじめで何がいじめではないのかは学校の判断で決めてしまうことにどうしてもなってしまうので、アンケートは意味をなさなくなってしまいます。

こういう曖昧な「いじめ」があったかなかったかということを、結果として報告することにあまり意味はないのだと思います。

もっとも第三者委員会の報告書でも、遺族の要望でも、「いじめ」という言葉は先ほどの悪意のある狭義のいじめの意味を前提にされているということでよいと思います。

しかし、ここで考慮しなくてはならないもう一つの問題こそ、マスコミの報道姿勢です。実際のいじめ防止対策推進法の事案で、発信者側が法律用語の広義のいじめの意味で使っていると何度も説明しても、新聞の紙面やテレビニュースでは、あたかも狭義のいじめの意味で大見出しを打つのです。真実はどうだったかということよりも、いじめが「あったのか、なかったのか」だけに関心を持つようです。そして、すこしでもいじめと名が付くのであれば、スキャンダラスに報道する傾向をずっとみていました。

実際にあった出来事よりも、打撃的なこと、重大なことがあったという報道をしたいようです。

だから、やるべきことは、事実を指摘してそれがいじめかどうかは読み手が判断するべきだという態度でよいと思うのです。
むしろ、行為を受けた側の立場から(本件では故人から見て)、その行為がどういう性質をもって、どう受け止めて、その結果、対処の方法があったのか、防御の方法があったのか、その苦しい状態の持続期間等を調査して報告すればよかったのだと思います。受けた側が無くなっていたとしても、合理的に考えてどういう風に感じたかという推測はできるはずです。

いずれにしても事実関係を見守っていたファンは報告書を読んである程度納得できたかもしれませんが、報告書を読まないで報道だけに接している人たちは、言語道断の極悪非道な先輩が、無抵抗の新人をいじめていたという印象を受けてしまったということは事実としてあるようです。ジャーナリストを名乗る人でさえ、とにかく狭義のいじめがあったはずだと思い込んでおり、それを少しでも否認するような報告があると、会社の意をくんでの報告書だとか、隠蔽だとか、糾弾口調になっている姿を目撃しました。マスコミなんてそんなものなのです。

3 第三者委員会の報告書

上記の観点は、第三者委員会の先生方ももちろん理解されているところだと思います。しかし、そのような報告を徹底しきれなかった事情がありました。

既にいくつかのいじめがあると報道された行為があったのかどうかという点を念頭に置かざるを得なかったということです。報告書の概要版でも比較的詳細に調査して、事実認定をして、報告されています。いじめとは断定できなかったということが結論です。しかし、報告書では、実際にヘアアイロンを額に当てられたという事実、それによって小指の先(末節指)の大きさの皮膚の変化(やけどの痕)が見られたこと、故人はやけどの痕が残るだろうかという不安があったことはきっちり認定されています。しかし、目撃者がいなかったということ、悪意があったとは断定できないこと、その後やけどの跡が消えたこと、それから宝塚ではヘアアイロンによるやけどが頻繁にあることその他、特に悪意を証明できなかったためにいじめとは断定できないというようです。
(わたしとしては、どうしてその人が髪型の指導をしたのか、自らヘアアイロンを使ったのか、その人の立場の人がそういうことを通常するものなのか、小指の末節指大のやけどの跡ができるということはどの程度の時間ヘアアイロンを額につけていたかなどについて調査した方が明確になったかなという思い付きはあります。)

企業としては、認めるべき点は認めるとしても、それが事実に反するのであれば、事実に反するということを言わざるを得ません。評価が不当だと思えば評価が不当だと言わざるを得ません。そこが、先ほど言ったマスコミのスキャンダラスな報道、怒りをあおるような報道が先行する場合は、逃げだ、隠蔽だと指摘される要因になります。立場を変えて遺族側からすればもっともな話でもあります。何せ歌劇団の中のことはわかりませんから、なかなか納得がゆかないということは当然のことです。当たり前です。
マスコミの報道姿勢の理由で、精神的負荷によって自死を選ぶ可能性を認めた報告書なのですが、その点はあまり報道されず、いじめを否定した、遺族は残念に思っているということだけが強調されているということは間違いなくあるように思われます。

