精神障害者が無罪になる(場合のある)理由 リベット実験にも矛盾しない古典的刑法総論理論 [刑事事件]
重大な被害が生じた事件の裁判報道で、「被告人側が心神喪失を理由に無罪を主張している」という報道に接することがあると思います。「なんとなくそうかな?」と感じる人、「人が殺されているのに無罪とはおかしい」と感じる人、当然様々いらっしゃることと思います。
例えば、「その人間が明らかに人を殺そうとして、人が死ぬような行為をしたのに、精神障害だからといって釈放されるのはおかしい。」ということも自然な感覚かもしれません。
どうして精神障害を理由に無罪になるのかをまず説明していましょう。
刑法は、基本的には「わざと人を殺した」という場合だけ殺人罪として処罰します。その人の「不注意行為で人が死んだ場合」は、傷害致死罪、過失致死罪といって、一段低い刑罰になります。
考える手がかりがここにあります。わざと殺した場合に罪が重くなることは直感的に当たり前なのですが、その理論づけを昔の刑法学者たちは行っています。
その理由は、
「自分がこれからしようとすることが、人が死ぬことになる危険なことであるのに、やっぱりやめたと思いとどまらなかったこと」
をとらえて、傷害致死罪や過失致死罪とは類型的に異なった殺人罪として重い責任非難があるという理屈なのです。
逆に、不注意の場合は、思いとどまる要素が小さいので、責任非難が軽くなり、刑罰も軽くなるという関係にあります。
また、その人が殺したようにみえても、実際は思いとどまるきっかけも、不注意もなかったような場合は責任もありませんので無罪になります。グラウンドで野球の素振りの練習をしていたら、突然人が走ってきてバットにぶつかってしまったというようなケースがそういうケースでしょうか。
精神障害のうち、その程度が重く、心神喪失(自分のやっていることが自分で理解できない、あるいは、価値判断ができない事情がある場合)であったと判断されて無罪になるのも、この理屈で説明されます。
自分がこれから何をやるかさえもわからない精神状態の場合で偶然ともいえるように誰かが被害を受けたのであれば、自分がやることが人に迷惑をかけるので思いとどまるということを期待することができませんから、責任が無いという評価はまだ理解できると思います。
しかし、自分がこれからやることをわかっていて(例えば刃物で人体の危険な場所を刺すとか、頭を金づちで殴るとか)、それでも精神障害だからそれを思いとどまることが期待できないから無罪ということについては、それだけ聞くと納得できない人も多いと思います。
それはそうです。日常生活で、その人の意思で行動していて責任が無いというような具体的事案なんて、普通はあまりお目にかかれないからです。想像することも大変難しいと思います。長く弁護人を務めていると、そのような事案を担当することがあります。それほど多くはありません。
窃盗の事案で、睡眠薬とビールを飲んでわけがわからない状態になり、中古品販売店に自動車を運転して行って、自分の趣味の品物を陳列棚からカバンに入れて窃盗の現行犯で逮捕された事案がありました。それだけ聞くと自動車を運転できる程度に訳が分かっているし、本人が欲しがっている種類の品だったという程度の能力があったのだから、思いとどまる能力もあったはずだと思うことが健全な考え方かもしれません。
しかし、実際は、店員が注意しに来ても気にしないで、メモうつろで口も開いたままの異様な雰囲気でただ機械的に品物をカバンに詰めていたようでした。まさに映画に出てくるゾンビのような状態だったそうです。
この事案は、一度逮捕され勾留もされたのですが、裁判を受けることなく釈放されました。薬とアルコールのために、思いとどまることが期待できず、責任能力が無く、心神喪失状態だったと判断されたからです。
このように、その犯行をしようという意思がある(ようにみえるだけか)のに、責任非難が無い場合は実際にあります。心神喪失で無罪の主張をするケースはこういう極限的なケースを議論しているわけです。
このほかに精神障害で責任能力が否定される場面と言えば、程度の重い統合失調症のうちのある種の場合が考えられます。強い幻聴や幻覚で、その人を殺せと命じられているような錯覚をしてしまい、犯罪をしてしまう場合です。ただ、統合失調症の人の圧倒的多数の人は犯罪をしません。統合失調症が直ちに責任能力を否定される事情とはならず、その人の症状に照らして、思いとどまることが期待できたかどうかという具体的事情から責任能力は判断されます。
ところで、この「思いとどまることをしなかったことが責任の本質だ」という理論は、自由意思についての科学的な理論にも整合します。
ベンジャミン・リベットは、実験によって、人間の行動を起こす意思が起きる0.35秒前に脳はその活動を開始しているということを明らかにしました。2008年には別の人も同様の実験をして、0.35秒どころか最大7秒のタイムラグがあるという発表もなされました。つまり人間は自分の自由意思で行動しているのではなく、具体的行為を自由意思で決定する以前に脳が行動決定をしているということになります。認知学では、多くの学者が人間には自由意思はないと主張するようです。
そうすると自由意思がなく、すべて人間の行為が脳が勝手にやったことというのであれば、どの犯罪においても責任が問われなくなってしまいます。これでは、どんな犯罪をしてもそれはその人が自由意思で決めたことではないとして刑罰を受けなくて済み、社会不安が起きてしまうことでしょう。
しかし、刑法の責任論は、その問題を予め知っていたように都合よく理論化していました。
リベットも、0.35秒前に脳が勝手に起こし始めた行動だとしても、0.35秒後にその人の自由意思によって、その行動を思いとどまることができる。それがその人の人格を示しているというようなことを言っています。刑法の責任論は、まさに思いとどまらなかったことを非難しようとしているので、ぴったり一致しているのです。リベットの学説によれば、自由意思の働く範囲はごく狭い範囲だということになりますが、刑法理論はすかさずその狭い範囲に焦点を合わせて責任があると言っているわけです。しかもこの責任論は、リベットの研究のずうっと前に構築されている理論なのです。
あまり伝わらないかもしれませんが、私はすごいと思いました。説明が下手ですいません。
全てをまぜっかえすようなことを最後に言うわけですが、この刑法理論は、現在の刑法解釈ということで、元になる刑法が改正されれば、ほとんど意味のないものになってしまいます。例えば、わざとであろうと不注意であろうと偶然であろうと、結果として人が死んだのであれば殺人罪にするという立法も理屈の上ではあり得ないことではないのです。
10年以上前に裁判員裁判が始まり、量刑の点についても一般市民の感覚が判決に反映されるようになり、判決が厳罰化してきたということが実務感覚です。初めて生の殺人などの重大事件の証拠を目にすれば拒否反応が起きることは当たり前で、できるだけ重く処罰しようという感覚になることは当然のことです。厳罰化は裁判員裁判の実施と因果関係のあることだと私は思います。
ただ、国民が、厳罰化を望み、結果責任を望むようになり、法改正がなされればそのようになっていくこともありうるのです。運の悪い人が長期服役を余儀なくされるということも、それ以前と比較してそうだという話であり、それが直ちに間違っているという議論が成り立つのかよくわからないというべきだと思います。
現在に話を戻して、実際の裁判で「思いとどまることを期待できたかどうか」ということも、個別的な事情を判断しなくてはならず、実際のところは同じ程度ならば同じ量刑や、同じ責任能力の有無の判断がなされているのかについては、実際のところよくわかりません。なかなか比較しようのない問題だからです。
少なくとも、わざと心神喪失の状態になって恨みを晴らそうと思っても、おそらく無罪になることは無いだろうということだけは確かなことだと思います。
再犯は、防止行動を行わないために起きる 犯罪をしないために必要なことは生活習慣の修正 万引きの事例をもとに考える [刑事事件]
犯罪のメカニズム、特に犯行を実行しようと思うメカニズムを考えると、犯行直前に「やっぱりやめた」と思いとどまることは実は難しいことだと感じられます。前回述べたリベットの研究結果、「人が自由意思で行動を決定する前に、脳は無意識に行動を決定して活動している」ということに照らしてもそう言えることだと思います。
例えば万引きを例にしてお話しします。いつ万引きをしようと考えるかについては人それぞれのようです。家を出て万引きをしに行こうと思う人もいれば、店の中に入った瞬間に万引きをしようと思う人、商品を見て万引きをしようと思う人それぞれです。万引きしに出かけようとする人は、多くは、商品を換金して生活費を稼ごうと言う人だったという記憶です。
不可解な、説明が難しい万引きは、店に入ってから、つまり万引きの直前に万引きをしようと考えたと言う人がほとんどです。
さらに万引き弁護を多く担当している私からすれば、意思決定をする前に万引きの態勢に入り、盗みきることに全力を挙げているような印象を受けることが多いのです。
だから万引きをしたひとに、どの時点で万引きを「やっぱりやめた」と思いとどまるべきかアドバイスをすることがとても難しいということが本音でした。
万引きをした人に、今後どうすれば万引きをしないで済むかという方法を考えてもらうと、多くの割合で、「一人で店に行かないこと」という答えが返ってきます。案外、ご本人なりに万引きのメカニズムを正しく認識して最善の策にたどり着いていたのだということを、リベットの研究結果を念頭に置くとそう理解できます。つまり、「万引きはしてはいけないからやらないよ」というような意識をもって日常を過ごしているのですが、店に入った途端、あるいは商品を見たとたん、自分の知らないうちにいわば万引きモードに入って万引きをしてしまっているということが、意識についての科学的研究からすれば正確なメカニズムなのかもしれません。
その場になって、「やっぱりやめた」と思いとどまることは、刑法理論としてはともかく、予防の方策としてはあまり期待できないことのようです。つまり、その場になると、「万引きを見つからないように完遂する」ということに意識が集中してしまい、「やっぱりやめよう」とか、「これをやると他人に迷惑がかかるかもしれない」とか、「自分の知り合いに知られたらみんなから相手にされなくなるとか」、「警察に捕まって裁判を受ける」ということは考えることの能力は、発揮しようがない状態になっているのだと思います。その結果、「後でそういうまずいことになるとは思わなかったのか」と尋ねると、「そこまで考えていなかった。」という回答が来ることになるわけです。
そこまで考えなかったということは、そこまで考える余力が無かったということなのでしょう。
だから、万引きは悪いことだと何万回繰り返してもあまり意味のないことだということがわかります。そんなことは百も承知だからです。人に知られたらとか警察に捕まるとかいうことも百も承知です。百も承知だけれど、それを考える余力が無い状態だから万引きを始めてしまうわけです。
万引きの刑事裁判での反省の多くが、このように考えても仕方がないことを考えて発言しています。これでは、万引きをやめることができません。万引きをやめるための行動をしていないので、また万引きをしてしまうと言っても良いでしょう。
では、どういうことが万引きをしない方法でそれをやるべき方法なのでしょうか。
わたしは従前、犯罪環境という言葉を提唱してきました。何らかの犯罪を行う人は、犯罪を行うような環境、特に人間関係を作ってしまっている。その環境から抜け出して、安心した生活を送ることで再犯を防止するべきだと考えています。これは変わりありません。むしろベンジャミン・リベットの意識についての実験結果からその理論が裏付けられたと思っています。
万引きをする人もいれば、絶対にしない人もいます。商品があって、誰からも見られていないと思っても万引きをしない人がほとんどです。
万引きのメカニズムが、商品を見て、万引きができそうだと感じて(これは知識が無いか錯覚で、通常の店舗、特に量販店では無数の監視カメラが設置してあり、死角がなくバックヤードでモニタリングをしています)、「この商品を黙って取ってお金を払わないで帰ってしまおう。」という選択肢が無意識のうちに現れ、無意識のうちに選択してしまい、そのための行動を開始してから万引きをしようという意識が生まれるようです。順番が、脳が決定してから万引きの意識になるということが正確なようです。万引きは例えばカバンに入れてしまえば終了ですから、やっぱりやめたと思いとどまる時間もないと言えそうです。
それでは万引きをしない人は、する人とどこが違うのでしょうか。
1)そもそも万引きしようという選択肢が無意識下でも出てこない。
2)選択肢が浮かんだとしても、行動に出る前に思いとどまる。
この二つが、結果的には異なるところです。
実務的には1)と2)はきっぱりと区別できるものではなく、あえて言えば、万引きをしようという選択肢が出てきても、それに基づいて行動を開始するような強い選択肢ではなく、一瞬で「やっぱりやめよう」というか、選択肢からすぐに脱落する程度の弱い選択肢だという表現がより近いかもしれません。
もう少しミクロ的に分析すると、万引きをしない人は、
「誰も監視していない無防備な状態で商品が置かれている、万引きできちゃうんじゃない。」という抽象的な選択肢にとどまり、
万引きをしてしまう人の例えば
「この商品をカバンに入れて見えなくしてしまえば、お金を払わないで帰ることができるのではないか」
という具体的な選択肢にはなっていないということなのかもしれません。
そういう意味で、厳密に考えれば、やはり具体的な万引きの選択肢が現れないという表現も間違っていないのかもしれません。
そうだとすれば、万引きの再犯をしないためには、万引きの具体的行為の選択肢を排除することが有効だということになると思います。
どういう場合に具体的選択肢が現れやすくなるのでしょうか。
一つには成功体験ということがあります。一度万引きに成功した体験は、具体的な万引き行為を記憶していますから、同じ行為をすればうまくいくということから無意識に選択肢に上りやすいことは理解できます。
一度でも成功すると、その後捕まっても捕まっても、具体的な行動が記憶にありますから、無意識のうちにその具体的行動の選択肢が表れて無意識に選択してしまうということはあります。一番怖いのは万引きしようとは思わないで、レジを通さないで商品を持って帰ってしまったことに気が付くと万引きを繰り返す原因になりかねないということでしょうか。
うっかり持って行ってしまうということはどうやらあることのようです。うっかりでも万引きであったとしても、勇気をもって店に行き代金を支払ってくることによって、成功体験を少しでも解消することをお勧めします。
先行行為の外に万引きの原因として経験上みられたものは、「孤立」です。万引き以外の犯罪類型でもたびたび出てくるのは孤立です。自分に何らかの問題が生じているけれど、家族など他者と自分が抱えている問題を共有できない状態の場合、犯罪行為を止められなくなることが多いように感じます。孤立と言っても一人きりという場合もあるのですが、二人とか、家族ごと社会から孤立している場合も犯罪を思いとどまらなく理由になるようです。犯罪者となっても、これ以上自分の評価が下がることは無いということなのでしょうか。思いとどまらなくなるというより、違法行為であろうが何であろうが、自分が生き残るために手段を択ばなくなるという感じです。
「孤立」とは、必ずしも誰から見ても「孤立」しているという場合だけでなく、自分が「孤立」していて助けのない状態だと感じていても、犯罪という選択肢が沸き起こるというか降りてくるというか、無意識に滑り込んでくるようです。つまり主観的に孤立していれば、犯罪の選択肢が出てきてしまうということなのだと思います。
孤立に心当たりがあれば、孤立を解消する方法を講じることが再犯防止ということになるはずです。実際に独り暮らしの高齢者の万引き事例で家族がもっと関わる時間を増やして再犯を防止した例や、逮捕された人に家族が暖かくかかわり孤立していないことを強く認識してもらうことによって再犯を防止した実例が豊富にあります。家族以外に居場所を見つけ、定期的にいつものメンバーの中で時間を過ごして再犯を防止した人もいます。
家族で万引きをした人が出た場合は、とにかく家族が運命共同体の仲間であり、決して見捨てないという態度を示し、いつものとおり接するということで、あるいは接触を強める(一緒にいる時間を増やす)ということで、孤立をしていないという認識を本人に持ってもらうことが再犯防止に有効だと思います。
孤立が解消されればある程度同時に解消されることですが、生活のリズムを調えるということも大事です。朝起きて夜に寝るということはとても大切なことです。
さらには、年少であれば学校に通い、ある程度年齢が上ならばとにかく就職して規則正しく美しい生活をすることが犯罪の選択肢を排除する方法のようです。但し、真面目過ぎる人はダブルワークをして働きすぎてしまい、その結果ストレスを強めたり、あるいは寝不足になったりして、余裕をもって思考ができない状態に陥ることがあります。やっていいことと悪いことの区別がつきにくくなり、犯罪という選択肢が忍び込んでくることがありますので、朝起きて夜寝るというバランスのとれた生活ができるような仕事のスタイルをするべきですし、孤立していない自分には仲間がいるのだと実感できる生活スタイルを作ることが大切だと思います。
真面目過ぎると思う人は、趣味を見つけて、何かに一心不乱に打ち込める時間を作ることをお勧めします。
心配事が法律問題であったり、人間関係であった場合は、できるだけ早く弁護士や適切な相談相手に相談して憂いを絶つということも不健全な選択肢を生まないためにはとても有効です。
弁護士から見ると、犯罪は、必ずしも特殊な人が行うものではないということ感覚があります。私自身も一つ間違えれば、犯罪を実行していたかもしれないという意識で弁護しています。大事なことは、自らを犯罪環境に置かないこと、犯罪環境にいるならば無理してでもその環境を変えることだと思います。
人が盗みをしない理由から考える 犯罪防止として法律より効果があるもの インターネットという拳銃をすべての人が所持している現代から愛の時代に向かう時に越えるべきハードルとは何か 無差別攻撃型犯罪の構造 [刑事事件]
前に担当した事件で、とても人づきあいが良く、仲間には思いやりもあり好かれていた人が、量販店での万引きを繰り返していたということがありました。「どうしてやめようとできなかったのか」の一つの理由として、「店に迷惑をかけることまで考えていなかった」という説明がありました。
他人に対する思いやりがありながら、どうして店の損害を考えることができないのか。かなりのギャップがあるように感じました。どこに違いがあるのかを少し考えてみました。
その一応の結論が、その人との距離、一緒にいた時間等の違いが正反対の行動に現れたのではないかということです。仲間(近くにいる時間が長い)であれば、等身大でその心情を考えることができるので、これを盗んだら途方にくれる仲間の姿や、がっかりするだろうという仲間の姿を、考えなくても思い浮かべることができる。その姿を思い浮かべるとかわいそうだと思う。自分もつらくなる。だから迷惑をかけない。むしろ、仲間が何をすれば喜んでくれるかわかるし、仲間が喜べば自分の楽しいから思いやることをする、というのではないかと考えました(殺人や暴言等の私怨型の直接攻撃は別考慮が必要)。
量販店の場合は、商品が陳列しているところに人がいません。この効果としては、監視する人がいないので盗みやすいというよりも、迷惑をかけて苦しめる人を具体的に想定できないことから万引きをする心理的ハードルが低くなるということなのかもしれません。昭和の商店の形態である、人のよさそうなおばちゃんがあまりもうけのないだろう安い商品を扱っている店であれば、あのおばちゃんが悲しむと思えばやはり盗みをしようと思わないのが大人なのだと思います。
物を買うことを一つをとってみても、昭和から令和という時代の流れの中で、人間と人間の交流という要素はどんどん希薄になっていると思います。希薄になっているのに、関わり合いになる人間の数だけはどんどん増えています。インターネットの向こう側にいるのも人間ですが、お互いがどれくらい人間として扱っているのでしょうか。人間として扱われているのでしょうか。
機械たちを相手に言葉はいらない
決まりきった身ぶりで街は流れてゆく
人は多くなるほど 物に見えてくる
(中島みゆき「帰省」より)
インターネットの書き込みは匿名で行えば、自分の言いたいことを躊躇なく言うことができます。相手の気持ちを考えることなく相手を傷つけることもできます。インターネットの書き込みは、言われた方は反論する方法がないことがとても多いです。その書き込みが真実かどうか、正当かどうかも通常は誰も調べたりしません。友人や取引相手などがその書き込みを見て、自分に対する評価を変えるかもしれません。それが本当かどうかわからなくても、怪しいところには関わりたくなくなるということはよくあることです。インターネットの書き込みによって大事な人間関係が無くなってしまったとか、収入が無くなるということもおそらくすでに現実に起きていることでしょう。
インターネットの書き込みによって命を絶つ人も出ています。
