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被疑者・被告人とのコミュニケーション 弁護士が人を裁くような振る舞いをしてはならない理由 [刑事事件]



控訴審の弁護をしていると、原審の弁護士の評判を被告人から聞かされます。また、前科のある人であるならば、前の弁護士の話がされることがあります。

最近その話の中で気になっていることがあります。自分の弁護人からつっけんどんな対応された、自分の話をよく聞いてくれない、話を信用してもらえなかった。話をさえぎられてばかりだった。弁護人が怖かったというのです。

どうしてそういうことになるのか、いろいろな場面を目撃していたり、発言内容を総合すると
どうやら、弁護士が

犯罪者が怖い、犯罪者が許せない

という気持ちで接していたようです。そして、接見室の仕切りの向こう側の人は、「自分の仲間ではない」という意識になっているようなのです。

これは人間としては当たり前のことなのだろうと思います。仕切り窓の向こう側の人は、人を殺した人であったり、覚せい剤を自分の体に打ち込んだ人であったりするわけです。忌み嫌う感覚を持つことは健全な人間であれば当たり前のことなのだろうと思います。

しかし、弁護士という職務を遂行するためには、当たり前の人間の感覚でいてはだめなのだと思います。弁護士は極めて特殊の立場の人間の仕事であり、当たり前の人間の立場ではなく、不自然な感覚で遂行する職務のプロなのだと思います。

弁護人の活動で一般の方に勘違いされやすいのは、被告人をかばって、少しでも刑を軽くして、あわよくば無罪にすることが弁護士の仕事だという風に思われることです。

私の感覚では、適正な刑となるように努力するという仕事だと思っています。適正な刑罰にするためには、有利な部分も不利な部分も被告人に身近な立場から情報を取得する必要があります。また、可能であれば被害弁償をしたり、監督者を確保したりして、再びその人が犯罪をしないように働きかけることが大事だと思っています。自分が弁護人になったことで、二度と犯罪を起こさせない。せめて他の弁護人よりは、生涯の犯罪を最小限にしようという気持ちでやっています。

有利な点も不利な点も情報を聞き出す観点からは、被疑者・被告人が、自分たち犯罪をしない人とは異世界のグループの人だという感覚を持つことは、致命的にマイナスに働いてしまいます。なぜなら、「その人はそういう人だから犯罪をしたのだ。」ということで思考停止してしまい、それ以上の情報収集をしなくなってしまうからです。

私は、育った環境なのか、交友関係なのか理由はよくわからないのですが、被疑者、被告人の顔を見てしまうと、自分と同じ地面を歩んでいる同じ人間であり、犯罪をしたのは、何か事情があるはずだと、その人の人となりにまつわることについて興味を持ってしまいます。自分がこの犯罪をしてしまうとしたら、どういう事情があるだろうということを考えて話を聞いているのです。

少なくとも弁護士は人を裁く立場ではないということを肝に銘じてほしいです。どんな非道な事件を犯した人であったとしても、攻撃をしたり、さげすんだりするのは論外だと思います。その人が二度と犯罪をしないための方法を一緒に考えて、どうしたらそれが実現するかの方法を編み出していくパートナーであり、仲間である、そういう当たり前の人間からすれば不自然なふるまいをしなければならないという職業的立場なのだということです。

刑事裁判制度の中の弁護人の位置づけはそういうことだと思います。

近代以前の刑事法であったとしても、犯罪に対する刑罰は人間の自然な感覚では過酷になりすぎるということから、無制約に刑罰を貸すのではなく一定の制限を作って過酷にならないようにしなくてはならないという思想がありました。紀元前1700年代に成立したハムラビ法典(目には目を歯には歯を)も、被害以上の刑罰を科さないという刑罰に対する制約が定められています。

法律で刑罰を定めなければ刑罰を科すことはできないという罪刑法定主義も刑罰の制約です。

そして弁護人を付けるということは、冤罪を作らないためでもありますが、被告人を裁く立場の人間だけの裁判手続きになると被告人に有利な事情を見落としてしまうということや、味方が無く裁かれることが人間の尊厳を害するという観点から定められました。冤罪防止だけで論じてしまうことは近代刑法を理解していないことであると思うのです。

特に近代刑法は、このような公明正大でフェアな手続きをするからこそ、国民も納得できるし、被告人も納得して刑に服すことができるという近代民主主義、近代合理性の思想が反映しているわけです。

だから弁護人が裁く側に回ったら、それは刑事訴訟法が予定した弁護人とは言えないと私は思うわけです。

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私の刑事控訴趣意書作成の方法【法律実務家向け】 [刑事事件]



調子に乗って今日も刑事控訴の弁護について語ろうとしているわけですが、長年意識的に控訴事件に取り組んでいたこともあって原判決破棄の件数もそれなりに増えてきましたし、破棄率も結構高い方なのではないかと思っています。

それでも、これが正解というような自信があるわけではありません。この拙文は、ひょんなことから控訴審弁護を担当することになった人が、どこから手を付ければよいか迷ったとき参考になればいいなという程度で書いています。

一言で言ってしまうと、構成要件、違法性、責任、その他情状という順番で検討していくというオーソドックスな弁護方針です。

控訴審と第1審と違うのは、第1審は何が実質的な争点で、どこに力点を入れればよいかわかりにくく、暗中模索でやっているというところがありますが、控訴審は、原判決がありますので、争点がわかりやすくなっているというところがあります。このため、第1審で主張していなかったことを主張することができますし、判決の論理に難があるところが読めばわかりますから指摘しやすくなっています。だから、第1審が破棄されて控訴審で減刑されても、それは弁護士の力量の問題ではなく、構造的な問題であるということを理解する必要があります。そして、同時にここに控訴審弁護のコツがあると私は思っています。