4 もし再調査があるとすれば何をどう調査するのか

私が再調査をするのであればという観点でお話しします。一番は、報告書が指摘していた、上級生と下級生の関係、組ごとの独自のルールということです。これをやはりもう少し踏み込んで、宝塚文化の中の規律の作り方について検証をするべきだと思われます。とくに当該の組の中での「独自のルール」についてです。
この記事のジャンルである労務管理の場合、生産性の観点から検討します。規律によって何を実現しようとしていたのかということをまず言葉で明らかにしていく作業が必要になるはずです。
そして実際に行われていた規律を創る行為がどのようなものだったのか、それは規律によって実現しようとしていた価値の実現に結び付くのかということを真剣に考える必要があります。

個人的には、上下関係という規律については、ある程度あってよいと思います。それによって、舞台にも規律や礼がみられるところが宝塚の良いところだと個人的には思います。しかし、規律とは上に絶対服従ということではないと思うのです。過去において、特に他の組において、そんなに上が絶対ということがあったのかこの点も検証されるべきだと思います。つまり、卒業生からも事情聴取をするべきです。今回の亡くなられた方の責任という観点からは、故人の状態を知る人に限定して調査をするということには合理性があると思います。ただ、一般の大勢のファンを安心させるという観点からは、往年の状態と現在の状態の比較が不可避になると思います。100年以上続いているので、キリがありませんが、50年くらいは遡って調査をすることができると思います。トップスターがどこまで神格化されていたか、行き過ぎた感がある指導をするようになったのはいつからか、当該組の独自のルールが無ければ良き伝統、良き雰囲気、高いクオリティーが維持できないということなのかについて真摯に検証をするべきです。

労務管理の観点からすると、パワハラは百害あって一利なしだと常々思っています。一般企業ですらそうですから、そもそも高いモチベーションをもって入学をしてきた人たちに過剰な指導は本当に必要ないことではないのでしょうか。
 
不必要な厳しさは、生産性を阻害します。委縮効果が生まれて、大きな副作用が生まれてしまうのです。

また、過去において、規律づくりにある程度の共通性があったとしても、規律づくりのために高まる緊張を緩和させる方法が無かったのかということを十分に調査する必要があります。「昔はもっと厳しかったのだ」という人ほど、厳しい状況の中でほっこりするフォロー受けているものです。

だから、ある程度現役の劇団員の方と卒業生とキャッチボールをしていく必要があると思います。受け継ぐべき伝統と排除するべき伝統を明確に区別する作業が必要になるはずです。

その際、現役生は特に、発言の匿名性を確保する必要があります。調査員の外は、立ち会うべきではありません。特に歌劇団のスタッフや親会社の人、あるいは上級生のいないところで自由に話していただく環境を作る必要は絶対条件です。

5 調査の結果どう改革するべきか

将来の改革に向けて、報告書でも提言が出されています。根本的な問題であるスケジュール過多をはじめ的を射た提言がなされていると思います。ただ、目的が異なるため仕方がないことですが、私が再調査事項として掲げた事項についての具体的な言及がないために、この人間関係についての効果的な対策というものがどういうものなのかについては詳しく述べられてはいません(概要版では)。

効果のない規律、デメリットの大きな規律は、すべて排除するという改革がなされるべきです。これは報告書でも同じようなことが記載されています。そして、そのような独自のルールが生まれた由来についても調査して、根本的なところにメスを入れるべきです。組織に不可避な事情があるのか、特殊な人間関係、パーソナリティを背景とするものにすぎないのかということをはっきりさせる必要があるということです。