インターネットは気軽に誰でも利用できるツールですが、人の人生を台無しにしたり命を奪う危険なツールでもあります。
スマホの若者向けの使い方講習会が行われているようですが、主として話されることは、被害者にならないための方法についてのようです。もしかして、それよりも大切なことは加害者にならないための方法、使い方なのではないでしょうか。他人の命を奪う拳銃を与えているのだから、もっとも大切なことは加害防止のはずです。
他者との人間的な結びつきが希薄になっている現在、他者の苦しみに配慮しない行動がますます増えていく可能性は拡大するだけで、縮小していく要素は現在のところ見当たりません。
ここで考えなければならないことは、全員が全員、相手の顔が見えなければ盗みをするということではないことです。むしろ、誰に迷惑がかかるかはわからなくても、少なくともわが国では他人のものを盗まないという人の方が圧倒的多数です。
その理由の一つとして、法律が貢献していることは間違いないと思います。他人の物を盗むと、警察に捕まり、刑務所で強制労働が待っていると思えば、盗むことは怖いことだからやめようと思うわけです。
ただ、それでは、誰も見ていないとか、証拠が残らないことが確実である場合は、警察に逮捕されないとして人は盗むのでしょうか。そうではないようです。それでは誰かが困ることを想像して盗むことを止めるのでしょうか。もう少しリアルな理由がありそうです。
そういうごちゃごちゃ考えることをしないで、盗もうとしないということがリアルと言えばリアルです。それでもあえて説明すると、「他人の物を盗む自分でありたくない」という気持ちがあるので盗もうとしないということが自然なのではないでしょうか。この時の「自分」という概念が問題なのです。おそらく、現在、過去、将来を問わず、自分がつながっている人間、つながっていた人間、つながるであろう人間との関係で、評価される人間、否定されない人間、尊重されるに値する人間でありたいと自然な感覚を持つのではないでしょうか。
ありえない想定ですが、物心ついた時はもう孤立していて、将来的にも誰かと仲間になることを想定できない人間であり、それが生きていくためには必要なことだと思うならば、他人の物を盗まないという選択肢は持てないのではかと考えてみました。近い例えで言えば、第二次世界大戦の終結直後の都市部の状態に似たものがあるではないかと考えています。
そして現代社会では、その危険な部分がまた似通ってきているということなのだろうと思います。
無差別殺人は、その極端な例であると説明できると思うのです。その人にとって、現在自分が尊重されたい相手という人間関係が存在せず、将来的にもそのような人間関係を形成することはないと絶望をしている場合、「自分」がどういう人間だと、誰から思われようと気にならなくなるのではないでしょうか。そういう状態であれば、命永らえること自体がむなしくなるのかもしれません。そうだとすると死刑の威嚇はあまり予防効果が期待できないことになってしまいます。
人間の脳が他者を個体識別できる人数は、150人程度だと言われています。この人数を超えれば、よほどの人でない限り、思いやる力は希薄になっていくのでしょう。インターネットは、そもそも人間の能力の限界を超えていて、進化によって能力を獲得するには何百万年もかかります。しかし、生活や仕事の隅々まで浸透してしまったインターネットをやめるわけにはいかないのでしょう。せめて不当な書き込みについての対応方法はもっと早急に整備しなくてはなりません。
むしろ現実な対策としては、すべての人間一人一人が、人間的に尊重されるリアルな関係を持つことなのだと思います。この関係に照らして「自分」を考え、他者に迷惑をかけることに気が付き、やめるという流れがより現実的なのだと思います。しかしこれ自体、現在では砂に水をまくような途方もない話なのだろうと思います。しかし、犯罪を防止するだけでなく、人間として生き残るために必要なことは、結局は、人間の本能を利用したこの方法しかないのだと思います。
刑事事件の弁護をしながら、そんなことを考えていました。
「悪口を言われた」と思う気持ちは群れを作るために人間が持っている通常のシステム その先の攻撃の原因 (津山事件との比較をしていますので閲覧ご注意です。) [刑事事件]
先日、長野県で4名の方が命を奪われた事件がありました。報道によりますと、犯人は、動機として「悪口を言われたと思った」ことを上げていると言います。犯罪史に興味がある人ならば、津山事件を連想する方も多いと思います。1938年に岡山県であった33人殺人事件です。これは松本清張氏も調査をしていて作品として発表をしています。
悪口を言われたと思ったという場合、被害妄想という精神異常による犯行だと結び付けて考える人も多いかもしれませんが、この「悪口を言われたと思う」というその気持ち(あるいは妄想)は、人間ならば誰しも多かれ少なかれ発動される感情で、この感情があったからこそ群れを作って生き延びてきた大切な感情でして、人間としては基本的な感情だと思うのです。
アフリカのサバンナで30人ほどの群れを作って狩猟生活をしていると考えてください。
せっかく苦労してとったうさぎを一人で多く食べてしまって、他の人から冷たい目で見られているとします。はっと気が付いて、自分はかなり仲間から評価が下がってしまった(まだ言葉のない時代ですから悪口を言われるとは思わないのです。)と感じる心を持つわけです。これはまずいと思い、夕暮れの中別の動物を自力でとってきて評判を回復させたり、それができなければ次に狩りをした時に自分だけ食べないということで、償いをするわけです。それで評判を回復させようとする。このための行動原理になるのが、現代的に言えば「悪口を言われたと思った」の人間らしい効果なのです。
人間は動物として腹いっぱい食べたいと感じる本能があると同時に、群れを作る動物として仲間の中で評価を落としたくないという本能もあるということです。
仲間内の低評価が気にならないならば、自己中心的な行為をする歯止めが無くなってしまい、群れがまとまらなくなってしまいます。群れを作らなくなり、人間は簡単に肉食獣に食べられてしまい、またエサも確保できず死滅してしまったのではないでしょうか。
だから、言葉としては「他人から悪口を言われたと思った。」と言ったとしても、実際に他人が悪口を言わないことが多いし、仮に悪口を言っていたとしても本人までは伝わっていないことがほとんどだと思います。
「悪口を言われていたと思った」という場合は、実際にその他者から悪口を言われていたかどうかではなく、自分が他者から悪口を言われるような状態にあるという自覚が、不安や焦燥感と言った嫌な気持ちの核心だということになります。
それだけ人間が孤立を本能的に嫌っているということを意味しているのだと思います。孤立を嫌う心というシステムがあったために、群れを作ることができたというわけです。
そうすると、群れの中で群れの仲間として扱われない事情があると、自然と「悪口を言われている」と感じるわけです。一番の事情になることは、自分が群れの役に立っていないと感じることです。
津山事件の場合は、犯人は結核を患い農作業を禁じられていた時期がありました。学校の成績は結局よかったのですが、結核が原因で、丙種合格となり(健康状態が悪く兵隊として任務に就けない)ました。小さな集落で、農業も従事できず、兵隊にも採用されないということは、当時の日本の狭い集落の中では、とても肩身が狭い状態だったと思います。自分には能力があるのに、自分の能力によって他者から評価されないということは、不条理を感じていたかもしれません。何らかの方法で見返してやりたいといつも思っていたことでしょう。しかし、日本の山村の価値観は農業か兵隊かいずれかで名を上げるしかない極端に価値観が偏っていたため、それは実現不可能な望みだったのだと思います。
津山事件の犯人は散弾銃を入手し、それを売却してさらに性能の良い兵器を入手してしまいます。偏った公的な価値観で他者の中での自分の地位を回復できなければ、実力で自分の地位を高めようとしてしまったとはいえないでしょうか。結局、犯人は、ある日、散弾銃を持って集落の人たちを襲い、結局一晩で33人を死亡させ、自殺しました。
自分を見下していた(と感じていた)人々を射殺することで、自分が他者の命運を握っているという意識を持ったのかもしれません。自分を無いものにしないとでもいうような歪んだ願望の発露だと思います。
注目するべきことは、ある家庭では、必死に命乞いをする人がいたようです。そうしたら犯人は、「そんなに死にたくないのか」というようなことを言って、その家の人だけ発砲しなかったそうです。自分が命乞いをされるということで、その人間の命運を自分が握っていると感じ、殺さなくても自分の低評価が回復したと感じたのかもしれません。このエピソードは実際はもっといろいろな情報があり、犯行の本質の一つが垣間見えるような気がしています。松本清張氏の作品でも取り上げられていたと思います。
津山事件は、被害集落は全体の戸数は少ないのですが、当時の農村特有の地理環境である家と家との距離が離れているし、まだ電話も普及していない時代です。一件で襲撃があったとしても、それが他の家には知られにくいという事情がありました。また、警察が到着するまで相当時間がかかるという交通事情もありましたので、33人の殺害が可能となってしまいました。
今回の事件では、直ちに警察官が駆け付けました。殉職されるという悲痛な結果になりましたが、それ以上の犯行の拡大が抑止されたという大きな効果があったと思います。近隣との間が密な分だけ、警察官が駆け付けなければ、被害はさらに拡大していたかもしれません。ご冥福をお祈りすると同時に敬意を表したいと思います。
さて、津山事件の当時(昭和13年)の情報量と、インターネットの普及した現代の情報量は比較にならないほど膨大なものになっており、価値観の多様性ということも言われています。どうして、同じような無差別殺人が起きたのでしょうか。
真実は今後の捜査にかかっているとは思います。ただ、仮説として、
1)実は社会の価値観は昭和13年とそれほど変わっていないのではないか
2)現実の自分に対する評価者として想定できた人間が家族と犠牲にあわれた近所の人しかいなかった
現代社会では職業は無数にあるのですが、やはり他者とコミュニケーションを取らなければ仕事にならないし、その傾向は強く、またインターネット対応など特殊化しているのかもしれません。求められるコミュニケーションが苦手な人にとっては、昭和13年の結核患者と同じように働くことにかけては致命的な問題になっているのかもしれません。また、その人の状態に合わせた職業の選択肢が極端に少なすぎるのかもしれません。そういう発想自体が社会にないことも昭和13年と同じ状態なのかもしれません。
また、職業に限らず、多様なコミュニケーションスキルの状態に合わせた他者とのかかわりの方法という選択肢も少なすぎるのかもしれません。
いずれにしてもお二人の女性が不条理にも命を奪われました。どんなにか怖かったことでしょうか。ご冥福をお祈りするしかできません。
もっとも今回の事件については、本人独自の個別的問題点があったことも当然あると思います。
ただ、心配なことは、昭和13年の男子にとって兵隊になれないというスティグマを押されることの弊害以上に、コミュニケーションが取れないために社会から孤立している人間の人数は膨大な数に上っているということです。そして本当は、誰かにとって都合の良い人間のタイプということにすぎないのに、そのタイプになっていないということがあたかも人間にとって致命的に劣っていると評価されると思わされている人たちもたくさんいることだと思います。
その人たちを社会的に「自分は悪口を言われていると思う」状態に放置し続けるならば、当然ながら一見不条理な事件(被害者にとっては不条理ではない事件は無いにしても)は、減少する要素がないということが言えると思います。
予防の観点からは厳罰化は無意味です。少なくとも犯行時は、警察も恐れていないし、刑罰を受けることも恐れていないし、死ぬことすらそれほど脅威にはなっていないと思われる事例が多くなってきているからです。そこまで考えて犯行を実行しているわけではないようなのです。
ヒューマニズムとかきれいごとの問題ではもはやなくなっていると思います。いつどこで自分や自分の家族が被害者になるかわからない世の中だという現状認識からの出発が必要な状況になってしまっていると思うのです。
悪口を言われたと思ったという場合、被害妄想という精神異常による犯行だと結び付けて考える人も多いかもしれませんが、この「悪口を言われたと思う」というその気持ち(あるいは妄想)は、人間ならば誰しも多かれ少なかれ発動される感情で、この感情があったからこそ群れを作って生き延びてきた大切な感情でして、人間としては基本的な感情だと思うのです。
アフリカのサバンナで30人ほどの群れを作って狩猟生活をしていると考えてください。
せっかく苦労してとったうさぎを一人で多く食べてしまって、他の人から冷たい目で見られているとします。はっと気が付いて、自分はかなり仲間から評価が下がってしまった(まだ言葉のない時代ですから悪口を言われるとは思わないのです。)と感じる心を持つわけです。これはまずいと思い、夕暮れの中別の動物を自力でとってきて評判を回復させたり、それができなければ次に狩りをした時に自分だけ食べないということで、償いをするわけです。それで評判を回復させようとする。このための行動原理になるのが、現代的に言えば「悪口を言われたと思った」の人間らしい効果なのです。
人間は動物として腹いっぱい食べたいと感じる本能があると同時に、群れを作る動物として仲間の中で評価を落としたくないという本能もあるということです。
仲間内の低評価が気にならないならば、自己中心的な行為をする歯止めが無くなってしまい、群れがまとまらなくなってしまいます。群れを作らなくなり、人間は簡単に肉食獣に食べられてしまい、またエサも確保できず死滅してしまったのではないでしょうか。
だから、言葉としては「他人から悪口を言われたと思った。」と言ったとしても、実際に他人が悪口を言わないことが多いし、仮に悪口を言っていたとしても本人までは伝わっていないことがほとんどだと思います。
「悪口を言われていたと思った」という場合は、実際にその他者から悪口を言われていたかどうかではなく、自分が他者から悪口を言われるような状態にあるという自覚が、不安や焦燥感と言った嫌な気持ちの核心だということになります。
それだけ人間が孤立を本能的に嫌っているということを意味しているのだと思います。孤立を嫌う心というシステムがあったために、群れを作ることができたというわけです。
そうすると、群れの中で群れの仲間として扱われない事情があると、自然と「悪口を言われている」と感じるわけです。一番の事情になることは、自分が群れの役に立っていないと感じることです。
津山事件の場合は、犯人は結核を患い農作業を禁じられていた時期がありました。学校の成績は結局よかったのですが、結核が原因で、丙種合格となり(健康状態が悪く兵隊として任務に就けない)ました。小さな集落で、農業も従事できず、兵隊にも採用されないということは、当時の日本の狭い集落の中では、とても肩身が狭い状態だったと思います。自分には能力があるのに、自分の能力によって他者から評価されないということは、不条理を感じていたかもしれません。何らかの方法で見返してやりたいといつも思っていたことでしょう。しかし、日本の山村の価値観は農業か兵隊かいずれかで名を上げるしかない極端に価値観が偏っていたため、それは実現不可能な望みだったのだと思います。
津山事件の犯人は散弾銃を入手し、それを売却してさらに性能の良い兵器を入手してしまいます。偏った公的な価値観で他者の中での自分の地位を回復できなければ、実力で自分の地位を高めようとしてしまったとはいえないでしょうか。結局、犯人は、ある日、散弾銃を持って集落の人たちを襲い、結局一晩で33人を死亡させ、自殺しました。
自分を見下していた(と感じていた)人々を射殺することで、自分が他者の命運を握っているという意識を持ったのかもしれません。自分を無いものにしないとでもいうような歪んだ願望の発露だと思います。
注目するべきことは、ある家庭では、必死に命乞いをする人がいたようです。そうしたら犯人は、「そんなに死にたくないのか」というようなことを言って、その家の人だけ発砲しなかったそうです。自分が命乞いをされるということで、その人間の命運を自分が握っていると感じ、殺さなくても自分の低評価が回復したと感じたのかもしれません。このエピソードは実際はもっといろいろな情報があり、犯行の本質の一つが垣間見えるような気がしています。松本清張氏の作品でも取り上げられていたと思います。
津山事件は、被害集落は全体の戸数は少ないのですが、当時の農村特有の地理環境である家と家との距離が離れているし、まだ電話も普及していない時代です。一件で襲撃があったとしても、それが他の家には知られにくいという事情がありました。また、警察が到着するまで相当時間がかかるという交通事情もありましたので、33人の殺害が可能となってしまいました。
今回の事件では、直ちに警察官が駆け付けました。殉職されるという悲痛な結果になりましたが、それ以上の犯行の拡大が抑止されたという大きな効果があったと思います。近隣との間が密な分だけ、警察官が駆け付けなければ、被害はさらに拡大していたかもしれません。ご冥福をお祈りすると同時に敬意を表したいと思います。
さて、津山事件の当時(昭和13年)の情報量と、インターネットの普及した現代の情報量は比較にならないほど膨大なものになっており、価値観の多様性ということも言われています。どうして、同じような無差別殺人が起きたのでしょうか。
真実は今後の捜査にかかっているとは思います。ただ、仮説として、
1)実は社会の価値観は昭和13年とそれほど変わっていないのではないか
2)現実の自分に対する評価者として想定できた人間が家族と犠牲にあわれた近所の人しかいなかった
現代社会では職業は無数にあるのですが、やはり他者とコミュニケーションを取らなければ仕事にならないし、その傾向は強く、またインターネット対応など特殊化しているのかもしれません。求められるコミュニケーションが苦手な人にとっては、昭和13年の結核患者と同じように働くことにかけては致命的な問題になっているのかもしれません。また、その人の状態に合わせた職業の選択肢が極端に少なすぎるのかもしれません。そういう発想自体が社会にないことも昭和13年と同じ状態なのかもしれません。
また、職業に限らず、多様なコミュニケーションスキルの状態に合わせた他者とのかかわりの方法という選択肢も少なすぎるのかもしれません。
いずれにしてもお二人の女性が不条理にも命を奪われました。どんなにか怖かったことでしょうか。ご冥福をお祈りするしかできません。
もっとも今回の事件については、本人独自の個別的問題点があったことも当然あると思います。
ただ、心配なことは、昭和13年の男子にとって兵隊になれないというスティグマを押されることの弊害以上に、コミュニケーションが取れないために社会から孤立している人間の人数は膨大な数に上っているということです。そして本当は、誰かにとって都合の良い人間のタイプということにすぎないのに、そのタイプになっていないということがあたかも人間にとって致命的に劣っていると評価されると思わされている人たちもたくさんいることだと思います。
その人たちを社会的に「自分は悪口を言われていると思う」状態に放置し続けるならば、当然ながら一見不条理な事件(被害者にとっては不条理ではない事件は無いにしても)は、減少する要素がないということが言えると思います。
予防の観点からは厳罰化は無意味です。少なくとも犯行時は、警察も恐れていないし、刑罰を受けることも恐れていないし、死ぬことすらそれほど脅威にはなっていないと思われる事例が多くなってきているからです。そこまで考えて犯行を実行しているわけではないようなのです。
ヒューマニズムとかきれいごとの問題ではもはやなくなっていると思います。いつどこで自分や自分の家族が被害者になるかわからない世の中だという現状認識からの出発が必要な状況になってしまっていると思うのです。
4月20日放送のNHKクローズアップ現代で取り上げた事件における、妻殺害容疑の元編集者の被告人の言い分は、弁護士実務から成り立ちうる主張なのか。 [刑事事件]
令和4年4月20日にクローズアップ現代「妻は夫に”殺された“のか 追跡・講談社元社員”事件と裁判“が放送されました。と言っても私がそれを知ったのは、放送後でしたので、NHKプラスで観ました。これは登録すると簡単に視聴できますので受信料を支払っている方は登録をお勧めいたします。
それはさておき
番組で紹介された概要を記載しておきます。
ある日、妻が包丁をもって2階の乳児が寝ているところに夫と口論をしたのち、子どもを殺すと言って入っていった。夫はそれをさせまいと妻を背後から倒し、妻を制圧した。というところは争いのない事実のようです。ここから事実に争いがあります。
<夫の主張>
すきを見て子どもを抱いて、別の子どもが寝ている子供部屋に避難した。数十分して様子をうかがうために部屋を出たところ、階段の下で妻が首をつっていた。急いで妻を下ろして救急要請をしたが死亡していた。
<検察、裁判所の主張>
夫は、妻を背後から拘束をして、背後から前腕を妻の首に押し当てて妻を窒息死させた。その後、妻を階段の下まで引きずり下ろし自殺に見せかけて110番通報をした。