1 構成要件(実行行為性)
  例えば人を傷つけて死亡はしなかったとき、それが殺人未遂になるのか傷害罪になるのかということは被告人をはじめとして大きな関心事です。殺意はなかったという主張を頑張ることがあります。刑法の故意は、認識認容説で、少なくとも司法試験が終わるまではみんなこれでものを考えるのです。つまり、殺そうという意欲や動機が無くても、人が死ぬかもしれない危険のある行為を、それと知ってあえて行えば、殺人罪の実行行為があり、死ななければ殺人未遂になる。ところが、殺すつもりはなかったという被告人の意見を重視しすぎてしまい、無理筋の主張をしていくことをよく見かけます。確かに殺人という言葉のインパクトが大きいから、殺人の実行行為を認めたくはないのですが、そんな思惑とは別に判決が出てしまうのですから、被告人とよく話し合って被告人に不利にならないようにするべきです。
  それから実行行為性の有無を丹念に検討するべき場合は、原審が裁判員裁判の場合です。裁判員という一般の方は、リアルな殺人を見聞したことは無いわけですから、死体の写真や傷口の写真を見たり、ご遺族の無念さを聞くと、極刑がふさわしいと感じるものです。つい、重罪にすることばかりに神経を取られてしまい、無茶な実行行為の認定をしてしまうことがあるように感じるときがあります。論理的に成り立たない認定だという主張は、特にそれによって情状が変わってくる場合は、それを丁寧に論じれば、控訴審は結構受け入れてくれるように思われます。
  但し、相手の論理性に難をつける場合に、こちらが論理性に難がある主張をしてもあまり説得力はありません。わたしは、論じたりないことをおそれて、くどくなることを恐れないで論述し、論理に飛躍が無いようにしています。
  正犯として起訴されている場合でも、共犯の構成要件しかないのではないかということも構成要件の話として重要かもしれません。私の修習生時代に初めて起案した弁論要旨で、これを主張したところ、求刑からかなり低い宣告刑となり、被告人が満面の笑顔で一生懸命務めてきますとあいさつされたことを今でも覚えています。
2 違法性
  違法性の主張で落としがちなのは、中止未遂、自首という必要的減刑やそれらと同列に扱われるべき被告人の行為についてです。中止未遂が特に落としがちになるのですが、それは殺人の故意の否定がある時です。これを無理に傷害罪だと主張してしまうと、傷害が発生している以上未遂という観点はないので、中止未遂の主張を落としてしまうのです。殺人を認めて中止未遂を主張することによってはじめて、必要的減刑がなされ、原判決の量刑が重すぎるということになるわけです。但し、傷害罪でも傷の手当てをしたとかいう事情があれば、たとえ中止犯が成立しなくても、中止犯の規定に引き付けて情状として主張すれば効果的な主張になるはずです。自首も法要件を厳格に解さないで、自首に至る事情を情状として述べていくことは必須だと思います。
3 責任
  可罰的違法性論は、責任論ないし情状として述べるとよいと思います。確かに構成要件に該当するけれども、構成要件が予定したような実質的な違法性がある行為とは言えないという形での主張です。真正面から違法性で論じても裁判所は受け入れないと思います。但し、一厘事件のような場合は、むしろ構成要件論として主張するべきなのかなと思っています。
  限定責任能力の主張は控訴審では受け入れられにくいと感じています。限定責任能力は、できれば起訴前に主張することが一番効果的だと思っています。
4 その他の情状
1) 反省
控訴審の主張は刑事訴訟法で制限されていますが、原審結審後の反省は、思いっきり主張するべきだと思います。本来は判決までの事情なのですが、わりと結審後の反省の被告人質問は、控訴審の事実取り調べとして採用してもらえますし、質問制限がされるということもありません。但し、再犯の可能性を無くすことを示す反省をしなければなりません。
原審の公判記録を見ると、かなりいい加減な反省をしているように書かれています。心が弱かったとか、人に流されてしまったとか、二度とやらないとか、そういう反省をしていなくても言葉にできることが記載されています。実際はどうだったかはわかりません。でも記録にあることが全てなので、実のある反省をすることが結構有効です。私は公判記録のいい加減な反省の記録があると、張り切ってしまいます。
2) 社会の責任
これは、私の修習生時代ですから、30年以上前の話ですが、私は刑事弁護を太田幸作先生のご指導をいただきました。また、別の年配の先生の弁論を聞いても勉強になったのですが、犯罪をその被告人だけの責任なのかという観点を強調されるのです。確かに事件は社会の中で起きるのですが、どうしても被告人と被害者の関係だけが思考のフレームの中に入ってくるように思われます。しかし、もし社会に問題があり、その結果犯罪が起きたのであれば、被告人だけがその責任を負うのではなく、社会も責任を分担するべきだという主張です。
今年、私が担当した控訴事件で、原判決が無期懲役の宣告刑だったのが、控訴審で懲役30年に減刑された事件がありました。貧困、多重債務に陥った被告人が強盗に入った事案です。我々弁護士は、多重債務の場合は、債務整理や自己破産をすればよいという頭がありますが、これ、結構知られていないようです。これは社会がもっとこのような制度を知らしめなければならないし、特に我々司法に携わる者が制度の普及啓発をしなくてはならないことだと思います。もし、このような制度があることを知っていて、さらに法テラスなどで安価な費用で専門家に依頼できるということを知っていれば、強盗などは起きなかったはずです。
このようなことも触れたところ、裁判官に興味を持ってもらい、被告人質問で聞くように言ってもらいました。破棄理由にはならなかったようですが(上場としての実行行為性の主張を受け入れていただき、破棄理由となりました)、量刑には影響があったと思いますし、主張するべき観点なのだと思いました。
3) 情状証人
この点も破棄減刑の事件で思い出のある活動です。原審弁護人がさぼったわけではなく、いろいろ事情があって、被害者件監督者とは連絡が取れず原審では情状証人はいませんでした。
被告人と被害者は親族でして、被告人の自死行為に巻き込まれて傷害を負った事件で、罪名は殺人未遂でした。殺すつもりはもちろんないのですが、その行為をしたら親族も死ぬ危険があるということは事実で、しかし被告人の精神状態からそこまで意識できなく行為をした事案でした。判決では、中止未遂と情状を理由にかなり減刑になり、弁護士会職員の方が驚いていたことを覚えています。
記録を見ていて、別の親族の方の連絡先が分かりましたので、思い切って連絡してみたところ、被害者とされた親族の方も裁判の様子を知りたがっていたことが判明し、被害者が被告人に面会に行き、殺人罪という罪名だけどその人を殺そうとした意図はなかったこともわかり、とんとん拍子に情状証人となってもらい、身元引受人になり監督を誓ってくれました。これはラッキーでした。
5 控訴人弁護人になって初めにすること
  これも私のこだわりとしか言いようがないのですが、原判決を読む程度で先ず被告人に会いに行きます。一番大事なことは、なぜ控訴したかということを尋ねることです。量刑が重すぎるので軽くしてほしいというのか、判決の認定のここが納得いかないというのか、反省をしてみたので控訴審の裁判官に聞いてほしいと言うのか、ここを見極めなくてはなりません。良かれと思ってやった活動がピントがずれていたら弁護をする意味が無いかもしれません。
  記録などを読まないうちにこれを聞いて、その観点から記録を読むようにしています。


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刑事控訴事件で異例の展開 裁判所が検察に対して文書での答弁を求める [刑事事件]



今やっている控訴事件で、殺人、殺人未遂、現住建造物放火、詐欺等、10件の事件で有罪になり懲役30年を言い渡された事件があります。詐欺事件は認めていますが、それ以外の殺人や放火は否認している事件です。否認事件のため記録も膨大で読みこなすまでに2か月以上かかりました。

期限ぎりぎりになり、ようやく控訴理由書が完成し、提出を終えたところです。そうしたら、情報提供があり、裁判官が、検察に対して、答弁書の提出を求めたとのことでした。

通常控訴審は、検察官は答弁書を提出せずに、公判において口頭で「弁護人の控訴理由は理由が無く、棄却されるべきと思慮します。」と判で押したような発言をして終わりのケースがほとんどでした。

そういった場合でも、原判決破棄、高裁の判断で減刑というケースは何件もありました。私は結構控訴審の弁護を切れ目なくやっています。刑事控訴の弁護活動はコツみたいなものがあって、かなり件数をこなしているうちに自然と身についたというところはあるかもしれません。しかし、控訴審で無罪を主張することは少なく、情状や法律上の減刑事由があるというような主張がほとんどでした。

今回42頁の理由書を作成し、詐欺以外は無罪主張を展開しました。考えてみれば、控訴審での無罪主張で、しかもこれだけ重罪の被告事件が連なっているケースは確かにレアケースだったかもしれません。

だからといって、必ずしも本件で一部無罪の判決となるのかどうかはわかりません。ただ、私の控訴趣意書が、もしかしたら原判決を破棄して一部無罪となる可能性があると裁判所に受け止めていただいたことは間違いのないことです。

なぜ、原審を担当もしていない弁護士が、そのような書面をかけたのかについては、ひとつだけお話しできることがあります。それは現場に行ったということです。現場に行けば、明らかに判決の言い方がおかしいということがいくつかありました。また、証明できていない事項や、現場の様子から見るとありえないことが認定されているということを感じることができたのです。弁護のヒント、発想がどんどん出てくるのです。

この事件は国選弁護事件ですから、これらの現地調査は、他の仕事を入れないで時間を確保して、かつ、費用は自腹になる可能性があります。無罪になったところで、総額で私の私選弁護の着手金より低い金額しか望めません。経済的には割の合わない仕事です。しかし、刑事弁護をしないと、いわゆる弁護士らしい発想や行動ができなくなるということで頑張るべきだと思っています。

現場を大切にした結果、それなりに尊重される控訴理由書をかけたのだと思いましたので、ご報告まで。

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不起訴処分を被疑者に通知するべきではないか。 [刑事事件]



とある刑事事件を起こした人から依頼を受けました。ちょっとしたアクシデントで、他人に傷害を負わせてしまったというのです。どこの事務所で相談しても、罰金刑はまぬかれませんということでした。その上、提示された着手金がべらぼうに高いのです。

これまで、いろいろな刑事事件で示談をして、不起訴処分となった経験からすると、適切な金額で示談をすれば不起訴処分となる見通しは十分あると私は思いました。ここで確定的な話ができないのは、実際には担当する検察官の判断で示談をしても略式起訴をする場合が無いともいえないからです。起訴不起訴はかなり微妙な場合があります。

依頼者に、不起訴になる見通しは十分あるし、示談もそれほど難しくないという話しをして、引き受けることにしました。

被害者と示談の話をすることは比較的苦になりません。被害者の被害について、ご本人が言葉にできない思いをこちらから言語化することによって示談をすることが双方の利益になるということを言うのですが、ここは詳しくは個別事情なのですいません。

その事件では、そうやってお話を聞いて、コミュニケーションが十分とれて、では示談という時に、ちょっと待ってということになってしまい、こちらの提示した金額よりかなり高額の示談金を出さなければ示談しないということになってしまいました。思ったよりも難しい示談になったなあと思ったところで、被害者も弁護士をつけてきました。

幸いベテランの弁護士なので、大体の示談金の相場の感覚は私と一緒だったので、こちらが十分な示談金を提示したことは伝わっていました。弁護士以外の方は相手に弁護士が付くとなると構えてしまうものだそうですが、弁護士の場合は逆です。このような相場観があり、余りにも過大な請求の場合は依頼者を通常説得してくれるからです。それでも当初の提案金額よりも多めの金額になりました。但し、別の事務所で提示された弁護士費用を払うことを考えれば、依頼者は全体として費用を抑えることができました。

正直これで不起訴になるなと思いました。

ところが、なかなか検察官から連絡がこないのです。しばらくしてから連絡をした時には、処分に向けて手続きをしているというのです。ここで、変な心理が働いてしまいました。あまり急がせると、不利に変更するのではないかというものです。それでしばらく問い合わせをしないことにしました。

そうしたところ、日数がだいぶたってしまい、依頼者からこんなに結論が遅くなるのはないのではないかと言われて、それもそうだなと問い合わせたところ、とっくに不起訴処分としているというのです。

別件でも、同じようなことが続けざまにありました。こういうことは続くものです。私が民事事件を担当する人が被害者で、加害者を告訴していたことは効いていました。そして、加害者が不起訴になったことも被害者は検察官から連絡があり知っていました。それで加害者側も不起訴を知っているのだろうと私の依頼者も思っていたのですが、加害者側は検察から連絡をもらっていないというのです。