もし、個人に由来する問題であるとすれば、どうしてその個人に権威が集中してしまったのかについて調査分析する必要があると思います。もし個人が行き過ぎた規律を求めていて、故人がそれに苦しんでいたとするならば、それを見て見ぬふりをした人たちもいるわけです。それは、労務管理上は、見て見ぬふりをしていた人が全員共犯だと考えるよりも、どうして権威者の行為を追認してしまったのかという発想で考えることになります。人間は、集団の中で権威者が現れると、権威に従ってしまう性質があるという社会心理学的の知見に従って考えるわけです。人間は一度権威に迎合してしまうと、その権威が行う人間に対する行為も、正当化してしまって、批判的観点を持ちにくくなるようです。

苦しめられる個人は、誰からも救済されないどころか、反価値的存在だということで、なお一層苦しめられますし、絶望を抱きやすくなります。悪意の有無が決め手ではなく、悪意と受け止めたか、対策を講じることができないという絶望感を偉大かどうかということこそ考えるべきです。

このような受け手にとって深刻な影響が生じる行動は、送り手の歪んだ正義感が大いに関与しているということを見すごしてはなりません。

それから、冷静な第三者の目が必要です。精神医学的には宝塚のような劇団という職務形態ではパワハラが起こりやすく、過激になりやすいという傾向が指摘されています。典型的な職業としては、自衛隊、警察、消防署です。

これらの組織は、単位組織が一体として行動しなければ任務が果たせないばかりでなく、仲間の死に直結する過酷な現場で活動します。仲間に対する要求度が必然的に高くなるというのです。第三者からすれば、些細なことでも、仲間内では重大なことにつながります。そうすると、要求の対象としては、技術だけでなく、精神的緊張の度合いや、指示を指示通りに確実に遂行する姿勢のようなものも求めてしまいがちになります。しかし、新人には、技術が未熟であることに加え、集中するということがどういうことか実感として持てませんし、指示内容も正確に、具体的に伝達しないと伝わらないという事情もあります。これがある程度経験を積んだ人であれば、省略した言葉でも中身は伝わります。伝え方の問題で伝わらなくても、他の人には伝わるので、つい相手に責任を押し付けてしまうということが起きるようです。命にかかわることなので、イライラも講じてしまい、「あたり」もかなり強くなってしまうわけです。

宝塚は、組全員が一体として指示通りに行動しなければならないところは一緒です。しかし、死の危険があるわけではありません。それでも、おそらくそのくらいの気持ちで真剣に舞台を務めあげよういう気持ちは共通しているのだと思います。

だから、俳優たちにすべてを任せてはいけないのです。まじめに、夢中になって良い舞台を作り上げようとしていると、相手の心という複雑なものを理解したり共感したりすることができなくなってしまうのは、人間の限界として厳然と存在すると心得るべきです。自主稽古であっても、冷静な第三者の目が行き過ぎをチェックしてセーブすることが必要不可欠だと思います。これは単にセーブをするのではなく、もっと効果的な指導に置き換えるという作業に具体的にはならなくてはなりません。

その意味では、運営側の責任は大きかったということになることは間違いないことでしょう。

報告書から推測できることは、運営側が十分介入しなかったこと、介入できなかった事情があったこと、介入できないことに対する危機感が無かったことを指摘しなければならないでしょう。このあたりも、これまでの伝統に照らして調査し、検証し、対策を立てる必要があると思います。



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実務的な観点からみた残念過ぎる企業のパワーハラスメント予防研修 [労務管理・労働環境]



1 現行研修の3段階の企業側の目的

法改正などがあり、現在、パワーハラスメント等のハラスメント対策に頭を悩ませ研修などを行う企業も増えてきています。しかし、企業側も、まだ手探り状態のようで、パワハラ対策の必要性について、まだ十分に自分のものにしていないため、せっかく研修を行っても、効果が無いような研修に飛びついてしまっているようです。ご自分の研修の目的をまずしっかり考えましょう。

1)国が言うからアリバイ作りをする
2)パワハラで従業員が病気になったり自死したりして損害賠償を請求されることを防止する。含む、損害賠償報道による企業イメージの低下防止
3)パワハラによって生産性が低下することを下げて、意欲をもって仕事に取り組む従業員を増やす 含む、企業内の良好な雰囲気づくり