裁判員裁判は、「常識的に見て」夫が妻を殺害したことは、合理的疑いをさしはさむ余地がないほど明白であるとして、妻の死は夫の殺害によるものだということで、殺人罪を適用し、懲役11年の判決を下した。
こんな事件だったそうです。
私は、その場にいたわけでもありませんし、証拠を十分検討してもいませんから、実際に夫が犯人で妻が殺害されたのか、妻が自死したのかはわかりません。ただ、自分が他の弁護士よりもよく取り扱う分野(離婚、自死、精神問題)が事件の結論を左右する問題であることから、「夫側の言い分が、『常識的に見て』成り立たないのか」どうかという一般論を語らなくてはならない立場にあるという自覚がありまして、その限度でお話をいたします。
説明事項
1 妻が突然、包丁を持ち出して子どもを殺すと夫を脅かすということがあるか。
2 階段の手すりにひもをかけて、足が立つところで自死をすることがありうるか
3 どうして夫は警察が来るまで証拠保全をしなかったか
4 どうして夫は、警察に階段から転げ落ちて死んだことにしてくれと言ったのか。
5 どうして裁判員裁判では有罪になり量刑が重くなるのか
6 産後うつとは何か 母子心中等の危険行為の由来
7 子どもに障害がある場合の母親の心理
8 鑑定人(理系科学者)が針小棒大な「科学的」意見を表明する理由
9 産後うつと夫の責任
10 自殺、他殺の動機を検討しなかった理由と裁判員裁判
1 妻が突然、包丁を持ち出して子どもを殺すと夫を脅かすということがあるか。
あります。
これは実務的には少なくないといってよいでしょう。のちに述べる産後うつの症状として、母子心中、新生児虐待も挙げられています。産後うつの他、実務で現れた事例として、統合失調疑いのケース、PTSDのケース、解離のケースなども妻が包丁などを持ち出した事例があります。でも、病気というカチッとした状態というよりも、突発的な精神的興奮が生じる場合があるという方が、医療の素人としてはしっくりきます。
家庭内で凶器を手にするのは、圧倒的に妻の方が多いです。やはり体力差を自覚しているからではないでしょうか。夫が妻の包丁を取り上げて、「あなたが死ぬことはない。私が死ぬ。」と自分に包丁を向けたじれいがありますが、離婚調停で妻は、この夫の行為をDVだと主張して離婚原因に挙げていました。
母親による夫への、子どもへの加害の予告ということは、もっと広範にあると感じています。つまり、必ずしも精神的に不調があるとまで言えない場合でも、このような発言があったという相談が結構あります。もちろん実行することはまれだと思いますが、聞いた夫は驚愕してしまいます。
例としては、子どもが泣き止まないために自分が追い詰められたことを夫に訴えるときに「子どもを床に叩き落として泣き止ませようとした」とか、「一緒にマンションから飛び降りようかと思った」などという脅かしは少なからず聞くことであって、珍しいというわけでもありません。もちろん母親の人格からの発言ではなく、多くは産後うつないしその傾向等に原因を求めるべき発言です。ただ、母親が孤立してしまっている場合には、事件に発展する可能性もあるので要注意です。いたわりと休養が特効薬だと思います。
2 階段の手すりにひもをかけて、足が立つところで自死をすることがありうるか
むしろ多くの場合がこう言う形態です。
足が立つところで首を吊るということは、自死の実態を知らない人は不思議に思うことだと思います。苦しくなって、死ぬことをやめようと思うから足が立つなら自死は途中でやめるのではないかと思うことはむしろ自然かもしれません。
しかし、自死は「死にたい」という生易しい動機で行うものではなく、「どうしても自分は死ななければならないんだ」という強固な気持ちで行為に出るようです。苦しくなってきたら死ぬことができると思いさえすれ、足を立てて生きながらえようという発想は無いようです。息ができない苦しい以上の苦しさを常時感じているということなのでしょう。死の意識が強い場合はむしろ足が立つ場所で首を吊ることが多いようにさえ感じています。クロゼット、ドアノブ、坂道の途中のわずかな傾斜を利用して体重をかけたという事例もありました。
3 どうして夫は警察が来るまで証拠保全をしなかったか
家族の情愛からは当然であり、自然な行動だと思います。
もし夫が首をつっている妻をそのままにして警察に来てもらったならば、殺人の疑いはかからなかったかもしれません。自殺を装った殺人事件ならば、きっとそうするでしょう。
しかし、夫が子供部屋に逃げ込んでから1時間も経過していなかったとすると、まだ、妻が死んでいるという確信がないというか、生きていてほしい、息を吹き返してほしいという気持ちがどうしても出てきますから、首が吊られた有害な状態から解放してあげたいということは家族として当然だと思います。たとえ死亡が確認できてもそうするでしょう。
4 どうして夫は、警察に階段から転げ落ちて死んだことにしてくれと言ったのか。
それは母親が自死したと知らせないという子どもたちに対する配慮なのでしょう。
番組によると、この点が裁判では重視されたようです。ただ、殺人犯が捜査機関、あるいは救急隊に対して死因を偽るように要請することで、自分の真犯人性をごまかすというストーリーは私はイメージが付きません。この論点は私が誤解しているのかもしれないと思うほど、リアリティにかけます。
死亡原因についてごまかすのは、当然子どもたちの受け止めの問題だと思います。二人にはお子さんは4人いらしたそうです。自死ということは、本当はその人の人格から行われることではなく、自死をせざるを得ないほど追い詰められたために自由意思や思考能力が奪われてしまって起きてしまうことです。そのような実態を世間が理解していれば、この亡くなられた母親は、後に述べる「産後うつで苦しくてたまらない状態になり、他に選択肢がなくなり自死した」ということであり、病気で亡くなった、事故でなくなったということと同一に受け止められるべきことなのです。でも日本では、自死に対するイメージが悪いということもあり、自死をタブー視したり、家族の自死を隠す風潮があります。自死した人の家族関係を詮索するような記事がマスコミでも取り上げられることがありますが、とても残念なことです。
人間の命までもエンターテイメントの対象にしてしまうそういうマスコミの状態も自死に対する差別と偏見に貢献しているのかもしれません。
自死ということであれやこれや詮索されたり、子どもたちがショックを受けることを避けようとして、子どもたちに自死が原因で亡くなったということを告げないことは、多くの事例で行われています。これは全く普通に行われていることです。ただ、警察官にお願いすることが特殊だったのだと思いますが。それだけお子さんに対する心配をしていたということなのかもしれません。
5 どうして裁判員裁判では有罪になり量刑が重くなるのか
裁判員裁判は、有罪率が高くなり、量刑が重くなる裁判形態だから。
裁判員は一般の方で、司法の関係者ではありません。つまり、証拠提出される死体の写真や解剖写真などを生まれて初めて目にする方がほとんどだと思います。当然に衝撃を受けることでしょう。そして、一般の方は犯罪慣れしていませんから、このような事件は放っておけない、きちんと決着をつけなければならないと思うわけです。人間としては当然の心理でしょう。
悲惨な事件については、誰かを制裁することで初めて自分の心の中で決着をつけることができるのでしょう。誰かが制裁されなければ、真犯人を逃してしまうような感覚になるのかもしれません。極端に言えば誰が犯人でもよいから、誰かが制裁されなければならないという「正義感」が発動されてしまうと考えるとわかりやすいと思います。しかし、制裁する相手はその裁判手続きでは被告人しかいませんから、「被告人を見逃すか、正義の立場で制裁するか」という発想になってしまう危険があると思います。
つまり、被害者がいる以上、加害者を処罰しなければならないという意識は、職業裁判官より強いわけです。特に、一人の人間を殺して、その人の楽しみや、子どもなどとの人間関係、将来の夢などを一瞬で奪い去ったのですから、そのことに対する償いはとても大きなものがふさわしいと思うわけです。そして、人が死んだその場にその人がいたということから、その制裁要求の対象が、その人に絞り込まれることも当然の発想なのでしょう。人一人殺したら、本来死刑だという考えは自然の発想なのでしょう。それなのに無罪を主張する被告人は許せないという気持ちになるのだろうと思います。
「それが国民感情であるならば、裁判員が選んだ事実認定や刑罰が正しい判決」だという考えもあるかとも思います。しかし、裁判員という一般の方は被害のインパクトが大きいため、本来判決に当たって考えなければならない事情まで判断が至らないという弱点があるように思われます。
この事案、もし、新生児を殺そうとする妻から新生児を守るために妻を制圧して死亡させたのであれば、罪名は傷害致死になる余地もあったし、新生児に対する正当防衛が成立余地も検討されなければならなかったと思います。仮に殺人罪が成立するとしても、刑の重さについての事情として子どもの命を守ろうとして制圧したという事情は刑を軽くする事情となるはずです。そうだとすると懲役11年はかなり重い刑になると私は思います。亡くなった母親のことを考えて刑を重くして、命が守られた赤ん坊のことは考慮していないような気がしてならないのです。但し、裁判員裁判では、ここまで考えることは難しいと思います。なかなか生身の人間のできることではないかもしれません。司法関係者はかなり特殊な人間たちだということは頭の片隅にとどめておいてよいと思います。
ただ、弁護人としては、今回は刑を軽くするという活動よりも、夫は妻を殺していないという点を主張しなければなりません。「もし夫の行為で妻が死んだとしたら」という仮定を立てて主張することが難しい事案だったことは間違いありません。この仮定的主張をしてしまうと、無罪主張とは矛盾するからどっちなんだと裁判官からも言われたことがあります。(ということからわかるように私ならちょろっと正当防衛や殺意の有無を主張しておくかもしれません。)
裁判員裁判は正義感から量刑が重くなり、有罪が増えると思っています。刑事裁判は正義感を優先させるのではなく、冷徹な事実認定を優先させなければならないと考えています。無駄な正義感が冤罪を生む危険があるということを司法関係者は真正面から見据えるべきではないでしょうか。
私は、裁判員裁判は、さっさとやめるべきだと思っています。
6 産後うつとは何か 母子心中等の危険行為の由来
産後うつは、その現象自体は古今東西でよく知られていることですし、国によって、あるいは地方によってその対策も慣習として確立されていることが多いようです。ただ、その慣習がどうしてできたのか、どういう効果があるのかについては伝承されませんので、住宅事情などによって廃れていっているようです。この点は社会が変わって公的にカバーするべき問題だと思います。
しかし、「産後うつ」という病名を確立したのは、20世紀と21世紀をまたいで研究されたイギリスの王立婦人科学会であるとされているようです。
要するに、妊娠・出産を原因として母親がうつになるということです。
症状としては、ものを考えることが億劫になり、すべてがうまくいかないのではないかと考えるようになり、理由もなく不安な気持ちになり、焦りが生まれる状態となり、近くにいる人間も運命も自然も自分を攻撃してくるような息が詰まるような状態になるようです。理由もなく涙があふれてきて止められないとか、自分は生きている価値がないと思い込んだりするようです。
脳科学の研究から、こういう状態は多かれ少なかれ出産後2年くらい続くということが言われています。ただ、個性があり、産後うつの傾向がはっきり表れる人もいれば、「そんなこともあったかしら」で済んでしまう場合ももちろん多いようです。
「妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因」:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-07-17
それにもかかわらず、不安そうにしている女性や焦燥感に駆られている女性を見ると、むやみに「それはあなたは悪くありません。夫のDVです。」なんていう人たちがいるものですから、ますます悲観的におびえて、やみくもに離婚に走ることがあるわけです。こういう話はさんざんこのブログでやっていますからここでは省略しようと思うのですが、本裁判がまさにこう言うことの象徴的な判断をしている可能性があるわけです。
妻が死んでいるという究極の被害を見て、夫のDVだというのですから、日本という国の機関のお家芸なのかもしれません。
産後うつならば、だれがどういう対応したかということにかかわらず重篤なうつの症状が出現してしまうのです。
産後うつの危険性は、悲観的思考と自己抑制が効かなくなる刹那的な行動にあり、乳児への虐待や母子心中につながりやすいというところにあります。この点について、専門家がきちんと対応することによって、通常は致命的な行動を防ぐことができると思います。ここで、産後うつということを全く考慮しないで夫が原因だなんてことを言って妻を脅迫するようなことをすれば、産後うつの危険性を防止することができなくなってしまうことは少し考えればわかることです。
しかし、日本では、産後うつに対する公的な支援がまだまだ不十分であると思いますし、むやみやたらな夫に対する被害意識の醸成技術の向上ばかりが追及されているような危機意識があります。
それは女性を助けようという意識ではないし、子どもの利益が全く考慮されていないということを再度述べておきます。
7 子どもに障害がある場合の母親の心理
番組では、4人のお子さんのうちおひとりに障害があったようなことも述べられていました。知的障害に限らず、発達障害、身体障害がある場合の母親の苦しみはかなり大きなものがあるようです。原因が母親にあるなんてことはないのですが、自分で自分のせいだと思い込む、夫や家族が自分のせいだと思っているのではないかと思い込む、世間が私をそう思っているのではないかと思い込んでいくようです。
子どもの連れ去り別居が起きる場合の少なくない事例でお子さんに障害があります。父親はまったく気にしていないというケースでも、母親だけは否定的感情になっていることが多いです。
連れ去り別居とは逆に、障害のある子どもを放置して家を出ていった母親というケースも複数ありました。無責任に家を出ていったという評価も可能なのかもしれませんが、それだけ母親として追い詰められてしまっているという、自死と同じような精神状態と理解した方が実務的であるのかもしれません。
何かにすがって生きていきたいという気持ちになることも多くあり、それに付け込まれて不幸になるというケースもあります。かなり精神的に追い込まれてしまい、冷静ではいられなくなっているのだろうなと思われるケースがあります。
それだけ障害を持つ母親は精神的に追い込まれる危険があるということを周囲は理解する必要があると思います。
8 鑑定人(理系科学者)が針小棒大な「科学的」意見を表明する理由
特に刑事裁判をしていると感じることがあります。
裁判員裁判で、被告人は被害者から模造刀切り付けられた瞬間に果物ナイフで被害者を刺したという事案ですが、その刺す直前から1分程度の記憶がなくなった事案でした。後に鑑定証人になる精神科医の話では、被告人に短期記憶障害が起きたのだろうということで、情動が高まったときに短期記憶障害が起きる可能性はあるということでした。裁判の3か月くらい前の、合同打ち合わせ会の時には、この医師は、驚愕、恐怖、怒り等の場合が情動が高まった場合だと説明していました。ところが、裁判当日は、怒り等のために短期記憶障害が起きるという説明を裁判員たちにしたのです。何がどう変わったのかキツネにつままれたような気持でした。反対尋問をしたのですが、ばつの悪そうな表情に私には見えました。
模造刀で襲われて驚愕したというのであれば、刺した行為も正当防衛になる可能性が出てくるのですが、怒りのために短期記憶障害というのであれば初めから殺意をもって攻撃したことになり、被告人に不利になるわけです。これを知っていてあえて、驚愕や恐怖という情動の高まりは言葉にせず、怒りなどの情動の高まりという言い方をしたわけです。情動なんて言葉さえ初めて聞く裁判員からすると、「この被告人は、怒りが高ぶっていて被害者を殺害したのだ」と考えるほかないわけです。意図的に、医学的(生理学的)見解のある部分を隠してある部分だけを述べて、意図的に裁判員のミスリードを誘ったのだと思います。
NHKの番組では、鑑定をした科学者がインタビューに答えて、「死体の様子からどうやって死んだかその原因はわからないことが多い。だから不明だと鑑定したのだ。」と述べていました。科学者として信頼できる発言だと感じました。裁判では弁護側の医師が自死、検察側の医師が殺人とそれぞれ別の鑑定結果を出したそうです。なぜ、彼らはわからないと言えなかったか3人で議論してもらいたいなと思います。
ちなみに先の私の殺人被告事件では、解剖医も証言に立ち、被告人に対する怒りを面に出してご遺体の様子を証言していました。刺し傷は肋骨の間を取って刃物が深く入っているので、とんでもない危険な行為だったと非難するような証言でした。本当はスルーしてよい証人なのですが、余りにも余計な情報を提供するので私聞いてみました。「肋骨の間を通して人を刺すということは簡単にできるのでしょうか。」、医師はますます怒りをあらわにして、「これはとても難しいことで、我々のような専門的に何度も執刀している人間であっても簡単なことではありません。」と言っていました。つまりこの事件では偶然肋骨の間に刺さったと自分で言っているのです。「あなたの怒りはどこから来るのか」ということなんです。
おそらく科学者が感情的になったり、針小棒大の結論を言っても恥じない理由は、正義感なのだと思います。裁判員と同じように、犯罪で命を失くした被害者がいる以上、「加害者は十分に制裁されなければならないという素朴な正義感」がそういう行動をさせていると思います。そして、実はその結論に直結する決定的な事項は専門外のことだから恥だと思わないのでしょう。精神科医は必ずしも病気ではない短期記憶障害や情動について専門ではなかっただろうし、解剖医は刺し傷から人を刺す行為を具体的にイメージすることなんていう業務はないのでしょう。
しかし、科学者として呼ばれて見解を述べているのですから、科学の真実に忠実にならなければ、科学に対する冒とくになると思います。科学的真実よりも政策を優先させるということは古典的な科学のモラルの争点のはずです。
科学者は嘘をつくとまでは言いませんが、針小棒大な証言をするものだと考えてよいと思います。
9 産後うつと夫の責任
仮に、奥さんが産後うつだとしても、夫がそれを受け止められなかったことは重く受け止めて生きていかなくてはならないと被告人である夫の友人が言っていたかのようなシーンがありました。
それはそうかもしれませんが、番組の時間の制約なのでしょうが、私はあまりにも形式的な話になっていると思いました。
例えば、日本の産後うつに対する手当である床上げという風習も、家に家事の担い手が妻だけでなく姑や小姑あるいはお手伝いさんなんかがいる場合はできますが、マンションで夫婦と子どもだけで暮らしていたら、とても出産直後だからと言って母親は休んでばかりはいられません。
「産後うつと母親による子どもの殺人と脳科学 床上げの意味、本当の効果」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2014-12-11
そもそも産後うつということは、母子心中などでスキャンダラスに取り上げられますが、その原理なり、症状なり、対処方法についてはあまり議論になりません。せいぜいうつ症状に対して対症療法が研究されるだけです。
夫だけでなく、職場や社会、自治体が、産後うつについて十分な情報共有をしていないということが一番の問題なのだと私は思います。昔の日本のように年寄りの言うことを素直に聞く時代ではないので、このような原理論理が共有されなければなりません。
本当に必要な情報は、予算がつかないからでしょうか、一般に広まらないという特徴があるようです。
夫に原因を求めても、妻は救われないのです。生まれたばかりの子どもだけでなく上の子どもたちの世話をしないわけにはいかないのです。産後うつは、社会的に解決するべき問題だと私は思います。生活保障と子育てサポートが必要です。地域ごとに子育て支援施設を充実させて、安心と労りを広めていかなければ解決しない問題です。
精神の問題ですが、精神論では解決しない問題だと思います。予算が必要なのです。
社会の問題を夫の責任にすり替えて夫を攻撃するのは、前にも産後クライシスの問題をこの記事で取り上げましたが、実はNHKのお家芸だと思っています。
「もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-10-12
10 自殺、他殺の動機を検討しなかった理由と裁判員裁判
検察を不利にしない訴訟指揮の可能性がある
自殺であっても他殺であっても、その動機が論点にならなかったことが番組では指摘されています。なるほどこれは不思議なことです。刑事裁判では検察が強引に動機を特定することが多いからです。
番組では、同期の議論をすると裁判が長くなるので、裁判員の負担を軽減するために短時間で終わりにしようと動機を取り上げなかったのだろうと分析していました。