刑事訴訟法でも、確かに検察は被疑者に不起訴通知を行わないのが正式な扱いなのです。それはもちろん知っているのですが、前は事実上ご連絡いただいていたような気がしていました。あるいは何日ごろ処分をするという予定を聞いていたのでグッドタイミングで問い合わせて案の定不起訴だという連絡を受けていたような記憶もよみがえってきました。

結局被疑者は、こちらから問い合わせないと、起訴されたかどうかわからないということになります。それが刑事訴訟法の定めだと言われればそうなのです。もっとも起訴されれば刑事裁判が始まりますので、その旨の通知が来てわかります。だから何がわからないかというと、「処分が決まったのかどうかということがわからない」というのが正式な表現となります。被疑者は、もしかしたらこれから起訴されるかもしれないと心配し続けることになってしまいます。

問い合わせればよいのですが、いろいろな気持ちが渦巻いて、問い合わせをすることが怖くてできないということが案外多いのではないでしょうか。いつ頃起訴になるかなどということは、一般の方は分からないものですからなおさらです。

やはり、送検された場合は、文書でなくても良いので起訴したかどうかの処分は被疑者に通知するべきではないでしょうか。そうでなくても、捜査が終結したので、いつ頃処分をする予定であるということは教えてほしいところです。そのくらいはやってもらってよいように思います。

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刑事裁判における「反省」の「2原因」とは何を考えるのか [刑事事件]


刑事裁判で、犯罪事実が真実であるとき、二度と罪を犯さないということを裁判官に信用してもらうためには、「反省」をすることが必要です。ここでいう「反省」とは独特の意味があり、一般の意味の「反省」とは違います。

1 自分が行った犯罪が、誰にどのような迷惑をかけるか(実質的違法性)
2 悪いことがわかっているのに、どうしてやめることができなかったか(原因)
3 その原因を再発させないためにどのような生活を送るか(再建計画)
ということを網羅的でなくていいから、自分の言葉で具体的に述べることが効果的です。聞いた人が絵をかけるくらい具体的に話す必要があります。

犯罪を行う人の多くが、それは犯罪に該当するということを知っていながら、被害者の被害を想像することができず,あるいは自分が逮捕されて刑事裁判を受けることを想像することができず、あっけなく犯罪を行ってしまいます。

そこまで考えていなかった。

ということは真実だと思います。

一般の方々は、自分が犯罪をするということを想像することもできません。悪いことだと思ったらやらないわけですし、悪いことやりそうなところに近づかないということさえ気を付けているでしょう。

だから、「そこまで考えていなかった。」という本音が理解できないようです。ここで理解のための補助線は、「人間は二つのことを同時に行うことが苦手だ。」ということかもしれません。例えば、お金を盗ることに夢中になると、被害者がどのように苦しむかということを考えなくなりますし、自分が逮捕されるかもしれないという考えはだいぶ薄まってしまいます。インターネットなどで何か気に入らない記事があれば、怒りが渦巻いてしまい、批判投稿をすることによって相手が傷つくとか、自分が情報開示されて警察沙汰になるということも考えられなくなるようです。

ところで、万引きと並んで再犯が多い覚せい剤取締法違反事件ですが、ほとんどの人が一回目の裁判で、「もう二度と覚せい剤には手を出さない。きっぱり縁を切る。」と誓います。それでもまた手を出してしまうわけです。誓いが嘘だったのではなく、反省の仕方が甘かったということも再犯の一つの事情になります。

覚せい剤の再犯が起きやすい条件というものがあります。
1 覚せい剤の売人とつながりがあり、言葉巧みに覚せい剤を売りつけられている。
2 過酷な現実(激しい肉体疲労、絶対的な孤立等現実を忘れたい事情)があり、長期的な視点で自分を大切に扱うことができず、覚せい剤使用という短期的な要求が肥大化している。

それで、売人から断り切れず、すぐに使うのではなく頓服のようにいざという時に取っておけばよいやと買ってしまい、どこかにしまっているのですが、そういう時に限って、精神的にショックなことが起きてしまい、もうろうというような感じで保管場所を探して、昔のように手を出してしまうということが起きます。

一度やってしまえば、歯止めが効かなくなり、お金と売人のタイミングで次々と覚せい剤を買ってしまうわけです。

依存性物質ですからタバコと同じような感じです。使用してもさほどよいことが無いのに使用しないと苦しくなるからまた使用するということで、再び薬物依存が完成してしまいます。

このように、「なぜ再び覚せい剤に手を出したか。」という理由に対して「売人とつながっていた」とか、「とてもつらいことがあった。」ということは反省になっていないのです。「なぜお金を盗んだのか」という理由に対して「お金が必要だったから」というようなものです。

そのような理由があったとしても、犯罪だし、他人に迷惑をかけるということがあるなら、やはりやってはいけないことです。「それにもかかわらずどうして」という問いかけであるのです。

そうでなければ、どんなに二度と犯罪をしないつもりでも、偶然条件がまた整ってしまえば、また犯罪をしてしまうわけです。その偶然というのは必ずしも低い確率で起きるわけではありません。

この原因論を自分の言葉で話せるようになれば、再建計画もより具体的で効果的なものを作り上げることが容易になります。

裁判官だけでなく、誰が聞いても、二度と犯罪をしないということの真剣さが理解できるようになるし、自分でそのような考えを深めたことが、将来の誘惑から遠ざかる一番良い方法になると思われます。

この答えは一般論ではなく、その人の個人的な事情が多く、人それぞれ自分の頭で考えるしかないのです。

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本日無期懲役が破棄された事件について、マスコミに対して行ったコメント [刑事事件]



あえて報道前にご報告しておきます。

本日、仙台高等裁判所刑事部において、原審の仙台地裁(裁判員裁判、強盗致死事件)の無期懲役の判決を破棄され、有期懲役(28年)の判決が宣告されました。

むき身の包丁を持って、被害者宅に強盗に入り、玄関前でもみ合いとなり、結果として被害者がお亡くなりになった事案です。

争点は、
1 被告人が、被害者を包丁で「刺した」と言えるか。
2 被告人の行為から無期懲役が妥当か
という2点にありました。

もちろん弁護人としては、刺したとは言えない。他の判決例からすると本件では無期懲役は重すぎると主張しました。被告人も1の争点で、意識的に刺してはいないということが一番主張したかった事実のようです。

控訴審の判決は、こちらの主張を認めて、「原判決が被告人が被害者を刺したと認定したことは、不合理な事実認定だ」という判決結果となりました。

以下、判決期日後のマスコミの質問に対する私の回答です。

<控訴審判決に対する率直な感想は>
人ひとりがお亡くなりになっているので、複雑な思いであるということが率直な感想である。

ただ、証拠に基づいてち密な事実認定をされた裁判官の方々に対しては敬意を表する。

原判決の無理な事実認定を改め、他の裁判例と整合が取れた判決となったと思う。

<刺したと認定して無期懲役とした原判決をどう思うか>
弁護士や裁判官という職業は、一般の人と比べると変わった思考をする人たちが行っている。人が一人無くなっているにもかかわらず、冷静に無期か20年かとか、刺したのか刺さったのかという細かい議論をする職業である。一般の人であれば、罪もない人が一人命を落としているのだから、その原因を作った者に対してできる限り厳罰に処すべきだと考えることがむしろ普通なのだと思う。裁判員裁判は一般の方たちの意見が重要なので、そのように一般の感覚で結論付けられたのだと思う。裁判官は、一般の方々の感覚を法的に表現しようとしたために、「刺した」、無期懲役という結論になったと理解できる。

<懲役28年は重いと感じるか>

人ひとりが拘束される時間としては長いとは思う。しかし、被告人が抜身の包丁を持って強盗を行わなければ、死ななくても良い命が失われたということを考えれば別の考えもあるので、量刑として冷静に考えた場合、重いか軽いか簡単ではない。

<被告人はどのように思っていると思うか>

それは被告人に聞いてみなければ本当のところはわからない。但し、被告人が控訴をした一番の理由は、「自分は意識的に刺すという行為をしていない」ということを言いたかったということだった。それを裁判所が全面的に認めたのだから、控訴をした甲斐があったと思える。また、自分の行為で人が一人お亡くなりになっていることは認識しており、強いダメージを受けているので、量刑については必ずしも重すぎるとは考えていないかもしれない。

以上です。
お亡くなりになった被害者のご遺族、関係者の方々に対しては心よりお悔やみを申し上げます。被害者の方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。



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貧困から凶悪犯罪に至る経路 [刑事事件]



よく貧困が犯罪の温床となるとか、社会政策こそが裁量の刑事政策だと言われていて、生活苦と犯罪が関連していることはよく言われることですし、その通りだという実感があります。

ただ、「貧困だから生活費が無い、だから生活費を稼ぐために犯罪によって金銭を獲得しよう」ということだと短絡的な考えも多いのですが、これは貧困と犯罪の関連性の説明としては間違っているようです。

住宅ローンを抱えて子ども三人の養育費を裁判所の命じた通りに支払っている男性は、朝はコンビニのおにぎり、昼はディスカウントストアでまとめ買いをしたカップ麺で、夜は自炊しているという話でしたがまだ良い方でした。

同じ様に住宅ローンを抱えて婚姻費用を抱えているお父さんは、電気代節約のため、換気扇の明かりで生活していると言っていました。換気扇に明かりがつくことは知りませんでした。