大きく分けるとこの3段階になると思います。
アリバイ作りをするための研修であれば、とりあえずやればよいでしょうし、できるだけ費用をかけないで行うということになることはむしろ当然かもしれません。おそらくその研修はただ時間を浪費するだけで頭に入ってくることはほとんどないでしょうし、下手をすれば自分たちの今の状態で問題が無いという楽観的な気分になってしまうかもしれません。

損害賠償事案の防止という観点は切実です。ただ、大きな視点が定まらない対症療法的な研修になるリスクは高いです。これからこの内容をお話しすることによって、3)の目的をもって研修や対策を行うことこそが、効果的に損害賠償事案を減らしたり無くしたりすることができる方法だということに気が付いていただければと思います。

2 損害賠償事案予防型のパワハラ研修の問題点

損害賠償事案予防型のパワハラ研修の問題点は、目標とするターゲットが狭すぎて、誤差が大きくなり、結局足をすくわれるというリスクがあるということです。パワハラ事案の実務をあまり知らない人が研修担当となる場合によく行われる研修内容です。

内容としては、パワハラによって従業員が自死をしてしまい、裁判によって企業に巨額な損害賠償支払い義務が認められた裁判例を説明して、その分析をして、ここまでやってはいけませんという研修が実際に行われているようです。

こう文字で書くと、気が付く人もいると思うのですが、この研修では、裁判例になるような事案の防止にしかならないです。自死しなければそれで良いという研修になってしまいます。端的に言うと、「ここまでしなければ大丈夫」という間違った知識が身についてしまう危険があります。なぜ、リスクが生まれてしまうかということを分析的に説明します。

1)裁判例で示される「事案」は裁判所が証拠によって認定された事案だけであること。

パワハラの裁判は実は簡単ではなく、パワハラの事実が証明されることはかなり難しいという高いハードルがあります。多くは上司の部下に対する言動に問題があるわけですが、その言動の存否がなかなか証明できないのです。

本当は、もっと従業員に影響を与えた言動があったとしても、それが証明できないために証明できた証拠だけがクローズアップされてしまうという危険を判決は常に持っています。だから判決だけではなかなか事案を正確に把握することが難しいというべきでしょう。

ただ、近時IT化が進み、昔は考えられなかった様々な証拠を残すことができますし、証拠に残ってしまっていたという偶然も起きやすくなっています。あの判決の時は裁判所から見て評価される証拠が提出されなかったとしても、現代では評価される証拠が提出されてしまい、裁判事例とは別の角度からパワハラの認定がなされてしまう危険があります。

2)労災認定実務に引っ張られ過ぎている可能性がある

裁判所において、従業員側が「これがパワハラの原因だ」ということで主張する事実関係は、労働災害でそれがあれば労災だと認定されやすい労災認定基準で示された事実関係を主張するものです。労災認定の行政手続きでは鉄則です。

しかし、この労災認定基準も完璧なものではなく、労災と私病を区別するという目的があって作られているもので、従業員側に何らかの要因(弱さ)があると言える場合には、私病に寄せて扱われる可能性を孕んでいます。
つまり、労働災害か否かの判断は、
ストレス過重であればあるほど労災になり
従業員がもともと弱ければ弱い程労災にならない
という相関関係があるということになります。

しかし、実際の損害賠償請求事案では、損害賠償請求を先行させる場合もあります。必ずしも、この相関関係に当てはめずに判断が先行することがあります。また、ストレス要因であるパワハラの存在と内容が、例えば週刊誌の報道が先行し、世間に知られてしまった後では、今さら従業員に弱いところがあったなどという反論がなかなかしづらくなるわけです。

提訴会見などが広く報道されてしまうと、その何年後かに裁判で勝ったとしても、世間に定着した悪いイメージを払しょくすることは簡単ではありません。判決が出た時は既に廃業しているという可能性もあるわけです。