そうだとすると、裁判の目的である「冷徹な事実認定を行って、刑事政策的観点から処遇を決める」ということとは関係のないところで、裁判の方法が変えられてしまったということです。これでは裁判員裁判はやはり早くやめにするべきだということしか出てきません。
私は、動機が取り上げられなかった理由はもっと単純である可能性があると思っています。つまり、検察が夫が妻を殺す動機について全く思いつかなかったからということです。ここでいう「想いつかない」ということは、虚偽事実をでっちあげるということではありません。夫が殺害を認めていませんから自白が取れないということ、家庭内のことであり妻を殺す動機など客観的事情から外部には出てこないということから直接動機を割り出すことができないということです。第三者などから事情を聴いて合理的に推測するしかないのです。そして、結果的として、本件では夫が妻を殺す動機を推測するための事情が出てこなかったということになります。そうだとすると、無理して殺人容疑にする必要はなかったということが、裁判員裁判前の刑事裁判の扱いだったということになるはずです。
もし殺人事件にするなら、検察は「動機不明で殺害した」という主張をしなければなりません。動機を論点にすると、初めから敗訴の主張を自ら行うことになるようなものです。それでは、殺人罪で起訴できないということなのでしょう。問題はだから殺人罪では起訴しないということをするべきだったのに、無理して動機を論点としないで殺人罪として起訴をしてしまったという横車を押したような起訴をしたというべきなのだろうと思います。そして、裁判体はこの起訴が無理であることを隠ぺいする訴訟指揮をしたということになろうかと思われます。
以上みてきたように、弁護側の主張、あるいは番組の主張は荒唐無稽な主張ではなく、実務的に見ればもっともな主張だということです。但し、実際の事件を担当しているわけではないので本件の結論がどうあるべきかということ、夫は無罪だと主張する記事ではないことはくれぐれもお断りしておきます。
番組は最高裁での審理を期待していますが、刑事訴訟法上は、最高裁判所が上告を受け入れなければいけない事情は無いようです。あるとしたら世論が高まって、実質的には職権で判断をして差し戻すということになるのだろうと思います。裁判は、必ずしも正しい認定をして適切な処遇をするシステムにはなっていないのです。このことに国民はもっと目を向けるべきです。
それはさておき
番組で紹介された概要を記載しておきます。
ある日、妻が包丁をもって2階の乳児が寝ているところに夫と口論をしたのち、子どもを殺すと言って入っていった。夫はそれをさせまいと妻を背後から倒し、妻を制圧した。というところは争いのない事実のようです。ここから事実に争いがあります。
<夫の主張>
すきを見て子どもを抱いて、別の子どもが寝ている子供部屋に避難した。数十分して様子をうかがうために部屋を出たところ、階段の下で妻が首をつっていた。急いで妻を下ろして救急要請をしたが死亡していた。
<検察、裁判所の主張>
夫は、妻を背後から拘束をして、背後から前腕を妻の首に押し当てて妻を窒息死させた。その後、妻を階段の下まで引きずり下ろし自殺に見せかけて110番通報をした。
裁判員裁判は、「常識的に見て」夫が妻を殺害したことは、合理的疑いをさしはさむ余地がないほど明白であるとして、妻の死は夫の殺害によるものだということで、殺人罪を適用し、懲役11年の判決を下した。
こんな事件だったそうです。
私は、その場にいたわけでもありませんし、証拠を十分検討してもいませんから、実際に夫が犯人で妻が殺害されたのか、妻が自死したのかはわかりません。ただ、自分が他の弁護士よりもよく取り扱う分野(離婚、自死、精神問題)が事件の結論を左右する問題であることから、「夫側の言い分が、『常識的に見て』成り立たないのか」どうかという一般論を語らなくてはならない立場にあるという自覚がありまして、その限度でお話をいたします。
説明事項
1 妻が突然、包丁を持ち出して子どもを殺すと夫を脅かすということがあるか。
2 階段の手すりにひもをかけて、足が立つところで自死をすることがありうるか
3 どうして夫は警察が来るまで証拠保全をしなかったか
4 どうして夫は、警察に階段から転げ落ちて死んだことにしてくれと言ったのか。
5 どうして裁判員裁判では有罪になり量刑が重くなるのか
6 産後うつとは何か 母子心中等の危険行為の由来
7 子どもに障害がある場合の母親の心理
8 鑑定人(理系科学者)が針小棒大な「科学的」意見を表明する理由
9 産後うつと夫の責任
10 自殺、他殺の動機を検討しなかった理由と裁判員裁判
1 妻が突然、包丁を持ち出して子どもを殺すと夫を脅かすということがあるか。
あります。
これは実務的には少なくないといってよいでしょう。のちに述べる産後うつの症状として、母子心中、新生児虐待も挙げられています。産後うつの他、実務で現れた事例として、統合失調疑いのケース、PTSDのケース、解離のケースなども妻が包丁などを持ち出した事例があります。でも、病気というカチッとした状態というよりも、突発的な精神的興奮が生じる場合があるという方が、医療の素人としてはしっくりきます。
家庭内で凶器を手にするのは、圧倒的に妻の方が多いです。やはり体力差を自覚しているからではないでしょうか。夫が妻の包丁を取り上げて、「あなたが死ぬことはない。私が死ぬ。」と自分に包丁を向けたじれいがありますが、離婚調停で妻は、この夫の行為をDVだと主張して離婚原因に挙げていました。
母親による夫への、子どもへの加害の予告ということは、もっと広範にあると感じています。つまり、必ずしも精神的に不調があるとまで言えない場合でも、このような発言があったという相談が結構あります。もちろん実行することはまれだと思いますが、聞いた夫は驚愕してしまいます。
例としては、子どもが泣き止まないために自分が追い詰められたことを夫に訴えるときに「子どもを床に叩き落として泣き止ませようとした」とか、「一緒にマンションから飛び降りようかと思った」などという脅かしは少なからず聞くことであって、珍しいというわけでもありません。もちろん母親の人格からの発言ではなく、多くは産後うつないしその傾向等に原因を求めるべき発言です。ただ、母親が孤立してしまっている場合には、事件に発展する可能性もあるので要注意です。いたわりと休養が特効薬だと思います。
2 階段の手すりにひもをかけて、足が立つところで自死をすることがありうるか
むしろ多くの場合がこう言う形態です。
足が立つところで首を吊るということは、自死の実態を知らない人は不思議に思うことだと思います。苦しくなって、死ぬことをやめようと思うから足が立つなら自死は途中でやめるのではないかと思うことはむしろ自然かもしれません。
しかし、自死は「死にたい」という生易しい動機で行うものではなく、「どうしても自分は死ななければならないんだ」という強固な気持ちで行為に出るようです。苦しくなってきたら死ぬことができると思いさえすれ、足を立てて生きながらえようという発想は無いようです。息ができない苦しい以上の苦しさを常時感じているということなのでしょう。死の意識が強い場合はむしろ足が立つ場所で首を吊ることが多いようにさえ感じています。クロゼット、ドアノブ、坂道の途中のわずかな傾斜を利用して体重をかけたという事例もありました。
3 どうして夫は警察が来るまで証拠保全をしなかったか
家族の情愛からは当然であり、自然な行動だと思います。
もし夫が首をつっている妻をそのままにして警察に来てもらったならば、殺人の疑いはかからなかったかもしれません。自殺を装った殺人事件ならば、きっとそうするでしょう。
しかし、夫が子供部屋に逃げ込んでから1時間も経過していなかったとすると、まだ、妻が死んでいるという確信がないというか、生きていてほしい、息を吹き返してほしいという気持ちがどうしても出てきますから、首が吊られた有害な状態から解放してあげたいということは家族として当然だと思います。たとえ死亡が確認できてもそうするでしょう。
4 どうして夫は、警察に階段から転げ落ちて死んだことにしてくれと言ったのか。
それは母親が自死したと知らせないという子どもたちに対する配慮なのでしょう。
番組によると、この点が裁判では重視されたようです。ただ、殺人犯が捜査機関、あるいは救急隊に対して死因を偽るように要請することで、自分の真犯人性をごまかすというストーリーは私はイメージが付きません。この論点は私が誤解しているのかもしれないと思うほど、リアリティにかけます。
死亡原因についてごまかすのは、当然子どもたちの受け止めの問題だと思います。二人にはお子さんは4人いらしたそうです。自死ということは、本当はその人の人格から行われることではなく、自死をせざるを得ないほど追い詰められたために自由意思や思考能力が奪われてしまって起きてしまうことです。そのような実態を世間が理解していれば、この亡くなられた母親は、後に述べる「産後うつで苦しくてたまらない状態になり、他に選択肢がなくなり自死した」ということであり、病気で亡くなった、事故でなくなったということと同一に受け止められるべきことなのです。でも日本では、自死に対するイメージが悪いということもあり、自死をタブー視したり、家族の自死を隠す風潮があります。自死した人の家族関係を詮索するような記事がマスコミでも取り上げられることがありますが、とても残念なことです。
人間の命までもエンターテイメントの対象にしてしまうそういうマスコミの状態も自死に対する差別と偏見に貢献しているのかもしれません。
自死ということであれやこれや詮索されたり、子どもたちがショックを受けることを避けようとして、子どもたちに自死が原因で亡くなったということを告げないことは、多くの事例で行われています。これは全く普通に行われていることです。ただ、警察官にお願いすることが特殊だったのだと思いますが。それだけお子さんに対する心配をしていたということなのかもしれません。
5 どうして裁判員裁判では有罪になり量刑が重くなるのか
裁判員裁判は、有罪率が高くなり、量刑が重くなる裁判形態だから。
裁判員は一般の方で、司法の関係者ではありません。つまり、証拠提出される死体の写真や解剖写真などを生まれて初めて目にする方がほとんどだと思います。当然に衝撃を受けることでしょう。そして、一般の方は犯罪慣れしていませんから、このような事件は放っておけない、きちんと決着をつけなければならないと思うわけです。人間としては当然の心理でしょう。
悲惨な事件については、誰かを制裁することで初めて自分の心の中で決着をつけることができるのでしょう。誰かが制裁されなければ、真犯人を逃してしまうような感覚になるのかもしれません。極端に言えば誰が犯人でもよいから、誰かが制裁されなければならないという「正義感」が発動されてしまうと考えるとわかりやすいと思います。しかし、制裁する相手はその裁判手続きでは被告人しかいませんから、「被告人を見逃すか、正義の立場で制裁するか」という発想になってしまう危険があると思います。
つまり、被害者がいる以上、加害者を処罰しなければならないという意識は、職業裁判官より強いわけです。特に、一人の人間を殺して、その人の楽しみや、子どもなどとの人間関係、将来の夢などを一瞬で奪い去ったのですから、そのことに対する償いはとても大きなものがふさわしいと思うわけです。そして、人が死んだその場にその人がいたということから、その制裁要求の対象が、その人に絞り込まれることも当然の発想なのでしょう。人一人殺したら、本来死刑だという考えは自然の発想なのでしょう。それなのに無罪を主張する被告人は許せないという気持ちになるのだろうと思います。
「それが国民感情であるならば、裁判員が選んだ事実認定や刑罰が正しい判決」だという考えもあるかとも思います。しかし、裁判員という一般の方は被害のインパクトが大きいため、本来判決に当たって考えなければならない事情まで判断が至らないという弱点があるように思われます。
この事案、もし、新生児を殺そうとする妻から新生児を守るために妻を制圧して死亡させたのであれば、罪名は傷害致死になる余地もあったし、新生児に対する正当防衛が成立余地も検討されなければならなかったと思います。仮に殺人罪が成立するとしても、刑の重さについての事情として子どもの命を守ろうとして制圧したという事情は刑を軽くする事情となるはずです。そうだとすると懲役11年はかなり重い刑になると私は思います。亡くなった母親のことを考えて刑を重くして、命が守られた赤ん坊のことは考慮していないような気がしてならないのです。但し、裁判員裁判では、ここまで考えることは難しいと思います。なかなか生身の人間のできることではないかもしれません。司法関係者はかなり特殊な人間たちだということは頭の片隅にとどめておいてよいと思います。
ただ、弁護人としては、今回は刑を軽くするという活動よりも、夫は妻を殺していないという点を主張しなければなりません。「もし夫の行為で妻が死んだとしたら」という仮定を立てて主張することが難しい事案だったことは間違いありません。この仮定的主張をしてしまうと、無罪主張とは矛盾するからどっちなんだと裁判官からも言われたことがあります。(ということからわかるように私ならちょろっと正当防衛や殺意の有無を主張しておくかもしれません。)
裁判員裁判は正義感から量刑が重くなり、有罪が増えると思っています。刑事裁判は正義感を優先させるのではなく、冷徹な事実認定を優先させなければならないと考えています。無駄な正義感が冤罪を生む危険があるということを司法関係者は真正面から見据えるべきではないでしょうか。
私は、裁判員裁判は、さっさとやめるべきだと思っています。
6 産後うつとは何か 母子心中等の危険行為の由来
産後うつは、その現象自体は古今東西でよく知られていることですし、国によって、あるいは地方によってその対策も慣習として確立されていることが多いようです。ただ、その慣習がどうしてできたのか、どういう効果があるのかについては伝承されませんので、住宅事情などによって廃れていっているようです。この点は社会が変わって公的にカバーするべき問題だと思います。
しかし、「産後うつ」という病名を確立したのは、20世紀と21世紀をまたいで研究されたイギリスの王立婦人科学会であるとされているようです。
要するに、妊娠・出産を原因として母親がうつになるということです。
症状としては、ものを考えることが億劫になり、すべてがうまくいかないのではないかと考えるようになり、理由もなく不安な気持ちになり、焦りが生まれる状態となり、近くにいる人間も運命も自然も自分を攻撃してくるような息が詰まるような状態になるようです。理由もなく涙があふれてきて止められないとか、自分は生きている価値がないと思い込んだりするようです。
脳科学の研究から、こういう状態は多かれ少なかれ出産後2年くらい続くということが言われています。ただ、個性があり、産後うつの傾向がはっきり表れる人もいれば、「そんなこともあったかしら」で済んでしまう場合ももちろん多いようです。
「妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因」:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-07-17
それにもかかわらず、不安そうにしている女性や焦燥感に駆られている女性を見ると、むやみに「それはあなたは悪くありません。夫のDVです。」なんていう人たちがいるものですから、ますます悲観的におびえて、やみくもに離婚に走ることがあるわけです。こういう話はさんざんこのブログでやっていますからここでは省略しようと思うのですが、本裁判がまさにこう言うことの象徴的な判断をしている可能性があるわけです。
妻が死んでいるという究極の被害を見て、夫のDVだというのですから、日本という国の機関のお家芸なのかもしれません。
産後うつならば、だれがどういう対応したかということにかかわらず重篤なうつの症状が出現してしまうのです。
産後うつの危険性は、悲観的思考と自己抑制が効かなくなる刹那的な行動にあり、乳児への虐待や母子心中につながりやすいというところにあります。この点について、専門家がきちんと対応することによって、通常は致命的な行動を防ぐことができると思います。ここで、産後うつということを全く考慮しないで夫が原因だなんてことを言って妻を脅迫するようなことをすれば、産後うつの危険性を防止することができなくなってしまうことは少し考えればわかることです。
しかし、日本では、産後うつに対する公的な支援がまだまだ不十分であると思いますし、むやみやたらな夫に対する被害意識の醸成技術の向上ばかりが追及されているような危機意識があります。
それは女性を助けようという意識ではないし、子どもの利益が全く考慮されていないということを再度述べておきます。
7 子どもに障害がある場合の母親の心理
番組では、4人のお子さんのうちおひとりに障害があったようなことも述べられていました。知的障害に限らず、発達障害、身体障害がある場合の母親の苦しみはかなり大きなものがあるようです。原因が母親にあるなんてことはないのですが、自分で自分のせいだと思い込む、夫や家族が自分のせいだと思っているのではないかと思い込む、世間が私をそう思っているのではないかと思い込んでいくようです。
子どもの連れ去り別居が起きる場合の少なくない事例でお子さんに障害があります。父親はまったく気にしていないというケースでも、母親だけは否定的感情になっていることが多いです。
連れ去り別居とは逆に、障害のある子どもを放置して家を出ていった母親というケースも複数ありました。無責任に家を出ていったという評価も可能なのかもしれませんが、それだけ母親として追い詰められてしまっているという、自死と同じような精神状態と理解した方が実務的であるのかもしれません。
何かにすがって生きていきたいという気持ちになることも多くあり、それに付け込まれて不幸になるというケースもあります。かなり精神的に追い込まれてしまい、冷静ではいられなくなっているのだろうなと思われるケースがあります。
それだけ障害を持つ母親は精神的に追い込まれる危険があるということを周囲は理解する必要があると思います。
8 鑑定人(理系科学者)が針小棒大な「科学的」意見を表明する理由
特に刑事裁判をしていると感じることがあります。
裁判員裁判で、被告人は被害者から模造刀切り付けられた瞬間に果物ナイフで被害者を刺したという事案ですが、その刺す直前から1分程度の記憶がなくなった事案でした。後に鑑定証人になる精神科医の話では、被告人に短期記憶障害が起きたのだろうということで、情動が高まったときに短期記憶障害が起きる可能性はあるということでした。裁判の3か月くらい前の、合同打ち合わせ会の時には、この医師は、驚愕、恐怖、怒り等の場合が情動が高まった場合だと説明していました。ところが、裁判当日は、怒り等のために短期記憶障害が起きるという説明を裁判員たちにしたのです。何がどう変わったのかキツネにつままれたような気持でした。反対尋問をしたのですが、ばつの悪そうな表情に私には見えました。
模造刀で襲われて驚愕したというのであれば、刺した行為も正当防衛になる可能性が出てくるのですが、怒りのために短期記憶障害というのであれば初めから殺意をもって攻撃したことになり、被告人に不利になるわけです。これを知っていてあえて、驚愕や恐怖という情動の高まりは言葉にせず、怒りなどの情動の高まりという言い方をしたわけです。情動なんて言葉さえ初めて聞く裁判員からすると、「この被告人は、怒りが高ぶっていて被害者を殺害したのだ」と考えるほかないわけです。意図的に、医学的(生理学的)見解のある部分を隠してある部分だけを述べて、意図的に裁判員のミスリードを誘ったのだと思います。
NHKの番組では、鑑定をした科学者がインタビューに答えて、「死体の様子からどうやって死んだかその原因はわからないことが多い。だから不明だと鑑定したのだ。」と述べていました。科学者として信頼できる発言だと感じました。裁判では弁護側の医師が自死、検察側の医師が殺人とそれぞれ別の鑑定結果を出したそうです。なぜ、彼らはわからないと言えなかったか3人で議論してもらいたいなと思います。
ちなみに先の私の殺人被告事件では、解剖医も証言に立ち、被告人に対する怒りを面に出してご遺体の様子を証言していました。刺し傷は肋骨の間を取って刃物が深く入っているので、とんでもない危険な行為だったと非難するような証言でした。本当はスルーしてよい証人なのですが、余りにも余計な情報を提供するので私聞いてみました。「肋骨の間を通して人を刺すということは簡単にできるのでしょうか。」、医師はますます怒りをあらわにして、「これはとても難しいことで、我々のような専門的に何度も執刀している人間であっても簡単なことではありません。」と言っていました。つまりこの事件では偶然肋骨の間に刺さったと自分で言っているのです。「あなたの怒りはどこから来るのか」ということなんです。
おそらく科学者が感情的になったり、針小棒大の結論を言っても恥じない理由は、正義感なのだと思います。裁判員と同じように、犯罪で命を失くした被害者がいる以上、「加害者は十分に制裁されなければならないという素朴な正義感」がそういう行動をさせていると思います。そして、実はその結論に直結する決定的な事項は専門外のことだから恥だと思わないのでしょう。精神科医は必ずしも病気ではない短期記憶障害や情動について専門ではなかっただろうし、解剖医は刺し傷から人を刺す行為を具体的にイメージすることなんていう業務はないのでしょう。