実際に重大犯罪を行った人は、給料が入っても寮費などが天引きされる上、前借金の返済、サラ金の返済、自動車ローンその他でお金が無く、ご飯に焼き肉のたれをかけて食べていただけだったそうです。

この人のケースに焦点を当てて説明します。

彼は、20代男性です。そんなに悪いやつとは思えません。敬語もきちんと使えますし、他者に配慮もできています。
ただ、何をやってもうまくいかず、例えばローンで自動車を買ったのですが、ローンの途中で事故を起こしてしまい、もう一台車を買わなければならなくなりました、ローンを二重に払っているわけです。その他にも人間関係で、悪い人に捕まってしまい、示談金を払っていました。仕事をやったら約束した報酬が支払われないとか、そんなことばっかりで支払いが多くなってしまいました。

サラ金からお金を借りても、返すプラス財産が無いので、借り手は返すを繰り返していました。ないところからいろいろ払うわけですから、考えても財源は無いのです。満足に考える余裕はなく、次から次への支払い期限が来て、何とかつじつま合わせをしているという状態でした。本当ならば自己破産をすることになるのでしょうけれど、そのような情報は彼の閲覧している動画には出てきませんでした。

彼は凶悪な財産犯となるのですが、ここでも運の悪いことが起きてしまい、極悪な財産犯になってしまいました。

ただ私は不思議に思ったのです。彼の借金というか支払うべき金額は、かなり膨大な金額でしたから、その財産犯をしたところで、借金を返し終わるわけはないし、何を目的でその犯罪を行ったのかわからなかったです。

彼の話によると、借金を返し終わることはできないが、ある程度余裕ができ、自分の収入で借金を返していけるようになるのではないかと思ったようです。それも明確に金額を見積もっているのではなく、なんとなくそうではないかということでした。

彼が凶悪犯罪を行った一つの理由は、明白に落ち着いてものを考えることができず、今の極限的な状態から少しでも楽になるということくらいしか考えられなかったことにあるようです。だから、自分がその犯罪を実行したところで成功するかどうかとか、いくら金をとれるかとか、逃げられるかなどということは、気にしてはいたけれどまともには考えなかったということでした。

彼の話を聞いてもう一つ理由がありそうでした。
彼の貧困の状態は結局米にたれをかけて生きていたということですし、何か夢中になれる趣味や、かけがえのない友人関係もなかったようです。何をするにもお金がかかるので結局はお金の問題かもしれません。動画サイトで犯罪の動画ばかりを見ていたようです。もっと給料が上がるような職業はどこかにはあっても、彼の選択肢には上がってきたこともなかったようです。ただ生きていても、社会から尊重されている、自分が誰かから尊重されている、自分が生き生きと充実して生きているという実感なんて考えたこともない生活だったそうです。

それを端的に表した言葉が
「死ぬことは嫌だけど、別に怖いとは思わない。」
でした。

これは、
「犯罪は悪いことだとわかるけれど、逮捕されて刑務所に行ったところで、今よりはましな生活になる。」
ということと同じ意味になる危険が高いと思います。

つまり、凶悪犯罪と貧困を結び付けるもう一つの流れは、「その犯罪をすると、自分の立場が悪くなる。だからしない。」という人間の本能が働きにくくなるということにあると思うのです。


令和5年がもうすぐ終わるわけですが、
令和6年は、ますます、不可解な犯罪、残虐な犯罪が増え、反省をすることがなかなか困難な境遇の人たちが増えていくように思われて仕方ありません。



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行動決定の原理 2 犯罪の行動決定と予防に効果がある対策 [刑事事件]



1 犯罪も熟慮の末に実行しているわけではなく、気が付いたら罪を犯していたということが多いこと 及びその意味
2 二次の情動と犯罪 多くの人はなぜ犯罪をしないか
3 二次の情動が働くなる要因
4 別考慮が必要な職業的犯罪と犯意の持続 犯罪環境
5 犯罪予防の有効な策

1 犯罪も熟慮の末に実行しているわけではなく、気が付いたら罪を犯していたということが多いこと 及びその意味

新聞の犯罪報道を読むと、おそらく多くの人が「なんでそんな馬鹿なことをするのだ。こんなことをしたらどうせすぐにつかまるし、ニュースで顔や名前、住所までもさらされてしまうだろうに。」と感じることが多いと思います。

しかし、刑事弁護をして感じたのは、圧倒的に多くの場合、犯罪を行った人は、それらの事故にとっての不利益を、「そこまで考えていなかった。」状態で犯罪を行っているようです。例外的に盗みをして生活をしているような、反復継続して犯罪を常習にしている人は、また別考慮が必要です。これは後から述べます。まずは圧倒的多数のそこまで考えないで犯罪を実行する場合を考えます。

万引きなどが典型例ですが、弁護の過程で本人から聴いても、自分がいつ万引きをしようと考えはじめたのかよくわからない人がほとんどです。自分の気持ち(意識)についてのメタ認知が無いという言い方もできるかもしれません。だけど、自分の行為(①対象物を定めて、②周囲を気にかけて見つからないように緊張して、③商品を手に取ってバッグに入れて、④外に出たところを職員から呼び止められる)は記憶しているのです。但し、④の段階でふと我に返り、自分が万引きという窃盗を犯していることを強く自覚するというパターンが本当に多いです。①から③については、記憶はしているけれど、①から③の時点ではあまり「自分の行為が意識に上っていない」という表現が近いようです。意識下で脳が勝手に行動をしているような、そんな感じです。

「自分は万引きをしていない。誰か他人が自分を罠にはめようとして自分がやったことにして商品を自分のバッグに入れたのだ。」という言い訳が少なくないのですが、そのように感じていることは理由が無いわけではないようです。

殺人なども同じ場合が多いのではないでしょうか。①殺害対象の人間を定める、②人の死ぬような危険な行為を行動決定する、③人の死ぬような危険な行為を実行する、④相手が苦しんだり、死んだりして自分がしたことに気が付くという流れで、①から③については、やはり無意識下で脳が勝手にやっていたという感じのことが多いようです。攻撃意志が強固ではない場合は、相手の被害を見て攻撃の意思が無くなり、蘇生活動をしたり、救急車を読んだり、あるいは危険から脱出させたりする行動をすることが実際は多いです。(控訴審の弁護をしていて気が付くことは、弁護士が「中止未遂」の主張を案外忘れていることです。)

一方的な殺人ではなく、相打ちのような場合、自分の行動(上記①から③)が記憶から欠落していることもありました。実際に自分がやったことを「覚えていない」ということは裁判上不利になりますし、そのことを十分伝えましたが「覚えていない」と言い続けていましたので、やはり覚えていないのでしょう。但し記憶に残らなかった時間はほんの1秒程度のことだと思います。

思い立ってから即時に実行できる犯罪類型では、このような「脳が勝手にやった」犯罪という一群がありそうです。

不可解な交通事故、業務上横領、万引きその他、一般市民が犯してしまいがちな犯罪に多いかもしれません。

このような犯罪は、厳密にいうと自由意思に基づいて行われるわけではないし、自由意思によって行為前に抑止することは実際にはなかなか難しいことです。しかし、「厳密に言えば自由意思の制御が不可能だった」と弁護をしても、無罪にはなりません。無罪有罪の判断基準は純理論的なものではなく、国家政策で決まるもので、国家意思の考慮要素としては刑罰の威嚇による犯罪抑止と、被害者や一般人から見て悪いことをしたら処罰されるべきだという「応報」と言われる観念も考慮されて決まるものだからです。

但し、純粋に予防の観点からすれば、この種の犯罪は、刑罰の威嚇はあまり効果が無く、予防の観点からはむしろ刑罰よりもその人たちの生活環境を改善することの方が有効だとは思っています。

2 二次の情動と犯罪 多くの人はなぜ犯罪をしないか

ところで、「どうして犯罪を実行したのか」ということを考えるにあたっては、「どうして多数の人は犯罪を実行しないのか」ということこそを考えるべきだと思います。犯罪を実行しないシステムというものがあり、この犯罪をしないためのシステムがうまく作動しないから犯罪を実行してしまうという考え方をしてみようと思います。

1)多くの幼児は罪を犯さない

例えばスーパーマーケットで、自分の好きなキャラクターがデザインされたお菓子があって、どうしても食べたいと思っても、多くの幼児は親の目を盗んで勝手にとって食べません。これはどうしてでしょう。

色々な説明方法があると思うのですが、私の説明方法は以下のとおりです。子どもは、そのような自分の家の外の物は、「親から与えられるものだ」という認識を強く持っているのではないでしょうか。自分は外から物を調達する立場ではないという認識があるということです。だから、欲しくても自分でこっそり取らないで、顔を真っ赤にして床に寝転がって、親に対してねだるわけです。

まあ、親が子どもが勝手にとらないように目を光らせているということはあるかもしれません。

2)社会の一員から脱落したくない 「二次の情動」

犯罪を実行するときに、それをすることによる様々な不利益、①自由を拘束される、②自分に対する社会(報道された範囲、及び、自分のこれまでの付き合いのある人間関係)の評価が低下する、③損害賠償を請求されるなど、を「考えないで」実行するというのが犯罪を実行する場合の多数派のようです。そうだとすると、犯罪を実行しない場合も、そこまで「考えた上で」犯罪を実行しないというわけではなさそうです。