私が企業から相談を受けるときは、この一般顧客(世間)からのイメージや取引先との関係も考慮に入れて解決策を考えるのですが、最近は裁判に勝つ要素があると、裁判でさえもそれですべてが決まるわけでもないのに企業活動の利益を考えないで裁判に突き進む方針が立てられる場合もあります。

しかし、裁判の結論というのは判で押したものが用意されているわけではなく、色々な事情が絡んで先行きが見えないことが通常です。特に裁判官の個性というものが案外影響を与える場合が多く、この証拠があれば絶対勝てるとはなかなか言いづらいということが実情ではないでしょうか。

判決事案は氷山の一角であり、事実を正確に反映しているとは限らないので、あまりその判決の論理だけを参考にするべきではありません。

3)死ななければよいというものではないこと

裁判で現れた事案は、不幸にも自死が起きた事案が中心です。闘病中であるようなケースは、なかなか裁判になりにくいし、従業員の勝訴判決もそれほど大きな損害額が認定されているわけでも無いようです。しかし、近時、この点は改められてきています。うつ病についての研究が進み、損害のプレゼンが進化しているという事情もあると思います。

また、生死の分かれ目というのは、それほどはっきりしているわけではなく、そこに偶然的な事情で大きく結論が異なるということは、よく見ています。死なない事案と死ぬ事案というのは、区別はつきません。裁判例で、「死ぬほどの事案ではなかった」と仮に判断されたとしても、同じような事案でも亡くなる人が現実に出てくるということは大いにありうることです。それでは、企業の損害を予防できるとは言いえないわけです・

パワハラ予防は、もっとゾーンを広げて予防しなければ、ならないと思います。前に大丈夫だったということを過信すると、最悪のケースになることがあっても不思議ではありません。

4 国のパワハラ指針が、実務的には難解である理由

もちろん国のパワハラ指針でどのようなことを言っているのかを知っておくことは必要です。しかし、パワハラはいろいろな要素が組み合わされて大きなストレスになるものです。例えばベテラン従業員にそれをやった場合と、新人従業員にそれをやった時では、受け取る言葉の意味は全く違ってしまいます。

国のパワハラ指針は、その性格上やむを得ないとも思われるのですが、その他の環境を考慮に入れないで、こういう言葉を使ってはダメだ等の例示が列挙されています。これ自体が裁判例を参考にして作られているようで、その意味することも難解です。人によって解釈が変わることもありうることだと思います。

大事なことは防止するゾーンを広げて、確実にパワハラ及びパワハラによるストレス過剰による様々な負の効果を防止するということがきちんと目的とされているかどうかということです。パワハラ的言動をしないことが既得権益の侵害みたいにぎりぎりのところを攻めてはだめなのです。

研修会では、慎重な解釈をあえて提示するという姿勢が必要だと思います。

5 パワハラ予防は企業の伝達効率などを阻害するか

パワハラとは何か、パワハラがなぜストレスになるのか、なぜ予防しなければならないのかということをきちっと理解した講師でなければ、「企業伝達などの効率性がパワハラによって阻害される」などと考えて、予防対策を手加減しても良いように話してしまう場合があります。

仕事で行っている場合には、クライアント受けが良い方が良いと考えてしまうのはありうることかもしれません。

しかし、パワハラがどうして起きるのかということを見ていくと、伝達技術が未熟である場合もあるのですが、伝達環境を整備していない場合が多いように思われます。他人を動かす場合、時間もかかりますし、コストもかかるわけです。これを無かったことにしようと無理を通そうとする場合にパワハラが起きてしまう場合が多いのです。むしろ個別にパワハラと指摘された行為を点検して、改善するためにどうしたらよいかということを考えた場合、
1)そもそも伝達しなくても良いことを伝達しようとしていないか
2)伝達する場合の方法は適切か、どうあがいたって伝達情報が伝わらない方法で伝達しようとしていないか
3)伝達対象にふさわしい伝達方法になっていたか
という点検をする必要があり、それを点検すれば、パワハラをすることがいかに企業にとって非効率的なことをしている場合が多いことかよくわかると思います。