しかし、科学者として呼ばれて見解を述べているのですから、科学の真実に忠実にならなければ、科学に対する冒とくになると思います。科学的真実よりも政策を優先させるということは古典的な科学のモラルの争点のはずです。
科学者は嘘をつくとまでは言いませんが、針小棒大な証言をするものだと考えてよいと思います。
9 産後うつと夫の責任
仮に、奥さんが産後うつだとしても、夫がそれを受け止められなかったことは重く受け止めて生きていかなくてはならないと被告人である夫の友人が言っていたかのようなシーンがありました。
それはそうかもしれませんが、番組の時間の制約なのでしょうが、私はあまりにも形式的な話になっていると思いました。
例えば、日本の産後うつに対する手当である床上げという風習も、家に家事の担い手が妻だけでなく姑や小姑あるいはお手伝いさんなんかがいる場合はできますが、マンションで夫婦と子どもだけで暮らしていたら、とても出産直後だからと言って母親は休んでばかりはいられません。
「産後うつと母親による子どもの殺人と脳科学 床上げの意味、本当の効果」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2014-12-11
そもそも産後うつということは、母子心中などでスキャンダラスに取り上げられますが、その原理なり、症状なり、対処方法についてはあまり議論になりません。せいぜいうつ症状に対して対症療法が研究されるだけです。
夫だけでなく、職場や社会、自治体が、産後うつについて十分な情報共有をしていないということが一番の問題なのだと私は思います。昔の日本のように年寄りの言うことを素直に聞く時代ではないので、このような原理論理が共有されなければなりません。
本当に必要な情報は、予算がつかないからでしょうか、一般に広まらないという特徴があるようです。
夫に原因を求めても、妻は救われないのです。生まれたばかりの子どもだけでなく上の子どもたちの世話をしないわけにはいかないのです。産後うつは、社会的に解決するべき問題だと私は思います。生活保障と子育てサポートが必要です。地域ごとに子育て支援施設を充実させて、安心と労りを広めていかなければ解決しない問題です。
精神の問題ですが、精神論では解決しない問題だと思います。予算が必要なのです。
社会の問題を夫の責任にすり替えて夫を攻撃するのは、前にも産後クライシスの問題をこの記事で取り上げましたが、実はNHKのお家芸だと思っています。
「もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-10-12
10 自殺、他殺の動機を検討しなかった理由と裁判員裁判
検察を不利にしない訴訟指揮の可能性がある
自殺であっても他殺であっても、その動機が論点にならなかったことが番組では指摘されています。なるほどこれは不思議なことです。刑事裁判では検察が強引に動機を特定することが多いからです。
番組では、同期の議論をすると裁判が長くなるので、裁判員の負担を軽減するために短時間で終わりにしようと動機を取り上げなかったのだろうと分析していました。
そうだとすると、裁判の目的である「冷徹な事実認定を行って、刑事政策的観点から処遇を決める」ということとは関係のないところで、裁判の方法が変えられてしまったということです。これでは裁判員裁判はやはり早くやめにするべきだということしか出てきません。
私は、動機が取り上げられなかった理由はもっと単純である可能性があると思っています。つまり、検察が夫が妻を殺す動機について全く思いつかなかったからということです。ここでいう「想いつかない」ということは、虚偽事実をでっちあげるということではありません。夫が殺害を認めていませんから自白が取れないということ、家庭内のことであり妻を殺す動機など客観的事情から外部には出てこないということから直接動機を割り出すことができないということです。第三者などから事情を聴いて合理的に推測するしかないのです。そして、結果的として、本件では夫が妻を殺す動機を推測するための事情が出てこなかったということになります。そうだとすると、無理して殺人容疑にする必要はなかったということが、裁判員裁判前の刑事裁判の扱いだったということになるはずです。
もし殺人事件にするなら、検察は「動機不明で殺害した」という主張をしなければなりません。動機を論点にすると、初めから敗訴の主張を自ら行うことになるようなものです。それでは、殺人罪で起訴できないということなのでしょう。問題はだから殺人罪では起訴しないということをするべきだったのに、無理して動機を論点としないで殺人罪として起訴をしてしまったという横車を押したような起訴をしたというべきなのだろうと思います。そして、裁判体はこの起訴が無理であることを隠ぺいする訴訟指揮をしたということになろうかと思われます。
以上みてきたように、弁護側の主張、あるいは番組の主張は荒唐無稽な主張ではなく、実務的に見ればもっともな主張だということです。但し、実際の事件を担当しているわけではないので本件の結論がどうあるべきかということ、夫は無罪だと主張する記事ではないことはくれぐれもお断りしておきます。
番組は最高裁での審理を期待していますが、刑事訴訟法上は、最高裁判所が上告を受け入れなければいけない事情は無いようです。あるとしたら世論が高まって、実質的には職権で判断をして差し戻すということになるのだろうと思います。裁判は、必ずしも正しい認定をして適切な処遇をするシステムにはなっていないのです。このことに国民はもっと目を向けるべきです。
幼児がしない万引きを大人がする理由 :万引き犯(トランス型)の犯行時の意識変容の仮説を基に、規範意識が低下する機序についての一考察 被告人質問までに弁護士が行うべきこと [刑事事件]
万引きは、店舗から商品を、お金を払わないで持ち去ることです。盗みですから、窃盗として刑法235条で罰せられます。10年以下の懲役または50万円以下の罰金という重い罪です。資本主義経済の根本を揺るがす重大犯罪だから重い刑を科したと説明する学者さんもいるところで、万引きくらい見逃してくれよということはとてもできないことは確かです。
不思議なことに、小さな子はあまり万引きをしません。もしかしたら、小さい子がお店に行くときは、いつも親が一緒だから親が注意してみているという単純な理由かもしれませんが、比較的低年齢から、ここにある品物はお金を出して買うものだということを理解しているのかもしれません。
大人の万引き犯も、もちろん、お金を出して買わなければならないということは知っています。知っているのですが、万引きが止められなくなる事情があるようです。
ただ、一口に万引きといっても、少なくとも大きく二つに分けられるようです。
一つは盗んだ商品を中古屋さんに買い取ってお金に変えようとする類型(転売目的型)です。盗んでいること、盗品を売却するということは、はっきりと意識的に行っています。どの商品を盗んで、どこで買い取ってもらおうということを計画的に行っていることも多いです。
もう一つは、今回のお話のトランス型とでもいうような類型です。実は、この類型の万引きがいわゆる大人(特に高齢者)の万引きの典型的な類型です。しかしながら、弁護士であっても、その心理過程をよく理解していない人が多くいます。ケチでやったとか、ストレス発散のためにスリルを感じたかったのかとか、そういう人格の人だというような決めつけをしていることが多く見られます。それではなかなか弁護ができないと思いますし、再犯の可能性を低下させることもできないと思います。弁護士が付く意味があまりないと思います。
こういう類型は、警察の調書に「むしゃくしゃしてやった。」と書かれていることが多くあります。ある意味、警察官の理解の方が真理に迫っているといえるかもしれません。
家族など関係者からも軽く考えられることが多いのです。その一つの原因として、大した金額の商品を盗むわけではなく、それくらいのものを買うお金は持っているから、どうして万引きしたのかわからず、「魔が差した」くらいの扱いになるからです。もう二度としないだろうと誰しも思うのですが、このタイプの万引きは繰り返されます。
最初はすぐにお金を払って解放されたり、警察官から説教されて終わりになることもあります。二度目は、事情によっては逮捕までされないということがあり、罰金刑や執行猶予となることも多いのですが、その後も周囲の見込みに反して万引きを繰り返し、やがて刑務所に収監され、懲役という強制労働を行うことになってしまいます。もちろん、事情によっては、初めての万引きでも刑務所で強制労働の判決が出ることもないとは限りません。
また、一度逮捕されればわかるはずなのですが、大きな店舗、つまり、誰も見ていない、盗みやすそうな店舗ほど、防犯カメラがしっかりと撮影しています。バックヤードでは巨大なモニターが、8分割等各防犯カメラの映像を同時に映しており、犯人が周囲を伺ってモノをとる瞬間を担当者が見ています。録画もされています。その他さまざまな工夫がなされており、万引きは確実に分かります。その場で捕まらなくても店には証拠が残っています。
おそらく万引きを繰り返す人は、盗むことは悪いことだとか、万引きは必ず捕まってしまうということさえ、その瞬間は忘れていて、やめようという気持ちにはならないようです。盗む直前の心理状態は、悪いことだから止めよう、捕まるからやめようと思えない状態になっているということが特徴のようです。
盗むことしか考えていないし、見つからないようにしようとは考えているようなのですが、どうやって見つからないようにするかということまで実際はあまり考えていません。ちょっとレクチャーを受けた人であれば、あからさまにこれから盗みますという表情としぐさをしていることがわかるようです。現場は防犯カメラだけでなく、その場にいる私服ガードマン、場合によっては死角にいる制服店員にみられており、出口まで一緒に出てくることも気が付かず、自動ドアの向こうに出たところで肩をたたかれるわけです。その様子は一部始終撮影されていて、裁判の証拠として提出されます、
この状態を極端にした万引き事案がありました。
その人は、深夜もやっている中古販売店に行って、自分の好きなある商品を万引きしたとして逮捕されました。自分で自動車を運転して、自分が欲しかった商品を、その商品売り場に行って、持って帰ろうとしたのです。
私が警察行って面会したところ、その人はその時の記憶がなく、気が付いたら警察署の拘置施設(通称ブタバコ)にいたというのです。自動車を運転できるくらい意識があり、たくさんある商品の中から欲しかった商品を手にしたし、万引きしようとして万引きしたのだから、知らないというのは下手な言い訳、噓だと感じるのが普通かもしれません。
私は、こんな嘘ついても意味がないのだから、むしろ嘘ではないのかもしれないと思って話の続きを聞きました。その人は、不眠症で精神科医から睡眠薬をもらって飲んでいたそうです。睡眠薬だけでは眠れなくなっていたので、お酒を一緒に飲んだんだそうです。お酒の弱い人だったので、いつもはビール一杯で眠っていたそうです。本人もこの日もそれで眠ったと思っていたようです。ところが、気が付いたら警察にいたというのです。自動車まで運転したと聞かされて驚いたようでした。
服薬していたのはマイスリーハルシオンという寝つきをよくするベンゾジアゼピン系の睡眠薬でした。調べてみたら、アルコールと併用すると、異常な効果が生まれて夢遊病みたいな状態になることがあるということでした。また、逮捕時の状態を聞いてみると、目つきが明らかに異常で、口が閉まらない状態でよだれが垂れ流しで、店員が近寄って注意しても聞こえないようにその結構大きい商品を手当たり次第にいくつもカバンに入れようとしてたという明らかに異常な状態だったとのことでした。寮住まいだったので、同僚から話を聞いていみたところ、前にも酒臭い息で自動車に乗ろうとしていたことがあり、止めたらおとなしく帰ったということがあったということでした。
私は文献を整え、同僚から陳述書をとり、向精神薬とアルコールの併用の危険性について本人にレクチャーを行い、二度と併用しないという反省を引き出し、検察官と協議をさせていただきました。飲み込みの早い検察官だったため、起訴されずに釈放されました。
この中古品の事件の人は、薬物による影響でしたが、本人の自覚がないまま、自動車を運転して万引き行為ができていました。意識がなく記憶もなかったけれど(記憶ができない意識状態)、行為があったというおかしな状態でした。この人のケースでは、服薬から意識が戻るまで数時間(おそらく6,7時間)ありました。
ここで話が戻るわけですが、薬物の影響のないトランス型万引きの意識状態も、このような状態なのだと考えられないかということなのです。もっともそのトランス状態は、せいぜい数分から数十分程度のことだと思います。また、記憶がなくなるわけでもありません。犯行時の記憶もあることが多いです。
でもよく似ていることは、自動ドアの外で肩をたたかれた時に「ハッ」と我に返るということを、多くの人が経験するということです。上手に話を聞き出すと、それは、「やばい、みつかってしまった。」という「ハッ」ではなく、あれ今自分は何をしていたのだろうという「ハッ」のようなのです。
もちろんだからといって、すべてのトランス型万引き犯が無罪になるわけではないですし、責任が軽減されることもほとんどないでしょう。しかし、このトランス状態を起こさないようにできれば、また万引きをしなくて済みます。トランスという言葉を使わないでストーリーを作ることで説得力ある情状弁護になるのです。裁判官が、「なるほど再犯の可能性が低い」と思えば、刑が軽くなるのは刑事政策上当然だからです。もっとも被告人の的を射た反省も必要です。
ところで、では、このトランス状態は、薬物の影響もない場合に、どうやって起きるのでしょうか。
手がかりとしては、万引きの被疑者(容疑者というか犯人というか)から事情を聴いた警察官の調書があります。警察官の多くは、偏見を持たずに、なるべくリアルに事情を話させようとするようです。とても良い資料になります。もっとも、被疑者の方が、自分の心理状態を正確に話すことができませんので、読む側の理解力で補う必要があります。そうすると、「むしゃくしゃしてやった。」とか、「頭の中がもやもやしていた。」とか、「逮捕されるまで頭の中にカスミがかかっているような感じだったとか。」なかなか興味深い表現になっていることがわかります。警察は、どうしてむしゃくしゃしたか、もやもやしたかということについても、熱心に事情聴取するのですが、はっきりと共感できる話はあまりありません。しかし、断片的に、本丸にヒットしていることが、すべてがわかった後で気が付くことができます。もしかしたら、下手な弁護士よりも被疑者の人生によりそっておられるのかもしれないと感心することが多いです。
いずれにしても弁護士は、その警察官の地道な捜査をおいしくいただいて考えることができますから、つまり頭さえ使えばよい状態まで持ってきてもらっているから、楽なのかもしれません。これは裁判官から見ればもっとそうなのだろうと思うのですが、調べているときは夢中で、断片的な知識がアトランダムに入ってくるので、全体像が見えにくいという宿命があるのです。
さて、もやもや、むしゃくしゃの原因について例示してみましょう。
高齢者(65歳くらいより上)の万引きのケースでよくみられる要素は、孤立です。農村部の一人暮らしで、近所にも話し相手がいないという事情が多いです。寂しいというより、誰とも会話がない状態が何日も続くことによって自覚のないまま精神的に変調をきたしているという感じです。
50歳代の女性については、体調の変化が無視できません。男性の弁護士にとっては聴き方が難しいのですが、家族などから症状について確認することは最低限必要だと思います。
孤立や体調の変化が原因となっている場合、家族をはじめ警察や弁護士が適切にかかわることが条件になるのですが、逮捕されることによって、ホッとされ、逆に笑顔が増えるということが起きます。つきものが落ちたという感じがします。
複合的にからんでくる要素は、何らかの事情でお金の心配をしている場合です。亡くなった夫が借金をしていたことが発覚して請求が来ているとか、子どもの学費の心配をしているとか、一見「それは心配ですね。」という事情ですが、弁護士が間に入れば払わなくてよいお金だったり、それほど心配しないでもよいような、自分勝手に不安になっているような場合も少なくありません。うつ病の患者さんにみられる貧困妄想に似ているような心配です。また、罪悪感や極度の悲観的なものの見方が背景になっているような心配である場合も少なくありません。これだけ見ていると軽いうつ病にかかっているような気がしてきます。
また、自分に対して高い要求があり、それが満たされないことで自己否定をしたり、罪悪感を感じたり、あるいは頑張りすぎて疲れていたりという場合もあるようです。ここは、見逃されがちです。
また別の側面から言えば、何か強いこだわりがあることが多くあります。自分の努力が誰かにダメにされてしまって、あきらめがつかないというようなこだわり、こだわってもどうすることもできないとわかっていても、後悔だったり、恨みだったりがどうしてもまとわりついているという感覚があったりですね。それから、自分の努力が報われないという思いは、気が遠くなるような疎外感を産むようです。例えば、子育てをして、夫につかえ、夫の母も夫も介護をして、子どもたちは独立してそれぞれの家庭をもって、自分一人がお金の心配をして報われない。何のために自分は生きながらえているのかというむなしさですね。
これらの、孤立感、解決不能感、悲観的思考、虚脱感、貧困妄想等があるとするならば、やはりうつ状態によく似ています。そうして、自分を大切にするという温かい気持ちではなく、自分を守らなくてはならないという焦燥感が優位になってしまう。その結果、自己否定、自尊感情の低下がみられます。
自分が誰からも大切にされないという感覚、自分を大切にできなくなってしまう感覚は、自分の社会的立場をあきらめているような状態ですから、法律や道徳を守ろうという意識が弱くなるという関係になりそうです。
加えて、いつも「自分を守らなくてはならない」という感覚でいること、危険に対して常時準備をしている状態、緊張が持続してしまっている状態は、精神的な疲労状態となるのではないでしょうか。冷静に考える体力が消耗してしまったような印象を受けます。
そこに貧困妄想が加わるため、万引きがやめられなくなるというモデル図式がよくあてはまる事例が多くあります。
衝動が理性で止められなくなるという感じです。但し、衝動自体は誰にでも起きているものです。それがいかに違法な衝動だとしても、行動に移さなければ問題がないと思います。
具体的に言うと、いつもお金を節約してお昼はおにぎりを作って食べているとします。スーパーに用事があって行ったところ、お総菜コーナーに690円のお寿司があったのを見つけるとします。いつもは、買うとしても500円くらいのお寿司ですが、690円の特売のお寿司には、いくらとエビのお刺身があったとします。食べたくなるのは、誰にでもあることです。食べたいなという感覚は瞬時に意識に上ります。それ自体は何ら悪いことではありません。意識の中には、690円は自分のお昼代としては高くて贅沢だということが次にでてくるでしょう。次は、じゃああきらめようとなることが普通です。しかし、冷静に考える体力がなくなっていて、しかも自分を大切にしようという意識が極限に弱くなっている。「どうなっても自分なんてどうでもよい存在かもしれない」という意識が悪さをしているわけですね。そうすると、「自分はお金がないのだから盗むしかない」というところでルーレットが止まってしまうみたいな感じになるようです。盗んだら見つかる、盗むことは悪いことだという意識が立ち上がることができず、そのまま盗んでしまうようです。特売のお寿司を見て盗もうと思うまで、一瞬の間でこのような思考というか無意識というか、反応が起きてしまうようです。
もし、犯罪をする人が、そういう「犯罪をするような人だ」ということならば、どんなに弁償しようと、後悔を口にしようと、何度も同じ犯罪をしてしまうことになります。実際に万引き事犯は繰り返しますから、そのように見えてしまいやすいかもしれません。しかし、ある一定の年齢までは、万引きをしていない人がむしろほとんどです。そうだとすると、その人の人格が万引きをする人格ではなく、普通の人が、ある原因があって万引きをしている、やめるきっかけ、働きかけがなかっただけだと考えることが自然なのではないでしょうか。
私は、通常の犯罪は、普通の人が原因があって行っているものだと考えていますし、刑事弁護をしているといつも感じています。だから原因を探すわけです。対人関係学なんてことを言い出す背景として、刑事弁護があったわけです。
弁護士の仕事の内容というのは、個々の弁護士で考え方がずいぶん違います。刑事弁護については、私は、その人が二度と同じ犯罪を起こさないようにするという刑事政策の特別予防の役割を担っていると考えています。そうすると、弁護人がかかわることで、再犯の可能性が低下するならば、それは低下した結果もプラスに評価してもらって、裁判官に処遇を考えてもらってよいのだということになるわけです。万引きの原因を突き止めたならば、原因の除去に弁護士が協力することも弁護士の仕事だと私は思っています。
