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怒りと軽蔑からは何も生まれない。仏教とキリスト教に学ぶ。自分のブログで気づく? [閑話休題]

1週間くらい前、地元の河北新報という新聞の県内版に
仙台に仏教界の偉い人が来て、(確かインドだかスリランカの方)
怒りからは何も生まれない、相手に怒る前に
先ず自分のこととして考えるといい
とかという記事が載っていました。

その時は、ああ、いい話だなあ、
確かに夫婦喧嘩は、子供を委縮させるし、
先ず自分のことと考えた方がいいと
3日くらいは、我慢しました。

(いや、今我慢していないということを言いたいのではなく)

児童虐待を批難しているだけでは児童虐待はなくならない
ということを書きましたが、
書いて、2,3日後に、ああそういうことかと
仏教の偉い人の話を思い出して、
大きな話だったと、改めて感心しなおしたのです。

まぜっかえして何なのですが、
あれは、児童虐待に対するコメンテーターの
コメントに対する怒りから始まったのでした。
まあ、始まりはいいだろうな。

それに、おそらく、あんなこと書いても、
盛り上げコメンテーターは無くならないから、
そういう側面では、何も生まれないというのも真実なのでしょう。

もうひとつ、このことを考え始めて、
どうしても頭から離れなくなったのは、
聖書の一説です。私が聖書で一番好きな一説です。
ヨハネによる福音書第8章3節-11節だと思うのですが、

姦淫した女に対して、モーゼの律法に基づいて、
石打ちの刑をしていた時、
誰だかが、イエスにあなたならどうすると尋ねたそうで、
イエスは、しゃがんで
地面に指で何かを書くようなしぐさをしていたようです。
そして、
我が身を振り返って、罪なき者だけが石をぶつけるといい
と言ったそうです。
一人減り、二人減り、やがてだれもいなくなったと
私の記憶ではそういう記述だったと思います。

宗教的には、いろいろと解釈の必要な部分らしいです。
そのような観点からは叱られるかもしれませんが、
単純に聖書を読んでいて、
イエスはどう答えるのだろう、どう解決するのだろうと
夢中に読み進めた記憶があり、
地面に字を書くようなことをしていたイエスにもどかしさを覚え、
そして、解決に感動した記憶があります。
この感動は、単純な衝撃ではなく、
なるほど、ああなるほど、なるほどねえと
そういうものでした。

これまでの人生、何回かふと、このお話しを思い出すのです。

このエピソードは、私にはイエスに人間的魅力を感じる場面であります。

今回、石を投げていた人たちが、誰も残らなかったということに
そんなところに、新たに感心しました。
2000年たった現代では、
おそらく投げ続ける人もいるのではないかとか思うわけです。

最近のNHKニュースなんかも、
オープニングの不必要なあおりのナレーターが鼻につき
見ないようになりましたが、
マスコミは、どうも、報道姿勢に
聴衆の怒りとか、軽蔑とかそういう感情をあおる
報道の仕方、特に見出しですね、を感じてならないのです。

まるで、今の苦しい生活を
他人に怒りをぶつけてストレスの解消をさせてあげます
とでもいうように思えてならないのです。

理性的な社会的問題の解決を
妨害しているように思われます。






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