真のパワハラ予防は、企業活動の効率化につながるということはこういうことも含んでいます。

6 パワハラをする人間像の誤解

一部ではパワハラをするというのは、人格性パーソナリティ障害の人間であり、あるいは他人の心を感じられないサイコパスのような人だという誤解があります。もっともそう思いたくなる事案が多く、そのような事案では従業員は多大なストレスを受けてしまいます。

しかし、現実には、真面目過ぎる、責任感が強すぎるという上司が、十分時間を取らずにコーチングをして失敗しているケースも多くあります。一度上司に対する信頼関係が無くなると、周囲もパワハラ上司だと認識をしだしてしまい、本来ならば指導の仕方を覚えれば済む話も、どんどんパワハラの沼に落ちていくということが多いのです。

あまりにも人道的に問題がある上司であれば、改善を促して改善されなければそれなりの処分をしなくてはなりません。しかし、実際は上司の言い分はわかるということが多いようです。「言い分がわかっても改めなければならない」、これが多くの企業で行うべきパワハラ研修のはずです。

7 効果的なパワハラ防止策、パワハラ研修

ここで最悪なことは、「上司として部下の人権を尊重しましょう」ということで終わってしまう研修です。何が最悪かというと、人権という言葉は一義的に意味のある言葉ではなく、行動指針とはなりえないからです。結局何も変わりません。

なぜ、パワハラを行ってしまうかという理由を明確にして、理由を常に意識させて、同じような事態になる時に、先ずパワハラをしない方法を考えるという癖がつけばかなり上出来です。しかし、これも、実務的に、常に意識し続けるという作業ができるかについては、かなり難しいことだと自覚をする必要があります。

中間管理職の上司が自分の行動を改めるということには限界があることを十分に意識する必要があります。会社に対する責任感を無くせとか、ちゃらんぽらんに仕事を考えろと言えるはずもありません。

現実的で効果的な方法は、パワハラ上司の上司のコーチング技術を向上させることです。

つまり、自分ひとりではなかなか行動を改めるということができないために、補助者の協力を得るということです。

「それはパワハラだ」と叱責するだけでは、相手も構えてしまい、逆にストレスでつぶれてしまうことも心配しなければなりません。評価や査定が低くなることも心配になってしまい、結局、統制力や指導力のない上司が出来上がってしまいます。

やるべきことは「置き換え」のアドバイスが一つです。

これも部下の前で上司のメンツをいたずらにつぶすようなことがあっては困ります。上司の上司は自分の役割を見せつけたいためにパワハラを起こしやすいという実例も多くあります。

いくつか方法があります。

部下の指導に参加するタイプ
部下には中間管理職の言いたいこと、目的などを説明し、改めてあるべき指導をする
中間管理職には介入してしまうことを謝罪しながら、部下に対してフォローをする。
後で改めて、どうすればよかったかということをミーティングする
パワハラの問題を作業効率、効果的な指導の問題としていくことで中間管理職を安心させるということも意識しなくてはなりません。

中間管理職とその上司の信頼関係が効果を左右すると言っても過言ではありません。この信頼関係が絶大であれば、個別に部下対応、中間管理職対応を迅速に行って指導方法の置き換えが可能となります。



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連れ去り別居。離婚調停への対応についての現実の夫の行ってしまいがちな行動行動決定の傾向と、家族再生を目標とする場合に行うべきこと [家事]



私のところには、妻に子どもを連れ去られた上に、妻から離婚請求をされているけれど、それでもまた以前のように家族仲良く暮らしたいという人が多くいらっしゃいます。簡単ではありませんが、少しずつ、家族再生に成功した事例も増えてきています。また、家族再生には至らなかったけれど、子どもとの面会が定期的に行われるようになったという実績はそれ以上に増えています。

しかし、世の中では、家族再生どころか子どもとも会うことができず、養育費だけを支払っているような状態になっている男性もいらっしゃいます。大事なことは、自分に責任もないのに父親に会えない子どもたちが日々増えているということです。