例えば、<店の前を歩いていたら自分の欲しい服が売られていた。手に入れたいけれど、お金が無い>という場合、いちいち「これを盗んだら犯罪による不利益が生じるから盗まない」ということを考えてはいないでしょう。ただ、「お金が無いからあきらめる」ことが通常だと思います。

「盗まない」という意識による選択をして決定をしているのではなく、「『盗む』という選択肢がそもそも意識に出現していない」と考えることが私たちの感覚にもあっているのではないでしょうか。

ではなぜ選択肢が出てこないのでしょう。もちろん、法律で禁止されているからとか、不道徳な行為であるとか、お店の人に迷惑をかけるからとかいろいろ思い浮かびますが、そのような「意識による価値評価」をしているわけではなさそうです。

「無意識のうちに脳が勝手に処理している」と考えることが自然なのではないでしょうか。つまり、①欲しい、②お金が無い、③盗めばすぐに手に入るというアイデアは、意識はしないけれど脳の中で駆け巡っているのだと思います。しかし、④それは社会的に自分を不利にするからだめだという「本能的な打消し」が起きているということが私の仮説です。これらは無意識に処理されているので、意識には上ってきません。

人間は群れを作る動物です。言葉もない時代から群れを作っています。言葉が無ければ自分達の意思を外から拘束する「ルール」が存在するということは無理な話です。本能的に、社会的評価を落とす行為が何かを知っており、それを無意識下で思いついたら、本能的に(脳が勝手に)その行為を抑制するシステムが人間の脳に組み込まれているという説明の仕方を提案するわけです。このシステムを「二次の情動」と私は呼ぶことにします。

「二次の情動が健全に働いている場合、人間は犯罪行動を起こすことは無い」のではないかという仮説がここでの結論です。

ちなみに一次の情動とは、身体生命の危険を脳がキャッチした場合に、危険を避けて身体生命の安全を図る無意識のシステムです。動物全般に備わっているものです。野生動物が炎を見たら怖くて近づかないとか、何かが飛んで来たら危ないと思って腰をかがめるとかそういう自然に行動している原理です。

3 二次の情動が働くなる要因

それでは二次の情動が働くなり、犯罪を選択して行動決定してしまう理由はどこにあるのでしょう。

1)側部抑制
 
二次の情動が働かなくなる一つのパターンは、「二次の情動は一度に一つのことにしか働かない」という場合です。生理学の用語を用いて「二次の情動の『側部抑制』」と言うことにします。

二次の情動は、自分を取り巻く人間関係の中に自分の立場を維持しようとするシステムです。人間の心が生まれた今からおよそ200万年前(狩猟採取時代)の人間関係は、生まれてから死ぬまで一つの群れ、同じメンバーの少人数の群れしかありません。一つの人間関係の立場だけを考えればそれで万事解決する環境だったので、二次の情動も一つの関係に関して発動しさえすれば、他の関係では発動しないという仕組みで良かったのです。ところが、現代社会は複数の群れに人間は所属しています。すぐに思いつくだけでも、家族、学校、職場、地域、国等々、人によってはもっと様々な団体に所属しているわけです。

だから、職場での人間関係で情動が高まって葛藤が強ければ、そのことで二次の情動がフルに使われてしまい、家庭との関係での二次の情動が働きにくくなるということが起きていそうなのです。

継続的人間関係(例えば家庭や職場とか)での二次の情動が強すぎて、お店(店員と客である自分)という人間関係が希薄な場面では二次の情動が十分に機能しない状態になっているということがありそうです。一つの人間関係において二次の情動が目いっぱい使われていると二次の情動によって本来無意識に選択肢から落とされるべき万引き行為は、落とされないで選択肢が残ってしまい、さらに制御もできずつい万引きをしてしまうという流れがありそうです。弁護人として本人たちから話を聞くと、この流れがしっくりくる説明のようです。

私は万引きという犯罪類型に興味を持ち、意識的に弁護をしています。その中で感じたことがあります。万引きをした人は、ストレスを強く感じている場合が多く、その最も多い類型が「孤立」でした。高齢者の万引きでは、少なくない割合で一人暮らしが多いようです。次に多いのは不条理な扱いを受けていると感じることです。「なぜ自分だけが不運なのだろう。」と考えることと犯罪が強く関係しているようにいつも感じます。

貧困が原因になることもあるのですが、どちらかというと、貧困による生物的機関というよりも、貧困の社会的なみじめさ、疎外感という心理に対する影響が強く作用するように感じています。

2)一次の情動優位

二次の情動相互間のバッティング(複数の人間関係で自分に対する否定評価があっても、一つの人間関係だけが意識に上るということ)を述べましたが、一次の情動によって、二次の情動が働かなくなるということもあるようです。つまり襲われたので身の危険を感じてやり返すというような場面です。

このような場面では、正当防衛や緊急避難という違法性を無くす制度があるのですが、危険を招いた者に対する逆襲については要件を緩和して罪を問わないことを徹底するべきだと思います。この考えを法律化したのが盗犯防止法(盗犯等防止に関する法律)です。

また飢えをしのぐための窃盗というものがあるのですが、これは無罪にはなりません。ただ、一次の情動が勝るために二次の情動が機能不全になった例としては参考になると思います。

3 ストレス以外の情動の機能不全を招く疾患

よく知られているのですが、ある種の病気というか体調の変化が犯罪の理由として説明されることがあります。病気などによって不安や焦燥感が高まってしまい、二次の情動が機能不全になってしまって、犯罪行動という選択肢を排除できないでいる状態です。自分の何らかの(病的、生理的、その他の)変化によって、「特定の人間関係における自分の役割が果たせなくなった」という意識が強くなり、二次の情動を圧迫しているという印象を受けることがあります。

もしそうであれば、職を失うとか、大けがをしてこれまでとは同じ様に仕事ができなくなり収入が不安定になった場合も、やはり二次の情動が高まってしまい、不合理な選択肢を脳が勝手に排除するということができなくなってしまう可能性があるということになると思います。

こういう場合があれば、家族など周囲は本人を安心させ、本人に対して自分たちという絶対に見捨てない仲間がいるというメッセージを伝えて、安心さることに努めることが必要なのかもしれません。

4 別考慮が必要な職業的犯罪と犯意の持続 犯罪環境

積み残していたのは職業的な犯罪、特に常習犯罪と犯意を生じてから周到に準備をして犯罪に至るように犯意が持続している犯罪です。

1)二次の情動による抵抗を打ち破る一回目の犯罪と二回目の犯罪との違い
 
二次の情動がよりよく働くのは一度目の犯罪の時です。逆に言うと一度犯罪を実行してしまうと、繰り返してしまうことが少なくありません。具体的経験は、その犯罪の選択肢を想起しやすくなるようです。万引き、侵入窃盗、すり等の窃盗罪、業務上横領事案、あるいは放火や偽計業務妨害罪等がすぐに思いつきます。

一度その犯罪を実行してしまうと、変な表現ですが体がその行為を覚えています。そうすると、無意識で例えば万引きをしようという選択肢が浮かびやすくなってしまうし、それを実行に移してしまいやすくなるという説明がリアルだと思います。犯罪行動の選択と言っても、抽象的な選択ではなく、どこそこの(今その店にいるならこの場所で)、具体的な商品(今その店にいるならこの商品の子の手前に配置されている商品)を、具体的に手でつかんでバッグに入れるという具体的な選択肢が出現しなくてはなりません。もしこの具体的な選択肢が出現してしまっているならば、無意識下で万引きは実行できてしまいます。

1回目の犯罪では、二次の情動が機能不全になっているとはいえ、ある程度力が残存していますから、選択肢が具体化するにはそれなりの抵抗があったはずです。ところが二回目の犯罪では、二次の情動がある程度残っていたとしても、一度二次の情動を打ち破って犯罪を行ったことによって、二次の情動の力が十分働かなくなり、犯罪の選択肢が出現しやすくなり、かつ、消えにくくなっているという説明が可能なのではないでしょうか。

2回目の犯罪は1回目よりも無意識の抵抗が小さくなるという言い方をすることがあります。だから、1回やって悪いことだと分かったからもう二度としないだろうと安易に考えて合理的な対策を立てないことは間違いです。1回目だからこそ二回目の内容にきっちり対策を立てることが必要です。有効な予防策を立てる必要性が高いし、予防策の効果が上がる確率は高くなると思います。

2)犯罪環境という考え方

様々な事情で働いて収入を得ることができず、当人たちの間では「生きていくために仕方がなく」万引きなどの窃盗をしている人たちがいます。あるいは、犯罪組織に身を置いてしまい、言われるがままに犯罪を繰り返す人たちもいます。

犯罪をしたその時点だけを見れば、この人たちは冷静に、熟慮をして、準備をして、計画を立て犯罪を実行するわけです。これは二次の情動とは関係ないのでしょうか。この種の犯罪は、全体の犯罪から見れば少数です。しかしこの一群の説明ができなければ、理論は完成しないようにも思えます。

この人たちも、「二次の情動の機能不全」が起きていると説明することは可能だと思います。最初に二次の情動を打ち破ってしまって、犯罪を実行してしまった後、さらに犯罪を重ねていくと、もはや二次の情動は働くなる傾向にあるのだろうと思います。即ち、もはや守るべき自分、関係を維持すべき自分の人間関係が消滅したという感覚です。大変恐ろしいことですが実際にあるように感じます。「もういいや」という感覚です。