万引き犯について、弁護士がやるべきことは、もちろん弁償などの被害回復もあります。最近の若手の先生方は、かなり勤勉に活動をされています。昔コロッケ定食とビールの無銭飲食の弁償に、それ以上の交通費をかけて行ったところ、大変驚かれたことを思い出しました。今はそれが当たり前のことになったのかもしれません。
それ以上に、原因の除去のお手伝いができれば、再犯の可能性は低くなり、最高の情状となるでしょう。
第一は孤立の解消です。
前に再度の執行猶予をいただいた高齢者の万引き事犯ですが、離れたところにいるその人の子どもが、精神科に連れていき、カウンセリングを受けたということがありました。カウンセリングの効果は絶大で、本人もとても楽になったと喜んでいました。それをそのまま当時は弁論で述べたのですが、どうも違うんじゃないかと今は思います。それまで、苦労して育てた子どもたちが、自分のもとを離れ、家庭をもち、夫の母親や夫の介護はすべて自分がやっていた。電話さえもあまりよこさない状態だった。それなのに、カウンセリングに連れて行ってくれるし、休みの日も交代で顔を出すようになった。そのことがうれしかったのではないかと思うのです。そのことによって気持ちが安定して、自分の行動をコントロールする余裕が生まれたのではないかと思うのです。おそらく、「友人にも、私が失敗して、息子たちが心配して病院に連れて行くのよ。」なんて言う、愚痴のような自慢話をできることがとても嬉しいのではないかと思うのです。孤立ということが人間の意識に対して、向精神薬のように影響を与えているような気がしています。
家族の中で、感じなくてもよい孤立を感じてしまっているケースもあります。不器用な人たちも多く、家族を安心させることが照れくさくてできない場合もあります。家族の再生は、ちょっとしたことを意識的に行うことで難しくないことも多いです。家族の思いやりを自覚させることで、安心感を抱いてもらうこともできないことではありません。また、逮捕されていると、面会や差し入れだけでなく、それを逮捕されて自由を拘束されている人は強烈に感じます。ある意味チャンスです。
まじめすぎる人、責任感が強すぎる人が、できないことをやろうとして無理をしてしまい、万引きするしかない状態まで自分を追い込んでしまうということがあります。「あなたはまじめすぎるのではないか。」という問いかけが解決の突破口になることがあります。そういう視点は、刑事弁護ではとても大切な視点です。もともとの原因を探し当てる極めて有効な思考ツールになることがよくあります。
自分を大切にすること、貧困ではないのだ、考えすぎだということも、認知のゆがみを是正するというような大げさなことを考えなくてよいと思います。私はこう思うと、エビデンスを示しながらぶつけていくことだと思います。前提として、その人を「万引きをするような人」という目で見ないで、普通の人が原因があって万引きをしたのだから、原因が無くなれば大丈夫だから一緒に原因をなくしましょうという気持ちで、一緒に考えていくという姿勢があれば、「判決を左右する程度の効果だけ」ならば十分期待することができると思います。あとは、抽象的ではなく、具体的に、社会復帰後、何を行うかを計画を立てていただき、実践の中で再犯防止の活動がすくにできるように調整していくということだと思います。
基本的には転売目的型万引きの弁護も同じように考えることができます。
不思議なことに、小さな子はあまり万引きをしません。もしかしたら、小さい子がお店に行くときは、いつも親が一緒だから親が注意してみているという単純な理由かもしれませんが、比較的低年齢から、ここにある品物はお金を出して買うものだということを理解しているのかもしれません。
大人の万引き犯も、もちろん、お金を出して買わなければならないということは知っています。知っているのですが、万引きが止められなくなる事情があるようです。
ただ、一口に万引きといっても、少なくとも大きく二つに分けられるようです。
一つは盗んだ商品を中古屋さんに買い取ってお金に変えようとする類型(転売目的型)です。盗んでいること、盗品を売却するということは、はっきりと意識的に行っています。どの商品を盗んで、どこで買い取ってもらおうということを計画的に行っていることも多いです。
もう一つは、今回のお話のトランス型とでもいうような類型です。実は、この類型の万引きがいわゆる大人(特に高齢者)の万引きの典型的な類型です。しかしながら、弁護士であっても、その心理過程をよく理解していない人が多くいます。ケチでやったとか、ストレス発散のためにスリルを感じたかったのかとか、そういう人格の人だというような決めつけをしていることが多く見られます。それではなかなか弁護ができないと思いますし、再犯の可能性を低下させることもできないと思います。弁護士が付く意味があまりないと思います。
こういう類型は、警察の調書に「むしゃくしゃしてやった。」と書かれていることが多くあります。ある意味、警察官の理解の方が真理に迫っているといえるかもしれません。
家族など関係者からも軽く考えられることが多いのです。その一つの原因として、大した金額の商品を盗むわけではなく、それくらいのものを買うお金は持っているから、どうして万引きしたのかわからず、「魔が差した」くらいの扱いになるからです。もう二度としないだろうと誰しも思うのですが、このタイプの万引きは繰り返されます。
最初はすぐにお金を払って解放されたり、警察官から説教されて終わりになることもあります。二度目は、事情によっては逮捕までされないということがあり、罰金刑や執行猶予となることも多いのですが、その後も周囲の見込みに反して万引きを繰り返し、やがて刑務所に収監され、懲役という強制労働を行うことになってしまいます。もちろん、事情によっては、初めての万引きでも刑務所で強制労働の判決が出ることもないとは限りません。
また、一度逮捕されればわかるはずなのですが、大きな店舗、つまり、誰も見ていない、盗みやすそうな店舗ほど、防犯カメラがしっかりと撮影しています。バックヤードでは巨大なモニターが、8分割等各防犯カメラの映像を同時に映しており、犯人が周囲を伺ってモノをとる瞬間を担当者が見ています。録画もされています。その他さまざまな工夫がなされており、万引きは確実に分かります。その場で捕まらなくても店には証拠が残っています。
おそらく万引きを繰り返す人は、盗むことは悪いことだとか、万引きは必ず捕まってしまうということさえ、その瞬間は忘れていて、やめようという気持ちにはならないようです。盗む直前の心理状態は、悪いことだから止めよう、捕まるからやめようと思えない状態になっているということが特徴のようです。
盗むことしか考えていないし、見つからないようにしようとは考えているようなのですが、どうやって見つからないようにするかということまで実際はあまり考えていません。ちょっとレクチャーを受けた人であれば、あからさまにこれから盗みますという表情としぐさをしていることがわかるようです。現場は防犯カメラだけでなく、その場にいる私服ガードマン、場合によっては死角にいる制服店員にみられており、出口まで一緒に出てくることも気が付かず、自動ドアの向こうに出たところで肩をたたかれるわけです。その様子は一部始終撮影されていて、裁判の証拠として提出されます、
この状態を極端にした万引き事案がありました。
その人は、深夜もやっている中古販売店に行って、自分の好きなある商品を万引きしたとして逮捕されました。自分で自動車を運転して、自分が欲しかった商品を、その商品売り場に行って、持って帰ろうとしたのです。
私が警察行って面会したところ、その人はその時の記憶がなく、気が付いたら警察署の拘置施設(通称ブタバコ)にいたというのです。自動車を運転できるくらい意識があり、たくさんある商品の中から欲しかった商品を手にしたし、万引きしようとして万引きしたのだから、知らないというのは下手な言い訳、噓だと感じるのが普通かもしれません。
私は、こんな嘘ついても意味がないのだから、むしろ嘘ではないのかもしれないと思って話の続きを聞きました。その人は、不眠症で精神科医から睡眠薬をもらって飲んでいたそうです。睡眠薬だけでは眠れなくなっていたので、お酒を一緒に飲んだんだそうです。お酒の弱い人だったので、いつもはビール一杯で眠っていたそうです。本人もこの日もそれで眠ったと思っていたようです。ところが、気が付いたら警察にいたというのです。自動車まで運転したと聞かされて驚いたようでした。
服薬していたのは
私は文献を整え、同僚から陳述書をとり、向精神薬とアルコールの併用の危険性について本人にレクチャーを行い、二度と併用しないという反省を引き出し、検察官と協議をさせていただきました。飲み込みの早い検察官だったため、起訴されずに釈放されました。
この中古品の事件の人は、薬物による影響でしたが、本人の自覚がないまま、自動車を運転して万引き行為ができていました。意識がなく記憶もなかったけれど(記憶ができない意識状態)、行為があったというおかしな状態でした。この人のケースでは、服薬から意識が戻るまで数時間(おそらく6,7時間)ありました。
ここで話が戻るわけですが、薬物の影響のないトランス型万引きの意識状態も、このような状態なのだと考えられないかということなのです。もっともそのトランス状態は、せいぜい数分から数十分程度のことだと思います。また、記憶がなくなるわけでもありません。犯行時の記憶もあることが多いです。
でもよく似ていることは、自動ドアの外で肩をたたかれた時に「ハッ」と我に返るということを、多くの人が経験するということです。上手に話を聞き出すと、それは、「やばい、みつかってしまった。」という「ハッ」ではなく、あれ今自分は何をしていたのだろうという「ハッ」のようなのです。
もちろんだからといって、すべてのトランス型万引き犯が無罪になるわけではないですし、責任が軽減されることもほとんどないでしょう。しかし、このトランス状態を起こさないようにできれば、また万引きをしなくて済みます。トランスという言葉を使わないでストーリーを作ることで説得力ある情状弁護になるのです。裁判官が、「なるほど再犯の可能性が低い」と思えば、刑が軽くなるのは刑事政策上当然だからです。もっとも被告人の的を射た反省も必要です。
ところで、では、このトランス状態は、薬物の影響もない場合に、どうやって起きるのでしょうか。
手がかりとしては、万引きの被疑者(容疑者というか犯人というか)から事情を聴いた警察官の調書があります。警察官の多くは、偏見を持たずに、なるべくリアルに事情を話させようとするようです。とても良い資料になります。もっとも、被疑者の方が、自分の心理状態を正確に話すことができませんので、読む側の理解力で補う必要があります。そうすると、「むしゃくしゃしてやった。」とか、「頭の中がもやもやしていた。」とか、「逮捕されるまで頭の中にカスミがかかっているような感じだったとか。」なかなか興味深い表現になっていることがわかります。警察は、どうしてむしゃくしゃしたか、もやもやしたかということについても、熱心に事情聴取するのですが、はっきりと共感できる話はあまりありません。しかし、断片的に、本丸にヒットしていることが、すべてがわかった後で気が付くことができます。もしかしたら、下手な弁護士よりも被疑者の人生によりそっておられるのかもしれないと感心することが多いです。
いずれにしても弁護士は、その警察官の地道な捜査をおいしくいただいて考えることができますから、つまり頭さえ使えばよい状態まで持ってきてもらっているから、楽なのかもしれません。これは裁判官から見ればもっとそうなのだろうと思うのですが、調べているときは夢中で、断片的な知識がアトランダムに入ってくるので、全体像が見えにくいという宿命があるのです。
さて、もやもや、むしゃくしゃの原因について例示してみましょう。
高齢者(65歳くらいより上)の万引きのケースでよくみられる要素は、孤立です。農村部の一人暮らしで、近所にも話し相手がいないという事情が多いです。寂しいというより、誰とも会話がない状態が何日も続くことによって自覚のないまま精神的に変調をきたしているという感じです。
50歳代の女性については、体調の変化が無視できません。男性の弁護士にとっては聴き方が難しいのですが、家族などから症状について確認することは最低限必要だと思います。
孤立や体調の変化が原因となっている場合、家族をはじめ警察や弁護士が適切にかかわることが条件になるのですが、逮捕されることによって、ホッとされ、逆に笑顔が増えるということが起きます。つきものが落ちたという感じがします。
複合的にからんでくる要素は、何らかの事情でお金の心配をしている場合です。亡くなった夫が借金をしていたことが発覚して請求が来ているとか、子どもの学費の心配をしているとか、一見「それは心配ですね。」という事情ですが、弁護士が間に入れば払わなくてよいお金だったり、それほど心配しないでもよいような、自分勝手に不安になっているような場合も少なくありません。うつ病の患者さんにみられる貧困妄想に似ているような心配です。また、罪悪感や極度の悲観的なものの見方が背景になっているような心配である場合も少なくありません。これだけ見ていると軽いうつ病にかかっているような気がしてきます。
また、自分に対して高い要求があり、それが満たされないことで自己否定をしたり、罪悪感を感じたり、あるいは頑張りすぎて疲れていたりという場合もあるようです。ここは、見逃されがちです。
また別の側面から言えば、何か強いこだわりがあることが多くあります。自分の努力が誰かにダメにされてしまって、あきらめがつかないというようなこだわり、こだわってもどうすることもできないとわかっていても、後悔だったり、恨みだったりがどうしてもまとわりついているという感覚があったりですね。それから、自分の努力が報われないという思いは、気が遠くなるような疎外感を産むようです。例えば、子育てをして、夫につかえ、夫の母も夫も介護をして、子どもたちは独立してそれぞれの家庭をもって、自分一人がお金の心配をして報われない。何のために自分は生きながらえているのかというむなしさですね。
これらの、孤立感、解決不能感、悲観的思考、虚脱感、貧困妄想等があるとするならば、やはりうつ状態によく似ています。そうして、自分を大切にするという温かい気持ちではなく、自分を守らなくてはならないという焦燥感が優位になってしまう。その結果、自己否定、自尊感情の低下がみられます。
自分が誰からも大切にされないという感覚、自分を大切にできなくなってしまう感覚は、自分の社会的立場をあきらめているような状態ですから、法律や道徳を守ろうという意識が弱くなるという関係になりそうです。
加えて、いつも「自分を守らなくてはならない」という感覚でいること、危険に対して常時準備をしている状態、緊張が持続してしまっている状態は、精神的な疲労状態となるのではないでしょうか。冷静に考える体力が消耗してしまったような印象を受けます。
そこに貧困妄想が加わるため、万引きがやめられなくなるというモデル図式がよくあてはまる事例が多くあります。
衝動が理性で止められなくなるという感じです。但し、衝動自体は誰にでも起きているものです。それがいかに違法な衝動だとしても、行動に移さなければ問題がないと思います。
具体的に言うと、いつもお金を節約してお昼はおにぎりを作って食べているとします。スーパーに用事があって行ったところ、お総菜コーナーに690円のお寿司があったのを見つけるとします。いつもは、買うとしても500円くらいのお寿司ですが、690円の特売のお寿司には、いくらとエビのお刺身があったとします。食べたくなるのは、誰にでもあることです。食べたいなという感覚は瞬時に意識に上ります。それ自体は何ら悪いことではありません。意識の中には、690円は自分のお昼代としては高くて贅沢だということが次にでてくるでしょう。次は、じゃああきらめようとなることが普通です。しかし、冷静に考える体力がなくなっていて、しかも自分を大切にしようという意識が極限に弱くなっている。「どうなっても自分なんてどうでもよい存在かもしれない」という意識が悪さをしているわけですね。そうすると、「自分はお金がないのだから盗むしかない」というところでルーレットが止まってしまうみたいな感じになるようです。盗んだら見つかる、盗むことは悪いことだという意識が立ち上がることができず、そのまま盗んでしまうようです。特売のお寿司を見て盗もうと思うまで、一瞬の間でこのような思考というか無意識というか、反応が起きてしまうようです。
もし、犯罪をする人が、そういう「犯罪をするような人だ」ということならば、どんなに弁償しようと、後悔を口にしようと、何度も同じ犯罪をしてしまうことになります。実際に万引き事犯は繰り返しますから、そのように見えてしまいやすいかもしれません。しかし、ある一定の年齢までは、万引きをしていない人がむしろほとんどです。そうだとすると、その人の人格が万引きをする人格ではなく、普通の人が、ある原因があって万引きをしている、やめるきっかけ、働きかけがなかっただけだと考えることが自然なのではないでしょうか。
私は、通常の犯罪は、普通の人が原因があって行っているものだと考えていますし、刑事弁護をしているといつも感じています。だから原因を探すわけです。対人関係学なんてことを言い出す背景として、刑事弁護があったわけです。
弁護士の仕事の内容というのは、個々の弁護士で考え方がずいぶん違います。刑事弁護については、私は、その人が二度と同じ犯罪を起こさないようにするという刑事政策の特別予防の役割を担っていると考えています。そうすると、弁護人がかかわることで、再犯の可能性が低下するならば、それは低下した結果もプラスに評価してもらって、裁判官に処遇を考えてもらってよいのだということになるわけです。万引きの原因を突き止めたならば、原因の除去に弁護士が協力することも弁護士の仕事だと私は思っています。
万引き犯について、弁護士がやるべきことは、もちろん弁償などの被害回復もあります。最近の若手の先生方は、かなり勤勉に活動をされています。昔コロッケ定食とビールの無銭飲食の弁償に、それ以上の交通費をかけて行ったところ、大変驚かれたことを思い出しました。今はそれが当たり前のことになったのかもしれません。
それ以上に、原因の除去のお手伝いができれば、再犯の可能性は低くなり、最高の情状となるでしょう。
第一は孤立の解消です。
前に再度の執行猶予をいただいた高齢者の万引き事犯ですが、離れたところにいるその人の子どもが、精神科に連れていき、カウンセリングを受けたということがありました。カウンセリングの効果は絶大で、本人もとても楽になったと喜んでいました。それをそのまま当時は弁論で述べたのですが、どうも違うんじゃないかと今は思います。それまで、苦労して育てた子どもたちが、自分のもとを離れ、家庭をもち、夫の母親や夫の介護はすべて自分がやっていた。電話さえもあまりよこさない状態だった。それなのに、カウンセリングに連れて行ってくれるし、休みの日も交代で顔を出すようになった。そのことがうれしかったのではないかと思うのです。そのことによって気持ちが安定して、自分の行動をコントロールする余裕が生まれたのではないかと思うのです。おそらく、「友人にも、私が失敗して、息子たちが心配して病院に連れて行くのよ。」なんて言う、愚痴のような自慢話をできることがとても嬉しいのではないかと思うのです。孤立ということが人間の意識に対して、向精神薬のように影響を与えているような気がしています。
家族の中で、感じなくてもよい孤立を感じてしまっているケースもあります。不器用な人たちも多く、家族を安心させることが照れくさくてできない場合もあります。家族の再生は、ちょっとしたことを意識的に行うことで難しくないことも多いです。家族の思いやりを自覚させることで、安心感を抱いてもらうこともできないことではありません。また、逮捕されていると、面会や差し入れだけでなく、それを逮捕されて自由を拘束されている人は強烈に感じます。ある意味チャンスです。
まじめすぎる人、責任感が強すぎる人が、できないことをやろうとして無理をしてしまい、万引きするしかない状態まで自分を追い込んでしまうということがあります。「あなたはまじめすぎるのではないか。」という問いかけが解決の突破口になることがあります。そういう視点は、刑事弁護ではとても大切な視点です。もともとの原因を探し当てる極めて有効な思考ツールになることがよくあります。
自分を大切にすること、貧困ではないのだ、考えすぎだということも、認知のゆがみを是正するというような大げさなことを考えなくてよいと思います。私はこう思うと、エビデンスを示しながらぶつけていくことだと思います。前提として、その人を「万引きをするような人」という目で見ないで、普通の人が原因があって万引きをしたのだから、原因が無くなれば大丈夫だから一緒に原因をなくしましょうという気持ちで、一緒に考えていくという姿勢があれば、「判決を左右する程度の効果だけ」ならば十分期待することができると思います。あとは、抽象的ではなく、具体的に、社会復帰後、何を行うかを計画を立てていただき、実践の中で再犯防止の活動がすくにできるように調整していくということだと思います。
基本的には転売目的型万引きの弁護も同じように考えることができます。
他人を応援しようとして犯罪に巻き込まれる人 そのメカニズム 何に注意すればよいか [刑事事件]
支援者の「支援」の在り方については、これまでもお話ししています。
基本的原理は同じなのですが、一般の方々や専門家と呼ばれる人の中にも
他人の紛争に入り込んで、