どこに違いがあるのでしょうか。もちろん、条件面として、妻の夫に対する拒否の度合いの違いはあります。もちろん、家裁実務の問題もあるでしょう。妻の状態、家裁手続きの対応が結論を動かす要素であることは間違いありません。

だけどもう一つの要素として夫の対応というものがあります。ここは夫が「意識をして取り組めば」できることなので、夫側がやるべきことであることは間違いありません。

何をするのか。

答えはもうはっきりしています。妻を安心させることです。妻が夫と一緒にいることに安心できるようにすること。今さらだけど帰ってきても大丈夫だと思うこと。これまでの成功例からすると、妻を安心させるための行為を徹底することが不動の王道であることは間違いないと思います。

妻の精神状態がどうあれ、調停委員や相手方代理人がどう対応しようと、夫はあらゆる方法を総動員して、妻を心配させない存在であることを妻に実感させること、これだけです。

ところがせっかくのチャンスでの調停での陳述書作成や証拠提出において、逆方向の活動をしている人たちがほとんどなのです。

もちろん、「もう家族再生なんて目指さない。不当な損害を受けることだけを回避できれば、一人で生きていく。」という強い決意がある人ならば良いのですが、夫婦再生を目指しているはずの人も、逆方向の活動をしてしまうのです。妻を怒らせ、不安にさせて、自分から遠ざけているということが実情です。

単純な結論である「妻を安心させる活動」を貫くということはとても難しいことだからです。

人間は、目標を定めて、それに向かって効果がある行動を行い、効果が無い行動や逆方向に向かう行動をしないという単純な動物ではないということなのだと思います。意識的に自分のやるべきことを検討して、その派生問題まで考慮して行動を決定していないという言い方もできると思います。

現場では、私からしてもそりゃあそうだろうという気持ちになることも間違いありません。全く事実として成り立つことのない主張が正々堂々となされていますし、誰の作文なのかわかりませんが、事実に反して下品で醜悪な行為を自分がしていると言われたり、何よりも大切に思って大事にしてきた妻に対して自分が暴力をふるったり、呼びつけにしたり、それ以上の侮辱をしているという虚偽の主張をされてしまうと、「そんなことはしていない。」ということをムキになって反論したくなることは当然です。第三者の私が読んだって、うっかりそんな気持ちになることも多いです。

その結果、言われた夫は、気に障った箇所についてだけ重点的に反論をしてしまったり、相手に対して人格を非難するような反論内容になったり、大事なところをきちんと説明するのを忘れて致命的な失敗をしたりという訴訟技術的な問題も起こしてしまいます。妻側の意図にまんまと引っかかるわけです。

しかし何よりも最大のデメリットは、相手を怖がらせる、不安にさせる、こちらに対してますます安心できなくなるということにあります。

企業秘密に触れない範囲で説明しますと、家族再生を目指す離婚調停をする場合にお勧めする弁護士は、あなたの怒りを理解しつつもそれに従わず、家族再生の目標を堅持して書面を書いたりして対応をする弁護士です。こういう人と一緒に手続きを行うことが有効です。

威勢がよく、相手が犯罪者であるかのように(まあ連れ去りについては講学上は見解を持っていますが)決めつけて、少しの誤りも許さず完膚なきまでに叩きのめす対応をする弁護士は、連れ去りをされたような理不尽な思いをしている人にとっては確かに救いだと思います。家族再生を目指さないならばそれでも良いかもしれません。

しかし、家族再生を目指す場合はそれでは逆方向に向かってしまいます。

但し、事実と違うところは事実と違うということを明確に指摘する必要がありますし、評価が偏っているところも明確にこちら側の評価を主張する必要があることも間違いありません。だから、離婚事件は難しいし、家族再生を目指しながらだとさらに難しくなるわけです。相手の主張を否定しながらも、相手を怒らせないというところが、弁護士の腕の見せ所ということなのです。