特に、夫婦ぐるみで、あるいは家族ぐるみで、あるいは仲間を形成して仲間ぐるみで、そのような二次の情動が消滅してしまうと、犯罪自体を後ろめたいものと思っていないような感覚で計画を立てて行動しているような印象を受けることがあります。この場合は、家族ごと社会から孤立している場合だという表現がぴったりときます。

また、犯罪集団に身を置いてしまうと、そちらの人間関係が最優先になってしまい、そちらの人間関係の中で自分の立場を維持するために、群れの外の人間を容赦なく攻撃する類型の犯罪を実行するようです。少年事件では典型的な事件類型です。仲間の一人が別のグループの人間からひどい目にあった、それではみんなで復讐しようというのが典型的なパターンです。自分たちの仲間を守ることが自分を守ることに直結しているかのような行動をしてしまいます。

窃盗常習者の事件を弁護したことがあるのですが、100件くらい住宅に入って金品を盗んで何か月か生活していたという事案でした。最初のうちは、冷蔵庫の食料を盗み食い(まさに)していたのですが、だんだんと預金を心掛けるようになってゆき、生活の安定を目指すようになったというわけがわからない行動パターンになっていました。この人は、当初濡れ衣を着せられて職場から非難を受けて仕事をやめさせられて、家族も失って生きる気力がなくなり、家に引きこもっていました。さすがに体が動かなくなってきたという極限状態に近い状態で、捕まってもいいという投げやりな気持ちで盗みに入ったらうまくいってしまい、繰り返していくうちにうまくいかなかったことに備えて貯金をするまでになってしまったようです。

肝心なことは最初の二次の情動が働かなくなった理由として、それまで自分が大事にしていた人間関係を、次々に失い、およそ人間関係全般、社会の中での自分の立場というものがどうでもよくなってしまったというところに本当の原因を求めるべき事案だったのだと思います。

私は、このように犯罪の選択肢を排除できなくなるという二次の情動が働かなくなるその人の環境を「犯罪環境」と言っています。どんな犯罪者でも生まれつきの犯罪者はめったにいません。この犯罪環境が必ずあります。この犯罪環境から抜け出すためにどうしたらよいかを本人と一緒に考えることこそ弁護人としての重要な役割だと考えています。

5 犯罪予防の有効な策

1)犯罪後の再犯の予防
ⅰ)刑罰について

犯罪を予防することだけを考えるなら、必ずしも処罰をすることは必須ではないように思います。但し、処罰があるということで、様々な道徳などのルールの中で強いルールなのだという意識づけには有効かもしれません。

しかし、本来人はまっとうに、穏やかに暮らしていれば犯罪を選択しません。また、犯罪を選択して実行するのは、実際は無意識の状態ですし、二次の情動が機能不全に陥っている事情がある場合です。「刑罰があるから犯罪をやめよう」と考える時間ないしきっかけが無いことが多いです。刑罰を重くすれば犯罪が総数として減少するということは無いというのが実感でもあります。受ける刑罰の重さまで考えていないから犯罪を行うわけです。

どちらかと言えば刑罰は、悪いことをすれば処罰されるということを知らしめて、応報感情を満足させたり、社会の安心を作っているという役割の方が大きいのかもしれません。それも国家という秩序を維持するために必要なことだと思います。

ⅱ)叱責より理由の探求

例えば万引きなどは窃盗ですから犯罪です。このことを知らないから万引きをする人はこれでの弁護士人生で扱った事件では一人もいませんでした。家族も万引きは悪いことだから一時の気の迷いだからもう二度としないだろうということ、万引きをしたことに対する、叱責、非難、嫌味などで終わりにすることがしばしばみられます。

しかし、一時の気の迷いは、これまでお話ししてきた通り再現してしまいやすいのです。やってはいけないことを知っていてやっているので、やってはいけないということを繰り返してもあまり意味はありません。

叱責をするのではなく、二次の情動が機能しなかった理由を突き止めて、それに応じた対応をするということが必要であるということになるわけです。

ⅲ)二次の情動の回復

 ひとたび二次の情動が機能不全になり、警察沙汰になり、広く報道をされてしまうと、社会的存在でいることをあきらめてしまう場合が少なくありません。社会的評価が下がったことは仕方がありませんが、二次の情動を回復させる必要はむしろ高まっています。二次の情動を高める工夫についてお話しします。

① 将来に対する希望
執行猶予になるとか刑期を終えるなどして社会復帰をした後の、生活の喜びというものを提示することによって将来に対して明るい気持ちになることが最終目標だと思います。「ここで逮捕されていろいろなことを考えられたので、逮捕されなかったよりもよりよい人生を歩めるかもしれない」という希望をもてることができれば、犯罪環境からも抜け出すことができます。

この目標は信頼関係の構築など、前提事項が多いし、自分自身で目標を持つことが必要なので、弁護人がただ提案すればよいというものではありません。

② 二次の情動の後付けの具体化

本能的に発動する二次の情動は、なかなか言葉では説明しづらいことがあります。「本来ならばここでこうすればよかった」と後付けではありますが、一応の正解パターンを考えることで、これから先の人生における二次の情動を発揮しやすくなるはずです。

例えば、被害者の心理的被害や困った事態になったことを具体的にイメージでき、話しができるようになること。これは現実に起きたことではなく、おきそうなことをシミュレーションできればよいのです。そうして、次に選択肢が来るときにすぐにそれを打ち消す意識が生まれることが期待できるようになります。

その犯罪がなぜ処罰されるのかということをなるべく具体的に思い描くことが有効だと思います。

③ 犯罪環境の自覚
 自分がなぜ考えなしに犯罪に及んだのか、「どうして止めることができなかったのか」ということを考えてもらいます。その人が犯罪環境にいたわけですから、自分にとっての犯罪環境とはどういうことだったのかということに気が付いてもらうことが有効です。その上で環境を変えること、例えば実家に戻ることで、二次の情動を妨げることができるようになることもあります。ここも抽象的ではなく、具体的に止めることができなかった要因を考えてもらうことが必要です。

④ 将来の生活の構築
犯罪環境など二次の情動が機能不全に陥らないためには、やはり今後の生活のどこに気を付けて生活するかということが必要です。具体的に実行できなくては意味がありません。だから③の考察の中で気持ちが緩んでいたとか気持ちが弱かった、流されていたという言葉にとどまっていたのでは将来設計はできません。③の考察が具体的であればあるほど、将来の生活設計は簡単に構築することができるでしょう。

2) 犯罪の前後を問わない予防
ⅰ)孤立の解消

ここで言う「孤立」とは、その人がこの世の中で、すべての人間関係で一人きりになることではありません。ある一つの人間関係で孤立するだけで、その人はこの世の中で孤立しているという意識を持ってしまうようです。二次の情動は一つの群れだけで一生を終えていた時代(狩猟採取時代)に進化によって獲得していたものですから、複数の群れで生きている現代社会においても、一つの人間関係での孤立を過大に受け止めてしまうことは十分な理由があるわけです。

家庭では円満な人間関係であったとしても、職場でひどい目にあっていると、家族の気が付かない間に孤立感を深めてしまっているかもしれません。

弁護の過程では、本格的に再犯を防止するために、その人の様々な人間関係を調べる必要があります。場合によっては生い立ちにさかのぼっての調査も有効です。これはそれほど難しいことではなく、本人は、無意識にその関係の不具合にこだわりつづけているので、自分の口から話してもらいさえすればわかることが多いです。ただ、興味を持って調べられるかどうか、そのことに気が付くかどうかにかかっています。

孤立の解消が最大の犯罪予防になると考えています。逆に言うと、普通の人がひどい孤立をしてしまうと、思わぬ犯罪を選択してしまう危険があるのだと思います。その人がどうしてよいかわからない状況に追い詰めることは、犯罪以上に否定的に評価するべき事柄だと思います。ある人に何かを改善してもらいたいときであったとしても、その人を追い詰めるようなやり方はしてはならないということです。もしその人が家族や職場の仲間だとすれば、この仲間からは外さない、否定はしないという意思を明示して改善を提案し、一緒に考えていくことが正解なのだと思います。

過剰すぎる正義は他者を追い込み孤立されることがしばしばみられます。また過剰すぎる責任感は自らを追い込み孤立させることがしばしばみられます。

ⅱ)貧困の解消
かつてのように、貧困であるから生きるために盗むという事態は少ないのではないでしょうか。絶対的貧困ではなく相対的貧困はむしろ拡大しているかもしれません。

貧困自体が、かつてよりも低く社会的に評価されてしまい、貧困自体を犯罪視するかのような意識を感じることもあります。これでは、犯罪をしたことが無くても、貧困に陥ったことによって自分が社会の一員として認められていないという意識を持ってしまう傾向が生まれやすくなります。

二次の情動が機能しなくなっているケースでは、「精神的に不安定になって働くことができず収入が無くなった場合」、「犯罪歴があるため職に就けないで収入が無い場合」、あるいは「薬物依存のため生活が破綻して貧困に陥っている場合」等のケースを担当しました。先ほどの、不条理な解雇によって精神的ダメージを受けて再就職活動ができなくなるケースもありました。