自分も犯罪に手を染めてしまう方々がいらっしゃるので、
注意喚起しようと思いました。
一人でも犯罪者となる人が少なくなるための記事です。
例えば同族会社でもめていて
父親が社長で、息子が取締役だったのですが、
息子は代表社印なども使って契約をしていたようです。
ところが、息子が不始末をしでかしてしまったので、
会社を辞めさせられて、別会社に行くことになってしまいました。
ンで取引先の奥さんと息子は趣味のサークルが一緒で
あれやこれや父親が自分を一人前と認めてくれない
等と愚痴をしょっちゅう言っていて、
奥さんは、仲間の一人として
「それはひどいですね。」等と普通に相づちをうっていたようです。
そして、決定的に解雇されたということを愚痴ったところ、
奥さんは相変わらず、「そこまですることないと思います。」
とか言い出したものだから、
息子は
奥さんのところの取引の契約書をつくっていないので、
本当は商品を50個の代金を一括して支払うのだけれど、
今回1個分ずつの50回払いにしたことにする
というのです。
まだ自分は会社には出入りできるからハンコも自由に使えるし、
最初の契約書が無いのでばれることはありません。
また、振込先も自分が通帳と印鑑を持っている
××信用金庫に振り込んでください。
と告げたところ、
奥さんは、「ぜひ協力させてください」
とその話を受けてしまったようです。
しかし、会社からは既に、50個を一括で支払う様式の
請求書が届けられており、
振込先も○○銀行にと指定されていました。
息子は、既に契約書を作成する権限がありませんので、
有印私文書偽造罪が成立します。
問題は奥さんです。
その偽造した契約書を会社に提示して
支払拒んだら
偽造有印私文書行使罪と詐欺罪が成立する可能性が高いのです。
10年以下の懲役が法定刑になる重い罪です。
また、これはどうなるかはっきりはわかりませんが
すべての事情を知って、請求書と異なる口座に振り込んだら
有効な弁済とはならないで二重に払う危険も出てきます。
本当はこの奥さん、人情味があって、
困った人を放っておけないという
人間的に素晴らしい人なんだと思います。
それでも、やっていることは犯罪なので
刑事処分を受けることになる恐れが高いのです。
そして、息子の不始末というのは
息子がひいきにしている水商売の女の人にせがまれたものを買うために
会社の会計をごまかしたことだったようなのです。
父親は、従業員に示しがつかないために息子を解雇し、
修行のために別会社に修行にやるということだったらしいのです。
息子は、水商売の女の人に
自分が社長だから金を自由に動かせるというようなことを言っていて
女の人の要求に断れなくなっていたようでした。
奥さんは、それにもかかわらず
息子の不良行為に加担してしまったのです。
罪がない父親を追い詰めてしまったということになります。
一番大事な基本は、
他人が紛争を起こしているときに
一方に加担することは
他方を攻撃することになる
ということを忘れないことです。
だから相づちをうったり、慰めているだけなら
まだ罪が軽いのですが、
紛争に参加する形で
相手に不利益を与えることになることには
注意が必要だということになります。
「この人が悪いことをするはずがない
悪いのは父親だ。」
ということに疑いを持つことができないのも人間です。
先ず、息子の方はサークルで長い付き合いですから
どうしても見方をしたくなるものです(単純接触効果)
そして、息子から父親の悪口を聞かされていますので
初めから父親は頑固で融通が利かなく
若い芽をつぶす老害だと思い込んでしまっているのです(プライマリー効果)
息子が会社の切り盛りをしている次世代のエースだと思えば
息子が言うことはさらに信用してしまうでしょう(プライマリー効果)
この結果、間違いを信じてしまったわけです。
そして人間は、自分の仲間だと感じた相手を
自分を犠牲にしても助けたいと思う時があります。
典型的には親の子に対する愛情ですが、
義憤に駆られて手をさしのべるということは
通常は美談です。
しかし、だまされて、やりすぎをしていると
犯罪になってしまうわけです。
罪もない他人に損害を与えていることと
社会秩序を乱す方法だったからです。
仲間を助けたいという人間の本能が
冷静な判断を奪ってしまい、
被害者である仲間を無条件に信じて
犯罪さえもやってしまう流れができてしまうのです。
この父親も関係者一同も
当初の約束通りお支払いいただければ
事を荒立てようと思っていません。
悪いのは息子ですから。
ただ父親だけが困るならまだよかったのです。
会社が不当な扱いをされてしまうと
公私のけじめをつけなければならなくなります。
奥さんはどうすればよかったのでしょう。
答えはそれほど難しくありません。
父親に事情を聴きに行けばよかったのです。
これはそれほど難しいことではありません。
義憤に駆られれば通常行うべきことはそれなのです。
他人の紛争に、一方の味方としてかかわることは
他方からすればただの攻撃者になってしまう
これは、弁護士だけでなく誰かを支援しようとする人は
頭に入れておく必要があるのだろうなと考える次第です。
それにしてもこの息子
多くの人を巻き込んでいます。
専門家と呼ばれる人たちも違法な行為をさせられています。
専門家としてきっちりと謝罪をするなりすればよいのですが、
みんなごまかそうとしているのです。
定められた定型的なサンクションが課せられることになることでしょう。
この息子、こうやって人を動かす才にたけているわけですから
もったいないなあと思っています。
ストレス解消のために万引きなどの犯罪を行うということは矛盾であること、ストレス解消とは何か [刑事事件]
よく万引き事件の報道などで
「ストレスがたまっていたのでむしゃくしゃしてやった」
「ストレス解消のために犯罪をした」
等という容疑者の発言を見ることがあります。
ストレスという言葉は曖昧な言葉ですが、
生理学的には、危険に直面しての緊張状態を言い、
血圧が高くなる、脈拍が早くなる
体温が上昇するコルチゾールが多く分泌される
等の生理的変化のことを言うようです。
犯罪の時のストレスの原因は、通常は、
生命身体の危険ではなく、
対人関係の中でうまくいかないことが起きて、
常に緊張が持続しているような状態です。
但し、実際に対人関係上の不具合が生じていなくても、
自分が、不具合が生じていると感じ
何とかしなくてはならないけれどなんともならない
と感じてさえいればストレス反応は起きるので
その点には注意が必要でしょう。
さて、そのような対人関係由来のストレスを感じているとき、
どうして万引きなどの犯罪が
ストレスが解消目的で行われるのでしょうか。
実際は、万引きをしているときの心理は
誰かに見つかるのではないか、警備員に呼び止められるのではないか
そもそも自分は悪いことをしているという意識がありますから、
通常誰から見ても
異常に緊張しているようですし、
血圧が上がっていたり、脈拍が早くなっているようです。
カーっとなっていて、ドキドキしているわけです。
(このため、警備員が見ればすぐに万引きをしそうだとわかるわけです。
また、緊張のあまり、合理的な隠ぺい行動ができずらくなっていることに本人は気が付きません)
間違いなく、強烈なストレスがかかっています。
ストレスを発散させるためにストレスが強くかかるような行動をする
ということになりそうです。
その結果、警備員に呼び止められ、警察に通報されると
さらにストレスは持続していきます。
どうしてこのような行動をするのでしょう。
ストレス発散のためと言う言葉は嘘なのでしょうか。
仮にストレス発散という犯罪目的が真理だとした場合、
次のように考えると整合するかもしれません。
<ここで補助線>
人間は、痛みや不安等危険に対する反応は
一時に、一つの危険にしか対応できない。
こういうことって経験されていないでしょうか。
最初は血が流れている傷口に驚いてなんとか血を止めようとするのですが、
血が止まったとほっとした途端に、足を捻挫していることに気が付くとか
一つの困難な仕事をやり遂げてほっとしていると
まだ別の仕事が残っていたことに気が付いて
「一難去ってまた一難」なんて気持ちになることはありますよね。
危険を感じて不安になったり、けがをして痛いと感じる理由は
危険から逃れるための体の仕組みです。
人間はどうやらマルチに危険に対応することができない
脳の構造になっているようです。
一番の危険から逃れた後で
別の危険に気が付けばよいやという割りきりがあり、
これが役に立っているようです。
そうではなく、どうでもよいことから対応を始めてしまって
重大な危険が現実化したり、
どの危険に対応しようかと迷っているうちに
結局何にも対応できず危険が現実化したということにならないための
仕組みのようです。
危険は一つしか感じられない
ストレスは一つに危険への対応だけが持続する
ということが解決のヒントだと思います。
ストレス解消のために犯罪を行う人は
そのストレスの元となった対人関係のストレスを
継続的に感じている状態
緊張しっぱなしという状態にあるのでしょう。
実際の事件では
お金が無くて、払わなければならないものがあるのに払えない
払えないということを言った後、どういう目にあうのか怖い
という緊張だったり、
上司が四六時中自分を監視していて
プライベートの時間まで同行されて自分の時間が持てないとか
会社の犯罪行為を自分の名前でやられてしまって
何もやっていない自分がいつか警察から呼び出されるのではないかとか
単純化して書いてみるとそういうことですね、
これが実際はもっと複雑に心理的圧迫⇒ストレスにつながっているようです。
客観的悩みだけでなく主観的な悩みもあり
そこまで考えなくても良いのに、
生真面目すぎるような後ろめたさを感じてしまっていたり、
一人ぼっちで生きていかなければならないというストレスも
高齢者の場合は特にあるようです。
例えば万引きをするとき
一番感じていることは、
「万引きを見つけられたくない」
という緊張、不安、ストレスです。
これは当然のごとくストレスがかかっています。
危険ストレス反応は一つだけということが正しいとすれば、
一瞬、日頃持続的に感じていたストレスを忘れることができるわけです。
単に別のストレスがかかっているだけなのですが、
毎日、そのストレスから解放されたいと願っていることが
実現できてしまうようです。
万引きをしている瞬間だけ
お金が無くて払いに困るというストレスを忘れさせ、
嫌な上司を忘れさせ、
横暴な会社を忘れさせ、
自分が独りぼっちだということを忘れさせることができるようです。
ストレスを発散させるということは
すべてのストレスをなくするのではなく、
いつも自分を苦しめている持続しているストレスを
一瞬別のストレスに置き換えることで感じなくて済む
ということのようです。
人間の行動思考はあまり客観的合理性があるようなものではないのですが、
時に不合理な思考や行動を行い自分を傷つけるようです。
特に慢性的、持続的に感じているストレスは
合理的な思考を奪ってしまうのかもしれません。
そのストレスが解消されるということが至上の欲望となり
思考自体を奪うのでしょう。
かなりの興奮状態となり
記憶もあいまいになることも
本当のことかもしれません。
自傷の心理がまさにこれで、
それを極端に突き詰めてしまったのが自死
ということになるように思われます。
「ストレスがたまっていたのでむしゃくしゃしてやった」
「ストレス解消のために犯罪をした」
等という容疑者の発言を見ることがあります。
ストレスという言葉は曖昧な言葉ですが、
生理学的には、危険に直面しての緊張状態を言い、
血圧が高くなる、脈拍が早くなる
体温が上昇するコルチゾールが多く分泌される
等の生理的変化のことを言うようです。
犯罪の時のストレスの原因は、通常は、
生命身体の危険ではなく、
対人関係の中でうまくいかないことが起きて、
常に緊張が持続しているような状態です。
但し、実際に対人関係上の不具合が生じていなくても、
自分が、不具合が生じていると感じ
何とかしなくてはならないけれどなんともならない
と感じてさえいればストレス反応は起きるので
その点には注意が必要でしょう。
さて、そのような対人関係由来のストレスを感じているとき、
どうして万引きなどの犯罪が
ストレスが解消目的で行われるのでしょうか。
実際は、万引きをしているときの心理は
誰かに見つかるのではないか、警備員に呼び止められるのではないか
そもそも自分は悪いことをしているという意識がありますから、
通常誰から見ても
異常に緊張しているようですし、
血圧が上がっていたり、脈拍が早くなっているようです。
カーっとなっていて、ドキドキしているわけです。
(このため、警備員が見ればすぐに万引きをしそうだとわかるわけです。
また、緊張のあまり、合理的な隠ぺい行動ができずらくなっていることに本人は気が付きません)
間違いなく、強烈なストレスがかかっています。
ストレスを発散させるためにストレスが強くかかるような行動をする
ということになりそうです。
その結果、警備員に呼び止められ、警察に通報されると
さらにストレスは持続していきます。
どうしてこのような行動をするのでしょう。
ストレス発散のためと言う言葉は嘘なのでしょうか。
仮にストレス発散という犯罪目的が真理だとした場合、
次のように考えると整合するかもしれません。
<ここで補助線>
人間は、痛みや不安等危険に対する反応は
一時に、一つの危険にしか対応できない。
こういうことって経験されていないでしょうか。
最初は血が流れている傷口に驚いてなんとか血を止めようとするのですが、
血が止まったとほっとした途端に、足を捻挫していることに気が付くとか
一つの困難な仕事をやり遂げてほっとしていると
まだ別の仕事が残っていたことに気が付いて
「一難去ってまた一難」なんて気持ちになることはありますよね。
危険を感じて不安になったり、けがをして痛いと感じる理由は
危険から逃れるための体の仕組みです。
人間はどうやらマルチに危険に対応することができない
脳の構造になっているようです。
一番の危険から逃れた後で
別の危険に気が付けばよいやという割りきりがあり、
これが役に立っているようです。
そうではなく、どうでもよいことから対応を始めてしまって
重大な危険が現実化したり、
どの危険に対応しようかと迷っているうちに
結局何にも対応できず危険が現実化したということにならないための
仕組みのようです。
危険は一つしか感じられない
ストレスは一つに危険への対応だけが持続する
ということが解決のヒントだと思います。
ストレス解消のために犯罪を行う人は
そのストレスの元となった対人関係のストレスを
継続的に感じている状態
緊張しっぱなしという状態にあるのでしょう。
実際の事件では
お金が無くて、払わなければならないものがあるのに払えない
払えないということを言った後、どういう目にあうのか怖い
という緊張だったり、
上司が四六時中自分を監視していて
プライベートの時間まで同行されて自分の時間が持てないとか
会社の犯罪行為を自分の名前でやられてしまって
何もやっていない自分がいつか警察から呼び出されるのではないかとか
単純化して書いてみるとそういうことですね、
これが実際はもっと複雑に心理的圧迫⇒ストレスにつながっているようです。
客観的悩みだけでなく主観的な悩みもあり
そこまで考えなくても良いのに、
生真面目すぎるような後ろめたさを感じてしまっていたり、
一人ぼっちで生きていかなければならないというストレスも
高齢者の場合は特にあるようです。
例えば万引きをするとき
一番感じていることは、
「万引きを見つけられたくない」
という緊張、不安、ストレスです。
これは当然のごとくストレスがかかっています。
危険ストレス反応は一つだけということが正しいとすれば、
一瞬、日頃持続的に感じていたストレスを忘れることができるわけです。
単に別のストレスがかかっているだけなのですが、
毎日、そのストレスから解放されたいと願っていることが
実現できてしまうようです。
万引きをしている瞬間だけ
お金が無くて払いに困るというストレスを忘れさせ、
嫌な上司を忘れさせ、
横暴な会社を忘れさせ、
自分が独りぼっちだということを忘れさせることができるようです。
ストレスを発散させるということは
すべてのストレスをなくするのではなく、
いつも自分を苦しめている持続しているストレスを
一瞬別のストレスに置き換えることで感じなくて済む
ということのようです。
人間の行動思考はあまり客観的合理性があるようなものではないのですが、
時に不合理な思考や行動を行い自分を傷つけるようです。
特に慢性的、持続的に感じているストレスは
合理的な思考を奪ってしまうのかもしれません。
そのストレスが解消されるということが至上の欲望となり
思考自体を奪うのでしょう。
かなりの興奮状態となり
記憶もあいまいになることも
本当のことかもしれません。
自傷の心理がまさにこれで、
それを極端に突き詰めてしまったのが自死
ということになるように思われます。
弁護士は心理的解剖をする職業 情状弁護(有罪を認めた弁護)こそが弁護士のすべての業務の基本となるべきこと [刑事事件]
正式には心理的剖検(ぼうけん)と言いまして、
例えば自死した方が、どうして自死に至ったかという
その原因を分析するために
多方面からその人の行動歴、病歴を調査して分析することがあります。
自死の危険のある出来事を予め明らかにしておけば
自死を予防できるという考えで行う場合もあれば
遺族のニーズで行う場合もあります。
中には、親戚から、例えば妻が原因で自死をした
というような心ない中傷がある場合に
そうではないことを証明してもらうために
心理的剖検を行う場合もありました。
心理的剖検を行うのは
日本の場合は主として精神科医です。
自死というと精神科疾患というイメージが
根強いからかもしれません。
あるいは、医学には「公衆衛生」という学問分野があり、
予防を中心とした仕事があるということも
大きな理由にあるのかもしれません。
但し、これまで公的に行われてきた心理的剖検は
それ程ち密に行われているわけではなく、
遺族からの電話やアンケート調査を集約したものがほとんどです。
むしろ、自死した個人について
様々な角度から分析を行うことを仕事にしているのは
弁護士なのです。
主として過労自死の労災手続きや裁判手続きで
心理的剖検を行っています。
もっとも弁護士だけでは説得力がないと思えば
医師や心理士に助けてもらうようにしています。
ただ、過労自死を多く扱っている弁護士はそれほど多くないのですが、
自死という制限を外せば
刑事弁護の中で心理的剖検が行われています。
というか、
本当は行わなければならないのです。
刑事弁護というと華やかなのは無罪を争う事件の弁護です。
もちろん、これは簡単な弁護ではなく、
あらゆる科学を総動員して行う大変なものです。
大切な活動であることは間違いありません。
司法試験に合格した後に最高裁の研修があるのですが、
その時も無罪弁護を中心として刑事弁護の研修をしています。
それは良いとしても、
刑事事件の9割以上は、
初めから罪を犯したことを争わない事件です。
それでも日本の刑法の刑罰は幅があって、
例えば窃盗の場合は、懲役10年が一番重いのですが、
1年未満の懲役(刑務所での強制労働)の場合も多く
懲役ではなく罰金刑になることもあります。
この刑の幅を争うのが有罪を認めた場合の弁護活動です。
これを「量刑を争う」と言います。
確かに、表面的には量刑を争うのですが、
弁護活動の目的はそれだけではないと思いますが、
今日は割愛します。
その量刑を争う場合には
その事件がどのような事件なのかということを明らかにして
被告人に有利な量刑事情を主張立証していくということが
弁護人の活動で、これを「情状弁護」と言います。
大雑把に言えばどうして罪を犯したかということです。
一般の方は、その人が悪い人だから罪を犯したのだろうと考えがちですが、
それでは、情状弁護はそこで終わってしまいます。
亡くなられた野村克也さんは、
「負けに不思議の負けなし」という言葉を遺しています。
試合に負けるのにはそれなりの理由が必ずある
だからその理由を除去すれば勝てるということになるわけです。
犯罪も同じで、
やってはいけないことだとわかっていながらやってしまうには
(規範を破るという言い方をします)
必ず、ルールに従おうという気持を弱まらせる理由がある
と私は確信しています。
犯罪をするように生まれてくる人間など一人もいない
ということから出発することが情状弁護の基本です。
そういう視点で、被告人とどうしてルールを破っても平気になったのか
一緒に考えていくことから始まるわけです。
生い立ち、両親との葛藤、その後の学校での出来事、
職場での出来事、恋人との関係等の出来事や
病気の影響など
様々なことが規範を破る理由になっていることに気が付きます。
できるだけさかのぼることで、
法律を守らないようになったリアルがようやく見えてくるわけです。
そこで、その事情が、被告人を責められない事情
多くは、国などがきちんと政策を実行していないために起きた事情や
学校や職場が不合理な扱いをして、人間として尊重されていない
そういう事情がある場合。
全ての責任を被告人だけに負わせてよいのか
という問題が出てくるので、それを主張するわけです。
罪を犯した人は、解決の方法が見つからないことが多いようです。
本当はこう言うことを意識すればもっと平穏に暮らすことができた