要するに怒りの反応で行動決定してしまうと、本当に望むことの逆方向に行ってしまうということを抑える必要があります。第三者を近くにおいて、感情による行動をストップして、目指すゴールに向かっていくということが必要になります。

もう一つ、攻撃的手段を選択したくなる「現代的な理由」があるようです。インターネットでの離婚手続きに関する情報サイトには、戦闘的な裁判手続きを紹介するサイトが結構あるようです。中には、「そんな方法最初から取ったらまとまる案件もまとまらなくなるし、認められるわけがない。お金と時間だけを浪費して逆効果にしかならない。」という方法について、「これをしなくてはならない」と紹介しているサイトもあるようです。「ネットではこう言っているのですが」と紹介してくださる依頼者もたくさんいらっしゃいます。どうも不安をあおる効果もあるようです。

ある程度ちゃんとした当事者の方々が運営しているサイトであれば、私の方で大筋は把握できるので、その真意などについて説明できるし、メリットデメリットを紹介して、ご自分の最終目標との関係で選択してもらえますので問題にはなりません。しかし、中には商業的な意図を持っているのではないかという疑わしいサイトもあり、きちんと信頼できる弁護士に依頼できたならば、その弁護士を信頼した方が良いと思っています。また、弁護士は、メリットデメリットや、実務的な実現可能性についても的確な見通しをお話しできなければなりません。

私の依頼者の方への提案は、一度本当の目標に立ち返ってから考えるという作業をしないと、すんなりと気持ちに収まらないことも多いです。せっかく家族再生という目標がありながら、逆方向に行こうとする場合、それを考えた上で行うならば良いのですが、感情に任せて行動決定する場合、どうしても思い直してもらうことに必死になってしまうことがあります。高圧的だとか言われたこともありますが、そういう事情なので勘弁していただければ幸いです。

一番うまくいった例も、その時は離婚という結論になってしまったのですが、面会交流がかなりうまくゆき、すぐに宿泊付きの面会交流になり、夫の家にお泊りになり、やがて子どもが父親の元から学校に通う問い話になったと思ったら再婚していたという事例があります。

離婚手続きの間、早急に態度を決めなければならないことも多く、感情的に態度を決めるのではなく、目標から考えるとここはこうした方が良いということをかなり細かく打ち合わせしなければならない事案でした。何せ、その時は再婚の保証もないのに、離婚や、子どもたちと別れての生活を選択しなければならなかったのですから、それに至るさまざまな過程で当事者の意図しないことが多く、こうすべきだという私の提案には反発を繰り返したり、自暴自棄になるような発言を繰り返したり、大変疲れました。おそらくその依頼者も同じく疲れたし、理不尽な思いをしたことだと思います。

でも、離婚後にもたびたび連絡をしてくれて、面会交流がきちんと実施されたとか、子どもの体調を理由に面会交流を中止にされ、かなり疑わしい事情があったけれど、私から言われた通り、「それは仕方がない。一人で看病させて申し訳ありません。この次を楽しみにしています。」と言ったら、とても感謝されて、今度はホテルを取って子どもたちと宿泊することになった。もちろん、相手に感謝をがっちり伝えました。その後も、今度は私の家に子どもたちが止まることになったとか、いつもいつも嬉しくなるような報告をいただいています。私の弁護士として生きる支えになってくれている人の一人です。

理屈はわかっているのですが、このように絵に描いたように成功した事例でも、そこに至る道筋は簡単ではありませんでした。とにかく、ひたすら相手を安心させるということに徹したことができたという素晴らしい精神力の賜物だと素直に感じました。よりを戻した奥さんも尊敬できますが、この人も心の底から尊敬していますし、弁護士としても感謝しています。

やることは明確だ。しかしそれをやりきることはとても難しいことだ。しかし、それをやりきることができれば、必ず然るべき場所まで到達できる。そう確信できる事例が少しずつ増えています。

お金と時間を使った挙句に逆効果になることだけは無くなってほしいと思います。

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