貧困それ自体が犯罪を誘発するというよりも、貧困に陥ったことで社会の一員として扱われていないという疎外感が二次の情動を圧迫して犯罪の無意識の選択を行わしめているようです。

自然な感情から「自己責任」という考え方が生まれることは仕方がないことかもしれません。必死になって、あるいはプライドを捨てて収入を得ている人から見れば、「薬物なんてやめて働け」、「万引きする度胸があるなら就職して働け」という気持ちになることももっともです。

ただ、その人たちも、貧困を選んで貧困に陥ったわけではなく、抵抗する方法が無く犯罪環境にはまってしまうということが実際です。理解はしたくないとしても、犯罪予防の観点からは、貧困による弊害を社会で防止していくという発想が求められるのではないでしょうか。

犯罪が多発して自分の身を守らなければならないということこそが、犯罪環境になっているということもあると思います。

罪が行われ、被害者が出た場合に起きる応報感情と、被害者を出さない予防政策は両立するものです。両立するということは別個に考えなければならないということを意味します。児童虐待などで、この応報感情に支配されて、強硬な、処罰的な対応ばかりが構築されて、結局有効な予防策が構築できず、児童虐待を防げないということであっては意味が無いのです。私は、被害を予防することを最優先にして政策を考えるべきだと思います。

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精神障害者が無罪になる(場合のある)理由 リベット実験にも矛盾しない古典的刑法総論理論 [刑事事件]



重大な被害が生じた事件の裁判報道で、「被告人側が心神喪失を理由に無罪を主張している」という報道に接することがあると思います。「なんとなくそうかな?」と感じる人、「人が殺されているのに無罪とはおかしい」と感じる人、当然様々いらっしゃることと思います。

例えば、「その人間が明らかに人を殺そうとして、人が死ぬような行為をしたのに、精神障害だからといって釈放されるのはおかしい。」ということも自然な感覚かもしれません。

どうして精神障害を理由に無罪になるのかをまず説明していましょう。

刑法は、基本的には「わざと人を殺した」という場合だけ殺人罪として処罰します。その人の「不注意行為で人が死んだ場合」は、傷害致死罪、過失致死罪といって、一段低い刑罰になります。

考える手がかりがここにあります。わざと殺した場合に罪が重くなることは直感的に当たり前なのですが、その理論づけを昔の刑法学者たちは行っています。

その理由は、
「自分がこれからしようとすることが、人が死ぬことになる危険なことであるのに、やっぱりやめたと思いとどまらなかったこと」

をとらえて、傷害致死罪や過失致死罪とは類型的に異なった殺人罪として重い責任非難があるという理屈なのです。

逆に、不注意の場合は、思いとどまる要素が小さいので、責任非難が軽くなり、刑罰も軽くなるという関係にあります。

また、その人が殺したようにみえても、実際は思いとどまるきっかけも、不注意もなかったような場合は責任もありませんので無罪になります。グラウンドで野球の素振りの練習をしていたら、突然人が走ってきてバットにぶつかってしまったというようなケースがそういうケースでしょうか。

精神障害のうち、その程度が重く、心神喪失(自分のやっていることが自分で理解できない、あるいは、価値判断ができない事情がある場合)であったと判断されて無罪になるのも、この理屈で説明されます。

自分がこれから何をやるかさえもわからない精神状態の場合で偶然ともいえるように誰かが被害を受けたのであれば、自分がやることが人に迷惑をかけるので思いとどまるということを期待することができませんから、責任が無いという評価はまだ理解できると思います。

しかし、自分がこれからやることをわかっていて(例えば刃物で人体の危険な場所を刺すとか、頭を金づちで殴るとか)、それでも精神障害だからそれを思いとどまることが期待できないから無罪ということについては、それだけ聞くと納得できない人も多いと思います。

それはそうです。日常生活で、その人の意思で行動していて責任が無いというような具体的事案なんて、普通はあまりお目にかかれないからです。想像することも大変難しいと思います。長く弁護人を務めていると、そのような事案を担当することがあります。それほど多くはありません。

窃盗の事案で、睡眠薬とビールを飲んでわけがわからない状態になり、中古品販売店に自動車を運転して行って、自分の趣味の品物を陳列棚からカバンに入れて窃盗の現行犯で逮捕された事案がありました。それだけ聞くと自動車を運転できる程度に訳が分かっているし、本人が欲しがっている種類の品だったという程度の能力があったのだから、思いとどまる能力もあったはずだと思うことが健全な考え方かもしれません。

しかし、実際は、店員が注意しに来ても気にしないで、メモうつろで口も開いたままの異様な雰囲気でただ機械的に品物をカバンに詰めていたようでした。まさに映画に出てくるゾンビのような状態だったそうです。

この事案は、一度逮捕され勾留もされたのですが、裁判を受けることなく釈放されました。薬とアルコールのために、思いとどまることが期待できず、責任能力が無く、心神喪失状態だったと判断されたからです。

このように、その犯行をしようという意思がある(ようにみえるだけか)のに、責任非難が無い場合は実際にあります。心神喪失で無罪の主張をするケースはこういう極限的なケースを議論しているわけです。

このほかに精神障害で責任能力が否定される場面と言えば、程度の重い統合失調症のうちのある種の場合が考えられます。強い幻聴や幻覚で、その人を殺せと命じられているような錯覚をしてしまい、犯罪をしてしまう場合です。ただ、統合失調症の人の圧倒的多数の人は犯罪をしません。統合失調症が直ちに責任能力を否定される事情とはならず、その人の症状に照らして、思いとどまることが期待できたかどうかという具体的事情から責任能力は判断されます。




ところで、この「思いとどまることをしなかったことが責任の本質だ」という理論は、自由意思についての科学的な理論にも整合します。

ベンジャミン・リベットは、実験によって、人間の行動を起こす意思が起きる0.35秒前に脳はその活動を開始しているということを明らかにしました。2008年には別の人も同様の実験をして、0.35秒どころか最大7秒のタイムラグがあるという発表もなされました。つまり人間は自分の自由意思で行動しているのではなく、具体的行為を自由意思で決定する以前に脳が行動決定をしているということになります。認知学では、多くの学者が人間には自由意思はないと主張するようです。

そうすると自由意思がなく、すべて人間の行為が脳が勝手にやったことというのであれば、どの犯罪においても責任が問われなくなってしまいます。これでは、どんな犯罪をしてもそれはその人が自由意思で決めたことではないとして刑罰を受けなくて済み、社会不安が起きてしまうことでしょう。

しかし、刑法の責任論は、その問題を予め知っていたように都合よく理論化していました。

リベットも、0.35秒前に脳が勝手に起こし始めた行動だとしても、0.35秒後にその人の自由意思によって、その行動を思いとどまることができる。それがその人の人格を示しているというようなことを言っています。刑法の責任論は、まさに思いとどまらなかったことを非難しようとしているので、ぴったり一致しているのです。リベットの学説によれば、自由意思の働く範囲はごく狭い範囲だということになりますが、刑法理論はすかさずその狭い範囲に焦点を合わせて責任があると言っているわけです。しかもこの責任論は、リベットの研究のずうっと前に構築されている理論なのです。

あまり伝わらないかもしれませんが、私はすごいと思いました。説明が下手ですいません。


全てをまぜっかえすようなことを最後に言うわけですが、この刑法理論は、現在の刑法解釈ということで、元になる刑法が改正されれば、ほとんど意味のないものになってしまいます。例えば、わざとであろうと不注意であろうと偶然であろうと、結果として人が死んだのであれば殺人罪にするという立法も理屈の上ではあり得ないことではないのです。

10年以上前に裁判員裁判が始まり、量刑の点についても一般市民の感覚が判決に反映されるようになり、判決が厳罰化してきたということが実務感覚です。初めて生の殺人などの重大事件の証拠を目にすれば拒否反応が起きることは当たり前で、できるだけ重く処罰しようという感覚になることは当然のことです。厳罰化は裁判員裁判の実施と因果関係のあることだと私は思います。

ただ、国民が、厳罰化を望み、結果責任を望むようになり、法改正がなされればそのようになっていくこともありうるのです。運の悪い人が長期服役を余儀なくされるということも、それ以前と比較してそうだという話であり、それが直ちに間違っているという議論が成り立つのかよくわからないというべきだと思います。

現在に話を戻して、実際の裁判で「思いとどまることを期待できたかどうか」ということも、個別的な事情を判断しなくてはならず、実際のところは同じ程度ならば同じ量刑や、同じ責任能力の有無の判断がなされているのかについては、実際のところよくわかりません。なかなか比較しようのない問題だからです。

少なくとも、わざと心神喪失の状態になって恨みを晴らそうと思っても、おそらく無罪になることは無いだろうということだけは確かなことだと思います。

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再犯は、防止行動を行わないために起きる 犯罪をしないために必要なことは生活習慣の修正 万引きの事例をもとに考える [刑事事件]



犯罪のメカニズム、特に犯行を実行しようと思うメカニズムを考えると、犯行直前に「やっぱりやめた」と思いとどまることは実は難しいことだと感じられます。前回述べたリベットの研究結果、「人が自由意思で行動を決定する前に、脳は無意識に行動を決定して活動している」ということに照らしてもそう言えることだと思います。