今度社会復帰したらこういう生活をすれば
今のような殺伐とした人生を過ごさなくて済む
あるいは、自分なりに幸せになれる
という道筋をつけるまでが刑事弁護でいう反省です。
その人が二度と犯罪をしないとなれば
被害者を産まなくて済むわけです。
良い弁護人は、このような心理的剖検をするのですが、
その前提として、根っからの悪人はいないというか
被告人は、もしかしたら自分だったかもしれない
ちょっとしたボタンの掛け違いが
接見室のこちらとあちらになってしまったのかもしれない
という視点を持っています。
そうして、その人が罪を犯した「原因」を一緒に真剣に考えるわけです。
そのツールとして、心理学だったり、行動学だったり、
最近では生物学が役に立つ場合が多いのです。
もちろん社会学や政策学も使わなければなりません。
つまり対人関係学の基本はこの情状弁護にあります。
心理的にも脳活動の面においても
本当はかなりハードな仕事であるし、
刑事弁護をするまでの人間研究にも時間とお金をかけているわけです。
いやいたわけですと過去形に述べた方が正確なのかもしれません。
現在、刑事弁護の圧倒的多数は国選弁護事件になってしまっています。
被告人やその家族は弁護士の費用の負担をしないですみますので、
弁護士を頼みやすいということはあるでしょう。
ところが国選弁護事件の報酬はとても低いものです。
逮捕からかかわって判決まで弁護しても
10万円に足りない場合もあるようです。
それでも弁護士が乱造されたためか仕事がない弁護士が多いため
そのような仕事でも引き受ける人に不足がないようです。
1か月以上かかる刑事弁護で
その人の生い立ちから調査して、
場合によっては遠方の親せきから事情聴取して
10万円にもならないなら赤字になってしまいます。
また、司法研修所では情状弁護を習いません。
情状弁護は弁護士がついて行われている
しかし、それは本当に弁護の名に値するものなのか
国民はユーザーとして知る必要があるように思われます。
なぜこれを書いているかというと
弁護士が、人の心理や行動の原因を分析するということはない
と思っている若手弁護士が多いことに気が付いたからです。
そういう弁護士たちは、一体情状弁護で何をやっているのか
とても不安になったからです。
思い込みDVにおける「よりそい」が女性を不幸にする構図を乳腺外科医の無罪判決に学ぶ [刑事事件]
平成28年8月、40歳の乳腺外科医師が逮捕された
5月10日に乳腺腫瘍除去手術をした女性が
術後に、6人部屋の病室で、担当医師から胸をなめられるなどの
わいせつ行為をされたと警察に訴えたからだ。
医師は12月まで約100日間警察署に勾留されたままになり
何度かの請求でようやく保釈された。
事件の概要は江川紹子さんの記事で私も学んだ。
乳腺外科医のわいせつ事件はあったのか?~検察・弁護側の主張を整理する
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190119-00111366/
平成31年2月20日、東京地裁は無罪判決を出した。
その内容も江川さんでどうぞ。
乳腺外科医への無罪判決が意味するもの
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190220-00115538/
つまり、判決によれば、女性がわいせつな行為をされたというのは、
手術の後の「せん妄」状態による幻覚であり、
実際は存在しなかったというのである。
「せん妄」とはその時の状態を示すものであり。この場合は病気ではない。
麻酔の影響と痛みの自覚によって起きてしまう一過性のものである。
つまり誰であっても起こりうる。
それはかなりリアルな「体験」であるので、
現実に起きたと思い込むことは全くやむを得ない。
通常はかなり突拍子もない幻覚をみるため、
せん妄状態が薄れれば、
現実ではないと頭で納得して忘れるようである。
今回のものも年老いた私からすれば突拍子もないものだと思うが
被害を訴えた若い女性にとっては、
ありうる出来事だという認識なのかもしれない。
もちろん最大の被害者は、
無実の罪で100日以上も拘束され、
今までの人生とこれからの人生に暗い影を差された
外科医と家族など関係者であることは間違いない。
もう一人の被害者は、
被害を訴えた女性であると思う。
もし判決の通り妄想による幻覚であれば、
警察が、きちんと証拠収集をして、適切な処理をして
被害の実態がないということを示していれば
女性も納得したはずなのだ。
せん妄状態の幻覚から覚めた多くの人たち同じように
幻覚の不思議さ、怖さを感じた記憶に収まったはずだった。
私がこのように言うのは、
女性がまだ、せん妄とは何かということを理解していない
ということがはっきりしたからだ。
それはこの記事に表れている
乳腺外科医のわいせつ裁判で無罪判決、被害女性が涙の反論
https://www.jprime.jp/articles/-/14933
「私をせん妄状態だと決めつけて嘘つき呼ばわりしました。」
「せん妄の頭のおかしい女性として扱われ、」
という発言に注目する。
被害を訴えた女性は、せん妄状態について正しく理解していない。
判決が、せん妄状態だと言っている以上
彼女の「感覚」初期の「記憶」は真実だと言っているのだ。
つまり彼女が嘘をついていないということを言っている。
ただ、それが客観的には存在しなかっただけ。
それがせん妄状態というものだ。
ところが、被害を訴えた女性は、
せん妄は頭がおかしくなったということ
自分はうそをついている、つまり本当はなかったと知っているのに
虚偽の事実をあえて主張した
と言われていると、いまだに思っている。
これがこの女性の最大の不幸だと私は思う。
もちろん、それには無責任なインターネットでの誹謗中傷が
彼女を苦しめたし、
その誹謗中傷に対する反論が、彼女が訴える内容だったからなのだろう。
しかし、ここまで彼女がせん妄を理解していないのは、
彼女を取り巻く人たちが
相手の言い分を正しく彼女に理解させようとしなかったことが
大きな原因ではないかと懸念している。
弁護士の中には
「よりそい」とは、本人の言動を一切疑わないこと、否定しないこと
という、支援者としては、はなはだ勉強不足の神話がある。
これが女性を絶望の中にとどめてしまう不適切な「支援」であることは、
ハーマンの「心的外傷と回復」引用しながら述べてきた。
「あなたは悪くない」という絶望の押し付けからの面会交流を通じての子連れ離婚母の回復とは
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2016-12-21
もしかしたら、今回も
女性の主張を100パーセント信じるか否かが
支援者の態度の試金石だという考えから、
周囲が、「女性の主張は確かに現実に存在したのだ」
という態度に終始してしまっていたのではないか
という心配がある。
これが女性の友人や家族なら致し方ない。
せん妄と妄想を区別できないのはそれほど珍しくはない。
しかし、医師や心理職、弁護士などは、
その知識を正しく持っているし、持っていなければならないのだから
それに賛成するかどうかはともかく
一つの選択肢として説明しなければならない。
もし女性に対して支持的にせん妄だった可能性を示していたならば、
そうして事件の見通しを示すことができたならば、
彼女は、訴える被害が実際にはない可能性があると理解して、
訴えを取り下げるという選択があったかもしれない。
支援者がなすべきことは、当事者にすべての選択肢を提示することだと思う。
各選択肢のメリットデメリットを説明することだ。
これができて、初めて当事者は適切な自己決定ができる。
これがなければ、当事者は選択肢が提示されない形で
狭い考えでの行動を余儀なくされてしまう。
こうなってしまうと、
当事者のもしかしたら選択したかもしれない方向を
支援者を自称する人たちが妨害したことと同じになる。
今回は、せん妄を状態像ではなく、
頭がおかしくなったという病気か障害のように考えていることがわかる。
せん妄状態の幻覚は、確かに本人が感じ取って、濃くした内容であり
嘘をついているわけではない。
これを本人が理解していないことが、前述の記事で明らかになっている。
今回の判決は、警察が証拠収集の過程や分析の過程の記録がなく
刑事裁判の記録とは考えられないずさんなものだと厳しく断じた。
プロの仕事ではなかったということだ。
無責任なよりそいが警察にもあった可能性を示唆している。
こうやって、初期の段階から無責任なよりそいが重なり、
被害記憶が肥大化し、固定化していった可能性はなかったのか。
そういう心配がある。
性被害においても、仲間は被害者を救済しようとする思いが強くなりすぎ、
被害者が、周囲に押されて行動せざるを得なくなるケースもある。
途中で引き返す選択肢とその方法を提示することも
支援者の立派な活動である。
今回被害を訴えた女性が
引き返す選択肢を与えられず、
無罪判決の見通しを正しく伝えられず、
被害女性の主張する被害があったのか
それとも嘘をついているかという
二者択一的な選択肢しか与えられなかったとすれば、
その女性は、まったくの被害者だということになる。
このような構造は、私たちの日常にも周到に用意されている。
配偶者暴力相談の相談機関に相談すると
本人が暴力や、夫の危険性を否定しても
「夫は、本当の暴力を振るうようになり、
妻は殺される可能性がある、
直ちに逃げ出さなければならない」
と、個別事情にかかわりなくアドバイスされることがある。
私が、実際の公文書でこのような相談があったことが
記録されていたのが、警察の生活安全課だ。
特に出産後の女性は
産後うつだけでなく、
出産後の脳機能の変化や、内科疾患、婦人科疾患
あるいは、元々あった精神疾患の傾向が
妊娠、出産で増悪してしまうなど
様々な理由で、一時的に漠然とした不安が生まれたり、
自分だけが損をしていると感じたりすることがあるようだ。
なんでもなければ、二年くらいで収まっていく。
ところが、その不安を相談されることを待ち構えて
妻が不安を口にしたら、
夫の暴力があったことに誘導し、決めつけ、逃げることを勧める。
私が見た公文書では、妻が否定して家に帰りたいと言っているにもかかわらず
二時間も説得して、家族再生を断念させたのである。
夫の暴力の証拠は何もなく
後に民事裁判で妻の主張は妄想であるとして否定された。
それでも、マニュアルどおり、警察官は説得したのだ。
言われた女性は、日常的に抱えている不安を解消したい
という要求が肥大化しているために
そのような具体的なアドバイスを受け入れて
不安を解消しようとしてしまう。
ありもしないDVがあったと思い込む構造である。
夫と協力して出産後の不安定な時期を乗り越えるという選択肢は
「支援者」によって妨害されているのである。
子どもが両親そろって育つ環境を大切にしようということも
「支援者」によって切り捨てられるのである。
適切な事実確認をせず、証拠も分析もずさんで、
つまり科学的根拠は何もなく
夫のDVがあるということを断定して「支援」する
そうするといわれた妻は、
最初は抵抗しているが、
徐々にそのように記憶が形成されていく。
断片的な記憶が、暴力被害の記憶に変容する。
しかし、作られた記憶は、客観的事実と齟齬がある。
裁判ではその主張は認められない。
どうだろうか。
私は、乳腺外科無罪判決における女性の被害の構造と
思い込みDVで結局苦しい生活を余儀なくされる女性の構造が
全く同じ構造であると感じる。
弱者になりやすい女性が
「支援者」によって特定の選択肢を奪われて
結局は不幸な被害者になるということが
繰り返されてはならない。
そのためには、科学的な証拠収集と分析が必要だという
本件判決の示した方向も
共通の方向である。
また、もしこういう構造であれば、
行動をした女性を責めてはいけないのだと思う。
再び仲間に迎え入れるという意識が必要だということが
科学的結論になるべきである。
5月10日に乳腺腫瘍除去手術をした女性が
術後に、6人部屋の病室で、担当医師から胸をなめられるなどの
わいせつ行為をされたと警察に訴えたからだ。
医師は12月まで約100日間警察署に勾留されたままになり
何度かの請求でようやく保釈された。
事件の概要は江川紹子さんの記事で私も学んだ。
乳腺外科医のわいせつ事件はあったのか?~検察・弁護側の主張を整理する
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190119-00111366/
平成31年2月20日、東京地裁は無罪判決を出した。
その内容も江川さんでどうぞ。
乳腺外科医への無罪判決が意味するもの
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190220-00115538/
つまり、判決によれば、女性がわいせつな行為をされたというのは、
手術の後の「せん妄」状態による幻覚であり、
実際は存在しなかったというのである。
「せん妄」とはその時の状態を示すものであり。この場合は病気ではない。
麻酔の影響と痛みの自覚によって起きてしまう一過性のものである。
つまり誰であっても起こりうる。
それはかなりリアルな「体験」であるので、
現実に起きたと思い込むことは全くやむを得ない。
通常はかなり突拍子もない幻覚をみるため、
せん妄状態が薄れれば、
現実ではないと頭で納得して忘れるようである。
今回のものも年老いた私からすれば突拍子もないものだと思うが
被害を訴えた若い女性にとっては、
ありうる出来事だという認識なのかもしれない。
もちろん最大の被害者は、
無実の罪で100日以上も拘束され、
今までの人生とこれからの人生に暗い影を差された
外科医と家族など関係者であることは間違いない。
もう一人の被害者は、
被害を訴えた女性であると思う。
もし判決の通り妄想による幻覚であれば、
警察が、きちんと証拠収集をして、適切な処理をして
被害の実態がないということを示していれば
女性も納得したはずなのだ。
せん妄状態の幻覚から覚めた多くの人たち同じように
幻覚の不思議さ、怖さを感じた記憶に収まったはずだった。
私がこのように言うのは、
女性がまだ、せん妄とは何かということを理解していない
ということがはっきりしたからだ。
それはこの記事に表れている
乳腺外科医のわいせつ裁判で無罪判決、被害女性が涙の反論
https://www.jprime.jp/articles/-/14933
「私をせん妄状態だと決めつけて嘘つき呼ばわりしました。」
「せん妄の頭のおかしい女性として扱われ、」
という発言に注目する。
被害を訴えた女性は、せん妄状態について正しく理解していない。
判決が、せん妄状態だと言っている以上
彼女の「感覚」初期の「記憶」は真実だと言っているのだ。
つまり彼女が嘘をついていないということを言っている。
ただ、それが客観的には存在しなかっただけ。
それがせん妄状態というものだ。
ところが、被害を訴えた女性は、
せん妄は頭がおかしくなったということ
自分はうそをついている、つまり本当はなかったと知っているのに
虚偽の事実をあえて主張した
と言われていると、いまだに思っている。
これがこの女性の最大の不幸だと私は思う。
もちろん、それには無責任なインターネットでの誹謗中傷が
彼女を苦しめたし、
その誹謗中傷に対する反論が、彼女が訴える内容だったからなのだろう。
しかし、ここまで彼女がせん妄を理解していないのは、
彼女を取り巻く人たちが
相手の言い分を正しく彼女に理解させようとしなかったことが
大きな原因ではないかと懸念している。
弁護士の中には
「よりそい」とは、本人の言動を一切疑わないこと、否定しないこと
という、支援者としては、はなはだ勉強不足の神話がある。
これが女性を絶望の中にとどめてしまう不適切な「支援」であることは、
ハーマンの「心的外傷と回復」引用しながら述べてきた。
「あなたは悪くない」という絶望の押し付けからの面会交流を通じての子連れ離婚母の回復とは
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2016-12-21
もしかしたら、今回も
女性の主張を100パーセント信じるか否かが
支援者の態度の試金石だという考えから、
周囲が、「女性の主張は確かに現実に存在したのだ」
という態度に終始してしまっていたのではないか
という心配がある。
これが女性の友人や家族なら致し方ない。
せん妄と妄想を区別できないのはそれほど珍しくはない。
しかし、医師や心理職、弁護士などは、
その知識を正しく持っているし、持っていなければならないのだから
それに賛成するかどうかはともかく
一つの選択肢として説明しなければならない。
もし女性に対して支持的にせん妄だった可能性を示していたならば、
そうして事件の見通しを示すことができたならば、
彼女は、訴える被害が実際にはない可能性があると理解して、
訴えを取り下げるという選択があったかもしれない。
支援者がなすべきことは、当事者にすべての選択肢を提示することだと思う。
各選択肢のメリットデメリットを説明することだ。
これができて、初めて当事者は適切な自己決定ができる。
これがなければ、当事者は選択肢が提示されない形で
狭い考えでの行動を余儀なくされてしまう。
こうなってしまうと、
当事者のもしかしたら選択したかもしれない方向を
支援者を自称する人たちが妨害したことと同じになる。
今回は、せん妄を状態像ではなく、
頭がおかしくなったという病気か障害のように考えていることがわかる。
せん妄状態の幻覚は、確かに本人が感じ取って、濃くした内容であり
嘘をついているわけではない。
これを本人が理解していないことが、前述の記事で明らかになっている。
今回の判決は、警察が証拠収集の過程や分析の過程の記録がなく
刑事裁判の記録とは考えられないずさんなものだと厳しく断じた。
プロの仕事ではなかったということだ。
無責任なよりそいが警察にもあった可能性を示唆している。
こうやって、初期の段階から無責任なよりそいが重なり、
被害記憶が肥大化し、固定化していった可能性はなかったのか。
そういう心配がある。
性被害においても、仲間は被害者を救済しようとする思いが強くなりすぎ、
被害者が、周囲に押されて行動せざるを得なくなるケースもある。
途中で引き返す選択肢とその方法を提示することも
支援者の立派な活動である。
今回被害を訴えた女性が
引き返す選択肢を与えられず、
無罪判決の見通しを正しく伝えられず、
被害女性の主張する被害があったのか
それとも嘘をついているかという
二者択一的な選択肢しか与えられなかったとすれば、
その女性は、まったくの被害者だということになる。
このような構造は、私たちの日常にも周到に用意されている。
配偶者暴力相談の相談機関に相談すると
本人が暴力や、夫の危険性を否定しても
「夫は、本当の暴力を振るうようになり、
妻は殺される可能性がある、
直ちに逃げ出さなければならない」
と、個別事情にかかわりなくアドバイスされることがある。
私が、実際の公文書でこのような相談があったことが
記録されていたのが、警察の生活安全課だ。
特に出産後の女性は
産後うつだけでなく、
出産後の脳機能の変化や、内科疾患、婦人科疾患
あるいは、元々あった精神疾患の傾向が
妊娠、出産で増悪してしまうなど
様々な理由で、一時的に漠然とした不安が生まれたり、
自分だけが損をしていると感じたりすることがあるようだ。
なんでもなければ、二年くらいで収まっていく。
ところが、その不安を相談されることを待ち構えて
妻が不安を口にしたら、
夫の暴力があったことに誘導し、決めつけ、逃げることを勧める。
私が見た公文書では、妻が否定して家に帰りたいと言っているにもかかわらず
二時間も説得して、家族再生を断念させたのである。
夫の暴力の証拠は何もなく
後に民事裁判で妻の主張は妄想であるとして否定された。
それでも、マニュアルどおり、警察官は説得したのだ。
言われた女性は、日常的に抱えている不安を解消したい
という要求が肥大化しているために
そのような具体的なアドバイスを受け入れて
不安を解消しようとしてしまう。
ありもしないDVがあったと思い込む構造である。
夫と協力して出産後の不安定な時期を乗り越えるという選択肢は
「支援者」によって妨害されているのである。
子どもが両親そろって育つ環境を大切にしようということも
「支援者」によって切り捨てられるのである。
適切な事実確認をせず、証拠も分析もずさんで、
つまり科学的根拠は何もなく
夫のDVがあるということを断定して「支援」する
そうするといわれた妻は、
最初は抵抗しているが、
徐々にそのように記憶が形成されていく。
断片的な記憶が、暴力被害の記憶に変容する。
しかし、作られた記憶は、客観的事実と齟齬がある。
裁判ではその主張は認められない。
どうだろうか。
私は、乳腺外科無罪判決における女性の被害の構造と
思い込みDVで結局苦しい生活を余儀なくされる女性の構造が
全く同じ構造であると感じる。
弱者になりやすい女性が
「支援者」によって特定の選択肢を奪われて
結局は不幸な被害者になるということが
繰り返されてはならない。
そのためには、科学的な証拠収集と分析が必要だという
本件判決の示した方向も
共通の方向である。
また、もしこういう構造であれば、
行動をした女性を責めてはいけないのだと思う。
再び仲間に迎え入れるという意識が必要だということが
科学的結論になるべきである。