例えば万引きを例にしてお話しします。いつ万引きをしようと考えるかについては人それぞれのようです。家を出て万引きをしに行こうと思う人もいれば、店の中に入った瞬間に万引きをしようと思う人、商品を見て万引きをしようと思う人それぞれです。万引きしに出かけようとする人は、多くは、商品を換金して生活費を稼ごうと言う人だったという記憶です。

不可解な、説明が難しい万引きは、店に入ってから、つまり万引きの直前に万引きをしようと考えたと言う人がほとんどです。

さらに万引き弁護を多く担当している私からすれば、意思決定をする前に万引きの態勢に入り、盗みきることに全力を挙げているような印象を受けることが多いのです。

だから万引きをしたひとに、どの時点で万引きを「やっぱりやめた」と思いとどまるべきかアドバイスをすることがとても難しいということが本音でした。

万引きをした人に、今後どうすれば万引きをしないで済むかという方法を考えてもらうと、多くの割合で、「一人で店に行かないこと」という答えが返ってきます。案外、ご本人なりに万引きのメカニズムを正しく認識して最善の策にたどり着いていたのだということを、リベットの研究結果を念頭に置くとそう理解できます。つまり、「万引きはしてはいけないからやらないよ」というような意識をもって日常を過ごしているのですが、店に入った途端、あるいは商品を見たとたん、自分の知らないうちにいわば万引きモードに入って万引きをしてしまっているということが、意識についての科学的研究からすれば正確なメカニズムなのかもしれません。

その場になって、「やっぱりやめた」と思いとどまることは、刑法理論としてはともかく、予防の方策としてはあまり期待できないことのようです。つまり、その場になると、「万引きを見つからないように完遂する」ということに意識が集中してしまい、「やっぱりやめよう」とか、「これをやると他人に迷惑がかかるかもしれない」とか、「自分の知り合いに知られたらみんなから相手にされなくなるとか」、「警察に捕まって裁判を受ける」ということは考えることの能力は、発揮しようがない状態になっているのだと思います。その結果、「後でそういうまずいことになるとは思わなかったのか」と尋ねると、「そこまで考えていなかった。」という回答が来ることになるわけです。

そこまで考えなかったということは、そこまで考える余力が無かったということなのでしょう。

だから、万引きは悪いことだと何万回繰り返してもあまり意味のないことだということがわかります。そんなことは百も承知だからです。人に知られたらとか警察に捕まるとかいうことも百も承知です。百も承知だけれど、それを考える余力が無い状態だから万引きを始めてしまうわけです。
万引きの刑事裁判での反省の多くが、このように考えても仕方がないことを考えて発言しています。これでは、万引きをやめることができません。万引きをやめるための行動をしていないので、また万引きをしてしまうと言っても良いでしょう。

では、どういうことが万引きをしない方法でそれをやるべき方法なのでしょうか。

わたしは従前、犯罪環境という言葉を提唱してきました。何らかの犯罪を行う人は、犯罪を行うような環境、特に人間関係を作ってしまっている。その環境から抜け出して、安心した生活を送ることで再犯を防止するべきだと考えています。これは変わりありません。むしろベンジャミン・リベットの意識についての実験結果からその理論が裏付けられたと思っています。

万引きをする人もいれば、絶対にしない人もいます。商品があって、誰からも見られていないと思っても万引きをしない人がほとんどです。

万引きのメカニズムが、商品を見て、万引きができそうだと感じて(これは知識が無いか錯覚で、通常の店舗、特に量販店では無数の監視カメラが設置してあり、死角がなくバックヤードでモニタリングをしています)、「この商品を黙って取ってお金を払わないで帰ってしまおう。」という選択肢が無意識のうちに現れ、無意識のうちに選択してしまい、そのための行動を開始してから万引きをしようという意識が生まれるようです。順番が、脳が決定してから万引きの意識になるということが正確なようです。万引きは例えばカバンに入れてしまえば終了ですから、やっぱりやめたと思いとどまる時間もないと言えそうです。

それでは万引きをしない人は、する人とどこが違うのでしょうか。
1)そもそも万引きしようという選択肢が無意識下でも出てこない。
2)選択肢が浮かんだとしても、行動に出る前に思いとどまる。
この二つが、結果的には異なるところです。

実務的には1)と2)はきっぱりと区別できるものではなく、あえて言えば、万引きをしようという選択肢が出てきても、それに基づいて行動を開始するような強い選択肢ではなく、一瞬で「やっぱりやめよう」というか、選択肢からすぐに脱落する程度の弱い選択肢だという表現がより近いかもしれません。

もう少しミクロ的に分析すると、万引きをしない人は、
「誰も監視していない無防備な状態で商品が置かれている、万引きできちゃうんじゃない。」という抽象的な選択肢にとどまり、
万引きをしてしまう人の例えば
「この商品をカバンに入れて見えなくしてしまえば、お金を払わないで帰ることができるのではないか」
という具体的な選択肢にはなっていないということなのかもしれません。

そういう意味で、厳密に考えれば、やはり具体的な万引きの選択肢が現れないという表現も間違っていないのかもしれません。

そうだとすれば、万引きの再犯をしないためには、万引きの具体的行為の選択肢を排除することが有効だということになると思います。

どういう場合に具体的選択肢が現れやすくなるのでしょうか。
一つには成功体験ということがあります。一度万引きに成功した体験は、具体的な万引き行為を記憶していますから、同じ行為をすればうまくいくということから無意識に選択肢に上りやすいことは理解できます。

一度でも成功すると、その後捕まっても捕まっても、具体的な行動が記憶にありますから、無意識のうちにその具体的行動の選択肢が表れて無意識に選択してしまうということはあります。一番怖いのは万引きしようとは思わないで、レジを通さないで商品を持って帰ってしまったことに気が付くと万引きを繰り返す原因になりかねないということでしょうか。

うっかり持って行ってしまうということはどうやらあることのようです。うっかりでも万引きであったとしても、勇気をもって店に行き代金を支払ってくることによって、成功体験を少しでも解消することをお勧めします。

先行行為の外に万引きの原因として経験上みられたものは、「孤立」です。万引き以外の犯罪類型でもたびたび出てくるのは孤立です。自分に何らかの問題が生じているけれど、家族など他者と自分が抱えている問題を共有できない状態の場合、犯罪行為を止められなくなることが多いように感じます。孤立と言っても一人きりという場合もあるのですが、二人とか、家族ごと社会から孤立している場合も犯罪を思いとどまらなく理由になるようです。犯罪者となっても、これ以上自分の評価が下がることは無いということなのでしょうか。思いとどまらなくなるというより、違法行為であろうが何であろうが、自分が生き残るために手段を択ばなくなるという感じです。

「孤立」とは、必ずしも誰から見ても「孤立」しているという場合だけでなく、自分が「孤立」していて助けのない状態だと感じていても、犯罪という選択肢が沸き起こるというか降りてくるというか、無意識に滑り込んでくるようです。つまり主観的に孤立していれば、犯罪の選択肢が出てきてしまうということなのだと思います。

孤立に心当たりがあれば、孤立を解消する方法を講じることが再犯防止ということになるはずです。実際に独り暮らしの高齢者の万引き事例で家族がもっと関わる時間を増やして再犯を防止した例や、逮捕された人に家族が暖かくかかわり孤立していないことを強く認識してもらうことによって再犯を防止した実例が豊富にあります。家族以外に居場所を見つけ、定期的にいつものメンバーの中で時間を過ごして再犯を防止した人もいます。

家族で万引きをした人が出た場合は、とにかく家族が運命共同体の仲間であり、決して見捨てないという態度を示し、いつものとおり接するということで、あるいは接触を強める(一緒にいる時間を増やす)ということで、孤立をしていないという認識を本人に持ってもらうことが再犯防止に有効だと思います。

孤立が解消されればある程度同時に解消されることですが、生活のリズムを調えるということも大事です。朝起きて夜に寝るということはとても大切なことです。

さらには、年少であれば学校に通い、ある程度年齢が上ならばとにかく就職して規則正しく美しい生活をすることが犯罪の選択肢を排除する方法のようです。但し、真面目過ぎる人はダブルワークをして働きすぎてしまい、その結果ストレスを強めたり、あるいは寝不足になったりして、余裕をもって思考ができない状態に陥ることがあります。やっていいことと悪いことの区別がつきにくくなり、犯罪という選択肢が忍び込んでくることがありますので、朝起きて夜寝るというバランスのとれた生活ができるような仕事のスタイルをするべきですし、孤立していない自分には仲間がいるのだと実感できる生活スタイルを作ることが大切だと思います。

真面目過ぎると思う人は、趣味を見つけて、何かに一心不乱に打ち込める時間を作ることをお勧めします。

心配事が法律問題であったり、人間関係であった場合は、できるだけ早く弁護士や適切な相談相手に相談して憂いを絶つということも不健全な選択肢を生まないためにはとても有効です。

弁護士から見ると、犯罪は、必ずしも特殊な人が行うものではないということ感覚があります。私自身も一つ間違えれば、犯罪を実行していたかもしれないという意識で弁護しています。大事なことは、自らを犯罪環境に置かないこと、犯罪環境にいるならば無理してでもその環境を変えることだと思います。

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